『この喜びを誰に伝えよう。』作者:仲村藍葉 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 この喜びを君だけに伝えようか。


 彼は悩んでいた。凄く悩んでいた。
 彼だけではない、右隣も左隣も部屋の中にいる人間全員が悩み頭を抱えていた。全員が悩み苦しむ原因は、移転問題。自分たちの勤める服飾会社の支店の事務所が移転する事になったのだが、実は移転先がまだ決まっていないと言うとんでもない自体が勃発していたのだ。
 初めは隣町の賃貸ビルを借りるという予定だったらしいが、何処でミスが起きたのか賃貸契約はおろか、そのビル自体が消え失せていたと言うのだ。騙されたというのだろうか。否、契約料は支払っていなかったので単に話が通らないままビルが解体されてしまっただけであろう。
「先輩ー、どうするんですかー」
 隣に座る部下が情けない声を出しながら彼を見上げる。チーフと呼ばれた彼はガシガシと頭を掻きながら、机の上に所狭しと散乱する企画書やら作業途中のパースやら、何が何だかわからない山を見て溜息を吐く。
「俺にだってわかんねぇよ」
 彼自身も結局はただの会社員な訳で、この小さな事務所を切り盛りしている支店長では無いのだ。自分に聞かれても事務所のこれからなど、わかる筈も無い。しかし自分の食い扶持であるが故に室内の人間は皆悩み苦しんでいたのだ。
「しかも、こんなややこしい時期に本店からの人間が来るなんて」
 小さく悪態をつきながら、彼―夕凪青磁は資料の山の中にあった連絡網を見た。

「はじめまして、これから二週間ですが宜しくお願い致します」
 京女を思わせる緩やかなイントネーションで挨拶をした海松苗子と名乗る彼女は黒い艶やかな長い髪を持つ女性だった。
 白百合だ。
 恐ろしく恥ずかしい単語が彼の脳裏を駆け巡った。しかしそんな事も気にも留めずつかつかと単身赴任してきた白百合へと近づき。そして。
「こちらこそ宜しくお願いします」
「!」
 何を思ったのか唐突に抱きしめてしまったのだ。

「お前、莫迦だろう」
「好きなだけ言ってくださいよ」
 頭を氷嚢で冷やしながら小さく項垂れている。小さなたんこぶが出来ているのだ。
「しかしあそこで背負い投げが出てくるとはなぁ…」
 煙草を燻らしながら4つ年上の同僚は楽しそうに笑う。
 青磁が唐突に苗子に抱きついた後、張り手の1つでもくるだろうと誰もが思ったが、彼女の行動はその想像を上回り、鮮やかな1本背負い投げを披露してしまったのだ。投げた後、我に帰ったのか慌てて青磁に詫びを入れるも、青磁自信に非が有ったのでこちらも頭を下げ、結果互いにぺこぺこと気が済むまで謝り倒しあうという何とも滑稽な光景を疲労する羽目になったのだ。
「詐欺だよな…あんな和風美人な雰囲気なのに…そこも良いけど…」
 白百合と形容してしまった位に青磁にとっての彼女のイメージと中身のギャップは信じがたいものであったらしく、さめざめと嘆いているのかと思えば、さらに惚れ直しているらしく、訳が分からない。
「お前の淡い失恋はどうでも良い。早く仕事しろ」
「……幸春さん、冷たすぎます…」
 そんな言葉ものともせず、幸春と呼ばれた不精髭の大男はばしばしと青磁の背中を叩き、笑いながら自分のデスクへと戻っていった。
 移転問題に、次の発表の仕事、そして白百合。
 気がつけば青磁の中の問題に仕事と同系列、又それ以上の重大問題として苗子が追加されてしまっていた。

「夕凪さん、さっきは本当にすいませんでした」
 茶色の封筒を持った苗子が再び青磁の前に姿をあらわしたのは退社時間も過ぎた午後6時、パースの完成もそこそこに、今日は帰ろうかと思っていた矢先の出来事であった。
「う、海ま…ぅわっ!!」
 予想外の登場に、伸びをしていた青磁はそのまま椅子ごと後ろに倒れてしまい、痛々しい悲鳴を上げた。午前中に苗子に投げられた際に出来たたんこぶ部分を更にぶつけたのだ。
「かっ、重ね重ねすみませんっ」
 倒れた青磁に慌てて駆け寄りながら深々と頭を下げる。三つ指でも突きかねんほどに。
 ……どう見ても背負い投げするタイプじゃあないよなぁ。
 そんな事をぼんやり考えながら、青磁は傷む頭を優しく擦っていた。

「強いよね、柔道でもやってたの」
 再び頭を冷やしながら、長椅子に並んで腰をかけている。
「いえ、空手です…柔道は近所でやっていた教室を見ていた位で…」
 そんな位であんな鮮やかな1本背負いが出るか!とツッコミを入れたくなるのは山々だったが、どうにか笑顔で持ちこたえる。
「美人で強いってなんかいいなぁ」
 軽い調子で言うも、その言葉に苗子は項垂れる。
「そんなこと無いですよ、おかげでこの歳になるまで嫁の貰い手が無いって近所でも心配されてるんですから」
 苦笑いを浮かべ、肩を竦めながら困った調子で答える。
 勿体無いな、小さくそう思ったと同時に青磁は声に出していた。
「なら、俺が立候補しようかな」
「は?」
「だから、婿に」
 唐突な申し出に目の前の白百合が固まっている。無理も無いなと思いながらも氷嚢を横に起き、再び苗子に両腕を回す。綺麗な髪が腕の隙間からさらさらと流れる。
「今度は投げないでくれよ」
「え、て」
 なんと言えばいいのか分からないらしく、言葉に詰まっている。
 青磁自信も不思議に思っている。今日初めて出合った西の人。
「俺は、あなたに今日だけで二回惚れました」
「はい?」
 投げるなといわれ、身動きも取れないまま相手の言葉に耳を傾ける。
「一度目ははじめてみた時。二度目は投げられた時」
「…投げられるの好きなんですか?」
 真面目な声出何ともボケた問いを返され、ぶっと噴き出してしまう。この人は何て面白いのだろう。何て美人で何て強いのだろう。なんて自分はこんなに幸せなんだろう。
「違いますけど、目は覚めましたね」
 この幸せは自分にしか判らない。けれど、貴女にだけは伝えよう。
 不意に笑われ、怪訝そうに見る苗子から手を離しながら、青磁は恐らく人生のうちで一番幸せそうな笑みを浮かべ、答える。
「とても好きになりましたよ。友達からはじめてみませんか?」

 彼女は、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべた。


 東男が京女に出会って7時間ほどたっての出来事だった。


 結局、移転がどうのこうのと騒いだ結果、本店のある大阪、つまり苗子の勤め先に事務所後と移動という事になってしまった。こちらが小さな事務所で、向こうに受け入れる余裕が残っているからと言う理由の妥協策であった。
 彼にとっては妥協以上のものであった。
 彼女の赴任期間が切れてもまだ一緒にいられるのだから。
 後1週間と6日間。彼らが近づくには長いのか、短いのか。それは当の二人にしかわからない事だが、一つだけは今すぐに答えられる。


 彼はこの喜びを彼女だけに伝え続ける。
2003-12-07 14:09:04公開 / 作者:仲村藍葉
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■作者からのメッセージ
…ああ、よかった一話で終われた…(汗)。
多分恋愛系?
サイトで連載しているシリーズのサイドストーリーのようなものなのです。
これだけでもわかるように書いたつもりなのですが、わかりにくかったら本当にすみません。
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