『ジョビネル・エリンギ3 第三話(後編)』作者:木沢井 / ِE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 山を越え、東の都市を目指すジーク、しかしそのためには、山中で増殖し続け、道を塞ぐ魔物を退治しなくてはならない。 ジークは討伐隊に参加するのだが、そこには不穏な思惑が……。
全角74327文字
容量148654 bytes
原稿用紙約185.82枚
●主な人々●
・ジーク
:ぼさぼさの銀髪、左眼の眼帯が特徴の青年。しかめっ面。長身。長袖長裾の旅装にマントとずだ袋。若くは見えない。
:本編の(一応)主人公。奪われた家族を捜す旅をしている。実は猫舌。

・ミュレ
:小柄な少女。背はジークの肩ぐらい。髪の色は艶のある藍色。瞳も藍色で、光がない。体つきは肉感的。
:ジークの旅にくっついて来た少女。「ん」、「いい」、「ない」以外は滅多に喋らない。実は両利き。

・レナイア・カミューテル
:二十代前半の、髪を後頭部で大雑把な団子に纏めた長衣の女性。目はやや吊り気味で、瞳の色は赤茶色。いつも自信たっぷりといった様子。
:どこの商会にも属さない行商人。カミューテル姉弟の殴る方と言えば彼女のこと。実は下戸。

・ルーカス・カミューテル
:これといった特徴のない少年。髪は姉と同じで栗色。瞳は鳶色。
:レナイアの弟。彼女の雑用係兼護衛。カミューテル姉弟の殴られる方とは彼のこと。実は何かありそうでやっぱり何もない。

・ヴィル
:小柄な子ども。頭に黄色い頭巾を巻いている。猫目に猫っ毛。
:わけあってジークを追っている少年。隠し事の多さは一、二を争う。実は主要人物中一番体重が軽い(リュリュを除く)。


●その他の人々●

・リュリュとアシュレイ
:第二話終盤から本編中盤まで、ジークとミュレに同行していた少女と壮年の戦士。実は体重差がきっかり三倍。

・セラ
:女性としてはまずまずの長身で細身。肩まで伸びた赤毛。大人しそうな顔立ちと表情。瞳の色は薄い青。頬が紅潮している。身軽な服装。
:女性の傭兵。気弱で人見知りの傾向があるが、確かな実力を秘めている。実は酒豪。

・ヒューイ
:魔物討伐に参加した狩人兼傭兵。実はスピンオフが決定している。

ユフォン
:??? 実は主要人物のうち三人と因縁がある。




 レナイア・カミューテルの召集令は、予定よりも早まった。それも、彼女にとって予想外の理由で。
「仮面の、ねえ……あんた、何か心当たりはあるかい?」
「は、はあ、仮面、ですか……」
 レナイアに訊かれて、兵士は困惑した表情で頭を捻る。
「そーかい。あんたも知らないのかい」
 表情と態度から早くも見切りをつけたレナイアは、一応の確認ということでセラにも目を向けた。ヴィルと一緒に傍でリグニア兵の報告を悲痛な表情で聞いていた彼女は、俯いたまま、何も言わずに首を横に振る。
「ま、そうだろうねぇ」
 最初から駄目で元々と思っていたので、レナイアはすぐに続々と戻ってくる傭兵とリグニア兵に意識を戻した。来た時よりも暗い表情をする者達が多くなっている一方で、全体の人数が減っていたことに気付いた。
 ここに戻ってきた者達は、それぞれが向かった先で仮面を着けた者達に遭遇したのだという。人数は二人か三人だが、いずれも相当な手練れで、作業をしていたリグニア兵と、彼らを護ろうとした傭兵達とを中心に被害が出たらしい。
「で、何もしなかった傭兵の連中にゃ被害がなかったってのかい」
 確認すると、兵士は落ち着かない様子で頷いた。少し忘れかけていたが、この男もリグニア兵なのである。狙われるかもしれないという恐怖があるのかもしれない。そう思うと、レナイアは目の前のリグニア兵が急に気の毒に思えた。
「とっ、ところで、全員が戻られた後は、どうなさるのですかな?」
「そりゃあ全員が戻ってきてから考えることさ。今回の仕事で肝になるのはあたしじゃない。あの連中だからねぇ」
「で、ではっ、このままエタールに戻るということも?」
「まあ、あるだろうけどね」
 レナイアの眼が、細まった。
「あんた、やたらと町に戻りたがるねぇ」
「ひょ!?」
 兵士は、素っ頓狂な声を上げる。図星ということだろう。隠し事が苦手らしいこの男は言葉を発さずとも、声で、表情で、腹の内をレナイアに語ってしまっていた。
「どうしたんだい? 急いで帰んなきゃなんない用事でもあるってのかい?」
「は、あ……」
 兵士は言いよどむばかりで、レナイアの質問に答えようとはしない。
「……ま、仮面の輩が怖いってのは分かるけどさ、あんたの役目はここで頑張ることなんだろ? だったら弱音なんて吐いてる場合じゃないだろ? んん? 違うのかい?」
 口に出すまいとレナイアは思っていたが、やはりこの兵士には言っておかなくてはならないと思い改めて言い放つ。
「は? あ、はは……すみ、ません」
「ったく、しっかりしとくれよ」
 気の毒なぐらいに気の弱い兵士は、目を泳がせながらまた謝ってきた。そろそろ哀れみが苛立ちに変わりかけてきた頃に、ルーカスが話し掛けてきた。
「姉ちゃん、誰か来たぜ」
「んん?」
 弟が伝えた通り、一人のリグニア兵がこちらに駆けてきた。
「点呼の結果、ジェフ・マカロウの部隊だけが、まだ戻ってきていませんでした」
 首筋の一点に、痺れるような感覚が走った。騙されそうになった時や命を狙われそうになった時、いつも決まって何かを先触れするかのように走るのだ。
「使いに出した奴はどうしたんだい?」
「それが……」
 兵士は言いよどんだが、顔を僅かに俯かせて「そちらも、まだ戻って来ていません」と答えた。隣の兵士は、またもや落ち着きのない口調でレナイアに話し掛けてくる。
「どど、どうしたのでしょう?」
「嫌な予感がするね。すぐ調べに行かせるよ」
 レナイアは、セラの方に視線を向けた。ずっとヴィルの肩に両手を乗せて話を聞いていた彼女の表情は悲痛な色合いが強かったが、今は違った。
「セラ、行ってくれるね?」
「……はい」
 頷き、こちらを見返すセラの目には、確かな光があった。
「もともと、そういう約束でしたもの。どこまでできるのか分かりませんが、やれるだけのことはします」
「ぼっ、ボクも頑張るよ!」
「あんたのは気持ちだけ受け取っとくよ」
 妙に意気込むヴィルのことはは淡々と流しつつ、レナイアは兵士に数名のリグニア兵と傭兵とを呼ぶように伝えた。
「何が起きたか分かんないんだ、まずは大人数じゃなくて、五、六人の腕利きだけで様子見に行ってもらうんだよ」
「わ、分かりました」
 兵士は頷くと、中年太りの体で辛そうに走っていった。
「あんなんで、兵士としてやっていけてんのかねぇ?」
 レナイアの独り言を傍で耳にしていたルーカスは、不思議そうな顔をした。


 ジークが他の傭兵やリグニア兵と一緒にレナイアの許へ戻ると、彼女はジークとヒューイ、そして他三名に行方不明の一隊を捜索するよう命令してきた。
(――「様子を見てくるだけでいいよ。またあの仮面の奴らが出てきても、無茶な真似はしないでここに戻ることを第一に考えて行動しとくれ」――)
「無茶しないでくれって、あの姐ちゃんが一番無茶するって風が吹いてるけどなあ」
「……れ、レナイアさんにも、事情があるんですよ……」
 ジークの隣を歩いていたヒューイが呟くと、レナイアからセラと呼ばれていた女性がか細い声で反論した。しかしその声はあまりに小さく、また位置が離れていたのでヒューイには聞こえていないようであった。
「ところでさ、旦那と一緒にいた彼女、随分と旦那に懐いてるって感じだったよな。ほら、旦那があの姐ちゃんのとこに置いてった時も、旦那のマント握って離さなかったし」
「つまらんことを喋るな」
「まあまあ、そう意地の悪いこと言ってやるなって。あんな可愛い女の子に懐かれて気分悪いワケないって。もし興味がないっていうんなら――」
「断っておくが、男にも動物にも欲情した覚えはない」
 隠すこともなく、ジークは嘆息した。もはや数え切れないほど、こうした類の台詞を返してきたのだ。
(このヒューイといい、あのセラとかいう女といい、実力者であることが信じられないな)
(同意)
(ミュレの例もある。それに今考えるべき案件でもない)
(同意)
 二番らに指示を出したジークは、自分達の現在位置とこれから向かう場所との位置関係を確かめることにした。本来であれば探査の魔術“疾風の猟犬”を用いるのだが、非常事態以外で魔術を人前で使用することを好まないジークは、歩き回ることで空間把握に長けた四番に作らせておいた旧市街の地図と照らし合わせていく。
(我々が最初に向かった地点が、入り口から東北部の辺り。マカロウと呼ばれていた男の率いる部隊が向かわされたのは、あそこから更に北西だ)
(む……)
 行方不明になったジェフ・マカロウの部隊は、最も入り口から遠い位置に割り当てられていたようであった。
(常識的に考えるなら、指示を出しているレナイア・カミューテルより離れた場所ほど信頼の置かれた者が配置されているはずだが)
(それが行方不明になったということは、あれ(、、)が絡んでいる可能性がある、ということかもな)
(同意)
(仮面の集団という可能性も有)
 三番が、もう一つの危険性も忘れるなと指摘する。自分や他の討伐隊を襲った仮面の男達がもういないとは限らないのだ。
 ジークは、隻眼を動かして周囲を見回した。作業の途中で放棄された木材が影を作っており、こちら側から見ると死角になっている箇所が多い。
 油断はできない――そう考えを固めたジークは、長剣の柄へ手を伸ばす。それに目聡く気付いたヒューイが「旦那?」と声を掛けてきた。
「何か気付いたって、そんな風の顔してるぜ」
「お前に教える必要はない」
「分かってるって。こっちで勝手に警戒しときますよ」
 ジークが隻眼を向けると、ヒューイは肩をすくめながら首を傾げてみせた。強いこだわりのある仕草のようだったが、滑稽であるという以外の感想はなかった。
 陽が傾き、影が長くなり始めた頃、五人はジェフの一隊が行方を眩ませたという場所に辿り着いた。
 かつては町の外周部だったと思われるその場所は、所々に背の高い樹木が生え始めており、旧市街と森との境界が曖昧になっていた。朽ち果て、あるいは踏み倒された木製の柵の向こう側には、風化して判読できなくなった文様が刻まれた、大きな石が幾つもあった。
「ここって、お墓だったんでしょうか……?」
「どうやら、そのようだな」
 年老いた傭兵が、周囲を警戒しながらセラに応じた。右肩に担いだ大鎚の重さを感じさせない足取りで、柵の内側へと踏み込んだ。それに続いてナイフ使い、ヒューイ、ジーク、そして最後にセラが入っていく。
「……む」
「だ、旦那も気付いたって風だな?」
 凍えたように両腕を自分の体に巻きつけながら、ヒューイが話し掛けてきた。
「おかしいって、ここの空気。急に……何て言うか、こう、寒くなってるって」
「む、分かるか」
 見かけ倒しではなく、この男は本当に直感が冴えているのだとジークは評価を改めた。頭が理屈で認めるよりも早く、体が寒気を――恐怖を覚えたのだ。他の傭兵達もヒューイと同様に、警戒を強めていた。
 夕暮れの中、廃墟と化した墓地に、張り詰めた空気が充満し始めている。ジークも、首筋に痺れに似た軽い疼きを感じ取っていた。
 物音。視線が、森の奥に集中した。草を踏み分ける音。木の枝葉が擦れ合う音。かなり大きなものが動いている。そしてそれは、ゆっくりと傭兵達の方へ向かってきた。
 誰もが、息を呑んだ。枝葉を押しのけ森から現れたのは、ヒトに類似した、それ故に不気味極まりない、紫色の骨格であった。
 全長は家屋並と、明らかに人間の比ではない。両腕は猿の如く長く、何よりもヒトにはないはずの捩くれた角を側頭部に、骨組みだけの翼を肩甲骨の辺りに、そして血のような赤い灯を昏い眼窩に有していた。両腕でぶら下げるように携えているのは、その身に比べても大きな、刈り取り鎌であった。
「やはりか」
 思わず、ジークは声に出して呟いていた。
「旦那、あれ(、、)が何か分かるのかい?」
「あれは“冥府の使者”。あのゾンビどもを生み出す魔物で、『死神』とも呼ばれている」
 死神――ジークがそう言った途端、四人の間に動揺が走る。
 眼前に在る、この世のものとは思えぬ魔物に気圧され、誰もが動けずにいた。
《……また、ヒトか……》
 億劫そうに、“冥府の使者”が喋った。喉も肺も舌も持たない骸のような魔物の声は、空気の漏れる音に半ば以上が掻き消されていた。
《尽きぬ……大願……戻ス……我が……人ン……》
(リグニア語?)
(それだけではない、この地域特有の訛りも含まれているようだ)
 ジークは、“冥府の使者”を知る者として、眼前の一体が見せた行動に疑問を覚えた。“冥府の使者”には、人語を解するほどの高い知能はないはずである。
(気になるのは尤もだが、今は目の前の状況に専念すべきではないか?)
(む)
(同意)
(優先順位第三位で考察開始)
 ジークが分割思考と考察を巡らせている間にも、“冥府の使者”は身体を折り曲げ、苦しそうに言葉を絞り出す。
《刃を、折り……我が身、朽ちて……ああ、また……ヒトを、ヒトを……》
 狂人の譫言のように意味不明な言葉を垂れ流し続けていた“冥府の使者”の、真っ暗な眼窩に点る光が、急激にその強さを増した。大きく背を反らし、収まるべき臓腑を欠いた肋骨の列も露にしながら、笛のような甲高い雄叫びを上げた。
 直後、異形の頭蓋を振り下ろし、燃え盛る炎のような赤光でジークらを睨んだ(、、、)
《……ヒトよ、朽ちよォお……!》
「やべえ、何か来るって感じだぞ!?」
 誰かが叫び、そして一斉に身構える。
 “冥府の使者”自体は、動かない。変化はジーク達の周囲で起きていた。
 墓土を身に付着させ、緩慢な動作で地面から這い出てきたのは、やはりゾンビの群れであったが、その肌や頭髪、服装は妙に新しい。
「こいつら、バーソロミューにいた……!?」
「それに、リグニア兵……その死体のようだ」
「え……っ!?」
 驚きを露にするヒューイに、大鎚を携えた老兵が額に汗を滲ませながら相槌を打つ。その言葉に、セラが顔を青くして「そんな」と呟いた。
 変わり果てた討伐隊の面々を前に戦意を喪失させかける者もいたようだが、躊躇いなくジークは長剣を抜いた。進退いずれにしても、命あればこそである。
(五番)
(撤退推奨)
(同意)
(だろうな)
 三番を含めた全ての分割思考が、現状は交戦に適さないとの判断を下した。
「旦那……」
 ヒューイに視線をやると、額に汗を滲ませながらも頷く。言葉に出さずとも、こちらの真意を読み取ったようだ。
「逃げるのなら、そなたらだけで逃げればよい」
「あん?」
 老兵が、ジークら四人の前に歩み出る。肩に担いでいた大鎚を軽々と片手で取り回し、背後を見ずに告げる。
「あの魔物どもは、わしが引き受けよう」
「そんな……独りでなんて、無茶です!」
 必死の面持ちでセラが食い下がるも、老兵は聞き入れない。
「言い方を変えよう。殿はわしが務める。先に退け」
「お、同じことですよ。それに今は戦わずに戻って来いと、レナイアさんも言っていたじゃありませんか」
「では、全員で背中を見せて逃げろと言うのか? そなたも傭兵の端くれならば分かるだろう」
 セラは、言葉を詰まらせた。
(頃合だな)
(む)
 彼女の言動から性格を推測した限りでは、もう食い下がる可能性は低い。まだ表情には迷いが見られるが、じきに首肯するのは目に見えている。
「……分かり、ました」
 案の定、セラは反論ではなく理解を示す発言をしたが、
「――わたしも、ここに残ります!」
 直後にこう続け、ナイフ使い以外の表情に何かしらの変化をもたらした。
「足止め役が、どうしてもいるんですね? だったら……」
 腰の後ろに提げた鞘から二本の短い得物を引き抜き、セラは前に進み出る。
「わたしも一緒に殿を務めますっ」
「そなた……」
 今度は、老兵が言葉に詰まった。口を開きかけ、しかし頭を振り、足を引きずりながら迫るゾンビの群へと向き直る。
「警告はしたぞ」
「……はいっ」
 既に覚悟を決めている人間に制止の言葉など無粋ということだろう。最初はセラの言葉を拒んでいた老兵は、彼女の怯えが消えた目を見て、その態度を一変させていた。
 しかし、
「…………っ!?」
「旦那!?」
 ジークは、セラの首筋目がけて躊躇なく当身を喰らわせた。驚愕に目を瞠るのもつかの間、セラの体は意識の手から離れ、ジークの腕に難なく収まった。
「殿なら、この男一人で充分だろう」
 ジークの回答は、老兵にではなく、ヒューイに向けたものだった。
「お前は先に行け。俺もすぐ追いつく」
 それ以上は語らない。ジークには、この男に多弁を用いる必要はないという確信があった。
 案の定、ヒューイは「あ、ああ」と頷いて駆けた。この場に残った生きている人間は、ジークとセラ、そして老兵のみである。
「感謝する」
「む」
 既に老兵は、ジークらの方を見てはいない。大槌を両手に、迫り来るゾンビの群れを一匹とて討ち漏らすまいとする彼の気迫が、背中から伝わるばかりである。
 その背中が、決して揺るぐことのないものであると知っていたジークは、本物の覚悟を示した老兵に一つ、ある行為を自分に許した。
「お前の覚悟は、無駄にしない」
 返事はなかった。だがそれでいいとジークは思っている。
 互いに背を向け、男達は走り出す。一人は死地へ、一人は帰りを待つ者達の許へ。


 送り出した連中が戻ってきた――弟からそう聞いた途端、レナイアは走り出していた。
「何人戻ったんだい?」
「ふ、二人だよ姉ちゃん。ナイフの人と、狩人の」
 グラントとヒューイである。とりあえず戻ってきた者がいることに安堵する一方、弟がセラとジークには触れなかったことをレナイアは気に留めていた。もう一人の老兵は兎も角、少なくともあの二人には、帰りを待つ者達がいるのである。
 僅かな距離にもかかわらず、息を切らせながら、レナイアは自分以上に疲れた様子のヒューイと、対照的に全く息を乱した気配のないグラントの許へと駆けた。
「何があったんだい!?」
「で、でっかい骨の魔物が出たんだって!」
 まだ息が上がっている者が多い中、ヒューイが隣のグラントに先んじて説明しようとする。
「そいつが行方不明になってた連中が人型の魔物で、鎚の爺さんが足止め役で、それから、それから旦那が……っ」
「ちょいとちょいと、ひとまず落ち着いたらどうだい? それじゃあ何言ってるのか分かんないじゃないかい」
「――全員に伝えろ」
 肩で息をしているヒューイの後方から、ジークがよく通る声で告げる。その肩には、何故かセラが担がれていた。いつの間にか、傍にはあの少女もいる。
「作戦は中断だ。これから極めて危険な敵に挑まねばならん」


 ジークら四人がレナイアの許に帰還してから、一刻ばかりが経過した。まず間違いなく、あの老兵が生きて戻ることは二度とないだろう。そのことを目覚めてすぐ知らされたセラは、最初こそ動揺を隠し切れずにいたが、次第に落ち着きを取り戻していった。
 レナイアの指示により、主だった者達がただちに旧市街の入り口に集められた。他のリグニア兵や傭兵達は少し離れた位置に固まった状態で待機させてあるという。
 ジークやセラ、落ち着きを取り戻したヒューイらの話が進むにつれて討伐隊の顔が青ざめ、「聞いてねえよ」、「逃げた方がいいんじゃねえか」などと小声で会話する者達が増えていった。
「……なるほどねぇ」
 ジークが言葉を切ると、すかさずレナイアが口を開いた。
「で、その死神とかいう魔物を退治する方法ってのは何なんだい?」
「馬鹿かよ、勝てるわけねーだろ!?」
 レナイアの言葉を遮り、傭兵の一人が凄まじい剣幕で割り込んだ。ジークの耳に間違いがなければ、逃走しようと小声で示し合っていた者の一人であった。
「お前ぇ耳着いてんのか!? あのゾンビの親玉で、おまけにとんでもなく強いってぇ話じゃねえか。仮面引っ付けたわけの分かんねえ連中だってうろついてるってのに、そんな馬鹿げた――」
「馬鹿はあんただッ!!」
 至近距離から雷のような早口の怒声を放たれ、傭兵はもとより、何故かルーカスまでもが身をすくませる。
「奴がとんでもなく厄介だってのはさっきの話でうんざりしちまうほど分かってんだ。ンなことを何度も何度も何度も繰り返してるぐらいなら、そこの銀髪男よりもマシな意見でも出したらどーなんだい、えぇ!?」
「い、意見って。そいつはまだ何も――」
「これから出すに決まってんじゃないかい!」
 まるで自分が当人であるかのように放言して、レナイアはジークに促した。
「……さ、教えとくれよ。その死神とやらを退治する方法ってやつをね」
「む」
 一連のやり取りを淡泊な眼差しで見ていたジークは、何事もなかったかのように頷いた。先刻、会話に口を挿んだ傭兵が疑いの眼差しを向ける中、「まずは、これから戦う魔物のことを知ってもらいたい」と切り出した。
「“冥府の使者”――骨の魔物、死神とも呼ばれる奴の正体は、骨自体ではなく、そこに生えた茸や黴だ」
「黴って……」
 と、他の面々同様に呆れた口調で呟くヒューイの隣では、レナイアが神妙な表情で頷いていた。そんな彼女に倣ってか、ヒューイも神妙な顔を作った。
「魔物の骨に影響された黴は、ある程度まで増殖すると、自分達の苗床である骨を利用して動き回るようになる。そして自らの一部を動物の死骸に植え付ける。植え付けられた黴は、食物と移動手段を兼ねた死骸を利用して別の獲物を探す。それが奴らの増え方だ」
「殺した生き物を、食いながら自分の手下に変えちまう――ってわけだね?」
 首を傾げている者達にも分かるようにとレナイアが要約し、確認を求めてくる。何も言わず首肯だけにしたが、それで通じたようだ。
「奴の恐るべき点……注意すべき点はそこだ。下手に攻めてしまえば、こちらの人員を失うばかりか、逆に向こうの増員に繋るのだからな」
 そこでジークは一旦言葉を切った。集まった人間の中には、まだ与えられた情報が飲み込めていない者がいたのだ。
「その話が本当なら確かに恐ろしいがよ、何であんたがそんなこと知ってんだよ?」
「今はそんなことを問うていても仕方ないだろ。今の我々に必要なのは、魔物を斃すための情報じゃないか」
 一人のリグニア兵が同僚を制肘すると、決意を秘めた表情で手を挙げる。目が合うと、その男はジークにしか見えないように片眼を閉じてみせた。
 現状下で隊内に混乱が生じれば、内部分裂にまで発展して作戦の実行自体が危ぶまれる。このリグニア兵は、それを未然に食い止めようとしたのだろう。それを受けて、他の兵士達も同僚や傭兵らの鎮静にあたり始めた。
 先刻のレナイアの剣幕も効を奏したのか、今度は鎮まるのにさほど時間はかからなかった。
 最初に傭兵を制肘したリグニア兵が、改めて尋ねてくる。
「……さて、そんなおっかねぇ“化け物”相手に、どうやって戦うっていうんだ?」
「まず、隊を二組に分けてもらおう」
「二組って?」
 ヒューイだった。表情は暗いが、目に力は残っている。
「一組は、当初の予定通りゾンビの排除を請け負う。“冥府の使者”は俺達を逃がすまいと今頃町中にゾンビ――お前達が、人型の魔物と呼んでいる奴らを放っているだろう。先刻も言ったが、こいつらはまともに相手取るのは無駄だとはいえ、無視はできんからな」
「で、残りの一組が――」
「俺とともに、“冥府の使者”を討つ」
 殆ど間を置かずに、ジークは言い放った。
 “冥府の使者”の最も恐ろしい点は、触れたものの生命を問答無用で奪う能力のみならず、ゾンビを次々と作り出し、活動範囲を広げていくことにある。今はまだエタール旧市街を中心とした周辺地域に留まっているが、その間に根本的な対策をとらなければ、いずれ手の施しようのない事態にまで発展しかねない。
「陽が沈めば、奴は本来の――先刻以上の力を発揮するようになる。お前達の言う、人型の魔物どもも活発に動き始める」
「ゾンビを……人型の魔物とその親玉を斃したけりゃあ今しかない、ってことかい」
 ジークが説明を終えてすぐ、レナイアが総括する。彼女とともに話を聞いていた傭兵や兵士らの表情は、一様に昏いが、先程に比べれば俯いている者の数は減っている。更に僅かだが、目に強い光を感じさせる者までいた。
「で――」
 レナイアの顔が、至近距離にまで迫る。
そいつ(、、、)を斃す手段ってのは、いったい何なんだい? まさか、また全部ナイショのまんまでやれって言うんじゃあないだろうね」
 レナイアの投げかけた言葉の半分は、この場にいる全員の意見を代弁していただろう。残り半分は、先日の件に関する嫌味だ。
「いや、教えても構わん。だがその前にもう一つ、言わなくてはならないことがある」
 嫌味を躱され、憤って弟の鳩尾に肘を打ち込むレナイアを他所に、ジークは隻眼を閉じる。
(ここまできたら、語らざるをえまい)
(同意)
(不本意)
(今回ばかりは、秘匿したままで事態を解決できるとは思えないからな)
 分割思考も、否定らしい否定はしなかった。六番でさえ、他者に己の情報を開示することの必要性を認めていた。
 結論は出ている。選択をした瞬間から、後悔は微塵もない。己に言い聞かせて隻眼を開いたジークは、ゆっくりと告げる。
「俺は、魔導師だ」
「魔導師だと?」
 傭兵もリグニア兵も、口々に声を上げた。その内容は驚きよりも困惑と疑念の色合いが濃い。
 当然だろうと、ジークも思っていた。
 魔導師。『火を生み出し水を操り、大地を動かし風を束ね、一軍をも壊滅させる業を扱える者』と巷間では噂されるが、魔導師は滅多なことでは人前に姿を現さない上にそもそも人数が少ないため、知識や言葉として知っている者はいても、実際に見た者は殆どいないのだ。
「……本当に魔導師だって言うんなら、」
「証拠は今から見せよう」
 機先を制したジークは、人垣を掻き分けると、街路に根を食い込ませたまま枯れた木の枝を折って、再び人垣の中央に戻った。当然のように、ミュレはジークの後ろを通って歩く。
 男達の期待と不安、そして緊張が入り混じった空気の中で、ジークは特にもったいぶることもなく、こう告げた。
『 “火よ(ファイア)”』
 リグニア語とは異なる、独特の響きを含んだ音声(おんじょう)に、空気の爆ぜる音、周囲のどよめきが続いた。
「見ろ、枝に火が……!」
 ジークが詠唱を終えると枝の先から赤い点が生まれ、それは瞬く間に大きくなって枝を燃やし始めた。
 彼らには、火の気のない場所で唐突に火を生み出したかのように映ったことだろう。火打石でも代用できる――むしろそちらの方が楽なくらい――取るに足らない魔術ではあるが、驚かせる程度には役立ったようだ。
「納得できたか?」
「はー……あんた本当に、魔導師だったんだねぇ」
 真っ先に答えたのは、レナイアだった。動揺を悟らせまいという意地が働いたのかとも思ったが、単純に素直な感嘆を示しただけなのかもしれない。
「な、なあ旦那よ」
 ヒューイが、興奮した口調で手を挙げる。
「ほ、他には、どんなことができるんだ?」
「これ以上の魔術なら、いくらでもある。無論、あの魔物を斃すためのものもな」
 おおっ、と歓声に近いどよめきが流れる。やはり魔導師や魔術というものを知らない者達らしく、ジークの言葉はリグニア兵や傭兵達に大した抵抗もなく受け入れられていく。特にヒューイなどは枝に火が点されてから目の色が変わっている。
「凄えって……なあお前ら、この魔導師の旦那なら、確かにあの骨の魔物にも勝てるって!」
 そうした彼の昂揚が周囲にも伝染していったのか、徐々に他の傭兵達にも喜色が表れ始めていく。
 ひょっとしたら。もしかしたら。上手くいけば。このままいけば――
「さっ、浮かれんのはここまでだよ」
 過ぎた希望が油断に変わる寸前、レナイアが手を叩きながら声を張り上げる。全員の注目が自分に集まるのを待って、彼女は身振り手振りを交えつつ語り出した。
「分かったかい? これからあたしらが挑む相手ってのは、得体の知れない相手じゃなくなっちまったんだ。相手の正体も、習性も、勝つための方法も、勝てる奴も、全部がこっちにある! いつも通りに戦えりゃ、ビビる必要なんざこれっぽっちもないよっ!!」
 このレナイアの発破が、最後の後押しとなった。魔導師という強力な追い風を得た討伐隊は、その士気を大いに盛り上げることとなった。
 ただ一人、人垣の外で俯く、赤毛の女を除いて。


 驚くべき事態だった。
 まさか、あの女に匹敵するような障害が他にも現れるとは思ってもみなかった。
 魔導師――その力は、嫌でも想像がつく。あの方々の力には劣るとしても、あんな子供だましの技で済むはずがない。いかに彼とて、独力では思わぬ痛手を受けるかもしれない。
 幸いにして、魔導師への対策は教わっている。私が何とかして、彼を支援しなくてはなるまい。――だが、どうやって?
 彼らが動けるようになるまでは、まだ時間がかかる。かといって、この者達にまた同じ手を打っても効果は薄いだろう。あの魔導師がどういった魔術を用いるのかは全くの謎だし、それにあの男は彼ら相手に全く遅れをとらなかった。無闇に仕掛けさせて犠牲を増やさないようにはしたい。
 となれば、定石どおりにあの魔導師が無防備になる瞬間を……しかし、私ごときの乏しい経験でそのように上手く指示を出せるのだろうか? いや、ここは怖気づいている場合では――
 どうする? どうするどうするどうするどうするどうする?
 援軍を――そうだ、あの方の……いや、私が授かった役目だというのに、お手を煩わせるのは心苦しい。それにあの方には別件があり、協力するつもりなどないとも仰っていた。おそらく私ごときが平身低頭したところで……いやいやっ、私のことなどどうでもいい。今大事なのは、あの女と魔導師を……心苦しいが、排して任務を継続することなのだから。
 あの方には、申し出るだけ申し出てみよう。それより取り急ぎ、彼にこちらで起きていることを伝えなくてはなるまい。
 ――ごめんなさい、皆さん。


 レナイアの指示の下、すぐに本格的な作戦会議が始まった。謎の襲撃者の一件もあり、現存の戦力で作戦を実行するには一旦討伐隊を再編する必要があったのだ。
「その件についてだが、お前に話がある」
「んん? ああ、分かってるよ。あんたが死神討伐のために必要だと思った輩は優先的にそっちへ回せってんだろ?」
 流石にレナイアは勘が働く。必要最低限のやり取りで済むのはジークにとってありがたいものだったが、同時に長々と早口で喋り出すのには辟易していた。
「それもある」
「も?」
「セラとかいったか、あの赤毛の女傭兵へ通達するのは後に回しておいてもらおう」
 最初は不思議そうにしていたレナイアだったが、ジークが『セラ』と口に出した途端、口の端に嫌な笑みを交ぜ始めた。特に相手をする必要はないと判断する。
「俺の用事は以上だ。他に何もないなら終わるぞ」
「なんだい、訊いちゃくんないのかい」
 やれやれ、と肩をすくめるレナイアにジークは言ってやりたいことがないわけでもなかったが、さして優先すべき感情ではないので黙殺した。
「まっ、あたしゃとっくの昔からあんたに賭けてんだ、今更勝てませんだなんて言葉を聞くつもりなんてこれっぽっちもないよ」
「む……」
 協力は惜しまない、とレナイアは言いたいのだろう。その不敵な笑みは、見る者が見れば好ましく映るのだろう。
(こうやって、彼女はいつも人に溶け込んでいくのかもな)
(同意)
(油断大敵)
 二番の言葉に、六番が釘を刺す。人の心に隙を作り、そこから侵入せんとする者には強固な意志をもって対応せよ、と言っているのだ。
「……好きにすればいい。俺が気にかけることではない」
「りょーかい。そこら辺のことは任せたよ」
 不敵な笑みから一転、屈託のない笑みに切り替わったレナイアは「決まったら教えとくれ」と言い残して、颯爽と弟を率いながらリグニア兵の集まりへ向かった。
(さて)
(至急実行)
(む)
 レナイアから編成権の譲渡を果たしたジークは、袖に感じていた微かな重みの正体を突き止める。
「む」
 案の定、ミュレだった。
「分かっている」
「……ん」
 藍色の瞳は何も映しはしないが、ジークには過去の経験とそれを活かす頭脳があった。
「そろそろ、お前にも役に立ってもらうぞ」
「ん」
 間を置かずに返されたのは、いつもの一音。
 気が付けば、右手は彼女の頭を撫でていた。また二番が何か言い出すと癪なので、すぐさま手を離した。


 最初にジークが足を運んだのは、旧市街の入り口で車座になって携行食糧をとる傭兵達――そこから距離をとって例の少年と食事をするセラの許だった。
「セラ、といったか」
「あ……はい」
「用がある。お前だけ来い」
 ジークが必要最低限の用件だけを伝えると、最初は驚いたような顔を見せていたセラは僅かに表情を引き締め、傍らで不安そうに彼女を見上げていた少年に「大丈夫だから」などと告げてから、ジークとミュレの方へと歩み寄る。
「ついて来い」
「はい」
「……ん」
 硬い表情で頷くセラと、自分も呼ばれたと勘違いしているミュレを率いて、ジークは旧市街の入り口からは死角になる、建物の影まで向かった。
「ここならいいだろう」
 四番、六番、七番が調べた結果、自分達以外の気配は感じられない。万が一の事態に備えて三番、五番、七番を周囲の警戒に充てつつ、眼前の案件の処理にあたる。
「そ、その……貴方がわたしに、何の用があるんですか?」
「む」
 唐突に呼び出されたためだろう。セラの表情からは分かり易いくらいに、緊張と仄かな敵意が伝わってくる。
(殻に篭ったな)
(脆弱)
 冷淡に観察しているジークとは対照的に六番は酷評するが、それが間違っているとジークは思っていない。
 表情や仕草から判断するかぎり、弱者を装っている可能性は低い。彼女の怯えに由来する警戒心は、本物であると見て間違いないだろう。
(忠告)
(む)
 しかし、だからといってこのまま力で組み敷くのは下策だと、四番が警鐘を鳴らす。
 ただの弱者であるならすぐに諦めて従うだろうが、セラはその『ただの弱者』ではないことを既に証明していた。彼女は、追い詰められた時に迷いを断つ力を持っている。
(必要以上に強圧的な振る舞いは避けておくべきか)
(肯定)
(同意)
 戦いは相手に力を発揮させる前に終わらせるべしという考えに則り、ジークはいつも通りに冷淡な口調で告げる。
「まだお前が気に留めている案件――それを、解決しておきたかった」
「え?」
「あの老兵のことは諦めろ」
「ん」
 ジークの予想は的中していた。もともと赤味が差しているような頬をしているセラだが、ますます赤味を増していく。他の仕草と総合して判断するに、彼女が動揺した時に表れる癖なのだろう。
 目を瞠り、口を僅かに開く彼女に「まずは座れ」とジークは続け、建物に背中を預けて座る。セラは逡巡するような間を作っていたが、ミュレが彼の隣にすぐさま座るのを見て、ゆっくりと距離をとりつつ腰を下ろした。
 やはり、彼女に時間を割いたのは正解だった――眼前の女の存在を軽視していないジークは、文字通り『腰を据え』て彼女と対話することにした。こんな女でも、今は貴重な戦力なのだ。実力を十全に発揮してもらわなくては困る。
「今のお前には、俺の言い訳にしか聞こえないだろう。そのことを、念頭にいれてもらおうか」
「ん」
「……はい」
 緊張。よくよく表情が顔に出てくる女だとジークは思った。これで傭兵だというのだから世の中というのは分からない。
「俺の予想が正しければ、奴はあの場で死ぬことに何の後悔もなかったはずだ」
「……っ! そ、それは、貴方が勝手に――」
「お前は、俺に文句を言えればそれでいいのか?」
 動揺。そして消沈。実に落ち着きなくセラの表情は変わる。
「そうだというなら、それでも構わん。もう話すことはない。だが、そうでないのなら、ここで俺の話を聞いてもらうことになるが」
 どうする、と問いかけるジークに対して、セラは何も言い返そうとしない。俯いて視線を逸らしたが、立ち上がろうとはしなかった。
(感情に衝き動かされるだけの女かと判断していたが、冷静さを取り戻す術を心得てはいるようだな)
(意外)
 彼女に対しても、六番は酷薄な評価を下す。ジークの中に彼女への猜疑心が残っている証拠である。
「では続けるが、いいな?」
「……ん」
 セラの返事は首肯。やはりミュレが勘違いをして応答するが、そちらは無視する。
「あの時、誰かが犠牲になる必要があった。敵は見るからに、そして実際に強大な力を持っていた。しかもその能力を理解しているのは俺一人だけという状況だ。お前にしても、奴を相手にどう戦うか、という以前にどう対処すればいいのかも分からなかったはずだ」
 反論や意見は出なかった。引き続き、ジークは口述する。
「全員で撤退できるのが最良の結果だったことは俺も否定しない。先程のような状況下で奴と交戦するには、不足しているものが多すぎたからな」
 言葉はなくとも、セラの内情を窺い知るのは容易だった。俯き、滑らかな赤毛が隠す横顔からは、力のなさが見て取れる。
「だが、実際にその最良の結果を迎えることは不可能だった。あの死神を前にして威圧され、恐れ、萎縮した人間が、いったいどれほどの速さで逃げられると思う?」
「……誰も逃げられない。だから貴方は、時間稼ぎをする人が必要だったと言いたいんですか?」
「む」
 彼女の解釈に間違いがないことを確認し、ジークは頷いてみせる。
「お前の言うとおり、答えは『否』だったろう。戦場で感情に流され、眼前の事態に呑まれた奴の最後は決まっている」
 この言葉に、セラの俯く角度が深くなった。
「犠牲を最小限に留めつつ後続を断つには、あの老兵が最適だった。お前やナイフ使いの男ではゾンビに囲まれた場合に対処はできなくなるし、武器も有効と呼べるものではない。奴らを仕留めるには、鈍器のような物が適しているからだ」
 セラが疑問を口にしようとする前に、ジークは理由までを述べる。
「その点では、最初から距離をとって戦うことのできるヒューイは適性があった。だが弓とは、本来大勢で射掛けるか、または一発で仕留められるような状況でしか充分な効果は望めない。そしてあの状況はどちらにも合致しない。それに何より、距離をとって戦うのは囮役として不適だ。なるべく奴らをあの場に縫い止めなくてはならないからな」
 セラが話を理解しているか、それとも理解している途中なのかを見極め、そしてジークは結論を伝える。
「以上の事柄を踏まえて、ゾンビに対し有効な武器と、ある程度の攻撃に耐え得る防具を持ち、あの場に留まって奴らを食い止めることができるのは、あの老兵しかいないと判断を下した。……ここまでで、何か質問はあるか?」
「……じゃあ、貴方なら?」
「不足しているものが多すぎたと言ったはずだ」
 即時に切り返すと、ジークは僅かにだが、逡巡を思わせる仕草を見せる。セラはこちらが作った沈黙を不審に思ったのか、伏し目がちだった視線を心もち上げる。
「士気に関わると思い、あの場では言わなかったが、魔術も万能ではない。斧で薪を割るには、まず斧を振り上げる必要があるのと同様に、力を発揮するには相応の準備がいる」
 そうなんですか、とセラは淡白な相槌を打つ。魔術という、未知の分野が話題であるために実感が湧かないのかもしれない。でなければ、例え話がいまひとつだったか。
 咳払いをして閑話休題を図り、そしてジークは、いよいよ本題に入った。
「兎も角、お前には悪いが、あの時老兵を殿に据えることが最善の選択だった。そしてあの老兵も――全く同じとは言わないが――これに近い判断を下していたのだと俺は考えている」
「……っ、何故、なんですか?」
 先刻のような、しかし今度は自制的な口調でセラが問いかけた。
「あの老兵には迷いがなかった。少なくとも表面上からは、そうした感情を読み取れなかった。もし老兵に正常かつ合理的な思考が残っていたのなら、誰が殿を務めるべきかはすぐに判断できたはずだ。そして、あの老兵が自身の延命よりも自分以外の全員が勝利して旧市街から生還することを望んでいたのだとしたら、己を犠牲にして自分達四人を逃がそうとはしなかったはずだ」
 殆ど息継ぎせずに言い切ったジークは、「以上の事柄から、奴が自分を犠牲にすることを迷わず選んだのだと判断した」と締めくくった。
「全ては……」
「推測だ。死んだ奴が本当に考えていたことなど、俺達には分からん。それこそ死神にでも訊くしかあるまい」
 ここでジークが間を作ると、セラはおずおずと、様子を窺うように口を開いた。
「……貴方のお話は、分かります。どんなに嫌でも、犠牲が出てしまうのが、出さなくてはいけない時が、戦いにはあると、そして、あれがそうなんだと。でも……」
「見捨てることになってしまったのが辛い……か」
 今度は返事がなかった。その代わりに、薄青色の瞳が痛切な光を宿してジークとミュレを見つめる。
「残されたわたし達は、いったいどうしたらいいんでしょうか。もう死んでしまった人々の、本当の気持ちを知ることのできないわたし達が、してあげられることって、何もないんでしょうか?」
 これまでの表情や言動から、この述懐が嘘や偽りではないことは確信していた。
(本気でこの女は、あの老兵の死を悼んでいる)
(そして、何か……例えば償いのようなものか。それを望んでいるようでもあるな)
(同意)
(同意)
 それ以上は踏み込まず、ジークは淡々と告げる。
「できない――そう思いたければ、思えばいい。それはお前の自由だ」
「え?」
 短く、冷淡としか言いようのない言葉に、セラは目を丸くする。
「だが、俺はどうしても分かり得ないことに対し、いつまでも固着するつもりはない。そうして悩み、立ち止まるくらいなら、一歩でも自身の望む結果に近付くことを選ぶ」
 それまで、セラを見据えていたジークは視線を夕焼けの赤に染まった空に移した。つられてセラも、ミュレがジークの方ばかり注視していることを気にしつつ、見上げる。
「俺は、本物の覚悟には、報いるべきだと考えている」
 ジークの発した言葉は、セラやミュレに発したようにも、自分自身に向けたようにも聞こえた。
 いずれにせよ、ジークの真意を分かりかねたらしいセラは、大人しく続きを待つことに決めたようである。
 そうした動きが視界の外で起きていることを分割嗜好によって感じ取りながら、ジークはセラの求める答えを与える。
「俺は、お前を気絶させて連れ帰る直前に、あの老兵と約束したのだ。命を捨ててまで俺達を逃がそうとしたお前の覚悟を、無駄にしないと」
 鉄を思わせる、冷たく硬い声音は変わらない。だが口調には、それまではなかった力強さを感じさせる。固く握られた右拳は、強靭な意志と決意の表れなのだろう。
「ここまで来るのまでにも犠牲はあった。そいつらのためにも、本物の覚悟を示して散った奴のためにも、俺は必ずこの仕事をやり遂げる」
 ここで言葉を区切ったジークは、見上げる隻眼を、セラに戻した。
「そして、それはお前に対しても変わらん」
「え?」
 隻眼が、うろたえるセラを鋭く見据える。
「理由がどうであれ、お前が身を挺してでも“冥府の使者”から俺達を逃がそうとするあの決断と覚悟は本物だったと俺は思っている。そして、それに報いてやりたいともだ」
 だから、と言ってジークは間を作る。ここまで一度として、セラから目を逸らさない。赤みの差した頬は、夕陽を浴びて更に赤く染まっているように見えた。
「……たとえ、お前に恨まれようとな」
「あ……」
 こちらの方を見上げるセラの表情に、気まずさが浮かぶ。
「む、取り繕わなくて構わん。お前に恨まれる可能性など、あの時に覚悟している」
 気遣いは無用だと伝えてから、ジークは続ける。
「それでも、お前には生き延びてもらいたかったのだ。俺はこの戦いに勝利するためなら、もはや手段は選ばんつもりだ。でなければ、俺が魔導師であることも明かさなかった」
 お前とあの老兵が、俺にも覚悟を促したのだ、とジークは続ける。
「あの人と、わたしが……」
「む」
 ジークは力強く頷くと、立ち上がった。傾いていく夕陽を背に受け、セラへ真っ直ぐに右手を差し伸べる。
「この先、お前が俺を恨み続けようとも構わん。だが、奴を、“冥府の使者”を討ち倒し、あの男やこれまで犠牲になった連中が無駄死にではなかったと証明できるまでは、お前の力を俺に預けてほしい」
 一息に語ってのけたジークは、「俺の話はこれで終わりだ。……納得してくれたか?」と言葉を結んだ。
「……え? あ、は、はい!」
 ややあって、セラは勢いよく返事をしながら弾かれたように立ち上がる。そしてジークの右手が自分に差し伸べられていたのに遅れて気付き、やはり慌てて握り返した。
「む、それはよかった」
 と、あまり嬉しそうではない様子で返したジークは握手を解き、「では、作戦が始まったら頼むぞ」と簡潔に告げる。
「任せて下さい。あの、わたし頑張りますっ」
「……ん」
 少し興奮気味に応じるセラと別れたジークは、ミュレを伴い早足で歩き出す。
 すると、早速二番が口を出してきた。
(相変わらずだな、この捻くれ者)
(何が言いたい)
(彼女だよ。随分と親切に振舞うな)
(当然だ。奴には万全を期してもらわねば困る)
(本当にそれだけか?)
(む……)
 二番が、食い下がろうとする。
 二番がこうした行動に出るのは珍しいことではなかったが、ジークのこうした行動――目的のためなら躊躇なく虚と実とを使うことに対して意見を示そうとするのは、あまり例のないことであった。
(いや、疑っているわけではない。そもそも我々の間に嘘や隠し事というのは本来成立し得ないからな)
 分割思考は、個々が独立して動いているように見えても、それらはあくまでも『ジーク』という一個の人間を形作っている一要素に過ぎない。対照的な言動の目立つ二番も、彼の記憶や人格の上に成り立っているという意味では他の分割思考と大差ないのである。
(彼女に向けた言葉、あれは本心だったのだろう?)
(……わざわざ、訊くほどのことでもあるまい)
(他の奴にならそう言っても構わない。だが我々にまで嘘を吐く意味はない。それこそ言うまでもない話だ)
 下らん、とジークは切り捨て、一方的に対話を打ち切ろうとする。しかし、
(だがまあ、いいじゃないか。理由はどうあれ、お前のああした態度、悪いとは思わないぞ)
(む……)
 二番はジークの制止を遮り、セラに本心を――たとえ一部であっても伝えたことを評価するのだった。
 おそらく、二番が真に言いたかったのは、これだろう。
(近頃、つまりミュレを伴うようになってから、お前は必要以上に冷淡な振る舞いを見せることが増えているからな、時にはああして、思っていることの一部でも放出するのも意味あることだと思うがな)
(む……)
 過度に溜め込まず、必要なら吐き出せ、ということであるらしい。つくづく、余計な真似ばかりする分割思考だった。
(俺は最善と思われる選択を採ったに過ぎん。でなければ、好き好んであのような言葉など選ぶものか)
(またそれか)
 やれやれ、と二番は嘆息する。姿かたちを持たないはずの分割思考だというのに、肩をすくめてみせる男の姿がジークには明確に見えた。
(だからお前は捻くれ者だというんだ。いや、やはり偽悪者と呼ぶべきか……)
(無駄口はそこまでにしろ)
(同意)
(目的優先)
 二番を無理矢理黙らせると、ジークは鉄面の端、僅かに口元を歪めた。無論、快さに由来するものではない。
(俺もまだ甘いな)
(肯定)
 自嘲気味に吐露する感情に、六番がすかさず同意を示し、ついでとばかりに傍らへ意識を促した。
 六番の言うジークの『甘さ』の象徴――ミュレは、いつもと変わらぬ無表情のまま、じっとジークを見上げている。目が合っていることに気付いたらしく、僅かに首を傾げた。
(この件を一段落させたら、お前のことにも決着はつける)
 己の果たすべきことを再確認したジークは、決意も新たに次の人物の許へと足を運ぶのだった。


 違和感を、覚えていた。
 『違和感』という言葉は、まだ持っていなかった。仮に持っていたとしても、この二ヶ月あまりで数多の命を食らい、欠損していた知能を急速に補填し続けて来た『それ』の頭は、まだ混濁している。思った通りに言葉を引っ張り出すのにも、困難を極めていた。
 文字通りの死に体だった神話の残骸は、原因を突き止めようと、まだ生前には遥かに及ばない頭を巡らせようとする。
 自分の身体が、末端の方から次々となくなっていくように感じられた。少しずつ――しかし、確実に――削り取られている。
 痛みは、最初から感じていなかった。生まれ落ちて以来、『大きくなる』ことと『動くものを食う』ことという二つの命令以外は頭になかったし、他に欲求も刺激も特に感じなかった。先の二つが全てだった。
 それだけに、ふと覚えた違和感に興味が湧いていた。初めての感覚である。今までに自分の身体を削った――食ったモノはなかったのだ。
 何かが自分を食った、と解釈した時、魔物の頭が目まぐるしく動き出した。
 周りで動いている何かが自分の身体を食い荒らしている。あってはならない。食らうのは、自分である。自分は食って大きくなるのだ。そうでなくてはならないのだ。
 許せない――未だ鈍い頭は、そう結論を下した。
 殺してやりたい。自分の身を削ったモノを殺して、その上で食い尽くしてしまいたい。
 二つの命令と反射だけで生きてきた魔物は、初めて能動的な欲求を抱いた。そしてその瞬間、方々に散らばった『身体』は動き出していた。



 作戦は滞りなく再始動することとなった。だが、その際にある一点が、レナイアの胸裏に疑問として残った。
 ジークは、死神の許へ赴くにあたり、ルーカス、ヒューイと、彼が選り抜いたリグニア兵の一隊を伴うことになった。無事に進攻しているなら、そろそろ同道の工作隊と分離して墓地を目指している頃合である。
(ま、当然そうなるねぇ)
 ジークによれば、魔術を使用する際には無防備になる瞬間があるという。件の死神とかいう魔物に魔術を叩き込むには、ゾンビからあの男の身を護る者が必要だということである。そうした者を選ぶ際に、口の堅い連中を選んだのは、やはり魔導師ゆえか。
 そこまでは納得できた。彼女の疑問の対象となっているのは、そこに加えられている、あのミュレとかいう少女である。
 不必要な探りは入れまいと思って触れなかったが、どうもジークは彼女を戦力として見做している節が多々見られる。
(……にしては、ジェフの部隊を探索し行かせた時はつれてかなかったし、明け方頃にゾンビと戦った時も動いてた様子はなかったねぇ)
 だが、武器と思しい手甲を与えていたし、衣服を購入する際の条件は『動きやすくて丈夫な服』であった。特殊な性癖の持ち主でもなければ、伴っている娘に与える服ではない。
(てことは、あの子を徒手空拳で戦わせるつもりなのかね)
 ジークの目論見を見抜こうとしてみたが、どうしても頭に浮かぶのは、彼の傍らでぼんやりとしているミュレの姿か、無心に食べ続けるミュレの姿ぐらいであった。経験と照らし合わせてみても、戦いに向いているようには見えない。
(んん、そーいやあの子も謎が多いねぇ)
 ジークに意識を傾けていたせいで、ミュレに関する情報は殆ど集めようとしなかったこともあったが、情報の乏しさはジーク以上であった。
(だけど、あいつの中じゃミュレがこの作戦の『鍵』なんだ)
 頭が納得できるほどの証拠は集まりきっていない。だが、積み重ねてきた経験と直感は、そうでなければジークの考えが読めないと告げている。
 ジークは何を企んでいる。何を意図している。あのミュレの、何を知っている?
(その辺のことは、ルーカスに任せとくしかないかね)
 油断すると、思考がジークとミュレの方へ際限なく傾いてしまう。そのことを自覚したレナイアは素早く思索を中断し、思考を眼前のことに切り替える。
 何しろ、今回の一件も、例によって時間は非常に限られているのだ。
 夕刻になると、陽はどんどん傾いていく。山が影に溶けるように黒くなり、方々にある建物の影が伸びるに伴い、明け方にも嗅いだ腐臭が漂い始めていた。
「報告! 報告!」
 兵士達が、旧市街の入り口に待機するレナイアらに慌しく報告する。
「第一分隊、魔導師殿含む特別分隊と無事に分離し、作業を開始しています!」
「第三分隊、指定区画内のゾンビを掃討し終えました!」
「第二分隊もだ!」
「第四分隊、既に目測七割のゾンビを掃討。始末し終えるのは時間の問題だ」
「第五分隊、依然ゾンビの増援に苦戦しています!」
「第三分隊から第五分隊に何人か回すんだ。第二分隊は残りの奴らと結託する。絶対に逃すんじゃないよっ」
 矢継ぎ早の報告に、レナイアは早口で応える。無駄なく復唱した兵士達は、各々がやって来た方に素早く戻っていく。リグニアは兵は他の五大国に比べて質が劣ると言われるが、彼らはゾンビの一件からか、まだそれ程でもないようには見える。
「あ、あの」
「んん?」
 リグニア兵達の背中に目をやりながら、セラが口を開いた。傍らのヴィルも、緊張の面持ちでこちらを見上げている。
「う、上手くいってるんでしょうか?」
「断言できないね」
 嘘を吐くべきか、とレナイアは考えたが、頭が結論を出すより先に口が本音を述べていた。後悔など全くしていない。どの道、無用な隠し立てをしても仕方ないのだ。
 明け方前の一戦と、仮面の男らの襲撃、そして死神の一件で傭兵は三十六人、リグニア兵も全体の二割強を失う痛手を被ったが、まだ当初の計画――エタール旧市街をゾンビ諸共に火の海に沈めるという作戦を実行するだけの資材、人員は残っている。
 そして、魔導師という、この作戦を成功させるための強力な追い風も得ていた。誰もが口にこそ出していないが、この上ない希望としているようであった。
 その点に関してレナイアは告げなかったが、別の形で注意を促しておくことにした。
「……ジークを信じちゃいるけど、流石に見たことも聞いたこともない魔物が相手だからねぇ。追い詰めたつもりでいたら、いつの間にかこっちが追い詰められてた、なんてこともあり得るだろうさ」
 声量を落として説明するレナイアに、セラは眉根を寄せた。
「つまり、今は油断も、余計な考えもしちゃいけないってぇことなんだよ。あたしらは、今、真っ暗闇を手探りで進んでるよーなもんなんだ。分かるかい? 下手なマネはできないさ。けども立ち止まっちまっててみなよ、さっくり食われておしまいさ」
「う、うん」
 ヴィルが、押し出されるように頷いていた。セラはセラで、声に出さず頷いている。
 一先ず釘を刺しておいてから、レナイアは彼女らが信じている『希望』について言及しておく。
「そのことを頭に叩き込んどいた上で、あたしらはあいつのことを信じりゃいいんじゃないかねぇ」
「そ、そうですよねっ」
 途端にセラが、目を輝かせた。口調も弾んでいる。普段の彼女に見られる、周囲への怯えを含んだ空気も薄れている。
「せ、セラ姉、ちゃん?」
「やっぱり、わたし達が立ち止まらずに進むには、じ……あ、あの人のことを、絶対に信じなくちゃ駄目なんですよね? それがわたし達にとって、一番大事なことなんですよね?」
「んん、そうだねぇ……」
 相槌を打ちつつ、レナイアは別のものを見ていた。
 浮かれている、と見ていいのだろうか。「だからヴィル君も頑張ろうね」などと息巻いているセラの姿は、特に墓場への偵察から戻ってきた時とは、別人のような明るさを見せている。
(あいつ、いったい何を吹き込んだのかねぇ)
 顎の先に手を伸ばし、考えを巡らせる。
 ジークは何も語ろうとしなかったが、あの男がセラに何かしらの発破をかけていたのは間違いない。
(けど、ただ説得しただけじゃあこんな風にはならない)
 レナイアの持論だと、理屈が気持ちを止めることはあっても、動かしはしない。気持ちを動かすのは、常に気持ちだと考えているのだ。
(こりゃあ……)
 もしかすると、面白そうなことになるかもしれない。特にあの、ジークにくっ付いて回っている、人形のような少女がこのことを知ったらどうなるのだろうか。
「あ、あの、どうかしました?」
「んん? いンや、何にもないさね」
 いつの間にか、口元が笑みの形になっていたようだ。気遣わしげに視線を向けてくるセラへ適当に答えてやり過ごす。
(この辺のことは、後の楽しみにとっとけばいいさ)
 とりあえず大事なのは、ジークがセラを発奮させているという事実、ただそれだけを受け止めておけばいい。
(何にしたって、勝たなくちゃ生きて帰れないんだからね)
 その点に関して、レナイアは周囲に言っているほど悲観してはいなかった。彼女自身が言っていたように、信じているからである。
 ただし、彼女が信じているのはジークであってジークではない。ジークを信じると決めた、自分の『儲け』への嗅覚を信じているのだ。
 ジークを全く信じていない、というわけではなかった。レナイア・カミューテルにとって誰かや何かを信じるというのは、それらを選んだ彼女自身を信じるということなのである。そうして今の立場や、財産、自身や弟の命を勝ち取ってきたと彼女は信じて疑わない。この強烈な自負心こそが、レナイア・カミューテルという女商人の原動力であり、根幹だった。
(それまでは、あの二人が何をしてくれんのかって楽しみに待たせてもらおうじゃないかい)
 何があっても揺らぐことのない自信が、刻限の迫る状況下でもレナイアに笑みを許していた。


 半円形の器があって、その中心に自分がいる――今まで誰にも話したことはないが、ジークはそう感じていた。
 その器の内側にあり、見聞きできる範囲内なら、その全てを感じ取ることができていた。地形、動く物、動かない物の有無と種類、形状――実際には知覚の及ばないものだろうと、それら全てが自分の目と耳を通して伝わってくるのだ。
 そうして感じ取っているものの一つに、緩慢に動く『気配』の集団が、活発に動く『気配』の集団に駆逐されていく様子もあった。後者にも動かなくなった『気配』はあったが、比率としては前者のそれよりも少ない。
(情勢は、我々にとって有利に進んでいるようだな)
(肯定)
(油断禁物)
(六番に同意)
 周囲一円を探査する魔術、 “疾風の猟犬(ゲイル・ハウンド) ”で戦局を俯瞰している四番から、ジークの知覚が及ぶ範囲内の情報が絶えず送りつけられてくる。常人であれば頭痛に呻き苦しむのだろうが、総計七つの分割思考によって処理しているジークには大した問題にならない。
(あの女商人、役割を果たしてくれているようだな)
(同意)
(過剰評価厳禁)
(分かっている。だが奮起する材料にはなるだろう?)
(否定。二番の行為は油断を招く)
(二番と六番、そろそろやめろ)
 二番の言葉に反応した六番が論争を始める前に、ジークが抑制する。
(奴は、もうすぐそこにいる)
(同意)
 ジークは、“疾風の猟犬”を解除し、意識を肉眼へと戻す。この時ばかりは、彼も隻眼を不便に思う。
 魔術で感じ取れるようになってきた巨大な『気配』は、特別な動きを見せるでもなく、まるでこちらの到着を待つかのようだった。
(意見。当該殲滅対象は高度な知能を持ち得ない。よって先述のような比喩を用いる必要皆無)
(五番に同意)
(分かっている)
 本来は、五番が正しい。“冥府の使者”及びそこから派生したゾンビは、特殊な能力を持ってこそいるが、あくまでも黴や茸の変種に過ぎず、その知能は決して高くない。
(だが、あの“冥府の使者”とゾンビどもは、明らかに他の個体と何かが違う)
(む)
(同意)
 二番の言葉が、ジークの懸念を代弁している。
 群れるはずのないゾンビ、人語を解するはずのない“冥府の使者”――それらに対する疑問は、まだジークの中で解決していない。そうでなくとも、“冥府の使者”の持つ危険性はオークや“巨猪(ヌラフ)とは比較にもならない。
(あの個体がまだ未知の能力を隠し持っている可能性は?)
(無視できないだろうな)
(同意)
 三番以下の分割思考全てが同意する。最大限に警戒すべき、というのがジークの意見であった。
「墓地が見えてきた」
 濃くなっていく夕闇の中、まだ遠くに見える墓地で、幾つもの人影が蠢く。ゾンビの群れだろう。向こう側にも戦況が伝わっているのか、幾らか動作が激しい。
 そしてその奥には、夕陽を背に受けて聳え立つ、禍々しい魔物の姿があった。
「ちっ、偉そうに陣取りやがって」
 狩人らしく、ヒューイもすぐに気付いたようだ。真っ直ぐに彼方を睨む目は、義憤と憎悪に燃えていた。老兵の死は、この男にも何かを齎していたようである。
「あ、あれが、死神……」
 他の討伐隊員達も、初めて目の当たりにした異形の魔物に闘志が揺らいだのか、口々に冥府の使者への恐怖を洩らす者も少なくない。
「ひょえー、あれが死神なんスか?」
 そんな最中、先導するジークの隣、ミュレの反対側にいたルーカス・カミューテルが落ち着かない様子で呟く。
(こいつ……)
 ジークは、僅かに眉を動かした。ルーカスの見せた感情は『恐怖』ではなく、『驚愕』だったのだ。
 この男が緊張しているのは言葉や態度からも明らかだが、動作はさほど縮こまっておらず、強い怯えは感じない。
(未知なる脅威への恐怖が、薄いのかもしれんな)
(可能性有)
 若さゆえの勇敢さからか、あるいは鈍さからか、ルーカスは自分が置かれている状況から、緊張以上の感情を抱いていない。
(既に覚悟を決めている、ということか)
 ジークが思い返したのは、姉の背後に立ち、緊張に満ちた表情でこちらの様子を窺っていたルーカスの姿だった。あの時の彼も、今と同じような心境だったのだろう。
(あの女にして、この弟ありか)
(……かもな)
 ルーカスの観察を中断し、ジークはもう一つの動きに目を向ける。
「うろたえるな! こちらには魔導師がいるんだ、恐れず、指示通りに戦えばいいだけのこと!」
 リグニア兵の一人が、他の討伐隊員に発破をかけていた。ジークの記憶が正しければ、この男は“冥府の使者”のことを説明する際に自分とレナイアに協力的な態度を見せた男達の一人であった。
「思い出せ! 俺達は、何のためにここへ来た!? 誰のためにここへ来た!?」
 男の発破が、彼らの心境にどのような影響を与えているのかは想像に難くなかった。個人差はあったが、徐々に彼らの表情に力強さが戻っていく。
 その様子に頷いたリグニア兵は、ジークのいる方に向けて片眼を瞑ってみせる。
「心配させてしまったかな、魔導師殿?」
「む、問題ない」
 本心だった。ジークは万が一にでも、討伐隊員から戦意が喪失してしまう可能性を考慮し、鼓舞の才能を持っている彼をこちらの部隊に加えるとレナイアに伝えておいたのだ。
「それよりお前は、あの連中を心配しておけ」
「ああ、任せろ」
 ジークが皮肉のつもりで告げた言葉にも、リグニア兵は胸を叩いて快諾する。
 ジークを含めた二十名弱からなる対『死神』部隊は、いよいよ“冥府の使者”が姿を現した墓地へと足を踏み入れる。あってないような柵を越えた途端、強烈な死臭が漂ってくる。
《ヒト……》
 そして、再び“冥府の使者”と遭遇する。
「では、任せるぞ」
「ああ」
「う、うっス!」
「旦那と俺の仲じゃないか。頼んでくれって」
 リグニア兵やルーカスとヒューイ、そしてジークの言葉が聞こえていた他の討伐隊員も、皆それぞれに応じる。
「……ん」
 当然、彼女も。
《ヒト、は……朽ち、よォぉおおぉ……!》
 “冥府の使者”が、耳障りな雄叫びを上げると、ゾンビの群れが動き出す。極めて不気味な会戦の合図であった。
「来るぞ! 気を抜くな!」
 というリグニア兵の号令の下、討伐隊員達は素早く陣形を整える。ルーカスとヒューイ、数人の弓兵はジークの背後に移動し、残りの討伐隊員達はジークの前面に立つ。徹頭徹尾、ジークの魔術を支援するためのものであった。
「時間なら、俺達がいくらでも稼いでやる。だからあんたは、あの死神を魔術ってやつでサクっと斃してくれよな?」
「む」
 例のリグニア兵の言葉に応じたジークは、傍らでこちらをじっと見上げる少女に呼びかける。
「ミュレ」
「ん」
 呼びかけに反応したミュレを引き寄せたジークは、彼女が理解できる程度の速さで淡々と告げていく。
「お前は、あの大きなものの所に、走って行く」
「ん」
「途中で、邪魔が出る」
「ん」
「それは、壊していい」
「ん」
「ただし、俺が『いい』と言うまで、触られるな」
「ん……」
 ジークの手が、ミュレの頬に触れる。滑らかな少女の肌は、秋の夕暮れの風を受けて冷たかった。
「ミュレ、これが、『触られる』ということだ。分かるな?」
「ん」
「これは、俺が『いい』というまで駄目だ。分かるか?」
「……ん」
 首肯。即座には行われず、間隔があった。
(飲み込んだな)
(む)
(同意)
(同意)
 形式だけのものではなく、確かに理解を示したミュレに、ジークは最後のまとめに入る。
「ミュレ、お前はあの、大きいものの所まで、走って行く。そして、俺が『いい』と言うまで、誰にも触られるな。分かったな?」
「ん」
 今度は即応した。ミュレの理解が追いつく限界まで程度を落とした内容だったのだ、これで指示が伝わっていなければ勝利は遠のく。
 試しに、ミュレの頭に手を伸ばしてみせた。指先が前髪に触れる直前に、ミュレはジークから跳び退いていた。二房の長大な三つ編みが、彼女に遅れて揺らめいた。
「む」
 いい、とは言わなかった。ジークには一度の確証で充分だったのである。
「ミュレ」
「ん」
 鋼を思わせる、冷たく硬質な声音には如何なる感情も加えず、ジークは淡々と、ただ一言命じた。
「――行け」
「ん」
 二房の、藍色の三つ編みを靡かせながら、ミュレは流星のように走り出した。
 ゾンビの群が崩れたのは、その直後だった。



(行ったな)
(肯定)
(視認済)
 ミュレの行動を見届け終えたジークには、予め不要と判断しておいた情報が一切届かなくなっていた。そのため、眼前で起こった出来事さえそう( 、、)だとは殆ど認識できず、影絵でも見るかのように曖昧なものとして映っている。
 ――でき得ることは、全て行った。
 切り札と呼べる戦力の損失を最低限に留め、その内の一人を鼓舞するための労力も厭わなかった。腸を掻き出すような心境で魔導師であることも明かし、魔術の使用に支障を来さないように伴う討伐隊員も厳選した。
 そして、あの少女にも。
(風向は依然南西。変化の兆候はあるが、非懸念事項であると言える)
(風量、風速、ともに基準値内)
(湿度計測中。――報告。湿度計測完了。基準値内)
(現状が魔術、“天嵐の戦斧( テンペスト・アッシュ)”の発動条件を全て満たしていることを確認。これより構築作業に移行?)
(……む)
 眼帯を手で覆いつつ頷き、ジークは分割思考に指示を下す。
(これより五番を主体に、三番、七番は証明を行う。四番は指定の通り円陣を構築する。二番と六番は必要に応じて補助を――以上だ)
(了承)
 二番以下の分割思考が実行に移ると、視界が急激に狭まる。眼帯によって死角となる箇所を補っていた四番が、新たに下した指示に沿って行動を開始した証拠である。
 ジークは、鋭すぎる隻眼を更に細め、自らの周囲に満ちる風――そしてそれをも包み込む、途轍もなく巨大な存在感を秘めた『力』感じ取る。
 言葉で表すなら、自身の魔力で『溝』を造り、そこに周囲に満ちている『力』を流れ込むようにする、といったところだろうか。
(魔力流入感知)
 その『溝』を通って、周囲に満ちていた『力』の極一部が自分の中へと入っていくのをジークは感じ取る。それは元々自分の中にあった『力』と入り混じり、『ジーク』という『器』を内側から突き破りかねないほどに充満する。
(魔力の急激な膨張感知。至急制御を要請)
(平行して、魔力の吸入を一時的に中断しろ)
(了承)
 分割思考が素早く危険を察知し、急速に膨れ上がった『力』の制御に取り掛かる。無秩序に膨張しかけた『力』に一定の方向を与え、循環させ続けることで膨張による圧力を軽減させた。
(これで暫くは大丈夫だろう。早く始めてくれ)
(分かっている)
 二番に言われるまでもなく、ジークの舌は、自らの内包する『主観的な現象』を再現すべく、非常にゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
『――連なりし父祖の名と、師オーディグニルの名において、我ジークが告げる』
 始式。魔術の開始を自身に呼び掛ける言葉。通常であれば省略することもできたが、今回は万全を期すべく声に出して行う。
『我が選ぶのは二つの色。天を彩る翠緑と金』
 属性の決定。自分が行使しようとしている魔術がどの属性によるものなのかを自身に告げる。
『一の色は風の色。東より生じるもの。北より生まれしものを行き渡らせるもの。果て無き縁を目指すもの。束縛されることのなきもの』
 属性の意味づけ。行使する魔術が属しているものを明確にするための行為である。
『二の色は雷の色。東と北にて混じり合ったもの。迸るもの。打ち砕くもの』
 そして、今回はもう一つ加える。それに伴い、分割思考の機能が一時的に低下したが、すぐに通常程度にまで回復する。
『風よ翔けよ。其の靴は刃を煌めかせ、千軍を立ち所に切り払わん』
 属性の方向づけ。その属性によって、自信が何をしようとしているのかを明確にする。
『雲よ集え。其の衣は雷を帯び、黄金の光持ちて万難を打ち払わん』
 こちらでも、同様に行う。これら一連の作業は魔術の実行に必要な、精神の統一と高揚とを目的とした自己暗示である。
『繰り返す。我が選ぶのは――』
 再度、前述の詠唱を繰り返す。目的の状態に到達するまでは、この作業が続く。
《ぐゥおおおッ!?》
 異形の咆哮が木霊しても、魔術の構築に心を砕くジークの意識には届かなかった。


 藍色の長い尾を引く矢が、魔物と触れ合う。最初の一塊は、何もできずに頭や胸を爆ぜさせ、無残に崩れた。
 彼女の右側から襲い来る新たな屍は、繊細な五指を束ねた貫手に頚部を貫かれた。
 前方から迫る三体は、先刻の貫いた手によって頭を一撃で粉砕され、彼女の行く手を阻むことすらも叶わない。
 背後から囲もうと追い縋った二体は悲惨なもので、彼女が旋風のように身を翻して放った回し蹴りによって、まとめて胴体を『刈り取られて』しまった。
 動きそのものは、極めて乱雑だった。技倆の冴えなど一切感じられぬ、力任せに引きちぎろうとするかのような動作である。
 ただそれだけの動作が、ヒトの屍を、かつては頑健な骨を強靭な筋肉で覆っていたモノを、陶器のように容易く壊し、引き裂き、砕いていく。彼女の通り過ぎた後には、原型さえ留めていないものまでが堆積していた
 この、眼前で繰り広げられる一方的かつ絶対的な『破壊』が異常極まりないものであるとは、ルーカス・カミューテルにも理解できた。
「おいおい、こんなのがあっていいのかって……」
 ヒューイが、誰にともなく呟いていた。
 その気持ちは分かる、とルーカスは心の中で同意していた。儚げな風貌の、華奢で女性そのものといった体つきの彼女が、これまでエタールを悩ませてきたという魔物達を瞬く間に駆逐していっているのだ。まともに考えればあり得ない光景だろう。他の討伐隊員達からも、少なからず動揺が伝わってくる。
 だが、ルーカスの内心ではこれとは別に、もう一つの動きがあった。
(おおっ、あの人数差を押し返しやがった。すげえ、ここであんな蹴りが……いぃ!? あんな強引に包囲を突破するのかよ!)
 今度は何を。次は。その次は。
 ミュレの拳が、手刀が、蹴りが閃く度に、ルーカスは目を瞠り、ゾンビが弾け飛ぶ度に拳を握り、窮地と思われる局面を易々と打破してみせた際には小さく喝采を上げもした。
 気が付けば、ルーカスの目はミュレの一挙一動に釘付けであった。
(すげぇ。よく分かんないけど、すごいっスよミュレさん!)
 語彙は貧弱だったが、それだけにルーカスの率直な感動と賞賛の感情が表れていた。
「っと、こーしちゃいらんねえって。あのお嬢ちゃんを援護しねえと」
 言うが早いが、ヒューイは素早く矢を放った。普段は狩人をしているというだけあって、その狙いをつける速さと精確さは並の弓使いにはない業があった。
「……っは!?」
 ここで漸く、ルーカスはミュレの躍動する様子を見入っていたことを自覚し、赤面する。
(お、俺って、もしかして今まで、ずっとミュレさんのことを……!?)
 今までが無自覚だっただけに、気恥ずかしさと、他の討伐隊員に対する申し訳なさが一斉に押し寄せてくる。耳の辺りまでが熱っぽくなり、掌も汗ばんでくる。
(バカ! 何やってんだよ俺!? 自分の役目を忘れたのかよ!?)
 自責の念は留まるところを知らず、ルーカスはヒューイの隣で頭を掻き毟った。
(くそ、こんなんじゃまた姉ちゃんに――)
 姉ちゃん、と述懐した途端、ルーカスの脳裏には姉の顔が浮かんでいた。その顔が今にも火を吐きそうなものになっているのは、いかにも彼らしい。
(そ、そうだよ、今はンなこと考えてる場合じゃない!)
 姉の存在で冷静さを取り戻したルーカスは、自分にできる範囲内で状況を把握しようとする。
 ゾンビ――ジークがそう呼んでいた人型の魔物は、彼女を一番の危険だと認めたらしい。先程まではこちらに向かっていた群までもが向きを変え、取り囲むように動き出している。ヒューイのように弓を使える討伐隊員達は、そうしたゾンビに最後方から矢を射掛けて彼女を支援している。
(よし、ここは俺も……!)
 と意気込んだ時、ルーカスはまたもや気付く。
(あ、でも俺の役目って)
 ちらりと、ルーカスは視線をジークに向けた。
 あの、何者をも近づけまいとしていた――と、姉が評していた――男が、こうして自分や他の傭兵やリグニア兵と一緒に行動している。自分達を信頼しているのかも怪しいが、彼もあの死神を斃すために自分の役割に徹しようとしているのは間違いないだろう。
 この男も、勝利のために。
(俺の、役目って……)
 前方に視線をやり、再びジークに戻し、また前方に。
 結局、そうした行為を三回ほど往復させたルーカスは、腐肉や汚液をものともせず、一直線に猛進するミュレを呆然と見守りつつ、ジークの警護をするしかなかった。


 ミュレには、全てが緩慢に動いているように見えていた。その中で彼女だけが、水中の魚のように俊敏で、縦横無尽の動きを見せていた。技も数も、そんな彼女の前では何の意味も成さない。
 ミュレには、指先一つでも触れれば打ち砕ける力があった。腐敗し、他の生物に侵食されて劣化している人間の死体など、布切れを裂くよりも容易く破壊できる。
 ミュレには、恐怖も迷いも存在しない。汚物に塗れた状態で、動き回る死体と戦うという、常人の、それも女であれば発狂するような状況、状態になっていたとしても、ジークに与えられた言葉のみを実行し続けることができた。
 常に何ものよりも強く、常に何ものよりも速くあり続けることができる( 、、、、、、、、、、、)――それがミュレの『強さ』の全てだった。
 だが、言い換えるならそれは、ヴィルやルーカス、セラのように、そしてミュレが傍にいたいと望んだ青年のように、迷いや恐怖を断ち切り、己を奮い立たせることで得た『人』の強さではなかった。淡々と、己の持つ能力を振るい続ける人形の、ただ振るわれる刀剣そのものの『強さ』だった。
 眼前に立つ最後の一体を叩き潰すと、ミュレの前には一体の魔物しか存在しなかった。
 あらゆる生物を喰らって増殖する、魔性の黴が巣食う骨、“冥府の使者”。
《ヒト……いや……?》
 その様子は、これまでとどこか違っていた。自らの分身と言えるゾンビらを次々と破壊していくミュレを前にしても、自身は彫像のように立ち尽くしていた。
《故郷……懐かシ、い……思い出ス……。我が……違う、が……じモノ……? だが、とても、狭い……》
 譫言のように稚拙なリグニア語を繰り返すのはこれまでと変わらなかったが、もし今の言葉をジークやレナイアが耳にしていれば、そこに混在する理性を見抜いていただろう。
《それ、が……侵略、打倒スべき……リグニア、裏切り……何故、何故――》
 “冥府の使者”が、歩み出た。やはり狂人の譫言のように《何故》と繰り返しながら、億劫そうな足取りでミュレへと向かっていく。
 ここでミュレの頭が、僅かに動いた。
 これは、触ろうとしている。
 ジークは、『さわられる』は『ない』と言っていた。
 だから、『さわられる』は『ない』にする。これは、『いい』。
 そして、これは『じゃま』ではないのか?
 『じゃま』は、『こわす』をしても『いい』。これもジークが言っていたこと。
 これが『じゃま』なのか、『じゃま』では『ない』なのか。
 ジークは、教えてくれていない。だから、分からない。
 ジークは、『さわられる』は『ない』と言っていた。これは間違いではない。
 『こわす』は、『ない』とも言っていない。
 なら、『さわられる』を『ない』にするためには、『こわす』をすればいい。
 逡巡――そう表現するには、あまりにも短い硬直を経て、ミュレは『飛んだ』。小さな足が踏みつけた地面は鋭く抉れ、宙へと舞い上がる少女の脚力を如実に物語る。
 地面を蹴った方と反対の脚は、小さく折り畳まれていた。ジークの教えをなぞる所作に無駄はなく、放たれる直前の矢のように力を溜め込んでいた。
 それが解放される時、
《ぐゥおおおッ!?》
 下穿きの裾から白い肌を覗かせる脚が、“冥府の使者”の左頬を狙い違わず蹴り飛ばしたのだった。
《お、おぉ――》
 ミュレの一撃は強烈の一言に尽きる。大した手間を要さずともゾンビを破壊できる彼女が、空中でとはいえ、『溜め』を付加したのだ。その蹴りは、彼女の何倍もの体重を有しているはずの魔物を薙ぎ倒し、荒れ果てた墓土に塗れさせた。蹴りが直撃した箇所には大きく罅が入り、その奥にある深い闇を垣間見せた。
《グっ、身を……破壊……は、カイ……侵略者……敵……!》
 だが、その直後に深緑の苔のようなものが頭骨の内側から溢れ出し、欠損した箇所とその周囲とを急速に覆っていく。応急的なものだとしても、瞠目に値する修復能力だった。
 死神を模した魔物は、ゆっくりと立ち上がった。赤い光を灯した眼窩の奥では、混濁した思考が猛烈な勢いで渦巻いている。
 遠くにある『身体』より、すぐ近くにある『身体』の方が急速に食われていた。それも、あちらこちらではない。一つの、塊になっている時にまとめて食われている。
 その『身体』を食っているものとは、いったい何なのか。魔物はその正体を突き止めようとする。
 その際に、あの何かが自分に似ている、と魔物は思った。自分と同じように、方々へ『身体』を伸ばしながら、自分の許へと向かってきたのか、と未だ鈍い頭で事態を理解しようとしていた。
 ならばつまり、この自分を喰おうというのか。
 真実はどうあれ、この、『喰う』という言葉が、再び継ぎ接ぎだらけの魔物の思考に加速を促し、一つの結論を齎した。
 自分の『身体』を食っていたのは、やはりこれ( 、、)だと。
《侵す者、朽ちよォおおお!!》
 “冥府の使者”は咆哮を上げると同時に、手にした大鎌を横薙ぎに振るった。ゾンビよりも上位の存在であるためか、その動作は素早いが、ジークには劣った。
 そんなものは、ミュレにとって『素早い』の範疇から外れている。鎌の刃が触れる直前に爆発的な瞬発力によって地を抉りながら前進し、“冥府の使者”の胸元に右拳を叩き込んだ。
《お、ご!?》
 一般的には、自重を支え続けなければならない分、脚力は腕力を上回っていると言われている。いかにミュレとはいえ、例外ではないだろう。
 だが、その脚力が前進に必要な推進力として使用された時、寸分の狂いもなく真っ直ぐに打ち込まれた時、その拳による一撃の威力は先刻の蹴りをも上回る。
 再び、そして今度は轟音とともに墓標を薙ぎ倒しながら仰向けになった“冥府の使者”。それとは対照的に、ミュレは殴りつけた反作用で死神と距離をとった上で着地する。この辺りの行為はジークの教育ではなく、偶然の産物であった。
《おぉ、おお……!?》
 吠えたり、譫言を洩らすことしかしなかった“冥府の使者”が、初めて『戸惑い』の色を声に滲ませる。ミュレの拳には、それだけの威力があったのだ。
 理解できない――魔物の濁った思考は、この言葉だけで表すことができた。
 この魔物にとって、殆どの生物とは自らを大きくしていくための糧でしかなかった。それゆえに、自らを『食う』存在――そう認識したミュレに対し、憎悪に等しい怒りを覚えた。喰らい尽くしてやりたい、という本能の命じるままに動き出した。
 だが、現実はどうだ? 喰らうはずの自身は泥土に塗れ、喰らわれるはずの向こうは自らの両足で地に立ち、こちらを見つめている。まるで、自分の攻撃などなかったかのようにそこにいる。
 未知のうねりが、魔物の奥深い場所から湧き上がってきていた。
 初めての事態だったのだ。あれが何か、分からない。だが、この分からない何かは、自分を『喰う』。食い続けている。それだけは事実だ。
《あ、お……》
 喰われるのは、駄目だ。自分は『喰う』のだ。喰わなくてはならないのだ。『喰う』には、喰われないようにするには、これを『喰う』しかない。
 喰わなくては。喰わなくては。喰わなくては。喰わなくては。喰わなければ――助からない。
 いつの間にか、“冥府の使者”の中にあった、許せないという怒りは、脅威を排除しなくてはならないという危機感へと変化していた。
 理性を持ち得ない黴の魔物にも、本能に基づく恐怖は存在していたのだ。
《お前は……朽ちよ、朽ちよ、朽ちよォおおぉおぉおぉぉぉぉおぉ!!》
 加速する衝動に突き動かされ、咆哮する異形の魔物を前にしても、ミュレは何ひとつ変わらなかった。魔物ですら持ち得た恐怖を欠損させた藍色の眼は、眠たげに半ば閉じている。


 ――見つからない。
 何故だ。あの方はいったい何処にいらっしゃるのだろう? 確かに、元々風のように捉えどころのない方だが、あの言動を鑑みれば、我々のうちの誰かになっている( 、、、、、)はずだが、それらしい人間が見当たらない。
 それにしても、今回は予想外の事態ばかりが起こる。あの行商人や魔導師ばかりか、まさか彼と正面から戦える者までいたとは。
 ……彼といえば、先ほどから彼の様子がおかしい。何故か彼の情報がこちらに伝わらなくなっている。そればかりか、こちらの言葉が届いている気配もない。
 まさか、彼が――いや、討伐隊の皆さんはまだ彼の生んだ魔物と戦っている。確かに彼は、まだ存在している。恐らく、彼女との戦闘に集中しているのだろう。それほどの脅威だと、彼も認識しているのだ。
 この様子だと、彼が痛手を受けるかもしれないという私の懸念が的中してしまったようだ。あの魔導師も、魔術を行使しようとしている。十中八九、彼に深手を負わせるものなのだろう。
 時間がない。これ以上あの者達を野放しにすることは、更なる被害に繋がると見ていいだろう。それは何としても未然に防がなくてはならない。あの方が何かしらの対策を講じていらっしゃる可能性も否定できないが、これは私めが授けられた任務。私が事態の収拾に努めるのは当然のことだ。私の心痛など、いや、そもそも私が最初から徹していれば、このような現状は回避できたはずだったのだ。
 こうした事態だけはどうしても避けたかったが、もはや後に退くわけにはいかない。私が、いや、私達が、必ず現状を収拾してみせよう。
 ごめんなさい、皆さん。


 ゾンビ達が急に別の場所に向かい始めている――そんな報告を受けたレナイアの表情は、一気に険しくなる。
「ど、どうしたんですか?」
「……下っ端が慌てる時ってのは上役に何かしら起きてるもんって決まってるさね。上下関係の厳しい連中なら、尚更のことね」
 つまり、とレナイアは結論を語る。
「ジーク達の方で、何かあったのかもしんないね」
「ジークさん……達に!?」
 途端に、セラの赤みを帯びた顔が蒼白になる。それが演技ではないことを、レナイアは熟知していた。彼女が他者に対して見せる優しさや思慮は、間違いなく本心である。
(ま、今回はそればっかりじゃないんだろうけどねぇ)
 僅かだが口元に笑みを刻みつつ、レナイアは彼女の不安を取り除こうとする。
「ま、あっちにゃルーカスもいるんだし、そうそう酷いことにゃならないだろうさ」
 彼女ら姉弟のことを知らない者が聞けば、何とも楽天的な言葉にしか聞こえなかっただろう。
 しかし、発言者がレナイア・カミューテルであり、聞き手がセラである現状なら、話は違ってくる。
 セラは、思慮深い女性である。レナイアも弟のルーカスを死地に置きながら、深く信用している態度を見せていれば、本当は心配なのを隠して気丈に振舞っているのだろう、と解釈し、気弱になっている自分を恥じて、奮い立たたせようとするはずである。
 案の定、セラは深呼吸を一つするだけで凛とした顔つきになり、「分かりました」と返してくれた。
「わたしも、信じます。ルーカス君のことも、その……じ、ジークさん達のことも」
「んん、ありがとうね」
 そう言ってレナイアが微笑んで見せると、セラも微笑みを返した。深い部分までは定かでないが、この様子なら作戦が終わるまでは持ち堪えるだろう。
「――セラ姉ちゃん! レニィ!」
「あン?」
 突然背後で聞こえた幼い声に、レナイアは怪訝な顔をした。
 ヴィルが声を張り上げたのだ。幼い顔を精一杯険しくして、短弓に矢を番える様は、彼女達に何かを伝えようとしているように見えた。
 傍らのセラが、そんな彼を気遣わしげに見ながら尋ねようとする。
「ぶ、ヴィル君?」
「気をつけて! 誰か――何か、来るよ!」
 ヴィルが言い直した直後、レナイア達が並ぶ旧市街入り口――その脇にある繁みが、激しい物音を立てた。
「――レナイアさん、下がって!」
 セラが、鋭い声を飛ばす。周囲に散らばっていたリグニア兵八人も慌ててこちらに駆け寄ると、警護対象である自分とヴィルから適度に距離をとり、菱形に近い陣形を作った。
 その間にも、周囲を見渡していたヴィルが方々を指差し、鋭く告げる。
「そこと――あそこ! 建物の方からも来るよ!」
 ヴィルの言葉が正しかったことは、すぐに証明された。
 繁みを突き破り、あるいは廃屋から飛び降りて現れたのは、白一色の仮面で顔を覆い隠した、不気味な四人の男達だった。仮面には呼吸のための穴も、覗き穴も空けられていない。
「こいつらが例の仮面男って奴らかい。まだいたんだねぇ」
 レナイアの表情は驚きの色を刷いていたが、声には余裕が感じ取れた。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃ――っああ!?」
 そうした彼女に危機感を促そうとしていたヴィルの言葉は、途中から悲鳴に変わる。森から飛び出した仮面の男が、リグニア兵の一人を斃したのだ。
「ほら!」
 と、またヴィルは緊迫した状況下にあることを説明しようとしているが、
「固まりな! ヘタに動くんじゃないよっ!」
 レナイアは、この時既に別のものを見ていた。
 彼女の目に映っているのは、いきり立って仮面の男に挑み、返り討ちにあったリグニア兵に向けられていた。セラを始めとする他の討伐隊員やヴィルが動揺している中、彼女は眉を僅かに逆立てただけであった。
「連中は素早い! 大立ち回りなんてバカな真似はやめて、全員で仕留めるんだよ!」
 頬を張り飛ばすような、目の覚めるような声をレナイアが発すると、どこか浮き足立っていたリグニア兵達が落ち着きを取り戻す。
 その間にも、二人のリグニア兵を屠った仮面の男が最接近してくる。他の連中も、猟犬のような敏捷さで真っ直ぐ距離を詰めてくる。
「ヴィル君、レナイアさんをお願い!」
「う、うん!」
 セラの気配が、凛とした、鋭いものに変わっていく。両手に把持する二本の短槍が、夕陽を受けて赤銅色に輝いた。
 直進する男の行く手に立ち、身構えるセラ。右手の短槍は順手、左手のものは逆手に把持している。
 仮面の男は、セラを容易く排除できる相手と判断したのか、迂回しようとはせずに一直線のまま向かってくる。
 金属音。男が何をしたのか、レナイアでは分からないほどに速く、鋭い一撃を、セラは左手に持った逆手の短槍で受け流すと、そこから相手の懐に入り込もうとする。こちらの方も鋭く、流れるような動作だった。
 しかし直後、男は逆手の短槍と交差した場所を支点として身を翻し、セラの背後に回り込んだ。常人ならば目の前から消えたように感じただろうその動作に、セラも更に身を反転させることで対応しようとしていた。
 そんな彼女を、男は単なる障害ではなく優先して斃すべき相手だと認識を改めたらしい男は、振り返りつつあるセラへと再び凶刃を振るう。
 またも、金属音。セラが右手の短槍を逆手に持ち替えて、ナイフを受け流そうとしているようだが、それでは男の左手にあったナイフは防ぎきれまい。
(やっぱり、もう一本持ってたのかい)
 セラも左手に短槍を把持しているが、彼女はまだ左半身を引いた状態にあり、対応は間に合いそうにない。
 刃が迫る。しかし、レナイアもセラも、絶望していない。
ありがとうございます( 、、、、、、、、、、)
 その言葉の直後、男は首から血を噴出して斃れる。血の噴出し方からして致命傷。まず助からない。
 止めを刺したのは、剣を振り切った姿勢で固まるリグニア兵である。セラの礼を受けてか、ぎこちなく笑っていた。
 彼の浮かべる表情の正体を、レナイアは既に見抜いていた。自分が真の功労者ではないことを理解しているが故の、謙遜である。
 最初に斃された仮面男の敗因は、一時でもセラを斃すことに集中してしまったことだろう。常態なら一対多を覆し得るほどの腕前を持っていたとしても、見ていなければ反応できまい。
(となると)
 レナイアは、もう一方の死闘にも目をやる。戦いは、まだ終わっていないのだ。
 左翼側はセラがいない分、ある程度人員を厚くしておいたが、やはりリグニア兵の練度では仮面男達の相手をするのは荷が重いようである。先刻のように一撃で斃されてはいないが、仮面男一人に対して二人掛りで苦戦しているのが現状であった。
(ったく、得手不得手があるっていっても、いつもながらに歯痒いもんだよ)
 こういう時、駆け引きに関しては口出しできても、実際に戦えない自分を忌まわしく思えて仕方ない。
 レナイア・カミューテルは、戦闘行為そのものについては全くの不得手である。激しい運動ができないことを考えれば、素人にも劣るかもしれない。
(かといって……)
 レナイアは、傍らの少年に目をやる。
(この子に頼るのも心苦しいからねぇ)
 弓を手に、戦う意思を示していたヴィルだったが、セラやリグニア兵が仮面男達と戦い始めると、驚いたり戸惑ったり騒いだりするばかりで、役に立っているとも、役に立ちそうとも言い難い状態である。
 見ていて、気分のいいものではなかった。
「無理しなくっていいよ。あんたにゃあんたにしかできない戦いもあるんだ」
「……ち、違う……っ」
 それとなく伝えてみると、ヴィルはそう返してくるものの、「じゃあ何だい」と訊いても言葉を濁すばかりだった。その姿は、意地を張る弟に重なる。
(この子も、そうなのかもね)
 真実はさておき、幼い子どもが肩肘を張っている姿を見るのをレナイアは好まない。だから緊張を解す意味も含めて、レナイアは何も言わずにヴィルの頭に手を乗せてやる。その寸前、ヴィルはひどく驚いたらしい表情を見せたが、言葉は飲み込んでしまったようだった。
(中々に強情っ張りだねぇ)
 間違いなく弟より、そして銀髪男ほどではないだろうが、複雑な思考を持つ少年にレナイアは苦笑を浮かべつつ、他のリグニア兵に指示と鼓舞を行う。


 ジークが不思議な言葉を呟き始めるのと、ミュレが死神を蹴り倒したのは、殆ど同時だった。
(本当に、何が起きてるんだろうな)
 どちらも、ルーカスには理解できない光景だった。
 ルーカスは、自分の頭脳が姉ほど優れていないことを自覚していた。だから彼は、自分から複雑な事柄を考えないようにしていた。それは賢い姉の役目で、自分の役目は、そんな彼女の力になることだった。
(まあ、やっぱりそれだけ凄いってことなんだろうな)
 ゆえにルーカスの感想は、常に率直であった。
《お前は……朽ちよ、朽ちよ、朽ちよォおおぉおぉおぉぉぉぉおぉ!!》
 死神が、再び吠える。聞くだけでも恐ろしいその声にルーカスの腕は粟立ったが、ミュレは全く動作を鈍らせることもなく、振るわれる大鎌を、死神の巨体をくぐり抜けて、時折あの強力な一撃を叩き込んでいるようだった。彼女の動きが速過ぎるので、ルーカスには死神の動作から推測するのが精一杯である。
 ゾンビ達が、標的をミュレに絞り、いよいよ殺到している。そればかりか、他の場所からも集まり出している。夕焼けに染まる旧市街の彼方から、不気味に蠢く人影が幾つも見えていた。ヒューイを含む弓使い達は、ミュレの援護を他の討伐隊員に任せて、新たに集まってくるゾンビに狙いを変更していた。廃屋の向こうからは、追撃に出ているであろう討伐隊員の声も聞こえてくる。
『――――』
 そして、そうした出来事など全く眼中になさそうなまま、ジークはずっと何かを呟き続けている。刃物のように冷たく、硬い横顔には、汗が浮かんでいた。
(……この人も、こんな顔するんだな)
 枝を燃やしてみせた時とは様子が違うのは、ルーカスにも分かった。この男は、あの時と比べて明らかに大きく、困難なことに取り組んでいる。呼吸をするように何でもこなしてしまいそうに見えていた男の、想像に反した苦悶の様子が、ルーカスに判断をさせた。
(きっと、それだけ凄い……あれ?)
 ふと、ルーカスの頭に疑問が生じた。
(そういえば、ミュレさんってどうなるんだろ?)
 ルーカスの想像する中では、ジークが使おうとしている『マジュツ』は巨大な“冥府の使者”を焼き尽くしていた。
当然、その威力は非常に高いことだろう。
 しかし、その非常に高い威力を持った『マジュツ』は、今まさにあの魔物と戦っているミュレをも巻き込んでしまうのではないだろうか?
(まさか、巻き添えにするつもりじゃないっスよ……ね?)
 横目でジークを見ながら、ルーカスは祈るような気持ちで思う。
 ジークが凄まじい実力の持ち主であることを、ルーカスは疑っていない。しかし、エタールの食堂でこの男が姉や自分に見せていた、全く他人を寄せ付けない態度が、彼への信頼へ踏み切らせないのだ。
(……ミュレさん)
 戦塵の向こうでは、依然としてミュレが死神の攻撃を躱し、翻弄するという状態が続いている。
 可憐に、そして果敢に戦う少女。そんな彼女の背中を見ているうちに湧き上がってきた、形にもできていない彼女への気持ち。口に出したい、口に出すのが憚られる気持ち。
(俺のワガママだとは、分かってるけど……)
 この気持ちを伝えられないまま彼女が死ぬのも、伝える前に自分が死ぬのも嫌だった。
 やるせない感情を抱え、ルーカスは視線を隣に戻す。
 ジークは、一個の像のように直立し、何語かも分からない言葉を呟き続けている。まるで、この場にいながら別の場所にもいるようであった。
(信じて、いいんスよね?)
 胸中の呟きに、当然返事があるはずもない。ルーカスなりに自分の胸中にある渦巻く感情を見つめつつ、目の前の情勢を読み取ろうとする。
 ルーカスがジークとミュレとのことで逡巡している間にも、状況は動き続けていた。
 町や森からは、ゾンビの群れがどんどん集まってくる。日が沈むにつれて、心なしか動きが活発になっている。
(あいつらが夜になるほど元気になるってのは、本当のことだったんだ)
 ゾンビどもはミュレを囲み、死神と一緒に彼女を追い詰めようとしている。
 そのゾンビの群れを追って、討伐隊もこの墓場に集結しようとしているらしい。遠くからは喚声が聞こえてくる。
(敵も味方も、みんなこっちに集まってきてる)
 近くで、また遠くで上がる怒号に、武器の振るわれる音。不気味な死神の雄叫びと、それに続く地面と肌を打つ轟音。墓地に満ちていた、鼻を衝く強烈な腐臭に混じる、血の臭い。
 決戦の気配が近づいている。討伐隊と魔物とによる戦いが、この混乱の極みにある墓地で終結しようとしているのだ。
「――ん?」
 背後から足音。走ってくる。速い。
 ルーカスが振り返ると、町の方から猛烈な勢いでこちらへと迫る影があった。
(伝令の人?)
 最初、ルーカスはそう思った。しかし、よく見ると様子がおかしいことに気付いた。
 走る姿は異様に低く、ナイフを腰だめに持って駆ける男の姿勢は、獲物を一呑みにせんと這い寄る蛇のようだった。
「いぃ!?」
 理解は追いついていないが、止めた方がいい――反射的に決断したルーカスは男へと向かって駆け出すと、慌てて男の進路上に身を挿み、ジークへの道を塞いだ。決して大柄ではないルーカスだが、身体を張って突進を止めようとする気迫は並々ならぬものがある。
 謎の襲撃者――既にルーカスはそう判断していた――は、己の進路上に割って入ったルーカスに標的を変更したらしい。蛇行するような足捌きでルーカスの真横に回りこむと、その右脇腹――致命傷を免れ得ない急所へと、ナイフを突き立てようとしてきた。
「こっ、の!」
 普通の人間ならば、反射的にナイフから身を引こうとするだろう。だが、ルーカスは更に襲撃者へ向かって踏み込み、突き出された腕を腋で固め、真正面から押し合う。力と力が拮抗する中で、ルーカスは相手の正体に驚愕する。
「あんたは……っぅお!?」
 膝から下の力が、唐突に消えた。押さえ込もうとする力を逆手に取られ、引き倒されたとルーカスが気付いたのは、顎をしたたかに打ちつけてからであった。
「なん、で……っ」
 顎をさすりつつ、既にルーカスの身体は立ち上がって彼を追っていた。進路を妨害した甲斐あって、男がジークに到達するまでまだ猶予がある。
 奇妙な紋様の入った仮面を被っているため最初は分からなかったが、その服装と横顔は、姉がグラントと呼んでいた、ナイフ使いの傭兵のものであった。
「そういう、ことなんスね」
 ルーカスの頭は、姉とは対照的に単純だった。単純ゆえに、選択は明確で、行動は一直線だった。
 理由はどうあれ、向かってくる者は斃さなくてはならない――そう決めたルーカスの、姉とは対照的に、どこか気の抜けた印象を与える目つきは、既に命を賭して戦う戦士のそれに変わっていた。
「敵が出たっス!」
 背中に背負った剣を抜き、ルーカスは討伐隊員と、隻眼の青年に告げる。
「その人は、俺がどーにかしてみせるっス!」
「気取んじゃねえって!」
 同じく気付いていたらしいヒューイが、番えていた矢の先をグラントに、言葉をルーカスに向ける。
俺達で( 、、、)、どうにかするんだって!」
 決意の言葉とともに放たれた矢が、疾走するグラントへと吸い込まれるように飛んでいく。このまま一直線に進んでは矢に当たると判断したのだろうか、グラントはナイフで矢を切り払いながら、右に左にと大きく蛇行していく。
 だが、それがルーカスにとって好転した。ヒューイがグラントの移動時間を稼いだことで、ルーカスが彼に追いつけたのである。
「行かせねっスよ!」
 グラントの背後から、大上段に構えた剣を振り下ろす。厚みのある刃は切れ味こそ鈍いが、落下速度と相俟って充分な殺傷力を誇る。
 空を裂き、唸る一撃。肉を裂き骨を砕く、重たい手応えがくるというルーカスの予想は、空振りという形で裏切られる。
「あ、あれ?」
「よく見ろ、後ろだって!」
 ヒューイの叱責が飛んでくる。慌てて身を翻すと、そこには既に一撃を見舞う動作に入る者の姿が――
「っ」
 思考はそこで投げ捨て、ルーカスは身体に『今、目の前で起きていること』だけに反応させる。そうでもしなければ、グラントの一撃は躱せない。
 体当たりのような姿勢からグラントがナイフを繰り出す。胴体を狙う一撃なのは、最初から分かっていた。ルーカスの眼には、彼の先刻の動作が焼きついている。
 身体は半身を切った状態にあり、正面から受け止めることは出来ない。このままだと右側面のどこかを――おそらく、高い確率で脇腹辺りを抉られることになる。
 止められないなら、止めさせない。
 振り向く勢いそのままに、ルーカスは地を蹴って背中から地面に倒れこむ。刃の先端が服の生地を切り裂き、僅かに皮膚をかすめると、ルーカスの肌は粟立った。
 グラントは、仰向けに倒れたルーカスを弱敵と判断したのだろうか。それ以上ルーカスには構おうとせず、不動のまま立ち尽くすジークへと向かう。
「っ、行かせないって――」
 その後ろを、何とか起き上がったルーカスが追う。
「言ってるんスよ!」
 侮られていることへの悔しさと怒りに身を任せ、大振りの一撃を放とうとも考えたが、それはしない。背後からの不意打ちでさえも躱してしまうような相手に、同じ手が通じるとは思えないのだ。
 立ち上がり、まだ剣の間合いにいるグラントへ放ったのは、腰から下だけの力を利用した、右に向かって直線を描く最短距離での一撃。しかし、グラントはまた寸前で左回りに翻し、ルーカスの必殺の間合いから離脱してしまう。
「くそぉ!」
 ルーカスは呻いた。自信はあったのだ。次こそは、と意気込んでいただけに、少年の落胆は彼の予想よりも強かった。
「掻き回されんなよ、しっかり追っかけろって!」
 ヒューイは動じない。ルーカスがグラントを仕留め損なう可能性も頭にあったからだ。信用していない、というのとはまた違う。確実に仕留めるために、いわば二段構えの作戦を取っていたのだ。この二つの事柄は、ヒューイの中では矛盾していない。
 ルーカスの一撃を躱すグラントの、動き始めの速さ、そこから予測される通過位置と、標的の停止する位置――それらが瞬時に頭の中で描かれていき、必殺の一矢を放つ瞬間を彼に教える。
(来る)
 呼吸を一定の間隔に整え、意識をグラントに収束させる。慣れ親しんだ行為であると同時に、軽侮を許さない儀式でもあった。
 どれほど俊敏な獣だろうと、決して捉えられないわけではない。必ずどこかで動作が止まる瞬間があり、動きの流れに逆らうこともできない。ヒューイはそれらを巧みに見抜き、その瞬間に合わせて矢を放つことができた。その業をもって、彼はエタール屈指の狩人として、また傭兵として広く耳目を集めていた。
 弓弦のように張り詰める心身――いや、もはや総身が弓そのものと一体化したように感じられる境地。ここに至れば、まず的を外すことはない。
 しかし、
(っくそ……!)
 ヒューイは放しかけた指先に再び力を込め直す。開放されかけた力を不自然な形で押さえ込もうとしたため、心身には必要以上の反動があった。集中力は乱れ、呼吸も不規則になる。
(野郎め、あの小僧を足止めするだけじゃなく、俺の方まで止めやがって)
 敵ながら迅速且つ冷静に判断していることに、ヒューイは矢を番え直しつつも舌打ちした。
 グラントは、ヒューイの位置に対し、常にルーカスを盾にできる位置へと動いている。密着した状態で、それも素早く入れ替わり立ち代り動き回る二人のうち、一人だけを正確に射抜くのは彼でも至難の業だった。
(かといって、他の連中にも頼めねえ)
 ヒューイは、周囲を見渡して舌打ちする。
 いつの間にか、他の討伐隊員も仮面を着けた男達と交戦していた。
(グラント以外にも、まだいたってのか)
 ヒューイが見たところ、数では討伐隊の方が上回っている。しかし、数で劣る仮面男達は素早く動き回って彼らを翻弄し、弓隊以外は全く役に立っていない。
(厄介な相手は自分が引き受け、それ以外を任せる、ってか……やるじゃないか)
 グラントと紋様なしの仮面男達との間柄など知らないが、よほどの信頼が互いになければこんな行動は出来ないはず。敵ながら見事な連携であると、ヒューイは素直に受け止めた。
 悲鳴が上がり、断末魔が続く。掻き回されている討伐隊。こちらの方が数に利があるとはいえ、相手は獣のように俊敏で、グラントほどではないが並べて練度も高い。ヒューイを含めた弓隊まで被害は及んでいないものの、討伐隊が劣勢を強いられている事実は動かない。ルーカスも依然としてグラントに振り回されている。
 他の仮面男達も討伐隊の足止めと無力化を狙っているらしく、すぐさまジークに到達することはなさそうだが、グラントはルーカスを盾にしながら確実に向かってきている。
(まずはグラントだ)
 ヒューイは決断する。敵が作戦の要であるジークを崩しにかかっているのは明白。やはり眼前の危機から排除しなくてはなるまい。
 肩越しに振り返る。他の弓隊員――リグニア正規軍の弓兵らは、自分達の周囲で目まぐるしく繰り広げられている攻防に気をとられており、戦いどころではなさそうであった。
(こいつらも要る)
 手遅れになる前に、彼らに協力を求めなくてはならない。
 ヒューイは、長と思われるリグニア兵を探す。集団を動かすのは、それに長けた者の役目だと考えていた。ヒューイは傭兵、雇われ者なのだ。そんな彼に、リグニア正規軍の兵士である彼らが耳を傾けるとは考えられない。
(……なんて泣き言、言ってらんねえって)
 思い立てばすぐさま行動に移す。ヒューイはまだ狼狽している弓隊に声を飛ばす。
「おいっ、あんたらも手伝ってくれって!」
 鋭い声は、矢のようにそれぞれの耳へと届く。弓兵全員が、驚いたような顔をしてヒューイを見た。
「まずはあの紋付きから斃す! それにはあんたらの助けが要るんだって!」
 リグニア弓兵達は、互いに顔を見合わせる。
 全員が頷くのに、時間はかからなかった。
「助かる!」
 礼とともに、ヒューイは彼らに求める内容を伝える。最低でも二人、場合によっては全員で、グラントを狙い撃つのだ。
「退け小僧!」
 そう叫ぶヒューイ、同時にグラントを狙う幾本もの矢。
 これには、グラントも堪えたようだ。ルーカスは既に彼から距離をとっており、先刻のように盾代わりとして利用できない。飛来する矢を切り払いながら、なおもグラントはじりじりと迫ってくる。敵ながら見上げた執念だと言えよう。
「――もらったぁ!」
 一人のリグニア兵が、グラントに挑みかかった。力任せで、大味な一撃。やめろって。ヒューイはそう言おうとしていた。ルーカスのように背後から狙うのなら兎も角、ほぼ正面から打ち掛かっても効き目はない。
 案の定、グラントは殆ど体を崩すことなく切り伏せていた。相手の動きを殺さず、自らの動作をそこに差し込んでいくという、高度な動きである。
 その様子が、弓隊の動きを鈍らせる。恐怖だ。グラントの刃にかかれば間違いなく落命するという恐怖が、彼らの心と身体を鈍らせるのだ。
「止まるな。狙えって!」
 ヒューイが叱咤するその間にも、グラントは距離を詰めてくる。目測で三――否、二十歩を切ろうとする。狙い撃てばまず外さない距離にも拘らず、矢を番えようとする者はヒューイの他に殆どいない。
 誰もが、先刻のリグニア兵のように呆気なく殺されることを恐れているのだ。ヒューイとて、例外ではない。
(それでも)
 やってやる――貫徹の意志を乗せた矢を、ヒューイは弓に番える。次の呼吸の瞬間にもグラントは到達し、自分の喉でも掻き切るだろう。
 距離は見る間に縮まり、冷たい刃は死の間合いに達しようとしていた。
 ヒューイの口角が上がる。それを見て、諦観だと受け取る者は、
「任せたぜ、小僧」
 一人として、いなかった。
 ルーカスが、絶叫とも咆哮ともつかぬ声を上げ、再びグラントを背後から狙う。構えは大上段。殺すか、殺されるかの一撃だった。
(おい)
 それにさえグラントは反応する。流石だった。完全に不意を衝いたはずだったのに、それでも反撃への体勢を半ば以上整えている。背中に眼があるとしか思えない反応の素早さ、鋭さにヒューイは舌を巻いた。
(こいつも“化け物”かよ)
 だが、勝った。ヒューイはそう確信する。ルーカスの一撃はまず間違いなくあの裏切り者を殺す。もしもルーカスが迎撃されたとしても、いずれヒューイの矢はグラントの背を、あるいは首を貫く。
 一瞬、だが間違いなく、ヒューイとルーカスの意識の全ては、グラントの動作に注がれた。
「止めろぉ――――――っ!!」
「「!?」」
 誰かが叫んだ。しかし、二人の意識がその言葉の意味を、起きている事態を理解できた時には、既に遅かった。
 ジークに向けて、町の方から矢が飛んで来るのが見えた。
(やられた)
 ヒューイは、自分の読みの甘さを思い知らされた。
 最初から、グラントは囮だったのだ。派手に動き回ることで討伐隊員らの注目を集め、機が熟すと同時に本命の、必殺の一矢をもって狙う。
 グラントが、首から血を噴いて地に伏した。それに構わず、ルーカスもヒューイもジークへと駆け寄る。
 間に合わない――培ってきた狩人の『眼』が、ヒューイに残酷な事実を知らせる。
 矢は、ヒューイ達の背後にあたる位置から放たれた。そこは先刻から絶えず風の吹いてくる位置であり、遠くの的をも狙える位置であった。グラントや他の仮面男の役目は、その位置から討伐隊員を引き離すことだったのだ。
 ジークは、動かない。グラント達との戦いがあったことも気付かぬ様子で、例の不思議な呟きを続けている。矢を躱すことなど、間違いなく不可能。
 全てが、緩慢になっていく。自身の動きも、矢の動きも、全ての流れが緩慢になっていく。その中で後悔と無力さへの怒りが際限なく膨れ上がる。
 届かないと知りながらも、ルーカスは駆けた。理屈も何もない。ただ心が命じるままに身体は動いた。
 その途中、誰かがジークと矢の間に割って入る。今日一日の間にずいぶんと見慣れた形の鎧。リグニア兵達の鎧だった。
リグニア兵士は、矢を手甲で払い落とそうとした。だがそれは失敗してしまい、矢は大きく手足を伸ばした状態の彼の身に突き立った。
「が……っ」
 短い声。苦痛の声。それ以上は上がらず、仰向けに倒れた。砂埃が舞い、風に吹き飛ばされていく。
「おっさん!?」
 ヒューイが叫んだ。
 グラントの狙いに気付いていたのか、偶然にも敵の弓使いを発見したためなのか――理由は兎も角、彼の兵士は二人よりも先に、ジークを護ろうと動いていたのだ。
 ルーカスが、先にたどり着く。足を止めたヒューイは矢を番え直すと、矢の飛来した方角へ向けて放った。
 矢は狙い違わず風を切り裂き、屋上に立ち、矢を番えようとしていた人影の頭を撃ち抜いた。ヒューイの狙い通りなら、眉間から矢を生やした男が、仰向けに崩れ落ちたはずである。
「しっかりするっス!」
 駆け寄っていたルーカスは、リグニア兵の傍に跪き、必死の形相で呼び掛ける。そこにヒューイも、遅れて加わった。
「おっさん、しっかりしろって!」
「か、か……」
 矢は革の鎧を貫いて胸にまで達しているのか、リグニア兵が呼吸をする度に口から血が噴き上がってくる。ヒューイは長年の経験から、既に彼が助からないと理解していた。
「か、彼は、無事、なのか……?」
「ああ、おっさんのお陰で助かったんだって!」
 そうか、と苦しそうに返して、リグニア兵は片目を閉じた。息も絶え絶えのはずなのに、茶目っ気たっぷりの表情を見せ、
「それ、は……よ――」
 そのまま、動かなくなった。最後のか細い一言は周囲の怒号によって掻き消され、ルーカスにも、ヒューイにも届かなかった。


 ジークの心の片隅には、焦燥の念が生じていた。
(まだ終わらんのか)
 作業は遅々として進まず、作業に集中させ続けている意識に揺らぎが生じそうになる。そこから少しでも気を抜くと、離れて戻りそうにない。
(報告)
 その最中、七番から気になる情報がもたらされる。
 何となくだが、大勢は伝わってきている。ただ、夢の中の出来事のような、現実味を伴わないものとしか感じられない。眼には映っているのだが、それを認識していないというのが、ジークの現状であった。
 それが、七番によって急速に現実のものとして輪郭を得た。
 先刻、作戦の妨害に現れていた仮面の男が、再び出現したのだという。状況は討伐隊側が圧されているらしい。頭数で勝っていたとしても、リグニア兵の練度では当然の事態だ。
『風よ翔けよ。其の靴は刃を煌めかせ、千軍を立ち所に切り払わん』
 しかし、それら実態を知っても、ジークは詠唱を続ける。舌が重く感じられ、一言一言を呟くのも億劫だったが、それしきで意志は折れない。
(もう、一歩も退けんからな)
 二番が、代弁するかのように呟いた。
 事実、現段階に至るまでの間に、魔力はもとより、気力、体力を費やしているのだ。もしここで魔術を中止すれば、再び“天嵐の戦斧”を行使するまでに一日以上の時間を要することになる。つまり、この場で“冥府の使者”を斃すことができなくなるのだ。
(それに、心配する必要はない……だろう?)
 と二番が語りかけてくる。人間と同じ面相を持っていれば、得心顔をしていたことだろう。
 下らん――普段ならばそう切り捨てただろうジークは、しかし二番の言葉を否定せず、詠唱を続ける。
 全ては、果たすべき目的――セネアリスへ至るための道程に過ぎず、それらへの私情を挿む必要はないと決めていた。死神を斃すのも道端の石ころを蹴飛ばすのも、その意味では大差ない。
 だが、唯一、魔術を使う時ばかりは例外だった。
 魔術とは、魔導師が内包する、『主観的な現象』を魔力によって再現する技術。
 魔力とは、肉体に行き渡る魂の力。すなわち、器を満たす水。その水を染める染料とは、精神という、その人間をその人間たらしめる、最も根源の色彩。
 つまり、魔術を行うに際し、行使する魔導師の性質、気性が大きく影響するのである。むしろ、それらの要素こそが、魔術を行使するための重大な鍵と言い換えることもできる。ゆえに魔術は、嘘偽りのない、純然たる自身の(さが )の発露とも考えられている。
 故にジークは、魔術“天嵐の戦斧”に求められる烈しさを、己の中から引っ張り出していた。
 本物の覚悟を見せた二人の傭兵。自分の魔術が魔物を斃すと信じて懸命に戦う討伐隊の連中。
 そして、自分の中へ踏み込もうとする二人の女。
(これ以上、余計なものを抱えるのは望まん)
 先へ進むための障害となるものは全て、ここで断ち切っていく。
『雲よ集え。其の衣は雷を帯び、黄金の光持ちて万難を打ち払わん』
 ほんの僅か、自分に許した真情の吐露を乗せて、ジークは詠唱を紡ぎ続ける。


 逸早く仮面男達の気配に気付いていたヴィルは、まだ森の中に一人残っていることを察していた。間違えようのない、意思とも呼べない冷たい意思を持った生き物の気配。それが番えられた矢のように、必殺の瞬間を狙っている。
(レニィだ……)
 その狙いが誰なのか、ヴィルは分かっていた。
 戦場で狙われるのは、要である。それが指揮官であったり、部隊であったりと、その時々によるが、要となっているものを崩せば勝敗は決する。ヴィルはそのように教わっていた。
 そして標的となっている彼女――レナイアに伝えようとするも、その冷たい気に中てられているヴィルは身動きすらままならず、蛇に睨まれた蛙のような状態になっていた。
(どうしよう)
 背後に感じられる危険な存在に、自分が追い詰められようとしていることを、ヴィルは悟っていた。表情が強張る中、眼だけでレナイアの様子を窺う。
 レナイアは、食い入るような目でセラ達の戦いを見ていて、時々何かしらの命令を出していた。森に残っている仮面男には、気付いていないのだろうか。
(……気付いて、ないのかも)
 隠れている仮面男は、『いる』ということは感じさせるが、それ以上の、『殺してやる』という意志までは感じ取れない。じっと何かを待つように、動かないでいる。
 レナイアが気付いていない可能性は、高い。
(ボクが、何とかしなきゃ……!)
 レナイアが戦局を見つめている間に、ヴィルはじりじりと、彼女を中心とした半円を描くように、右へ左へと移動した。
 その半円とは、仮面男――ヴィルの中では、既にそう決まっている――の攻撃を阻止できる位置である。
 怖い。戦いたくない。死にたくない。怖い。逃げたい。でも( 、、)
(本当に生きて帰るには、レニィを死なせちゃ駄目だ)
 大事なものが何なのか、見失ってはいけない。
 もし、ここで彼女が斃れても、実際に影響が出るまでには時間が掛かるはず。しかし、大事に護られているはずの彼女を仕留められる腕前を持った敵は、前線で戦っている人達の動きを確実に鈍らせることになる。それに彼女は作戦の要、皆に指示を出す役目を持っている。リグニアの兵士達がどのくらい鍛えられているのかは知らないが、やはり命令を出す人間がいなくなれば動揺するのは目に見えている。そうして崩れ、敗れた兵士や傭兵を、ヴィルは何度か見ていた。
 兎に角、敵の思うとおりにさせてはいけないのだ。
(だから、やるしかない)
 助かるために、命を賭ける――奇妙な言い回しだが、この言葉を胸に秘め、やがて現れるだろう仮面男を迎え撃とうと待ち受ける。


 状況は動いている。練度で劣っているとはいえ、頭数では上回っているのだ。それにセラも奮闘している。残る三人の仮面男が斃されるのも時間の問題だろう。
(だってのに……)
 レナイアは、左胸に手を当てる。先程から、どうにも不気味に脈打って仕方ない。
 仮面男達が手を抜いている様子は、ない。彼らから漂ってくる静かな殺意は、今も肌を焦がしている。
 にも拘らず、レナイアの直感は『目に見えない危機』に専念せよと訴えてくるのだ。釣り針に掛かりかけていることに気付いた魚の心境というのが、一番近いかもしれない。
「――っやあ!」
 右翼からの気合一声。セラのものだ。しかし、剣戟の音は減らない。仮面男との戦いは、まだ続いている。
 もう一方、左翼側でも、一人のリグニア兵が相討ちという形だが斃していた。これで仮面男は両翼に一人ずつの、合計二人となった。
決着( ケリ)がつくのも時間の問題だって思ってるんだけどねぇ……)
 それならば、この不安は何だ。自分は、いったい何に脅威を感じ取っているというのだ。勘違いはない。常に道を拓き、命を繋いできたのは、己の直感と弟の助けなのだ。
「奴さん達も腕は二本しかないんだ! 怖がってんじゃあないよ!」
 戦闘に指図をしつつ、レナイアは自分が感じ取っているもの( 、、)の正体にも目を凝らす。
 『目に見えない』というのは、『今、目の前にはない』ということ。ならばどこだ。『隠れている』ということなのか? 襲い来る脅威は、あの仮面男達だけではないのか。
(脅威……そうだ、ヴィル)
 違和感というのなら、傍らの少年である。先刻から見せていた行為は、目の前の仮面男から身を隠すというよりは、敵から自分を護ろうとしているかのような行為に見える。それに何より、思い詰めた表情の正体が、『目に見える脅威』ではないのなら。
(まさか)
 馬鹿げている、という考えは即座に捨てた。そう判断するのは、この少年が気付いた何かしらの事実を知ってからだ。
「ヴィル」
 レナイアが声を掛けると、ヴィルは驚いたような顔をする。やはり様子がおかしい。
「あんた、何か知ってるんだね」
 幾らか和らげた語調で尋ねる。返事はなかったが、ヴィルの見せる動揺が、明白に、雄弁に、物語っていた。
「そうなんだね」
 再び声をかけてみると、ヴィルも再び言葉ではなく、表情と態度とで肯定してしまう。
(あんた、隠し事がヘタなんだねぇ)
 場違いとは思いつつ、レナイアは口元に苦笑を刻みながら、目線を少年のそれに合わせた。
 ヴィルは、目を逸らそうとした。しかしレナイアは彼の頬に手をあて、それを阻む。
「教えとくれ。あんたは何に気付いてたんだい?」
 問い掛ける。ヴィルは動かない。言葉も表情も、今以上の動きを見せず、どう見ても怪しい。
 その中で、眼だけが、動いた。左に、いや、
(後ろ――)
 背後から歓声。最後の仮面男が斃されたのだ。
(――遠い)
 振り返ったレナイアの脳裏に、電光のような言葉が閃く。
 遠いというのは、自分達二人と討伐隊員との距離である。仮面男達の襲撃当初、討伐隊には散らばらないように指示を出していた。孤立したところを斃されないようにするためであり、自分やヴィルを護らせるためのものでもあった。
 それが今や、少しずつその輪を広げ、レニィとヴィルの周囲には大きな空間が生じつつあった。
 口より頭が、めまぐるしく動く。
 自分にさえ気付かれないように、引き離されていたのだ。両翼の討伐隊員はそれぞれの固まりごとに距離を空けられ、互いに援護をすることも難しくなっている。
「戻りな」
 可能な限りの声量で、早口で、叫んだ。セラと二人のリグニア兵が反応を示し、遅れて他の討伐隊がこちらに向かおうとする。
「レニィ!」
 ヴィルの声、そして森から聞こえる、微かな音。幾つもの言葉が、頭の中で駆ける。
 風ではない。獣――それも、鳥や栗鼠の類ではない。もっと大きなものの音。
(仮面男かい!?)
 振り返る。影。雲ではなかった。人間。手には刃と弓。顔には真っ白な仮面。
 ルーカス。咄嗟に浮かんだのは弟の名前。しかし弟はここにいない。背後から騒ぎ立てる声、足音、いずれも遠い。
 助けは、ない。
 躱さなくては。逃げなくては――頭は次々と命令してくるのだが、身体は鉛のように重たく、動かない。
 それでも、レナイアの表情に絶望の色はない。眼前に迫る、自分に死を齎そうとする者から目を逸らさず、真っ直ぐ睨みつける。
「どいてっ、レニィ!」
 衝撃。弓を構える少年の背。ヴィルだ。レナイアが尻から地面に倒れる寸前、矢を番えて仮面男へと射た。
 風を切る短い音に、仮面男が地面に落下する、重たい音が続いた。矢は仮面ごと額を貫いており、当然だが死んでいた。
 倒れこんだ姿勢のまま、思わず呆然としているレナイアに、ヴィルは得意げに首を傾げると、獲物を見せに来た猫のように言い放つ。
「ボクを甘く見ないでよねっ」
「……そうだねぇ」
 もう一度、今度は安堵の息を吐きながらレナイアが苦笑を浮かべていると、背後から慌しい足音が聞こえてくる。振り返ると、セラ達だった。
「レニィさん!?」
 真っ先に駆け寄ってきたセラが、頭を下げる。
「すみませんでした! もっと早くに気付くべきでした」
「いいよ。あたしは無事だったんだからさ」
 低頭するセラを宥めつつ立ち上がったレナイアは、「この子のお蔭でね」と言って恩人となった少年の頭に手を乗せる。ヴィルは口をとがらせていたが、満更でもない様子であった。
 その様子にセラも頬を緩ませていたが、すぐに引き締める。
「これで、終わったんでしょうか?」
「そうだと思いたいけど、油断できないねぇ」
 用心深く周囲を見渡すセラに応じると、レナイアはヴィルに目をやった。生意気にも頭巾の位置を整えながら、ヴィルは訊きたいことに答える。
「大丈夫だよ。近くにこいつらの仲間はいないみたい」
「んん、そうかい」
 息を吐き、レナイアはまたヴィルの頭を撫でようとする。ヴィルは「もういいってば!」と言って大袈裟に飛び退いて、討伐隊員に笑みを作らせた。
 周囲で生じた笑い声にヴィルは膨れっ面を作ると、自分が仕留めた仮面男の方に視線を逸らした。
「……ねえ、この人達って、誰だったのかな?」
 話題を逸らす目的もあったのかもしれないが、この疑問に乗じる者は多かった。
「確かに、ちょいと気になる連中だよねぇ」
 無論、レナイアもその一人である。
 兎に角、この仮面男達は謎が多すぎる。
 全員が軽装に真っ白な仮面という出で立ち。賊にしては妙に高い練度の秘密。何故かゾンビが徘徊しているこの旧市街にいること。ゾンビを殲滅しに来た討伐隊を、しかも最初は無差別にではなく、作業班だけを狙った理由。 
 これらの疑問が、仮面男の素顔を暴くことで明らかになるのかもしれない――そうした討伐隊員の期待が、レナイアにはよく読み取れた。
「では、私が」
 リグニア兵の一人が、仮面を剥がすと名乗り出る。依頼主である領主へ報告に使うため、慎重に行うよう指示を出してから、レナイアは実行させる。
 周囲を見張らせつつ、そのリグニア兵はゆっくりと仮面を引き剥がす。ヴィルの矢は仮面を貫き、左眼まで達していたらしく、リグニア兵は抜くのに梃子摺っていたが、遂に仮面男の正体が明らかになる。
 高まっていた好奇心は、男の素顔が明らかになった直後、急速に冷めた。
 痩せこけた頬に丸鼻、落ち窪んだ眼はヴィルの矢によって片方が潰され、残りは不気味に濁っていた。
 露わになった素顔は、裏路地を探せば一人はいるような、取るに足らない面相であった。
 他の連中の仮面も剥いでみたが、結果は似たようなものであった。レナイアは露骨に残念そうな顔をした。
「なんだい、期待させといた割にゃ大したことないんだねぇ。もっと不気味で恐ろしい奴かと思ってたよ」
「確かに、拍子抜けする面相ですな」
 リグニア兵の一人が、苦笑しながら相槌を打ち、仲間達に「こいつらに見覚えのある奴はいるか?」と声を掛ける。
 結果は、全員心当たりなし。現在のエタールで知られた賊の類、というわけではないようだ。
 念には念をと、仮面男達の身に着けていた品も調べてみることにした。身元を知るための手がかりになりそうな品でも出てくることを期待したが、案の定、それらしいものは一つとしてなかった。
 素顔を暴かれた仮面男達を不気味そうに見下ろしながら、セラが小声で呟いた。
「……いったい、何者なんでしょうか」
 それは、この場にいる者達全員の疑問であった。しかし、レナイアはそれに留まらなかった。
「それも気になるけど……やっぱり変だねぇ」
 五人の仮面男を見渡したレナイアは、疑念を多分に含んだ声で呟いた。
「この連中、さっきは全員とも同じに見えてたんだけどね」
「あ、わたしもです」
 これには、同意する声が多く挙がった。リグニア兵の一人などは、「全員が一つ所で仕込まれていたのでしょうか?」と発言する。
「いや、ちょいと違うだろうね」
 レナイア以外の全員が、彼女に視線を集めた。
「あたしもそいつは考えたさ。だけどこいつらはもっと深いところまで同じに見えるんだよ」
「深いところ?」
 話を聞いている者達が、一様に首を傾げる。そこでレナイアは、五人が見せた足の運び方や身の引き方、武器を持つ際の微妙な加減までを並べ、全員が全く同じだったことを語る。各々、得心顔になったり首を傾げたりしていたが、何かしらの反応を示していることを確認して、先に進める。
「同じ恰好に道具、同じ型の技や動きなのは、こいつらが皆一つの場所で仕込まれてるってので説明できるだろうさね。でも細かい癖まで全く同じってのは、おかしいって思わないかい?」
「確かに……術理としての動作であれば、同じであることにも納得できますが、そのような個々人程度の細かい箇所までというのは、奇妙ですな」
 リグニア兵達は、レナイアの説明に納得を示した。曲がりなりにも王国正規軍として訓練を受けているだけのことはある。
 一方、セラは首を傾げつつ頷き、ヴィルは頭を捻りながら訊き返してきた。
「実は、みんな兄弟だったとか?」
 レナイアの言葉に頷く者が多い中での意見だったが、これに同意する者もいた。「面白いと思うけど」とレナイアは前置きをしてから否定する。
「背格好や顔立ちが違い過ぎるよ。それに兄弟なら身ごなしも全く同じってことにはなんないはずさ」
 と、兄弟説の可能性が低いと語られたヴィルは、またもや口をとがらせる。
「ちぇっ、違うんだぁ」
「まあまあ、そう不貞腐れんじゃないよ」
 ヴィルが不服そうな顔をしているのに気付いたレナイアは、彼の頭に右手を置き、親指だけを折り曲げた左手を彼らに示した。
「分かったことは四つ。仮面男達が何らかの集団であること。そしてその中の、閉鎖的な環境で訓練を受けていた可能性が高いこと。他にはつい最近、具体的には一ヶ月ぐらい前から連中がここに来てたってこと、と連中がゾンビの発生に関係あるかもしれない――ってことかね」
「そ、それは……」
「これから説明するさ。手短にね」
 発言を予測していたレナイアは、口髭を蓄えたリグニア兵を遮ると、まず薬指と小指を曲げる。
「最初の二つはさっきも言ったように、気味が悪いくらいに連中の動きが似てるってことからの推測さね。あれだけ全く同じになるには、それ相応の型がいる」
 続けてレナイアは、人差し指と中指を曲げ、薬指と小指を伸ばす。
「で、残る二つが肝心なんだけどね、こいつらの着てる服が怪しいんだよ」
「服?」
 何人かが、口を揃えて問い返してくる。
「こいつらの服装、エタールより西じゃ見かけなかったから、それ以外の所から来たのは間違いないだろうさ。でもって、布に出来てる綻びや裂け目が草臥れて出来たものばっかりで、戦いとかで出来る痛みや汚れなんかがないってことは、山ン中を無理に通ったり獣や魔物と戦ってたってわけじゃないみたいだね。手直しした様子もない。てことは、連中がここに来たのはそう昔のことじゃあない。ここに来た時期をごまかそうとして、別の服を用意してたのかもしれないけど、わざわざそんなことをしなくちゃなんない理由ってぇのも考え辛いしねぇ」
 手短、と前置きをしておきながら長々と語ったレナイアは、「そいつを怪しいと言わずして、何が怪しいってんだい」と一旦言葉を結んだ。
「ま、ままっ、待って下さい。それで、それでは、あのぅ、まさか……」
「んん?」
 口髭のリグニア兵が、落ち着きのない口調で尋ねてきた。ひどく汗を掻いており、消耗した様子である。
「この者達と、ま、魔物が……死神や、ゾンビが、ここ、この旧市街に現れた時期は、そんなに違わないと、そうお考えなのですか?」
 随分と丸い表現を用いたようだが、レナイアはそれを端的に言い直す。
「連中が死神を飼い慣らしてる可能性は――あるだろうね」
 最後の言葉を紡ぐ直前、レナイアは周囲の空気が一変したことを察していた。
(やっぱり、気付いてる奴もいたんだねぇ)
 レナイアが頷きながら討伐隊員らの様子を確かめている中、セラは気付いていなかったらしく、ひどく落ち着かない様子で「に、人間が、魔物を?」と尋ねてくる。
 肩をすくめたレナイアは「考えられない話じゃあないさ」と返した。
「ゾンビが出始めた時期は仮面男達がここに来たかもしれない時期に重なってるし、魔物を斃すための用意を潰そうとしてる連中だよ? やってることが魔物の利害と一致してなきゃおかしいんだよ。そうでなくっても、何の理由もなく魔物の棲み処に隠れるなんて危険な真似はしないはずさね。よっぽどの死にたがりでなきゃ、よっぽどの自信があるってことになるだろうさ」
「そ、その自信、自信というのが――」
「伝令! 伝令!」
 図らずも口髭のリグニア兵の質問を遮って、リグニア兵が駆けてきた。ジークやルーカスと一緒に死神のいる墓地へと向かった一人である。どう見ても、『何かあった』という顔をしていた。
「どうしたってんだい?」
 周囲に緊張感が漂い始める中、レナイアが報告を促すと、リグニア兵は肩で呼吸をしながら告げる。
「仮面の者達が、魔導師殿を狙って襲い掛かってきました」
「ジークさんを!?」
 真っ先に叫んだセラを筆頭に、他の討伐隊員もどよめいた。望ましくない反応である。
「静かにしな!」
 危険な段階に達する前に素早く一喝し、彼らの動揺を打ち消した。不安は残るが、これ以上言葉を重ねる前に彼らは目に見える落ち着きを取り戻していた。
 ただ、肝心のセラはまだ立ち直っていなかった。自分の唇に指の第一関節を触れさせ、視線は宙を彷徨い始めている。危険な兆候だった。彼女の迷いを断ち切る強さは、気持ちの弱さに根ざしているのである。
 セラが彼女自身の不安で潰れてしまうよりも先に、実態を把握する必要がある。そう悟ったレナイアは「それで、どうなったんだい?」とリグニア兵にジークの安否を含めた事の顛末を問う。
 彼によれば、リグニア兵が数人斃されたものの、ジークは無事であったという。セラは隠しているつもりなのだろうが、安堵しているのが感じ取れた。そのことも含め、レナイアもジークの生存に安堵した。
「それと……」
 リグニア兵が、不意に表情を曇らせた。声を大にして言いたくない、ということなのだろう。耳を寄せ、小声での報告を受けたレナイアは、僅かに目を瞠った。
 グラントが、仮面男の側にいたというのである。
「間違いないんだろうね?」
「ヒューイ殿と弟君が、討ち取りました」
 リグニア兵も、信じたくない、という顔をして首肯する。
それは、レナイアも同じだった。この状況下で、新たな問題が――それも、討伐隊の内部に仮面男の仲間がいた、などという大問題が発生したのだ。
 更に声量を落とし、小声で確認する。
(他の連中には?)
(……まだ、報告していません)
 それが本当なら、ひとまず混乱が広がることはないだろう。もしそうなれば、仲間内で疑念が湧き、討伐隊員は内側からひび割れていくことになる。元々は急造の一団であり、グラントが傭兵であることを考えれば、特にリグニア兵の傭兵に対する疑いが強まる。
 下手すれば、このレナイア・カミューテルまでもが疑いを被りかねない。
(それが極論だとしても、内側に敵を抱える、ってのは予想外だったねぇ)
 ご苦労さん、とリグニア兵に伝える頃には、レナイアの頭はそこまで考えていた。
 以前にも内部に敵を抱えたまま戦ったことがあったが、敵の存在が極めて不透明であることや炙り出している余裕がないことなどを考えると、状況はあの時よりも更に厳しいと言える。
(悔しいけど、腹に『虫』を抱えたまま、戦うしかないね)
 そう決断すると、頭は次の行動を考え、口はそれを出していた。
「他の連中ンとこへ合流するよ」
 唐突な発言ということもあってか、これには意見する者もいたが、レナイアは折れない。粘り強く、彼らに語りかける。
 仮面男達が、まだ諦めていないというのなら、乱戦の方が好都合だと言えるだろう。だが、連中がどさくさにまぎれて襲ってくる危険性と、現状の戦力のままでいることの危険性は天秤にかけられるのだ。
 そしてそれだけではない。レナイアにはもう一つ、天秤を傾かせる理由があった。
 自分を狙いやすい状況を敢えて作り、仮面男とその協力者を、炙り出そうとしているのだ。
「連中はもう一度しくじってんだ、二度目はもっと力入れてやってくるはずさ。そんな時に討伐隊全員の動きが見辛いと困るんだよ。分かんないままってのが一番怖いからね。で、どうせ何かされるかもしんないならさ、あたしらに都合よく転がした方がいいと思わないかい?」
 反対に、仮面男達が警戒し、手を出してこないのならば、それはそれで儲けものというものである。こちらは筋書きを多少書き換えつつ、実行するだけでいい。相手方によほどの奇策がない限り、主導権はこちらにあるはずだ。
 レナイアが言葉を重ねるごとに、周囲から声が減っていく。
(向こうへ行けば、敵も味方もいる)
 そして、弟も。
「このまま留まって連中の動きを待つってのも一つの道さ。でも動けばあいつらは動くしかなくなる。動くのを待つか、自分から動かさせるのか――あたしなら、後者を選ぶよ」
 全てを見下ろし、損得を比べたレナイアの、迷いのない言葉に異を唱える者は、一人もいない。すぐに健脚の者が二名選ばれ、彼らを伝令として送り出した後、自分達も動き出す。
「時間がないねぇ」
 左右にリグニア兵、前後にセラとヴィルを伴って走り出したレナイアは、山の端に達する夕陽を見上げて静かに呟いた。


 仮面男達とグラントに対する疑問が、レナイアの中でどんどん大きくなっていた。
 グラントについては、知っているつもりだった。彼と老兵のジョージ、狩人でもあるヒューイ、流れ者の女傭兵セラ、そしてジークの五人は、他ならぬ自分が声を掛けて誘ったのである。
 見立てでは、抜きん出た技量と、迷いを持たない、冷たい強さを感じ取れた。領主の依頼という名目には拘泥せず、最初から報酬にのみ執着を見せていた。浅ましい、というよりは割り切っているのだろう、とレナイアは判断していた。
 そのグラントが、仮面男としてどのように戦ったのかは知らないが、グラントが仮面男達の指揮を執っていたとは思えない。
 仮面男達の行動は、奇妙なぐらいに迅速だった。そのくせ、狙ったのは焼き討ちに必要な人員ばかりで、傭兵達への被害も小さかった。
 そして、今回は自分やジークといった、作戦の要と言える者を狙ってきた。徹頭徹尾、危険を冒してでも最小の犠牲で作戦を断念させようとしている。戦闘による犠牲を抑える、という点だけで見れば、合理的とは言えるだろう。
 しかし、仮に討伐隊員が思惑通り逃げ帰ったとして、彼らに自分達の存在を漏らされる危険性について、仮面男達ほどの人間が考慮しなかったのだろうか。
 していると考えた場合、今のレナイアに挙げられる理由は、四つあった。
 討伐隊を殲滅させるだけの頭数、実力まではなかった。
 正体を知られることよりも優先することがあった。
 万が一、討伐隊が増援を伴ってきたとしても、撃退できる自信があった。
 隠す必要など最初からなく、むしろ死神や自分達の存在を知らしめたかった。
 一つ目の可能性は、違うと思った。もし自分が彼らの立場なら、『勝利』を得られない状況なら下手に仕掛けず、旧市街を捨てて速やかに逃げることを選ぶ。それをしなかったということは、連中には敵の力量を推し量る能力がなかったのか、もしくは――と考えて、浮かんだのが二つ目である。
 数を恃みとする戦い方をしなかったことから、仮面男達はかなりの確率で少人数しかいない。それでも彼らか、あるいは彼らを束ねる者は、この旧市街に秘密を抱え込んでいる。妨害をし始めたことが、それを裏付けている。
 そして、あのような苦しい行動に出たことにより、自分達に余裕がないことも曝け出してしまった――ように思える。
(いくら何でも、詰めが甘過ぎるね)
 しかし、仕込みにしては露骨過ぎる。それが、レナイアの判断を鈍らせていた。
 抱えている秘密とは、間違いなく死神のことだろう。
 そこで、逆転の発想ということで思いついたのが四つ目であった。このエタール旧市街は山奥にあり、そうした目的には適していないように思えるが、現在のエタールはリグニアの東西とそこに隣接する国々とを繋ぐ交易都市なのだ。行き交う人間と情報の多さはリグニア王都にも匹敵するだろう。
 つまり、討伐隊を敢えて旧市街に引き込み、そこで死神や自分達の姿を見せてから逃げ帰らせ、交易都市エタールから他の土地に広めさせようとしているのでは、と考えてみたのである。
 だが、目的がそれだとしたなら、何故このようなまどろっこしい手段を選んだのか。
 噛み合わない。動いている者と動かしている者とが、全く噛み合っていない。集団として統一されている、という点なら、以前戦った山賊達の方が優れていた。全員の動きに( かしら)の意思が感じ取れた。本当に優れた集団は、頭と手足の関係のように動けるのだと考えさせられる動きをしていた。
(それが分かるから、見えてくるんだよ)
 仮面男を動かしているのは、性根の優しい人間。血を見ることを嫌い、そのせいで自ら情報を曝け出してしまうぐらい戦いに通じていない。そして恐らく、自ら戦った経験もない。
 そんな人間が仮面男達のような連中をどうして束ねているのか、という考えもある。だが、そうでなければ目の前の出来事に説明がつかない。それに、そうした者であるからグラントが戦いについての助言していたという可能性もある。
(でも、実際にはそうじゃあなかった)
 彼らの腕前と冷酷さなら、もっとえげつない手段をとったはずだろう。それこそ、旧市街に立ち入らせず、夜明け前に討伐隊を潰走させることも出来ただろう。
(一度はあたしらに情けをかけて、それで危険を悟ってなりふり構ってられなくなった甘ちゃん――ってとこかね)
 過小評価しているつもりはなかった。目の前の事象を拾い集めていくと、レナイアの目にはそうした人物の姿が浮かぶのだ。
 そいつは今どこにいる。もう逃げたか、それともまだか。
(たぶん、まだ奴はあたしらの中にいる)
 木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中、ということである。人間が住めるはずのない今の旧市街で人間による最大の集団は討伐隊なのだ。
 今もどこかで、そいつは――まだ生き残りがいるなら――仮面男達や死神を操っている。
(本当に警戒しなくちゃなんないのは、そいつだね)
 近付きつつある喊声を耳にしながら、レナイアは自分達の戦いが迎えるだろう結末を描き始めていた。


 “冥府の使者”は、二つの致命的な失敗をしていた。
 敵はミュレだけだと認識してしまったこと、そのミュレに対して真正面から戦いを挑んでしまっていることである。
 ミュレは、ただジークから与えられた『邪魔する者は壊せ』という命令に従い、自分に向かってくる“冥府の使者”を迎撃しているに過ぎない。
 つまり、“冥府の使者”が採るべき選択とはミュレと戦うことではなく、他の人間――特にジークを優先的に潰すことだったのだ。
 しかし、再び意識の混濁している魔物に、ましてや未曾有の危機に直面している現時点では、そのような判断などできようはずもない。目の前にある脅威をひたすらに恐れ、怯え、必死になって叩き潰そうとし、その度に強烈な反撃を喰らう――その繰り返しであった。
《朽ちよ! 朽ちよ! 朽ちよォおおおォ!》
 狂人のように幾度も吠えながら“冥府の使者”は鎌を振り回し、その度に叩き伏せられ、蹴倒された。
 まだ漠然とした感覚しか持たなかったが、『身体』が削り取られ続けていることを魔物は理解していた。押し負ける、という言葉は知らなかったが、目の前にいる『巨大な存在』が自分を押し包もうとしていることは分かっている。
 奇妙なことに、離れた所にある『身体』は食えるのに、目の前にある『巨大な存在』そのものは食うことができずに、すり抜けてしまう。逆に相手は、こちらの『本体』を確実に食っている。
 おかしい。おかしい何故だ。おかしい。分からない――
 混濁し混乱を極め、ただでさえ正常に機能していなかった思考能力は低下の一途を辿り、もはや錯乱状態にある“冥府の使者”は、眼前の少女一人に、即ち敵の『本体』に全ての能力を注ぎ込んでしまっていた。
 だが、生物の肉体を触媒に自らの分身を生み出す能力も、体内に入り込めば即座に生命を奪い得る『本体』の猛毒も、ミュレには意味を成さない。端的に言えば、相性が悪いのだ。
 これらの能力は、通常、生物であるなら無差別に作用し、絶大な効果を発揮する。魔物の骨に巣食う黴は傷口などを通じて生物の体内に侵入すると、体液の循環を利用して毒素を巡らせて死亡させ、更にその死体を食料と移動手段を兼ねるものとして使うことができる。
 だが、この黴にも欠点はあった。血の温度で活発になり、生物を内側から食い殺すという驚異的な黴も、体表に触れただけでは効果が薄いのだ。傷口か、最低でも眼や鼻、口などから入り込む必要がある。
 その入り込む余地すら、ミュレからは得られずにいた。
 柔らかな肌は一度として魔物の爪や歯を触れさせず、幾度となく体液や肉片を浴びてせも肝心の黴は唇さえ侵す前に、風より速く駆ける少女によって吹き散らされてしまった。
 死神は全力であるが故にそれさえも気付けず、これまでに追い詰めてきた人間と同じように、ただ溺れた鼠のように、必死になってもがいていた。
《侵す者……与す……解せぬ、解せぬゥ……我、貴……侵す者……敵、それが……解せぬ……我は、敵……刃を……揃え、朽ち、よ……》
 混乱が深まっているのだろう、その言動はますます不可解さを増していき、もはや“冥府の使者”自身でさえ、その言葉がどこから出てきているのかも理解していない。
『――来たれ――』
 戦塵の向こう、人間達の集まりの中で、強大な力が生まれようとしていることにも、気付かず。


 彼らまでもが、敗北した。その事実は、瞬く間に伝わってくる。……その場面の一つを、私は目の当たりにしていたのだから。
 それは即ち、魔導師も女商人もまだ生きていて、彼を斃すための作戦を続けているということで、詰まるところ、彼らの命を賭した行為が、無駄に終わってしまったということである。
 悔しさより、申し訳なさが先立つ。このような人間の指示に従わなければ、彼らも優れた結果を出せたろうに。
 ――などと、自嘲している場合ではない。未だにあの方を見付けられず、彼が“化け物”じみた力を振るう少女に全力を傾注している現状では、あれが我々に出来得る最後の手段だったのである。それが防がれてしまい、あまつさえ彼らをも失った今、残された手段は一つ。
 自ら、死を覚悟して臨むこと。
 今日一日だけで、幾つもの失態を重ねてしまっているのだ。末席を汚しているに過ぎないこの身になど、あの方々が赦しを与えるはずもあるまい。
 彼らを退けた腕前は認めよう。だが、この私とて、身命を賭して挑めば、抗う術のない、者達を――
 ……斃せる、のだろうか。
 与えられたこの力を以ってすれば、誰にも違和感を持たれないまま行動できる。たとえ衆人環視の中で人を殺めようと、誰にも、殺される当人にさえ、傷を負う瞬間まで気付けないという。
 たったの一度、腹でも首でもいい、その辺りに刃先を差し込めば、全てが終わる。戦いの知識も業も必要ない。自分はただ歩み寄り、握手をするように刃を突き出せばいいのだ。魔導師も女商人も、それで死ぬ。その後は、再び集団に紛れ込んでしまえば、犯人が分からないまま作戦は頓挫し、討伐隊員は諦めてエタールに帰るだろう。
 彼らを退けた少年も、彼と戦う少女も――
 ……何を考えている。何を躊躇っている。
 彼ら、彼女らにも帰る場所が、護るべき者があったのだとしても、自分と同じく、大切なものを持っているのだとしても、私がそれを奪わなくてはならないのだ。自分が好かれと思って行った策が、結果として犠牲者を多くしてしまったのだ。その責を果たすためにも、必ずこの手で仕留めなくてはならない。そうでなければ、私があの方々に殺されてしまうかも、いや、確実に殺される。
 それだけは嫌だ。何があろうとも、自分はまだ死ねない。死んではならないのだ。
 そのためには、たとえ心を捨ててでも、自分が助かる道を選ばなくてはならない――だというのに、この心も身体も、動きが鈍い。
 あの姉弟や、魔導師達の結び付きを見てしまったせいだ。あれを知ってしまったせいで、凶刃を振るえなくさせているのだ。
 与えられた能力自体には、一片の死角もないのだろう。その、これ以上ないくらい暗殺に適した能力に唯一ある欠点が、他でもない自分なのだ。
 情が移ってしまうと、私はもうお終いだった。迷いを断ち切れない、優しいだけの人間には、誰も殺せない。
 殺さなくては、だが自分に、それでも、それでも――ひぃ!? な、何の音だ? 雷のようだったが、空に雷雲なんてないぞ!? この地域にはそれなりに長く潜伏しているが、こんなことが起きたことは……ま、まさか!?
 あの魔導師が、遂に魔術を行使してしまったのか!?
 だとしたらまずい。手遅れかもしれないが、この女商人は後回しにしなくては。間に合うか否は……いや、兎に角、急がなくては。


 ――時は、満ちた。
 周囲に集う力、掻き集めた魔力、高めた集中力、そして、
(証明完了)
 魔術発動に必要な、最後の準備が終了した。ここからは、魔術を行使するための詠唱を始める。
『異なる色彩よ。決して交わることなき弐つの力よ――』
 風が、頬を撫でていく。意識を自己の精神へと埋没させていても、この感覚だけは失われず、目標としている地点――“冥府の使者”を中心とした場へ吹き込んでいくのが分かる。
『双方一つへと相成れ。風は雷を招き、雷は風を友に天を駆け巡る』
 分割思考の予測通りなら風は二つの『力』を纏っている。
『来たれ、破砕の渦。来たれ、破壊の雲。来たれ、来たれ、来たれ!』
 頭に描いたもう一つの心象は、錐。効果を及ぼす場は最小に絞り、威力は最大に高めるための手段である。
(滅ぼしてやる。ひと欠片も残さん。全てを灰に――)
(……ヲ……)
 練り上げる思考の片隅に、小さな声が入り込んできた。
(チカラヲ、モトメヨ……)
 音にして表すなら、冷たく乾いた木枯らしのようだった。どの分割思考にも該当しない声の、背筋を伝うような冷たさを、しかし強靭な精神力で押さえ込む。
(お前は“天嵐の戦斧”の完成を急げ!)
(……む)
 二番の叱声。言われるまでもない、とジークは言外に伝え、魔術の最終工程に取り掛かる。
『何を以てしても、汝を遮ることは叶わぬ』
 掻き集めた『力』は、ジークの作った流れに沿って、一つの出口を、開放を目指して動く。
 証明された図式に則り、魔術言語と呼ばれる『力ある言葉』を『器』の代替とし、集めた『力』を『色水』として実世界に干渉させ、高熱の塊や『物体を切断する風』といった求める現象を現実のものとする。
『全てを薙ぎ、破壊するが故に』
 このように、ジィグネアルという巨大な一つの構造の中において、極小規模ながらもその流れや枠組みを手繰り寄せることの出来る者を、魔導師と呼び、その技を魔術と呼ぶ。
『我は其を振るう――』
 一拍、呼吸を置き、ジークは結びの言葉を、行おうとする魔術の名を、心底からの思いとともに口にする。
『“天嵐の戦斧( テンペスト・アッシュ)”』
 これまでに重ねた言葉に比べて遥かに軽く紡げた言葉は、ジークが念入りに描いた通りの効力を示す。


『――来たれ――』
 ミュレの耳は、違わずジークの声を拾った。
 ジークが、呼んでいる――そう認識してからミュレが動くまでの時間は、限りなく無に等しい。頭が考えるまでもなく、身体が動くのだ。
 長大な三編みを靡かせ、踏み出す足で墓土を抉り、墓標やゾンビを薙ぎ倒し、あるいは踏み砕いていく少女の藍色の眼には死神など映らず、既に銀髪の青年しか映らない。
《う、あ……?》
 “冥府の使者”は、ここにきて漸く巨大な『力』の存在を感じ取った。それら濃密な『力』は、己の周囲に出現していた。
《オォ……?》
 魔物は戸惑っていた。どうすればいいのかも分からないのに、突然目の前に得体の知れないものを突きつけられたようなものである。
 この瞬間、死神はあらゆる動作が停止してしまう。
 別の何か――別の? 大きい。それは二つか? それとも、一つか? 
 混沌とした思考は言葉を並べ立てるばかりで、何一つ答えを導き出せないまま、傍から急速に離れゆく、大きな存在があることを知る。
《逃げる、か……っ》
 中断された思考が、やっと結び直された。
 喰らうべき相手が、まだ目の前にいたのだ。
《朽ちよ――》
 鎌を持たぬ方の腕を伸ばし、重々しい一歩を踏み出した死神を、鋭い光が打ち据える。
《おぉ……?》
 痛覚や触覚など、最初からない。ただ『本体』から『身体』が剥がれ落ちて欠けたことしか感じていない。その欠損も、すぐさま埋めてしまえるはずだった。
 ――閃光。そして突風。次々と剥がれ落ちていく『身体』。
《うぁ、が……!?》
 体勢が、大きく崩れた。光が脚を貫いたのだ。その欠損を埋めようと伸ばした『身体』も、殴り抜ける風が吹き散らしていく。
 喰われている――死神を模した魔物が、己の現状をそう捉えるのに時間はかからなかった。
《我が、身体を……まだ……させンっ。我は、喰う……リグ、ニ――》
 死神が、吠えた。生命の危機、恐怖、憎悪、己の存在意義、己の欠損を埋めるための食欲――あらゆる感情が混濁した魔物の咆哮は、遠ざかる存在へと伸ばされた手は、風雷の乱舞へと飲み込まれ、引き裂かれた。


 レナイアとヴィル、そしてセラを含めた討伐隊員は、最も近い位置にいた部隊である第五分隊に合流すると、そこから更に最前線――墓地に最も近い区域で掃討戦を行っていた第一分隊への合流を目指し、北上していた。
 唐突に、三つ四つ、八つ九つと立て続けに雷が轟き出したのは、第一分隊を視界に捉えた時であった。
「慌てるんじゃないよ!」
 とレナイアが声を張り上げても効果は薄く、雷に怯えて地面にしゃがむ者、呆然としている者、廃屋へ逃げ込む者、気を失う者までもいた。
「ひゃぁ!?」
 ヴィルが、腰の辺りにしがみ付いてきた。仮面男にも勇気を奮った少年も雷は怖いのか、強い震えが伝わってくる。
 無理もない、ともレナイアは考えていた。雲もないのに、突然目と鼻の先で雷が雨のように落ち続けているのだ。彼女自身も、未知の、それも想像を超えた出来事を前にして、体の芯から震えが生じていた。
 しかし、だからといって現状を見過ごすわけにはいかない。雷の原因が何であれ、まだ作戦は終わっていない以上、統制を乱れさせるわけにはいかない。レナイアは己の震えを押し隠し、ヴィルを自分の身体に抱き寄せながら討伐隊員の混乱を鎮めようと、大声で何度も「慌てるな」と叫び続けた。
 そうしてどのくらい声を嗄らし続けただろうか。気付けば、雷の雨が収まっていた。
 辺りは、雷が落ちる以前よりも静かで、不気味だった。耳鳴りがするばかりで、音らしい音が全く入ってこない。自分自身の声すら、遠くにあるように感じられた。前線で戦っている第一分隊の方も同じく雷の雨に衝撃を受けているためか、静まり返っていた。
「みんな無事かい?」
 安否を問い掛けると、隊員のそれぞれから返事があった。見たことのない雷に取り乱してはいたが、それ以上の問題は起きなかったようだ。実際に雷に打たれたわけでもないのだから、当然と言えば当然なのだが、今回は予想を超える事態が多く起きていたこともあって、レナイアは安堵の息を吐く。
「ねえ」
 ヴィルが、控えめに袖を引っ張ってきた。声も、レナイアの袖を掴んだ手もまだ細かく震えていたが、幾らか収まってきている。
「何か聞こえない? ほら、あっちから」
「んん?」
 墓地へと続く道を指差し、耳を傾ける仕草をしている少年に倣い、レナイアも耳を澄ましてみると、微かにだが乾いた硬いもの、続いて軽いもの、例えるなら、小麦粉の塊を地面に撒いたような音が、道の先から聞こえてくる。
「何の音かねぇ?」
 気になると、足は勝手に動いていた。レナイアは第一分隊を押しのけ、最前線に立った。
「こりゃ何だい?」
 目の前の奇怪な光景に、流石のレナイアもそれ以上の言葉が浮かばなかった。
 彼女らの行く手に広がっているのは、緑青( ろくしょう)に似た、緑色と干し肉が入り混じったような不気味な色合いの山と、それらに半ば埋もれた、骨と思しい乳白色の物体であった。そうした塊が、道の至る所にできている。
「人型の魔物どもが、突然このように」
 事情を尋ねる前に、リグニア兵の一人が説明してくれた。
 彼によると、雷の雨が収まったのとほぼ同時に、ゾンビ達から白い煙か湯気のようなものが突然噴き上がり、こうして粉のような状態になったのだという。
「乾涸びて、ねぇ」
 不気味な山を観察し、説明を受けているレナイアの頭は、既に普段どおりの働きをしていた。
「あいつの言ってたことが正しいなら、こいつらの正体は黴や茸の魔物なんだってね」
「は、黴ですか」
「そういう類ってのは湿気を好んで乾燥を嫌うもんだけど、魔物でも当てはまんのかねぇ」
「……つまり、この魔物どもは、既に死んでいる、と?」
 たぶんね、という程度にレナイアは発言を留めた。首肯を期待していたらしいリグニア兵は、僅かに表情を曇らせた。
「ま、焼いちまえば心配ないだろうさ。乾涸びてんならよく燃えるはずだよ」
 レナイアが両肩を竦めて続けると、方々で小さな笑い声が生じた。早くも立ち直ってきているらしい。レナイアはその笑い声の中に入りつつ、別の事柄に頭を巡らせていた。
(あいつ、本当に成功させたんだねぇ)
 子分であるゾンビがこうして乾涸びているということは、親玉の死神に――それも致命的な――何かが起きたということだろう。
 そしてその何かが、レナイアの予想しているものならば、この戦いの勝敗は既に決している。
「でもその前に、あの墓場へ行ってみようじゃないかい」
 レナイアはこの場にいない第二分隊と第四分隊に墓地へ集合するようにとの伝令を頼むと、残りの部隊ともに墓地へと踏み込んだ。
「こりゃ何だってんだい!?」
 流石のレナイアも、目の前に飛び込んできた光景に驚愕の声を上げた。
 西日に照らされた、かつての墓地だったと思われる広場には、強烈な雨の臭いと、土の焼け焦げた臭いが漂っており、まるでここにだけ嵐が現れたかのようであった。そしてここにも、干し肉の出来損ないのような物の山が見える。死神と呼ばれた魔物の姿は、どこにも見当たらない。
「姉ちゃん!」
 重たく湿った土へと足を踏み出したレナイアの許へ、弟のルーカスやヒューイといった特別分隊の面々が駆け寄ってくる。何人か欠けていたが、彼らの表情は暗くない。
「姉ちゃん、無事だったんだな!?」
 特に他人の気持ちに敏感な弟が、安堵を全面に押し出していることを考えると、彼らの表情が作り物でないことがよく分かった。
「よかったぁ、やっぱり姉ちゃんも無事――ぃぎ!?」
「なーにだらしない顔してんだい、みっともないねぇ」
 とはいえ、肉親がいつまでも締りのない顔を見せているのはいい気分がしないので、遠慮なく弟の爪先を踏み付けると、レナイアはここで何が起きたのかを尋ねた。
 彼らによると、死神に向かって風が吹き始めるにつれて、何かが焦げたような、弾けたような音が聞こえてきた。それが大きくなると、次は強烈な光と、聞いたこともないくらい大きな雷鳴が轟いたのだという。
 そこから先の様子を見た者は、一人もいなかった。ある者は閃光に眼を焼かれまいと瞼を閉じ、ある者は死神へと吹き続ける強風に倒れ伏した。
 それがどのくらい続いたのかは分からない。分かっているのは、全員が強風と雷に身を晒し続けたということだけだという。
「で、目を開けた時には、既にこの有様だったんだって」
 弟や討伐隊員らの説明を一通り聞き終えると、レナイアは改めて目の前の光景を眺め、「なるほどねぇ」と洩らした。
「魔導師の噂ってのはよくよく耳にしてたけど……こりゃ噂以上だねぇ」
 自分の感想に同意する声には取り合わず、レナイアは「で」と切り出して、弟にもう一つの説明を求めた。
「あいつは何してんだい?」
 レナイアの右親指は、この惨状の張本人――彼女らに背を向けたまま、独り立っている青年へと向けられていた。


 分割思考を平常の機能に戻しても、周囲から音という音が絶えていた。先刻までの雷鳴に比べれば、風の音も討伐隊員達のざわめきも無に等しいということだろう。
 そうした周囲の様子を窺っていると、視界が流れ始めた。上体が傾いだ所為だとジークが理解したのは、踏み出した脚で身体を支えてからであった。
 頭が、腕が、脚が、胴が、普段は感じないはずの隅々までが、鉛で覆われたかのように重い。全く力が入らないのだ。
魔術の反動である。本来は使われることのない、肉体に意思を行き渡らせるための( 魔力)まで出し切ってしまったのだ、意識を保ち、両の脚で立っていられるだけでも瞠目に値する状態である。
 今のジークにとって、“天嵐の戦斧”とはそうせざるを得ないほどの魔術であった。
 “天嵐の戦斧”とは、端的に表すと局所的ながら雷を伴う嵐を発生させ、その膨大な破壊力によって敵を圧倒する魔術である。
 その最大の特徴は放出型と呼ばれる性質にあり、“風の刃”のような投射型と呼ばれる魔術とは違って、魔力さえあればその効果を持続させられる点も相俟って、ジークが習得した魔術の中では最大の規模と破壊力を持つが、そこには大きな問題があった。
 通常、魔術とは地水火風、あるいはそこから派生したもののどれか一つに類別されるのだが、“天嵐の戦斧”は “風の刃”と“雷の槌” という二種類の魔術の混合によって作り出される。両方とも簡易な魔術ではあるが、複数の魔術を同時に構築、制御、整合させた上で行使するのは困難を極める。
 そしてもう一つの理由というのが、一回あたりに消費する魔力の量が極端に多いのだ。単純に数値化した場合、“風の刃”の二十倍以上に相当する。それを用意するためには必然的に詠唱の時間を長くとらなければならず、隙も多くなる。前述にもあるように、放出型は魔術の行使後も維持するための魔力が求められるのだ。
 そうした理由があって、よほどの状況に追い込まれないと、分割思考を持つジークでさえ滅多に使用しない。
(これで使うのは二度目だが……いやはや、これに関しては慣れるものじゃないな)
(む)
 ジークの心境を代弁する二番も、それに相槌を打つジーク自身にも、強い疲労が表れていた。他の分割思考に至っては、その機能を半強制的に休止して――即ち、眠りに就いていた。
「……む」
 そんなジークの目の前に、ミュレは普段と変わらず立っていて、いつもと変わらず、呆けたような顔でじっとこちらを見上げていた。違うのは、髪や衣服が無残に汚れきっていたことぐらいだろう。墓土やゾンビの体液や腐肉を浴びた少女の姿は、どこまでも凄まじい。
(これで外傷らしいものは一切見当たらないのだから、恐ろしい話だ)
(む……)
 ジークが二番と言葉を交わしていると、ミュレの瑞々しい唇が動いた。
「……いい?」
「む」
 いつの間にか首を傾げていたミュレの頭に、ジークは手が汚れるのも厭わず手を乗せてやる。気にならない、というよりは、気にしている余裕がないというのが実情だった。
 そうした事情など知る由もないだろうミュレは、眠そうな目をジークに向けながら、口を緩慢に動かしていた。首は、まだ傾いている。
 思考までもが鈍っている今の状態でも、ミュレの「いい?」が何を意味しているのか分かっていた。彼女が求めているのは、触れられることへの許可ではない。
「今回の戦いは、お前の存在なくして勝利はなかった……と、言ってもいいだろう」
「……ん」
 頭を撫でられながら、ミュレは疲労の色濃いジークの顔をじっと見上げている。傾げられた首は、まだ元に戻らない。
(気持ちは分かるが、そう焦らしてやるな)
(黙れ)
 もう一つ、重たい嘆息をこぼしたジークは、不本意だが、彼女が聞き逃さないよう、ゆっくりと告げる。
「だから、ミュレ」
「ん」
 ミュレの目。藍色の瞳。そこには自分の顔が朧に浮かんでいる。感情の読み取れない、一片の意思すら見出すのも困難極まりないそれを覗き込んでいたジークは、三度目の重たい息を吐きながら続けた。
「お前が……役に立ったと、認めてやらなくては、ならんな」
 ジークの言葉から暫く沈黙の時が流れた。やがてミュレはゆっくりと反対方向に首を傾げ、そしてたどたどしくジークにこう伝えた。
「やくに、たつ?」
「む……」
 もう一度、今度は僅かにだが輪郭のある声音で、ミュレは繰り返した。
「わたし、やくに、たつ?」
「む」
「やくに……」
 頷いてやると、またしてもミュレが確認しようとしてきた。そちらへの対応は後回しにして、ジークは背後へ振り返る。
「それで、お前は何をしている?」
「いや、ねぇ」
 レナイア・カミューテルは、大いに含みのある笑みを見せながら、自身の背後に控えさせている弟やセラ達傭兵に視線を送る。またよからぬ企みを、と警戒したが、他の連中から敵意の類は感じないので、拳は緩めておいた。それでも身体には、最低限の構えを維持させておく。
「作戦の立役者に何の挨拶もなしってのは流石のあたしも気が引けてねぇ、それでお疲れとでも言おうかと思ってたら二人して『いい?』『む』だのやってるもんだから声掛け辛くて困ってたんだよねぇ」
「む……」
 先刻のジークとミュレのやり取りを一人二役で――しかも大げさな身振りを加えて――再現するレナイアへの苛立ちは表情の下に隠し、ジークは自分の隣に並び立つ彼女への視線を強めた。
「まま、そう怖い顔しないどくれよ」
 そう言って片目を瞑ったレナイアは、
いつの間にか集まってきていた討伐隊の連中に向かって、大声で宣言する。
「作戦は成功だよ! ゾンビ……人型の魔物は親玉諸共に殲滅した! 最初の予定とはちょいと違ったけど、それでもあたしらの勝利に変わりはないさね! もう一度繰り返すよ、あたしらの勝ちだ! それは変わらないよ!」
 宣言から少し遅れてルーカスが、ヴィルが、そしてこの場にいた全ての討伐隊員らが、次々と歓声を上げた。“天嵐の戦斧”直後からの静寂を打ち破って、旧市街の墓地は一気に熱気と騒がしさで満ち溢れた。
 そうした空気がただでさえ嫌いなジークだが、必要性も見出せないのに、自分がその輪の中にいるのは尚のこと嫌いであった。
「――ちょいと我慢しとくれよ。今だけなんだからねぇ」
「む……」
 レナイアが、小声で語り掛けてくる。表情も身振りも彼らへ向けており、時折言葉に応えながらの行為であった。器用な真似を、とも思いつつ、ジークは意思を曲げない。
「魔物は斃した。お前の要求は既に果たされている。お前に同行する理由は、この地方を出発する時まで存在しない」
「固いこた言いっこなしだよ。それにほれ」
「む」
 レナイアが示さずとも、ジークは理解していた。
 討伐隊員の歓声は、半分が互いへの賞賛、四分の一がレナイアへの賞賛、そして残りが、ジークへのものだった。
「今日の勝利はあんたのお陰でもあるんだ、変に隠れようとしないでさ、もっと堂々と前に出たって損はないと思うけどねぇ?」
「む……」
 下らん――ジークは確かにそう告げたのだが、レナイアは怪訝な顔を見せただけであった。
「ちょいと、ど――た――い?」
 レナイアは何か問い掛けているらしく、忙しなく口が動くものの、肝心の声が途切れて聞こえてこない。
 気が付けば、周囲から音が絶えていた。喝采を上げる者、拳を突き合わせ喜びを表す者達、
そうした者達の動作は確かに伝わってくるのだが、声や動作に伴う音が全く聞こえてこない。
(報告)
 分割思考が警告した時には、もう遅かった。
 最初は聴覚にだけ現れていた現象が、視覚にも及び始めていた。視界が隅の方から徐々に黒く塗り潰されていく。いつしか、手足の先の感覚すら覚束ない。
 その日、最後にジークが見たのは山に没する夕陽と、その残滓に照らされた連中の顔だった。表情までは、分からない。


【オマケ】
【グニロとミリアムと●●】
 木造アパート六畳一間。ちゃぶ台一つにタンスも一つ、押入れ開ければ布団と衣服とガラクタが、上下で悲鳴を上げている。
 これはそんな部屋で二人、暮らす男女のこぼれ話。
・なでなで
 グニロは横臥して、休日の何もない時間を享受していた。座布団を二つに折りたたんだそれを枕代わりに、昼下がりの日差しを浴びていた。
「グニロー」
「あ?」
 しかし、その贅沢な時間は、小さな同居人によって儚く粉砕される。
 灰白色の髪と瞳、右の頬には黒っぽい線状の刺青。それを笑窪によって凹ませているのは、どこか動物めいた印象を与える少女だった。名前を、ミリアムという。
「グニロ、グニロ」
 ミリアムは自分も身を横たえると、グニロの肩口に頭を押し付けてきた。その仕草が子犬や子猫を連想させるものだから、ますます動物めいて見えた。
「分かったよ」
 グニロは寝そべったまま、腕を伸ばしてミリアムの頭を撫でる。ミリアムは目を細めて「んふー」と鼻を鳴らしていた。機嫌がいい時の証拠である。
「もっと! グニロもっと!」
「へいへい」
 ねだられるままに、グニロは撫でる手を強めた。いつも『痛くないんだろうか』と思っているが、ミリアムの幸せそうに緩んだ顔を見ているとどうでもよくなってしまうので、未だに訊いたことはない。グニロ自身も、ミリアムの手触りのいい髪に触れるのは嫌いではなかったということもあるが。
「へへー…… あ、グニロ!」
「あ?」
 ミリアムの顔が、急に輝いた。そしてその訳をグニロが尋ねるよりも速く、ミリアムはグニロの手から離れると、何故かそのままグニロの背後へ回った。
 直後、グニロの頭が何やら柔らかくて温かくて…… 兎に角、気持ちいいもの、としか言い様のないものに包まれた。それがミリアムの膝であったり、腕であったり、胸元であったりだと理解するまでに、随分と時間を要した。
「お、おいっ、何で抱きつくんだよ!?」
「ミリアムもなでる!」
「そ、そりゃ分かったけどなぁ、だからって抱きつかなくていいだろ!?」
「えー?」
 ミリアムが、不服そうな声を上げた。顔が見えなくても、容易に表情が想像できる。
「ミリアム、こっちのがすきだよ?」
「おまっ、お前はいいかもしんねぇけど、俺は……!」
「グニロは?」
 懸命に頭を動かし、グニロが見上げた先で、ミリアムが小首を傾げていた。笑顔に見えるが、その目はグニロの本心を覗き込んでいるような、少しの不安で歪んでいるような、不思議な細まり方をしていた。
 反則だ、とグニロは内心で憤慨する。
「……俺は、あんまり長くは我慢しねぇからな」
「うんっ」
 嬉しそうに頬を緩めたミリアムは、再び全身でグニロの頭を包んだ。
 大事そうに抱えてくれたのは結構だが、その撫で方は鍋や皿を拭いたりするような手つきなものだから、ちょっと痛い。
「グニロのあたま、ちくちくしてる」
「お、おう」
 内緒話をするような、少し熱を含んだ声。ミリアムの姿が見えないだけに、妙な緊張感が湧いてくる。
「は、早く済ましてくれよ?」
「いーやー!」
 朗らかに拒まれ、グニロは長丁場に突入するのだと覚悟した。
 結局、ミリアムが飽きるまで、グニロはミリアムの膝枕に寄せられたまま休日を過ごす羽目となった。



【基本用語集】

●ジィグネアル
:本編の舞台。周囲を無数の小島で囲まれた巨大な大陸。地球でいうパンゲアやゴンドワナ超大陸のようなもの。五つの大国とそれに従う小国とが存在する。
●リグニア王国
:ジィグネアルで最も抜きん出た力を持つ五大国の一角。大陸の東南部を領有する。第三話は、このリグニア王国の西側で繰り広げられている。

●魔導師
:魔術という超常の業を操る者達の総称。数が少ない上に人前で魔術を使いたがらない者が多いため、その実態を知る者は少ない。

●分割思考
:本来は未使用のままで終わる80パーセント以上の脳容量を最大限に活用できるよう編み出した技術。長年に亘る訓練により、同等の容量を持つ思考を増やし、一つの思考で大容量を扱うのとほぼ同じ結果を手に入れるという、驚異の結果を可能とした。脳が成長途上にある少年期の子どもの方が成功率が高いが、脳に過剰な負担がかる危険性が示唆されて以来、自ら行う者は少ない。本編ではジークが使用している。以下はその説明。
二番:ジークが最初に生み出した分割思考。そのためか、他の分割思考に比べて多弁で人間的。ある意味、ジークとミュレの一番の理解者。偶数番号の分割思考を管理する。
三番:『想像による真実の創造』、つまり最も低いと予想される可能性を最も高い可能性として扱う思考。その真髄は、断片的な情報から全体像を描き上げるといった、他の分割思考らの判断材料を作ることにある。
四番:空間や図形などの、視覚的イメージを専門的に扱う思考。ジークの数少ない死角である、左目の視界を補助する役割を専任としている。そのため、視覚に関連性のある“疾風の猟犬”、“世界を見渡す秘匿の鳥(スパルナ・アディアーヤ)”などの魔術を主に管理している。
五番:攻撃的な魔術の他に、戦闘に関する知識や技術も扱う。殆どの場合、いずれかの分割思考に同意しており、自らの考えを滅多に表さない。
六番:扱っている魔術はないが、その分医術や薬学、解剖学といった生物や生命に関係のある知識を筆頭に、幅広い分野の知識を蓄えている。また、ジークの猜疑心を始めとした昏い感情が強く反映されており、主格のジーク以上に懐疑的な性格をしている。分割思考の中では、最もミュレを嫌っている。
七番:三番以下の奇数番号の分割思考を管理している分割思考。ジーク、二番に次ぐ発言権を持つ。
2012-06-09 00:18:43公開 / 作者:木沢井
■この作品の著作権は木沢井さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めての方には、はじめまして。久しぶりにお会いする方には、お久しぶりです。三文物書きの木沢井です。
 まずは一言、当拙作や、こんな雑文にまで目を通された皆様方の寛大なお心に感謝を申し上げさせて下さい。ありがとうございます。
 諸般の事情から一年ばかりこちらから離れることになりましたが、どうにかなりそうなので再び筆をとった次第でございます。『誰もオメエなぞ待っとるかい』という声が多数聞こえてきそうですが、それはそれで真摯に受け止めさせていただきます。
 質問、批評、酷評、その他諸々、幅広くお待ちしています。
*なお、蛇足ではありますが、これより以前は20110331の箇所にございます。

2012/0302 続きを更新しました。それと、オマケの追加と加筆修正を行いました。玉里様、ありがとうございます。
2012/0609 本編の五分の四までとオマケを更新しました。
この作品に対する感想 - 昇順
久しぶりにキノコの山の面々に会えて嬉しいです!(オイ)
ジーク、やっぱりいいなあ。この「真面目もお笑い」って感じが(笑)
そして最後の熱いセリフがいいですね。これも目的のための手段と言いつつ、本心だったりするところが無性に可愛いです。
それにしても、休日は家って……実はインドア派だったのか。

ちょっと分からなかったのが、行方不明の一隊を捜索しに行ったのは、ジーク、ヒューイ、セラ、老兵、グラントですよね。一部ミュレの記載があったみたいなのですが。……グラントって誰でしたっけ?(オイ)
セラは性格上の秘密はないのに、その他の部分は秘密がいっぱいというあたり、ヴィルと共通するものがありますね。
レナイアはすっかりリーダーの風格だなあ。カリスマすら感じられます。
これからの期待感も含めて、全体的に面白かったです!
2012-01-29 09:53:26【★★★★☆】玉里千尋
まだ読み途中で申し訳ないのですが、マイナスにするほどの悪さを僕は感じません。
こういうの良くないと思うので、点数を入れさせて頂きます。
今度来たときは、ちゃんと読んだ後に感想を書かせて頂きますね。ではでは。
2012-01-29 12:05:32【☆☆☆☆☆】白たんぽぽ
 コメント、遅くなり申し訳ありません。私は読んで二、三週間たたないと内容が消化できないもので。私的には、後半のジークとラセの掛け合いが今回のメインかなっと思ったのですが、間違っていたらご免。これは私も一番気を使っていてうまくいっていない点なのですが、この場面を生かすには、この場面へ読者の気持ちを誘導(誘導尋問のように)しなければならないと思います。私ならばそのために後一場面追加します。例えば老兵の壮絶な死とか、セラのジークにたいする態度とか。そうすることによって読者に老兵がかわいそう、もしくはセラの態度からジークとは本当に冷血人間だというイメージを作ります。そうすれば最後の場面がより一層生きるのではありませんか。生意気を言ってご免。せっかくストーリーがおもしろいのですからもう少し厚みが出ればと思います。最近読んだ本で『永遠の零』という本がありますが、これは見事に場面を繋ぐので参考になりました。本当に生意気言ってご免なさい。続きを期待しております。
2012-02-17 22:26:26【☆☆☆☆☆】土塔 美和
 ちょっと色々あって読むのが遅くなってしまいました。また、まだ三話の部分のみしか読めてないのですが、何分遅読なものなのでご容赦ください。
 本格的なファンタジーで面白かったです。最近ファンタジー系の小説をあまり読んでいなかったので、新鮮な気分で読むことができました。どうも大ボスを倒すために魔術戦が繰り広げられるっぽいですが、ファンタジーといったらやっぱり魔法、という固定概念のある自分としてはどんな魔法がみられるのか楽しみだったりします。
 またなにやら黒幕がいるようで、一筋縄ではいかないようですね。今後どんな展開が待っているのか楽しみにして待っています。ではでは。
2012-03-01 19:31:07【☆☆☆☆☆】白たんぽぽ
>玉里千尋様
御感想、加点、御指摘、ありがとうございます。
 こちらでもお久しぶりです。そしてすみません。
 嬉しい、という言葉はいいですね。そう思って頂くことで、こちらも嬉しくなるのですから。
 まずご指摘の件ですが……完全に私の落ち度です。ミュレは常にジークの傍にいるものですから、つい勘違いをしたのでしょう。
 などという言い訳は別にいいですね、ええ。ジーク、彼は本当に真面目ですよ。起床時間と就寝時間は毎日同じ時間で、食事の時間とかも同じじゃないと気が済まないタイプです。ちょっとカントみたいな奴ですよ(思想はどうだか知りませんが)。そういう真面目さが「お笑い」に通じることは、私も存じています。そんなわけで、以前のオマケも……。
 セラとの会話で出していた台詞は、ポロっと本音が出てしまったパターンです。半分嘘です。ある程度は「これ言わなきゃ駄目なんだろうなぁ」といったものがあった上で言っていますが、でもやっぱり後悔みたいなものは残っているようです。その辺のことを休日に自宅(?)で思い返しているのかもしれません。その辺のことは、想像するだけでも楽しいですよ。
 やはりセラのこと、お気になられますか。いきなり様々なキャラクターの背景を描写するのもどうなんだ、という話でございましょうし、それはつまり、私が依然ご指摘を受けていた気もする、『登場人物を絞りきれていない』という点を改善できていないという証拠なのでしょうか……。
 長々と得体の知れないことを書き連ねていますが、近日中にはある姉弟をメインに掘り下げていく予定ですので、暫くは非常に歯がゆい思いをされることと予想されますが、平に、平にご容赦願います。
 レナイア。彼女はずいぶん昔、キャラクターを作っていく過程で『まとめ役』、『仕切り役』といった要素を取り入れていきましたので、やっとこ本来の(?)役柄を発揮させてやれたような気がしています。……あれ、おかしいな。主人公は一応ジークの方なのに。
 ご期待にどれだけ添えられるのか、自信はございませんが、なるたけベストは尽くします。

>白たんぽぽ様
フォロー(?)および御感想、ありがとうございます。
 よもや、読んで頂いているなどとは夢にも思っていませんでした。毒にも薬にもならない拙作ですが、面白いと言っていただけて幸いです。
 魔法そこそこ、黒幕いっぱい、課題は山積みのキノコ山ではありますが、その気持ちを維持して頂けるよう精進します。
 それにしても、『荒らし』でしたか? 彼だか彼女だかが残念に思えて仕方ありませんよ。つまらないなら『つまらん』と、正直に仰ってくれればいいのに。別にそれ自体が悪いというわけではないのですし、そもそも、当拙作を書いている本人からして、『まあ、万人向けではないよなぁ』と思っているのですから。

>土塔美和様
御感想および御指摘、ありがとうございます。
 感想はいつ頂いても嬉しいものですよ。それだけ真面目にこの拙作に御感想を寄せて下さろうとしているのでしたら、尚更です。
 場面を活かすために、ですか。たしかに、私に欠けているものの一つですね。あの場面が今回の更新分の中ではメインと言っていい場面であると言ってもいいでしょう。そうした意識はあるくせに、盛り上げ方が今ひとつ。それも私が三文物書きたる所以の一つですね。今回は理由があって仰られた例のような場面を挿入することは非常に厳しいと予想されるので、次回以降には必ず意識した上で取り組んでみます。
 生意気だなんて、滅相もない! 私が『三文物書き』を自称する理由の三分の一は謙遜で、残りはその通りだからです。なので次回以降も縁があるのなら、遠慮会釈のない御感想を頂ければ幸いです。そのお陰で、もしかしたら四文程度にはなれるかもしれません。
 『永遠の零』、調べてみました。近日中に入手できる予定ですので、楽しみにしています。
2012-03-02 19:28:43【☆☆☆☆☆】木沢井
 こんばんは、木沢井様。上野文です。
 御作の続きを読みました。
 おまけのミュレちゃんがごっつ可愛いですね♪
 ニーダルが酒瓶片手に「娘の愛らしさについて語り明かさないか」と訪ねそうw(後ろから、いや、あれ娘ちゃうやろ? と当然の突っ込みが入りそうですが)
 さて、“冥府の使者”の不気味さと、ものともしないミュレのアクションが加わって、面白かったです。
 若干気になったのは、今回戦闘シーンにジークの分割思考が挟まれた際に、若干テンポが損なわれてる点です。
 各分隊が動き、仲間たちが己が役割を始め、ジーク・・・という風に、せっかく盛り上げたテンションをなだらかにしてしまう。
 以前上手く使われた時ははまっているため、非常に扱いの難しい要素だと思います。
 戦闘の行方がどうなるのか、続きを楽しみにしています!
2012-03-06 20:44:46【☆☆☆☆☆】上野文
>上野文様
 御感想、および御指摘、ありがとうございます。
 オマケをお褒めいただけて恐悦です。あれは一種の息抜きですが、少なからず練習も兼ねていますので、嬉しいかぎりです。
 そういうわけで、個人的にはニーダル大歓迎ですが、肝心のジークはというと「俺は奴の父ではない。そして未成年だ」とか言いそうです。でも二話でミュレのことをアレコレ述懐できるくらいですから、酒が入ったりニーダルの話術をもってすれば実は延々語り明かせちゃうのかもしれません。機会があればやってみたいですね。
 分割思考、やはり完全にはモノにできていないようですね。それと流れのテンポや盛り上がり、折角ご指摘頂いているのに改善できていない現状に苛立ちがこみ上げます。
 といったようなことは、本来口外すべきではないのでしょうが、ついそれをやってしまう辺りが、私の三文物書きたる所以なのでしょう。
 楽しみにしている――この御言葉が社交辞令にならないよう、精進いたします。
2012-06-09 00:19:39【☆☆☆☆☆】木沢井
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。