『そらをあるこう  【完結】』作者:ゆうら 佑 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 親が離婚することになった。夏休みに帰省した高校生の修は、妹との最後の一日を、町を太陽系に見立てた散歩をして過ごすことになる。ふたりの行く先にあるものは。
全角33232文字
容量66464 bytes
原稿用紙約83.08枚
 
     そらをあるこう




  0.太陽

「え、何? きこえない」
 早足で教室を出ながら、(しゅう)はケータイを耳に押し当てた。本谷の目が、自分を追うのがわかった。四時間目の授業が終わったばかりで、廊下は食堂ホールにむかうやつらで騒がしい。みんな、今終わったばかりの授業の話をしているか、昼飯の話をしているかのどちらかだ。
 ハンバーグカレー――ばれた――降格って――
「も一回いって。え?」
 修はきき返しながら、駆け足で校舎を出た。とたんに、夏の暑い日差しと湿気で、カッターシャツの下に汗がにじんだ。
 騒音は、どこまで行ってもついてくる。
 ほかの星とちが――からあげ――めい――ジュース買いに――
 関谷がついて来て、にやにやしながら修を見ている。
「もっとはっきりいって。え? だから、きこえねえって!」
 修はじりじりして叫んだ。何人かがふり向く。
 何なんだよ。ちゃんと話せよ。
 冥王星――ばれたん――ほかと――離婚――
「なんて?」
 修はまたきいた。そのとき関谷が、修の口元に手を持ってきて、ケータイの送話口をふさいだ。「おい……」
 そのとき、ふるえる母の声が、はっきり耳に届いた。
「離婚するの。ごめんね、ごめんね。……修? きこえた?」
 関谷はまだにやにやしている。
「だれからだよ? 別に逃げなくてもいいだろ。もしかして本谷? いいなあモテる男は」
 修は何もいえずに、関谷から目をそらした。
「どうした?」
「いや、ちょっと」
 修はさっさと関谷から離れる。すぐそばの木で、セミがばかみたいに鳴いている。
 たぶん、今のおれ、人に見せられるような顔してない。

 畳張りの大部屋に寝そべって、しみのついた天井を見つめていた。寮には人の気配はない。きこえるのは、うるさいセミの声だけだ。
 夏休みが始まって二週間。寮生のほとんどが帰省していた。
 あの電話以来、母から連絡はなかった。もちろん、父からも。修のほうからも、何もいわなかった。
 雲が晴れたのか、窓からさす木もれ陽がまぶしくなって、修は目を閉じた。
 それほど驚いたわけじゃない。
 その時が来ただけだ。
 ひかりが生まれてから、あのふたりは、少しずつ離れていっていたんだから。
 なんとなく、関谷にメールを送る。「何してる?」
『帰省中。
 地元においしいパン屋があるんだけど、みやげに持って帰ろうか?
 土星のリングみたいなドーナツとかあるし
 金は出せよ』
「いらねーよ」
『それより本谷とどうなった? 告られたんだろ?
 はっきりしてあげないとかわいそうだぞ』
 無視した。
 修は体を起こし、Tシャツにくっついた畳のくずをはらうと、自分の荷物をまとめはじめた。この春高校に入学してから、初めての帰省だ。

 もうすぐお盆だった。暑い日でも、ときおり、わずかに涼しい風が吹くことがあった。青々とした田んぼを、電車の窓から眺めながら、修は、家に着いたら、どんな顔で、どんな声で、どんな話をすればいいのかを、ずっと考えていた。
 夜九時をまわってから、修はようやく実家に着いた。道路から眺めると、電気がついているのは台所だけだった。あとは真っ暗。
 母さん以外は、寝てるのかな。
 窓から漏れる弱々しい光に、修は不安になった。
 鍵はかかっていなかった。暗い玄関に荷物をほったらかしにして、夏なのに肌寒い廊下をゆっくり歩いて、修は唯一の光をめざした。台所に入ると、明るさに一瞬、目がくらんだ。
 テーブルで、ワイシャツ姿の父が、パンをかじっていた。
「よお」
 彼は修に気がついて、少し笑った。
「ひさしぶり」

「あ、うん」
 修は父と向かいあって、しばらく黙っていた。
「母さんは?」恐る恐る、きいた。
 父は答えない。
 やっぱり、そうなのか。修は冷蔵庫に近づきながら、父をちらりと見る。あれ、ちょっとやせた?
「はらへった」
「お前、ちょっとやせたんじゃないか」 と父がいった。
「そう?」おれが? 修は首をかしげながら、冷蔵庫を開けた。からっぽだった。
 はっとして部屋を見まわす。テーブルにはビニール包装が散らかり、床にはいくつものゴミ袋が置きっぱなしになっている。父のほうを向いて、母さんは? とまたきこうとして、やっぱり、何もいえない。
「明日の夜には、出発するらしい」
 父はパンを手に持ったまま、宙を見つめていった。さっきの質問の答えらしかった。
「荷物も、もうあっちに送ってる。もう三日ほどホテルに泊まってるみたいだしな」
 修は黙っていた。父もしばらく黙ってから、思い出したようにパンをかじった。
「本当なのか」
 修は感情のこもらない声でいった。
「何が。離婚か」口をもぐもぐ動かしながら、父はそっけなくいう。
「そうだよ。それ以外にあるのかよ」
 父さんって、こんな人だったっけ。最近話してないから、わかんないや。
「ああ」
「なんで」
 虫の音が、窓の外からきこえる。うるさい。
「おれのせいでな」
 何でもないことのようにそういって、父は手に持ったレーズンパンをまじまじと見つめた。そしてつぶやいた。
「どうしてパンはふくらむのに、レーズンはふくらまないんだろうな。これじゃ、レーズンどうしは離れていくばっかりだ」
「何したんだよ」
 修の声は震えていた。「浮気か?」
「この顔でか」父はにやっと笑った。ほおのこけた、あぶらっぽい顔がゆがんだ。
「笑いごとじゃないだろ」
「そうだな。すまん」
「どうしてなんだよ」
「すまん」
「どうせ、」修は床を見つめていった。「どうせあんたは、母さんやひかりのことなんか、何とも思ってないんだろ!」
「そうかもな」
 修はあっけにとられた。「そうかもなって……」
 まだ何かいいたかった。こっち見ろよ、とか、ちゃんと教えてくれよ、とか。けれど何もかもばかばかしくなって、修は部屋を出ようとした。
 こんな男の子供であることが、恥ずかしかった。
「修」父が呼んだ。
「何」
「すまん。ひとつ、頼んでいいか」
 父はそういうと立ちあがり、修のほうを見もしないで、台所から出ていった。
 修はしばらく、その場に突っ立っていた。腹が減っていることを思い出して、台所を見まわす。ゴミしかない。仕方なく、テーブルの上にひとつだけ残っていたレーズンパンを手にとって、かぶりついた。
 パン特有の風味がのどを突いて、修は吐きそうになった。よく食えるな、こんなの。
 ――どうしてパンはふくらむのに、レーズンはふくらまないんだろうな
 知らねえよ。当たり前だろ。

     *

「修……」
 電話のむこうの母は、明らかに戸惑っていた。
 駅に近い大通りには、車がひっきりなしに行き交っている。昼前で、空気はサウナのように熱い。
「今から来るの?」
「そう」
 修はケータイの送話口を手でふさぎながら、ビルとビルの間に押し込められたようなビジネスホテルを見あげる。日差しがまぶしい。
「何号室?」

 ノックをすると、なつかしい声がきこえた。
「はい。あけます」
 ドアから顔をのぞかせたのは、妹のひかりだった。今年、小学校に入学した。修とは、としが七つ離れている。
「おう」と修はいった。「ひさしぶり」
「うん」
「お母さんは?」修がきいた。
 ひかりは黙って、部屋の奥をふりかえった。ベッドが一台あるだけの、粗末な部屋だった。だれもいないように見えた。
「わかんない」
 ひかりはそっぽを向いて、いった。
「いないのか?」
 ひかりは首を横にふった。「わかんない」
 修はそれ以上きかなかった。ひかりはいつもこうだ。
「あのさ、届け物があるんだ、ひかりに」
 修は紙袋のなかから大きな本を取り出して、ひかりに差し出した。
 ひかりはあっとうれしそうな声をあげて、本を受け取ろうとした。とたんに、落としそうになる。すぐさま修が支えた。
「大丈夫か? 重いだろ」
「ううん」
「ああ、そう」
 修はむすっとして、立ちあがった。
「それじゃ」と片手をあげる。
「え……」ひかりは修を見あげた。「もういくの?」
「うん」そんな声で、いうなよ。
「またな」
「またね」
 またね。本を抱きかかえたひかりに背を向けて、歩き出そうとして、修は、動きを止めた。
 またって、いつだろう。
 ――明日の夜には、出発するらしい
 父はきのう、そういっていた。
 今日の夜には、出発しちゃうんだ。どこへかは知らないけれど。修は思う。もしかすると、もしかするともう二度と、
「ひかり」
 修はふりかえった。
「宇宙、好きなのか」

 ――これを、ひかりに渡してやってくれ
 父が自分の部屋から持ってきたのは、子供むけの図鑑だった。
 『宇宙』。表紙は、夜空にかがやく無数の星。
「宇宙……」
 修は、ぶ厚いページをゆっくりめくった。端はすり切れているし、よれよれだし、しみもついていて汚い。
 ――太陽系は、家族なんだ
「え?」修は顔をあげた。「何かいった?」
「いや」
「あ、そう」
 修はまた、本に目を落とす。太陽や惑星のイラストをぼうっと眺めながら、修は、
「ひかり、こんなの好きだったっけ」とつぶやいた。
「ああ」父はいった。
「家を出る直前まで捜しまわってたんだ。結局見つからなくて、泣きそうだった」
「へえ」修は鼻で笑った。
 ばーか。あいつは、泣かないよ。
「ホテルに届けてやってくれないか」
「おれが?」
「おれが行くわけにいかないだろ」
 そういって父は、妙な笑みを浮かべて、修を見た。
「修」
「何だよ」
「お前もそのまま、お母さんについていっていいんだぞ」
 心なしか、父の顔が赤い。
「飲んでるのか?」修は図鑑を閉じ、父をにらんだ。
「なあ、どうして母さんたちをホテルに泊まらせてるんだよ。あんたが出ていけばいいのに」
「さあな」父は目をそらし、煙草に火をつけた。
 修は顔をしかめて廊下に出た。頭はガンガン鳴るのに、暗闇は、とても静かだ。

     *

「うん」
 ひかりはうなずいた。「だいすきだよ。あのね、しょうらいは、そらをみるしごとがしたいの」
「ん、」修は眉をひそめる。「えっと、天文学者ってこと?」
「うん」
「へえ」
 意外だった。全然知らなかった。
「月のうさぎさんに、会いにいくんだ」
「つきにうさぎなんかいないよ?」
 ひかりは不思議そうにいった。
「ごめん。そうだな」修はごまかし笑いをした。
「でも、すごいな。そんな夢があったのか」
「べつにすごくなんか」
 ひかりは修に背を向けて、図鑑のページを不器用にめくった。
「たいようけいのわくせい、ぜんぶおぼえたよ」
「ほんとに?」
「うん」
 ひかりはドアの陰にかくれて、すらすらといった。
「すいせい、きんせい、ちきゅう、かせい、もくせい、どせい、てんのうせい、かいおうせい、でしょ?」
「えっと、そう、正解。すごいな」
 修はしゃがんで、ひかりに目線をあわせる。
「そういえばおれも、高校で宇宙のこと勉強したんだ。ちょっとだけ」
 理科総合の授業で。
「そうなの?」
 ドアに半分かくれるようにしたまま、ひかりはふり向いた。丸い大きな目が、修を見つめる。
「どんなことをするの?」
「教科書を読むだけで、全然おもしろくないけど。でも宇宙マニアの友だちがいてさ、いろいろ実験の話をするんだよね。立体星座とか、紙の分光器とか、ナノ太陽系とか……」
「なにたいようけい?」
「ナノ太陽系。太陽系をずっと小さくちぢめたものを、画用紙なんかで作るんだ。太陽系ウォーキングなんかもあるらしくて、それはもっと規模が大きいんだけど、実際に歩いて宇宙を体感するんだって。ミニチュア宇宙を歩く感じ」
「それ、やってみたい」ひかりが目を輝かせて、いった。「うちゅうをあるいてみたい。どうやるの?」
「え……」
 ひかりは部屋の外に出た。
 今から?
「ね、いこう」
「いや、でも」
 ひかりはもう、歩き出そうとしていた。

「ここが、太陽」
 小さな住宅街のなかに立つ、クリーム色の平凡な家。隣家との違いは、ドアと窓の位置くらい。けれど、それが修たちの、たったひとつの家だった。
 ひかりは家を見あげ、うんうんとうなずいている。
「うん、たいようだね」ひかりはいった。「おおきいし、あったかい」
 修はその横顔をちらりと見る。
こいつは、わかっているんだろうか。この家に、もう戻って来られないかもしれないことを。
 窓が真昼の日差しを反射している。かべも明るくかがやいている。きのうの暗い家の面影は、どこにもない。
「太陽は、太陽系のリーダーなんだ」修はいった。
「うん、しってる。たいようは、たいようけいのちゅうしんなんだよね。ほかのほしは、たいようのまわりをまわってるんだよね」
 そういうと、ひかりはゆっくり、家に沿って歩きだした。
 修は、家を見あげる。
 えんじ色の屋根に、クリーム色のかべ。青空に向かって、どっしりと立っている。ぴくりとも動かずに。外から見ても、この家のなかで何が起こっているのかはわからない。
 ――太陽だって、完全なんかじゃないんだ。いつだってふらふらしている
「どういうこと?」
 いつのまにか、ひかりが修の目の前に立って、修の顔を見あげていた。
「え、」
 修はどぎまぎする。
「おれ、何かいったかな」
「うん、たいようがふらふらしてるって」
 修はあわててケータイで調べてみる。参考になりそうなサイトは、さっきブックマークしておいた。
 ――太陽系の中心は、太陽の中心じゃないんだ
 頭のなかで、だれかの声がする。修はいった。
「太陽も、ほかの星の重力で、いつも揺れているんだよ」
「へえー」といいながら、ひかりはまた家を見あげた。
 修は首をかしげる。
 今の話、だれに教えてもらったんだろう。

 本物の太陽が、ぎらぎらと照りつける。立っているだけで、汗が流れてくる。
「よし、行くか」修はいった。
「太陽系ツアーに出発だ」
「うん」
 修はケータイの画面をちらちら見ながら、ひかりに説明する。
「えっと、太陽から水星までの距離は、約五七九〇万キロメートル。おれたちは五七九歩歩く。つまり、一歩がだいたい三〇センチだから、本当の距離を三億分の一くらいにして歩くのかな」
「ふうん」ひかりはいった。
 たぶん、わかってないだろうな。おれもわからないけれど。
「行くよ」
 修は歩数計の数値をリセットしてから、道に沿ってゆっくりと歩きだす。東にむかって、住宅が並ぶ細い道を、まっすぐ進んでいく。ときどき、腰につけた歩数計を確認する。
 百歩。二百歩。四百歩。……あと百歩、十歩、五歩、
 ふと後ろをふりかえると、ひかりが小走りで追いついてくるところだった。少し息を切らせている。
「ごめん」
 修はあわてて立ち止まった。ばか。ひかりのことを、考えていなかった。自分にいらいらすると同時に、ひかりと歩くのはひさしぶりだな、と思った。
「大丈夫? ごめんな」
「うん」
 日差しが強くて、道路の照り返しが目に痛い。
「あ、そういえば帽子忘れたな。取りに帰る?」と、ひかりにいった。
「ほすうかぞえてる?」
「大丈夫だよ。えっと……あと三歩」
「わかった」
 ひかりがゆっくり、修の隣に立った。
 ふたりは並んで、ちょっと目を合わせて、それから、歩き出した。



  1.水星

 一、二、三。
「着いた」
 道のまんなか。何もない。人通りもない。どこからか、子供の遊ぶ声がきこえてくるだけだ。ふりかえると、家からほとんど離れていなかった。えんじ色の屋根が、ちょっぴり見えている。
「すいせいって、すごくたいようにちかいんだね。だからすいせいのひるは、すっごくあついんだね」
 ひかりがいった。
「よく知ってるな」修は、ひかりの顔を見た。
 あ。
 こいつ、こんな顔するんだ。
「えっと、水星はさ」
 修も何か話してあげようとして、けれど、何も思いつかない。
「太陽系で一番小さい星なんだ」と、苦しまぎれにいう。
「わくせいのなかで」
「あ、うん、そうだな」
 ケータイのサイトを眺めたが、こまごまとした数字や用語が並んでいるだけ。
 理科の授業で、何かおもしろい話をきかなかっただろうか。何も覚えていない。
 ――そのスイセイじゃなくて、水金地火木の水星!
「あ」
 関谷の顔が浮かんだ。そうか。
 あいつにきけばいいんだ。

 ――ああ、その水星?
「そうそう」関谷が早口でいう。始業前の教室。みんなどこかよそよそしい。修は体をねじって、後ろの席の関谷と話していた。
「今朝のニュース見た? ついに来年、メッセンジャーが水星の周回軌道に到着するんだ。知ってる?」
「いや……」
「だめだよ時勢にうといと」
「悪かったな」
「楽しみだよなあ」
 関谷はいかにもわくわくしているといった顔で、イスにもたれて天井を見あげた。
「いまさら水星?」修はいった。「水星のことなんか、とっくに解明されてるだろ」
「いやいやいや」
 あきれたように、関谷はおおげさに首を振る。
「水星の研究は意外と遅れててさ。昔は月と同じようなものだと考えられてたから。いままで訪れた探査機は、NASAのマリナー10号だけで、写真も表面の半分しか撮ってないし、だからまだいろんな謎が残ってて、たとえばどうしてあんなに密度が……」
 修はぼんやりしながら、教室の窓の外を眺めた。風が強くて、桜の花びらがいちめんに舞っている。そろそろ始業時間か、と思って、修は前を向いて、真新しい教科書を準備し始める。
「沢木くん、だっけ?」
「え?」
 ふりかえると、関谷がじっと修を見ていた。「名前」
「そうだけど」
「おれ関谷。もういったっけ。沢木くんは、宇宙のこと興味ある?」
「いや、別に」
「ああそう。それで水星の核の話なんだけどさ……」
 始業のチャイムが鳴った。

 関谷と初めて話した日。太陽の軸の話も、あのとききいたのかもしれない。けれどもあれ以来、関谷と宇宙のことについて話した覚えはほとんどない。修があまりにも無反応過ぎたからかもしれない。それに、たしか関谷は天文部に入っていたから、そこで自分の情熱を発散してるんだろう。
「ちょっと待ってて」
 修はひかりにいうと、急いでメールを打った。返事はすぐに返ってきた。
『お前もようやく宇宙に興味を持ったか
 そのツアーおれも参加するよ
 先に次の惑星に行っておいて
 またメールする』
 よし。修はほっとしてにやっと笑うと、ひかりのほうを向いた。
「心強い助っ人が現れたから、何でもきいてくれよ」
「だれ?」
「友だち。さ、行こう。次の星は?」
「きんせい」
「正解」
 子供が笑いあっている声がきこえてくる。
 ふわふわと、シャボン玉がいくつかただよってきた。
「あっ」ひかりが背伸びをして手を伸ばすと、きらきらした玉は、逃げるように浮きあがって、すこしのぼったところで、パチパチ消えた。大きいものも小さいものも、日差しのなかでパチパチ消えた。
 なんて単純。修は思う。
 ――水星の密度が異常に高いのは、内部に核があるからだっていわれてるけど実際のところはよくわかってなくて
 水星も、こんなふうに透きとおってたらいいのにな、関谷。
 そんなこといったら、あきれられるかな。それじゃ、ロマンがないもんな。


  2.金星

 今度は、ゆっくり、ゆっくり歩く。ひかりがついてこられるように。
 昔から慣れ親しんだ、車一台通れるほどの狭い道。修は毎日友だちと走り回っていた。ひかりもここで遊んでいるのだろうかと、ふと思った。何も知らなかった。修の隣を、ひかりもゆっくり歩いている。
 こいつには、どんな友だちがいて、どこで遊んで、どんなことに、笑っているんだろう。
「小学校、どう?」ときいてみる。
 ひかりは修を見る。「どうって?」
「楽しい? 友だちできたか?」
「まあまあ。しゅうは?」
「こっちも、まあまあかな」
 修は黙った。ひかりも黙った。
 水星からちょうど五百三歩目に、修はいった。
「ここが、金星」
 小さな薬局の手前だった。駄菓子も売っているから、近所の子供がよく集まる店だ。ひかりと同じくらいの男の子が二、三人、軒先でアイスを食べている。
「暑いな。ちょっと休憩しよう」
 昼を過ぎて、いよいよ蒸し暑くなってきていた。汗がにじむ。夕立でも降らないかな、と思うけれど、たしか天気予報では、そんな心配はないらしい。
 いつのまにか、ひかりが修の後ろにまわっていた。
「どうした?」
 ひかりは無言で修を引っぱり、歩かせようとした。
「なんだよ。もう行くのか? 着いたばっかりなのに」
 そういいながら、ケータイを確認する。関谷からメールが来ていた。
『金星着いた? ようこそシャイで変わり者な星へ
 ……』
 修は額の汗を袖でぬぐう。
「やっぱり暑いって。飲み物ぐらい飲もう。休憩」
 けれどもひかりは、ますます強く修を引っぱる。
「どうしたんだよ!」
 修はいらいらして、大声を出した。店の前にいた男の子たちが、こちらを見る。すると、「あ、ひかりちゃん」と口々にいって駆け寄ってきた。
 そのとき、ひかりは修のズボンから手を離して、走り去ってしまった。
「おい!」修は叫んで、それから肩をすくめた。どういうことだ?
「ひかりの友だち? ごめんな」と、子供たちに謝る。
「いや、いいよ! あのこ、いつもあんなかんじだし」
「ほんとかよ」
 修は眉をひそめた。そうか。うすうす気づいてはいたけれど、ひかりはあんなに人見知りだったのか。
「ごめんな」ともう一度いう。
「まあ、仲よくしてやってくれよ」
 そういったとき、
 修は気づいた。
 ひかりはもう、この子たちに会えないんだ。だって、今日の夜には、
 早くひかりを探そう。見つけ出して、それで、
 修は走りだそうとして、ふりかえる。
「あのさ」そういって、少し口ごもる。
「えっと、……ひかりが引っ越すみたいな話、きいた?」
 意外そうな反応が返ってきた。それでじゅうぶんだった。
「いや、別に、そうなるとは限らないから」
 なるだろ。何いってんだよおれ。
「それじゃ!」
 修はひかりを追って、走った。
 ――小学校、どう?
 ――楽しい? 友だちできたか?
 ばかだな、おれ。
 ひかりは、
 どんな気持ちだったんだろう。

 ひかりは、自分の家の、玄関のドアにもたれて立っていた。
 修は汗だくになりながら駆け寄った。
「ひかり」
 ひかりの前にしゃがんで、その顔をのぞきこむ。ひかりはきょとんとした顔で見返した。
「あ、しゅう」
「ごめんな、ひかり」
「なにが?」
「何がって……」
「こっちこそごめん。さきにかえっちゃって」
「いや、いいよ。おれが悪いんだから」
「わるくないよ」ひかりは驚いたようにいった。
 修はひかりを見つめる。てっきり泣いていると思ったのに。いや、こいつは泣かないんだ。それにしても、
「ごめんね」ひかりがいった。「だって、あのこたち、へんなことばっかりいうから。わたしのことかわいいとか、いろいろ」
「は」
 修はあっけにとられた。「え? じゃあ」
 ただ照れてるだけだったのか。
 そうか。
 修は思わず、ひかりの肩に手を置いた。ちいさなちいさな肩に。
 こいつは、知らないんだ。
 自分が遠くに行かなければならないことを。
 うつむいた修の顔を、今度はひかりがのぞきこむ。
「どうしたの?」
「何でもない」
 修は顔をあげ、ひかりに笑いかけた。思うようにくちびるが動かない。それから、いった。
「そんなにシャイになるなよ、ひかり。金星みたいだぞ」
 ひかりはまた、きょとんとする。「なあに?」
『ようこそシャイで変わり者な星へ
 地球とは双子の姉弟ともいわれるくらい似ている星
 でも濃硫酸のぶあつい雲で覆われているから、地表の様子はわからない
 しかもものすごい強風が吹いてる
 あと、太陽系で唯一、地球と逆向きに自転している
 雲のでき方とか嵐のメカニズムとか、昔海があったのかとか、いろいろわかっていないことがある
 わくわくするよな?
 日本の探査機あかつきが、鋭意解明中!』
「どうする? 太陽系ツアー、続けるか?」修はいった。「疲れた?」
「ううん、いく」
「じゃあ、次は太陽から地球までひとっとびだ」
 修はてのひらをかざして、空を見あげる。太陽の光に、目を細める。
 もうすぐおれたちが、あそこからやって来るんだな、なんて思った。


  3.地球

 さっきの薬局の前まで戻ると、もうだれもいなかった。修はほっとため息をついた。
 修は店のなかに入り、アイスをふたつとお茶を二本買った。そのとき、レジ近くに結びつけられた、メーカーのロゴ入り風船が目に付いた。

「なにするの?」
 ひかりがのぞきこんでくる。修は黄色の風船をふくらませて、スプレー缶のヘリウムガスを入れて、糸をくくりつけた。
 修が手を離すと、風船はふわふわと上がっていく。かなり高く上がったところで、修は糸を出す手を止めた。そして、店の軒先に結びつけさせてもらった。陽の光にきらきらと輝きながら、風船ははるか頭上でただよっている。
「あっ」ひかりがまぶしそうに見あげて、いった。「きんせいだ」
「アイス、溶けるぞ」修がいった。
 ひかりの手に持ったアイスから、しずくがぽたぽた垂れている。
「あ……」
 修はしばらく黙って、アイスをなめるひかりを見る。そしていった。
「風船をひとつずつ、目印として置いていくんだ。それで、最後にふり返って眺めてみよう」
「うん。すごい」ひかりは目を輝かせた。
「水星のところも、だな」
 修は水星の場所に走っていって、そばの塀に白い風船を結びつけた。
 関谷からメールが来ていた。
『ところで、星がどうして丸いか知ってるか?』
「星はどうして丸い……」
 修がつぶやくと、ひかりもきょとんとした。「え?」
「ひかり、知ってる?」
「ううん」
 修は考え込む。重力だっけ? わからない。
 あいつ、何のつもりだ?
 観念して、「知らない」と返信する。
『それは風船が丸いのと同じ理由』
 修は今揚げたばかりの風船を見て、なんとなくあたりを見まわした。だれもいない。
『ねこがこたつで丸くなるのとも、同じ理由』
 何だよそれ。答えになってねえよ。
「こたえは?」とひかりがきいた。
「ねこが丸くなるのと同じだってさ」
 こいつもまたきょとんとするだろうな、と修は思った。けれどひかりは、わかった、という顔をして、「そうなんだ」といった。
 あれ。修のほうが戸惑った。
 ついていけないや。

 少し広い車道のわきの歩道を、まっすぐ歩く。金星から地球までの距離は、たったの四一四歩だ。ときどき車が通り過ぎていく。本物の太陽が少し傾いて、修の前の影が、さっきより長くなっていた。
 不思議な気分。
 太陽系を歩いている自分たちを、太陽が見下ろしている。
「もうすぐ着くよ」修は歩数計を見ていった。
「あ」ひかりが声をあげた。
 目の前に、文房具屋があった。その軒先で、色あせた地球儀がくるくると回っている。
「あそこがちきゅう?」ひかりが修にきいた。
「え? ああ、あと十歩だから、」
 ぴったりだ。「うん、ちょうどここ」
「ちきゅう」
 丸い地球儀を見つめて、ひかりはいった。これがうちゅうにうかんでるんだよね、それで、わたしたちはこのうえにいるんだよね。
 店のなかから、若い店員が、こちらを見ていた。
 あんな店員いたっけ、と修は思う。思いながら、水色の風船をふくらませた。きれいな球形になった。
「できた。これが地球」
「でも、りくがないよ」とひかりは不満そうにいった。
 かいてみようよ、そういうと、ひかりは文房具屋に駆け込んだ。修もあとを追う。ガラスの自動ドアからなかに入ると、冷気が体に心地よかった。
「これ、」
 ひかりはもう、緑色のペンをおずおずと店員に差し出していた。
「風船に描くのかな」
 店員は小さな声で、ひかりにきいた。メガネをかけて髪をなでつけた、気の弱そうな男だ。修と同じくらいの年だろうか。どこかで見た覚えがある、と修は思う。小学校が同じだったのかもしれない。
「それなら、水性マーカーのほうがいいよ。色がきれいだし」
「じゃあ、それください」とひかりがいった。
「それと、地球を描くなら……この色も、どうかな」
 店員は肌色のペンを手にとって、ひかりに見せた。
 商売上手なやつだな、と修は思った。
「お金はいらないから」と店員はいった。
「え、いいんですか?」
 修は驚く。
「はい」店員は修を見ずにいって、かすかに笑った。
 やっぱりどこかで見たことあるな。
「よかったな、ひかり」
 けれど、ひかりはうつむいて首をふった。
「いりません」
「どうして?」店員は不思議そうにたずねた。
「みどりのちきゅうがすきだから……」
 ひかりはお金を置いて、店を出ていった。修もあとに続いて出ようとしたとき、店員がぼそりとつぶやくのがきこえた。少しばかにしたように。
「そのままエコ運動推進のCMに使えそうだ」
 悪かったな。
 そのとき、はっとして修はふり返る。
 店員は奥のドアに消えてゆくところだった。
 そんなわけないか。修はひらきかけた口をとじた。ケータイを見ると、関谷からメールが来ていた。
『地球は、ひとことでいうと奇跡の星』

 太陽からの絶妙の位置。
 すべてのいのちは、そこからはじまった。
 日差しが、じりじりと首筋をこがす。髪から汗がしたたり落ちる。そばにあった車止めに、風船をくくりつけながら修は思う。
 もし、この文房具屋も、
 手をはなす。
 風船が上がっていく。ひかりが地球儀を見ながら懸命に描いた小さな地球が、ゆっくり、そらへと上がっていく。
 もし、この場所になかったら。
 この地球も、生まれなかったんだ。


  4.火星

 歩道に沿って、さらに歩く。買い物袋を提げた年配の女性が、前から歩いてくる。修の家の二件隣に住む人だった。名前は、忘れた。
「あら」
 女性は驚いたようにいうとすぐ、目をそらした。何かいいたそうに視線をさまよわせていたが、やがて不自然な笑みを浮かべながら、
「まだ、こっちにいたのね」
といった。
 修はどきりとした。まだ、って。
 うちのことを、知っているんだろうか?
 女性は、ご両親によろしく、とだけいって、立ち去った。
 修はひょこひょこ歩くその姿をしばらく眺めていたが、「そうだ」とつぶやいて、ケータイを取り出した。
「母さんに連絡しなきゃ。ひかりを勝手に連れ出してきちゃったし。もしかすると帰りも遅くなるかもしれないし……」
「べつにいいよ」
「え?」
 ひかりはさっさと歩いてゆく。
「どうした、ひかり」
「しなくていいよ、でんわ」
「でも、お母さん、心配してるぞ」
 ひかりは黙っている。
「ひかり」
 修はひかりの前に立ちふさがった。
「ひかり」
 しゃがんで目を合わせ、少しためらってから、修はいった。
「ひかり、お母さんは、何ていうか……今、大変なんだ。だから、優しくしてあげないと、な?」
 ひかりは目をそらす。「うん」
「わかってる?」
「うん」
「いやか?」
「わかんない」
 ひかりはくちびるをぎゅっと結んだ。
「おかあさん、おかあさんね、さいきん、すごくやさしいよ。でも、……」 ひかりはそこで口ごもった。
「でも?」
「……おかあさん、すごくへん」
「変?」
「いつもひとりで、ないてるんだ。ひかりのいないところで。それで、わたしがかえりたいっていうと、おかあさん、おとうさんのわるくちいうんだ」
 修は黙りこむ。そりゃそうだよな。母さんの気持ちもわかる。
「おかあさんは、もうおとうさんのこと、すきじゃないのかな?」
 うん。と、つい、そういいそうになった。パンをかじりながら、にやにや笑っていた父を思い出す。修はまた黙った。一度離れてしまったものは、もう二度とくっつかないんだ。
「わたし、おかあさんのことが、」
 ひかりの声は、ほとんどきき取れないくらい小さかった。

 昔から、波のある人だった。
 ふだんはいいお母さんだった。けれど、ひとたび感情的になると、何もかも変わってしまった。恐ろしい仮面のような顔で、何度も怒鳴られた。叱られたんじゃない。怒られたんだ。
 幼い修はそのたびに、お母さんなんかいらない、と思った。それでも次に優しい母を見ると――風邪の看病をしてくれたり、ごちそうを作ってくれたり――、やっぱりいいお母さんだ、と思うのだった。

 母にはメールを送っておいた。関谷からのメールは、まだ来ていない。次は火星だ。
 ――ほら、水に関係する物質も見つかってるわけだし、
 いつだったか、関谷が火星の探査機か何かについて、天文部仲間と話していたことがある。修は弁当のたこさんウインナーをつまみながら、口をはさんだ。
「火星人っているの?」
「いたらしい、って期待はされてるけどな。今はいないと思う」と関谷はいった。「なにせ環境が厳しすぎる」
「火星ってどうして赤いんだっけ? 燃えてるの?」
 天文部の連中にさんざん笑われたが、関谷はあわれんで教えてくれた。
「あれは赤さびの色」
修はむすっとして、いった。「ふうん。なんでさびてんの?」
「昔、水に覆われていたからだ、っていう説がある」
「ああ、それで。じゃあ、もう乾いちゃったのか」
「そう。まだ水が残ってる可能性もあるけどな。それでな、ついでにいうと、火星って太陽系でいちばんスペクタクルな星なんだぜ。まずオリンポス山は、――」

 最近になって、母がふつうとは少し違うということが、なんとなくわかってきた。いつか父が、お母さんは、ちょっと心がでこぼこしてるんだ、といっていた。考えてみれば、母がパニックになったとき、支えていたのは、いつも父だった。
 おれがいない間に、いや、いても気づかないうちに、あの二人に何が起こっていたのだろう。
 雑草に覆われた空き地のそばで、修は立ち止まった。やっと着いた。
「地球から七八三歩。ここが、火星」
「へんなにおいがする」とひかりがいった。
フェンスのむこうには廃材が置いてあって、鉄のいやなにおいがした。
「火星も、あんなふうにさびた星なんだ」
 関谷の解説メールを見つつ、ひかりに説明する。
「かせいでも、こんなにおいがするのかな」
「だろうな」
「きれいにならないのかな?」
 修はちょっと考えこむ。「さびなら、きれいになるんじゃない? ほら、さびた鍋とかにクレンザーよく使ってたよね、」
母さんが。そこまでは、なぜかいえなかった。
「そうだよね。きれいになるよね」
 ――おかあさんのことが、こわい。ひかりはさっき、そういった。
 今度はひかりが風船をふくらませるといいだした。赤い風船をくわえて、顔を真っ赤にしながらがんばっていたが、あきらめて修に渡した。
「顔、風船みたいだぞ」
 修は笑いながら風船の口を手でぬぐって、勢いよくふくらませようとしたが、あることを思いついてひかりを見る。
「さっきのペン貸して。今度はおれが描いてもいい?」
「うん」
 修は鮮やかな緑色で、短い線を三本、ぺちゃんこの風船に描いた。目がつりあがった、怒った人の顔だった。
「なにかいてるの?」
 ひかりがのぞきこんで、むっとしていった。「それわたし?」
「ちがうよ」
 修は勢いよく、風船をふくらませる。緑色の線がのびる。
 すべすべの風船に、大きな顔ができあがる。まるで、にっこり笑っているような。


  5.木星

 火星から木星までの距離は、かなり長かった。
 人のまばらな公園を通り抜ける。午後の日差しはまだ強い。広場には、サッカーをする子供たちの姿が見える。さびれた遊具には、だれもいない。
「ちょっと休憩する?」
 修は木陰のベンチに腰をおろした。ひかりも隣に座った。太陽の熱がふっとさえぎられて、かすかに吹く風が、汗をかいた体に心地いい。
「このあたりは、しょうわくせいたいなんだよ」
 ひかりが小さな腕を広げていった。
「何、それ」修はベンチにもたれて、腕を頭のうしろに組んで、きいた。
「わくせいより、もっとちいさなほしが、たくさんあつまっているところ」
「へえ、たくさん?」
「そう、たっくさん」
「いくつくらい?」
「えーと、ひゃくまんこくらい」
「はは、うそばっかり」
「うそじゃないよ! おとうさんがいってたもん」
 修は言葉に詰まった。
 ひかりも黙った。
 修は公園を眺めて、それから、いった。
「じゃあ、ここにも風船、おいていく?」
「え、」
 ひかりは修を見る。その顔は明るかった。「うん、そうだね」
 ふたりは、遊具に次々と風船を結びつけた。ブランコや鉄棒、すべり台、ジャングルジムやシーソーに、色とりどりの小さな風船が踊った。むさくるしい公園が、遊園地のようにはなやかになった。
「できたね」回転遊具にもたれて、風船を見あげながら、修がいった。
「うん」
 何人かの子供たちが公園に入ってきて、風船を見つけて声をあげた。そしてすぐに駆け寄って、遊具からはずしてしまった。
「あっ」
 それでもひかりと修は黙って見つめていた。子供たちははしゃぎながら、風船を手に持ったり、腕や腰にくくりつけて走りまわっている。その動きにあわせて、空で風船はくるくる動いて、まわる。
 途中から、サッカーをしていた子も加わった。遊具にくくりつけた風船は、ひとつ残らず取られてしまった。
 見あげれば、青空に雲はなくて、色とりどりの風船だけが飛びまわっている。
「ほしがあそんでるみたい」
 ひかりはそういってから、すぐ舌を出した。「ほしはあそばないよね」
 やわらかい風がふいた。修は深呼吸した。夏のにおいがした。
 そうかな。
 はるか空のむこうでも、同じように、星たちは遊んでいるのかもしれない。

 火星から五五〇四歩目の木星は、ちょうど駅前商店街の入り口だった。いつになく人が多い。浴衣姿の人もいる。奥のほうから、にぎやかな音楽もきこえてくる。
 そうか、今日は、
「夏祭りだ」と、修がつぶやいた。
「そうなの? なにをするの?」ひかりが不思議そうにきいた。
「出店とか、ステージとか。おいしいものがいっぱいあるよ。行ってみるか」
 たった一年なのに、なぜかとても懐かしい。去年はだれと来たんだっけ。
 ――妹さんいるんですか? えー、会ってみたい
 そうだ、去年はたまたま、あの人に出くわして。
 早くも商店街に入っていこうとしている修を見て、ひかりはいった。
「あれ、たいようけいツアーはどうしたの?」
「続いてるよ」修はふり返っていった。「木星だって動いてるだろ。いつも同じ場所にはいないんだよ。ほら、ちょっと行ってみよう」
「うん、まあね」
 おいしそうなにおいがただよってくる。修の腹が鳴った。ケータイを見ると、もう四時半だった。昼飯をまだ、食べていない。
 ふだんは人気の少ないこの商店街にも、夏祭りの日には屋台が立ち並んで、おおぜいの人が行き来する。修はなんとなくきょろきょろしながら歩いていった。手をつないだカップルを見るたびに、つい目で追ってしまう。
 修が小さい頃は、よく両親につれてきてもらっていた。父と母に、片方ずつ手を握られて。あるときは父に肩車されて。何度も来た。家族三人で。けれど、ひかりが生まれてからは、
「ひかり」
 人通りが多くなって、体を傾けないと進めないほどになった。暑苦しくて、汗がだらだら流れる。
「ひかり」
 後ろをふり返る。はぐれるなよ、といおうとした。
 ひかりは、いなかった。

 人の波をかきわけて、大声で名前を呼びながら、ひかりの姿を探した。人にじろじろ見られても、気にしなかった。
見つからない。
 修は後悔した。
 まただ。まただ。どうして気にかけてやれなかったんだろう。どうして、手を握っていてやらなかったんだろう。昔の父や母のように。昔の、父や母のように。
 修の体から、力が抜けていった。
 どうしてみんな、ばらばらになってしまうんだろう。昔はとても近かったはずなのに。ひとつだったはずなのに。
 ――どうしてパンはふくらむのに、レーズンはふくらまないんだろうな
 父の言葉が浮かんだ。
 おれだって知りたいよ。
 ふくらむ人の波に流されるまま、修は歩いた。

 ひかりは屋台の前で、何かをじっと見つめていた。
「あっ」
 近づいてくる修を見つけて、ひかりは少し顔をほころばせた。
「よかった」修はひかりの前に、くずれ落ちるように座りこむ。
「ごめんね。かってにひとりであるいて」ひかりがすまなさそうにいった。
「何いってんだよ。ごめんな……」
 修はまだ何かいおうとしていたが、ひかりが屋台のほうを指さして、いった。
「ね、あれはなに?」
 透明な機械のなかで、白いふわふわしたものがうずまいている。頭にバンダナを巻いたおじさんが、割りばしを動かして、白いものをどんどんからめとっていく。
「ひかり、見たことないの? わたあめだよ」
「はい、お待たせ」
 おじさんが、おおきなわたあめを高校生くらいの男女に手渡した。男が受け取って女に渡すと、彼女はきゃあと声をあげた。
「おじょうちゃんも、わたがし食べる? 一個二百円だよ」
「うん。しゅうは?」
「いや、おれはいい」
 修はうわの空で、去ってゆくカップルを眺めていた。何かがちくちく胸を刺す。同じクラスの本谷の顔が浮かんで、そして、きれいに消えた。
 ――こうやって歩いてると、兄妹みたいじゃないですか?
 あの人の声がする。
 ――兄妹? ほんとに?
 ――なんか、思うんですよ。わたしにお兄ちゃんがいたとしたら、こんな人なのかなあって
 すぐに、ひかりの顔よりもおおきなわたあめができあがった。
「はい、お待たせ」
 ひかりはしげしげと、できたてのわたあめを見つめた。
「おもい」といってから、両手で割りばしを持ってくるりとまわす。
「なんだか、わくせいみたい」
「へえ?」おじさんが驚いたようにいった。
「めずらしいことをいうね。ふつうは雲とかいうもんだけど。それに難しい言葉を知ってるなあ。学校で習ったの?」
「ううん」
 ひかりは背を向けて、割りばしををくるくるまわした。わたあめが、くるくるまわる。
「そうやると、たしかに星に見えるな」おじさんが身を乗り出す。
「知ってるか、おじょうちゃん。そのわたがしみたいにふわふわした星が、実際いっぱいあるんだ」
「うん、しってるよ」
 ひかりがいった。「もくせいやどせいでしょ。たいようもかな? あれはほとんど、ガスでできてるわくせいだから」
「へえ、たいしたもんだ」おじさんは目を丸くして、おおげさにいう。「将来は天文学者だな、おじょうちゃん」
 ひかりは背を向けたまま、「ガスっていうのは、すいそやヘリウムなんだよ。くうきよりもかるいんだよね」と修にいった。
「ん? ああ、そうだな」
「よく知ってるなあ」
 おじさんは感心して見せた。なんとなく、修はいい気分になった。

「木星は、太陽になりそこねた星、とよくいわれる」
 一番街からはずれたところの植え込みに腰かけて、修は関谷のメールを見ながら話す。内容はちょっと難しい。
「太陽のような恒星になるには、エネルギーをがんがん生み出す核融合反応をしないといけない。でも、木星はそのための質量つまり重さが足りなくて……」
 ひかりはわたあめをほおばりながらきいている。おおきなわたあめは、もう半分くらいになっていた。
「わかる?」修がきいた。
「なんとなく」
「すごいな」
「おもくないと、たいようになれないの?」
「そうらしい」
「ふーん」
 ひかりはわたあめをじっと見つめた。そして急に立ちあがると、また一番街を走っていった。
「おい」修はあわててあとを追う。
「おじさん」
 わたあめの屋台の前に立って、ひかりはいった。
「なんだい」
「あの、えっと、わたあめ、もういっかいください」
「はいよ。でも、まだ余ってるじゃないか。あ、お兄ちゃんの分かな?」
「ううん、あの」
 ひかりは食べかけのわたあめを差し出した。
「これにまた、まきつけてください」
 おじさんは怪訝な顔をする。
「どうして?」
「だって、……おもさがたりないから」
「おやおや」おじさんは笑った。「最近の女の子にしては、めずらしい。うちの娘もそのくらい食べてくれればありがたいんだが」
 人通りが、どんどん多くなる。陽はだんだんと傾いてきていた。それでもまだまだ明るくて、まだ暑くて、修は手のひらの汗をシャツでぬぐった。
「ひかり」
 ――おれには、妹いるよ
 ふいに、一年前の記憶がよみがえる。
 修がそういうと、吉野はたこ焼きにちょっとむせて、それからちょっと苦笑して、いった。
「え、妹さんいるんですか? えー、会ってみたい。かわいいですか?」
「ん、まあ……」
「いいなあ」吉野は遠くを見やりながらいった。「きょうだいがいるって、いいですね」
 ――そうかな、と修はいった。
「はいよ、できあがり」おじさんが特大のわたあめをひかりに渡す。
 そうだよ、と修は思う。今ならわかる。
「ひかり」修が呼びかけた。
「なに?」
 修は、ひかりの、あいたほうの手をにぎった。
「あ」
 とひかりがいって、ちょっと笑った。
「もうはぐれるなよ」修が前を向いたまま、いった。



  6.土星

 商店街を抜けて、線路沿いの細い道に出てからも、修はひかりの手をにぎったままだった。
「ひかり」
 首筋に当たる日差しは、まだじりじりと暑い。
「なに?」
 ひかりが修の顔を見あげた。
「お父さんやお母さんに、手つないでもらったこと、あるか?」
 二両編成の電車が、ふたりを追い越していった。うしろから風が吹いた。フェンスにからみついた葉だけのススキが、ざわざわゆれた。
「わかんない」
「そうか」
 修は、それ以上何もいわなかった。
 商店街の喧騒は、はるか後方に遠ざかっていた。風にかき消されて、もう何もきこえない。
「ごめんな、ひかり」
 また電車に追い抜かされてから、修は明るくいった。
「歩き疲れただろ」
「ううん」
 ひかりは黙々と歩いている。
「でも、木星から土星まで六千歩以上あるんだよ。まだ結構残ってるし。腹減ってないか? そういえば、お昼も食べずに出てきたよな。すっかり忘れてた。食べたのってそのわたあめくらいだろ。大丈夫か?」
 話しながら、まぶたが重くなるのを修は感じた。きのう、あんまり寝てないからな。
「しゅう」ひかりが顔を向けた。「ちゃんとほすうみてる?」
「見てるよ。あと三三〇〇歩くらい。いや、えっと、二三〇〇歩かな、ごめん」
 目の前がかすむ。
 修の口に、ふわふわしたものが押しつけられた。見ると、ひかりがわたあめを持って、「たべて」といった。
「あ、ありがと」
 ひとくちかじると、じわりとした甘みが口のなかに広がった。空腹と疲れでぼんやりしていた頭が、すっきりしたような気がした。
 ありがと、とまたいった。
「ぜんぶたべていいよ」

 変わりばえのしない景色が続く。右側に赤茶けた線路、左側に家やマンションが並んでいるだけだ。わたあめを食べたのが逆に悪かったのか、修の腹はたえず鳴っていた。何か食べるものがほしいのに、店は見当たらない。ようやくそれらしいところを見つけて、修は声をあげた。
「ひかり、あそこにパン屋がある。ちょっと寄っていこう」
「うん、いいよ」
 パン屋というより、ケーキ屋らしかった。小さい店だ。けれど人気はあるようで、お客さんが何人か、ウインドウのなかのケーキを眺めていた。
「何食べる?」
 修がひかりにきいた。「ケーキもパンもプリンもあるぞ」
 レーズンパンを手に取ろうとしている自分に気づいて、修は苦笑いした。
 ひかりはひととおり店内を歩きまわってから、手をふって修を呼んだ。
「これ、おいしそうだよ。どーなつ」
 ひかりが指さしていたのは、一切れずつかわいく包装されたバウムクーヘンだった。くだものばうむ、と書かれている。
「いや、これはドーナツじゃなくて、バウムクーヘンっていうんだ」
 修は笑いながら、関谷のメールを思い出してしまった。あいつがいってたドーナツも、案外、バウムクーヘンだったりして。
「ありがとうございましたー」
 店員の声がして、男がひとり、店から出て行くのが見えた。そのうしろ姿が、関谷に似ているような気がした。気がしただけかもしれなかった。ちょうどあいつのことを考えていたんだし。
 ――空、見てたらさ、
 関谷の声がした。
 ひかりに小突かれて、修ははっと我に返る。

 店の前のベンチに腰かけて、ふたりはバウムクーヘンをかじった。しっとりしていて、甘かった。
「これ、どせいのリングみたいだね」
 ひかりがバウムクーヘンを見つめながら、いった。
「確かに、似てる。あのリングがモデルなんじゃないの」修は口いっぱいにほおばりながらいった。「あれ、リングは何でできてるんだっけ」
 ――土星のリングは、小さなつぶの集まりなんだ
 頭のなかで、声がした。
「ちいさなつぶのあつまりだよ」とひかりがいった。「ほんものはもっときれいなんだろうな」
「うん、だろうな」
 修は早くも食べ終わって、あんパンに取りかかり始めていた。
 ――氷やちりや、星くずが
「そういえば、」修はその声を追い払うように頭をふった。いったい、だれだ?
「外国のお話で、お姫様が男に、土星のリングを結婚指輪としてもってこい、ってわがままをいうお話があるんだ」
「すてき」
「そうかな」
 あんパンを食べながら、遠くを眺める。線路のむこうに、なだらかな山が連なっていて、太陽が、すぐそばまで迫ってきていた。
 ぐずぐずしていると、日が暮れてしまう。
「ねえ、しゅう」ひかりがいった。
「しゅうは、そんなこといわれたら、どうする?」
「え……土星のリングくれって?」
 修は思わず鼻で笑ってしまう。けれど少し考えてから、「相手によるかな」といった。
「そんなひとがいるの?」
 修はぎくっとした。
「えーと」目をそらす。
「そんな無茶なこという人、そもそも、いないだろ」
「わたしがいったら?」
「いうなよ」
 修は真剣にいった。ひかりが真剣な目をしていたから。
「行こう、ひかり。帰りが遅くなるといけないから」
 修は立ちあがった。
 もうすぐ日が暮れる。早く帰らないといけない、
 けれど。
「太陽系ツアーも、もうすぐ終わりだな」
「うん」ひかりも立ちあがる。また電車が通り過ぎてゆく。

 このまま、

 オレンジの風船をおおきくふくらませて、空に浮かべた。
 透きとおった風船は、はるか頭上で、あわい日差しを受けて、危うげにゆらゆらゆれていた。あそこには、もう秋風がふいているのかもしれない。
「あれが土星」
 風船を指さしながら、
 このまま、と修は思う。
「リングは無いけどね」
「たべちゃったもんね」
 ひかりはいった。その顔に当たる陽の光が、さっきより少し赤い。
 このまま、ひかりといっしょに、どこかもっと遠くへ行けたら。ひかりをつれて、逃げだせたなら。
「さあ、急ごう」
 修はぎこちなく手を差し出した。「帰りが遅くなるといけないから」
 ひかりはその手を、しっかりにぎった。


  7.天王星

 ――土星から天王星までは、すっごく遠い
 ――どれくらい?
 ――太陽から土星までと、おなじくらい
「じゃあ、いままであるいたのとおなじくらいってこと? ……ねえ?」
 修ははっとしてひかりを見た。
「何? ごめん、きいてなかった」
「しゅうがしゃべったんだよ」
「え、あ、そう」修はごまかし笑いをする。また、ぼーっとしていた。
 今の会話は、自分とひかりのものだったのだろうか。食べたばかりで、頭がうまく働かない。しかも、寝不足だ。
「てんのうせいって、どんなほしか、しってる?」ひかりがきいた。
「えっと」修はケータイをひらく。
 ――よくわからないんだ
 修の頭のなかで、だれかが答えた。
 ――どうして?
 と、だれかがきいた。
 ――とっても遠いから
 ――ふうん
 ――でもね、天王星は、
「しゅう、いまなんぽ?」
「え、あ」
 修は我に返って、ベルトにつけた歩数計を見る。
「二一四九歩。まだ五分の一もきてない」
「どうしたの?」
 ひかりは眉根を寄せて、修を見つめた。「へんだよ」
 その表情は、母にそっくりだった。
「いや、別に。ちょっと眠いだけ。えーと、天王星は、おもしろいまわり方をしてるんだ」
「おもしろい?」
「うん」
 修は関谷のメールを見ないまま、ケータイをポケットに戻すと、両手を動かして、「ほら、地球とかの星は、こう、こまみたいにくるくるまわってるだろ。自転っていうんだけど」
「うん、しってる。ちきゅうぎみたいに」
「そうそう」修は話し続ける。何も見ていないのに、言葉がすらすらと出てくる。
「でも、天王星は、そろばんの玉みたいに、横倒しになってまわってるんだ。こう、ころがるみたいに」
 ――それって、
 目を輝かせて、何かをいうひかり。でも、かわりに、幼いだれかの声がする。
 ――それって、どこがおもしろいの?
「――いね!」ひかりがいった。
「おもしろいね! どうしてそんなふうにまわってるの?」
「何が?」
「え?」
「あ、天王星?」
「うん」
「えっと」修は宙を見つめる。
 ――昔、おおきな
「昔、おおきな隕石がぶつかって、倒されたんだったかな」
 修は少し不安になって、関谷のメールを見た。同じようなことが書かれていた。
「おきあがれなかったの? だるまさんみたいに」
「そうみたい」
「げんきがないのかな?」
 いや、重心が……といいかけて、やめた。
「きっと、つかれてるだけだよね」ひかりはいった。
「いまのしゅうみたいに」
「うん」眠気でぼんやりしながら、修はいった。「それで何億年も、ずっとごろごろしてるんだ」
 今のおれみたいに、か。
 ――沢木先輩、
 と吉野はいって、うれしそうに近づいてきた。修は、何もいえなかった。あれが、最後のチャンスだったのに。
「またげんきになるのかな」
 家々のむこうの太陽が、どんどん赤くなって、落ちていく。
 空の色も、少しずつ変わっていく
 修は、足を速めた。ひかりが小走りになる。
「ごめん」修がいった。「ちょっと寄り道するけど、いいかな」
「え、いいけど」
 ひかりの手を、引っぱるようにして歩く。
 修は前を向いたまま、「ありがと」といった。
「え?」
 本当だよな。天王星みたいだよな。いつまでぐずぐずしてるんだよ。いい加減、けじめつけろよ、おれ。
 ――土星のリングくれって? 相手によるかな。
 ――そんなひとがいるの?
 ――沢木くんは、好きな人いるんですか?

 線路沿いの道の、少しひらけたところで、修は立ち止まった。田んぼのむこうの低まった位置に、おおきな白い建物がある。修がこの春卒業したばかりの中学校だった。
 校舎の影が黒々とのびる校庭が見わたせた。野球部が、トラックの白線を踏みつけながら練習している。ひっきりなしに、やかましいかけ声がきこえてくる。
「あれ、ちゅうがっこう?」
 ひかりがきいた。
 修はうなずく。
「だれかにあうの?」
「あー」
 あいまいな返事をする。
 会えるわけないんだ。
 頭ではわかっていた。今は夏休みだ。けれど、心のどこかで、会えるような気がしていた。いつもそうだったから。会いたいと思ったときには、なぜか必ず会うことができたから。
 校門のほうから、きゃっきゃっと声がした。二台の自転車が、ゆっくり坂をのぼって走って来る。制服姿の女子生徒だった。まさかな、と修は思う。文化系クラブの生徒だろうか。それとも、自習帰りの三年生だろうか? 去年の今ごろは、おれも受験生だった。去年の今ごろは、あの学校にいて、
「あぶないよ」
 ひかりが修の手を引いた。女子中学生の乗った自転車が、走りぬけていく。
 そのうちのひとりは、吉野だった。
 ゆっくりとすれ違うその一瞬、彼女はこちらに気づいた――ような気がした。そしてあの苦笑しているような顔で、こっくり会釈した――ような気もした。夕日に照らされた田んぼの稲が、風にゆられてさわさわ鳴った。
 今も、走っているのかな。あの深い目で、先を一心に見つめながら。

 ゆっくりすれ違うその一瞬、修は口をひらいて、


  8.海王星

 吉野万由を初めて見たのは、中学二年生の冬、卒業式の予行練習のときだった。そのときは、生徒会長がかわいい子と話してるな、くらいにしか思わなかった。春になって、修が友だちにかつがれて、調子に乗って副生徒会長になってから、よくいっしょに仕事をするようになった。吉野は書記で、修のひとつ下の学年だった。
「クラス代表で走るんです。ちょっと恥ずかしいです」
 体育祭で使う花の飾りを作っているとき、吉野は下をむいたままいった。吉野はクラス対抗リレーのアンカーだった。
 陸上部のエースで、運動神経もいいし、かわいいし、クラスの、いや学年の男子のアイドルなんだろうな、と修は思っていた。
「えー? すごいよ。おれなんかクラスいち、足遅いから」
「えー」
 吉野は深い黒い目を修にむけて、苦笑、した。いつもそう見える笑い方だった。
「去年も走ったの?」
「いえ、去年は怪我してたので……」
「ふうん」
「でも、沢木くんも速そうですよ!」
「いや全然」
 だれもいなくなった放課後の教室。生徒会長は少しはなれた席で、数人と何やら打ち合わせをしている。修は入場門の飾りの花を折る手を休めて、「えっと」といった。
「はい」
 吉野は顔をあげた。波のような黒髪が、すこし顔にかかっている。
「いや、何でもない」
「何ですか?」吉野は不思議そうにきいてくる。
「ん、リレー。頑張ってっていおうとしたけどさ。『頑張って』って、なんか押しつけがましくない?」
「そんなことないですよー! うれしいです」
「あ、そう。まあ、生徒会長と二人で応援するから。フレフレ吉野ー」
「えー、やめてください」
 といって、吉野はまた、苦笑した。

 吉野はいつも走っていた。
 野球部の練習が終わったあと、ナイター設備も消えた校庭のトラックを、彼女は走っていた。塾の帰り道、修はいつもそれを見ていた。
 いちどだけ、声をかけたことがある。
 まだむし暑い夏の夜。去年の、今ごろ。
 バックネットの近くで、何人かの野球部が自主練をしている以外、だれもいなかった。校庭はほとんど真っ暗だった。
「沢木くん……」
 彼女はびっくりして、立ち止まりそうになった。
「あ、ごめん、そのまま走って」
 修は吉野の横について、走っていた。
「え――どうしたんですか? こんな時間に」
 吉野が息をはずませながら、いう。暗くて見えないけれど、たぶん、あの海みたいに深い目をこっちにむけて。
「いや。練習の――じゃましてごめん。すぐ帰るから」
「いえ――じゃあ、いっしょに走りましょう」
 吉野はうれしそうにいった。修はほっとした。
「いつも、走ってるの?」
「はい」
「すごいな」
「いえいえ」
「いや――すごいって」
 修はもう、息が荒くなってきていた。クラブを引退して、体はすっかりなまっている。
 ついていくだけで精いっぱいになりながら、それでもそんなそぶりは見せないようにして、修は話し続けた。
「毎日? ――しんどくない?」
「それは、まあ――でも――気持ちいいんです」
 トラックを一周したけれど、吉野がスピードをゆるめる気配はない。
「こうやって――走ってると――」
 走るリズムに合わせて、吉野が、いった。
「――暗いなかで――くるくる――トラックをまわってると――」
 遠くの街灯の青白い光が、一瞬だけ、吉野の顔をほのかに照らした。修のほうを見て、口元をあげて、笑いかけていた。あの苦笑したような顔で。
「なんだか――星になったみたいで」
「ほし? ――ああ……」
「笑わないで――ください」
「いや――笑って――ないよ」
 二人の足音と、息づかいと、心臓の鼓動だけがきこえる。
「惑星――ってこと?」
「はい」
「じゃ――」修は声をしぼりだすようにしていった。体の限界が近い。
「――今のおれは――吉野の――衛星、かな?」
「えー」
 と、たぶん、吉野はまた、いつもの苦笑をしている。
「何星?」修がきいた。
 彼女はちょっと間をあけて、いった。
「何だと――思いますか?」
「えっ――クイズ?」
「いえ――自分でも――わからないです。――沢木くんが――決めてください」
「え、いいの? ――えっと――」
 深く考えたわけじゃない。ただなんとなく、「海王星」といった。心臓がばくばく鳴る。
「それって――どんな――星でしたっけ」
「ごめん――知らない」
 吉野はかすかに笑って、理由をきくこともなく、「ありがとうございます」とだけいった。
 真っ暗な校庭を、ただただ走った。
 修の体が限界をむかえるまさにそのとき、吉野は、静かにつぶやいた。
「何が、自分にとっての太陽なのか――わからないんですけどね」
 陸上でしょ? という言葉は、もはや修の口からは出なかった。
 そのとき、「危ない!」と鋭い声がきこえた。修たちの目の前に何かが落ちて、にぶく音を立てておおきくはずんだ。吉野が立ち止まる。修は地面にくずれ落ちた。
 野球部のひとりがものすごい勢いで走ってきて、吉野に「大丈夫?」ときいた。吉野がうなずく。「ごめんな。早く帰れよ」とそいつは吉野にいって、修には何もいわずに、ボールを追って闇に消えた。それをしばらく目で追ってから、吉野は
「大丈夫ですか?」
と、修に声をかけた。それから申し訳なさそうにいった。
「すみません」
 どうして吉野が謝るんだよ、と思った。けれど、なんとなくわかっていた。
 修は立ちあがって、手についた砂を払う。
「それじゃ」といって、立ち去ろうとした。
「あの」吉野がいった。顔は見えない。
「――がんばりましょうね、生徒会の仕事。夏休みが終わったら、体育祭の準備ですよね」
「うん」
 修はいった。こんなに近くにいるのに、吉野はおれから、すごく遠いところにいる。
 吉野はまた走り始めた。みるみるうちに、遠ざかっていく。

 ――応援してくれましたか?
 吉野は石段をのぼりながら、修をふり返った。
「うん、まあ。速かったよ」
 本当は、してない。
「津田くんの声はきこえたんですけど……」
 吉野は、先頭を行く生徒会長を見あげた。まずいな、と修は思う。
「あの……」吉野は声をひそめた。生徒会のほかの連中の騒ぎ声で、ほとんどききとれない。
「何?」
 修はびくびくしながら、吉野に顔を近づける。
「津田くんと山下さんって、付き合ってるんですか?」
 なんだ。
「うん、そうらしい」
「ええー、びっくりです」
 吉野は目を丸くして、並んで歩く会長と山下を見た。それから突然いった。
「沢木くんは、好きな人いるんですか?」
「ええ?」声が裏返る。「いや、いないよ」

 二台の自転車が、走りぬけてゆく。
 すれ違うその瞬間、吉野と目が合って、
 修は口をひらいて、
 結局、何もいわずに、片手をちょっとあげた。吉野は軽く頭を下げて、走り去っていった。
 こんなもんだよな、と思う。

 修が中学校を卒業する日、偶然、ほんとに偶然、吉野に出くわした。彼女は「沢木先輩」といって、うれしそうに近づいてきた。
 沢木先輩。
 吉野との距離は、もうどうにもならないくらい遠くなってしまっていた。それはもちろんわかっていた。でも、ずっと確かめたかった。
 よし。これでおしまい。
「ひかり」
 修はいった。「行こう」
「え、だれかにあうんじゃないの?」
「もういい」修は遠ざかる自転車に背をむけた。
「それと、ごめん。海王星は、今日はパス。ほかにつれていきたいところもあるしさ」
「え、どうして?」
 ひかりは不満げな顔をした。
「さいごまであるこうよ」
「いや、もう時間がないんだ。ごめんな」修はいった。「海王星は、遠すぎるから」



  X.冥王星

 中学校の裏手から、せまい路地を抜けて、小高い丘をめざした。手すりのない急な石段を、一歩一歩のぼる。西日が背中に当たっている。日没には、間にあった。修は自分の長い影を見つめた。そして、前を歩くひかりを見つめた。
「ねえ、しゅう」
 ひかりがふり返ろうとする。
「あ、前見ろよ。危ないぞ」
「うん」
 のぼるにつれて、足の筋肉が張っていくのを感じながら、もうすぐ終わるんだな、と修は思う。自分の影がだんだん薄くなっていくことに、修は気づかない。
 丘をのぼりきったとき、あたりは完全に薄暗くなっていた。
 修はふり返った。修が期待していたものは、ひかりに見せたいと思っていたものは、そこになかった。まだ、日没には早いはずなのに。代わりに、空にはぶ厚い雲がひしめいていた。突然、青紫の閃光が走り、雷鳴がとどろいた。
 体にいやな震えが起こって、冷や汗が出た。ひかりが、不安げに修に近づいてくる。
「かみなり……」
「よし、帰るか」
 修がいい終わらないうちに、雨がぼたぼたと落ちてきた。空はますます暗くなる。修は舌打ちする。
「こっち!」
 ひかりの手を引いて、修は近くの屋根のついた休憩場所に走っていった。
 雨はどんどん激しくなる。腐りかけた木の長いすに座って、暗闇に沈んでいく町を眺める。家々の明かりや街灯がぽつぽつ浮かんでいるのが、雨のあいだにぼんやり見えた。
 二度目の稲光が空に走って、音もなく、町の光はすっと消えた。
 大粒の雨が、粗末な屋根をばらばらと打つ。風も出てきた。
「雨かかってないか?」暗闇のなかで、修は隣に座るひかりにきいた。
「だいじょうぶ」
「ごめん」修の声は、少し震えていた。最後に、見せてあげられると思ったのにな。
「天気予報では、明日まで晴れのはずだったんだけど」
「うん」と答えるひかりの声も、雨の音にさえぎられて、ほとんど届かない。
「ひかり、寒くない?」
「だいじょうぶ」
 やがて、雷鳴は遠ざかっていった。
 どれくらい経ったろうか。雨はいつの間にかやんでいた。光が消えたままの町を、ぼんやり眺める。寒気がして、くしゃみが出た。あわててひかりのほうを向くが、暗くて何も見えなかった。
「ひかり」修は呼びかける。「寒くない? 帰ろう、雨、やんだよ」
 返事はない。
「ひかり」
 顔を近づけて見てみると、ひかりは眠っていた。小さな体を丸めて、すうすうと寝息を立てて。
「ひかり、」修はまた呼びかけた。「起きろ、帰るぞ」
 目を覚ます気配はない。修はひかりの体をゆり動かした。
「帰るぞ」
 ひかりはもぞもぞと動いた。「いや」
「は?」修はきょとんした。「お母さん、心配するぞ。もうだいぶ遅いし」
「かえりたくない」
 ケータイを見ると、九時前だった。母からの着信があった。
「やっぱり」心配してるんだ。
 けれどもひかりは、「かえりたくない」と繰り返した。そして自分の腕に顔をうずめて、黙りこんでしまった。こんなひかりを見るのは初めてだった。やっぱり、おれには、ひかりがわからない。
「どうすんだよ……」
 暗い夜のなかで、修は途方に暮れた。修だって、帰りたくはなかった。けれど、帰らなければいけない。
 修はそっと立ちあがり、雨のにおいの残る赤土の上を歩いて、丘の端に立った。雨粒を抱えたままの雑草が、ジーンズをぬらして重くした。
 暗闇に沈む町は、とても静かだった。何も見えない。何もきこえない。
 自分たちが残してきた風船の惑星は、まだ浮かんでいるだろうか。暗闇のなかで、ぽつん、ぽつんと浮かんでいるのだろうか。
 修は町に背を向けた。
 宇宙は、こんなに寂しいのだろうか。

 ――何で、そんなに宇宙が好きなんだ?
 いつか、修は関谷にそうきいたことがある。
 関谷はちょっと考えてから、
 ――空、見てたらさ、
 修はひかりの体を抱きかかえ、おぶった。ぐったりとしたひかりの体。こんなに重かったんだ、と思う。こんなに温かかったんだ、と思う。
「おとうさんのところがいいな」
 耳元で、ひかりの声がした。
「え?」
「おとうさんのところがいい」
「お母さん、怒るぞ」
「べつにいいよ」
 おれは、よくない。
 ――空、見てたらさ、
   嫌なもの、見なくてすむだろ
 あいつは、そういった。
 修は黙って石段をおりてゆく。ふと、空を見あげてみる。いつのまにか月が顔を出していて、ほんのりと明るかった。

 ――嫌なことって?
 修はきいた。机にひじをついて、関谷はぽつりとつぶやく。
「家族と離れて暮らすって、何かとつらいよな」
「何の話だよ」
「もしも、だけどさあ」関谷は修から目をそらして、窓の外を見る。色づいた葉が、はらはらと風に舞っていた。「おまえ、どう思う?」
 ――もしも、家族にもう二度と会えないとしたら?
「いいわけないだろ」修はこらえきれずにいった。ひかりは、黙っている。
 なんで、母さんよりあんな男のほうがいいんだよ。
「あいつ……お父さんのせいで、おまえは、遠くに行かないといけないんだぞ」
 いってしまってから、はっと口をつぐむ。
 ごめんな。ごめんなひかり。
「おとうさんのせいじゃないよ」ひかりの静かな声がした。
「でも、」修の口調が激しくなった。「あいつは、」
「ちがうよ。みんないってるよ。おとうさんがかわいそうだって……」
 ひかりはそれ以上いわずに、しばらく黙っていた。
「しゅう、たいようけいには、もうひとつわくせいがあったんだよね」
「え?」
「おとうさんのずかんには、のってたよ。どうしてなくなっちゃったの?」
 修は無言のまま、石段を三段おりた。
「ばれちゃったんだ」
 修はぽつりといった。声は、夜の空気に静かに消えてゆく。
「冥王星は、ほかの惑星とは、ちょっとちがってた。ほんのちょっとだけ。それがわかっちゃったんだ。だから、惑星の一員からはずされた」
「そう」
「そう。高校で習った」
「なんだか、かわいそう。だって、たいようけいは、かぞくなのに」
「うん……」
 修は何かいおうとして、また黙った。口をあければ、いろいろなものが溢れてきてしまいそうだった。父のこと。母のこと。ひかりのこと。
 ひかりも冥王星のように、おれの前から姿を消してしまうんだろうか。ひかりは、
 ひかりは、何も悪くないのに。
 ――いや、ドラマの話
 関谷は軽い口調でいった。「きょうだいと生き別れになるっていう」
「なんだ、そうか。びっくりした。てっきり本当に、おまえが家族と離れ離れなのかと……」
「でもさあ」
 関谷は明るく、でもどこか悲しげに、修を見ていった。
 ――家族と生き別れて暮らすって、どんな気持ちだと思う?
 知りたくねえよ、そんなの。
 ひかりの体が、急に重くなった。修は石段のまんなかで、つんのめりそうになる。
 静かな寝息が、また耳元できこえはじめる。
 そっとポケットからケータイを取り出し、電話をかけた。呼び出し音が鳴って、
 相手はすぐに出た。
「父さん」
 修は抑揚のない声でいった。少しためらってから、そっとつづけた。
「ひかりは、父さんの子じゃないんだろ」

 電話のむこうで、はっと息をのむ声がきこえた。父さん、じゃない。
 母さん?
「だれが」その声はふるえていた。「そんなこと、いったの」
 修はひと呼吸おいて、いった。
「だれも。だれもいってないよ」
 電話のむこうの母は、何もいわなかった。夏の虫が、修のまわりで鳴きはじめた。
「……今、どこにいるの。何時だと思ってるの? さっきから電話もつながらないし……ひかりは? ひかりはいるの? ひかりは?」
 まずいな、と修は思った。いつもの発作だ。母の声はヒステリー気味だった。
「父さんはいる? それ、父さんのケータイだろ」
「いないわ」
「出かけてるの?」
「わたしがこの家に来た時には、もういなかったわ」
「でも、ケータイは」
「もういいじゃない、あの人のことは!」
 母の声が、怒りを帯びた。
「子供の心配もせずにほっつき歩いてる親なんて!」
 修は黙った。
「早く帰ってきなさい! ひかりは無事なん」
 修は、電話を切った。
 だれかが、石段を駆けあがってくる。息を切らせて。やせた体をふるわせて。
 だれかが、じゃない。来る前から、わかってる。

「修か? ひかりは?」
 父は修と、修の背中で眠っているひかりを見て、大きく息をはいた。父は三段下から修を見あげた。修も見返した。その顔はよく見えない。もう修の背は父とおなじくらいだし、石段三段分、修のほうが高いところにいるはずなのに、
 なんだか、そうは思えなかった。
「ごめん、心配かけて」修はうつむいて、いった。
「いや、そんな――たいそうなことじゃない」
「よくわかったね」
「何が」父はきょとんとした。
「おれたちが、ここにいるって」
「ああ、まあな」
 父は空を見あげた。服からしたたる水で、石段に水たまりができている。空はもうだいぶ晴れてきていた。
「昔、よくこの丘で星を見ただろ。ひかりを連れてくるなら、たぶんここじゃないかなって」
「え? ああ」修も空を見あげた。雲のあいまに、うっすらと星が見える。
「そうだっけ?」
「覚えてないのか」
 父はあきれたようにいった。
「ま、そりゃそうだよな。いくらおれが宇宙のことを熱心に話したって……お前がまだ小学生の頃だけど……全然興味なさそうだったもんな」
「そうだっけ」
「覚えてないだろ」
 ――それって、どこがおもしろいの?
 いや、そんなことないよ。ちゃんと覚えてるよ。
「でも、ひかりはおれに似て」父はうれしそうにいった。
 修は父の顔を見つめた。でも、表情は見えない。
「宇宙が大好きなんだ。おれは、それだけでうれしい」
 それだけで。
 血はつながっていなくても?
 この人は、どんな顔をして、どんな気持ちで、こんなことをいってるんだろう?
「だれが何といおうと」
 父の声は、あくまで穏やかだった。
「ひかりは、おれの子だ」
 ――沢木くんとひかりちゃんって、そっくりですよね
 ふいに、吉野の声がした。
 あれは、いつのことだっただろう。この丘の上。赤々とした太陽が、町のむこうに沈んでいく頃。まわりには、ほかにだれがいたのだろう。たぶん、去年の体育祭が終わってから、みんなでのぼったんだ。この丘で、吉野はいった。たしか、体育祭を見に来たひかりに会って。
「沢木くんとひかりちゃんって、そっくりですよね」
「どこが?」と修はきいた。
 吉野は、

 何と答えたのだろう?

「お母さんから、きいたか、ひかりのことは」
 父がふと、思い出したようにいった。
「えっと」修は口ごもる。
「いや、わかってるなら、いいんだ」
「父さんの子じゃ、ないってこと、だよな」
「ああ」
 否定してほしかった。実際きいてしまうと、やっぱり、やっぱり。
 修はひかりを、今まででいちばん重く感じた。やっぱりひかりは、冥王星なんだ。ばれちゃったら、離れてしまうしかないんだ。
 月がかげって、あたりはまた暗くなった。
「でも、おれはな」
 父は一段のぼって、ひかりのほうに手をのばす。ひかりは、静かに寝息を立てている。
「この子を、離したくないんだ。ほんのちょっとちがうからって……苗字が変わって、どこか見えないところにいってしまうなんて、嫌なんだ」
 父は少し言葉を切る。
「ずっとそう思ってたのにな。すまんな。勇気がなくて」
 修は、何もいえなかった。
 そうだよな。当たり前だよな。だってこの人は、
「さあ、帰ろう」
 おれたちの親なんだから。
 町が光を取り戻した。
 家々の窓が、街灯が。何千何万という星が、空の下にまたたいたように思えた。
「家には今、母さんがいるよ」修は父にいった。
「さっき父さんのケータイに出た」
「そうか。じゃあ、早く帰ろう」
 修はかすれた声で、「すごいな」とつぶやいた。
「何が」
「いや」修は目を伏せる。「別に。……心、広いなって」
「やめろ」
 父は背を向け、石段をおりはじめた。
「宇宙に比べたら、ごみだ、ごみ」
 ――騎馬戦、すっごくかっこよかったです
 そういわれて、思わず背を向けた修に、吉野はいう。
「沢木くんとひかりちゃんって、そっくりですよね」
「え? ひかりに会ったの」
「はい、体育祭を見に来てました」
「似てるって、どこが?」と修はきいた。
 夕日が吉野の顔を照らしている。その顔は、いつものように、ひかえめに笑っている。
「どっちも、ほめられると背中向けて……」

 顔が、自然と笑ってしまう。
 おれもひかりも、あんたの子なんだ。修は父の背中を追って、石段をおりはじめる。
 ふいに足から力が抜けて、体がくらりと前に傾いた。あ、と思ったが、遅かった。胸に衝撃が走って――強い力が、修を支えた。父だった。
「お前も、おぶってやろうか」
「いいよ別に」
 修はかたくなに、足をふみだす。隣には父がいる。
 離れてしまったとしても、永遠にもとには戻らないとしても、
 それでも、修はひかりをおぶる腕に力をこめて、歩いていく。小さな太陽系の中心にむかって。あの家はまだ、ひかりを迎えてくれるはずだ。
 かわいそうなんかじゃないよ。なくなっちゃいないよ。まだ、太陽系の一員だから。
 ひかり、
 冥王星も、家族だよ。


 
2011-01-02 18:14:05公開 / 作者:ゆうら 佑
■この作品の著作権はゆうら 佑さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 完結しました。ちゃんとだれかが読んでくださっているのかどうか不安になります……。まあぼくもほかの作品に感想書けてないんですが。ひとつ書きあげたので、これからまた徐々に登竜門になじんでいきたいと思います。
 お読みいただき、ありがとうございました。
この作品に対する感想 - 昇順
 ゆうら 佑様。
 初めまして、ライトノベルもの書きのピンク色伯爵という者です。
 御作を拝読しました。
 はじまり方から、「この人(小説書くのが)こなれているなー」という印象を持ちました。映画の冒頭シーンにありそうな感じですかね。とても丁寧に書かれていますし、何より発想が面白かった。太陽系に見立てて街を冒険するって、いいですね。とてもユーモラスでリズミカルなイメージです。まだ冒頭ということもあり、特になんとも言えないですが、主人公たちの家庭問題とどう絡めてくるかに期待です。
 一つ一つの文が素晴らしい。次回更新を首を長くしてお待ちしております。
 ピンク色伯爵でした。
 
2010-12-05 14:39:32【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
はじめまして、白たんぽぽと申します。
作品読みましたー。詩的な作品で、とても文学の香りがしました。
宇宙ウォーキングのところがなんか良かったです。ひかりと修が二人で自分の家を中心として歩いていき、様々なことを考えたり思い出したりする、という構成がとても巧みです。
ときどき思い出す、宇宙に関する知識の挿入も、なかなか雰囲気が盛り上がる感じがして良いです。これを言ったのは誰なのか、について思い出すシーンがどんな形で訪れるのか、とても楽しみです!
それと、親父さんのキャラクターが個人的に好きです。このそっけない感じとか、親父って感じがします。でも、大切なところはちゃんとしてくれているところが、良いな、と思いました。ちょっと渋めなのも、好みです。
次回更新楽しみにしてます、ではではー。
2010-12-05 16:07:35【☆☆☆☆☆】白たんぽぽ
>ピンク色伯爵さん
 はじめまして。こなれている……そんな印象を持たれるとは。うれしいですけど、自分ではよくわかりません。
 たしかに初めの章だけだと何とも言えないですよね。ひさしぶりの投稿なので、びびって小出しにしてます。すみません。本当はだいたい書きあがっているので、早めに更新していきたいと思います。
 文章をほめていただいたので自信がつきました!(笑) 感想ありがとうございました。

>白たんぽぽさん
 はじめまして。なるほど、詩的ですか。できるだけ波風立たない文章にしようとしてはいます。いちおう、成功でしょうか?
 親父いいですか? うん、たしかに渋めですね。僕の理想なのかなあ。
 構成が巧みと言っていただけるのはうれしいです。それではこのまま突っ走りたいと思います。でもわかりにくくなったらご指摘お願いします。感想ありがとうございました。
2010-12-10 00:12:41【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 ゆうら 佑様。
 ライトノベル物書きピンク色伯爵であります。
 続きを読ませていただきました。テンポよく進んでいく文章はとてもよかったと思います。私見ですが、「1水星」の冒頭の『あ。こいつ、こんな顔するんだ』は一文にした方が良いのではないかと感じました。主人公の驚きを表している部分ですが、ここはそのまま流した方が自然かもしれません。とは言ったものの、僕はライトノベル物書き。ここは古参の文学に造詣の深い方の意見を取り入れた方がいいかもしれません。つまり僕の言うことは話半分に流して下さいということです(笑)。
 ストーリーに関してはまだ何も言えない感じかな。ごめんなさい。次回に期待ですね。
 やや行間空けを多用している印象を受けました。いくつかの個所に関してはは詰めてもいいんじゃないかと思いました。これは蛇足ですね。
 下らない感想になってしまったかな……?
 興味深かったです。ピンク色伯爵でした。
2010-12-10 23:12:23【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
>ピンク色伯爵さん
 こんにちは。また感想をいただけるだけでも本当にうれしいです。行間など、指摘されたところについては、ある程度直しました。参考になります。ありがとうございました。
2010-12-17 21:55:00【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 はじめまして水山いいます。 まず最初に思ったのは。発想が綺麗だなあ……です。
口調も丁寧で、「ああ……怖いよ」と良い意味で思いました。確かに詩的とも取れますね。
 アドバイスは、伯爵殿と同じで、行間空け描写が多くて、ちょっと、「うん……」となりましたが、修正されてからはよくなっていると思いまする。ぼくぁ感覚で感想しているので、たまに失礼なこと意味のわからないこと感想になってないこと言葉になってないことを言いますが、これからも作品があったらちょくちょく読みにきているので。
 では……
2011-01-04 13:24:30【☆☆☆☆☆】水山 虎
 完結おめでとうございます。読ませていただきましたakisanです。

 ひかりが登場する節はよくできていると思います。あそこはかなりひきつけられるシーンですね。
 出だしが少々乱雑なので、そこを丁寧にやれているともっと面白かったかもしれません。それと地の分でもう少し情景描写を増やしてやると、この作品の雰囲気に厚みが出てくると思います。特に時間帯と気温を感じさせる文を追加すると、かなりせつない雰囲気が加速するかと。
 あと、太陽系とあわせて兄妹が活動していく発想はよかったのですが、太陽系は数が多いので扱うのが難しく、中だるみしてしまいましたね。季節は夏みたいだし、夏の大三角形(ベガ・アルタイル・デネブ)でやったらすっきりしたのかも。
 個人的には母親の心情か沢木くんの視点で一節でも合間に挟んだら面白いのかなーと思いました。

 ともかく、いいセンスですね。特に雰囲気が良い感じです。この年の子供って、こういう発想するよなーって気持ちになります。
2011-01-05 00:00:54【☆☆☆☆☆】akisan
>水山 虎さん
 はじめまして。お読みいただき、ありがとうございます。
 きれいさや丁寧さは意識したところでもあるので、そういってもらえるとうれしいです。怖いってどういう意味でしょう・・・^^;
 いえ、どんな感想でも参考になりますので、今後もよろしくお願いします。

>akisanさん
 はじめまして。お読みいただきありがとうございます。
 ひかりが登場するシーンというのはホテルを訪ねるシーンでしょうか。回想をはさんだのがよかったのでしょうか・・・? とにかくありがとうございます。
 たしかに書き出しは荒かったかもしれません。多少は投稿前に修正したのですが、甘かったです。というか全体的に展開が荒いですよね。サクサク進めてしまったので。厚みを増すことは今後の課題とします。時間帯と気温ということは、夕暮れを意識させるということですね。なるほど・・・。

 夏の大三角形とは、おもしろい案ですね。たしかに太陽系だと難しかったです。視点を章ごとに変えることも考えましたが、そこまでの実力がありませんでした;
 よかった。いくらか子供の発想ができていたようで。いつまでも若い心は持っていたいです(笑)
 感想・アドバイスありがとうございました。またよろしくお願いします。
2011-01-19 21:55:49【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。