『ばけもの』作者:目黒小夜子 / z[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
見慣れた学校に閉じ込められた坂井千鶴は、取り戻せない記憶を思い出すために、動き出すのだった。
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原稿用紙約12.32枚




 太陽が目覚めたかと思う季節がやってきた。むっとした熱気と同時に、校舎にはグラウンドからの砂埃が運ばれてくる。突風が運ぶ頃にはそれは痛みを伴い、彼女――酒井千鶴(さかい・ちづる)は“ひっ”と小さい声をあげた。セーラー服はすでに夏服への衣替えを済ませ、袖からのぞく腕をマカロニのような指でさする。日焼けをする前の肌は白く、若さのためか上品に光沢を放つのだ。第二校舎からグラウンドへと向ける眼差しには、希望の色がしっかりと宿っていた。

 市立大路城中学校は、建築百四十年の歴史を持つ。長い歴史の間にベビーブームが訪れたためか校舎は増設され、旧校舎は第一校舎、新校舎は第二校舎と呼ばれていた。そのため、学校にあるべき施設のほとんどは第一校舎にある。


 体育の授業だったのか、じりじりと照りつける日差しを真に受けた後の生徒たちが、肩で息をしながら第二校舎へと戻る。外靴から上履きへと履き替える、ゴムがきゅっと擦れる音。スプレーを振るカラカラと振る音があれば、早くもスプレーを体操着の中に入れている生徒も居た。暑いという合唱の間に“死んじゃうよ〜”と冗談めいた笑い。そう、冗談めいた、笑い。

 すべてが、日常のそれと変わらないはずだった。しかし、千鶴の胸に落ちる違和感は拭いきれなかった。何かがおかしい。夢の中にでも居るのかと思うが、空を仰ぐのさえ叶わないほど眩しい太陽も、砂がぶつかる痛みも、夢や幻にしては精巧なのだ。

 違和感の中でも、授業へ出席しなければという思いが掠める。下駄箱からフローリングの床を歩き、ワックスでコーティングされた手すりを掴み、階段で中二階、そして二階へと進む。しかし、ずらりと並ぶ教室を見ると、どれが自分の行くべき教室なのかがわからない。いやはや、千鶴のクラスは二年D組なのだが、“2−D”と札が下がる教室のドアから覗いても知っている人が居ない。


 なんで……。千鶴がそう呟くのも、時間の問題だった。居場所を失うなり、気づけば再びグラウンドへと戻ってしまう。その時、グラウンドに設置されたスピーカーが歌をはじめた。チャイムの代わりか、はたまた故障が原因なのか、千鶴にはわからない。壮大な音色に、何かを裂くような不快な音が重なるそれは、さながらスピーカーが意思を持ち歌いだす様に見えた。思わず耳を塞ぐ千鶴に、聞き覚えのある声が語りかけた。

「千鶴、私たちを思い出した?」
 千鶴が首を傾げると、ひとつに縛られた長い黒髪がぱさりと揺れる。意志の強そうな眉毛の下、千鶴の瞳が不安そうに揺れると、スピーカーは語り続ける。
「そう、覚えていないの。もう少し、足りなかったようだね」
 スピーカーが退屈そうな声を出すと、再び歌が始まり、ひゃあと叫ぶ千鶴が耳を塞ぐ。しかし彼女の耳は、歌の直前に入った音を聞き逃さなかった。玩具のような、ぽろろんという優しい音――木琴の音を。

 この校舎には、人が居る。しかし、千鶴の知っている人は居ない。唯一、千鶴に直接の関わりを持つ者は……スピーカーを使い語りかけてきたその者は……音楽室に居る。

 頭の中で、自分の知らない何かへの恐怖と、この状況を打開したいという思いとが交互に揺れ、目を伏せる。しかし、迷いを絶つがごとく目を開くと、千鶴のローファーはグラウンドから踵を返し、音楽室に向かうのだった。

 グラウンドから、錆びた鉄骨が目立つ体育館を越え、第一校舎の昇降口へと真っ直ぐ進む。陸上部で鍛えた足は筋肉が締まり、音楽室のある四階へとぐいぐいと千鶴を寄せた。そして、音楽室の扉を勢い良く開いた時、再び歌が鳴り響いた。ぎいぎいと何かを引き裂く、脳を突き抜けるような不快音。
 音楽室は授業の最中だった。長方形の部屋の中央、パイプイスを三列に並べ、三十人程の生徒達が座っている。部屋の奥には吹奏楽部が使いそうな楽器――木琴も入っていた――が並び、手前側の隅っこ、グランドピアノには音楽講師が座っていた。誰ひとり、千鶴の存在には気づかないかのように、それぞれの行動をとっている。
 面識の無い音楽講師が『モルダウ』を演奏し、緊張した面持ちの男子がピアノの近くで必死にモルダウを歌う。しかし、それらの音のほとんどは、スピーカーからの歌でかき消されてしまう。
 音楽室で、歌に耳を塞ぐのは千鶴だけだった。ほかの三十余名の男女は、思い思いに仲の良い者と話しては笑っている。


 音楽講師がモルダウを丁寧に奏でるグランドピアノには、何やら丸いものが蒼白くささやかな光を放っている。千鶴が吸い寄せられるように近づくと、あの聞きなれた声が彼女に警告する。
「それはスイッチだよ。でも、押すかどうかは慎重に考えてからの方が良い。押したら、君には仲間が増える。仲間は君に大切な記憶を思い出させてくれるだろう。しかし、君と仲間がリスクを背負うことにもなる。」
 困惑する千鶴は、声が出てくる放送機器に訴えかける。
「ねえ、あなたは誰? ここは何? ねえ、これどういうことなの?」
 しかし、相手は質問を受け入れる気すら無いようだ。
「それは、これからわかるよ。いや、私のことを、君は知っているはずだ。思い出せないだけでね」

 ここまで来た時、千鶴の中にはもはや不安しか残らなかった。いや、と首を振ると、それに合わせてポニーテールの髪もさらさらとなびく。
「か、帰ります。こんなところ、居たくない」
 しかし、音楽室の扉がひとりでに閉まると、それは千鶴が全体重をかけてもぴくりとも動かなくなってしまった。音楽室ではモルダウの曲が佳境に入る。声はつづく。
「思い出せるまで、君を帰すわけにはいかないんだ。スイッチを押して仲間と一緒に解決するか、リスクを負わずに一人で思い出すか。思い出せるまでは、帰すことなんて出来ないさ。それこそ死ぬまで」
 視界がぐるぐると周り、脳は現状への適応を拒否しようとする。モルダウの曲、男子学生の不安定な歌声、耳を震わせるようなスピーカーの歌、死ぬまで帰れないという言葉……。
 千鶴の表情が不安と涙でくしゃりと歪んだ。猫のように大きい目は、大粒の涙で潤みながらも、スイッチを探していた。左手で涙を拭いながら、彼女の右手がスイッチに触れる。

 がりがりがりがりがり……と何かが校舎全体を揺らし、鎮まった。窓から差し込んだ陽の光が、曇のためか陰る。千鶴の涙がひいた頃、放送機器からの声は嬉しそうに警告の続きを話す。
「仲間との解決を望んだんだね。ならば気をつけなけいといけない。化け物が出てくるからね。君が早く思い出さないと、化け物に追いつかれてしまうよ。食べられるのは、君か、仲間か。どちらだろうね」
 暗い音楽室の中、モルダウの音色はおろか、三十余名の生徒と音楽講師も消えていた。

+++

 長谷川まりあは、埃がきらきらと舞う図書室の中で目を覚ました。木製の椅子に座り、机にもたれかかっていたようだ。上体を起こすなり、椅子に座ったまま伸びをする。健康的に焼けた腕がしなやかに伸びた。ふうと溜息をつくと、涙に濡れた寝起きの目を擦る。
 まだ寝ぼけている頭脳を起こすのに、この状況は充分だったといえよう。おおよそ図書館など訪れず、本の虫とは正反対な自分のこと。何故本棚に囲まれて目が覚めるに至ったのかが理解できなかったのだ。そして、見慣れた夏服のブレザー。ブレザーである。最近はスキンケアに気を遣い日焼け止めも使っていたのに、腕はプレッツェルのようにこんがりと焼けている。

 どうして……。まりあの頭が混乱に染まるのに時間はかからない。図書室の壁には鏡がかかり、“昭和五十八年卒業生贈呈”と文字が記されている。それを覗き込むと、ぎゃっと声をあげた。癖のあるまま好き放題の方向を向く髪は焦げ茶色く、大きくまるまるとした目には化粧が施されず。これは、長谷川まりあが知る限りではかなり過去の自分の姿であった。

 ここまでくると、混乱よりも恐怖の方が色濃く残る。その時。廊下から聞いたことのない音が響いた。ずりっ、ずりっと何かを引きずる音は湿り気を帯びている。これが人間の本能か、まりあはその音が消えるまでは図書室の外に出ないと決め、細身の身体を本棚の陰に隠すと息を潜めた。
 やがて音が遠のくと、まりあはそっと引戸のドアを開け、廊下を伺う。何も居ないのを確認すると、先ほどの音の源を確認するべく廊下を小走りに走る。曲がり角から覗くと、それは居たのだ。

 天井に届きそうな程の背丈で、海老茶色のボロ布を幾重にも幾重にも纏う後姿。ふとのぞいた左手が卵白を思わせるほど白く、そして水に濡れていた。その手が美しく思えるところから、それは女性なのかもしれない。見た目だけならば、作り物の怪談によく出てくるお化け。しかし、廊下の端と端に居るものであるはずなのに、すぐ傍に居ると思うほど強い臭いがまりあの鼻を抜けた。気分が悪くなり、まりあはその場にしゃがみ込む。焼売の皮が匂いを強めたのか、はたまた魚が腐る臭いか、どちらにしても普通の状態では起こりえない臭いだった。

 あれは……何? 誰が考えても、好ましくはない状況だ。嫌だ、逃げたい! そんな恐怖が胸に巣食うなり、まりあは走りはじめた。と、その時。音楽室の引き戸がカラカラと音を立てて開く。中から顔を出した酒井千鶴と、化け物を目にして硬直した表情の長谷川まりあ。二人の目線が触れ合った。

 びぎぃぃぃぃぃぃいいい、と大きな音が響き、二人は耳を塞ぐ。電話線からインターネットへ回線を切り替える音や、ファックスの番号へ電話をかけてしまった時の音のような不快音。スピーカーからの歌が聞こえたのだった。


「おめでとう、仲間を見つけることができたんだね。でも、私が呼び立てたのは千鶴、君だよ。長谷川さんには突然お呼び立てして、申し訳ないくらいだ。これから長谷川さんには千鶴のお手伝いをしてもらう。でも、長谷川さんが居る限り、化け物が消えることはない。記憶を戻すヒントさえ与えてくれたら、長谷川さんにはすぐにお帰りいただくよ」

 何それ……と呟くのはまりあだ。千鶴は意志の強そうな眉を申し訳なく曲げ、膝につきそうなほど頭を下げるなり、弱々しく声を絞った。ポニーテールの髪がさらりと垂れる。
「お願い……たすけて」
 あのような化け物を見たあとだ。助けてほしいのはまりあの方だった。
「た、助けてって、何それ。よくわかんないよ、説明して。あなた誰? ここ何? ねえっ!」
 千鶴は、切れ長の瞳を潤ませつづける。頬をつたう涙はセーラー服の襟へと吸い込まれる。千鶴が首を横に振り、泣き続けるのを見ると、まりあは歯噛みした。お互いが思っていたのだ、もう一人が何とかしてくれるのだと。絶望の色が消えないまりあは、癖のあるショートヘアをかき混ぜた。丸々とした目は言葉通り目を回している。

「とりあえず……行こうか」
 しゃがみ込み、いつまでも鼻をすすって泣き続ける千鶴に、まりあが手を伸ばした。“ほら立って”とまりあが千鶴を立ち上がらせる。ここは第一校舎の四階だ。最上階にあたるため、上の階へ逃げるという選択肢がない。おまけに隅っこにあるため、階段付近から化け物が寄ってきたら……追い詰められてしまう。校舎に見慣れないまりあですら、その程度のことが把握できた。

「あなた、ここの学校の人?」
 マカロニのような指で涙を拭う千鶴が、うんと頷く。唇を一の形に引き結び、まりあが手をひいた。
「案内して。どっから化け物が来ても、逃げ切れる場所に」
 こうして、酒井千鶴と長谷川まりあは歩き出した。

 出会うことに成功した仲間たち。記憶を取り戻せない少女と、端から何も知らない少女。徘徊する化け物。そしてスピーカー越しに語りかける者。ストーリーは、やっと動き始めたのだ。
2011-05-30 08:26:05公開 / 作者:目黒小夜子
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■作者からのメッセージ
ホラー!というより、少しダークくらいの作品です。
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