『ランプ・ランプ・ランプ 完結』作者:海賊船 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角73076.5文字
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原稿用紙約182.69枚

 プロローグ

「ねぇ、彼女ぉ。もしかして、暇? よかったら俺と遊ばない?」
 記念すべき十人目のナンパ野郎は、茶髪に細眉、ピアス付きといういかにもって感じの外見だった。
 俺が無言で睨んでやると、ナンパ男は少し怯んだものの、気持ち悪い笑みを浮かべる。
「……」
「ねえ、いーじゃん。そんな怖い顔しないでさあ」
「……」
「君、彼氏いるの? もしいないんなら、俺、立候補しちゃおっかな」
 あー、うぜぇ! シカトしてんのに気付けボケが!
 俺は思いっきり腹に力を込め、低い声を出す。
「俺は男だ」
「え……?」
 ナンパ男は、豆鉄砲でもくらったかのような表情を浮かべた。
「俺は男だっての! オ・ト・コ! 理解出来た? わかったら、さっさと失せろボケナス野郎がっ!」
「え? え? 嘘でしょ? 全然見えないんだけど……」
 ナンパ男は、俺の全身を舐めるように見ながら、言ってはいけない事を口にした。
 ぶちん。
「てめぇ……俺が男に見えないだと……!?」
「ひ、ひぃぃ!」
 殺意を込めて、思いっきり睨んでやると、ナンパ男は情けない声をあげて逃げていった。
 情けねぇ。これくらいでビビるくらいなら、ナンパなんかすんなってんだ。どうせ、ああいう軟弱なタイプの男は、彼女がピンチに陥った時に我先に逃げるタイプだ。
「あー、うざってー……。つーか、麻子の奴、まだ来ねぇかのかよ」
 俺は腕時計を見ながら、独りごちる。
 駅前は、日曜日の昼間とあってか、人でごった返していた。俺と同じように、誰かと待ち合わせをしている人もちらほらいるようだ。ここが繁華街の駅前だと言う事を考えると、恋人と待ち合わせをしている人が、ほとんどだろう。
「俺も彼女と待ち合わせ……だったらなぁ」
 確かに、今日俺が待ち合わせの約束をしているのは女だ。
 しかし彼女ではない。友達……以上だとは思うが、決して恋愛関係は無い。
「私も彼氏と待ち合わせだったらなぁ」
「うおっ!?」
 不意に、背後から聞きなれた声が聞こえた。
 振り向くと、そこにいたのは、幼稚園から高校一年生の現在まで、ずーっと同じ学校兼同じクラスという、いわゆる俺の幼馴染である内藤麻子が立っていた。
「ジゴローおっはー! 待った?」
 太陽みたいな笑顔を浮かべ、麻子は俺に向かって手を振る。
 こんだけ待たせておいて、待った? はねーだろ、おい。自然とため息が漏れる。
「麻子。昨日、待ち合わせは何時って言ったっけ?」
「いちじー」
「今は何時?」
 麻子は、携帯を取り出して現在時刻を確認する。
「いちじ」
「嘘つくなっ! どう見ても、二時三十分だろうがっ!」
 俺は腕時計をこれでもか、と言わんばかりに麻子に見せる。
 しかし、麻子はあっけらかんとした様子で、
「あー! 携帯の内部時計が一時間半も遅れちゃってる。や、これは失敗失敗」
「この間も一時間遅れてたよな。お前の携帯は欠陥品か?」
「携帯会社に文句言ってやらないとね」
 あくまで白を切るつもりらしい。
 今日という今日こそは、この遅刻魔にガツンと言ってやらねば。
「ちょっとその携帯見せてみ。どうして、待ち合わせの時だけ都合よく時間が遅れるのか調べてやるから」
「あ! ちょ、ダメだって!」
 麻子は携帯を持った手を高く掲げる。
 俺は背伸びをして、麻子から携帯を奪おうとするが……ああ、やっぱり届かない。
「やーい、チビスケ」
「チビ言うな! これでも去年より一センチ伸びたんだぞ!」
 麻子は、必死で手を伸ばす俺を軽くあしらい、人を小ばかにするように笑った。
 俺の身長は、百六十センチに六センチほど届かない。十七歳の男子としては、かなり小さい方だ。そこ、チビって言うな。小さい方、と言え。
「へー。じゃあ百五十四センチになったんだ。おめでとー」
「……コラ、はっきりした数字を口に出すな」
「ちなみに、私は二センチ伸びて百七十センチだったよ」
「ひゃ、ひゃくななじゅう?」
「そ。ひゃくななじゅう」
 衝撃の事実だった。これでまた一センチ身長を離されてしまったのだ。
 麻子は、でかい。身長が。ついでに胸も。女子バスケ部の期待のルーキーと呼ばれるだけあって、子供の頃から、運動神経も抜群で、悔しい事に顔もスタイルもいい。いい事尽くしだ。
 一つ欠点を挙げるとすれば、時間にルーズで何事にも大雑把、それに少々女の子としての気品にかけるといった所か。まあ、それを差し引いても、麻子は誰もが羨む美人である事に間違いは無い。
 世の中は本当に不公平だ。神様って奴が居るなら、相当イジワルな性格をしているんだろう。
「何故だ……男の俺が、女のお前より十六センチも背が低いなんて」
「あれ? ジゴローって男の子だったっけ?」
「当たり前だろうがっ!」
 俺は強い口調で言った。
「冗談冗談。でもさ、ジゴローってば、最近また女の子らしくなってきたよね。私でも見間違えちゃうくらいだよ」
「まじかよ!?」
「うん。髪型とか、かなり可愛いし」
 うー、やっぱり髪型が一番の原因か。俺は頭をわしゃわしゃと掻く。
「くっそ、姉貴の奴……こんな髪型にしやがって……」
 美容師見習いである姉貴は、よく俺の頭を練習台にする。
 俺としても、姉貴に髪を切ってもらうのは、散髪代が浮くし非常に助かるのだが、何故か、いつも女みたいな髪型にしやがるのだ。だから、さっきみたいに男にナンパされるんだ。
「ま、髪型差し引いても、ジゴローは女の子っぽいけどねー」
 グサグサッ!
 麻子の容赦ない一言で、俺の男としてのプライドに、大きなひびが入った。
「ふふ……どうせ俺は、たくましさとはかけ離れたオカマ野郎だよ……」
「ご、ごめんっ! つい本音が、じゃなくて、えっと、ほら、私、お腹空いちゃった! マック食べようよ! 待たせたお詫びに奢るからさ、ね?」
 麻子はそう言って、駅前のマックへと歩き出した。俺はため息を一つつき、麻子の後ろをもたもたと歩く。いいんだ、どうせ俺は女っぽいよ。
 って、いかん。うじうじしてて女々しいぞ俺。男たるもの、プライドに傷がついても常に前向きでなければ。
 そういう点では、麻子の方がよっぽど男らしいんだよな。悔しい事に。
「お、日曜にしては空いてるじゃん。らっきぃ!」
 店内に入ると、麻子は持っていた鞄で席をとり、すぐさまレジに並んだ。
 俺は適当にハンバーガーとポテト、麻子はビッグマックセットを注文する。
「よくそんなでかいの食えるなー」
「そりゃ、私はバリバリのスポーツウーマンですからね! 午前中はがっつり部活だったし、運動した後はたっぷり食べなきゃ!」
 そう言って、巨大なバーガーをがつがつと食べる麻子。俺はというと、ようやくハンバーガーの半分め辺りに差し掛かったところだ。
「で、今日のお目当ては?」
 じゅごごご、とジュースを飲んでいる麻子に問う。
「新しいシューズ!」
 麻子は、ハンバーガーのカスを飛ばしながら、大きな声でそう言った。パンカスが俺の顔にちょっとついた。女の子なんだから、もう少し品というものを考えた方がいいと思う。
 俺はハンバーガーをちまちまと小さく切り取って食べる。がぶりつくのはどうも苦手だ。
「ジゴロー、その食べ方男らしくないよ。もっと思い切りがぶりつかなきゃ。私みたいにさ」
 そう言って、麻子はビッグマックに豪快にがぶりついた。
 ほんと、男らしい奴だ。


 マックを出て、俺と麻子は再び街中を歩く。すれ違い様に、美人だ、とか、あの二人可愛い、とか聞こえてきた。その度に、俺は周りにガンを飛ばす。
 どいつもこいつも、俺を女だと勘違いしてやがる。俺は思わず、ため息をついてしまった。
 小さい頃から、女の子みたいと近所でも評判だった。
 白い肌、細い体、アイドル並の小顔(いや、別に自慢で言っているわけじゃない)を備え、なにより顔つきが女の子っぽかった。恐らく、モデルであった母の血を多く継いだのだろう。
 だけど、女っぽいと言われ続けて早十七年。いい思い出なんてこれっぽっちもなかった。
 小学生の時は、街を歩いていたら、アイドルにならないかと何度もスカウトされた。俺が男だと知ると、スカウトマンは目ん玉飛び出して驚いていた。
 中学生の時は、五人ほどから告白された。全員男だったから当然断った。
 女子の玩具にされ、無理やり女装させられて泣いた。その時は、麻子が助けてくれた。おかげで高校生になっても頭が上がらない。
 何故か、男友達が出来なかった。皆、妙によそよそしくて、俺と目が合うと顔を赤らめて俯くばかりだった。
 そういう訳で、俺は女の子っぽいと言われるのが嫌だった。俺は誰が何と言おうと男だ。
「うぉぉー! これこれ! これが欲しかったのよ!」
 俺達はマックを出て、近くの大型スポーツショップに来ていた。
 麻子は、真っ先にバスケットシューズのコーナーに行き、お目当ての品を見つけ一人わーわーと騒いでいる。
「相変わらず、バスケのシューズには目がねえな」
「当ったり前よ! よっしゃ、これ気に入った! 店員さん、会計お願いします!」
「決断早っ!」
 女の子の買い物は長いと聞くが、麻子の場合はそれに当てはまらない。欲しい物があったら、すぐに買う。男の俺もビックリするほどの即断っぷりだ。
「一万三千円になります」
「はいはいっと」
 麻子は財布から万札を取り出す。好きな物には金を惜しまないところも、また男らしい。
「お前、この前も色々買ってなかったっけ? 金あんの?」
「余裕っしょ! この前、短期のバイトでたっぷり稼いで……あ」
 財布の中身を見て、一瞬麻子が固まる。そして、俺のほうに顔を向けた。そしてウインク。
 おいおい、まさか。
「ジゴロー、お願い! 二千円貸して!」
「そう言うと思った」
 俺は苦笑いを浮かべる。
「これ人気だから、今日買わないと売り切れちゃうかもしれないんだ。買うなら今しか無いんだよっ! ジゴロー、いや、ジゴロー様! 一生のお願い! 哀れな子羊に二千円を恵んでください!」
 麻子は両手を胸の前で合わせ、祈るようなポーズをとった。
 この間も一生のお願いを聞いたような気がする。が、そんな重箱の隅をつつくような事を言ったら男らしくない。
 女の子が困っていたら――それも、好きな子だったらなおさら――黙って助けてやるのが、男ってもんだ。
「しょうがねーな。わかったよ」
 俺はポケットから財布を取り出し、中から二千円を取り出した。それを見た瞬間、麻子の顔がぱぁっと明るくなる。
「やった! ありがとう夏目ソウセイさん! 大好き!」
「夏目さんに礼言うのかよ! しかもソウセイじゃねえ、漱石だ!」
「うそうそ。ありがとね、ジゴロー。後で絶対返すから! や、マジ恩に着ます!」
 そう言って、麻子は俺にチャキっと微笑み、レジに向かった。
「はぁー……」
 その背中を見て、俺は一人ため息をつく。無邪気な笑顔を向けられた時、久々に、胸の奥がドキっとした。
 いつ頃から、そういう風になったのかはわからない。が、俺は麻子に惚れているのは否定の仕様が無い事実である。
 なんつーかもう、めちゃくちゃ惚れていた。他の女なんか、まるで視界に入らない。
 だけど、高校生になっても、俺と麻子は幼馴染という関係のままだ。それ以上でも、それ以下でもない。こうして買い物に付き合ったり、勉強を教えあったりするけど、決してカップルがするような事はしない。
 良くも悪くも、昔から全く変わらない関係なのだ。
 その関係が壊れるのが怖くて、俺は今日まで想いを隠してきた。だけど。もし、俺の身長が麻子を越して、今よりもずっとずっとたくましい男になれたら。
 俺は麻子に、告白しようと思っている。これは、麻子に惚れた時からずっと心に決めている事なのだ。
「とは言うものの……」
「ういっす! 買い物完了ッス!」
 上機嫌で、麻子が戻ってきた。
 俺の前に並んだ麻子は、やっぱり俺よりも頭一つぶん大きかった。
「はぁ……後、十六センチか……」
「あれ? どうしたのジゴロー。元気無いぞー。悩み事か?」
「うるせ。この百七十センチめ。お前に俺の悩みが分かるか」
「あは、わかんなーい」
 麻子は、きゃぴっ! って感じに可愛いこぶる。
 ほんっと、憎たらしいわ。いつか身長追い抜いて、ぎゃふんと言わせちゃる。
「私の買い物は終わったけど、ジゴローは何か買わないの?」
「俺? えーっと、何か買う物あったかな」
 空手用のサポーターはもう買ったし、冷却スプレーも家にまだある。
「あ、そう言えばプロテインがもう無いんだった!」
「プロテイン? ジゴロー、そんなの飲んでるの?」
「おうよ。筋トレした後に、牛乳に混ぜて飲むんだ。結構うまいぜ?」
 一般的にプロテインはマズイと思われがちだが、最近のはプレーン味やらオレンジ味やらバリエーションに富んでいて、味の方もなかなかオイシイのである。
「プロテインなんか飲んでたら、筋肉ムキムキになっちゃんじゃない? ジゴロー、せっかく腕とか足とか細くて綺麗なのにー」
 麻子は、不満そうな声をあげる。
「男が美脚でも意味ないっての。それに、筋肉つけないと、空手の組み手やらせてくれないって言われたんだもん」
 俺は、麻子にプロテインの素晴らしさを説きつつ、それが置いてあるコーナーに向かう。
 俺の御用達のプロテインは、マッスル社のパワーレッド。一番飲みやすく、値段も安いのでオススメだ。
「あれ? 売り切れてる」
「あらら、残念だね。別のにすれば?」
「いや、俺はあれがいいんだ。他のは味もこってりしてるし、飲みにくい」
「……こだわり、あるんだ」
 麻子の反応はイマイチよろしくない。美味しいのに。今度、飲ませてやるか。
 何て考えつつプロテインの棚を見ていると、奥の方に赤い缶が置いてあった。
「あれ? なんだよ、一缶だけ残ってんじゃん」
 俺は棚の奥に手を伸ばし、それを手に取った。赤色の缶に、英語でマッスルと書かれている。
「残っててよかったー。んじゃ、ちょっくら買ってくるわ」
「あ、お金は?」
「大丈夫。俺には聖徳太子さんがついてるから?」
 そう言って、俺は五千円札を麻子に見せびらかす。
「聖徳太子? 七つの耳を持つ坊さんだっけ?」
「……色々と突っ込み所満載だけど、あえて何も言わないでおくわ」
 俺は麻子のトンチンカンな答えに、苦笑いを浮かべる。
 麻子の奴、今度の中間テスト大丈夫かな? この分じゃ、また徹夜で勉強を教える羽目になりそうだ。


 買い物を終えた俺達は、その後、本屋でスポーツ関連の本を立ち読みしたり、カラオケで遊んだりして、夕方には家路に着いた。
 女の子と二人きりで街で遊ぶなんて、他の奴から見たらデートだけど、俺と麻子の場合ははっきり言って全然そんな甘ったるいもんじゃない。男友達と遊ぶようなサバサバっぷりである。
 今日も今日とてそんな休日を過ごし、家に帰った俺は日課である筋トレに励んでいた。
「四十八、四十九……ご、ごじゅ……ぐはっ!」
 腕立て伏せ五十回、終了。正確には四十九回と半分だけど、四捨五入で五十回と言う事にしておく。
「うっし、これで今日のトレーニング終了っと」
 俺はタオルで汗を拭き、自室を出てリビングへ向かう。
 トレーニングの後は、すぐにプロテインを飲むのが俺の日課その二なのである。冷蔵庫を開け、牛乳を取り出し、大き目のコップに注いだ。
「気持ちはいつでも一緒〜なくしたものは永遠〜けれどありえるこころは〜永遠〜っと」
 鼻歌を歌いながら、俺は袋からプロテインを取り出す。
 蓋に手をかけて、開けようと捻ってみたのだが。
「あれ? めっちゃ固いぞ。ふんっ! でいっ……ぬっ!」
 開かない。更に力を入れる。
「うおりゃあっ! てえぇい!」
 腰を入れて、思いっきり蓋を捻る。まるで開く様子はない。
「面白れぇ。俺の力を試そうってのか。いいぜ、意地でも開けてやらぁ!」
 息を止め、全力で蓋を捻る。毎日、腕立て五十回やってんだ。ジゴロー様を舐めんなよ。
 ぬぎぎぎ……! よし、動いた。もう少しで開く。
「おりゃああああ!」
 がっぽーん! という空気の抜ける音と共に、プロテインの蓋が勢い余って吹っ飛んだ。
 そして、何故かプロテイン缶の中から白い煙がもくもくと出始める。
「うおおっ!? な、なんだあ!?」
 プロテイン缶から白煙が! 火事か!?
 何がなんだか分からず、俺はビビってプロテイン缶をリビンに投げ捨てる。部屋の中央に転がったそれは、まだ煙を排出し続けている。
「あー、やっと出られたし♪」
「だ、誰だ!?」
 煙の中から、女の声が聞こえた。視界が煙で遮られていて、声の主を確認する事は出来ない。
やがて煙は徐々に晴れていき、ようやく視界が復活。俺の目に飛び込んできたのは――――
「ハァイ、ご主人様。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃーんっと。ランプの魔人、ツン様とうじょーうっ!」
「……は!?」
 煙の中から現れた声の主は、金髪ツインテールの女の子だった。頭には、インドの人が被っている帽子(確かターバン)みたいのを着けている。
 俺は状況が分からず、すっとんきょうな声をあげる。
 何だ、こいつ。一体、何がどうやってこうなったんだ? 意味が分からない。
 俺がしりもちをついた格好で呆然としていると、金髪ツインテールは髪をかきあげて、俺に視線を向けた。
「ご主人様、状況が飲み込めてないって顔してますねー。これは説明した方がよろしいでしょうか?」
 俺は呆けたままこくこくと頷く。
「んじゃ、簡単に説明を。私の名前はツン。ツン=フォワデール=マクスバーン=カルタ。気軽にツンって呼んで下さいね? それは置いといて、一言で言えば、私はランプの魔人的なカテゴリーに属する者なのです。こっちの世界の規約に従い、封印をといてくれた貴方……ジゴロー様でしたっけ? ジゴロー様の願いをかなえて差し上げます。超短縮して説明すると、こんな感じですね。オーケーでしょうか? ご主人様」
 自称ランプの魔人ことツンは、早口でペラペラと説明をする。俺は真っ白になった頭を再起動させて、状況をゆっくりと把握する。
「えーっと、要するに、君はランプの魔人で、願いを一つ叶えてくれると」
「その通りです。さっすが、若いだけあって理解早いですねー」
 ツンは感心するように言って、軽く手を叩き拍手をする。
「……なるほど」
「はい。と言う訳で、願い事を何なりと申し下さい、ご主人様」
 ツンは背筋を伸ばして、直立する。
 ランプの魔人って、ヒゲ生やしたおっさんじゃなかったっけ?
 宙に浮いてるんじゃなかったっけ? つーか、普通に足あるしね。
 そもそもプロテインの缶から出てきて、ランプの魔人て。
「ご主人様? どうして目を瞑って瞑想をとるようなポーズを?」
「これは夢、これは夢、これは夢……」
 俺はぶつぶつと呟く。よくあるよね、夢の中なのに夢だって分かっちゃう、不思議体験みたいの。こういう時は、早く目覚めろと念じるに限る。ああ、爽やかな朝の日差しがっ! 雀の鳴き声が!
「ご主人様ー。これは夢じゃないですよー」
 ああ、まだ幻聴が聞こえる。何だよ、金髪ツインテールの魔人って。俺はそういうのが趣味だったのか?
 くそ、麻子という心に決めた女が居るというのに。俺のバカ、ドスケベ、変態、チビ。
「誰がチビだっ!」
「きゃっ! ど、どうしたんですか?」
「あれ? ここで目覚めるパターンじゃないの?」
 目を開ける。そこにはやっぱり金髪ツインテールの魔人がいた。
「だからー、これは現実ですって。現実を受け止めましょうよ」
「いやいや、いくらなんでも、魔人とか有り得ないから。何? 君、魔法とか使えちゃうわけ? 科学では解明できないような現象とか起こせちゃうの?」
 俺は冷静に突っ込みを入れる。夢なんて、所詮は俺の想像上の世界だ。こうやって突っ込んでいけば、そのうちバカらしくなって目覚めるだろう。
「んー、まだ現実を受け入れられませんか。じゃあ、試しに一つ、魔法を見せてあげますよ」
「おうおう、やってみやってみ」
 やんややんや。俺は胡坐を掻いて、魔法とやらを眺める事にした。
 さて、そろそろ俺の脳内のネタも尽きる頃だ。そうなったら目が覚めて、何だ夢かーって笑って。
「ビューティフル・ダーク・パラダイス!」
 ツンは妙な呪文を叫びつつ、くるりと一回転して、俺に手の平を向けた。
 うわー、何だその呪文。美しい悪の楽園て。
「お?」
 と、何やら体全体がもごもごと疼いた。体内の血液が沸騰しているような、ちょっと気持ち悪い感触が俺を襲う。
「何だこれっ!? 体が、何か、気持ち悪い」
「うふ。とってもいい魔法ですよ? すぐに効果が表れますから、もう少々お待ちくださいませ」
 ツンは得意気な顔で言う。が、俺からしたら、洒落にならない。得体の知れない何かを、体に施されてしまったのだ。
 それは確実に、俺の体を『変化』させていく。
「おい……お前……何をッ!?」
 瞬間、俺の体から眩い光が発せられた。突然の閃光に、思わず目を瞑る。
 数時間後、いや、数分数秒後かもしれない。俺はそっと、目を開けた。体の疼きは、すでに治まっていた。
「はい、これで完成です。きゃー、素敵になりましたね、ご主人様!」
「え……?」
 ツンの言っている意味が、いまいち理解できない。何か体が変だ。何となく、自分の体じゃないみたいだ。
 俺は自分の体に、視線を向ける。体全体がちっちゃくなったような、丸みを帯びているような……。
 あれ? 何だコレ。
「……」
 胸に違和感を感じ、恐る恐る触ってみる。ふにょん。弾力がある。もう一度、触ってみる。ぷよよんぷよよん。柔らかい。
「まさか」
 全身から血の気が引いていく。俺は恐る恐る、男の象徴がある股間に手を伸ばした。
 無い。
 跡形も無い。
 神から与えられた男の象徴が、消滅してしまっている。
「どうです? 今のは、より一層魅力的な女の子になれる魔法なんですよ。前のままでも十分魅力的でしたけど、これで更に女の子としてのレベルがぐーんと上がった筈ですよ」
「……」
 やっぱり、今の魔法は、女になる魔法だったのか。嘘だろ? 冗談だと言ってくれよ。こんな事、現実にある訳無いじゃないか。
「それでは、満足して頂いたようなので、私はこれで」
「おい」
 俺は立ち上がり、背を向けようとしたツンの肩を掴む。
「何でしょう?」
 認めない。こんなの、現実として認めない。だけど、いくら夢の中だとしても。
「俺を男に戻せぇぇぇ――――ッ!」
 女になるなんて、まっぴらごめんだ!
 俺はツンの耳元で叫びながら、肩を激しく揺さぶる。ツンは目を見開き、驚いた表情を浮かべている。
「え……えぇ!? ご主人様、男だったんですか!?」
 ぐさぐさっ! だから、それは身長の事と同じくらい言われたくない事なんだって!
「当たり前だっ! 何が女としてのレベルがアップだ! 男が女になってどうすんだよ! 早く戻せ、早く早く早く今すぐにぃ――――!」
 俺はツンを上下左右に揺さぶる。だんだん、ツンの瞳に星マークが浮かび上がってきた。
「わ、わ。目が周ります……うぎゅ」
 ばったりと、ツンがその場に倒れこむ。すると、またもやプロテイン缶から煙が発生し、ツンの体を包み込んだ。
「おいコラ! 消えるな! 戻してから消えろ! おぉぉぉいッ! バカヤロ――――ッ!」
 俺の叫びもむなしく、ツンはプロテイン缶の中に吸い込まれていった。リビングのどこかに放置されていた蓋が、宙を舞ってあるべき場所に納まる。
 誰か、これは夢だと言ってくれ。
 こうして、四月某日の夜八時。俺は、女になった。


 第一章


 俺の朝は、爽やかな雀の声と、カーテンの隙間から差し込む木漏れ日で始まる。うーん、と伸びをして、一息。ベッドから降りて、とりあえず鏡の前へ。
「やっぱり……戻ってねえ……」
 鏡に映る俺は、顔こそ変わってないものの、体つきは女のそれになっていた。
 僅かだが膨らみのある胸。がっしりとした角ばった体でなく、全体的に丸みのある体。元々白かった肌は更に白くなっている。
「夢じゃ……無かったぁぁぁ……」
 朝っぱらから、陰鬱な気分が俺を包み込んだ。
 昨日、風呂場で受けたショックほどでは無いが、夢オチという最後の望みも消え去り、いよいよこれは現実なのだと思い知らされる。
 そして、決め手はコイツの存在だ。
「ふわぁ……おはようございまーす。ご主人様」
「おはよう。目が覚めたんなら、姉貴が起きる前にさっさと戻せ今すぐ戻せ今なら幻覚として対処できるから」
 俺はツンの肩を両手で掴み、ぎろりとガンを飛ばす。
「わわわっ。朝から怖いですよ……」
「お前のまいた種だろうが。早く魔法でも魔術でも何でもいいから元に戻せ。こんな衝撃的な事が周囲にばれたら、俺の人生お終いだ。つーわけで男に戻せ」
 もう自分でも何回戻せって言ったか分からない。ツンは、慌てる俺とは対照的にゆったりとした動作で、眠気眼を擦る。
「ふわぁ……。分かりましたよ、戻します。ちぇっ。せっかく久々に成功したのにぃ」
「おい、久々に成功って、失敗する事もあるのか?」
「いえいえ、何でもありません。そういえば、願い事は一つって決まってるけど……こちらの手違いなので、まぁ大丈夫でしょう。後で報告書書かなきゃ……めんどくさ。っと、それじゃ元に戻しましょう」
 ツンはぶつくさ言いながら、すっくと立ち上がる。
 怠け者の魔人め、と思ったが、いちいち噛み付く気にもなれず、言葉を飲み込む。
「アマゾネス・パワー・インパクト!」
 昨日と同じように、ツンはへんてこな呪文を唱え、一回転する。呪文の意味については面倒なので、もう突っ込まない。そして、ツンは俺に手の平を向けた。
「……」
「……」
 その状態のまま、沈黙が数秒流れた。シーン、と、そんな音さえ聞こえてくる。
 俺は重い口を開き、沈黙を破った。
「なあ、何も変化しないんだけど」
「あれ?」
「どういうことなの?」
 ツンが頬をぽりぽりと掻く。
「あっれー? おかしいですねー。呪文はあってるはず何ですけど。……あ、もしかして」
 何か思い当たる節でもあったのか、ツンは自身の封じ込められていたプロテイン缶を手に取る。
「あー、やっぱり」
「どうしたんだよ」
 尋ねると、ツンはそろーっと振り向き。
「昨日の魔法で、魔力を全部使っちゃったみたいです。あはっ」
 まいったねー、こりゃまいった! ってな感じの笑みを浮かべた。
「ははは。魔力が無いのかー。あれだろ? 魔力ってエムピーみたいなもんだろ? それじゃ魔法も使えないよなー」
「ですよねー。私とした事が、封印されてすっかりパワーダウンしちゃったみたいですぅ」
「あははは」
 俺は笑う。
「うふふふふ」
 ツンも笑う。
「あはははははははははは」
「うふふふふふふふふふふ」
 一瞬の静寂。そして、とうとう俺の堪忍袋の緒がぷっちんと切れた。
「ざけんな――――ッ! どうすんだよ、この体!」
「ごめんなさいごめんなさいっ!」
「ごめんですんだら警察いらんわ! 責任とれ! 人として責任とれよっ!」
「人じゃないです、魔人ですっ!」
「どっちでもいいわっ! 俺を男に戻せぇぇぇ!」
 どったんばったん。部屋の中を、あっちこっちに逃げるツンと、それを追う俺。数分ほど激しい格闘が繰り広げられ、やがて互いに息を切らす。
「はぁはぁ……うっ……グス。俺、もうお婿にいけない……」
「お嫁に行けばいいじゃないですか」
 ギロっと睨むと、ツンは「す、すいません」と謝ってしょんぼりしてしまった。
 落ち込みたいのはこっちだよ……。せっかく、毎日男らしくなる為に、麻子に似合う男になるために頑張ってきたのに。よりにもよって、女の子になってしまうなんて。元も子もないじゃないか。
 部屋の隅で体育座りをして、膝の中に顔を埋めしくしくと涙を流す俺。
 あーあ、泣くなんて女々しいぜ。もういいか、今の俺は女だし。ちくしょう。
「あの、元気出して下さい。魔力が溜まれば、また魔法が使えるようになりますから……」
「……ほんと?」
「はい。魔力さえあればこっちのものです! 任せてください!」
 ツンは胸を張って、はっきりとそう言った。一瞬、いい奴だなあと思ったが、元々の原因はこいつにあるのを思い出し、もっかい睨みつけておいた。
「グス……それで、魔力って何時間くらいで溜まるの?」
 俺は顔をあげて、ツンに尋ねる。
「いえ、私たちのようなランプの魔人の場合、魔力は時間の経過では回復しないんですよ」
「え……? じゃあ、どうすればいいの?」
 俺はぐすぐすと鼻を啜りながら問う。
「私たちは、人間の強い感情……例えば、喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、好意、などなど。そういった強い想いや感情の変化により発生するマナを魔力としているのです」
「感情……想い……?」
「はい。例えば、人に親切な事をして、感謝されたりすれば、その瞬間にマナが発生します。その際に、ランプ……私の場合は、プロテインの缶ですけど、それが近くにあればマナを吸収し、魔力を蓄える事が出来ます。発生するマナの量は、感情や想いが大きければ大きいほど、それに比例して増大します。つまり、他人から感謝されたり喜ばれたり、憎まれたり愛されたりすれば、結果として私は魔力を蓄える事が出来るんです。……あ、ついでに言っときますけど、ランプの所持者……つまりご主人様がそういった感情や想いを受けた時しかマナは吸収できませんからね。他の誰かが感謝されて、そのマナを横取りする事は出来ません。ふう、こんな感じです」
 ツンは、言い終えると大きく深呼吸をして息を整えた。
「わかったよ。つまり、感謝されたりすればいいんだろ?」
「そういう事です。さすがご主人様。今の説明で理解するとは流石ですね」
 人生が掛かってるんだから、当たり前だろ。とにかく、誰かにばれる前に、一刻も早く魔力とやらを溜めて、元に戻らねば。
「……よぉし!」
 俺はぽん、と膝を叩いて立ち上がった。
 くよくよしてたって、何も始まらない。男なら(今は女だけど)とにかく行動あるのみだ。
「ツン。お前のせいでこんな事になったんだから、元に戻ったら、俺の願い事叶えてくれるよな?」
「え? えーっと……まぁ、規約違反になりそうだけど、事情が事情だし、大丈夫かな。はい、大丈夫です。魔人の誇りにかけて、約束しましょう」
「よっしゃ! そうと決まれば、行動開始だ!」
 元に戻ったら、絶対、身長を百八十センチくらいにしてもらおう。ついでに、筋肉もつけてもらって。そして、麻子に告白しよう。うん、完璧だ。少しは希望が見えてきたぞ!
「よおし、頑張りましょうご主人様! えいえいおー!」
「えいえいおー!」
 俺とツンは、拳を高くあげて叫ぶ。
 と、その時。ガチャリ、と背後でドアの開く音がした。
「おい、うるさいぞジゴロー。朝から何を一人で騒いでいる」
「うわあああっ! あ、アキ姉ぇ!」
 ずざざざっ! と、俺は数歩後ずさる。
 ノックもなしに部屋に入ってきたのは、クー姉だった。もうすでに朝の支度を済ませたのか、背中まで伸びているサラサラの長い黒髪が、きっちりと整えられていた。
「何をそんなに驚いているんだ? またエロ本でも読んでいたのか?」
「またって何だよ、またって! そ、そそそそれより、何といいますか、これは」
 俺は、自分の体が女体化している事にばれるんじゃないかと思い、体をよじって僅かに膨らんだ胸を隠す。しかし、ツンはもはや隠しようが無い。完全に見られてしまった。
 衝撃! 弟の部屋に入ったら、ターバンを巻いた金髪ツインテールの女を連れ込んでいた!
 洒落にならん。どうやってごまかせばいいんだ。
 しかし、アキ姉はツンの事など気にもせず、眉をひそめて俺を見つめた。
「思春期だから、別に恥じる事ではない。ただ、朝っぱらからそういう事をするのは、控えた方がいいぞ。じゃ、私は出勤する。お前もさっさと学校に行け。遅刻するぞ」
 淡々とそう言って、アキ姉は部屋から出て行った。
 ……あれ? ツンについては、何もなし? それに、俺の体にも気付いてなかったみたいだけど。
「あ、私は基本的に、ご主人様以外の人には見えませんよ。ランプの魔人は、ランプを持った人間にしか見えないんです」
「え? そうなのか? なるほど、それでアキ姉はツンについて何も言わなかったのか」
 ほっと胸を撫で下ろす。いやー、焦った焦った。冷や汗かいたぜ。体の方も気づかれなかったみたいだし。
「そういや、胸はあるっちゃあるけど、これくらいの膨らみなら、何とかごまかせるかな」
 俺は膨らんだ自分の胸を見る。ちょっと複雑だ。とにかく、触れられたり、生で見られたりする事がなければ、ばれる心配はないだろう。
「ご主人様、そう言えば、学校はいいんですか?確か、人間界の学校は八時三十分までに登校しないと、遅刻になるのでは……」
「え? ああ、そういや今何時だ?」
 俺は壁時計を見る。現在の時刻、八時二十分。
 えーっと、俺の家から学校までは、歩いて十分はかかるから、てか、その前に着替えて顔洗って髪とかして。
「遅刻だぁぁぁ――――ッ!」
「うわわっ!」
 俺はツンの横を猛ダッシュで通り抜け、洗面所へ向かう。速攻で顔を洗い歯を磨き、髪を丁寧にとかす。美容師を目指すアキ姉に色々教えられたせいか、短時間で整える事が出来た。
 朝飯はパス。パジャマ脱いで、制服着て、それで。
「あうっ!」
「どうしたんですか!? ご主人様!」
 くそ、急いでるのに、朝のお通じが!
「と、トイレだ!」
 俺はトイレに駆け込み、さっさと用を足そうとズボンを下げる。
 そして、気付いた。
「ああっ!」
 無い! 男の象徴が! そういえば、今、俺の体は女だった!
「ど、どうすればいいんだっ!?」
 落ち着け。落ち着くんだ俺。いくら女になったとはいえ、これは自分の体だろう? 本能に従えば、自ずとやり方がわかるはずだ。
 女子便所を思い浮かべろ。何故、大きい方のトイレしかないのか。それは、えーっと。
 ……………。
 ……。
 ジャ――……、バタン。
「……」
「ご主人様、ささ、学校へ急ぎましょう!」
 何か、もの凄く大切なものを失ったような気がする。気にしちゃダメだ。気にしたら負けなんだ、うん。きっとそうだ。人生ってそんな感じなんだ。
「それじゃ、私は缶の中にいますので、何か用があれば呼び出してください。あ、話くらいなら、缶の中にいても出来ますから」
 そう言って、ツンは缶に吸い込まれていく。
「持ち運びに便利だな、オイ」
 ツンは、煙に包まれプロテイン缶へと完全に入ってしまった。俺は鞄にそのプロテイン缶を入れ、ダッシュで学校へと向かう。
 なるべく、深い事は考えないようにしよう。頭がおかしくなりそうだぜ、まったく。


「ハァ、ハァ、ま、間に合った」
 午後八時二十九分。俺は両膝に手を置きながら、少し休む。何とか、滑り込みセーフで遅刻は免れた。家を出てから学校まで四分。新記録達成だ。
「ひぃ、ふぅ。やれば出来るじゃん、俺」
「流石、ご主人様! よっ、日本一!」
「やかましい。誰のせいでこうなったと思ってるんじゃ」
 俺は缶の入っている辺りをばんばんと叩く。
「あうあう、や、やめてください。目が周ります」
「ったく。あーあ、朝から汗だくだよ。ちくしょう」
 俺は袖で額から流れる汗をを拭いながら、下駄箱で靴を履き替える。俺の通う朝日高校は、一年生は三階、二年生は二階、そして三年生は一階と、それぞれ学年によって教室の場所が割り振られている。
 一年坊は三階まで上れって事だ。この階段は、地味に体力を削ってくるので侮れない。
「ちわー」
 適当に挨拶しながら、教室に入る。
 大半のクラスメイトは、もうすでに来ており、教室は雑談の声で溢れていた。そのお陰で、俺はこっそりと教室に入り、こっそりと自分の席に着く事が出来た。
「ジゴロー遅いよー。遅刻ですかー?」
 隣の席に座っている麻子が、明るい笑顔を浮かべながら言った。進学先も一緒で、クラスも一緒で、おまけに席も隣とは、もはや何かの力が働いているとしか思えない幼馴染っぷりである。
「ばっか、ギリギリセーフだって」
「うわ、汗めっちゃかいてんじゃん。ブレザー脱げば?」
「言われなくても、そうするわい。うへー、あっつー」
 俺はブレザーを脱ごうとボタンを外す。
「ご主人様、だ、ダメです!」
「え?」
「胸、胸!」
 言われて、俺は自分の胸を見る。ふと、朝の全力ダッシュですっかり忘れていた事を思い出した。俺、今、女の子の体なんだ。そして、汗をめっちゃかいたのだから、当然、白いワイシャツは透ける。
 つまり。
 め、めっちゃ乳首透けてる――――ッ! ぽちってなってるぅぅぅ!
「うわわわわっ!」
 俺は慌てて、ブレザーを着なおす。いくら膨らみが僅かとは言え、これはヤバイ。透けてたら、明らかにばれてしまう。
 おまけに、俺は当然ブラジャーをしていない。そんな状態で透けたら、もはや言い訳のしようがない。
「どうしたのさ? 脱ぐんじゃないの?」
 不思議そうに、麻子が尋ねた。俺は体をちょっと逸らしつつ、なるべく自然に答える。
「あ、い、いや。やっぱ汗で冷えたら嫌だし、着たままでいいや」
「ふーん? まあいいや! それよりさ、大ニュース大ニュース!」
 麻子は、それ以上深く追求はせず、興奮気味で別の話題をあげた。聞いて聞いてと言わんばかりに、身をずいと乗り出す。よっぽど良い話なのだろう。
「お? 何だよ」
「私さ、夏の試合でメンバーに入れてもらえるかもしれないんだっ!」
「まじで!? 一年生なのにいいのかよ!」
「今日さー、朝練の時にコーチに言われたんだよねっ! 君、今度の大会で使うからって。うひゃー! もう嬉しくってさあ!」
 麻子は、腕をぶんぶんと振り回して、歓喜を体で表現する。ほんと、感情の起伏が分かりやすいやっちゃなー。そこがまたいいんだけど。
「すげえな。さっすが、百七十センチ! 恐れ入りやした。ははーっ」
「ふふん。もっと褒めてかまわぬぞ」
 顔が緩みっぱなしだぞ、麻子。なんつーか、全身から幸せオーラ出まくってるな。見てるこっちも嬉しくなってしまう。これが、麻子の凄いところだ。
 喜びや幸せをストレートに伝えてくるから、周りの人にもそれが伝染する。幸せの連鎖ってやつを、自然に作っちまうんだ。
「ご主人様」
「お?」
 ふと、鞄の中からツンの声が聞こえた。
「僅かですが、マナが出ているので吸収しますね。これは、たぶん幸せと喜びのマナです」
「おお、マジか。さっそく収穫ありだな」
 麻子の周りに、緑色と、黄色の光の球が浮かんでいるのが見えた。あれが、マナってやつか。
 ツンは、プロテイン缶の蓋を少しだけ開けて、そこから掃除機のようにマナを吸い寄せ、吸収する。
「吸収完了です、ご主人様」
「おっしゃ、これで元に戻れるのか!?」
「いえ、申し訳ありませんが、ぶっちゃけ全然足りません。必要量の一パーセントにも満たない程度のマナでした」
「何だよー、そんなちっとかよ」
 俺はがっくしと肩を落とす。
 ま、そう簡単にはいかないか……。塵も積もれば山となるだ。こうやってマナを集めていけば、そのうち溜まるだろう。
「な、なあ、ジゴロー。さっきから誰と喋ってんの?」
「え?」
 俺は顔を上げる。麻子が、凄く不思議そうな顔で俺の事を見ていた。
 し、しまった! ツンは他の人には見えないし、声も聞こえないんだった!
 つまり、今さっきの俺は、鞄に向かって独り言を喋るちょっと可愛そうな人に見られてしまった可能性が高い。
「い、いいい今のは何でもねーよ! 独り言独り言!」
「えぇ? ジゴロー、大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」
「まじ大丈夫! もう元気ありまくりだし!」
 俺は無理やり笑顔を作って、元気アピールをする。麻子はやっぱり不思議そうな顔をしている。ぐぐ、ちょっと苦しいか。何とか話題を逸らさねば……。
「ジゴローちゃん、麻子ちゃん、おはよー」
 俺が言い訳を考えていると、そこに救世主が光臨した。
 頭には可愛らしい赤いリボン、髪の毛は肩までのセミロングといった、可愛らしい外見。そして何より、そのぼんやりとした癒し系の雰囲気で人気の、三神桜が来たのだ。
「桜、おいっす! 今日もリボン可愛いねぇー」
「えへへ、そうかなぁ」
 麻子は、桜の頭をくしゃくしゃと撫でる。桜さんは嬉しそうに、頬を赤らめた。なんつーか、ほほえましい光景なんだけど、色々と想像してしまうのは男の性だ。あ、今は女か。
「ジゴローちゃんも、おはよー。今日も一段と美人さんだねー」
 桜は、ゆったりとした動作で、俺に向かって微笑む。
 うーん、こりゃ確かに人気になるのも頷ける。麻子とはまた違った、いわゆる護ってあげたくなるような可愛さがあるのだ。
「だからー、ちゃん付けはやめろって、この間言ったろ? また元に戻ってるじゃん」
「あ、そうだったぁ。ごめんなさい、えーっと、ジゴロー君?」
「何で疑問系なんだよっ!」
 桜とは、麻子を通じて高校から知り合った友達である。
 とてもそうは見えないが、麻子と同じバスケ部で、毎日の厳しい練習にもちゃんとついていけているらしい。ちなみに、運動神経の方は、まあ雰囲気通りというかよろしくない。
「あ、あわわ」
 ぐらり、と何も無いところで、桜がふらつく。
「うおっ、と。大丈夫か?」
 俺は素早く手を伸ばし、桜の肩を支えてやる。
「ありがとー、ジゴロー君。えへへ、自分の足に引っかかっちゃったみたい」
「自分の足て。桜さんって、ほんと天然だよね……」
「そうかなー? 自分じゃよくわからないんだ」
 いや、絶対天然ですよ。それ。
 ん? ところで、さっきから妙に殺気を感じるのだが、気のせいだろうか。……気のせいじゃない。隣の席から、只ならぬ殺気が俺に向かって放たれている。
「ジゴロー、鼻の下伸びてるよ」
「なっ!」
 慌てて、手で鼻を隠す。麻子は、汚いものでも見るかのような目つきで俺を見た。
「スケベ」
「ち、ちち違うって! 俺はただ、桜さんが倒れそうだったから支えただけで!」
「顔真っ赤にしちゃって、やーらしー」
 うぐぐ。くそ、俺は別にそんなつもりは……ちょびっとはあったけど、とにかく誤解なのに!
「じ、ジゴロー君も、そういう、いやらしいこと考えるの?」
「だぁぁ! もう、この話題終わり!」
 桜が頬を赤く染めながら、とんでもない質問をし始めたので、俺は強制的に会話を終了させた。麻子は、そんな俺と渡桜の様子を見て、けたけたと笑っている。
 高校に入ってからは、こんなやり取りばっかりだ。楽しいっちゃ楽しいんだけど、何となく麻子は俺に対して脈なしって感じがするのは、気のせいだろうか。
「ったく、お前らはほんとにもう……」
「あの、ご主人様」
「ん? 何?」
 今まで黙って缶の中にいたツンが、ひょいと顔を出す。ちなみに、缶の中では、ツンは小型化するらしく、一見すると良く出来た人形のようだ。
「その……、女の子同士でも、その、ど、ドキドキしちゃうものなのですか?」
 ツンは、もじもじしながら、しかし期待の篭もった瞳で俺を見つめる。
「……」
 とりあえず、缶を五回くらい叩いておいた。



 俺には男友達がいない。小学生の頃から現在に至るまで、ずっとだ。
 小学生の頃、女顔だった俺は、オカマだ男女だとバカにされ、しょっちゅう男子には泣かされていた。
 悔しかった。好きでこんな顔になったんじゃない。なのに、何で俺だけいじめられるんだと、何度も考えた。
 俺はただ、皆とサッカーやったり鬼ごっこやったり、バカな事して笑い合ったりしたかった。けれど、男子グループの中に、俺の居場所は無かった。
 そんな時、いつも俺を助けてくれたのが、麻子だった。麻子は、その頃から長身で、何事もハキハキとこなす女子の、いやクラスのリーダー的存在だった。俺がいじめられていれば、相手が男子であろうと、果敢に立ち向かって俺を護ってくれた。
『俺、絶対麻子を護れるくらい強い男になるから。絶対、なってみせるから。そんで、麻子がピンチになった時、今度は俺が護ってやる』
『うん! そうそう、その意気だよジゴロー!』
 あの日から、俺は空手道場に通い始めたんだっけ。麻子は、覚えているだろうか。そのやり取りの後、とある大事な約束をした事を。
 俺は今でも、覚えている。そして、いつか麻子も惚れ惚れするような男になって、その約束を叶えてやるんだ。
「……ゴロ……ジゴロー」
「お……?」
「起きんしゃいっ!」
 スパァン! といい音が頭の上で鳴り響いた。俺は驚いて、顔をあげる。
 痛い。誰だ、俺の頭を引っぱたいた奴は。
「何すんだよ、麻子!」
 やっぱり、犯人は麻子だった。俺は殴られた箇所をさすりながら、体を起こして伸びをする。数学の授業って、何であんなによく眠れるんだろう。ついつい熟睡してしまった。
「何すんだよ、じゃないでしょーが。次、体育だよ」
 麻子は腰に手を当てて、言った。
「体育? あ、やべっ!」
 俺は体操着を鞄から取り出し、慌てて教室から出て行く。
 体育の際の着替えは、女子が教室。男子が選択教室と割り振られている。教室には、すでに男子は俺一人しか残っていなかった。女子特有の甘い香りが、教室に漂い始めている。
「何なら、ここで着替える? ジゴローならオッケーかもよ? ねー、みんな」
「うんうん。ジゴロー君なら見られてもいいよー!」
「キャー、ちょっとエロいってぇ」
「ジゴロー君の裸体……み、見たいかも」
 麻子の一言に教室中の女子が甲高い声をあげた。
 何だその反応は。何でちょっとオッケーみたいな雰囲気出してんだよ。
「さてさてぇ、ジゴロー。どうする?」
「アホ!」
 ニヤニヤと笑う麻子に、一言そう言って俺は逃げるように教室を出た。
 俺は男だっつーの。女と一緒に着替えるとか、その、嬉しくない訳じゃないけどさ。
「ご、ご主人様――――っ! ちょっと、あの……」
 廊下に出ると、教室からツンの声が聞こえてきた。
 あ、やべ。プロテイン缶は鞄の中だった。でも、もう着替え始まってるだろうし、教室に入って冷やかされるのも面倒臭い。
「ま、五十分だけだし、いっか」
 俺はツンの声を無視して、ダッシュで選択教室に向かった。授業に一分でも遅れたら、あの熱血田中先生の事だ、校庭十周とか課せられちまう。
 さっさと着替えて、校庭に行かなければ。



 選択教室に入り、ブレザーを脱ごうとした所で気付いた。
「やべ……着替えられねぇ」
 男の時は何の気なしに上半身裸になれたけど、今は事情が違う。膨らんだ胸なんか見られたら、一発でアウトだ。それに、体操着もちょっとマズイかもしれない。
 あれって、結構胸の膨らみとか分かりやすいし……くそ、誰だよ体操着なんて作った奴は。相当な変態だ、ちくしょうめ。
 一向に着替えられぬまま、もたもたとしていると、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「くそ、こうなったらトイレで着替えるしかねえっ!」
 俺は体操着を持って、トイレへと向かった。男子トイレと女子トイレ、どっちに入るべきか悩んだが、今の俺は周囲からすれば一応、男である。
 つーわけで、汚い男子トイレの個室でこっそりと体操着に着替える。あまり気分のいい場所ではないので、俺はさっさと着替えてさっさと校庭に向かった。
「大丈夫……かな」
 鏡の前で、一応、胸の確認をしておく。
 体より少し大きめのサイズの体操着を買っていたのが幸いし、胸の膨らみはあまり目立たなかった。高校に入ったら、身長が二十センチくらい伸びると信じてエルサイズを買った一ヶ月前の俺、グッジョブ。
 校庭に出ると、丁度、田中先生の笛が鳴り集合がかけられていた。
「うーし、今日は気分がいいからドッジボールやんぞ!」
 田中先生の提案に、男子一同から歓声が沸く。
 ドッジボールか。よし、今日の目標。男らしく、ボールは避けずに全部受け止める。これでいこう。
「おらおら、勝手に動くんじゃねえ! まずは、二人組み作って柔軟運動だ!」
 ぎくぎくっ! ふ、二人組み作って柔軟だと!?
 それは困る。とても困る。一つ、俺には男友達がいない。二つ、今、俺は女だ。直接触られたら、怪しまれる可能性が高い。阻止しなければ、やばい。
「せ、せんせ……」
「はーい、二人組み作ってー」
 俺の言葉が先生の耳に届く前に、死の呪文が唱えられた。見る見るうちに、周りで二人組みが作られていく。
 や、やばい。どうしよう。このままだと、先生と組む事になるが、先生はぐいぐい触ってくるだろうから、出来れば避けたい。
 誰か、余っている奴はいないのか? 出来れば控えめな奴が好ましいが。
「ふぅ……」
 俺の耳は、そのため息を聞き逃さなかった。いた。俺と同じ、まだ二人組みを組んでない男が。そいつは、やれやれと言った様子で、腕を組みながら立っている。
 身長は結構でかく、百八十センチくらいだろうか。がっしりとした体格で、いかにも柔道とかやってそうなガタイである。そして、一番特徴的なのが、髭だ。鼻の下と顎に、男爵みたいな髭が生えている。
 ……おっさん? どう見ても、高校一年生には見えないんだけど。いや、でも体操着着てるし、教室でも見覚えがあるような、ないような。
 ええい、今は贅沢言ってる場合じゃない。もう、こいつでいいや。
「な、なあ。よかったら一緒に組まないか?」
「……」
 おっさんは、無表情のまま俺の方にゆっくりと顔を向ける。うおっ。近くで見ると、かなり迫力があるぞ、こいつ。……ちょっと怖い。
「……」
「……」
 無言のまま、俺はおっさん(仮名)と見つめ合う。おっさんは、無表情のまま、真っ直ぐに俺の眼を見ている。目を逸らしたくなったが、男としてのプライドがそれを拒否する。
 ……にゃろう、睨み合いなら負けねーぞ。俺だって、空手で鍛えてんだ。大男に睨まれたくらいじゃ、ビビんねーぞ。ビビってねーんだからなっ! 本当だからなっ!
「ふふ」
「はうっ!?」
 不意に、おっさんがにやりと笑った。俺はびっくりして、変な声を出してしまう。
 何だそのニヒルな笑みは!? や、やる気か……?
 俺は警戒し、一歩後ずさる。だが、おっさんはニヒルな笑みを浮かべたまま、手を差し出してきた。
「捨てる神あれば拾う神あり、か。僕でよければ、喜んでお相手しよう」
「ど、どうも」
 俺はおずおずと手を伸ばす。おっさんは、俺の手をぎゅっと握り締め、握手をした。手を握っただけで、わかった。こいつは強い。かなり鍛えてやがる。
「岩田鉄」
「え?」
「僕の名だ。君は?」
 岩田は、こめかみに人差し指をあてながら、俺に問いかける。何だその謎ポーズは。いろんな意味で不気味だぞ、こいつ。
「お、俺は二宮治五郎っていいマス」
「治五郎か。良い名前だ。まるで荒野を駆けるカウボーイのような、孤独さとワイルドさを連想させる」
「はぁ……」
 岩田は、そう言って含み笑いをする。全く意味がわからん。
 そんな訳で、俺は岩田こと不気味なおっさんと柔軟体操をする事になった。こっからが大変だ。二人組みの柔軟は、体が触れ合ってしまう。ばれないように、細心の注意を払わないといけない。
 まずは開脚運動。俺は股を開いて、開脚をする。そして、体を横に倒した。
「ほう。柔らかいのだな。何かやっているのか?」
「空手を少々……」
「ほう、空手。ふふ、なるほどな。人は見た目で判断してはならない、か。脳ある鷹は爪を隠す。追い詰められたネズミは猫にも噛み付く、といった所か。ふふふ」
 何か一人でぶつぶつ言ってる! ちょっと、怖いよ! 不気味だよ!
 俺は得体の知れない不安と恐怖を感じながら、柔軟をする。
「よし、いくぞ。痛くなったら、遠慮せずに言ってくれ」
 岩田が俺の背中をぐぐっと押す。触れた際に、何か言われるかと思ったが、どうやら何も気付いてない様なので、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「お、まだ大丈夫なのか? 中々やるね。並の高校生だと、これくらいでギブアップするのだが」
 岩田は俺の柔軟性に、少し驚く。俺はちょっと得意気になって、答える。
「いやー、全然余裕ッス。ま、柔軟は毎日風呂上りにやってるから」
「それは凄い。継続こそ力なり、だな。簡単に見えるが、継続するというのは中々できることではない。努力家なんだな、治五郎は」
「いやぁ、それほどでも……えへへ」
 褒められて、ますます気分がよくなった。何だよ、ちょっと変わってるけど、いい奴じゃん。
 自然と、だらしなく頬が緩んでしまう。こいつとは友達になれそうだ。
「じゃあ、もう少しやってみようか。よいしょぉ!」
「ぐあっ!?」
 岩田が、左手で思いっきり力を込めて俺の背中を押す。おまけに、右手は俺の太股を掴み、さらに開脚を広げさせる。
 流石にこれ以上はキツイ。だけど、今さっき余裕って言ったばっかだし、ここでギブするのは男としてのプライドが許さない。
「まだいけるのかい? 流石だね。そぉい、そぉぉぉい!」
「や……はうっ……」
 全身がぷるぷると震えだす。マジで痛いっ! そろそろ限界だって! ギブすべきか。それとも、先生から次の合図がくるまで耐えるか。
 ぐうう、苦しいけど、男なら耐えなければダメな気がする。今は女だけど。
「ひゃ……んっ! ちょ、ちょっと」
「そろそろ太股の筋が固くなってきたな。限界か?」
「あっ! ちょ、そこはダメだって……ひゃ、ひゃぁぁぁっ!」
 岩田の手が、太股の筋を触る。
 瞬間、体がびくんと震えて、体中に電流みたいな痺れが走った。俺は思わず、甲高い声で叫び声を上げてしまった。男子の視線が、俺達の方へと一斉に向けられる。
「……あ。えーっと」
 やばい。あまりに痛かったもんだから、思わず女の子みたいな声をあげてしまった。
 男子一同は、何故か生唾をごくりと飲んで、俺のほうを見つめる。おいおいおい、やめろ。そんな目で俺を見るんじゃない。
「あー……こほん。静かにやれ」
「は、はい。すいませんでした」
 田中先生がその場を納め、何とか事なきを得た。
 びっくりした。まさか、俺があんな声を出してしまうなんて……まるっきり女じゃないか、ちくしょう。
「すまない。ちょっとやり過ぎたみたいだ。弘法にも筆の誤り、猿も木から落ちる。なーんてな、ふふ、愉快愉快」
「何が愉快だっ! もうちょっと加減しろっての!」
「あいたっ」
 俺は大口を開いて笑う岩田に、正拳をお見舞いしておいた。
 その後のドッジボールでは、皆、何故か俺に投げる時だけ、遠慮がちに弱々しく投げてきた。
 そして、俺がボールを投げると、全員受け取る事もせず思いっきりぶつかり、どこか誇らしげな顔を浮かべて外野へとまわった。どいつもこいつも、頬が染まっていて気持ち悪かった。
 何なんだよ、一体。まあ、体育の時間もばれずにやり過ごせたからいいけどさ。



 俺はトイレで制服に着替え、教室に戻ると、中ではざわざわと何か騒がしかった。
「あれ? 財布ないんだけどっ!」
「私のも盗まれてるっ!」
「うそ、ウチのアイポッドがなくなってるぅ! 鞄に入れといたのに!」
 周りから、クラスメイト達の悲痛な声が聞こえてくる。俺は人ごみを掻き分けて、自分の席へと戻った。
「おい、一体どうしたんだ?」
 俺は、鞄の中身を机の上にひっくり返している麻子に話しかけた。
「あっ! ジゴロー、大変だよ! 泥棒だよ、泥棒!」
「泥棒!?」
「うん。誰かが、教室に入って財布とか盗んだみたい。もー、やばいよ! 大事件だよ!」
 嫌な予感がした。俺は机の横にかけていた鞄を手に取り、中身を確認する。
 やっぱり、無い。プロテイン缶が、無くなっている。
「や、やっべぇぇぇ!」
 ツンが盗まれちまったぁぁぁ!
「何!? 何かやばいもん盗まれたの!?」
「プロテイン缶が! プロテイン缶が盗まれたんだよ!」
 俺は涙目で、言った。ツンがいないと、俺は一生このままなんだぞ!? 有り得ねえ。そんな事、許されるもんか。
 しかし、麻子は「は?」と言わんばかりの表情を浮かべる。
「プロテイン缶って。別にたいした被害じゃなくない?」
「何言ってんだよ! あれが無いと、俺は、俺はぁぁぁ……ぐすん」
 麻子は、いまいち事情が掴めてない様だが、とにかくそれどころじゃない。
 何としても、犯人を捜してツンを取り返さねば、俺は女のまま一生を過ごす羽目になってしまう。
「あれれー? 私のお財布が無いよー?」
 桜が、何度も鞄の中を確認しながら呟く。こんな時もゆったりとしていて、何か見てて和むなぁ。いや、和んでる状況じゃないんだけどさ。
「皆、静かに! 一旦、席に座ってくれ!」
 ようやく騒ぎを聞きつけた担任が、教室に入ってきて皆を静まらせようとする。
 しかし、そう簡単に事態は収拾しないようで、しばらくの間、被害者の悲痛な叫びと、怒りの声が教室を支配していた。
「くっそー! この間買ったシューズが盗まれてる! うがー! ゆ、ゆゆ許せん!」
 麻子は、机をばこんと叩いて、怒りを露にした。
「あ、そういや二千円」
「……くそう、犯人め」
「なあ、麻子。二千円」
「……見つけたら、ぶっとばしてやんよ」
 聞いちゃいねえし。
 やがて担任の三度目の「静かにして!」で、ようやく教室に静寂が訪れる。
「えー、非常に、悲しい出来事が起こってしまいました。情けないです。本当に情けない事です。先生達は、犯人探しはしません。もし、出来心で盗んでしまったのなら、職員室まで来てください。今なら、怒りませんから」
 先生の言葉に、被害者である生徒達から怒りの声が上がる。
「ふざけんな! 警察呼べよー!}
「俺、三万も盗まれたんだぜ!?」
「ウチの制服どーすんのよー!」
 不満の声は、一気に膨れ上がり、教室は再び怒号で埋め尽くされた。
「ま、待ってくれ。先生は、ほら、犯人の事を考えてだなっ! 決して、校長の命令で警察沙汰にしないんじゃなくて、学校の問題は学校内で解決するのが、教育の正しい姿だから、痛っ! こら、物を投げないで下さい! ちょっと!」
 担任は耐えかねて廊下に逃げ出す。逃げやがったよ、おい。
「どうしよー。私、お昼はパンを買うつもりだったのに、これじゃ買えないよぉ。ふぇぇん」
 桜が、ぐすんぐすんと肩を震わせる。
 とても居た堪れなくなったので、俺は声をかけた。
「あー、よかったら、俺の弁当食うか?」
「ふぇ……?」
 桜が顔を上げる。うぐ、桜の泣き顔、反則的に可愛いぞ。
 あぶねぇ、ちょっとグラりときてしまった。落ち着け俺。クールになるんだ。
「桜さんは、放課後も部活あるんだろ? だったら、食っとかなきゃ倒れちまうって。だから、ほら。遠慮せずにどうぞ」
 鞄から弁当箱を取り出し、桜に渡す。
 桜は、弁当箱と俺を交互に見る。そして、また涙を流しながら
「ふぇぇー、ジゴロー君、あり、ありがとおっ」
 歓喜余って! 俺に! 抱きついた! あああ!
「さ、さささ桜さん。ちょっと、その、密着されると、胸がっ! その!」
 俺の胸と、桜さんの胸が、くっついて、ぽよんぽよんと!
 ぐはっ……い、いかん。深く考えると鼻血が出そうだ。てか、そんな密着されたら、体が女だってばれちまう!
 ああ、しかし、もう少しだけ、この感触を味わっていたいっ! 女同士でしか味わえない、このマシュマロ同士のハーモニーをっ!
「ちょ、ちょちょちょっ! こらぁ! いつまでくっ付いてるんだい、このドスケベ!」
「どわっ!」
 麻子が、慌てて俺を桜から引き離す。勢い余って、俺は尻餅をついてしまった。
「桜! ジゴローも一応男なんだから、あんまり軽率に体を許しちゃだめだよ! こいつ、意外とすけべーな所あるんだから」
 体を許すって、お前、使い方がおかしいだろっ! それと、一応はいらんだろうが。俺は男だ。ちくしょうめ。今は女だけどなっ! ……って、それより早くツンを探さなきゃ。
「ジゴロー君、ありがとぉ。お弁当箱は、洗って返すからぁ」
「おうよ」
 そう言って、桜は頭を下げた。そして、桜は一旦自分の席へと戻り、散らかした鞄の中身を整理し始める。
 四時間目終了のチャイムが鳴った。よし、昼休みの間に、盗まれたツンを探してみるか。恐らく、犯人は内部犯だろう。まだ校内のどこかにいるはずだ。
「ちょっとジゴロー、あんた昼飯はどうすんだい?」
 麻子が小さい声で俺に言った。
「俺は今日はパス」
「えぇ? パン買いに行くんじゃないの?」
「金無いから買えねーよ」
 俺は、桜に聞こえないように、ひそひそと麻子と話す。麻子は、俺の意図を理解したのか、ため息をついて俺の頭を撫でた。
「はぁー、あんたってほんと優しい子だねー」
「撫でんなっ! 子供か俺は!」
「だって、丁度撫でやすい位置にあるんだもん」
 高校生にもなって、頭なでなでされるのは屈辱的だ。普通は、ね。けど、何だかんだ言いつつも、麻子に頭を撫でられると嬉しい。
「桜さんには、俺はパンを買いに行ったって言っといてくれ」
 変に遠慮されても、困るしな。
「はいはい。任せときなさいって」
「うぃ。よろしこ」
 俺はそう言って教室を出る。とりあえず、校内をぶらぶら探索してみるか。
 もし、ツンが近くに居れば、呼びかけに応じるだろうし、意外とすぐ見つかるかもしれない。
「よし」
 とりあえず、各教室をぐるりと回ってみるか。男は考えるより、足で調べろ。ドラマ『太陽に萌えろ』の名台詞の通り、俺は行動を開始した。



 各学年の教室を一通り見て回ったが、これといった手がかりは見つからなかった。
 そりゃそうだ。そんな推理ドラマみたいに、簡単に手がかりが見つかるはずが無い。
 それよりも、二年の教室で三回、三年の教室で五回も男に声を掛けられた。どいつもこいつも、可愛いだね、とか、一年生? 何組の子? 名前は? とか、どうでもいい事ばっか聞いてきやがった。
 制服みりゃ男だってわかるだろボケ、と何度も切れそうになったが、一応、上級生なので、シカトするだけにとどめて置いた。
 同学年だったら、間違いなく、俺は男だぶち殺すぞ! と怒鳴りつけてただろう。
「おーい、ツンやーい!」
 俺は美術室や音楽室のある棟を調べる。授業の無い時間は、いつも人気が無く、おまけに薄暗いのでちょっぴり不気味である。
「音楽室か……一応、調べとくかなぁ」
 朝日高校の七不思議の一つに、音楽室の動くピアノという怪談がある。
 ピアノが独りでに動き出し、入ってきた生徒に襲い掛かってくるという、ちょっと子供っぽい内容なのだが。
「怖くない、怖くない……」
 幽霊なんて、この世にいるはずがない。そういった類の話は、あくまで噂話に過ぎないんだ。
「べ、別に怖くなんてねえぞ。全然、余裕だし。幽霊とか今時はやんねーって」
 自分に言い聞かせ、俺は音楽室のドアに手をかける。
 あれ? 鍵が掛かってない。先生が鍵の閉め忘れたんだろうか。いや、もしかして……見えざる何かが、鍵を開けて……誰かが入ってくるのを待ってたりして。
「……」
 ごくり、と唾を飲む。そして、そーっと音を立てないようにドアを開けた。
 中は昼間だと言うのに真っ暗だった。窓がカーテンで覆われていて、日差しがあまり入ってきてない。
「……ごくり」
 俺は、何かに引き寄せられるかのように、中へと入った。
 こんな所に、犯人が潜んでいるはずが無い。そう思ったのだが、俺の足は何故か止まらず、ピアノの方へ向かってしまう。
 黒いピアノが、部屋の隅にずんと置いてある。俺は何の気なしに、それを眺める。こういう時に限って、七不思議の話が頭の中で再生される。
「……誰も居ないし、何もないよな」
 手がかりになりそうなものは、何も無い。さっさと出て行こうとした、その時だった。
 奥のドアが、ガラリと開いた。
「っ!?」
 俺は急いで、ピアノの裏に身を潜める。誰かが入ってきたようだ。暗くて、顔が全く見えない。
「おい……プギャード、いるのか? い、言われた通りの事、やってやったぞ」
 男の声だ。そいつは、誰かに話しかけている。
「いないのか……? おい、約束が違うじゃないか。せっかく僕が危険を冒してまで、盗みをやってやったのに」
 盗み? まさか、こいつが犯人なのか?
 俺はじっと目を凝らして、男の正体を見極める。くそ、ダメだ。暗くて輪郭しか見えない。
 こうなったら、飛び掛って捕まえてやるか。だけど、もし誤解だったらまずい。それに、相手がヤバイ奴だったら、どうなる?
 刃物を持っていたりしたら、下手すりゃ殺されてしまうかもしれない。
(どうする俺っ!?)
 息を潜めて、俺はどうすべきか考える。今、取り逃がしたら、もう捕まえる事は出来ないかもしれない。
 ええい、考えてもらちが明かない! もう、どうにでもなれだ!
 俺は飛び掛る決心をし、心の中でカウントをする。
 さん、に、いち……よしっ!
「そこまでだ、泥棒め」
 飛び掛ろうと、ピアノの陰から飛び出した瞬間、誰かの声が聞こえた。
 音楽室の電気が一斉につく。一気に視界が明るくなり、泥棒の素顔が丸見えになった。
「くっ……!?」
 髪の毛を目元までおろした、根暗そうな男がそこに居た。あいつが、犯人なのか? てか、今、電気つけたの誰だよ。
 俺は部屋を見回す。電灯のスイッチがある場所に、そいつは立っていた。
「おや、治五郎じゃないか」
「岩田っ!?」
 そいつは、岩田……だと思う。いや、九十九パーセントの確立で岩田だ。
 身長、声、髭。あんな濃い顔を忘れるわけが無い。しかし、岩田は何故かパーティーグッズでありそうなおもしろ眼鏡をかけていた。おまけに、白いシルクハットまで被っている。意味が分からない。
「僕は岩田ではない」
「いや、岩田だろ」
 岩田は、首を横に振って、手を高く掲げた。
「普段は謎多きクールでニヒルな高校生……だが、その新の姿はっ!」
 岩田は、その場でバク宙をしてみせる。おお、すげぇ。体操の選手みたいだ。
「人を愛し悪を憎む、正義のシルクハット仮面。その名も――――ジャック・ザ・バーボンさ!」
 こめかみに指をあて、決めポーズをとる。曰く、ジャック・ザ・バーボン。
 ……えーっと。何か反応した方がいいのかな、これは。
「お、おいこらぁ! お前ら、俺のことバカにしてんのか!?」
 ふと、泥棒と思わしきネクラ(仮名)が、俺と岩田……ジャックに向かって、声を張り上げた。
「あ、すまん、忘れてた。……でさ、そこのネクラっぽい奴。お前、うちのクラスの連中の財布盗んだ?」
「ストレートに聞くなよ! そんな聞き方して、はいそうです、なんて素直に答える奴がどこにいるんだ!」
 ネクラは、苛立った様子で俺に突っ込む。見た目に反して、意外と喋るなこいつ。
 てっきり暗い奴だと思ってネクラって(勝手に)名前付けちゃった。
「ふふふ、治五郎。その口ぶりだと、どうやら君も犯人の目星がついていたようだね」
 ジャックが髭をさすりながら言った。
 いや、ぶっちゃけ偶然なんですけど、まあいいか。
「くそっ。俺の後をつけていたのか」
 ネクラはもう自分が犯人である事を隠すつもりはないらしい。
「そうさ。僕は、ある方法を使って君が犯人だと推理したのさ。すぐに摘発しようと思ったけど、どうやら君はただの傀儡で、裏で操っている真犯人がいるとわかったのでね。こうして、待ち合わせ場所まで案内してもらったのさ」
 ジャックとネクラが、何やら推理小説の山場とかでよく見る解決編? みたいな会話をしているのだが、俺は何が何だか、さっぱりわからない。
「つまり、こいつが実行犯。裏に真犯人ありってこと?」
「イエス、治五郎。その通り。恐らく、そこにいる二年三組の引田は、真犯人に何か弱みを握られて仕方なくやった、と言った所だろう」
 ジャックの一言で、ネクラこと引田の顔が引きつった。
)「お前、何でそこまで知ってるんだ。まさか、あんたがプギャードなのか?」
「なるほど、君を脅しているのはプギャードって奴なのか。と、なると、外人だな! どうだ、図星だろう?」
 ジャックの名推理が続く。俺はただ黙って、ジャックの話を聞いていた。
 何となくだけど、状況が掴めてきたぞ。そのプギャードとか言う外人? が真犯人な訳か。
「し、知らないよ。プギャードなんて。それに、犯人とか盗みとか、一体何の事だ? 俺はただ、音楽室に用があって来ただけだぜ」
「お前、今さらとぼけても遅ぇよ。お前のせいで、うちのクラスは大迷惑被ってんだ。盗んだモンさっさと返せ」
「だから、何の事? 全然わからないな」
「てめぇ、とぼけんなっ!」
 俺は引田の胸倉を掴む。
 だが、引田は落ち着きを取り戻したのか、余裕の笑みを浮かべた。
「あれ? 暴力? いいのかな、証拠も無いのに、そんな事しちゃって。停学になってもしらないよ?」
「くっ……」
 証拠ときたか。こいつが犯人なのは、さっきの会話から推測しても間違いない。だが、証拠を出せと言われると……ダメだ。何も手駒がない。
「証拠ならあるさ。ほら、これだ」
 ジャックが、でかいビニール袋をどこからか取り出した。それを見た引田の顔色が、見る見るうちに変わっていく。
「な、何故だ。お前、それは、俺が盗んだ……」
「音楽準備室の奥に隠してあったのを見つけたんだよ。なるほどね。待ち合わせ場所に置いておけば、もし持ち物検査をされてもばれない。受け渡し場所であるここに持ってくる際に、こんなでかい袋を持って歩く手間も省ける。いい考えだったね」
「おいおい、やるじゃねえかよ岩田!」
「僕は岩田ではなぁい! ジャック・ザ・バーボンだ。アーユーオッケーイ?」
 ジャックは、俺に向かって親指を立てながら言った。どうしてもジャックで通したいらしい。
「さて、どうするよ引田さん。これとない証拠だと思うけど」
「う、うう……」
 俺は睨みを利かせつつ、引田に詰め寄る。やがて観念したのか、引田はその場に膝を着いた。
「ごめんなさい……僕が、やりました」
 引田は俯いて、はっきりとそう言った。しかし、すぐに顔を上げ、俺の足にしがみついてきた。
「でも、しょうがなかったんだよぉ! 僕が女子のスカートの中を盗撮してる場面の写真をネタに、無理やり命じられたんだ! 僕だって、盗みなんてしたくなかったんだよ!」
「盗撮をネタに脅されただぁ? 何か、どっちもどっちだな」
 呆れて言葉も出ない。
 引田は、しばらく俺の足にしがみつきながら、泣きじゃくった。
「どうするよ、これ」
 こめかみに指をあて、引田の懺悔を黙って聞いていたジャックに問う。ジャックは、そっと引田の肩に手を置いた。
「君を脅していた、プギャードって奴は何年の何組なんだい?」
「ぐす。それは、わからない……。僕、手紙で脅されてたから……」
 ジャックは「そうか」と言って、言葉を紡いだ。
「職員室に行って、自首するんだな。そして、盗んだ物を持ち主の元へ返すんだ。それが、今のお前に出来る精一杯の罪滅ぼしだよ」
「……うう、わかりました。自首します」
 引田は涙で袖を拭いながら、頷いた。ジャックは、優しく微笑む。
「よく言った。もう大丈夫だ。君はもう、罪の意識に苛まれる事は無い。君のためにも、真犯人は僕が絶対に捕まえてやるから」
「う、うわぁぁぁん!」
 涙を溢れさせながら、引田は泣いた。俺はただただ、ジャックと引田のやり取りを見ている事しか出来なかった。俺の脳内で、火曜サスペンスのエンディングテーマが流れる。
「ま、とりあえず、一件落着……で、いいのかな」
 引田は、盗んだ荷物を持って、職員室へと自首しに行った。
 これで、盗まれた物は皆の手に戻るだろう。俺は安堵のため息をついた、その時
「ご主人様ぁぁぁ――――っ!」
「うおちゃっ!」
 白い煙が、何処からかもくもくと噴出し、俺の視界を遮った。そして、誰かが俺に抱きつく。ぐ、苦しい。
「うわぁぁぁん! こ、怖かったですよぉぉぉ!」
「ツン、おま、苦し……体が、折れるっ!」
 とんでもない馬鹿力で、俺を抱きしめるツン。俺が苦痛の声をあげると、はっと我に返り、
「や、やだぁ! 恥ずかしいです!」
 思いっきり突き飛ばされた。人間離れしたパワーに、俺は成す術も無く吹っ飛ばされた。
「て、てめえは、俺を、殺す気か……?」
「あわわ、ご、ごめんなさいっ!」
 俺は体を起こし、頭を下げるツンを睨みつけた。全く、せっかく助けてやったのに、恩を仇で返すとは、人の風上にも置けない奴だ。
「へえ。彼女はツンって言うんだ。人間じゃないみたいだけど、妖精の類か何かかい?」
「いえいえ、私はランプの魔人ですよぉ」
「へぇ。ランプの魔人って本当に実在したんだ。こりゃ驚いたな。まさに事実は小説よりも奇なり、だね」
 ジャックは、不思議そうにツンを見つめる。
 ん? ツンを、見つめている!? しかも、話してるぅ!?
「ちょ、ちょちょっと待った! ジャック、お前ツンが見えるのか!?」
 確か、ツンはランプの主人にしか見えないし、声も聞こえないはずだ。なのに、ジャックは平然と話している。しかも、さして驚きもせず、冷静に。
「ああ。他の人には見えないみたいだけどね。僕はちょっと、特殊だから」
「特殊?」
「実は……」
 ジャックは、そこで一旦区切り、黙り込む。場を緊張が包み込んだ。俺は、ただジャックの次の言葉を待つ。
 やがて、ジャックはそのへんてこな眼鏡をとった。
「僕は、岩田だったんだよ」
 ずしゃあっ!
 俺は盛大にこけた。
「んなこと知ってるっつーの! アホか! バレバレなんだよ!」
「え? え? 嘘、完璧な変装だと思ったのに! いつから、ねぇ、いつからわかった?」
「最初からだアホっ!」
 ジャック改め岩田(紛らわしい……)は、がっかりしたような表情を浮かべる。
 マジで変装してるつもりだったのか。つーか、それだったら、まず、その印象に残る髭とガタイを何とかしろって。
 せっかくのシリアスな雰囲気が台無しだよ、もう。
「はぁ。まさか、僕のヒーロー伝説が一日で終わっちゃうなんて」
「それはもういいから。何でお前はツンが見えるんだよ」
 岩田は、顔を上げる。
「僕は、生まれつき霊感が強いからだよ」
 俺は耳を疑った。冗談かと思って笑おうとしたが、岩田は真顔だった。
「霊感というより、超能力に近いのかな? とにかく、幽霊とか魂とかオーラとか、そう言う人には見えないモノが、僕には見えるんだ。今回の犯人が、引田だってわかったのも、荒らされた鞄の中に、彼のオーラが残っていたからさ。オーラって、人によって色とか形とかが異なるから、こういう時に凄く便利なんだよね」
 俺は開いた口が塞がらなかった。
 オーラだとか、幽霊だとか、そんな物がこの世に実在していたなんて。いや、確かにランプの魔人がいるくらいだし、幽霊とかがいてもおかしくないけどさぁ……。
「治五郎、後ろに血だらけの老婆が」
「ぎえええっ!?」
「っていうのは冗談なんだけど」
「よし、殺す」
 俺は指をぽきぽきと鳴らして、ファイティングポーズをとった。
「ま、まぁまぁ、冗談だって。いかにも幽霊が怖いって顔してたから、つい」
「幽霊なんて存在しないっ! 存在しないんだからなっ! 例えお前が見えるとか言っても、ぜってぇ認めねーから!」
「ご主人様、そんなに足を震わせて……ちょっと可愛そうです」
 ツンが哀れみの目を俺に向ける。ええい、苦手なもんは苦手なんだよ。ほっといてくれ。
「まあ、そういう訳で、さっき引田が盗んだ物がどこにあったのかわかったのも、ツンさんの声が聞こえたからなんだよね」
 岩田はそう言って、ツンの入っていたプロテイン缶を取り出す。
「そう言う訳なんです!」
 いつの間にか、小型化したツンが缶へと入っていた。持ち運びに便利だな、ランプの魔人って。
「なるほどねー。随分と都合よく推理が進むと思ったら、そんなトリックがあったのか」
「……はぁ。せっかく、この能力を使って、朝日学園のトラブルを解決する謎のヒーローになろうと思ったのに。第一回で正体がばれたんじゃ、ヒーロー計画は中止だな」
「自分でばらしたんじゃねーか」
「ま、僕の計画なんてどうでもいいんだ。終わった事だし。それより、治五郎。体育でペアを組んだ時から気になっていたんだけど、君って不思議なオーラを持っているよね。何と言うか、男のオーラと女のオーラを、両方混ぜたようなオーラが見えるんだけど」
 う。やばい。どうやら、岩田相手じゃ、俺の秘密は隠し切れないみたいだ。
 俺はツンと目を合わせる。ツンは、お手上げのです、とアイコンタクトを送ってきた。
しゃーない。岩田には、俺の秘密を話しておこう。


…………。
……。
 俺は岩田に、今まで俺に起こった不思議体験を話した。
 幸か不幸か、ランプの魔人であるツンの封印をといてしまったこと。
 色々手違いがあって、女になってしまたこと。そして、元に戻る為にマナを集めていること、等々。
「なるほど。どうりで、今の君からは男と女、両方のオーラが見えるわけだ。体は女でも、心は男なんだものね」
「そういうこった。これ、絶対他の奴らには言わないでくれよ。大騒ぎになる前に、元に戻りたいんだから」
 特に、麻子なんかに知られたら最悪だ。
 たくましい男になると、小学生の頃に約束したのに「女になっちゃいました」なんて死んでも言えない。
「わかった。それと、一応、確認なんだけど」
「ん?」
 むにゅん。岩田の手の平が、俺の胸に触れた。
 ……何? この行動は、何を意味してるんだ? 岩田は真顔のまま、頷いている。
「うん。こりゃあ女の子の胸だね。ちっちゃいけど」
 ぶちぶちぶちっ!
「死ねッ!」
「ぶほぉっ!?」
 俺の前蹴りが、岩田の股間を打ち抜いた。
 岩田は体を九の字に曲げて、そのまま股間を押さえて倒れこむ。
「な、何故怒るんだ。僕はただ、か、確認をしただけなのに」
「この変態がっ! 胸触られて、怒らない女なんていねーっつーの!」
 俺は胸を隠すようにしながら、倒れている岩田に怒鳴り散らす。
「き、君は男でしょ?」
 はっ! そうだった。でも、やっぱり胸を触られるのは不快だ。
 一応、体は女だし。……うーん、少しだけ、女の子の気持ちがわかったような気がする。
「ったく、ふざけやがって。次やったら今度は本気で殺すからなっ!」
「わかったよ。ごめん」
 俺は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「そういえば、ご主人様。私、ちょっと気になる事があるんですけど」
 ツンが、プロテイン缶から顔を出した。何だ? と聞こうとしたが、その声はチャイムによってかき消された。
「げ、五時間目開始のチャイムじゃん! やべぇ、さっさと戻らねーと! んじゃ、岩田。とにかく秘密だからなっ!」
「待って、治五郎」
 教室に向かって走り始めようとしたところで、岩田に止められる。
「もしかしたら、そのマナってやつを集めるのに協力できるかもしれない。明日の放課後、校門前で待っててくれ」
「え? あ、ああ。わかった」
 それだけ言うと、俺と岩田は教室に向かってダッシュした。
 岩田は、体格に見合わず足は速かった。すげえ蟹股だったけど。
「ううう、無視されちゃいましたぁ……」



 その後、帰りのホームルームで、泥棒騒ぎの犯人が自首してきた事が皆に公表された。
 盗まれた物は、全て返ってきて、今回の騒動は一件落着、めでたしめでたしって感じで終わった。
「あー、疲れたぁ」
 家に着いた俺は、すぐに自室に入りベッドに倒れこむ。女である事を隠すのに気を使いすぎて、精神的に疲れた。
 おまけに霊感だか超能力だか、そんな非科学的な能力の話を岩田から聞かされて、俺の頭はもういっぱいいっぱいだった。
「ご主人様、お疲れ様でした。それで、あの、ちょっと話があるんですけど」
「あー? 何? 疲れてるから手短に頼むわ」
 ツンは、ベッドに寝転がる俺の顔を覗きこんでくる。
 改めて、ツンの顔を見る。肌は雪のように白く、顔立ちも整っていて美人だ。なんつ−か、アメリカの若手モデルにいそうな感じである。
「今日の泥棒さんの事なんですけど、裏で誰かに操られてたって言ってましたよね?」
「ああ。そういや、そんな事言ってたな」
 引田は、誰かに盗撮ネタで脅され、仕方なく盗みを働いたと言っていた。
 確か、真犯人はプギャードって名前だったっけ。でも、そんなアラビアンな名前の奴が、うちの学校にいるとは思えない。
「引田さんが言ってた、プギャードって人……もし、本当なら、私に心当たりがあるんです」
「え、それ本当か?」
 俺は思わず、体を起こした。
「はい。あまり考えたくありませんが、もし私の考えが当たっているなら……ちょっと面倒な事になるかもしれません」
 そう言って、ツンはシリアスな表情を浮かべる。こんな真面目な表情、はじめて見た。それほど、深刻な事情があるのだろう。
「どういうことだよ。俺にもわかるように説明してくれ」
 ツンは少し考えた後、頷いた。
「……そうですね。ご主人様は知っておいた方がいかもしれません」
 ツンは、意味有り気な言い方をする。
 俺はごくりと唾を飲んだ。体の奥底から、得体の知れない不安が沸き上がってくる。
「プギャード……プギャード=ワルサ=キングプギャーは、一ヶ月前に私が封印したランプの魔人です」
「ランプの魔人だって? じゃあ、お前と同じ種族か」
 ツンは再び頷く。
「プギャードの事を語るには、私の生い立ちから語る必要がありますね。少し長くなるかもしれませんが、いいでしょうか?」
「あ、ああ」
 ツンは、珍しくきちんとした言葉遣いで喋る。真面目な話なので、俺も茶化す事無く聞くことにした。
「今から十四年前。私は魔人界二十番地区にあるマクスバーン家に生まれました。生まれた当初の私は、それはもう宝石のような輝きを纏っており……」
「……」
 一時間が経った。
「そして、三歳で一人前の魔人となり、周囲からは天才の子と言われ……」
 二時間が経った。ツンの話は続く。
「お父様は、私の事を自慢の娘だと、周囲の方々に言いふらして……」
 三時間が経った。ツンはまだ喋っている。壁時計を見ると、もう夜中の二時だった。
 流石の俺も、眠気で意識が朦朧とし始めたので、ツンの話を止めた。
「すまん。必要最低限の説明だけにしてくれ」
「え? あ、す、すいませんっ! つい、子供の頃の話をしてしまいました。人間界にきてから、話し相手がいなかったもので……」
 ツンは、慌てて頭を下げる。話し相手がいないって、それはちょっと可愛そうだな。俺はちょっと同情した。話を聞いてやりたいところだが、時間が時間なので、今はプギャードとやらの話を聞かなければ。
「お前の昔話は、後で聞いてやるから。プギャードって奴について説明してくれ」
 俺は優しくたしなめた。ツンは顔を上げ、ほっとしたような表情を浮かべる。
「うう、ご主人様の偉大なる御心に感謝いたします」
「御心て。いつの時代だよ。まあいいけど」
 ツンはこほん、と席咳払いをして、改めて語り始めた。
「プギャードは、魔人界でも有名な魔人でした。ですが、魔人界を治めている魔神様と些細な事で言い争いになって……。そして、掟を破り人間界へと行ってしまったのです。魔神様は、プギャードが人間界で悪さをする前に捕まえるべく、当時、一番魔法の扱いに長けていた私を、プギャードの討伐に任命したのです」
「エリート? お前が?」
 悪いけど、全くそうは見えない。とんちんかんな先走りで俺を女にした挙句、魔力が無いとか言い出すし。おまけにプロテイン缶という微妙なモノに封印されてたし。
「エリートだったんです! もう、話を止めないで下さい。……それで、私はプギャードを見つけ、彼に魔人界へ戻るよう説得しました。だけど、彼は有ろう事か、人間界の支配を企んでいたのです。私は彼と戦い、何とか封印する事に成功しました。しかし、その時、私も彼の魔法を受けて」
「プロテイン缶に封印されたって訳か」
「はい。そして、ご主人様に封印をといてもらって、今に至ると言う訳です」
 俺は、ただただへぇーとしか言いようが無かった。
 ツンの説明は、童話みたいでいかんせん現実味がなかった。まあ、今さら否定するつもりはないけど。事実、ツンはここに存在してるし、俺も女のままだ。
「つまり、引田を裏で操っていたプギャードって奴は、その悪い魔人ってこと?」
「断言は出来ませんけど、恐らくは……。彼はプライドが高いから、名前を偽ったりしないでしょうし」
「うーん……。でも、プギャードはお前が封印したんじゃないの?」
「誰かが封印をといてしまったのかもしれません。やっぱり、空き缶に封印したのはまずかったかなぁ」
 ずざざっ!
 俺はベッドから転がり落ちた。
「何で空き缶なんだよ! もうちょいそれっぽい器とかあるだろ!?」
「す、すいません。何分、準備不足だったもので」
 色々と突っ込みどころはあるが、今さら文句を言っても仕方ないので、これ以上は責めないでおいた。俺はため息をついて、再びベッドに寝転がる。
「まぁ、とにかく気をつけておいた方がよさそうだな。人の弱みを握って、盗みをやらせるなんてセコイ魔人だぜ」
「はい。もし見つけたら、今度は絶対出れないような所に封印してやります!」
 ツンはびしっ! と胸の前で拳を握り締める。
「今のお前、魔力ねーじゃん。そんなんで封印できんのか?」
「うぐっ。ま、魔力が溜まり次第、封印してやりますっ! ですから、ご主人様。早いとこ、魔力をたっぷり集めてください。人間に取り付いたランプの魔人の魔力は、ご主人様にしか補給出来ないんですからっ!」
「他力本願だなオイ。言っとくけど、魔力が溜まったらまず最初に俺の体を元に戻してもらうからな。プギャードとか言う奴をどーにかするってのは、その次だぞ。わかってるな?」
「はい!」
 ツンはやる気満々と言って様子で、頷く。……本当にわかってんのかなぁ? ま、いいや。
「んじゃ、そろそろ寝るわ。明日、じゃねえや。今日の放課後に、岩田がマナ集めを手伝ってくれるっていうし。何とかなるだろ……おやすみ」
「はい。おやすみなさいませ、ご主人様」
 俺は電気を消して、眠りに付く。今日は朝から色々あって疲れた。さっさと寝よう。
 明日の朝になったら、今日の事は夢でしたってオチは……やっぱり、ないよなぁ。



 翌日。
 俺はいつも通り学校に行き、授業を受ける。
 初日は女の体だとバレないか、かなり不安だったが、意外と普通にしてればバレないもんである。……しかし、ここまでバレないのは流石にどうかと思う。
 もしかして、皆、俺の事を普段から男として見てないんじゃないかとすら思える。
「よっしゃー! 昼飯昼飯ぃ!」
「お前、相変わらず昼飯の時だけは元気だよな」
 四時間目が終わるや否や、嬉しそうに弁当を取り出す麻子。小学生の時から、麻子は昼飯の時になるとテンションがハイになるのだ。
 色気より食い気、花より団子って言葉が実に良く似合う。
「むぐぐっ! そりゃ、お弁当と部活の為だけに、もぐもぐっ! 学校にきてるようなモンだからねっ!」
「勉強はどこにいった、勉強は。そして食いながら喋るなっ!」
 麻子は、いつの間にか弁当を広げ、頬にご飯粒をつけながらぱくついている。まるで小学生だ。
「……ごくん。あれ? ジゴロー、弁当は?」
「昨日、桜さんに渡しちゃったから今日もパンっす」
「あ、なーるほどね。納得」
 俺は、ゆっくりとした動作で鞄から弁当箱を取り出している桜に視線を向けた。
 昼飯は、いつも俺と麻子、そして桜の三人で机を合わせて食べている。
「お待たせー。あれれ? 麻子、もう食べてるの?」
 桜がようやく机を持って、俺達の所へとやってきた。
「おうよっ! ちゃっちゃと食べて、さっさと練習に行く! 時間は大切なりだよっ!」
「それを言うなら、時は金なりだろ。にしても、昼休みも練習とは気合入ってんなー」
 俺は麻子に感心の眼差しを向ける。麻子は、昼休みも体育館でバスケの練習をしているのだ。
 俺も時々、パス練習やワンオンワン? とかいうのに付き合わされるが、情けない事にまるで相手にならなかった。
「麻子ちゃん、凄いんだよ。この前も、スリーオンスリーで先輩を抜いちゃったんだ」
「マジかよ。すげぇな」
「うん。麻子ちゃんは、本当に凄いよ。もう一年生の間じゃ、女子バスケ部の次期キャプテンって言われてるもん」
「いやいやっ! そんな、たいしたことないって!」
 俺と桜が褒めると、麻子は照れ笑いしながら、手をぶんぶんと振った。
 すっげえ嬉しそうだなー、とか思って麻子の顔を眺めていると、ふと緑色と黄色のマナが、麻子の周りに浮かんでくるのが見えた。
 あれは、確か幸せのマナと、喜びのマナだっけか?
「マナが出現しましたね。吸収してもよろしいですか? ご主人様」
「おう」
 俺は小さい声で、鞄の中にあるプロテイン缶の中にいるツンに答えた。
 昨日と同様、麻子の周りに浮かんでいるマナは、プロテイン缶に吸い込まれていく。
 これで、またマナが少し溜まった。……っていうか、今思ったんだけど、普通に麻子と喋ってれば勝手にマナは溜まりそうだな。
「そーいや、ジゴロー。あんたパン買いに行かなくていいの? 結構時間経ってるけど」
「え? ああっ! やべえ忘れてた!」
 昼飯時の購買は、戦場である。人気のあるパンを求め、学生達が男女入り混じって我先にと押し寄せてくるのだ。
 もう昼休み開始から十分も経ってしまっている。恐らく、今が一番混雑している頃合だろう。
「くっそー。俺、ちょっと行ってくるわ」
 俺は財布を片手に立ち上がる。焼きそばパンはもう無理だろうが、あんパンだけは避けたい。
 甘い物は、あまり好きじゃないし。
「あの、ジゴロー君。私、その、ジゴロー君の分のお弁当作ってきたんだけど……」
「え?」
 桜の予想外の言葉に、俺は振り返る。
 桜は鞄から、昨日、俺が渡した弁当箱を取り出した。
「あまり自信はないんだけど……」
「え? え? これ、俺の為に桜さんが作ってくれたの?」
 桜はこくりと頷いて、俺に弁当箱を渡した。
 蓋を開けると、見るからにうまそうプラス栄養バランスのよさそうな盛り付けがされていた。
「うおおっ! う、うまそー!」
「その、昨日のお礼です。……迷惑だったらごめんね」
「迷惑じゃない、全然迷惑じゃない! うわ、ありがとう桜さん! めっちゃ嬉しいっす!」
 俺は桜の手を握り、お礼を言った。
 うわ、こりゃあ俺の適当自作弁当より百倍うまそうだ。やっぱり、親切はするもんだな。
「こらあ! さり気無く桜の手を握らないっ!」
 麻子が、俺の手をぺしんと叩く。
「あいてっ! 何すんだよ。別に普通だろー」
「握り方がいやらしかったの! まったくもう、油断も隙もないんだから」
「何だそりゃ」
 理不尽すぎだろ、と思ったが、口には出さなかった。
 ちらりと視線を前に向ける。桜は赤くなって俯いていた。
 ……あー、そういえば、桜は男耐性無いんだった。思わず手を握っちゃったけど、まずかったかな。反省しよう。
 何はともあれ、早くこの弁当を味わおう。どれどれ、まずは鳥のから揚げからいってみますか。
「……どうかな?」
 桜は、らんらんと瞳を輝かせながら、俺がから揚げを食べる様子をじっと見つめる。
「うまいっ!」
「ほんと? よかったぁ」
 俺は思わず、そう叫んだ。こりゃあうまい。味付けといい、揚げ具合といい、完璧だ。
 その他の料理にも箸を伸ばす。どれもこれも、実に丁寧に作られていておいしかった。
「すっげぇうまいよ。桜さんって料理得意なんだな」
「えへへ、そんな事ないよぉ」
 謙遜しつつも、顔を赤らめる桜。うーん、実に女の子らしい反応だ。
 やっぱり、女の子のこういう仕草が男心を掴んで離さないんだよなぁ。誰かさんにも見習って欲しいものだ。
「ジゴロー、そのジト目は何さっ!」
「いや、別に何も」
 俺は咄嗟に麻子から視線を逸らす。しかし、時既に遅し。
 麻子は俺の頬を掴んで、ぐいぐいと引っ張った。
「ええい、私の悪口考えてたろ! 白状せぇいっ!」
「いてぇいてぇ! ぬ。濡れ衣だっ!」
「ほんとか? 嘘だったらハリセンボン飲ませるぞー」
「それを言うなら針千本だろ。白状すると、お前も女の子なんだから、桜さんを見習って料理くらい出来た方がいいんじゃないかなー? って思っただけだっての」
「むむむ……りょ、りょうり……」
「昔、お前の作ったプリンを食った事があるが、あれは酷かったぞ。食してから三日ほど腹の調子がおかしかったし」
 確か、中学生の時の事である。今思い出しても、あの味は凄まじかった。
 麻子の料理センスが壊滅的なのは、身をもって思い知っている。
「それに引き換え、桜さんの料理はうまいな。これなら、どこにお嫁さんに出しても恥ずかしくないよ」
「お、おおお嫁さん? そ、そんな、いきなり……でも、ジゴロー君なら……」
 煙が出るんじゃないかって言うくらい、桜の顔が赤くなっていく。
 すると、ピンク色のマナが桜の周りに現れ始めた。俺は鞄をちょいと揺らし、ツンに合図をする。
「マナ確認。吸収します」
 びゅおーん、と例によって掃除機式吸引でマナを吸収する。ピンク色のマナって、何のマナなんだろう? 後でツンに聞いてみよう。
「むむ、てぇい!」
「どわぁ! 腕がッ! もげるぅぅ!」
「料理が苦手で、悪かったねぇ。あんたを料理してやろうかぁ!?」
「逆切れだ! 完全に逆切れだよそれはっ!」
 麻子は、俺の背後にまわり、腕をねじ上げてくる。痛いけど、背中に麻子の胸があたってちょっと嬉しい。
「問答無用っ! このこのぉ……お?」
「ひゃっ!」
 ふにょん。麻子の指が、振り返ろうとした俺の胸に当たった。
 突然の事だったので、俺は変な声をあげてしまう。
「あれ? ジゴロー……?」
 げげげぇっ! やばい、気付かれる!?
 これはまずい。早く、何かごまかさなければ! でも、どうやって?
「太った?」
「へ?」
「いや、前はもうちょいガッシリしてた感じだったんだけど、何か全体的に柔らかくなったというか」
「あー……そうそう! 最近、お菓子食べ過ぎて太っちゃってさ! 筋トレもっと頑張んないとヤバイんだよね!」
「えぇ? ジゴローってお菓子嫌いじゃなかったっけ」
「や、最近好きになった! もうスイーツ大好き!」
「ふーん。そうなんだ」
 麻子は、さして気にする事無く、俺をアームロックから解放した。
 危なかった。俺としたことが、ついついバレないだろうと油断していた。
 そんな賑やか、かつ冷や汗たらたらの昼飯時を過ごし、その後、麻子は一分で飯を食い終えると、さっさと体育館へ行ってしまった。
 残された俺と桜は、二人きりで飯を食った。妙に桜が真っ赤だった。熱でもあったのだろうか? わからん。



 そんなこんなで、特に語るような事も無く放課後。
「ジゴロー、今日は暇かい?」
「何だよいきなり」
 教科書を鞄に詰めていると、麻子がやぶからぼうに話しかけてきた。
「いやさ、駅前においしいスイーツの店があるんだけど、一緒に行かない? ジゴロー、スイーツ好きっしょ?」
「え? あ、ああ。まぁな。でもお前、バスケ部の練習は?」
 本当はスイーツ嫌いだけど。俺は甘いものよりしょっぱい物の方が好みなのだ。
 しかし、さっきでまかせを言ってしまった手前、否定するわけにもいかないので、適当に合わせておく。
「火曜は休みだよ! で、どう? 一緒に食べにいかない?」
 ぐぬぬっ。二人きりで放課後制服デートだと……いや、麻子はそうは思ってないだろうけど。
 しかし、これは嬉しい誘いだ。普段、麻子は部活で忙しいし、親密になれるチャンスは少ない。だからこそ、喜んで誘いを受けたいのだが。
「あー……すまん。今日は先約があるんだ」
 俺は泣く泣く断った。今日は、岩田と約束をしているのだ。
 もちろん、断った一番の要因は岩田ではない。さっきみたいに、女の体だとバレるのを恐れたのが一つ。もう一つは、デートよりも元の体に戻る方を優先したいと言う事だ。やっぱり、女としての自分じゃなくて、ちゃんと元の男の体に戻ってからデートとかはしたい。
 有り得ないとは思うが、もし、いい雰囲気になってキスとかする時に、俺の体が女のままでは気分的に嫌なのだ。
「あー、そっかぁ。残念。でもま、先約があるならしゃーないやっ! じゃあ今度暇な時、絶対なっ!」
「おう。悪いな」
 麻子はサバサバと答えると、鞄を持って桜と一緒に帰ってしまった。
 ……くそぉ。女にさえなってなければ、デートできたのに。



「おせーよ。三分も待たせやがってこの野郎」
「教室の掃除当番だったんだから仕方ないじゃないか。何をそんなにカリカリしているんだい? 短期は損気だよ」
 校門前で、俺は岩田と合流する。他の生徒より頭一つぶんでかい岩田は、遠くからでもすぐわかった。
 ついでに、かなり蟹股なのでこれまたわかりやすい。あと髭も。
「ご主人様、デートに誘われたんですけど、岩田さんとの約束の為に泣く泣く断ったんですよ」
「こら! 勝手に喋るな!」
「ひええっ。久々の出番なのにぃ……ぐすん」
 プロテイン缶から顔を出すツンを、キッと睨みつける。
「おやまあ。それは悪い事をしてしまったね」
 岩田は、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。
「そんな事より、さっさと要件を済ませようぜ。マナを溜めるいい方法があるなら、さっさと教えてくれ」
「ああ、そうだったね。それじゃあ行こうか」
 そう言って、岩田は歩き始める。俺もその後に続いた。
「なあ、どこに行くんだ?」
「いい所だよ。うふふ」
「おいおい……まさか変な所に連れ込むつもりじゃねーだろうな。妙な真似したらぶっ殺すからな」
「大丈夫。健全な場所だよ。ふふ」
 ……不安だ。昨日、セクハラされた件もあるし、いまいち信用できない。
 だけど、今の俺にマナを効率よく集める手段なんか思いつかないし、騙されたつもりでついていってみるか。
 俺と岩田は、近くのバス亭からバスに乗った。岩田は、シルバーシートにどっかと座る。
 老人が乗っていないとは言え、高校生が堂々とそこに座るのはどうかと思うんだけどなぁ。「ところでジゴロー。一つ聞きたいんだけど」
「何だ?」
「今日の下着は何色?」
 ぶぶぅっ!
 俺は思わず噴出した。
「てめぇ……やっぱり変態か。変態だな。変態なんだな。もういい、お前を頼った俺が馬鹿だった。今後、一切関わらないでくれ。変態が移るから」
「ち、違う! そうじゃないんだよ。これは、その、この後のマナ集めに凄く重要な事なんだよ!」
 岩田は慌ててそう付け加える。
「アホかっ! 何が下着は何色だテメェ! んなもんのドコが重要なんだよ! 変態おやじが開口一番に言いそうな台詞第一位みたいな質問じゃねーか!」
「だから本当に重要な事なんだって。深い事は考えず、真剣に答えてくれ。君のためを思って言ってるんだよ?」
 岩田は、真顔でそんな事を言い始める。バス内にいる他の客が、俺達の方をちらちらと見始めた。キッ、と周囲に睨みを利かせ、それらを追い払う。
「どう考えても、その質問が重要とは思えないんだが」
「いいじゃないか。下着の色を教えたって、死ぬ訳じゃないんだし。僕は元々男である君の下着に、性的な興味は持ってないよ。安心してくれ。それに、君は男に戻る事が最優先事項じゃないのかい? それを考えたら、こんな質問へでもないだろう?」
「うう……」
 何か、そう言われると納得できるような、できないような。
「ご主人様、大丈夫ですか? 嫌なら嫌ってちゃんと断った方がいいですよ。岩田さん! ご主人様は女の子なんですから、えっちな質問はしないであげてください!」
 ツンが鞄から顔を出し、岩田を咎める。だーかーらー、俺は女じゃねえ。男だっての。
「むう。これから行く所で、どのくらいのマナを獲得できるのかに関係する重要な事項なんだけどなぁ」
 岩田が、顎鬚をさすりながら、俺のほうをちらりと見てくる。
 うがあっ! 何だよ、その挑戦的な視線は! ええい、くそ。下着が何だ。別に言ったって死にはしないんだ。
 男に小さな差恥心などいらん! 男たるもの、風呂で前を隠してはいけないのと同じだ!
「黒のトランクス」
「え?」
「黒のトランクス! ブラはしてねぇ! どうだこの野郎、これで満足か!?」
 俺はやけっぱちで叫ぶ。瞬間、バスの運転手がずごごっ! と運転席でこけるような動作をし、危うくバスがガードレールに衝突しそうになった。
 周りにいる客どもは、わざとらしく咳払いをした。人の話盗み聞きしてんじゃねえぞちくしょー。
「なるほどね。下着は男モノのままか。わかった、ありがとう。……あっちにあるアレのサイズは、ジゴローくらいの体つきならピッタリだろう。ふふふ、よしよし。計画通りだ」
「何ぶつぶつ言ってんだよ。で、俺の下着がマナ集めとどう関係するんだ? そこんとこ、納得のいく説明してもらわねーと許さねぇからな。くそ、こんなに恥掻かせやがって」
「ま、それはあっちに行けばわかるさ」
 岩田はそう言って怪しげな含み笑いをする。
 はぁ、もう好きにしてくれ。反撃する気力もなくなったわ。
「ご主人様、黒のトランクス……ううん、ワイルドです、はううぅ!」
 はぁはぁと息遣いを荒くしながら、興奮するツン。俺は無言で、プロテイン缶を十回くらい叩いておいた。
 あっちもこっちも変態ばっかし。もー、やだっ。



 バスを降りて、知らない土地を歩く事数分。俺達は、児童養護施設の前にいた。その白を基調に造られた建物は、一見すると小さな病院にも見える。
「到着したよ」
「到着したよって、ここ?」
「そうさ。児童養護施設『林檎』。両親のいない子供や、家庭に問題のある子供を引き取っている施設だよ」
 テレビとかでは見た事があるけど、実際にこうして見るのは初めてだ。児童養護施設と聞くと、何となく暗いイメージが浮かぶ。
「なあ、こんな所で、どうやってマナを集めようっていうんだ?」
 ぼんやりと施設の入り口の門を眺めていた岩田に、俺は疑問をぶつける。
「僕はここの出身なんだけど、今日、子供達の為にイベントをやる予定でね。それで、君も一緒にそのイベントに参加して貰おうと思ったんだ」
「え? お前……」
 施設出身なのか、と言おうとして、慌てて言葉を抑え込んだ。人には、誰だって触れられたくない事がある。こういう事に関しては、あまり深く聞かないほうがいいだろう。
 しかし、岩田はそんな俺の感情を察したのか、にやりと笑ってみせる。
「気にしないでくれ。施設出身って聞いたら、誰だって最初は引くよ」
「いや、俺は別に引いちゃいねえけどさ……」
 言葉が詰まる。こういう時、何て言ったらいいんだろうか。
 同情なんてされたくねえだろうし、やっぱし普通にしてるのが一番なんだろうか。
「僕の事は置いといて、話を戻すね。僕が今日やろうとしてるイベントっていうのは、劇なんだ。内容はシンデレラをやるんだけど、肝心のシンデレラ役をやれる人がいなくて困っていたんだ」
「おい、まさか俺にシンデレラをやれっていうんじゃ」
 ねーだろうな、と言う前に、岩田はグっと親指を立てた。
「いやー、やっぱりヒロイン役が施設のおばさんじゃあ、子供達も納得しないだろ? 今の子供はマセてるしね。ここは美少女であるジゴローにやってもらおうと」
「アホか! 俺は男だぞ! シンデレラなんてやれるかっ!」
 予想通りの話に、俺はぶんぶんと首を横に振って拒否した。
 この世に生まれて十七年、劇というと必ず百パーセントの確立で女役をやらされてきた。そして、毎度毎度、俺が女役を演じた劇は大成功を収め、しまいには裏で俺の女装写真が高額で流れるという始末である。
 そういった数々の嫌な思い出があるので、ぶっちゃけやりたくないというのが本音である。
「でもさ、君にとってもいい話だと思うんだ。もし劇が面白ければ、子供達も喜んで、喜びのマナってやつが出るだろう? それも、子供達の数は三十人くらいいるから、たっぷりマナが集められるはずだ。とても効率がいいと思うんだけどなぁ」
「なぬっ! ツン、そうなのか?」
 俺はプロテイン缶を取り出し、蓋を開ける。白煙と共に、小型化していたツンが等身大になって現れた。
「そうですね。劇で大人数を楽しませる事が出来れば、当然、重要な役を演じるご主人様に対して、一人一人から喜びのマナが発生します。三十人から得られるとなると、相当な量のマナになるかと思われます」
「マジかよ! じゃあ、もしかしたら今日中に元に戻れるかもしれないって事か?」
 俺は興奮した声で、ツンに問いかけた。
「うーん、それはマナが集まってみないと何とも言えませんが、少なくとも半分近くの魔力は補充できるかと思います」
「いよっしゃあ! やるやる! シンデレラでも何でもやってやるよ!」
 俺は心の中でガッツポーズをする。そっか、劇とは思いつかなかったぜ。
 大人数から注目され、かつ楽しませる事が出来れば、簡単にマナが手に入るじゃねえか。うっひゃー、何でこんな簡単な事に気付かなかったんだろう。
「ありがとう。そう言ってくれると思っていたよ」
「いやいや、こっちこそありがとな。お前の事、変態とか言って悪かったな。くーっ! 男に戻れる! ビバ、男子! グッバイ女の俺!」
 嬉しさのあまり、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。ああ、目に映る全ての物が輝いて見えるっ! 希望がムクムクわき上がってきたぞ!
「ふふふ……。それじゃ、中に入ろうか。劇は夕方六時からだから、すぐに着替えと台本の暗記を頼むよ」
「おっけおっけ! 任せとけって!」
 俺は岩田の背中をばしばし叩きながら、施設へと足を踏み入れた。
「うーん……嫌な予感がするんだけどなぁ」
「ん? ツン、どうした?」
「い、いえ。何でもありません。頑張って下さいね、ご主人様」



「あらあら、いらっしゃい。待っていましたよ、岩田君」
 中に入ると、エプロンをした三十代くらいのおばさんが出迎えてくれた。施設の人なのだろう。岩田は、にっこりと笑いながら答えた。
「ただいま、柳さん。こちらは、昨日電話で話した治五郎。シンデレラ役をやってくれって頼んだら、快く承諾してくれたよ」
「どもっす。今日は頑張るっす」
「あらあら、まあまあ。こんな可愛い彼女がいるなんて、岩田君もすみにおけないわね」
「や、全っ然彼女じゃないです。ただの知り合いですから」
「ええ? 僕って治五郎にとって友達以下?」
「あらあら、まあまあ」
 そんな脱力するような会話をしながら、俺は施設を案内される。中は掃除が行き届いているのか、清潔感溢れる様子であった。何十人でも座れそうな、でかいテーブルの置いてある食堂。授業用の教室。憩いの場などなど。
「すげー。かなり広いっすねー」
「ジゴロー、こっちだよ」
 まるで博物館にきた子供のように、俺はキョロキョロと施設を見て回る。
 岩田に案内された部屋は、机と椅子、それに色々な衣装やら変装道具? やらで溢れ帰った部屋だった。
「ここで衣装に着替えて下さいね。シンデレラの衣装は……あ、これこれ」
 柳さんが、ダンボールの山からふりふりとした黒のドレスを取り出した。
 ニコニコ笑みを浮かべながら、俺に手渡す。
「……こ、これがシンデレラの衣装?」
「ふふふ。そうだよ。ちなみに、それは僕が三ヶ月かけて編んだんだ。素晴らしいだろう?」
 俺はドレスを広げる。黒を基本としているが、所々についているふりふりは白だ。岩田が一人で編んだのだとしたら、これは確かに凄い。凄いけど。
「これ、どう見てもメイド服じゃねえかっ!」
 俺はビシィっと手を挙げて、突っ込みを入れる。
「あれ? シンデレラってそんな服装してなかったっけ?」
「違ぇよ! 似てるけど色々違ぇから! つーか、シンデレラは最初、貧相な服着てるだろ! こんなふりふりの服着てたらおかしいだろ!」
 突っ込み所が多すぎる。どう演出しても、これを着たらメイドさんである。とてもシンデレラには見えない。例え子供が相手だとしても、この違和感ばりばりっぷりに気付かない訳がない。
「あらあらまあまあ。でも、シンデレラ用の衣装はこれしかないのよねぇ。他のお姉さん役の衣装じゃ、あなたには大きすぎるでしょうし」
「うぐはっ!」
 柳さんの一言が、さりげなく俺の男プライドにダメージを与える。
 うう、どうせ俺は身長百五十四センチですよ。ふんだ。
「すまないけど、それで頼むよ。派手な衣装の方が、子供達も喜ぶって」
「……わーったよ」
 しぶしぶ承諾する。まさかメイド服を着ることになるとは……。
 仕方ない。これも男に戻る為だ。つまらないプライドで、チャンスを棒に振るほど俺は馬鹿じゃない。
「ご、ごごごご主人様のメイド姿っ! ぶふぅ!」
 足元に置いた鞄の中から、ツンの声が聞こえた。ツンは再び小型化させて缶に入れておいてある。柳さんがいる前で、等身大となったツンが色々物を動かしたりすると、ポルターガイスト騒動になってしまうからだ。
 よって、他人のいる場所では、ツンを等身大にはさせていない。
 とりあえず、足元の鞄を三回ほど蹴っ飛ばしておいた。いい加減、この行動もお約束になりつつある。
「それともう一つ、お願いがあるんだけど」
「まだ何かあんのか?」
 俺は思いっきり嫌そうな顔をする。これ以上、何をしろっていうんだ。
「柳さん、あれを」
「はいはい。用意しておきましたよ。きっと、ぴったりだと思うわ」
 そう言って、柳さんは何かを包んだ風呂敷を取り出す。
 俺はクエスチョンマークを頭に浮かべつつ、それを受け取って中の物を手に取った。
「あ……?」
 目の前に現れたそれは、上下ピンクの、女性が身につける、アレだった。
「やはり役作りは徹底しないとねっ! と言うわけで、君にサイズの合う女性用下着を用意させてもらった! さあ! これで君は心も体も完璧なシンデレっぐぎゃあああっ!」
「死ね! 十回死ね!」
 俺は後ろ回し蹴りを岩田の腹にぶち込んだ。岩田は紙切れみたいに吹っ飛んで、背中から壁に叩きつけられる。しかし、うめき声を上げながらも、半笑いを浮かべながら俺を見つめた。
「は、恥ずかしがりやさんだな。せっかく用意してあげたのに。それを着ければ、劇も大成功間違いなしだよっ!?」
「黙れ変態がっ! てっめぇ、とうとう本性を表しやがったな。俺に協力するってのは建前で、これが本当の目的か、このクソ野郎が」
「ノウ! 絶対にノウ! いいかい、最近の子供はリアリティをより一層求めてくるんだ。君が男物の下着をつけていたら、子供達の心は絶対に動かせない。それを考えての配慮なんだよ!」
「聞く耳もたん! 帰る!」
 俺は鞄を持ち上げ、部屋から出ようとする。こんなアホを信じた俺が馬鹿だった。ああくそ、胸糞悪いぜ。
「逃がさん! 柳、フォーメーションベータ!」
「あらあらまあまあ! 分かりましたわ、岩田君!」
 瞬間、温和そうな柳さんが、まるで疾風の如く俺の前に現れ行く手を塞いだ。
 同時にダンボールの山から、数人のおばさんが現れ俺を取り囲む。
「何だ何だ何だぁ!? おい、何すんだよ!」
「うふふ、大丈夫。優しくしてあげますからね? 岩田君、男の子は外で待ってなさい」
「はいはいっと。それじゃ、チーム・柳。後はよろしく頼むよ」
 そう言って、岩田は部屋を出る。残されたのは、俺とチーム柳と呼ばれた柳さんプラス数名のおば様方。
「あ、あの、一何を……」
「これも子供達の笑顔の為なの。ごめんね、治五郎ちゃん?」
 笑顔を浮かべながら、俺の服に手をかける柳さん。
 ちょっと待て。もしかして、俺は今、物凄くピンチなんじゃないだろうか? 逃げなきゃ――――って、背後から凄い力で押さえつけられてるぅ!? 逃げられない!?
「や、やめ……ぎゃああああっ!」
「ほほほほっ! そおれそおれ!」
「だああ! やめてやめてったら! ちょ、パンツはダメだって! うわあああ!」
「ご、ご主人様の生着替えっ……! ぶふぅ!」
 もはや状況の解説なんて出来ない。してる余裕もない。あまりに過激な出来事だったので、経過は省略する。
 ……とにかく、俺はチーム柳によって、強制的に女物の下着プラスメイド服を装備させられた。



「うう……ついに……下着まで女物になってしまった。最後の砦だったのに……」
「手荒な真似をしてすまない。だが、ちょっと待って欲しい。むしろこう考えるんだ。女物の下着を装着できるいい機会だと考えるんだ」
「俺に女装趣味はねえ! くそ、てめぇ覚えとけよ。この借りは絶対返してやる」
「やれやれ。困ったものです」
 こいつ、開き直ってやがる。うぜー! 今すぐぶっ殺してー!
 だが、今、ぶっ殺すと劇でマナ大量ゲット作戦が水の泡になってしまう。衣装も着てしまった以上、とりあえずマナだけは確保しないと割に合わない。
「それじゃ、そろそろお時間です。舞台の方にお願いしまーす」
 柳さんが、俺達に声を掛ける。
舞台といっても、他よりちょっと広い部屋に作られた簡易の舞台だ。
 そこに、お粗末ながら小道具やら背景やらが置かれている。その出来は、学芸会のがまだマシというレベルだ。
「こんなんでガキが喜ぶのか?」
「なーに、劇の面白さを決めるのは、舞台の環境よりも俳優の演技力さ。成功するか否かは君に掛かってるんだよ、シンデレラ」
 そう言って、岩田は俺の肩に手を置く。俺は乱暴にその手を振り払った。
 セクハラ反対。いい加減、こいつの本性がわかった俺は、より一層警戒をする。
「では、劇を始めます。皆さん、配置についてください」
 柳さんに促され、俺は舞台にあがる。幕(お粗末なカーテン)の外からは、子供達の声が聞こえる。うう、緊張するぞ、これは。
 と、ここで重大な事に気付いた。
「そういや、台本貰ってねーぞ! おい岩田、どうすんだよ!」
「アドリブでいこうよ。その方が面白くないそうだし」
「はぁ!? アホか! そんなん無理だっての!」
 と、ここで白い煙と共に、等身大ツンが現れた。
「ご主人様、私にお任せ下さい。シンデレラのストーリーなら、幼い頃に母親から聞いた事があります。姿の見えない私がこっそり耳打ちするので、それで何とかやり過ごしましょう!」
「マジか? よし、頼むぜツン。くれぐれもバレないようにな」
「お任せ下さい」
 そう言って、ツンが俺の近くにやってくる。幕の役割を果たしているカーテンが、ゆっくりと左右に開く。子供達の歓声と拍手が、舞台に向かって降り注がれた。
 きちんと体育座りをした子供達が、爛々と目を輝かせながら俺のほうを見ている。
 うぐっ……そんなに期待しないでくれよ、マジで。余計に失敗できねーぞこりゃ。
「むかしむかし、シンデレラという貧しい女性がいました。シンデレラには怖い姉が二人いて、姉達はいつもシンデレラをいじめていました」
 昔々って、日本昔話的な入り方だな。まあ細かい事は突っ込んでも仕方ないので、俺はうる覚えで演技を開始する。
「ご主人様、まずは貧しさアピールです。観客の同情を引くくらいの、可愛そうな子娘を演じてください」
 ツンの指示に従って、俺はアドリブで台詞を発した。
「うう、貧しいなぁ。パンが食べてーなぁ」
 と、そこに意地悪姉さん役の柳さんと、さっきのチームメンバーの一人であるおばさんがドレスを身に纏ってやってきた。
 うわあ、厚化粧しすぎて何か化け物みたいになってる。これ子供泣くぞ。
「ああ、汚い汚い! シンデレラってほんと汚らしいわね! まるで家畜だわ!」
「本当ね! 生ゴミみたいな匂いがぷんぷんするわ!」
 ひでぇ扱いだなおい! シンデレラって、こんな悲しい役だっけ?
 悪口を言うにしても、もうちょっと柔らかな言い方だったと思うんだけど。まぁいいや。
「ご主人様、ほら、泣いて泣いて」
「うう、悲しいよう。しくしく」
 ……我ながら酷い演技だと思う。しょーがねーじゃん、台本無しのぶっつけ本番なんだからよ。ま、ガキ共相手だし、こんな茶番劇でも喜ぶだろ。
「シンデレラ泣いてねーじゃん。感情がこもってねーな」
「何、あの大根役者。いまいちって感じ。役になりきれてないよね」
 子供達の冷たい視線と批判の声が、俺に浴びせられる。
 おぉい! お前らはどこの演劇批評家だ! と、叫びそうになったのを抑えて、代わりに苦笑いを浮かべる。
 くそ、我慢我慢。相手は子供だ。
「ご主人様、子供達から喜びのマナが出る気配がこれっぽっちもないです。もっと演技をがんばってください!」
 ええい、わかってるっての。とにかく、ガキ共を楽しませりゃいいんだろう? 任せとけって。
「さあ、シンデレラ! さっさと掃除をして洗濯もして裁縫もしてそして死ね! 私達はこれから舞踏会なのよ! おほほほ!」
 お姉さん役の柳さんは、高らかに笑う。その姿は、本当に魔女みたいだ。
 つーか、さりげなく死ねって言ったよな? 一番最後にさりげなく付け加えたよな? 教育上いいのかよ、それ。
 そんな訳で、柳さん達お姉さん役は舞台裏に引っ込む。部屋の電気が消され、暗闇の中、俺にスポットライトがあたる。
「さあ、ご主人様。舞踏会に行けない事を嘆いてください」
「うう。私も武道会に行きたかったなぁ。今頃、お姉さん達は楽しく演武してるんだろうなぁ」
「ご主人様! 武道会じゃなくて、舞踏会です! それじゃ格闘大会になっちゃいますよ!」
 はっ! ま、間違えたっ! 何でシンデレラが武道会に出なきゃならんのだ!
 落ち着け。大丈夫、ガキ共にゃ武道も舞踏もわかんねーよな。このまま、ごまかして……。
「武道会? 舞踏会じゃねーのかよ」
「意味わかんなーい。話のアレンジ?」
「オリジナルじゃないかな。まあ、新人さんのお手並み拝見といこうか」
 うぉい! 何だよ、その映画の試写会に来た原作者的発言は!
 くっそー、ごまかせなくなっちまった。俺は舞台裏にいる岩田に視線を送る。
 岩田は、大丈夫だと言わんばかりに大きく頷いた。
「シンデレラや。君に魔法をかけてあげよう」
 不意に、暗がりからかすれた声が聞こえた。
「魔女の登場です。ご主人様は魔法をかけられて、素敵なドレスに着替えるのです」
 ここら辺のストーリーは、俺でもなんとなくわかる。でも、ドレスアップのシーンはどうするんだ? 部屋を真っ暗にして、その間に舞台裏で着替えるんだろうか。
「だ、誰ですか?」
「私は魔女。あなたに一日だけ魔法をかけてあげる」
 暗がりから現れたのは、これまた八十代と思わしきしわくちゃの婆さんだった。
 黒いローブ(どう見てもゴミ袋)に身を纏い、ふぉっふぉっと笑う様はとても演技とは思えない。本物の魔女さながらである。
「おお、トメさんだ!」
「きゃー! トメさーん!」
「さすが、この施設一の演技派だな。シンデレラとは比べ物にならないほど役になりきっている」
 子供達から歓声が上がる。トメさん人気すぎだろ。トメさんは子供達にピースサインをしながら、再び台詞を続けた。
「それ、ドレスアップじゃ」
「……えーっと」
 トメさんが杖を振るう。が、当然、俺の衣装は変わらない。とりあえず、ここで一旦場面転換だろうか。そう思ったその時。
「はーい、皆さんお楽しみ、生着替えタイムだよー!」
 岩田が舞台裏から現れて、そんな事を言い始めた。子供達、特に男子から大きな歓声が上がる。訳が分からない。
「おい、岩田。何をするつもりなんだよ」
「決まっているだろう? 生着替えさ。おーい、柳! カーテンウォール持ってきてー!」
「はいはい。もってきましたよ」
 お姉さん役の柳さんが、テレビ番組の生着替えでおなじみの、カーテンつきのアレを持ってくる。着替えると、服が下に落ちていやらしいアレだ。正式名称は知らん。
 あぁ、なるほどね。深夜枠のバラエティ番組とかでよくやってる生着替えか。あれって妙に生々しくてエロいんだよな。それを今から俺がやる、と。
 あぁん?
「って、こらぁ! アホかてめぇ、誰がそんな事するかっ!」
 俺は素に戻って怒鳴り散らす。しかし、岩田はまるで臆した様子はなく、ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべた。
「おいおい、シンデレラ。君はそんな乱暴な言葉遣いをする子じゃないだろう?」
「うるせえ! 何がシンデレラだボケがっ! 結局、てめーはこれをやらせたかっただけじゃねえか、この変態が!」
 俺は岩田の胸倉を掴む。こんにゃろう、人をおちょくりやがって。
 もう今度という今度は許さん。ボコボコにしてやらなきゃ気がすまねえっ!
「ひぇぇ、こ、怖いよぉ」
「あんなのシンデレラじゃないやい!」
「メチャクチャですね。やる気があるんでしょうか?」
 ガキ共から、そんな呆れ声と悲鳴があがる。
 く、いくらんなんでも、ガキの前で暴力を振るっちまうのはマズイ。俺は拳を引いたまま、岩田を下から睨みつける。数秒の思考の後、俺は舌打ちをして岩田の胸倉から手を引いた。
「ご主人様、その、子供達から恐怖のマナが僅かに出てますけど……」
 俺は首を振って、吸収するなとの意図を伝えた。いくら何でも、ガキをびびらせてマナを集めたんじゃ外道すぎる。俺はそこまで人間堕ちてねえっての。
「はっ! つい混乱してしまいました……わ。俺……じゃなくて、わ、私、是非ドレスアップしたいです……わ」
「そうこなくっちゃ。ミュージックスタート!」
 そう言って、岩田が指をぱちんと鳴らす。
 すると、急に部屋中がピンク色に輝き、怪しげな音楽が流れ始めた。
「おい! どう考えてもお子様向けじゃねえだろ! 何考えてんだてめぇは!」
「サービスサービスってやつだよ。せっかく女の子の体なんだし、そういうお色気サービスも人生において必要な経験だと思わないかい?」
「ねーよ!」
 俺の反論もむなしく、生着替え用カーテン(以下、生カーテン)が俺の前に置かれる。
 そして、その中には今の衣装よりも、ずっと豪華そうなドレスが置いてあった。うぐぐ、これも男に戻る為だ。何も考えるな俺。精神を無にするんだ。
「制限時間は一分! 一分経ったら強制的にカーテンが落ちるよ! はい、皆さん! お手を拝借!」
 怪しげな音楽が、更に怪しい音楽へと変わり、ガキ共が手拍子を合わせる。
 まるで、アメリカのストリップクラブだ。変態だ。こいつら全員変態予備軍だ!
「ご主人様……」
 ツンが、心配そうな声で俺を呼ぶ。
「大丈夫だ。一分なら余裕で着替えられる。いくぜ!」
 俺は意を決して、今来ている衣装を脱ぎ始めた。カーテンの外には、ガキ共と岩田がいる。
 うぐ、何かすげえ恥ずかしい。何で俺は、こんな所で脱いでんだよ。露出狂じゃあるまいし、こんなあられもない姿を見られたら……と思うと、恥ずかしくて顔が熱くなった。
「はい! 三十秒が経過しました! 果たして、シンデレラは無事にドレスアップできているのでしょうか!?」
 岩田がノリノリで実況を始めた。後で絶対殺す。
 俺は衣装を脱ぎ終え、ゴージャスな衣装を手に取る。もし、今カーテンがおろされたら、下着姿を晒してしまう事になる。
 女物の下着を身に着けているだけでも屈辱なのに、それを人前に晒すなんて、俺の男としてのプライドが絶対に許さない。
「ご主人様、後三十秒しかないそうですっ!」
「わかってるよ! くそ、なんだこれ!? うまく袖が入らねー!」
 ゴージャスなドレスは、そのゴージャスな装飾が邪魔になってうまく着る事が出来ない。
 おまけに、ちょっとサイズが小さいし。岩田の野郎、はめやがったな!
「はい! はい! はい! 盛り上がってまいりました! さあさあ、後二十秒ですよシンデレラさん! はい! はい! いよーっ!」
 外から拍手と歓声が沸きあがる。その熱狂っぷりがちょっと怖い。そして、恐怖は更なる焦りを生み、一向に服を着る事が出来ない。
「くそったれ! 頭が入らねぇ!」
 俺はドレスを頭から被る。だが、肝心の頭が入らない。
 頭が入らないと、スカートの丈の問題で頭隠して尻隠さず状態になってしまう。
「ご主人様、ぱ、パンツが丸見えですっ! ぶふぅ!」
「おいこら、ツン! お前も手伝え!」
「は、はい!」
 ツンが、必死にドレスを着せようとする。耳が引っかかって痛い!
「さあさあ、カウント開始ですよ! 皆さんもご一緒に! じゅーう! きゅーう! はーち!」
 外では、いよいよカーテンを落とすカウントダウンが開始されている。俺は痛みを堪え、必死に頭を通そうとする。
 通れ通れ通れっ……!
「いーち! ゼロ! カーテン、オープン!」
 ――――通った!
 すぽんびりりっ! という凄い音を立てて、俺はカーテンが開く寸前に、ゴージャスなドレスを着る事に成功した。
「や、やったぜ!」
 俺は思わず、勝利の喜びからガッツポーズをとった。ガキ共は、一瞬で静まり返り、ぽかんと口を開いたまま俺を見ている。
 残念だったな、エロガキ共が。俺の下着姿を眺めようなんて、百万年早いんだよ。
「あー……なんだ。その、シンデレラ?」
「あんだよ。言っとくけど、見せねぇからな。勝負は俺の勝ちだ」
「いや、そうじゃなくてさ。……僕はそこまで、サービスしなくてもいいと思うんだけど」
「え?」
 俺は、ふと自分の体に視線をやる。
「だあああっ! なんじゃこりゃああ!」
 見事なまでに着れたと思っていたドレスは、スカートの部分がボロボロのビリビリに破けていて、パンツが丸見え状態になっていた。咄嗟に、足を内股にして隠す。
「ご主人様、申し訳ありません。わ、わざとじゃないんです! つい、勢い余ってびりっと」
 ツンが隣で頭を下げる。だが、俺はそれどころじゃない。必死に手でパンツを隠し、歓声を上げるガキ共の視線から逃げる。
「わー! ばかばかばかっ! 何でもいいから、早く隠すもんもってこいって! こら、てめぇら見るな! 写真も撮るなエロガキ! わーわー! てめーらいい加減にしろぉぉぉ!」
 俺は逃げるように、舞台裏へと飛び込む。裏に居た柳さんが、バスタオルを渡してくれたので、それで下半身を隠す。
 舞台の方は、口笛やら拍手やらの嵐で、大盛り上がりだった。
「えー、皆さん! シンデレラの生着替え、ドキドキワンタイムショーはいかがでしたでしょうか? それでは、沢山サービスをしてくれた舞台裏のシンデレラに、もう一度盛大な拍手をっ!」
 ぱちぱちぱち! と、空気が揺れるほどの拍手が鳴り響いた。
 いつの間にか司会役のポジションになっている岩田は、そう言って締めくくる。
 そして、幕が下りる……っておい! これで終わりかよ! 劇じゃねーじゃねえか!
「ご主人様、子供達からとんでもない量の喜びと幸せのマナが発生していますっ! こ、これは吸収してもよろしいのですか?」
「ちくしょー! さっさと元とってこい!」
「は、はいっ! ただいま!」
 俺は泣き声で、ツンに指示を出した。ぐすぐす、もうお嫁にいけない。……って、ちっがーう! 俺は男なんだ。男なんだよ。別にパンツを見られたって、へっちゃらだもんね!
「へ、へっちゃらだからなっ! くそぅ……グス」



 午後八時。もうすっかり日も沈んで、暗闇が街を覆う時刻。
 劇という名の破廉恥イベントも終わり、俺は大量のマナをエロガキ共がらゲットした。
 エロという力はとんでもないパワーを秘めているらしく、ツンの魔力もだいぶ溜まったとのことだ。ちなみに、岩田は劇の後、半殺しにしておいた。今、隣にいるアン○ンマンみたいな顔になっているのが岩田である。
「もう二度としないと誓うか?」
「は、はひ。誓います」
「うし。一応、結果としてマナは大量に得られたから、今日はこのくらいにしといてやる。だが、次は無いと思え」
 岩田に釘を刺し、俺は施設の門を潜り、バス亭へと歩き始める。
 まったく、ひでえ目にあったぜ。体も心もクタクタだ。早く家に帰って風呂に入りたい。
 ふと、隣に岩田が並ぶ。無言のまま、俺と一緒に歩き始めた。
「何だよ。てめーも家こっちなのか?」
「いや、違うよ。バス停まで送ろうと思ってね」
 俺は咄嗟に岩田から二メートルほど離れる。
 怪しい。めちゃくちゃ怪しい。俺はじろーっとした視線を浴びせてみたが、岩田は軽い苦笑いを返してきた。
「何もしないよ。夜道を女の子一人で歩いてたら、危険だろう? やましい考えはないよ」
「信じられるかよ。あんな事させといてよ」
 俺は岩田に警戒のまなざしを向ける。油断は出来ない。このセクハラ大魔王は、いつ何時触ってくるかわからんしな。
「今日のことは悪かった。反省してる。でも、子供達が元気になってくれて、よかったよ。最近、嫌な事件ばかりで、皆気が滅入っていたからさ」
「嫌な事件?」
 シリアスな表情になる岩田を見て、俺は警戒モードを解除した。
 岩田は、一息ついてから言葉を紡いだ。
「三日前に、施設の裏庭で飼っていた猫が何者かに殺されてね。その次の日には、子供達が可愛がっていた犬も……。それで、柳から子供たちを元気付ける方法はないかって聞かれてね。今回の劇を考えたんだ」
 岩田は、低い声で淡々と言った。俺は、頭をがつんと殴られたようなショックを受けた。
 もし、俺がガキ共の立場だったら。もし、可愛がっていた猫や犬を殺されたら。……ショック、受けるだろ。下手したら、トラウマになるかもしれない。
「ひでぇ話だな……。何の為にそんな事を」
「さあ? 大方、自分より弱いものを苛めて、憂さ晴らしでもしたかったんじゃないか? なんにせよ、人として最低だけどね。犯人は」
 岩田の声からは、静かな怒りが感じられた。空気が一気に重くなる。俺はただ俯いて、無言のまま歩みを進めた。
「ちょっと、ほらほら。お二人とも暗いですよ! 子供達は元気になったんだし、もういいじゃないですか! それに、ほら。私の魔力もだいぶ溜まりましたよ! あと少しで、ご主人様も男の子に戻れるんですから、もっと明るく行きましょうって!」
 鞄の中のプロテイン缶から、ツンが顔を出した。手をぶんぶん振って、重い空気を吹き飛ばそうと? している。
「あ、あのなぁ、ツン。お前、もうちょい空気を……」
 読め、と言おうとした、その時だった。背後から、おぞましいほどの殺気を感じたのは。
 ――――ぞくりと、鳥肌が立った。俺は目を見開く。
 誰かが、後ろから俺達のほうを睨んでいる。誰だ。振り返って確かめよう。ダメだ、怖い。振り返ったら、殺される。
「――――っ!」
 俺は勇気を振り絞り、後ろを振り返った。しかし、そこにあるのは電灯に照らされたゴミ捨て場だけ。……他には、何もない。誰もいない。
 ならば、今の殺気は何だったんだ? 今、背中に刺さった視線は、誰のものだったんだ?
「まさか……今の気配は……」
 ツンが、震えた声で呟く。岩田も、今、起こった出来事が信じられないといった様子で、暗闇を見つめている。
「何だよ、今の、威圧感っつーか、嫌な感じは」
「わからない。だけど、今の視線は明らかに人のものじゃなかった」
 人のものじゃない? じゃあ、何だって言うんだ。
 俺は不意に、ツンの話していた魔人の事を思い出す。
 プギャード。確か、そんな名前だった。人間界を支配しようと企み、ツンに封印された魔人。「まさか……もうこんなに力を蓄えて? いや、有り得ないわ。だって、こんな短期間で……うん。今のはきっと、錯覚よ、錯覚」
「おい、ツン。今のはプギャードってやつの」
 と、ツンが震えているのに気付き、俺はそこで言葉を飲み込んだ。
「……治五郎。気をつけたほうがいい。どうも、嫌な予感がするんだ」
 岩田はそう言って、早く帰った方がいいと俺を促した。嫌な予感。それは、俺も感じていた。
 虫の知らせってやつだろうか。頭の中に、暗雲が広がるような感覚を覚える。それから、家に帰るまでずっと、ツンは何も語らず、ただ体を震わせていた。



 水曜日。俺が女になってから、三日が経った。
 ツンは、一日置いて調子を取り戻したのか、いつも以上に早口で鞄の中から声をかけてくる。
「やっぱり、昨日の殺気は気のせいですよ。もしプギャードの封印がとかれて、私達に目を向けていたとしても、この短期間であそこまで魔力を取り戻す事は不可能です。私ですら、まだこれっぽっちの魔力しか戻ってないんですから」
「うーん……」
 ツンは、自分に言い聞かせるような口調で言った。
 どうも納得がいかない。あれは気のせいなんかじゃなかったし、岩田だって人のものじゃないと言っていた。だとしたら、あの殺気はプギャードっていう悪の魔人のものだと考えるのが自然だと思うんだが。
 自身を封印したツンに恨みを持って、俺達……というかツンを付け回し復讐の機会を狙っているんじゃないだろうか。
「でもよー。あれはやっぱり気のせいじゃないって」
「もう、しつこいですね。気のせいったら気のせいなんです!」
 ツンはいつもと違い、俺の意見を激しく否定する。どうも、ツンは昨日のあれがプギャードの殺気だと思いたくないようだ。
 明らかに、認める事を怖がっている。それほど恐ろしい奴なのだろうか。
「それより、ご主人様。あと少しで、男に戻れる魔法を使えるだけの魔力が溜まりますよ」
「なぬ! マジか!」
「はい。うまくいけば、今日中にはご主人様を男の子の体に戻せるかと」
「おおお……!」
 ようやく元の体に戻れる。たかが三日、されど三日。酷い目にもあったし、色々と衝撃的な出来事の連続だった。
 それが、ついに終わる。うう、頑張った。よく頑張ったよ俺。
 ふと、そこで一つの疑問が浮かんだ。
「ツン、この前、俺を男に戻した後に願いを叶えてくれるって言ったよな」
「はい。この件は、完全に私のミスですので……」
「でもよ、俺を元の体に戻すのに魔力使っちまったら、また魔力を溜めない限り、願い事も叶えられないんじゃねえの?」
「あっ!」
 ツンが咄嗟に口に手を当てた。おいおい、もしかして気付いてなかったのか?
「なぁ、もうちょい効率よく魔力を溜める方法はないのか?」
 やれやれとため息をつきながら、俺は言った。
 ランプの魔人なんだから、もう少し、こうぱぱぱっと魔力を溜める手段はないのだろうか?
 ゲームとかなら、宿屋に泊まれば一瞬で全快になるじゃないか。
「人間界で魔力を溜めるには、その世界の主……つまり人間、ご主人様に憑いて地道にマナを集めるしか方法は無いですね。魔人界に行けば、魔力を回復してくれるお店があるんですが」
「じゃあ、ささっと魔人界行って回復してくりゃいいじゃん」
 しかし、ツンは首を横に振る。
「それは出来ません。ご主人様の願いを叶える前に魔人界に戻る事は、掟で禁じられていますから」
「こっそり行けばばれないって。ちょっとくらい」
「ダメです。掟を破った者は、大魔神様の魔法で蛙にされちゃいます」
「カエル……それはまた、地味な刑罰だな」
 魔人界とやらにも、色々と面倒な事情があるんだなぁ、なんて考えつつ、俺は学校に向かう。
 身長を伸ばしてもらう、と言う願いは置いといて、とにかく今日限りで女の体ともおさらばだ。これで、心置きなく麻子にアタックする事が出来る。そして、あいつの身長を超えたら、俺は……。
「なーに一人でぶつぶつ言ってんだい?」
「うおっ!」
 後ろから、ぽん、と肩を叩かれる。
 振り向くと、鞄を肩に引っさげた麻子が立っていた。
「おはよーっす! 今日も元気だ空気がうまいっ!」
「何だそのキャッチフレーズは」
 麻子は、大きく息を吸いながら俺の隣を歩く。
 ただでさえ大きい麻子の胸が、背を伸ばしている事によって、より一層強調されていた。
 はちきれんばかりの巨乳が揺れ、俺はついつい目線をそっちに向けてしまう。……ゴク。相変わらずでかいな、こいつ。
「あーん? どこ見てんだい?」
 視線に気付いたのか、麻子がじろりと俺を睨む。
「え? あ、いや、その……」
「このすけべがっ!」
 麻子がアームロックを仕掛けようと、俺の背後に回る。
 まずい! 密着したら、以前のようにまた疑われてしまうっ!
「とうっ!」
「なぬ!?」
 俺は素早くステップを踏み、麻子の腕を避ける。
 しかし、空を切ったつ麻子の腕は、そこで終わる事無くもう一度攻撃を仕掛けてくる。
「掴むっ!」
「掴ませんっ!」
 更に、それを避ける俺。麻子が俺の腕を取ろうとする。俺がそれを避ける。
 そんな激戦が、平和な通学路で繰り広げられ、やがて回数を増すごとに戦いのスピードが上がっていく。
「ジゴロー、少しはやるようになったじゃん」
 息を切らしながら、麻子がニヤリと笑う。
「いつまでも、やられっぱなしじゃ男のプライドが泣くんだよ」
 俺も同じく、笑みを浮かべる。一瞬の静寂。そして、麻子の体がぴくりと動いたのをきっかけに、戦いの火蓋が落とされた。
「はいはいはいはいぃぃぃっ!」
「甘い! 掴まれてたまるかっ!」
「それははフェイントだ!」
「何だと!? だが、俺はその裏の裏をかいていたのさ!」
「な、なんだって!? って、それ表じゃん!」
「やかましい!」
 俺と麻子は、人目を憚る事無く戦いに没頭する。
 次第にぽつぽつとギャラリーが現れ始め、五分ほど経過すると、朝の通学路に人だかりが出来ていた。高校生にもなって、何をやっているんだろうね。俺達は。



「ぜぇぜぇぜぇ……。ま、間に合った」
 教室に入ると同時、チャイムが鳴り響いた。俺はよろよろとした足取りのまま、自分の席に座り、机に突っ伏した。
「ジゴロー君、どうしたのぉ? 凄い汗だよ、大丈夫?」
「うぃ。何とか大丈夫っす」
 桜が、心配そうに俺の顔を覗きこむ。俺は手をひらひらと振って大丈夫アピールをした。
 あんま余裕無いけど、桜は優しい上に心配性だからな。あんま気を使わせるのもいかんぜ。という訳でやせ我慢する。
「ふふ、あの程度で疲れているようじゃ、ま、まだまだだね、ジゴロー」
 体から湯気を出しながら言っても説得力無いぞ、麻子。
「ふええ? 麻子ちゃんも凄い汗だよ? 二人とも、一体どうしたの?」
 桜に説明する余裕もなく、俺はブレザーを脱いで、そのまま屍のように机に突っ伏したまま目を閉じた。
 あー、まじ朝っぱらからしんどい。でも、麻子と対等に渡り合えたって事は、昔よりは俺も男らしくなってるのかな。
 小学生の頃は、ちっとも勝てなかったもんなぁ。
「ご主人様、胸! 胸!」
「お?」
 鞄から声がっ! ……って、ツンか。胸が何だって? どうせ俺の胸は小さいよ。そりゃ元が男なんだから当然だろ。
 って。
「ふぁっちゃあ!」
 俺は奇声を上げつつ、自分の胸を見る。汗でべったり張り付いたワイシャツから、胸が透けている。
 ファック! 初日と同じ過ちを犯すとは、俺のバカバカバカ!
 慌てて、ブレザーに袖を通す。誰にも見られてないだろうな。ああ、見られてたら一貫の終わりだ。今日で最後だっていうのに。
 そんな俺の不自然な動作を、不思議そうに見つめる麻子。
 が、突っ込む余裕もないのか、何も言わず呆れた表情を浮かべていた。あっぶねー。麻子が疲労しててよかった。
「これから気をつけなよ」
「ああ……ってにゅあ!?」
 高速で体を起こし、顔をあげる。そこには、自称霊感ありの超能力者こと変態がいた。
「誰が変態だ。僕は岩田。孤独を好む、ミステリアスな謎の男さ」
「何だよそのキャラ設定。きめぇよ」
「おやおや、つれないなぁ」
 岩田はにへらぁと笑みを浮かべる。やっぱり変態だ。知り合いだと思われたくないので、学校では極力絡まないで欲しい。
「それより」
 岩田は、俺の耳元に口を寄せる。気持ち悪いが、今の俺には奴を追い払う体力は残されていない。
「ブラジャー、ちゃんと着けなきゃダメだぞ。透けてるぞ。ふふふ」
 ぞわぞわっ! き、き、き……。
「気持ちわりぃんだよボケェェェ!」
「ぶわっは!」
 椅子から立ち上がる勢いをそのまま利用して、スクリューアッパーを岩田の顎にぶち込む。岩田は三回転半ほどしながら宙を舞い、地面に落ちた。俺は汚物を見る目で、倒れている岩田を見つめる。
 あー、くそ。変態の息がかかって耳が腐った。まだ鳥肌が立ってる、ちくしょう。
「何をするんだ。せっかく、人が親切でアドバイスしてあげたのに……それも周りにばれないよう小声で」
「何がアドバイスだ! 人の胸じろじろ見てんじゃねえ! 失せろ! そして死ね!」
「うう、ひどいなぁ。まるで僕はシンデレラ。でも、いつか僕にも素敵な王子様が……ぶつぶつ」
 岩田は、独りごちながら自分の席へと戻っていく。
 油断ならねぇ。今日で女の体も最後とは言え、あの変態が何を仕掛けてくるか分からない。
 いざとなれば、クラスメイトと言えど殺るつもりで反抗しないとな。
「なぁなぁ、今の人、ジゴローの友達?」
 脅威の回復力で、すでに疲労困憊から脱した様子の麻子が言った。
「いや、ただの知り合い」
「ふーん。あ、そういえばさ、今日の一限の数学、ジゴロー当たるよ。ちゃんと予習してきた?」
「へ? 予習?」
 急に話題が変わり、話についていけない。えーっと、数学の予習? そんなもんあっただろうか。数学の時間は、いつも睡眠タイムとなっているので、予習なんて知らんがな。
「ページ十二の問三。出席番号順だったから、今日はジゴローだよ」
「マジかよ。やべえ、何もやってねえぞ」
 またまたファック。俺は数学の教科書を開き、急いで問三を見る。
 うわー、無理無理これは絶対無理。一目見ただけで、出来ないとわかった。さすが俺、数学だけは全く出来ない。
「よし、諦めよう!」
「諦めるの早っ! っていうか、久々に突っ込み役だよ私!」
「だって無理だもん! こんなん解けないですもん!」
 俺はじたばたと地団太を踏みながら、数学の教科書を机に叩きつける。こんなもん、どうせ将来役に立たねーよ。だからマジ勘弁してくれ。
「あ、あの、ジゴロー君」
「ん? 何、桜さん」
「その問題なんだけど、よかったら、あの、私の答え、その……」
 べしん! 誰かが俺の頭を引っぱたいた。痛ひ。
「しゃーないね! ほら、これ見せてあげるよ」
 そう言って、麻子はノートを俺に渡す。ぱらぱらと中を捲ってみると、そこには俺の求めし問三の答えが載っていた。
「おお! 麻子、ありがとう! めっちゃありがとう!」
「おうよ。もっと褒め称えたまえ」
 俺は嬉しさのあまり、手が震えた。ああ、麻子が神様に見えるっ! これで、ただでさえテストの点数がヤバイ数学も乗り切れる!
 俺はもう一度、深々と頭を下げた。
「や、マジで感謝します! 麻子様!」
「ははは。くるしゅうないぞ。この間の二千円、これでパアにしてくれる?」
「それは無理だわ」
「ですよねー」
 それは調子乗りすぎ。でも、ノートの礼は言わねばなるまい。
「あ、あ」
「ん? ああ、そういえば桜さん、さっき何を言おうとしてたの?」
「なんでもないですぅ……」
 そう言って、桜さんは自分の席に戻って言った。
 元気無いなぁ。どうしたんだろう? 何か悩みでもあるんだろうか。ううむ、年頃の女の子の考えはわからん。



 数学の時間は、麻子のノートのおかげで何とか無事に乗り切りることが出来た。
 そのまま、今日も今日とてバレることなく、ごくごく平和に学校は終わった。
 帰りのホームルームが終わり、選択教室の掃除をして、ようやく俺は帰路に着いた。
 下駄箱で靴を履き替え、校門へと向かう。ふと、体育館の横を通った時、見慣れた顔がひょいと俺の前に現れた。
「やあやあ、ジゴロー君。麻子ちゃん、喉渇いちゃったなー」
 バスケ部のユニフォームを着た麻子が、手を後ろで組んで、わざとらしい独り言を呟く。
俺は答えず、視線をそらした。
「これから部活なんだけど、アクエリアス飲みたいなー。でも、あいにくお金が無いんだよなー」
「……」
「誰かおごってくれないかなー。数学のノート貸してあげた人とか、お礼におごってくれないかなー」
 ええい、わざとらしいったらありゃしない!
「わかったよ。奢ればいいんだろ、奢れば」
「え? ジゴロー奢ってくれるの? やったー!」
 俺はしぶしぶ、頷いた。踵を返して、校庭の隅にある自販機へと向かう。貸しを作りっぱなしって言うのも癪だし、ここは素直に奢ろう。決して、麻子のいいように踊らされているわけじゃない。俺はそんな軟弱な男じゃないぞ。うん。
「ご主人様、将来は尻に敷かれそうですね」
「そこのプロテイン缶、うるさいぞ」
 自販機に小銭をいれ、アクエリアスを選択する。がこん、と音を立てて、缶ジュースが取り出し口に落ちた。
「はぁー……」
 ふと、さっきのやり取りを思い出して、一筋の不安が心中に湧き出した。
 男に戻って、身長を伸ばしてもらったら、俺は本当に麻子に告白するのか?
 告白するって事は、今までの関係を壊して、次のステップに進むと言う事だ。だけど、必ずしも成功するとは限らない。もし、麻子が俺の事を異性として見ていなかったら? いや、今までの関係を考えてみれば、その可能性の方が高いだろう。
 もし、告白が失敗したら? 今までの心地よい関係が、崩れてしまうんじゃないか?
 本当に、それでいいのだろうか。今になって、確固とした決意が揺るぎ始める。
 ……告白は、麻子の身長を追い抜かしてから、なんて言い訳に過ぎない。本当は怖かったんだ。麻子に拒否されるのが。
 身長が十センチ以上も伸びるなんて、常識的に考えてありえない。俺はありえないとわかっていたから、それを告白の条件として自分に課したんだ。
 だけど、その有り得ない事は、ツンの存在によって有り得ない事じゃなくなった。
 いざとなって、関係を壊してまで告白する覚悟なんて、なかった事に気付く。我ながら間抜けな話だ。くそったれめ。
「はぁー」
 もう一度、深いため息をつく。
 友達以上、恋人未満って、一番結ばれにくい関係だ。後一歩が、踏み出せないのだから。
 憂鬱な気分に浸りながら、俺は缶ジュースを手に体育館へと向かった。
「おーい、買ってきてやったぞ……って、いねーし」
 ボールの弾む音が、体育館の中から聞こえてくる。覗いてみると、バスケ部の練習が始まっていた。
 すごい速さで、麻子がフットワークをしている。俺の視線に気付いたのか、麻子はこちらに視線を向けると、置いといて、とのジェスチャーをする。
 俺は缶ジュースを体育館の隅に置いて、しばしバスケ部の練習を眺めた。
 フットワークが終わり、今度はサーキットトレーニングが始まる。笛の音とともに、横一列に並んだバスケ部が全速力でダッシュする。
「すげえな」
 思わず呟いた。噂には聞いていたが、実際に見ると、本当にきつい練習をしているのだと分かる。バスケ部のほとんどが肩で息をしていて、汗まみれになって走っている。
 そんな中で、麻子はまだまだ余裕といった様子だ。
 不意に、闘争心をむき出しにして、誰よりもたくましく練習に励んでいる麻子を、遠くに感じた。あいつはバスケにかけている。俺には、何か誇れる物があるのか?
 強くなる為に始めた空手だって、まだ大会で優勝した事は無い。
 勉強だって、麻子よりはいいものの、トップクラスには程遠い。
「釣り合わねぇよな……やっぱり」
 俺は踵を返して、体育館を後にした。これ以上、麻子の姿を見ていると、胸がはちきれてしまうと思った。情けない。本当に俺は、どうしようもねぇな。
「ご主人様?」
「なあ、ツン。俺は、もう男に戻れるのか?」
「はい。これだけ魔力があれば、すぐにでも出来ますよ。もう、今戻っちゃいますか?」
「いや。まだ、女のままでいい」
「え!?」
 ツンが声を張り上げる。
「ど、どうしてですか!? あんなに、男に戻りたがっていたのに」
「今の俺に、男になる資格なんてない。俺みたいな情け無い奴は、女の体がお似合いだよ」
「え、え?」
 あれだけ、男に戻りたいと思っていたのだが、今はそうは思わなかった。
 どうしてだろうな。やっぱり、逃げているのかな。自分自身の、麻子が好きという気持ちから。男らしくないな。いや、だからこそ、今は女のままの方が都合がいいのかもしれない。
 俺は道端に転がっている石ころを蹴飛ばしながら、帰路に着いた。



 その日の空手の稽古は、身が入らなかった。
 胴衣の下にシャツを着て、女の体である事はごまかしたが、頭の中で麻子の事ばかりがぐるぐると渦巻き、稽古に集中する事が出来なかった。
「はぁー……」
 胴衣を肩に担いで、夜の住宅街を歩く。
「ん? あれは……麻子?」
 公園からガコン、という音が聞こえた。見ると、麻子が公園にあるバスケットゴールの前に立っていた。
「あー、またダメだぁ」
「麻子」
「おお、ジゴローじゃん。おいっす」
「一人で何やってんだよ」
「シュートの練習」
 そう言って、麻子は綺麗なフォームでシュートをする。
ガコン、と音がして、ボールは見事に網の中に吸い込まれていった。
「練習って、もう十時だぞ?」
「まだ十時だよ。いつも十一時半くらいまで練習してんだ」
「……やっぱ、お前凄いな」
 部活の練習だけでも、あんなにきつそうだったのに、さらに自主練までやるなんて、とても俺には出来そうに無い。また一つ、麻子との距離が広がったような気がした。
「凄くなんかないよ」
「え?」
 麻子は、バスケットゴールを見上げたまま言った。
「私は全然、凄くなんかない。柄じゃないんだけど、やっぱりプレッシャー感じるんだよね。だから、こうやって練習してるの。ミスするのが怖いからさ」
 麻子はもう一度、シュートを放つ。今度はガン、という鈍い音がして、シュートは枠に弾かれた。俺の前に、ボールが転がってくる。
 麻子が俺を見つめる。その目は、いつもの気丈な麻子の瞳ではなかった。弱々しい、誰かに頼らないと生きていけない小動物のような目つきで、俺をじっと見つめる。
 ドキリ、と心臓が鳴った。
 こんな時、何て言ってやればいいんだろうか。頭の中で、色々な言葉が渦巻く。
「麻子なら大丈夫だって。もっと自分に自信持てよ」
 俺はボールを拾い、麻子にパスをする。こんな陳腐な台詞しかいえない自分が、嫌だった。
 麻子は、その言葉をどう受け取ったのか、無表情のまま頷いた。
 虫の奏でる音が、俺達の間を流れていく。
「ねえ、ジゴロー」
「ん?」
「賭けない?」
「賭け?」
 俺はオウム返しをする。麻子は不適な微笑を浮かべた。それは、悪戯を思いついた子供のようだった。
「今から、私が十本シュートをうつ。それで、全部入ったら私の勝ち。一本でも外したらジゴローの勝ち」
「何だよそれ。お前のが有利じゃん」
 バスケ部なら、十本くらい簡単に入れられるだろう。分の悪い賭けだと思った。
「ジゴローが勝ったら、ジュース奢ってあげるよ」
「強制参加かよ。で、お前が勝ったら?」
 何回かドリブルし、麻子は一瞬、真顔になった。風が吹き抜けて、それを合図に麻子の口が開く。
「私と付き合って」
 虫の音が、一層大きく聞こえた。冗談には聞こえないような口調が、頭の中でリピートされる。私と付き合って。
 これって、告白なのか?
 思った瞬間、心臓の鼓動が徐々に速くなっていった。
 そして、ようやく思考が状況を理解する。こ、告白? 麻子が、俺に? 何故?
 眩暈がした。さっきまで釣り合わないと散々自虐していたのに、どういう事だ?
「それじゃ、一本目いくよ!」
「お、おう」
 混乱する俺を他所に、麻子は一本目のシュートを放った。
 ガコン! ボールはネットに吸い込まれた。
「よーし、次行くよー!」
 麻子は、まるで迷う事も怖がる事も無く、シュートをうち続ける。
 麻子の手から放たれたボールは、綺麗な放物線を描いて、ゴールを揺らす。
 三本、四本と、瞬く間に九本のシュートを成功させていった。
「次が十本目だね」
「え、あ、うん」
 本気なのか冗談なのか、月に照らされた横顔からは読み取る事が出来ない。このシュートが入ったら、俺は麻子と付き合う事が出来る。ずっと望んでいた初恋が、あと一本のシュートで叶おうとしている。
 麻子は、本気なのか? 俺はまだ、麻子の身長も抜かしていないし、男らしさだって全然ない。女々しい考えだって、捨て切れてない。俺に麻子と付き合う資格なんてあるのか?
 俺自身は、それで納得できるのか?
 ごちゃごちゃとしたノイズが、頭の中で暴れる。
「ジゴロー」
 麻子が俺を見る。その瞳は曇りは無く、透き通っていた。
 そして、最後のシュートが放たれる。ボールは、九本目と同じような軌道で、ネットに吸い込まれていく。
 夜の公園に、ゴールネットの揺れる音が鳴り響いた。
 弾かれたボールが、あらぬ方向へ飛んで転がっていった。
「あーあ、外れちゃった」
 麻子が残念そうに言った。その口調は、いつもの麻子の口調に戻っていた。
「麻子……その」
「私が言った事だし、しょうがないよね」
 麻子はボール拾い、スポーツバッグに入れた。それを肩に担ぎ、俺に背を向ける。
「俺もお前の事が」
 好きだ。その言葉を、必死で飲み込む。
 本当は、言いたかった。そして抱きしめたかった。だけど、関係が壊れる恐怖がそれに待ったをかける。女々しい心が、女の体という事実が、俺の言葉を喉の奥に押し込める。
 麻子は立ち止まったか、俺が黙ったままでいると、やがて歩を進めた。
「じゃあね、ジゴロー」
 振り返る事無く、手をぶらぶらと振って、麻子は俺の前から去っていった。
 最後の声は、心なしか寂しさが混じっているような気がした。
「ご主人様のバカ」
 鞄の中から、ツンが顔を出してそう言った。
 俺はただ、俯いていた。
「そうだな」
 呟いて、夜空を見上げる。真っ黒な空に、星は見当たらなかった。



「ひでえなオイ」
「うわー……可愛そう」
 教室に入ると、何人かの生徒が俺の席周辺を囲んで、ざわついていた。
 人を掻き分けて、騒ぎの元へ駆け寄る。
「何かあったのか?」
「あ、ジゴロー君。大変なの、麻子ちゃんの机の上に……」
 桜が指差す方に目を向ける。麻子が、呆然と立ち尽くしていた。机の上に、猫の死骸が置いてあった。
「おい、んだよこれは!」
「ジゴロー……」
 俺は鞄を置いて、麻子に駆け寄る。麻子の体は、がたがたと震えていた。
 俺は麻子の肩を抱いて、猫の死骸から視線を逸らさせた。
「お前、保健室行ってこい。ここは何とかしとくから」
「私は大丈夫だよ。うん。別に気にしてないから」
「嘘つけ。いいから休んでこい」
「麻子ちゃん、行こう?」
 桜に連れられ、麻子はふらふらとした足取りで保健室へと向かった。その背中から、微かに泣き声が聞こえた。
 俺は教室へと戻る。誰かが先生を呼んできたらしく、何人かの男性教師がゴミ袋を手にやってきて、猫の死骸を片付ける。
「ジゴロー」
 呼ばれて、振り返る。岩田が苦い表情を浮かべて立っていた。
「岩田、これは誰の仕業なんだ? お前ならわかるだろ?」
 俺は努めて冷静な声で、そう言った。腸が煮えくり返るくらい、苛立っていた。
 麻子の青ざめた顔が、瞼の裏に焼きついてはなれない。こんな悪質な嫌がらせをしやがったクソヤロウを、ぶん殴らなきゃ、この苛立ちは治まらない。
「少なくとも、ここに残されているオーラは人間の物じゃない」
「どういう事だ?」
「あの時と同じだ。うちの施設で、犬や猫が殺された時と同じ、黒いオーラだ」
 岩田は震えた声で、言った。
「プギャードって奴の仕業か。そうなんだな? ツン」
「……」
「ツン!」
 プロテイン缶を取り出し、俺は強引に蓋を開けた。等身大になったツンが姿を現した。
 伏目がちになりながら、ツンは重い口を開く。
「間違いないです。もう、否定は出来ません。さっき、麻子さんから溢れた恐怖と悲しみのマナが、吸収されているのを見てしまいました。まるで気配を感じなかった……ありえない事です。もし魔人が近くに居れば、その波長を感じる事が出来るのに、感じられなかった」
 ツンの息遣いは荒く、怯えているのだろう、目もきょろきょろとせわしなく動かしていた。
 体の奥から、熱いものがこみ上げてくる。プギャードって奴は、魔力を蓄える為に、麻子から恐怖のマナを吸収するために、こんなふざけた真似をしてくれやがったのか。
 魔人だろうが何だろうが、絶対に許せねぇ。
「岩田、プギャードって奴がどこにいるか、わかるか?」
「まだオーラが真新しい。これを辿っていけば見つける事は出来るけど……危険だよ?」
「俺を奴の所に案内してくれれば、それでいい」
 俺は拳を握り締める。俺の意思を察したのか、ツンが叫んだ。
「ご主人様! ダメです、魔人と戦うなんて! ましてやプギャードなんかと戦ったら、ご主人様は殺されちゃいますよ! ここは、私がっ!」
「好きな女泣かされて、黙ってられるかよ!」
「ご主人様……」
「ツン。怖いなら、無理して来なくていい。俺はこそこそマナを集めてる、ふざけた野郎をぶちのめしに行く。岩田、行くぞ」
 ツンは少し考えた後、顔をあげた。
「私も行きます。プギャードの不始末については、私の責任ですから。本当はご主人様を巻き込みたくなかったけれど……仕方ありません」
 言って、ツンはくるりと回った。俺は頷く。そして岩田の方へ視線を向けると、そこには怪しげな眼鏡をかけた岩田がいた。
「ふふ、治五郎。君の女らしからぬ男気に感動したぞ。この超能力ヒーロー、ジャックが直々に力を貸そう」
 ここでジャックに変装するか。呆れて突っ込む気にもなれない。
 だけど、これだけは言っておく。
「俺は女じゃねえ!」
 ジャックは、にやりと笑って、プギャードの居場所をすでに特定しているかのように迷い無く颯爽と歩き始めた。
「急いだ方がいいな。さっき、教室で黒いオーラをある人物から感じたのだが」
「え?」
 歩きながら、ジャックは言った。
 俺とツンは、後を追いながら耳を済ませる。
「恐らく、プギャードの正体は桜さんだ」
 ジャックが何を言っているのか、分からなかった。頭の中で、何かがはじける音がする。
 嘘だろう? 桜がプギャードだって? 冗談きついって。おい。
「麻子……!」
 俺は全力疾走で、保健室へと向かった。



 保健室のドアを開いたその先には、信じられない光景が広がっていた。
 ベットの上。桜が、麻子に馬乗りになって首を絞めていた。
「麻子っ!」
 桜がこちらに首を向ける。その目は充血し、一目見ただけで異常だと分かるくらいに見開かれていた。俺は叫ぶと同時に、桜に体をぶち当てる。麻子の首から手が離れ、桜はベットから転がり落ちた。
「麻子、大丈夫か!」
「ん、はぁ、はぁ、ジゴロー……?」
 咳き込みながら、麻子は涙を目尻に浮かばせた。よかった、まだ生きてる。
 俺は麻子をベットから起こし、視線をベットの脇で倒れこんでいる桜に向けた。
「桜さん、どうしてこんな事を」
 次の言葉は、起き上がった桜の姿を見た瞬間、どこかへ飛んでいってしまった。
「よくも、邪魔をしてくれたな。小娘」
 老婆のような、しゃがれた声が耳に届く。ゆらり、と起き上がった桜は、まるで別人だった。
 髪の毛は重力に逆らうように逆立っていて、真っ赤になった瞳が俺を睨む。さらに、黒々としたマナが、桜の周りを渦巻いていた。
「プギャード!」
 背後からツンが叫ぶと、桜さんは鼻で笑った。
「おやおや、君は僕を封印してくれやがったツンじゃないか。ようやく僕に気付いてくれたね。僕はずっと、君の存在を知っていたし、近くで眺めていたよ。どう復讐してやろうかって考えながらね」
「あなた、桜さんの体にとりついているのね!?」
 桜、いやプギャードはくっくと笑う。
「そうだよ。ずっと、この子の中で僕は生きていた。君は、僕を空き缶に封印してくれたようね? だけどさあ、液状になった僕を、この子が飲んでくれたんだ。気付いたら、僕は実体を失ってこの子の中で生きていた。信じられないかい? でもね、事実、僕は生きている。そしてこの子を操り、憎悪や憎しみのマナをかき集めることができた」
「桜……? ねえ、ジゴロー。どう言う事なの? 桜、どうしちゃったの?」
 麻子が、呆然とした様子で俺を見上げる。だが、答える余裕は無かった。俺はただ、プギャードから放たれる殺気に怯えないように、ひたすら体の震えを抑えていた。
「お前が桜さんを操って悪事を働いていたのか」
「いや、僕だけの意思じゃない。都合がいい事に、人間は誰しも少なからず悪意を持っている。そこを増幅させてやれば、何だってするさ。例えば、犬猫を殺したりね。そして悪意や恐怖は波状するように広がる。これほど効率の良いマナの集め方はないよ」
「ふざけんな! てめぇ、桜さんにそんな真似させやがって!」
「おいおい、まさか」
 不意に、桜の体から黒々とした煙が出てきた。それは、やがて姿を変えて人型となる。
「逆らうつもりじゃないだろうね。人間風情が、このプギャード様によ」
 目の前に現れたのは、身長二メートルはあろうかと言う大男だった。
 筋肉隆々とした体つきで、魔人という言葉がよく当てはまる。
「ご主人様! どいてください!」
 ツンが俺を押しのけ、前に出る。そして、プギャードに手の平を向け呪文を唱えた。
「ラーバ・コリュスルート!」
 直後、光の矢がツンの手から放たれ、プギャードに突き刺さる。
「なんだい、これは。何かのお遊びかい?」
 プギャードは、まるで平気だと言わんばかりに突き刺さった矢を引き抜く。
「くっ……」
「何をしても無駄さ。僕はありとあらゆる人間の憎悪や悪意、怒りや悲しみのマナを集めた。見ろよ、この体を。これだけ魔力が有れば、人間界で実体化することだって出来る。そうしたら、この世界は僕のものになる。僕のものにしてみせる」
「ふざけるな! てめぇの好きにさせるかよ!」
 俺はプギャードに殴りかかった。が、振るった拳はいとも簡単に避けられてしまう。
 手を捕まれ、逆方向に捻られた。
「う、ああああっ!」
「ご主人様!」
 腕が熱を帯びる。激しい痛みが、腕にはしった。
「悪いけど、実体化を続けるにはもっと魔力が必要なんでね。最後の仕上げは、この娘の身を借りてやらせてもらうよ」
 再びプギャードは桜の体に入り、操られた桜は信じられない速度で麻子の前に移動する。
「あ……あ」
「麻子!」
「さあ、もっと恐怖しろ。そして友人に殺される悲しみを、僕によこすんだ」
 桜の手が、麻子の首に伸びる。
 やめろ。助けなきゃ。けど、腕の痛みで思うように足が動かない。
「やめろ――――っ!」
 俺の叫びに、プギャードに乗り移られた桜はにやりと笑う。
 しかし、その表情はすぐに驚愕のものにとってかわった。桜は俺の背後に視線を向ける。
 光の球が、俺の肩をかすめて桜へとぶち当たった。
「がっ!」
「ジゴロー! 逃げるんだ!」
「岩田!」
 その光の球を放ったのは、岩田だった。なおも手の平から光の球を放出する。
「く、何だこれは! 人間ふぜいが、こしゃくなまねを!」
「僕は超能力者でね。この光の球は、ジャック・ザ・バーボンの必殺技の……おっと、まだ名前は考案中だった」
「ふざけやがってぇぇぇ!」
 プギャードが耐え切れず、桜の体から飛び出す。そして岩田の体へと覆いかぶさった。
「ぐああっ!」
「貧弱な女の体などいらん! 貴様の体に乗り移ってくれるわっ!」
 桜は、その場にぱたりと倒れる。プギャード自身は岩田の体にどんどん入っていき、岩田は悲鳴をあげた。
「岩田!」
「は、はやく逃げるんだ! 今のままじゃ、こいつには勝てない!」
 俺は舌打ちして、一瞬の思考の後、折れてない方の手で麻子の腕を取った。
「麻子、逃げるぞ!」
「でも、桜が」
 麻子は震えながら、桜の方を指差す。
 さっき、桜からプギャードが抜けるのを見た。桜はもう操られていないだろう。
「くっ!」
 俺は桜の袖を掴み、引きずる。激しく争う岩田とプギャードを残して、俺達は保健室から退却した。



 今は使われていない教室で、俺達は床に座り込んでいた。
 どうすればいいのか分からず、途方にくれる。あんな化け物、どうやって倒せばいいんだ。
「麻子、大丈夫か?」
「う、うん。ジゴローこそ、腕……」
「こんなん、全然へっちゃらだって」
 じんじんと痛む腕を隠しながら、俺は強がりを言った。
 麻子は心配そうな表情を浮かべたが、やがて視線を桜に移す。
「一体、何が起こってるの? どうして桜があんな事を……」
 そうか。麻子は魔人の事なんて何も知らないんだ。それに、ツンも今は見えていない。
「ツン。その、お前の魔法で、麻子にも魔人が見えるようにはできないのか?」
「可能です。でも、いいんですか?」
「ああ。頼む」
 このまま、一人だけ何も知らず、桜に裏切られたなんて思わせたくない。
 全ての元凶は、桜を操っていたプギャードなのだ。それを知って欲しかった。
「アラモード・キュルス!」
 不思議そうに、俺の独り言を聞いていた麻子に、ツンが魔法をかける。
 直後、麻子の目が驚きの色に染まった。
「え? あ、あなたは?」
「初めまして、かな? 私はツン。ランプの魔人だよ。って、ある程度の知識もさっき一緒に送り込んだから、分かるよね?」
 麻子は、呆然としたまま頷いた。
「おい、知識も一緒に送ったってどういうことだ?」
「プギャードや、魔人に関する知識、それと現状に必要な説明を麻子さんの頭に送り込んだんです」
 そりゃ便利だな。って、待て待て待て。まさか。
「信じられない……ジゴロー、あんた、女の子になっちゃったんだ」
「げげぇっ!」
 ばれてる! いらんことまで伝えやがったな!
「あ、あ、すいませんご主人様!」
「ばかばかばか! 何てことしてくれたんだよ!」
 今までの努力が水の泡だ。一番、知られたくない麻子に知られてしまった。
 もう、俺の人生終わりだこんちくしょう!
「ううん、大丈夫。私は気にしてないから」
「気にしてないのかよ!」
 麻子は、俺のツッコミを無視して続ける。
「私達……どうなっちゃうんだろう。もう、ダメなのかな。あのプギャードって魔人に殺されちゃうのかな」
 膝を抱えて、麻子はそんな事を言った。
「大丈夫だ。あんな奴、俺がぶっ飛ばしてやる。絶対に、麻子は俺が護ってやるから」
「ジゴロー……」
 そうだ。あんな奴に殺されてたまるか。俺の命に代えてでも、麻子には指一本触れさせねぇ。
「う……」
「桜?」
 ふと、桜が目を覚ました。苦しそうに咳き込みながら、寝転がったまま体をもぞもぞと動かす。
「苦しいの? 無理して動かなくていいから、ね?」
 麻子が優しく声をかける。桜は、涙を流していた。そして繰り返し繰り返し、ある言葉を呟いている。
「ごめんなさい……たす、けて……」
 がたがたと体を震わせている。プギャードに操られていた時の記憶が一気に戻ったのか、精神的なショックを受けているようだった。
 瞬間、怒りが湧き上がってきて頭がおかしくなりそうになった。
 俺は拳を握り、立ち上がった。
「どこに行くの?」
「奴を倒しにいく。岩田一人じゃ、奴は倒せないだろうし」
「でも!」
 俺は振り向いて、麻子の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前は、桜さんを見ていてくれ。大丈夫、心配すんなって」
「ご主人様!」
 ツンが、胸に手を当てながら叫んだ。
「ツン、逃げ回っててもどうにもならねえ。俺は戦うぜ」
「……わかりました。ご主人様、私を使ってください」
 ツンの体が眩い光に包まれ、やがてツンの体は鋭い剣へと姿を変えた。
「ありったけの魔力を詰め込んで、私自身を剣にしました。ご主人様が集めた、幸せのマナと喜びのマナを結集した剣です」
 俺は剣となったツンを手に取り、教室を出る。
 勝てるかどうかなんて、わからない。いや、勝たなくちゃいけない。女を泣かすような下種に、男として負けるわけにはいかない。
「ジゴロー……その、負けないで」
「任せろ」
 俺は麻子に親指を立て、再び保健室へと向かった。
 一人残った岩田はどうなっているのだろうか? まさか、死んじゃいないだろうな。
 生きてろよ、変態。お前は俺の唯一の男友達なんだからな。



「やあ、待っていたよ」
 剣を片手に保健室に入ると、岩田は平然とした様子で立っていた。
 いや、岩田じゃない。こいつはプギャードだ。岩田は操られているのだろう。
「プギャード。てめえだけは許さねぇからな」
「おや、随分と強気だね。何だい? そのチンケな剣で僕と戦おうと言うのかい?」
 プギャードは、心底おかしそうに笑った。
「この体は中々いいよ。超能力者とは、不思議な力を持った人間もいるものだ。魔力とは違った、不思議な力を感じ取る事が出来る。鬼に金棒だね」
「ごちゃごちゃいってんじゃねーよ。今からお前を、この剣でぶったぎってやる」
 俺は剣の切っ先をプギャードに向ける。
「無駄だよ。たとえその剣でこの体を切ったとしても、宿木であるこの男が死ぬだけだ」
 そう言って、岩田の体をさすプギャード。
「てめえも男なら、せこい手を使わないで直接勝負しろよ」
「そんな挑発に乗ると思ったか? お喋りは終わりだ。まずはお前から恐怖のマナを頂く事にしよう」
 プギャードが手の平をこちらに向けた。俺は咄嗟に横に飛ぶ。
 俺の居た場所に、光球が撃ちこまれ、爆音が鼓膜を揺るがした。
「くそっ!」
 せっかく剣を持っているのに、使えない。もどかしい。
 その時、プギャードの動きが鈍くなった。
「ジゴロー! 今だ!」
「岩田!?」
「僕が内部から抑えている間に、はやく攻撃するんだ」
「け、けど、お前」
 岩田の体に攻撃すれば、岩田自身もただじゃすまないはずだ。
「ははは。無駄なことを。人間は情にもろい。友をその剣で切り刻む事がお前に出来るのか?」
「ジゴロー! 僕を信じて! 刺すんだ!」
「……岩田、お前には劇の時に散々セクハラされたからな! 丁度いいや、プギャードごと刺してやるぜ!」
「ば、ばかな。よせ!」
 プギャードが悲鳴をあげる。
 俺は、幸せと喜びのマナで造られた剣で、岩田の体を突き刺した。
「ぬああああああっ!」
 岩田の体に剣が刺さり、プギャードが苦痛の声をあげ、やがて剣からあふれ出した光が全てを包み込んだ。


 結果からいうと、岩田は無傷だった。
 幸せと喜びで出来た剣は、プギャードだけを貫いたのだ。
「あの時、本気で僕を殺そうとしたでしょ?」
 岩田の問いには、頷いておいた。

 さて、俺は未だにツンと一緒にマナ集めに走っている。
 ツンは剣になった際に、魔力を全部使ってしまったらしく、俺を男に戻すための魔力もなくなってしまったのだ。
 また、最初からやりなおしだ。マナ集めも、そして、麻子との恋も。
「ジゴロー! そんなにがっついて食べないの! 女の子なんだから、もっとゆっくり食べる!」
「うるせぇ! 俺は、男だ――――!」
 男に戻るその日まで、俺の恋は進みそうにない。
 今日も今日とて、女の体で俺は過ごすのであった。


おわり
2008-07-12 18:04:57公開 / 作者:海賊船
■この作品の著作権は海賊船さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
某新人賞で一次突破した作品です。
感想・批評を元に改稿したいと思っています。
よろしくお願いします
この作品に対する感想 - 昇順
 さすが一次突破した作品です。文章はとても読みやすく、展開などもほぼ違和感なく読めました。
 ただ物語としては完成されているのですが、人をひきつける魅力があるかというと、難しいですね。(ただし私の場合は、萌え系統はいまいちわからないということもあります)
 魔法を使うためにはマナを集めないといけないという設定は面白いですが、そのほかの設定には、あまりオリジナリティが感じられず、また設定を生かしきれていない気がしました。
 より完成度を上げるためには、最後の決戦があまりに短いので、もっと丁寧に描いてみる。あとはわずかな違和感をなくす。例えば、なぜ泥棒はプロテインの缶なんか盗んでいったのか。いつの間にマナはたまっていたのか。
 などがあるのですが……完成度は十分なので、設定をもっと生かす展開が必要があると思います。例えば、これだけ二人の親密な関係を描いたのだから、ラストに主人公が彼女のピンチを救わないともったいないと私は思うのですが。
 最後に誤字脱字と思われるところを。
「ご主人様、そう言えば、学校はいいんですか?確か、人間界の学校は八時三十分までに登校しないと、遅刻になるのでは……」『?』の後に一文字開いていない。
)「お前、何でそこまで知ってるんだ。まさか、あんたがプギャードなのか?」
 俺はツンと目を合わせる。ツンは、お手上げのです、とアイコンタクトを送ってきた。『お手上げです』では。
「アドリブでいこうよ。その方が面白くないそうだし」『面白くなりそう』
「それははフェイントだ!」『は』の重なり。
 麻子は立ち止まったか、俺が黙ったままでいると、やがて歩を進めた。『立ち止まったが』
 物語が完全にできあがっているので、あとはどんな面白い設定を思いつけるかにかかっていると思います。がんばってください。
2008-07-16 07:59:41【☆☆☆☆☆】翼
計:0点
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