『なんて哀れな恋』作者:遥 彼方 / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
高校生の桜は、同い年で幼馴染の清水蛍と付き合っている。彼らはある日、映画を観に行く約束をした。しかし、姉の楓にそれを言うと、彼女は何故か反対する。桜はそれでも映画を観に行く。その後、桜には過酷な運命が待ち受けていたのだった――。
全角29311.5文字
容量58623 bytes
原稿用紙約73.28枚
 これは私の罪を描いた小説。
 何度も罪悪感が心の隅に引っかかっていて、それでも夢を追わずにはいられなかった。
 私は今やこの世界から孤立している。
 本当に一人ぼっちなんだと思い知らされて、泣くこともできずに、ただ手の豆を増やすだけ。
 芸術は人を選ばない。けど、才能は人を選ぶ。
 何度も才能に裏切られて、それでも高みへ手を伸ばし続けたあの人。
 才能に愛されて、いとも容易く高みへ昇りつめてしまったあの人。
 芸術を愛すことはできても、才能に裏切られた哀れな芸術家達。

 あの人が初めて私を見てきた時、その視線の中に込められた感情が愛おしさだとすぐに気付いた。
 けど、あの優しげな瞳は、遠くにいる別の人を映していたんだ。
 私じゃなかった。
 ずっと勘違いしていてバカみたい。
 本当にバカみたい。
 私のことを好きなのだと信じていた。
 なんて、バカ。
 心の中では、ずっと恋人だと思っていた。
 私はあの人を裏切ってしまった。
 今ではあの人は死に、そして彼女も死んだ。
 すべては頑固に主張を譲らなかった私のせい。
 彼が何に苦しみ、何を想っていたのか、最後まで気付けなかった。
 これは私の罪の記憶。
 すべてを失ってもわが道を進み続けた記憶。

 *

 私は姉さんの部屋で、彼女に膝枕をされながら、目を閉じてうたた寝をしていた。
 姉さんは私の髪を梳きながら、唄を歌ってくれる。
 今日は何故かイーグルスのデスペラードだった。
 週末の夜は、決まって姉さんの部屋で過ごすことが日課になっている。
 その際、姉さんは色んな話をしてくれた。
 それはほとんど恋愛の話であることが多い。
「桜」
 姉さんが優しげな瞳を向けてきて、呼びかけてくる。
「桜も、きっとわかるようになるわ。誰かを好きになったら、どんなことをしてでも尽くそうという、この気持ちを」
 私も本当にそんな気持ちがわかる時が来るのかな?
「来るわ。だって桜、あなたは、」
 今、恋してるでしょ――?
 姉さんはそう言って、くすくすと笑う。
「そんなことより、私、もっと姉さんと一緒にいたいな」
「あらあら。私だって仕事で忙しいのよ?」
「それでももっと一緒に……」
 そう言うと、さらに髪を梳く手つきが優しくなった。
「あなたには、もっと時間を共にしなければならない相手がいるでしょ?」
 その時、私の腰からチープな着信音が鳴る。
 私は思わず飛び起きて、姉さんと頭をぶつけてしまった。
「……そんなに飛び上がらなくても」
「蛍君からだっ」
 私は携帯を取り出して、画面に表示されたその文字を確認して、頬を綻ばせる。
「早く出てあげなさい。恋人の声ほど甘くて優しげな声はないもの」
 私はうなずくと、部屋を駆け出た。
 壁に背中を寄りかからせて、通話ボタンを押す。
『桜?』
 どこか不安げな声。
「あ、蛍君? どうしたの、こんな時間にっ」
 私は電話をしてきてくれたことが嬉しくて、ついつい声を裏返らせてしまった。
『あのさ……』
 蛍君は歯切れの悪い声を出す。
「どうしたの? 言いにくいこと?」
『いや……観たい映画があるんだ』
 映画? それってデートしたいってこと?
「行こうよ、映画! どんな映画なの?」
『藍の灯火』
 藍の灯火……? 知らないなぁ。
 けど、私は大きくうなずき、言った。
「行こう! 蛍君!」
『本当にいいの?』
 蛍君の声はどこか強張っている。
「いいに決まってるよ! 蛍君とならどこへでもっ」
 そう言ってしまってから、なんて恥ずかしいこと言ってるんだ、と顔が熱くなった。
『一人じゃ観る勇気が出ないけど、桜となら……。僕の心が変わる前に、観ておきたいんだ』
 蛍君の声は震えていて、私はどうしたんだろうと思った。
 しかし、それでも私は「わかった」とうなずく。
「明日、行こう」
 すると、蛍君は安堵した声を出す。
『ありがとう、桜』
 私達はそれから少し会話をして、通話を切った。
 私は携帯を握りしめたまま、ガッツポーズを取る。
 やった! 明日は蛍君とデートだっ!
 ウキウキと姉さんの部屋に戻ると、彼女は「どうだった?」と聞いてきた。
「明日、映画観に行くの!」
「ふうん? どんな映画?」
 姉さんの声が少し不安げに揺れている気がして、でも、私はそのまま答える。
「藍の灯火」
 その瞬間、姉さんの目が見開き、彼女はベッドから立ち上がった。ね、姉さん?
「行っちゃ駄目っ!」
 突然彼女は私の手首をつかんで叫ぶ。私は目を丸くした。
「絶対に行っちゃ駄目!」
「ど、どうしてよ!」
「行ったら、よくないことが起きる!」
 よくないことって……リングじゃあるまいし。
「姉さんの言うことを聞きなさい! 明日は行っちゃ駄目!」
 姉さんの指が私の手首に食い込み、激しく痛む。私は「離してっ!」と姉さんの手を振り払った。
「なんでそんなこと言われなくちゃいけないの!? 絶対行くからね!」
 私は姉さんの部屋を走り出る。
「待ちなさい! 桜!」
 私は自室のドアをぴしゃりと閉めて、鍵をかけた。
 ベッドのクッションに顔を埋めて、唇を噛む。
 どうしてそんなこと言われなくちゃいけないのよ。絶対明日は行くんだから……。

 翌日、待ち合わせ場所の時計台に行くと、蛍君は目を閉じて胸の前で手を組み、そこに佇んでいた。
 いつもと違う雰囲気に、私は戸惑う。蛍君?
 彼の手の中にあるのは一冊の手帳だった。彼はそれを表面が歪むほどきつく握りしめている。
 私は声がかけられずに、人込みに体を揺さぶられながら、ずっとそこに佇んでいた。
 やがて、時計台がベルの音を響かせて、待ち合わせの時間になる。
 ゆっくりと蛍君の瞼が開いた。彼は私の姿を見つけた瞬間、驚いた顔をする。
「どうして声をかけてくれなかったの?」
 私は視線を伏せて、それには答えない。
 彼は間近から私の顔をのぞきこんできて、「どうしたの?」ともう一度聞く。
 私は首を振った。
 彼は私の手を握ると、歩き出す。映画館はすぐ側だ。
「たぶん桜も気に入ると思うよ」
 彼は白い頬を綻ばせて、言う。
 建物の中に入り、チケットを買った。
 蛍君がパンフレットを渡してくる。
「ありがとう……」
 私はパンフレットを胸に抱きしめて、彼の横顔をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「なんだか、今日の蛍君、少しいつもと違うなって」
 それを聞いた瞬間、蛍君の顔が歪む。
「あのさ、桜」
 彼は、真剣な表情で言った。
「お姉さん、何か言ってなかった?」
 なんで、姉さんがでてくるの?
 私は首を振る。すると、蛍君の表情が陰り、「そう」と彼は無感情な声で言う。
「行こう」
 私達はシアターの前列の席に座った。
 蛍君はそれきり黙りこんでしまう。
 本当にどうしたのだろう。私が何かした?
 私は蛍君の顔が青ざめていることに気付き、「どうしたの?」と心配になって聞く。蛍君は「なんでもない」と首を振った。
 彼は唇を震わせて、そっとあの手帳を胸に抱きしめる。
 それは何なの?
 そう聞きたいのに、言葉が喉に引っかかって、うまく声にできない。
 やがて、辺りが暗くなり、スクリーンの幕が引かれていった。
 その瞬間、手を強く握られる。
 振り向くと、蛍君がすがるような視線を向けてきて、「こうしてていいよね?」と掠れた声を出した。
 私はうなずいて、彼の手を両手で包み込む。
 胸がドキドキしている。すぐ近くに蛍君の体温があって、彼の鼓動さえも聞こえてきそうな気がした。
 映画が始まった。
 すぐに私は物語に引き込まれる。
 何故だろう、映画を観ているうちに懐かしさを感じた。
 なんて美しい話なんだろう。
 私がスクリーンを食い入るように見つめていると、突然手が激しく痛んだ。
 振り向くと、蛍君が目を見開いてスクリーンを凝視している。ぎりぎりと締め付けられる手の平。
 私が声を上げようとした時、突然彼の手の力が弱まった。
 私はそっとスクリーンに向き直る。
 そして、やがて映画が終わり、辺りが明るくなる。
 これは間違いなく傑作だな、と思う。こんな話、どうやったら作れるんだろう。
 そして、振り向いた瞬間、私は目を見開く。
 蛍君は涙を流していた。スタッフロールの止んだスクリーンをまだじっと見つめている。
「蛍君?」
 すると、蛍君は我に返り、慌てて頬を拭った。
「なんでもないっ」
 蛍君は立ち上がって、先に歩き出してしまう。
 私は彼の横に並びながら、パンフレットを取り出して話しだした。
「間違いなく傑作だよ。特に脚本がいいよね。この、夏野裕明って人……」
 私がそう言った瞬間、蛍君が足を止める。
 手首を強く握られた。
 蛍君は怒りの形相を浮べて、私を睨んでいる。私は喉を詰まらせた。
「少し黙ってろ」
 私は息を呑む。蛍……君?
「ご、ごめん、つい……」
 私が涙の予感を感じると、慌てて蛍君は我に返り、「ごめんっ」と謝った。
「なんかイライラしてたんだ、本当にごめんっ!」
 蛍君はそう言って、私の手をつかんで、歩き出す。

 私達は喫茶店に入って、ブレンドコーヒーを頼んだ。お互いにずっと黙りこくったままだった。
 やがて私は席を立ってしまい、化粧室に入る。
 鏡に向かって溜息を吐いた。
 どうしたんだろう、蛍君。私、何かまずいことしたのかな。
 今日の彼は、やっぱりどこかおかしい。思えば、昨日電話してきた時からおかしかったような気がする。
 私はもう一度溜息を吐くと、化粧室を出る。
 席に戻ると、蛍君の姿がなかった。私は慌てる。もしかして、怒って帰っちゃった?
 そこで、床にくしゃくしゃに丸められたパンフレットが落ちていることに気付き、私は目を見開いた。
 さっき確かに机に置いたはずなのに。誰がこんなことしたの?
「桜」
 背後から声がして、私は振り向く。
 蛍君が、私の手の中のそれを見つめて言った。
「誰かの悪戯だね、きっと」
「どうしてここにいてくれなかったの? 荷物見てって言ったのに」
「ごめん。ちょっとトイレに行ってた」
 そこで、私は蛍君の唇の端が切れていることに気付く。
 私はハンカチで彼の血を拭ってあげた。
「さっきスコーン食べてる時、噛んじゃったんだ」
 そう言って蛍君は苦笑する。
 私は溜息を吐き、なんだか気分が悪いので、店を出ることにした。
 再びあの時計台の前に戻ってくる。
「じゃあ、今日はありがとう、桜」
 蛍君はそう言って苦笑した。
 私はどうしても顔を俯かせてしまう。
「桜には、迷惑かけたね。今日の僕は、確かにおかしかった」
「そんなこと……」
「でも、桜がいてくれたから、こうしてあの映画を見ることができた。ありがとう、桜」
 そう言って、蛍君はすっと私の手を包み込んでくれた。
 私はその指を握り返す。
「じゃあね」
 蛍君は手を離すと、背を向けて歩き出した。
 私は彼の姿が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしている。
 本当は、もっと一緒にいたかったんだけどな……。

 翌日も休日だった。
 あれきり蛍君と連絡が取れなくなってしまった。何度メールを送っても返信がこない。
 蛍君、怒ってるのかな?
 私は不安になるあまりに、彼の家を訪ねてしまった。
 玄関のドアを開けた瞬間に、細い腕が二つ伸びてきて、私の体を包み込む。
 私は悲鳴を上げて、家の中に引っ張り込まれた。
「桜ちゃあん!」
 おばさんは私の胸元に顔を押し付けながら、至福の表情を浮べる。
「会いたかったよ〜。どうしてうちに来てくれなったの? 私、寂しかったのよ?」
 仕舞いには耳を甘噛みしてくるので、私は彼女を突き飛ばした。
「いつも思うけど、なんでそんなにつれないの?」
「何考えてるんですか、あなたはっ」
 蛍君の紳士っぷりを見習いなさい!
 私はおばさんの腕にシュークリームの箱を押し付けて、階段を駆け上がる。
 部屋のドアをノックした。
 そこで、ふとその異臭に気付く。
 なんだろう、これ……汚物の匂い?
 私は顔をしかめながらそっとドアを開いた――その瞬間、私の中で何かが音をたてて壊れた。
 蛍君の細い体が宙に浮いている。首に巻きつけられたロープ。だらりと垂れ下がった腕。
 そして、焦点の定まらない瞳。
 あ……あ……。
 私は這うように進み、蛍君の足に腕を絡ませた。
 どうして……どうして?
 蛍君と目が合う。
 彼は瞬きさえせず、私の顔を無機質に見つめてきた。
 嘘だ。こんなの。こんなの、嘘。
 私の口からは、何かよくわからない単語が次々と飛び出て行く。
 彼の手に触れると、肌がまだ暖かかった。
 その温もりを感じるために、私は彼の体をまさぐる。
 どのくらいそうやって彼の体にしがみついていたんだろう。
 やがて食べ物の乗ったトレイを持ったおばさんがやってきて、それを見て絶叫した。
 蛍君は自殺した。
 何故、こんなことになったんだろう。私はどこで歩む道を間違えたんだろう。
 これは……私のせい?

 どうして、お通夜なんて行けたのか、自分でもよくわからない。
 足は冷え切っていて、喉も言葉を吐くにはからからに乾きすぎてた。
 タクシーから降りてきた私を見て、会場の前で待っていた友人達が走り寄ってくる。
「桜!」
 彼女達は私の顔を見て、ぎょっとした。
 私は笑っていた。
 もうどんな顔をすればいいのかわからない。だから笑うしかないのだ。
 友人達は囁きあって、私の周囲を囲みながら、会場の中へと私を引き連れていく。
 棺桶の前でお焼香をした。
 煙が鼻を刺激して、私の頭は朦朧としてくる。
 すぐ目の前に蛍君がいるのに、声をかけられない。
 友人達は私に精一杯の優しい声をかけてくれて、私を棺桶の前から引き剥がそうとした。
 それでも、私の足は動かない。
 その時、どこからか、強い視線を感じる。
 私は周囲を見渡した。誰が見ているのだろう。
 二つの目が私の体を射抜くように見つめてきた。
 誰?
「どうしたの、桜?」
 友人の一人が心配した声で私の肩を揺する。
 無理矢理棺桶の前から引き剥がされた後も、ずっとその視線を感じていた。
 どこから見ているの?
 友人達が私の様子を見て、戸惑ったような顔を浮べる。
 その時、視線が不意に途切れた。
 本当になんだったんだろう、あの視線。
 私は頭痛を覚えて、壁に寄りかかる。
 その時、四五人の生徒の集団が目に付いた。襟章を見て、下級生だとわかる。
 どうして下級生がこんなところに?
「綾はまだ来ないの? あの子、このまま来ないつもりなんじゃっ」
 彼らは何かを険しい顔で囁き合っている。
 私は気付けば、彼らに声をかけていた。
「蛍君とはどういう関係なの?」
 単刀直入に聞いてきたことに驚いたのか、彼らは目を丸くして驚いている。
「この人、清水先輩の彼女じゃないの?」
「うん、俺も見たことある」
 彼らは囁きあった後に、自分達が映画研究会の部員であることを話した。
「清水先輩は映研の部員だったんですよ?」
 ……嘘。そんなこと聞いたことなかった。
「まあ、幽霊部員だったんですけどね。でも、あの人のおかげで今の私達があるようなものだから。だから、こんなことになって本当に悔しくて……」
 その女の子は仕舞いには泣き出してしまう。彼女をなぐさめる男の子達。
 蛍君が、映研に入ってた? どうしてそれを、言ってくれなかったんだろう。
 私は部長の女の子から連絡先だけを聞いて、彼らと別れた。
 友人達は、私が誰かと話しているのを見てほっとしたのか、頬を緩めて私を迎え入れてくれる。
「とりあえず休憩室に行こうよ、桜」
「桜も、疲れてるだろうし」
 彼女達に背中を押されて私は会場を出ようとした。
 その時、私の視界には、一人の男性の背中が映る。
 彼はお焼香しながら、遺影に向かって何かを囁き続けていた。
 それからすぐに棺桶に背を向けると、会場を出て行ってしまう。
 私は彼が自分の手の甲に爪を立てて、血を流しているのを見て、目を見開いた。
 気づいた時には、彼の後を追って、会場を出ていた。
「桜!」
 友人達が叫ぶ。
 彼は木陰に立って、空を仰いでいた。
 長めの黒髪に、精悍な顔つき。その白い肌には生気がなく、青ざめている。
「……蛍。何故投げ出したりなんかしたんだよ」
 彼がぽつりとつぶやいた。
「何故最後までやり遂げなかった! すべてを棒に振ってお前はっ!」
 彼は木の幹に手を打ち付ける。
 私が小石を踏んだ音で、ばっと振り返った。
「君は……」
 彼の目が、私の顔を食い入るように見つめる。
「蛍の……そうか」
 彼はそう言うと私の前に立った。
 じっと見つめられて、動けなかった。
「蛍は本当に馬鹿だ。どうして、その想いをずっと抱き続けることができなかったんだろうな。君のような存在がいたのに」
 私が何かを言う前に、彼は私の前を通り過ぎていってしまう。
「待ってください!」
 私は何故か呼び止めていた。
 彼が無表情なその顔を振り返らせる。
 何故彼を呼び止めたのだろう、と自分でも不思議に思った。
 私は彼に近づくと、そっと彼の手の甲にハンカチを巻いてあげる。
 彼の目が見開いた。
 その時、友人達が「桜!」と駆け寄ってきて、その男性を胡散臭そうに見つめながら、私を会場の中へと引っ張り込んでいく。
 最後に、彼が笑うのが見えた。
 蛍君とはどういう関係なんだろう。彼の何?

 私はその夜、喪服姿のまま映画館に足を運び、あの映画をもう一度見た。
 ラストの方で、主人公の当摩が想い人にこう告げる。
『たとえ死んだとしても、この想いは消えないから。ずっとこの二つの目で、君を見守っているから』
 それはまるで、蛍君が直接私に問いかけてくるようで。
 私はそこで初めて涙を流した。
 あれだけからからに乾いていた瞳から、とめどもなく熱い雫が零れ出てくる。
 ――それでも、私は生きなくちゃいけない。
 どこからか、自分の声がする。
 蛍君が何を想っていたのか、何に悩んでいたのか、それを見つけなくちゃいけない。
 私は蛍君の一番近くにいて、一番彼を支えられたはずなのだから。
 最後まで、彼を追い続ける。生きている限り。
 私はその決意を胸に、映画館を出た。
 夜気が全身を引き裂かんばかりに体に絡んでくる。
 ――桜も、きっとわかるようになるわ。誰かを好きになったら、どんなことをしてでも尽くそうという、この気持ちを。
 姉さんのあの時の言葉が何故かそこで頭に反響してきた。
 今なら、その言葉の意味がわかる。
 姉さんの言っていたことは真実だ。
 確かに、今の私なら、どんなことでもやるだろう。

 家に帰り、姉さんの部屋のドアをノックした。
「入りなさい」
 くぐもった声が聞こえる。
 ノブを開いた瞬間、お酒のむっとした香りが漂ってきた。
 姉さんはソファに寝そべってワイングラスを傾けている。
「姉さん」
「こんな時間までどこ行ってたの?」
 姉さんの目は腫れぼったかった。
「……姉さんはよく蛍君から相談を持ちかけられてたよね?」
 姉さんの目が細まる。
「……それが何か?」
「どんなこと相談されていたの?」
 その瞬間、姉さんは唇を噛んで、ワイングラスをテーブルに叩きつけた。
「そんなこと言えるわけがないでしょう!」
「言ってよ」
 私が無表情でそう言うと、姉さんはばつが悪そうに視線を逸らす。
「それだけは言えない。早く部屋から出て行きなさい」
 私は「わかった」とつぶやくと、部屋のドアを閉めた。
 わかってる。悲しんでいるのは私だけじゃない。
 でも、私は生きている人を傷つけてでも、真実を掘り起こさないといけない。
 その先に、蛍君がきっと待ってるから。
 私は自室に入り、ベッドに仰向けに横になりながら、死ぬ前の彼の様子を思い返す。
 映画を見に行った時、確かに彼の様子はおかしかった。
 あの時点で、もしかしたら彼は死ぬことを決意していたのかもしれない。
 色んな可能性を考えて、それでも真実にたどりつけそうになかった。
 明日、蛍君の家に行ってみよう。

 翌日、家を訪ねてきた私に、おばさんは目を潤ませて快く家に迎え入れてくれた。
「桜ちゃんに会いに行こうかと思ってたの」
 おばさんはショートケーキを皿に盛りつけながら、言う。
「このままじゃ、蛍の存在に押しつぶされそうだったから」
 本当は今も頭が真っ白で、勝手に口が動いているだけなんだろう。
 私に会いに行きたかったのは、きっと何かにすがっていないと耐えられないから。
「桜ちゃんはなんでうちに来たの?」
「蛍君のことを聞きにきたんです」
 私が冷徹で寒々しい声を出すと、おばさんは突然耳を塞いで「やめて!」と叫んだ。
「もう聞かないでよ!」
「それでも聞きます。蛍君に死ぬ前、変わったところはありませんでしたか?」
「ない! あったら私が止めた! 必ず止めたんだから!」
 彼女は涙を流しながら、私の胸を拳で叩く。
 おばさんの拳は、本当に力が入っていなくて、微塵も痛くなかった。
 私は「そうですか」とうなずくと、席をたった。
「お邪魔しました」
 私が彼を追っている限り、蛍君はそこに存在する。
 それが今、私を崖際で繋ぎとめている信条だった。

 私はデートの最後に彼と来たあの喫茶店に足を運んでいた。
 相変わらず美味しくないコーヒーを飲みながら、私は頬杖をついて、何とはなしに窓の外を見る。
 その時、「桜?」と聞き慣れたあの声が間近から囁かれた。
 私は驚いて振り向く。
 姉さんが驚愕の表情で私を見下ろしていた。
 彼女の手には、二人分のブレンドコーヒーを載せたトレイ。
 彼女の背後を見て、さらに驚く。
 あのお通夜で会った男性だ。
 彼も驚いた顔で私を見つめている。
「どうして桜がここにいるのよ」
「姉さんこそ……」
 私達はお互いに掠れた声を上げて、その後でどちらともなく苦笑を浮べた。
「そちらの方は姉さんの彼氏?」
「あなたには初めて紹介するのだけれど……夏野裕明さんといって、脚本家をしてるの」
 私は持ち上げかけていたカップを振り落としてしまう。
 ――夏野裕明。
 藍の灯火の脚本を書いた人。
 ……嘘。本人なの?
 彼は何故か嬉しそうな顔で私の顔をじっと見つめて、「また会ったね」と笑う。
 姉さんは「あなたたち、知り合いなの?」と訝しげな顔を浮べた。
「これは返しておくよ」
 夏野さんはふと懐からあのハンカチを取り出して、差し出してくる。
 おずおずと受け取ると、ハンカチには染み一つない。
「ありがとうございます」
「桜と会っていたの、あなた?」
 姉さんは何故か不機嫌そうな顔で夏野さんに言った。
「あの夜に、会った」
 その瞬間、姉さんの顔が曇る。
「そう……」

 姉さんと夏野さんと一緒にコーヒーを飲みながら、映画の話をした。
 私が『藍の灯火』を絶賛すると、彼は何故か顔を強張らせて黙ってしまう。
 姉さんは映画の仕事をしていた関係で、夏野さんに出会ったのだと言う。
 どうしてこんな素敵な彼氏がいることを、黙っていたのだろう。
「蛍君とは……どういう関係なんですか?」
 そんな中、私はどうしてもそのことを聞いてしまった。
 その瞬間に、二人の顔が翳る。
 それでも私は言葉を続けた。
「蛍君のお父さんが有名な脚本家であったことと関係してますか?」
 夏野さんはうなずく。
「私は正太郎先生が生きていた頃、先生の家によく通っていたんだ。その時に蛍とも仲良くなった。少なくとも私は弟だと思っていたよ」
 夏野さんは青ざめた顔でそう話した。
 その時、突然姉さんが席を立ってしまう。
 彼女は唇を噛んで、真っ青な顔で化粧室に入ってしまった。
「姉さんとは……いつから付き合ってるんです?」
 夏野さんはそこでようやく笑顔を浮べる。
「二年ぐらい前かな。楓さんにはとてもじゃないけど私なんかじゃ釣り合わない」
「そんなことないですよ!」
 私は自分でも驚くほど大きい声で怒鳴っていた。
 周囲の人が一斉に振り返る。
「あんな素敵な脚本を書ける人が彼氏なんですよ? 姉さんが嬉しくないわけありません!」
 夏野さんは目を見開いて驚いていたけれど、やがて微笑んだ。
「……ありがとう」
「何の話をしているの?」
 振り向くと、姉さんが不機嫌そうな顔で私達を見つめて立っている。
「あ、えと」
 私は聞かれていたのかと慌てた。
「あなたもなんでそんな嬉しそうに、にやにやしてるのっ?」
 姉さんは夏野さんの腰を小突く。
 夏野さんは冷や汗を浮べた。

 私達は喫茶店の前で別れた。
 夏野さんが最後に言った言葉が耳に残っている。
『蛍の想いに、押しつぶされないようにね』
 どういう意味なんだろう。私への忠告?
 それでも私は止まれない。必ず真実を――。

 翌日。再び家を訪れた私に、おばさんは苦笑いして出迎えてくれる。
「昨日はすみませんでした」
 私は勢い良く頭を下げる。
「自分のことしか考えていなくて……私、ひどいことを……」
 すると、そっとおばさんは私を抱きしめてくる。
「いいのよ。こうしてまた私のところへ来てくれたじゃない」
 私はリビングに通され、紅茶とケーキをごちそうされる。
「また聞きにきたの?」
 おばさんは私の顔をのぞきこんで、笑う。
 私はうなずいた。
「本当におかしなところはありませんでしたか?」
「おかしなところはなかった。でもね、」
 おばさんは突然席を立って、一つの透明の袋を持ってくる。
「蛍が死んでいた部屋で、テーブルの上の灰皿に燃やされた跡が残っていたの」
 おばさんはその袋をテーブルに置く。
 私は思わず飛びつくようにして中を覗き込む。
 紙屑だ。端々に燃えた跡がある。
「これって、手帳でしょ? 桜ちゃん、これに心あたりない?」
 私は袋から一枚を抜き出す。
 これってもしかして……蛍君があの時持っていた手帳?
 その紙切れを見つめて、私は目を見開いた。
 そこには、あのフレーズが書かれている。
 ――たとえ死んだとしても、この想いは消えないから。ずっとこの二つの目で、君を見守っているから。
 どうしてこのセリフが?
「桜ちゃん?」
 おばさんが心配そうに顔を覗きこんでくる。
「これ、借りていいですか?」
 私は切実な目をおばさんに向ける。
 おばさんは「別にいいけど……」とどこかおびえるような視線で私を見る。
 私は今、どんな顔をしているのだろう。

 私は家に帰ると、ネットで『藍の灯火』の映画公開日を調べる。
 その手帳の切れ端に書かれた日付は、映画公開日の二年前だ。
 二つの可能性が出てくる。
 蛍君が映画が制作される前からすでにこのフレーズを知っていたという可能性。
 あの映画館でそのフレーズを新たに書き込んだという可能性。
 もし前者なら、何故蛍君は映画が公開される前から知っていたんだろう。
 やっぱり夏野さんと関係があるのかな。
 私は長いことPCの前で物思いに耽っていた。けれど、明確な答えなんて浮かぶはずもなく、私はその袋をただ頭上にかざして見つめるだけだ。

 私はその夜、映画研究会の女の子に連絡を取った。
 私が蛍君の部内での様子を聞きたいと言ったら、彼女はこう返してくる。
『なら、映画鑑賞会を開きましょう! 清水先輩が関わった作品も一つだけあるんです。それを見ながら、話すっていうのはどうです?』
 断る理由もないので、私はその申し出を受けることにした。

 その次の日は久しぶりに学校に顔を出した。
 友人達の気遣いの言葉は耳をすり抜けていくばかりで、私はずっと蛍君のことばかり考えていた。
 もう蛍君はいないんだ。涙は出ない。でも、どうしようもなく無力感が心に沈殿してきてるのを感じる。

 映画研究会の部長であるその女の子の家は高級マンションの一室だった。
 中に迎え入れられると、彼女の部屋に通される。
 すでに部員の男の子三人が集まっていた。
「桜先輩、ちわっす!」
「おい、お前なんで下の名前で呼んでるんだよ」
「いいじゃねえか、男のロマンだボケ」
 彼女の部屋には大きなスクリーンがかかっていて、映画鑑賞の為の設備が整えられていた。
 私は何故か一番前の席に座らせられる。
「それではっ、これから第四十三回映画鑑賞会を開催いたします」
「おー!」
 彼女達はどこからか缶チューハイを取り出して、ぐびぐびと飲みだす。
「先輩も一杯どうですか?」
 女の子がほろ酔いの態で、缶を差し出してくる。いや、いいです。
「制作の際に清水先輩が何度かアドバイスをくれた作品がこれなんです」
 彼女は一枚のDVDを取り出す。そこには、『裏切りの恋』と書かれている。
 私は思わず手に取って、食い入るように見つめてしまう。ここに蛍君の想いが……。
「まあ、とりあえず観てみましょう! セットスタンバイ!」
 部長が掛け声を上げると、部下三名はてきぱきと動いて設備をセットし始める。
 部屋が暗くなった。
 スクリーンに、一人の男子生徒の姿が映し出される。
 無人の教室で、一人佇むその男子生徒。
 そこへ一人の女子生徒が教室に入ってくる。
 二人の目が合う。
 その後で、ぽつりぽつりと言葉が交わされる。
 ストーリーは、一人の男の子が、恋人ではない別の人を好きになってしまうという話。
 映画が終わって、部屋が明るくなると、周囲の四人は私の顔を見てぎょっとしたようだった。
 私は泣いていた。ここに、蛍君がいるのだと思うと、どうしても涙があふれ出てくるのだ。
「えと、あの……これ使ってください!」
 部長が、ハンカチを差し出してくる。私は「ありがとう」と笑って、ハンカチを頬に押し当てる。
 すると、彼女の顔が真っ赤になる。
「部長が顔赤くなってる」
「部長はレズだ」
「こないだ電話で話したのを散々自慢してたからな」
「黙れ、お前らー!」
 部長は一人ずつ頭をはたいた後、息を切らせながら「とりあえずティータイムにしましょう!」と言う。
 私達はテーブルを囲んで、ぽつりぽつりと会話を交わす。
「清水先輩はどうしてか、映画研究会に所属していることを誰にも言うなって俺達に口止めしてたんスよ」
「あれはたぶん、オタクだと思われたくなかったからだろ?」
「いや、俺にはもっと何か深い訳があると見た!」
「あんたら、ちょっとうるさすぎ。……清水先輩は幽霊部員だったし、特に何もしなかったけど、アドバイスだけは的確で……」
「蛍君、そんなに映画に興味があったの?」
「それがよくわからないんですよねー」
 部長は紙コップを揺らしながら、首を振る。
「映画のことについても、そんなによく知ってるわけでもなかったし」
「そう……なんだ」
 どうして蛍君は私に何も言ってくれなかったんだろう。
「あ、脚本見ます?」
 部長は脚本の冊子を差し出してくる。
「部長が桜先輩に媚を売ってるぞ」
「あんなにいやらしい目で体をじろじろ見て……」
「俺らがいなくなったら、何かするつもりだろ」
「お前らは黙ってろ!」
 脚本はとにかくすごかった。これって、もうプロとしてもやっていけるほどなんじゃないの?
「この脚本を担当した子が、伏見綾って子で、無口な子なんですけど、とてもいい子で……。お通夜にも来なかったし、今日も来ていないんですけどね」
「そういえば、清水先輩って綾だけ過剰に愛でてたな」
「ああ、愛でてた」
「綾もまんざらではなかった感じだし」
 私が首を傾げていると、部長が補足してくれる。
「清水先輩は映画研究会の中でも特に綾にだけは優しかったんですよ。一番多く話していたのも、綾だったし。こんなこと、彼女に言ったらまずいかもしれないのだけれど……清水先輩のあの目。あれはマジでしたよ?」
 部長はそう言いながら、賞状を見せてくれる。
「綾と清水先輩がいなかったら、たぶんこの作品でコンクールで優勝することもなかったと思います。綾の脚本が絶賛されて、プロからの依頼もきたんですけど、彼女はそれを全部断っちゃって」
「綾ちゃんは、脚本家を目指さないの?」
 私がじっと部長を見つめると、彼女は何故か顔を真っ赤にして視線を逸らして、
「綾は文芸部も掛け持ちしているし、たぶんその気はないと思います」
 私はその瞬間、彼女の手を握っていた。
 彼女はひゃあっ! と驚いた声を上げて、顔を真っ赤にさせて私を見つめる。
「その子に会いたいんだけど、駄目かな?」
 すると、部長は目をくるくると回して、「駄目じゃないです!」と叫ぶ。
「必ずアポを取ってみせます! お任せ下さいっ!」

 部長は驚くほど早くアポを取ってくれた。明日の十時に駅前のあの時計台で彼女と落ち合うことになる。

 私は二十分前に時計台を訪れる。すると、その少女は目を閉じて時計台に背中を寄りかからせて立っていた。
 私は本当に驚く。顔の作りとか、雰囲気とかが私の姉さんにそっくりなのだ。本人が目の前にいるのかと錯覚してしまう。
 やがて彼女は目を開き、突っ立ったままの私に気付き、訝しげな目を向けてくる。
「伏見……綾ちゃん?」
 彼女はこくりと顎をうなずかせる。
 白い肌や細い顎のラインや、長い黒髪など、本当に体のパーツが姉さんにそっくりだ。
 綾ちゃんは食い入るように私の顔を見つめてきて、「あなたが、桜さんですか」と無感情な声でつぶやく。
 私がうなずくと、綾ちゃんは唇を噛んで、「行きましょう」と歩き出す。
 歩き出してからも、彼女の顔はずっと無表情で、冷たい雰囲気がにじみ出ていた。たぶん、それが元々の性格なんだろう。
 だけど、それよりも、私は彼女の顔が青ざめて、目元に隈ができているのが気になった。具合でも悪いのか……。
 私達は喫茶店に入る。
 窓側の席につこうとした時、彼女の体がふらついた。私は慌てて支える。
「だ、大丈夫?」
 私が彼女の顔をのぞきこむと、彼女は顔を背けて、「大丈夫です」とつぶやく。
 席についてからも、彼女はしきりに指をさすっていた。
 本当に、大丈夫なのかな、この子……。
 私はとりあえず黙っていても仕方ないので、言葉を選んで話しだす。
「綾ちゃんの脚本見たよ。すごいね、脚本家になれるんじゃないの?」
 私がそう言った瞬間、綾ちゃんは目を見開いて私を見て、顔が青ざめる。
 彼女は目を伏せて、首を振った。
「私に才能なんてありません。所詮人の手を借りなければ何も書けないような無能な人間なんです」
「ど、どういう意味?」
「それに私は、自分の夢を叶えるためには大好きな人を裏切ることも厭わない卑劣な人間なんです」
「綾ちゃん……?」
 彼女は唇を噛んで、拳を握って俯いてしまう。そして、やがて言った。
「あの脚本を書いたのは私じゃありません。蛍先輩です」
 私は目を見開く。
 蛍君が……?
「蛍先輩が私に頼んできたんです。脚本を書いたのは私にしてほしいって……私が何故そんなことをするのか尋ねたら、『ある人とだけの秘密にしたいんだ』って」
 彼女はそう言って鋭い視線を私に向ける。
「蛍先輩の秘密を握ってるのは、あなたなんじゃないですか?」
「わ、私は……」
 私は言葉を濁らせて、俯く。
 そんなはずない。私は蛍君に秘密を打ち明けられたことなんてない。
 すると、綾ちゃんは自嘲げに笑って言う。
「私馬鹿だから、蛍先輩のことが好きだから、彼と秘密を共有できることが嬉しくて……」
 彼女は目元に手の平を押し当てて、肩を震わせる。
「私なんか、蛍先輩を好きになる資格なんかなかったのに」
 私は言葉も出さずに、目を見開いて、正面の彼女を見つめる。
「私、今は小説家なんです。新人賞を受賞して、それから何度もヒット作を出しました。蛍先輩とは別の道を歩き出そうとしているんです」
 綾ちゃんが、小説家? そんなこと映研の子は誰も言ってなかった……。
 彼女はさらに机に両腕をついて、そこに顔を押し付けて嗚咽を漏らしだす。
 しかし、やがてその声も弱まっていった。
 私はそっと彼女の肩を叩く。
 動かない。
「綾ちゃん……?」
 肩を揺らしてみると、ごろんと頭が転がって、彼女の寝顔があらわになる。
 彼女は頬に涙を伝わせながら、眠っていた。
 私は眉を下げて笑うと、そっと彼女にコートをかけてあげる。

 彼女は一時間後にはたと目を覚ました。突然飛び上がったので、そっと彼女の髪を梳こうとしていた私はびっくりして飛びのく。
「い、今、何時ですかっ!」
 彼女は目を丸くして、私の肩を強くつかむ。
「じゅ、十二時だけど……」
「私、もう帰ります!」
 彼女は慌てて席から立ち上がり、駆けて行く。
「綾ちゃん!」
 彼女が戸口で振り返る。
「小説を書くのもほどほどにした方がいいよ。指、大切にして」
 私がそう言うと、彼女はふと頬を綻ばせて笑った。
 そのまま彼女は何も言わずに出て行く。
 私は彼女がいなくなってからも、ずっと戸口を見つめたまま、立ち尽くしていた。
 もしかしたら、蛍君は脚本家を目指していたのかもしれない。ふとそう思う。
 何故、あの手帳に映画のフレーズが書き込んであったのか。きっと夏野さんが関係している。

 私はその夜、綾ちゃんに電話をかけた。
『なんですか。私、今忙しいんです。切りますよ?』
「待って。今度の土曜日、一緒に映画を見に行かない?」
『土曜は無理です』
「じゃあ日曜日は?」
『全部無理ですよ。仕事なので。何の映画ですか?』
「藍の灯火。たぶん、綾ちゃんも気に入ると思うよ?」
『映画に時間を割いてる場合じゃないんです。切ります』
「本当にいい映画なんだって! 一度は観に行ったほうがいいよ!」
 すると、溜息を吐く声がする。
『わかりました。時間が空いた時に今度自分で観に行ってきます。それでいいですか?』
「う、うん……」
 ほんとは綾ちゃんと一緒に観に行きたかったんだけどな。
『あの……』
「ん?」
『私を気遣ってくれているのなら、その……ありがとうございます』
 私は思わず微笑む。
「うん。執筆頑張ってね」
 電話が切れた後で、ようやく彼が死んでから初めて心から笑えたことに気付く。
 蛍君の死を、忘れる時が来るのかな……。

 その週の水曜に、綾ちゃんは青白い顔で私のいる教室にやってきた。
「どうしたの、綾ちゃん」
 彼女は震える腕を胸に抱きしめて、悲しそうな瞳を私に向けてくる。
「藍の灯火、見ました」
「どうだった?」
 私は顔を綻ばせる。
「本当に取るに足らない作品です」
 彼女は私を睨み付けるようにして、激情を映した瞳を私に向ける。
「そ、そうなんだ……気に入ってくれると思ったのにな」
 私は肩を落とす。
「それより、夏野裕明さんと先輩は知り合いなんですよね?」
「うん、そうだけど……」
 すると、その瞬間腕を握られる。
 顔を上げると、彼女の真剣な表情とぶつかる。
「彼に、会わせてください」

 次の休日に、私は綾ちゃんと一緒にあの喫茶店を訪れる。
 夏野さんは、私の顔を見た瞬間、本当に嬉しそうな顔をして手を振ってくる。
 窓際の席につくと、彼は言う。
「いきなりどうしたのかと思ったよ。なんか美人の彼女まで連れてきたみたいだし」
 夏野さんがそう言うと、険しい顔でアイスコーヒーを啜りだしていた綾ちゃんはコーヒーを噴き出す。
 私は咽る綾ちゃんの背中をさすりながら、「冗談はやめてくださいよ」と半眼で彼を睨む。
「ごめんごめん。なんか、舞い上がっちゃってさ。本当に嬉しいんだよ」
「姉さんに言いますよ?」
 すると、夏野さんは本当に慌てた様子で「やめて!」と叫ぶ。
「君の姉さんは本当におっかないんだよ。お願いだから言わないでくれ」
 それから夏野さんは綾ちゃんに視線を向ける。
 すると、綾ちゃんは彼を睨みつけるようにして鋭い視線を返す。
「そっちの彼女が用事なんだって?」
「約束のものは持ってきてくれましたか?」
 綾ちゃんは低い声で言う。
 すると、夏野さんは苦笑して、「持ってきたよ」と一冊の冊子を渡してくる。
 綾ちゃんはそれを受け取った瞬間、顔を強張らせた。
「拝見させていただきます」
 綾ちゃんはそう言うと、その脚本を開いた。
 彼女は黙々とページをめくっていく。
 やがて、彼女の顔色が青くなっていった。
 彼女は冊子を閉じると、夏野さんにそれを返す。
「ありがとうございました」
 本当に低い、低い声だった。
 夏野さんがその声を聞いて、笑顔を凍りつかせる。
「用事って、これだけ?」
「これだけです」
 すると、夏野さんは救いを求めるように私を見る。
「あ、えと、せっかくだし、何か他にも話しましょうよ」
 私は極めて明るく声を取り繕って言う。
 すると、綾ちゃんは席を立ってしまう。
「私から話すことは何もありません」
 そう言って、店を出て行く。
「ちょっと、綾ちゃん!」
 私は彼女の後を追いかけようとして、夏野さんに振り向く。
 すると、彼は怖いほどの無表情で、「行っていいよ」と言う。
「すみません。今度、必ず埋め合わせしますから!」
「……いや」
 彼はホットコーヒーを一口飲み、言う。
「たぶん君は私と次に会う時、話なんかしたくなくなってるだろうから」
 私が不安げに彼を見ると、彼は微笑んで首を振り、「なんでもない」と言う。
「ほら、早く行って」
 私はうなずき、「すみません!」と店を駆け出た。
 往来の中を掻き分けながら、必死に綾ちゃんの姿を探す。
 ようやく彼女の長い髪が揺れるのを見つけて、彼女に近づいて、その肩をつかむ。
 彼女は無表情なその顔を振り向かせる。
「どういうことなの、綾ちゃん?」
 私は息を切らせながら言う。
「桜先輩はあの人のことが好きですか?」
 突然そんなことを聞かれて、私は顔を真っ赤にする。
「そりゃ、好きだけど……」
「こんなことを聞いたら、私のこと嫌いになりますか?」
「そんなことないよ! 私、綾ちゃんのこと大好きだもん!」
 すると、綾ちゃんは眉をぴくりと震わせて、視線を逸らす。
「とにかく人気のないところに行きましょう」
 そう言って綾ちゃんは私の腕を引いて歩き出す。
 結局あの時計台の前まで戻ってきた。
 ベンチに腰を下ろして、私はまっすぐに綾ちゃんを見つめる。
「たぶん、桜先輩が一番真実を知りたいと思ってるから……だから……」
 綾ちゃんは決意を滲ませた表情で私を見返す。
「……蛍先輩を殺したのは、夏野裕明さんです」
 私は冷水を浴びせられたように目を見開く。何を言っているの?
「私は蛍先輩が生きていた頃、彼に完成した脚本を見せてもらったことがあります。その中の一つに、藍の灯火と同じ作品がありました」
 彼女はそこで悲しそうに目を伏せて、自分の腕に爪を食い込ませる。
「夏野裕明さんは、蛍先輩の作品を盗作したんです」
「え……?」
 私の頭の中に、無数のノイズが溢れ出す。
 盗作……盗作って言った?
「蛍先輩が何に苦しみ、そして死んでしまったのか、これでわかったでしょう?」
 私の口からはどんな言葉も出てはこなかった。
 ただ、唇を強く噛むあまりに、口の中に鉄の味が広がるだけだ。
「桜先輩」
 何度も綾ちゃんが呼びかけてくる。けれど、私は足元を見据えたまま、動かなかった。
 すべてがつながった気がする。
 けれど、つながったからといって私はどうするのだろう。復讐に身を浸す? それともすべてを許すか。
 どれも違う。私が今しなければならないことは――。

 私は綾ちゃんと別れた後、もう一度あの映画館を訪れる。
 蛍君が抱きしめていた手帳……あれに脚本が書かれていたんだ。
 蛍君はそれをぎゅっと抱きしめて、その存在だけを頼りに、映画館を訪れた。
 私はスクリーンを見つめて、涙を流す。
 彼は映画を観て、本当に悔しくて、悔しくて涙を流したんだ。
 それなのに、私が夏野さんを絶賛して、彼は怒りを抑えることができなかった。
 そして、映画を観終わった後、喫茶店を訪れた際、あのパンフレットを悔しさのあまり握りつぶしてしまう。
 蛍君の唇が切れていた意味。きっと彼は、悔しくて悔しくて、今の私のように唇を噛み、血を滴らせたんだ。
 自分の努力が、他人の賞賛に変わるという屈辱感。
 それに彼は耐えながら、それでも私を気遣ってくれたんだ。
 私は、結局何もできなかった。
 なら、今、私は何ができるのだろう。
 蛍君がやり遂げられなかったこと。それを私がやるべきなんじゃないか?

 私はその夜、夏野さんの部屋の前で、彼が帰ってくるのをずっと待っていた。
 冬の寒空を仰ぎながら、自分の腕を抱く。
 私は夏野裕明さんが好きで、復讐なんて絶対にできない。でも、蛍君の作品を取り戻すことはできる。
「何やってるの?」
 振り向くと、夏野さんが笑いながら、ドアの前で縮こまる私を見つめている。
 彼が来たら、どんな言葉で罵倒してやろうと思っていた。なのに、恨みの言葉は出てこなかった。代わりに、それだけを言う。
「蛍君の作品を盗作した事実を、公表してください」
 すると、夏野さんは噴き出す。
「無理に決まってるじゃないか。だってあれは元々私の作品なんだから」
「あなたが綾ちゃんに脚本を渡したのも、罪悪感があったからなんじゃないですか?」
 すると、夏野さんは唇を引き結ぶ。
「もし私が盗作していたとしても、それでもきっと私は公表しようとは思わないよ。せっかく手に入れた芸術家としての道をみすみす手放したりするもんか」
 彼はそう言って、ドアの錠を下ろす。

 私はその日から、あきらめずに何度も彼のアパートを訪れた。
 そのたびに夏野さんは笑うだけだ。
 どうして、もう来るなって言わないんだろう。
 夏野さんは私を邪険にするばかりか、喜んで迎え入れている節がある。
 本当にどうしてなんだろう。どうして、蛍君の作品を奪ったの?

 夜遅く帰ってきた私は、自分の部屋にまっすぐ向かった――でも、突然姉さんの部屋が開いて、彼女が激情を映した顔で迫ってくる。
 気づいた時には、私は肩をつかまれて、壁に叩きつけられていた。
「どういうつもりなの?」
 姉さんは眉を逆立てて、私を睨み付ける。
「私は自分のしなければならないことをしているだけ」
「いい加減になさい。これ以上彼をどうにかしようとするのなら、許さないわよ?」
 彼女の指が私の肩に食い込み、骨が軋みだす。
 それでも私は姉さんの瞳から目を離さない。
「姉さん、言ってたじゃない。好きな人のためなら、なんでもできるって。私もその言葉に従ってるだけ」
 その瞬間、手が離れる。
「さらにあなたが彼に迫ろうとするなら、私も何をするかわからないわよ?」
 姉さんは部屋のドアに手をかけながら、そう言う。
 それでも、私は彼女をじっと見据えるだけだ。
 姉さんは唇を噛むと、ドアを勢い良く閉めた。
 私はジンジンと痛む肩をさすりながら、床を見下ろす。
 すべてを失ったとしても、やらなければならないことがあるんだ。

 私は翌日、久しぶりに綾ちゃんに会う。
 彼女は前に会った時よりさらにやつれていて、具合が悪そうだった。
「綾ちゃんの書いた本、読ませてもらったよ。すごくよかった!」
「それはどうも……」
 彼女はホットコーヒーを啜りながら、窓の外をじっと見つめている。
「綾ちゃん、脚本書いてみたらいいんじゃない?」
「私がですか?」
 綾ちゃんは自嘲げに笑う。
「それは無理です。私には自分ではどんな作品も生み出すことはできません」
「そんなこと……」
「私が新人賞を取れたのは、どうしてか知ってます?」
 綾ちゃんはぎり、と歯を食い縛り、自分の手の平を見つめる。
「蛍先輩の脚本を盗作したんですよ」
 私は目を見開く。そんな――。
「最初、彼の作品を見た時、驚きました。十七歳の人間がここまで傑作と呼べる作品を書けるのかって」
 綾ちゃんは自分の手の平に爪を立てて、赤く染め上げていく。
「本当に羨ましくて、羨ましくて……夏野さんがしたことを私もしたんです。でも、蛍先輩は、私のしたことを知っても、何も言わなかった! いつもの通り、あの穏やかな瞳で私を見てくれるばかりで……」
 綾ちゃんは目から大粒の涙を落として、深く深く自分の肌を抉る。
「私は蛍先輩を裏切った卑劣な人間なんです」
 気付けば、私はそっと綾ちゃんを抱きしめていた。綾ちゃんが目を見開く。
「どうして……私は夏野さんと同じなんですよ?」
「同じじゃない」
 私はつぶやく。
「だって、蛍君は綾ちゃんを許したんでしょ? きっとその作品を綾ちゃんに託したんだよ」
「そんなこと……」
「綾ちゃんはれっきとした芸術家だよ」
 私は綾ちゃんの手をそっと探り当て、握る。
「こんなに指の関節が悪くなるまで、キーボードをタイプし続けて……これは芸術家の指だよ」
 綾ちゃんは何か掠れた声を上げて、腕に力を込めてくる。
 私にできること。それを今、見つけた気がする。きっとこれですべてが終わる。

 その案を綾ちゃんに話すと彼女はしばらく声を失って、私の顔を食い入るように見つめていた。
 やがて、彼女はうなずく。
「わかりました。やります。私はもう一度輝けるかもしれません。あの人の光で」

 一ヵ月後、私は再び夏野さんのアパートを訪れる。
「君か。随分間があったじゃないか」
 夏野さんは笑っている。笑っているのだけれど、その笑顔は引きつっていた。
「中に入る?」
 私はその申し出を断った。
「公表する決心はつきましたか?」
 すると、夏野さんは唇を噛んで、ドアを拳で叩く。
「あれをやったのは、君か?」
「そうです」
「どうしてあんな――どうしてそこまで!」
「蛍君のためです」
「あいつは死んだんだぞ! 何の為に!」
 私は夏野さんを見据えて、低い声で言う。
「蛍君のできなかったことをする為です」
 すると、夏野さんは悲しい顔をして、私を見つめてくる。
「君は本当に……」
「公表する意思はないんですか?」
「ない」
 そう言って、夏野さんは扉を勢い良く閉める。
 私は歯を食い縛る。これですべてが終わると思ったのに。
 全部無駄だったの?

 二週間前、ネット上である小説が話題になった。
 同じ作品がいくつかの小説投稿サイトで同時公開されて、すでにどの投稿サイトでもランキングの一位を占めている。
 その小説の名前は、『夏の蟲』。
 斬新な設定と独特の世界観で描かれるSF小説で、書籍化の話も出ているらしい。
 その著者の名前は、AYA。
 綾ちゃんに、蛍君の脚本を復元させたのだ。
 夏野さんがどれだけ蛍君の作品のストックを持っているのかはわからないけれど、彼が作品を発表させる前に、ネット上で有名にさせてしまえば、彼は発表を断念せざるをえない。
 これから綾ちゃんに頼んで、どんどん作品を発表させていくつもりだ。
 だけど、それでも夏野さんは自分の罪を認めようとしない。

 その夜、私が部屋でインターネットの投稿サイトを回っていると、部屋がノックされる。
 扉を開くと、姉さんが泣き腫らした目で私を見つめてくる。
「どうしたの、姉さん?」
 私は掠れた声を上げる。
 姉さんは一歩、もう一歩とふらつく足取りで近寄ってくると、私にすがりついてきた。
「桜……」
 姉さんは私の名前を呼びながら、その場で崩れ落ちる。
 私は彼女を抱き支えて、「どうしたの?」と聞く。
「罪悪感に押しつぶされそうなの」
 姉さんは嗚咽を漏らしながら、言う。
「私は愛する人の為ならなんでもすると言った。でも、その罪に耐えられるかどうかは別なの……」
「姉さんは、何をしたの?」
 私が彼女の顔を正面からまっすぐ見て言うと、姉さんは首を振る。
「私の口からは言えないの。絶対言えない……」
 どうして、姉さんがこんなに苦しんでいるんだろう。こんな姉さんの顔、見たくないのに――。

 私は深夜、夏野さんのアパートに押しかけた。
 こんな真夜中だけれど、そんなことどうでもいい。
 姉さんのあんな顔を見て、何もしないでいることなんかできないよ。
「なんだ君か。寒いから、中に入った方がいい」
「姉さんに何をしたんですか? このままだと壊れちゃう!」
 私は夏野さんの襟首をつかんで揺する。
「何もしてないよ。そんな話をしにきたのなら、帰ってくれ」
 夏野さんはドアを閉めようとする。
「どうしてっ! 愛してるんでしょう?」
 すると、夏野さんはふと手を止めて、私をまっすぐ見つめてくる。
「君は何かを志したことがあるか?」
 私はその張り詰めた声に息を呑む。
「どんなに努力しても認められない。才能という壁がいつもたちばかる。私が努力をしているその側で、
何の努力もしないでその壁を意図も容易く打ち破ってしまう人間がいる。私はそんな彼らが羨ましくて、そして憎い」
 何を言って……。
「君のような人間に芸術家の苦しみはわからない。帰ってくれ」
 そして、扉が閉ざされる。
 私は扉に額を押し付けて、唇を噛む。
 どうして、こんなにすれ違ってばかりなんだろう。どうして真っ直ぐな心だけ持って生きていけないの?

 その夜、夢の中で蛍君と会った。
 それは以前、学校の帰り道で一緒に歩いていた時のこと。
「僕はとてもじゃないけど、桜とは釣り合わないよ」
 私は驚いて、「何言ってるの?」と振り向いてしまう。
「僕は自分のことしか考えられない最低な人間なんだ」
「なんでそんなこと言うの?」
 すると、蛍君は俯いてしまう。
「僕には、桜といる資格なんてないんだ」
 今思うと、どうしてあんなことを言ったのか、わかる気がする。蛍君はずっと昔から悩んでいたんだ。どうして私は彼と向き合うことができなかったんだろう。
 今となってはすべてが遅い。でも、私にはまだできることがある。だから――。

 次に夏野さんに会った後、彼は困惑顔でその事実を告げる。
「君が、ああしろと言ったのか?」
「……どういうことですか?」
 私が声を固くして聞くと、夏野さんは柱に手をつきながら、溜息を吐く。
「蛍の脚本を返してくれって、綾さんがかなり執拗に頼み込みにくるんだよ。もううんざりしてね」
 夏野さんは弱弱しく笑う。
「君なら、まだいいんだ。顔見てるだけで、ほっとするし。……いや、なんでもない。とにかく、彼女にもう来ないように言ってほしい。説得役は一人だけで十分だとね」
 夏野さんの顔はやつれていて、無精ひげが生えている。
 私は心配になる。ご飯でも作ってあげようかな……。
「私も疲れてるんだ。来るなら、一日に一回にしてくれ」
 そう言って、夏野さんは扉を閉める。

 私は綾ちゃんへメールを送る。
『綾ちゃんがそこまでしてくれてるなんて思わなかった。ありがとう』
 すると、すぐに返信が返ってくる。
『私はただ自分の為に動いているだけです。感謝されるいわれはありません』
『そんなこと言って。感謝してるんだよ?』
 返信は返ってこなかった。

 翌日、夏野さんから電話がかかってきた。
『盗作をやった事実を認める』
 私は思わず携帯を振り落としそうになる。
『もうやらない。だから、取り消してくれ』
「本当に……わかってくれたんですね」
 私の目から涙が溢れ出てきて、私は地面に手をつく。
『だから、あの言葉を取り消してくれ』
「あの言葉って……?」
『君がやったんだろ? ネット上でAYAが夏野裕明の盗作した事実を訴えている』
 私は目を見開く。どうして……そんな。
『私を芸術界から抹消しようとしているんだろ? 君がそこまでするとは思わなかった』
 違う。私はやっていない。
『蛍の脚本はすべて返す。すぐに取りにきてくれ』
 通話が一方的に切れる。
 私は唖然として、携帯電話の画面を食い入るように見つめる。
 その瞬間、すぐに綾ちゃんからメールの着信があった。
『全部うまくいきます。夏野さんから連絡はありましたか?』
 綾ちゃん……綾ちゃんが全部やったの?
 そうメールを送ると、
『そうですよ。すべて自分の為にやりました』
 自分の為……そこまで蛍君を想っているの?

 私は綾ちゃんと時計台の前で待ち合わせした。
 現れた彼女の顔は青ざめていて、でも顔つきは強張ってさえいた。
「綾ちゃん……:
 私が声をかけようとすると、綾ちゃんはそのまま視線を向けずに「行きましょう」と言って歩き出してしまう。
「綾ちゃん、どうしてあんなことしたの?」
「なんとしても、取り返さなくちゃいけないんです」
 綾ちゃんはまっすぐ前を見据えて、言う。
「必ず蛍先輩の作品を返してもらわなきゃいけないんです」
 私は息を呑む。そこまで……そこまで綾ちゃんは。
「早く行きましょう。置いていきますよ」

 夏野さんの家の中に入ると、そこには姉さんもいた。
 二人とも顔が青ざめていた。
 夏野さんは頭を下げて、その数冊のノートを私達に手渡している。
「これが私が持っている蛍の脚本のすべてだ」
 私が受け取ろうとすると、綾ちゃんがすぐにそれを夏野さんの手から受け取ってしまう。
 綾ちゃんはそのノートを手にして、初めて笑顔を見せる。
「もう脚本は返した。盗作はしない。だから、あの言葉を撤回してくれ」
 すると、綾ちゃんは無表情で言う。
「しません」
「何っ!」
 夏野さんは椅子を蹴って立ち上がる。
「盗作はしないなんて言っていても、どうせコピーを持っているに決まっています」
 綾ちゃんはそう言って、溜息を吐く。
「あなたがこのまま芸術の世界にいるのが本当に邪魔なんです」
「綾……ちゃん?」
「トイレをお借りします」
 綾ちゃんはそう言って、ノートを持ったままリビングを出て行く。
 夏野さんは下を向いて唇を噛みしめていたけれど、両手を握り締めて言う。
「あの子はそんなに私を憎んでいるのか?」
「夏野さん……?」
 すると、彼は冷徹に言う。
「言っておくが、蛍が死んだのは私の盗作が原因じゃない」
 鼓動が止まりかける。何を……言ってるの?
「楓がよく蛍に相談を持ちかけられたことは君も知ってるな? 蛍は彼女だけに脚本を書いていたことを打ち明けていたんだ。楓は蛍から脚本を見せられて、蛍の才能がずば抜けていることを私に教えてくれた」
 私は姉さんを見つめる。姉さんは唇を震わせて、目を瞑っている。蛍君はつまり、姉さんだけに脚本を書いていた事実を教えていたということ?
 ――ある人とだけの秘密にしたいんだ。
 蛍君が綾ちゃんに言った言葉。蛍君は姉さんとだけの秘密にしておきたかった?
「私は楓に頼んで、蛍から脚本を借りさせた」
 それが……姉さんの罪悪感の理由?
 姉さんは額を押さえて、唇を引き結んでいる。
 ――桜も、きっとわかるようになるわ。誰かを好きになったら、どんなことをしてでも尽くそうという、この気持ちを。
 姉さんの言っていた言葉の意味。姉さんが蛍君を裏切ったの?
「……蛍は」
 姉さんが声を震わせながら言う。
「あの手帳を私に渡す時、それは好きな人を想って書いたものだと言っていた」
 姉さんはちらりと私を見る。
「あの脚本はすべて、桜を想って書かれたものなのよ」
 私を……想って?
「違う」
 そこで夏野さんは険しい顔で姉さんの言葉を否定する。
「確かに『藍の灯火』は桜さんを想って描かれたものだ」
 じゃあ、あの作品を観た時に感じた懐かしさは――。
「でも、他の作品はすべて他の人を想って書かれたものだ」
 夏野さんは突然棚から一冊のノートを取り出してくる。
「これだけは君達に返そうとは思わなかった。何故ならこれは、蛍の書いた『小説』だからだ」
 私は息を呑む。
「他の作品がすべて脚本であるのに対して、この作品だけが小説だ。それはどうしてか――それは蛍がこの作品を特別な作品として楓に見てもらいたかったからだ」
 姉さんを見ると、彼女は目を見開いている。
「楓はまだ蛍の脚本を見たことがなかったからわからないかもしれないが、この作品に注ぎ込んだ蛍の情熱は他の作品よりもずっと大きい」
 彼は、そのノートを私に渡してくる。
「その小説の主人公はある人を一途に思い続けている。彼はずっと想い人の妹と付き合っていた。けれど、密かに彼女を想い続けていたんだ。しかし、ある日彼は彼女に本当の想いを告げる。その想い人の名前は――」
「やめて!」
 姉さんは夏野さんの腕をつかんで叫ぶ。
「桜がいる前で、そんなこと――」
 それでも夏野さんは言葉を続ける。
「その小説は楓への恋文だったんだよ。蛍が死んだのは――楓に裏切られたからだ」
 すると、姉さんは泣きながら地面にひれ伏してしまう。
 その真実を告げられても、私の心は変わらない。たとえ蛍君が姉さんを想っていたとしても、私の恋が一方通行で、哀れな恋だったとしても――私は蛍君を想い続ける。だから――。
 私はそっとノートを胸に抱きしめる。彼の想いのつまったノート。
 それを私は姉さんに手渡した。
「蛍君の想い……受け取ってください」
 姉さんは嗚咽を止めて、私の顔を食い入るように見ると、そのノートを受け取る。
 そして、胸に抱きしめた。
「楓……私も蛍と同じだ。君に迫ったのも、君が有名な監督と親密だったからだ。私はただ自分の芸術家としての人生を想い描いて君と付き合っていた」
 姉さんはすると、首を振って「知っていたわ」と笑う。
「あなたが私をこれぽっちも想っていないことなんてわかってた。でも、それでもいいの。ずっと側にいてくれるだけでいい」
 姉さんはそう言って、夏野さんの手を握る。
 夏野さんは私をじっと見つめて、弱弱しく笑った。
 私達はどうしようもなく弱くて、何かにすがっていないと生きていけない。でも、それでも求めてしまう願望があるんだ。
 私はずっと蛍君を好きでい続けるよ。もうその声を聞けないとしても、ずっと君を想い続けるよ。

 私は夏野さんのアパートを出た後、綾ちゃんが一人暮らしをしているアパートへと足を運んだ。
 結局綾ちゃんは夏野さんのアパートから姿を消していた。あの脚本を持ったまま。
 私は彼女の部屋のドアに向かって言う。
「綾ちゃん、私だよ」
 沈黙が返ってくる。
「その脚本、使っていいよ」
 かすかに身じろぐ気配がドア越しに伝わってくる。
「私は今まで蛍君の為だけに動いてきた。でも、結局それは独りよがりなことでしかなかったんだ」
 私は扉に額を押し付けて、微笑む。
「もうその脚本を返してもらう理由はなくなったの。使っていいよ、綾ちゃん」
 声は返って来ない。それでもこれだけは伝えたいと思った。
「蛍君は綾ちゃんがしたことを笑って許してくれたんでしょ? きっと自分の脚本を大事にしてくれたことが嬉しかったんだと思うよ」
 私は手の平を扉に置いて、最後にそう言う。
「頑張っていい作品を書いてね、綾ちゃん」
 そして、私は扉から離れる。

 数ヵ月後、綾ちゃんの書いた本はベストセラーになった。
 私はずっと綾ちゃんの成功を祈ってるよ。
 そして、姉さんと夏野さんは結婚することになった。式の前日、彼に会ってほしいと言われて、あの喫茶店で待ち合わせすることになった。

 扉を開くと、ジャズピアノの優しい旋律が流れてきて、私はその店を懐かしく感じる。
 彼はどこだろうと思って、店内を見渡すと、彼は窓際の席でコーヒーを飲んでいた。
 目が合うと、彼は淡く微笑む。
「久しぶりですね」
「やあ。君はなんだか雰囲気が大人びたね」
 彼はそう言って、私の顔をじっと見つめてくる。
 その視線の中に、何か深い感情がこめられているような気がした。
「なんですか?」
 私は首を傾げて、つぶやく。
「いや、今のうちに見ておこうと思って」
 彼はただ穏やかな表情で私の顔を見つめてくる。
 どうしてか、彼の目が悲しげな気がして、私は胸が疼くのを感じる。
「姉さんと明日結婚するのに、どうして私なんかと会う必要があるんですか?」
 すると、彼は沈黙する。
 どうしてだろう。彼が苦悩しているように感じるのは気のせい?
 彼は目を閉じる。
 そして、細く細く息を吐く。
 再び開いた目には、決意の光が滲んでいた。
「私が君を初めて知ったのは、蛍に話を聞いた時だ。私は蛍から話を聞くうちに、君に興味を覚えていった」
 彼は苦々しく笑う。
「君は、私が理想とする物語のヒロインに限りなく近いことに気付いた」
 私は正面から彼を見ていられなくて、視線を逸らす。
「蛍のお通夜の時、やっと君に会えて、私は心から喜んでいた。無意識にずっと君を視線で追っていた。蛍の死を悲しむよりもはるかに喜びが勝っていた。やっと君に会えた、と」
 彼はそっと私の手を握り締めてくる。
 この話はきっと、夏野さんの罪の話だ。
 彼は目を閉じて、「私は」とつぶやく。
「君が毎日のように家に押しかけてきた時、正直嬉しかったんだ。毎日顔が見ることができることが嬉しかった」
 夏野さんの瞳が上がり、私の濡れた目とぶつかる。
「私は君が好きだった」
 夏野さんの手に力がこもる。
 私の温もりを奪っていく冷たい手。
「ずっと、ずっと好きだった」
 私はどんな顔をすればいい? 彼の苦しみを理解できた今、私に言えることは――。
 夏野さんの手を握り返す。
「どうか、それでも姉さんの側にいてあげてください」
 すると、夏野さんはうなずいた。
「必ず幸せにする。それが私に課せられた罪だ」

 私は夏野さんと別れた後、予定通り、時計台の前を訪れる。
 すると、そこで蛍君が満面の笑顔で手を振ってくる。
「桜!」
 私は頬を綻ばせて、彼の腕を握った。歩き出す。
「今日は映画を観に行くんだよね?」
「そうだよ」
 私達はどちらからともなく笑い合う。
 ああ、なんて幸せなんだろう。彼がここにいる。
 今日は、ラブストーリーの人気作を観ることにした。
 蛍君は私にパンフレットを買ってくれる。
「ありがとう」
 すると蛍君は照れ臭そうに笑って私の手をそっと握ってくるのだ。
 映画を観終わって、あの喫茶店を訪れる。
 窓側の席に座ると、私達は黙りこくる。
 でも、私はこの沈黙が嫌いじゃない。だって、蛍君の心を間近で感じることができるから。
 蛍君はここにいる。私の心に。
「桜。ごめんね」
 蛍君はふと、悲しそうな顔をして、言ってくる。
 私は首を振る。
「私はたとえ蛍君が姉さんを好きでも、構わないの。一緒にいてくれるだけで」
 蛍君はすると、私の手を握り締めてくる。女の子のようにすらりと細い指。
「確かに僕は楓さんが好きだけど、桜と過ごすことも本当に楽しかったんだ。僕にとってかけがえのない時間だったから。僕は桜とずっと一緒にいたかった」
「大丈夫。もうすぐ永遠に一緒にいられることができるから」
「桜……本当にいいの?」
 蛍君の不安げな瞳。
 私はうなずく。
「私には蛍君と離れるなんてこと、考えられない。だから――」

 私は家に帰り、その仕度をする。
 ロープは用意した。後は、最後に蛍君にこれだけを言うだけ。
「蛍君、ずっと好きだよ――」
 踏み台を蹴った瞬間、視界が掻き消える。
 浮遊感。
 首を刈り取る鎌。
 喉の痛みはすぐに気管の苦しさでかき消される。
 なんて、私は楽しい恋をしたのだろう。
 蛍君といる時、すべてが輝いていた。
 そっと視界を白が染め上げていく。
 もうすぐ蛍君に会えるよ。きっと会えるよ。

 *

 そして、桜さんは死んだ。
 私がこの小説を書き上げられたのは、彼女の部屋に手記が残されていたからだ。
 彼女のすべてがそこに記されていた。
 そこに刻まれた蛍先輩への想い。
 私は結局すべてを失ってしまった。
 蛍先輩への恋心。
 蛍先輩が私を気にかけていたのは、それは私が楓さんに瓜二つだったから。
 結局私は馬鹿な勘違いをして、そして今も彼女を裏切ってこうして一人ぼっちになっている。
 でも、それでも私は小説を書いていかなくちゃいけない。
 私は芸術家だから。
 すべてをその目で見て、その血の滲んだ指で、物語を書き綴らなくちゃいけない。
 それがきっと、桜先輩と蛍先輩が望んでいることだから。
 最後に、私は桜先輩のこの物語にこの名前を刻もうと思う。
 ――なんて、哀れな恋。
2010-12-04 19:23:42公開 / 作者:遥 彼方
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■作者からのメッセージ
三回目の投稿になります。この作品を読んでいただき、ありがとうございます。
皆様のご指摘・アドバイスをお待ちしています。
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お、おお……。す、すげえ……。完成度高いですね。
すごくいいですね、グッときますね。本当にすごい。なんか才能感じます。
なんでもっと評価されてないのか……。不思議ですね。僕は素晴らしい作品だと思います。
僕の中に新しい感情が……。これは一体……。はて。
最後は綾がシメたのでしょうか? 

申し遅れました、水山です。
 


2010-12-20 18:11:01【☆☆☆☆☆】水山 虎
水山 虎様、感想をいただき、本当にありがとうございます。
そう言って頂くと、本当に書いた甲斐があったと思います。
感想をもらっただけで、本当に感激してます。執筆の原動力になります。ありがとうございます!

自分では精一杯魂を込めて書いたつもりの作品なので、本当に嬉しいです。
まだまだこれからも自分の腕を上げていく為に、皆様の叱咤激励をお待ちしてます。
本当にありがとうございました!
2010-12-20 19:57:03【☆☆☆☆☆】遥 彼方
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