『ホイッスル 第二話 1/2 微修正 』作者:ケイ / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角28028文字
容量56056 bytes
原稿用紙約70.07枚
 
 1. 三人の思い


 以前誰かが言った。
「君たちには無限の可能性があるんだよ」
 その数年後に誰かが言った。
「君はサッカー選手になる為に生まれてきたんだ」

 詐欺じゃねえか。
 

「朝倉! 朝倉颯太«あさくら そうた»!」
 不意に名前を呼ばれて、俺は慌てて顔を声が聞こえた方に向けた。教室の黒板の前には、今年こそは定期健診でメタボと診断されるんじゃないかと、クラス中が噂している数学の山中が、教卓に両手を乗せて体重を掛けながら俺を見ていた。俺は返事はしたものの、何故自分の名前が呼ばれたのかが分からず、ただただ、山中の体重を支え切れるか心配な教卓を眺めているだけだった。
「ちゃんと聞いてるか?」
「はぁ」
 何だか漠然とした質問に対して、俺は生返事をするだけだった。
「『はぁ』じゃないだろ。俺は今何て言った?」
「え?」
 慌てて記憶の糸を辿っても、一番新しい記憶は山中が教室に入ってきた辺りだ。俺が何とか誤魔化そうとキョロキョロしていると、誰かが俺の腕をシャーペンで突いた。ふと見ると、机の右端に小さな紙切れが乗っていて、そこには『教科書三十ページの問3』と書かれていた。
 マジサンキュー。そう心の中で呟いて、俺は山中の細い目を正面から見た。
「三十ページの問3、ですよね?」
 どうだ、山中。ざまあみろ。俺は満足そうな顔を見せつけようとした矢先、山中の怒鳴り声が飛んで来た。
「お前は何を聞いてたんだ! 今やってるのは二十二ページの問2だ!!」
 は? 正直何が何だかわからない。とりあえず整理すると、俺は山中の話を聞いてなかった。それを注意されて、今どこをやっているのか聞かれた。そして、右隣から渡された紙には……あれ? 右隣? だらけていた俺の脳みそは、『右隣』というキーワードに反応した。
「いえ、それはその……」
 必死に言い訳を考えながら右隣に目をやると、小悪魔なんて可愛らしいものではない、完全なる悪魔がニヤリと笑っていた。


 以前誰かが言った。
「君たちには無限の可能性があるんだよ」
 その数年後に誰かが言った。
「いつまで続けるつもりなの? そろそろ真剣に勉強にしたら?」

 もう、止めちまおうか。

 教室の一番後ろ、窓側の席。この高校に入ってから丁度一年三ヶ月。まだ一度も誰かに取られていない、俺の特等席だ。そこから、教師の声をBGMにグラウンドの上に浮かぶ雲を眺めるのが、俺の最近ハマっていること。黒板には、相変わらず訳のわからない英文がダラダラと上から下まで続いていた。所々に赤や黄色のチョークで、アンダーラインや『重要!』と書かれていて、それをクラス中が必死になってノートに丸写ししていた。
 頑張り過ぎじゃね? お前ら。
 そんなことを思いながら、必死になっているクラスメートたちを見渡すのは、どこか少しだけ愉快だった。
 もう止めちまおうか。
 ついさっき心の中で呟いたことを、もう一度思い返す。一瞬でもそんなことを考えた自分に、正直驚いた。一年三ヶ月と一週間前の俺なら、万が一にもそんなこと考えなかっただろうな。そう思いながら、再び窓の外に視線を移そうとした。その途中で教科書を読んでいる教師と目が合ったが、板書はおろか、教科書さえ開いていない俺に向かって何か言うでもなく、再び教科書へと視線を戻した。どうやらもう俺には何を言っても無駄だと思っているらしい。あんたそれでも教師かよ。それでも、こっちも何も言われない方が気楽だ。お互いの利害が一致してるし、まあ、いいか。
 ぼんやりとそう思いながら雲を眺めていると、隣のクラスからだろう、数学の山中の大声が聞こえてきた。呼ばれた名前を聞いて、無意識の内に舌打ちをしていた。
 またあいつか。


 以前誰かが言った。
「君たちには無限の可能性があるんだよ」
 その数年後に誰かが言った。
「お前には才能がないんだよ」

 決め付けるなよ。

 小さな雲が浮かび、少しだけ傾いた太陽が、プールの中ではしゃぐ僕たちの無防備な背中を、容赦なく照りつける中、目の覚める様な高い笛の音が響いた。
「はーい、自由時間そこまでぇ。さっさと着替えて教室に戻れぇ」
 やたらと語尾を伸ばす癖のある体育教師が、プールサイドの日陰からそう呼びかけた。僕たちは「早えよ」とか「後五分!」とか「泳いだら腹減ったー。購買行こうぜ」みたいに、それぞれが好きな言葉を好きな様に並べながら、ゆっくりとプールから上がった。僕は、そんな集団に混ざりながらふと空を見上げた。どこまでも続いてそうな青い空が気持ちよくて、僕は数秒間空を見上げ続けていた。そんな僕の背中を、誰かが少し乱暴に叩いた。
「痛っ!」
 ここ数日でだいぶ焼けた肌に、ピリピリと残っている刺激を感じながら、僕は後ろを振り向いた。そこにいたのは、同じクラスで同じサッカー部の大石隆志«おおいし たかし»だった。百八十センチまで届くんじゃないかと思うほどの長身の隆志の黒い体が、高校一年生にして百五十センチそこそこしかない僕と並ぶと、何だかすごく惨めな気分になる気がする。まあ、そんなことは関係なく、隆志は誰にでも同じ様に接する良い奴だ。それは断言できる。
「今日、部活来るだろ?」
 隆志は僕を見下ろしながらそう言った。僕は「もちろん」と笑いながら答えて頷いた。
「今日は紅白戦だろ? 行かない訳ないじゃん」
「それもそうだな。義樹は朝倉先輩に憧れてるんだっけ?」
 その通り。僕、東城義樹«とうじょう よしき»はサッカー部の二年生、朝倉颯太先輩に憧れているのだ。
「先輩のサッカーは、見てて飽きないもんなぁ」
 ぼんやりとしながら呟く僕を、隆志は「当たり前だろ」と言って再び叩いた。
「朝倉先輩はユースの日本代表にも選ばれてんだから。いわゆる天才だな」
 隆志は一人で納得したらしく、勝手に頷きながら呟いた。
「僕もあんな風になりたいなぁ」
「え? 東城って朝倉先輩みたいになりたかったの?」
「何だよ。何か文句あるのか?」
 わざとらしく驚く隆志の短い髪の毛を軽く引っ張りながら、僕は尋ねた。
「無理無理。今のお前だと、レギュラーになれるかも怪しいじゃねえか」
 隆志は軽く笑いながら水泳用のバッグを肩に掛けると、一足先に教室へと戻って行った。僕は隆志の正論に何も言い返せずにいた。確かに、僕はサッカーを始めて日も浅く、才能があるとも思っていない。今年の一年生の中でレギュラーになるのも危ないラインだ。それでも、朝倉先輩みたいになりたかった。努力して、努力して、努力すれば、必ず朝倉先輩みたいになれると信じている。
「決め付けるなよな」
 小さく呟いて、決意を胸に僕は再び空を見上げた。
「おい、東城! チャイムまで後三分だぞぉ! 着替えたんならさっさと教室に戻れぇ! ホームルームに遅れて、怒られても知らんぞぉ!!」
 僕はいつの間にか誰もいなくなっていたプールサイドを、小走りで後にした。
 

「ごめんね」
 ニヤニヤと笑いながら、俺の右隣に座っている二宮輝«にのみや ひかる»は、授業の終わりを告げるチャイムと共に、そう謝った。俺はさっきの授業で輝から渡された紙切れを返した。
「マジあり得ねえって。普通あんなことする?」
 正直呆れながら、俺はぼやいた。輝はもう一度楽しそうに笑った。その笑顔に思わずドキッとして、俺はすねた振りをして顔を背けた。こんな態度だと片思いだと誤解されそうだけど、俺と輝は付き合ってる。去年の十一月頃から付き合い始めた。輝のふんわりと波打つ深い茶色の髪も、形の良い唇も、少しだけ垂れ目なとこも、どこか子犬みたいな可愛らしさがあるとこも、全部好きだった。もちろん、恥ずかしいから本人には言ってないけど。
「焼きそばパン」
 俺は右手を輝に差し出してそう言い放った。輝は何の事か訳がわからず、首を傾げていた。
「おごりだよ。さっきの罰として、焼きそばパン。今すぐにね」
「ええー!? さっきお弁当食べたばかりでしょ!?」
「ウサギみたいに弁当箱に野菜しか詰めないで、絵を描いてるだけの美術部のお前と一緒にするなよ。俺はサッカー部なの。練習も七時まであんの。エネルギーが必要なの。わかったらいってらっしゃい」
 手を振る俺を説得するのを諦めたのか、輝は唇を尖らせてグチグチ言いながら、一階にある購買へと向かった。そんな輝を笑顔で送り出した俺に、誰かが声を掛けた。
「朝倉」
 振り返ると、サッカー部の顧問の三木本泰三«みきもと たいぞう»先生が、教室の入り口に立っていた。三木本先生は、小麦色の肌をした体育会系の先生で、俺たちとも年が近く、友達に近い感覚で接してる。それのせいか、サッカー部の奴らからは“ミッキー”という愛称で親しまれてるんだけど、サッカーがメチャクチャ上手い。何でも話によると、高校時代は全国大会のベスト4になったこともあるらしい。
「何ですか?」
 ミッキーが普段教室に来ることはほとんどないので、少し不思議に思いながら俺は近づいた。
「お前さ、副部長だろ?」
「はい、そうですけど?」
 俺たちの部は学年ごとに代表が決まっていて、三年生の代表が部長、二年生の代表が副部長をやることになっている。
「今更何言ってんですか?」
 ミッキーも当然知っているはずのことだけに、余計に違和感を感じる。
「櫻井、今日来るか?」
 櫻井。その名前を聞いて、俺はミッキーの考えていることが全部理解できた。櫻井蓮«さくらい れん»。俺と同じ二年生のサッカー部員で、俺と同じポジションのフォワード。試合ではいつも俺とツートップを組んでいる奴だ。だけどここ最近、部活を無断で休むことが何回かあった。ミッキーはそれを心配してるんだろう。
「さあ、わかんないです」
 正直に思ったことをそのまま口にした。ミッキーは右手で短い髪の毛をいじりながら「そうか」と呟いた。
「俺、蓮に練習に来るよう言っておきましょうか?」
「そうだな……お前に頼むか」
 ミッキーは何度か頷くと、俺の肩をポンと叩いた。
「任せたぞ、朝倉」
 わかってます。先輩が引退したら、俺が部長ですから。そう思いながら、ふと気になったことをミッキーに尋ねた。
「先生、今日って紅白戦……ですか?」
 昨日の練習で、誰かが話しているのを耳にして、一日中気になっていたことだ。もちろん、パスやシュートの練習も楽しいけど、やっぱり試合とは違う。試合でしか味わえない楽しみがたくさんあるのを、俺はよく知っていた。
「……中根にしか伝えてないはずだったんだけどな。まあ、わかってるなら仕方ないか。そうだ、三年生と、二年生で試合をする。夏の大会が終われば、三年生も引退だ。今回が三年生対二年生の、最後の試合かもしれないな」
 苦笑を浮かべた後、ミッキーは真剣な面持ちになってそう言った。中根部長か。部長なら、すぐ誰かに話しそうだもんな。そんなことを思いながら、俺はそれを黙って聞いていた。
「まあ、そういうことだから。頼んだぞ」
 ミッキーは大きく息を吐いてそう言い残すと、階段へと向かった。俺は自分の席に戻ることなく、そのまま隣のクラスへと足を向けた。
 2−Aの教室は、半数以上の生徒がいなくなっており、窓から差し込む夏の日差しがどこか寂しげに、誰も座っていない椅子と机を照らしていた。
 もう部活行ったのかな。それとも――
 嫌な予感が一緒頭を過ぎったが、俺のそんな思いを他所に、蓮は教室の隅っこ、窓際の一番後ろに座って外を眺めていた。俺はホッとしながら声を掛けるために、一歩近づいた。
「何黄昏てんだ?」
 蓮は顔だけこちらに向けて、三秒間ほど俺の顔をまじまじと見つめた。
 こいつ、イケメンだな。
 不意にそんなことを思った。少し伸ばしたクセ毛の髪と切れ長の目や、細い鼻と唇がピタリと合わさって小さな顔に納まっていた。初めて顔を見た訳ではないのだけど、改めてそう感じてしまった。
「颯太か……」
 蓮はつまらなさそうな顔をして答えになっていない返事をした後、窓の方へ再び顔を戻した。
「何だよ、その態度。それよりさっさと行こうぜ」
「どこに?」
「わかりきったこと聞くなよ。部活、来るだろ」
「ああ、当たり前だろ」
 俺やミッキーの思いなど知らない蓮は、涼しい顔でそう答えた。ちょっと心配していた自分が何だか妙に情けなかった。
「先輩と試合できるの、最後かもしれないだろ」
 蓮は軽くスポーツバッグを持ち上げて肩に掛けた。それと合わせて蓮の髪が揺れた。
「知ってたのか」
 あまりお喋りじゃない蓮が、そのことを知っているのに驚いた。
「昨日、一年生が大声で話してたからな。嫌でも耳に入る」
 ゆっくりとした足取りで教室を出ようとした蓮の背中に、俺はふと思ったことをそのまま尋ねた。
「紅白戦じゃなかったら? 先輩たちとの試合じゃなかったら、お前、今日来てたか?」
 そう言った後、自分でも何故そう聞いたのかよくわからなかった。ただ、何となく感じたから聞いてみた。それだけだった。
「行こうぜ。副部長が練習に遅刻なんて、笑えねえだろ」
 蓮は最初と同じ表情で俺を見ながらそう言って、廊下を歩いていった。俺は、モヤモヤとした感情を残したまま自分の教室へと戻った。
 大丈夫かな、あいつ。
 色々な意味で蓮に対する不安を抱きながら、俺は自分の水色のスポーツバッグを持ち上げた。その拍子に、ガサリとビニールが擦れる音が聞こえた。俺のバッグにビニール袋などは入っていないはずだから、不思議に思ってバッグを開けると、焼きそばパンと一緒に小さなノートの切れ端が入っていて、そこには『部活頑張ってね』と可愛らしい丸文字で書かれていた。俺は自分でもにやけるのを感じながら切れ端を裏返すと『教科書三十ページの問3』と同じ字で書かれていた。
「使い回しかよ」
 思わず声が漏れた。 


 外に出ると、思わず顔をしかめたくなる様なモワンとした空気だった。太陽はまだ高く、これからやって来る夏の暑さを予感させるようだった。グラウンドに向かうと、既に着替え終わったサッカー部の部員たちが個人個人でストレッチを始めていたり、野球部がノックをしていたり、テニス部がコートの周りをランニングしていたりして、それぞれがそれぞれのやるべきことを淡々とこなす風景が広がっていた。挨拶をしてくる一年生に適当に返事をしながら、俺はサッカー部の部室に入った。部室の中は大して広くないのに、部員の荷物が所狭しと置かれていて、自分のロッカーに向かうのも一苦労だった。
「片付けろよ」
 苛立ちを覚えながら、そうぼやいた。どこであろうと、散らかっている部屋は好きではなかった。制服を脱ぎ、青いユニフォームの袖に腕を通す。少しずつ心が落ち着いて、気が引き締まっていくのを感じた。
 お前、今日来てたか?
 不意に颯太の言葉を思い出して、動かしていた手を止めた。颯太に一瞬でも心を見透かされた様な気がして、無性に腹が立った。その一方で、何故腹が立つのかもわからない自分がいるのを、頭の片隅で感じていた。
「あ、先輩。アップ始まりますよ」
 忘れ物を取りに来たらしい一年生が、俺がいることに少し驚きながらそう告げた。俺は短い返事をすると、スパイクの紐をギュッと締めた。部室の外に出て、大きく息を吸う。心臓が高鳴っているのを感じる。
 さあ、サッカーだ。
 心の中でそう呟くと、体中の血が熱くなるのを感じた。
 もう全部忘れよう。今日考えていたことも、授業も、颯太の言葉も、全部忘れよう。どれも、関係ない。今からやるのは、サッカーだ。
「よっ」
 誰かが俺の肩にポンと手を置いた。日に焼けた力強い手は、振り向かなくとも部長のものだとわかった。
「どうも」
「何だよー。相変わらず無愛想だねー」
 無愛想も何も、これが俺の性格なんですけどね。
「まあ、今日は来てくれてよかったよ」
「はあ」
「ここ最近、部活サボってただろ? ん? 彼女でもできたか?」
 いい加減にしてくれよ。颯太に続き、部長もですか。その内、ミッキーにまで言われそうだな。
 振り向くと案の定、中根部長はクセのないサラリとした長髪を指でいじりながら、細い目を更に細くして笑みを浮かべていた。
「彼女? 先輩こそいるんですか?」
 部長は「うっ」と声を上げて、顎を引いて俺の顔をジッと見た。
「お前なあ、少しは礼儀ってものを考えろ」
「どこか失礼でした?」
「あのな、こんなときは、『先輩みたいにカッコイイと、モテモテでしょうね。あっ、彼女がいないんじゃなくて、作らないんですか? 今は部活一筋ってことですよね!』ぐらい言うのが後輩ってもんだ、うん」
 やっぱり駄目だな、この人。サッカーは上手いのに、それ以外はただのダメ人間だ。
「先輩、ここんとこストレスでも溜まってるんですか?」
「おっ、ようやく先輩の体調を気遣うようになったか」
 満足げに頷く先輩に、最後の一言を放つ。
「いや、ここ最近の、異常な暑さにやられたんですか? まさか先輩、本当に自分がモテるなんて思ってないですよね?」
 俺の言葉に返事は無く、代わりに返ってきたのは額への軽い平手打ちだった。
「アップ終わったな!?」
 俺にニヤリと笑みを向けた後、中根部長はさっきまでとは別人の様に真剣な表情になって、そう叫んだ。
「もう聞いてるかもしれないが、二、三年生は試合だ。監督は三年生チームは俺、二年生チームは朝倉がやれ。一年生は半分ずつに別れて応援。ボーっと突っ立ってんじゃねえぞ。先輩のプレーを見逃さないようにちゃんと見てろよ。以上!」
 部長は一息でそう言うと、グラウンドに向かって駆け出した。俺たちもその後に続いた。


「ぶっちゃけ、どうなんだろうね」
 ハンバーガーやポテトの匂いが、空っぽになった僕たちの胃袋をくすぐった。さすがに七時ぐらいになると、店内の客の数も減ってきて、いるのは部活帰りの学生ぐらいだった。駅前のハンバーガーショップ。部活帰りに、僕らは何人かで集まって、よくここでハンバーガーを食べながら他愛もない話で盛り上がる。何の意味もない時間だけど、この時間が楽しい。きっとこんな風に何でもない時間を過ごして、友達や彼女と何でもない話で笑い合ったりするのが高校生なんだろうなって、最近思うようになった。
「聞いてるか? 義樹」
 ふと気づくと、僕の顔を覗き込むように、同じ一年生の白河幸太郎«しらかわ こうたろう»、通称コウタが、彫りが深い顔をこちらに向けて、向かい側の席から身を乗り出していた。びっくりさせないでくれよ。
「ごめん、何だっけ?」
「先輩たちだよ、二年生の」
「二年生?」
 真っ先の思い浮かぶのは、もちろん朝倉先輩だった。
「ちゃんと初めから説明してやれよ、コウタ。義樹は二年生って言うと、朝倉先輩しか頭ん中にないからな」
 Lサイズのポテトを齧りながら、隆志は声を上げて笑った。それに釣られてコウタも笑う。何だか僕だけではなく、朝倉先輩も小馬鹿にされようで、少し苛立つ。
「何だよ、朝倉先輩に憧れることぐらい普通だろ。お前たちだってそうじゃないの?」
 僕は鼻から息を吐いた後、運ばれてきたチーズバーガーに齧り付いた。
「気持ちはわかる。そりゃあすぐ近くにあんな天才がいれば、誰だってそうなるさ。けどな、どんなに憧れたって、俺たちはあんな風になれない。プロのチームからスカウトが来たり、ユースの日本代表に選ばれたり、あんな風にはなれないんだよ」
 コウタはそう言うと、紙コップに入っているコーラを、差してあるストローでクルクルとかき混ぜた。
 言葉が詰まる。今は、何を言っても意味ないような気がして、黙々とチーズバーガーを口に運ぶことしかできなかった。
「早いとこ切り替えようぜ。サッカーは大学行ってからもできるんだし」
「そういえばさ、中根部長って頭いいんだろ? この間先輩に聞いたんだけどさ、早稲田辺りを狙ってんだって」
「マジで? スポーツも勉強もできるのかよ。モテるんだろうなあ」
「無理だろ。部長の私生活、半端なくだらしねえもん」
 コウタと隆志がくだらない話で盛り上がっているのを横で聞きながら、僕の頭の中では、コウタの言葉が木霊の様に響いていた。
『あんな風にはなれない』
 決めつけるなよ。そうだ、決めつけるなよ。
「わかんないじゃんか」
 思わずポロリと口から言葉が漏れた。二人は一瞬顔を見合わせた後、僕の方に顔を向けた。
「どうかしたか? 義樹」
「あんな風になれるかどうかなんて、わかんないじゃんか。決めつけるなよ」
 コウタは大きく息を吐くと、再び俯く僕の顔を覗き込んだ。
「いいか? 義樹。今俺たちが小学生ならそう言ってもいい。けどな、俺たちはもう高校生なんだよ。卒業したら、もう大人として扱われるんだよ。いつまでも、『将来の夢はサッカー選手です!』なんて言ってられないんだよ」
 僕は再び黙った。黙ることしかできなかった。コウタの言ってることが正論だってことは、自分でよくわかっていた。わかっているつもりだった。それでも、決して辿り着けない場所でも、もう少しだけ目指していたかった。
「悪い、言い過ぎたよ」
 コウタはバツの悪そうな顔を見せて、僕の前で手を合わせて頭を下げた。
「いいよ、僕が諦めが悪いだけだから」
「確かに義樹の言う通り、まだわかんねえよな。もしかしたら、俺たちだってプロになれるかもしれねえしな」
 ニヤッと笑って隆志が呟いた。フッと、気が抜けるのを感じた。僕とコウタは目を合わせた後、やはり隆志と同じ様にニヤッと笑った。
「そういえばさ」
「ん?」
 忘れていたさっきまでの話題を思い出して、僕は声を上げた。携帯をいじっていたコウタは顔を上げて僕を見た。
「さっき何を話してたの? 先輩がどうとか」
「ああ、そうそう」
 コウタはただでさえ大きい目を更に大きくして、何度も頷きながらそう言った。
「お前の憧れの朝倉先輩と、ツートップのもう一人、櫻井先輩いるだろ」
「うん」
 櫻井先輩は、朝倉先輩ほどの鮮やかなテクニックやボールタッチがあるわけではないけど、力強いドリブルやボディーバランスが強みだった。今日の紅白戦での二人の動きが、脳裏に焼きついている。フォワードを目指す僕にとって、二人はタイプの異なるお手本だった。
「あの二人って、仲悪いのかなって話」
 コウタは指で摘んだポテトを、僕に向けながらそう言った。
「そうなの!?」
 僕は思わず立ち上がってそう言った。いや、『言った』というよりは『叫んだ』といったほうが近いかもしれない。店内にいた少ない客が、訝しげに僕たちに視線を向けるのを肌で感じた。そんなことよりも、今聞かされたことが、真実かどうかの方が気になった。二年生にしてレギュラーどころか、不動のツートップになった二人が仲が悪いなんて、信じられなかったし、何より信じたくなかった。
「落ち着けよ。噂だよ、あくまで噂」
 慌てて僕の制服の袖を引っ張って座らせようとしながら、隆志がそう囁いた。
「でもさ、そんなことってある? 同じ学年で今まで一緒にやってきたんでしょ? 少しは連帯感っていうか、そんな感じのがあってもおかしくないと思うけどな」
 僕は感じたことをそのまま言葉にした。隆志も「確かに」と言いながら頷く。コウタも難しそうな顔をして頷いていた。
「まだ詳しい話もわかんないしなぁ」
 椅子の背もたれに頭を乗せて、コウタはそうぼやいた。
「そんなことあり得ないよ、きっとただの噂だよ」
 僕の言葉に、二人は「まあ、そうか」と言いながら頷いた。
 そうだ、あの二人が仲が悪いなんて、そんなことある訳がない。
 誰よりも、自分自身に僕は言い聞かせた。
「そろそろ帰るか。俺、今日中に英語の課題、終わらせなきゃいけねえんだ」
 おもむろにコウタは立ち上がった。それに釣られて僕と隆志も立ち上がる。
 あれ? コウタと隆志と僕は、同じクラスだ。課題だってもちろん同じだ。
「コウタ、その課題って一週間も前に出されたやつだよね? 提出日は明日。今まで何やってたのさ」
 隆志も「ああ、そういえばそうだったなー」なんて、呑気に残った氷水を音を立てて飲んでいる。コウタはごみを紙とプラスチックに分けながら言った。
「俺は健全な高校男子なわけ。色々と忙しいんだよ。課題は期限があるんだから、期限までに終わらせれば誰も文句は言ってこないんだよ。だいたいお前が変なんだぜ。課題が出されたその日に全部終わらせるなんて。絶対変だよ」
「よく言うよ。一週間部活とカラオケ、ゲーセンで遊び呆けてただけだろ」
 そう言って三人で笑いながら外に出ると、完全に沈んでいない太陽が、夏の到来を告げる様に浮かんでいた。
「あー。彼女欲しいー!」
 大きく伸びをしながら、コウタが叫ぶ。「うるせえよ」と笑いながら隆志がコウタの頭を叩く。僕も笑いながら、店の前に留めてあったチャリに跨る。さっきまでいた店の明かりが眩しくて、一瞬目を細める。
「じゃあな」
「うん」
 電車で帰る二人と別れて、僕は生温い風を切って家路に着いた。


 部活を終え、俺が駐輪場に向かったのは七時を少し過ぎたところだった。副部長として、部室の戸締りや用具の点検をして、職員室に部室の鍵を返しに行った後、俺は駐輪場に向かった。空には、オレンジのような青のようなピンクのような、そんな不思議な色が広がっていた。そんな空の下にあるせいか、駐輪場もどこか不思議な、それこそファンタジーの中みたいな空気を醸し出していた。駐輪場の屋根は淡いオレンジに染まり、青く染められた何台かの自転車が、鈍く光りを放っていた。俺の自転車も他と同じく、薄暗い駐輪場の中では、どこか神々しくさえ見えた。
 学校から指定されている紺のブレザーのポケットから鍵を取り出すと同時に、俺は一瞬ギョッとした。誰かが俺の自転車の横に立っている。ぼんやりと見える紺のスカートから、その誰かが女子だと気付いた。自転車が放つ光を受けて、同じ様に青く照らし出されるその姿は、神々しいというより、どこか怪奇なものだった。神や妖精に近いと言えなくもないけど、どちらかといえば、幽霊の方がピッタリかもしれない。腰から上は駐輪場の屋根の影になって、ほとんど見えなかった。部活を終えたばかりで、まだ少し汗が残っている背中が、ひんやりと冷たくなった。
「あの……」
 何を聞きたいのか自分でもわからないまま、とりあえず俺は口を開いた。幽霊にせよ何にせよ、言葉が通じるならどうにかなるかもしれない。
「遅い」
 返ってきたのは、その一言だけだった。これは、何か恨みを持ったまま無念の内に死んでしまった、何年も前のこの高校の生徒なのではないか、という思いが俺の頭に浮かぶ。きっと駐輪場で彼氏を待っている間に、何やかんやで死んでしまった女子生徒の霊に違いない。
 普段から、霊や超能力といった超常現象の類を信じるタイプではあるので、俺は咄嗟にそう思った。何しろ、この幽霊の顔が全然見えないのがかなり怖い。得体の知れない物に、人間は恐怖と好奇心を抱くと聞いたことがあったけど、どうやら実際に抱くのは恐怖心だけらしい。
「遅い」
 幽霊は再びその言葉を口にした。
 俺の脳は既に正常に働かなくなっていて、文字通り頭の中が真っ白になった。そんな俺が出した結論は――
「ごめんなさい」
 とりあえず謝ることだった。後になって思えば、謝ってどうにかなると思ってた俺が信じられない。
「謝るなら、許してあげよう」
 深く頭を下げた俺の耳に聞こえたのは、何とも拍子抜けする返事だった。慌てて顔を上げてみると、幽霊はまだ俺の自転車の横に立っている。
「あれ? 消えないの?」
 心の中で呟くつもりが、つい言葉になった。
「馬鹿なこと言ってないで帰ろうよ」
 あれ? あれ? どっかで聞いた声だな。
 そう思いながら首を傾げる俺に向かって、幽霊が一歩近づいた。薄っすらと見えてきた顔は、輝だった。
「あ……」
「何よ?」
 さっさと俺の自転車に乗りながら、輝は不思議そうに尋ねた。
「本当に、輝? 幽霊じゃなくて?」
「どういう意味?」
 一難去ってまた一難。墓穴を掘るとはまさにこのことだ。恐怖から解放されたからか、どうも言わなくていいことを言ってしまう気がする。
「いや、その、幽霊や女神の様に、人間離れした綺麗さだったから、最初誰だかわかんなかったんだよ」
「ふーん」
 苦し紛れの言い訳に納得はしてなさそうだけど、輝はとりあえず頷いた。
「まあ、いっか」
「ずっと待ってたの?」
 俺はため息をついた後、そう尋ねた。
「まさか。友達とすぐそこのファミレスで時間潰してたの。そろそろかなぁと思って、少し前に来たとこ」
 じゃあ俺が「遅い」って言われることねえじゃねえか。
 そんなことを思いながら、俺は自転車に鍵を差した。輝は俺よりも早く乗っていて、俺が跨ると同時に俺の肩に両手を置いた。俺はそれを確認した後、ゆっくりとペダルに乗せた足に力を込めた。何故か、いつもより少しだけ重く感じた。俺と輝を乗せた自転車が校門を通るとき、『唐川高等学校』と彫られた石の表札に夕日が反射して、俺は思わず目を細めた。顔は見えないけど、きっと輝もそうだろう。
 学校の敷地から少し離れ、緩やかな勾配の坂道に差し掛かり、俺はギアを軽くして更にペダルをこぐ。
 やっぱり、いつもより重い。
「なあ」
「んー?」
 輝の間延びした返事に釣られ、俺もどこかだらしない口調でその先を続けた。
「太ったぁ?」
 後頭部に鈍い衝撃が走り、視界がぐわんと揺れる。それが鈍い衝撃のせいで俺が意識を失いかけたのか、それともハンドルが揺れたせいなのか、一瞬目の前が真っ白になった俺にはわからなかった。ただ一つ言えることは、輝が持っていた鞄の角で殴ったらしい。教科書がパンパンに詰まっている鞄で。
 意外と、乱暴だな。
 そう思いながら、赤信号に気付きブレーキを掛けると、自転車がまるで俺の代わりの様に甲高い悲鳴を上げた。
「はい」
 後ろを見ないで、俺は手を輝に向けた。
「何?」
「危険だからね。凶器は没収。俺が預かります」
 輝はクスッと笑った後、鞄を俺の手に掛けた。想像以上に重く、一瞬俺の体が傾いた。
「重っ! 何入ってんだよ?」
「教科書」
 輝の返事はシンプルなものだった。
「それ、おかしくね?」
 俺は思ったことをそのまま口にした。鞄を没収した今、さっきみたいな恐ろしい不意打ちを食らうことはないだろう。
「どうして?」
「どうしてって、学校に個人用のロッカーあるじゃん」
 俺たちの学校には、生徒一人一人に、少し小さなロッカーがあるのだ。小さくとも、教科書は整頓して並べれば全部入る程度の大きさなので、男子生徒は結構教科書を置きっ放しにしてる奴が多い。
「だって今日の復習とかしないと駄目でしょ?」
 それは正論だけど、よく考えろよ。今日の授業の半分以上は実技教科だろ。
「今日、実技ばっかじゃん。そんなに教科書要らないだろ」
「要るよ。実技も復習するもん」
 前から思ってたけど、やっぱり輝は根っからの真面目な優等生らしい。普通の奴なら、面倒臭くてやらないことも、何の苦もなくさらりとやってのける。いや、それは少し違うか。きっと、自分が努力する姿を、人に見られたくないのだろう。だから、学校ではいつもふざけてるし、授業中もすぐ俺にイタズラしたりしてくるのかもしれない。
「どうかした? 青だよ」
 輝に言われて、俺は慌ててペダルをこいだ。空はいつの間にか暗くなり始め、俺たちがいつも通り過ぎるときに見る街路樹や建物も、どこかよそよそしかった。街灯も点り、吹きつける風も少しだけ涼しくなり、世界は一気に夜に近づく。
「今日、試合だったんでしょ?」
「あれ? 話したっけ?」
「ううん。でも、颯太の顔を見ればわかるもん」
 輝の言葉が理解できずに、俺はそのまま聞き返した。
「顔?」
「うん。試合がある日って、一日中嬉しそうだもん」
 気付かなかった。本当に、無意識の内にそんな顔になっていたのだろうか。だとしたら、それを見逃さない輝を素直にすごいと感じた。
「スゲー。それって、クラスの奴なら、誰でもわかんの?」
「そんな訳ないじゃん。クラスの皆は、普段の顔をいつも見てる訳じゃないし、颯太ほど単純な人もいないと思うよ。だから、わかるのは颯太だけ」
 今俺が思ってることを誰かが知って、「バーカ、調子に乗んな」と言って俺の頭を叩いても、仕方ないだろう。くだらないとわかっていても、俺だけだと言われたのがメチャクチャ嬉しくて、輝には見えないようにしながら、小さくガッツポーズをした。
「それで? 試合は?」
「二年生チームと三年生チームで試合したんだ。結果は二対三。俺も二点決めたけど、チームとしての総合力じゃ、まだ先輩たちには敵わないな」
「ふーん。今日の二点は、私の焼きそばパンのおかげ?」
「まさか。俺の実力だね。むしろ、焼きそばパンを食ったせいで脇腹が痛くなって、本来の力が出せなかったぐらいだ」
「それホント?」
 少しだけ真面目な口調で輝が言う。少し、悪ふざけが過ぎたかもしれない。
「冗談」
「ひどーい」
 そう言って、二人で笑った。笑い声自体はそんなに大きくなかったけど、住宅街には他に音を発するものはなく、俺たちの笑い声は結構響いた。
「でもさぁ」
 ふと思い返し、俺は緩みっ放しだった口元を元に戻して言った。
「ん?」
「実技教科復習して、どうすんの? 大学行くんだったら、主要科目の勉強した方がいいんじゃない? そりゃあ、推薦狙ってるんだったら、話は違うけどさ」
 輝は「そうだねー」なんて、どこか他人事みたいな口調で言った。
「何でだろうね。私もよくわかんないや」
 俺は「お前なぁ」と言って、軽く笑おうとした。けれど、輝のその先の一言に、体が石になった様に固まる。
「私、颯太とは違うからね」
 何が?
「颯太はプロチームに入るから、勉強なんかほとんどしなくてもいいけど、私は――」
「やめろよ」
 遮る様に、口を開く。ほとんど反射に近い行動だった。自分でも、ここまで拒否反応が出るとは思わなかった。
 やめろ。冗談じゃない。そう、冗談じゃない。
「颯太?」
 俺の肩に置いてあった輝の手に、少しだけ力が入る。今は、そんなことどうでもよかった。ただ、一瞬俺の中で湧き上がった感情を、風で吹き飛ばすかの様に、俺は自転車のペダルをこぎ続けた。

「それじゃあ」
 輝の家に着いたのは、それからほんの数分だった。けれど、その間は二人とも一言も口を利かず、数分が三十分ぐらいに感じられた。空は既に真っ暗で、小さな星と昇り始めた月が輝いていた。輝は俺が自転車を止めた後も、しばらく降りようとしなかった。俺の位置からは、輝の顔を見ることはできなかったけど、何かを強く思っているのだけはわかった。
 怒っているのか、泣いているのか、それとも別の感情なのか。まだ輝の言葉が耳から離れない俺は、そこまで輝に気を遣う余裕はなかった。
「ごめん」
 自転車から降りると同時に輝が零した言葉は、その一言だった。
「いや、悪いのは俺の方だから」
 それは、さっきからわかっていることだった。怒ったことも、輝を傷つけたことも、全部俺のせいなのだ。俺の勝手な都合なのだ。それなのに、輝は「ごめん」と言った。無性に自分が情けなくなった。
「マジでごめん。明日は、もう大丈夫だから」
 何が大丈夫なのか自分でもわからないまま、俺はそう言った。輝は振り返り、曖昧な笑顔を見せると、そのまま家の中に入っていった。


 玄関を開けると同時に、ふっと甘い匂いがした。結構甘ったるい匂いなのだけど、どこか柔らかくサッパリしていて、気分が悪くなるような匂いではなかった。その匂いの源を探すため、俺は玄関を見回した。いつもと変わらない細い廊下と、味気ない真っ白な壁。フローリングには、淡い水色の玄関マットが敷いてあり、その近くにはこれまた何の装飾も施されていない、地味な下駄箱があった。そして、その上に細くて白い花瓶が置いてあり、そこに名前も知らないピンク色の花が挿してあった。どうやら、入ったときに嗅いだ匂いの源はこれらしい。
 徒歩で学校に通っているせいか、クラスの連中のよりも幾分泥で汚れている学校指定の革靴を脱いで、俺はリビングに繋がる廊下を数歩歩いた。一瞬、さっさと二階の自分の部屋に向かおうかと思ったが、一応帰ったことだけは知らせようと思い直し、階段に向けた足をリビングに向けた。リビングに向かうにつれ、強くなるカレーの匂いと、母さんの鼻歌を聞きながら、俺はドアを開けた。
「ただいま」
「あら、おかえり、蓮」
 カレーが入った鍋をかき回しながら、母さんはこちらを向いた。数日前に染めたばかりの明るめの茶髪が、一緒に揺れた。
「母さん」
「何?」
「点けっ放し」
 「何が?」と言いたげな顔をして、母さんはキッチンのカウンターからリビングを覗いた。リビングには、数種類の暖色で模様が描かれた、今の季節には暑苦しいカーペットが敷いてあり、その上に白いソファが二つと、ソファと同じ色の背もたれが付いていない椅子、そして低めのガラステーブルが置いてあった。そこから少し離れて、壁際に置いてあるテレビラックの上の薄型テレビでは、これからのシーズンに向けて、同じ顔した三人のモデルがバニラアイスを食べているコマーシャルを映し出していた。
「テレビだよ」
「いいのよ。もうすぐ見たい番組が始まるんだから」
 最近、妹の影響を受けてか、母さんは今まで気にもしていなかったジャニーズのアイドルグループがお気に入りになったらしく、そのメンバーが出演している番組をよく見ている。これから始まるのはそのグループのレギュラー番組だ。母さんはそれを見始めてから、まだ一度も見逃してないらしい。用事で見られないときも、録画予約をしておくほどだ。
 いい歳して、何やってんだよ。
 何度かそう言おうかと思ったけど、特にこれといって被害も受けてないので、結局そのままほったらかしにしているのだ。
「無駄。こんな生活してるくせに、よく『どうにかして、もうすこし電気代を節約できないかしら』なんて言えるよな」
 俺は、机の上に無造作に置かれていたリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。俺の家族は皆綺麗好きなせいか、家の中の部屋はどこも殺風景で、以前友達を呼んだときも「何か生活感がなくて、居心地が悪い」と言われたこともあった。
「ねえ、蓮」
 少しだけ遠慮がちに、母さんが言った。母さんがこの口調になるときは、大体あの話だ。この数年間、何度も聞いてきたから、その先の言葉を聞かなくてもそうだとわかった。
「サッカー、まだ続けるの?」
 やっぱり、そうだった。
 リモコンを持つ俺の手が、無意識の内にピクンと反応した。この話題になると、理性やら感情やら、そのどれよりも早く体が反応するのだ。
「あんたが中学生のときからお父さんと考えていたんだけど、やっぱり将来のことを考えると、そろそろ予備校とかに通った方がいいんじゃないかな」
 どこか少しだけ頼み込むような口調に、無性に腹が立った。いっそ、今すぐ部活を止めて勉強に専念しろ、と怒鳴られる方が楽だ。
 できれば予備校に行って欲しいけど、どうしてもサッカー続けたいなら、まあ、あと少しだけやってもいいわよ。
 母さんのそんな声が聞こえた気がして、小さく舌打ちをした。でも、舌打ちをした後で、もうサッカーを止めてもいいと思っている自分がいることを、微かに感じた。
「ほら、中学のときのこともあるし――」
 うるせえよ。
 俺の中の俺が、獣じみた声で、低く呻いた。体の奥が、火に炙られている様に、チリチリと痛む。母さんは、そんな俺に気付く様子もなく、べらべらと喋り続けていた。
「もう気が済んだでしょ?」
 うるせえ。うるせえ。うるせえ!
「うるせえんだよ!!」
 知らぬ間に、そう叫んでいた。怒鳴った後に感じたのは、溜まっていたものを吐き出した爽快感ではなく、疲労感だった。母さんは、何も言わずに、再び鍋と向き合った。謝らなければならないと思ったのに、俺の体はそのままリビングを後にしようとした。しかし、そこでピタリと足を止めた。
「母さん」
 母さんは何も言わずに、鍋をかき回し続けていた。細身の母さんの背中は、いつもより小さく見えた。
 言わなければ。そう思った。
「ごめん」
 返事はなかった。
「つい熱くなったけど、母さんの言いたいこともわかるんだ」
 改めて、自分の心に問い掛けてみる。本当に続けたいのか。色んなことを犠牲にしても、続ける価値はあるのか。
「それでも、高校生の間だけは続けたいんだ」
 鍋をかき回していた母さんの手が、ピタリと止まる。それでも、こちらに振り向こうとはしなかった。
 そう、今だけだ。あと一年と半年の間だけは、ただひたすらに走り抜けよう。
 再び鍋をかき回し始めた母さんをキッチンに残し、俺は二階へと向かった。その途中、もう名前を知らないピンク色の花の匂いはしなかった。

 無得点。
 そう心の中で呟いて、俺は自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。ひんやりと冷たいシーツが、心地よい。重い瞼を閉じて、甘い夢の中に落ちようとすると、今日の紅白戦の映像が頭の中で流れ始めた。選手全員の動き。味方とのパスワーク。そして、どれだけ放ってもネットを揺らすことのなかった自分のシュート。
 もちろん、マークは颯太の方が厳しかった。その分、俺はフリーでシュートを打てるはずだった。それなのに、無得点。
 思わずシーツを握り締めた。その一方で、無得点だったことに、安堵の表情を見せる俺もいた。
 これでいい。これで、期待されることもない。
 さっき呻いた俺とは、また別の俺が呟く。嘆きに近いその声は、やたらと頭の中で響いた。
 上半身だけを起こし、部屋を見回す。ホームセンターで買ってきたラックと本棚と机。タンスといくつかの雑貨。リビングと同じ殺風景な風景は、いつもと同じだった。ラックの二段目には、小さなメダルがガラスのケースに入ったまま、置かれていた。懐かしさを感じ、俺はそれを手に取ってみた。メダルの中央よりやや下に、『唐川地区 サッカーリーグ優勝 唐川少年団』と書かれていた。このメダルは、まだ俺が小学生だった頃、この唐川地区の少年団を五つほど集めて行われた、小さなリーグで優勝したときの物だ。優勝といっても、チームは五つしかなかったし、小学生のサッカーなんて一人上手い奴がいれば、そいつだけでいくらでも点が取れるぐらいお粗末なものだ。実際、俺も毎試合ハットトリックを決めていたぐらいだった。
 天才。
 そう感じた後、すぐに口だけで笑った。今みたいな笑い方を、自嘲的な笑いと言うんだろう。そんな風に感じた。メダルを元の場所に置こうと屈んだとき、誰かが部屋をノックした。誰かといっても、今この家にいるのは、俺以外だと母さんか、妹の凛«りん»ぐらいだ。
 ノックをしてから二呼吸ほど間を空けて入って来たのは、やはり凛だった。凛は、部屋を見回した後、ベッドに腰掛けている俺を不思議そうに見た。
「何だよ」
「夕飯の支度できたって」
 中学三年生の凛は、今年受験を控えている。陸上部の活動をして、その後は塾に通う。正直、呆れるぐらいタフな奴だ。俺も凛と同じ中学校にいたからわかるけど、あそこの陸上部の顧問は、かなりハードな練習をさせるらしい。進入部員が十人入って、三ヵ月後に残っていたのは僅か三人だけだった、という話を聞いたこともあるぐらいだ。その陸上部の練習を難なくこなし、その後勉強までみっちりやる。普段は、練習が厳しいとか、塾が疲れるとか、そんな弱音を全く吐かないので気付かないが、さり気なくすごいことをしていると思う。
「それで?」
「え?」
「どうしてそんな顔してるんだ?」
 凛は俺を不思議そうに見た後、どこか不満があるような表情で、用件を伝えたのだ。そのままほっといてもよかったのだが、それはそれで後が面倒臭そうだから、とりあえず聞いてみた。
「別に」
 俺と違い、凛は母さんに似ていると思う。顔全体のパーツが、少し丸みを帯びているところとか、性格が大雑把というか、のほほんとしているところとか。
「用がないなら出てけよ。これから着替えるんだから」
 ベッドから立ち上がり、制服のジャケットをハンガーに掛けながら俺は言った。
「ひどーい。せっかく妹が、兄がエッチな本を隠すぐらいの時間を空けてから、ドアを開けてあげたのに」
 どうやら、さっきから色んな表情で部屋や俺を見ていたのは、このくだらない理由のせいらしい。
「バーカ。お前こそ勉強ばっかしてっと、一人も彼氏できねーぞ」
「サイテー。普通、妹に向かってそういうこと言う?」
 ああ、もう面倒臭い。さっさとあしらって、飯を食って風呂入って寝たいんだが。
「そうですね。お兄ちゃんが悪かったよ。どうもすいませんでした。わかったら、さっさと出てけ」
「何よ。お兄ちゃんだって、彼女いないくせに」
 陸上部で鍛えられ、日に焼けた細くて筋肉質な足を翻し、凛はドアを「バタン」と音が鳴るほど乱暴に閉めた。俺は、大きく息を吐いてベッドに寝転がった。食欲もあったが、何よりもまず寝たかった。睡魔はすぐに俺に襲い掛かり、凛とのやり取りを思い返す間もなく、深い眠りに落ちた。

 三十分か一時間か、とにかくその程度眠った後、俺は空腹を満たすために一階に下りた。ダイニングやリビングに繋がるドアを開けると、ソファに母さんと凛が並んで座って、例のアイドルが出演しているドラマを見ていた。俺が来たことを気配で感じたのか、母さんは振り向かずに言った。
「鍋にカレー入ってるから、温めて食べてね。それと、冷蔵庫にサラダがあるから」
「ああ」
 俺はまだ少し重い頭を軽くかきながら、コンロの火を点け、冷蔵庫を開けてサラダを取り出した。レタスときゅうりとトマトという、シンプルなものだった。それと一緒にマヨネーズも取り出し、カレーを温めながらぼんやりとそれを口に運んだ。帰ってきてそのまま寝てしまい、乾き切った喉にとって、野菜の水気が非常にありがたかった。テレビでは、主演のアイドルが、恋人の女性を雨の中追いかけているという、至極ベタな展開を映していた。
 温まったカレーを器に入れ、ゆっくりと机へと運んだ。スプーンを取り出し、二口ほど食べたところで、再び母さんが口を開いた。
「そういえばねえ」
「ん?」
 俺と凛の声が重なる。どちらに向かって話しているのかよくわからなかったが、続く言葉を聞いて両方に向けてだとわかった。
「由希ちゃん。帰って来たわよ」
 由希。森沢由希«もりさわ ゆき»
 そのキーワードを聞いて、小さな池に小石を投げ入れたかの様に、俺の記憶が波打った。
 由希は、一言で言えば俺の幼馴染だ。俺と同学年で、幼稚園の頃からずっと一緒だった。でも、中学三年生の夏。父親の仕事の都合だとかで、海外に引っ越したのだ。それは二年間という期限付きだったけど、俺にとっても凛にとっても大切な友達だった由希が引っ越してしまったことは、少なからずショックだったのを覚えている。
「ホント!? やったー! よかったね、お兄ちゃん。由希ちゃん帰ってくるって」
 どうやらさっきの会話は忘れたらしく、コマーシャル中のテレビから目を離し、凛は俺の方を向いてそう言った。凛は、小さい頃から一緒だった由希を姉の様に慕っているから、手放しで喜べるのだろう。
 由希が帰ってくる。
 嬉しいのか後ろめたいのか。はたまた全く違う感情なのか、俺は全く理解できないままカレーを頬張り、曖昧に笑って頷くだけだった。  



 2. 亀裂 


 桃の匂いがした。
 それはほんの一瞬のことで、まるで散りかけている桜の花びらの様に儚くて、僕は思わず振り向いた。次の授業は第二理科室でやると言われたので、僕のクラスの人がぞろぞろと連なって教室を出た。僕はコウタと隆志と、その集団の一番前を歩いていたのだが、つい一分程前に教室にノートを忘れたのに気付いて、慌てて戻ってきたのだ。休み時間は残り三分しかなく、小走りで教室の近くまで来たときに、五人の女子とすれ違った。そのときに、桃の香りがしたのだ。まだ熟していない、淡くて甘い香り。それに釣られて振り向いたのだけど、誰の香りなのかまではわからず、女子の集団はもう廊下を曲がっていた。僕はピッタリ二分その場に立ち尽くした後、少しいい気分のまま自分の机からノートを取り出し、軽い足取りで第二理科室に向かっていると、僕を天国から地獄に突き落とす音が学校中に響いたのだった。
「東城」
 こうして僕は今、化学の担当の小村に睨み付けられているのだ。僕は適当に相槌を打ちながら、そろそろ全ての毛根が死滅しそうな小村の頭を眺めていた。
「何してたんだ?」
 小村から解放され、グループで分かれた席に着いた途端、同じグループのコウタと隆志、それにテニス部の藤木修斗«ふじき しゅうと»まで顔を近づけてきた。さっきの出来事を話さない限り、今日一日この三人から解放されることはないだろう。そう悟った僕は、全面的に降伏することにした。
「ノートを取りに行ったんだよ」
「知ってる」
「さっき言ってたじゃん。それで?」
「まさか、俺たちの知らないところで彼女とイチャイチャしてた?」
 それぞれ三人が好き勝手言ってくる。隆志も修斗も、普段はごく普通の奴なのに、恋愛の話になるとやたらと首を突っ込んでくる。実に迷惑なことだ。
「女子とすれ違った」
 桃の香りのことを話すのは、何だかすごくもったいないことのような気がして、僕は大分話を省いた。
「嘘つけ」
 瞬時にそう言ったのは、コウタだった。隆志と修斗もそれに続く。
「そうそう。女子とすれ違っただけで、授業に遅れるかよ。教室からここまで、急げば一分だろ。お前が教室に着いたとき、まだ三分ぐらいはあったはずだ」
 さすがクラストップの秀才、隆志。鋭いところを突いてくるな。
「お前が、何でもないただの女子に見惚れることはないもんな」
「修斗。君のだけ、微妙に僕を小馬鹿にしてる気がするんだけど」
「んー? 気のせい」
 そう言って修斗はニキビだらけの顔をぽりぽりとかいて、二カッと笑った。どうでもいいことだけど、修斗ほど笑うときに「ニカッ」という言葉が似合う奴はいないだろう。それこそ、文字通り太陽みたいに笑う奴だ。
「焦らさねーで、早く言えよ」
「わかったわかった」
 更に近づいてくる三人を手で押さえながら、僕は慌ててそう言った。誤魔化すこともできないらしい。
「桃の香りがしたんだ」
 一度深呼吸してから、僕はそう言った。三人はそれぞれ首を傾げた。
「桃?」
「女子とすれ違ったときにね」
「誰だよ?」
「女子にあんまり興味がない義樹をボーっとさせるほどの兵«つわもの»か」
「わかんない。顔は見てなかったし、五人ぐらいのグループだったから。でも、このクラスの誰かだよ」
 修斗は教室をキョロキョロ見回して、その人物を特定しようとしていた。隆志は「ふーん」とだけ言って、乗り出していた体を元の場所に戻した。一方、さっきからずっと黙っていたコウタが、ボソリと呟いた。
「西野だな」
「え?」
 僕と修斗と隆志、三人の声が重なった。コウタが言う西野とは、西野沙織«にしの さおり»のことだろう。一年生の中でトップを争うほど可愛い女子だ。波打つ艶やかな黒髪、パッチリした目と丸みを帯びて柔らかそうな唇が魅力的だ。高校生活がスタートして僅か三ヶ月ちょいで、既に五人ぐらいの男子から告白されたという噂もある。
 コウタに言われて、僕たちの視線は自然と理科室の前の方へと移った。西野さんは、理科室の一番前の、右端に座っていた。僕たちは一番左の、前から二番目の机を囲むようにして座っているので、西野さんの顔がよく見えた。西野さんは、真剣な表情をして黒板に書かれた化学式を、ノートに書き写していた。
「可愛いな」
「うん、可愛い」
「ああ、マジ可愛い」
 隆志の一言に続いて、僕と修斗が感想を漏らす。コウタは何も言わなかったが、黙って何度も頷いていた。
「まあ、諦めろ」
 コウタが僕の肩にポンと手を置く。隆志と修斗は、そんなことお構いなしに西野さんに見惚れていた。
「え?」
「西野に惚れても、ライバルが多過ぎる。地味なお前じゃ、無理だよ」
 うっ。悔しいが、それは事実だ。クラスの女子の中での僕の評価は“いい人”だ。まさに地味な男子に付けられる評価だろう。
 いや、待て。いつの間に僕が西野さんに一目惚れしたことになっているんだろう。もちろん、西野さんは可愛いし、彼女にしたいとも思うけど、この三人にそう思われると後々やっかいなことになりそうだから、ここはちゃんと話をつけないと。
 そう思い、僕は慌てて否定した。
「ちょっと待てよ。いつ僕が西野さんのこと好きだなんて言ったんだよ」
 コウタは「へ?」といった表情をして、ジッと僕の顔を見つめた。隆志と修斗はまだ西野さんから目を離さない。三人ともいい加減にしろよ。
「馬鹿だなぁ。見惚れて、数分間ボーっとするようなことになったら、それはもう好きになっちゃったんだよ」
「見惚れてない。いい香りがしただけだ」
「そっちの方が重症だろ。好きな人の匂いで、数分間夢心地になれるんだから。いやー、まさか義樹が匂いフェチだったとは」
 大袈裟に手を振って、コウタは僕に背を向け黒板の方を向いた。そんなコウタを見て、僕の頭にふと疑問が浮かぶ。
「コウタ」
「ん?」
「お前、どうして桃の香りだけで、西野さんだってわかったんだ?」
 いつの間にかこちら側に帰って来ていた隆志と修斗も、顔を見合わせて「そういえばそうだな」と頷き合っていた。
「へ?」
 顔をこちらに向けずに、コウタはとぼけた声を上げた。
「ふざけるなよ。匂いフェチはコウタじゃないか」
「女子全員の匂いがわかんのかよ!?」
「どんだけ変態なんだよ、お前は!」
「お前ら!!」
 いつの間にか話し声は大きくなっていたらしく、小声で笑いながら騒いでいるつもりだった僕らに、小村の怒鳴り声が飛んで来た。僕らは揃ってビクンと跳ねた後、五分ほど小村の説教を受けた。特に僕は授業にも遅れているので、他の三人よりも厳しかった。何とか説教をやり過ごし、一息ついた後僕らがふと見たのは、やっぱり西野さんだった。西野さんは僕らに気付き、小刻みに肩を震わせて笑った。僕らはそれを見て、四人同時に呟いた。
「やっべー。超可愛い」


 輝は、そこにいた。まるで、何年もの間、誰かの帰りを待っているかのように。
 久し振りに憂鬱な気分だ。高校生になってから部活もいい感じだし、彼女もできて、いわゆる高校生の青春をかなりエンジョイしていたと思う。悩みと言ったって、せいぜいテストの点が悪かっただの、少し友達とケンカしただの、それぐらいだった。もちろん、輝とも少しぐらいケンカしたことはあったけど、昨日ほど気まずい感じになったのは初めてのことだった。
 そんな訳で、俺は朝のホームルームが始まる十分ほど前の今、鞄を肩に引っ掛けたまま、廊下に突っ立っているのだ。話を聞きつけたクラスの男子が、何度か俺をからかいに来たが、全員適当にあしらっておいた。
「朝倉君」
 不意に名前を呼ばれて、廊下の傷をずっと見ていた顔を上げた。俺の前に立っていたのは、少しぽっちゃりとしたクラスの女子だった。
「輝、待ってるよ。早く仲直りしたら?」
 確か、この人も美術部だったはずだ。きっと、俺と輝の状況を見て我慢できなかったのだろう。すごく優しい人なのだ。
「うん、わかってる」
「こういうのは、早い方がいいよ。遅れれば遅れるほど、言い出しにくくなるから」
 言い方が変にリアルなのは、まさか経験済みだからだろうか。
 そんなことを思いながら、俺は素直に頷いた。
「サンキュー」
 そんな俺を見て安心したのか、フッと笑みを溢してその人は教室の中に入っていった。俺も意を決して、それに続いた。輝は、いつも通り、いつもの場所、いつもの席で静かに本を読んでいた。輝がいるのは当たり前のはずなのに、いつもと変わらない風景がそこにあることに、俺は思わず安堵した。
 俺が自分の席――つまりは輝の隣の席に近づくにつれ、クラスの視線が徐々に集まるのを肌で感じながら、俺は自分の席の椅子の後ろで足を止めた。輝は、俺の足元と読んでいる本との間を、何度も視線を行ったり来たりさせていた。大きく息を吸い込み、溜め込んだ空気を吐き出しながら、俺は頭を下げた。
「ごめん」
「ごめんね」
 あれ? 声が二重に聞こえた気がしたような……?
 クスクスと、小さな笑い声が聞こえて俺は床と平行になっていた頭を上げた。俺の目の前で、輝が笑っていた。
「へ?」
「どうして、颯太が私に謝るの?」
「どうしてって……」
 どうしてもこうしてもない。昨日は俺が勝手に怒って、輝を困らせたのだ。なら、俺が謝るのが普通じゃないのか? それとも俺の知らぬ間に、悪くない方が悪い方に謝るのがブームになっているのか?
 段々と真っ白になっていく頭で、俺は必死に答えを探したが、何も見つからなかった。
「私、颯太のこと何もわかってなかった。颯太がサッカーとか、その他のこととかについて、どう思ってるかなんて全然知らなかった。知らないくせに、好き勝手なこと言われたら、誰だって怒るよね。ごめん」
 そう言って、輝は深々と頭を下げた。
「あ、いや、別にそんな……」
 更に真っ白になっていく頭で必死に言葉を探しながら、俺はどうしていいかわからずに、ただ両手を細かく動かしているだけだった。
「と、とにかく頭は上げてくれ。そうじゃないと、どうしていいかわかんねえから」
 そう言う俺を見て、輝はまた笑った。今度は、申し訳なさそうな小さな笑いではなく、本当に心の底から笑っているようだった。それに釣られて、俺の口元が緩むのを感じた。それと同時に、周囲の観客から数々の叫び声が上がった。 
「仲直り、バンザーイ!」
「抱きしめろ!!」
「仲直りのキスしろよ! キス!!」
 男子は言いたいことを言い、女子は数人で固まってキャーキャー騒いでる。
「言いたい放題言いやがって、いい加減にしろよ、お前ら」
 俺は何だか恥ずかしくなって、輝から目を逸らして騒いでいた男子に飛び掛った。男子がおしくらまんじゅう状態になっている中、俺がふと輝に視線をやると、クラスの女子に囲まれて嬉しそうに笑っていた。俺はとりあえずホッとして、再びふざけたことを言った奴の頭を、片っ端から叩いていく作業に取り掛かった。担任が教室に入って来たのは、丁度俺が五人目の頭を叩いたところだった。

「それにしても酷いよな」
 自分の席に座り、俺はそうぼやいた。輝は少しだけ首を傾げて俺を見た。担任が今日の予定について何やらボソボソと話しているが、クラスの半分ぐらいはお喋りに夢中で聞いていないようだった。
「何が?」
「何がって、人が真剣に謝ってるのに、いきなり笑い出すことだよ」
「ごめんごめん。だって、滅多に見れない颯太の大真面目な顔を見て、何だかおかしくなっちゃったんだもん。それよりさ、どうして昨日怒ったの?」
「え?」
 少しそっぽを向いていた俺に、輝はそう尋ねた。
「どうして颯太が怒ったのか、ちゃんと知っておきたいの」
 俺の目を真っ直ぐに見ながら、輝はそう言った。俺はしばらく黙り込んだ後、自分でも確かめるように、ゆっくりと話し始めた。
「昨日、『どうせプロに行くんだから』みたいなこと言っただろ?」
「うん」
「俺、そういうのが嫌なんだよな。何て言うか、特別扱いみたいなやつ。結構前から『お前はプロになるんだから、サッカーだけやっていればいい。そうすれば、絶対成功する』みたいなことを言われ続けてきたんだ。もちろん、サッカーは大好きだし、プロになれるのも嬉しい。けど、もっと普通のこともやりたいんだよ。それこそ、勉強して、テストの点や成績で一喜一憂して、彼女とデートして、友達と部活帰りにメシ食ってダラダラ帰ったり、たまに学校サボってみたり、そういうこともしたいんだよ。なのに、『サッカーだけやればいい』なんて、面白くねえだろ。人生は一度だけだしさ、やりたいこと全部やりたいし」
 いつの間にか熱く語っている俺を、輝は一度も言葉を挟むことなくジッと見つめていた。その視線が無性に恥ずかしくなり、俺は慌てて前を向いて目を逸らした。
「何かの才能があるくせに、全部やりたいなんて贅沢かもしんないけどな」
「そうでもないんじゃない」
「え?」
 輝は一人で呟き、一人で納得して頷いていた。
「誰だって何かの才能は持ってると思うし、颯太の場合はそれが他の人より早く見つかっただけでしょ? だったら、やりたいことやってもいいんじゃない?」
 そう言われて、何だかすごく恥ずかしいような嬉しいような、今までに味わったことのない不思議な気分になった。
「そう……かもな」
「うん。それに、今の颯太、何かカッコよかった」
 そう言って輝は笑った。
「でも、俺たち朝っぱらから熱く話し過ぎじゃね? 傍から見ると、何だこいつらって思われるよ」
「確かに。それは私もそう思った」
 そう言って、輝は再び笑った。俺は大きく息を吐いて、黒板の前に立っている担任の話に耳を傾けた。
「もう知っている奴もいるかもしれないが、今日は転校生を紹介する」
 転校生? 俺と輝は、同時に首を捻って担任に顔を向けた。ひょろりと細長い担任が、教室の出入り口に顔を向けて何か合図をした。教室がざわめく。俺も思わず唾液を飲み込んで、誰かが入って来るのを待った。入って来たのは、女子生徒だった。
「アメリカから来た、森沢由希さんだ。それじゃあ、自己紹介を」
 艶やかなツヤのある長い黒髪を軽く揺らしながら、転校生は頷いた。そして、決して鋭い訳ではないが凛とした強かさを感じさせる目を上げた。少しだけ薄い唇が開いて、そこから発した声は心地よいアルトの声だった。
「森沢……由希です。趣味は……サッカー観戦です。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる森沢さんに、クラスの連中――特に男子から、大きな拍手が浴びせられた。
 趣味は、サッカー観戦。珍しい女子もいたもんだな。そう思いながら、小刻みに何度も頭を下げる森沢さんを見た。性格はどうか知らないが、見た目は俗に言う大和撫子というやつだろう。美しさと、凛とした芯の強さを兼ね備えていそうな感じだ。
「アメリカだって。帰国子女?」
「さあ。帰国子女って、何年か海外にいないと駄目なんだろ?」
 輝の質問にそう答えながら、俺は森沢さんが帰国子女かどうかなんてどうでもよくなっていた。気になるのは一つ。もちろん、森沢さんの趣味のみ。
「席はあそこだ。真ん中の列の後ろから四番目。二宮の後ろだ」
 森沢さんはコクンと頷くと、新品の教科書がパンパンに詰まった鞄を引きずる様に持ちながら、輝の後ろ、俺の右斜め後ろの席に着いた。すかさず、輝が振り向いて声を掛けた。
「私、二宮輝。輝って呼んでいいからね。ねえ、森沢さんって帰国子女? 英語喋れるの?」
 そういえば、以前輝が将来は通訳になりたいと話していたことがあった。その夢のためなのか、単なる好奇心からなのかはわからないが、とにかく輝は驚いた表情のまま立ち尽くしている森沢さんに、早口でそう捲くし立てた。俺はアタフタと手を動かしながら目を泳がす森沢さんのために、助け舟を出すことに決めた。
「おい、そんないきなり聞くなよ。まずは、お互い自己紹介するのが普通だろ。少し落ち着け」
 輝は我に返り、森沢さんに短く謝った。森沢さんは笑って頷くと、小さな声で話し始めた。
「えっと……私も由希って呼んでいいから。それと……英語は、ある程度なら話せて……それから……」
 森沢さんは俺に何かを求める様に、何度か俺の方を見た。それで、俺はまだ自分の自己紹介をしていないことに気付いて、慌てて傾いていた姿勢を正した。
「えーっと、まず俺は森沢さんって呼ばせてもらうよ。そっちの方がしっくりくるから。それで、俺の名前は朝倉颯太。一応、輝の彼氏で、サッカー部の副部長」
 一通り思い浮かぶ自分の情報を言い終え、俺は森沢さんと握手をした。そのとき、少しだけ耳を赤くするのを見て、どうやらこの人は見た目だけ大和撫子で、中身は結構シャイなのだとわかった。
 輝の質問に答えている森沢さんを見て、俺はさっきまでの疑問を思い出して、尋ねてみることにした。
「あのさぁ」
「はい?」
「森沢さん、さっき言ってたでしょ? 趣味は、サッカー観戦って。興味あるの?」
 女子でサッカーに興味がある人は、なかなかいない。いても、せいぜい日本代表のスタメンの名前を知っているぐらいで、海外のリーグのチームや選手の名前をたくさん知っている女子高生は、少なくともこのクラスにはいないだろう。
「うん。幼馴染って言うのかな……? 小さい頃の友達がサッカー大好きで、私もそれに影響されて……あっ、でも私運動神経は悪いから、見るだけなんだけどね。でもその人、中学のときにちょっと問題があって、もうサッカー止めちゃったかもしれない……」
「それって初恋の人?」
 心なしか、顔を輝かせながら輝が身を乗り出した。森沢さんは少しだけ顔を赤くしながら、笑って誤魔化した。俺も少し気になり、輝に続いて尋ねた。
「それって誰? もしマスコミに騒がれるぐらい上手い奴だったり強豪校にいる奴だったなら、もしかしたら知ってるかもしれない」
 森沢さんは少し躊躇った後、今までで一番小さな声で囁いた。
「朝倉も二宮も、一旦話を止めてこっちを見ろ。朝のホームルームがいつまで経っても終わらん」
 大きく息を吐きながら、担任が情けない声でそう言った。輝は森沢さんの返事が聞こえなかった様で、話を中断して前を向くことにしたようだ。一方俺は、呼吸するのを忘れたかの様に固まっていた。担任が何度か俺の名前を呼ぶのが遠くで聞こえた。輝が俺の腕を引っ張り、俺は少し傾いた姿勢のまま前を向いた。俺の頭の中で、森沢さんの小さかったはずの声が、周りのどんな音よりも大きく響く。
 今、何て言った?
 その答えに、妙に納得している俺がいた。その一方で、別の俺はそれを信じられないらしく、何度も何度も自分に問い直した。それでも、返ってくる答えは一つ。森沢さんの声が、再び大きく響く。
 ――櫻井、蓮。

2010-07-23 10:15:18公開 / 作者:ケイ
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■作者からのメッセージ
半年振りに戻って来たケイです。
今年は一年中忙しいので、あまり更新できないかもしれませんが、ゆっくりと見守って下さい。
今回は、少し苦手意識がある一人称の文で書いてみました。アドバイスなど、よろしくお願いします。


5/05 第一話 2/3まで 投稿
6/25 第一話 3/3まで 投稿
6/27 微修正
7/17 第二話 1/2まで 投稿
7/23 微修正
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは! 羽堕です♪
 朝倉と東城で視点が変わりながら進んでいくのは面白いなと思うのですが、一章ごとに変わるとかの方が分りやすく読みやすかなと私は思いました。
 サッカーを通じての、それぞれの悩みや想いなどが、これからどんどんと交錯していくのかなと期待しています!
であ続きを楽しみにしています♪
2010-05-07 15:38:04【☆☆☆☆☆】羽堕
羽堕様
うーむ。一章ずつですか。自分としては、ある程度頻繁に視点を変えながら進めていこうかと思っています。とりあえずは今のまま続け、あまりにも変わりすぎて駄目なようでしたら、修正していこうかなと思います。コメントありがとうございました。
2010-05-07 17:04:11【☆☆☆☆☆】ケイ
拝読しました。初めまして。水芭蕉猫と申します。にゃー。
えぇと、文章がとても読みやすくて、いっぺんに最後まで読めてしまいました。元々集中力は無いほうなのですが、これだけ引き込まれるというのは凄いなと思います。しかし、羽堕さんもおっしゃってますが、朝倉と東城の書き分けが若干不鮮明と言いますか、時々よくわからなくなります。もう少しそれぞれの人格に色がついていると解りやすいと思います。
サッカーのことは全くわかりませんが、それぞれがそれぞれに情熱を燃やしているのは青春っぽくて大変良いですね。それでは短いですが、これにて。
2010-07-24 22:18:37【☆☆☆☆☆】水芭蕉猫
水芭蕉猫様
文章が読みやすいとのお言葉、嬉しい限りです。
朝倉と東城は自分でも正直困っております。一人称が同じ「俺」のため、地の分で性格の違いを表現しなければならないのですが、なんせ筆者自身二人の性格を掴み切れていないという体たらくぶりですので(汗)
何かしらの対策を考えておりますので、そのときはよろしくお願いします。
コメントありがとうございました。
2010-07-26 22:08:29【☆☆☆☆☆】ケイ
計:0点
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