『グレイス・エト・マギカ』作者:葉羽音色 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
――生き方が分からない――人知れずそんな悩みを抱く少年、水辺乃 悠也は、ある日、魔法使いと出会った。
全角62619.5文字
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原稿用紙約156.55枚
彼女の指先は、まるで魔法だった。

 大胆に、かつ繊細に、右手の五指がそれこそ蛇のようにくねり蠢いて手の平の中にあるものを弄ぶ。口元をにやけさせ、彼女は陽気に鼻歌などを歌いながら、その手の平の中にある――小さな球体を、本当に楽しそうにいじくり回していた。
 小さな球体。手の平を滑るように走ったかと思うと、彼女は手の平を返し、それに必至に抵抗するように球体も手の甲へ移動する。それはまるで重力など無視したかのような、流麗な動きだった。手の平に球体があたかもくっついているかのように見せる、匠の業。魔力だ、と、素直にそう思った。細くしなやかな指の間をすり抜けていく球体には、恐らく目が離せなくなる魔法がかけられているに違いない。
 その魔法は恐らく、と言うか間違いなく、彼女自身にもかけられている。それは人の感性によるものだが、彼には、彼女がとてつもなく美しく映るのだ。腰かける椅子の背もたれを覆い隠してしまう程の黒髪に、普段は無愛想なのに趣味に没頭する時のみ見せる小さな笑顔や、滅多に聞くことのできない、超ご機嫌の時にだけ歌う自作らしい鼻歌も、何もかも、彼にとっては魅力的だった。

 だから、と言えば言い訳になるのかも知れない。

 だから彼は――水辺乃悠也は、気づかなかった。今まさに、彼の背後で教科書をバットに見たて、その頭をフルスイングでかっとばさんとする教師の姿に。
「なぁによそ見してんだこら水辺乃ーー!」
 すぱぁん! と風船が破裂する時に似た音をたてて、教師こと鏡矢三言、二十八歳独身渾身の一撃が、後頭部にヒットする。悠也は全く予想できなかったその一撃に、恐らく人生で二度発するかどうかと言う、えふっ、などと言った無様な呻き声とともに机につっ伏した。
「ってぇー……何すんだよ三言ちゃん」
「教師をちゃん付けで呼ばない! なんだお前、今どきバケツを持って廊下に立たされるベタな展開をお望みか」
「あー、すんません。集中します……」
よしっ、と呟いて、鏡矢が再び教壇へと戻る。殴られた後頭部を撫でながら悠也はまたちらりと彼女の方を伺った。手の平の中にある球体が、いつの間にか三つに増えている。決定的瞬間を、見逃した。それはもう、今日と言う一日を乗り越える為のモチベーションが下がり続けることを意味する。悠也は、仕方なく黒板へと目を移した。
 スローペースだった鼻歌が、アップテンポなものへとかわる。授業中だと言うのに、ひたすらボールを弄ることに没頭する彼女の名は、火神火燐。苗字名前の中に合わせて三つもの火の字を持つ彼女は、この美椿高等学院の中でも知る人ぞ知る、有名な奇術師なのだった――

一.正体

 別段、マジックなんてものに興味などなかった。テレビなどでやっているネタばらしなどを見て、適当に簡単そうなものを真似してやってみたことは何度かあったが、所詮はその程度だ。知恵を絞って、虚を衝いて、まさかと思ってしまうようなマジックを、自作で考えてしまう人々とは程遠い。
 大体テレビで取り上げられるような物凄いマジックを身近で経験するようなことはなかったし、これからも、きっとないだろうと思っていた。
 甚だ不思議だ。未来予知ができるわけでもないのに。なぜ、これからもないなんて思ってしまったのだろう。自作でマジックを考え、披露し、人々に不思議な世界を見せることを生業とする、奇術師。本当に何もないところから、金を生み出せるわけもない。一度飲み干し空になったペットボトルに、再び水を呼び戻すなど、どう考えてもファンタジーの領域だ。
 相手を欺いてでも、その不思議な世界を見せることに人生を見出した奇術師。そんなものになろうとしている奴が、なんとお隣の机に座る、通称無言の刃で通る火神火燐なのだった。
 三つの火の字を持つことでも珍しい火燐は、ある日突然教室でマジックを披露して、そうして、彼を虜にさせた。
授業中でも、そうでもない時も、ちらちらと火燐を伺う悠也の姿はさながらプチストーカーだったが、彼が望むのは彼女の心ではない。時折ふいに見せる、奇術師としての片鱗なのだ。
 暇な時間を埋める際のボールを使ったマジックや、テスト用紙を破いて元に戻してしまう、などと言ったすご技を、悠也は何度も目にしている。そう言ったものを見たくて視線を寄せている内に、悠也はもう、火燐から目を離せなくなってしまったのだった。
 昼休み。いつも昼食を共にとる友人たちの会話から一人抜け、じっと火燐を見つめる。彼女は見られていることに気付いているのかいないのか、手元から視線を微動だにさせない。この日は珍しく、手の中にはトランプが収まっていた。
 滑らかな手つきでそれをシャッフルし、何やら広げたり裏返したりと、眉を寄せ唸りつつトランプを弄っている。きっとこちらの視線などには、全く気がついていないのだろう。
 悠也は微笑むと箸を止め、その姿にじぃっと見入った。どうやら、上手い具合にいかないらしい。今までトランプを持っていたところを見たことはなかったので、多分新作でも考えているに違いない。
「なぁ水辺乃。お前、火神のこと好きなのか」
「ぶふっ」
たった今口に含んだコーヒー牛乳が気管に入り込み、思わずむせ返る。品の字になるように並べられた机の位置をずらす程の勢いで彼は振り返り、そして叫んだ。
「ふふふふ、ふざけんな、何で俺があいつのこと……!」
「動揺しまくり。ばればれだよ、お前」
「ちっ、違うぞ! 俺はだな、あいつの手品が好きで!」
「手品?」
 しまった、と悠也は口を紡ぐ。思わず大声で手品、などと叫んでしまったことを悔やみつつ、ゆっくりと振り返り火燐の様子を伺う。だが、どうやらやはり彼女はマジックに没頭中で、こんな騒ぎなど耳にも入っていないようだった。
 その様子を見てほっと胸を撫で下ろすと、再び悠也は友人たちを睨みつける。
「甘星。よく聞け。俺は彼女が好きなんじゃない。彼女がやる手品が好きなんだ」
 甘星と呼ばれた眼鏡をかけた知的そうな少年が、ふーんと興味なさげに呟く。続けて、
「宮藤。あいつの手品を見たことあるか? すげーんだぞ。もう……すげーんだぞ」
「どうすげーんだよ」
 つんつんに尖った金髪が印象的な、今どきの少年である宮藤にも、それは誤解だと悠也は言い聞かせた。しかし二人はそれをどうやらただの言い訳ととったのか、顔を伏せ、小声で呟く。
「止めとけよ悠也。知ってるか、あいつが何で無言の刃なんて呼ばれてるのか」
 そう言われて、悠也は考え込んだ。確かに、表情は堅い。あまり話さないし、目つきも悪いぶん無言の刃なんて失礼なあだ名をつけられるのも、納得はいかないが頷ける。
 だが、だからこそ彼は時折見せる笑顔の素晴らしさを説こうと口を開きかけたが、
「あいつにな、告白した奴がいるんだけどさ」
 甘星が、覆いかぶさるように、台詞を遮る。
「告白した相手に無言で貫き通して相手を自爆させると言う……なんとも酷い必殺技をお持ちだ。悠也。お前ならもっと上の女狙えるよ」
「上の女ってなんだよ。同じ人間に上も下もねーだろ」
「おーかっこいいー」
 冷やかしに舌打ちを返し、悠也は食事を再開する。好きな女性などできたこともない悠也は、この手の冷やかしが苦手だった。とにかく素早く食事を終えてこの空気から脱する為に、味わうこともせず悠也はとにかく口内に弁当の中身を詰め込んでゆく。そうして最後の一口を詰め込んで、がたんっ! と椅子を揺らしつつ彼は立ち上がった。
「どこ行くんだよ?」
「トイレだ」
 堂々と言い返し、教室を出る。なんてことだ。いや、別になんと言うことはないのだが、なんと言うことだろう。これでは、水辺乃悠也は火神火燐を愛している説が飛び回ってしまう。あのお喋りたちにかかれば、およそその噂は三日でこの二年のクラス全域に浸透してしまうだろう。悠也ははぁ、と溜め息をついて壁に寄り掛かった。
 好きだのなんだのと、そう言った日常も悪くない。だが、やはりどこか、何かが欠落しているような感覚が、どうしても拭えない。

 彼女――火燐のように、本当に心から笑うには、どうすればいいのだろうか。

「俺も本気で……何かやってみよっかな」
 大概が三日坊主で終わる思いつきで始まる趣味は、もう両手の指だけでは数えきれない。どれもこれも、中途半端で終わってきた悠也には、きっと本気でマジックに没頭しているであろう火燐が、とても羨ましく見えるのだ。
「…………声、かけてみよっかな」
 そう呟いて、再び教室に戻ろうと。
 角を、曲がった瞬間。
「うわ」
 火神火燐が、彼を見上げていた。
「…………」
 それはまさに、無言の刃だった。その目つきは低い身長をカバーしてありあまる程の強気に満ちていて、たぶん、ハエとか蚊なら落ちるくらいの鋭い眼光だ。持たない。こう言う不自然な間を嫌う悠也は、冷や汗をかきながら、とりあえず――
「あっ、ごっ……ごめん」
 謝っていた。意味などないが、なんとなく謝罪しなければいけない気分になってしまったのだ。すると、火燐の小さな唇が僅かに開き、すぅ、と息を吸う。
「――私のマジック、どうだった」
 よく小説などで、鈴の音のような声色、と言う表現を目にする悠也は、それが本当にあるんだと言うことを、思い知った。小さくても、確かに耳に通る綺麗な声。悠也は思わずごくりと喉を鳴らして、
「いや、うん、素晴らしいよ」
 うまく思考がまとまらず、適当、とも取れる答えを返してしまう。すると火燐はそう、とだけ呟いて、彼の横をすり抜けるとそのまま何事もなかったかのようにその場を去った。
ぼーっと、彼女が歩いていった先を見つめる悠也。
「な、なんてこった」

「なんてこったーー!!」
 自宅のベッドで、取りあえず、と悠也は叫んだ。時刻は深夜二時。あれからのことをと言うと、もう頭が真っ白になって実際悠也はよく覚えていなかった。その後の授業も、友達と交わした会話も、もう何もかも真っ白になるくらいの、それは凄まじい衝撃だったのだ。
「なんて、こった」
 今日およそ十七回目になるであろう台詞を、またも謳いあげる悠也。ベッドの上で頭を抱え、枕で口を押さえ、幾度も叫ぶ。
「ふぁんふぇふぉっふぁーー!!!」
 これなら、誰にも迷惑をかけないだろう。たぶん。だが、本当に、今日はなんと言う日だろう。水辺乃悠也は火神火燐を愛してる説が流れてしまうきっかけと、あの火燐嬢とお友達になれるかも知れないきっかけと、あの会話を聞かれてしまっていたと言う事実が、三つも同時に押し寄せたのだ。これは尋常ではない。それまでの退屈な日常風景からは、全く予想もつかない急展開だ。
「明日から、どう生きよう、俺……」
 かなりの一大事だ。それはもう、明日から修学旅行です、と言う話を聞かされたぐらいに。それと同等の焦りを、悠也は感じていた。明日用意するべきものはなんだ? ハンカチか? ボールか? はたまたトランプか? 気がついたらいつも学校へ持っていっているリュックの中には小道具がこれでもかと言う程詰め込められていて、軽く某四次元袋な有様だった。
「そっ、そうだ。ライター。とっておきのライターのマジックを見せてやろう」
 思いたって、悠也はふと気づく。うちで煙草を吸う人間は、一人もいない。つまり、我が家にライターが置いてある確率は限りなく低いのだ。
「確かキッチンに……いや、あれじゃできないな……」
 部屋を見回し、そうして、よし、と呟く。買いにいこう。それしかない。探す時間など無駄なだけだ。どうせ約百円で買える代物を、汗水垂らして探す必要など、どこにもない。そう考えて、早速悠也は着替えにとりかかる。

 適当にズボンを履いて、適当に上着を羽織って、財布をポケットに突っ込み、転げ落ちる勢いで二階から一階までを疾走し、悠也は外へと飛び出した。目の前には土手があり、ガードレールの向こうには如月川と言う長い長い水の奔流が続いている。川が近いせいか、普段の刺すような夜の冷気が、幾分か強い気がするのは、気のせいだろうか。
 ぶるりと、一人でに体が震える。風邪など引いてしまっては、明日一日のプランに響いてしまう。悠也は、足早に近くのコンビニまで向かうことにした。コンビニまでの道のりを半ば程まで歩いたところで、ふと悠也は空を見上げる。そこは満天の星空で、こうして空だけを眺めていると、まるで宇宙空間に漂っているかのような感覚だった。
 かつて、彼がぶち当たった壁。どう生きればいいか、分からない。小学生ながら卒業の際将来の夢を語る場にてそんなことを言ってのけた少年の前には、今も尚、その壁は立ちはだかり続けている。いっそ、ゲームの世界に入り込めたら。漫画の世界に、入り込めたら。そんな現実逃避を続けて、もう一七年。
「なんか、楽しいことないかな……」
 探さなければ、それが見つからないと言うことを彼は知っている。
 だからこそ、もし一歩勇気を出して踏み出したところで、何も見つからなかった時の恐怖が、彼の足を竦ませる原因だった。
 考えるのは、後でいい。今は、流されるままの、毎日を――そう考えたところで、ふと、耳に何かが届いた。ばしゃばしゃと、水の音。
「……なんだ……?」
 星々から目をそらし、ガードレールに寄りかかりながら、川を眺める。暗くて、よく見えない。が、確かにばしゃばしゃと、水の中で何かが暴れるような音が、悠也の耳に届いていた。
「もっと先か……?」
 足早だった歩みは、ふと疾走にかわる。もしかしたら。面白い何かに、出会えるかも知れない。そんな一縷の希望に身を任せ、悠也はただ走った。その音の出所に向けて、ただただ、駆ける。
 そうして。
「嘘だろおい」
「たすっ、たすけっ……!!」
 子供が、何もない虚空を掴むかのような仕草を見せ、溺れていた。どくんっ、と心臓が一度高鳴り、急激に体が冷える。
「警察、いや、救急車っ……!?」
 今にも沈みそうな、恐らく少年。ポケットを漁ってみるが、どうやら携帯電話を部屋に置き忘れてしまったらしい。ちくしょう、と吐き捨て、悠也は暗闇の中目を凝らす。
 確かに、溺れている。この川は意外に深く、週末には軽く釣りなどに興じるお父様方の姿を見かけることも少なくない。今は流れが緩やかな方だが、じきに――
「くそっ、どうしたらっ……」
 パニックに陥り、思考が上手くまとまらない――考える前に動け――どうすれば――答えは出てる、飛び込め――駄目だ――届かない。意識が、想いが、行動に、結びつかない――
「あ……」
 少年の必至の叫び声も空しく。彼の手が、水面に消える。それと同時に、彼は見た。向かい側の土手から、誰かが跳躍し、水面へと一直線に突っ込む姿を。
「ば、か野郎!」
 あちら側には、大きな石が連なった箇所が多い。飛び込めばもちろん、自身の体に致命傷を負わせることとなる。照明も多く、それが理解できない人間などどこにもいないだろう。だと、言うのに。それは何の迷いもなく跳躍し、そうして水面ぎりぎりで――
「はああっ!」
 右手を突き立てた。
 瞬間。
 悠也は、人生で“二度目”の不思議を、目にする。
 キンッ、と言う高い金属音が鳴り響いて、それからはもう、まるで理解が追い付かなかった。ばきばきと何かがひび割れるような音をたてて、水面が凍り始めたのだ。形のない波が、氷となって姿を現す。全身を包む冷気が一層強くなり、これは現実だと言うサインが脳に刻み込まれる。

 巨大な川が、全て凍りついてしまうまでにかかった時間は、およそ数十秒の出来事だった。少年を助けるのが目的だったのだろう、その少年が溺れている箇所だけは丸く切り取られるように凍ってはおらず、そんな業をやってのけた何者かは、悠々と凍らせた水の上を歩き、切り取られた水面へと腕を突っ込む。すぐに、水の中へ消えた先ほどの少年が、姿を現した。
「……え、なんだよ、これ」
 隠れるようにぺたりと座り込み、向こうからは見えないように体を隠す。川を、凍らせた。こんなこと、どんな仕掛けがあったって出来やしない。
「魔法使い」
 ふと、よくゲームや漫画に現れるワードで、脳内が埋め尽くされる。
「……魔法使い」
 最早、人間の成せる所業などでは、ない。
「はは」
 乾いた笑みが、虚空へ消えた。
「嘘だろ」
 凄まじい冷気が、悠也の全身を斬りつける。そっと悠也は、ガードレールの隙間から目を覗かせた。ぼんやりと、何かが映る。長い、長い黒髪。小さな体躯。その圧倒的な存在感は、どこから放たれるものなのか。びりびりと肌を震わせる何かが、やがて集約し、そして。

「見たな」

 真っ白い瞳が、鋭い眼光が、あたかも弾丸のように、悠也を撃ち抜いた。
 それは、いつか、どこかで見た少女の目によく似てる。暗闇だと言うのに、真っ白に染まるその瞳だけはやけにはっきりと闇に浮かんでいた。かちん、とその何者かが足を鳴らし、こちらに向き直る。じょじょに、じょじょにそれは歩みを進め近づいてきて――
「……火神」
 この日、悠也は、魔法使いと出会った。

――

「魔法使い」
 およそ、何度目になるであろうか。悠也は自室で、ぼーっと天井を見上げながら何度もその言葉を口にしていた。無機質な、真っ白い瞳に睨みつけられ、猛獣に追われるが如く逃げ帰った悠也の頭は、恐怖の文字でぱんぱんに埋め尽くされていた。何を考えようとするよりも先に、人としての本能が、有り得ないモノを恐怖する心が優先され、その他の思考を排他する。
 忘れようとしても、忘れられない。今も尚、あの瞳に見られているような気がして、一瞬でも気を緩めれば、あの冷気の刃に斬り裂かれてしまう、そんな思いがいつまでたっても拭えないでいた。
 ベッドの中で、布団にくるまり、あの時の状況を頭に思い描く。確かに、少年が溺れていた。確かに少年は、水面の中に消えた。そして確かに、あれは川を凍らせて少年を救出したのだ。恐らく、これが夢だとするならば、それは少年が水面に消えた辺りからだろう。少年を救えなかった、いや、救えたのに行動を起こさなかった罪悪感が引き起こした、それはただの幻だ。
 自分にとって都合よく出来事を処理するならば、そう考えるのが妥当だろう。しかし、やはり、あれが夢だとはどうしても思えない。突き刺すような敵意に満ちた瞳――そう、あれは確実に、敵意を持っていた。あの瞳の奥に隠された、研ぎ澄まされた刃に似た敵意。川を凍らせるぐらいなのだから、きっとあの魔法使いはその気になれば人すらも――
「……やめよう」
 考えていても仕方がない。あれは、幻覚だ。ちらりと時計に目を向けると、もう針は三の字に差しかかっている。
「火神……お前じゃ、ないよな」
 もぞもぞと布団から抜け出し、先ほど鞄に詰めた小道具を、ぽいぽいと放り出す。明日の楽しみが、一息に奪われたような感覚だった。再びばふっと、倒れ込むようにベッドに寝転がる。
「火神……」
 明日にするべきことは、友人同士になる為の、歩みの一歩か? いや、違う。まずは、ことの真偽を確かめなければ。

 翌日。もう何と言うか、始め期待していたのとは別の意味で、どきどきの連続だった。と言うよりも、朝一番に遭遇した衝撃が強すぎて、変に身構えていたぶんあっさりとそれを崩された悠也は、まるでいつもと変わらない、気の抜けた一日を過ごそうとしていた。
 隣の席を、一瞥する。空席。火神火燐は、欠席だった。
 これは、一体何を意味するのだろう。そして、如月川の変化。昨夜はあれ程の冷気を放っていたと言うのに、今朝には、いつもと変わらない、もとの美しい如月川に戻っていた。あれは、本当に夢だったのだろうか。唯一の手がかりが欠席してしまった今日は、もうそれを確かめる術はない。
 昼食もとうに食べ終わり、何もすることがなかった悠也は、とりあえず隣で談笑する悪友の一人、宮藤に声をかけてみた。
「なぁ宮藤」
「ん。なんだ」
「火神のこと、知ってること全部教えてくれ」
 楽しげに会話していた宮藤と甘星の二人が同時に硬直し、そうしてにやりと不気味なまでに笑む。二人はいやらしい笑みを浮かべたまま、
「なんだ、ついに動くのか。悠也」
 ひそひそ話をするかのように、顔を寄せて、更には小声でそんなことを言う甘星。悠也は十分予測できたその反応に嫌気がさしたが、今は、この二人の情報に頼るしかない。
「動くってなんだ。少し気になったことがあっただけだよ」
「って言うかまぁ、火神のことなら俺らに聞くより、あいつらの方がいいんじゃね?」
「? あいつら?」
 それは、火燐の友人をさした言葉だろうか。しかし悠也は、あの火神火燐が誰かと仲睦まじく会話をしているところなど見たことがない。そんな悠也の反応を見て、甘星は宮藤のその言葉にこうつけ加えた。
「奇術部、って知ってるか。一応あるにはあるんだよ。非公式だけどな」
「奇術部……」
 初耳だ。この学校には部活動と言うものは総じて少なく、文科系の部など10を下回る程しかない筈だ。それに加え非公式ともなれば、耳に入らないのも頷ける。いや、それよりも、気になることは。
「あいつに仲間がいたのか……」
 失礼極まりないが、その事実は、とても意外だった。
「一応部に昇格する為の人数は揃ってるらしいんだが、何せ最終目標のない活動だからな、認められてないんだってよ」
 甘星がなぜそんなことを知っているかと言うのも甚だ謎だが、別段気にならなかった悠也はぐっと考え込み、そして、
「どこにあるんだ? それ」

 校舎を出て、迂回し、裏庭の方へ回る。この美椿学院は、無駄にやたらと広い敷地を誇っている。校舎の裏には小さな林が広がり、それを抜けた先にあるのは、まだまだ現役として活躍できそうな、旧校舎の姿だった。用途としては移動教室として使われるくらいで、悠也はそれ以外の目的で足を運んだことなど一度もない。
 話によれば、非公式の文科系の部活は総じてここでまとめられているそうだ。
「奇術部、か」
 昼休み、そこに部員たちが集まっているかどうかは定かではない。けれど、一刻も早くこの不安を取り除かなければ、悠也はもう気が気でなかった。もしかしたら、彼女にまつわる何かが見つかるかも知れない。
 そう思って、旧校舎内に一歩踏み出す。外観とは裏腹に、中では埃が舞い、独特のかびくさいにおいで満たされていた。しかし、不思議な嫌な感じはしない。真っ昼間だと言うのに人の気配はなく、どことなく、別次元の世界に入り込んだかのような感覚だった。
 階段を上がり、二階に到着する。長く続く、廊下の一番奥。言われた場所に、向かってみると。
「……あった」
 確かに、それはあった。元はただの教室だったのだろう、長方形の看板に書かれた二年六組の文字を横線二本で消し、その上に手書きで“きじゅつぶ”と書かれている。なぜひらがななのかが気になったが、そんなものにつっこんでいる程暇はなく、時間も限られている。
 戸に、手をかけて。
「あの」
 一気に開け放った。
「…………」
「…………」
 そうして、中には入らず、冷静に、かつ丁寧に、開けた扉を再び閉めて。
「なんだありゃあ!?」
 とりあえず、叫んだ。有り得ないものを、見た気がする。川が一瞬にして凍りついたあの時のショックに比べればまだマシだが、それでも、自分がどんどんとおかしな世界に入り込んでしまっているようで、妙な脱力感と同時に眩暈を覚えた悠也は、ぺたりとその場に座り込んだ。
 中で、少女が飛んでいた。何の比喩表現でもなく、そのまんまの意味で。飛んで、いた。
 ばんっ! と。
「うわっ!?」
 けたたましい音をたて、今度は教室の扉がひとりでに開く。その向こうに立っていたのは――いや、飛んでいたのは、やはり少女だった。
 火燐と同じか、いやそれ以上の長髪を翻し、やんわりとした目つきで悠也を見つめる女性。彼は、こう言った不自然な間がとても苦手だ。なので、とりあえず何か声をかけようと口を開こうとして、
「入部希望者?」
 先手を、取られる。こうなるともう、後は転げ落ちるようにあたふたと焦ってしまうのが悠也の悪い癖だった。言葉がうまく繋がらず、支離滅裂な内容ばかりが口をついて出て、そんな自分にまた焦って、抜け出せない無限ループに陥る。
「あっ、あの、いや俺は……」
「マジック、見せるのよ」
「は?」
「入部希望者なら、マジック見せるのよ。これ、テストなのよ」
 駄目だ、と悠也は頭を抱えた。もはや、事態に脳が追い付かない。ふわふわと重力に逆らって浮いているように見える少女は、さもそれが当然かのように、会話を続ける。
「……? 何しにきたのよ。入部希望者じゃないの?」
ふぅ、と深呼吸。まずは、落ち着いて冷静に話さなければ。落ち着いて、冷静に。
「あ、あの」
「?」
「……なんで、浮いてんの?」
 違うだろ! と悠也は心の中で自分につっこみを入れる。聞きたいことはそんなことじゃない。ここへ来たのは、火神火燐と言う女性についての情報を得る為だ。これ以上、不思議な世界に自ら飛び込むわけにはいかない。
 確かに、それを望んだことは何度もある。が、いざこうして目の前に“それ”が現れると、悠也はとてつもなく怖かったのだ。とりあえず立ち上がり、少しでも不安をなくそうと、少女と目線を同じくする。
「何で浮いてるのって、そう言うものなのよ。これは、そう言うものなのよ」
言うたびに、ふわりと大きく浮き上がったかと思うと、今度はがくりと急降下する。天井から吊るされてるのかと思ったが、それ以上に吊るされている以上左右の動きを見せることはできても、上下運動はまず不可能だ。
 確か、こうして不自然な態勢を維持するマジックには、強力な磁石が使用されていると聞いたことがある。しかし少女の足を見てみると普通の上履きだし普通の黒いニーソックスだったりと、足に何かを仕込んでいるようには見えない。
 どう見ても、完全に浮遊している。この世界の物理法則を無視した能力を、きっと彼女は発動しているに違いない。
「とりあえず、何で浮いているかについては俺は何も聞かない」
「当たり前なのよ。聞いたところで、教えてあげない。マジシャンは、人の夢を引き裂いたりしないのよ。私は、魔法使いなのよ」
 今さらだがとても独特な口調だ。にしても、もうこんな台詞を言われるとどこからが嘘でどこからかが本当なのか、全く見当がつかない。本当にしかけがあって魔法使いを名乗っているのか、はたまた本当にそう言う力を持つ魔法使いなのか。
「とりあえず、俺が聞きたいことはただ一つだ」
「なによ」
「火神火燐は……なんなんだ?」
 ぴくりと、少女の瞳が動く。知っている。これは、当たりだ。そう思うと、悠也は更に追及した。
「火神は……魔法使いなのか?」
 自分で言っていて馬鹿らしいが、あんな体験をした以上、もうその存在を信じざるを得ない悠也は、勇気を振り絞り聞いてみる。これから先それをネタにどれ程馬鹿にされようと、この不安が消えてくれるなら、構わなかった。
「……そうなのよ。人に夢を与える魔法使いなのよ」
「違う。俺が言いたいのはそう言うことじゃない。火神は、普通の人間なのかってことだよ」
 今度は、少女の瞳がきっと細くなった。びくりと身をすくませると、彼女はすとんと地に降り立ち、
「あの子が人間に見えない? 何が言いたいのか、さっぱり分かんないのよ。何がどうして、あの子をそう言う目で見るのかは知らないけど。話はそれだけ?」
 もうこれ以上は何も聞くなと、怒りに燃えた瞳がそう語っていた。外側にくるまった長髪を翻し、悠也の無言をこの会話の終了と受け取ったのか、少女が扉を閉める。確かに火神火燐は、ここへ出入りしているようだ。その情報は悠也にとってプラスだが、それ以上にここへ訪れにくくなってしまったのが、とてもマイナスと言える。
 時計を見ると、昼休み終了も間近だ。もうここにいても得られる情報はなさそうだと判断し、やがてのろのろと悠也は旧校舎を後にする。しかし。もう昼休みも終わりだと言うのに、いつまであの少女はあそこにいるつもりなのだろうか。そう言った話も含めて、また明日ここへ来ればいい。じょじょに、じょじょに固まった不安が、解けだしていくのを悠也は感じていた。

 放課後。自宅までの道のり、如月川に面する土手をのろのろと歩いていた際。
 悠也は、この日一番のショッキングな事態を目の当たりにした。
「……火神!?」
 如月川の河川敷に、火神火燐と思わしき人物が、青いシートをひいてそこで体育座りをしていた。彼女はぼーっとした目つきで、ひたすらに小石を掴むと川に投げ込む動作を繰り返している。何だか、ちょっぴり哀愁を感じさせる雰囲気だった。
「……」
 意を決し――悠也は、通り過ぎることを決意する。今日はもう色々と疲れたし、話はまた明日聞けばいい。不安はまだ完全に解消してはいないが、それ以上に。
 本当に、昨日のことを聞いてもいいのか? もしそれが、この不安を爆発的に増加させることに繋がったら? 今日一日の行動は、火燐が欠席したお陰で心に生まれた微かな余裕がもたらした勇気だとしたら。もし、今日、火燐が登校していた場合、同じことができただろうか。
 怖い。だが、気になるのも事実だ。しかし、やはり今日はやめておこう。そう考えて、ゆっくりと、じょじょに歩くスピードを早め、悠也はその時を待つ。その時が、過ぎるのを待つ。後少し。後、少しで――
「待て」
 びくりと、足が、止まった。
「水辺乃。話がある。降りてこい」
 動かない。足が、魔法をかけられたかのように止まって、動かない。
「……火神」
「降りてこい。水辺乃」
 何ということだろう。本当に背中に目がある人間が、こんな身近にいたなんて驚きだ。悠也ははぁ、と溜め息をついて、仕方なくガードレールを乗り越え、急斜面を飛び跳ねるように制覇し、河川敷に降り立つ。
「まぁ、座れ」
 紺色の肩にかけるタイプのバッグから、赤いシートが取り出され、彼女はそれを自分のシートと繋がるように設置する。と、更に今度はオレンジジュースを取り出して、差し出された。
「飲めるか? グレープもあるぞ」
「いえ、結構です……」
 いきなりの展開に悠也は焦っていたが、今日一日じゅうぶん焦ったせいか、それは微々たるもので、結果心には僅かな余裕が生まれる。とりあえずと彼はシートに腰を下ろし、ジュースを受け取った。
 口に含んでみると、少し生温い。辺りに転がる石はだいぶ取り除かれていて、それらは随分前から彼女がここにいたことを示している。
「……あの」
「昨日」
 火燐が、そう口を開いた。さぁーっと血の気が引き、手が震え始める。悟られぬように、もう一杯ジュースを口に含んだ。
「私は、ある誰かに、とても大事な秘密を見られた」
「そ、そうか」
 意識すればする程に、声が震え、動揺が現れる。
「ショックだった。誰にも、見られたくなかった。けどまぁ、あれは私も悪い。少し、派手すぎたな」
「……な、何が? どう言うこと?」
 そう返すと、彼女は無言でじっと悠也の顔を見つめた。沈黙。心臓が今まで経験したことがないくらいにどくん、と一度高鳴って。息が、止まりそうになる。
「――あの時の私を見たな。水辺乃」
 そうして悠也は、気が遠くなった。間違いない。あの晩、ここにいた魔法使いは――確かに、火神火燐だったのだ。

――

「え、えーっと。あはは。それは一体、どう言う意味でしょう」
 震えまくりだった。それはもう、冬の夜空の下を、真っ裸で走る感覚に似ている。肌を突き抜けるような冷気はないが、体の芯から溢れる焦りと恐怖が、どれだけ歯を食いしばっても耐え難い程の、震えをもたらす。
 火燐は、ただ黙って彼を見つめていた。それこそ、正に無言の刃である。相手の自爆を誘う恐ろしい必殺技を、悠也はまたも身を持って知った。この間と、そして視線と、時々彼女が答えを催促するかのように川へ投げ込まれる石が、その全てが、嘘をつくなと告げているようだった。
「……はぁ。何なんだよお前は。なんなんだ」
 その石が、自分に向けて投げられる前に、悠也はため息を一つし、覚悟を決めた。
「あれは、なんだ。お前、魔法使いかよ」
「……そのことについてだ。どう思う」
「は?」
 彼女はそう言うと、手に持っていたグレープジュースのストローから中身を口に含み、横目で視線を寄こす。そして、とん、とグレープジュースのカップを雑草の茂る河川敷に置くと、
「飲め」
「…………いやいやいや、待て待て火神。状況がよく理解できん」
「いいから、飲めっ」
 などとのたまうのだった。話の内容が、まるで掴めない。先と後が、これ程までに繋がらないとは、突っ込む言葉も最早何一つ出てくることもなく、雑草の中に放置されたカップに目をやると、早く飲めと言わんばかりにストローがこちらへ鎌首をもたげていた。
 思春期の少年である悠也には、これは少々気恥ずかしい試練だった。
 乾く程の時間経過があるならばいい。だが、どうだ。今正に、火神火燐が口をつけた後ではないか。
 そんなもの、悠也からすれば自分のパソコンのお気に入り欄を見られてしまうのと同じくらい恥ずかしい。いや、それ以上か。
 とにもかくにも。今やるべきことは。
「なぁ火神。俺がこれを飲んだとして、何が変わる」
「お前の、私に対する想いがかわる」
 即答だった。無駄な会話をし続け、ストローを乾かせる作戦はどうやら失敗したらしい。
 しかも、またまた意味深な発言をする彼女は、どうやら悠也のことを本気で狂わせたいようだ。
 表では平常心を貫いてはいても、内心悠也は気が気でなかった。最早、一刻の猶予もままならない。このままでは、何かが破裂してしまいそうだ。
「……頂いても?」
「いいと、そう言ってるだろう」
 焦りと勢いにまかせ、グレープジュースを手に取り、そして一気に――
「…………え?」
 そうして、またも衝撃が悠也を襲った。なんと言うドッキリだろうか、中身が出てこなかった。熱も一息に冷まされ、がくりと心の中で肩を落とす。いや、何を期待していたわけでもないのだが、なんとなく落ち込んだ悠也は、
「からかうなよ。何がしたいんだ」
 少し、きつめにそう言ってみた。
「からかう? 何が。どうして私が、お前をからかう必要がある」
「いや、そう言われるとあれだが……」
 だが、おかしい。グレープジュースのカップはずっしりと重いのに、なぜ中身がストローを通らなかったのか。それだけで、悠也は中身がないと確信した。本当に、それだけで。
「とりあえず、開けてみろ」
 甘かった。失念してはならない。彼女は、魔法使いなのだ。
 カップを開けようとするが、なぜか、何かが引っ掛かったように微動だにしない。いや、ストローが完全に固定されているようで、それでカップも動かないのだろう。悠也は針から糸を抜くような感じでストローを残したままカップを取り除き、そして。
「……こりゃあ。一体どう言う……」
 中身が、まるまる全て、凍っていた。液体に浸ったストローまでもが、カップの内側を巻き込んで、全てが全て、凍りついている。指で突いてみたが、硬さ、冷たさを見ると、どうやら本物のようだ。試しに、思いきりカップを握り潰して、砕けた破片を、口に入れてみる。
「甘い……」
 本物の、グレープジュースだった。
「さて、何をどう説明すればいい」
「え?」
「え、って。お前はどうせこれをネタに私を脅すのだろう。金を寄こせだとか、あれ買ってこいだとか」
「いやいや。おれはそんなこと」
「逆らうことのできない私は、やがてお前に全てを掌握されていき、最後の最後には……私の心も体も奪おうとするんだな」
「いや、だから俺は」
「ああ、何と言うことだ。私は彼にそうあって欲しくはないのに、彼はそれを望み続ける……私は黙ってそれに従い、やがて彼の中に潜む本当の彼を愛してしまうのだな……歪んだ愛情に、狂った関係……なんて素敵な」
 ついにはなっ……と言葉を詰まらせ、目を白黒させる悠也。確かに、口調は硬い。気の強いところや、無言の刃なんてのも頷けてしまう程の、火神火燐を目撃した。しかし。
 「だが! 私はその程度で挫けるような女ではない。きっとお前を更生させてみよう。そうして、いつしか二人でこう言うんだ……あの時の私たち、異常だったね」
「それはお前だけだ! なん、なんだお前! 思ってたのと全然ちげぇな! とんでもねぇ妄想系じゃねぇか!」
 頭の中は、どうやらかなりぶっ飛んでいるらしい。しかも厄介なことに、これは思ったことを臆面もなく口にするタイプだ。羞恥心などないに等しく、きっとこの妄想ストーリーで何人もの男を知らず知らずの内に勘違いさせたのだろう。
「なんて奴だ」
「お前こそ。妄想系とはひどい。せめて想像系と言ってほしい」
「想像系ならいいのか! 多少はなんかこう、そっちで言うと可愛らしい感じだけどな! あえて言おう。お前はひどい妄想系だ!」
「ちっ。夢のない奴め」
 ちゃんとした舌打ちではなくちっ、と発音した火燐は、はぁと溜め息をついて項垂れる。なんだか、どうやら呆れているらしい。なんか逆だ。そう思った悠也は再び口を開こうとして――夢のない奴、と言う単語に、忘れかけていた本当の話の筋を思い出した。
「じゃない、違う! お前はなんなんだ。ああ、いや、もうはっきり言おう! お前、魔法使いなんだな?」
「そうだ」
 そう言って、火燐はそっと雑草に人差し指を近づける。その瞬間に――本当に、一瞬で、雑草は凍りついてしまった。硬度を増し、尖った先端を輝かせるそれは、最早凶器のようにも見える。なんだか、とても不思議な気分だった。
 火神火燐は、本当に、とてもいい娘なんだろう。話をしていて、いつの間にか素を曝け出していたことに気付いた悠也は、心からそう思った。言葉に硬さや鋭さは見えても、邪気など一つも覗かない。あの夜、火燐に出会って悠也を貫いた敵意は、きっと仕方ないものだったのだろう。誰だって、秘密は見られたくないものである。
 だから、余計に不思議な気分だった。優しい人間が、一瞬にして凶器を作り上げる、その瞬間。自己中心的な人間が扱えば、それはきっと、恐ろしい力に成り得るだろう。
「気づいたら、こうなってた」
「……気づいたら?」
 手元の尖った草を、弄りながら火燐は言う。
「ある日、マジックの練習をしていた時だった。マジックに使っていた赤いボールが、日を増すごとに白くなっていった。それが、私が凍らせたのだと気づくのには時間がかかったが」
「……生まれつきじゃないのか」
「当たり前だ。私は普通の人間だぞ。叔母が魔法使いだとか、母が黒魔術師だとか、父が龍の血を引くとか、そんな逸話はない。不思議に思ってた。何で、白くなるんだろうって」
 今は、口を開いてもいいものか。いや、きっと、駄目だ。
「まだ小さかった私は、不思議に思っても、別に気にしたりしなかった。私だけの力だと思わなかったんだ。誰にでも、あると思った。だって、テレビで見るマジシャンは、みんな不思議なことをしてたから。私がものを凍らせるように、そいつらにも、何か一人一人特別な力があるんだと思ったから、私は何も気にしなかった。これは、私に宿った私だけの力なんだな、って。それだけだった」
 でも、と言葉を切り、火燐が顔をあげる。
「気づいたらもう、私は戻れなくなっていた」
 それは、後悔なのだろうか。ふわりと柔らかい風が彼女の長髪を巻き上げ、更に口から白い吐息が漏れる。
 柔らかい風はいつしか突風となり、長くたなびく黒髪は――すぐに、真っ白へと色をかえた。
 両の瞳が薄い紅色にかわり、ぱきぱきと、彼女の回りに生える雑草が一人でに凍り出す。
「本当に、これは私に宿った……私だけの、力だったんだ。誰も持ってない。私だけの、力だった」
 す、っと腕を差し伸ばすと、それに比例するように凍りつく範囲もかわる。彼女は自分の指先を、悲しげに見つめた。
「見ろ。私が手を差し伸べるだけで、命が尽きる。年々力が強くなってるんだ……あの時、要らないと望めば、この力はなくなったのかな」
 どう答えればいいのか、全く持って見当がつかなかった。彼女がこの力を望んだわけではないのなら、何を言っても、恐らく傷つける。昔から相手には嫌われたくないが為に一つ会話をするたびにも言葉を選んできた悠也には、ありありとそれが分かった。
 言葉は、慎重に選ばなくてはならない。それは、今後のお互いの為だった。
「……なんでそこまで、話してくれるんだ。確かに気にはなったが……」
 そう聞くと、彼女は目を閉じ、ふふっと微笑む。悠也も一つ瞬きをした瞬間に、いつの間にか彼女の白かった長髪や、赤く光った瞳も、元通りへと戻っていた。焦らず、悠也は言葉を待つ。
「お前に、決めてほしいから」
「決める? 何を」
「私を化け物だと恐怖するのか。それとも……マジシャンとして、私の力を、夢を与えるものだと見てくれるのか」
 悠也は、思わず目を見開いた。何ということだろう。とんでもない失態だ。気を使われていたのは、誰であろう、悠也の方だったのだ。
「お前の返答次第で、私はこれからお前への態度を改める。怖いと言うのならなるべく近寄らないようにする。お前の望むようにしよう。何でもする。だから、お願いだ。誰にも言わないでくれ。頼む」
 ぐい、と目の前にまで近寄られ、思わず悠也は赤面しつつ身を反らす。これは、一体どう言う言葉を言えば――慰めれば――いや、違う――なんと言えば、彼女は――
「う」
「う?」
「……う、うさぎみたいだね」
「…………はぁ?」
「ほ、ほら。髪、白かったし。目も、赤色だったじゃねぇか。だから、お前はうさぎだ」
 ああ、と嘆いて、悠也は心の中で頭を抱えた。このまま、奈落の底に落ちてしまいたい。いや、どうせなら火燐の手で、全身氷漬けにして欲しいくらいだった。相手に嫌われたくはないから、言葉を選ぶ。何を言っていいか分からず、焦り、そして飛び出た言葉が、うさぎ。そこにあるのは、沈黙。
 確実に、時間が止まっているような気がした。悠也は一心に死んでしまいたいと望んだが、どうやら。
「ふふ」
 彼女は、それを許さないらしい。
「あははははははは! なんだそれは! うさぎ? 私が? うさぎだって? ありえない。マジありえない……!」
 本気で、笑っている。涙などを流して、本気で。苦しいのだろう、お腹を抱えながら、それでも火燐は、笑い続けた。
「あは、はははははっ……私のこの力を知っているのはお前で七人目だが……そんなことを言われたのは……初めてだ」
 目を拭いながら、彼女は、悠也にとって思わず目を背けてしまいたくなるくらいの、眩しい笑顔を浮かべる。それは、普段彼女が趣味に没頭する際の、内なる笑顔などではなく、確かに、人へと向けているものだった。
 あの火神火燐の、火燐の笑顔が、自分に向いている。そう考えただけで悠也はもう頭がさーっと真っ白になって、そして。
「何、泣かしてんのよっ!」
 背後の気配に、見事に気がつかなかった。
 がつん、と脳が揺れる程の衝撃。
 衝撃に揺れた脳が安定するまで約三秒、そうして意味のない空白の時間が約三秒、はて、何がどうなったかと考え出して、ようやく。
「いってぇ!」
 悠也は声を上げ、首をねじ切る勢いで思いっきり振り返った。
「何、泣かしてるのよ。水辺乃」
「お前」
「あれ。ひ、飛鳥。なんでここに」
 そこにいたのは、かつて奇術部の拠点となる教室で出会った、あの飛空少女である。外側にくるんと跳ねるように丸まった長髪。大きな丸い目が、悠也をこれでもかと睨みつけていた。どうやら泣き笑いを、悠也が泣かしたと勘違いしているらしい。これはまずい展開だ。そう思った悠也は身振り手振りで説明しようとしたが、
「火燐。この男に何されたのよ。言いなさい」
「な、何にもない。何もされてない」
 彼女の興味は、悠也にはないらしい。飛鳥、と呼ばれた少女はさっさと悠也の隣を歩き去ると、しゃがみ込んで火燐の頭に手を当てた。
「大丈夫? 本当に大丈夫なの? 心配なのよ。ちゃんと、あったこと言うのよ」
 その光景を見て。悠也は、先ほどの言葉を思い出していた。自分を含めて、この力を知っている人間の数は、七人。つまり、彼女の理解者は悠也を除いた、六人。きっとあの少女が、その一人なのだ。
 そう思うと、急な脱力感が全身を襲った。あの笑顔は、確かに悠也に向けられていた。だが、それだけではない。きっと飛鳥も、あの笑顔を見たことだろう。なんとなく落ち込み肩を落としていると、再度飛鳥がきっと悠也を睨みつけた。
「あんた」
「はっ、はい」
 思わず、敬語で返す。
「これから私の家に、一緒に来るのよ」
「はぁっ!?」
「ちょっと飛鳥……」
「火燐は黙ってるのよ」
 飛鳥は立ち上がり、悠也の眼前にまで歩み寄ると、鋭い目つきで見降ろしながら、
「試験をするのよ」
 否定は許さない、とばかりに強い口調で言った。
「……試験?」
「そうなのよ。おかしいと思った。あなた、火燐のあの姿を見たのね?」
 やはり、知っている。こうなると、もう誤魔化しは通用しなさそうだ。悠也は、黙って頷いた。
「なら、試験なのよ。奇術部の入部試験」
 言われて、悠也はぽかんと口を開けた。てっきり、秘密を漏らさないようにする為そりゃあもう徹底的な洗脳などが行われると思っていたのだが。そうでは、ないらしい。また聞き間違いでもないだろう。彼女の声はそれ程大きくはないのに、やたらとよく通る。奇術部の、入部試験。確かに、彼女はそう言った。
「な、なんで俺が奇術部に……」
「決まりなのよ。ほら、さっさと立つ! いつまで座ってるのよ!」
「うわっ」
 飛鳥は思いきり悠也の手を引っ張り彼をむりやり立ち上がらせると、火燐についてきなさい、とこれまた否定は許さないとばかりにそう言って、ずんずんと歩き出した。どうでもいいが。
 恥ずかしいので、手くらいは離してくれないだろうか。

 飛鳥の家は、悠也の家からそれ程遠くないところにあった。時間で言うと、自転車で三分程度。気付かなかったが、どうやらご近所さんらしい。二階建てのよく見る普通の家で、飛鳥は自分のそんな家を見上げると、
「覚悟はいいのね」
「な、なんの……?」
 声を低くして、そう言った。あまりにも真剣な迫力であった為、若干気圧されながら、それでも喉からなんとか声を絞り出す。なぜだか火燐は、隣で申し訳なさそうに両手を組みながらしゅんとしていた。
「この世界に足を踏み入れたこと。偶然とはいえ、あなたは見てしまったのね。貴方も、火燐を救う為の、同盟に入るのね」
「……それが、奇術部の正体なのか」
 悠也のその問いに飛鳥は答えなかったが、恐らくそうだろう。つまり奇術部とは、彼女の力を軽く誤魔化す為の蓑に過ぎない。どれだけ不思議をやらかしたとしても、大がかりなマジックだと言えばすんでしまうのだから、成程、それはよく考えたものだと思う。ただ、気になるのは。
 彼女の、火燐のマジックは、自分の力を隠す為に育てあげられたものなのだろうか。きっと違うと、信じたい。小さな頃からボールをいじってマジックの練習をしていたと言う話なのだから、そんなことはない筈だ。
「行くのよ」
 言いつつ、飛鳥が先に玄関を潜る。
「……すまん、水辺乃」
 途中、火燐がそう言って頭を下げたが、なんだか、謝らなきゃいけないのはこっちのような気がして、悠也はああ、と気の抜けた返事を返すことしかできなかった。
 家の中に入ると、しん、と静かな音が耳をつく。どうやら父親はもちろん、母親も出払っているらしい。あまりじろじろと見るのは失礼だと思い、とりあえず悠也は玄関を潜った先、すぐにある階段に目をつけた。
「こっち」
 すたすたと、飛鳥が先を歩く。二階。左右に部屋は二つずつあるようで、飛鳥は、一番手前の右の部屋の前で立ち止まった。
「兄さん。ちょっと来て欲しいのよ。お客なのよ」
 扉をノックせず、声だけかける。すると中からあー……と気の抜けた返事が返ってきた。がさごそと何かを漁る音に、ばんっ、と扉を閉めるような音や、がちゃん、と言った何かを壊すような様々な音が部屋の中から響く。それから更に数秒して、飛鳥の兄らしき人物が、扉を開け顔を覗かせた。
「……あれぇ、火燐ちゃん。こんにちは。そちらは……?」
「あ、ども。水辺乃悠也です」
「――そう、か」
 彼はとても柔らかそうな線の細い前髪を指でどけると、ふむ、と頷く。それから、にっこりと笑顔を浮かべた。見た感じ、頭髪は茶髪に両耳に螺旋状のピアスをつけていたりとかなりの遊び人に見えるが、そうではない。
 柔らかい、暖かい、人を包み込むような笑顔で、悠也はなんだかこの人物の性格を一瞬で悟ったような気がした。
「とりあえず入ったら? 寒いでしょ」
「はい」
 言葉の一つ一つはとても丁寧で柔らかいのに、逆らえない、いや、自ら従ってしまう程の妙な安心感。初めて会ったとは思えぬ程の違和感のなさは、全て彼が放つ雰囲気で補われているようだった。長い前髪が視界を遮るたびに、彼はそれをちょいと指でどけつつ、
「で、まぁ大体は見当はつくか……飛鳥。この人は……?」
「そうなのよ。火燐の正体、見ちゃったのよ」
「そう、か」
 部屋の中は、とても簡素なものだった。大きなベッドが1つに、本棚と、後見えるものはロッカーと勉強机くらいと言った、本当にただ“生活”するだけの部屋のようだった。テレビもなく、机の上には分厚い本がいくつも広げられている。
「あの、刑介。こいつ、とってもいい奴だ。だから、あの。その……」
 ばっと、火燐がそんなことを言いつつ悠也の前に躍り出る。それは、かばうような、仕草にとれなくもなかった。
「――駄目だよ」
 びくりと、火燐の体が震える。そんな火燐を怪訝そうな目で悠也は見詰めていると、刑介と呼ばれた人物はかた、と音を鳴らし椅子に座る。彼は数秒の間無言で頭髪をいじっていたが、やがて。
「もう面倒だし単刀直入に言おうか。火燐ちゃんの力を、見たんだね?」
 薄い微笑を浮かべながら、言った。
「……はい」
 そして。
「じゃあ、決まりだ。君にも、魔法使いになってもらおう。はい決定。じゃ、飛鳥。後は頼んだよ。僕は眠いんだ」
 驚く暇すら、そこにはありはしなかった。彼はそんなとんでもないことを言ってのけ。そして、早くも寝息をたてるのだった。
「…………俺も? 魔法使い?」

二.空を飛ぶ方法

「ぜんっぜん! だめだめなのよっ!」
 鋭く滑らかな夜風が、頬を撫でる。視界いっぱいに映るのは、深い、深海のように暗く沈んだ黒い空。今日は、すこぶるいい天気である。雲1つなく、宝石のような星たちが瞬き、なんだかそれが、こうして大の字になり天を仰ぐ自分を励ましてくれているような気がした。
 星の海、と言うのは恐らくこう言った夜空をさすのだろう。体じゅうあちこちにできてしまった青あざや、擦り傷。それらの痛みが自然とどこかへ吹き飛んで、また、頑張ろうと言う気持ちが、それを見るだけで内から溢れ出してくるようだった。
 が、それ以前に。
「……なぜ俺は、こんなアホな目にあっているんだ」
 時刻は午前二時。場所は、家の前の川、如月川の河川敷だ。月は高く昇り、この街にある多くの命たちはすでに眠りについていることだろう。なんということだ。こっちは本当の意味で永久なる眠りについてしまいそうだと言うのに。
 こんな夜中だと言うのに全く帰る素振りを見せない飛鳥飛鳥と火神火燐は、色んな意味で、本当に、常識外れだった。
「ほら! ぼーっとする暇あったら、もう一回なのよ! 一分一秒、無駄にしたら許さないのよ!」
 ばさぁっ、と悠也の頭上にひらりとスカートをはためかせながら、飛鳥が現れる。中身を見られないようにスカートをしっかりと両手で抑え込んでいるのが非常に残念だ。
「……何か、やらしいこと考えたのよ」
 そんな悠也の思考を読んだのか、飛鳥がじと目で悠也を見下ろす。
「かっ、考えてねぇよ!」
「嘘、なの、よ!」
 そうして、飛鳥はまるで某バッタ仮面顔負けの蹴りを、頭上から物凄い勢いをつけつつ放った。慌てて身をよじり、彼女曰くお仕置きの飛鳥キックと言う名の殺人技を、間一髪でかわす。飛鳥のつま先は、見事に石が敷き詰められた大地に剣の如く真っ直ぐに突き刺さり、その威力を悠也は再び青ざめつつ痛感する。
「なんでよけるのよっ」
「生憎と何度も喰らわされてるもんでな! もうやられ役はごめんだっつーの!」
 ふんっ、と言いつつ飛鳥はまた夜空に飛び上がる。これが、彼女の――飛鳥飛鳥の、魔法らしい。飛空だ。文字通り、彼女は空を飛べる。それが一体どう言う原理なのかは分からないが、飛鳥曰く“そう言うもの”らしい。
 悠也にはそれは魔法と言うより超能力のようにも思えたが、本人が魔法だと言い張る以上、何の力も持っていない自分はそれを口にするべきではないのだろう。
 ちらりと視線を泳がすと、そこではまたあのシートを敷いて、ちょこんと座り込んでいる火燐の姿があった。
「……駄目ね。角度かしら。それとも……なぜだろう……」
 ぶつぶつと呟きつつ、目線は下方で固定、両腕のみが忙しなく、三つの色の違うボールを操り続けていた。もうなんだか目で追えないくらいに、それはとても複雑な動きであり、もう器用とか言う領域を超越しているようにも思える。
 ぎゃあぎゃあと甲高い声で喚く飛鳥をほったらかして、悠也はすっかりその技に見入っていた。
「……どうよ?」
「え?」
 火燐は視線を動かさず、やはり腕と指だけを動かしつつ、問う。
「どう。これ、シャッフルっていうの。ってか、やっぱりジャグリングって座ってやるのと立ってやるのじゃだいぶ感覚違うわね」
 とか、なんとか言われても、悠也にはそれがさっぱり分からない。目元はじぃっと手の平を見つめているようだが、口元は薄く笑んでいるところを見ると、やはり楽しいらしい。悠也にはどう見てもそれが超ハイレベルな一人キャッチボールにしか見えなかったが、そんなことを口にすればたちまち氷漬けのオチが見えているので、例え背後から何度も飛鳥キックを受けようとも、口にしたりはしない。
「……すげぇな。お前。かっこいいよ」
「え」
 と。火燐がこっちを向いて。手の平からすっぽ抜けたボールが、ぽんと火燐の頭の上に不時着した。
 そんな反応を返されると、こっちも困ってしまうではないか。
「あ、え? かっこいい? ほんと?」
「あ、ああ。本当だ。すげーかっこいいよ」
 どもりながらそう答えると、火燐はにふ、と奇妙な笑い方をして目線を元に戻し、頭の上のボールを手に取って再びシャッフルとやらを始めた。……気のせいか、先ほどよりも格段にボールを操るスピードが増している気がする。
「ラブコメるななのよ!」
「よく舌を噛まずに言えたな。褒めてやろう」
「うるさいのよ! あんまり調子に乗ってると、私の秘奥技であるどこでも簡単垂直落下式ノーロープバンジー喰らわせるわよ!」
「バンジーに垂直落下以外あるのか?」
「ええい、お望みなら横っ飛びでも上っ飛びでも体験させてやるのよ! ほら、練習練習! 次は――」
 はいはい、と呟いて、悠也は立ち上がる。正直、もう家に帰って死ぬように眠りたい。と言うか、もう死にたい。つまり、彼がなぜこんな時間、この場所にいるのかと言うと。それは、魔法習得の修行と称した、なんかもう飛鳥によりただのイジメだった。
 人差し指で大きな岩を全力で突き続け突き指をし、水中に顔を押し込められあわや失神しかけたり、ひたすら素手で川を泳ぐ魚を手掴みさせられたりと、最早意味不明ここに極まる事態である。
 練習練習、と急かされ始まった次のお題は――
「次は――そうなのね……正直、遊びは終わりなのね」
「遊びかよ! 俺の今までの苦労なんだったの!? 酷すぎるぞ!」
「ぎゃあぎゃあとうるさい男なのね。冗談、通じないのね?」
「冗談も何も! 満身創痍だっつーの! お前これだけ俺をぼろぼろにさせといて今さら冗談などと抜かすか! ふざけんなよ!」
 と、悠也がキレてしまうのももう無理はない。度重なる意味不明な特訓の数々、失敗した時にはお仕置きと称される殺人技をモロに喰らい、それでもこれは火燐の為と歯を食い縛って立ち上がった際に決めた覚悟や決意や、その他色んなものは一体何だったのか。
 が、やはり女性相手に本気で怒れない自分に何だか情けなくなりつつ、何か助け舟を出してくれないかとそっと火燐を見てみると。
「なんで、お前はそんなに頑張るんだ?」
 思いっきり、火燐はこっちを見ていた。しかもまた、答えにくい問いを放つ辺り、やはりどうも、火神火燐は何も分かっていない気がする。
 本当に、何もかも、ただの偶然。悠也は、火燐のことを、知っているつもりだった。ちょっとマジックを頑張る、無愛想だけど実は優しい、そんな女の子だろうと思っていた。しかし、それらはやはりただの思い込みと、意識などしてはいないが心の奥深くで少しでもそうあって欲しいと思う自らの期待と。
 何も知らず、その笑顔に惹かれていた。
 だが、どうだ? 火燐は、苦悩している。本当はマジックと言うものが大好きなのに、魔法使いなんてものになってしまった、その現実に。本人の口からはっきりそうだと聞いたことなどないが、そんなものは、顔を見ていればおのずと知れる。
 マジシャンを名乗る者が実は魔法使いだなんて、それは一体どんな感覚なのだろう。本当に大好きなものを、嫌々、自分から否定せざるを得ない状況――
「俺は、だな。火神」
「うん」
 何の為に頑張るか――知ってしまった以上。恐らく、もう退路などどこにもない。深く知らないのなら、これから知ればいいまでだ。簡単過ぎるだろうか。軽すぎるだろうか。憧れの人物とこんな形で親しくなってしまったことに若干悲しくなってしまうが、それ以上に今彼女を見捨ててしまえば、本当に、駄目な男になってしまう、そんな気がした。
「俺はお前を、護りたいんだ」
 言ってから。あれ、なんかおかしかったかなと首を捻る。マズい。言い方がいけなかっただろうか。火燐はまんまると目を見開き、飛鳥ははぁ、と溜め息などをついている。
 じゅうぶんにかっこいい一言だった筈だ。自分でも、それだけは譲れないと言える。大層な覚悟を決めたのだから、ここは茶化さないで欲しいものだ。そう思いつつ、二人の反応を待っていると――
 ばしんっ、と。背中を、叩かれた。
「おっ……」
 痛くはない。が、なぜだか重い一撃に、悠也は一歩前につんのめる。
「じゃあ、頑張ってさっさと私たちといていいくらいの力を身につけなさい。そんで、一緒に、火燐の傍にいてやるのよ」
 火燐の、傍に。その言葉は、とても重くて。本当に、これは色んな意味で現実なのだと痛感した。火燐の魔法と言うのはとてつもなく強力で、それは、火燐と言う人間さえも飲み込んでしまいかねない。奇術部は、確かに火燐と言う人間を守る為に作られたものなのだろう。そこに集まる者全てが、火燐の何かしらに魅せられ、彼女を護ると誓った者たち――
 だが、何かがおかしい、と感じるのは気のせいだろうか。
 何と問われれば、その答えには詰まるのだが、何かがおかしい――ふと、そんな気がして。
「そっか。お前もしかして……私のこと好きなのか?」
「……はい?」
 火燐の瞳が、なんだか夢色に輝いていることに気付いた。
「いやいや、隠すな。そうか。お前、私のことが好きなのか……そうか。それはお前、もう私は照れ照れだぞ。お前を護りたいだなんて。照れ照れ」
「てれれれってれー。火燐は、水辺乃のことが、好きになった、のよ」
「やかましいわ! いやいや違うんだ。違わないが違う。俺が護りたいのはなんつーか……お前の境遇って言うか。夢、と言うか……心……とか?」
 言いつつ、何だか恥ずかしくなってしまい照れ照れな状態になってしまう悠也。火燐も照れ照れ、と呟きつつ……多分、本当に少しばかりか動揺しているのだろう、きっとそれは無意識なのだろうが、スカートの中からしゅう、とヤバげな音をたてつつ真っ白な冷気を放出していた。
 なんだろう。空でも飛ぶつもりなのだろうか。
「そっか。そかそか。うん。うんうん。私は嬉しいぞ。お前が私のことを……好きだと言ってくれて」
「……? いやいやちょっと待て。いつ俺が好きと言った! よく思い返せ! 夢色に染めるな、俺はお前を護りたいと言ったんだ!」
「だから、私が好きだから、だろう?」
 駄目だ。想像以上と言うか、火燐の妄想癖はもはや異常の域に達している。これがネタなのだとしたら、まぁ少し笑える冗談で済ましてしまうのだろうが、悠也はそう言ったネタをふられ見事に返せる程器用な口を持ち合わせてなどいない。せいぜい笑ってごまかすのが関の山と言ったところだった。
 うう、と唸りつつどう言えばいいだろうか、と思案していると、ぽん、と背中を叩かれる。
「ほんとにあんた、頑張りなさいよ。火燐は、本当に信頼した人の前でしかあの夢モードにならないのよ。だから、死ぬ勢いで、頑張るのよ」
 そう言って、飛鳥がにっこり笑う。初めて、飛鳥の笑う顔を見た気がした悠也は。
「…………つーかお前、やっぱり変な喋り方してんなー」
 などと素でそう感想を漏らし。人気のない夜、魔法習得修行の一日目は、飛鳥の飛び蹴りと、火燐の夢モードで見事に潰され、じょじょに、じょじょに更けていった――

 翌日。当たり前だがものの見事に寝坊し、学校に遅刻したのはもはや言うまでもない。火燐の夢モードが落ち着いたのが午後三時半頃。それまでに、悠也は飛鳥の飛び蹴りを通算三四回もその身に受けており、もう心も体もボロボロの状態にあった。
 こんな状態で更に勉学にも励めなど到底無茶な話である。あの日、飛鳥家で決まった修行の主なスケジュールは、その大半がほぼ夜中に行われるもので全てであり、悠也の見解では、見た目的にはただの怪しい遊びである為、ご近所の少し痛い子として扱われるくらいなのなら別に夜中にやる必要はないように感じる。
 真っ昼間なら、きっと飛鳥飛鳥の奴もお得意の飛び蹴りは放つまい。
 だが、やはり一目につき、軽い騒ぎすらも面倒と言うことで修行は夜中に行うこととなったのだが。
「魔法ってなんだよ……そもそも修行して使えるようになんかなるのかよ……」
 一人机に突っ伏し、苦悶する悠也。そもそもそれがどう言った流れから生まれる力なのかが分からない以上、もうどうしようもない。
「魔法が、なんだって?」
 分からない、分からない、とがたがた体を揺すっていると、ぽん、と背中を叩かれる。悠也はちっとあからさまに舌打ちをすると起き上がって、現れた相手の目もみずこう告げた。
「甘星……うぜぇよ。てめェと話す暇ぁねぇんだ」
「酷いな。小学校時代からの友人に言う台詞か。それが」
 恥ずかしげもなくおどけた仕草と調子で返す甘星は、それでも気を悪くした様子はないらしく、悠也の隣の席の椅子へと腰掛ける。彼は終始にやにやとしたまま、苦悩に歪む悠也の表情を、どこか楽しんでいるようだった。
「だからうるせぇっての。お前と話してる暇は――」
「いいこと教えてやろうか」
 ああ、と悠也は思った。この何でも知ってるから聞いて下さい的な顔をする時の甘星は、とてつもないお節介モードに入っている時の顔なのだ。経験上、知っている。この手のタイプはスルーすればする程につけあがり、またつきまとう。彼はやれやれ、と十代には似合わぬ仕草で肩を落とすと、
「なんだよ」
「あのわけの分からん部に、入部したんだろう? お前は」
「……ああ、そうだよ。一応、な」
 とりあえず、そう付け加えておく。まだ部のメンバーの面々も三人しか知らない今、形式上入部したとあっても感覚的にはまだまだ足りていない。自分を除き、後六人――飛鳥、刑介を更に除くと、あそこにはまだ最低四人も魔法使いがいることになる。
 なんということだ。平凡な日常を嫌々ながら送っている裏で、そんな秘密組織で形成されていようとは。世の中本当に、色んな意味で分からないことだらけだ。
「じゃあ、これ」
 などと考えていると、甘星が制服の内ポケットから何かを取り出した。
「……」
 その“何か”を見て、思わず悠也は固まる。桃色の、封筒だ。ハート型のシールで封をしているそれからは、何やら甘い匂いが漂ってくる。あまりにも甘すぎて、また別の意味で、とても気持ち悪い。
「……なんだ。これは」
「なんだとはなんだ。これは封筒だ。中には手紙が入っている。内容は教えられん」
 いや、それは分かる。誰だって、分かる。ただ、どうだろう。それはさながら、教壇にて、教師が懐からエロ本を取り出した際の衝撃に似ている。
 つまり、まぁ、なんだか有り得ない。
「ラブ……?」
「ちがぁう! その名で呼ぶな! これはな……恋文だ」
「かわんねぇよ」
「俺は英語が嫌いなんだよ。日本人ならちゃんと日本語使え日本語」
 と、甘星のそんな日本語講座を聞いている暇などない悠也はちらりと教室の時計に目を向けた。もうすぐ、昼休みも終わりを迎える。授業中に魔法について頭を悩ませられる程悠也は学力に余裕がないので、これでまた、何の進展も得られず無駄に時間が過ぎてしまったと言うわけだ。
 これでは、火燐にあわせる顔がない――とか思いつつ火燐の方を見てみると、なんと奴は欠席しているのであった。あんな時間まで騒いでいたのだから、まぁ、仕方ないのかも知れない。
「……で? それを俺に見せて、お前はどうしたい」
「今しか、ないんだ」
「は?」
「知ってるか。三年生で、五限目だけをサボる奴がいるの」
 などと言われても、知っているわけがない。悠也は、無言で首を横に振った。すると甘星はだろうな、と言う顔をして、
「そいつのサボりポイントが、あの奇術部の部室なんだよ。お前がそこに入部したってんなら、もう面識もあるとは思うが……」
「……?」
 悠也は、素直に首を捻った。誰のことだろう。飛鳥のことだろうか。そんな悠也の表情を見て甘星は察したのか、ああ、と頷くと手紙をずいと突き出した。
「とにかく、そこにいる奴に、これを渡して欲しい」
「なんで俺がそんなこと……」
「奇術部の教室に出入りなんかできるか。たちまち変人の仲間入りだ。それにあいつは、本当にこの校舎にいんのか、ってくらい空気的な奴なんだよ。普段どこほっつき歩いてんのか。唯一確実なのは、この時間、あいつは必ず奇術部の教室にいるってことだけだ」
 変人、と呼ばれることには少々ムカついたが、ともあれ、これで授業をサボる理由ができたことには感謝しよう、と悠也はその封筒を受け取ると、立ち上がった。これで教師に何を言われようとも、甘星のせいにしてしまえばいい。
 奴もそんなことで怒るような人間ではないだろう。幼馴染故に、その性格は十分に熟知している。しかし、いいことと言うのは結局なんだったのだろう。
 奇術部のメンバー情報、なのだろうか。うまく乗せられたような気もするが、まぁいい。悠也は笑顔で手を振ってくる甘星を軽くスルーすると、足早に教室を出た。

 ここに来るのは、二度目である。悠也は相変わらずきじゅつぶとひらがなで書かれたふざけた看板を前にして、ぐっと拳を握り締めた。気合を、入れているのである。止まってしまった、両の足に、だ。手を伸ばせば、扉に届く。少し力を入れれば、扉は開く。
 が、それ以前に足が止まり、手も動かせなくなってしまうのだ。また飛鳥の時のように、ショック死しかねない衝撃が、その扉の向こう側に待ち構えているに違いない。そう思うと、どうにももう手が出せなかった。
 そうして悠也は、扉とにらめっこをしつつ、考える。
 向こうが常軌を逸脱した出迎えをしてくれると言うのなら、こちらだって更に常軌を逸脱した訪問をしてやろうと。その為にはまずどうすればいいか――向こうがあくまで非常識な集団だと言うのなら、多少非常識な訪問者でも許されるだろう。と言うか、そこは許して欲しい。
 よし、と心の中で叫び、覚悟を決めて。
「お邪魔するぜ! お茶を出せぇ!」
 と、声高らかにそう言いつつ扉を開け一歩中に踏み込んだ……までは、よかった。その向こうに、例えどんな異常事態が広がっていようと、この程度の冗談は許される。本当に、そう思ったのだが。
「……」
 奇術部の教室内に広がっていたのは、何とも腹立たしいことに、息をすることさえ忘れてしまうかと言うぐらいな程の、あまりにも普通の光景だった。
「ん、んん……」
 ちょうど悠也が立っている場所から数メートル先にある椅子に、少女が一人、腰かけて眠っている。悠也が叫んだからか、その声に反応し少女が身をよじった。思わず硬直し、じっと息を殺したまま彼女を見つめていたが、どうやらまだ起きる気配はなさそうだ。
 ただ、やはり普通の光景であっても、少女“本人”は普通ではないようだ。と、言うのも失礼なのだが、まずは両のめもとに見える水色の涙型のタトゥー。たぶん、シールか何かだろうが、色白な肌に、うさぎの耳を短くしたような形の帽子や、色取り取りの爪など、そう言うのを見ると。
「ピエロ、か?」
 と言う感想を、抱いてしまったのだ。それは“教室”と言う空気を変貌させるには至らない。奇妙ではあるが、絶対に有り得ない、などと言うことでもないのだから、まだそれは異常ではなく、少し不思議な光景なのだろう。
「こいつも、魔法使いか……?」
 そう呟いた、その時。強い突風が吹いて。鈴が、りぃん、と鳴った。
 ぱちりと、少女の目が機械的に開く。
 悠也は、思わず驚いて後ずさった。
「……」
「……」
 感情のこもらない、硝子玉のような両の目が、悠也を射抜く。目が、開いた。当たり前だ。死んでいるわけでもあるまいし、眠っているのなら、いずれ起きるのは当然のことである。しかし、それは、悠也に小さいながらも恐怖を与え、硬直させるには十分な動作だった。
 眠る姿は、あまりにも可憐で、無防備で、人と言う枠から外れてしまった、美がそこにある。それは本来、命を持たない人形や、動きを見せない絵画にのみ与えられる美しさだ。そんなものを平然とまとっている少女はやがて立ち上がり、
「誰ですか、お前」
 立ち上がると同時に、またもりぃん、と綺麗な鈴の音が鳴り響く。よく見てみると、薄赤色の頭髪は短くまとめられているように見えたが、両耳の後ろ辺りから、触覚よろしく伸ばされた髪がぷらぷらと揺れている。その左右の髪の先端には小さな鈴がつけられていて、どうやらそれが音の正体らしい。
「あの、えー……どうやら、ここに強制的に入部させられてしまったらしい、水辺乃悠也だ。別に、大した用はないんだが……君がよく五限目をサボる奴だと聞いて、挨拶は早めの方がいいかなって。それと、別の奴から……たぶん、君のことだろうけど、用事も預かった」
 だがやはり、どんな雰囲気をまとっていたとしても、少女は少女だ。“中身”はどうなっているかは定かではないが、今は、怯える必要などどこにもない。しかし、あの甘星がこの三年生の女性とどう言う面識があるのだろう。妙に親しげな感じで話していたような気がする。
「これ」
「え?」
 などと考えごとをしていると、少女が自分の髪を指さしながら言った。
「クワガタヘアー」
「……はぁ」
 突拍子もない台詞に、思わず気の抜けた台詞を返す。しかし彼女は気を悪くした様子はなく、にこりと笑うと更に続けた。
「ここだけ伸ばすのには、苦労しました。時々虫なんて失礼なことを言いやがる馬鹿野郎もいますが、これはクワガタです。どうですか。これ」
「とても……クワガタです」
「そうですか」
 と、言いつつ。彼女は、椅子を片手で軽々と持ち上げて。
「では――」
 そうして、大きく振りかぶった。
「!?」
 一瞬、と言うのは正にこう言うことを言うのだろう。何でクワガタなのか、とか、何でどこでも見かける教室の椅子を見事なフォームで自分にぶん投げるのか、とか、目をつむる暇もなく、そして細い腕から放たれた椅子は悠也の目の前で真っ二つに割れ、結果的に自分には何の被害もなかったことなんて、もう、一瞬過ぎて何もかもが分からなかった。
「……マジかよ」
 背後を見てみると、綺麗に、見事なまでに真っ二つに割れた椅子が無残に転がっている。いや、割れた、では少々表現が粗い。切り口はまるで元からそう言う形であったかのようで、それはまるで――
「逆鳴太刀姫、です。貴方からは火燐の氷の香りがしますねぇ……何者ですか」
 まるで――何かに、断ち斬られたかのようだった。

「ん……」
 目を覚ますと、もうお昼を過ぎていた。どうやら眠っている間に力が放出されたらしい。今日もベッドは、所々が氷でコーティングされている。幸いそう言う力を持っているからか、寒くなどない。
「……冷たい」
 とか、呟いてみる。もちろん指先に伝わるのは硬い感触のみで、突き刺すような冷気は感じられない。まっ白なシーツには薄い青色の星のようなものが所々に散りばめられており、まだまだそれらが溶け出す様子はなかった。火燐はふぅっと息を吐くと、とん、とベッドから飛び降りる。
 ちらりと、時計に目を向け、しばし考える。今から学校になど、行く気にはならない。とは言いつつも、余った時間をどうやって過ごそうかと考え始めれば、また悩む。どうしよう。この余った時間を、どう潰せばいいだろうか。
「……あー、もう」
 とりあえず、部屋の中にある小さな冷凍庫の中から、氷を一個取り出す。野球ボールの半分くらいしかないそれを、火燐は、おもむろに口内へ放り込んだ。
 ぼーっとした顔で、がりがりと氷をかじる。がりがり。がりがりと。
 そうして二個目に手を出そうとしたその時、静かな部屋の中に携帯の着信音が鳴り響いた。びくぅ、っと火燐は肩をすくませ恐る恐る先ほどまで眠っていたベッドの方へ目を向ける。ベッドに出来上がった氷の星の上で、携帯が震えつつくるくると回っていた。
 ディスプレイを覗き込むと、そこには“たっち”の文字。我らが奇術部の、お偉い部長様の名前が、そこにあった。
「……もしもし?」
 何の用だろう。そう思いつつ、声を出す。彼女が自ら連絡を入れてくる時は、大概がろくでもない用件ばかりだ。熱が出たから氷枕を作ってくれだの、スケートがしたいから池を凍らせろだの、かつて未来へ冷凍保存してくれなどと言うぶっ飛んだ発言をしたこともある。
 美しさも、妖しさも、その“見た目”通り、よく分からない言動で人を惑わせるのが、たっちこと逆鳴太刀姫なのだった。
『火燐っっ』
「つっ……」
 あまりの声の大きさに、顔をしかめて携帯を耳から遠ざける。
「なんだ、たっち。私は熱があるんだ。喉も痛いからあまり喋れない。ああ、お腹も痛くなってきた。頭がガンガンする。なので、お前と話している余裕は」
『へぇ。じゃあこいつ、どうなってもいいんですか。貴方を、知っているようですが』
「……何? 誰だ。何のこと」
 淡々と、会話は簡潔に済ます。ふふ、と向こう側で太刀姫が笑うのが分かった。
『いつも言っているでしょう。人の話は、きちんと最後まで聞きなさい』
 はぁ、と火燐が観念したのか、彼女はぽんとベッドに寝転がり、窓の外を眺めつつわかったよ、と呟く。
「で、何の用なんだ」
『だから、貴方の知り合いだと言う方がここにいるのです。名前は……水辺乃、悠也と言うそうですが?』
 そう言うことか、と火燐は一人で納得しつつ呟いた。どう言うわけか、悠也は昼に奇術部の部室を訪ね、そして太刀姫と出会った。恐らく眠っているところか、力を使っているところを見られたのだろう。だから、こんなにも、“怒って”いるに違いない。
「ああ、そいつは新入部員だ。と言っても、まだ仮なんだが。一応、刑介との顔合わせももう済んでる。だから――」
 その時だった。
『――許しませんよ』
 ゾッとする程の、声色が火燐の鼓膜を直撃した。ぶるりと、体を震わせる。氷の冷たさは感じずとも、どうやらこう言う冷たさには反応してしまうらしい。美しすぎて、怖い。たまに見せるそれが、太刀姫の悪い癖だった。
 相手を惑わし、陥れる。今を乗り越える為ならば、それが仲間であっても、だ。
『ふふ』
 太刀姫が嗤う。それは先ほどのものとは全く違う雰囲気をまとっており、彼女が本気だと言うことが窺い知れる。故に、火燐は焦った。本当に何をしでかすかなど、想像がつかないからだ。
『彼には素質が見えません。恐らく特訓の最中でしょうが。見えない。私には、何も見えないんです』
 太刀姫の声に混じって、悠也の声も聞こえてくる。どうやら彼も、相当焦っているらしい。
「おいたっち。そいつに手を出すな。そいつは私がちゃんと認めた男だから、それでいいんだ――別に、そいつが魔法使いにならなくても、私はそいつが気に入った。だから」
『許しません、と言いました。貴方は彼の何に惚れ込んだのですか? 教えて下さいよ。でないと』
 惚れ込んだ。なんとなく、その言葉で火燐は頬を染めて。
『殺しちゃいますよ』
 ヤバい、と感じて、すぐにベッドから飛び降りた。

 今、こいつは何と言ったのだろう。携帯の向こう――恐らく火燐だ、火燐と、何事かを話していた。素質がないだの、惚れ込んだだの、殺すだの、言いたい放題――
「……殺す?」
「ええ」
「……誰を?」
「お前を」
 びっくりするぐらいの、それは笑顔だった。その衝撃たるや、レストランにて店員からメニューを叩き返された時のそれのようだ……いやいや、そんな暗い過去を思い出している暇などない。殺す? 確かに、彼女は、そう言った。
「はは、はははは。やだなぁ。冗談きついぜ。殺す? 俺を? お前、そんなことしたら犯罪者になっちまうぞ」
「構いませんよ」
 す、っと太刀姫は腰元へと手を伸ばす。そこに握られていたのは、新体操など使われるリボンだった。だがしかし、あのリボンはあんなにも短いものだっただろうか。太刀姫はそれをめいいっぱい両手を使って伸ばすと、悠也に突きつけた。
 おかしい。おかし過ぎる。おかし過ぎて、噴き出してしまいそうだ。あれは、リボンだ。そう、リボンだ。まっ白な細い棒の先に、銀色の柔らかそうな布がだらりと垂れ下がって――垂れ下がっていなければ、いけない筈だと言うのに。
 その先端は、真っ直ぐ、悠也に突きつけられている。まるでそれは、諸刃の剣のようだった。
「……はは、はははは。手品手品……そうだよ、だって、ここは」
 奇術部。マジックを研究し、披露し、人々に、夢を与える。
「…………ここは、奇術部。力の強すぎる火燐を護り、夢を与え、そして己の夢をも、強く、高く目指す場所。好奇心で彼女の心を踏み荒らすと言うのなら、私は彼女を護る為に人を殺めることなんて、これっぽっちも怖くなどないんですよ」
「だ、だから俺は……あいつは何て言ってたんだよ!」
 そう言うと、太刀姫は目をそらして。
「そんな男は、知らないと」
「うっ、嘘だろ……?」
 ぱぁん、と太刀姫がリボン――いや、刀を振るう。床には、十字の傷。やはり、おかしい。おかし過ぎる。あれを、刀と見てはいけないようだ。再び彼女が刀を横に薙ぐと、今度は壁に四角形の傷。何も危害は加えず、ただ威力のみを見せびらかしてゆく。
 それは、本来ならばただの牽制で終わるものだろう。だが心の乱れた悠也には、とても効果のある、精神を攻める戦法だ。
「逃げ場などありませんよ。これは力を伝える為のただの媒介……断ち斬るのは、私の心の役目……」
 ああ、と悠也は思わず気を失いそうになった。同時に、甘星への恨みが募る。何が悲しくてこんなところで一生を終えねばならんと言うのだろう。火燐のそいつは知らん他人だ発言にも、もう怒る気力すら失せる。
 今は、ただ。逃げなければ、本当にヤバい。それだけだった。

 部室の外。扉を数センチ程開いて、そこから覗き込むおどおどとした瞳は四つ。奇術部部員の中で、主に大々的なイリュージョンを得意とする双子の兄妹、生神朝と夜の二人である。二人は、まず、とてつもなく焦っていた。焦っている、とは言っても、それは自らの身に何かが起こるからと言う意味合いではない。今正に、目の前で人が殺されようとしているからだ。
 両者はともに150に達するかどうかと言う小さな体躯を更に小さく丸め、重なりあうようにし息を殺しつつ教室の中の様子を窺っていた。二人はどちらからともなくねぇ、と声をあげ、そしてこくりと頷く。恐らく、そうだろう。刑介の話によるところの、新入部員に違いない。違いない、と思った理由はなんとなくではあるが、氷の匂いがする、と太刀姫がそう言う辺りそうなんだろう。
 じっと事を見守りつつどう悪戯をしかけようかと考えていたと言うのに、これではどうやらそうもいかなくなったらしい。逆鳴太刀姫の、“試験”が始まったのだ。
 「わわわ。夜ね、……夜兄、たっちが人殺そうとしてるよー!」
 小さくしゃがみ込んだ女子生徒が、そう呟く。それに答えるは、どっかとその上に乗っかった男子生徒だった。
「……どうしましょ。って言うか、なんであんな一般人にたっちは本気なの……? ね、朝、どう思う? 助けた方がいい? それとも、たっちを敵に回すのは怖いし、もうこの際あの男をたっちと一緒に殺しちゃいましょうか」
 明るい茶色の短髪をたたえた二人は、静かに、ただ静かに教室内の様子を伺う。夜と呼ばれた男子生徒はくるんと丸まった左の髪をちょちょいと指で弄ると、再びどうする? と呟いた。同じくくるんと丸まった右の髪をちょいちょい弄る朝と呼ばれた少女は、そんな兄の台詞に涙目でこう返す。
「お兄ちゃん冷静にテンパってるよー! 殺しちゃ駄目だよー! 助けなきゃ!」
 そう言うと、ぐい、と朝が夜を押し退け立ち上がった。そうして、まるで何か拳法でも始めるかのように、ぐっと体を整える。足を開きしっかりと力を込め、正拳突きの要領で左腕を伸ばし、そこに右腕を添え。
「誰かを救い、幸せにするのが魔法です。夜兄、あの人、助けるよ! さぁ水辺乃悠也くん! こっちに、“こないで”!」

 ぐい、と体が引っ張られたような気がした。感覚としては、強い風に背中を押されているようなものだ。見えぬ何かに、体が揺さぶられているような。緊張感と焦りが、体をまず逃がそうとしているのか。だとしても、今はそれに気を取られている場合ではない。
 今正に、悠也は殺人新体操の餌食となろうとしているのだ。例え、どれだけの力で引っ張られようと。足元がふらつく程に強い力で、引っ張られていようと――
「……あん?」
 不自然なくらいに、体が引っ張られている。押されているのではない。何かに、引っ張られているようだった。制服の胸元辺りが、下から何かに押し出されるように前へと突っ張っている。見えない何かに、つままれているような。これは一体何だろうと触って確認しようとした次の瞬間。
「おあっ!?」
 がくん、と悠也は態勢を崩した。いや、それは崩された、と言った方が正しいかも知れない。強く突き飛ばされた、あるいは引っ張られた悠也は、真っ直ぐ滑空するように太刀姫の真横をつききり、教室の扉をぶち破り、無様に廊下へ転がり出した。
「何だってんだ……泣くぞちくしょうっ……!」
 後転に失敗したような体制で、呟く。その後、逆さまになった視点は、すぐに二つの影を捉える。差し伸ばされる、手。
「ほら、逃げるよ」
 それは、とても小さな手だった。差し伸ばされたからには掴み返さねば失礼だが、触れることを躊躇ってしまう程、それは小さく、美しい手の平だった。体制を戻し、見上げる。
 そこには、小さな生徒が二人いた。どちらも、とてもよく似ている。手を差し出してくる女子生徒はにっこりと笑っていて、その後ろで偉そうに腕を組んでいる男子生徒はなぜかむすっとしていて、不機嫌そうだった。
「……たっち」
 不機嫌そうな男子生徒が、扉の無くなった教室の中へ視線をやりながら、口を開く。
「君はいつもやり過ぎちゃうよねぇ。“今回”は……失敗しないように、ね」
「さ、ごー!」
 呆然としている悠也の手を、女子生徒はお構いなしに引っ掴み、そして走り出す。彼女も、彼も、ここの“関係者”だろうか。きっと、そうに違いない。あの太刀姫に向かって自然と話し出す辺り、そうなんだろう。それに、何より。
「……やわらけぇな」
 奇術師の手の平は、驚く程柔らかいと言う話を聞いたことがある。男子のそれも女子のそれも触りまくった経験などないが、この女子生徒の手の平の柔らかさは、他のそれとは少し違う。
 まぁ手の平について深く考えるのも何だかおかしいので、悠也はそれを心の奥底に封印した。目的地があって、そこへ逃げているのだろうか。はたまた、力の続く限りか。あの太刀姫と言う女の魔法を見る限り、どこへ逃げても結果は同じような気もするが。
「おい、お前」
 と、背後を着いてきていた男子生徒が不意にそう放った。
「なん、だよ」
 走りながらである為台詞は途切れ途切れになる。もちろん、前を向いたままだ。この状況で礼儀云々は気にしている場合ではない。お礼なら、後からいくらでも言えるのだから。生きていれば、の話だが。
「“どこ”まで知ってるんだ」
 危うく足が止まりかけたが、動揺せず、走り続ける。長く廊下を走り続ける中、悠也はそこで、初めて後ろを振り返った。
「――火神の魔法ってやつは、俺は恐ろしいものだとは思わない」
 すると。それまで険しい顔つきを保っていた男子生徒の表情が、ふと、柔和に微笑む。それは地雷と紙一重だっただろうが、どうやら正解のようだった。
「――そう」
 ぴたっと、悠也の手を引いていた女子生徒が足を止める。
「ここ、はいろ」
 そう言って彼女が指さしたのは、第一倉庫。使われていない教室が並ぶ廊下の、最奥にそれはあった。そこは壊れた机や椅子など、そう言うものが色々と詰め込まれている倉庫と言うよりはゴミ置き場だ。しかし、そこが開け放たれている光景を、彼はまだ一度も見たことがない。
 そう言う認識があるだけで、実際に中を見たことはないのだ。
「こんなとこに隠れるのかよ。あいつなら簡単にぶった斬っちまいそうな気がするが……それに、鍵が」
 と言うと、彼女はふふん、と得意げに胸を張った。それで張られる胸が全くないのが、残念なところである。男子生徒の方はしきりに後ろを確認しながら、早くしなさいと、彼女を急かした。
「鍵ねー。そうそう。鍵。鍵鍵。ここにはね。鍵なんて、かかってるかも」
「……は?」
 鉛筆を、へし折ったような音が響いた。驚く暇もなく、次々と、ことは起こる。
「はい、いこっか」
 そう言って女子生徒は、大きな倉庫の扉に手をかけ――難なくと開いた。ぶわっと埃が舞い上がり、長い間人が訪れていないのが窺える。鍵は、かかっていなかったのだろうか。ほら、と男子生徒が、後ろから悠也の背を押す。
 押されるままに、三人は倉庫の中へと入った。
「電気、ついてないのね」
 女子生徒がそう呟くと。暗い倉庫内に、ぱぁっと灯りが燈った。悠也はぼーっとそれを眺め、不思議な感覚にとらわれるのも束の間、重い音をたてて倉庫の扉が閉まり、彼ははっと我に返る。
「……なんだお前。その、力」
 もう、多少の驚きで済んでしまう自分への驚きの方が大きいと言う始末だった。慣れとは怖いものだ。そう考えつつ、悠也は近くにあったボロボロの椅子に腰かける。回りを見回してみると、そこはやっぱり、噂に聞いたゴミ置き場のようで、椅子やホワイトボードやら机やらが、ブロックのように高く高く積み上げられていた。そんな光景を見て崩れ落ちた机やらに潰される自分を想像し、悠也は静かに椅子から腰をあげ、埃にまみれた床に直接座り込む。
「朝の魔法は“反転効果”。口にした言葉が、逆に世界に作用するの」
「…………はぁ」
 なんとなくそう答えると、男子生徒は明らかに不機嫌そうな顔になり、きっと悠也を睨みつける。ものわかりの悪い馬鹿めとその目が語ってた。
「はぁ、じゃない。理解してんの? あんたのその小さい頭には綿毛しか詰まってないの? 朝があんたに力を込めて生きろと言えば、あんた死ぬのよ?」
 訳も分からないまま責め立てられる悠也は、彼の怒りの理由が全くと言って思い浮かばない。地雷の配置所が難しい男だ。そう言うのを避けて通るのは得意分野だが、今さらもう、全てにおいてこの“問題”からは逃げられない。
「僕ら、化け物だぞ? 人じゃないんだぞ。今のうちだから。もう関わるのは、やめときなさい」
 そう聞いて、悠也は思わずくすりとほほ笑んだ。どうやら怒っているわけでは、ないらしい。
「……何笑ってんだよ。僕の力、見せてあげようか? 超攻撃的なやつなんだから。あんたなんか、一撃で吹き飛ばしちゃうんだからねっ!」
 そう言うと彼は――ぴっと人差し指を立て、それを真っ直ぐと掲げた。つられて、悠也も指さされた方、天井へと目を向けてみる。何も、ない。薄汚れた天井が、ただあるだけだった。
 しかし、変化は唐突に訪れる。まずは些細なこと、天井から吊るされている電球が、ひとりでに揺れ始めたのだ。
「お兄ちゃん怒らせると恐いぞー」
 と、女子生徒、朝の方が脅しをかけてくる。何とも緊張感のない笑顔に少しだけ和んだが、今はそれどころではない。“何か”が、起ころうとしている。
 ゆらゆらと電球が揺れ、ぐらぐらと電球が揺れ。
「ヴェント!」
 ぶわっと、彼の足元から、突風が吹いた。
「ぷっ、わ!?」
 ばしん、と叩きつけるような突風をもろに受けた悠也はそのまま後ろへと引っくり返る。激しく揺れる電球をじっと見つめながら、悠也は言った。
「…………風、か」
「そうだ! 僕は風を操ることができる。小さなものじゃない、本気を出せば竜巻だって起こせるんだ。どうだ怖いだろ。お前もまだ普通な内に、もう関わるのはやめとけって」
「い、や、だ」
 そう言いつつ、悠也は起き上がる。今さら風が何だと言うのだ。すぐに彼、夜の表情が明らかな怒りに染まる。それは心配だからだろうか。それとも、新参者の存在が邪魔なだけだろうか。
 どちらにせよ。悠也は見た。
「だからお前は――!」
 夜の背後、高く積み上げられていた机の段の上部が、僅かにずれている。今にもバランスを崩して、崩れ落ちてしまいそうな程に――
「あぶねぇ!」
 叫んで、悠也はそのまま夜の方へと突っ込んだ。なりふり構わず、それはもう体当たりの如く。目を瞑って咄嗟の突進だった為、当然悠也は夜を突き飛ばし、結果、覆いかぶさるような態勢になった。その後、すぐに腰辺りに重い鈍痛が走る。
「……うっわー」
 相変わらず緊張感のないそんな朝の台詞とともに。堰をきったように、机の雪崩が二人へと襲いかかった。けたたましい轟音とともに、積もり積もった埃が霧のように部屋へと広がる。
「お、まえ」
 悠也の下敷きになっていた、夜が口を開いた。
「今さら風がなんだ。俺は何もかも、全て凍りつかせちまうアイスエイジを見たぞ。あれは凄かった。あれこそ本当の魔法だ。それに比べりゃ、お前はまだ“手品”だな」
「……」
「俺も、火神を護りたい」
 二度目の言葉。前回と同じ、いや、それ以上にも覚悟と想いを込めて言えたような気がする。どのような形であれ、こうして彼らにも自分を認めさせなければいけない。話が通じる分、彼らはまだ楽な方だ。問題は、ただ一つ。
「だから、なぁ。あいつを説得してくれ。あの、殺人ピエロだ。あいつを……?」
 ふと、何か違和感に気がついた。心なしか、夜が頬を染めてぷるぷると震えている気がする。しかし、違和感の正体はそれではない。ある筈が、ない。ない筈が、ある。先ほどの朝の反転魔法ではないが、例えるならそんな感じだ。
「……分かったから、まずは退け」
「ん、とは言ってもな。今動いたらもっと崩れてくるぞ。それに……なんだお前、意外に……太って……?」
 胸辺りに手をおいた悠也は、その手の平を遠慮なく動かした。むにむにとした感触。およそ、男性には有り得ないその感触は――
「……いや、いやいやいやいやいや。おい待て、お前まさかっ……!」
 つーっと、嫌な汗が、頬を伝った。
「〜〜〜〜〜〜っ! ヴェント!!」
 ばかんっ! とこれまた凄まじい音と共に。悠也は下から上への突き抜けるような突風に机と共に持ち上げられ、天井へと激突した。
「ぐっ……!」
「机さんたち、そのまま落ちてきてくださーい」
 朝がにこやかな笑顔でそう言うと、ぴたりと舞い上がった机たちが空中で静止する。悠也はと言うと息が詰まり、ぼとりと無残に誇り塗れの床に落下した。何と言うことだ。どうやら魔法以上に、とんでもない事実に気づいてしまったらしい。
「あんたは……何ただで触ってんのよ! お金払え! 払えよ!!」
 あまりの衝撃に、ごろごろと悠也は床を転がりまくる。肉体的な衝撃と精神的な衝撃が同時に押し寄せ、人をここまで動揺することができるのだと、悠也は初めて知った。
「げほっ、おっ、お前! ……女ぁ!?」
「だったらどうなのよ! ちょっと双子の特性活かして交代してるだけじゃない! 何が悪いのよ! ああもう、口調も元に戻っちゃったわ!」
「変態じゃねーか!」
「ヴェント!」
 ばふんっ、と突風。倒れた体はそのまま宙に浮き、悠也はまたも積み上げられた机たちの中へと思いきり突っ込んだ。これならばあの太刀姫と一騎打ちして即死した方がまだマシだったのかも知れない。
「おに……あ、もういいよね。お姉ちゃん。ばれちゃったねー」
 明らかに女生徒の制服を着込んだ彼女、いや、彼が相変わらずの笑顔で告げる。
「つ、つまりお前は……」
「騙してごめんねー。男なんですー」
 にっこり笑顔が刃となりぐさりと突き刺さった。この世は不公平だ。こんなにもいい笑顔を見せてくれる子が男性なんて、神は寝惚けて無意識にこの二人を作ったに違いない。
「そんな……天使のような笑顔を持つ君が……男……」
「どうやら地平線の彼方まで吹き飛ばしてほしいようね」
「ああ、ついでにお前らを作った神様に人類代表として文句を言ってきてやる……」

何はともあれ。

「っつーことは、何だ。お前らは……ゲームの中の魔法使いみたいに火とか雷とか……なんかそう言うもんは扱えないってことか」
 ばらばらに散乱した机やら椅子やらを夜と朝の力を使い元に戻したところで、ようやく一息。二人は依然制服を交換したままであるが、どちらも端整な顔つきをしているので全く違和感が感じられない。
「そうねぇ。別にゲームみたいに長々と呪文唱えたりするわけじゃなし。魔法を使うかわりに消費する何かがあるわけもなし。ただそれを起こせる“何か”が、僕たちに宿っただけよ。ちなみに僕のヴェントは、なんか気分的なもんよ」
「気分……とまぁ、どうでもいいがもう演技はいらねぇよ。僕なんて言わなくても」
 悠也が夜の一人称に気づきそう言うと、彼女は座っていた椅子ごと少しだけふわりと宙に浮き上がり、
「……何よ。世の中に一人称が僕の女の子がいたらそれは女じゃないとでも?」
 下手なことを言うと吹き飛ばす。据わった目がそう語っていた。もうあんな超局地的竜巻を食らうのはごめんだ。悠也はすまん、と謝ると今度は朝の方に目を向けた。
 それに気づいた彼はにっと微笑むと、
「ちなみに私はー、いつでも私なんですよー。クラスじゃオカマなんて呼ばれて可愛がられてますー」
 きゃっ、と身をよじる朝。正直男と分かった今、そんな仕草には何の意味もない。その仕草は女が男にするから意味があるのである。悠也には残念ながら男好きの男の気持ちが全くと言って分からない。
「それは可愛がられる、じゃなくていじられると言うんだぞ少年」
「あはは。私はこんなんでいいんですよ。馬鹿みたいに笑ってるだけでみんな可愛いーって。少し涙目になってあげたらみーんな私の味方! ほんと、操りやすいですよねー」
「意外にブラックな奴だな!?」
「ブラックじゃなくて純粋ホワイトに悪なんですー」
「自覚してる時点で最悪だな……」
「とりあえずさー」
 がたん、と宙に浮かんでいた夜が椅子を再び地に落とした。
「僕ら今たっちから逃げてるのよ。逃げてるっていうか、隠れてる。なんで隠れたのかなぁ。ねぇ朝?」
「ノリの勝利、だねー」
「ってふざけんなよお前! 俺命かかってんの! 今さらだがてめぇら仲間なんだからあいつを説得しようって流れになんのが普通だろ!?」
 ノリの勝利とやらで自らを窮地に追い込み、そして待つのは死。アホ過ぎる最後である。もちろん、そんなアホな最後を迎えるつもりは毛頭ない。いつまでもここでこうしていても、向こうがやってきたらそれで最後だ。
 その前に、本当に今さらだが何か行動を起こさなくては。そう思い立った悠也はすぐに立ちあがった。
「どこ行くの?」
「ちょっと外の様子を見に。何もなければ移動しよう」
 そう言って、扉に手をかけ。
 固まった。
「…………ちょっと待て」
 今日は冷や汗のよく流れる日だ。もう一生分驚き尽くしたような感覚だが、まだまだ見えようのない恐怖は、そこに存在した。
「どうしたの?」
 夜が椅子から立ち上がり、彼の様子を伺う。そして。
「鍵、閉まってる」
「「……マジ」」
 変態双子の声が、重なった。

「さて……」
 太刀姫は廊下の窓から空を仰いだ。もうすでに昼休みは終了している。だが、教室には戻らない。あの場所はいつも単調で、平凡で、拮抗していて、歪みがない。教師の出す問題も、何も太刀姫にとって問題、驚異となり得ない。太刀姫は、平凡が嫌いだった。もっと何か、身体の芯を揺さぶる問題がなければ、生きていけない。兎は寂しければ死ぬと言う言葉を耳にしたことがあるが、正にそれだ。
「どこまで、逃げたのでしょうか……」
 問題がなければ、彼女は、生きてゆけない。
「逆鳴か」
 と、廊下の角から教師が姿を現した。彼は太刀姫と姿を確認すると、一瞬顔をしかめる。廊下でリボンを持ったまま突っ立っている彼女の姿を怪訝に感じたのだろう。
「……先生」
「もう授業は始まってるぞ。早く教室に戻らんか」
「いえ。私が教室に戻ったところで、先生にまた恥をかかすだけです。私は私で、自分のやり方で勉学に励みますので、どうぞお気遣いなく」
「気を遣うとか、そんなんじゃない。教室に戻れ」
「テストならきちんと受けますよ」
 苛々。苛々と。心の中で何かが、沸々と鋭く、速く、銀が、研ぎ澄まされる。
「逆鳴!」
 そう言った感情が湧きあがった時。彼女は、初めて剣を手にした時のことを思い出した。
「うるさい!!」
 びくっ、と怒鳴られた教師が竦み上がる。
「私は今とても楽しいんです……邪魔するならお前から断ち斬るぞ!」
 ぴぃん、と手に持ったリボンが、確かな硬さと鋭さを持って、輝きを増した。本来は新体操に使うリボンを自分用に改造したものである。銀色の輝いた布は、鋭利さを持てば剣のそれと何ら変わらない。
 むしろ羽根のように軽い為、非力な自分にはちょうどいい手頃な武器だった。
「……逆鳴。早く教室に戻りなさい」
 教師は最後にそう告げて。心なしか足早に、その場を去っていった。
「……さて。そろそろ鬼ごっこの時間ですかね。彼らはどこに……」
 またも、その時だった。
「太刀姫ぇ!!」
 角から、今度は太刀姫の見知った顔が現れる。それは。
「お前、水辺乃は……どこだ!!」
 頭髪を真っ白に染めた、火燐の姿だった。
「あら火燐。お早いおつきで」
「水辺乃は!?」
「何をそんなに怒っているんです。まだまともに話し合って日も浅いでしょう。特別な感情など生まれる筈もないでしょうに」
「水辺乃はどこなんだ!!」
 飄々とした態度の太刀姫の言葉など全く耳に入らないようである火燐は、ずんずんと彼女に歩み寄る。瞳は赤く、身体中から真っ白い冷気を吹き出す彼女の通った後の廊下は、綺麗な足形を残して、凍りついていた。
「そうお怒りにならずに。どうして彼のことで貴方がそれ程までに――」
 と、言いかけて。太刀姫は、自分の目を疑った。火燐の姿が、視界から消えたのだ。何か、彼女が特別なことをしたと言うわけではない。ただ。
「水辺乃は無事なんだろうな? ええ!?」
 いつの間にか高速で太刀姫の隣に位置した火燐は、そのまま太刀姫の制服を掴み、足を払い、その場に押し倒す。声を荒げる火燐からは、更に冷気が吹きあがった。
「……驚いた。漫画みたいなスピードですねぇ」
「知らなかったか。桃水で作った氷を食べた私は、いつもの二・五倍俊敏だぞ!」
 それはもう、めちゃくちゃな理由だった。押し倒された太刀姫にとっては、そんなことで戦闘能力が上がってたまるものかと言いたいところではあったが。
「ねぇ火燐。落ち着いて、話を聞いて下さい。実は……」
「…………何?」
 怒りに呼応するかのように噴き出していた冷気は急に勢いを失くし。真白だった頭髪はじょじょに色をつけ始め。同時に冷静さを取り戻したかのように、瞳は黒色に染まっていった――

 悠也は今、かつて見た映画の内容を鮮明に思い出していた。危険から身を護る為に、完全無欠な要塞を屋内に所持する家族の物語だ。そのことを事細かに説明するわけではもちろんないのだが、どうしても今の状況がその映画と被って仕方がない。
 密室。追われる身。敵。見つかれば、死。その映画には魔法使いなどは登場したりはしないが、かわりにとても勇敢なママが登場する。
 魔法などなくても、人は危機的状況から脱することができるのだ。
 ただ。現実は現実。うまくいくかどうかは、また別問題なのだ。そうして考えるうちに浮かび上がった問題が、三つ。それは朝の魔法と、太刀姫本人のことだ。鍵が閉まっているのなら、朝にその現象を否定してもらえばいい。その案は、夜の即答によって見事に却下された。
 彼の魔法は、目で見えないものには効果がない、と言うものだった。つまり鍵を外すにしてもその鍵自体が外側の見えない場所にあるならば、いくら朝が鍵は開いている、と言ったところで効果は現れない。
 かと言って、扉は壊れない、などと言ってしまって扉そのものを破壊するわけにもいかず、扉は閉まる、と言ったとしても外側の鍵がかかっている、と言う事実が否定されるわけではないので結果は同じく、正に八方塞がりなのであった。
「えーただいまの時刻……なんと九時半でございます」
「ああ! 今日の映画見る予定だったのに! こんな漫画よろしくのありきたりな状況にリアルで陥るなんて……あんたのせいよ!」
 加えてもう一つ。それは逆鳴太刀姫の魔法のことだ。彼女の魔法が起こす現象とはつまり、断ち斬ること。そこに距離と言う概念は存在せず、視界に映る全てのものをぶった斬る、と言うとてつもなく恐ろしいものであるらしい。つまりどれだけ逃げてもその目に後ろ姿さえ映っていれば、何百メートルと離れていても、背後を斬りつけられるわけだ。
 それから生まれるのは、三つ目の問題。要するに、安全な場所はいまこの場所をおいて他にはない、と言うことだった。もちろんずっとこのままここでこうしているわけにもいかず、彼女がいつこの場所に気づくかも、分からない。
 前も後ろも。右も左も。上も、下も。全てが、塞がっているのであった。
「しかし……なんつーか」
 それまでの話を聞いていて、何となく思ったこと。
「お前らのそれって、魔法って言うより……完全に超能力じゃねーか」
 言った途端、ばふんと顔面に風圧。今度は高く積み上げられている机に足をぷらぷらさせつつ腰を下ろしていた夜が、怒りに表情を引き攣らせながらこちらを睨みつけていた。またも逆鱗に触れたらしい。怒りっぽい奴だ。しかし口にすれば再びぽんぽんと風を飛ばされ無限ループに陥りかねないので、そこは自重。
「超能力だなんて言わないで」
「何でだよ?」
「誰がこの力をくれたのかは知らない。正直、いい迷惑。それに名称なんて自由でしょ。とにかく、超能力とだけは呼ばないで。それだけは、絶対にイヤ。死んでも、イヤ」
 頑なに、それだけはイヤ、と夜は何度も繰り返した。本当に嫌がっているようだ。確かに、名称などどうでもいい。本人がそれで納得できるのであれば、それは答えになる。だが、しかし。
 何で、そこまで拘るんだ。そう問おうとした折に、朝が柔らかい雰囲気で割って入った。
「それはね」
 目を閉じて。誰に話しかけると言う風でもなく。朝は、語り出す。
「それは、私たちがマジシャンだからよ。この力があったからマジシャンを目指したんじゃない。元から、そう言う世界に興味があった。だから、超能力だとズルをしてるような気がしてね。元々マジックってそう言うものだけど。ねぇ、水辺乃くん」
 そこで一旦、言葉を切って。
「超能力と魔法。どっちが、夢を与えられると思う?」
 逆にそう問われると、答えに詰まる。どちらがより夢を与えられるかと問われれば、それはもちろんファンタジーの世界にしか存在しない、魔法と言う力の方が断然夢があるだろう。
 テレビなどにもたまに超能力捜査官は出演していても、魔法捜査官は出演していない。その力が本物か偽物か、それは本人にしか分からない。ただ、今目の前にいるこの二人は。
「ね、水辺乃くん。私らは、マジックにこの力を使ったりはしない。けど、まずそんなことはないと思うけれど、超能力者だ! って言われたとしたら? 小さい子になら言われるかもね。けどやっぱり、分かってても、悲しいじゃない。だって……本当に、そうなんだから」
 そう言って、朝は制服のポケットに手を突っ込んだ。ごそごそと、中を漁る。がちゃがちゃと金属音が聞こえる辺り何がその中に収まっているのか非常に気にはなったが、取り出された手の平にあったものを見て、悠也は意表を突かれた。
 トランプ。がちゃがちゃと何やら物騒な音をたてていたポケットの中から取り出されたのは、何の変哲もない、しかし傷一つない、新品同然の普通のトランプだった。
 しかし、そう言っておきながら何だが、少し普通のトランプと違う気がする。何が違うかは、一目瞭然だった。
「これ、ミリオンカード。マジック用のトランプなのよー。まぁ違いと言えば、普通のトランプの、半分の厚さしかない、ってとこかな」
「普通のトランプの……半分」
 見ればそれは、本当にコンパクトなだけの、ただのトランプだ。朝はそれを両手に取りシャッフルすると、するすると扇状にカードを開いてゆく。
「どこでもいいから引いてみて」
「え? お、おう」
 するすると、動くトランプ。左から右へと、するする、ゆるゆると、カードが流れてゆく。それはまるで、水のような歪みのない動きだった。扇状に開いているのにも関わらず、上下のズレは全くと言っていい程なくカード自体が意志を持っているかのようで。しかし待っていてもカードは流れるだけなので、悠也はゆっくりと手を伸ばし、そして。
「じゃあ、これで」
「ハートの十」
 え、と悠也は言葉に詰まった。カードは、まだ伏せてある。まだ、カードに指を添えただけだ。朝の瞳を見つめながら、つまみ、引く。朝はにっこりと笑顔で、再びこう言った。
「ハートの、十」
 そんな筈はない。そんな筈は。恐る恐る、悠也はカードを手元に寄せ。そして。
「……」
 脱力した。
「何で分かったんだ?」
「フォース。相手に、自分の好きなカードを“選ばせる”テクニックよ」
 すると頭上から、夜の得意げな台詞が降りかかる。
「マジシャンは手先が器用なだけじゃ務まらないわ。相手の動きをよく見る洞察力や、注意を引かせる大胆な動き、性格、服装。いろんなことに気を配らなきゃいけない。今のは水辺乃、あんたがカードを選んだんじゃなくて、朝に選ばされたのよ」
 どうやら、マジシャンの世界と言うのは、思ったよりも奥が深いらしい。それは十分に理解できた。苦労して手に入れたテクニックと、自分が不思議な力の使い手であることの、どうにでもできない感覚。だから二人は、超能力ではなく、魔法で妥協したのだろう。
 その方が、まだマシだから。まだ、夢があるから。ただ、それだけの理由で。そうだ。その辺りの事情は痛い程によく分かった。しかし、夜が得意げに語るのだけはなぜだか納得できなかった。
「お前がやったんじゃねーだろ。お前が得意げに語るなよ」
「あん? 何よ。せっかく僕が懇切丁寧に説明してやってんのにさ」
 そこでぱん! と手を叩き二人の喧嘩を未然に防ぐ朝。彼女はまた、お決まりのにっこり笑顔で言った。
「びっくりした? 凄いでしょー? 驚いたでしょー? これが、マジックよ。超能力って言う名称を嫌う理由も、何となく理解できたかな?」
「……ああ。なんとなく。わかった」
 そう。と言って、朝は立ち上がる。
「ただの自己満足……ただの妥協。とにかく納得して、受け入れなきゃ、もう、私たちは先に進めない。人としての道も、夢を追う道も、これからの道も」
 力を受け入れ、先に進む。悠也は、すでに生き方を決めている二人を見て、愕然とした。きっかけなんて些細なものだ。一歩と言うものは、小さなきっかけですぐに踏み出せる。
 だが、その小さなきっかけが、悠也にはまだない。自分の生きざま、と言うやつを悠也はまだ歩めない。その一歩が、怖い。大人しくなるように流れていても、いつかはどうにかなる。
 彼には、生き方と言うものが――
「……なぁ。俺は――」
 そんな台詞と、鋼鉄が激しく擦りあうような音がしたのは、ほぼ同時の出来事だった。ぎゃりん、と身の毛もよだつ、日常では恐らくそうそう耳にはしないであろう、そんな音。
 悠也、朝、夜の三人が同時に固まり。同時に、音のした方を振り返った。
「――御機嫌よう。よい時間になってきましたね。さぁ、これからが本当の鬼ごっこですよ馬鹿野郎ども」

 時刻。ジャスト十時。場所。廊下にて。悠也を含めた三人は、人生できっと初の、本気の全力疾走をしながら後ろを振り返りもせずに、ただただ前だけを見て走っていた。
「いつまで逃げるんだよぉ! 早く隠れよう!」
 小さな体をフルに使って、飛び跳ねるように走る夜が叫ぶ。静かな校内に響き渡り、跳ね回る絶叫に近いような叫びが、本当に今が危機的状況なのだと教えてくれる。
「はぁっ、はぁっ、よっ、夜ねぇ……! 私、もうむりぃ……!」
 がくん、と朝の走る速度が明らかに落ちた。悠也はすぐにブレーキをかけぱっと振り返り、まさに崩れ落ちる瞬間だった朝の手を取り、再び走り出す。
「あほ言うな! お前らあれだろ! 俺を助けてるから一緒に追われてるんだろ! ちくしょうっ、すまん! ほら行くぞ! 走るんだ!!」
 心臓が、慣れない全力疾走でぎしぎしと軋む。自分はいつからこんな熱血漢になったんだろうか。人生の中で、これ程叫ぶ機会があろうとは思いもしなかった彼は、今の状況がとても信じられなかった――が、信じてなくてはいけないのだ。
 そうしなければ、全てなかったことになってしまう。確かに面倒なことは避けて通るべきなのだが、なぜだか、今を、失いたくはない。
 だからどれだけ心臓が軋もうと。今は、走らなければいけないのだ。
「夜!」
「何! 呼び捨てにしないで!」
 だが、やはり。思うところは、ある。
「ちょっと考えがあるんだが!」
「何よお!」
 走りながら目についた消化器を、悠也は思いきり後ろへ蹴って飛ばす。ばしゅ、と弾けるような音が聞こえたところ、どうやらきちんと作動してくれたようだ。ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す朝を見て、悠也はとりあえず近くにあった教室の扉を開け中へと転がり込んだ。
 長いテーブルが八つと、それにあわせて椅子がずらりと並んでいるここは、家庭科室だ。普段は調理場、暖かいイメージがあるのだが、やはり夜と言うものは何もかもに暗い影を落としてしまうらしい。
「またこんなところに……! 早く逃げるわよ!」
 教室を見回しながらそう言った夜は、すぐに窓へと近づき乱暴に開け放つ。悠也は、そんな夜を見つめながら静かに口を開いた。整えたい息を無視し、今すぐ走り出したいと言う衝動も無視し、ただ、落ち着いて。
「お前ら、もうここらでいいだろ。俺は一人で逃げる」
 ぐっと窓枠を掴み乗り越えようとしていた夜の動きが、時間を止めたかのように、ぴたりと止まった。
「……今、なんて?」
「俺のせいでお前らも逃げてるんだろ。正直気分わりぃんだ。後は俺一人で逃げる」
 朝は、うずくまったまま何も言わない。夜は、ぎゅっと強く窓を握り込んだ。
「馬鹿言ってんじゃないわよ。そんなこと言われる方の身にもなってよ。僕も気分悪いよ」
「じゃあちょうどいい。俺のこと、正直面倒な奴だと思ってんだろ? だったら――」
「だったら!」
 ばんっ、と窓を殴りつけて。夜は大股で悠也の元へ歩み寄ると、彼の胸元を掴み上げる。
「最後まで面倒かけろ! 嫌々やってんじゃないの! わかれよ! ここまで来たんだろ!? 僕らの仲間になりたいんだろ? だったら」
 ぐっと顔を寄せて。夜は叫ぶ。そんなことは分かってる。悠也も同じく声を大にして叫びたかったが、そう言うわけにも、いかないのだ。試験だの、素質が見えないだのと、散々言われて。ここらで何か一つ見せておかないと、永遠にこのままのような、そんな気がしたのだ。
 だからこそここは一人で行かなければならない。力を借りていては、何も開くことはできない。彼は胸元の小さな手を取ると、
「……すまん。言い方が悪かった。俺一人でやらせてくれ。これ、いわゆるあのピエロなりの試験なんだろ? だったら、一人で乗り越えてみせる」
「でも、でもぉ……うぅーーー」
 夜はいきなり困った顔になり、今さら顔の距離を気にしたのか赤面すると、一二歩と距離を取った。でも、その、あの、とらしくなくもじもじとしながら、言葉に詰まる様を見せる。そう言う姿はもっと明るい場所で見たかったが、そうも言ってられないらしい。
「消化器作動させた時、窓開けたり、別の教室の前にハンカチ落としたりと、色々細工してきた。俺がここから一人で行くのは今のうちだ。行かせてくれ」
 俺も火神を助けたい。その言葉は、口にしないまま。夜は散々もじもじしたかと思うと、最後にこう言った。
「死んだら、許さないんだからねっ!」
 それを聞いて、ふふ、と悠也は微笑む。
「お互い、らしくないな」
 できるだけ笑顔でそう言ったつもりだったのだが、夜からは、ふんっ、と言うそっけない返事しか返ってこなかった。ここからは一人だ。戦う、ことになるのだろうか。まだ学生だと言うのに、命をかけた本気の戦いときたものだ。馬鹿馬鹿しい。
 だがしかし。氷を使えなくても。風や、モノの意味を逆転させる力も、ましてや空を飛ぶ方法など知らなくても。ただこの身一つで、立ち向かわなければならない。それもまた、試練なのだろう。
 やってみせる。悠也はぐっと拳を握り締め、家庭科室を後にした。

三.トリックスター

 空気がとても冷たい。風も。コンクリートの床も。壁も。今の、自分の心も。鋼のように硬く冷たく、刃のように鋭く冷たく、氷のように、熱く冷たい。去年の夏の風はもう少し緩やかで生暖かったが、今はまるで冬のようだった。
 長い夜だ。とても。怖いくらいに、時間が進まない。ならばまた、逃げ続けるのも無意味だ。対峙しなければ時間が進まないのならば、最早そうするしかない。
 そうしなければ終わらないのなら、終わらせるまでだ。
「もーいーかい」
 がちゃり、と屋上から踊り場へと続く扉が開かれる。月明かりのお陰で幸い見渡しはよく、その顔をはっきりと捉えることができた。色白過ぎる肌。涙型のタトゥー。折れ曲がったウサギの耳のようなものがついた帽子。にっこり笑顔と、日本刀のようなリボンが、あまりにも似合わなさ過ぎて、その姿は、正に道化だった。
 そう。道化だ。何も信じては、いや、何もかもが信じられない。屈託ない笑顔でも、他を寄せ付けぬ冷たさでも、触れれば爆発する怒りでも、それは道化である以上、何も信用することができない。
 確固たる意志と覚悟。その両方を持って臨まねば、待っているのは道化に踊らされる、人形のような自分の姿だけだ。
「――ああ、もういいぞ」
 そう言うと、何も言わず、太刀姫が刃を返す。きらりと、月の光を受けて刃が光った。どうやら本当に、今は本物の刀だと思った方がいいらしい。
「ああ、ちょっと聞かせてくれ」
「はい、どうぞ」
 またも、にっこり笑顔で返される。
「何で俺をいじめるんだ」
「お前が私たちのチームに相応しくないからだ。分かるでしょう。心の安らぐ、安心できる場所。何の不安も、心配も、嫌なことも、何もない。ただただ、楽しい。そんな私の楽園を乱そうとする、私の物語をかき乱す、お前はトリックスターだ」
 そこで初めて、太刀姫から笑顔が消えた。
「飛鳥も刑介も、火燐も朝も夜も……なぜみなお前を受け入れたのか。あの奇術部の部長として、もう少し厳密に審査をしておこうと思いましてね。私も、お前に惹かれることになるんでしょうか……ふふ。ねぇ、そんなこと……有り得ない」
 両足を大きく開き、左手を軽く地につけ、右手と刀を高く掲げる。
「私たちには大きな敵がいる! 弱い奴は! いらない!!」
 そうして体ごと回転するかのように、太刀姫は刃を横一閃、大きく薙いだ。瞬間、悠也の脳裏に、少し前夜から聞かされたアドバイスが浮かび上がる。距離に惑わされてはいけない。太刀姫の斬激は“飛ぶ”のではなく、空間そのものを斬りつける。そして更に一ミリの極小のポイントから、後はほぼ無限大に、彼女の心が望めば、そこに“限定範囲”と“射程距離”はほぼないと言っていい。
 彼女の射程距離から外れると言うことは、こちらからも彼女の姿は見えず、逃げ切ったことと変わりはないのだ。とりあえずは、ただ走る。隙が生まれるまで、ただ走り抜ける。
 そして横の移動だけでは避け切れない。彼女がこの屋上全てを横に薙げば、胴体は一瞬で真っ二つだ。だがそこは、やはり人間。いくら殺す殺すと言っていても、さすがに本当に命を奪ったりは――
「目障りな」
 りぃん、と。鈴が鳴り響く。時を同じくして、悠也の右肩が、制服ごと切り裂かれた。
「いってっ……!」
 歯を食い縛るが、がくん、と体勢を崩す。しかし彼はよろめきながらも再び立ち上がると、何事もなかったかのように駆け出した。出血する右肩をぐっと抑える。傷は浅い。やはり、本当に殺すつもりなどないようだ。
「お前は! 俺が信じられないか!」
 力では敵わない。筋力では恐らく上だが、それ以上の“力”で持って、制される。ならばここは、言葉でぶちのめすしかない。
「当たり前です」
 じゃきん、と悠也の数歩前のコンクリートに、鋭い傷が生まれた。咄嗟に、方向をかえ、再び走り出す。
「何でだよ! 俺だってあいつの、火神の力になりたい! 何で、そこまで俺のこと嫌うんだよ!」
「力になれる程の力が、貴方には見えない」
 と、そこで悠也は前へ進むのではなく、後ろへ下がるのでもなく、体を倒すように奥へと軸をずらした。その瞬間にズボンが斬りつけられ、結果太ももが露わになっる。幸い切り裂かれたのは制服だけだ。大丈夫、と震えて止まりそうになる足に鞭を打ち、むりやり前へと進ませる。
「お前に分かるのかよ! 俺はまだ修行の最中だ! これからすげぇ魔法会得するかも知れないだろ!」
「いいや、わかります。お前には何もない。私は、知ってる」
「何がだよ!」
 がきん、と太刀姫はコンクリートの床に刃を突き付けた。じっと、走り回る悠也を見つめる。その目は喜んでいるのか、怒っているのか、はたまた哀しんでいるのか、楽しんでいるのか。または、何もないのか。悠也はその目を見て、ぞくりと、悪寒が背筋を駆け抜けるのを感じた。
 まるで人形。初めて見たあの時にもそう思ったが、それよりも、もっと遥かに、今はそう思える。これは正しく、何もない恐怖だ。密室で人形に囲まれた場合、こう言う気持ちになるのだろうか。
 微動だにせず、瞬きすらない硝子のような瞳に見つめられ、悠也は思わず足を止めてしまった。恐怖に縛られたのではない。最早彼女から、何も感じられなくなったからだ。例えば人形が本物の銃を持っていたとして、恐怖に怯えるだろうか。いや、そんなわけはない。
 正しくそう言った感覚だ。
「私は……お前は、私と似ています。昔の私と」
「昔の……お前……?」
「生き方が分からなかった、あの時の私と」
 はっ、と息を飲む。今度はまた、別の意味で凍りついた。
「私は道化です。喜びも、怒りも、哀しみも楽しみも全部全部全部、嘘ばっかり。回りを騙して、生きてきた。それが私の生き方だった。けど、分からなくなった。嘘ばっかりついてたら、自分のことも分からなくなった。どれが本当の気持ちなのか、どれが本当の私なのか。全部全部全部、分からなくなった。私は、泣いた。一晩中泣いた。ずっと、泣いた」
 するりと、細くしなやかな指で、目元のタトゥーを撫でる。それは、哀しんでいるのだろうか。
「そうしたまま、分からないまま、ずっと生きてきた。そろそろ生きるのにも飽きた頃に……私は彼女と出会いました」
 目を細め、彼女は笑う。
「そこで、初めて、生きる力が湧いた。私は彼女の為に生きようと思いました。全て捨てて。全て捧げる。今でも私は私が分からない。けど……、けど!」
 がきんっ! と太刀姫が刃を抜いて。ヤバい、と思った頃には。
「彼女の為に何をすればいいのかくらいは、分かります!!」
 ただ、熱かった。胸元が。走りすぎて肺がおかしくなったのかと思えば、そうではない。ただ、それは胸を袈裟懸けに斬りつけられたと言うことに気づいた時、悠也はすでに力を失い、倒れ伏した後だった。
「ぐっ……!」
 あまりの痛み、と言うか熱に、ただ唸ることしかできない。手足は痺れ、思考もうまくまとまらない。足音が、聞こえる。これがいわゆる死神の足音と言うやつだろうか。最後の最後にそんなことを思える自分はまだまだ余裕なのか、はたまた終わることが分かっているが故の冷静さなのか。
 どちらにしても、今はもう、意味がない。
「火燐の為なら……」
「馬鹿……野郎がっ……!」
 だがしかし。まだ動かせる場所がある。元より武器は、ただの口八丁だ。
「それはっ! 火神の為じゃねぇだろう! お前っ……それは、ただの! わがままじゃねぇか!!」
「わがまま? 何を馬鹿な。彼女は気づいていないだけです。後に気づくことでしょう。私の方が、正しかったと言うことに。これ以上仲間はいらない。多くても邪魔なだけです」
 どこまで分からず屋だ。血が出る程に唇を噛み締めて、気力を振り絞り、手を動かす。震えて、まるで言うことを聞かない右手は、まるで他人のもののようだ。自分の腕と言うやつは、ここまで重いものだっただろうか。
「お前……! ほんと、馬鹿だな……てめぇがどれだけ火神の為に人を殺そうと! どれだけ火神の為に回りをよくしようと! それはお前がそうあって欲しいだけの、それはわがままなんだよ! 認めろよ! 誰だって人間わがままだ! 俺だってそうだ! けどなぁ、ほんの少し譲るだけでいいんだよ……! 譲る気持ちがあれば誰だって手を取り合える! お前は……! 行きすぎなんだよ……!!」
「――言いたいことは、それだけですか?」
 全く。本当に泣きたくなる。本当に、どいつもこいつも、似た者同士だったと言うわけだ。
「……全く。お前も、俺も……みんな、火神が好きなんだなぁ……」
 呟いて。目を閉じて。

「夜凍想曲」

 雪が、降った。ぽつぽつと、コンクリートを濡らすそれは、間違いなく、本物の雪だ。あっと言う間に、辺りが真っ白な空間へと包み込まれてゆく。天使が、降りてきたのかとも思った。いや、あながちそれも間違いではなさそうだ。
 目の前に、降り立ったのは。
「……か、がみ……」
「よぅ。ぼろぼろじゃないか。痛そうだな。私の為にそこまで傷だらけになってくれるとは。うん。嬉しいぞ。とっても嬉しい。嬉し過ぎてなんかここら辺がきゅんきゅん言ってるぞ。惚れてしまいそうだ。お前、いいな。今度な、春咲ヶ丘、あるだろう? あそこで素敵なパーティが開かれる。町を一望できる丘で、月夜の星を眺めながら、私の特性の氷をばりばりかじる会だ。どうだ楽しそうだろう」
「すまんが……何を言ってるんだ……」
 どうやら調子的なものは、全開であるらしい。胸元から多量ではないが出血している人間を目の前に、どうやったらそれ程までに自分のことばかり話せるのか、心配する言葉の一つもないのか、真っ白な頭髪に、真っ赤な瞳をした火燐は、やけに楽しそうだった。
「一緒に行こう。だから――あいつを倒せ。あの鬼をぶちのめせ。私が許す。ぼこぼこにしてやれ。これを」
 そう言って火燐は、制服のポケットから何かを取り出す。ひんやりとしたものが、顔の隣に静かに差し出された。見れば。それは拳大の大きさをした、ただの氷だった。荒削りな、ごつごつとした、ただの氷。
「あの鬼部長の魔法の力は、斬激。確かにそうだ。だが、厳密に言うと空間を斬るのではない。空間に、刃を振り下ろすだけだ。もちろん、防ぐこともできる。ただそれは完全に透明の剣を持った剣士と戦うのと同じなので、逃げ回る方が得策なんだが。どうだ? 今さら、何かいい戦法や作戦が、思いつきそうか? 何も考えられないと言うのなら――とりあえず、つっこめ」
「……ああ」
 ぐっと両腕に、力を入れる。ぽつぽつと体に降り注ぐ雪が、まるで力の源にでもなっているかのように、すんなりと体は持ち上がった。まだがくがくと足が震えてはいるが、前よりかは幾分もマシだ。正しく、これは――
「すげぇ魔法だな。火神」
「……? これか? ああ、これは魔法と言うより必殺技、必殺技と言うよりはぶっちゃけ秘奥義だ。本気を出せばこの学校中全体を包み込むことだってできる。私は凄いぞー」
「いや、お前のお陰だ」
 ぽん、と小さな頭に手を乗せて。
「お前のお陰で、まだイケそうな気がする。ありがとう」
 心からの、礼を口にした。恥ずかしいので、目は合わせない。悠也からは見えないが、火燐はきょとんと目を丸くした後ふんわりとした雰囲気で微笑み、頭の上にある彼の手の平に、自分の両手をかぶせると、
「……火燐でいい。もう私たちは仲間だ。悠也」

さぁっと。一瞬で、霧のような冷気は、どこかへと消え去った。

「お話は済みましたか?」
「……ああ」
 考えれば、おかしな話だ。悠也の望みとは、ただ奇術部への正式な入部。たった、それだけ。そして太刀姫の願いとは、火燐を不安要素から絶対守護する、と言うこと。
 例えば悠也が彼女の言う通り、本当に“何もない”人間なのだとしたら、太刀姫がここまでして彼を拒絶する理由がどこにあるのか。本当にやりすぎ、と言う言葉が似合い過ぎる程、事態はどんどんと大袈裟な方向へと転がってゆく。
 それは最早、喧嘩と言うレベルを軽く逸脱し、今や流血騒ぎの命を賭けた決闘だ。彼女が悠也を拒否する理由。それは、難しく考える必要など何もなかったのだ。ただ、火燐の為にと、そう告げる彼女を見れば、おのずと知れる。あり得ないことなど何もない。
 可能性は限りなく零に近くても、それは、有り得なくなどないのだ。
「……ふふ、はははは……!」
 腹のそこからおかしな気分が込み上げてきて、笑うことがもう我慢できない。
「――何を、笑っているのです」
「なぁ。お前、俺が怖いんだろ」
 そうして初めて。太刀姫は、僅かばかりであるが、本当に一瞬だけ、動揺らしい動揺を見せた。目をぱちくりとさせ、よろけるように後ずさり、刃を構える体勢ががくりと崩れる。
「お前が俺を拒否する理由。なんとなくわかった。俺達……俺とお前に限った話じゃねぇ。あのドロップキック女も、すましたイケメン兄貴も、変態双子も、みんなみんな、火燐が大好きなんだ。違うか」
 確固たる意志と、覚悟。それら両方を両足に宿し、確りと、地に足をつける。ただ前方を睨み続ける瞳は、確かに鋭いものであったが、もう敵を見る者のそれではなかった。
「……わた、しは……」
「――俺が男だから。俺に、火燐をとられるのが怖いんだろ?」
 かぁっと。まるで茹で上がったかのように太刀姫が赤面して。その瞬間、悠也はすかさず駆け出した。
「わっ、私は……!」
「ああそうだな! 世の中いろんな人間がいる! それもてめぇのわがままだが、俺はそれを笑ったりしない!!」
「だっ……だま、黙れぇ!!」
 太刀姫は体勢を崩したそのままで、ぶぅん、と風を切り裂き刃を振るった。いや、まだ振り切ってはいない。悠也はその瞬間を見定め、手に持った拳大の氷を思いきり彼女の方へとぶん投げる。
 真っ直ぐ、ストレート。それは本来刃が通る筈だった筋に真っ直ぐと向かっていき、
「あぅっ……!」
 がぃん、と言う音とともに、刃を完全に弾いた。元々太刀姫自身はどちらかと言うとただの一般人よりも更に非力な方だ。悠也の利き腕から放たれた剛速球は、そのまま刃のみならず、彼女の腕ごとをさらい、弾き飛ばす。
 しゅぱんっ! と。狙いがそれた斬激が、悠也の頬を斬り裂いた。
「一つの愛の形、ってなぁ! 俺は笑わない! だから! 俺を!!」
 ありったけの力を込め、大地を蹴る。太刀姫は弾かれた腕を押さえ、呆然としていた。
「水辺乃悠也を!! 奇術部に……!!」
 だんっ! と最後の数メートルの距離を跳躍でなくし。
「入部させて下さい!!」
 体ごと、太刀姫に突進した。

「あぅぅぅぅ……痛い、ですぅ……」
 ぐるぐると目を回したまま、太刀姫がコンクリートの上であうあう言っていた。
「いや……正直すまんかった。全力で突進したもんで、つい……」
「汚されました。あり得ません。私はもう子をなせません……」
「そんなレベル!?」
 などと叫んだ瞬間、胸元から血が噴き出す。悠也はうぉ!? と声をあげると、ばんばんばん! と傷口を手の平で叩いた。
「……お前は、火燐が好きですか」
 倒れ伏したまま、星を見上げて、太刀姫がそう呟く。悠也は傷口を指でなぞりながら、同じように空を仰いだ。当然、真っ暗だ。彼女の心情も、今こんな感じなのだろうか。確かに、世の中に同性愛の偏見は溢れていると言ってもいいだろう。
「俺はお前の気持ち、変だとは思わない。好きに生きたらいいさ。生き方が分からないよりましだ。生き方が、分からないよりな」
「……私は火燐が好き、です」
「おう、そうか」
「好き好き愛してる。超好き。超愛してる。ぶっちゃけ抱きたい。めちゃくちゃにしたい」
「まぁ、程々にしとけよ」
 つまりは、そう言うことだ。難しいことなど何もなかった。至極、単純な理由だったのだ。太刀姫は火燐のことが好きで、そして火燐は今、少なからず彼に惹かれ始めている。まだ恋愛感情ではないにしろ、それは太刀姫にとって脅威となるものだった。
 考えれば考える程どこまでも単純で、どこまでも純粋に、これは殺し合いなどではなく、ただの喧嘩に過ぎなかった。好きな人を護りたいと言う人間と、自分がいるからもう必要ないと言う人間二人の、ただの他愛ない喧嘩。
 そうと分かってしまえば、後は簡単だ。
「俺は火神……火燐のこと、好きって言うか。なんかそう言うのとは違うんだ」
「違う……?」
「ああ。なんつーか憧れって言うのかな。あいつが手品の練習してる姿を見ると、何だか落ち着くんだ。確かに見た目は可愛い。性格はちょっとあれだが。綺麗過ぎて、手を出せない、みたいな感じだな。触ったら壊れちまう、そんな感じだ」
 自分ながら恥ずかしい台詞を言っていると思う。だが、火燐を愛すると言う太刀姫の前ならば、そんなものも気にならなかった。確かに、似た者同士だ。
 太刀姫はリボンを杖がわりにしてゆっくりとした動作で立ち上がると、微笑みながら、言った。
「きっとお前も、火燐が好きになりますよ」
「分からないさ」
「いいえ。絶対にそうなります。だって、その道は、私も通りましたから」
 え? と聞き返す前に、太刀姫はさて、と言いつつ大きく背伸びをする。するりと、リボンの刀が鋭さを失いたなびいた。一つ、二つと歩みを進め、悠也から五メートルは遠ざかった後、くるりとステップを踏みながら彼女は振り返る。
「トリックスター。私は怖い」
「……何がだ?」
「先ほど言いましたね。私たちには敵がいる、と」
 確かに、そんなことを聞いたような気がした悠也は、無言で頷く。しかし、敵と言っても、それはまた漠然とした言い方だ。この場合の敵、と言うのはどう言うものを指すなのだろう。
 悠也は夜な夜な町へ繰り出し怪物達と戦う彼女らを想像して――
「有り得なくもないな……」
「今の貴方の考え、あながち間違いでもありません。正し、相手は人間ですが」
「人間……? おい、敵って、本当の意味で敵なのかよ」
 太刀姫は表情に影を落とし。静かに、呟いた。
「相楽桜真。この名を、忘れないで下さい。敵のことはまたいずれ。いずれ、そう。分かる時がくるでしょう」
 相楽桜真。それが敵の名前だろうか。敵。そう語る彼女の眼には、相変わらず何も宿ってはいない。宿ってはいないから、読みとれない。憎しみが宿ればあるいは、恐怖が宿ればあるいは、何かしらの想像をたてられたかも知れないが、ただ敵、と繰り返す太刀姫からは、何も読みとれなかった。
「――では、ここでお近づきの印に」
 この話は終わりだと言わんばかりに、太刀姫はぱん、と手を叩いて微笑む。その名について深く考えようとも、名しか判明していない今はどんなことを考えようと全て無駄になってしまう。いずれ分かる時がくると彼女がそう言うのなら、大人しくその時を待つとしよう。
 そう考えて、悠也はどかっとその場に腰を下ろした。
「なんだ? お前もなんか手品披露してくれるのか」
「ええ。と言うより……私もマジックを扱いますが、それは彼女達の役割です。みなそれぞれ、得意分野があるのですよ。私はパントマイムやら、わざとマジックを“失敗”する役割です」
「失敗? 失敗するのか。わざと?」
「ええ。それが道化の仕事ですから。道化は可笑しな存在でなければいけない。人を笑わせられない道化など、そもそも道化と呼ばないのですよ。わざと失敗したマジックを、彼女達が上手く拾うわけです。火燐」
 と、太刀姫が視線を上にあげた。同じく、悠也もつられて目線を移動させる。屋上へ続く踊り場のある建物の上に、火燐が腕を組みながら立っていた。なんとなく偉そうな雰囲気だ。彼女は助走もつけずにその場からとん、と飛び降りると、
「さぁ、恒例の新入部員の為のマジックショーだ。とくと心躍らせるがいい」
 太刀姫が、すっと腕を伸ばし。かくん、と腕が肘から折れた。まるで電池が切れた機械人形のように、首も落とし、全ての動きが止まる。
 そこからは、本当に、夢のような時間だった。
 ないものが現れ、あったものがなくなる。あり得ない現象が次々と容易く引き起こされ、常識が打ち破られる。太刀姫の言った、わざと失敗をする演技。それもまた見事なものだった。
 一度失敗をし、確かにそうだ。できる筈がない、と相手に思わせたところで、パートナーである火燐がそれをフォローする。事前に相談などしていない筈なのに、二人の息は、なぜだか嫉妬してしまう程にぴったりと合っていた。
 リボンがまるで生き物のように一人でにうごめき、太刀姫が見えない壁にぶち当り額を押さえる。そこには当然何もない筈なのに、火燐が氷を作り出し放り投げると、確かに目に見えない“何か”に当たり、落下する。
 彼女達の言った、夢を与えると言うのは、こう言う意味だったのだ。歳がいもなく興奮してしまって、大人も子供も、みな同じになる。いつだってそうだろう。不思議は人を魅了して、僅かばかり、この世にはまだそう言うことがあると思わせる。悠也は今、久々に楽しい感覚を味わっていた。
 心から、彼女達を尊敬でき、また彼女達の仲間になれることを誇りに思える。
 この場所なら――太刀姫に似てる、と言われたのが今更胸を衝く。確かに、今この瞬間を、邪魔されたくなどない。この場所なら――やっていける。何となく、そんな気がした。

 小さな、小さな小さなプレハブ小屋。都会から外れたある山の頂上に、それはあった。強風でも吹けば一気に吹き飛ばされてしまいそうな程に、それはもうぼろぼろのあり様だ。そんなプレハブ小屋に、ぱっと灯りが灯る。
 それもまた、緩く明滅を繰り返し、今にも消えてしまいそうだ。そんな光景を見て――彼女と彼は、ふぅ、と溜め息をついた。長いポニーテールをぷらぷら揺らしながら、彼女は呟く。
「相変わらずぼろっちいです……」
 それに答えたのは、長身の眼鏡をかけた少年だ。
「仕方ないさ。どうせまた、すぐここを出ることになる」
 冷たい、とも取れる視線と口ぶりに、しかし彼女は慣れているのか何も気にせず、扉の前に立つと、軽く二度、ノックした。
「相楽さん。礼風です。頼まれていた資料、ようやっと完成しましたです」
 かちゃ、と扉が控え目に開いて。薄暗い部屋の中から、金色の双眸が覗いた。
「礼風。林土。よく来た。さぁ入れ」
 次に、扉が大きく開け放たれる。真っ黒いスーツ。派手な金髪に、同じく金色の瞳。緩くパーマのかかった金髪を彼は自然な仕草でかきあげると、ふむ、と呟いた。彼は――相楽桜真は、薄い緑色のワンピースを着た彼女、空日礼風をまじまじと見つめると、
「礼風。また胸が大きくなったんじゃないか」
「余計な御世話です」
「またまた。わざわざ肩掛けバッグで胸を強調するなんて、らしくない」
「たまたまです。いくら“先生”だとは言ってもさすがに……殺しますよ」
 はっはっは、と桜真は大きく笑うと、奥にある大きな椅子へと腰かけた。さて、と二人を眺める。部屋の中に椅子は一つしかなく、礼風と林土の二人は立ったままだ。二人はこの状況に慣れてしまっているのか、何も言わなかった。
「じゃあ、見せてくれ」
「はい」
 と、礼風が答えつつ、バッグの中から束になったレポート用紙を取り出し、彼の近くにあったテーブルの上にそれを乱雑に放り投げる。ばらばらと、広がるレポート用紙。それぞれ左上に小さな顔写真が貼られており、桜真はそれを手に取ると手に顎を乗せながら眉間に皺を寄せた。
「……生神夜と逆鳴太刀姫。この二人は厄介だな。十分な戦闘用能力……逆鳴と言う人物に至っては、完全に“対”魔法使い用の能力じゃないか。この女についても……ふむ。“夜遊び吸血鬼”め。火神を護る為の壁は、すでにここまで出来上がっていたか」
「――いや」
 と、林土が一枚のレポート用紙を取り上げる。
「生神朝も、十分に厄介な能力だと思う。俺はこの中で特に、厄介な力だと思うよ」
「……ふむ。まぁいい。どれだけ障害があろうとも……火神はまた、ここに戻ってくる。必ず、な」
 ふふふ、と一人で笑う桜真を見て、林土は内心で溜め息をついた。この相楽桜真と言う男は、少し頭が良すぎる。自分一人で納得し、それをみなに伝えることをしないのだ。勝手に納得し、勝手に行動し、そして勝手に解決する。それは見事なまでに上手く進み、林土は桜真の失敗と言う失敗を見たことがなかった。
 自分と同じく魔法使いだと豪語するが、その力の片鱗さえも見たことはなく、あくまでも人としての力で、全てを解決しきってしまう力を、彼は持つ。
 故に二人は、彼に従うのだった。失敗など有り得ない。歩む先には、常に成功しかない。そんな男の下につくと言うことが、どう言うことなのか。絶対の安心感を与え、絶対の力を持って、障害を難なく突破する。相楽桜真とは、そう言う男だ。
「――では、行こうか。火神を我々の仲間に引き入れる。また、元通りになる訳だ」
 桜真は楽しくて仕方がない、と言った表情で腰をあげる。彼はレポート用紙をまとめあげると、礼風にそれを手渡した。
 ――しかし。三人はその時、まだ気づいていなかった。レポート用紙が、七枚しかなかったことに。火神火燐。生神夜と朝。飛鳥飛鳥と刑介。逆鳴太刀姫。そして、最後の七人目。そこには、八人目としての彼の情報がまだ一つとしてなかった。これが、一体何を意味するのか。
 彼らにとって、障害となり得るのか。それはまだ、誰にも分からない。

「あい! ダウト!!」
 夜の校舎に、朝の甲高い声が響き渡った。場所はと言うと元二年六組の教室、詰まるところは奇術部の本拠地では、なぜか今全員強制参加朝まで耐久ダウトと言うある意味、いや、完全なる罰ゲームが行われていた。
「いやあああああああああああ!! なのよー」
 そんな朝の決め台詞に対するは、苗字名前がともに同じ漢字と言う、飛鳥飛鳥だ。風呂上がりらしく外側に丸まった特徴的な長髪は今はストレートになっており、水玉模様のぱじゃまを着用している辺り完全に自宅仕様だ。
 そんな彼女の隣には、何を考えているのやら全く読めない妖しい笑顔を称えた刑介の姿がある。彼は本気で朝までやるつもりらしく、学生服での登場だ。そしてその隣には悠也の姿が、また隣には火燐の姿がある。何やら手の中にあるトランプが増えたり減ったりしているのは気のせいだろうか。
「飛鳥。真面目にやるのです。歓迎会も兼ねているのですよ。そんなだるそうな顔をしてはいけません」
 と、飛鳥の向かいに座った太刀姫が厳しく言う。部員として認めてくれた上に、こんなイベントまで設けてもらったのだから悠也はぶっちゃけ帰りたいなどとは口が裂けても言うことができない。どうしたものかと考えている内に、あっがりー、と朝がまたも陽気に宣言した。
 これで彼の連続七連勝だ。
 と、ふと考えてみる。彼、彼女らに宿った力のことだ。仲間と認めてもらったのはいいが、まだ悠也とみなの間には、決定的な壁がある。魔法だ。何一つとして、まだ彼にはその片鱗さえ現れない。
 彼女――太刀姫が言った敵の存在。それがもし、本当に漫画のように魔法を駆使して戦わなければいけないような存在であるのならば。いずれ、必ず足手まといになってしまう。いくら覚悟や想いがあっても、それだけでは絶対に乗り越えられない大きな壁だ。
「……水辺乃? 顔色悪いよ。どうしたの?」
 と、不安から表情を曇らせる悠也に夜が声をかける。しかし、彼は答えに詰まった。自分から入部させて下さいと言った手前、今更弱気な態度は見せられない。それこそ、足手まとい以前に迷惑と言ったところだろう。
「――さてみなさん。ちょうどいい機会ですし、先生を呼んできてもらっていいですか?」
 口を閉ざしたままの悠也を見て何かを感じ取ったのか、太刀姫がそう言い火燐があからさまに嫌そうな顔をした。彼女の明らかな変化も気にはなるが、まずは。
「先生? 誰だ?」
「奇術部の顧問、だよ」
 散らばったトランプを片しながら、刑介が立ち上がる。
「え。ここ、非公式じゃなかったのかよ。俺は確か、まだきちんと部として認められてないって聞いたけど」
「確かに」
 と、今度は飛鳥が立ち上がり、ぱっぱとぱじゃまについた埃を払いつつ言った。
「確かに非公式なのよ。顧問、と言うより彼女も仲間。水辺乃。あんたが知らない、最後のメンバーなのよ」
 と言うことは。まだ見ぬ、最後の八人目。
「また女の人か……」
「嬉しいでしょう?」
 太刀姫が笑顔で言ってくるが、それもぶっちゃけ嬉しくはない。ここでは女性が圧倒的に強いからだ。
「で、先生って誰のことだ?」
「まぁまぁ。では、ほら。みなさん行きましょう。刑介はここに。ほら早く! 動かないならぶった斬りますよ」
 ぶーぶー言いながら、みなが渋々と動き出す。ぞろぞろと列になり、火燐、飛鳥、夜、朝、太刀姫が教室から消えて。教室には、悠也と刑介の二人のみが残ることとなった。途端にしん、と静まり返る教室。悠也はこう言った空気が苦手なのでとりあえずどんな魔法を持っているのか聞こうとして――
「たっちから色々聞いたよ」
「……何を?」
「何を、と聞かれてはどれから答えていいのやら」
 くすりと微笑む刑介は、窓辺に立っている為月明かりを受けて余計に不気味に映る。奥底は窺い知れず、またこちらの全てを見透かしているかのような瞳が、彼をじっと見つめていた。
「太刀姫が君を拒否した理由。教えてあげようか」
 と、俺はお前の全てを知っている、とでも言いたげな表情で、刑介が一歩前に出る。だが、その理由についてはすでに明白だ。太刀姫は女性でありながら、同じ女性の火燐に恋心を抱いている。少なからず火燐は悠也に惹かれ始めているようで、それを太刀姫は邪魔に思った、と言うのが彼の解釈だ。
 だが。
「君の考えていることは、恐らく“もう一つ”の理由の方だな」
「え。なんだよ。まだ何かあるのか」
「――ああ」
 それは、追い詰めるような。突き詰めるような。切り裂き、抉り、晒すような、今までに見たこともない色の瞳だった。
「大き過ぎるらしい」
「……何が、だよ」
 たった一睨み。たかが一睨みで悠也は竦み上がり、喉を詰まらせる。頬にはいつの間にか汗が一筋流れており、それが恐怖だと気づくのに、しばしの時間を要したくらいだ。怖い。怖い思いなど何度もしてきたが、やはりこれは慣れるものなどではないようだ。
 今が最高に怖いと感じていても、いずれそれを上回る恐怖が訪れる。その為には。少しずつ、少しずつ強くなっていかなければならない。いつまでもこのままでは、みなに迷惑がかかってしまうことになる。
「君の力が、大き過ぎるから、太刀姫は躊躇したんだ。君を、仲間に加えることを」
 だが。悠也はその答えを聞いて、しばし呆然とした。大き過ぎる力? それは一体、何のことを言っているのだろう。
「彼女の力を見抜く目は本物だ。朝と夜の二人、最初はね、とんでもない問題児だったんだよ。ところ構わず力を振り回して、それはもう酷い荒れ様だったんだ」
「あの、二人が……?」
 信じられない。朝は性格はあれだがそれでもいい奴だろうし、夜も夜で何かと心配してくれたりと、あの二人が問題児だとはとても思えない。
「そんな二人をなだめ仲間に引き入れたのが、太刀姫だ。力の使い方を教え、使う場所を教え、倒すべき敵を……教えた」
 ぴくりと、悠也が“敵”、と言うキーワードに反応する。やはり、みんなも知っているのだろうか。しかも今、倒すべきと刑介は口にした。これでは最早、逃れることはできない。敵とは、そう言う意味だったのだ。
「相楽、桜真……だっけ」
「ああ。詳しくはまた後ほど。それと……」
 すっと。刑介が手を差し伸べる。悠也は不思議そうにその手の平を見つめて、
「なんだ?」
「甘星君から、何か受け取ったんだろう? 僕が預かろう」
 はっと思い出した。そう言えばそうだ。友人から預かったラブレターの存在を、ふと思い出し制服のポケットを探ってみる。あった。桃色の封筒。ハート型のシール。知的な彼が見せたあほな一面を垣間見ることのできる、秘密のアイテムだ。
「……って、なんでお前が甘星のこと」
 言い終わる前に、ぱっと刑介がそれを素早く奪い取る。彼はすぐさまそれを乱暴にポケットに突っ込むと、遅れて取り返そうとした悠也を同じく素早い動作で制した。
「待て、待て待て。それは一応俺の友達から預かった大切なもんだ。本人に、……あー、逆鳴に渡さなきゃならない。返してくれ」
「駄目だ。僕が預かろう」
「何で」
「簡単に言うと」
 何でそうなるんだよ、と追及しようとした途端、悠也の台詞にかぶせるように、有無を言わさず刑介は彼を鋭く睨む。刑介のことをまだあまりよく知らない悠也は、それ以上何も言うことができなかった。会うのはこれで二度目だ。話もあまりしてはいないし、どう言うつもりなのかが、全くと言って理解できない。何か理由でもあるのだろうか。
 そう考えて。悠也は、驚愕する。
「――逆鳴太刀姫と、甘星零帝には……何の繋がりもないからね」
「…………は?」
 どくん、と心臓が跳ね上がった。繋がらない。話が、繋がらなさすぎる。それは一体どう言う意味で、何を意味するのだろう。甘星は、いかにも太刀姫のことを知っているような振る舞いだった。
「どう言う、意味だよ」
 言うと、気取ったように、刑介が髪をかきあげる。しかしそんな仕草も憎たらしいことに様になってしまう刑介は窓から外を眺めつつ、気だるげに、こうぼやいた。
「――さぁ。どう言う意味だろうね」
2009-11-27 18:30:39公開 / 作者:葉羽音色
■この作品の著作権は葉羽音色さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ぶっちゃけかなり冒険した感じです。ネットが繋がらなくなってしまった際、過去ログに行ってしまったものを削除して、投稿し直しました。一応過去ログの方でもこういうのはいいのか駄目なのか聞いてみたんですが、やはりあまり反応はなく……
できれば多くの人に見て貰いたいと思い投稿し直した次第でございます。

これはいかんだろう、などと何かある方、仰って下さい。ぶっちゃけ大した内容ではないのですが、やっぱり現行ログの方が見て貰えるかなと思いまして。感想以外にもどんな罵倒も受け付けます。M万歳。

この作品についてですが、頭の隅にずっと残してあったマジシャンは魔法使いで日々人々を陰から助けている、と言う妄想を描いたものです。まだまだそれを物語として表現しきるには力が足りてませんし、物凄く急展開な内容ですが、ほんの少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。

キャラ名の読み。ぶっとんだ名前が多いのでここで……
飛鳥(あすか)飛鳥(ひとり)
刑介(けいすけ)
逆鳴(さかなる)太刀姫(たちひめ)
生神(いくのかみ)よるとあさ
甘星(あまほし)零帝(れいてい)

ぶっちゃけ超能(ry
ではありません。魔法です。これは魔法です。朝の力については少し説明不足かも知れません。これはおかしい、と何か思ったことがあれば、どうぞ。
主要キャラが変態で溢れてきました……どうしよう(汗
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして。こいつ見たことあるぞ! って方はお久しぶりです。葉羽音色です。
やってしまいました。もう後戻りできません。削除の方なら言って貰えればラピュタ
風に40秒で削除します。

河で溺れる子供……何であんな時間に溺れてその後どうなったのか、それはまた後ほど
出てくると思いますので、どうか一つ。
2009-11-27 18:32:59【☆☆☆☆☆】葉羽音色
こんにちは! 羽堕です♪
 確かですが、過去ログから削除して現行ログに投稿し直すのは、あまりよくなかったと思います。過去ログは、そのままにして、現行ログには連載の続きのみを投稿して、前書きなどにに過去ログのどこに前の話があるかなどアナウンスする方が多いようです。

 話の続きは顧問というか仲間の女教師がいたとは吃驚です! それと悠也には大きなが力があるようで、それがどんな魔法なのか、とても楽しみです♪ 刑介って相変わらず謎深い感じだなぁ、何でも知っている様な(実際知ってるのかもですが)雰囲気を感じます。耐久ダウトは辛いですねw
であ続きを楽しみにしています♪
2009-11-27 19:07:33【☆☆☆☆☆】羽堕
羽堕さん、どうもありがとうございます。葉羽音色です。
普通にその手がありましたね……なんてこったいorz
頭の固い私をどうかお許し下さい……
毎回修正はここで投稿する際にしてて、ワードパッドの方から直接コピーしちゃった為にとんでもない間違いがあるかもです。お気づきの方、きつく言ってやって下さい。

女教師……(ゴクリ たぶんまた変態的なキャラです。ええ。恐らく。外人さんです。それでは、葉羽音色でした
2009-11-27 19:29:49【☆☆☆☆☆】葉羽音色
初めまして、鋏屋【ハサミヤ】ともうします。御作を読ませて頂きました。
破綻のない文章にテンポも良く、また表現も豊かで読みやすかったです。文章が安定しているので安心して読めるんですよ。内容も面白くて一気に読めちゃいました。主人公が何の力もない(今はかな?)のに必死になっている姿が目に浮かぶようですw 地の文と台詞、それに真面目な内容に程良くミックスされた笑いのバランスが取れていてとても心地よかったです。そのあたりのことをよく考えながら書いていらっしゃるんだなぁって感じました。最初から主人公が凄かったりするより、等身大の感じが出ていて感情移入しやすかったですし、太刀姫の理由も、決して臭くなくこの年代の若者にしっくり来ているように感じます。以前投稿していたと仰っていましたが、気が付いて無かった事を申し訳なく感じる作品です。こんな私好みの作品があったとは……!(汗
上で羽尾遅参も仰っていますが、過去ログのアナウンスを入れて投稿される方が良かったかもしれませんね。その場合、本文で『これまでのあらすじ』なんかを簡単に書いて、主要登場人物の性格や能力なんかを紹介されたりすると、私的には助かりますw 読んでみて興味がある方は過去ログを読みに行くでしょうしね。でもこれはあくまで私自身が『読みやすい』って思ってるだけなので、それが『やっていいこと』なのかは私もわからないんですけど……(オイっ!) でも鯖の負荷とか考えると私にはそれぐらいしか思いつかなかったです。
あと、3点リーダーで『〜だった…… しかし〜』みたいな時は……の後は1マス開けるって私は教えて貰いましたよw
なかなか期待できる作品を見付けたので正直嬉しいですw 次回更新お待ちしております。
鋏屋でした。 
2009-11-28 20:19:18【★★★★☆】鋏屋
鋏屋さん、初めまして。葉羽音色です。レスがあるたび、恐る恐る薄目で内容をチェックする私はヘタレでしょうか。ヘタレですね。作品の方に関しては、ぶっちゃけ思うままに書いております。むしろキャラの名前に迷う有様……

やはりやり方としては、この投稿はよくなかったようですね。反省します。もし次に過去ログ行きになるようなことがあればそうしたいと思います。もちろん、そうならないように頑張りますけど……ネット代怖い

三点リーダーの後は空白、と言うのは台詞もでしょうか。それは全く知りませんでした。また修正地獄……ふと今思ったんですが、ダウトのシーン、連続七連勝……なんか言葉としておかしいですね。では、葉羽音色でしたっ
2009-11-28 20:50:57【☆☆☆☆☆】葉羽音色
作品を読ませていただきました。なんか読んだ記憶があると思えば……過去ログを削除して投稿し直すのはあまり良くないですね。極端な書き方をすれば過去にこの作品を読んだ人間の気持ちや感想を削除することですからね。
さて、お小言はこれぐらいにして感想。物語に勢いは感じるのですが、セリフと地の文にアンバランスさというかリズムの違いが明確にあるように感じられました。セリフに実際の会話のようなリアル感を持たせているためよりそう感じるのかもしれませんが、全体的のバランスがややちぐはぐしている感がありました。では、次回更新を期待しています。
2009-11-30 00:18:25【☆☆☆☆☆】甘木
はじめまして。
火神火燐いいですねえ。
こういうキャラクタを僕も描きたいなあと思う。
「お前はどうせこれをネタに私を脅すのだろう」
「最後の最後には……私の心も体も奪おうとするんだな」
妄想系? いいえ理想系です。
三点リーダの後に空白は僕も初めて聞きました。
とりあえず、修正するのであれば置換機能を使えば楽でしょう。
まず【……】→【…… 】に。
それから【… 」】→【…」】とすれば良いかと思います。
置換機能はWordとかの文章検索機能に引っ付いてたりします、便利ですよ。
2009-11-30 00:49:08【☆☆☆☆☆】プリウス
甘木さん、お久しぶりです。プリウスさん、初めまして。葉羽音色です。
再投稿の件については深く反省しております。でもやっぱりやってよかったなぁと内心思っていたりして……
しかし、どうすればこの駄文がよりよいものになるか、もう分かりません(泣 やはり多く、数を読み書きしていくしかないのか……読み返してみると、やっぱり何かが足りない部分があるのは自分でも感じます。他の方々の小説を読んでいてもやはり、自分とは何か違う……
次は今まで以上に少し時間をかけて執筆したいと思います。。

なんか私の小説って硬い気がするんですよねぇ……硬い硬い。ちなみにキャラが変態で溢れているのは私が変態だからです(何
暴走させすぎて読者がひいてしまわないが内心どきどきです。ええ、どきどき。
もうこれ以上上達することはないのかなぁ……限界が見えた気がする。。。では、葉羽音色でした。
2009-11-30 02:29:07【☆☆☆☆☆】葉羽音色
拝読しました。初めまして。水芭蕉猫と申します。にゃあ。
所々に急展開且つ荒削りな点が散見されました。うぅんと、ここを書こう、ここを書きたい! という気持ちが前へ前へ出すぎているような、そんな感じがなんとなくするのですが、如何でしょうか? ちなみにキャラクターは皆良いですねぇ。一途で可愛いキャラはだいすきです。特に朝君なんてちょう私好みです。変態上等かかってこいやぁ!! という気持ちで一杯だったのですが、変態どころか超可愛い子達ばかりじゃないですか。皆、火燐を守りたいという気持ちで一杯だったので、感情で読む私としては見てて心地よかったです。
顧問がどんな人なのか、敵はどんなキャラなのか、そしてどうして敵であるのか、まだまだわからないことが沢山なので、楽しみです。
2009-12-02 22:27:50【☆☆☆☆☆】水芭蕉猫
たった今気づきました。
HNの由来はハバネロですね!

自分の作品に何か物足りなさを感じるのは当たり前だと思います。
他人の作品と自分のとを比べて違いがあるのは当たり前だと思います。
物足りなさを感じない人間はそれでおしまい、向上することはありません。
他人と違いを感じない人間はそれでおしまい、花開くことはありません。
物足りなさと違いを感じるあなたは大丈夫。

僕は火神火燐僕はが気に入りました。
どうか彼女を幸せにしてあげてください。
2009-12-03 03:39:07【☆☆☆☆☆】プリウス
はじめまして、三文物書きこと木沢井です。キサワイです。大事だと思われるので二度申しました。
 頭から更新部分まで拝読させていただきました、話としては好きな部類に入るためか、楽に読み進めることができました。場面と時間が変化する際にもう一工夫されれば、もっといいかもと思いました。
 火神は、途中から途轍もなく印象が変化したキャラクターでしたね。それはそれで面白かったのですが、時折口調が定まっていないように思われる箇所があり、それがちょっと残念でした。
 ご自身も仰っていたように、主人公の周囲を個性的な面子が固めているせいでしょうか、それとも主だった登場人物ら全員にスポットライトを当てようとなされているのか、主人公が悪い意味で埋もれているというか、いまひとつ押し負けているように感じました。それじゃあ火神を守れないぞ悠也。
 そんな悠也がどうなっていくのか、注目しています。
 以上、絆創膏と仲良しになりつつある木沢井でした。
2009-12-05 23:50:44【☆☆☆☆☆】木沢井
水芭蕉猫さん、どうも初めまして。あなたににゃあと言われたかった、葉羽音色です。。
急展開かつ荒削り、と言われれば正しくそれですね。言葉にできなかった感じがようやく形として理解できました。ありがとう。例えるならロックマンシリーズ恒例のラストステージにて、ボスラッシュみたいな感じですかね……意味不明ですね。もう少し間のステージ意識して書いていこうと思います。ありがとうございましたっ!


プリウスさん、どうもはばねろです。あのお菓子はとても苦手なんですが、響きが好きなので使ってますw ちなみに私的には発音ははばねろ、ではなくハヴァネロ、です。まぁどうでもいいですね。貴方のお言葉、胸にしまい頑張っていこうと思います。ありがとうございました。


木沢井さん、お久しぶりですー。火燐の口調が定まっていないのは実は裏があってですね……私、かりん、と言う名に特別な想い入れがありまして。自分の小説には必ずかりん、と言うキャラクターを出すようにしているんです。もちろんキャラは作品ごとに異なります。男だったり女だったり。少女だったり老婆だったり。人間だったり機械だったりと。今回読み直して気づいたんですが見事に口調が別の作品とかぶってしまいました……orz
今後こう言うことはないように気をつけます。本当に申し訳ない。ちょくちょく修正していくつもりですのでどうかご勘弁を……
後主人公についてですが私の主人公像と言うのは平凡無特徴なもので、つい回りを変態にしてしまう癖がありますw 主人公なのに光らない、ダサい、頼りない、そんな奴がたまに魅せる瞬間が好きなんです。けど確かに言われる通り、埋もれちゃってますよね……もう少し、みんなの動かし方を考えてみようと思います。
では、長々と長文失礼しました。はばねろでしたー
2010-01-02 22:50:02【☆☆☆☆☆】葉羽音色
計:4点
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