『ゴーストデイズ』作者:青々翠音 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
『俺』の妻、三重夏奈と娘の三重夕菜が死んだ。自棄になりバイクを走らせていたら、事故ってしまい、目覚めた時幽霊が見えるようになっていた。そして俺は、彼女と出会うことになった。※ライトノベル作法研究所にも同時投稿中です。
全角34179.5文字
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 隠微な雰囲気が漂う長い通路の端にある長椅子に、俺は腰をかけていた。
 とうに消灯時間は過ぎているようで、周囲はほぼ真っ暗闇の状態だ。強いて光源と言うのならば、薄くボンヤリと光る非常灯と、緑色に光った『緊急手術中』のランプだけだ。
「……夏奈、……夕菜」
 俺はそう呟いて、頭を抱える。先ほど医者から電話がかかってきた。それの内容は、俺の妻と娘が自動車の玉突き事故に巻き込まれた、と言うものだった。『もしもの場合を覚悟して於いて下さい』と医者は先ほどそう言った。
 もしもの場合って、どう言うことだ? それが分からなくて、理解したくなくて、ただ夏奈と夕菜の身の安全を祈り、寝もせずにもう既に十時間近く待っている。母さんが「家に一度帰って寝なさい」と薦めてきたが、そんなことはしていられない。夏奈や夕菜が頑張っているんだ。俺が、俺がここで頑張らないでどうするんだ。
 だから、お願いです神様、妻と娘の命を助けて下さい。
 俺の命は犠牲にしても良いです、何をしても良いです、だから、その代わりに夏奈と夕菜を助けてやって下さい。もう一度だけ、あの笑顔を見せて下さい。本当に、本当に大切な二人なんです。だから、お願いします。夏奈と夕菜を守って下さい。
 俺は心底から祈った。
 不意に、『緊急手術中』のランプが消えた。周囲が真っ暗に等しい状態になるが、薄明かりに慣れていた俺の目は周囲の状況を可視出来た。
 僅かな金属音が鳴り、医者が手術室から一人出てきた。その雰囲気はとても重苦しく俺に嫌な予感を与えた。何も、言わない。
「医者(せんせい)! 夏奈と夕菜は……!?」
 俺は居ても立ってもいられずに、医者にそう聞いた。
「……っ」
 医者は黙って、首を横に振った。申し訳無さそうに、自分の無力さを悔やむように、物凄く辛そうに、首を横に振った。それが物語っているのは、一つだった。つまりは、駄目だったと言うことだ。……何が? そりゃ、夏奈と夕菜の手術に決まっている。失敗と言うことはどう言うことだ? 
 そりゃ、夏奈と夕菜が死んだってことしか無いだろう。
「……ぇ」
 素で、そんな声が出た。とてもその事実は信じられるモノでは無くて、頭の中をグルグルと情報の文字列が踊る。
 嘘だ。死んだ? 誰が? 夕菜と、夏奈が? 俺の、娘と妻が? この世で最も大事な、二人が? 死んだ? なぜ? 医者が手術を失敗したのか? どうして、なぜ俺にこんな出来事が。夏奈や夕菜にもう会えない? これは冗談なのか? いや、違う。医者が冗談を言うはずも無い。死んだ? 死んだ? 死んだ……? 
 ぐるぐる、ぐるぐる、混乱。ようやく搾り出せた声は、とても間抜けなモノだった。
「……嘘、……だろ?」
 俺が今現在、どんな顔をしているのかは分からない。どんな顔をしているのかも見たくは無い。きっと鮮やかな絶望色に染まった、人に見せられないような顔をしているのだろう、容易に予測が付く。
「嘘だって、……言ってくれよ……」
 俺は懇願する。それが、百パーセント嘘や冗談なんかでは無いと頭の中で知りながらも、そうであってくれと願う。頭の中に様々な情報が流れ込んでくる、それは、脱力感や悲壮感、無力感、と種類は違えども全て負の感情には違い無かった。
 笑えない。とても、笑えるモノじゃない。なのに、なぜか俺は、その時笑い声を上げていた。どうしてかは自分自身よく分からない。
「は、……はは、……ははは」
 乾いた笑い声だと、自分でも分かった。横に居る母さんが心配気な表情をしながら俺を見てくる。そして、母さんは俺の名前を呼んだ。
「雄斗……」
 だが、そんなことは全てどうだって良かった。全てが全て、崩壊していくようで、終着地点の無い暗闇に身を投げ込んでしまったかのような、そんな感覚が俺を襲う。そして、その時俺の中の何かが壊れた。
「……嘘だ」
 俺は、目の前の医者の胸倉を掴んだ。
「嘘だ! 夏奈と夕菜は、本当は生きているんだろ!? そうだろ!? そうだと言ってくれよ!」
「止めなさい、雄斗!」
 母さんが叫ぶ。俺は、掴んでいた胸倉から力を緩めて、いや、自然と緩んでその場に脱力した。何だよこれ、夢、だろ……? 夢なんだよな? なぁ、そうなんだよな? 
 ふと、顔を上げるとそこには医者が頭を下げて居るのが見えた。ただ、黙って、深々と頭を下げている。
 止めろよ。
 そんなことされたら、俺は、どこにこの感情をぶつければ良いんだよ。
 止めてくれよ。
「……居るんだろ?」
 俺は医者に問い掛けた。
「夕菜と夏奈が、中に、……居るんだろ?」
「……肉体の損傷が激しくて、見ない方が……」
「良いから会わせろよ!」
「止めなさい雄斗!!」
 俺の恫喝と同じ勢いで母さんが、叫んだ。これまでにあまり俺のことを怒ることの無かった母さんが怒鳴った、と言う意外極まりない出来事に、俺の思考は完全に停止してしまう。
「現実を受け入れなさい」
 母さんは、恐らく母さん自身が出来る最大限の冷静な声でそう言った。それは、恐らく俺を落ち着けようと思っての、俺を思っての言葉なのだろうと混乱した頭でも容易に予測が付いた。
「夏奈さんだって、夕菜ちゃんだって、ボロボロの状態で貴方に会いたいと思う? それを、夏奈さんや夕菜ちゃんが望んでいると思うの?」
「それは……」
「貴方が、最後に見た夏奈さんと夕菜ちゃんは、どんな表情をしていたの?」
 どんな表情をしていたか、と聞かれて俺の脳裏には今朝の夏奈と夕菜の姿が自然と浮かんだ。夕菜の誕生日プレゼントを買いに行くと楽しそうに言っていた夏奈と、子供ながらの無邪気な表情でお母さんに抱きついていた夕菜。その二人のその表情は、絵なんかでとても表すことが出来ない程に輝いていて、そして……。
「幸せそうだった。……楽しそうで、とても、素敵な笑顔、だった……」
「……そう。……その笑顔を、忘れないで。それが、夕菜ちゃんと夏奈さんの、本当の顔だから、絶対に忘れないで……」
「――――っ!」
 幸せに満ちていたあの笑顔を、欺瞞や猜疑心の無いあの笑顔をもう二度と見ることが出来ない。もう、彼女達に会うことは出来ない。『もう一度だけ』は、絶対に出来ない。
 その日俺は生まれて初めて、心の底から、泣いた。

 結婚してから七年が経ち、今年で俺は二十六歳になろうとしていた。そしてその日は、俺の最愛の娘である夕菜の、六歳の誕生日の前日だった。
『六歳の誕生日、おめでとう!』
 翌日にそう言う為に、色々と準備をした。三人分の遊園地のチケットに、夕菜が大好きなチョコレートケーキの予約。そして、一年に一度のプレゼント。それを買う為に妻の夏奈が車を出して、夕菜と共に近所の玩具屋に行った。
 嬉しそうな娘の顔を見て居ると、明日の為に、かなり無理をして仕事を終わらせたのも良かったと思えた。疲れなんて、根本からなくなってしまうかのような感覚に陥った。
『行って来ます』
 あの言葉がまだ耳に残っている。俺は笑顔で『行ってらっしゃい』なんて言ったんだよな。自分が間抜けすぎて嫌になるレベルだ、こんなことになるって分かっているなら引き止めれば良かった。いや、それならせめて俺も一緒に行って、俺も事故に巻き込まれて死んでしまえば良かったのに。それならこんな感情を味わうことも無かったのに。
 後悔が全身を包む。あの『行って来ます』と言う二人のあの声と笑顔が脳内で何度も再生される。あれが最期の言葉だなんて、信じたくない。『行って来ます』と言ったのに、帰っては来なかった。結局、行ったっきり帰って来なかった。夏奈は嘘が嫌いな人間で、出会ってから今までに嘘を付かれたことは一度も無い。
 だから、夏奈が嘘を吐いたのは今回が初めてだ。こんな嘘の吐かれ方も、初めてだ。
 葬式をした。しかし、棺の中に入った夕菜と夏奈の姿は結局最期まで見ることが出来なかった。燃えてボロボロになった夕菜と夏奈の骨を、納骨する。
 とてもね、信じられないんだ。
 だって、つい一昨日までは生きていたんだ。『お夕飯何にする?』って夏奈だってニコニコ笑いながらそう言ってきて、娘の夕菜だって、俺のことを、『パパだ〜いすき』っていつものように抱きついてきて、いつもと何ら変わらない生活をしていたんだ。なのに、それなのに、どこにでも居る、でも、ここだけの特別な家庭が、幸せと言う名の煌びやかな宝石が一瞬にしてガラクタに変わってしまった。
 悲しいや辛いなんて、そんな単純な言葉じゃこの気持ちはきっと言い表せない。心のダメージをあえて例えるならば、四肢を縄で縛られ四方に馬を走らされた挙句、四肢が吹っ飛び、さらに一般市民に公開された状態でゆっくりと全身を鳥に啄ばまれているかのようなそんな心境だ。それでいて死ねないような、そんな最悪の状態。
 もう二度と彼女達と会えないなんて、信じたくない。もう一度彼女達に会えると言うのならば俺は四肢が吹っ飛んだって、死んだってもう構わない。
「クソッ! ……畜生!」
 俺は我慢出来ずに、自分の部屋から飛び出た。そして急ぎ足で靴を履き、車庫から埃を盛大に被ったバイクを出す。まだ若かった頃、夏奈を後ろに乗せて、よく走らせたバイク。高かった、と言うのもあるがそれ以上に、夏奈を乗せた状態で万が一にも事故る訳にはいかないので、走らせる時には相当に神経を使ったものだ。
 だが、今は一人なので遠慮なくスピードが出せる、事故って死んだって構わない、夏奈と夕菜が居ないこの腐ったような世の中に、一体何の希望があるって言うんだ。
 俺はアクセルを思いっきり握った。俺の身体がバイクのスピードに着いて行っていないようなそんな錯覚がする、少しでも気を抜けばすぐにでも振り落とされてしまいそうだ。チラリとバイクのスピードメーターを見ると、速度計の針は百五十キロをさしていた。恐らく、このバイクで出せるほぼ最高速度だろう。
 だけれど、まだ全然足りていない。足りて居る訳が無い。こんなんじゃ、俺の魂は震えない。だから、全てを忘れさせてくれるくらい、俺を熱くさせてくれ。もっと、スピードを……。
 アクセルを更に握ったその時だった、俺はふと気づいた。車のライトだ、十字路の死角側から車が走ってきている。
 だが、今更止められる訳が無い。
「うあぁああ!」
 そして俺は、車が走ってきて居る道に真正面から突っ込んだ。瞬間、全てがスローモーションに見えたような、そんな気がした。勢い良く俺の身体が宙を飛ぶ。クルクルと、空中を回転しているのが分かる。恐らく、十メートルくらい飛んでいるのでは無いだろうか? 
 そして俺の身体は、田んぼに着地した。そして田んぼの上を、水面に投げた平石のように数回勢い良く弾み、終いには泥土の上にプカリと浮かんだ。
「……」
 全身が痛む、妙に状況把握が的確に出来た頭で動かない身体を抱えつつ、何となく視界に入った空を眺める。……星が、綺麗だな、畜生……。身体中が痛い。でも、夏奈と夕菜はもっと痛かったんだろうな。ゆっくりと泥土の中に沈んで行きながら、俺はそんなことをふと思う。
 俺にぶつかった車の運転手が慌てて出てきているのが分かる。助けて欲しくない、今なら、死ぬのだって怖くない。いや、むしろ安らかな気持ちのまま死んでしまいたい。このまま沈んでしまいたい。
 夕菜、夏奈、今そっちに行くからな。
 目をそっと、閉じた。

「う……」
 ここは一体、どこだ? 重たい身体をどうにか持ち上げて俺はそんなことを思った。腕を見てみると、腕には点滴がされている。窓から差し込む月明かりがとても美しくて、幻想的だ。部屋自体には光は無く、薄暗い。
 ベッドの周辺に設置されている、カーテン。これは見覚えがある、病室などによく設置されている奴だ。つまりここは……。……そうか、どうやら俺は死ねなかったらしい、人間、思ったよりもタフに出来て居るんだな。
 死にたかった人間程死ねないで、死にたくなかった人間程死んでしまう。本当に、――本当に皮肉なものだ。
「クソッ……」
 俺はベッドの端を叩いた。と、その時不意に病室の扉が開いた、そして、看護士さんと目が合った。その看護士さんはすぐに踵を返してパタパタと小走りで「先生!」と呼びながらどこかへ駆けていった。
 と、ふと、『ソレ』が目に入った。ぷかぷかと浮かんでいるソレは、明らかに、人間社会に於いてとてつもなく不自然なモノだった。
「何だ?」
 天井に、『ナニカ』が浮かんでいるように見える。目の錯覚かと思ったけれど、確かに浮かんで居る。月明かりが『ソレ』を照らした。あまりに現実味が無くて信じられない光景だったので、俺は自分の目を疑った。事故で目がおかしくなったのだろうか? と、素で心配になる。目を擦りもう一度、目の前を見た。やはり、『明らかに不自然なソレ』はそこに居た。当たり前のように、そこに居るのが当然のように何食わぬ感じで。
 『ソレ』は何と形容すれば良いのだろうか? 上手く言葉が見つからない。プカプカと浮かんでいる『ソレ』を、何て言葉にすれば良いのだろうか? 
 言いえて単刀直入に言ってしまうのならば、『首から上が無い、人間』だった。
「……ぇ?」
 悲鳴とか何よりも先に、まず、状況がよく飲み込めなかった。頭部が無く血まみれな人間の身体が、まるで最初からそこに存在していたかのように、至極自然を装って無重力空間に居るかのように、宙をあてもなくクルクルと回っている。
 それが、逆に不自然なのだ。本来あるべきでは無いはずのモノが存在していると言うこと、それがそもそものこの違和感の起因なのだ。
 これは何だ? 俺は今、夢でも見て居るのだろうかと思い、頬っぺたを抓ってみる。するとやはり抓られた頬っぺたは痛くて、これが夢では無いんだと知らせてくれる。夢では無いと言うことは、どう言うことだ? 一つしか無いじゃないか、ここは現実だってことだ。
 これが、現実? 首から下だけの人間は、相変わらず宙に浮いている。ダラダラと血を流しながら、浮いている。その余りの非現実な光景に、今まで固まっていた全身に矢庭の恐怖が襲ってきた。
「う、……うぁああああ!」
 思わず俺は見っとも無く叫んでしまった。それは、まさしく、今までの俺の人生の中で一度も見たことの無い光景だった。何で、こんな化け物が現実に……と自分の目と脳みそが信じられなくなった。
「何で僕が死んじゃった何で僕が死んでしまったお母さん怖いお母さん怖い死にたくないまだ皆と生きて居たい僕死にたくない怖い目が痛い目が痛い目が痛い目が痛い」
 不意に、そんな声が聞こえてゾッとした。声の聞こえた方へ視線をやると、そこには子供が居た。体育座りで、ずっとブツブツと何か呟いている両目の無い、子供。
「――――っ!?」
 思わずベッドの上で後ずさりをしてしまう。これは何のホラーだ? なぜ俺は、こんな怪奇体験に現実として参加しているんだ? 全身が訳も分からずに震える、全身の産毛が逆立つ、歯がガチガチと震える、鳥肌が立つ。とにかく怖かった。目の前の存在が、ただただ恐ろしかった。
 と、その時病室のドアが開いた。唐突の出来事に俺の身体は嫌になるような速度で全身を縮めた、心臓がバクバク言っているのが分かる。
 そこには、医者が居た。
「おや、気づきましたか」
 医者が俺にそう言ってくる。俺は、固まったまま全くに身動きが取れずに居た。そんな俺に向かってその医者は、ツカツカと真っ直ぐ歩いてきた。その直線状には、宙を浮かぶ頭部の無い人間が居た。目の前で、医者とその化け物がぶつかりそうになる。
「お、おい!」
 そう言った丁度その時、その化け物と医者とは接触した。その瞬間だった、化け物が形を崩して煙状の物質に変化した。空中に飛散する粉のようなその身体は、医者が通り過ぎた直後に再び首が無い死体へと形状を戻した。
「どうしました?」
 医者が怪訝そうな顔で聞いてくる。俺は何も言えずに、絶句してしまう。きっと今の俺は口が半開きで目は点になっている、相当間抜けな表情をしているだろう。
 ようやく出せた声も、間抜けそのものだった。
「い、いや――。み、見えないんですか?」
「何がですか?」
 その反応で分かった、医者には、この化け物達の姿が見えていない。と言うことは『俺にしか見えていない』と言うことだ。つまりは、この医者達がおかしいか、俺がおかしいかのどちらかになる。
 オーケー、把握。おかしいのは俺だ。つまり、コイツらは俺の幻覚だろう。
「……」
 俺は結果として口を閉ざした。沈黙は金なりと言うが、ここで『化け物が居るんです』と言った所で、脳か目の機能異常を疑われるのがオチだろう。言った所で何も変わりはしない。だから俺は、諦めてこう言った。
「……何でも、無いです……」
「っ? それなら良いのですが」
 医者が怪訝そうな顔をしてくる、まぁ、それは別に構わない。それよりも俺は、割と本気で自分の脳みそが心配になった。頭でも打ったのだろうか? 
 その後俺は、医者に簡単な問診を行なわれた。痛い所はありますか? とか、色々と聞かれた。全身のあちこちが痛かったが、どうやら骨は折れていないようだ。着地した箇所が田んぼだったと言うのが、幸いしたらしい。
 二、三日様子を見て大丈夫なようだったらすぐに退院出来ますよ、と医者は微笑んだ。その後医者が居なくなってから、俺は一人で溜息を吐いた。
 もう良い、今日は寝よう。何かもう疲れた、とっとと寝てしまおう。この化け物達も俺の幻覚なんだろう。きっとそうだ、そうに違い無い。俺は疲れているんだ。
「死にたくなかった死にたくなかったまだ生きて居たかった痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、目が痛い目が痛い目が痛い何でこんなことに僕はまだ死にたくない死にたくな――」
「うるさい、幻覚」
 俺は、傍に置いてあったティッシュを投げた。ティッシュは両目の無い少年をすり抜けて、地面に落ちた。

 あまり眠れなかった。
 まぁ、当然と言えば当然だろう。一晩中飽きもせずにずっとブツブツ言われていたのでは、そりゃ眠れない。いや、正確に言えば少し違う。『どちらにせよ眠れる訳が無い』と言うのが正解だ。夏奈と夕菜のあの顔が脳裏に浮かんで離れない、どうしても、雫が頬を濡らして止まなかった。
「夏奈……。夕菜……」
 時間が心を癒してくれるなんてよく言うけれど、そんなの絶対に無いんじゃないかなんて思った。俺の心に突き刺さったボウガンは、どうやら膿んでいたようで、治す所か俺の感情までも腐らせて行く。夏奈と、夕菜と、三人で暮らしていたあの日のことを、とても幸せだった時のことを思い出しては、泣く。そんな日々を送っていた。
 宙には相変わらず『ナニカ』が浮かんでいた。
 どうやらコイツらは周りの人間には見えずに、俺だけに見えているらしい。一体、何だと言うのだろうか、俺は、おかしくなってしまったのか? いや、そもそもコイツらは本当に、幻覚なのか? 
 相変わらず病室では両目の無い子供が飽きもせずにずっと何かを呟いている。こんな所に一週間も居たら精神があっと言う間にやられてしまいそうだ。
 部屋の花瓶を変えてくれている看護士さんが丁度目の前に居るので、俺は、思い切って聞いてみることにした。
「あの」
「はい、何ですか?」
 看護士さんが、小首を傾げてそう聞いてきた。俺はその笑顔に対して、聞いて良いのかと躊躇いを抱いたが、躊躇っていても仕方無いだろうと開き直り、思い切って聞いてみた。
「えっと、例えばの話ですけれど……。この部屋で、両目を怪我して死んでしまった子供とか……。居ない、ですよね?」
 瞬間、何かが砕け散る小気味の良い音が聞こえた。
 咄嗟に音が聞こえた地面へと視線をやると、そこには、花の入っていた花瓶が割れていた。破片が重なって、地面とキスをしているように見える『花瓶だった』から漏れている水が、その周囲を濡らしていた。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
 看護士さんが明らかに動揺しているのが分かる。
「す、すみません。すぐに拭きます。そして、入院患者の守秘義務でそれは話せないんです。本当に、その、……ごめんなさい!」
 看護士さんは、そう言って頭を下げた。何だ、この反応? まさか、本当に……。
 何となく考えていたことだけれど、もしかしてコイツらは、俗に言う、『幽霊』と言う奴らなのか? 死んだ人間の魂、だとでも言うのか? はは、バカらしい、そんな訳無いじゃないか。
 鼻で笑ってみて、気づく。……こいつらが幽霊じゃないとすれば、じゃあ、俺がおかしくなったとでも言うのか? 手を握ってみる。異常なく動かせる、やはり、俺が異常だと言うのはどうにも信じられない、と言うより信じたくなかった。
 それならばやはり、幽霊が見えると仮定した方がまだ救いはある……と言うより、普通にそっちの方を信じたくなる。
 病室を出て、俺は考え事をしながら暖かい陽だまりの外へと向かった。外に出ると、宙には何かがたくさん浮かんでいた。ふわふわ、ふわふわと何を考えて居るのか分からない間抜けな何かが飛んでいる。これが全部、霊だと言うのか? 
 もしもこれらが本当に幽霊だとしたのならば、世界にはこんなにも多くの霊で満たされていると言うことになる。もしそうなら、今まで俺はこんな世界に暮らしていたのか、とふと考えて少しだけ不思議な気分になった。
 ただまぁ一様に『幽霊』と言ってもその形は多種多様で、ハッキリ人間の形をしたものから、ほぼ球体の白いモノまで様々だ。また濃さ、薄さもまた違う。人間と殆ど変わらないような幽霊や、その逆に、薄くて消えそうなのもある。
 と、ふとそれが目に入った。椅子に座っている、杖を持っていて何を考えて居るのかも分からないおじいさんだ。そのおじいさんは普通とは明らかに違い、身体がほぼ透明に透き通っている。
「あっ」
 俺はついそう呟いてしまった。
 おじいさんが目の前で、すぅっと消え去ってしまったのだ。一体、どこに消えてしまったのだろうか? ……これが、成仏って言う奴だろうか? 
 空を見ると、そこには霊がたくさん居る。だけれど、八割方の幽霊はもう、元の人間の形すらしていない。恐らく、自我なんてもう殆ど無いのだろう。
 ただの感情の固まり、残留思念、きっとそんなものなのだろう。
 そして、俺が一度死に掛けたから彼らが見えるようになった、彼ら側に限りなく近づいたから幽霊を見えるようになった、と言うことだろうか? でも、死に掛けてまで幽霊を見たくないんだけれどな……。そんなことを思う。
 幽霊って夜にしか居ないんじゃないかと思っていたが、そんなことは無かった。幽霊は、昼間でもキチンと生息しているのだ。ただ、彼らの存在意義は何だろう? 真剣にそんなことを考える。彼らは何もしないで、ただそこに居るだけなのだ。なぜ、この世に存在しているのだろうか? 
 宙に浮かんで居る幽霊に一度、触ろうとしてみた。だが、まるで空気を掴んでいるみたいで触れることが出来なかった。
「幽霊、か」
 そう呟いてふぅ、と息を一つ吐いたその時、ふと考え付いた。
 こいつらが、俺の幻覚や幻聴とかでは無くてもしも本当に幽霊なのだとしたら、もしかして、夕菜や夏奈の幽霊も居るんじゃないだろうか? 夕菜や夏奈に、また会うことが出来るんじゃないだろうか? と、そこまで考えて俺はブンブンと首を横に振った。
 俺が今までに見た殆どの幽霊は肉体が大きく破損しているし、意思疎通など出来なさそうだった。例えば、頭部の無い夕菜や夏奈を見て、俺はまだ正気を保っていられるのか? 頭部があったとしても、まるで知らない人間を見るような目つきで俺を見てくる、夏奈や夕菜を見ることに、耐えられるのか? 
 そう考えると、やっぱり会うべきじゃ無いし会えない。もう、信じたくないことだけれど、夕菜も夏奈も生きていない。もう、フンギリを付けないと駄目だ。
 そう自分を自制しながら俺は、退院して家へと帰った。

 一度、実家に戻ることにした。
 俺が住んでいた家には夏奈と夕菜の思い出が一杯ありすぎて、夏奈と夕菜を思い出してしまって、とても辛くて苦しいからだ。
 もしかしたら家に、夏奈と夕菜の幽霊が居るかもしれない。出来れば、俺だって会いたいけれど――それはむしろ、止めた方が良いだろう。
 もしも会ってしまったら、俺はどんな行動をするのか、自分でも分からない。
 だから、俺は、一度実家に戻ることにした。家の農家を手伝う。もう、俺の人生はそれで良い。もうどうだって良い。
 車から降りると、相変わらずの寂れた我が家が、俺を出迎えてくれた。恐らく昭和中期頃から存在するであろう、相当古い木造建築の我が家。『三重家』と書かれた木の看板が立てかけられている。
 実家は、俺が暮らしていた家から、およそ三十分間程車を走らせた場所にある。俺の家と実家はかなり近いのだ。だが、会社からは相当遠くなるし、言うのも何だが、良い歳こいて実家で暮らすと言うのには何となく良い気がしなかったから、新しく家を買ったのだった。
 服を自宅に運び込み、その後にコーヒーを煎れて飲んだ。
 久しい味だ。
 母親が、母親宛らの心配そうな顔で息子の俺を見てくる。それに対して俺は、「大丈夫だよ」と無理に笑ってそう言った。もう、死のうなんて考えないさ。
 それでも、親のその表情を見て居ると何だかいたたまれなくなり、俺は自室に戻った。数年ぶりの自分の部屋。過呼吸になったように、俺は息を大きく吐いた。
 ふと、その時だった。
 俺はそこで、信じられない光景を見た――いや、現実味の無い光景と言った方が良いかもしれない。
 そこには、女性が居た。まるで人間じゃないかのように、造形の整った日本人形のような女が、そこに居た。その怜悧で理知的な瞳は人より大きく濁りが無く、削りたての鉛筆の芯のように光を反射している。長いストレートな艶のある黒髪は膝まで伸びていて、その黒色な瞳と合わさってとても綺麗だ。小さいけれど芯の通った鼻筋に、初雪のように真っ白な肌。薄紅色の唇はラベンダーのようなは鈍い輝きを持っていて、まるで魅了の魔法がかかっているかのようだ。
 服はセーラー服、高校生だろうか? それにしては妖艶で麗しく、それなりの年齢の女性に見える。落ち着いた美人は実年齢よりも年上に見えると言うが、これは。いや、それよりも気になることが一つある。……彼女は一体、誰だ? なぜ俺の部屋で、当然のように眉一つ動かさずに、彼女は座っているんだ? 訳が分からない。俺は彼女を知らない、親の知り合いだろうか? それならなぜ俺の部屋に居るのだ? どのような理由にせよ、せめて挨拶くらいあっても良いじゃないか。
 あぁ、駄目だ。混乱してきた。まずは、彼女が誰かだけでも聞かないと落ち着かない。
「あ、えっと……」
 俺がそう言うと、彼女は無表情のまま首だけ動かして、俺の方を見てきた。透き通るような深遠な瞳に見つめられて、思わず一瞬言葉が詰まってしまう。その瞳に生気は無く、底の無い穴に見つめられているかのようなそんな錯覚を起こす。
 俺は、詰まった言葉を吐き出すように言った。
「君は一体、誰だ?」
 俺がそう言うと、彼女の瞳に生気が宿った。底の無い穴から純真な少女の瞳へと変貌を遂げる。そして彼女は、逆に俺に聞いてきた。
「貴方は一体、誰ですか?」
 質問に対して質問で返された。これは一体、どう言うことだろうか? 俺はどのような反応をすれば良くて、どれが正解なのだろうか? と、戸惑いながら俺は一応自分の名前を答えた。
「俺は、三重 雄斗……」
「珍しい名前ですね、では雄斗と呼ぶことにします」
 …………なぜこんなにも馴れ馴れしいんだ? 俺は、どんな反応を返せば良いんだ? とりあえず、俺が先ほどから疑問に思って居ることを返してみることにしよう。
「いや、……君は誰?」
「私? えっと、あれ? 私って誰でしたっけ?」
 と、彼女はその細首を右側にちょこんと愛らしく傾げた。その様相に、バカにしているのだろうか? と勘繰る。
「いや、だから――」
 そう言い掛けた時、俺は気づいた。彼女に本来あるべきもの、いや、人ならば当然あるべきものが無いことに。そう、『影が無い』と言うことに。
「……」
 思わず絶句してしまう。そして俺は理解をした。
 そうか、彼女は。
「覚えていないんです。私は一体『誰』でしょうか? あれ? いや、そもそも何でここに居るんでしょうか!?」
 死んで居るんだ。
「……」
 さて、どうしようか……今俺、幽霊と話していることになるんだよな。
「えと……」
 どう言えば良いかな? とりあえず、これだけは聞いておこうか。
「何でここに居るのか、覚えていないのか?」
「はい、全く。……あっ、も、もしかして、貴方が私をここに連れ去ってきたのですか!? 貴方は誘拐犯さんですか!?」
「それは無い」
 本当に覚えて居なさそうだ。と、言うより早くも前言を撤回する。彼女が『落ち着いた美人』に見えるのは、無口な時だけに限る。今は、ただの子供のようだ。
 とまぁ、それはさて置いて。
「えとさ、その、驚かないで聞いて欲しいんだけれど……」
「はい、何ですか?」
 彼女は、今度は左側に小首を傾げた。
「でも、これは事実だからね? 驚かないでね?」
「何ですか? 早く教えてください」
 これは、言うべきなのだろうか? と少し考えて、言うべきだろうなと自己解答を出す。別に親切心とかそう言うのは抜きにして、彼女は恐らく何も理解していないだろうから、一応それだけでも伝えるべきなのでは無いだろうか。
 だから俺は、口を開いた。
「君は、死んで居るんだ」
 俺の言葉に彼女の挙動が止まる。あえて単刀直入に言うならば、固まった、と言うのが正しいだろうか。訝しげな目で俺を見てくる、そんな目を見て居ると、言わなければ良かったと後悔の念が浮かんでくるから不思議だ。
 彼女は、少し考えた後にそのちっちゃな口を開いた。
「ナ、ナンダッテー」
 凄まじい棒読みだ、確信した。言わなければ良かった。
「……いや」
「と、まぁそれ以外にどう反応すれば良いんですか?」
 まるで、『私が死んで居るなんて有り得ない』と言わんばかりに彼女は俺に言ってきた。まぁ、当然の反応かもしれないけれど……俺は嘆息して、答えた。
「あー……。自分の影を見てみなよ」
「影?」
 彼女はキョロキョロと自分の周囲を眺めた。数秒眺めた後に、彼女が不安気な表情に変わるのが手に取るように分かった。
「あれ?」
「影が、無いだろ?」
「……こ、これは照明とかの関係で偶々影が出来ないだけです!」
 彼女がそう言って立ち上がった瞬間、彼女の身体がフワリと浮かび上がった。まるで月面に居る宇宙飛行士のように宙を浮かぶ。それに対して彼女は、驚きが隠せないようで戸惑っている。
「っ!? と、飛べます! 私、飛んでいます! 今現在、まさにフライしています! フライング、ナウです!」
 何で今ちょっと似非外国人が入った。
 いや、外国人と言ったら失礼かもしれない。外国人に。
「……どう言うことですか?」
 暫く後に、着地した彼女は真面目な顔になって、そう聞いてきた。もう一度言うべきかどうか悩んだが、ここまで言った以上、最後まで責任を取らなくちゃいけないと思い俺はもう一度その言葉を発した。
「君は、死んで居るんだ」
 彼女の表情が困惑に変化した。そして、身体を震わせながら確かめるように俺に聞いてきた。
「私が、死んで居る?」
「うん」
「…………」
 彼女は少し考えるような仕草をした。
「……嘘みたいです」
「まぁ、信じ難い話だよな」
 俺がそう同意すると、彼女は俺に向かって聞いてきた。
「……では、なぜ貴方は死んで居る私と話せるのですか?」
「それは――」
 ……まぁ、良いか。話しても。そう判断した俺は、とりあえず今までの経緯を簡潔に説明することにした。まずは妻と娘――夏奈と夕菜が死んでしまったこと、自暴自棄になって死ぬつもりでバイクを走らせていたら事故に遭ったと言うこと、目を覚ました時なぜか幽霊が見えるようになっていたこと、
 全てを話すと、彼女は顔を曇らせながら俺に謝罪してきた。
「……すみません、聞くべきでは無かったかもしれません……」
 彼女は視線を落としてそう言った。流石に良心の呵責があったのだろうか。
「まぁ、ね」
 未だに、夏奈と夕菜が死んだなんて考えられないし、信じたくない。今でも、家に帰ると、当たり前のように居るような気がするんだ。
 そんなことを思って居ると、目の前の彼女は「でも」と言葉を付け加えた。
「それにしても興味深いです。死後の世界がこうなっているだなんて、初めて知りました。意外と生きている時と変わらないんですね!」
 その言葉に対して俺は否定する。
「いや、ちょっと違う。実際に『幽霊』の殆どは人間の形を保っていないし、こうして話せるのは君が初めてだ」
「そうなんですか?」
「うん。……で、君は本当に何も覚えていないの?」
「全く覚えてないです」
「自分の名前さえも?」
「思い出せません」
 彼女はキッパリとそう言い、その後に、少し考えるような仕草をした。
「……そうですね……。折角幽体となっているし、外で遊んできます! 短い間でしたがお世話になりました!」
 ペコリ、と彼女は頭を軽く下げた。
「あぁいやこちらこそ」
 俺も条件反射で頭をなぜか下げてしまう。……いや、何がこちらこそなんだ? と、疑問に思って居ると彼女は立ち上がった。
「では、アディオスです」
 そう言い残すと彼女は、壁に向かって飛んで行った。壁を、通り抜ける。
「か、壁を通り抜けました! 思った通りです! 凄いです! 超能力者になった気分です!!」
 家の外からそんな声が聞こえる。……台風のような奴だったな。
「はぁ」
 と、俺は一つ溜息を吐いた。あと一つ突っ込ませてくれ。アディオスって、人をバカにしているのか? 

「で」
 俺は呆れを隠すことが出来ない。
「なぜお前は今ここに居るんだ?」
「……」
 彼女は無表情のまま、ちょこんと座布団の上に正座していた。
「さっき別れてから三十分も経っていないぞ?」
「それは……」
 彼女は何かを考えるような仕草をした。恐らく今考えて居るのは言い訳だろう。さぁて、どんな言い訳が出てくるか見物だな……。
「貴方と会いたかったから」
「白々しい嘘をどうもありがとう」
 言い訳ですら無かった。
「怖いよ雄斗……」
「なぜ、俺がお前に呼び捨てにされなきゃならんのだ」
「ゆうぴょん?」
「ぴょん付けすれば良いってもんじゃねぇ」
 本当に何なんだコイツは……。と呆れを隠せない。
「いやでも、会いたかったと言うのはあながち間違でもないんだよ? 雄斗」
「いつの間にか敬語じゃ無くなって居るしな。俺らはいつの間にそんなに打ち解けたんだっけ?」
「私は、あまり人見知りをしないタイプなの」
「そうかい、そいつは良かった。だがお前は何かを勘違いしている」
「勘違いしたい年頃なの、だから、雄斗。思いっきり勘違いさせて?」
「人が聞いたら誤解するようなその台詞止めろ。キャラ変わって居るし……。……で? 何で戻ってきたんだ?」
 俺がそう聞くと、彼女はソッポ向いた。何かバツが悪いのだろうか? そう思って居ると、彼女は不貞腐れたかのような表情でこう言った。
「だって……。他に私のこと見える人が居なかったんだもん……」
「……あぁ」
 不思議と納得した。
「話しかけても無視されるし、最初は空飛んだり人の家覗いたり色々と楽しかったんだけれど、……すぐに飽きた。何て言うか、思っていた程、楽しくなかったの」
「……で、結局『見える、聞こえる、話せる』の三拍子揃った俺の所までやってきた、と」
「そうそう」
 彼女は、絵に残しておきたいような笑顔で言った。
「だから私、暫くこの家に滞在する」
「待て、なぜ決定事項のように言っている」
「仕方ないじゃない、それとも何? 行く宛の無い女の子を追い出すようなそんな野暮なことをするの?」
「さも俺が悪いみたいな言い方するのは止めろ」
「……むぅ。強情だな雄斗は……」
「強情なのはお前だ、なぜ見ず知らずの他人といきなり一緒に暮らさなくちゃならないんだ」
「他人だなんて、だってもう私達、親友でしょ?」
「いつなったんだって!」
 何だか会話のループに苛立ってきた。……何かもう面倒臭くなってきた。
「あぁもう勝手にしろ、知らないぞ」
「うん! ありがと、雄斗!」
 彼女はそう、ある種の百点満点な笑みを浮かべた。そんな顔をされたら、何も言えなくなるだろうが……。はぁ、と俺は溜息を一つ吐き、押入れから布団を取り出した。
 床に敷きながら、俺はふと思い出す。
「ったく。……あぁそうだ、お前の名前を決めておかないと。名前が無いって言うんじゃ、色々と不便だ」
「私の名前? ……うーん……。雄斗が決めて?」
「俺が? ……そうだな、じゃあ、ユウで」
「ユウ? へ〜! 良い名前じゃん! ユウ、か。良い響き!」
 彼女は大層喜んで居る。
 幽霊の「幽」から取った、とは口が裂けても言えないなこりゃ。
「じゃあ、もう今日は寝るからな。電気消すぞ?」
「オーライ」
「だから何でちょくちょく外国人っぽくなるんだっつーの……。ま、良いや。お休み」
 俺は電気を消して、布団にもぐりこんだ。
 眠れる訳が無いけれど、少しは体力を回復して置かないと……。明日は、親の農業を手伝う約束をしている。親は『何もしなくて良いんだよ』と言っていたが、一人で膝抱えているよりも仕事をしていた方が幾らか楽だろう、と言う判断の元だった。
 夏奈と夕菜のことを思い出して、枕を濡らした。
 二人に、もう一度だけ会いたい。どうしようもなく、会いたい。いや、会ってしまったらきっと、俺は死にたくなる。夏奈や夕菜と同じ側に、行きたくなる。だから、今は会うことを諦める他無い。
 でも、それが最善の手段なのだと脳の中では分かっていてもやっぱり辛い、涙と嗚咽が止められない。あぁ、もう、きっとユウは気づいているんだろうな……。俺が泣いているの。
 だから、嫌なんだよ。
 夜が長い。

 とてつもなく目覚めが悪かった。ウトウトしていたはずのに、何となく目覚めてしまった。二度寝出来るような気分じゃない。
「……よう、おはよう」
 俺がユウにそう言ったその時、ユウはボーっと、天井を見上げていた。
 その瞳には、生気と言うモノが見受けられない。
「……ユウ?」
 俺が聞くと、ユウは昨日出会った時のようなあの虚ろな目のままで俺の方を見てきた。そして、俺に対して有り得ないようなことを聞いてきた。
「貴方は、誰ですか?」
「……は?」
 ふざけているのか、コイツは? まさか冗談なのか? こんな笑えないような冗談を言ってきて、人がどんな気持ちを抱くのか分かっているのか? 
「何言っているんだ? 雄斗だろ、昨日からお前を居候させてやっている……」
 そこまで言った時、ユウのその円らな瞳に炎々とする松明を直視したかのような光が灯った、生気が宿ったのだろう。
「雄、……斗?」
「あぁ」
「あ、雄斗だ! おはよう!」
 ……何だ? 今のユウの行動に言い知れない違和感を覚えたのだけれど……しかし、そんな違和感を飛ばすかのように、ユウは俺に抱き付こうと勢いよくジャンプしてきた。
 そしてそのまま俺をすり抜けて、さらに壁をすり抜けて、外へと飛び出して行った。部屋の中が無音になる。
 ……な、何だアイツは……。と、俺が唖然としているとユウはすぐに戻ってきた。
「何これ、結構面白いよ!」
 ユウはお菓子を貰った小学生のような笑みを浮かべた。
「……子供か」
「で、今日はどうするの? 遊ぶの?」
「遊ばねーよ。俺は仕事だ」
「じゃあ、私もそれ見ている!」
「……勝手にしろ」
 俺は嘆息した。せざるを得なかった。

 農家の息子だけあって、一応農作業の仕方は全部頭に叩き込まれている。本当に、自分で言うのも何だが、俺は即戦力の人材だ。
 俺は見事な手腕でコンバイダーを動かして、ユウに「お〜」と言わせた。
 何が「お〜」なんだよ、と。
 本当に、くだらねぇな。
 ……あれ? と、思わず自分が信じられなくなった。自分の顔を触ってみる。口角が上がっていた、俺は今、笑っていたのか……? と、自分で驚く。きゃっきゃと無邪気に楽しそうにしているユウを見て居ると、不思議と和む。
 もう二度と笑うことは無いと思っていたのに、本当に、不思議だ。

 久しぶりにやる農作業はとても疲れた。やはり、肉体的に疲労していると、深く考えなくて済む、仕事をして良かったと心の底からそう思えた。そしてその日は、嫌になるほどの肉体の疲労に任せて、本当に久しぶりに、眠ることが出来た。数日ぶりの、キチンとした睡眠だった。
「う……」
 カーテンから差し込む朝日が眩しい。もう朝か、と思いながら布団から起き上がり、周囲を見渡す。すると、ユウが布団の傍に居た。また、昨日や一昨日のような生気の無い顔で佇んでいた。
「ユウ、朝だぞ」
 目は開いているけれど……。コイツ、……寝ているのか……? そんな疑問をふと抱く。ユウは虚ろな目のままこっちを見て、そしてまた聞いてきた。
「誰ですか?」
「また寝ぼけてんのか、お前? 雄斗だろーが」
 俺がそう言うと、いつものようにユウの瞳に光が、生気が宿る。
「あっ! 雄斗だ!」
 ユウは、ヒマワリが咲いたかのような笑顔で俺に言ってきた。相変わらず違和感はあるが、まぁ、思い出すなら良いかと思い放置することにした。そして、俺はユウの毎朝の奇行に関してはあまり気にせずに、そのまま日常を過ごした。
 朝起きて、仕事をして、夜に眠る、実に健康的な生活だ。そして、健康的な生活を形だけでもやってみると、身体は勿論のこと心まで自然と健康になっていくのが分かった。少なくとも、一人でずっと部屋に篭って居るよりかは、大分。
 毎日が過ぎるのが、早くなった。
 そして、ユウと暮らし始めて二週間が経った。仕事をする為に身体を、只、がむしゃらに動かしているだけで、物事を深く考えることが少なくなってきたような気がする。段々と、心が健康になってきているのが分かる。最初は全く食べ物を胃が受け付けなかったが、ここ三日程は三食キッカリ食べられるようになった。人間の心は、いつまでも悲しみに明け暮れては居られないんだと知って、何だか妙な気分になった。
 そしてその日、ユウと暮らし始めて丁度二週間が経ったその日は、祝日だった。そしてその際に、母親から、「今日は祝日だから農作業は休んで良いよ」と、ありがたい言葉を貰った。
「雄斗、今日休みなの!?」
 ユウがその整った顔を俺に近づけてくる。
「あぁ、そうだけれど?」
 俺が返すと、ユウは星空を見上げた子供のように目を爛々と輝かせながら言ってきた。
「遊びに連れて行って欲しいな!」
「えー」
 俺はわざと不満気な表情をしてみた。少し、ユウを困らせてみたかったのだ。
 すると、ユウは俺に顔をグッと近づけて言ってくる。
「良いじゃん! どっかに連れて行ってよ!」
「どーしよーかなー」
 俺はあえてからかうように、そう言った。
「連れてってくれないなら……。雄斗の額に『肉』って書くよ!」
「リアルな脅し!?」
 って言うか、モノに触れられないのにどうやってラクガキするんだ? 
「……あぁもう、分かった分かった。じゃあ、水族館でも行くか」
「わーい!」
 ユウは無邪気にそう喜んだ。

 この田舎町で遊べるような所と言えば、自然と限られてくる。
 駅前には一応、小さなゲームセンターが一つあるが、とても丸一日遊べるような所じゃない。遊べるような所と言えば、やはり栄えて居る隣町の方が多い。隣町にはショッピングモールや、大きなゲームセンターだってあるし、駅から歩いて十分ぐらいの所には、水族館だってある。
 「モノに触れることが出来ない」ユウはゲームセンターで遊ぶことが出来ないし、ショッピングモールとかで服を試着することも出来ない。ならば、見るだけで楽しめる水族館が良いのでは無いだろうか? と、言うのが俺の一秒の思考の末に辿り着いた結論である。
 家から外に出ると、小春日和なのが分かった、暖かくて、ぽかぽかしているので睡眠欲がかきたてられる、そんな天気だ。日向ぼっことかしてみたい。
 しかし俺も大人なのでそう言う感情は自制して、とりあえず俺は携帯電話を耳に当てた。
「あれ? どうしたの、電話?」
 ユウが俺に聞いてくる。
「あぁいや、そうじゃない。ユウの姿は他の人達には見えないんだから、まぁ、カモフラージュだな」
「カモフラージュ?」
「ほら、携帯でも耳に当てていないと、俺が虚空に向かって喋って居る危ない人間に見えるだろ?」
「……えっ? 違うの?」
「オーケー、ユウ、お前とは一度ジックリと話し合う必要がありそうだ」
 素の表情で「違うの?」って流石の俺でも傷つくぞそれ? 
 と、まぁバカな会話をしながら水族館に着いた。
 祝日、ということもあり水族館はかなり混んでいた。列に並び、チケット購入を待つ。やっと俺らの番になった。
「大人二枚!」
 ユウがにこやかに受付のおばさんにそう言う。しかし、聞こえていないようで(当然の話だが)、受付のおばちゃんが「何名様ですか?」と俺に対して聞いてくる。
「大人一枚で」
「雄斗!」
 ユウが怒ったような仕草を見せる。
「ちゃんと、見るんだからお金も払わなくちゃ駄目だよ」
 ほっぺたを膨らませている。それに対して俺は携帯を耳に当てながら、返す。
「いや、お前の金じゃねーじゃん……」
 見えてないんだから、別にお金払わなくたって良いような気がするが……。
「お天道様はね、私達のことをちゃんと見て居るんだよ!」
 ……まぁ、もっともかもしれない。確かに、お金を払う払わない以前にユウを人間扱いしていなかったのは、それは俺が悪いのかもしれない。
「あぁ、分かった。買ってやるって」
 俺は苦笑した。そして、受付のおばちゃんに言った。
「あ、追加で『小学生以下』一枚」
「雄斗!?」

 俺らは入場した。
「小学生以下って……。酷いよ雄斗」
「あっはっはっは! あのユウの驚いた顔!」
 ひー、笑いすぎて腹が痛い。
「わ、笑い事じゃないよ……」
「そう怒るなよ、最終的には『大人』の入場券を買ってやったんだから」
「でもでも、レディーをからかった罪は重いんだよ!」
「まぁ、そう拗ねるな」
 ユウは頬っぺたを再び膨らませる。
 さっきも思ったが、これが彼女の「怒り」の表現なのだろうか? 
 本当に、子供か。
「後でソフトクリームとか買ってやるから」
「ワーイ! ……って、私、食べられないじゃん」
「あぁ、ソフトクリームを買ってユウの目の前で俺が食べてやるから」
「イジメ!? それイジメだよ雄斗!?」
 本当に、反応が面白い奴だ。一緒に居て、飽きない。
 俺らはその後、館内を巡った。
「わっ! これ凄いよ雄斗!」
 ユウが透明なクラゲを指さしてそう言う。
「おっきい〜」
 サメを見て、感嘆の声を上げる。
「わ〜! 可愛いよ! この子可愛い!」
「……その魚、毒を持って居るぞ?」
「嘘!? へぇ〜、可愛い顔をして意外とやるんだな、お前っ!」
「いや、誰だよお前……」
 ユウと居る時間は、とても、とても楽しかった。
「イルカのショー?」
「ねっ! 見に行こうよ!」
 俺が持っているパンフレットを眺めながら、ユウは言った。
「んー。じゃあ、まぁ行くか」
「うん!」
 俺らはイルカのショーを見に行った。
 目が小さくて、愛らしい姿のイルカが調教師に指示されて演技を行なう。水中からジャンプをして、空を軽やかに舞い、輪をくぐる。尻尾をバタつかせて水上にて踊る。連携された訓練の積まれたその動きは、見る者を圧倒して、そして魅了する。
「うおぉ……」
 さっきまではしゃいでいたユウも、今では手に汗握って(汗があるのか分からないけれど)イルカ達の演技を見守っている。曲の終了間際に、五匹のイルカ達が順繰りに飛び跳ねて空中を一回転して、水中へと沈んで行った。曲が終了する。これにて、全ての演技は終了だ。
 観客達の歓声と拍手が沸きあがる。
「おおおおおお!」
 ユウも一生懸命拍手をしている、どうやらご満悦のようだ。こんなに喜んで貰えるのなら来て良かった、と、俺はおにぎりを頬張りながら思った。

「楽しかったね雄斗!」
「まぁな」
 事実、凄い楽しかった。また休日にはユウと遊びに来ても良いかもしれない。心からそう思う。
「……あれ?」
 矢庭に、ユウが止まった。余りに唐突だったので、何事かと思って聞き返す。
「どうした?」
「あの子……」
 ユウが指さしたその方角には、恐らく、五歳か六歳くらいの小さな男の子が居た。壁にもたれかかるように座り込み、泣いている。
「……お母さん……」
 迷子だろうか? こんな人の多い場所で迷子ってまた厄介な、と思うが放っておく訳にも行かないので、俺はその子供に話しかけた。
「どうした少年、何があった?」
 俺がそう聞くとその子供は一瞬泣きやみ、俺の顔を見上げてきた。無言で俺の顔をじっと見つめてくる。どうやら、警戒しているようだった。
「おじちゃん、……誰?」
「おじ……っ。お兄ちゃん」
「雄斗、何だか言い訳がましいよ……」
 うるさい。
「えと、君は迷子なのかな?」
 俺がそう聞くと、子供は首を縦に振って頷いた。
「そうか……。どこら辺ではぐれたとか、分かるか?」
 子供はフルフルと首を横に振った。
「こりゃ厄介だな……」
 祝日なので人はかなり多い。この中から特定の人間を探し出すと言うのは、中々どうして骨が折れる作業だ。
「……まぁ、考えてもしょうがない、立てるか?」
「えっ? うん」
 子供は立ち上がった。子供の手を繋ぎ、俺は大きな声を張り上げた。
「すみませ〜ん! この子のお母さんはいらっしゃいませんか?」
 視線が集まる。が、それらしき人物が名乗り出る雰囲気は無い。
「うーん……。坊や、名前は?」
 俺が聞くと、その子供は元気ハツラツに答えた。
「僕? ユウ君!」
 ユウ君? 
「えっ!? この子の名前もユウって言うの!?」
 ユウが口を大きく開けて、驚いている。それに対して子供が答えた。
「うん! 田井中裕也だから、ユウ君!」
「へぇ〜、雄斗に、ユウに、裕也、……トリプルユウだね!」
「何だそれ?」
 ――今、ユウに突っ込んだのは俺じゃない。なら、誰だ? 誰が今突っ込んだんだ? と思ってそちらの方に視線をやると、そこに居たのは俺に手を繋がれて居る、裕也君だった。
「……えっ?」
「って、お姉ちゃん飛んでいる!?」
「えっ? うん、気づいたら飛べるように――って。えっ?」
 思わず、俺もユウも固まってしまう。
「見、……見えるの……?」
 ユウの質問に対して、裕也君が聞き返す。
「どう言うこと?」
「私が、見えるの……?」
「何言っているの、お姉ちゃん?」
 間違いない、この子供にはユウの姿が見えている、さらに姿が見えるだけでは無くて声も認知出来ているようだ。今まで、俺の他にユウのことを見える人間に出会ったことが無かったので、俺もユウも驚きが隠せない。だが、そんなのどこ吹く風で裕也君は続けた。
「そんなの当たり前でしょ?」
 見えるのが当たり前、そう信じて止まない裕也君は無垢な表情で言った。
 そりゃあまぁ、当然の話だ。普通の人間なら逆に、『見えない』なんてことの方が異常なのだから。しかし『異常』の側のユウとしては、それはある種の嫌味にしか聞こえないだろう。
「見えるのが当たり前、か……」
 ユウが寂しげな表情を浮かべて、そう呟いた。
 当たり前に、『見える』。知り合いや友達などから、『認知される』。ただそれだけで、どれだけ幸せなことか裕也君は知らないのだろう。
 ……もっとも、裕也君自身ユウが死んで居ると言うことを知らないのだから、責めることは当然出来ない。
 だけれど、それでも俺はこう思わざるを得ない。子供は時として凄く残酷なのだ、と。
「あ、あはは、そうだね、当たり前だよね」
 それでもユウはあははと精一杯の笑顔を見せていた。
 しかし、裕也君はユウの感情にまで気が回っていないようだった。話しの流れを全てぶった切ってそれよりも、なぜ空を飛んでいるのか、と言うことに対してユウに質問をする。
「えっと、それでお姉ちゃん、どうやって飛んでいるの?」
 ……それにしてもあまり、裕也君とユウが話しているのは良い気分じゃない。裕也君が今喋っている方向には、「誰も居ない」のだから、俺は虚空に向かって独り言を呟いている少年を連れて居ることになる。少し恥ずかしい。
 しかし、そんなことまでユウが考えて居るはずもなく、当然のようにユウは裕也君に対して言葉を返した。
「どうやって飛んで居るかって?」
「うん!」
「……飛ぶ必要は無いんじゃないかな?」
「え〜? どうして!?」
「どうしてって……。……じゃあ、飛ぶ代わりに、『お父さんやお母さんやお友達に、一生会えない』ことになるとしたら、どうする?」
「え〜、何だよそれ〜!」
「じゃあ、裕也君はどうしたい? 大好きな人達に会えなくなったとしても、それでもまだ空を飛んでみたい?」
「……う〜ん……。……やっぱり、良いや!」
「――っ!」
 そうか。
 俺だけが、夏奈や夕菜に会えない、家族を亡くした人間だと思っていたけれど、それは違う。――ユウもだ。ユウも、もう肉親には会うことが出来ない。親だけじゃなくて、友達や先生にも、赤の他人さえも、嫌いだった奴にも、もう全員に会うことが出来ない。向こうからは自分のことが見えないのだから。それに、誰が家族かさえも、ユウは覚えていないのだから。
 ユウの気持ちを思うと、ただただ心が痛む。俺が心を痛ませても何も変わらないのだろうけれど、でも、それでも、何だろうかこの感情は? と、俺が自分自身の気持ちに疑問を抱いているその時だった。
「ユウ君!?」
 ふと、そんな声が彼方から聞こえた。そっちの方には、眼鏡をかけた、恐らく俺と同年代くらいであろう一人の女の人が居た。
「お母さん!?」
 俺に手を繋がれていた裕也君が顔を輝かせてそう言った。どうやら無事に見つかったようだ。俺は、裕也君から手を離す。
「お母さ〜ん!」
「ユウ君!」
 お母さんと裕也君はシッカリと抱き合った。お互いを離さないように、お互いの存在を確かめ合うかのように抱き合った。それは、とても微笑ましい光景に見える。だけれどもその光景は『持たない者』にとっては猛毒だった。
 心の大海に感情が沈んでいくのが分かる。
「ありがとうございました、本当に、ありがとうございました……!」
 何度も何度もお母さんは頭を下げて、そして二人は手を繋いで、どこかへと去って行った。俺らは、それを後ろから見送っていた。暫く見送っていた後に、ユウが俺に対して言ってきた。
「良かったね、無事に見つかって。…………雄斗?」
 ユウの挙動が一瞬にして止まる、それの理由は分かっている。誰よりも、俺が分かっている。きっとそれは、その理由は一つしか無い。俺が、泣いていたからだ。ユウが何も言わずに戸惑いの視線で俺を見てくるのが分かる。俺は、我慢出来ずに感情を口と言う媒介から漏らしてしまった。
「……あぁ、畜生……。羨ましいなぁ……」
 羨ましくて、妬ましくて、そんな感情を抱いている自分自身に嫌悪感を抱いてしまって、悲しくて、溢れた感情が目から流れる。どうして彼女や裕也君にはあって、俺には無いんだろうか? 家族と言う存在が、居ないのだろうか? 俺にだって、つい二週間前にはあんな家族が居たのに、幸せだったのに、もう取り戻せない。
「雄斗……」
「ごめん……。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ待っていて……。その後は、いつもの俺に戻るから……。すぐに、……戻るから……っ」
 夕菜と夏奈の顔を思い出す。彼女達と過ごした六年間が脳内に走馬灯のように駆け巡る。幸せだったからこそ、無くなるとこんなにも悲しいんだ。憂鬱がボロボロと流れていく。
「……」
 俺は、ふと目の前の彼女に気づいた。勿論、目の前に居るのはユウしか居ないが、その彼女が普通じゃない行為をしているのに、気づいてしまった。信じられなくて、思わず突っ込んでしまう。
「…………何で、お前が、泣いているんだよ……」
 ユウも瞳から止め処無い雫を流していた。彼女は、感情が高まって詰まった言葉で俺に対して言ってきた。
「だって、だって、雄斗が泣いて居たら、私だって悲しいもん!」
 ユウはそう叫んで、白い透き通った手で目頭を擦った。
「何でだよ……」
「私だって分かんないよ! でも、……でも、雄斗が泣いて居たら、何でか分からないけれど、私も悲しいの……っ!」
「同情なら止め――」
「同情なんかじゃないよ!」
 俺の言葉は、ユウの言葉によって遮られた。
「私だって……っ、悲しいんだよ……!」
「バカ……野郎……」
 そして、俺らは二人で一緒に泣いた。とにかく、泣いた。……あぁ、もう、優しいなコイツは……。何で、俺なんかの為に泣いてくれるんだ? どうして、俺なんかと一緒に泣いてくれるんだ? 一緒に誰かが泣いてくれるだけで、こんなにも心強いなんて知らなかった。きっと、ユウはそれを知っていたのかもしれない。それは、分からない。
 二人で暫く泣いていた後に、ユウが俺に対してその白い肌を薄紅色に染めながら言ってきた。
「雄斗、私ね、……気づいたことがある」
「……何だよ?」
「まだ、内緒」
 笑ってくるユウは、不覚にも可愛いと思ってしまった。
 夏の雨上がりのように、止まることの無いと思っていた俺の涙が、止まった。

 次の休日だった。ユウがまた俺に対して我侭を言ってきた。
「遊びに連れて行って!」
「えー、疲れて居るんだけれどなぁ……」
 と、わざとそんな意地悪なことを言ってみる。
「良いじゃん、良いじゃん! 連れて行ってよ!」
 ……やれやれ、しょうがないな。この間の恩もあることだし、まぁ、今日一日はお姫様に付き合ってやるか。
「分かった、じゃあ、今日もどこか遊びに行こうか」
「うん!」
 そして俺は、今日もユウと過ごす。
 ユウと過ごす時間は、かけがえの無いモノになっていた。ユウの笑顔を見て居ると、ユウと一緒に居るのはとても楽しくて、喋っているだけでも幸せになれて。――そして、ユウと暮らし始めて、明日でもう二ヶ月になろうとしていた。いつの間にか、気づいたら、夏奈や夕菜を思い出す時間が少なくなっていた。絶対に忘れないと確信していたのに、いつの間にか、俺の心はユウに侵略されていた。
 怖かった。俺はこのまま、夏奈や夕菜のことを忘れてしまうのでは無いだろうか? そんな恐怖にふと駆られる。
 そんなことを考えながらユウと暮らし始めて丁度、二ヶ月が経った頃だった。自宅に、修理された俺のバイクが届いた。
「おお」
 久しぶりに見る俺のバイクは、光輝いているように見えた。俺が若かった頃バイト代を貯めに貯めて買ったバイクで、ここ数年乗っていなかったとは言えやはり思いいれは強い。一応保険はまだ適用されていたので、修理されて帰ってきたのだ。
「わ〜、格好良いね!」
「だろ?」
 俺は少し得意になってそう言う。やはり、バイクを褒められると言うのはとても嬉しいものだ。
「えっ、これ買ったの?」
「あー、いや、違う。保険が適用されて直ったんだよ」
「保険?」
「ん? あぁ、ほら、俺が事故って死に掛けたって言ったじゃん。その時のバイク」
「あぁ、成る程……」
「いや十字路でさ、向こうが見えなくて車が突っ込んできてさ。……って言っても、俺も相当にスピードを出していたんだけれど……。で、吹っ飛んで殆ど原型が無くなるくらい壊れちゃっていたんだよ。でも、直って本当に良かった」
「へぇ〜良かった、…………あれ?」
 ふとユウがそう言い掛けたその時、ユウ自身の表情が刹那、変貌した。
「事故……?」
「ん? どうした、ユウ?」
「待って、……交通、事故……?」
 そう言いかけて、ユウが唐突に頭を抱えた。
「十字路? ……向こうが、見えない……?」
「ユウ?」
「……っ! ……あぁっ……ぅ!」
「ど、どうした?」
 いきなりだったし、今までに無かったことだったので、心配になってそう聞く。ユウが本当に苦しそうに言の葉を発した。
「頭が……、痛い……っ!」
「だ、大丈夫か!?」
「あぁあぁあぁ…………っ!」
 ユウは頭を抱えながら悶絶した。
「ああああああああああああああああああああああ」
 ユウが凄まじい声で絶叫した。木から一斉に鳥達が羽ばたくのが分かる、俺は何も言えなくて、ただただ何があったのか分からなくて息をすることさえも忘れて全身が硬直してしまう。鳥達が羽ばたく羽の音が遠ざかり、不意に、無音が場を包む。ユウは目を大きく開けて口を半開きのまま、視線を虚空から外さずに言った。
「思い……出した……。私、いつも忘れていた……。長い間、毎日、一人でずっと過ごしていて、……何で忘れちゃっていたんだろう? どうして、……どうして!?」
 ユウは手で顔を覆った。
「思い出した。……思い出した、よ」
「何を、だ……?」
 俺の問い掛けに対してユウは、涙を袖でゴシゴシと拭いて微笑みかけてきた。
「信じられないよね? ……私も、信じられない……」
「だから、何をだよ!」
「私は、死んでなんか居なかった……」
 死んでなんか居なかった、とユウは確かにそう言った。俺は何が起こったのか余り良く理解することが出来ずにその場から一歩も動くことが出来なかった。

「まずいって! こんな所に忍び込んだら……」
「でも、面会なんて出来る訳が無いじゃん!」
 ユウはそう言った。と、不意にその時物音が響く。
「待って、私が見てくるから」
 そう言ってユウは壁をすり抜けて隣の部屋を見に行った。五秒ほどで戻ってきた。
「医者が居るわ、隠れて」
「あ、あぁ……」
 俺は壁際に隠れた。少し待つと、医者が病室の外に出て行ったのが見える。ユウが俺に対して言ってきた。
「今だよ、雄斗!」
「お、おう」
 俺は急いで病室の扉を開けて、中へと入り込んだ。……しかし、こんなことをやって問題では無いのだろうか? いや、問題だろう。そう言うのって詳しく知らないけれど、これ見つかったら結構やばいんじゃないだろうか? 
 そんなことを思いながら、ベッドの上に寝て居る女に視線をやった。瞬間、俺は全てを忘れて目の前に女に魅入ってしまった。暫く後に、隣に居るユウへと視線をやる。
 顔が、全く同じだ。
 ――隣町の外れにある、大学病院には、およそ十年間もの間ずっと目を覚まさない少女が居ると言う。原因は交通事故、十字路の死角からやってきた車にはねられたと言う。彼女は今現在も目を覚ましていない。
 だが、それでも目覚めない原因は全くの不明らしい。身体はとうの昔に完治しているはずなのに、まるで『魂が抜けたかのように』目覚めない少女、生きているのか死んで居るのか分からない少女。十六歳の時に交通事故に遭い、現在二十六歳の彼女。名前は――橋本 美花。両親は既に死に、両親の遺産によって彼女は生きながらえて居るらしい。
「……」
 ユウは黙ったまま、目の前の女性を見つめている。先ほど病室の前にかけられていたネームプレートを見たが、どうやら彼女は橋本美花と言うらしい。彼女は、双子かと思う程にユウにソックリだ。いや、それも至極当然と言えば当然の話だ。
 なぜなら、ユウ=橋本美花なのだから。
「……幽霊になるとね、すっごく、物忘れが激しくなるんだ……」
 ユウが呟き始めた。
「おそらくだけれどね、『忘れる』ことによって、この世とのしがらみを絶っているのかもしれない。でもね、だからって『自分のことまで忘れる』とは、思わなかったなぁ……」
 彼女は、悲しげに失笑した。
「ユウ……」
 ようやく、どうして彼女が他の霊とは明らかに違っていたのか理解することが出来た、それは、生霊だったからか。
「全部、思い出したよ。私は橋本美花、交通事故が起こった当時は十六歳だった。私は高校生で、自分にはたくさんの未来があると信じて、疑っていなかった」
「……」
 俺は何も言えなかった。何て返せば良いのか分からなかった。
 俺が返答に困っているとユウが続けた。
「交通事故に遭ってさ、ふと、目を覚ましたら自分が身体から浮いていることに気づいたの。……面白かったから、ちょっとだけ遊ぼうって思って……」
「それで、……『自分のことを忘れてしまって、帰れなくなった』と……」
 ユウはコクリと頷いた。
「バカ、だよね。それで、私は十年間ずっと彷徨っていたんだよ。毎日、記憶がほぼ『リセット』されて、毎日新しい毎日の繰り返しで――。でも、雄斗と一緒に居る間は、何でか分からないけれどちゃんと思い出すことが出来た。雄斗のことを、だから――」
 彼女は何かを言いかけて、口を閉ざした。
「……」
 彼女は今、どんな気持ちなのだろうか? 毎日がほぼ「リセット」されて、気づいたら十年間も経っていたと言う彼女の今の心境は、とてもはかりしれるものではない。
「……」
 ユウは自分の身体に対して手を伸ばした。すると、手を伸ばした瞬間、細い白い糸のようなモノがユウの手から出た。
 ユウの身体が溶けている……!?
「入れそう」
 ユウは端的にそう言い、橋本美花の身体から手を離した。すると、ユウの手はいつもの形に戻った。
「入れそうって……。この身体にか?」
「うん」
 ユウは俺と視線を合わせて真っ直ぐに頷いた。
 だが、ユウがもしもこの身体に戻ったとしたら一体どうなるんだろう。ユウがこの身体に戻ったとして、橋本美花は元の「ユウ」のままなのだろうか、「ユウ」だった頃の記憶はあるのだろうか、俺と過ごした日々の記憶は、残っているのだろうか。
 でも、それでも、元の身体に戻って人としての生活をするのが彼女にとっての幸せなのでは無いだろうか、少なくても、このまま幽体で居るよりかは格段に幸せなのでは無いだろうか? 
 人と話すことが出来る、人とコミュニケーションを取ることが出来る。
 人を愛せるし、人に愛して貰える。
 仮に俺のことを全て忘れてしまったとしても、それが出来るだけでも、幸せなのでは無いだろうか? それは分かっている。それなのに、なぜ俺はこんなにも悲しいのだろうか。どうして、ユウが俺のことを忘れると考えただけで、こんなにも身が張り裂けそうになるのだろうか。ユウだって、毎朝俺に対して「誰ですか?」って言ってくるじゃないか、それと同じことだ。そのまま、ユウが俺のことを思い出してくれないだけだ、それだけのことなのに、心が、叫んでいる。このままで良いじゃないかと、心の中の悪魔が俺に囁きかけてくる。
 俺は頭をブンブンと振った。何をバカなことを考えて居るんだ、俺は。
 そして、俺は強がってこう言った。
「入れよ」
「……えっ?」
 ユウが悲しそうな表情を浮かべる。だけれど、俺は言葉を続けた。
「入って、人間として生きた方がユウの為だ。……だから」
「嫌、だよ……」
 ユウはボソリと、そう呟いた。
「えっ?」
「だって、忘れちゃうかもなんだよ? 雄斗と暮らした二ヶ月間を、全部。……全部。……それに、戻った時の私が、今の『私』である保証なんて、どこにも無いんだよ?」
「……ユウ」
 ユウの頬は濡れていた。頬を伝い落涙した雫が、地面を濡らすのが見えた。
「あぁもう、何でこんな感情抱いちゃったんだろ? どうしてなんだろ? こんな感情さえ無かったら、もっと楽なのにね」
「ユウ?」
 俺が戸惑っていると、ユウは一つ深呼吸をした。深く、深く、自分を落ち着けようと落ち着いて深呼吸をした。そして、顔を涙でグシャグシャにしながら、それでも強がって、笑って、言ったんだ。

「私は、――ユウは、雄斗のことが、好きです」

「……っ!」
「一緒に居てね、すっごく楽しくってね、雄斗がね、必要だなって。大切なんだなって思えて……。だから、私は、世界で一番、雄斗のことが大好きです」
 ユウは俺にそう告白してきた、心臓がドキドキ言っているのが分かる。
 やっと、気づいた。きっと、それは事実なのだろう、認めたくないけれど嘘では無いのだろう。――俺も、ユウが好きだ。
 でも、だけれど、俺も好きとは言えない。だって、俺だけが幸せになる訳にはいかないじゃないか。俺だけが幸せになってしまったら、夏奈や夕菜が可哀相じゃないか。だから、俺は、それが正しい行為では無いと知りながら、ユウを傷つけると知りながら。
「…………ごめん」
 謝った。
「……本当に、……ごめん。俺は、まだ、夏奈のことが……」
 本当にそうだろうか、夏奈は、確かに今でも好きだ。嘘じゃなくて本当に、心の底から大好きだ。でも、何かが違うような気がする。この違和感は何だろうか、どうしてこんなにも、悲しいんだろうか。俺がそう言った時のユウの表情は、筆舌に耐え難いくらい、悲痛で、苦しそうで、後悔を顔中に出していて。
「あ、あは……」
 ユウは、乾いた笑いを虚空に出した。
「そ、そうだよね。そう、だよね……。……ごめんね? 私なんかが告白しちゃって、迷惑だった、……よね?」
 ユウは必死に笑顔を作ろうと頑張っている、迷惑なんかじゃない、迷惑なものか。嬉しかった。全身をホンワカとした幸せが包みこんで、凄く暖かな気分になれて、本気で嬉しかった。
「私、何を期待しちゃっていたんだろう? ……本当に、バカみたい……」
 顔を服の襟元にうずめて、ユウはそれっきり話さなくなった。何だこれ? 胸がベルトで締め付けられたみたいに、苦しい。ユウが泣いているのを見ると、心が張り裂けそうだ。今すぐにでも弁解して、「違うんだ、俺だってお前のことが好きなんだ」と言いたくなる。だけれど、それは、しない。それをしてしまったら、俺は、自分の言葉にも責任が持てない奴になるから、俺は。俺は……。頭を、掻き毟った。
「……あぁもう、駄目だな。本当に、……駄目だ」
「……え?」
 ユウは、その無垢な顔を浮かべて聞いてきた。俺は、いつからこんな女々しい男になったんだ、昔の俺なら、もっと、真っ直ぐだったじゃないか。こんなに辛い思いするくらいなら、行動に起こしていたじゃないか。
「……っ!」
 俺は、ユウに背を向けた。
「雄……斗……?」
 ユウが泣きそうな声で俺の名前を呼んで来た。
「……ごめん」
 俺は、そのまま歩を進めた。
「雄…………」
 後ろの方から、声が聞こえた。心が痛む。ズキリ、ズキリと、痛い。でも、俺が取るべき行動は一つしか無い。それ以外に取るべき行動が、見つからない。
 そして俺が向かったのは、俺が二ヶ月前まで住んでいた、自宅だった。
 今まで、あえて避けて来た行為をしよう、死んで居る、幽霊の状態の夕菜と夏奈に会おう。それがケジメだ。
 仮に、どのような結果になろうとも。

「死んで」
 幽霊にしてはとても美しく、眉目秀麗な生前と全く変わらない姿の彼女は言った。いや、語弊があった。服で隠れているけれど、手や、足には目を逸らしたくなるような火傷の痕、それに加えて、服を濡らしている赤の染み。それは、最愛だった人――三重 夏奈。
 その傍らには、頭から大量の血を流している俺の娘の、三重 夕菜が居た。とても、正常な人間なら立って居られないような、傷。だから、それを見ると、理解してしまって。
 やはり、彼女達が死んでしまっているのだと、判ってしまって。
「私達と一緒に、暮らそう?」
 泣きそうな表情で、彼女はそう言ってきた。それも、悪くは無いかもしれない。そんなことをふと思う。そして、彼女のその火傷で爛れた手が、俺に近づいてきた。

Last story

 およそ二ヶ月ぶりの、本当の意味での「我が家」に俺はやって来ていた。夕菜と、夏奈と、三人で暮らしていた家。田舎の中古の家と言えば、驚く程値段が安い。が、そうは言ってもやはり家は家なので、買う時には親からお金を借りたのだった。が、いくらボロいとはいえ、一戸建ての俺の「城」だ。当然、思い入れもあるし、楽しかった思い出もある。
 だからこそ、ここに来ると――辛い。もうあの、楽しかった日々が戻らないのだと知っているから。割れたガラス玉が、元の輝きを放つことなんて無いんだって、知っているから、尚更辛い。
 そもそも、ここに夏奈と夕菜が居るなんて保証はどこにも無い。だが俺はなぜか、ここに夕菜と夏奈が居ると信じて疑わなかった。他にも居そうな場所はあるにも関わらず、夏奈と夕菜は必ずここに居ると言う確信に近いようなモノを、なぜか俺は持っていた。
 根拠なんて全く無い、只の勘だ。
 なのに、今回は、今回に限っては全く外れる気がしなかった。時刻は夜の十一時、空には霊達がぷかぷかと浮かんでいる。俺は、財布から鍵を取り出して、鍵穴に鍵を差し込んだ。その瞬間、得体の知れない感情が俺を包んだ。
 まだ、止められるんじゃないか? 
 そんなことをふと思ってしまって、俺はブンブンと首を横に振った。ここまで来て、開けずに帰れる訳が無い。
 俺は恐る恐る鍵を開けた、するとガチャリと言う冷たい金属音が響く。躊躇いを含めながらドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
「……」
 隠微な雰囲気が漂っている室内には静寂と薄暗闇が似合っている。埃臭さが鼻を付き、まるでここが廃墟なのでは無いだろうかと錯覚を起こしてしまう。二ヶ月間人が住んでいなかっただけで、家と言うのはここまで埃っぽくなるんだな……と妙に冷静な頭でそんなことを思う。
 リビングの窓から月明かりが差し込んでいるのを確認して、俺はほぼ真っ暗闇の中一人靴を脱ぎ、床を踏みしめた。一歩、二歩、と歩きそして、リビングの玄関を開ける。
 今まで俺と夏奈と夕菜の三人で最も多くの時間を過ごした場所、リビング。そこには、誰かが居た。まるで俺を待っていたかのように、来訪者をずっと、ずっと待ち侘びたように。
 月明かりを見る、二人。
「……ただいま」
 俺がそう言うと、数秒の間があり彼女達はユックリと振り返った。一人は、大人の女性でもう一人は、幼い女の子だ。間違えようも無い、間違えるはずが無い。彼女達は俺が最も愛した、夏奈と、夕菜だ。
「……お帰りなさい、貴方……」
「うん、……ただいま」
「誰?」
 夕菜の無垢な声が聞こえる。その声を聞くだけで、泣きそうになってしまう。
 ――駄目だ、泣く訳にはいかない。
「……パパだよ。……お前の、……夕菜の、……パパだ……」
「パ……………………パ…………?」
 夕菜は何かを思い出すかのように固まったまま、俺に向かって小首を傾げた。
「あぁ、パパだ。……ただいま」
 俺は何回も、「ただいま」と繰り返した。再び、夕菜や夏奈に出会えた。それだけで俺の身体中を喜びが包む。
「……………………あっ!」
 不意に、夕菜が何かを思い出したように言った。
「パパだ!」
「そうだよ、パパだ。……お前の、……パパだよ……っ」
 駄目だ、涙腺がもう持たない。俺は、夏奈と夕菜の前で、みっともなく泣き崩れてしまった。
「……? どーしたの? パパ?」
 夕菜が、空中をフワフワと浮かびながら俺の横でそう言った。
「何でも無い。……何でも、無い……っ!」
 あぁ、夕菜だ。本物の、夕菜だ……。
「貴方……」
 夏奈が近づいてきた。
「夏奈……!」
 と、ふと夏奈が俺に抱き付いてきた。だけれども夏奈は俺と触れることが出来ずに、そのまま俺の背後にやってきてしまう。無音が周囲を包む。そして、夏奈が悔しそうに呟いた。
「……悔しいね、貴方に抱きつくこともこの身体じゃ出来ない。……貴方のことが、こんなにも、こんなにも好きなのに! 狂おしくて、たまらないくらい好きなのに!」
「な、夏奈……」
「私はまだ、死にたくなかった。貴方と一緒に、暮らして居たかった……!」
 夏奈が泣き崩れた。
「俺だって、同じ、だよ……」
「ママ、どうして泣いているの?」
 夕菜がオロオロとしながら俺に聞いてきた。子供は子供なりに、やっぱり感じるモノが何かあるのだろう。それに、夕菜はどうやら、自分が死んで居るのだと理解していないようだ。
「……ねぇ」
 夏奈が俺に聞いてきた。
「雄斗は、何で私達のことが見えるの? 誰にも、私達の姿が見えなかったのに、どうして雄斗にだけは私達の姿が見えるの……?」
「それは――」
 俺は、簡潔に説明した。
「そう、死ぬ、つもりだったんだ……」
「……あぁ」
「なら、さ。……私達と一緒に、暮らそう……?」
「えっ……?」
 夏奈は、涙顔で俺に言ってきた。
「私と、夕菜と、雄斗の三人で、ずっとずっと仲良く、暮らそう……?」
「夏奈……」
「だから――」
 夏奈は、辛そうな顔で、俺に言った。
「死んで」
 ……二ヶ月前の俺なら『分かった』と即答していただろう。今すぐにでも、包丁を心臓に突き立てて、死んでいただろう。今だって、死んだって良いとすら思って居る俺がどこかに居るのも事実だ。だけれど、それとは別に、頭の中に引っかかるモノがある。
 ユウのことだ。俺は、夏奈のその言葉に対して、即答することが出来なかった。夏奈の、焼け爛れた手が近づいてきた。吸い込まれるような、瞳。それを見て居ると、変な気分になってくる。あぁ……死ぬのも……良いかもしれない。夏奈や夕菜と一緒に暮らすのも、悪くは無いかもしれない……。そう、だ。もう、死んじゃって良いんじゃないか? それが一番、楽なんじゃないか? 
 俺は、俺は……。
 選ばなくちゃ、ここで。ユウか、夏奈と夕菜かを、選ばなくちゃ。それが出来なくちゃ俺は本当に最低な男になる。
 ユウか? 二ヶ月間、俺と一緒に暮らしたユウなのか。俺のことを好きだと言ってくれて、俺の為に泣いてくれたユウなのか。
 それとも、六年間一緒に過ごしてきて、ずっと俺の生活を支えてくれて、俺のことを愛してくれた夏奈と夕菜なのか? 
 ……そんなの、明白じゃないか。何で俺、こんなことに迷っていたんだろうか。選ばなくちゃいけないのなら、夏奈と夕菜に決まっている。そんなの、誰がどう見てもそう思うだろう。なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろうか。アイツの笑顔を思い出すだけで、どうして泣きたくなるんだろうか。
「……待ってくれ」
 手を伸ばしてくる夏奈に、俺はそう言った。
「どうしたの?」
「俺が、自分の手でやるから」
 俺はハニかんだ。
「ちゃんと自分で、死ねるから。……一緒に、これからずっと一緒に暮らしていこうな。……夏奈、夕菜……」
「これから、パパと一緒に暮らせるの!?」
 夕菜が顔を上げて無邪気な表情をしながら、そう言った。俺は心配させないように自分の出来る限りの笑顔で返した。
「あぁ、勿論だよ」
「わーい!」
 夕菜は実に楽しそうに、万歳をした。それを見て、和む。そして俺は、台所から一本の包丁を取り出した。それを右手に逆手にて持って、夏奈に言った。
「夏奈、……愛している」
 俺は心臓に、鋭く尖った包丁を突き立てようとした。だけれど、手が震えて出来そうに無い、死ぬと言うことが、こんなにも恐ろしくて怖いなんて……。
「……」
 夏奈が、俺の手の上にそっと自分の手を重ねてくれた。体温は感じないけれど、それでも、手の震えは止まる。
「私もよ」
 夏奈はそう言った。
 その次の瞬間俺は、勢い良く包丁を自分の胸に押し込んだ。

≪エピローグ≫

 とある大学病院で、十年間目覚めなかった少女が目覚めたらしい。それは割と大きなニュースで取り上げられて、彼女の叔父や叔母と名乗る人物が現れたらしい。これで、彼女はもう天涯孤独では無い。布団の上でボーっと佇んでいる彼女を見て、俺は微笑んだ。俺の傍には、俺が愛した人達が待って居る。
「……何だろ?」
 彼女はそう呟いて、涙を一滴零した。
「何を、忘れて居るんだろ? 絶対に、忘れちゃいけないことだったような気がするけれど、でも、何で思い出せないんだろ……?」
 ごめん、ユウ。俺も、お前のことを好きだった。
 だけれど、家族と秤にかけた時にお前を選べないのだと分かった。だから、せめて、お前は俺の分まで幸せになってくれ。それだけが、俺の願いだ。
「……済んだの?」
 夏奈が俺の方を見て、言ってくる。
「あぁ」
 俺はそう答えた。身体が徐々に透き通っていくのが分かる。何だかよく分からないけれど、とても安らかな気分だ。
 俺はそっと、目を閉じた。最後まで好きとは言えなかったけれど、でも、俺は後悔をしていない。
 さようなら、ユウ。


END
2011-11-17 18:24:32公開 / 作者:青々翠音
■この作品の著作権は青々翠音さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 拙作を読んで下さってありがとうございました! 
 この作品によって何かを感じ取った、と言う方がもしもいらっしゃったのならば、作者にとってそれ以上に光栄なことはありません! 
 本当に、ありがとうございました! 
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