『かれずの』作者:ang / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 ある女子校でのお話です。
全角25503文字
容量51006 bytes
原稿用紙約63.76枚









 0.


 わたしたちはあんまり矮小だから、と彼女は言った。
 確かに、こころも身体もそうだったように思う。
 どこをとっても貧相で、良いところを探してもくだらなさしか見つからない。
 辛いことがあっても、何故だか隣の人に微笑いかけてしまうし、
 無碍に無視することも出来なくて、特別好きでもない相手の言いつけを守ってばかりいた。
 快いところに触れようとすると日が暮れていて、元の夜に還って。
 ここまで開かれたら変わっているだろうと思った朝は、ただ暗いばかりの昼になって。

 争うことなんてもってのほか。
 戦う余裕なんて考えられない。
 臨むとしたら。
 良くて砕けた硝子細工、
 悪くて、思い切り轢き逃げされた野良猫みたいになるところしか思い描けない。
 つまり、私たちに、遊びはなかった。

 でも、こんなネズミ車じみた馬鹿げた時間も、きっといつかは終わるだろう。
 それらしい人たちを何人も見てきた。彼らは総じて、生きることが楽しそうだから。

 だからせめて、その時まではじっとしているのだ。

 それがいつになるのかなんて、今のところ、さっぱり見当もつかないけれど。
















『かれずの』






 1.


 右と左を見比べた。
 右は、青と緑。
 左は、赤ばかり。
 めまいがしたのかもしれない。眼の中のフォーカスが狂い、生暖かい呼気をはきかけられたように視界がぼやける。それでかえって、敢えて見比べるまでもなく、色の対比がわかりやすくなった。
 いまさら驚いた訳ではない。
 ただ、これからどうすべきかっていう難題に対し、あとからあとから案が沸いて出てくる状態だったから、玩具屋さんのショーケースにとりついた子供よろしく時間が止まってしまっていたのだ。
 計算待ちの間、理由もなく右側に視線を送っていた。
 学び舎に向かい、ブルーグリーンの側を楚々と歩くご学友たちは、今までに見たこともないような葬列ぶりだった。か細いシルエットの真っ黒い制服を着ている。舌を切られて無くしたかのように誰も言葉を発しない。
 きっとこちらに気づいてはいるのだろう。
 けれど、とにかく、処理待ちしている。
 しかし、自分だってその喪服を着ていた。それに、彼女たちの気持ちは痛いほどよくわかる。
 もう誰かが大人のひとに伝えに行っていて、もし自分が二番煎じだったら。それじゃあただの野次馬みたいで、先生にうんざりされてしまうじゃないの、と。彼女たちに欠片も善意がないわけではないのだ。ないわけがないのだ。
 あるいは、近づくことで、それが受けた苦しみや、抱いた憎しみの何分の一かを分け与えられることを恐れているのかもしれない。確かに私の足元に横たわっているものは、誰にとっても益体のない呪いに違いなくて。
 だから、看過していく彼女たちを、どうこう言うことはできない。
 だいたい別に、私も、そのような葛藤を、強い使命感で乗り越えたり、枯葉剤みたく振りまかれた呪詛を超人的な胆力でもって防御しながら、ここまでやって来たわけではない。
 常の習慣でふらふらと、特段の善意もなく、人並みの好奇心を持たず。ただ来ただけ。実態を知れば誰しもが、それは野次馬よりたちが悪いと口を揃えるに違いない。
 夜、街灯に寄り添う蛾の方が、あるいは美しいことだろう。
 計算が終わった。
 私はここまで来たときと同じように、より赤い方へ歩いた。赤い中の白くて細いところを手に取って、まだ動いていないかを確かめた。
 そうしている間じゅう、青と緑……空と植物に護られた、彼女たちからの視線が痛かった。悪いことをしているわけではないのにうしろめたさを感じるのは、どうせいつものこと。黙って作業を続けることにする。
 動いていなかった。
 まだ少しだけ暖かかった。
 赤いところが跳ねないように、手にとっていたものをそっと地面に置いた。
 そこで初めて、白いところの全体を直視した。
 言うまでもなく、それは女の子の死骸で。
 土の上に、何もかも諦めたかのように四肢を投げ出している。
 何も身につけておらず、喉に大きな黒い杭を打ち込まれていた。
 長い髪が左右対称にひろがって。
 女としてこんな感想もどうかと思うけれど、とても綺麗な身体だった。
 だからこそ狙われてしまったんだろう、と思う。わざわざ手にかけるんだったら美しいものの方が良い。それくらい私にだってわかる。このあたりの感覚だけは犯人だって普通らしい。
 色が付いたかのような春風に、その子の前髪が乱される。いや、風には本当に色が付いていた。緩やかな気圧の高低差の中に、薄紅色の花びらが混ぜてあった。そこでやっと私は、ここがあの大枝垂れの下なのだと気づく。
 思わず、彼女の前髪を直してあげていた。頬を撫ぜ、柔らかく目を閉じたその子の顔を、しばらく眺めた。
 やっぱり綺麗だ。
 ことここに至って私は真摯だった。それ以上に、もう死んでしまっている彼女を、とても愛らしいと思った。それは、彼女がもう死んでしまっているからではない。
 何も言わず、これからも一切声をあげないだろう彼女の有様を、路傍の花のようで健気だと思ったから。それだけだ。
「待っていて」
 その子と大枝垂れに踵を返して、保健室へ走った。
 少女でできた葬列を追い越して一直線に走った。グラウンドに面した保健室のガラス戸を開け、中に人がいるかどうかも確かめず私は叫んだ。
「生徒が死んでいました」
 突拍子もない言葉の並びに驚いたのだろう。擁護教諭と向かい合って座っていた子が、豊かな髪を揺らして素早くこちらを向いた。彼女は最初、朝だからか眠たげな無表情をしていたが、こちらに目線を合わせるなり、何かにとり憑かれたような顔になって硬直した。
 あらゆる意味で痛々しい沈黙が、二秒くらいあった。やがて、何処? と先生がこちらに短く問うて腰を上げた。遺体のある場所を訊いているらしい。
「こちらです。ご案内します。首に杭が刺さっていて……」
 出て行こうとしたら、腕を掴んで引き止められた。
 すごい力にびっくりして振り返ると、先生は私の片腕を掴んだまま怖い顔で「あなたは私が戻ってくるまでここにいなさい」と言いつけた。
 大枝垂れの下だと教えるや否や、保健室を走り出て行く。
 再び呪いを見せるまいとした配慮なのか。
 けれど残念、私はこれが二度目だ。
 ともあれ逆らう理由なんかない。先生の座っていた、まだ暖かい丸椅子に腰掛けて待つことにした。
 向かいの子とは何も喋らなかった。彼女が、怯えた飼い兎じみた、何も喋りたくなさそうな空気を纏っていたから。保健室登校の子なのかなと、とても暢気で、あるいは下世話な想像を頭の中で膨らませた。
 膠着状態を破ったのは彼女の方だった。
 無表情なのに震える手でハンカチを差し出してくれた。何も言わず。
 けれど用途がよくわからなかったので、私は素直にこう尋ねた。
「私どこか、汚れてる?」
「……ううん、どこも。でも、」
「ええ」
「……血がついてるよ」
 どこにと訊くと、左の頬だと彼女は教えてくれた。
「そういうのを、汚れてるっていうと思うけど……」
 私はハンカチを受け取って、自分からみて左を拭いた。ハンカチの面を見ると赤くなっていなかったので、反対を拭くと、今度は拭くことができた。
 そうか、これを見て先生は慌てたのだ。いつ付いたのだろう。あの子を撫ぜた手で、いつか頬に触れたろうか。
 私の脱線しかかった思考を繋ぎとめるかのように、視界の真ん中で向かいの少女が首を振る。
「……血は、汚れじゃない。私たちの身体にもあるものが、外に出ただけで、どうして汚れになるの?」
「でも、拭きとらなくてはいけないなら、汚れじゃない」
「……そうかもしれないね。けど、どちらかというと呪いなのよ。だからそのハンカチは、もう要らないの」
「そう。ありがとう」
 私はハンカチの赤くなった面を内側にして畳み、スカートのポケットへしまう。もらうことにした。
 先生は長い間戻って来なかった。
 朝早くの保健室は何も音がしなくて、なぜだか時計を見たくなくて。
 あらゆるものにおいてきぼりを食らったかのように感じられた。漠然とした怖さを覚えて、どう考えても苦手なその子との、保つべき沈黙を、私は自ら破っていた。
「始業式するのかしら? 入学式も」
「……やるかもしれないし、やらないかもしれないわ。時計をみたら?」
 無理やりに腕時計をみた。短針と長針は、午前十時十六分を示していた。
 始業式の開始は九時からだった。
 何かが起こったことは、もう明白だった。
 そこで、あの子はもう死んでしまったと、雫が落ちるような確信が去来した。
 急に目頭が熱くなって、涙が流れた。
 脈を取り終えたときより後に確信するとは、どういうことなのか。
 人ってよくわからなく出来ている。私はどうやら、死んだものを触るより、ものが死んでから過ぎた時間を見せ付けられることで死を感じるようだ。
 いつも、そうだったのだろうか?
 この間は、どうだったのだろう……。
 思い出そうとしたけれど、それはもう想起できないところにあった。ほんの昔のことなのに。
 おかしい、と口にした。
 それは自嘲でなく、ただ微笑んだだけだったと思う。
 向かいの彼女は、変なの、と呟いてそっぽを向き、それきり何も言わなかった。

     ◆

 新年度がきちんと始まったのは、それから四日後のことだった。
 長いようで短い黙祷の後、大人の手により、皆のラベルが真新しく、数のより大きいそれに一斉に貼りかえられた。
 部とかサークルに入っている人の殆どは、新歓に忙しそうで。それを遠巻きに見守る、過日狂ったように咲き誇っていた桜の花は、九十六時間を経て、表情にだいぶ寂しさを混ぜ始めていた。
 私の組には、去年の音楽会で優勝組の伴奏をしていた宗形さんと、大きな弁論大会で地方予選を合格したという柏木さんとがいたので、簡易に比較されるこちらとしては、語学と音楽に関してはこと旗色悪い一年間になるだろうと思われた。
 ――なんて。こんなお手紙調に綴ることで状況を俯瞰してしまったのは、きっと私がその四日間、幽霊がごとく上の空で過ごしていたからに違いなくて。
 正味の話、成績のことなど最初からどうでも良かった。二年生に昇級したことも、入れ替わった友人がどうとかいう話も、自分と異なった画材で描かれた背景めいて感じられた。自分が子供のクレヨンの落書きみたいに大雑把な人型だとしたら、周囲は玄人の油絵で描かれたみたいに繊細で、そして美しく精巧に過ぎた。……まともに直視できないくらい。
 同じ油だとわかってはいる。
 ただ今年は、入学した去年にも増して、皆に溶け込めるだろうかという不安が強かった。
 そしてそんな不安すら、しばらく後にはどうでも良くなっていて。
 危ないことだとは漠然と思う。しかし、何もかもに対して、今はあまりに懈怠の色が濃い。
 そのせいだろうか。舌の根も乾かぬうちに、私の脚は、ふらりと件の桜に吸い寄せられた。
 笑わば笑え。悪循環だなどとは自覚している。ただ、落ちるにせよ昇るにせよ、この今から脱却するためにはそこへ行くしかないと帰結した。自分以外のあらゆるものを再び、綺麗で尊いものに変えてしまった、あの桜の下に行くしか。
 自分も綺麗になって、背景に溶け込みたいと思った訳ではない。
 そんなことは、はじめから不可能だ。
 じゃあ君は具体的にどう変身して、どう背景と折り合いを付けたいのかと聞かれても、なんとも答えようがない。むしろ、問われることに怒りすら覚える。
 左右どちらに曲がっても、必ず同じ時刻に目的地に到着する道のりで、何故左を選んだのかと訊かれているようだ。
 もしくは殺人をした後で、何故君はあのひとを殺したんだと問われているようで。
 言葉にして説明できることばかりだと思うんじゃない。
 非常に身勝手な怒りを抱きながら、私は大枝垂れと、その下であったことばかり考えていた。
 道徳の授業。講堂に誰か、大病を患い海外で臓器の移植手術を行った方のご家族を招いて講義を行うらしい。その移動教室の最中だった。抱えたノートを抱いて、私は渡り廊下からグラウンドの方へ歩き出した。
 上履きのまま。
 列を抜け出して。
 怖くて後ろを振り返ることはできなかった。
 遠目に見た大枝垂れの周囲には、あんなことがあった後だというのに、テープの仕切りや遮蔽物のようなものが何もなかった。
危ないことに、歩を進めている最中なのにくらくらした。数日前私が見たものは何だったのだろう。生徒が一人死んでしまったくらいでは、この学園に警察が立ち入ることは出来ないのか。
 早足になってそこへ急いだ。
 別に、こんな日があっても良い、なんていう超然とした達観のためにこうしたのではない。そうできるほどの勇気なんかない。
 早々と担任の方に迷惑をかけるなとか、組のひとにはきっと白い目で見られるだろうとか、ごくありふれた、だからこそフェイタルな危惧をいちばんに感じた。だがそれをして、何故だか今の時間、私の中では、あの桜の下に行くことが、いちばん優先されるべきことになっていて。
 果たして、私は大枝垂れの下までたどり着く。
 遠巻きに見た通り、彼女の姿はもうそこになかった。
 血液と遺体が静かに、きれいに取り除かれている。
 撒き散らした呪いごと、地面に吸い込まれたかのように消滅していた。
 未だ典雅なのは花吹雪。
 赤い赤い血液が流れていた筈の地面は、今、花びらの鴇色で埋め尽くされている。
 すごい速さでいのちの代謝が行われている。そう思った。だが、あまりに規模が大きくて、あまり誰も、これをルーチンの一部と感じることはない。かくいう私も、これを意識的に代謝であると捉えようとしたのに過ぎなかった。

 なかまはずれ、と甘い声がした。

 反射。声の主を引っ叩いてやろうと考えた。景色が素早く横に流れる。背後を振り返った。
 だが――。
「……」
 囁き声だと思ったのに。声の主は、実際には、こちらが叫ばないで声が届くかどうかという、遠いとも近いともつかない所に立っていた。微笑みながらトラックの白線を踏んでいる。到底、一足飛びには近づけない。
 肩透かしを食らって、苛立ちを残しながらも彼女の断罪を諦めた私は、せめてとその顔を睨みつける。
 けれど、仲間はずれは、その子の方だった。
 体育の授業がないのだ。本来の球面ささえわかりそうな、広い静かな校庭に、少女一人。
 鴉のようにただ黒の、地味な制服が少しも似合っていない。彼女の髪は白とも思えるような淡い蜜の色をしていた。太陽の輪郭の色合い。一目で、黒髪から色を抜いてしまったのではないとわかる。そして瞳がくちびるが表情の豊かさが、どこをどう見ても日本のこどものそれではなかった。何もかもが遥かに繊細に、そしていかにも贋物らしくつくられている。
 同じ言葉で疎通できたことが不気味なくらい、それは妖精じみていた。
 暗い青の虹彩が、ひたりと、微動だにせず私に焦点を合わせている。
 私は彼女に見覚えがあった。いや、この学園の誰しもが、この子の姿を認め見惚れていた。
 つまり彼女が、誰よりいちばんの“なかまはずれ”に違いなくて。
 名前を……なんといっただろうか。
 と、それに答えるかのように、はじめまして、と彼女は言葉を口にした。
「わたしは、赤野間いばらというの」
 よろしくねと、ごく自然に微笑む。私は彼女のその貌を、大人のようだとも子供のようだとも思った。
 すると赤野間いばらは、唐突に、ふっとこちらから視線を外す。青い虹彩の動きを追えば、それは今、大枝垂れの下へ注がれていた。
「そこにあった烏丸雪さんの遺骸は、我が風紀委員会が、もう片付けてしまいました」
「……」
 口をきいて良いのか迷う。
 とっくに毒気を抜かれていた私は、既に彼女への復讐ではなく、この場から逃げ出す算段を考え始めていた。
 しかし――いばらは、私にとってあまりに気になる話題を口にしている。
 生唾こそ飲み込まなかったが意を決し、踏みとどまり、問い返した。遠くにいるから大きな声で。
「なぜ、警察やお医者様じゃなく、風紀委員が片付けるの」
「この学校と刑法には、関係がないから」
「それで、風紀委員が法ということ? 生徒会は? 先生方は?」
「風紀委員のわたしたちと生徒会、どちらが早く血の香りを嗅ぎつけたかということ。先生方は、生徒のおいた一つに、あれこれ仰いません。対等な扱いをしてくださっているのよ」
「大人として?」
 いばらは頷かなかった。代わりに緩慢に両目をつむってみせ、黙って微笑む。これが彼女なりの肯定の仕方らしかった。
 それだけで己の意が伝わると、認識の行き届いた仕草。誰もが自身の一挙一動をよく見ていると、あの子はよくわかっているようだ。まして今は、こんなに距離が離れているのに。
 或いは、わかって貰うことになど、何も興味がないのかもしれない。
 したい仕草を、しているだけなのかもしれない。
「ええ……、そうですよ」
 彼女は私一人に向かって微笑みかける。なぜかは知らないが、彼女は人の思考を読む術を身につけているらしい。ならば話が早い。私は矢継ぎ早に質問した。
「あなた何故、こんなところにいるの? 授業はどうしたの」
「それはあなたも同じこと。わたしは、今この授業を受けてしまうと、来年卒業してしまうから。ここにいるのは、この場所に来たかったんじゃなくて、あなたがここで立ち止まったからよ。草薙、経さん」
「……」
 気持ち悪い。そう言ってやろうとして、けれど口にできなかった。
 もうあれこれ質問するのはやめよう。私はそう決める。脅えて――そうか脅えているんだ――質疑を重ねると、もっと暗いところから、更に不快な何かがまろび出てきそうな予感がする。
「ずっとずっと後を。つけていたの」
 ごめんなさい、と彼女は悪びれずに可愛らしく微笑む。
 その時不安が逆行した。不意に懐柔されそうになる。
 べつにいいけど、といった許容の言葉を衝動的に口にしそうになったが、理性を総動員して堪えた。
 残ったなけなしの猜疑をかき集め、どうして、と訊こうとして――また、私はそれを諦める。尋ねるのはもうなしだと、さっき決めたばかりじゃないか。
 袋小路に入り込んだわたしに気づいているのか、いないのか。にわかに吹きはじめたそよ風に蜂蜜色の髪を乱しながらも、一瞬たりとこちらから視線を外さず、彼女は今度は、およそ関係のないことを私に訊く。
「おまじないが好き?」
 素直に首を振る。
 ここで初めて、動揺をともなわず応対することが出来た気がした。彼女の意外に朗らかな笑顔で、安心しきったのではない。
「大嫌い。消えて、なくなればいい」
 そう。ただそういう持論があるからだ。人間誰しも、用意があれば慌てることはない。
 私が宣言すると、彼女はそう、とどこか平淡に呟き、
「なら、それを。それを使いたいひとを、消して無くしてしまわない?」
 そんな物騒なことをのたまった。
 私は訝しんだ。
「どういう意味? しかも、私が消してしまいたいのは、呪(まじな)いそれ自体。それを使っている子たちなんかじゃない。確かにあなたは、この学校が法と関係ないと言ったけど、そのことと、本当に人殺しをして良いかどうかは、別のことだわ」
 いばらは一切まばたきをしないまま首を傾げた。
「わたし、消えて無くすということと、殺してしまうことをイコールと伝えた覚えはないけれど。――あなた、殺すことも手段の一つだと、いつか考えたことがあるのね」
「……」
「まあ、いいや……。ところで、わたしが訊きたいのは、そこ」
 彼女は私の背後、大枝垂れの根元を、僅か気だるげに指差す。
「――そこで起こった生徒殺しを、一緒に解決しませんか……ということなんだけど」
「それと、呪いを使う子を消してしまうこととが、どう関係するの」
「それは、おまじないで殺されてしまった子だから」
「呪いで? 本当に?」
「ええ」
「なにをどうしたら、事件を……、解決したってことになるの」
「当然、そのおまじないを使った子が、この学園に通えないようになればいい。危険だものね。お友達を手にかけるなんて」
「どうして、私に訊くの」
「ん……?」
 やめなさいと、心中でもう一人の私が叫んでいる。それを訊ねてはいけない。答えはわかりきっているじゃないか。
 しかし、いばらは無邪気に眉根を寄せて、左右に首を捻った。自分の頭の中身を攪拌しようとでもいうかのように。
「どういう意味?」
「他のひとでは何故駄目なのか……ということよ」
 ああ、と彼女はやはり微笑む。得心がいった、という子供の顔。頭上に真新しい豆電球が浮かびそうなほどの。
 そこで彼女は唐突に、こちらに向かって小走りに近づいてきた。私は最初より大分緊張感を欠いていた。何だろうとぼんやりその挙動を見守る内、もう真正面に立たれていた。彼女は遠目に見るより遥かに小柄だった。私の鼻くらいの高さが頭頂だろう。ガリバートンネルを通りでもしたのだろうか。
 ほんのりとした桜の香の中に、より甘いにおいが織り交ぜられる。香水のように蟲惑的なものではない。焼き菓子みたいに素朴で、ただ甘かった。気のせいではない、明確な目眩を感じて、私は半歩分だけたじろいた。香りを意識している自分が怖い。
 果たして、いばらは嬉しそうに、私の両手をとってこう答えた。
「たまたま、あなただっただけ。あんなことがあって、まだここに寄り付く方がいたら、その方にしようと決めていたの」
 それは、つまり。
 じゃあ、きみこそ。
 きみこそ、この場所をずっと見ていたんじゃないか。
 あの子がここで死んでしまって、誰も寄り付かなくなってからも。
 白い花をほころばせたような、いばらの笑顔を見つめて。手をとられたまま呆然とした。断られたら一体どうするつもりなのだろう。想定しているのだろうか。
 有無を言わさないものがあった。しかしそれは、腕力や権力に頼った強制力ではなかった。そもそも彼女にはその両方ともがなさそうに見えた。
 ロジックはよくわからない。単なる気まぐれだという線も残ってはいるが――私は、彼女の漂わせているものが、ただの善意であると、そう感じた。
 声をかけられてから今までに感じた不気味さは、みんな嘘なのだろうとさえ思った。
 けれど、それをして、私は首を横に振る。
「協力は、できないわ」
「なぜ?」
 どこか縋るような――気のせいだ――眼差しが痛い。
 本当は、大枝垂れに見守られて。同類に出会えたような気がして嬉しかった。
 けれど、
「人殺しのひとに、関わりたくない。人知れずあんなことをしているひとなのよ? 刃向かったらどうなるか、わかったものじゃないわ。きみの言う通りこの学校が無法地帯なんだとしたら、尚更」
 それが、私の本心だった。本心と本当は異なるものだ。
 きみは風紀委員で、それが仕事だから良いかもしれないけど――そう付け足そうとして、しかしぎりぎりのところで思いとどまった。何故って、私は、赤野間いばらの本心など確認していなかったから。
 もしかしたら、彼女は自分一人では荷が重いと思ったために、私なんかに声をかけてきたかもしれないのだ。だとしたらいばらの演技は神がかっている。深みにはまるな、掘り下げてはいけないと、また誰かが踏切の警報機みたく叫んでいるのを幻聴する。
しかしいばらは、真っ直ぐな視線のまま無表情に首を傾げた。言葉が伝わらなかったのだろうか。本当に首の据わらない少女だ。
「それは……一体どっちを怖がっているのかわからないわ」
「どっちって……」
「シリアルキラーに傷つけられること、それ自体を怖がっているのか、それとも、自分が傷つけられるのに、誰も裁かれない世界のことを怖がっているのか」
 そんなことはあまりにわかりきっている。私は憤慨した。
「後者よ。その、仕組みがないことがおかしい。私が傷つけられることなんか、それに比べたらまったくどうでも良い。傷つけられたことを教訓にされず、シリアルキラーが糾弾されず、人殺しが少なくならないのだとしたら、寂しいわ。意味がないわ」
「さびしい?」
「そうじゃない?」
 いばらはいっそう笑みを深めた。皮肉げにではない、冗談でしょうとでも言いたげに、ただ無邪気に。
「嘘ばかり。傷つくのがこわいからでしょう? 失敗を怖がってためらうのは、みんなただ自分をまもりたいからよ。痛くないように、古くならないように。身体がよ」
 私は首を横に振る。
「違います……。きみの言うことが本当なら、こんな馬鹿げた学校のために、尽くす身体など持っていないということよ。人殺し? 結構だわ。一生やっていなさい。ビデオゲームみたいね。流れる血に理由がなければ、意味もなくて……流したいから流すだけで」
「気高いわね。それもいい。けれどあなた、ここから一歩も出られないのに」
「……?」
 今度は、こちらが首を傾げる番だった。「ここから一歩も出られない」? 気高いというのも言いがかりだ。
 多かれ少なかれ……理不尽な環境から逃れられず、長い間そこに居なくてはならないのは、人として普通のことではないだろうか。
 生まれたときから皆、そうではないだろうか?
「この世界で良い」なんて感じることが、一度たりとあるはずがない。
 そんな風に心底で自分を許してしまわないからこそ、ひとは自死しないでいられるのに。
 私は慎重になる。いばらと私とでは見ている世界のかたちが違う、そう思った。大きく価値観の違うひと同士が話すときは、ゆっくり行かなくてはならない。そのくらいのことは私にもわかっている。
「待って、待って。あなたは出られるの? 学園から外へ」
「わたしだって当然、出られないわ」
 出たら滅茶苦茶になってしまうもの、と彼女は言う。
『滅茶苦茶になる』の主語がよくわからないと思いつつも、指摘はせず、私は尚も訊く。
「じゃあ、わかっているでしょう? よそはよそ……うちはうち、と誰か、そう、お母さまに教えてもらっていない? 自分の身の回りが狂っていることがわかったからって、何故自分がそれに合わせる必要があるの」
「――ああ」
「なに?」
 見る者を蕩かすような笑みを浮かべ、彼女は呟く。
「やっぱりわたしは、あなたをお仲間にしたいわ」
 よくわからない……。
 どうして、そういう結論になるのだろう。
 断ろうとしているのに、これじゃあ事態を悪くしただけではないか。それとも今の問答自体に意味はなくて、実は、私が前者だと答えても後者だと答えても、どちらの場合でも勧誘を続けるつもりだったのではないか。
 だとしたら、お手上げだ。
 私には彼女の説得は無理なのだ。
 手を取られたまま、私はじりと一歩下がる。
 そして――、
「あっ」
 出来るだけ乱暴にならないように、けれど素早くいばらを振りほどき、反転して一目散に、私は逃げ出した。
 脇目も振らず逃げた。振り返らずに、やらないから! と一度だけ叫んだ。向こうはなにも言い返してこなかった。
 桜吹雪のむこう。
 去り際に聞こえた、心細げな声が、やけに耳について離れなかった。


          ◆


 案の定、大切な講義を抜け出した私は、担任の先生に叱られた。放課後、とてもわかりやすい言い回しで、あくまで静かに、例の講義がどれほど大切なものだったか諭され、そして講義に来られた方が、実際にどんな様子でお話されたかをかいつまんで教えられた。
 そして、お話が終わって玄関に向かうと、まだ下の名前も覚えていないクラスメイトが三人、何故か下駄箱のところで待っていた。彼女たちはこちらの身にあったことを根掘り葉掘り尋ねるでもなく、ただ優しく慰めてくれた。
「始業式の日、あんなことがあったから、皆、私に優しくしてくれているの?」
 皮肉で訊いた訳では決してない。こんな風に表立って叱られることは初めてで。だというのに周囲が余りに優しいから、挙動不審になっていたのだと思う。風邪をひいて学校を休んだ、小学生の心持ちに近かった。普段はあんなに厳しい両親が、別人にすり替わったかのように優しくなったときの心境に。
 けれど、彼女たちは首を横に振った。
 たとえ、私がどんなに悪いことをしていたのであっても、慰める人が一人もいなかったら、それはあんまり寂しいからだと口を揃えた。私は彼女たちに心からのお礼を言って、寄宿舎に戻ることにした。
 玄関口まで来たところで時計を見ると、十八時を過ぎていた。さほど苦痛でなかったが、先生の話は意外に長かったらしいと、そこで初めて気づく。部屋に戻る前に食堂へ向かい、一人でぼんやりと夕食を摂った。周りの皆はもうみんな部屋着になっていて、黒い制服なのは私一人だった。
 野菜スープを口に運びながら、今日は馬鹿なことをした、と自ら印象づけるように心中で呟いた。一語一語噛みしめるためにそうした。
 誰も私を責めなかった。これでは叱られたのかどうかさえ怪しい。周囲の理性的で温和な態度が、私の馬鹿さ加減をより一層浮き彫りにした。何故あんなことをしたのだろう。
 授業を抜け出すなんて。
 その代わりに、人殺しの現場を見学に行くなんて。
 本当に、どうかしていた。
 明日からはきっと元に戻ろう。そう本気で考えた。
 赤野間いばらにも可哀想なことをした。私が気まぐれにあの場所へ行かなければ、あんな拙い拒絶を受けることもなかっただろうに。
 彼女はこの学園の実態を、無法地帯だと言った。生徒会と風紀委員のみが自治に動いていて、大人たちは何も関与しないという。
 確かに殺人現場たる大枝垂れの下は、今もただ開放されたままだ。四日が経って始業式が行われたが、よく思い返すとその講話の中で学長は一度も警察という言葉を口にしなかったし、それは担任も同じだった。一日、注意深く教室の中の噂に耳をそばだてていたが、これも変わらなかった。パトロールカーのパの字さえ聞き取れなかった。
 つまり……赤野間いばらの言っていたことは本当だったのだ。
 しかし、それで一体何の問題があろうか、と思う。
 私の身の回りはこんなにも優しい人ばかりではないか。
 自分さえ良ければ良い、と思うのではない。ただ今のところ、自分にこれほど思いやりを持って接してくれた人たちを、化けの皮を剥がせば……などと疑うことは、彼らの否定に繋がるように感じられて嫌だったのだ。
 懐柔されたのかもしれない。けれど別に、それでいい。少なくとも誠意を尽くしてくれたのなら、こちらも同様のものを返すべきだ。
 赤野間いばらも探して、きっと謝ろう。それで、きちんと、例の申し出もそのときに断るのだ。
 気持ちの整理をつける。およそ真っ白な、晴れやかな心持ちで、私は食堂を後にした。


 ――のだけれど。
 廊下の曲がり角を曲がったところで、変なものを見た。
 私の部屋のドアが開け放たれていた。そしてそれが閉じてしまわないように、大きな段ボールの箱がいくつも積まれていたのだ。
 思わず歩みを止め、思考を巡らせる。
 可能性があるとしたら二つだけ。
 ひとつめ。交換留学生か誰か……つまり日本の暮らしに慣れていない子が、私の部屋に間違って荷物を運び込もうとしている、という可能性。この寄宿舎は、受け入れのときに海外からの留学生を優先しているので、これは大いにあり得ることだった。増して今は新学期、しかも年度初めである。
 ふたつめ。ただの泥棒さんの可能性。この場合、あそこにある段ボールは運び込もうとしているものじゃなくて、運び出されようとしている私の荷物だ。今更のように、盗難に関して何か注意を受けていただろうかと思い起こそうとするが、該当する記憶が何もない。あるのかもしれないが思い出せない。
 去年まで持ち歩いていた竹刀は、今はクロゼットの奥深く。どちらにせよ、とにかく、指導員さんを呼んできた方がいい。踵を返して階段を降りようとしたときだった。
「ああ、帰ってきたのね。荷物を入れるの、手伝ってくれませんか」
 大枝垂れの下で聞いた、少女の声がした。
 後ろ髪を床に向かってだらりと垂らし、赤野間いばらがドアの陰から顔をのぞかせて微笑んでいた。
 何故あんな体勢でいられるのだろうと不思議に思う。が、ドアに隠れたところで、段ボール箱を抱えているらしいとすぐにわかった。前方に重心が傾いているからあんな格好が出来るのだ。
 私はあからさまに狼狽した。何しろ昼間、あんな風に別れた相手だ。向こうはさっさと整理をつけてきたのかもしれないが、無論こちらはそうではない。
 ずるい――と訳の判らない怒りを、僅か心中に抱く。
 こちらから謝ろうと思っていたのに。
 いや、しかし、それ以前に――。
「どういうことなの……」
「どういうことって?」
「これは、あなたの怒りをかったんで、部屋から追い出されそうになってる、ということ……?」
 それ、あなたの荷物でしょう。私はドアを抑えつけている重たげな箱を指差した。私たちは今、二部屋ほどの間を空けたまま会話をしている。何しろ怖くて近寄ることが出来なかった。
「ええと……。うう、おもい」
 何か説明を試みようとしたのか。しかしいばらは、一度私の部屋の中へ消えた。箱を運んでいった。今の内と、廊下の前後を見回してみたが、誰もいない。助けはない。
「寮母さんを呼んでも仕方がないわよ。手続きだって済んでるもの」
 またドアのところへ戻り、淡々と荷物運びを続けながら彼女は言う。
「嘘」
「嘘でこんな重いもの、わざわざ運んだりしません……」
 言う間にも次の荷を運んでいこうとする。不安にかられて、私は少しうわずった声になって訊いた。
「あなたの部屋から持ってきたの?」
 そう口にしながら、自分の言葉に違和感を覚える。そういえばこの子は、今どこに住んでいるのだろう。彼女が私の部屋に越してきたきっかけは、今日の昼間の出来事にある筈で。元々実家に居たのだとしたら、こんなに早く荷物が届くはずはない。
問いに、うん、と彼女は頷いた。
「上の階から持ってきただけ。床一枚隔ててお隣さんだったのよ、私たち」
「どうして、わざわざ」
「理由は、ないわ。でも、多分、こんな馬鹿みたいなことまでしてるんだから、なんとなくとか、ぼんやりとした気持ちではないのね。なんだか言葉に出来ないの。そういう時ってない?」
 ある、と喉まで出かかった。
 今日、授業を抜け出した時がそうだった。
 なら、今のいばらはもう本気で。歯止めなんかきかない状態なのかもしれない。
「……」
 私は悟る。今は、何をどう抗っても無駄なのだ。
 途端、怒りや混乱がすっとひいていくのを感じる。
 それに、あんなに華奢な子がせっせと運ぶものだから、少し同情したのだと思う。私は黙って慎重にドアに近づき、彼女が次に持ち上げようとしていた荷を抱え込んだ。
 今は手伝う他にない。
「ありがとう」
 彼女は微笑む。
「……」
 けれど私は無言を通した。適当な言葉が思いつかなかったし、なにより、心を許してはいけないと考えた。この子は危ない。
 幸い、もともと、私の部屋は二人部屋だ。机もベッドも二つある。物理的な不都合は何らない。それに、これほど無謀な強行軍を繰り広げるからには、本当に正式な手続きは済まされているのだろう。学校に対して何の約束も交わさないまま、自室を移すなんてことを実行したら、退学させられても文句は言えない。この学園が法規の適用外かどうかはいざ知らず、当然校則はあるのだから。
 いばらのこの暴走を学生科に訴える余地があるとしたら、一体どうやって判を手に入れたのか、私の意向を無視して契約が取り交わされた点にある。けれど、もう窓口は閉まってしまう時間だった。今騒いでも仕方がない。今夜だけ耐えて、明日、朝一番に受付に駆け込めばいい。そう考えた。
 段ボール箱をすべて運びこむのに、十分くらい時間がかかった。
 ふう、とわかりやすく一息ついてみせたのもつかの間、いばらは今度は開いたままの荷の中身を取り出し、私の部屋の片側にさくさくとレイアウトし始めた。
 反対側のベッドに腰掛けて、私は静かにその様子を見やる。別に怒っているから黙っているのではない。明日学生科に抗議しに行くことを考えたら、ここまで手伝うことは矛盾しているような気がしたからだ。何より、彼女の私物をどこに置いていったら良いのかなんてわからない。これはどこと聞いている間に、持ち主自身が自分で配置していったほうが早いように思われた。用済みと判断されたのか、今度はいばらも手助けを求めなかった。
 しかし……本ばかりだ。
 彼女が段ボールから取り出すものの殆どが、柔らかそうな紙に包まれた分厚い冊子だった。あからさまに、問題集とか単語帳の類ではない。どうやら全て、理数系の専門書のよう。
が、私は、それとは別のことを彼女に問うた。
「ごはんは?」
「夜はいらないの」
 一日二食にしているの、と彼女は言う。ゆっくりと書棚へ本をしまいながら。
「ふうん……お風呂は?」
「もう夕方に。一緒に行こうなんてまだ言わないから、心配、しないで」
「……」
 別に、一緒に入っても差し支えないのだけど。沈黙を埋めようと、矢継ぎ早に訊いたからか誤解されたようだ。確かに私は人付き合いがよろしくない方だが、お風呂でまで絶対に肌を晒したくないとか、そこまで神経質なつもりはない。
むしろ、彼女の側がそういうことに抵抗があるのかもしれない。私はまたそう、下世話に思考を巡らせる。どうして人間はこう嫌なところにまで頭が回るのだろう。
 いばらの荷物置きにはゆうに一時間半を要した。それでもまだ手付かずの箱が残っていたが、彼女は、今夜はもうそれを開ける気はないようだった。
「わ、いつ着替えたの」
 こちらを振り返るや、彼女は、口に手のひらを当てるオーバーアクションで驚きを表現した。だがそれは当然だ。スカートを着けたまま、こんな長時間ベッドに寝そべっている人がどこにいよう。
 いばらがこの部屋の半分を本格占領している間、私は件の三人とメールの交換をしていたのだ。ありがとう。何が? 放課後のこと。気にしないで、もうお友達なんだから。
 端末を折りたたみながら、私は目の前の彼女に訊く。
「落ち着いた?」
「ええ、大分」
「そう……。それで?」
「それでって?」
 既にうんざりしそうだ。だがめげてはいけない。
「なぜ、私の部屋になんか来たの? 自分の部屋はどうしたの。ご友人に売り渡しでもしたのかい……」
「ものを売り買いする関係なんて、お友達って言わないと思うわ。たとえ売り買いするとしても喧嘩だけよ」
「女らしいこと。それこそ売り買いしたくない。……それで?」
「昼間の続きをしに来たのに、決まっています。わかっているのにどうして訊くの」
 心底疑問である、とでも言いたげに、いばらは子供っぽく眉根を寄せる。
 ついこの間も保健室で似たようなことを言われたな、と思いつつ私は返す。
「私はね、テレパシーとかが使えないの。だから、自分の記憶に確証が持てないから確認をするの」
「ねえ、これで少しは、協力してくれる気になった?」
 私はこの子を叩いても良いのかもしれない。そんなことあるわけない、そう叫びそうになったが、かかり稽古に臨む時くらいの集中力を使って食い止めた。今そんな意志表示をしたら、果たしてどんな対応をされるかわからない。昼間一度断っただけでこの有様なのに。
「なぜ、これで説得できたと思うの……」
「だって、同室だったら、ずっと一緒に暮らすんだから。仲良くなるしかないでしょう? 想像してみて。なら、後で説得されるのも、いま説得されるのも、同じことじゃない」
「……」
 一理ある。
 つまりこれは、彼女側が私に心を開くことが前提の作戦ということらしい。
 今日初めてあったばかりのこの私に、心を許すことが。
 深読みだろうか。
 あるいは、対人折衝の方法を知らなさすぎて、彼女はこんな詭弁を口にしているのかもしれない。それは大いにあり得ることだと思う。確かに彼女の仕草の端々には、呆れかえるくらい浮世離れしたものが覗いて見えていて。
 赤野間いばらを改めて見る。
 私には、たとえ一対一の時であっても、平気で相手を観察しようとする悪癖があった。
が、困ったことにその時、いばらも私のことを観察しようとした。
 どことなく目でわかる。
 意志確認や反応や、指示待ちをするのではない、ただ見ようとする目。
 困ったことに、というのは、いばらと目が合ったことそれ自体ではない。この状態になってしまわれると、何故だか観察をしても、相手のことが何も読み取れなくなるからだ。アドレスを送りあう端末みたいに無表情なくせに、お互いに、本当は何も交換出来ていない。少しだけ面白かった。
 いつかどこかであった光景。
「ああ」
 この子は見てもよくわからない。
 傍目にはきっと、にらめっこに耐え切れなかったと映るだろう。無駄を悟った私は、早々にいばらから目を離し、そっぽを向いた。
 彼女の方は済んでいないのか、まだ視線を感じる。なにも言わず、腰掛けた学習机の椅子の上から、ベッドに居る私を見ている。
 ややあって、続きだけれど、と彼女は口にする。
「おまじないを使える子が、この学校にはどれくらいいると思う」
 唐突に始まった会話に、私は気分を害される。けれど、苛立ちを隠して応答をする。どうせ明日までの辛抱だ。
「……。全員でしょう。みんな、使えるわ」
「そう、そうなのよ。あれはみんなが使える当然の権利なの。つまり、疑いがかかっているのは生徒全員」
「だからなに? 私だって、あなただってそうでしょ」
「だからね、困ったな、ということなのよ。わたし、では生徒全員を断罪すればいいんじゃないって申し出たんだけど、皆に無視されてしまって」
「風紀委員の他の方に?」
「そうそう」
 そりゃそうよ。そう相槌を打とうとして私はやめる。いちいち指摘してあげることすら面倒な内容だった。
 ともあれ、今の内にと思い、訊きたいことだけ訊いておくことにする。
「あなたの……委員会での役職って、何なのかしら」
「委員長よ。でも皆、あまりわたしの話を聞いてくれないの」
「だから、私みたいな外部の協力者をたてようとしているというわけ? 他の方は、普段何をしているの」
「どっちの質問に、先に答えるべき?」
「イエスかノーで答えられる方……」
「それには、イエスともノーとも、答えるわ。犯人探しのための手が足らなかったのは本当。誰も手伝ってくれなくて。でも、それだけじゃないから」
「確か、『なんとなく』だったわよね」
「そう、なんとなくなのよ」
「普段の業務は?」
「のんびり緑化とか、生徒会への密告とか、しているわ」
 死体片付けは風紀委員の仕事ではないということだろうか。だとするなら……。
「烏丸雪さんの遺体を片付けたのは、あなた一人で?」
「ええ」
「一体、どう片付けたの」
「それは、ご想像にお任せ。でも、出来るだけ丁重にやりました」
 長いまつげを伏せてみせ――愛らしいひとだったもの、と彼女は何処か儚げに呟く。私もそれには心中で同意した。死んでしまって尊く見えたのではない。控えめだけれど、生前もきっと綺麗なひとだったろうと、簡単に想像できる容姿だったから。
 だが……やはり、そうでなかったら、どこか粗末に処理されてしまっていたのだろうか。そう考え、私は少し複雑で、悲しい気分になる。
 遺骸に魂はもうない。ならばやはり、その価値は、あの花のような見目にしかなかったのだろう。
「生徒会へのお願いはね、わたし、する必要なんかないと思うの」
 いばらがいつの間にか話を続けている。一瞬前の淡い感慨はどこへ置いてきたのだろうというくらいの、困り顔で。私はかろうじて言葉を返す。
「なにをお願い、するの」
「だいたいなんでもよ。本当は、最初は、風紀委員と生徒会が、補い合う形で権利をもっていた筈だったんだけど。皆おっとりしているからかしら? 凛々しい会長に皆惹かれてしまって、なんだか一党独裁みたいなことになっているの」
「ふうん……」
 面白い話だ。けれど、なぜ私たち一般の生徒――この呼び方が正しいのかはわからないが――にそういう話が一切漏れ聞こえてこないのだろう。風紀委員の主はこんなにもお喋りなのに。
 私がそうであるように、いばらがおっとりしていると評価したように……皆まつりごとには何にも関心がないのだろうか。或いは、他の風紀委員の生徒が、風聞のコントロールに粉骨砕身しているのかもしれない。この学園の噂の速さといったら、放っておいたら一日で地球を何週か出来るのではないかというレベルなんだから。
 ――絶対に誰にも、言わないでね。
 君だって前のひとに、そう釘を刺されていたくせに。
「怒っている」
 微笑みながらいばらが呟く。
「――なにも」
 目を反らしながら、私は反駁した。顔が赤くなっているかもしれない。
 しかし……。
 この子は何故、ひとをからかう時ほど純真そうな笑顔をするのだろう。はっきりいってよくわからない。最初からしてそうだった。私のことを『仲間はずれ』だと言いながら微笑んでいた。心底どこか、嬉しげに、いや……そう、いとおしげに。自意識過剰なのかもしれないが、そんな目でこちらを見るのだ。
 やめて、と叫びしたくなる。
 とても気持ちが悪い。
 恥ずかしさが段々と、赤い怒りに変わっていく。しばらくの間黙り込んだ。私は頭に血がのぼると何も言葉が出なくなる方だった。
 いばらももう何も話をしようとしなかった。
 ベッドの上で、黙って体勢を変える作業だけをしながら、数分間も使った。
 やっと、じょじょに、頭が冷えてきた。ひとつ息を吸い込んで、私は必要なものを腕の中に纏め始めた。もういい。訊きたいことは大方訊けた。
 怒った風にならないように、演技で弾みすぎもしないように、普段の声色で、
「お風呂に行って来るわ」
 そう言ってベッドから立つ。
 いってらっしゃい、と彼女は悪びれた風もなく微笑んだ。
 無知と鈍感は怖い。もしかしたら彼女の側では、私をからかったつもりなどないのかもしれない。指を揃えて淑やかに手を振るいばら。私は踵を返し、浴場に向かうことにする。音をたてないように扉を閉めた。


 部屋へ戻ると、いばらはもう毛布を被り、ベッドで丸くなっていた。纏めることもせず、長い蜜色の髪はだらしなくシーツの上に広がっている。なんとも無邪気な寝顔だった。
 くうくう眠る彼女を尻目に一時間ほど数学の復習をした。それだけで今日の分は事足りてしまった。学期初め、スタートだからゆっくりだったようだ。今年から担当の先生が変わったからか、余計にそう感じられた。去年の方のあのやり方は少し異常だったと思う。
 そこから二時間半も、他の教科の予復習に費やした。
 私は勉強が好きでも嫌いでもない。ただ、今、時間を埋めようとするなら、これに頼る他なかった。
 偶に、他の皆に合わせたポーカーフェイスでなく、本音で『勉強が嫌』と言うひとがいるが、彼女たちは多分、他にもっとやりたいことがあるのだろう。あるいは、もっと心地よい居場所を求めて何処かへ旅立ってしまおうと計画しているのだ。
 学園に跋扈している呪いと、同じ原理だ。こんなことを続けていたら、いつか自分は死んでしまうと恐怖を感じるから、拒絶する。ただもう遅い。私のようなハイティーンではとうに手遅れ。物心つくのが遅すぎた。出来て素早いひとの置いていった荷物持ち。本当に必要なのかどうかもわからないその荷を愛でたり、大切だと言い張る程度のお役目しか残っていない。
 ふと浮かんだのは、樹の上の巣を捨てて飛んでいく親鳥の姿。
 本来捨てられる筈のないものを捨てて行った。
 ああ、つまり、こういうことなのか。心中で呟く。
 何がわかったのかは、自分にもちっともよくわからないけれど。
 手元のノートに目をやる。いつの間にかまったく進んでいなかった。けれど私はそこでノートを閉じた。明日の授業は不安だがこれでいい、と思う。時計は見ず、ただ外が真っ暗なのを確認して眠ることにした。

              ◆

 次の日、私は予定通り学生科を訪れていた。
 学生科窓口は、一時限目の開始と同じ時間に開く。だから当然、一時限目の休み時間にそこを尋ねたのだが。
「二週間、ですか」
 情けない私の声に、応対してくれた事務員の方が申し訳なさそうに頷く。
 事の顛末はこうだ。どこから手に入れたのか、やはりいばらは私の苗字――草薙という――の印鑑を、書類に押して提出していた。つまるところ、いばらの言った通り正式な手続きは済んでいたのだ。なんたるアナログ。だがここまでは予想の範疇だった。 問題はここからだ。
 取り交わされた契約の破棄に、絶対的な時間がかかるというのだ。
 件の書類が返ってくるまでに、長く見積もって二週間。
 しかも、書類が返ってきたところで、捺印が済んでいる。本当にそれが私の知らぬところで押されたものなのか、内実を確かめる作業も必要になるという。
 ビデオのレンタル店だって初めから本人確認をするのに。この学園のおっとりさ加減が窺い知れようというものだ。このような不正は、未来永劫起こる筈がないと、思い込んでいたのかもしれない。
「赤野間いばらのもとの部屋も、寄宿舎内にあるんです。手続きがすべて終わる前……今日からでも……彼女に、そちらの部屋に戻ってもらうことは出来ませんか」
 事務員さんは少し考えた様子だった。
 少々お待ちくださいと言って奥へ引っ込んだけれど、戻って来た時には、やはり首を横に振られた。ちょうど昨日、いばらがその部屋を抜けたすぐ後に、遠方から通学している他の生徒が入居届を出したらしい。その子が実際に入居するまでの間、いばらに元の部屋へ戻ってもらうこともできるが、そのたった数日間のためにもう一度調度品を移し変えるのは、あまりに面倒過ぎる。
その、新しく入居してくる子が私の部屋へ来れば――そう口にしようとして止した。自分の部屋に来るのがその子であろうと、いばらであろうと、何も変わりがないではないか。
 寧ろ不思議なのは、通学に困っていた筈のその子が、そこまでして相部屋を避けていたことの方か。莫大な交通費や労力よりも、ただの人見知りを優先して鑑みることが出来るあたり、そう切羽詰まった状況ではなかったのかもしれないが。
 ありがとうございました、と事務員さんに微笑みかけ、私は嫌になりながら学生科を後にした。
 うなだれながら事務棟から出ると、すぐ外にいばらの姿があった。
 どうしたの、と彼女は不思議そうに私に訊く。
「なんでもないわ」
 何故こんな所で忠犬みたいに私を出待ちしているんだろう。学年さえ違うのに。
 未だあまり、そうだという実感が持てないでいるが、彼女は三年生だった。
 登校した時、コリドールを渡って北棟の方へ駆けて行ったから、そこで初めてわかったのだ。そういえば今のところ、委員長は三年生がなるのが普通だった。引退の時期までにはまだ暫くある。
 ホームルームが始まる前の、教室でのやりとりを思い出す。
「赤野間いばらって子、知ってる?」
 一つ前の席の名取さんに訊いてみた。彼女は昨日の放課後、私を玄関で待ってくれていた子の内の一人だ。
「いばらちゃんでしょ? 知ってるわ」
「どんな子なの」
「んん、『子』呼ばわりするのもどうかと思うけど……まあ、あの見た目じゃ仕方ないのかな。彼女、先輩だよ」
 三年生なの、と名取さんは教えてくれる。それは知っているが、私は知らないふりをした。
「へえ……有名なひと?」
「そうね。草薙さんが本当に知らなそうなことに、ちょっと驚いてしまうくらいには」
 口元をちょっと隠しながらくすくす微笑む名取さんに、私は苦笑いして首を横に振る。
「わかりにくいわ」
「本当になんにも知らないのね。あのね、いばらちゃんは、魔法使いなの」
「どんな魔法を使うの? といいますか……魔法って、呪いとは別のもの?」
「聞いたことがあるだけで、よく、わからないけど。私達とは違うおまじないを使えるのだって。しかも、何でも、先輩方も知らないような昔から、ずうっと風紀委員長をやっているらしいの。会長さまとは親友同士だったのに、すれ違いで仲違いしたんだとか」
「すれ違いで仲違い?」
「一緒にお出かけした時、自分と間違って違う人の名前を呼んだとか」
「ひどい話。でも……どっちが?」
「会長さまが。あとはこんな話もあるわ。いばらちゃんがお互いの洗濯物を干したとき、会長さまのカーディガンを挟みで吊るして跡がついて、喧嘩になったのだって」
「カーディガンは前開きだったの?」
「いいえ、釦付き」
「ハンガーを使いなさいということね。わかるわ」
 そうなのそうなの、と名取さんは嬉しそうに何度も頷く。何がそんなに嬉しいのだろう。
 二人は寄宿舎で相部屋だったことがあるのだろうか。もしくは親類とかで、普通に一つ屋根の下で暮らした経験があるのか。いくつかの可能性を思いついたがいずれの可能性にも興味がなかったので、私は名取さんにもう質問らしい質問をしなかった。いばらのことはともかく、名も知らない生徒会長の話はどうでも良かった。
 それからね、
 こんなこともあったわ。
 私が聞きに回ってからも名取さんは我が事のように喋り続けた。私はただただ彼女の一挙一動になごまされながら、しばらく静かに聞いていた。
 が、やがて、
「ふうん……そんなにたくさん、噂もちだったんだ、彼女」
暫しの後。流石に少し疲労して、私は思わず頬杖をついた。
「彼女?」
 ああ、気を抜いた。
 そこで、もう白状することにした。いばらについてバイアスのかかっていない情報が欲しかったのだが、名取さんは、噂以上のことを知らなそうだ。噂はバイアスしかかかっていない。
 それに、このまま黙っていることは、騙しているようで少し気がひけていた。頬杖をやめ、私は告げた。
「昨日、赤野間さんが、私の部屋に越して来たの」
「え?」
 そうなの? と名取さんは愛らしくボブの髪を揺らし、私では絶対に成り立たない小首を傾げる仕草をとる。何故黙っていたのかと、問い詰めんとする様子さえ見せず。
 私は頷いた。
 それ以降も名取さんと何か話した気がするが、よく覚えていない。もう重く新しい経験に圧縮されて、それが記憶だとわからなくなったのだろう。
 意識が今現在に戻る。
 いばらが何故か私の前に、手を出していた。繋ごうということらしい。もしかすると、暫くそうしていたのだろうか。
 断る理由が何も思いつかなかったので、手を取りながら、
「なにこれ……」
「途中まで」
 そんな短いやり取りをした。
 私は、考え事をすると、いまひとつ時間の感覚がよくわからなくなる。
 例えば、もう五十余も歳をとって往生しようとした頃、実物だらけの世界に引き戻されて、十秒しか時が進んでいないことに気づかされるのだ。あまりに頻度が多いので病気を疑った時もあったが、最近では慣れてしまって、いつそれが起こるのか楽しみにしてさえいた。
 右隣を歩くいばらが訊いて来る。
「あなたもう、わたしが部屋を移したことを、誰かに話したでしょう」
「ええ。よくわかったわね。――それに、この時間、私が学生科に脚を運ぶことも。またつけていたの?」
「つけてなんかいないわ。わかるだけ」
「そっちの方が怖い」
「昨日の経の驚きは少なすぎました。驚くのは、何も準備が出来ていないから。わたしのお手伝いし始めた頃には、あなたもう何もかも計算が終わっていたんでしょ。だったらわかるわ。学生科に陳情しに行こうとすることくらい。
あなたの口が軽いとわかったのは、わたしのクラスにまでもう、噂が伝わってきたから」
「ケイ?」
「ええ、経。――まだ草薙さんの方が良い?」
 私は素直に首を振る。
「どちらでもいいわ」
「黙って学校に申し立てするなんて。ひどい」
 微笑みながらいばらは言う。私はただ恬淡と答える。
「悪かったとは思っていません。そっちも黙ってやったんだから。意趣返し。せめて同じやり方で接してくれたと、友好的に解釈してもらってもいいのよ」
 皮肉を言いながら考える。
 なぜ私たちは手なんか繋いでいるのだろう。
 バイアスしかかからない御噂は、いばらの組へはどう伝わっているのだろう。
 歩幅が狭いのか、筋力が少ないのか――少しだけ遅いいばらの歩調に合わせながら、私は口から魂が出そうな心持ちだった。
「別れ別れの部屋になれて、そんなに嬉しい?」
 前を向いたまま訊く彼女。
「なれてなんかないわ。二週間は、あなたの居候を確約されてきたところ」
「良かった……。聞いてきてくれて、ありがとう」
 さしもの私も不快になって沈黙した。別に、休み時間を一つ費やしてまできみのお使いをしようとは思わない。
 手を繋いだまま、けれど二人して無言。棟間の渡り廊下を渡り、二階への階段を昇り、職員室前の廊下を奇妙に長い時間そのまま歩いた。
 流石にいばらの見目は目を惹くようで、何度も他の生徒にこちらを振り返られたが、それを気にせず私は黙ったままでいた。別に、きみたちの噂話に華を添えてあげる義理もない。
 手を振りほどかないのは、昨日の反省を踏まえてだ。たとえそれがどんなに、不気味で、憎らしい相手であったとて、手を振りほどくっていう行為は、後から絶対に後悔すると学んだからに過ぎない。
 分かれ道。件のコリドールに差し掛かったあたりで、いばらは立ち止まった。無論、完膚なきまでに歩調を合わせていた私もそれに倣う。
「なにか、怒らせてしまいました?」
 不安げに訊いてくる。ずいぶん機を逃した質問だ。
 鉄面皮で返してやることにする。
「怒っていないわ」
 そう、と彼女は顔を輝かせた。
「じゃ、また、後でね」
 手を振り、嬉しそうに、ぱたぱたと奥へ駆けていく。
 私はその女の子走りの後姿を、やや唖然としながら見送った。
 つまり……間接的な物言いは、彼女に一切通用しないらしい。今も、怒っていると直接伝える必要があったのだ。
 いや、だとしたら。彼女が皮肉をわからないのだとしたら。
 今までいばらが、微笑みながら言っていたことは、もしかすると。
 ――どうしよう。
 恐怖にも似た不安感に襲われる。果たして、あんな異星人みたいなのと、二週間も一緒に暮らしていけるのか。
 じわじわと、かたいフランスパンを侵すミルクじみた、白濁した苦悩を抱えながらも、教室に戻ることにする。すると、戸を開いた所でわっと明るい色とりどりの花々に囲まれた。
 今度は何事かと視線を巡らせる。
 花と見間違ったのは――六人のクラスメイトたちで。彼女らは口々に、赤野間いばらと草薙経はどのような関係なのか、といった内容の質問を、勢い込んで私にした。
 目眩がした。
 虚ろに、何もない宙へ視線を彷徨わせる。
 ――あの手。
 差し出されたあの白いちいさな手は、このためだったのだと思い知る。
 お友達になりましょう、なんて内から責めると見せかけて、彼奴は私を外部から滅ぼす算段なのだ。だって、なぜ私が、この子たちの純真そうな眼差しを今すぐここで裏切ることが出来ようか。
 仮に否定が出来たとして、その後が続かなかったのなら意味がない。上手い言い訳が出来ず、どもった分だけ、それは彼女たちの妄想を膨らませる材料になってしまうことだろう。
「彼女とは――仲良しなの」
 最大限の防御を行った。
 けれど、それすら余裕ありげな態度と取られたのだろう。十二個六色の大きな瞳が、一瞬にしてそれぞれ別の想像で彩られたのを、私は容易く読み取った。

 可愛い少女らだ、と心から思う。箸が転がっても面白いのだろう。初心で、本当に、好感を抱いてしまう。同年を見下しているのではない。悪心を抱いて皮肉を思うのでもない。私は純粋に彼女たちが羨ましかった。
 少女の姿のものが、何の気兼ねをすることもなく少女なんだから。
 五日前、大枝垂れの下で横たわっていた子とどちらが愛らしいか比べようとして、よした。






2012-03-29 02:53:57公開 / 作者:ang
■この作品の著作権はangさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ

 多分四章構成です。
 二章は完成、三章が八割五分くらい、四章が手つかずです。
 一、二週間毎に一章分ずつ上げていけたらいいな等と目論んでいます。

 よろしくお願い致します。
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]まだわからないので、続きに期待します。
2012-04-01 23:19:59【☆☆☆☆☆】上野文
[簡易感想]少しだらだらとしすぎた部分がありました。
2014-05-30 09:03:52【☆☆☆☆☆】Marco
計:0点
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