『CHAIN 下』作者:祠堂 崇 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角86551文字
容量173102 bytes
原稿用紙約216.38枚
 




 第五幕:激動 〜Another side〜





「……成る程ね。連中が何をしようとしているのか、分かったわ」
 薄暗いビルの屋上の縁に寄りかかり、書類の束をペラペラと捲っていたグレーテルが顔を上げる。
 調べ物をする様をじっと待っていた伊月とチセに、グレーテルは言う。
「コレ、法王庁と繋がりのある組織との物品受け渡しの記録の記されてる調査書なんだけど」
 チセが首を傾げる。
「物品?」
「早い話が武装や資金の輸出入記録みたいなもんよ。諜報部署の人間でもないアタシが調べたってバレたら減俸処分どころじゃ済まないから内緒ね」
 口元に指を当ててジェスチャーするグレーテル。
「過去に受け渡しで何らかの事故が遭ったり、更に絞るなら襲撃を受けた際に物品の数と帳簿の勘定が合わない記録が無いか調べたの。珍しいといえば珍しいけどそれ程少なくないと踏んでたら、日本圏内に絞り込んだ瞬間たった一件だけヒットしたわ」
 紙切れを一枚千切り、見せてくる。二人は顔を近づけ合って覗き込む。
「丁度十年前、イタリアから日本経由で米国支部に特殊な物品を輸送する為に偽装したトラックが、夜に襲撃を受けたそうよ。輸送していた人間二人は容赦無しに嬲り殺し。手口からして組織だったものと見て、近辺で活動してる組織を手当たり次第に尋問した結果犯人は見つからなかった。証拠に足るアリバイがあったからね。つまり個人での襲撃ってことになるんだけど……不思議な事にトラック発見時に、トラック自体を攻撃した痕跡はゼロ。数ある物品のほとんどに手を付けていなかったらしいわ」
 伊月とチセはその先を催促した。はっきりと『ほとんどに』と言った事を理解していた。
「ただ、たった一つだけ犯人が手を付けた物が有ったのが後の調査で判った。たったの、一つをね」
 チセは訝しげに訊く。
「何……?」
 当然の質問に、しかしグレーテルは少しだけ即答出来なかった。
 やがて、重々しい雰囲気で、口を開いた。
 口に出すのも躊躇われる程の、盗品の名を。
「魔導書よ」
「!」
 チセは絶句した。伊月は頭に大きなハテナマークを浮かべ、二人の遣り取りに任せる。
 やがて、チセは表情を無に戻して探るように訊ねる。
「……実在したの?」
「まさか。名前も知られてない二流能力者がいい気になって綴った模写本(コピーライト)でしょうよ。仮に本物の魔導書が実在するとして、そんなとんでもないモノ法王庁が手放すワケないし」
 そろそろ理解に苦しくなってきた伊月は、口を挟む。
「魔導書、ってのは?」
「名前の通りよ。魔へと導く為の書物。この世界の闇に謳われた秘術や禁術を、後世に伝える為に形として残されたとされる秘宝。ネクロノミコン、無名祭祀書、ナコト写本……およそ人の知識では計り知れない御業を記した本」
「……残されたと、される……?」
「実在しないのよ。在ったとしても誰も読めない。記されたのは必要な術式だけでなく、?不必要な情報まで?記されてるのよ。どうやってこの術式を編み出したか、どういった気持ちで書いたか、使用した際の感触はどうか、何の為の術式なのか、エトセトラ……およそ常人には理解出来ない程圧倒的な情報量を、一文字一文字に込められた魔導書は、いかに学を積んだ人間でも?読みきれない?。読んだ瞬間に情報量を処理しきれなくなり、人格に支障を来し、最悪の場合たった一行読んだだけで即死することもある、危険な代物だからね」
 模写本(コピーライト)はそれを出来る限り一文字に込められる情報量を広く薄くし、読めるようにしたものだという。
 ただ、そういった模写本(コピーライト)が在ったとして、その量がどれほどのものか判ったものじゃない。少なくとも、たった一冊の魔導書を読めるように純度を薄めたモノですら、図書館一つ分の情報量になってしまう。まず、誰も手を付けない物だろうと思い、襲撃事件も記録という闇に葬られたらしい。
「たかが一冊の本という事で、信憑性に欠けて最低ランクの物品扱いだったんでしょうね。けどそれだけに輸送警備は低かった。運が悪いんだか間が悪いんだか」
「それで、如月、は……何を企んでるか判らねぇのか?」
「それも判明してるわ」
 若干暫定的だけどね、とグレーテルは付け足した。
「等間隔の位置に結界を張って、その内側と側面を包み込む領域を創る事から始まる……そして、日本圏内という場所と、今年という日付。間違い無いとしたらマズいわね……彼女の目的は『一目連』を降ろす事よ」
「「イチモクレン……?」」
 二人して、グレーテルを眇めた目で見る。『こいつ本当に外人?』とばかりに。
 左右に佇む、腹の立たないでもない二人を見比べて、咳払いをした。
「製鉄や鍛冶を司る日本の山の神よ。天目一箇、ってほうが聴こえは良いかしら。天津彦根命の子で、諸説の中では雲よりも高い目を持つ――つまり巨人だって話がある。一説ではあの伝説の巨人、デイダラボッチと同一視されてるわね」
「そんなもん降ろしたら、町中大パニックだろうよ」
「その為の結界造りよ。謂わば彼女のしていることは、神を顕現させられるだけの器を作ってるってトコね。『教会領域(チャペル・レプリカ)』なんかよりもっと大きくて強固な、因果律の断絶した固有結界。人を殺したのは神を一時的に降ろす為の柱として結界に血が必要だったからだと思う。神を降ろして、ある事をするのかも」
「ある事?」
「言ったでしょう? 『天目一箇』は製鉄や鍛冶、つまり?壊れた存在をもう一度作り直す?力を持つ。恐らく何らかのモノを作り直すんでしょうね」
「何を作り直すつもりなのか予測は立てられないの?」
 チセの問いに調査書を捲り、お手上げのポーズをする。
「さぁね。記録上『天目一箇』を顕現したって話は無いわ。ま、十年単位の周期だし、人が死ななきゃならないなら出来るはずもないしね。とはいえ神様を利用してまで作り直すモノなら、よほどのモノなんじゃないのかしら。町一つを破壊出来る神器や、あるいは……既に死亡している人間。一度存在していたなら、何でも取り戻せるもの」
「命……」
 ぽつりと、伊月は呟いた。
 チセが不思議そうに向く。
「え?」
「あ、いや……なんでもねぇ」
 言葉を濁して、伊月は空を見上げた。
 何か、決定的な何かを忘れているような。
 そんな気がした。
「とはいえ、本物の神様を降ろそうなんて馬鹿げてる。万が一器が壊れたら、神凪町の経絡が不安定になって、予想にも付かない大惨事が起こりかねないわ」
「対処法は無いの?」
 難しいわね、とグレーテルは唸った。
「一度形成された結界を消すのは時間が掛かるわ。出来ないワケじゃないけれど、先に結界が完全に形成されきるのは火を見るより明らかね。元を断たないといけない」
「……つまり如月姫野自身をどうにかしなければならないと?」
「そうなるわ」
 調査書を宙に放り、タロットカードを取り出す。顕現された四つの神器から杖を素早く取って天にかざし、落ちてくる紙の束を焼き尽くした。
「幸いな事に周期をベースにする秘術なら、『天目一箇』が降ろせる日付は決まってるはず。彼女を拘束して期日を過ごさせてしまえばアタシ達の勝ちよ」
「達、と一緒にしないで欲しい」
「はいはい」
 タロットカードをしまうグレーテルは、伊月を見て気が付く。
 深く考え込んで、さっきから何も喋っていなかった伊月に、声を掛ける。
「どうしたの? イツキ」
 呼びかけられた伊月は、頭を振った。
「なんでもねぇ」
「本当に?」
「……んだよ、疑ってんのかよ?」
「そういうワケじゃないけれど……」
 苛立つ伊月に少し戸惑ったグレーテルが、結界を張る為に下へ降りるのを見ていた伊月に、チセは真っ直ぐと見つめて言った。
「……あまり苛々しないで」
「あ?」
「如月姫野が敵だということへの苦しみは理解出来る。でも、自分を見失うことだけはしないで」
「俺がいつ自分を見失ってるってんだよ」
 言った瞬間、チセは素早い体移動で伊月の胸元に拳を作り、当てる。
「CHAINは総ての人間に等しく影響する」
「……どういう意味だ?」
「気付かない? 徐々に喋り方が荒々しくなってる。CHAINの『憤怒』の狂気に呑まれかけている事に」
「な……っ」
 伊月は驚く反面、否定の言葉が見つからなかった。そういえば、なんとなく苛立つことが多く、口調が悪くなってる気がした。
「自分を見失わないで。もし貴方が狂気に呑まれた時、私は貴方も――手に掛けなければならない」
「……」
 真っ直ぐと見上げる瞳は、宝石のように澄んでいる。
 逸らす事も出来なくなる伊月の瞳をじっと見つめ続けていたチセは、「それだけは忘れないで」と言い残してその場を去った。
 伊月はその背を見送り、ゆっくりと景色を見渡した。
 遠くまで広がる家々の明かりを眺め、伊月は誰にともなく答えた。
「分かってる……分かってるさ」
 深呼吸をし、やがて強く、虚空を睨んだ。
「如月。お前を必ず止めてやる」

 そこに、
 闇に沈んで隠れた歯車が在る事に、
 気付かないまま。


 ◆


 夜の街を歩く三人の影。
 コンビニで買った地図に赤ペンで印を付けてゆくグレーテルは、可能性を確信へと導く頷きを見せる。
「やっぱり……『天目一箇』だわ」
 先導して歩いている伊月の背を見て、グレーテルは小さく呟く。
「通り魔からこんな大規模な神術へ繋げられる伊月って何者なのかしら? 普通そっちに考えなんかいかないし」
「……それについて気付いたのだけれど」
 珍しく返答するチセは、伊月に聴こえない程度の声音で話す。
「通り魔は結界を張るのが目的だと、本人は薄々気付いていたんじゃないかと」
「どういう事……?」グレーテルが驚き半分に訝しんだ。「まあ、完全に周りを信用し切れないから黙ってたってのは予想が付くのだけれど、先に気付いてたってどうして判んのよ?」
「確証が無いのに言えば当惑させると思ったんじゃない? 私ももしかして程度だけれど、通り魔の張本人に彼の存在は割れているのに、妹を家で一人にしている事に動じているふうに見えなかったから」
「――、」
「それに、感染者が時間に焦っている可能性も気付いていたんじゃないかと思う。朝の偽メールも、?せっつかれたら確実に動く理由が在るから?だとしたら……」
「つまりあの偽メールは単に感染者を誘き寄せる為じゃなくて、感染者の目的をはっきりさせる為にアタシに仕掛けさせたっていうワケ?」
 頷くチセ。
 ほぅ、とグレーテルは吐息を零し、帽子の上から頭を抱えて呆れた顔で、肩に竹刀袋を担ぐその背を見た。
「……彼、探偵か犯罪者に向いてるわ」
 噂をすればなんとやら。伊月は振り返ってグレーテルに訊く。
「この辺か?」
 地図を覗き込むグレーテルは首肯する。
 赤い色の円があちこちに記されており、唯一その円の群れの無い空白の地点と自分達の居る地点を確認した。
「そうね、もう五分も無い距離だわ。ここに結界を張られると……」
 ペンのキャップを口を使って外し、数分先に佇む公園を囲む。
 伊月とチセが覗き込む中で、グレーテルは出来た七つの円をそれぞれ外周をなぞるようにラインを引いてゆく。
 そして、今度は内側にラインを引いた時に、伊月もチセもその殺戮の意味を理解した。
「……これが、『天目一箇』の器になるのか」
「そういうこと」
 三者の視線の集約する先には、赤い色の七芒星が形成されていた。
「奇数は陰陽における『陽』の力を持つ数字よ。夜という地盤に陽の文字を刻む事でそこに隙間を創って、強力な異界を発現させるんだわ」
「異界……因果律の断絶した世界、か」
「そう。この世とは別次元の情報を保有するとされる神を顕現させるんだもの。例えそれが贋物の不安定な神でも、圧倒的な質量に?存在すること自体が不可能?なモノ。並の因果律修正じゃ利かない。完全に隔離された、?もう一つの神凪町?を創り出してそこに降ろす算段なんだと思う」
 経絡に有する神力だけを移した巨大なジオラマのようなものだとグレーテルは崩して言った。単に神を降ろしてそこに住まわせるだけというのはデメリットしか無いし、そもそも意味が無い。そこまで狂信的なら影から個人行動をするとは思えない。
 つまり、本当に一瞬だけ神をそこに存在させ、代わりに神――『天目一箇』の、存在を復元する性質を借りるのだろう。神という馬鹿げた存在がこの世に姿を現すだけでも充分に神側には利益なのだという話だ。一種の契約を結べば可能で、無論それを行うだけの神力がたかが一人や二人で賄える訳が無いが、数少ない日本の神佑地の中でも数値化出来ない程の神力を保有する神凪町を媒介にしたなら、強ち不可能ではないらしい。
「アフターケアは全くの考慮外だろうけどね」忌々しげにグレーテルは虚空を睨む。「そもそも神なんてモノが降りたら、仮代の神凪町はものの数分で消滅する。そんな状態で結界を解いたりしたら、消滅した神凪町の情報が本来の神凪町の情報を上塗りして連鎖反応を起こしかねない。まず、何千何万世帯クラスの人間達の情報に確実に支障を来たすでしょうね。後先を考えないにしては、あまりにも惨い計画よ。だから法王庁ですら、神を降ろす事は『してはいけない』じゃなくて、『絶対に不可能』で触れ回ってるぐらいなのに……」
 訪れるかも知れないその壮絶な結果を想像してか、黙り込む三人。
「……止めねぇと」
 やがて顔を上げたのは伊月だった。
「誰も死なせねぇ。これ以上、誰にも殺させやしねぇ……」
「……そうね」
「当然」
 二人は同時に頷く。ぱっと視線を合わせ、声が重なったことに不満が有り気にぷいっと顔を背けた。
 いい加減仲良くしろよ、と伊月は思った。
 その時だった。
 二人の視線は、同時に伊月の方へ向く。
 一瞬、心の内を読まれたのかと身が竦んだ伊月だが、二人の視線は伊月ではなく、伊月の背の向こう。つまりこれから目指す場所を眺めるように目が眇められている。
 意味を察した伊月も弾かれるように振り返った。
「動き出したか……!」
「行きましょう!」
 グレーテルは一喝したが、不意に前に出した足をピタリと止める。
 チセは視線だけ寄越した。
「……どうする?」
「……そうね」苦笑を噛み締め、「行って。最悪、キサラギってのを止めるのはアンタの役目よ。勝てなくてもいいから人命救助ぐらいはして頂戴」
 何を話しているのか判らなかった伊月も、振り返ってようやく理解した。
「……俺はどうする?」
「イツキはあの樋口ってのをお願い出来る? 君も同じく、危なくなったら逃げて。全力で。足手纏いになる前に。でも、」
 伊月を見るグレーテルの眼は、心配はあっても止める気配は無かった。
 あまりにも拙い可能性だが、託すだけのモノは託したのだ。
「忘れないで。まず落ち着くこと――」
「――物体の存在を認め、自分の体の一部として感じ取る……だろ?」
 竹刀袋を見せて遮る伊月に、グレーテルは微笑を浮かべて先を促した。
 無言の了解をする伊月とチセは、走り出す。
 その背中が闇に消え果るまで待ってから、グレーテルはタロットカードを取り出し、振り返った。
「『教会領域(チャペル・レプリカ)』を張るぐらいの時間は、くれるんでしょうね?」
 闇に佇んで尚、白濁した殺意を纏う狂人は暗く哂う。


 ◆


「あの野郎っ、行く先々で邪魔しやがって……!」
 走りながら愚痴を零す伊月に、チセは冷徹に答えた。
「契約者同士の戦闘の場合、大半が追われるより追う方が楽。?切り裂き魔?や?賢しき四法?は経絡から発せられる因果律の歪みを戻す特殊な神力を持つ。だからある程度同質の経絡を持つ者同士は経絡が共鳴してしまう現象が起きてしまう。同じ性質の波動同士がぶつかる振動、のようなものだと教わった」
 坦々とした説明に、伊月は不思議に思った。
「教わったって、誰に?」
「貴方には関係無い」
「……っ」
 伊月は押し黙った。触れられたくないのだろう、その物言いの若干の辛辣さを悟った伊月に、これ以上踏み込んで彼女の士気を落とすような真似は出来なかった。
 無粋な問いかけだった。第一そんなことを訊ける程、今の伊月に余裕はあまり無い。
 そうこうしている内に二人は公園に辿り着く。
 腰の低い鉄柵を通り過ぎた瞬間に、伊月は咄嗟に立ち止まって、退いた。
 胸焼けを起こしそうな、異常な生臭さが鼻に衝いたからだ。
 生臭いというよりも、生温いと言うべきだろうか。粘着質的で、しかし肉迫とした温度を持った臭いに充満した小さな公園は、意気込んでいた伊月に再確認をさせた。
 目の前に広がるのは、本来伊月が介入することのないはずであった、非日常であるということを。
 外灯のガラスの部分が叩き割れ、ほとんど暗闇だ。薄暗い夜の公園で良かったとも思う。
 間違っても、地面や遊具に飛び散っているぶよぶよとした赤黒い何かが、何であるかを視認しなくて、まるで助かったような気分になる。
 深紅の爆心地に立つ男は、眼鏡にこびり付いたその液体をハンカチで拭き取っていたが、二人の姿を見るや静かに眼鏡を掛けた。
 惨劇。
 そう呼ぶのが相応しい光景。
 全身が血塗れだからか、作業の途中に二人が現れたからか、完全に拭い切れなかったせいで薄く赤みを残した眼鏡の奥で、樋口和彦はせせら笑う。
「ひ、ひひ……来た来たぁ……馬鹿どもが」
 伊月は、その相貌を見て息を呑んだ。
 樋口和彦とは、このような形相をしている男だったか?
 口元から流れている血は他人のモノではないだろう。明らかに自分の歯で下唇を噛み千切った出血だ。にも関わらず樋口和彦は嗤っている。眼は血走り、指先が小刻みに揺れ、体がゆらゆらと力無く、しかし不気味な気配を孕んでいて、
 怖い。
 純粋にそんな感情が湧き出た。
 躊躇いなく他者と己の血に制服を汚し、他者と己を傷付ける痛みを凌駕し、自責も罪悪感も欠片さえ抱かず、まるで食事でも……いや、呼吸するぐらいに当たり前にやり通すように?なってしまった?男がそこに居る。
 人間を放棄したとしか思えない。
 人間のはずだと思っていたのに。
 人間でない笑みが、そこに在る。
「……これは、まさか……」
 隣に居る誰かが、ぽつりと呟いていた。
 のろのろとした動きで振り向くと、艶やかな黒髪を長く流す、人形のように色白で小柄な美少女が驚きの視線をニンゲンデハナイモノへと向けて、言った。
「……っ! そこに、居るの……?」
「――!?」
 はっとした我に返った伊月が視線を追った先で、両手で自分の顔を覆い、腰からだらりと倒して、くつくつと込み上げるように哂う。
「壊れたっ……壊れやがった……お前らが悪いんだぞっ? せっかく上位の存在になったというのに……この僕を、この僕をっ、こ、こけ、コケにしやがってぇ……!」
 その背から、確かに伊月は見た。
 薄暗い闇の中で、咽び泣くように顔を覆う男の背に、何かが見える。
 暗い、暗い、暗い、でも色に表わす事の出来ない、そんな色の、?気配?。
 言われなくても、訊かなくても、それが何か、薄々気付いていた。
「ちぇ、いん……っ!」
「がぁぁああああぁぁぁあぁああぁぁぁああぁぁぁああぁああぁぁぁぁぁああっ――!!」
 突然に樋口和彦は頭を抱えて叫び出した。自分の声に反応したのかと伊月が思わず怯むと、冷静にチセは口を開いた。
「CHAINは感染や干渉した者の負の感情を加速・促進させる力が在る。『傲慢』、『強欲』、『暴食』、『嫉妬』、『色欲』、『憤怒』、そして『怠惰』」
 火をくべて膨れ上がる煙のように肥大化するその気配に、チセは目を細める。
「彼の感染源は――『傲慢』」
 そして、慟哭の矛先はついに伊月に向いた。
「姫宮ぁぁああああああああああああ!!」
 大気を震わせる樋口和彦は、わなわなと覚束無い指先を向けて叫ぶ。
「僕をっ! 僕を馬鹿にしやがってぇ!! ムカつくんだよどいつもこいつも……っ! 馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって! 馬鹿にっ、……くそがぁぁああああああ!! ぶっ殺してやる!! 何一つ出来ない弱さに絶望するお前の顔を腕を脚を指を心臓を肺を腎臓を膀胱から胆嚢まで何もかも何もかもぶっ殺してぶっ殺シテブッ殺してぶっコロシてブッ殺しテブッコロシテブッコロシテブッコロシテェェェエエエェエエェエエェエエ!!」
 狂おしき咆哮。
 即座にチセが構えた。
「来る!」

 狂気に壊れた存在が、体現されし悪意を呼ぶ。
「?枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)?ォォォオオオオオオ―――――――ッッ!!」

 どぱあっ……!
 粘ついた水音が生じた。
 視線を落とすと、樋口和彦の足元の地面から、タールのように黒々とした液体が間欠泉のように溢れ出ている。
 樋口和彦を中心に、黒い液体が公園を包み込もうと波紋めいて広がる。
 目を見開いたチセが警戒する。
「血式神術……、よくこの短期間で……」
「けっ……なんだって!?」
 ゆっくりと広がる液体に後ずさる伊月に、落ち着いた様子でチセが簡潔に答えた。
「その能力者のみが使える専用の神術。切り札だと考えればいい」
 それにしても、とチセは溜息をついた。
 確かに何が起こるか分からない得体の知れない液体ではあるが、侵食速度は酷く遅い。人が歩くより数倍近くはゆっくりと広がるそれを、チセは臆さなかった。
「何の効果が在るのか知らないけれど、私の能力の相手には遅すぎる」
 取り出したタロットカードを口元に当て、一呼吸目を閉じる。
 紫煙の色と共に霞と化し、一瞬にして日本刀へと姿を変える。
 ローファーを踏み鳴らし、一気に引き抜いた刀を逆手に握ったチセが目一杯に振り上げた切っ先は、黒い液体に滑り落ちる。
 無効化(キャンセル)の能力。
 とぷん! と小気味良い音が鋭く響き、黒い液体は霧散するように掻き消え、

 ない。

「な……!」
 ジュウ、という焼ける音はほんの少し。
 しかし液体は消える事無く、速度も相変わらずの遅さで、それでも確実にチセの足を捕らえた。
 途端、チセの体がガクン! と落ちる。
 それは比喩的な表現ではなく、正しくチセの体が沼に沈むように呑み込まれ始めたのだ。
「氷室っ!!」
 伊月は腕を伸ばし、同じく咄嗟に伸ばしたチセのか細い手首を掴んで引きずり出す。
 踏鞴を踏んで体勢を戻したチセは、大きく目を見開いてじりじりと後退する。
「無効化(キャンセル)出来ない……!?」何故かを思考するのは一瞬、「まさか……」
 樋口和彦の爆笑が轟く。
「ぃあひゃはははははははははっ!! 馬鹿だ馬鹿! ナニが『私の能力の相手には』だ! お前なんてこっちから役不足もいいトコロなんだよ低能がっ!!」
 液体の中心でゲラゲラと汚い笑いを続ける感染者を遠目に、伊月が戸惑う。
「どういう事だよ! 何があったんだ!?」
 チセは樋口和彦を睨み、ようやっと苦い顔をする。
「この神術……何らかの外界干渉を受けている。周囲の何かを媒介にして、絶えず術式を補強し直してるのかも」
「絶えず、って……」
「……蛇口から出る水を手で素早く切っても、次の水が出てるから結局流れを堰き止めた訳じゃないという事」
「暖簾に腕押しって言え! お前の例えは分かり辛ぇ!」
 むっとしたチセは、いつまでも握ったままの手首を腕を払って放させる。
「術式を破壊しても、破壊した折から術式を組み直しているとしたら私の神術は適応しない。媒介を壊しさえすれば何とかなるんだけれど――」
 悠長に話していた刹那、伊月は背後に気配を感じてばっと振り向く。
 足元に、液体が忍び寄っている。
「い゛っ!?」
 慌てて伊月は片足を上げて退こうとしたが、チセも前方の液体から避けようと退いていたので、背中がぶつかり合う。
「囲まれた!?」
「見れば分かるしくっ付かないで……っ」
「てっめ……! ドジ踏んだの助けてやったっつぅのに!」
「誰がドジなんて――」
「なに余裕ぶっこいて喋ってんだ低能どもがよぉお!!」
 怒号を張り上げる樋口和彦に会話を中断された伊月は、視界に入ったそれを目の当たりにして訝しんだ。
 すぐ近くに設置されているブランコの鉄柵だ。囲むように立っている鉄柵は腰より低い高さだが、黒い液体はその足元の部分を呑み込んでいても鉄柵自体を引きずり降ろしてはいない。
「氷室! 鉄柵の上だ! 跳べ!!」
 弾かれるように視界を滑らせたチセは反射にも近い速度で跳躍。次いで伊月も短い助走ながらに大きく跳んで鉄柵の上に着地する。
 足を滑らせてガクンと落ちかけるが、なんとか全身を使って地面に足を付けることだけは回避した。
「あっぶね……! どうすんだ氷室! これじゃどうしようもねぇぞ!!」
 スカートにも関わらず絶妙な体勢でしゃがみ込むチセは無表情の中に薄く焦りを浮かべる。
「媒介をどうにかするしかない。五分十分で神力は尽きるだろうけれど、向こうがそうはさせてくれないようだし」
「媒介っつったって……何を――」
 不意に、伊月は不思議な事に気付く。
 足元に完全に沈殿する黒い液体は公園を丸々と呑み込んでいるが、それ以上せり上がってくるということはないようだ。
(待て、?広がるだけ?……?)
 やがて業を煮やした樋口和彦は手に握る包丁を逆手に、液体の中を悠々と接近してくる。
 伊月の頭の中で、歯車が擦り切れる程の速さをもって回る。
 来る。
 急げ。
 状況を確認しろ。
 思い出せ。
 媒介。
 つまり今も樋口和彦と何らかの繋がりを持つ何かだ。
 何が?
 何を?
 関連の在るモノを見つけ出せ。今すぐに!
 樋口和彦。感染者。神術は覚えたて。武器は包丁やカッター等で特に決まっていない。身体能力もさして上がってない。物理的なモノは関わってない。なら物理的でないモノが媒介。そうだ。思い出せ。神術は何も万能じゃない。氷室チセは無効化(キャンセル)、?切り裂き魔?は斬撃という風に極端な効果が多い。グレーテルは多いと言えば多いが、それはあくまで数種の属性を操るというコンセプトの元にある神術だとして……こいつはどうだ? 何をしていた? 何を起こした? そうだ。樋口和彦は、あの時、何に向かって、
 ―――――――、
「氷室っ!!」
 叫んでいた。チセがこちらを見るより早く、伊月は答える。
「闇だ! こいつの神術は『闇』を媒介にしてる!!」
 ぴくり、と樋口和彦の足が止まる。
「ジャガンナート、か。どっかで聞き覚えの有る名前だと思ったけど……そのはずだぜ」
「知っているの……?」
 聞き返すチセに伊月は樋口和彦から視線を離さずに頷く。
「ジャガーノート、つったら聞き覚えあるか?」
「!」
「確かヒンドゥー教だったっけか? インドの古代神クリシュナの異名だ」
「でも、それがこの神術と何の関係が……」
 よく分からないという顔をするチセに、伊月は鉄柵の上で体勢を整え直しながら答えた。
「クリシュナはサンスクリット語で『黒』や『闇』を意味する。だから影を縫い止める神術が得意なのもそういう事だろ? 神の名前を使おうなんてテメェらしいセンスだよ樋口」
 樋口和彦は目を瞬かせていたが、指で眼鏡を押し上げながら歪に哂う。
「学が有るんだなぁ姫宮? どこぞの三流小説でも読んだのか?」
「まぁな。『天目一箇』の方は知らなかったけどよ。これでも小学生ん時は育ちの良いボンボン学校に通ってたもんでな。翠河堂小学校……それこそ、テメェじゃ腕を伸ばしたって手の届かねぇエリート校さ」
 その名前に樋口和彦は再び動きを止めた。伊月が口にした名は神凪町の隣町にある、都内でもトップクラスの有名進学校だ。入る前に試験なんてものが有る程で、つまりは幼稚園や保育所の頃から高度の学力を要求される、その言葉通り、樋口和彦では逆立ちした所で到底入れなかった場所だ。
「それが本当として……御門学園なんかに入ったって事は所詮お前なんて一度力を抜いた拍子に馬鹿な学校に入らざるを得ない低能って事じゃないか」
 樋口和彦はせせら笑うが、鼻で笑い返す伊月に表情を無くす。
「低能? 違うね。俺は……エリート気取りで大事なモンが何かを忘れてた頃の俺の方こそどうしようもねぇバカだったってだけさ。初めからやれもしねぇ奴が偉っそぉ〜にほざいてんじゃねぇぞ」
「何だと……!」
 歯軋りをしながら険悪な表情の樋口和彦に、伊月は暗く獰猛な笑みを浮かべた。
「はっ……テメェこそ、中学まで必死こいて勉強に勤しんだは良いものの、レベルの高ぇ場所にゃ入れずに滑り止めで御門学園に逃げ込んだクチだろうが。何が上位の存在だよ。バカくせぇ。結局テメェがやってんのはただの八つ当たりじゃねぇか! しかも暴力の前じゃ言いたい事も言えねぇときたもんだ。テメェの言い分なんざな、氷室やグレーテル……言いたくたって言えねぇ事を山ほど抱えて悩んでる奴をナメてるだけなんだよボケが!! 上位どころか、小物の三下野郎がのぼせた事抜かしてんじゃねぇぞ!!」
 吠えた瞬間、チセはふっと表情を和らげ、
「……ところでその言い方だと」
 あん? と熱を持った頭に水を掛けられた気分で見遣ると、チセはこちらを見ずに、
「その滑り止め扱いの馬鹿学校にギリギリで編入合格した私に対しては謝罪は無い訳?」
「何でお前にも軽く怒られなきゃなんねぇんだ!!」
 それどころじゃないし、そうじゃなくても何故自分が謝らなければならないのか。
 というより、そんなのギリギリでこぎ付けるような自分に謝れ。
 そんなツッコミを入れた矢先に、下らない漫才を見せつけられた樋口和彦は沸点を超す。
「僕、をっ……馬鹿にしてんのかぁあああっ!!」
 黒い液体――血式神術『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』の上をざぶざぶと踏み歩き、右手に握る包丁を伊月の顔めがけて横に薙ぐ。
「……くっ!」
 伊月は鉄柵の上で器用に体を寝そべらせて避ける。振り下ろす二撃目が来ると察し、真後ろに跳ぶ。
 ガキン! と鈍い音を立てて包丁は鉄柵に喰らい付く。普通なら包丁が刃こぼれを起こすはずだが、逆に鉄柵の方がめり込み、引き抜けば鋭利な刃の痕が残っていた。
 飛び退いた伊月はブランコの椅子に足を掛け、鎖を掴んで後方に力を込めて漕ぐ。慣性の働きも手伝い揺れるブランコの惰力を利用して椅子を蹴り、奥の鉄柵に着地した。
「ちぃ! 猿みたいな動きしやがって……!」
 うるせぇよ! と毒づく。その伊月よりも優れたバランス感覚でチセは鉄柵の上を走り、鉄柵の切れる手前で軽やかに跳躍。綺麗な弧を描いて、内側が空洞になっているドーム状の石窟に降り立つ。石窟アスレチックとは優に十メートル以上の距離が離れているのいるのだが、余裕で飛び移っていた。
 それを眼で追った伊月はチセに叫んだ。
「氷室! こいつも神力による矯正補強ってのをやってんのか!?」
 彼我の距離は遠めだが、チセの凛とした声ははっきりと聴こえた。
「そう。まだ人体にかける程の高度な矯正補強は出来ないようだけれど、包丁やカッターナイフのような小さな武器になら出来るらしい。普通、血式神術と併用するには段違いの神力を持つ人間にしか出来ないのだけれど、CHAINの影響がかなり強い今の樋口和彦だからこそ可能にしていると推測する」
 簡潔に答えるチセの声に、伊月は歯噛みした。
 矯正補強という言葉はついさっき、この公園へ向かう前に姫宮宅の庭にこっそり入り、物置から竹刀袋を取り出した後で、路上でグレーテルに教わったものだ。
 文字通り、経絡やそれに物理的に接触しているモノの因果律を神力によって矯正し、補強する初歩的な動作らしい。
 初めは樋口和彦のように刃物の切れ味と硬度を強くする程度しか出来ないが、訓練次第ではチセや?切り裂き魔?のように肉体そのものを強化して圧倒的な白兵戦を行えるようにもなる。中には、離れた位置に在る対象を強化する事の出来る猛者も居るとのことだ。
(なんつぅ奴等だっ……畜生、反則じゃねぇか!)
 神力の量は戦況を大きく変える要素。グレーテルが付け加えていた言葉の意味がよく理解出来る。神力の保有量が多ければ多い程に、その分だけ力となる。昼間の不良の蹴りと?切り裂き魔?の蹴りとが別次元に感じたのも、経験の差だけではなく、神力の有無が在るからだと言える。通りで後者には勝てないと自覚させられる訳だ。チセ達にとって矯正補強は、呼吸するのと同程度の行為なのだから。
「こいつぅ……! また僕を無視してっ……!」
 怒り心頭の樋口和彦は、黒い飛沫を上げながら荒々しい足取りで鉄柵の切れている所をぐるりと回って伊月へ迫る。
(……?)
 伊月は怪訝な顔をした。わざわざ回らなくたって、鉄柵を飛び越えればいいだろうに。
「……」
 そこで、伊月は違和感を覚えた。
 そうだ。影を縫い止めるという神術に二度も成功した樋口和彦は、何故か刃物で刺そうとしたり、殴ったりばかりだった。何故か、?蹴りの類をしようとはしなかった?。
「――、氷室!」
 ある仮説を立てた伊月は石窟の上に立つチセを呼ぶ。
「俺をそっちに連れてってくれ!」
 暗闇の中でも、なんで、と嫌そうな表情をするチセの顔が朧に見える。
 樋口和彦が回り込む間に、伊月は鉄柵の上を平均台のように早足で、不安定になりながらも歩く。
「頼む! もしかしたらこいつを倒せるかも知んねぇんだ!!」
「……、」
 その言葉にチセは迷い、しかし数歩下がって助走を確保する。
「そんな訳が無いって――」
 背後から声がする。
 振り返ると、樋口和彦はもう追いついていた。
「やべっ……!」
「――何度言ったら解るんだよ低能がぁあああ!!」
 振り下ろした包丁が伊月が避け切れないと覚悟して腕を交差させた刹那、
 ズガン! と鉄柵に振動が起き、抜き放たれた銀閃が包丁を弾いていた。
 チセは鉄柵の上で器用にも捻転し、革靴を鉄柵に打ち込むように踏み切って刀を滑らせた。
 咄嗟に樋口和彦は頭を下げて回避し、一歩二歩と退く。
「氷室っ!」
「……まったく、面倒」
 鬱陶しそうに呟くチセは伊月の腰に腕を回し、まるで砲丸投げでもするかのように一気に投げ飛ばした。
「う、――おぉぉおぉおぅっ……!?」
 暗闇の中で体が回転し、重力が四方八方に移り変わる。妙な浮遊感は一瞬で、直後に石窟アスレチックの上に激突していた。
「がっ……!」
 肩からぶち当たったが、放物線は理想的な高さと速度を計算されており、ずるずると落ちそうになるのを空いている穴に手を掛けて留まる。
 チセはそれを確認した折、首筋に静電気に似た殺気に気付いて前転をした。
 人の腕ぐらいの細さしかない幅の鉄柵は、余程のバランス感覚と勇気が無ければ出来ない芸当だ。しかも彼女はスカートを履いている上に、片手に刀、腰には鞘を差している。にも関わらず体の支点を把握した綺麗な前転に、美しい黒髪が後を追うように流れる。黒髪の毛先数センチを、包丁が切り飛ばしていった。
「散髪はまだ早いし、切り方も雑」
 前転を終えて鉄柵に手を付いて起き上り、場違いにも思える呟きと共に右腕一本で刀を逆手に持ち替え、目の前で二打目を放とうとしていた樋口和彦の包丁と打ち合う。
「があああぁっ!!」
「――、っく……!」
 薄い火花が散る。異様な神力によって矯正補強を施した包丁と、元来の性能が並の業物を凌駕する?調停者?の神器は、どちらも互角。
 ただ、唯一の違いがあった。我武者羅な声を上げて覇気を発する樋口和彦に対し、チセは表情を少し歪める。
「氷室ぉ!!」
 伊月は叫ぶ。
 忘れてはいけない。チセはまだ本調子ではない。いくら経絡の巡りを早めて治癒速度を上げられると言っても、その傷を負ったのはつい数時間前なのだから。
 しかも足場は最悪で、落ちたらアウトときた。
 どうすることも出来ない伊月は拳を強く握り締めた。
 結局、こうやって見守ることしか出来ない自分の弱さに、悔しかった。
 再び振るわれる包丁を掻い潜り、チセは切っ先を樋口和彦の喉へ奔らせる。
 リーチの差に恐怖感を覚えた樋口和彦は上体を仰け反らせる。その隙にチセは渾身の力を脚に溜め、一気に蹴り上げた。
 ぐわん! と放り出されたように宙を舞う姿を、伊月は咄嗟に両腕を広げて受け止めた。
「……っ!」
 想像を超える程軽い体躯をしっかりと受け止めるが、すぐにチセは嫌そうに突き放した。
「触らないで、気持ち悪い」
 こいつ、と怒りたくなったが、助けを懇願した上で助けられた身としては何も言えない。
「……で、勝機が在ると言ったのは本当?」
 逃げられた事に癇癪を起したように地団駄を踏む樋口和彦を見て、伊月は緊迫した表情で見下ろす。
「今はまだ分かんねぇ。ただ、もしあいつがそうなら……」
 祈る思いにも似た面持ちの伊月に、樋口和彦の視線がぐるんと向く。
「畜生! どいつもこいつもひょいひょい逃げやがってっ……! しかも何だよお前ぇ! 僕を見下してるのか!?」
 荒々しい足取りを殊更に強め、ぶっ殺してやる、と呟きながら鬼の形相でこちらへ歩いてくる。
 どうするのかとチセが不審そうな顔で伊月を見ると、彼女は少し驚いた。
 伊月が、薄く笑っていたからだ。
 口を開く。
「ブチギレてる割にゃ、随分余裕そうじゃねぇか……?走らねぇのかよ??」
 ギクリ、と。
 樋口和彦の動きが止まった。
 伊月は確信を得た。
「考えてみりゃおかしなもんだな。俺やグレーテルの動きを封じる事に成功した時、テメェは余裕ぶっていやがった。でもそれにしたって、?どうして動きの封じられてる奴を相手に、刃物や拳しか使わなかったんだ??」
「……っ!」
「答えは簡単だ。テメェの神術は、両足が地面から離れたら効果が薄まるか、あるいは効果が完全に消えちまうんだろ? だから今も鉄柵を跨がないで、わざわざ回り込んだんだ」
 伊月の眼光が闇を貫いて、樋口和彦の、『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』に沈む両足を捉える。
「氷室。奴の外界干渉との繋がりは――あの両足だ」
「――、」
 答えを得たチセが、次の行動に移るのは迅かった。
 石窟アスレチックを踏み砕くように跳躍し、漆黒の鞘から白銀の刀を抜き放っていた。
「!?」
 咄嗟に樋口和彦は後ろへ下がろうとした。バンザイアタックを前に迎え撃つには得物が短い。
 だが、後退は許されなかった。
 走ったりして、万が一足が両方とも地面から離れたら、伊月の推察通り『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』の術式が消滅してしまうからだ。
 影と人の唯一の繋がり、それが両足。
 チセにも気付かれてしまった。いくらCHAINの感染濃度が上がってきていると言っても、併用して武器の矯正補強までしている樋口和彦に、再び血式神術を創り出すだけの神力などもう無い。壊されたら終わりだ。
 退かなければ危険。退いても危険。
 矛盾した状況に激しいジレンマを覚え、戦慄する樋口和彦。
「ぅ、あ――あぁぁああぁぁあああぁぁぁああ!!」
 もうどうすればいいか分からない。
 賢慮を失った殺人鬼は、ひたすらに迫る少女に目がけて包丁を穿つ。
 どこを狙ったのか検討もつかない一撃。だがこれが意外にもチセの予測を裏切り、功を成した。咄嗟にチセは刀の腹でそれを受け止める。
 しかし、人間一人分の重量が、いくらチセが細身であっても相当のものだ。包丁一振りで弾き返すには、樋口和彦に身体能力の矯正補強はなかった。
 伸ばした腕の袖を掴み、そこを基点に肩口を蹴り空中で回転。
 下から飛来するチセの爪先が、見事な円を描いて樋口和彦の顎に突き刺さった。
 ゴシャァッ!! と壮絶な音が響く。
 顔面が天を仰ぎ、派手な血飛沫が上がる。恐らく、再び舌を噛んだのだ。
 眼鏡が砕けて飛び、
 そして、
 あまりの衝撃に、ついに、樋口和彦の両足が離れ、

 『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』が消滅しない。

「――っ!」
「何だって!?」
 足が離れれば神術が消える。その筈だ。
 何故消えない?
 二人の驚愕と混迷は一瞬。
 『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』にチセが頭から沈み込む手前で、ガクンと止まる。
 チセの足首を樋口和彦が片手で掴み上げたからだ。長い黒髪が、液体にギリギリ触れない場所で揺れている。
(再度血式神術を発動させた!? しかも身体強化まで……有り得ない。彼にそんな高度な矯正補強は出来ないし、そもそも神力も尽きた筈では……!)
 スカートを片手で押さえ、首を起して逆さまの光景を見て、チセは目を見開く。
 樋口和彦の周囲に、暗い霞が膨らむ。
 色に表わす事の出来ない、実体を持った狂気。
 CHAIN。
(今の一撃で完全に樋口和彦の精神が振り切れたんだ……まずい、?壊れた?……!)
 ぞっとするチセを、樋口和彦?だった?ナニかが睨む。
「ごぼすっ……おばえっ……ゼッタイに゛っ……ブヂごろジデヤル……!!」
 言葉がおかしい。
 それもそうだろう。彼の口から見えるのは、端が切れておらずにぶらんと垂れる、肉の欠片から、鮮血が止めどなく口元を汚しているのだから。
 それでも彼は痛みを放棄していた。
 人としての在り様を否定していた。
 目が血走り、口元も服もぐちゃぐちゃに汚して、殺意だけを唱え続ける。
「なんべだ……!? なんべっ……ボグが……ボグが悪ぐ言わべなぐぢゃ……いげないん……!」
 精神の振り切れた証。
 涙を、流して。
「ぼうイヤ゛だっ……! もう……っ!! ボグがっ! ボグが――」
 包丁を握る手に、異様な力が籠る。
 あまりの握力に肉体が耐え切れず、爪に罅が入り、ささくれ立った指から血が流れる。
 誰が、彼を人間だと称する事が出来るだろうか。
 あれは、化け物だった。
 伊月は、言葉が出なかった。
(これが……)
 鮮血に穢れて、
 涙をひた流し、
 虚空を見つめ、
 痛苦に喘いで、
 絶望を謳って、
 それでも、自分の在り様を失った事すら忘れ果てて、
 自分が何者であったのかさえ分からなくなってまで、
 肉体も、
 精神も、
 総てを壊された、ガラクタのような誰かに成り果てる、存在。
(これが、CHAIN……)
 吐息が震えた。
 全身が総毛立つ。
 恐かった。
 闇の中で、それでも直視することの出来ない化け物を前に。
 伊月は畏怖を覚えた。
 怯えることしか、出来なかった。
 目の前に在るのは、B級ホラーのゾンビなんかじゃない事に。
 圧倒的な、狂気である事に。

「ボグガ、オオサマニ、ナ゛ルンダァァァアァアアアアァァアアアアアアア――ッ!!」

 壊れた絶叫を放ち、
 包丁をチセの腹部に突き刺していた。
 その一瞬手前に、
 チセが動き出すまでは。
「血式神術――」
 解き放たれる力を、抑揚の無い声が呼ぶ。
 銀の閃光が散らばり、
 総ての悪意を無にせしめた。
 その名は、

「『調停者(ニル)』!!」

 青に近い純白の光が、粉雪のように煌く。
 二人を一気に包み込み、
 淡い空間が、
 バギィン!! と、硝子の砕けるような音と共に消え果てる時、
 公園中に広がる黒い液体も、
 矯正補強の施された包丁も、
 異常なまでの腕力でさえも、
 あらゆる術式を無に戻し、神力の繋がりを断絶する。
 総ての非日常が、砕け散り虚空に消える。
 刹那、
 握力が弱まった瞬間に刀を滑らせる。
 チセの眼前で火花が散り、しかしただの包丁となったそれを弾き飛ばした。
 『それ』は最早反射に近い動きで視線を落とすが、もう遅かった。
 地に降り立ち、
 刀を構え直し、
 前を見据えた眼が、『それ』に蹴りを浴びせていた。
 綺麗に流れる爪先が、『それ』の右眼を抉り、穿ち、地面に後頭部を打ち付けるように、
 強烈な衝撃を伴って、落ちた。


「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……っ」
 辺りは静まり返っていた。
 死亡そのものに術式の関与が無い誰かの鮮血が広がる地面に伊月は降り立ち、肩で息をしているチセに近づく。
 途端に、チセは刀を取り落として崩れる。
 白銀の重圧を放つ刀は、地面に落ちる前にタロットカードになって舞い降りる。
「氷室……っ!」
 地面に伏す前に受け止めた伊月は、チセの顔色に目を凝らす。
「大丈夫か!? 傷が……っ!」
「……違う」弱々しくもチセは瞼を開ける。「私達アルカナの契約者は魂に支障を来たさないまま経絡を得る代わりに、『制約』という枷を与えられる……」
 離れようとしたが、ぐったりとした体を起こす方が億劫だったのか、チセは伊月の腕の中で呼吸を整え始める。存外、居心地は悪いがこの体勢は気分が楽なようだ。
「私の制約は『一日一戦』。血式神術を使用すると日付が変わる零時まで、神力を一切使えない極普通の人間に戻ってしまう……元々、経絡が無いと激しく動けない躯だから……」
 ふぅ、と吐息を零す。
 ふわりと甘い匂いのする髪。汗ばんだ肌。上気した苦しげな顔。
 そういえば本人は何てことない風に動いていたが、体のあちこちに包帯を巻いていて、器量の良さも相まってどこか扇情的に映る。
 何となく、本当に何となく伊月は視線を逸らした。
 逸らして、薄い後悔に苛まれる。
 すぐ傍に、樋口和彦が倒れていたからだ。
 顔を見る気にはなれなかった。うつ伏せで倒れているのがどれだけ救いに思えたか。
「……どうして、こんなことになったんだろ」
 酷く虚ろな頭の中で、伊月は疑問を零す。
 チセは少しだけ考え、やがて答えた。
「さあ」
 彼女らしい答え方だと思った。
 数分の間、自分の中に芽生えた畏怖が何であるのかを考え、手の平を見つめていた伊月を見上げ、チセは体を起こした。
「あ、おい……」
「もういい。大分落ち着いた」
 簡潔に述べて立ち上がったチセは、土埃を叩いてから足下のタロットカードを拾い上げる。
「……まだ如月姫野は来てないようね」
「何でだよ」
 立ち上がった伊月に、何を、と言いたげに答える。
「はち合わせる前にここを離脱するから。今の私は貴方にさえまともに勝てない状態だし、かといって全快の私ですら引けを取る相手と貴方が戦えるとでも?」
「……っ」
 伊月は俯いた。ここまできて、出来た事は末端でしかない樋口和彦を止めただけだ。
 しかし、チセは珍しく助言めいたことを口にする。
「幸い、樋口和彦に結界の押印は出来ないならまだ『天目一箇』の器は完成されていない。死んだ直後の人間ならまだしも、死亡してから時間の経過している人間では人柱には使えないだろうし……魔女が殺されていない事を祈る」
 他人事のような言い方をするチセを見ながら、伊月は携帯電話を取り出す。
 振動と共に、液晶画面には家の名前が表示されている。
 ばつが悪い気分だが、出ない訳にはいかなかった。
 通話ボタンを押して、やや耳から離して「もしもし」というと、案の定だった。
『お兄ちゃんの馬鹿ばかバカー!! あれ程早く帰ってきてって言ってるのに!! 今どこに居るのっ!?』
 夜をつんざく爆音。もうちょっと離しておけば良かった。耳がキィーンとする。
「あのなぁ……今秋臣の家だっての」
『その秋臣君の家に電話して「来てないよー」って言われた私に謝る事が増えたと思わない!? 分かってないなぁお兄ちゃんはぁっ!!』
 しまった。抜け目なかったか。
 しかも珍しく相当頭に来てるようだ。これはもう誤魔化しでどうにかすると後が怖い。
「分かった分かった。すぐに帰るからもうちょい声小さくしろっての」
『もうっ! もう……っ!』
 あ、やばい。このフレーズは泣く一歩前だ。
 伊月は苦笑しながら何とか宥める。
『どうしてお兄ちゃんの知り合いはこう、怖いもの知らずなのかなぁ……もう』
「は?」
 落胆というより諦めに近い溜息を零す小夜は、

『さっき、如月さんって人がウチに来たんだよ』

「――、」
 携帯を落としそうになった。
 全身の体温が一気に下がるような感覚に陥る。
「な、なんでだっ!?」
 焦るあまりに語調が強くなる。唐突な態度の変化に小夜は驚きながら、それでも答える。
『え、と……「最近姫宮君の様子が変で、体調でも悪いのかと思って気になって」って。わざわざ手作りの野菜ゼリー持って来てくれたんだよ? で、今日はもう帰りますって。一人で帰らせちゃ危ないから止めたんだけど、邪魔するのも何だから、って……』
「さっきって何時頃だ!?」
『本当にさっきだよ。十分もないかな』
 気を失いそうになるが、何とか持ちこたえた。もし小夜に何かあったら、伊月は絶対にCHAINに感染されて樋口和彦のようになっていただろう。
「分かった。今すぐに帰るから、お前は絶対に家から出るなよ!?」
『お、お兄ちゃん……どうしたの? 今、何してるの?』
 小夜はどこか怯えたように兄の怒気にたじろぎ、震える声で窺う。
 伊月は思わず苛立った自分を心の中で叱責しながら、しかし嘘で元気付けるしかない自分をこれ以上なく殺してしまいたかった。
「悪ぃ、怒鳴って……でも、何でもないんだ。必ず帰るからな」
『本当に? 約束だよ……?』
「ああ、本当。約束もする。だから、家で待ってろ」
『うん……あ、お兄ちゃんっ』
「ん?」
 今すぐにでも切りたかったが、精一杯に優しい声で聞き返すと、
『……体には、気を付けてね?』
 それを聞いた伊月は、心から切にこの戦いを終わらせようと思う。
 涙混じりの妹の声が、それを誓わせた。
 通話を切った伊月はチセに向く。伊月の豹変に彼女は不審そうな面持ちでこちらを見つめていた。
「如月が俺の家に来た」
「……!」
 瞠目するチセに、伊月は焦った。
「ここに来るかも知んねぇ……早くグレーテルの所へ行くぞ!」
 その声に頷き、チセは公園を出ようとする。
 伊月は最後に、樋口和彦を見下ろして、せめて警察にぐらいは通報した方がいいのだろうかと携帯に視線を落とした時、

「……、あれ?」

 言葉が漏れた。
 何か、何かがおかしい。
 違和感を覚える。
 妙に不自然な、欠けている何か。
 大事な事を、忘れているような。
 そんな気がする。
(なんだ……?)
 携帯を見つめたまま考え込む伊月に、公園を出た所で立ち尽くす彼にチセが振り返る。
「……何?」
 不思議そうな顔をする彼女に、伊月は胸騒ぎがした。
 どうしようもない不安に駆られた。
 焦燥を声に混じらせ、チセの元へ早足に近づく。
「氷室っ……おかしい、何かが違う気がする……!」
 そう言ってチセを止めようとした。

 紫煙色の薄い膜が現れるまでは。

「な――っ!」
 伊月の伸ばした手が虚空を掴む。
 目の前に居たはずのチセの姿がない。因果律の隔絶による人払いの神術が行使された為、外と中とで空間の質が違うせいで、神力を保有する伊月は隔絶を受け、制約によって神力を持たない状態のチセは弾かれたのだ。無論、ただの人間になっているチセに、以前のように歪みの合間を貫通して入り込む芸当は不可能。
「くそっ!! グレーテルの奴、なんつぅタイミングで結界張りやがる!?」
 空を仰いで苦い顔をする伊月が、急いでグレーテルの元へ向かおうとした時、

 ずるり、と。

 気配がした。
 首筋を撫でる、気色の悪い空気。
 前へ進もうとした伊月は、動けなくなった。
 嫌な予感がした。
 ゆっくりと振り返る。
 その予感は、災難にも的中してしまっていた。
 上体を仰け反るようにだらりと垂らし、ゾンビそのものの動きで立ち上がる黒い影。
「ひめ゛、み……や゛ぁ」
 右眼を赤黒く潰され、禍々しき隻眼が伊月を捉える。
「姫宮ぁぁぁぁぁあああああああ―――――――!!」
 絶叫が木霊し、大気を震わせる。
 伊月は玉のような汗を掻いて、全身を低め、対峙する狂気を睨む。
 異常だけが取り残される世界に、逃げ場などない。
 戦わなければならない。
 伊月は肩に担いでいた竹刀袋から、一振りの木刀を取り出す。
 昔、修学旅行で秋臣とふざけて買った土産の定番だ。
 だが、負けられなかった。
「約束したばっかなんだよ……必ず帰るってなぁ!!」
 包丁を拾い、突っ込んでくる狂気に、伊月は木刀を振りかぶった。


 ◆


 最悪の事件発生の、十五分前。


 ?賢しき四法?はまず、周囲の景色に視線を滑らせた。
 場所は大きな路地。建物の類はマンションや民家だが、幸いと言うべきか通り魔事件を恐れて驚く程静かだ。中には既に明かりを落としている家もある。
「く、――はは、はっ」
 不意に、闇に染み込むような嘲笑が噛み締められる。
 黒いニット帽を被った頭に手を置き、くつくつと笑う?切り裂き魔?。
 その色白な顔が?賢しき四法?を睨み上げる。
「このオレの前で。えぇ? よくもまぁ周りの気遣いなんざ出来るもんじゃねぇかよ」
「あら……癇に障ったかしら?」
 流し目でちらりと見る?賢しき四法?に、狂人は紳士じみたように首を振る。
「いんやぁ、良いんじゃねぇの? 結界張っちまえば周りを気にせずに戦えるのはコッチも同じなんだしよ」
 そう言い、?切り裂き魔?はタロットカードを取り出す。
「三分くれてやる。してぇならとっと張りな」
 ?賢しき四法?は視線を向け、しばし沈黙した。
 やがて、口を開く。
「……訊きたい事があるわ」
「はぁ?」
「今回の事よ。アンタはこの一連の騒動には一切関わってないのよね?」
 今度は?切り裂き魔?がしばし黙り込んだが、頭を掻いて溜息を吐いた。
「だったら何だっつぅんだよ。つぅか、テメェのやってる事なんざオレにゃどうだっていいんだよ」
 狂った薄い笑みを貼り付け、?切り裂き魔?は狂気に限りなく近い殺意を述べる。
「それが何だってんだよ。オレは戦えりゃどうでもいい。漁夫の利も傍観者もクソも無ぇ。当事者として戦う事にしか興味が無ぇ。第三者なんざ真っ平御免だ。今この瞬間、関わる事で初めてオレはオレの快楽を得る。それが総てで、それ以外を座らせる椅子がオレには、無ぇ」
 ?賢しき四法?は柳眉に皺を寄せた。その答えに、あまりにも自己の有益を求める姿が無さ過ぎるからだ。
「情緒って言葉を知らないの? この町が、直に最悪の結果に陥る可能性だってあるのに」
 言った瞬間、?切り裂き魔?の静かなる暴力が火を噴いた。
「だから何だっつってんだろうが売女ぁ!!」
「……っ?」
「情緒だぁ!? 最悪の結果だぁ!? クソみてぇな話だなぁオイ!! 関係の無い人間に! 関係の無い話を聴かせ! 関係の無い顔を向け! 遂には何を言おうってんだ!? 『やめろ』とでも? 『一緒に倒しましょう』とでも?」
 裂けるように口を引き攣らせ、ゲラゲラと天を仰ぎ爆笑する。
「そぉ〜だよなぁ、死んじまうよりも怖いよなぁ……消えちまうんだぜ、その最悪の結果ってヤツぁ。肉体も精神も二の次だ消えちまう。過去も未来も消え果てて、どいつもこいつも忘れていっちまう。あー怖いっ! 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――」
 顔を下ろし、
 魔女を見据え、
 血走った眼で、
「――なぁんて言うと思ったのかこのボケカスが!!」
 激情にも似た歓喜に身を震わせる?切り裂き魔?。
「生きてりゃ何時かは死ぬのさ! 遅かれ早かれ来ちまう問題に何訳分かんねぇ事ほざいてんですかぁ?」
 壊れた表情でこめかみを指でトントンと叩き、
「それより怖いモノがオレの中を巣食ってやがるのさ―――――――眠いんだよ」
「……、なん……ですって?」
「眠いっつったんだ! 眠くて眠くて眠くて眠くて眠くて、だけど眠れなくて眠れなくてどうしようもなく頭が痛ぇ! イライラしてズキズキして思考も考慮もクソッタレだ!!」
 はっ、と。?賢しき四法?は思い出す。
 アルカナの契約者。それはCHAINの感染者とは違い精神の汚濁とは別種の方向で多大の神力を得る奇跡の手法。
 しかし、それは条件をクリアしたとしても無償で出来る訳ではない。感染者が負の感情からなる狂気が経絡を活性化させる事を代償とするならば、同じく契約者にも代償が存在する。
 制約だ。
 アルカナの契約は、コップに注がれた水と油の関係に近い。
 魂という水が満杯まで注がれたコップ。契約はすなわちそこにアルカナという油を注ぐことで混濁させずに二つの存在をコップの中に維持させる構図である。ここで水が汚れてしまうのが、感染者と言うわけだ。
 だが、それは少し考えればすぐに違和を感じる話だろう。
 コップに油を注いだ時、?既に満杯の水がどうなってしまうか??
 思いつく通りの結果が起こる。
 その時に溢れて流れてしまう水――その溢れ出た水こそが、『失われた人間性』だ。
 人間性というより、日常を失うことと言っても過言ではない。
 制約には例外を除けば、三種に分かれる。
 一つ目が能力発動型。
 ある特定の神術――血式神術を含む――を使用した際に制約が掛かる者。
 ?賢しき四法?はこれに該当し、彼女は知らないが?調停者?もこれに当てはまる。
 二つ目が常時禁制型。
 盲目や精神の障害といった、日常生活にまで及ぶ制約がこれだ。
 彼女の知るある契約者がこれに該当するだろう。その契約者はその重い制約のせいで、常に自分を卑下するような物言いをするような生活を送る程だ。
 そして三つ目が、強制干渉型。
 能力発動型の逆だ。一定の条件を満たす事で制約の苦渋から逃れる事の出来るタイプ。
 最も、重い制約。
「重度の睡眠障害(インソムニア)……」
 ?賢しき四法?が呟く。
 ?切り裂き魔?は白濁とした狂笑に酔いしれ始めた。
「オレの制約は常に戦わねぇオレを許しゃしねぇのさ! 『安らげぬ兵』! 戦闘に介入した時間と比例する量しか眠れない!! 来る日も来る日も戦って戦って戦い抜いて来た! そうしなきゃこのクソッタレな脳みそはぶっ壊れちまいそうなんだからなぁ!!」
 青白い肌。細い体躯。くまの酷い目元。およそ狂気的としか言い様のない言動。
 【愚者】の契約者、故の苦痛。
 違う。
 ?賢しき四法?は理解する。
 彼は狂気に揺らいでいるのではない。
 あまりにも理不尽な程のはやし立てに、それでも抗い、矛盾しそうなまでの価値観に心が歪曲し、
 果てに彼は、【愚者】としての境地に壊れた。
(これじゃ……感染者と何ら変わらないじゃない……!)
 身を折って顔を覆い、今も暗く嗤う?切り裂き魔?は、やがて顔を上げる。その一挙一動に殺意は失せていた。
「だけどなぁ……オレは何も他の誰かや何かに突き動かされて戦ってる訳じゃねぇんだよ。いつだって……そう、いつだって、オレを突き動かすのはオレ以外に在り得ねぇのさ……だからこの苦しみと、戦う愉しみは一緒にされちゃ堪んねぇ。アルカナを抜きにしたって、結局はオレの本質は戦闘狂なのさ」
「それを言ってどうしろっていうのよ」
「勘違いすんなよ? 同情を受けねぇ為にだよ売女」歪に口の端を吊り上げる?切り裂き魔?。「テメェみてぇに素敵な性分してりゃ世話ねぇけどよ。時たまクソみてぇな事をほざいた揚句、平気で手を差し伸べる奴が……世の中にゃ居るもんさ」
「……」
 ?賢しき四法?――グレーテル=D・T=フローエは一瞬、苦い顔をして少し俯いた。
 そうだ。
 いつだってこの世界には、あまりにも優しい人間というのは居る。
 自分が犠牲になろうとも、
 自分が悪性になろうとも、
 それでも何かを護り、或いは救おうとする人間。
 彼女にとっての家族がそれであるように。
 今も妹の為に戦うあの青年も、きっと。
「救われるのは真っ平御免だ。それじゃ?テメェから堕ちた意味が在りゃしねぇ?……」
 彼は、恐ろしい男だと、?賢しき四法?は思う。
 それだけの悪意を孕んで、尚もその魂は自分を見失っていない。
 限りなく狂気に近いのに、決定的に狂気を否定して生きている。
 強い。
 そう、確信した。
「……だとしてもね、」
 ?賢しき四法?は、タロットカードを取り出す。
 四つの神器がベルトに繋がれ、魔女の武装が姿を現す。
「敗けるワケにはいかないのよ。約束、しちゃったんだもの……」
 杯を取り、それを地面に置いた?賢しき四法?は問いかける為に顔を上げた。
「ところで、どうしても戦わなくちゃいけないのかしら? 見ての通り、アタシ凄く忙し

 目の前に、翡翠の切っ先が在った。

「―――――――!」
 ほぼ反射だった。
 何度も見た武器でなければ、確実に眉間に突き刺さっていただろう。
 首がへし折れるんじゃないかと思うほど全力で、顔を傾ける。
 触れたのは左頬だった。耳元にシュン! という空気を裂く音が聞こえるが、痛みはなかった。
 一気に下がる。
 頬に触れると、ようやく薄い痛みが奔る。指先に鮮血が付着している。あまりにも切れ味が良すぎて、熱を持たないでいるのだ。
 もう少し気付くのが遅れたらどうなっていたかを想像してぞっとした。
 爆笑が三度轟く。
「聞いてなかったんか!? 『三分くれてやる』ってさぁ!! 悠長に語ってる時間分はカウントに入らねぇとでも思ったのか売女がよぉ!!」
 続け様に中空で?切り裂き魔?の体がぐるん! と前に回転。
 暗闇から落とされる細くも長い脚が、鈍器のように?賢しき四法?を穿った。
 咄嗟に両腕を交差させて防いだ?賢しき四法?だが、彼女と?切り裂き魔?の矯正補強は練度が違う。術式に神力を裂く事で真価を発揮する?賢しき四法?に、肉弾戦は弱点というよりも欠点に近いのだ。
 全体重を集約した蹴りが、脆い防御をあっさりと砕く。
「がっ……!?」
「火蓋の切り時をテメェが決めるんじゃねぇ!! ここはもう戦場なんだよ! そのクソッタレな結界を張ろうが張るまいがなぁ!!」
 着地と同時、逆手握りにナイフを水平に薙ぎ払う?切り裂き魔?。
 ?賢しき四法?の対応は素早かった。
 腰に下げている物をおもむろに掴み、同じく逆手で一気に抜き放つ。軌道を変える事無く顔の横まで奔るそれに、ナイフが触れた。
 接触したのは――銀の細剣。
「『Eine Arie wird angefangenn!(風のリゾーマタを形成!)』」
 突如、二人の合間で二重の衝撃が破裂した。
 ?切り裂き魔?の神術『忍び寄る魔の手(タッチ・シーカー)』は神器に物理的接触すると、その触れた周辺に無数の斬撃を撒き散らす効果を放つ。最大の恐怖は、武装等で防いでもその武装をすり抜けて発生する為に防御が困難だという点。
 だが、その恐ろしい神術にも活路は在る。
 周囲を丸ごと呑み込む攻撃なら、同じく周囲を呑み込む技で相殺出来る。
 とはいえ急ごしらえの方法だった。相殺の余波を眼前で起こしたせいで、顔に幾重にも薄い切り傷が生じる。
「顔に傷残ったらどうしてくれんのよ……! アンタなんかに嫁に貰う気は無いわ!!」
「ハッ! オレもこんな強気な女は御免だな!!」
 火花を散らす刃が離れ、?切り裂き魔?が二撃目を打ち出す。
 ?賢しき四法?は剣ではなく、ヒールを甲高く地面に打ち鳴らす。
「『Eine Arie wird angefangenn!(地のリゾーマタを形成!)』」
 途端、舗装されたアスファルトが呼応した。
 黒い礫の敷き詰められた地面が轟としてせり上がり、壁を造る。
 壁面にナイフが突き立ち、連撃が爆発する。慌てて下がった?賢しき四法?は難を逃れたが、至近距離で反射した斬撃の一部を受け、?切り裂き魔?の腕に裂傷が出来る。
 だが、壁の向こうの?切り裂き魔?は高らかに笑った。
「はっははっ……! 良いねぇ! 面白くなってきたじゃあねぇか!!」
(そこで笑う時点でどうかしてるわよ……!)
 苦い顔で?賢しき四法?は急いで足元の杯を掴み取ろうとする。
 だが、壁の向こうの嘲笑が止み、背筋の凍る言葉が聞こえた。
「おい売女。まさかこんな紙切れみてぇな壁ならオレにゃ切り裂けねぇとでも思ったか?」
「――!?」
「正解だ! けどこんなモンは手管さえ使えばどうでもなんのさ!!」
 刹那、二度空を裂く音が聴こえた。
 何かは分からない。
 だが、のんびりとしては決してならないと本能が告げた。
 半ば突っ込むような勢いで跳び、まるでビーチフラッグの要領で杯に手を伸ばす。
 杯のくびれに手が触れ、?賢しき四法?の体が重力に従って落ちた瞬間、

「神術『弧を描く渡り鳥(スワロー・テイル)』」
 ズパンッ!!

 左右から飛来する何かによって、被っていた鍔広帽子が三つに分断された。
「……っ!」
 ?賢しき四法?は咄嗟に頭を押さえるが、切り飛ばされてシャンプーハットのような形になった帽子がずり落ちる。
(飛ぶ斬撃……!?)
 首を跳ね飛ばされたかと思った。そうでなくとも、頭蓋骨など豆腐のように切り飛ばすに違いない。
 心臓をバクバクといわせている?賢しき四法?の頭上から、声が降りかかる。
「様ぁ無ぇなぁ売女。もうちょっと踊っとけ! 観客(オーディエンス)を退屈させちゃいけねぇ! 千羽の鶫(つぐみ)の囀りよりも、綺麗に泣いて叫んで唄ってくれよっ!!」
 壁の上に降り立つ?切り裂き魔?が、流れる如く腕を振るう。
 神術『弧を描く渡り鳥(スワロー・テイル)』。
「くっ……!」
 斬撃の豪雨が降ってきた。
(Konzentration…!)
 精神集中、と自らを叱責し、脚に神力を通す。
 経絡に流された神力が因果律を矯正、脚力を飛躍的に強化。
 ?賢しき四法?は杯を抱えて、狙い澄まして飛んでくる斬撃を地面を転がって回避する。
 足首を狙う斬撃に素早く足を引っ込め、顔を狙う斬撃に上半身を横に曲げ避ける。
「ハッ! 軟体動物かテメェは! だぁれがタコ踊りなんざしろっつったかよ!」
 首を狙う斬撃に、起き上がるには体勢が悪いと察知した?賢しき四法?は仰向けのまま自分の足の裏に細剣の腹を当て、
「『Eine Arie wird angefangenn!(風のリゾーマタを形成!)』」
 足の裏で突風が吹き荒れる。
 「きゃぅ……っ!?」と短い悲鳴を上げながらゴロゴロと退転する。彼女の居た場所を、深々と不可視の斬撃が抉る。
「へぇ……! 巧い使い方すんじゃねぇか! でもダンスはまだまだ――」
 愉しげに笑う?切り裂き魔?の声を、今度は?賢しき四法?が一喝の元に遮った。
「『Wegartenfreilassung!!』」
 ドイツ語のため何を言ったのか分からずに怪訝な顔をした?切り裂き魔?の視界が、ガクン! と下に跳ねる。
「ぅ、おっ!?」
 足元の壁が粉々になって消えた。術式を解除したのだ。その上に居る?切り裂き魔?は当然足場を失って落下するしかなくなる。
 舌打ち混じりに着地した瞬間、弾かれたように視線を戻した時には遅かった。
 地を穿つ程の突進力をブースターにし、?賢しき四法?の方から距離を潰して来ていた。
 しかも――速い!
(さっきの矯正補強は?こっち?の為かよ!)
 ?切り裂き魔?は着地と同時に軸足の爪先に限界まで神力を注ぎ、真上へ蹴り上げる。
 近接戦闘の勘に慣れていないのだろう。顎をピンポイントで蹴られ、まともに直撃する。口の端から血が噴き出るが、下から睨み上げる?賢しき四法?の眼は光を失っていない。
 それどころか、迎撃に移った?切り裂き魔?の方が失策だった。下手な体勢からの蹴りに威力が無い上、片足を上げていたせいで右に変わった軸足が遅れて着地する手前で抱きつくように掴まれる。
「っざけ――!」
 後ろに倒されると思った?切り裂き魔?は瞬時にナイフを?賢しき四法?のうなじに突き立てようと腕を振るう。
 だが、?賢しき四法?の取った行動は、恐ろしいものだった。
「『Eine Arie wird angefangenn!!(火のリゾーマタを形成!!)』」
 抱き付く二人の合間には、赤い宝石のはめ込まれている短い杖。
「な、にいぃっ!?」
 ぎょっとした?切り裂き魔?の動きが硬直し、回避行動を考慮したが為にナイフの切っ先が揺らいだのがダメ押しとなった。
 轟! と紅蓮の爆発が起きた。
 闇に煌々と染み渡る光に、二人の体が同時に吹き飛ばされる。
 周囲に軽い血飛沫が跳ねる。
 互いに倒れ込んでいたが、先に上体を起こした?賢しき四法?は口の中に溜まった鉄の味を吐き捨てた。
(……我ながら、無茶したもんね……)
 路上で咳き込んでのた打ち回る?切り裂き魔?を尻目に、?賢しき四法?は腹部の激痛が蘇って苦悶の表情を浮かべた。傷口が開いてしまい、漆黒のドレスがさらに暗く染まる。
(炎は使いたかなかったわね。まずい、これ以上結界無しで戦闘を続けたら、付近の住民に気付かれ――)
 視界を滑らせた時、

 ありえない人物と視線が合ってしまった。
 その少女は制服姿だった。あれは、?彼?の通う学園の指定服。
 その少女は素朴な外観だった。眼鏡に一房三つ編みを胸元に垂らしている。
 その少女は困惑と恐怖の表情だった。血塗れの殺し合いに直面すれば誰でもそうなる。
 その少女は―――――――知っている人物だった。

(キサラギヒメノ!? どうして……!)
 この状況はまずい。
 よりによってこんな場面に出遭いたくなかった。まだ戦えるといっても、?調停者?と互角以上の戦いを行う相手には、あまりにも機が悪すぎる。
 急いで立ち上がる?賢しき四法?。じんわりと腹部から温度が失われる感覚がするが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「影からコソコソ見ていたようね……! 趣味が悪いんじゃないのかしら!?」
 その少女は――、
「ひ……っ」
 呼吸を殺されたように喉をひくつかせ、学生鞄を両腕で胸に抱いて一歩退いた。
(……なに?)
 ?賢しき四法?は不思議に思った。
 殺意の欠片も感じられない。というよりも、この状況そのものを知った上での演技ではなく、ただ単にこのボロボロの姿に怯えているような気がする。
 だが、?賢しき四法?としては警戒を解くつもりもなかった。現に気を抜いた矢先に身動きを封じる為に弱い振りをするような男を二次感染(インフィクション)に選ぶような輩だ。そもそも、油断が許されるコンディションですらない。
 少女は青ざめた顔でさらに一歩退き、機だと感じたのか一目散に走り出した。
「Warten Sie!(待ちなさい!)」
 ここで逃がす訳にはいかない。咄嗟に出してしまったドイツ語で言う事を聞くはずもないのだが、それだけ?賢しき四法?は焦っていた。
 何かがおかしい。そんな違和感が在った。
 腹に穴が開きかけているのに走るのは御免だったが、?賢しき四法?は脚に神力を通そうとし、

 ヒゥン――、

 明らかな威圧を首筋に感じた。
 振り返るまでもなかった。
 耳朶を叩く声は、それでも変わらずくつくつと笑っている。
「本っ当に良いねぇテメェ……いってぇ……やらかしてくれやがって、耳鳴りで頭がガンガンすんですけどぉ?」
 どこまでも軽口で、
 しかし――、
「テメェ、マジで切り裂かれてぇ訳か……なぁ、このクソ売女ぁ!」
 圧倒的な殺意の奔流を放っていた。
 弾かれるように振り向く。
 刹那、灰銀の髪の毛先を切り飛ばす斬撃。
 首筋に薄い筋が出来、滴る赤い雫。
(う、そ……この距離を……!?)
 彼我の距離は、ざっと見積もっても十五メートル以上有る。
 今まで十メートル程度の距離でも届かないはずだった斬撃に、周囲の塀や電柱に薄い傷痕を作り始める。
「まさか……!」
 にぃ、と。
 裂けるような笑み、己を体現する必殺の名を唱えた。

「血式神術『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』――!!」

 瞬間、手に握っていた翡翠の石器ナイフが姿を変える。
 造りの雑であったそれは刃渡り五十センチを超える刀と成る。
 脇差よりは長く、しかし?調停者?の得物よりは短い、小太刀程の曖昧な刃渡。しかも刀身の中腹から同色の鎖が二本生えていて、それは少したわんで鍔元に連結されている。大きくなっても相変わらず切れ味の悪さを連想させる奇抜な形状だった。
 だが、それが成す意味を、?賢しき四法?は充分に理解していた。
「さぁ、幕引きの時間だ! 血風散華をその身に刻み、無様で美麗に切り裂かれちまえ!!」
 鮮血の狂人は舌を出し、悪意と共に路征く総てを殲滅する。


 ◆


 グレーテルは体勢を低く取った。
 これ程の緊張は久し振りだった。何せ彼女の戦闘は基本的に自然体に近い体勢で、常に距離を取りつつ四属性の魔術で翻弄し、相手の隙を強かに狙うという、ペースの奪い合いが鍵と言えるものだ。
 にも関わらず、グレーテルの額から嫌な汗が滴る。
 目の前に立つ敵は、彼女が今の今まで積み上げてきたペースを、一瞬で崩す程の気迫を放っているのだから。
 全身の力をわざと抜いているかのように、あるいは本当にダメージに苛まれているのか、ふらふらと身を揺らめかせ、しかし双眸は決してグレーテルから外れることもない。
 ジャッカルと野兎。
 まるでどちらが勝つかなど分かり切っている威嚇勝負に思えた。
 そう、思わせるだけのモノを、?切り裂き魔?は握りしめていた。
 刃渡り一尺半の暴力。
「怖ぇか? まだまだ。コイツの味を知ってチワワみてぇにブルった姿を拝ませるぜぇ?」
 暗い笑みを浮かべ、頬に着いた己の返り血を舌で舐め取る?切り裂き魔?。
 グレーテルは内の警戒を、余裕めいた笑みで誤魔化したが、?切り裂き魔?が相手では徒労だろう。見透かされる以前に、他者の心境などお構いなしだからだ。むしろ、相手がまだ戦えるのなら、彼にとっては願ったり叶ったりに違いない。
「笑わせないで頂戴。事象物理化発生系……アタシと同じタイプの神術使いなら対処法も同じよ。この手の術は事象の定理を組み立ててそれを物理的なモノに変える為の演算時間、つまりそれを行う為の一定の距離を保つのが命」
「何が言いてぇのさ?」
「決まってるでしょ? 距離を開けて戦うのはアンタの独壇場じゃないの。距離さえ潰されなければアタシの方が分が有るのよ」
 ただし、それは結界を張ってから、という条件が必要になってくる。
 それを悟られてはならない。例えそれに気付いたからといってどうするとは思えないが、血式神術を使えるのと使えないのとでは天地の差となる。本来、血式神術とはそんなレベルの手札なのだ。
 杯(チャリス)を使用するだけの時間。それさえ稼げればいい。
 細剣を握り、?切り裂き魔?には死角になる位置に在る杯のくびれに指を掛ける?賢しき四法?。
「―――――――っく」
 その時だった。
 しばし無言だった?切り裂き魔?は、いかにも耐え切れないと言いたげに吹き出し、くつくつと笑い声を押し殺して肩を震わせた。
 不気味で、そして不快な笑い。不審に思わないグレーテル。元より、彼の態度と行動が必ずしも一致しないのは、開戦の奇襲から既に学んでいるが、それでも不可解だ。
「何か可笑しなコトでも言ったかしら?」
 ?切り裂き魔?は空いている手で頭を押さえ、くまの酷い目を向ける。
「あーあー、言っちゃったよ。終わったなぁオイ?」
「どういう――」
「ガタガタうるっせぇんだよメス豚がぁ!!」
 言葉を遮る殺意。
 音を侵食する咆哮。
「『距離を潰されなけりゃ』ってのが既に間違ってんだよ!」
 ジャラッ! と翡翠色の鎖が擦れる。
「そんなに自信満々なら好きなだけ逃げ切ってみせなぁ!!」
 振るわれる兇刃。

 血式神術『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』。

 研ぎ澄まされた重圧に、グレーテルの神経が焼き切れる寸前まで震え上がる。
(来る!!)
 全身の汗が噴き出る感触を、確かに感じた。
 本能が叫びを上げる。
 違う、もう来てる。まだ来てないと思って真っ二つは許されない。もう飛んできてるんだ。何かが飛来してる。斬撃だ。名の通り、神器の形状通り斬撃だ。間違いなく、あの凄まじいまでの切れ味を持つ斬撃を飛ばしてくる! 避けなければ。今すぐ回避しなくては。でもどうやって? 斬撃はどう飛んでくる? 縦に? 横に? 袈裟斬りのように斜めに飛んでるかも知れない。どうする? どうする? どうする――!?
「ぅ、―――――――」
 頭が真っ白になった。
「ぁぁぁあああああっ!」
 絶叫と共に、グレーテルは上体をバネ仕掛けのように横へ倒し、幸運を祈る。
 刹那、後を追うように流れる髪の毛先が、スパッと切り落とされた。
「――はっ……はっ……はっ、」
 高揚とは真逆の震えに身をゾクゾクとさせ、額を伝う汗が左頬の薄い切り傷と溶け合う。
 グレーテルは、小太刀を振り切った体勢のままこちらを見る?切り裂き魔?に勝利の確信を笑みにした表情を見せ、細剣を突き付ける。
 次の攻撃には移らせない。風で動きを、一歩分でいい、一歩でも踏み止まらせられれば、結界を張る時間さえ稼げればいい。
 機は今しかない。
「『Eine Arie…(風のリゾーマタを――)』」

「あーあ、やっぱマジでテメェ雑魚決定だわ」
 声が聴こえた。
 一秒が何倍にも感じられる程の緊張感の中に居たはずだった。
 しかし呆れたような声はその感覚と同じ時間間隔で耳に入る。
 何を。そう鼻で笑った。
 今、隙だらけなのはそっちの方だ。
 切り札を避けられ、必殺の真意すら欠いておいて、よくそんな強がりが言えたものだと。
 何故。不安は大きくなる。
 軽口と嘘を一緒にするような男だっただろうか。
 怖い。何か、自分の気付いていない決定的なミスを責められたような気がした。
 疑念が違和感に切り替わった時、
(ま、さか――!)
 それはもう遅かった。
 時間にして、たったの四、五秒前。
 彼が口走ったモノに、本当の真意が在ったというのに。
 気付けたとして、
 理解したとして、
 ――『そんなに自信満々なら好きなだけ?逃げ切って?みせなぁ!!』
 それはもう、遅過ぎた。
「眼球に焼き付けろ。肢体に刻み込めろ。――これが『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』だ」
 反射する肉体。
 視認ではなく回避のみを重点的に考慮した捻転。
 それでも、グレーテルの中のパズルの枠に、ピースは落とされ、嵌め込まれる。
 失念という名の、ピースが。
 そして、

 ?脇を通過した斬撃がUターンし?、グレーテルの柔肌を貫いた。

「――か、はっ」
 ズドン、という重い衝撃が奔った。
 左肩から、急速に熱が奪われるような激痛が響く。
 脚に力すら入らない。操り糸を切られた人形のように、頭から地面に落ちる。
 ドシャリと投げ打つ少女の身。
 舗装された黒塗りのキャンパスに、真紅が波紋のように広がる。
「ごっ……く、ぶふっ!?」
 地面に顔を擦り付けるように悶絶するグレーテルは、堰き止めきれない鮮血を吐瀉する。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハ――ッ!!」
 爆笑が闇をも切り裂く。
「血式神術だぞ! まさかどデけぇ斬撃飛ばして終わりだとでも終わったかよぉ!」
 グレーテルは嘲笑の聞こえる場所を向き、苦悶に顔を歪ませた。
「ごふっ……! ……追尾する、斬撃……!?」
「その通りだよ売女ぁ」血塗れの狂人は殺意を囀る。「『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』は直撃するまで術者の意思に従って追い続けるのさ。それこそまるで蛇みてぇに。西洋街の夜を恐怖に染めた殺人鬼みてぇに。相手の背を追い、切り裂くまで消えねぇ」
 ドクドクと、左肩にもう一つ心臓が出来たように脈動を感じる。
 異様に寒く思えた。
 激痛に思考は鈍い。
「まあ、飛来方位を変える度に三次元座標を逆理演算し直さなきゃなんねぇから、対象が視えてなきゃあんまし使えねぇけどな。オレの血式神術はまだまだ完成しちゃいねぇのさ」
 遠くから声がする。
「けど充分だよなぁ。視認出来ねぇ上に直撃するまで何度でも追い続ける斬撃から逃げるには軌道を読んで別の衝撃で相殺するか、テメェみてぇに急所にならねぇ場所で受け止めるかだからなぁ。尤も、テメェのは致命傷じゃねぇが、相当の深手みてぇだけどな」
 あまりにも耳障りな声が。
「初見殺し、それが『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』の真の恐ろしさってヤツさ。喜べ売女、一撃目で死ななかったのはテメェで三人目だ」
 息がしにくい。
 頭が痛い。
 熱が失ってゆくのが分かる。
 何もかも億劫になりそうだ。
 だるい。
 どうでもよくなってしまう。
(アタ、シ……どうして、こんなコトに……)
 ひんやりとする地面に頬を擦り付け、少しでも自分の体温が下がっている訳ではないと誤認して、痛みを騙そうとするグレーテル。
 何故?
(あれ?)
 不思議と体の力が抜ける事に、嫌気を感じなかった。
 求めてさえいた。
(アタシ……なに、してたんだっけ……?)
 もう、全身に力が入らない。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 白濁としていた思考は暗くなってゆく。
 可笑しな話だ。自分は眼を閉じてなどいないのに。
 いや、
 その確証はもうなかった。
 それすら考えるのも面倒だった。
 血が広がる。
 まだ戦えるのに。
 その紅い闇が、絶望へと叩き落とす。
(あぁ……)
 グレーテルは独り、茫洋に闇に身を委ねる。
(もう、つかれちゃった……)
 何も思わず、
 何も考えず、
 だから、
「ちっ……クソッタレが、負け犬空気放ってんじゃねぇよ。興醒めだ」
 踵を返す音がする。
 暗い紅の光景のどこかで、ゆっくりとした足取りで遠ざかってゆく音が在る。
 だけど、あまりにも静か過ぎるから。
 だから、

「その程度の理由で戦ってたんかよ。テメェなんざに本気なんか出すんじゃなかった」

 その言葉はすんなりと思考を生み出し、
(アタシの、理由……?)
 蘇る一人の青年の顔を、思い出させた。
 その青年は、今、何をしているだろうか?
 その青年は、これから、どうなるのか?
 その青年は、
 何の為に――?

(アタシは……グレーテル=、……D・T=フローエ)
 乾いた音がする。
 あまりにも近い場所から。
 何よりも鮮明に。
 竹を裂くように。
 何よりも激烈に。
 闇を砕くように。
(対CHAIN特務機関……俗称、ローマ法王庁、の……外界調査委員会所属、者……)
 弾ける。
 静電気に似た音が。
 強く、
 強く、
 たった一つ、
 まだ嵌っていないピースを、
 そこに落とす為に。
(アルカナ【魔術師】の契約者)
 たった一パーセントの希望を、捨てるのか?
 いっそ諦めて、ゼロにするつもりなのか?
 力など大して強くなど無い筈の、彼でさえ戦っているかも知れないのに。
 たった一パーセントに縋り付いて現を抜かし、
 ゼロにした結果誰が犠牲になるかを知ってて、
 戦うと言ったのに。
 怖いだろうに。
 辛いだろうに。
 それを、諦める?
(アタシは――)
 冗談じゃない……。
(――?賢しき四法?グレーテル=D・T=フローエ!!)

 冗談じゃない!!

 ?切り裂き魔?が天を仰ぎ、振り返っていた。
 驚愕というよりは、きょとんとしたような顔で。
 しかし、まるでどこかで期待するような顔で。
 『教会領域(チャペル・レプリカ)』。
 紫煙の膜が下される。
 日常を除外する世界。
 非日常に染まる世界。
 魔女は、立ち上がっていた。
 上体をふら付かせ、
 下腿は震えていて、
 全身は血塗れでも、
 息さえ苦しくても、
 そんなことはどうでもいい。
 どうだっていいはずなんだ。
「約束、……しちゃったのよ……」
 杯を持つ左手が、だらんと揺れる。
 赤い血はその器に入り、やがて地面へと伝い落ちる。
「救って、って……護って、って……。それをアタシは答えたのよ……っ」
 杯を握る指先には、何も感じない。
 痛みで麻痺したその腕を、その左肩を、
「戦う理由はそれだけで良い……! 今のアタシはそれが総てで良いっ!」
 右手の指を食い込ませ、抉った。
「たった一つをこそ助けてあげられないで、何が契約者だっつってのよぉおおおおっ!!」
 グシャア!!
 詰め込んだ傷口に掛けた指を、一気に引き抜く。
 壮絶な音がした。
 観客(オーディエンス)の居ない舞台に、派手な鮮血が降りかかる。
 痛みを超える痛みが、左手に力を呼び戻す。
「上っ等、じゃないっ!!」
 叫ぶ。
 血に濡れた銀髪の魔女。
 きっとどんな花よりも汚くて、
 だけどどんな花よりも、
 強くて――。
「これで最後よ?切り裂き魔?!!」
 闇を穿つ指先を向け、
 光に満ちた瞳を見据え、
 願う奇跡の為に。
 絶望を超えよう。
 それが、
「アタシをブチ切れさせたらどうなるか、思い知らせてやろうじゃないのっ――!」
 両の手で、乱雑なまでに四つの神器を掴んで天高く投げ上げる。
 殺意をも凌駕する決意を。
 想いを掴み取るように右腕を掲げ、
 魔女は詰め込められる総てを捧げ、
 唱えた。

「血式神術―――――――『賢しき四法(マギカ・クワトロ)』!!」

 まだ、終幕(カーテンコール)は早すぎるのだから。


 ◆


 ?切り裂き魔?は全身を脱力させてはいても、その眼前の光景に深く思考した。
(チッ、深手を致命傷と勘違いしたショックで戦意を喪失したように見えたけどなぁ……)
 眠たげな瞼を細める。
 恐らくはテンションの浮き沈みが激しいタイプなのだろう。落ちる所まで落ちると救いようの無い雑魚になるが、一度気分が猛ると思いもよらない力を発揮する。まるで子供だ。
(要するに責められっと凹むクセに手綱を握るや否や張り切り出すサド気取りの隠れマゾってかぁ? 冗談じゃあねぇぞ)
 こういう手合が一番恐いということを、?切り裂き魔?は熟知していた。
 しかし、それはいい。
 それはいい、が――。
(何だぁ? アレは……)

 魔女は瞳を向ける。
 ボロボロになった肢体を囲う、魔方陣。
 正確には魔方陣の外を描く二重円だけが、彼女を中心に浮いている。
 二重円の中に読解出来ない象形文字にも思える字体が連なり、四方を剣、杖、杯、護符の四つの神器が均等の距離を保ったまま回っている。安直なニュアンスとしては、土星とその周囲を回る輪っかみたいな外観だった。
 時計回りに周回する、七色の魔方陣。
 魔女の血式神術、『賢しき四法(マギカ・クワトロ)』。
(訳の分かんねぇ状態を展開しやがって……)
 大概の血式神術は、能力者の神力の性質に似通った奥義になるケースが多い。
 代表的なのが正に自分自身だ。斬撃の性質を持つ?切り裂き魔?の切り札は、名の通りに相手を追尾する不可視の斬撃を放つ。前者を見落として肩を穿たれた魔女も、後者を予測していたからこそいきなり眉間を撃ち抜かれずに済んだのだ。相手の性質を知る事で防ぐ手立てのある血式神術は、意外にも少なくない。
 形状だけで効果を読まれる神器も存在する。?切り裂き魔?の場合は唯一、『斬撃を伴う効果』という安直なイメージに陰に『任意で追尾する効果』という裏を掻く、初見殺しの意味合いが含まれているから恐ろしいのだ。
 だが、
(……クソ、一体何をするのか予測が付かねぇじゃねぇか)
 ?切り裂き魔?は愚かしくはあっても決して馬鹿ではない。むしろ戦闘という純粋な一点に限っての知識や経験は魔女より上であろう。
 その?切り裂き魔?ですら、およそ見当の付かない光景だった。
「分からない、って顔ね……」
 くすりと、魔女が笑う。
 顔は青ざめていて、見て取れる程に足腰が震えている。
 にも関わらず、漂う空気が魔女の周囲を回る魔方陣に吸い込まれて、異様な重圧感を発していた。
 ?切り裂き魔?の殺意とは違う、圧倒的な気配。
 耳鳴りに似た音が酷い。血式神術を発動し合う契約者同士の凄まじい共鳴が、?切り裂き魔?の苛立ちを増幅させている。
(――、苛立ち……だと?)
 己の不可解さに疑問を浮かべた。
 どうして苛立つ?
 決まっていた。並み居る猛者を食い破って生き延びてきた孤高の戦闘狂だからこそ、本能があまりにも早い解を導いていた。
 ―――――――怖いのだ。
 勿論、怯えているという意味での恐怖ではない。
 既に腹に風穴を開けられているらしいのに、
 吹き飛ばす名目で自分ごと炎で焼き払って、
 急所でなくたって左肩を穿たれているのに、
 結界と同時に血式神術を使う無理までして、
 なのに彼女は立っている。
 自分の足で立っている。
 どう考えても不利なのは自分だと思いながら、
 どこの誰とも知らない奴との約束の為だけに、
 立てる事が、
 笑える事が、
 戦慄という畏怖を?切り裂き魔?に刻み込む。
 その事実を、
「―――――――、?ははっ?……!」
 笑った。
 すげぇ、と。
 今まで居ただろうか。
 確かに、?切り裂き魔?は自分より圧倒的に強い化け物じみた連中とも戦ってきた。
 矜持の欠片もない敗北だって、決して片手では数え切れない程に喫してきた。
 だが、居ただろうか。
 窮地に追いやられ、
 死を覚悟して、
 戦意を喪失しかけてまで、
 しかし、たった一言の希望に縋り、有益無益の余地さえない理由の為に立ち上がる。
 そんな人間が、
 そんな敵が、居ただろうか。
 心臓が高鳴る。
 耳鳴りなんて忘れた。
 もう制約から逃れるどうこうなど関係無い。
 最高過ぎる。
 これだ。
 ?切り裂き魔?が欲していたのはこれだった。
 死線ギリギリで命を落とし合う、そんな世界。
 これこそが?切り裂き魔?にとっての、極上の報酬。
「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
 意思の無い爆笑を上げていた。
 誰が聞いていようと、誰も聞いてなかろうと、一切関知しない爆笑。
 笑わずには居られない。
 こんな歓喜は久しぶりだった。
 笑い過ぎで喉を逆流する鮮血が口の端から滴っても、彼は笑う事を止めない。
 頭のどこかで正常な思考が、既に肋骨か内臓に支障を来している可能性が在ると告げるが、クソ喰らえだ。そんな事に回す思考など切り裂いてしまえばいい。
 戦闘だ!
 殺戮だ!
 待ちに待った最っ低なまでに最高の快楽の一瞬だ!
「見せてくれよ売女ぁ!! テメェの最後の悪足掻きに付き合ってやろうじゃねぇか!」
 ?切り裂き魔?は大きく振り被った小太刀を、殴りつけるかのように横に一閃した。
 血式神術『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』。
 種明かししても脅威の一撃が飛ぶ。蛇のように、槍のように、先端を尖らせた不可視の斬撃は滑るように魔女の頭部を狙い澄ます。
 魔女は背筋を伸ばし、すぅ、と息を吸い込み、
「『Zwei Macht wird in Verbindung gebracht.』――」
 驚くほど静かに呪を唱えた。
 刹那、紅蓮の炎が肥大し、魔女の身を包み込む。
 自爆の類だとは?切り裂き魔?も思っていない。何だ、と思ったが前もっての理屈が揃わない疑問は戦場に要らない。
「風といい炎といい目晦ましがお好きだなぁオイ! けどよぉ、『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』からは逃げ切れねぇのさ!!」
 炎の波に不可視の斬撃が呑み込まれる。
 しかし爆発性の無い垂れ流しの炎の壁では直撃として適応されない。真っ直ぐと飛んだ斬撃は完全に炎に姿を紛らわす手前で魔女の頭部に直撃。
 ドカッ!! という射抜く音が炎の音色に紛れて響く。
 朱色に浮かぶ黒い影が、頭部からぐらりと後ろへ揺らぐ。
 呆気無い幕引きだ。
 ?切り裂き魔?がそう思った瞬間、炎の奥から再び声がする。
「Es ist kein Witz.Ich entkomme nicht länger.(冗談じゃないわ。アタシはもう逃げないわよ)」
 鼻で笑うようなドイツ語。
 直後に炎は掻き消え、魔女の姿が露わになる。
「ぁあ……?」
 ?切り裂き魔?は目を見開いた。
 魔女の出で立ちはボロボロの黒服だけではなかった。
 胸や腹部、腕や脚、顔の半分。至る所に黒塗りの鎧をその上から纏っていた。
 鎧、と呼称すべきかも定かではない。動きやすさを重視して関節部位を防御せず、急所になる箇所を覆うだけの粗雑な造り。ただ単に手近にあった物をくっ付けただけのような、機能美というより、がさつな雰囲気を放つ無骨な風体。
 炎が火花となって虚空に掻き消え、?切り裂き魔?は気付く。
 魔女の足元。舗装された地面が、彼女をぐるりと囲むようにごっそりと抉られている。
(アスファルトか。成程、高温で炙れば粘度が増すだろうが……どういう事だ? 一度融かしたモンを再度自分の外殻に造り替えるのは分かっけどよぉ、んな暇は無かったはずだ)
 進路変更の際の座標演算を入れても、時速五十キロは下らないスピードで飛ぶ斬撃だ。まず二つの神術を使う暇は無い。
「ハッ、だったら暇なんざ与えなけりゃ良いだけのことじゃねぇか!」
 ?切り裂き魔?は小太刀を握りしめて低い体勢を取る。
 鎧を纏う魔女の、素肌が晒されている右顔面を狙い、『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』を放った。
「――!」
 不可視の斬撃が三度疾走する。
 魔女は回避ではなく防御を選んだ。当然だ、場所さえ悪くなければ怖くはないのだから。
 顔を庇うように上げた腕、その装甲に衝撃と火花が散る。ほんの少し削った斬撃はしかし消える気配を持たずに魔女の背中を狙った。
 魔女は体を捻転させた。ガガガッ! という削る音と共に装甲にいなされた斬撃が尚もUターンして戻ってくる。
(今度こそ!)
 魔女の視線が虚空に向く。不可視、という脅威は確かに恐ろしいが、ほぼ直線に飛んでくる斬撃の軌道は実際読み易い。外れても急所のほとんどを防護している今、直撃さえなければ貫通されることはないだろう。
 だが、
「――!?」
 闇を滑る翡翠の一刃が、魔女の首を狙う。
 体を低めてそれを回避した魔女を、?切り裂き魔?は獰猛に嗤う。
「面白ぇかぁ!? けど斬撃飛ばして傍観してやる程オレは易しくねぇ!!」
 空振りした勢いをそのままに回し蹴りを放つ。
 これを防ぎながら、魔女は今はっきりと理解出来た。
(成程、確かに『距離さえ潰されなければ』って考えは間違ってるわね!)
 追尾する斬撃と、?切り裂き魔?本人の白兵戦。この二つを合わせる事で近くも遠くも対応出来る。近接・中間における超攻撃特化型、それが?切り裂き魔?の切り札の正体だ。
 むしろ褒めてやりやくなる。肉体を動かしながら、同時に空間の座標を演算し直して斬撃の軌道を操るのは、両手で持ったペンで二ヶ国語の違う内容の文を書けと言っているのより遥かに難しい。この男、戦闘面に限っては努力家なだけではなく、間違いなく天才だ。
 しかし、
 魔女は薄く微笑んだ。
 それは優しくなど無く、
 圧倒的な敵意を孕んだ笑み。
「奇遇だわ、アタシも似たような感じなのよ――距離を潰されなければ良い以外はね」
 ぶんと振り抜いた腕で?切り裂き魔?の腹部を殴り、その反動で後ろへ下がる。
 闇を奔る斬撃が後頭部を狙ったが、装甲に直撃して霧散した。
 舌打ちをする?切り裂き魔?も距離を取り直すが、不可解な点に気付く。
 彼女の神術は詠唱を基盤にする、まさに【魔術師】の名に相応しい術式構成だ。
 だが、だからこそその詠唱をさせない?切り裂き魔?の戦法は適切であると言える。
(詠唱内容を簡略化したか? いや違ぇ、だとしても二つの神術を立て続けに使えば結局は時間を喰っちまう。けど片方に絞ったらあの鎧はおかしい)
 そもそも、火炎に土の壁、どちらを使ってもその鎧は出来るようには思えない。
(――、ちょっと待て。?どちらを使っても?……?)
 嫌な予感が、背筋を凍らした。
 ギクリとした?切り裂き魔?の表情を見て、魔女は勝ち誇るように笑んだ。
「気付いたようね。でももう遅いわ――」
 魔女は、周囲を回る四つの神器に、左右それぞれの手を伸ばす。
 その瞬間、鎧は粉々になって地面に落ちた。
「教えたげる――」
 右側に来ていた杖と、正面に来ていた細剣を握り、
「初見殺しはアンタの専売特許じゃないってコトをね!!」
 二つの神器を魔方陣から取り外し、それを、
「『Feuer und Wind.(火、風、結合)』」
 ?切り裂き魔?に向けて十字に重ねた。
「Arie,” F・B・N”!!(神術『フローレル・ブレス・ノヴァ』!!)』」
 轟! と突風が吹き荒んだ。
 思わず顔を腕で覆いそうになった?切り裂き魔?は、直感で全身に指令を送る。
(風、ってぇ事は――何か来やがる!)
 飛来する攻撃を撃ち慣れている?切り裂き魔?だからこその判断だった。横合いへ短いステップを踏み、突風に紛れて飛んでくる圧縮された球状の風が――、
「――、は?」
 球状の風。
 それを視界の端に捉えた時にはもう、彼女の言うとおり遅かった。
 ドバァン!! と凄まじい音と共に、猛烈な衝撃に横っ腹を殴りつけられていた。
「ぉ、っが……!?」
 足が浮いた。あまりにも強すぎる威力に踏ん張り切れずに塀に激突する。
 腹から込み上げる異物感を惜しげもなく地面に吐き出し、塀に手を突いて顔を上げる。
「な、んだ……って?」
 魔女は二種の神器を握りながら、?切り裂き魔?を見据えた。
「そう、か……テメェの血式神術は……っ」
「そうよ。アタシの血式神術は?血式神術という括りでの能力を持たない?のよ」
 神器を再び魔方陣に重ねると、再び神器は魔方陣に引っ掛かったように宙に浮き、時計回りの旋回を始める。
「今までアンタに使ってたのは実際は神術じゃなくて、神器そのものの性質効果を矯正補強して、駄々漏れ同然に使っていただけに過ぎないわ。アタシの血式神術は、?本来神術行使の術式には適応されない神器を掛け合わせて、オリジナルの神術を創り出す?ことが出来るようになるのよ。技を銘して――」
 細剣と杯を掴み取り、
「――多属性混合神術。それが『賢しき四法(マギカ・クワトロ)』の正体よ」
「下位神術汎用性昇華型(マルチ・スペライズ・タイプ)か……!」
 成程、どおりで『教会領域(チャペル・レプリカ)』と同時に血式神術を使える訳だ。何せ魔女は血式神術そのものを使っているのではなく、血式神術を基盤とした?平常通りと変わらない神術?を行使しているに過ぎない。神術を補助することが効果となる血式神術なら、さして神力を喰わないのだから。
 ?切り裂き魔?は歯軋り混じりに小太刀を構える。
「ハッ……! 頭に上った血ぃを抜いてくれてありがとうよぉ! 丁度良いハンデじゃねぇか!!」
 どこまでも狂気に近い嗤いを浮かべる?切り裂き魔?に、魔女もどこまでも確信に近い笑いで応えた。
「あら、頭冷やして欲しかった? ――こっちも丁度準備が整ったところよ」
 その言葉に?切り裂き魔?が反応するより先に、
「『Wind und Wasser.(風、水、結合)』」
 再び二つの神器を重ね、
「Arie,” S・N・A”!(神術『セイクリッド・ナパーム・エリア』!)」
 細剣と杯を左右に、マッチを擦るかのように弾く。
 瞬間、ブワッ! と仄かに湿った空気が辺りを呑み込み、宙に不思議なモノが浮かぶ。
 それは水色の、野球ボールぐらいの小さな六芒星の魔方陣。それが両手でも数え切れない程の量となって虚空に舞い、停滞する。
(設置するタイプ……このテのモンってぇのは触れたらアウトだっ……!)
 即座に察知した?切り裂き魔?は体勢を低めて周囲の魔方陣の位置を把握しにかかる。彼の思惑通り、この水色の魔方陣は接触した瞬間に溜め込まれた水気圧を放出して相手を巻き込む機雷の効果を発揮する。
 だがこれは本来、自らが動いて攻撃する人間には恐ろしいが、視認してさえいればいくらでも距離を開けて攻撃できる?切り裂き魔?にとってはさして恐怖ではない。
「馬鹿やったなぁ売女ぁ! そりゃあ選択ミスだ!!」
 最小限の動きで小太刀を振り上げ、『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』を撃つ。
 宙を浮く多量の魔方陣の合間を縫うように、不可視の斬撃はぐねぐねと蛇のように動いて魔女の元へ疾走する。
 連続的に演算処理までするなんて、と、魔女は背筋を凍らせた。
 それでも、魔女の表情は変わらなかった。
「あーあ、残念。この神術はね、むしろ?飛び道具封じなのよ?」
 瞬間、魔女は一番近くに在った魔方陣に、
「風が吹けば水面に波紋は広がるのよ?」
 細剣を突き刺した。
 ドカン!! と魔方陣から凄まじい音と共に水が弾け飛ぶ。
 すると、魔方陣は淡い水色の光を一瞬放ち、その光を受けた近くの魔方陣に触れた時、
 ドカン!!
「なっ……!?」
 さらに魔方陣は弾け、水色の光を放って周囲の魔方陣を刺激。
 結果、
 ドカン!! ドカ、ドカカカカカカカカカカ――ッ!!
 あちこちの魔方陣が呼応して?切り裂き魔?の視界一面を水飛沫で埋め尽くす。
(れ、連鎖反応――)
 気付いた時には手遅れ。
 引火するように魔方陣は次々と破裂し、立ち尽くしている?切り裂き魔?まで届く。
 避けるという思慮はもう無かった。自分は今、触れたら爆発する水の機雷の真っ只中に居るのだから――。
 ドカン!!
「……っが!?」
 後頭部を石か何かで殴りつけられたような衝撃が走った。
 ぐらりと前へよろけた所に、ふわふわと間抜けに浮いている魔方陣。
(マジ、か――)
 それが、眼前で爆発した。
 顔が天を仰ぐ程にかち上げられる。
 そして彼を取り囲む総ての機雷が引火し、大瀑布が起きた。
 ニット帽が外れて飛んでゆく。
「ぶ、ごふっ!」
 ガクガクと両足を震わせ、しかし全身の力を込めて仰け反る体を強引に引き戻す。
「テ、っメ
 魔女は眼前に居た。
 上体を戻す力に合わせるように、握り締めた魔女の拳が顔面に突き刺さる。
 細長い体躯はいっそ軽やかなまでに吹き飛び、アスファルトの上で二度三度バウンドして転げる。
 地面に手を突いて起き上ろうとするが、吐血を催した。
 口の中を鉄の味が充満し、頭がふらふらと揺らめく。
 それもそうだ。魔女はさっきから乱雑な攻撃を繰り出しているように思えるが、実際は頭部や胸部を狙っている。今の機雷で既に肋骨の数本は確実に?イって?いるはずだ。
 痛みを無視して無理矢理顔だけでも上げると、魔女も細剣を杖代わりにして膝を突いていた。腐っても重傷は?切り裂き魔?だけではない。恐らく向こうは出血で朦朧としているのだろう。どちらにせよ、均衡状態を続けられる程の体力は、互いになかった。
「ぐっ、……か、ははっ、ははははは……」
 ?切り裂き魔?はアスファルトに爪をガリガリと立てて哂う。
「良いねぇ。最高の状況だ」
 汗で頬に髪を張り付けて、肩で息をする魔女もこちらを睨む。
「ここまで御膳立てされたんだ、そろそろ終いと行こうじゃねぇか。なぁ、売女ぁ!」
 ?切り裂き魔?は頭を目一杯に上げ、一気にアスファルトに打ち付けた。
「ぐ、っが……!」
 どろりとした感触が額から伝わる。
 ?切り裂き魔?はゆっくりと、蠢くように立ち上がり始める。
 魔女も細剣を両手で握り、脚に力を入れる。
「テメェの肉体と精神。オレの肉体と精神。どちらが上か。それで勝負は決まんのさ!」
 それは魔女も気付いている事だろう。
 二人は我先にと立ち上がろうとする。
 最早手先の小細工はしない。決定打をあと一撃加えれば、勝敗は決する。
「……惜しいわね、アンタ」
 魔女が不意に口を開く。
「あん?」
「それだけの、力が在るのなら……もっと、違う路を歩くことだって、出来たでしょうに」
「……」
 ?切り裂き魔?はついと視線を落とした。
 立ち上がる為に地面に突く、血塗れの己の手が見える。
 それをしばし見てから、顔を上げて失笑した。
「ハッ、そりゃ素敵な提案だなぁオイ……けどなぁ……オレぁ別にこの制約や【愚者】の出自を理由にして戦ってるってぇ……訳じゃねぇよ」
 それが答えだった。
 ?切り裂き魔?は、自分の意志で戦いを望む。
 そうである事こそ、彼の存在意義に他ならないのだから。
 魔女は、少しだけ優しく笑った。苦笑を噛み締めるように。決して敵に見せる必要など無いはずの笑い方で。しかし、確かに優しく笑んだ。?切り裂き魔?はそんな気がした。
「……アタシさぁ。やっぱアンタ大っ嫌いだわ」
「そぉかい、?やっぱり?オレ達気が合うなぁ」
 笑みと哂いが重なり、
 二人は全力を振り絞って神力を加速させた。
「は、ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
「ぐ、ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 軋む音が内側から聞こえる。
 少しでも気を抜いたら、そこで総てが終わると。
 二人は尽きる前の蝋燭の如く、鮮血を掻き抱いて立ち上がろうとする。
 ゆっくりと、
 しかし確実に、
 だが――、
「が―――――――っああぁぁあああぁああああぁぁあああぁぁぁああああああっ!!」
 先んじた屹立者は、?切り裂き魔?だった。
 黒髪の奥の瞳が収縮し、闇にギラつく。
「売女ぁ!! これ、がっ! 力ってヤツなんだよぉおおおっ……!!」
 咆哮。
 そして、突進。
 小太刀を握り締め、疾駆する狂人に遅れて立ち上がった魔女も、周囲を旋回する中から護符を掴み取り、細剣と重ね合わせた。
「『Zwei Macht wird in Verbindung gebracht.』――」
 詠唱に呼応して、細剣と護符が光を放つ。
「『Wind(風、)』」
 距離は十五メートル程度。あの脚力なら五秒と掛からない。
「『und(地、)』」
 見る者総てを圧倒する気迫と殺意をぶつけ合う。
「『Boden!(結合!)』」
 紡ぐ言葉。
 護符を地に、
 細剣を天に、
 渾身の一撃を繰り出した。
「Arie,” F・T・S”!!『(神術『フラッド・テンペスト・シェイカー』!!)』」
 ゴバァ!! と風が轟く。
 アスファルトの細かな飛礫を巻き込み、魔女の周囲に轟く竜巻と成す。
 総てを薙ぎ払う強烈な一撃に、鼻先まで迫った?切り裂き魔?は、

 その上に、至った。
「神術『我が儘な惨き姫(ペイン・ディーヴァ)』」

 ?切り裂き魔?の周囲を、斬撃の嵐が吹き荒れた。
「な――」
 魔女の表情が強張る。
 ?切り裂き魔?を襲う黒い飛礫は、彼の纏う斬撃に次々と切り落とされてゆく。
「ここへ来て……下位神術を――っ!」
 何度も見た筈の無数の斬撃を打ち出す神術。
 しかし、血式神術を発動させて小太刀に形状を変えた今、魔女は間違いなく『切り裂き魔(ジャック・ザ・リッパー)』で来ると思っていた。
 だからこそ、この神術を用いたのだ。飛礫によるもう一つの攻防一体の一撃なら、斬撃を撃っても薙ぎ払い、突っ込んだ?切り裂き魔?を吹き飛ばせる、と。
 魔女が気付くのは、もう遅すぎる間合いになってからだった。
 絶望に顔が歪む。
 完全な悪手だった。
 距離はもう、三メートル。
「残念だったなぁ」
 暴風の中でも、その声ははっきりと聴こえた。
「オレを相手にした時点で、万に一つも在りゃあしなかったんだよ!!」
 じゃらり、と鎖の音が響く。
 細剣を構える魔女。
 だがそれを擦り抜け、
 見た目を絶する切れ味を誇る翡翠の小太刀は、魔女の心臓を貫いていた。
「――、」
 声にもならない小さな吐息が漏れた。
 風が弱まる。
 嵐が消える。
 ?切り裂き魔?は、最高に最低な葬送の為に、笑んだ。
 終わった。
 戦いが、終わった。

 ?切り裂き魔?の表情が、逆に歪むまでは。

(なん、だ……これ?)
 それは、走馬灯にも似た浮遊感。
 一秒が何倍にも感じる世界。
 その境地の中で、
 ?切り裂き魔?の眼が見開き、
 その違和感を、
(手応えが―――――――、全然無ぇ!!)
 やがて理解する時、
 心臓を穿たれた魔女の口の端が吊り上がり、
「『Feuer und Wasser.(火、水、結合)』」
 ?既に確立された詠唱をわざと口に乗せ?、
「Arie,”M・M・D”(神術『ミスト・ミラージュメント・デコイ』)」
 魔女の姿が、輪郭を失う。
 色彩までぼやけ、それが形を忘れた頃に、
(霧の……分、身――)
「言ったでしょう? 初見殺しはアンタの専売特許じゃない、って」
 暴風雨の消え果てた、少し離れた場所。
 そこに、魔女は立っていた。
 勝利を確信し、
 それでも笑顔一つない、真摯な面持ちで。
「『Boden and Wasser.(地、水、結合)』」
 紡ぐ。
 決定打を。
 彼女の手には何も握られてなどいないのに。
 血式神術を用いるには、周囲にあるその二つの神器の内――、
「……っ!」
 彼女の周りに浮かぶ魔方陣に掛けられているのは、?二つ?。
 ?切り裂き魔?は、笑った。
 邪悪さの一切ない、子供のように楽しそうな笑顔で。
 ?足元に置かれている杯と、その中に収まる護符?を見て。
 二メートルは有る魔方陣の中心に、自分が居る事を知って。
 虚空に小太刀を突き立て、一歩分前へと止まれない?切り裂き魔?の真下で、

「Arie,”C・S・T”(神術『クリスタライズ・シルバー・タワー』)」
 魔女が指を鳴らした瞬間、魔方陣と同径の巨大な水晶の柱が?切り裂き魔?に直撃した。

 紫煙の膜に遮られた夜空を、きりもみ旋回しながら弧を描く華奢な体躯。
「アタシを相手にした時点で、万が一は在るもんなのよ」
 疲れたような溜息混じりの勝利の一言と共に、?切り裂き魔?はアスファルトの地面に墜落した。


 ◆


 グレーテルは、地面に身を投げ打つ人間を数秒見つめ、やがて解除を口の端に乗せる。
「『Wegartenfreilassung』」
 グレーテルの周囲を回る魔方陣が掻き消え、神器が重力に従って地面に転がる。
 そして、
「……っ」
 グレーテルの視界が黒一色に染まった。
 感覚そのものさえ消えてしまい、その場に座り込んだ。
(はぁ……はぁ……はぁ……だから、使いたくなかったんだけどね)
 彼女の【魔術師】の契約者としての制約の名は、『五感四損』。
 血式神術を用いると、解除した際に一時的に五感の内の四つをランダムに失うものだ。
 グレーテルは視覚と触覚を失ったのを先に、何が残っているのかを体を動かしたりして確認する。
(……良かった、聴覚か……ま、味覚やら嗅覚やらが残るよりはマシね。むしろ触覚無くなってくれた方が痛み感じないから経絡に神力通して治癒速度を上げるのに楽だし)
 ごろん、とそのまま仰向けに転がる。といっても、本当に転がっているのか分からない。人が居ないとはいえ、路上で変な体勢で横たわるズタボロ魔女ルックの女はキツかった。
「あー、ほんっとツイてないわね。帰ったら絶ぇっ対に給料上乗せさせてやる」
「っるせぇな、超下らねぇ戦いに巻き込んで悪ぅ御座いましたねこのクソ売女」
「っ!?」
 ぎくん、とグレーテルの体が強張る。
 とはいえ、闇しか見えない、今どういう体勢なのかも分からない、という状況はまさにどうぞ殺して下さいと言っているようなものだ。
 それでも、今は仰向けで寝ているという勘を頼りに上体を起こそうとするが、?切り裂き魔?の声はかなり疲れたような、落ち着いたものだった。
「あーあー、もういいもういい。なんかの制約で動けねぇんじゃねぇの? 今更負けたってぇのに寝首掻く気力は帰り道に使うっつぅの」
「……」
 その言葉を聴き、しばし逡巡したグレーテルは、やがて全身の力を抜いた(と、思う)。
「そうしてくれると有り難いわ。出来れば視覚が生きててくれるのが幸運なんだけどね、世の中甘くないわよ、まったく」
「ハッ、テメェに言われちゃ制約がどうの言ってる不幸自慢どもも形無しだな」
 衣擦れと共に立ち上がる音が聴こえる。
「あら、もう行くの?」
「アホか。これでも壁伝いじゃねぇと歩けねぇぐらいボロってるっつぅの。肋骨ばっか狙いやがって、呼吸すんのも痛ぇのに喋ってやってるだけ泣いて喜べ」
「何よ、だったらドイツ語で喋っていい?」
「はぁ〜……もういいっつってんだろ、バカくせぇ」
「随分テンション低いわね。どうしたのよ?」
「誰かさんがバカスカ戦ってくれたおかげで制約の枷が外れてんだよ。もう帰って今すぐ寝てぇからピロートークは御預けだ」
 彼の言うとおり、ずりずりと塀に服を擦る音がする。
 グレーテルは言葉を続けた。
「本当に殺してかないのね」
 ?切り裂き魔?は軽く苛立ちの混じる声で返す。やはり、一応は悔しさを感じるらしい。
「そんなに殺して欲しいんなら望み通りに切り裂いてやるよクソッタレ。負けて帰るのは生き残るとは言わねぇ、死に損なうっつぅんだよ」
「……ふふ、その部分だけは好きよ」
「やめてくれ、マジ頭痛ぇ……」
 くすくすと笑うグレーテルに、?切り裂き魔?の苦虫を噛むような気配が伝わる。
「――あ、そうそう、ねぇ」
「あん?」
「アタシ、変な格好で転がってない? 自分で確認しようにも出来ないのよね」
「……」
 その問いにふと見つめた?切り裂き魔?は、
「……、ぷっ」
「ちょっ、今なんで吹いたのよ! アタシどうなってんの!?」
「くっくっくっくっ……ま、その辺は後で制約解けたら確認しろよ……ふ、っくく」
「アンタねぇ! 負けたんだから精々直していきなさいよ!」
「おいおいテメェだって重傷なんだからあんま叫ぶと逝くぞ? つぅか、マジ勘弁して下さい肋骨折れてんのに笑わせんじゃねぇよ殺す気か……っ」
「こらぁー!!」
 同時に二人は咳き込む。
 苦悶の沈黙の後に、?切り裂き魔?が口を開いた。
「今回はテメェの勝ちだ。けど次が在るなら負けねぇ、今度こそ切り裂いてやるからよぉ」
「……在る『なら』、ねぇ……」
 グレーテルは呆れ半分で嘆息する。
「チィ……クソッタレが……生きて帰れるか運試しじゃあねぇか、クソ」
「そこまで追い詰めたかしら?」
「ああ、マジで厄日だ」
 どこか噛み合わない返答を最後に、?切り裂き魔?はずるずると音を立て、歩き始める。
 時たま痛みに呻く気配が、徐々に、徐々に霞んで、やがて消えてから、グレーテルは大きく深呼吸をして、ポケットの中をまさぐる。携帯電話を探しているのだ。とはいえ感覚が無いので地面に軽くコツコツと叩いて確かめる。
 指を這わせ、ピ、ポ、という電子音を頼りにボタンの位置を確認。
「……ん? 違うわね、あれ? 逆さま?」
 四苦八苦しながらも携帯の上下を引っ繰り返し、登録欄を開く。五十音別ページとその順番を回数を数えながら通話ボタンを押す。違う誰かに掛けたら迷惑以外の何物でもない。
 コール音が続く。薄くノイズのような雑音が混じるが、それは『教会領域(チャペル・レプリカ)』のせいだ。綺麗な音質に戻したいのはやまやまだが、これ以上結界を弱めると消えてしまうぐらいに軟化させているので、我慢せざるを得ない。
 やがてコールが止み、出てきたのはどこか落ち着きを持ちながらも、呆れたように溜息を混じらせる若い男性のイタリア語の声だった。
『フローエ女史、君は経過報告もほったらかしで一体どこをほっつき歩いているのかね。僕は有給休暇で日本に遊びに行くなどとは聞いていないのだけれどね?』
「はいはい分かってるわよ。始末書を事前に書く奴は頭がどうかしてるとしか思えないわ」
 馴れ親しむ愚痴に、それでもグレーテルは安堵の吐息を零し、流暢なイタリア語で返す。
 男性も再び溜息を吐く。
『まったく。君は真面目なようで気を許すといい加減になるね。そういう二面性の裏を僕に――』
「あー、御説教はまた今度にしてくれる? 急いで医療機関のソフィアを日本の神凪町まで呼んで欲しいのだけれど」
 遮られた事に苛立ちを感じる男性であったが、気になる単語が二つも一気に出てきてそちらに気を配った。
『カムナギチョウ……? 君、例の神佑地に居るのかい? しかし何故ランデル女史を?』
「決まってんでしょ、出血多量でアタシが死にそうだからよ」
 ごぶふっ!? という音と遠巻きの悲鳴が聴こえた。多分昼過ぎのティータイムで優雅に紅茶でもしばいていたに違いない。ざまぁみろ雑務処理担当。
『ごほっ、けほっ……き、君は一体何をしたらそんな状況になるというんだい!?』
「しょうがないじゃない、感染者追って【愚者】の契約者と一悶着遭ったんだから」
『……!』
 その名を聞いた男性の気配が、静かなものに一変する。
『……あの?切り裂き魔?と?』
「そうよ」
『……何があったんだい?』
「それは追々、ね……まだやらなくちゃならないコトが有るの」
『さっき言っていた感染者か』
「そ。……約束しちゃったのよ」
『また君の悪い癖か。ちょっと待ってくれ』
 男性は受話器を離さず、手元の書類をバサバサと蹴散らす音が聴こえる。彼の机の上は雑務の資料や報告書、始末書の類で疑似ピサの斜塔が出来ているはずだが、彼だってここ一番で真面目になると身の回りがお構いなしになるのは一緒のようだ。
『……、あったあった。ランデル女史はドイツの駐屯地へ救護援助に向かっているようだ。課が違うから要請手続き云々を通しても五日は掛かりかねないよ』
「そこはアンタの腕の見せ所でしょ? てゆうかあの子はアタシが死にかけてるって一言伝えれば迷わずぶっ飛んでくるわよ」
『簡単に言ってくれるね……被害を被るのは誰だと思ってるんだ』
「……」
 グレーテルは知らずの内に苦い顔をした。
 男性が言った被害を被る人間とは、男性でもそのソフィアという少女でもない。そう、彼らにより庇護措置や救護を受けている、力無き第三者を放って来いと言うようなものだ。
 分かってはいる。それは社会的な問題などではなく、道徳的なことを言っていると。
 この受話器を取っている男性にしたって、グレーテルとは同僚ではあるが、決して我が儘の為に身を切る必要など無い間柄であるべきなのだ。?救われるべき者を救う為なら、救われなくていい者の心配なんてしなくていい?のだから。
『分かってるかい? フローエ女史。僕等は自分勝手で一般人を振り回せる立場じゃない。犠牲になるのは、君の言うように、僕等のような始末書を先に書いて命を捨て置く頭がどうかしている人間がなるべきなんだ』
「……ええ、分かってる。とても分かってるわ」
 グレーテルは目を閉じ、小さく息を吸った。
「でも頼むわ」
 きっぱりと言い放つ。
 男性の苦笑がノイズに紛れた。
 既に男性は聴いてしまったからだ。
 約束が有る、と。
 まだ終われない、と。
 医療救護委員会最高クラスの実力者、【太陽】の契約者を呼び出す程の痛手を負いながら、それでもまだ戦うと。
 男性の溜息が混じる。この女には、振り回され甲斐が在るなと苦悩する。
 本当に、こんな女に約束をこじつけた誰かに、心からの敬意を払いたくなった。
『……三日で向かわせる』
「二日でお願いね♪」
『……っ!』
 男性が何か言おうとしたが、その前に通話を切った。
 一度深く息を吸い、意識を傷口に集中させる。
 細胞の持つ回転速度――つまり回復速度を矯正補強で加速させ止血する。本来、人体の持つ細胞の回転速度は決まっている為、あまり使うべきではない。回転速度を速めるということは、寿命を縮める事に他ならないからだ。ちょっとやそっとの傷ではまずしない。今のグレーテルのような、背に腹は代えられない人間がやる非常手段だ。
 とくん、とくん、という自らの心臓の音に身を委ねていたが、やがてグレーテルは右手に握ったままのはずの携帯電話を弄る。
 リダイアル欄にある、一人の青年の携帯へだ。
 そう。まだグレーテルに降板は許されない。
 伊月にとって、確かに級友と戦う状況は酷な話だろう。
 だが幸いなことが唯一在る。それは、伊月と如月姫野がそこまで睦まじい仲ではないという点だ。
 恋人や家族も同然の間柄を攻撃する事なんて、誰だって躊躇う。
 これ以上悠長に過ごす時間は終わった。
 やたらと長いコール音。
(お願い……無事で居て)
 祈るぐらいの気持ちで願うと、やがてコール音が途絶える。
『……グレー、テル?』
 返ってきた声に、グレーテルは最悪の状況ではないことに安堵した。
「良かった……! イツキ、すぐに?調停者?と一緒に逃げて、さっきキサラギヒメノがそっちに――」
 そう。
 安堵したからこそ、グレーテルは後悔することになる。
『あ、……ああっ!』

 嗚咽にも似た絶望の声が、やがて一介の青年でしかない彼の、地獄の始まりだったと。










 第六章:真実 〜Unclean gear〜





 血と死に塗れた腐臭の漂う異質の世界で、
 紫煙の膜に薄く遮断された月光を浴びて、
 殺意が迫る――!
「姫宮ぁあああああああっ!!」
 だっと走り出した樋口和彦の右手に握り締められた包丁は、本来の切れ味を上回る殺傷力を発して伊月の喉元を狙う。
 伊月は膝を折って全身を低め、樋口和彦の一撃を掻い潜る。
 真っ直ぐに腕を突き出し、急ブレーキを掛けようと踏ん張った利き足の踵を、伊月は足を小さく回して蹴る。
 踏ん張るはずだった足を蹴られて、前に大股になって踏ん張るどころか逆効果になった樋口和彦の鳩尾に拳を打ち込む。
「ぐ、っげ――!」
 嘔吐感を声に出して、くの字に折れる樋口和彦はなけなしに包丁を振るうが一歩退いた伊月に回避された。
 伊月は噴き出る汗をそのままに、目の前の敵に集中した。
 昼の校内でもそうだったが、樋口和彦自体の戦闘経験が乏しいのが唯一の救いだった。喧嘩慣れしているなんてもんじゃない。見ての通りに刃物を握って人に襲いかかったのはつい最近ですというレベルだ。
 問題は二つ。
「ば、かに……するなぁ……馬鹿にするあぁあああ!!」
 なおも食い下がらない樋口和彦を前に、伊月は肩に提げていた革製の竹刀袋の口を解き、中身を取り出す。
 外気に晒された無骨な木刀を両手で握り、深い深い呼吸を一つ。
「ぶっ! あっひゃひゃひゃひゃはははは!! そんな粗悪品で矯正補強した僕の武器を防げると思ったのかぁ!?」
 迫り来る驚異を前に、目を閉じる。
(落ち着け……)
 恐怖と緊張で早鐘を打つ心臓をなだめる伊月。
 グレーテルの言葉を思い出せ。
(『まずは落ち着くこと。――)
 焦燥感を押し込めて、呼吸を整える。
(――そして物体の存在を認め、――)
 握る木刀の感触を確かめる。
 ひんやりとした冷たく硬い感触。
(――それを、自分の体の一部として感じ取る』)
 漠然とした心得だと思った。
 だが、今なら分かる。
 目の前にあるだろう木刀を、己のもう一つの腕のように、想像する。
(イメージは肉迫に。どこまでも生々しく)
 どくり、と木刀の中を血管が根を張る。
 ジワリと血が這い巡り、徐々に温度を持つ。
 脈動は心臓と呼応し、ひたすらに打ち穿つ。
 やがて体温と同じ度合いになった時、手に持っているはずの冷たく硬い感触は消え去る。
 限りなく己に近しい存在を握りしめ、
 それを――、
「強く信じる!!」
 口に出し、目を開き、鼻先にまで迫っていた包丁が遮る木刀と合を重ねた。
 ガギジジジッ! と、鉄と鉄のぶつかり合う音が弾け、火花が散る。
 両者共に驚いていた。
 樋口和彦は、分厚い鉄管すら食い千切る武器を防がれた事への驚愕。
 姫宮伊月は、そんな表情を覗いて対抗できる確信に至り薄く笑んだ。
「矯正――っ!」
「ぅ、っおりゃあぁあああ!!」
 木刀を振り上げるように弾き、ガラ空きになった腹部に蹴りを入れた。
 チセや?切り裂き魔?のような受け身を知らない樋口和彦は尻餅を突きながら倒れるも、すぐに伊月を睨む。
 伊月はじんじんと痺れる手に力を入れ、己が握る武装を見下ろす。
「これが、矯正補強……」
 言いながら木刀を上段構えに上げ、地面に一気に振り下ろす。
 ドガッ! と鈍い音を立てて、木刀の切っ先は砂利の地面を抉る。
 切っ先の部分がぽっかりと凹みを作るのを見て、伊月は笑った。
「は、はは……グレーテルの奴、出来なかったらどうするつもりだったんだよ、ったく」
 ずるりと木刀を握り、伊月は前を見る。
 樋口和彦は腹を押さえながら、眼鏡を失った凶眼を向け返してくる。
「くっ……神力? お前……僕と同じ……!」
「やめろよ、テメェと同じ? 冗談じゃねぇ。俺とテメェは同類だが?同質じゃねぇよ?」
「なんだと!?」
 がばっと立ち上がる樋口和彦から視線を逸らさず、伊月は吠える。
「何度でも言ってやるさ、俺とテメェは全然違ぇ! テメェは何の為に力を手に入れた? 力を振りかざされる事に怯えて、助けを求めたってぇのは何も悪くはねぇだろうけどな。けどな……今度は自分が弱い者苛めしか出来なくなった時点で、テメェもあの不良となんら変わってねぇじゃねぇか!」
「……っ!」
 ぎくん、と樋口和彦の眼が見開く。
 表情が歪み、それ以上の言及を恐れているのが目に見えて取れる。
 だが、伊月は尚も言及を止めない。
 今更、この下衆じみた男に優しく諭してやる気は無いし、伊月自身、頭にきていた。
「言ってみろっ!! 何の為の力だ!? それが復讐だってんなら、テメェの本質はあの不良どもと同じだ!! 気に入らないから手を上げる、生み出すモノも無ぇ寂しいだけの下らない行為でしかないんだよ!!」
「う、うるさい……!」
「俺は確かにテメェと同じ理屈だろうな! 何だかんだ言っても、結局は自分が嫌だから戦ってるに過ぎねぇ……俺もテメェも自分の我が儘で周りを振り回してる事にゃ違いねぇ。けどなぁ! それは事の大小や度合だのじゃねぇ! 根っからの本質が違うんだよ樋口! ?テメェの口から何の為に戦うのかを言えねぇ?んなら、既にテメェの負けなんだよ!!」
「黙れぇぇぇぇぇえええええええええええっ――!!」
 乱雑な勢いで包丁を逆手に握り締め、樋口和彦は駆け出す。
 伊月は木刀を右手に、引き付けるようにして振るう。
 樋口和彦は咄嗟に包丁の峰を向け、顔を狙う木刀を防ぐ。
 ガギィン! と木製の物体がぶつかったとは思えない金属音を響かせる。そして、重い。
「ぐぅ……っ!」
 全身が鉛のような物体では、いくら包丁でも防げない。峰で受けた為、押し負けた刃が樋口和彦の頬をざっくりと裂いた。それでも樋口和彦は怯まずに包丁をフルスイングする。伊月は後ろに身を退きかわす。
 樋口和彦は自分の置かれた状況、姫宮伊月というただ神力保有量が多いだけの人間との立ち位置に、舌打ちをした。一度はCHAINに呑まれたはずだったが、あの氷室とかいう女の蹴りを受けてから何故か頭は冷静になっていた。
 ズキズキと熱を持つ頬を無視し、樋口和彦は距離を見定めた。危険を冒してまで峰を向けたのは、刃で受ければ高い確率で包丁が破壊されると分かっていたからだ。
 矯正補強は無敵の物質を創るわけではない。物体が持つ因果律、例えば『硬い』だとか、『鋭い』といった情報を神力によって因果律修正から誤認させ、その情報を加速化させる。
 だが、ある種の例外を除く殆どの物体に、『壊れない』、『朽ちない』という情報は確実に存在しない。矯正補強も因果律修正も、初めから存在しない情報をどうこうは出来ない。
 早い話が、生半可な物体を矯正補強すれば、それだけ消耗も激しいという事だ。
 実際の包丁で木刀を簡単に斬れるか。答えは当然、否だ。所詮は食用の肉や野菜を潰すように切る為の道具でそれは本来不可能。?だからこそ、一方的に矯正補強を行える事が姫宮伊月を上回る為のアドバンテージだったのだ?。喧嘩慣れしているぐらいで、殺しの方法を知る樋口和彦には、やはり決定的に及ばない。鉄すら噛み千切る武装は樋口和彦にとって大きな強みだった。
 まさか、鉄にも劣る木刀を、矯正補強を、伊月が覚えてしまうとは大きな誤算だ。
 これでは手持ちの武器は五分五分。せっかくのアドバンテージを崩された上、肉体への矯正補強が出来ない樋口和彦ではフィジカル面でも圧倒的。何よりも武器自体のリーチが目に見えて劣る。むしろ、互いの殺傷能力が高いだけに、『能力者としての経験』ではなく『素人としての経験』の差が関与するこの戦闘は樋口和彦のストレスを一気に膨らませた。
「ぐちゃぐちゃと煩いんだよ! 僕の方が……! お前みたいなクズより、僕の方が上と決まってるんだ!!」
「うるっせぇのはテメェだよ! 上か下かじゃねぇ! 俺は勝敗に意味の無ぇテメェに負けらんねぇんだ!!」
 怒号と共に駆ける二人。
 間合に入る一歩前で、樋口和彦は唐突に急ブレーキをかける。
「!?」
 警戒しようと身構えた瞬間、樋口和彦は遅れて前に出る右足を地面に擦り、目一杯にかち上げた。
 二人が立っているのは、細かい砂利の上。
 ぶわっ! と砂煙と小さな石の飛礫が舞い上がり、警戒して?注視していた?伊月の眼に飛び散る。
「……ぐぁ!?」
 沁みるような痛みに伊月は両目を強く閉じ、手で覆う。不測の事態に木刀を取りこぼしてしまった。ガラン、と木刀らしからぬ音が耳朶を打つ。
 一瞬遅れて、伊月が勘で頭を下げると、うなじを撫でるように刃物の奔る気配を感じた。
「どうだ! これが喧嘩ってヤツなんだろ!?」
 息巻いて叫ぶ樋口和彦はさらに包丁を順手に握り返して伊月の心臓を狙う。
 眼を開けない伊月は大袈裟に地面を転がり逃げる。
「ち、っくしょ……っ!」
 生理的な反応で涙を流しながら、伊月は指先でゆっくりと目元を擦り、砂を取り除こうとするが、そんな余裕を樋口和彦が許すわけがない。
 霞む視界の中で、砂利を擦る音が近くに感じ取れた伊月はまたも転がり回る。ズガ! という鈍い刺突音が闇に呼応し、伊月の背筋を凍らせる。
 そう。いくら武器の攻撃力に耐えられる術を持ったといっても、それはあくまで木刀の方だけだ。躯は生身でしかない伊月自身が喰らえばひとたまりもない。そもそも不用意に殺してしまわない為に木刀を選んだ時点で、当たれば終わりという概念が伊月側には無い。恐らく、それは樋口和彦側はとっくに理解しているだろう。
 滲む涙で水を得た伊月は目元を擦って砂を取り出し、薄っすらと瞼を上げる。
 頼みの綱の木刀は樋口和彦の足元。
 苦い顔をしてしまった。それに勘付いた樋口和彦は口の端を吊り上げ、木刀を伊月から遠ざけるようにして蹴り飛ばした。
「くっ……」
「くひゃはははははははははっ! だらしがないなぁ姫宮ぁ……大事なモノを落とすとは本当になんて馬鹿なんだぁ!?」
 嘲笑を込め、樋口和彦はずんずんと歩み寄る。
 彼我の距離を潰され焦燥に駆り立てられた伊月を尚も嘲るように樋口和彦の握る包丁が振り挙げられる。
 だが、その距離は明らかに伊月に届くものじゃない。
 何か、と疑念を浮かべた矢先、目を見開いた伊月は上体を仰け反らせた。
 狂気の片鱗を覗かせる笑みを張り付けて、樋口和彦が?地面に包丁を突き立てる?。
 意味を深く理解していたからこそ、先に動けたのは僥倖だった。狙われた伊月の影は縫い止められる前にひょいと引っ込められ、包丁の切っ先は砂利道に突き刺さる。
 ぞっとした。それ以上に伊月の全身はビリビリとした静電気に似た戦慄で刺激される。
 今、この場にはチセもグレーテルも居ない。動きを封じられたら今度こそ終わりだ。
 喰らってはいけない。
 絶対に――!
 神術を外された樋口和彦は、まるで追い詰めるかのようにさらに伊月の下腿の影を狙い前へ体を動かす。
 今度は横に飛び退いてそれを回避する伊月。
 方や喧嘩を多少は熟知している。方や喧嘩はまるで無知に等しい。
 この優勢を覆す伊月の懸念。二つの問題。
 その一方である矯正補強による、フィジカル面のプラスマイナスをゼロにする脅威は、伊月も矯正補強を行う術を知る事で打開出来た。
 今度は、もう一つの問題が迫り来る。
 神術だ。
「くっそ……!」
 伊月は執拗に影を縫い止めようと四つん這いのまま追って来る樋口和彦から、背を向けずに影を護り抜く。
 最早彼の神術に対しては、能力者ではない伊月にとって神術で対抗するという?本来の対処法?が出来ない。回避以外の方法が無い。
 隙をついて影が背後にくるように調節したい伊月だが、無理に回り込もうとすれば当然、直に包丁が飛んでくる。動きのフェイントや威圧などの、緊迫した牽制のし合いがなされる。ある意味、樋口和彦は神術さえ成功してしまえば勝利が確定する、正しく一撃必殺のチャンスが在るのだ。
「どうした!! 怖いか!? 恐いかぁっ!? 僕の力の前じゃ止められないのさ!! 誰一人としてなぁ!!」
 影の胸元に落ちる刃を、伊月は横に逸れて遣り過ごす。避けるのに精一杯の伊月は視界の端で木刀の位置を確認するが、あまりにも遠い。しかも運が悪いのか樋口和彦が狙ったのか、木刀の在る場所には向こうに建つマンションの明かりのせいで影が背を負う状態になってしまう。無理に取りに行くと返って危険だ。
「僕は上位の存在になるんだ! お前なんかより、あいつなんかより!」
(あいつ……?)
 どこか近しいと認める存在に感じたその物言いに、伊月は口を開く。
「お前を二次感染(インフィクション)にした奴の事か」
「またそのインフィクションというヤツか。つくづく僕は何も教えて貰えていないようだ」
 樋口和彦は目元に指を持ってゆく。眼鏡が無い事に気付いて、少しイラつきながらも首肯した。
「僕程の器が、あんな威圧を掛けてばかりいるだけの無能な女に何時までも従うとでも? 下らない。僕はいずれこの世界を掌握し、やがてはお前の居るその世界も支配して、王になるんだ。誰もが僕に逆らわない。誰もが僕に従属する理想の世界に、作り直すんだ」
 かなり落ち着いた口調で話すが、とんでもない。眼は虚ろで、首元をガリガリと掻き毟りながら呟くように唱えるその姿は、再び徐々にCHAINに感染しかかっている証拠だ。
「あんなクズとブスの交配から生まれたなんてだけでも虫唾が走るというのに……同じくクズとブスの交配から生まれた馬鹿どもは僕を見下す。ただ少し腕力に自信が在るからと生意気に粋がり、低能同士で群がれば個を失った自分を強いと錯覚する。武器を持てば誰にも負けないなどの思い込み、果てに眼に見えて力が無いと知れば威張れる貧弱な発想で生きる。反吐が出る。いいか、偉いのは僕なんだ。強いのも、賢いのも、そして尊いのも。僕の前で立ってる奴なんて在り得ないんだよ。皆、皆が平伏するんだ。それが当然なんだ」
 滔々と述べる樋口和彦を睨む伊月は、込み上げる怒りに歯を食いしばった。
 たった一つの言葉を噛み締めて。
「なのにどいつもこいつも、僕を格下としか扱わない。格好が何だって? 性格が何だ? そんな上辺だけのモノで僕を定義しようとする奴は許されない。赦されないんだよ姫宮。なのにお前ときたら……どうして僕を蔑む! どうして僕を否定する!? 何様のつもりなんだ!! 高説垂れて僕の存在を貶めているクセに! 理解しようとする前に情緒だ何だと理由付けて! 誰が偉ぶってるのか言ってみろ!! どうなんだ、ぇえ!?」
 血走った眼で捉える樋口和彦。
 伊月は、ゆっくりと立ち上がる。
 顔を俯かせ、
 目を閉じて、
 考える。
 思う。
 そうだ。
 ?結局は伊月のしている事も自己満足でしかない?。
 誰かに言われた訳ではない。
 上辺だけを見ればグレーテルに協力を求められた事にはなる。
 けど、それなら、あの二人が口論をしていた時に、どうして二人を見限らなかった。
 まだ、諦められなかった。
 そうだ。
 結局は簡単な事だ。
 伊月は、?誰も信じてない?だけだった。
 自分よりも実力も経験も多いチセを、グレーテルを、そういった人間たちを、
 信用、出来なかった。
 不安でいっぱいだった。
 自分の眼で見えないどこかで、小夜や千尋達を失う事だけが、恐怖でならなかった。
 今だって、確かに恐ろしい。
 すぐ近くに散乱する、人の形を失った血だまり。血の腐臭。吐き気を催す重圧。
 刃物を突き付けられ、人成らざる業をもって殺されかける世界。
 怖くない訳がない。
 たとえそれ以上の恐怖を目の当たりにしても、それだけは耐え難い事だった。
 結局は、自分勝手な……欺瞞でしかない。
 弱いくせに。
 恐いくせに。
 失う事だけが許せないだけで、伊月は二人の能力者を振り回し、多くの犠牲者を護れなかった。
 もっと、もっと正しい選択があったに違いないはずなのに。
 その場凌ぎのやり方、その場繋ぎの選び方でやってきてしまった、ツケが、今来たのだ。
 誰に罪が在るかなど、どうだっていいんだ。
 だから、
 だから伊月は、その噛み締めたたった一つの言葉を、ゆっくりと、口にした。
「……だから、殺すってのか」
「あ?」
 唐突な一言に樋口和彦は聞き返した。それほどに伊月の声は疲れていて、薄らいでいた。
 しかし、確かな答えを求めて、
 意思だけが強く、確かに燃えていて、
「眼に映る総てを拒絶して、突き放す事がテメェの力だってのか」
 その言葉は酷く悲しげで、
 しかし、何よりも深いからこそ樋口和彦の表情を拭い取る。
「俺の総てさえ奪って、自分の理想を貫くのが悪とは言わねぇよ。悪なんかじゃ、ねぇ」
「……うる、さい」
 呟く樋口和彦の一切を無視して、伊月は唱える。
 相手へのではない、自分への言葉として。
「けどな。それは絶対にやらせねぇんだ。何せ、?それ?は俺の大切なモノだから」
「黙れ……っ」
 焦燥の声も決して届かない世界で、
 認め、そして捨て去る。
「俺が俺で在る為のモノを奪うのなら、テメェは?俺にとっての悪?だ」
「やめろっ!」
「なら俺は、俺は――」
 さあ、樋口和彦の総てを肯定しよう。
 さあ、樋口和彦の総てを否定しよう。
 悪である事を許し、悪である事を赦すな。
 殺意も善意も要らない。
 必要なのは、?樋口和彦と同じように自分の勝手で命を奪う行為?を貫くことなら。
「俺が俺で在る為のモノを護れるのなら――俺はテメェにとっての?悪?でも良い!」
「うるさぁぁぁぁあああああああ―――――――い!!」
 樋口和彦は駆け出していた。
 ?力と意思を得る為なら自分と同質である事を認める?伊月に、畏怖を覚えて。
 伊月も火蓋を切るように駆け出す。
 衝突する二つの思想。
 自分の為の破滅と、自分の為の破壊。
 間合いに入った瞬間、樋口和彦の腕が鞭のように振るわれ、威力を高めて遅れてやってきた銀閃が、伊月を捉える。
 伊月は走り様に足元の砂の握り締め、それをぶちまける。
 攻撃に移っていた樋口和彦だが、得物が手軽であるせいで読まれて、腕で目元を覆い防がれてしまった。
 それでいい。伊月は高鳴る心臓にさらに薪をくべ、樋口和彦の脇を抜ける。
 視界の端に伊月を捉えた樋口和彦が包丁を振るうが、左側を抜けられたせいで、右手で持ってる包丁を振り回したのは失敗だった。あと少しで背中を斬り付ける手前で、包丁は虚空を空振った。
「逃がすか!! お前みたいな低能が、僕に勝てる訳が無いんだ!!」
 背後から追って来る気配が伝わる。
 焦燥に伊月の心臓は早鐘を打っていた。既に影は後ろに出来ている。
 追われる者としての恐怖が膨らむ。もし追いつかれたら、きっと破裂してしまうだろう。
 いや、いくら伊月の方が足が早くても、木刀までの距離はまずか十五メートルも無い。もっと走る距離が長くなければ木刀を取りに走る事自体に意味が無い。
 どうする。影を縫い止められたら終わりだ。
 どうする。
 どうする――、
(――、)
 伊月は一瞬、違和感を覚えた。
 まさか、と鼻で笑うような、些細な手段。
 だが、迷っている暇は無かった。
(どうせここまでが一か八かの連続だったんだ、やってやるさ……!)
 伊月はポケットに手を突っ込み、『それ』を取り出す。
 『それ』を指でいじりながら、顔を前に向けて一気に頭から飛び込んだ。
 肩口から受け身を取りながら、右手で木刀の柄を握りしめ、
「樋ぐ

 言葉は、途中で切れた。

 飛び込んで距離を稼ごうとした伊月の、最大の失念。
 ?あの樋口和彦が、同じように飛び込んでいたこと?。
 最早伊月ではなく、伊月の影だけを狙っていた。
 血で汚れた地べたに手も膝も突き、
 恥も外聞も無い状態になってでも、
 勝利への執念が樋口和彦の兇刃に宿り妖しい光を放つ。
「終わりだ低能。敗北に悔しみながら死ねぇえっ!!」
「――!!」
 樋口和彦の握る包丁が振り落とされ、伊月も握り締めて向ける。
 だが、明らかに間に合わない。振り抜く前に包丁が、樋口和彦の神術が伊月の動きを封じてしまう。本当に、せいぜいが握り締めた得物を前へ向けることしか出来なかった。
 そして、その得物が樋口和彦を傷付ける前に、
 どすり、と。
 包丁が、伊月の影を、その胸のど真ん中に突き立った。
 樋口和彦の顔が、狂喜に歪む。
 顔を上げようとする。
 見たい。早くその絶望に染まった顔を見てやりたい。
 勝った。
 勝ったんだ。終わった。遂に、遂に上を目指す事が出来

 カァン!! と。
 目の前に突き立っている包丁が吹っ飛んでいくのが見えた。

 あまりにも滑稽に、
 あまりにも唐突に、
 ?包丁が伊月の蹴りを受けて、すッ飛んで行くのが見えた?。
「―――――――、え?」
 意味が、分からなかった。
 どうして蹴れた?
 どうして動けた?
 神術は確実に発動した。
 確実に動きを止めていた。
 なのに、どうして?
 ぐるん、と。見開いた眼が下へ向く。
 答えを知ろうとした樋口和彦の視界に、包丁の突き立った痕が出来ている。

 その痕を中心に、光が出来ていて――。

「――、」
 なんだ、コレは。
 何故、光なんて在る?
 弾かれるように顔を上げた。
 顔より先に瞳が上を向きながら、少しでも早くと視界を上げた。
 伊月の突き出した、?左手?。
 握っているのは、携帯電話だった。
(携、帯……)
 それが意味する答え。
(カメラの……照明機能っ!!)
「影を狙うって事は、光で塗り潰した部分を縫い止めても神術は発動しねぇって事だろ?」
 たった、それだけ。
 確証すらない可能性。
 考える余地さえない緊迫した状況にも関わらず。
 大胆に。
 しかし正解を。
 握る指が白くなる程の力を込め、木刀を振るう。
 樋口和彦の表情が、歪んだ。
 もう、彼の暴力を提示するモノは、無い。

「見ろよ。テメェなんざ俺の力でも勝てるじゃねぇか」

 木刀は寸分の躊躇いも無く樋口和彦の顔面に直撃した。
 神力によって未元物資と化した木刀は、鉄のそれと変わらぬ重みをもって吹き飛ばす。
 血と死に塗れた腐臭の漂う異質の世界で、
 紫煙の膜に薄く遮断された月光を浴びて、
 砂利の地面に何度もバウンドし、樋口和彦の体は仰向けに倒れた。


 ◆


「――は、……はぁ……はぁ……っ」
 自分でも思わなかった程の荒い呼吸に気付き、伊月は木刀を手から零してへたり込む。
 砂利の上に尻を突いて息を整えようとするが、正直、血の腐臭が漂うこの空気を吸うと吐きそうだった。それでも全身からぶわっと汗が吹き出し、気だるくてしょうがなかった。
(……あぁ、そっか……これが神力を行使した後の疲労感って訳ね)
 首元を濡らす汗を拭いながら、一人納得する伊月は視線を上げる。
 少し先で、四肢を投げ出して倒れる樋口和彦の姿。死んで、はいないようだ。もっとも、こっちも必死の末に手加減の無い一撃を入れたので、どうなってる事かは知る由もないが。
「……樋口」
 まるでボロ雑巾のような姿にされた哀れな男の姿を、伊月は寂しそうに眺め、
「俺は……出来るならお前も救いたいって思ったんだぜ」
 小さく。
 そう、呟いた。
 負の気配が沈殿する公園で、ある程度気持ちを落ち着かせた伊月はゆっくりと立ち上がる。
 まずはどうするかを考える。
 見上げると、まだ結界が空を覆っている。少なくともグレーテルは生きている証拠だ。
 むしろ心配なのはチセだった。神力の一切を失ったせいで結界の表側に弾かれたチセは、身体の矯正補強が出来ないせいで具合が悪そうだった。
 もしここで如月姫野に出会えば、最早伊月以上に危険だ。
「くそっ……だから携帯持てって言ってんのにあいつ……」
 何とかチセと連絡が取れる手段は無いかと周りを見回していると、
「あ……、」
 思わず、言葉が漏れた。
 そうだ。今までは樋口和彦との対峙に視界が狭まっていたが、?そもそもこの腐臭はなんなのか?。
 答えを導く、鮮血の爆心地。
 亡骸は樋口和彦の血式神術『枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)』の効果に触れて闇に呑み込まれたのだろう。インクの溜まったバケツを蹴り飛ばしたような派手な飛び散り方をした紅い染みだけが月夜の砂漠に広がっていた。
 自然と肩の力が抜けた。ぶらんと垂れる腕に、しかし手首から先には熱が抜けずにいた。
 悔しかった。
 また、護れない。
 『教会領域(チャペル・レプリカ)』は裏側のあらゆる事物事象の因果律を元に修復する機能があるが、裏側に居る命までは戻せない。傷も、死も、消せない。失くせない。
「……ちくしょう」
 後悔が、ぽつりと溢れる。
 伊月は所詮は人間で、
 無知で無力な人間で、
 何も出来ない人間で、
 誰一人、まともに護れない。
 誰かの正義にも、なれない。
 しかも、何が酷いって、
「ち、くしょう……っ」
 伊月は頭を掻き、俯いて低く唸った。
 伊月は、こんな気が狂いそうな世界で、
「俺は……どうなってんだよっ!」
 ?ここで如月姫野に遭う事の危険性を案じている?。
 ?異常の世界で、まだ正常な考えを働かせている?。
 今までに不条理に命を奪われたあまりにも不幸な人間達の事よりも、
 たった今圧倒的に誇りを穢され打ちのめされた樋口和彦の事よりも、
 自分の事を考えてしまっていた。
 誰を護るだって?
 何を守るだって?
 結局は、伊月は孤独に苦しみ、それでも涙を流す事すら許されない行為をした罪悪感に苛まれ、背反する運命という名の劇場で踊るしかない。まるで、そうしなければ操り糸を切られてガラクタになる寸前の人形のように。哀れで悲愴なマリオネットのように。
「ちくしょう……ちく、しょう……っ」
 顔を覆う両手は震えている。
 汗がシャツをぐっしょりと濡らしている。制服はもう既に砂と、認識したくない液体でドロドロだ。酷い疲労感に体は鉛のように重い。全身が休みたいと悲鳴を上げている。
 だが、伊月のあまりにも現実を呑み込み易過ぎる頭は、立てと命令を下す。
 まだ、終わりじゃない。
 こんな所で一人打ちひしがれている訳にはいかない。
 とにかく、まずはグレーテルに連絡だ。結界は神器を補助として展開しているので多少気を逸らしたぐらいで解けはしないが、術者が気絶したり死亡したりすれば当然消える。素人同士の戦いより断然決着は長引くだろうが、それなら余計に何かしらの方法をもって手を貸すべきだ。彼女は、曲りなりにも負傷者なのだから。
 チセに関してが結界が解けるまでは安全圏に居ると考えていいのだろう。むしろ、彼女の言う通り零時を回るまで戦闘に参加させるのは遠慮したい。あの弱り具合を見ればそれは確信に変わる。
 そうだ。考えろ。
 現実的で何が悪い。
 伊月の護りたいモノも、その現実の中に在るんだ。
 思考はどこまでもリアリストに。
 しかし構築だけはロマンチストに。
 理想を否定して置かれた状況を整理し、現実とかけ離れている理想の盲点を埋めてゆけ。
 一つ一つのピースを埋めてゆけ。
 まるで、パズルのように。
「……、」
 すっと閉じた目を開き、伊月は顔を上げる。
 やっぱりだ。
 そう思った。
 何か、何かおかしな気がする。
 ひっかかっているような、欠けているような、パズルが一向に完成しない喪失感。
 そんなもどかしさが、チセと境界を別離される寸前から頭から離れない。
「……確かめねぇと。でもその前に、グレーテルと合流か……移動してなきゃいいけど」
 まだ力の上手く入らない足を叱咤激励し、立ち上がる。
 考えても答えに至らないのなら、今は考えるべきではない。きっとそうするべきだ。
 地面に落ちている携帯電話を拾い上げ、開いてみる。
 今グレーテルに電話するべきか判断に迷い、しかし自分の足で行った方がいいと思いポケットにしまう。
 振り向こうとした。
 その、時だった。

「……ひめ、みや……くん?」

 心臓が跳ねる。
 身が強張る。
 その声が。
 伊月を即座に振り向かせた。
 夜の世界。
 星明りが結界に潰された世界。
 そこに、
 制服姿のままの如月姫野が、居た。

「如月――っ!」
 喉が干上がった。
 指先まで動かない。
 何をすればいいか分からなかった。
 相手はチセをすら圧倒する能力者だ。
 唯一、足が一歩後ろへ下がった。
 なのに、伊月の警戒とは別の行動を、如月姫野は見せていた。

「―――――――っひ……!」

(……え?)
 思わず伊月は困惑する。
 如月姫野は学生鞄を胸に抱きしめ、青ざめた顔で伊月を、その公園の異常な世界を見ていた。
 震える唇で、
 震える声で、
 如月姫野は問いかける。
「わ、私……ひ、姫宮君が、調子、悪そうだった、から……様子を見に行って、そ、それ、で……なんか、と、通り魔みたいな人に、出くわして……逃げたら、空、へ、変な色で……なんだか出られなく、て……そし、そした、ら……」
 涙を溜めた眼で、伊月を、畏怖の対象のように、見て、
「なに、してるの……? 姫宮、君……?」
 そう、問いかけてきたのだ。
 伊月はぐちゃぐちゃになりかけていた思考が一気に白紙になり、やがて一つの感情が芽生える。
 怒りだ。
「な、ん……だよ」
 この女は、何を言っているのだろう。
 これだけの惨劇を生み出しておきながら、
 自らが従属させた男をも無視して、
 口を突いて出た言葉が、それか。
「ふざけてんじゃねぇよ如月!!」
 沸き起こる怒りのままに声を張り上げると、如月姫野は肩をビクンと竦める。
「こんな事になったってのに、どうしてそんな演技が出来んだよ!?」
「え、演技……? 何を、」
「しらばっくれてんじゃねぇ!!」
 伊月はずんずんと足を踏み鳴らし近付く。
 心が引き裂かれるような痛みを押し殺し、茹でダコのように赤らめた顔で睨む。
「俺はお前も護りたいって思ってたんだ! なのに、なのに……! 関係の無ぇ奴らを巻き込んで、樋口まで陥れて、チセやグレーテルが……俺がどれだけ考えたと思ってる!? どれだけ悩んで、苦しんだと思ってる!? それさえバカにすんのか、テメェは!!」
「ひ、ぁ……」
 ガクガクと足を震わせて怯えるその姿に、伊月はさらに怒りを高ぶらせる。
 ここにきてまだ思わず出くわした一般人を装うつもりか。
 この、『教会領域(チャペル・レプリカ)』の裏側に存在するくせに!
 ただの能力者でもない人間を装っ
「……あ、れ?」
 突き進んでいた足が、はたと止まった。
 今の怒りの理屈に、伊月は妙な感覚を覚えた。
 おかしな矛盾があった。
 怪訝な顔で如月を見ようとした時、足下で何かが動く気配を感じる。
「――っ!」
 視線を落とした瞬間、鳩尾にタックルを喰らって倒れ込む。
 咳き込みならが上体を起こした伊月は、走り出す影を捉える。
「くそっ、樋口ぃ!!」
 叫ぶが、牽制にすらない抑制に止まる樋口和彦ではない。
 しかも彼が走りだした先には――、
「なっ……!?」
「え、」
 鞄を抱きかかえて、この血塗れの惨状を呆然と見ていた如月姫野に飛び込んでいた。
 何を、と伊月が思うより先に、樋口和彦は如月姫野の首に片腕を回し、もう一方の手で予備に忍ばせていたのだろうカッターナイフを顔に近づける。
「きゃああぁぁぁあぁあ……っ!」
「よせっ!!」
 思わず伊月の口から抑止の言葉が出た。
 在り得ない状況だ。
 チセをすら圧す力量のはずの彼女が、こんな簡単に樋口和彦に捕まるなんて。
「く……くひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
 痛みに顔を歪める如月姫野の後ろで、血走った眼で伊月を見据える樋口和彦。左の眼が真っ赤だ。チセの蹴りに伊月の殴打と悉くが顔面を狙ったとどめだっただけに、まるで赤い涙を流しそうな程に充血してしまっている。
 だが、痛みをも凌駕する狂気に顔を歪ませる樋口和彦は、下卑た笑い声を上げて伊月に声をかける。潰れかけの、掠れた声で。
「ぼ、僕が……王になるんだっ! みんなみんな殺して、僕が最も偉くて、最も尊い世界を、作り上げるんだ!!」
 駄目だ。完全に我を失っている。
 身勝手過ぎる言い分を掲げ、首に掛ける腕に力を入れ直す。
「ぅあぐっ……!」
 呼吸を殺されて、涙を溜めて苦しむ如月姫野に、伊月がさらに怒号を張り上げる。
「やめろ樋口! そいつはテメェの――」
「なるんだ……僕が王様になるんだ!! 僕が、僕がぁぁぁあああああああああああ!!」

 伊月は、回路が焼き切れるような白濁を覚えた。
 突き飛ばされて、足を縺れさせて仰向けに倒れそうになる如月姫野。
 その壮絶な絶望の表情を見て、笑いながら腕を振り上げる樋口和彦。
 映像が、無音のまま続く。
 紫煙の月光を浴びて鈍く煌く肉厚なカッターナイフが、
 その切っ先が、
 何の躊躇いも無く、
 一切の情緒も無く、
 振り、落とされ――。

 ざきゅり、という音だけが、確かに、確かに、耳に、届いた。

「か、は……?」
 何の理解も出来ないと言いたげな、短い吐息。
 肩から右脇腹までを袈裟斬りに、
 楚々に着られた制服を破られて、
 ゆっくりと、
 体が、地面に倒れて、
 とさり、と。軽い音を立てて落ちる。
 白濁とした光景が闇夜に戻るまで、
 伊月の中では長い長い時間が経った気がした。
 実際にはほんの数秒のことだったのに。
 永劫とも思える思考のリセットが続いた。
 やがて、総ての音が蘇った時、見下ろしていた樋口和彦が、
 にやりと、
 不格好に、
 引き攣った笑みを浮かべた時、

 何かが、切れた。
 ぶちり、と。
 強引で、悲惨な音。

「ぁぁぁああああぁぁあああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 怒りも悲しももまずどこかへ置いた、獣のような咆哮。
 その声に驚いた樋口和彦が距離を取ろうと退くのを眼中にすら入れず、伊月は彼女の下へ走り出す。
 ほとんど転ぶような勢いで膝を突き、如月姫野をゆっくりと抱き起こす。
 笑い声が聴こえた気がした。
 無様だなぁ、とか。
 どうせお前は無力なんだ、とか。
 どうだっていい罵りを、
 遠ざけて、いいからすぐに遠ざけて、
 見下ろす。
 凄惨な傷を受け、如月姫野は青ざめた顔で、汗ばんだ肌で、浅い呼吸を繰り返している。
 震える瞼が、薄っすらと開かれて、彷徨う視線が伊月の視線と絡み合った時、
 ふっと、笑った。
 柔和で、
 だけど力無く、
 笑って。
「……ひ……み、や……く――」
 名前を、呼んだ。
 それだけ。
 たったのそれだけ。
 そして彼女の瞼は閉じられ、かくんと首を落とす。
 それはまるで死んだみたいで。
「ぁ、ああ……っ」
 死ぬ前の最後の笑顔のようで。
「ああ……あ、あ!」
 彼女の死ぬ様を、見るようで。
 ことり、と。
 再びピースの嵌る音が聴こえた。
 伊月は、ぷつりと総ての感情を切り落とす。
 だらりと両腕を下ろし、全身を弛緩させ、思う。
 伊月の思う謎。
 疑問を。
「……なんでなんだ」
 何故、ピースの嵌る音がする?
 これもが答えの一つだったから?
 成り得る結末の一つだったから?
 これが、伊月の望んだ、終わり?
 これで、一巻の終わりだとでも?
「なんで……」
 滔々と呟く伊月の中で、
 総ての切り落とされた純白の思考の中で、
 ただ一つの感情が火を着ける。
「なんで……っ」
 立ち上がる。
 意思に反した本能が、立てと命令を下す。
 右に左に体を揺らめかせ。
「――なんで」
 幕引きのファンファーレは聴こえない。
 だが、総ては壊れて終わった。
 伊月の理想は、どいつもこいつも壊れてしまった。
「なんで、俺じゃない奴が犠牲になってるんだ……」
 力無く出た謎に対して、答えは無い。
 答えが無い。
 それが、
 ?怒りを生んだ?。

「なんで俺じゃない奴が悪になってるんだぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ――!!」

 絶叫が闇を掻き乱し、破壊した。
「ひっ……!」
 喉から悲鳴を上げた樋口和彦が見た光景は、どうしようもない絶望に染まるものだった。
 ぞわり、という生暖かい風と共に伊月の背後で、暗い渦が漂う。
 闇より暗い色の、霞んだ、しかし確かにそこに居る存在感。
 最悪のシナリオが始まりを告げだす。
 最低なグランギニョルが幕を上げる。
「う、そだ……何で……何で、姫宮に……CHAINがっ……!」
 わなわなと震える指で伊月の後ろを指差す樋口和彦。
 だが、その総てがどうでもよかった。

 何もかもがどうだってよくなってきた。
 今だに答えの出ない中で、ただ確かな、最も簡単な疑問と、それの解が導き出された。
 こいつは、 そう。
  してしまおう。
 護りたかった奴が、もう一人の護りたい奴を したんだから。
 もう、いい。
  してやる。
 護りたい奴がたまたま倒すべき敵で、もう一人の護りたい奴もたまたま止めるべき敵だっただけ。
 それだけなのに。
 どうしてこうなった?
 眼に映る総てを護ろうとした訳じゃない。
 ただこの手が届く場所に居る奴だけでも護れれば、それで良かった。
 それで、ハッピーエンドだった。
 何年かけてもその罪を償って、もう一度、帰って来てくれたなら、と。
 そう思っただけだったのに。
  したんだ。
 こいつは、 してしまったんだ。
 淡い理想を抱いた。
 確かにそれはあまりにも夢見がちだと小馬鹿にされてもいい理想だった。
 でも、総てが善であることがその理想の妨げになるのなら、代償だって用意出来た。
 主人公じゃなくたっていい。
 犠牲になってもいいと言った。
 悪になってもいいとも言った。
 なのに、自分ではない者が犠牲になり、悪になり、それで幕が閉じようとしている。
 あんまりだ。
 そんなの、あんまりじゃないか。
 せめてもの代償に自分を捧げた理想が、そんなにいけないのか。
 自分ではない誰かが、そんなにいけなくてはならないのか。
 なら、いっそ幕間を引き裂いて穢した奴だけは、許さない。絶対に、許せない。
 だから、 す。
 もう絶対悪でなくていい。
 劣悪になろう。
 どこまでも最低な、劣悪になろう。
 こんなクズを生かしてなんになる?
 もう嫌だ。
 何も考えたくない。
 結論は出てるんだ。
 何を迷う。
 何を思う。
  せ。
 樋口和彦を せ。
 今すぐ、 せ!

 気がついたら足が出ていた。
 走るでもなく、ただ歩いて、
 それでも樋口和彦を狙い澄まして、
「くっ……!」
 慌ててカッターナイフを逆手に持ち替え、合わせるように影を狙う。
 だが、伊月は避けもしない。
 ?ただ前に出ただけ?だった。
「――なっ!」
 樋口和彦は絶句した。
 影の胸部を突き刺すはずだったカッターナイフが、前に出た伊月の右足に飛び込む。
 どすり、という鈍く、他人さえ眼前で直視すれば身の毛もよだつ光景に、伊月の表情はまるで変わらない。
 靴ごと貫かれた足を軽く横に捩じって、刃を何枚分か圧し折ってしまう。もともと折れやすいとはいえ既に前以て矯正補強によって強化されているはずのカッターナイフが、だ。
(肉体への、矯正補きょ――)
 驚愕に戸惑う隙も与えない。
 それどころか、欠片程の救済が、伊月にはなかった。

 一拍の余地もなく、そのままの右足で俯き気味だった顔面を蹴り上げてきたのだから。

 ぐちゅり、と腐った果肉を潰す音がした。
 一瞬の間を置いて樋口和彦は理解する。
 足を貫いたままのカッターの刃が、自分の左眼を穿つ音。
「ひ、」
 おぞましい、事実の音。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 自分から弓反りに上体を退いて刃を引き抜き、目元を両手で覆う。
 だが、指の隙間から見える視界では、伊月がさらに足の裏から覗く刃を、覆っている手の甲に刺し、一気に下へ引き裂く作業に入っていた。
「ぁ、ぃぎ……!?」
 甲から肘までを服の上から抉るせいでボキリと刃が折れても、伊月は好都合とばかりに踏み込んで荒々しく髪を掴んで引き寄せ、手が離れた顔面に膝をぶち込む。ベギリ、と嫌な音がした。歯が数本折れて膝に食い込んでも、一人分のくぐもった悲鳴しか木霊しない。
 離れるのはお前の方だと言わんばかりに掴んだままの髪の毛を力づくで引き抜く。千切り取られた髪の毛には、まるで雑草にこびりつく土のように肉片がピンク色を晒していた。
 もうどの痛みに苦しめばいいのか分からなくなる樋口和彦の鳩尾に、軽く助走を付けたフルスイングの蹴りを入れた。矯正補強によって鈍器と化した爪先が、肋骨に亀裂を生む。
 圧倒的な暴力。
 しかし伊月は機械的な表情のまま。
 それが当然の行為かのように、倒れ込んで吐血と共に咳き込む樋口和彦に歩み寄る。
 何も、感じない。
 何も、思わない。
 ただ一つの結論に忠実に、
 ただ一つの命令に絶対に、
 ただ、動くだけ。
 こいつだけは生かせない、と。
  せ、と。
「テメェが悪いんじゃない」
 上体を屈し、足に突き刺さったままのカッターの刃を指で摘まんで、引き抜く。
 ぐちゅり、という音と共に、靴の裏から紅い染みがゆっくりと広がる。
「だからテメェは俺を憎んでくれていい」
 だが、伊月は蛇蝎を見るような冷めた眼で、もぞもぞと身じろぎする姿が虫にも思える無様な男を見下ろす。
「だから、俺が悪でいいよ、もう……テメェだけは、許さねぇから」
 思考の彼方で悲鳴を上げる激痛。しかしそれはあまりにも遠すぎる。伊月は生身の刃を握りしめる手の平の熱にも気付かない。
 樋口和彦は何とか体を上に向け直し、血と涙で汚れた眼を覆い、隻眼を震わせて後ずさる。
「ひっ……!」
 なんて、滑稽な姿だろう。
 思わず笑いが込み上げる光景に、しかし伊月の眼は怒りしかなかった。
 結論以外の感情は要らない。
 在ってはならない。
 こいつを笑ってまで、こいつを一秒でも生きながらえさせる理由なんてなかった。
「なんでこうなったんだよ……なんで、なんでっ!!」
 焦燥にも似た一喝。
 思わず出てしまった怒声に、顔を腕で覆って、まるで親が上げた手に怯える子供のように、樋口和彦は情けない姿を晒す。
「や、やめっ……!」
「やめろ? やめろってか? ふざけてんのかテメェは!! こんな事しやがって……俺が、俺達がどれだけ、如月を止めようとしたと思ってんだっ!!」
 こいつのどんな行動にも、苛立ちが止まらない。
 自分でも制止出来ない感情をそのままに叫ぶ伊月に、
「きさ、らぎ……?」
 どこかきょとんとした顔に、さらに伊月は怒る。
「とぼけてんじゃねぇ!! たった今テメェが裏切った奴じゃねぇか!!」
 その荒々しい返答に、樋口和彦は、

「……何を、言ってるんだ?」

 在り得ない、返事が耳に入った。
「……え?」
 伊月の中の、轟々と猛る炎のような感情が、急速に冷えてゆく。
 今、樋口和彦はなんて答えた?
「お、まえ……なん、だって……?」
 弛緩した手から、ずるりと刃が落ちる。
 カラン、という小気味良い音が響いただけで樋口和彦は身を震わせ、泣き声同然の呟きをひたすらに返す。そうしたら助かるかも知れないという淡い幻想は、皮肉にも叶ってしまったことを、本人は知らずに。
「ぼ、僕はただ、……頼まれてっ……あいつが、隠れ蓑が計画と違った行動を起こす可能性が、あるから、って……それで、……騒ぎを起こして……一度、回収に行くって……」
 ボロボロの顔で、伊月を見る事も恐いとばかりに俯いて、
「僕、は……氷室や、法王庁とかいう組織の女を、殺せって……お前や、?そこの転がってる女は?……聞いて、なく……って!」
 再び、
 伊月の思考が止まった。
 こいつは何を言っているんだ。
 訳が分からない。
 こいつが言っているのはただの言い訳なのか。
 違う。その場凌ぎの嘘が露呈すれば間違いなく殺されるこの状況下で、嘘を言っているようには思えない。
 違う。
 如月姫野が首謀者じゃない。
「なんで……じゃあ、どうして如月がここに居るんだよ!?」
「どうして、……って?」
「見て分かんねぇのかよ! 『教会領域(チャペル・レプリカ)』の中だぞ!? 能力者以外は居られねぇのに何で如月はここに居んだよ!!」
 怒鳴り散らし、その怒声に縮こまって一向に答えない樋口和彦を見下ろしながら、
「――。ちょっと待て」
 あまりにも簡単で、あまりにも矛盾している自分の言葉に気付いた。
 『教会領域(チャペル・レプリカ)』の中に居る以上、如月姫野が、能力者でもないただの一般人が居るはずがない。
 それは、おかしなことだ。
 もしその通りなら、
 ?その結界の裏側に居る伊月自身が能力者でもないのに居られるのもおかしいからだ?。
 そう。
 『教会領域(チャペル・レプリカ)』は術者の任意で人を選んでいるわけではない。
 ただ一つの定義。
 ?ある一定の水準の神力を持つ者を異界に封鎖する?神術だ。
 だからその一定の水準を上回る神力を持っている伊月は残り、制約によって一切の神力を持たない状態のチセは弾かれた。
 もし仮に、如月姫野が伊月と同じように神力を多く保有しているだけの、ただの人間だったとしたら。

 ――どこかで、ピースの嵌る音がする。
 それは仮定の話。
 今回の感染者は、伊月の周囲に居る近しい人間の可能性が有る。
 当の伊月にCHAINの気配が移ってしまい、結果として?切り裂き魔?に追われたのだから。
 学生である伊月なら、自然とその『周囲』とは家庭や学園に絞られる。
 そして、伊月が契約者側と手を組んでいる事に勘付ける程の近さ、つまり伊月と面識のある人物にまで絞られる。
 プチ不良として、教師にまで軽く目を付けられている伊月と面識がある人間はそう多くない。
 だから、ほんの数人。
 ――どこかで、ピースの嵌る音がする。
 仮定、姫宮小夜の可能性。
 これはまず在り得ない。グレーテルとチセが口論のきっかけにしてしまったが、伊月に恨まれるのを覚悟の上で違うと言った。契約者であるグレーテルが言う以上彼女ではない。
 仮定、藤堂千尋の可能性。
 これも違う。これ程近くに居ながら護符は如月姫野に反応した。何より伊月にとって千尋は三年来の親友だ。人格的に在り得ない。
 仮定、永谷秋臣の可能性。
 これは論外。首謀者が女と分かった時点で考えてもいなかった。
 仮定、品田明美の可能性。
 これも論外と言えよう。ある程度伊月と面識が無ければ伊月はすぐに殺されていた。間違いなく情の無い人間には出来ない。同様に彼女以上に面識の無い第三者も在り得ない。
 仮定、如月姫野の可能性。
 やはり彼女が一番暫定に近い。
 女であり、伊月とは面識があり彼の行動を少なからず読める立場、伊月を知っている上で契約者と分断して攻撃する為に樋口和彦を取り込む目的。そして、昼間の感知。
 総てが当てはまる。
 なのに樋口和彦は彼女ではないと言う。
 どういうことだ。
 如月姫野以外にこの条件が当てはまる人間は

「……、ぁ」

 ぽつりと。
 声が、漏れた。
 眩暈を覚える。
 あんまりにも小さく、
 しかしそれが積み重なって出来てしまった、大きなミス。
 居るじゃないか。
 たった一人、居た。
 如月姫野と限りなく近い条件の存在が。
 伊月と近しい面識を持つだけでなく、如月姫野とも面識を持つ者。たとえば、中学生からの付き合いの親友。
 伊月を知る上で、分断の為に樋口和彦を引き込める人格の持ち主。たとえば、陽気で活発で人懐っこい性格。
 昼間の感知で如月姫野が首謀者であると発覚した時、本当なら教室で気付くはずだったのを見逃した。たとえば、伊月が授業をサボってチセ達と合流したせいで。
 伊月が学校を無断欠席した事を、如月姫野も風邪であると言って一緒だと勘違いした。たとえば、逢わせたくなくて言ったブラフだとしたら。
 いくつもの可能性。
 暫定へと近づく可能性。
 唯一の矛盾は、CHAINに感知するはずの護符にどうして如月姫野が引っ掛かったか。
「ぁ、……ぁ」
 そうだ。とても簡単で、とても小さな疑問。
 ?伊月が襲われた?理由。
 CHAINの気配は移るという事実。
 思い出した。
 遅すぎるぐらいに。
 あの日。
 説明を受けたあの日。
 あまりにも何気なくて。
 途中で小夜も戻ってきてしまったから、訊けなかった疑問。
『忘れたの? ただの人間が易々と感染はしないわ。ある程度高い神力を保有する人間にのみCHAINの波動は反応する。イツキに気配が移ったのも、イツキの神力が他より高いってことと、長時間同じ場所に居たからって条件が、運悪く重なってしまっただけだから』
 あの言葉の、最大の落とし穴。
『ん? あ、でも、事実上は出来るのかしら……外側からの接触で残り香程度しか出来ないのなら、内側から接触すればいいって理屈だろうし』
 それはつまり、
『要は口に腕突っ込んで体の内側を触れば、はいどっから見ても本物に見える感染者の出来上がり、ってワケ』
 それはつまり、
 ?間接的な接触で内側に触れるのも、出来なくはない?んじゃないのか。という疑問。
「あぁ……あ、っ」
 もし、それが可能なら。
 していた事になる。
 そいつは、何度も何度も、如月姫野に気配を移し替えて、隠れ蓑にしていた事になる。
 ほぼ毎日毎日、公然と伊月の眼前でやってきた行動で。
 不自然でなく、むしろ微笑ましいとさえ思える行動で。
 たとえば、
 たとえばそれが、

 ?弁当の出来を見てもらう程度のことだったとしたら?。

 霞んだ遠くで、携帯が鳴っている。
 裂傷で血塗れになった手で、ほとんど無意識にポケットをまさぐって、取り出す。
「……グレー、テル?」
 声がした。
 どこかで聞いた事のある声。
『良かった……! イツキ、すぐに?調停者?と一緒に逃げて、さっきキサラギヒメノがそっちに――』
 こんな心境でなければ、噴き出して笑っていただろう。
 何を言っているんだ、こいつは。
 如月姫野なら、深手を負って倒れてるよ。死んでるかもしれないぐらいなんだ。
 違うんだよ。
 違う。
 本当の首謀者は。
「あ、……ああっ!」
 喉が干上がって、声が震える。
 その名前を出すのが怖かった。
 だって、だってあいつは。
 親友、だから

 ズドン!!

 そんな音がした。
 寝ぼけた意識を目覚まし時計が覚醒させるように、伊月の視界がクリアになる。
 あまりにも唐突だったから、それが異常であると理解するのに数秒遅れた。
 どうやら樋口和彦も理解が遅れていたようだ。
「……が、ぁ?」
 鮮血を口から流し、自分の胸に深々と貫通する巨大な剣を見下ろしていた。
 二人してぽかんと見ている最中で伊月の背後に気配が在った。
 伊月越しにその姿を見た樋口和彦は、ようやっと意味を察した。
 絶望に歪んだ表情。
「な、んで……?」
「約束を破ったからよ」
 振り向けなかった。
 振り向いたら終わりな気がした。
 恐らく、振り向くことで、最後のピースが嵌る気がした。
 もうとっくに答えは出ているのに。
 知らない声じゃないのに。
 笑ったり、怒ったり、時には泣いたりもした、多く聞いてきた声なのに。
「約、束……?」
 自分の胸元に、いっそ惚れ惚れするほど容赦の無い刺さり方をしている大剣を見ながら、涙ぐむ樋口和彦。だがその声は抑揚の無い、どこか怒っているように思える声で答えた。
「一度狂気に呑まれて忘れたみたいね。いいよ別に、それはしゃーないわ。でもね、忘れたって約束は約束でしょ。破ったら殺すとあたしは言い、あんたは分かったと答えた」
 メキィ! と音がした。
 樋口和彦は自分の体の異変に、理解は出来ていない。だがこのまま剣を刺したままにしていてはいけないと察して慌てて剣に手を掛ける。
 だが、ミシミシという音と共に突然に樋口和彦は全身をビクン! と跳ねさせ、苦しみ出す。
「そしてあんたは破った」
「待っ……! や、やめ……!」
「『あたしが決めた人間以外を殺すな、何より伊月と姫野を傷付けたら殺す』ってさ。……それをあんた、破ったんじゃない。あんたが昼間不良に絡まれて伊月に助けられた時にさ、姫野の顔をぶったでしょ? もしあの時あんたにもう利用価値が無かったなら速攻でぶっ殺すつもりだった。分かってる? そのぐらい。怒ってるわけよ。あたしはさぁ……」
 声に殺意が滲み出る。
 それに呼応して大剣に紅い筋の模様が浮かび上がり、同時に樋口和彦がさらに苦しみ出す。
 伊月はその樋口和彦が震えて苦しむその様を、ただ茫然と見ているしかなかった。
 信じたくなかった。
 これが、あいつのしている事だと。
「自分で言ったでしょ? 『偽善者は自分の事しか考えてない』って。?あの時あたしも居る時に?言ってた事を、あたしはあえて言わなかった」
 ミシミシという音と共に、徐々に樋口和彦の肌が青ざめてゆく。
 大剣を掴む腕が見る見るうちに細くなっていき、血管と骨が浮き彫りになってゆく。
「あたしを殺してまで自分が王になることしか考えてないあんたはどうなんだ、ってさ。あたしがあんたの考えてる事に気付いてないと思った? あんたはね、姫野と同じ隠れ蓑でも価値が違ったんだ。本当なら姫野を隠れ蓑に使うつもりなんてなかった。でもあんた一人じゃもっと速い段階で伊月に勘付かれると思った。伊月はそういう所に敏感だからね」
 どんどんと、
 どんどんと、
 次第に頬はこけ、顔は青を通り越して土色気になる。
 大剣を抜こうと必死に掴んでいた手は力を失い始める。
「もう分かった? あんたは保険でもなんでもない。ただの捨て駒だっただけだから」
 その一言と共に、樋口和彦は光を失った隻眼から一筋の涙を流し、
「ぉ……ぁ、…………………………―――――――」
 ぱたり、と。からからに干上がった腕が、地面に落ちた。
 伊月は、ずっと耳に当てていた携帯を取り落とす。
 誰かの声が電子音となってずっと響いていたのに、まるで聴こえなかった。
 もう、伊月に振り返る以外の選択肢は無かった。
 ギシギシと音を立てそうな程に力無く、首を横に。
 まるで、油を点し忘れて錆びた歯車のように、緩慢に。
 ゆっくりと、公園の出入り口に佇む影を、見る。
 声は出なかった。
 どうして、という言葉だけが、脳裏を駆け巡る。
 どうして、こうなったのか。
「……出来る事なら、伊月には知って欲しくなかった」
 俯き加減にそう言う彼女を、伊月は眼に焼き付け、
 何も、言えなかった。
 黒い外套のフードを外し、
 少しして伊月を見据える、

 藤堂千尋が、そこに居た。

 ――どこかで、ピースの嵌る音が、した。


 ◆



 たとえば。
 それはほんの仮定の話だった。
 きっとグレーテルも、くすりと笑って同意に頷いてくれるような、淡い稚拙な理想。
 俺にとっては、何よりも戦う為に薪をくべる大切な幻想。
 死を見て、
 血を見て、
 負を見て、
 いっそ心が壊れてしまいそうになる世界で、
 ただ一つの思想だけを貫いたんだ。
 底無しに間抜けで、だけど大切な想い。
 小夜がおはようと笑い、
 秋臣が軽い笑顔で迎え、
 如月がそっとはにかみ、
 氷室はそっぽを向いて、
 そして、
 そして――、

 気が付けば、明るく『おはよう』と笑ってくれるはずの親友と、俺は対峙していた。





 公園に延びる影は二つ。
 伊月はただ目の前に立つ姿を、愕然としたまま見つめていた。
 耳鳴りが酷い。頭の中で木霊する樋口和彦への命令文が、まだ反響している。
 足が震える。意識を断絶する術を失い、足を貫く傷が、手を裂く傷が、蘇る。
 それでも、ただ立ち尽くすしかなかった。
 ここで倒れて、夢で終わらせるには、あまりにも忘れ難い真実だった。
 同時にそれが、認め難い真実であることも、分かっていながら。
 制服の上から、闇色の外套を羽織っている千尋は、再び口を開いた。
「まずは……そうだね……うん、ごめん……このタイミングで姫野が外出するとは予想外だったんだよね」
「え……?」
 伊月は顔を上げる。千尋はそのまま続けた。
「本当に姫野を傷付けるつもりはなかったんよ。だからわざと痕跡が残るようにしてさ、大袈裟に通り魔事件って広めちゃえば姫野を家から出させない牽制になるって思ったんだけど……しくったわ、隠れ蓑にする為にCHAINの気配を少しずつ移したのまでは良かったんだけど……まさか姫野があんな感情を抱いてただなんて、さ……ちょっとビックリ」
 ぺろっと舌を出し、可愛げに苦笑いする千尋。
「――!」
 どくり、と。血が巡る感覚が背筋を凍らせた。
 千尋の言っている事が、理解出来ない。
 なんで、そんな顔をするんだ。
 いつものおどけた感じで。秋臣と一緒になってバカ話をするようなノリで。
 どうして、笑うんだ。
 ふざけたように!
「千尋ぉっ!!」
 気が付けば伊月は怒鳴っていた。
 だが、千尋の表情はすっと鎮まるだけ。
 闇の中で伊月の呼吸だけが聴こえる。
 それでも公園を支配する存在感は、圧倒的に千尋のものだった。
「あんま怒らない方がいいよ、伊月。あんた今、CHAINに感染しかかったんだからさ」
「俺、が……」
 鼓動の止まらない胸元を掴む伊月に、千尋は頷く。
「そ。みんな、みぃーんなCHAINの狂気に感染しかかってた。そいつは『傲慢』、あんたは『憤怒』、姫野は『嫉妬』、そしてあたしは……」
 そこではたと口を噤み、やがて顔を上げる。
「でもそれはどうでもいいよね。うん、分かってるよ。今伊月が怒鳴ったのは、そんな事を聞きたいからじゃないから、でしょ?」
「千、尋……」
「うん、そだよ。あたしは藤堂千尋。キャピキャピの十五歳♪」
「本当に、千尋なのかよ……っ」
「そう。あたしは藤堂千尋で間違いないよ。ただ――」
 すっと前に歩み出し、
 上げ直した顔は、
 ぞっとする程、無感情だった。
「――あんたの知ってる『千尋』じゃないことだけは確かだね」
「お、ま……っ」
 同じように駆け出し、胸倉を掴もうとした直後、千尋は合わせるように、トン! と跳躍をして伊月との距離をゼロにした。
 伊月が驚いて腕を出した瞬間、その手首を掴んで一気に身を捻転。
 手首を極められた状態で投げられた伊月は地面に背を打ち付けて眼を白黒させる。
「か、っは……!?」
 合気道の動きを滑らかにこなした千尋は、そのまま緩やかな足取りで突き立つ大剣を握る。
「樋口。あんたはどうでもよかったけどさ、さすがに伊月と姫野が感染しかかってるのは焦ったのよ。だからまんまと伊月の策に引っ掛かって、計画がバレたと思い知った時には冷や汗だった。けど、やっとこの状況にもってこれたのは、曲りなりにもあんたのおかげなのよねぇ」
 大剣に貫かれて、出来たてのミイラと化している哀しき亡骸を見下ろし、ふっと、少しだけ優しく微笑んだ。
「裏切る裏切られるの間柄なのは御互い様だからさ、憎んでくれていいよ。そんかわし、あたしもあんたを容赦無く利用したげるよ。樋口和彦……いんや、?枯渇玉座に座る栄華(ジャガンナート)?」
 ズッ、と細い腕には想像もつかない程の軽さで大剣を引き抜く。
 ぱさりと薄っぺらい音と共にへたれ込む屍に向け、両手で握り直した切っ先を狙い澄まし。
「バイバイ、樋口。あたしの目的の為に――その存在の総てを頂戴」
 一気に串刺しにした。
 ドゴンッ!! という凄まじい衝撃と共に、頭部を貫かれた亡骸を中心に紅い文様が浮かび上がる。
 直径にして五メートル近いそれは、二重円の合間にいくつもの象形文字を模り、そして内側に直線が奔る。
 浮かぶ芒星は、七。
(まず、い……!)
 上体を起き上がらせた伊月は、それが何を意味するか充分に知っていた。
 既に死んでいる女性の死体を諦め、千尋はよりにもよって樋口和彦を結界の柱の媒介にしようとしているのだ。
「やめてくれ千尋っ!!」
 煌々と妖しく煌く七芒星の中で、千尋はついと視線だけ伊月に送り、
 目もとだけ、ふっと笑うように細めた。
「千ひ――」
 直後、バァン!! と鼓膜を破りかねない音を発して一際大きく光がはじけ、やがて七芒星は淡い輝きだけを燈す。
 その内側に在った亡骸は紅い光の粒子に姿を変え、蛍のように宙空を舞い踊る。
「封印成功。全『支柱』の完成に伴い、他神術介入プロテクトレベルAAに昇格。予備『支柱』稼働開始」
 ぼんやりと踊る粒子を指先に遊ばせ、千尋は流暢に言葉を連ねる。
「総媒介対象、神凪町の一部の経絡と接続。漏洩する神力を補助装置に変換。必要漏洩度数値化……0.002パーセントっ!? そ、想定以上の数値だわ……この町は化け物かっての」
 それが示す意味を一人理解し、歓喜に鳥肌を立てる千尋。
 その眼は、完全に伊月を見ていなかった。
「必要神力の保有安置完了。オートロック解除、噴出による術式稼働限界値再設定……。オールグリーン。神術『天照の眠る地(イワト・レプリカ)』――保留封印」
 最後の一言を機に、七芒星はふっと光を失い、後には闇夜だけが残った。
 這いつくばったままの体勢の伊月はそれを見届けてしまうことを悔しげに見て、歯を食いしばる。
「千尋……神を顕現してまで、こんな人殺しを……!」
「あ、やっぱバレてたんだ」
 嘲笑うでもなく、純粋に苦笑して千尋は振り返る。
「今日という日を狙う為に、どれだけあたしが考えたか伊月には……まぁ賢いあんたなら言えば分かるっしょ? 最大の敵はあの氷室さんだからね」
「どういう事だ?」
「あの『あらゆる神術や神力に関与した事物事象を元の状態に戻す』神術が厄介だった。都市一つを操作出来る程の神術や神器でなきゃ破壊出来ないはずの『支柱』も、氷室さんの神術は確実に無効化出来てしまうから……せっかく作った『支柱』の一つでも破壊されて期日までに間に合わなければ総てが水の泡だもんよ。だから樋口を取り込む事にした。『あんたの望むことを実現させる為に力を貸す』ってね。その代わりに今夜の襲撃を命令したの。勝てなくてもいいからって言ったのに意地になる辺りが致命的だと思ったけど、彼は良くやったと思ってる……氷室さんが血式神術を使おうとしない理由が薄々分かっていたあたしはどうしても今夜……日が変わる前に血式神術を使わせてしまう他無かった」
 くるりと身を翻し、いつものあの陽気な笑顔で伊月を見る。
「これで総ての布石は揃った。日が変わって元の状態に戻っても、補助の『支柱』を作った今、『支柱』の一つを破壊しても結界は稼働し続ける。戦力的に危険因子だったあの法王庁の契約者も、もう一人の契約者とぶつかりあったことで間違い無く死んでるか、よくて体力を消耗しきってる。もうあたしの計画は完全に詰みに近づいてる」
「千尋……っ!」
「後はもう結界を発動させて、『一目連』を降ろせばあたしの勝ち」
 両手を広げて、踊るように空を仰ぐ千尋。
「十年! 十年も待ったのよ、伊月。伊月と出会う前から、もっともっと前からあたしはこれを待ち続けてた。やっとの事で、もう少しで、あたしの願いは叶うの……!」
 無邪気に笑う声が、伊月の耳朶を打つ。
 自分が、殺人鬼になったことなど、所詮はどうでもいいかのように振る舞う千尋。
 それを見るのが、どれほど辛いことなのかを。
「千尋ぉぉおおおおおおっ!!」
 弛緩していた全身に力を込め、痛みを押し殺して伊月は立ち上がる。
 千尋はこちらを見て、表情を消して見つめる。
「足、痛いっしょ。無理しない方がいいよ。肉体の矯正補強が出来るようになったってね、所詮はCHAINの力に後押しされて覚えた俄仕込み。あたしにゃ勝てんわけよ」
「うるせぇ! うるせぇ!! そんなことを聞きたいんじゃねぇだろ!!」
「……」
「どうしてなんだ! どうしてこんなことをした!! 俺が知りたいのはそこだっ!!」
 右足を震わせて、それでも奮起する伊月を見つめること数秒、千尋はすっと視線を逸らした。
「……取り戻したいモノがあんの。あたしの、一番大事なモノ」
「その為に人殺しをして……俺達を騙してか!!」
「……っ」
 伊月の言葉に、きっと睨みつけてくる千尋。
「伊月には悪い事をしたって自覚はあるよ。でもね、あたしはあたしの気持ちで、この世界に足を踏み入れた。騙してないと言えば嘘になるけどさ、他人に指図されて『はい分かりました』って訳にはもう……いかないのよ!」
「千尋……お前……」
 背後に突き立つ大剣の柄を肩越しに掴み、振り抜く。
 轟と風が唸り、巨大な西洋両刃大剣(ツヴァイハンダー)が黒塗りの全身を露にする。
「邪魔しないでよ、伊月。やるこたやったし、早く姫野を手当しないとさ」
 言葉には優しさなど何処にもない。酷く殺気立っていて、滲み出るプレッシャーが肌を焦がす。
「手当? ふざけんなよ……こうなると分かってて、どの口が言ってやがんだ!!」
 伊月はぐっと腕に力を込める。
 ぞわりと背筋を上る感覚が、拳に宿る。ブシッ! と切れた手から血が迸り、代わりに力が漲る。
 大剣を突き付けたまま、千尋は怒ったように一喝を放った。
「伊月っ!! あたしの前でこれ以上CHAINに呑まれようとしないで!!」
 まるで誰の心配をしてるのか分からない言い分。
 心配するくらいなら、
「なんで関わらせたりしたんだテメェはぁぁあああっ!!」
 駆ける伊月。
 踏み込んだ右足に激痛が奔っても、迷う事無く千尋に掴みかかりに行く。
 それがどれほどの重圧を伴う突進なのかは容易に分かった。
 それでも、千尋は小さく吐息を零すだけだった。
「……分かった」
 千尋は片手で大剣を振り回し、それを地面に突き立てて前へ進む。
「伊月が勝ったのがどれぐらい身の程知らずな三流能力者だったのか、教えたげるよ」
 外套から覗く両手、その白魚のような十本の指がぐねぐねと不規則に蠢く。
 間合いに入り、伊月が胸倉を掴もうと腕を伸ばした瞬間、
 ズ、ドン……!
 紫電一閃。
 倍近い速度で一歩を踏み込んだ千尋は体を真横に捻転。右手で伸びてきた手首を掴み、左手を伊月の頬に当てた。
 しかも当て身技ではない。本当に撫でるように、左手は優しく頬にそっと触れるだけ。
「――っ!」
 思わず硬直する伊月を至近距離で見遣る千尋は、薄く微笑んで小首を傾げる。
「まだ、やる?」
 穏やかに言う千尋に、伊月は歯軋りして右足を浮かし、脇腹に蹴りを入れる。今の一合で完全に千尋を組み押さえる目的を忘れてしまっていた。
 だが千尋はその蹴りに合わせるように背を向けて上体を屈ませる。空振りする蹴りの、足の甲に再びそっと手を当てて受け流す。体勢を崩して後ろへ倒れそうになるが、ずっと掴んだままの手首を引いて止める千尋。
「まだ、やる?」
 同じ質問。その微笑は完璧に、余裕を見せつける態度だった。
「ち――っくしょう……っ!」
 掴む手を振り払い、今度は体ごとタックルをかまそうと低い体勢に移った伊月。
 それも読まれていた。頭の上に手を置かれ、引き込むように体重を乗せられる。勢いを殺さずに?いなされた?せいで、何の抵抗も無く伊月の顔が地面に押し付けられる。
「が……っ!」
 すぐに両手を地面に突いて立ち上がろうとするが、膝を突いて頭を押さえつけている千尋の腕力が遥かに伊月を凌駕する。
「また、やる?」
 再三の質問。
 ギリギリと地面に顔を押し付けられたままの伊月は、地面の砂を握りしめて千尋の眼を狙う。
 当然、目の前でそれを見ている千尋が虚を衝かれるわけがない。手を離してひょいと範囲外に飛び退く。
 伊月はすぐに立ち上がるが、ガクンと視界が下に落ちた。
「な……っ!?」
 膝を突いて、一拍置いてすぐに立ち上がろうとする。しかし膝はガクガクと震え、力が上手く入らない。
 呆然と自分の足を見下ろす伊月に、千尋は愛嬌のある笑みを向けた。
「経絡を持つ者と持たない者の違い、知らないでしょ。経絡は言っちゃえば第二の血管。神力によって因果律を捻じ曲げて対象とした存在を加速化するエネルギーは、尽きれば肉体にも疲弊という悪影響を与えちゃうわけよ。例外を除けばスッカラカンになったら死ぬってこたないけど、戦闘中に神力が底を尽きるってのは致命的なのよね」
 ショートカットの短い黒髪を掻き上げ、千尋はつらつらと述べる。
「でも不思議なもんよね。CHAINに半分干渉しかかって、神力の量はぐんと上がった伊月……それも肉体の矯正補強が出来る程にまで……にも関わらず、たかが木刀の物理硬化と肉体向上を一回ずつやっただけの伊月が、そんなに疲れてる理由は何でしょう」
「……?」
 千尋は遊び心のままに口元に指を一本立てる。
「ヒント一、氷室さんにとってあたしの戦闘スタイルは相性が悪い、何故なら神力に関与した事物事象を破壊出来ても、供給自体を止める事は困難だから」
 次に、二本目の指を立て、
「ヒント二、あたし……?さっきからあんたに何回触ってんのか?」
 伊月の心臓が爆ぜるように、凍りつく。
「まさか……!」

 ニタァ……。
 今まで穏やかに笑っていた千尋の口元が、裂ける程に歪んで哂った。

「?あらゆる『流動するエネルギー』を触れる事で吸い取り奪う?……あたしの能力は、ドレイン効果があんのよ」
 脳裏に焼きついた記憶がフラッシュバックする。
 大剣に貫かれた樋口和彦が、見る間に干からびて息絶える姿を。
「あたし自身を含む、あたしの神力が通ったモノは触れる総てから流れる力を持つエネルギーを吸う。血液然り、水分然り、栄養然り、酸素然り……そして、神力までもをねぇ」
 首をカクン、カクン、と揺らめかせ、人形のように狂った嘲笑を浮かべる千尋。
 伊月は震えと共に力の抜け出る感覚を覚え、焦った。
「触れる、という白兵戦に基本的な行為、プラス神力奪取を持つ神術。シンプル(単純)にしてテリブル(驚愕)。そりゃ氷室さんじゃ勝てないもんよ……昨日だの去年だの契約したアルカナの犬畜生と違って年期が違うのよ。こちとら?十年も狂ってきた?んだからさ」
 右手をすっと上げ、
「それに……今のあたしにゃそれに拍車を掛ける絶大な力が在るしね」
 ブゥゥン! と羽音に似た不快な音色を奏でて姿を現したのは、一冊の分厚い本。
 装丁は暗いブラウン。タイトルが綴られておらず、代わりに四方から細い鎖が巻きつき錠によって固定し、開けない状態になっている。その本を片手に収め、千尋の眼が更に闇に曇る。
 それを見た伊月は、瞬時に理解した。
「魔導、書……っ!」
「レプリカだよ。クソつまんない内容だった覚えがあるからこの結界を創る為だけの術式構築に書き換えたけどね……おかげで頭がおかしくなりそう……あと向こう数年も一般人の振りなんか出来る自信ないね」
 クスクス、
 クスクス、
 笑い声が聞こえる。
 不気味に。
 不可解に。
 不条理に。
 ようやっと足の震えが馴染んだ伊月は、今度こそ立ち上がろうとする。
 だが、そこで気付いてしまった。
「――ぁ、」
 千尋の双眸はゆっくりと伊月を見た。
「気付いたんだ。もういいっしょ? あんたとあたしの間には、?それ?ぐらいの差が在るってさ」
 伊月は踏ん張った自分の足を見下ろし、愕然とする。
 あれほど傷の深かった右足から、血が流れてない。
 血を吸われた。
 普通ならそう思うだろう。
 だが伊月は理解していた。
 していたからこそ、絶望していた。
「矯正、補強……」
 右足を縦に引き裂く傷痕は、完全に消えた訳ではないにしろ、殆ど血が固まって既に痛みがほとんどない。
 千尋が傷痕に矯正補強を掛けて、再生速度を速めたのだ。
 あの、蹴りを受け流した一瞬に。
 他人の、肉体に神力を流して。
「神力と流動エネルギーの力学的な応用よ。普通、自分の肉体にしか矯正補強は出来ないけど、稀に自分の神力を他者に移して治癒や強化を施せる逆流型の神力使いが居るの。あたしのは他者から自分へという流れしか出来ないのを、この計画の為に逆流出来るよう魔導書を書き換えて構築を創り直した。まぁ早い話が、秘密の道具が千尋ちゃんのパワーをさらにアップさせたって事、理解オッケー?」
 思考が停止する。
 出来るか?
 チセやグレーテルに、同じような芸当が出来るのか?
 それを、いくら素人同然とはいえ、伊月にやってのけた千尋は、
「言ったでしょ。『年期が違う』ってさ」
 伊月はそこで、初めて正常に頭が働く実感を覚えた。
 勝てない。
 千尋には勝てない。
 能力によって神力を奪われてヘロヘロになってる伊月一人で、勝てる訳がないんだ。
 そもそも、千尋は背に突き立てている大剣にすら指一本触れていない。
 遊ばれたんだ。
 たったのそれだけしか、させて貰えていないんだ。
「……畜生……!」
 伊月は砂利ごと地面を引っ掻くように握り締め、悔しげに顔を歪ませる。
 それを見る千尋の顔には、歪んだ笑みは欠片もない。神妙に見つめたまま、前に出る。
 近い。あまりにも近い。千尋は腕を伸ばせば届く距離まで寄り、膝に手を突いて顔を近づける。
 まるで、この距離から唐突に手を伸ばされても余裕で対処出来ると言いたげに。
「ね、伊月。お願いだからこれ以上攻撃してこないで。言っとくけどさ、伊月を傷つけたくないってのは嘘なんかじゃないよ。それに、頭に昇った血が引いたみたいだけど、早く姫野の傷も治さなくちゃいけない」
 子供をあやすように、千尋は優しい口調で言う。
 だが伊月が唇を噛んで、口の端から血を流す理由は、一つしかなかった。
「なんでだ……なんでお前なんだよっ! 千尋!!」
「伊月……」
「傷を治しゃいいって話じゃねぇだろ!! 親友だったんだろ!? いつか如月に負けない料理を作るって、言ってたじゃねぇか! あれは嘘だったってのかよ!!」
 あまりに無力すぎて、攻撃なんて出来やしない。
 いや、力量の問題じゃない。
 親友に。
 三年間も、悪さをしたり、時には衝突だってあったり、でも肩を組んで笑い合った。
 バカみたいに、居心地が良かった。
 そんな存在が、自分勝手なその目的とやらの為に、如月を傷付ける結末まで追い込んだのが、悔しくて堪らなかった。
 肩を震わせ、涙を流す事だけは耐える伊月に、千尋は少しだけ、俯いて伊月が見てないのをいいことに、少しだけ、苦い顔をした。
 それから、そっと表情を無に戻し、しかし声だけは出来る限り優しく、言った。
「いいよ、伊月。あたしは悪い女だ。人として最低だ。あんたの言葉を借りるなら、あたしはあたし自身の理想の為に、あんたにとっての悪でも良いよ」
「――っ!」
 顔を上げる伊月に、千尋はそっと微笑んだ。
 今まで見たことも無い、大人びた、はにかんだような笑み。
「でもね、それでもいいから、あたしには叶えたいモノが在る。取り戻したいモノが在る」
 どこまでも、伊月を突き放す、笑顔。
「だから、ね。伊月はあたしを呪ってくれていいの。憎んでくれていいの。そうしてあたしを拒絶して、日常で生きて」
「……何なんだ……お前の、取り戻したいモノってのは……」
「それは、――!」
 言いかけた千尋の視線が伊月の向こうに滑る。千尋は覗き込むような体勢を戻して眼を眇めた。
「イツキ……!!」
 呼び掛けられた伊月が弾かれるように振り返る。
 公園の出入り口の鉄柵に体を預けるようにし、グレーテルが居た。
 魔女風体の全身はボロボロで、手で押さえている腹部には紅い染みが広がっている。
 あの尖がりの付いた鍔広帽子も無く、ぼさぼさになった灰銀の髪が汗ばんだ頬に張り付いている。
「グレーテル……」
 伊月が呼びかけると、グレーテルは伊月にウィンクをし、すぐに視線を伊月の後ろに立つ者へ変えた。
「あーらら……その様子だと例の契約者とドンパチやらかしたってトコ? 法王庁の犬もなかなかやるじゃん。あのニット帽も危険因子の有力候補だったんだよねぇ〜……」
 伊月の時と違い、嘲り半分の声音で言う千尋の顔を見たグレーテルも、瞠目した。
「これは……!」
 すぐさまグレーテルは周囲の状況を見回す。巡る視界に倒れ伏す如月姫野を捉え、困惑の表情を向けた。
 千尋は嘆息し、疲れたような表情で肩を竦める。
「悪いけど、いちいち同じ説明すんのもかったるいし、いい加減姫野の手当しないとマジで危ないからさ。そろそろ御暇するよ」
 そう言っててくてくと、マイペースな足取りで姫野の元まで歩きしゃがみ込むと、傷に触れないように注意しながら担ぎあげた。
 グレーテルの視界に、もう一方の手に持つ本が入った瞬間、グレーテルの表情は急速に敵意に染まる。
「アンタが……!!」
 言うが早いか、既に現出していた神器から剣を引き抜いて切っ先を千尋に向ける。
 だが、合間に飛び出して割って入ったのは伊月だった。
「よせ……やめろグレーテル!」
「な……っ」
 突然の伊月の行動に切っ先が揺らめき、標的を見失う細剣。
「何やってんの伊月っ……邪魔よ、退きなさい!!」
 当然の怒りに表情が曇るが、顔を上げてグレーテルを見る伊月。
「待ってくれ……俺の、俺の親友なんだよっ! グレーテル!!」
「伊月、何を……っ!」
 少し目を瞬かせていた千尋が、ふっと伊月の背を苦笑気味に見ながら魔導書をしまい、肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、伊月」
 千尋の言った意味とは違う受け取り方をした伊月が振り返るが、その表情にも優しい微笑みで返す。
 それからグレーテルを見て、伊月とは全く違う嘲笑を向ける。
「出来るわけないよね、法王庁の犬。今のあんたじゃあたしにゃ勝てない。てゆーかさ、その剣引っ込めてくんない? まさか伊月に手ぇ出すとは思えないけどさ、もし伊月を傷付けたら……今すぐ殺すよ?」
 伊月からは見えない位置から、恐ろしいまでの殺意を込めた眼で睨む千尋。
 グレーテルは充分に理解しているらしく、苦虫を噛んだような顔で押し黙る。
 その反応を面白がるように、千尋が高らかに笑い声を上げた。
「十年よ? 十年も待ったんだもんよ。この計画を練る為にどれだけ脳の血管ブチ切れそうになりながら考えたと思ってんの?」
 体の向きを変えず、後ろに下がりながら千尋は笑いをやめない。
「これで……これでようやっと総ての布石が揃った。予備を含めこれで人柱を使った七つの『支柱』が完成し、法王庁の遣いは運悪くニット帽との戦闘でろくすっぽ戦えない状態。唯一『支柱』を破壊出来る術を持つ氷室さんは『支柱』以外のモノに血式神術を使ってしまい、明日中に結界を崩す事は不可能になった。もう、誰もあたしを止める事は出来ない」
 一歩一歩下がりながら、千尋は立ち尽くす伊月、腕の中で浅い呼吸を繰り返している姫野と視線を変えながら、眉をひそめた。
「結果として、色々な誤算が在ったけど……もう伊月も姫野も傷付ける必要は無くなった」
 そしてもう一度グレーテルを見て、狂われた眼でせせら笑う。
「もう誰にも止められない。あたしは……やっと取り戻すの。ようやく、あたしの理想が完遂される……」
 虚ろな呟きと共に、大剣が淡い粒子となって闇に消える。
 ぐったりとしている如月姫野を抱え直し、さらに後ろへ下がる。
 グレーテルは細剣を今度こそ千尋へ向けるが、伊月が間にいるせいで何も出来ない。
「イツキ……アンタ自分が何してるか分かってるの!? アンタの後ろに居るのは敵よ? 不安定な神を顕現させてこの町に危険を晒そうとしている張本人なのよ!? 庇うの?」
 グレーテルに睨まれた伊月は言葉に詰まるが、それでも広げた両手は下ろそうとしない。
「イツキぃっ!!」
 業を煮やしたグレーテルが強い語調で促すが、伊月は反射的に首を横に振った。
「駄目だグレーテル! 敵って……千尋だぞ!? 俺の、俺の親友なんだぞ!?」
「親友なら人殺しでも良いってゆうの!? それがアンタの悪か!!」
 正論だった。
 伊月の表情が悲壮に染まる。
 それを見かねたのは、既に距離を充分に取った千尋だった。正論だろうが伊月を責めるグレーテルに苛立たしげに睨む。
「伊月のせいにしないでよ。あんたとあたしは友達でもなんでもないじゃん、よくそんな言葉が出せるね。伊月の立場になってからモノ言えスカタン」
「何ですって……!?」
「自分で言ったんじゃん。敵はあたしだよ、伊月じゃない。そもそも伊月が何しようがあんたが責められた立場なわけ? 伊月が居なきゃあたしの正体突き止めることも出来なかったくせに。樋口に殺されてたくせに。あんたなんかがあたしに勝てると思ってんの!? ほら言ってみなさいよ!! あたしからすりゃ伊月の方があんたより何倍も恐いわよ!! 何も出来ず、挙句あのニット帽と殺し合いして、傷作って、神力減らして、あたしに勝てると思ってるわけ!? なんか言ってみろ!! あははっ、あっははははははははは!!」
 金切り声に近い爆笑が轟く。
 何も言いようがないグレーテルは唇を噛む。
 その通りだ。グレーテルは今、立ってるだけでもいっぱいいっぱいの状態。
 おまけにチセは何故か何処にも見当たらない始末。血式神術を使う機会を狙っていた、と千尋が口にする辺り、恐らくグレーテルと同じ能力発動型の制約の持ち主なのだろう。
「千尋……っ?」
 伊月が動揺した顔で振り返る。
 はっと我に返った千尋は、顔を手で覆い隠し、指の隙間からグレーテルを見据えた。
「……あんまイラつかせる事言わないで。伊月の前ではこれ以上狂いたくない」
 そう言って、千尋はもうグレーテルには目もくれなくした。
 代わりに伊月と視線を合わせ、にっこりと微笑む。
「大丈夫、もう庇わなくていいよ。損な役回りばっかさせたね、伊月」
 空いている腕を水平に上げる千尋。
 その動作に呼応するように、足下に人一人入れる大きさの紅い六芒星が燈る。
 グレーテルが声を上げる前に、千尋は伊月に言葉を残した。
「伊月……ごめん」
 そして腕を一閃。虚空に奔らせた瞬間に六芒星が煌きを強く放ち、伊月とグレーテルの目を眩ませる。
 それはほんの数秒。一気に濃厚な闇が訪れ、先に目を開けたグレーテルがドイツ語で何かを叫んだ。
 伊月は、目を開ける。
 地面に焦げた六芒星の痕だけが、寂しげに風に晒されて消えてゆく。
 ゆっくりと、回る思考。
 結論を出す事もままならず、気が付けば両膝を突いてへたり込む。
 やがて空を覆う膜が弾け飛ぶ。
 そこには異常の何一つない公園が広がっていた。
 傷痕は消え去り、濃厚な血だまりだけが広がっていた。
 親友の姿が消え、跡形もなく想いを粉砕された伊月に、
 「……何で」
 誰も答えようのない質問だけが、口から出る。
 たったの、それだけしか、なかった。





 第六章・終

 
2008-08-08 04:01:59公開 / 作者:祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
長いので、分割することにしました。
折り返しってことで、長い文章ながら読んで頂けると嬉しく、読んで頂いてる方はこれからも宜しくお願いします。
ええ、まだ折り返しですとも……。

追記:
文字数の間隔と六章終了のタイミングを誤ったため、一部修正させて頂きました。申し訳ございません。
この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして。祠堂 崇様。上野文と申します。
 テンポが良いので長さは気にならなかったのですが、少し臨場感に疑問符を感じる場面がありました。使い捨てるようにシーンを切ってゆくのは、ちょっと惜しいかなって。あと、「天目一個」×でなくて、「天目一箇」○です。元伝承を知っていても「なぜ二次創作?」と一瞬考えてしまいましたから。
 興味深かったです。では。
2008-05-02 22:25:45【☆☆☆☆☆】上野文
祠堂です。

>>上野文さん
レス有難う御座います。
やっぱり、キャラが浮いて背景台無しの癖は未だ治ってないようです。ご指摘有難う御座います。
それと、『天目一箇』の漢字間違い、本当にすみません。普通に間違えてました。調べてまで書いたのに……(泣)
直しておきます。これからも宜しくお願いします。
2008-05-08 16:31:13【☆☆☆☆☆】祠堂 崇
続きを読ませていただきました。生の再生をもできる天目一箇の能力という発想は面白いなぁ。キリスト教最大の異端であるグノーシス的考えからすれば「現世に再生させられる=上層階へ行けない=偽りの世界での苦行」となって一種の否定的な発想になるけど、現実面では「再生」を求める人間は多いだろうから天目一箇の存在を渇望する人が多いでしょうね。そんな魅力あるネタ(天目一箇)を上手く使っているなぁと感心しています。
折り返しになっても作品のスピード感が衰えていないので読みやすくて引き込まれます。臨場感に関しては、短文を連続させることで緊張感を作り上げていますね。ただ、客観的に俯瞰するような部分があると緊張感と対比ができ、より臨場感が増すのではないかと思います。では、次回更新を期待しています。
2008-05-10 08:51:53【☆☆☆☆☆】甘木
結構遅れてしまいました、祠堂です。
PCクラッシュからようやく新しいのを買えましたので、ちょくちょく更新速度は上がる……やも?

>>甘木さん
レスありがとうございます。
神や魔術の話に関しては、そういった宗教上の問題なんかを特に調べてみると結構面白い事が分かったりするのが楽しいです。
失くしてしまった物というのは、何にしろ取り戻したいと願うものですよね。自分もそうです。後悔の塊です。
小説を描く際のモットーが『サクっとやろう』になりつつあるので、このままのペースでいきながら合間にちょいまったりやしんみりを挟めたら良いかな、とか思ってます。
相変わらず周囲の状況無視かよ的な癖が直らず、稚拙な文章だとは思いますが、読んで頂いて感謝しております。ありがとうございました。
2008-05-22 16:59:06【☆☆☆☆☆】祠堂 崇
お久しぶりです。気まぐれ猫です。
さてここが折り返し地点という事で、物語りは佳境に入ってきたと考えていいのかな?それともまだここからどんでん返しがあるのかな?などと考えつつ楽しく読ませていただきました。
文章構成に関しては私としては何もいうことはありません。上手く書けていると思います。それとおこがましいですが、いくつか修正をしたいと思います。
『リーチの差に恐怖感を覚えた樋口和彦は状態を仰け反らせる。』は『リーチの差に恐怖を覚えた樋口和彦は上体を仰け反らせる』、『包丁を広い、突っ込んでくる狂気に』は『包丁を拾い、突っ込んでくる狂気に』だと思われます。
こんな細かい指摘しかできない自分が情けない(泣)まあ、そんな個人的な感情はどこか脇にでも置いて、次回更新を期待しています。頑張ってください。
2008-05-24 17:25:21【☆☆☆☆☆】気まぐれ猫
煙草の吸い過ぎで最近普通に心臓が痛い祠堂です。
『なら止めろよ』なんて返答はキコエマセン!!

>>気まぐれ猫さん
御免なさい。本っ当に御免なさい。謝ることしか出来ません、誤字は(泣)。
急ピッチで直させて頂きます。ええ、それはもう……。
書いてから一度読み直してるのに誤字に気付かないって何だ自分……(汗)。
御感想と御指摘、ありがとうございます。
2008-06-01 19:09:26【☆☆☆☆☆】祠堂 崇
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。