『古事記<ヤマタノオロチ編>序章〜一章』作者:プリウス / Ej - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
できたばかりの下の国は、土とは言えぬほどにやわらかくて、椀に浮かんだ鹿猪の脂身のさまで、海月なしてゆらゆらと漂っておったが、そのときに、泥の中から葦牙のごとくに萌えあがってきたものがあって、そのあらわれ出たお方を、ウマシアシカビヒコヂと言う(『口語訳 古事記』三浦佑之著 文芸春秋)
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序章「前哨戦」

 森がざわめいていた。静寂はより深い静寂に打ち破られ、夜の涼しさは緊張の冷たさに取って代わられる。獣たちの眼が光り、闇はその暗さをいっそう際立たせた。
 少年はただ必死に走っていた。すでに自分がどこを走っているのかさえ分からない。ただひたすらに走り、逃げた。そう、少年は逃げていた。何から逃げているのか。少年は実際二つのものから逃げていた。一つはふがいない自分から。大事な姉を守ることも出来ず、その仇を討つこともかなわず、ただ逃げるより他ない無力な自分を恥じていた。
 ただどれだけ逃げようとしても、それは逃れられる類のものではない。少年はきっとその死に至っても己の無力を悔いるだろう。さだめ、と言うには少し過酷。少年の心はこの日この瞬間この場所で他の誰よりも傷つけられたのだ。
 少年の心の傷は深い。ただ今はそのことを慮る余裕さえ無いのだ。少年が逃げる二つ目のもの。それがいったい何なのか、実は少年にもよく分かっていなかった。その名だけは知っている。それは村人からオロチと呼ばれ、恐れられていた。
 少年は走った。木を折り、草を払う音が森に響き消える。途中、草木が彼の頬に小さな傷を与えたがそんなことに構う余裕などない。
 ビュン、と風を切る音がした。少年は一瞬ひるんだが、なお走り続けた。音は少年の周りを何度もかけめぐる。音は闇から闇へと消えていく。風を切った何かが近くの木に当たる音が聞こえた。鈍く響く音が。音の正体を知ったところでどうということもないのだが、それでも少年は少しだけ安堵した。安堵し、気が抜けた。
 少年は囲まれていた。何に囲まれているのか、その姿は闇に溶け見えない。だが確かに何かに囲まれている気配を少年は感じ取っていた。それら少年を囲む何かはじっと少年を観察している。少年には分かっていた。その何かは少年をどのようにして殺すかを楽しげに思索しているのだということが。
 とても静かだった。森の中、少年の息遣いだけが周囲に響いていた。転倒した体勢から身を起こした時点で少年は悟った。自分はここで尽きるさだめなのだと。
 覚悟を決める。その行為はまだ年端もいかぬ少年にとってあまりにも酷。だが少年は強かった。ことここに至って無様な真似だけはすまいと心に誓ったのだ。少年は決して特別な存在というわけではない。村に住むごく普通の男の子である。だが彼のその気迫は凡夫ならざる存在感をいやおうなく与えた。
「オロチたちよ。いや、コシノヤマタノオロチ、と呼ぶべきか。ご覧のとおり私はもうこの様だ。抵抗する気もない。さっさと殺すが良かろう」
 闇が動いた。だがすぐに少年に襲い掛かる様子はない。少年の堂々とした態度に不審気な様子である。つい先ほどまで逃げ惑うばかりの少年がまったく物怖じする様子なく自分たちに面している。その様子が面妖で、何かたちに警戒感を与えることに成功したのだ。ひょっとしたら何かしら隠しだまを用意しているのではないか、と。
 ただ実際のところ少年には何の用意も無かった。あるのはただ覚悟だけである。
「どうした。私を殺すつもりで追いかけてきたのであろう。私はお前たちを殺そうとし、逆に追い詰められるはめとなった。お前たちの姿さえ見ることもなく、な。完敗だ。さあ、早く殺せ」
 覚悟したとは言え、少年に恐怖が全くないわけではなかった。死への恐怖はそうたやすく逃れられるものではない。早く殺せと促すのは恐怖から逃れたいという気持ちのせいでもあった。
 だが闇の中の何かは少年のその態度を、恐怖ではなく勇気によるものと判断した。ゆえに、少年に対する警戒感はより強まり、甘く見るべきではない相手として認識したのだ。
「ヌシ、何を隠しておる……」
 闇から声がした。深く低い老人の声だった。少年は初めて聞くその声の方を向いた。
「これがオロチの声か。思ったよりも恐ろしくはないな。これでは村の長老様の方が恐ろしいくらいだ」
「ぬかしよるわ。今すぐにでもヌシのハラワタを土の肥やしにでもしてやろうか」
「だから早くそうしろと言っている。おお、そうだ。なんなら私の近くまで来てその姿を見せてみてはどうか。ひょっとしたら改めてその恐ろしさにひれ伏すかもしれんぞ」
 再び静寂が訪れた。何かが闇より出でる気配もなく、ただ時間が過ぎていく。しばらく経ち、ふいに鋭い殺気が少年を貫いた。これまでか、と観念し瞳を閉じる。だがそれでもいっこうに少年を襲う気配はない。不審に思い目を開けたところ、やはり何も変わってはいなかった。そう思って立ち上がった瞬間、周囲が騒然とした。
 森がかつてないほど騒ぎ立て、動物たちが逃げ惑う。静寂は完全に破られた。激しい喧騒にところどころ立ち上る火炎。少年には分からなかった。いったい何が起こっているのかを。小さな村で生まれ育った少年に、これがいったい何なのかを知るよしはない。少年はまだ、戦の臭いを知らなかった。

 火蓋は突如切って落とされた。屈強な男たちが剣を振り、目の前に現れた敵に襲い掛かる。辺りには血の臭いが立ち込める。
 軍を指揮するウズメにとってこの戦闘はまったくの想定外であった。彼女は反逆者であるスサノオを追撃にきたのだ。それが今はどういうわけか、全く見知らぬ連中と戦をしている。
「まったく、なんてこと。こんなところで山賊どもに出くわすだなんて。いえこの程度は最初から考慮しておくべきだったわ。でも……」
 こんなときにあいつがいれば。ウズメはその思考を一瞬でかきけした。彼女が思い浮かべたのは国一番の知者と評判の者の名だった。その智謀は神々の中でも随一で、一度に複数のことを思考できるという。複数の思いを兼ねるということから、彼はいつしかオモイカネと呼ばれる身となっていた。
 オモイカネがいれば、今のような事態は避けられたろう。それは事実だ。しかし今ここにオモイカネはいない。彼は今、さらに重要な任務についていた。国が滅びるか否かの瀬戸際にあり、その危機を救えるのはオモイカネを置いて他にいない。
「ワカヒコ。味方の被害状況を教えて!」
 ワカヒコと呼ばれた若者はウズメに近寄り叫ぶ。
「この状況で分かるわけないだろ! 今は一刻も早く味方をまとめ、この場から離脱することだ。相手の素性も何も分からぬままに、いたずらに戦を長引かせるべきではない」
「そ、そうね……。あなたの言うとおりだわ。兵たちよ、集え!」
 ウズメが声をかけると思い思いに戦っていた兵たちが彼女の周囲に集い始める。ウズメは兵を集めつつ、森を抜けるルートを探索させた。闇の中の敵勢はウズメたちに対して今も攻撃を続けている。
「地の利は完全に向こうにあり、我々は明かりを消すことも出来ない。狙い撃ちにしてくれと言っているようなものか。幸いにも向こうには矢がないらしい。石の投擲だけで済んでいる。とは言え、油断できるものではないがな」
「ワカヒコ……」
「どうした、ウズメ」
「不思議じゃない。そもそもどうして私たちは今、戦闘状態にあるのかしら」
「どうしてって、相手は山賊だ。我々をいいカモとでも思ったのだろう」
「カモ? 私たちは少数とはいえ精鋭を集めた軍団よ。それを見て山賊ごときがいいカモと思うと思う? 襲い掛かれば返り討ちに遭う可能性だってあるというのに」
「確かにそうかもしれないが、それがどうしたというのだ。戦というのは不意に起こることもある。我々は降りかかった火の粉を払うまでだ」
「どうにも解せないわ。どうも何かの意思を感じるの」
「つまり、スサノオが我らをおとしめた、と?」
 ワカヒコの目が鋭く光る。ウズメはワカヒコの顔を見て小さく頷く。
「もちろん確証は無いわ。けれどそう考えてもおかしくはない。スサノオか従者の誰かが私たちを襲ったのだと。そしてすぐに退却したのね。私たちはすぐ近くにいた山賊たちの仕業と思い反撃に出てしまった」
 全ては推測だった。だが、ウズメは確信していた。追い詰められたスサノオが土地の連中を利用し、ウズメの軍勢を弱らせようとしたのだ。実際、軍は無用の戦闘によって大きく傷つけられていた。まだ被害状況は掴みきれていない。戦いは終わっていない。
「それにしてもだ。その推測が正しいとすればどうして山賊たちはまだ攻撃を仕掛けてくる。あいつらにしてもこれ以上戦う理由は無いはずだろう」
「分からないわ。もしかしたら、単なる山賊とは違うのかもしれない。どこかの軍とは思えないけれど、どうも組織力が高すぎるように見える」
「まさか、出雲か」
「いえ、それは無いわ。出雲のオオクニヌシは確かに高志まで勢力を伸ばそうとしているとは思うけれど、今は諏訪との抗争でそれどころではないはず。おそらくこれは、独自の勢力が生まれてきたと見るべきね」
 もし本当に独自の勢力が生まれてきたとすれば、これは一刻も早く何らかの対応を考えねばならない話だった。ウズメの母国である邪馬台国は今、国内情勢が危うく外からの攻撃に弱い状況にある。幸いにして最大の仮想敵国である出雲は邪馬台国のある西ではなく、北東の諏訪と争いを続けていた。翡翠の採掘を巡っての争いらしい。穏やかではないがいちおう大きな戦は免れていた。
 しかしもし出雲が西側の新勢力を取り込んだとしたら? それは当たり前のように邪馬台国の危機となる。ウズメは歯噛みした。森を抜ける間近であった。

 少年は走った。今度は逃げるためではなく、確かめるために。何かが起きていることを肌で感じ取り、それを確かめねばならないという衝動に駆られ、少年は走っていた。
 森のあちこちで人の声がする。猛々しい声。叫び声。
 少年に恐怖は無かった。死の臭いをすぐ近くに感じているにもかかわらず、少年はむしろ興奮している様子だった。それが何なのかは分からない。気の利いた人間なら「時代が大きく動こうとしている」とでも形容しただろうか。とにかくそうした、えもいわれぬ衝動を胸に抱えて少年は走っていた。
 少し拓けた場所で誰かが倒れているのを見つけた。見たことの無い鎧を身に着けている。少年はかがみこんで、その人間の首元に触れた。
「死んでる……」
 その死を確認するとすぐ、倒れた人間の手から剣をもぎ取り、その場を去った。
 死体を見たのは初めてではない。つい先ほど、自分の姉が無残にも突き殺される瞬間を目の当たりにしたばかりだった。
 少年の村は小さくはあるがそれなりに豊かな村であった。酒造りを主な産業とし、出雲や吉備などの国で商いした。また竹林業も発達しており、村の村長が管理していた。豊かで穏やかな村。そこに目をつけたのが新興勢力である高志、それを治めるヤマタノオロチであった。
 オロチの姿を見た者は誰もいない。オロチはその存在を隠すことで村人たちの畏怖を増幅させていた。オロチという名も実はただの通り名で、よく分からない不気味な存在という意味を示している。
 オロチは毎年、村から莫大な税を徴収した。村に戦闘力は無く、オロチの要求を呑まないわけにはいかなかった。他国から軍勢を連れてきたことも数度あったが、全てオロチに返り討ちにされてしまった。
 莫大な税だけではなかった。オロチは村に生娘までも要求してきたのだ。それもどうやって調べたのか、特定の生娘を差し出さねば許されなかった。そして不幸にも今年、選ばれたのは少年の姉であった。
 少年はなんとしても姉を助けたいと願い、その一心で高志の山奥に単身乗り込んできた。何の準備もなく、ただ姉を連れ戻したいという純粋な気持ちだけが彼を動かしていた。しかし世間はそれを無謀と呼ぶ。実際に無謀であった。
 少年が見たもの。それはただただ禍々しい、非道なる所業。太い柱に貼り付けにされた少年の姉。その周囲は暗くよく見えなかったが、少年の目に姉の姿はくっきりと映っていた。表情までは分からなかった。だが、おそらく恐怖と苦しみに極まった壮絶なものであったろうと少年は想像する。闇の中から数本の槍が少年の姉に向けて突き出された。ひとつ、まず腹を抉る。ふたつ、みぞおちを抉る。みっつ、右足を抉る。よっつ、左足を抉る。いつつ、右腕を抉る。むっつ、左足を抉る。ななつ、下腹部を抉る。やっつ、喉を抉る。
 少年は叫び、逃げた。
 今思えばどうしてあの時出て行ってオロチたちを殺してしまわなかったのか。もちろん少年にそんなことをする力は無い。出て行っても八つ裂きにされて仕舞いだろう。無駄死にもいいところだ。しかし少年はそうしなかったことを強く悔いた。成功するかしないかは問題ではない。自分の誇りの問題であったのだ。
 様々な気持ちが少年の中で暴れまわっていた。それらを整理することは容易でなく、どうしようもないくらいに胸が痛んだ。とにかく少年が確信することは、このままではいけないということだけ。ただがむしゃらに森の中を突き抜けた。そして戦場へと少年は足を踏み入れた。
「あいつら、いったい何者だ」
 少年の視界には何者かの集団が入っていた。最初はオロチの軍かとも思ったが、どうも見慣れない格好をしていた。出雲の軍が村を救いに来てくれたのだろうか。
 オロチではない。その証拠に、オロチ軍らしき連中と交戦を続けている。しかしどうも苦戦している様子だ。オロチ側は極力犠牲を出さず、相手を苦しめようとしている。少年の目にはそう映った。
 少年の視線の先には一人の女がいた。その容姿までは見えないが、剣を抜き周囲に指示を出している。剣は月の輝きを受け煌めいている。
 少年は迷わず剣を女の方向に放った。

「ウズメ!」
 激しい金属音が耳元で鳴り響き、ウズメは硬直した。自分の身に何が起こったのか、全く分からなかった。しかし何故か、今の瞬間自分のすぐ近くに死が這い寄ってきたことだけは分かった。ウズメの全身から冷や汗がしたたる。彼女の意識はほんの一瞬ではあるが確実に殺された。
「は、離せ!」
 ウズメの耳に届いたその声が彼女を刹那の眠りから覚まさせた。戦場にそぐわぬその声。まだいとけなき少年の声。ウズメは声の方を振り向き、何事かと問いただす。
「おい、ウズメ大丈夫か。どこか怪我などしたのでは」
「いいえ大丈夫よ。私は大丈夫……。ありがとうワカヒコ。それよりも今の声は?」
「どうも近くに潜んでいたらしい。まだ子どものようだが、兵の中に見たものがいる。あの少年が剣を投げつけてきたようだ」
「あの少年が?」
 ウズメは首を傾げた。兵に押さえつけられた少年は歳の頃は十二に見えた。見るからに利発そうな少年で、兵に押さえつけられているというのに怯えた様子もない。
 そして何よりも、少年からは全く殺気を感じ取れない。もし少年が自分の命を狙って剣を放ったのだとすれば、それは明らかにおかしいことだった。
 ウズメは逡巡したのち、決を下す。
「とりあえず殺さず捕えておいて。敵であれば何か情報を引き出せるかもしれない。それよりも今は森を出ることを優先しましょう」
 ウズメの指示に従い兵が動く。すでに敵の攻撃は止んでいた。ウズメは気を引き締めて周囲を警戒する。気の緩みが命取りになることなど、これまで何度も経験してきた。
 空が白み始めた。森の闇が解かれていく。すでに周囲を包んでいた禍々しい殺気もない。あるのは静寂を取り戻した朝の森。穏やかな喧騒が夜の戦慄に取って代わる。
「もう少し離れてから、野営にしましょう。いったいどのくらいの被害になったのか調べないと」
「ざっと見た限りではそれほど多く脱落者がいるわけではないようだ。ただ、誰もが身体に怪我を負っている。この状態でスサノオとぶつかればまず間違いなく返り討ちだろうな。根本的に、考えなければならんかもしれん」
「根本って、どういう?」
「このスサノオ追討そのものをだよ。こちらが大きな打撃を受けてまでスサノオを討つ理由はあるか。スサノオなどは所詮、落ちた神だ。その神威もいずれ衰え、自然に消えるだろう」
 ワカヒコの言葉にウズメは苛立った。今回の遠征でワカヒコを副将にと推したのはアメノオシホミミノミコト、邪馬台国の女王アマテラスの息子であった。オシホは確かに優れた知力を持ち、その能力はあのオモイカネにも及ぶとされるほどの逸材であった。今はそのオモイカネと共に母であるアマテラスを救うべく動いていると聞く。しかし、ウズメはオシホが嫌いであった。
 ウズメは剣の扱いと舞いに長けた邪馬台国きっての勇将である。アマテラスを自らの母のように慕い、愛し、尊崇している。ゆえにアマテラスの命令は絶対。そのために自分の命を差し出すことは全く惜しいと思わない。彼女は直情な気質の女であった。だが直情ゆえに、オシホのような男が好きになれなかった。オシホはどちらかと言えば知略をめぐらす性質であり、自分の手を汚すようなことは極力避ける傾向にあった。彼の判断は往々にして良い結果をもたらしたが、ウズメの気に入らなかった。
 そのオシホに選ばれたのがワカヒコであった。ワカヒコもオシホに似た性質を持っており、物事を冷徹に見定めることの出来る若者であった。だからこそ、オシホはウズメの補佐にワカヒコを選んだのだ。それはウズメも悟っていた。なればこそ苛立つのだ。
「だけど、このままおめおめと帰るわけにもいかないわ。スサノオのこともあるけれど、それよりも気になることがあるから」
「さっきの連中のことか」
「ええ。この地にああいった連中がいて、勢力を拡大しているとしたら。スサノオ以上に見過ごすわけにはいかないでしょう」
「確かにそうだな。出雲がいつ諏訪との争いに決着をつけるか分からん。ひょっとするとすでに話し合いがついていて、出雲、諏訪の連合軍が邪馬台国に押し寄せてくるかもしれん。そうなるとかなり厄介だ」
「さっき捕まえた少年に話を聞きましょう」
「ああ。だがまずは皆に休ませることが先決だろう。夜通し走り、体力も底を尽きておる様子だ。交代で番をし、順番に眠りを取らせなければなるまい」
 ウズメはほんの少し躊躇したが、理にかなっていたのでその言葉に従った。

「問い直そう。つまりお前が放った剣は彼女を殺そうとしたのではなく、むしろ彼女を守るためであった、と。そう言うわけだな」
 ワカヒコは縄で縛られ跪く少年にそう問いかけた。問いかけられた少年は決して臆することなく、そうだと答える。
 ウズメたちは近くに見つけた平野部に簡易的な宿舎を置き、今は煮炊きをしている最中であった。兵たちは精鋭なだけあって、昨夜の戦闘にもかかわらず精力的に働いている。少年の尋問はそこから少し離れた場所、岩を背に少年を座らせてワカヒコとウズメが対峙していた。
「にわかには信じられんな。ウズメ、どう思う」
 ワカヒコの問いかけに対し、ウズメは即答した。
「分かりました。信じましょう」
「おい! 正気か」
「正気よワカヒコ。私はこの少年の言葉を信じるわ。実際、今思い返せば確かに私は耳元で金属音の鳴り響くのを聞いた。つまり、二つの金属が接触したということ。どちらかが私を殺そうとし、どちらかが私を救おうとしたということよ。そして今、私の目の前にいるのがそのどちらなのか。助けた者であれば名乗り出てもおかしくないけれど、殺そうとしたものは逃げるわよね。つまり私の目の前にいない者こそが、私を殺そうとしたということ」
「だからと言ってこの子どもがお前を助けようとしたという証拠にはならんぞ。別々の二人が二人ともお前を殺そうとして、誤って相殺してしまったという可能性もある。いや、そちらの方が自然だ。それにこいつは救おうとなどと言うが、そんな芸当が本当に可能なのか。敵の攻撃を見抜き、その上放たれた槍を剣で撃ち落とすなど」
「そのような些事に構う暇などないだろう」
 二人の話し合いに少年が口を挟んだ。その言い方があまりにも年不相応であったため、ウズメもワカヒコもあっけに取られる。年不相応であり、自分の立ち位置についても認識できていないのではないか。自分が捕虜となったことなどお構いなしといった雰囲気である。
 ウズメはくすりと笑う。このような傲岸不遜な態度は彼女の好みでもあった。
「どうして、そんな風に思うのかしら。私たちが何か急いでいるとでも?」
「私はお前たちを見たことがない。このあたりは高志国といい、オロチと呼ばれる何者かが支配している。お前たちはどこか別の国からやって来たのであろう。出雲、ではないと思うが。吉備でもあるまい。すると、ひょっとして邪馬台国か」
「あら、ずいぶんと賢いのね。けれど私たちは高志などという国を聞いたことがないわ」
「小さく、生まれたばかりの国だからな。無理もない。今のところ邪馬台国とは交易もない。出雲と、吉備くらいのものだ。いずれは諏訪もと考えているのだが、あそこは少し遠い上に出雲と仲が悪いからな」
 すらすらと他国との貿易に関する言葉を並べる少年の姿にウズメとワカヒコは驚きを隠せないでいた。そして考えを改めた。最初、二人は少年のことを青人草、つまり人の眷属であると見なしていた。しかし少年から語られる言葉は、とても少年のそれとは思えない。姿に惑わされてはいけない、と二人は考えた。つまり少年もまた神の眷属でないかと。
「私はアメノウズメノミコト。ウズメと呼んでもらって構わないわ。あなたの名前を聞かせてちょうだい」
「ミマキイリヒコと言う。村の者たちは私のことをイリヒコと呼ぶ」
「そう。じゃあ、イリヒコ。高志について詳しく聞かせてちょうだい。ワカヒコ」
 ウズメはワカヒコに言って、イリヒコの縄を解かせた。かなり強く縛られていた様子で、イリヒコの両腕は青く痕が残っていた。イリヒコは両の腕をさすりながら二人を見た。
「いいだろう。だがその前に、確かめねばならないことがある」
「確かめる?」
「まずお前たちが何者なのか。お前たちの口からきちんと説明してもらいたい。そうでなければ私はお前たちを信用し、あれこれと話すことなどできん」
「なるほど。それはその通りね。さっきあなたが推察した通り私たちは邪馬台国から来たわ。ある任務を負って、ね。その任務というのは反逆者の追撃よ。名をスサノオノミコトという。彼をこの地に追い詰めたはいいけれど、見失ってしまったのね」
「分かった、もういい」
「あれ? もういいのかしら」
「全く狡猾な女だ。そこまで話されてしまっては、私の村は協力せざるを得ないではないか」
「うふふ。話が早くて助かるわ。それにしても、あなたも割りと簡単に他者を信じるのね」
「無論だ。お前は先に私を信じた。だから私もお前を信じる。信に信でむくいるのは当然の行いだろう」

 蔵の中は甘い香りに包まれていた。それは具体的には米のデンプンがコウジカビによって糖化された匂いであったが、この時代の人間は当然そのようなことは知らない。全ては偶然の賜物であり、神の賜物であった。
 樽の中に入れた大量の米と水、そしてコウジカビ。それらを静かに寝かせることでえもいわれぬ芳醇な香りを作り出す。その技術は門外不出であり、この村が繁栄する一つの手段であった。
 その芳醇な香りに包まれた蔵の中に、一人の美しい娘がいた。クシナダヒメである。クシとは「奇し」を意味し、その霊力の高さをうかがわせる。ナダとは「稲田」のことである。つまりクシナダとは、酒造りの秘伝を授かった者ということを意図しているものと思われた。
 クシナダはひとり、蔵の中で涙していた。ある人物のことを想い、涙していたのだ。その人物とはオホゲツヒメ。クシナダにとっては稲作など、数々の農耕技術の師であった人だ。オホゲツヒメは米作りから、様々な農作物まで、村の技術指導の中心的存在となっていた。とは言えオホゲツヒメの齢は十六。年頃の娘ではあったが、十四のクシナダからすれば姉のような存在とも言えた。
 クシナダは涙を拭き、戸締りをし、外へと出た。辺りはいつの間にか夜となっていた。どのくらい長い間、蔵に篭っていただろうか。それすらももう思い出せない。
 オホゲツヒメはオロチへの生贄となった。
「クシナダ。私はもう死んでしまうけれど、あなたがいればこの村は安泰よ。だからしっかり働いてちょうだいね」
 そう言って笑うオホゲツヒメに何と答えたか。クシナダはもう何も思い出せずにいた。最期の言葉に返した言葉を忘れてしまうなんて。自らを責めさいなみ、涙し、疲れ果てた。
 その時、クシナダはえもいわれぬ悪寒のようなものを感じ取った。何者かに見られている。しかも嘗め回すような視線。クシナダの背筋に冷たいものが走った。その視線はまるで黄泉の国から届けられたもののように、冷たく、死を連想させた。
「だ、誰か、いるの」
 闇から闇に、気配が移動するのを感じた。しかしその姿は見えず、クシナダを近く遠くあざ笑うかのように。
「クシナダよ。悲しいか」
「ひっ……!」
 突如後ろからした声に、悲鳴にならぬ悲鳴をあげてクシナダはその場にしりもちをついた。慌てて後ろを向くと、そこには赤く光る玉が二つ見えた。赤く光る玉は宙に浮き、クシナダを睨み付ける。
「ヌシよ。ワシを恐れるか。くっくっく、良きかな。その畏怖こそがワシの求めるものよ」
 ときどき「シャーシャー」という音を鳴らしつつ、赤い光はクシナダに近づいた。クシナダは恐怖のあまり声の出し方を忘れてしまった。助けを呼ぶ勇気さえ打ち砕かれていた。
 クシナダは悟った。目の前にいる何か。それこそがオロチなのだと。闇に溶けて姿は見えないが、その存在を確かに感じ取っていた。クシナダは恐怖した。同時に怒りを覚えた。目の前の何かが、姉のように慕っていたオホゲツヒメを殺したのだ。
 これはひょっとすると機ではないか。オホゲツヒメの仇討ちをする絶好の。クシナダは自分の持ち物に何か武器になりそうなものはなかったか思案する。だが何も良さそうなものは持ち合わせていなかった。これが蔵の帰りではなく、畑仕事の帰りであればと悔やんだ。鍬で目の前の“敵”を貫き通せたかもしれないのだ。
「クシナダよ。来年の生贄はヌシに決めたぞ。これは決定であり、逃れられぬものと知れ」
「わ、わたくし、が……!?」
「左様。それまでにより美しさを磨いておくがよい。言うまでもないことだが、逃げようなどとすれば、災厄は村全体に降りかかる。ヌシの代わりに八人の生娘を奪うこととする。それをやろうと思えばいつでもやれるのだ。むしろそうせずに年に一人の生贄で済ませてやっているワシの優しさをこそ称るべきとは思わんか」
 くっくっく。闇の中、しわがれた老人の笑い声が響く。その声はクシナダからあらゆる気力を奪い取ろうとしているかのようであった。
 その様子を離れた場所で見る何者かがあった。クシナダとオロチはその存在に気づかない。何者かは右手に不思議な形の剣を携え、不敵に笑みを浮かべた。何者かの胸の内、深遠なる野望を秘めて。

 これらのことがあって、しばらくした。


第一章「ヒメタタライスズヒメ」

 少女は暗い瞳の中に炎を宿していた。その炎とは何がしかの野望を意味するわけではない。そういった不純な炎を彼女は持ち合わせていない。彼女の持つ炎とは、正真正銘清純なる炎。聖も邪も等しく飲み込む蒼き炎。炎はすべてを包み込み、溶かし、形作る。彼女、ヒメタタライスズヒメは捕われの身となった今もなお瞳の奥にある炎を絶やさずにいた。
 すでに陽は沈んでいた。タタラヒメは闇が近づくにつれ心細さを増していた。どうして自分がこんな目にあっているのか。繰り返し自問してみるが答えは出ない。タタラヒメに非のあることではないので当然ではあった。強いて言えば、彼女は彼女自身の価値というものを軽視していた。それゆえに招いた短慮もあったろう。一人、集落を離れて出歩けばどうなるか。多少の分別ある者であれば容易に想像がついたはずだった。だが、タタラヒメはおさなかった。
「おなか、すいたな」
 ため息をつくようにつぶやいた。見張りの兵には届かないくらいに小さな声。あるいは届いていたかもしれない。しかし決して少女の要望が受け入れられることはなかったろう。タタラヒメは気づいていた。見張りの兵が自分に向ける憎悪という名の感情に。
 どうして自分にそのような感情を向けるのか、タタラヒメは不思議に思った。見張りの兵は見知らぬ人間であったから、恨みを買うようなことをした記憶もない。そもそも自分は誰かの恨みを買うようなことをしたことはないはずだ。
 タタラヒメの本業は鍛冶職人である。と言ってもまだまだ未熟ゆえ、父の手伝いをして暮らしている。炎の中で赤く光る金属の塊。その変化。そういったものを見つめて生き続けてきた。むしろそれ以外のことをほとんど知らない。記憶の中は炎と空、そして大地。タタラヒメは自分が生きる上でその三つさえあれば足りるとさえ信じていた。
 その時、牢屋の中に誰かが入ってくる気配がした。見張りの兵と話をしている様子だった。見張りの兵はかしこまった様子で、その誰かを中に通した。
「あなた、だれ?」
 タタラヒメの前に立ったのは、タタラヒメと同い年くらいの少年だった。利発そうな顔立ちでタタラヒメをじっと見つめている。あまりにじっと見つめてくるので、タタラヒメはとても恥ずかしくなった。少年の顔を見ていられず、俯いてしまう。
 少年はじっと黙ったままだ。何か尋常ではない空気を感じる。少女は最初、この少年もまた自分に憎悪を抱いているのだと思った。だが、どうもそういう雰囲気でもない。少女はおっかなびっくり少年を改めて見た。
 薄暗がりの中ではあったが、少年がとても端正な顔つきをしていることが分かった。自分よりもひとつかふたつは年上に見える。髪を結んでいない。後ろ髪は肩のあたりまで伸ばしっぱなしだ。服装は上等で、それなりの地位にいる者に思えた。先ほどの見張りの態度からも推し量れることではあったが。すると少年が口を開いた。じろじろと少年を観察していた後ろめたさからタタラヒメは一瞬怯える様子を見せた。
「私はミマキイリヒコと言う」
 よく通る、男らしい声だった。その瞬間にタタラヒメの胸を強く打つ何かが響いた。ひょっとしたらこの時、少女は目の前の少年こそ自らの生涯をかけて尽くし守り抜く夫であると確信したのかもしれない。ただ、この時の少女にそれを言い表す言葉はない。むしろある種の畏れを持って少年を見上げた。
「ミマキ、イリヒコ」
「そうだ。そなたは高志一族の頭領であるコトシロヌシ、その娘ヒメタタライスズヒメと見受けるが、間違いないな」
 ミマキイリヒコを名乗る少年はタタラヒメの出自をさらりと述べた。タタラヒメはなぜ少年が自分のことを知っているのか不思議に思った。その気持ちは少女の世間知らずによるところが大きかったろう。少女は何も知らないのだ。自分の父親が一族の最重要人物であること。高志一族と呼ばれるその集団が崇める古き神、ヤマタノオロチのこと。そしてそのヤマタノオロチにより、鳥髪村がひどく苦しめられているという事実。
 鳥髪村は毎年オロチに税と生贄を捧げてきたあの村である。
「間違いないな」
 少年が少女に二度告げる。その言葉には有無を言わせぬ迫力があり、おさない少女が受けきるには重過ぎる力が込められていた。だが不思議なことにタタラヒメは恐怖していなかった。なぜかは分からない。だが彼女は目の前の少年、ミマキイリヒコを全面的に信用してもいいような気持ちさえ抱いていたのだ。だから少女は迷わずに答える。
「はい。わたし、ヒメタタライスズヒメは間違いなくコトシロヌシの娘です」
「そうか。では連れて行こう」
 少年がすっと右手をあげると、見張りの兵がどさりとくず折れた。タタラヒメが驚いてその様子を見ていると、暗がりから一人の若者が現れた。若者は年のころはおそらく二十前後。年頃の女ならばまずその顔を見てため息をつくであろう。それくらいの美男子であった。若者は周囲に視線を回し、こちらへと近寄ってきた。
「さすがワカヒコだな。こういうこそこそした仕事は本当に巧みだ。ウズメにもきちんと伝えておいてやろう」
「うるさい。いい加減にしないとその減らず口ごとたたっ斬るぞ」
「ワカヒコが私をか? それはありえんな」
「ほう。どうしてそう言える」
「それはだな。ワカヒコが私のことを心底好いているからだ」
 そう言われたワカヒコは顔を真っ赤にし、何かを叫ぼうとしてイリヒコに口を押さえられた。イリヒコはにんまりと笑い、自分の口元に人差し指をあてる。くっくっくと悪人のように笑うイリヒコを尻目に、ワカヒコは小さく舌打ちした。本当に怒っていたわけではない。イリヒコの言葉がその通り正しかったからだ。
「それで、このお嬢さんがタタラヒメで間違いないんだな」
 ワカヒコは牢の中の少女を指して言った。言われたタタラヒメは不安げな顔で二人を見る。片方は自分と同じくらいの年頃の少年。もう片方はその兄と言っても不思議ではない、美しい若者。突然現れた二人の男を前に、タタラヒメはひどく恐縮した。タタラヒメは父親以外の人間と深い交流を持ったことがない。時たま村の人間とすれ違うがその程度。タタラヒメは父と炎ばかりを見て生きてきた。だからだろう、男に対する免疫がまだできていなかった。牢の中という状況にありながら、タタラヒメは乙女であった。
「ああ、間違いない」
「根拠は?」
「そこの娘がそうだと言った」
「なるほどな。了解した」
 不思議なやり取りであった。ミマキイリヒコと名乗る少年はタタラヒメの言葉を全く疑わずに信じ、今度はその少年の言葉をワカヒコという若者は信じたのだ。それを単なる信頼関係と言って良いものか。少女には判別がつかない。
「さて、と。イリヒコ。いつまでもここで長話を続けるわけにもいくまい。そろそろこの娘を連れ出そうと思うが、本当にいいんだな?」
「愚問だな。私は決めたことは曲げぬ性格だ」
「では鳥髪村を出て、真に我らの一員となるのだな。それは同時にその身、その魂を我らが主アマテラスオオミカミに捧げるということになるが、それで良いのだな」
「私の身体や魂が誰のものになろうとも、それは私にとってはとるに足らぬことだよ、ワカヒコ。私は二つのことから逃げ出した。ひとつは姉の死。目の前で姉が殺されたというのに、私は何もすることが出来なかった。そしてふたつには私自身。非力で無力な自分から逃げ出したのだ。私は何よりもそのことが許せない」
 姉の死が少年ミマキイリヒコに与えた衝撃は想像を絶するものであった。その衝撃、それに伴う余波が今の彼を突き動かしている。
「たとえその決断が、生まれ育った故郷を捨て去ることになっても、か?」
 イリヒコは黙った。ただその瞳は静か。ワカヒコはイリヒコの様子を見て嘆息した。我ながらひどいことを尋ねてしまったと自戒する。生まれ故郷を捨てるという決意は母を捨てる行為にも等しい。そのような決意を無闇に探るのは気遣いのない下賎な行いであった。
 タタラヒメは静かに二人のやり取りを聴いていた。話の内容は彼女にとってまったくわけのわからぬことであったが、その神妙な空気はひしと伝わっていた。特に少年、ミマキイリヒコの決意たるや、おいそれと触れられぬ力強さを放っていた。
 少女が見守る中、ワカヒコが扉の戒めを解いた。
「ほら、嬢ちゃん、立てるかい」
 ワカヒコがそっと手を差し出す。タタラヒメは照れから思わず手を引っ込めてしまった。しかしワカヒコはその行為を照れではなく、警戒と受け取った。
「おっと。こいつは案外、一筋縄ではいかないかな。おいイリヒコ。同じくらいの年頃の女の子なんだから、お前の方が扱い分かってるんじゃないのか」
「ワカヒコと同じにするな。女の扱い方など知るか。お前こそ、邪馬台国では随分と遊んだそうではないか。もっと丁寧に扱ってやれ」
「ぐっ……。お前どこでそれを。て言うか、ウズメだな。あのあま」
「そう言えばウズメを口説こうとしたこともあるそうではないか。まったく怖いもの知らずだな。その上剣の勝負で負けて諦めたというではないか。なんと情けない」
「ちょ、おま……!」
 ワカヒコはまたも叫びそうになり、慌てて自分で自分の口をつぐんだ。イリヒコはさも楽しそうにくっくと笑った。
 そんな二人につられて、少女も思わずくすくすと笑ってしまった。イリヒコとワカヒコの二人は驚いて少女を見た。二人の視線が自分に集まっていることを察知し、タタラヒメは顔を真っ赤にして俯いた。そして勇気を振り絞って言う。
「あ、あの。わたし、どこに連れて行かれちゃうんですか? ここがどこかも分からないし。そのうえもっと遠くまで連れて行かれちゃったら、もう帰れなくなっちゃう。できれば、その、斐伊川近くだと嬉しいかな。そこからなら自力でも帰れるし、なんて。あ、やっぱそんな勝手言っちゃダメですよね。わがまま言える立場なんかじゃ、ないんですよね。あの、その、本当に、できればでいいんです」
 少女の必死な懇願を聞きながらワカヒコは頭をかきむしった。
「おいイリヒコ。お前まだ説明してなかったのかよ」
「うむ。そう言えばそうであったな。私としたことがついうっかり。はっはっは」
「はっはっはじゃねえだろ! これじゃ萎縮しちまうのも無理ねえな。ほら、早く説明してやれって」
 イリヒコは少しばかりばつの悪そうな顔をしたがワカヒコに従うことにしたようだ。もうこれ以上時間を浪費してはいけないという賢明な判断が働いたものと思われる。
「いや失礼した。ヒメタタライスズヒメよ。今宵はそなたを助けにきた。安心せい。そなたの父、コトシロヌシのもとへ無事に連れて行ってやろう」
 タタラヒメはイリヒコをじっと見つめた。少年を初めて見た時から感じていた感情は、安心という感情に包まれてすとんと腑に落ちた。心の正体は分からないが決して不快ではないとタタラヒメは思ったろう。イリヒコの傍へとすっと近寄り、その右手を両の手で包む。
「むっ、な、何を!?」
 特にそれ以上のことをタタラヒメはしなかった。その行いがイリヒコには理解出来ず、目を白黒させるのみ。タタラヒメはじっと目をつむり、イリヒコの手を握り締めた。
「おい。自分で立てるのであればさっさとここを出るぞ。それからその手を離せ。動きにくいようではすぐに見つかり、また捕えられるではないか」
 そう言ったがタタラヒメは手を離す様子を見せなかった。イリヒコは無理やりにその手を離そうとし、そこで気づいた。少女の手が震えていることに。
 少女の手だけではない。身体全体ががくがくと震えていた。そしてイリヒコはようやく気づく。少女は心の底から怖かったのだと。恐ろしくて恐ろしくてたまらないのに、その気持ちを表に出す術も知らず、静かに佇んでいた少女。イリヒコの手に生温かな水滴が落ちた。タタラヒメは涙した。大声をあげて泣き出しそうになりながら、それを耐えて泣いた。
 ワカヒコは二人の姿を見て安堵する自分を見つけた。そう、彼は安堵していた。二人ともまだ年端も行かぬ子どもなのだ。本来であればワカヒコはイリヒコにこのような役割を持たせることも反対であった。戦場に連れ歩くには若すぎる。捕われのお姫様を助けに行くというのは美しい話だが、戦場に身を投じることとなんら変わりない。しかしイリヒコ本人のたっての願いとウズメの後押しもあり今回の配役が決定した。ワカヒコから見てイリヒコはあまりにも大人びていた。まるで少年時代を置き去りにしてきたかのように、大人の視点で物事を語る。その姿はワカヒコにアマテラスを思い起こさせた。アマテラスはその神威を保つために幼女の姿を取り続けた。その内面は老獪なる神であり、邪馬台国を統べる最強の巫女であった。ワカヒコはアマテラスに服従しつつも心のどこかで従いきれていない。アマテラスはその神威ゆえに人の及びつかぬ思考を時にした。そのために犠牲になった者は数知れず。正直なところワカヒコはアマテラスという存在そのものに少なからず警戒感を持っていた。ゆえにワカヒコはイリヒコに対しても自然、警戒感を持たざるを得ない。だが今この場にいるイリヒコは年相応の少年に見えた。大人ぶってはいるが、少女一人も抱きとめられぬ小心者。ただ、心の奥底では少年が少女を慮っているのが透けて見える。
「おい、もう泣くでない」
「うん。うん。ごめんなさい。ごめんなさい」
 しかしタタラヒメはいっこうに泣き止みそうもない。イリヒコはたまらずワカヒコに助けを求めるが、ワカヒコはにやにや笑うばかりで役に立ちそうもなかった。
「おい、ヒメタタライスズヒメよ。頼むからもう泣いてくれるな。泣き止んでくれればそなたの願いを何でもひとつ叶えてやるぞ。だから、そろそろ泣き止んでくれ」
「願い事、なんでも?」タタラヒメの震えがぴたりとおさまる。「本当に、なんでも?」
「無論だ。そなたのためにどのような願いでも叶えてみせよう。だからそろそろ泣き止んで……、うん? そなたすでにもう」
「分かりました」
 タタラヒメはイリヒコの手を離し、一歩後ろに下がる。イリヒコは安堵してタタラヒメを見る。するとタタラヒメはその場に跪き、イリヒコの面前で指を揃えて頭を下げた。イリヒコとワカヒコはいったい何事かと少女の姿を見つめた。
 無垢な少女ゆえの考えなし。と言い切るには少々酷。この時のタタラヒメは生涯を賭して一大決心をしたのであって、それは決して責められる類のものではない。少女は言った。
「どうかわたしを、イリヒコ様の妻としてください」
2010-12-14 22:55:53公開 / 作者:プリウス
■この作品の著作権はプリウスさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
(注)この作品は古事記をベースにしつつも完全なオリジナルです。

2010/12/12
?ずっと日本神話の物語をまとめたいと思ってました。
?主人公はミマキイリヒコ。幅広い神話世界を俯瞰するため、あえて地味な主人公にしています。地味っつったら右の人に怒られちゃうかもだけどw
2010/12/14 第一章「ヒメタタライスズヒメ」
前回まで01~05としていた部分を序章にし、物語を仕切りなおしの一章にしました。ちゃんと繋がっているのでご安心を。
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは、お久しぶりです。
作品読みましたー。古文だ、古文だ〜と妙にはしゃいで読んじゃいました。
昔、源氏物語の現代文訳を読もうと思ったことがあるのですが、途中で見事に挫折して、古文は僕に合ってないんだろうな、と勝手に思っていたのですが、プリウスさんの文章だと苦も無く楽しく読めました〜。
古事記、てこんな感じだったのですね!僕は日本神話関連のことは、ウィキペディアでちょこちょこ調べたことしかない、かなりのにわか野郎だったので、いろいろと目からウロコの部分が多かったです。
そんな僕なので、今後の展開が楽しみです。個人的には、ヤマタノオロチ退治に期待してます!ではでは。
2010-12-12 09:24:17【☆☆☆☆☆】白たんぽぽ
 お久しぶりですakisanです。

 日本神話やら妖怪やら怪談なんかってのは、実在した恐ろしい話や教訓がそのまま誇張されたりすりかえられたりして、アニミズムを体言する別の存在として物語になるものなのでしょうか。こういう現代の言葉で表現されるとなおさらそう感じてきます。
2010-12-12 12:00:15【☆☆☆☆☆】akisan
>白たんぽぽ
 コメントありがとうございます。褒めてもらって恐縮ですが、これをそのまま古事記と思われると僕としては困ってしまいます(^^; 古事記研究をベースに物語を創作していますが、勝手な解釈や肉付けも多いです。これを機に神話の世界に興味を持ってもらえると嬉しいです。

>akisan
 お久しぶりです。神話の研究ではよく「比定」という言葉が使われるのですが、これは例えばアマテラスをヒミコに比定するという風に、神話世界を実在世界とつなぎ合わせる形で使います。ヒミコ自身の実在性も議論になりますが、神話そのものを完全な作り話とするのは逆に難しいように思います。ヤマタノオロチは斐伊川を神格化したものと言われていますが、それでは物語的に面白くないので神話寄りに描いてます。
2010-12-12 12:45:19【☆☆☆☆☆】プリウス
 プリウス様。
 お久しぶりです。ピンク色伯爵です(え? 覚えてない?)。
 御作を拝読しました。
 これ面白そうですね! 僕こういう歴史(?)小説大好きなのですごくワクワクしています。少なくとも僕は引き込まれました。というか古事記にオロチの話とかあったんですね。僕は高校の日本史程度の知識しかないので、結構驚いています。確か酒飲まして首ちょん切るんだったかな。
 主人公の男の子ですが、男の子らしくない! と思ったのですが、神話だとこんなもんかとも思いなおしました(どうなんだ;)。しかし一風変わった主人公だ。今後に期待ですね。
 下らない感想になりましたが、以上で終わります。
 ピンク色伯爵でした。
2010-12-12 13:30:08【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
>ピンク色伯爵
 日本史の教科書では神話の話とか全然載ってませんからね。古事記にはイザナギとイザナミの国生みから、推古天皇の時代まで描かれてます。中でもオロチ退治や天孫降臨は戦いの場面でもあり、かなり面白いですよ。
 主人公の男の子はすぐに名前を出す予定です。少年っぽくはないけれど、「こういう位置づけならそんなもんか」と思ってもらえるんじゃないかな、と(^^;
2010-12-12 15:27:06【☆☆☆☆☆】プリウス
こちらも引き続き拝読しました。
三浦佑之の古事記は私も持っています。面白いですよね♪
そして、おお! ここでもウズメが戦う女で嬉しいです。オロチ軍の不気味さがよく出ていていい感じですね。
神話って登場人物が多いし、ストーリーもコマ切れだからまとめるのが難しそうですが、どんなふうになるのか楽しみにしています。
2010-12-12 18:19:53【☆☆☆☆☆】玉里千尋
>玉里千尋
 アメノウズメは天岩戸で有名だけれど、天孫降臨の際にも登場してくる。けっこう目立つ女神ですよね。もっと格上の神様は大勢いるのに。
 登場人物の多さには悩まされます。誰を出して誰を削るか。いっぱい登場させたいけれど、全部出してたら小説としては破綻しちゃいますし(汗) というかすでにかなり多い……?
2010-12-12 19:03:27【☆☆☆☆☆】プリウス
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