『砂色の記憶 (本編) (番外編)』作者:公崎 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
「愛さなくたって生きていける」やつれた天使はそう言っていた。愛情を捨て、友情を忘れ、いつしか心を雁字搦めに縛り付けて、「それでも充分生きていける」やつれた天使はそう言っていた。
全角31069.5文字
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【本編】

 点滅する信号が、今やっと赤に変わった。
 夕闇に包まれた交差点は、これでもう全部が真っ赤。
 あまりのむなしさに、声も出てこない。

 錆びた鉄の臭い。
 じっとりと重たい雨の臭い。
 薄暗く立ち上る排気ガスの臭い――。

 そんなもの全部に包まれて、今日午後八時六分、
 妹が死んだ。



 校門をくぐって見上げると、見慣れたいつもの学校だった。
 にぎやかな学生寮。緑の多い中庭。見た目の少し古くなった校舎。
「…………」
 雨の降りしきる朝、少年、黒崎翔は、普段となんら変わらない一瞬一瞬に、わずかな安堵を覚えていた。ふうっとため息を吐いて、肩を落とす。昨夜の出来事を始めからなぞるように思い浮かべ、途中で気分が悪くなってやめた。“あんなもの”、もう二度と見たくない。

――全部、夢だったんだ。

 無理にでも自分を言い聞かせようと、彼は硬く目を閉じた。
「おっはよ」
 寮の入り口からひょっこりと顔を覗かせた、矢羽啓作。傘の下、雨に少し濡れた茶髪に手ぐしを通す彼は、翔の通う男子高校の学生寮の同室である。
「おはよ」
「嫌に疲れた顔してるね」
「――そう? 別になんともないよ」
 怪訝そうな顔をした啓作だが、それ以上彼を問い詰めるようなつまらない真似はしなかった。その代わりに、昨夜のことを尋ねる。
「昨日帰ってたんだって? 夜になっても部屋に戻ってこないから心配した」
 翔はぎくりとした様子で顔を強張らせ、数秒後、反射的に止めてしまった息をゆっくりと吐き出した。
 月曜日に寮に来て、金曜日に一旦各自の家に戻るのがこの学校の寮制度だ。木曜日の昨日は当たり前のように寮で一夜を明かすはずだった翔が、何故か家に戻ってしまったのだ。
「あれ、ごめん、言ってなかったっけ?」
「いいんだけどさ。家族、何かあったの?」
 喋り始めたそのときから、翔は次にされるだろう質問とその適切な答えを、頭の中で何通りも考えていた。不自然な会話をしたら、頭のいい彼にはすぐに疑われてしまう。そして幸いにもそのうちの一通りに当たる質問をされ、極自然に答える。
「あぁ……うん、食事してきた」
 食事、と啓作は目を丸くした。
「したら、なぁんで俺を誘ってくれないの」
 さも残念そうに訴える啓作の表情に、疑っている様子は無い。よかった、と思う。翔は少しばかりの苦笑を浮かべて、
「ごめん」
 黒崎翔を演じきった。
「……あ、そうだ。君の班の科学レポート」
 思い出したように、翔はかばんの中から一枚のプリントを出した。それを見た啓作が、打って変わって申し訳無さそうな顔を浮かべる。
 つまり、啓作が科学の授業で行った実験結果をまとめ忘れたのを、彼が完璧に仕上げて持ってきたのだ。しかし彼も単なるお人よしではない、要は見返りである。プリントを丁寧に両手で受け取った啓作も、それを薄々感じていた。
「あは、ええと……おいくらで?」
 予想通りの好転に、翔は唇の端を上げて笑う。
「今日一日、“君んち”に泊めて」
「……ふうん」
 何やら察したらしい啓作が、傘を軽く肩に乗せてにやりと笑った。翔はその様子に気づき、彼を軽くにらんだ。
「構わないでしょ? 部屋数だけは不気味なくらいあるんだから」
 悟られないように、不自然だと分かっていながらも返事を催促した。しばらく間をおいた啓作が、にこやかに一言告げる。
「いいよ、リトル」
「!」
 思いもしない返事に、翔は一瞬絶句する。
「俺の予想が外れてなければ、朝から随分リトルなんだね、お前?」
 リトルというのは啓作がつけたあだ名で、“何かあるなら何とかしなさい”というニュアンスが含まれていることを、啓作はもちろん、翔もはっきりと理解していた。
「らしくないねぇ、翔? ……ま、たまにはいーんでないの、そーいうのも?」
「…………」
 にやにやと笑っている啓作の視線を遮るように、翔は傘を下げた。


 校門を入ってすぐのところに礼拝堂があり、四階建ての校舎はその左奥に建つ。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
 翔がわざわざ傘を上げて挨拶をしたのは、本校東高校の校長。今年で丁度、創立十年を迎えるこの学校の、初代校長である。
「おはよう、矢羽」
「うん、おはよ……天候崩れちゃったねぇ」
「え――あぁ、そうだね……」
 素行の良くない啓作がとやかく言われないのには、理由があった。彼はいわゆる天才、つまり“できるのにやらない”という奴だからである。成績はその気になれば翔をも上回るほどなので、特待生として学校に通学しているのだ。つまり、学校側としては、特待生として入学させた生徒を簡単に退学にはさせたくないし、そう簡単にはできないのである。
 よく見れば、翔のしっかりとした制服姿と比べて、啓作はワイシャツの襟をだいぶ開けているし、ピアスも開いていて、髪の毛も染めている。“職権乱用”ならぬ“特権乱用”、学校内での自分の位置を充分に理解したうえで、いつにおいてもそれを有効活用している、頭の良い啓作がいた。
「何だろ、あれ。すごい楽しそう」
 見ると、礼拝堂の中で大勢の生徒が口々に何かをわめいている。礼拝堂の前の鏡で襟を正す翔が、鏡に目を向けたまま言葉を漏らした。
「まるで誰かが死んだみたいな騒ぎだね」
「……ふうん」
 先刻と同じように、啓作は再び翔を見やった。
 そして、翔の予想は見事に的中していた。礼拝堂に座って、あるいは立って声高に話す生徒達の興奮の原因は、八割がたが一つのニュースだった。二人が入ってきても、その勢いは止まらない。啓作が面白そうに笑って、意味深長に呟いた。
「すごいね、委員長。本当に誰かが死んだ騒ぎじゃない」
 笑っている啓作を、呆れ半分軽蔑するように見やった翔は、無言で礼拝堂中央に置かれた席に歩いていき、その机をかばんで軽く叩いた。しん、と辺りが静まり返り、視線は全て彼の元に集まった。
「あ……」
「お、おはよう黒崎」
 先ほど啓作が言ったように、クラス委員を務める翔。人望は厚く、彼が一言言えば、きちんと皆が言うことを聞く。クラスだけでなく、学年をも治める力があった。
「何の騒ぎ?」
 少し苛立っている翔が口調を強めて尋ねると、ずり落ちた眼鏡を直しながら、一人の男子生徒が皆を押しのけるようにして、翔のもとへ駆け出てきた。
「池、それお前、俺のだよ!」
 本当の彼の眼鏡らしいものを持つ生徒が、慌てて彼を呼び戻す。
 池こと池恭介は数学が得意中の得意で、特に計算力や考察力はずば抜けたトップ成績を誇っている。何か不都合や意見があったとき、真っ先に翔に刃向かうのも、いつも彼だった。
「先輩が死んだんだよ! 昨日の夜、死んでるのが見つかったの!」
「先輩って? ……もう少し落ち着いて喋って、君らしくもない」
 池が漸くたどり着いた自分の眼鏡をかけなおして、荒々しい口調でもう一度言う。
「三年の、和泉先輩! 黒崎も知ってるだろ、生徒会会計の王子だよ!」
「!!」
 翔は一瞬、表情を凍りつかせた。
 池が言った和泉という人物は、翔の幼友達だった。小学生の頃からずっと仲がよく、話も合うので、翔はずっと彼を慕ってきたのだ。生徒会会計の王子というのは、彼の容姿を評価して作られたあだ名であり、すぐ近くの女子高校の生徒で彼を好いていた者も大勢いた。
 寄りによって今日彼が死ぬなんて、想像する余地も無かった。
「夜中、盗難にあった大型トラックの運転席から変死体が――、黒崎?」
 池が翔の肩に触れようとして、それを翔が軽く払った。
「なんでもないよ」
 そう言った翔の顔は、少し青ざめていた。
 礼拝堂に校長が入ってきて、ほぼ全員が総立ちでクラス委員を囲んでいるという事態に驚き、あの話だな、と悟る。小さなため息をつき、よく通る声を響かせた。
「席に座りなさい、諸君」
 彼らはいそいそと自分の席に着いた。教師席の近くにあるクラス委員席へ向かうその中でぱったり、啓作と目があう。翔はその目を、すっと横にそらした。
 生徒たちが席に着き、教師がその周りを囲むように座ったのを確認すると、校長はマイクに向かって低い声でゆっくりと告げた。
「皆に、悲しい知らせがあります」
「やっぱり」
 誰かが小さな声で言って、
「しっ!」
「しぃっ!」
 誰かが小さな声で叱った。
「この学校の第三学年生徒、和泉俊が亡くなりました。本当に残念です。彼は東高校の生徒会会計として……日々、勉強にも部活動にも励み――」
 校長が話している間中、翔は顔の前で指を組んで、静かに目を伏せていた。その様子をじっと見ていた啓作の顔にも、自然と同情が浮かぶ。
「うっ……う……」
 和泉に好意を寄せていたらしい生徒が、顔を覆って泣いている。
 絶え間なく降る雨が、少し強くなった気がした。


 礼拝が終わり、生徒達がそれぞれの教室に向かう。
「おい、聞けよ! 体育館雨漏りだから、器械体操中止だって!」
「っしゃ、ラッキー!」
「じゃ、食堂行こうぜ。ジュース買って、乾杯!」
「やりーっ!」
 案外通常通りの生徒の声を遠くに聞きながら、翔が礼拝堂の裏でぼんやりと雨を眺めていた。クラスがある校舎が左奥に見えて、その奥にいくつかの山々が連なり、地平線が鈍く光っている。ちょっといい景色、である。
「…………」
 その様子を、また同じように翔の見えない角度から眺めている啓作がいた。
 互いの存在には気づいていない。ただなんとなく、授業開始までの長い二十分間が過ぎ去るのを待っていた。
「…………」
 色々なことが、子どもがひっくり返したおもちゃ箱のように混ざり合い、頭の中でもやもやとした一つの塊になっていた。それを“どうして”という感情が雁字搦めに縛り付けていて、一向に解けない。
 足元の小さな石を蹴ったその音で翔の存在に気づいた啓作が、おどけたように悲しみを交えた声で、とうとう呟いた。
「隠しごと好きね、リトル」
 思いもしなかった啓作の声に少し驚いたように、しかし眺めている景色からは目を離さず、翔は頭を垂れて小さく笑う。
「そうだね……やっぱり、君が言うようにボク“も”リトルかも」
 言われた啓作が押し黙った。強調された“も”に気まずさを覚えたのだ。同時に自分がやたら翔に構っていることに気づき、なんとも馬鹿らしくなった。
「妹が昨日……死んだんだよ」
「え?」
 啓作が、だらしなく壁に寄りかかっていた背中を浮かした。あまりに突然、しかも内容が内容だったので、最初は聞き間違いでもしたのかと思った。――死んだ?
「ボクもよく分かんないんだ。信号渡ろうとしたらトラックが突っ込んできて、走ったんだけど間に合わなかった。でも母さんが今朝、全然覚えてないから」
 重いであろう口を開く翔の横に歩み寄る。啓作は驚いて、目を丸くしていた。
「しかも、妹がいたことすらなかったことになってるし……もう、訳分かんないさ」
 雨の向こうの地平線を眺めるのをやめて、翔は足元のタイルを蹴った。状況が混同している中、啓作はそれでも一息入れて、せめてものフォローを試みる。
「だってさ」
 一度言葉を切って、大きな話に首を突っ込むことの許可を求めた。翔が黙認する。
「妹って、友里ちゃんだろ? 俺、知ってるよ?」
 翔が即座に啓作の目を捉えた。もはや脳内で否定されかけていた友里の存在が、今確かに肯定された。じっと啓作を見詰めて、かすかに震える声で言う。
「……分かる、のか?」
「分かるも何も、だって、いただろ?」
 翔は目を見開いた。啓作だけは、覚えている。いや、母が忘れてしまっていると言ったほうが適切なのかもしれない。涙が出そうになった。
「大丈夫……」
 自分よりも少し背の低い翔の頭を、片手で包み込むようにして自分の肩に引き寄せた。混乱しているのだろうか、翔は何も抵抗しない。
 自分が間違ったことを言っていないかどうか確かめるように、啓作は翔の耳元で、もう一度繰り返した。
「大丈夫。全部、分かる」
「……うん」
 安心したのか、していないのか、おそらくは双方の入り混じった気分で、翔はゆっくりと目を閉じた。
 今時珍しい本物の釣り鐘が、校舎の屋上で鳴った。
「始業だ。行こう」
「受けられるのか?」
 受けるな、とは言えなかった。今の翔に、何かを強制させるようなことはタブーだと直感したからだ。翔は少し笑って、うなずいた。
「平気。先に行ってる」
 雨のなるべく届かないところを縫うように走り、翔は教室へと続く廊下に消えていった。啓作もその後を追い、同時にポケットからたばこを一本取り出す。ライターを出して火をつけようとし、考え直してやめた。
「?」
 目の端を一瞬だけ通り過ぎたものが気になって、啓作は少し廊下を戻った。そこにあったのは、小さく上品な音を立てながらだんだんと水かさを増していく、いくつもの実験用ビーカーだった。誰かが干したまま、片付け忘れたのだろう。
「……まったく」
 吐いて捨てるように呟くと、啓作は火のついていない煙草を銜え、頭の後ろで腕を組んだ。授業の遅刻は彼にとって当たり前、いや、むしろそれが常識である。


 雨で締め切られた窓が、外と教室内との温度差で白くくもっている。近くの煙突も、遠くの景色も、全てがにじみ、混ざり合った世界。
「はい、それじゃ、始めましょうか」
 会議が長引き、五分ほど遅刻してきた教師の気の抜けるような声で、今日の最初の授業が始まった。おかげで遅刻扱いされなかった啓作は猫背気味に頬杖をついて、なんだかつまらなそうである。
「教科書百十三ページ。昨日の続きねー」
 入学当初は分厚く感じた一年分の教科書も、もうほとんどに細かいメモや書き込みがされ、だいぶ年季が入ってきた。五、六ページ目でやった基礎が懐かしく思える。
「“Today is Thanks giving day. I’ll clean the room used by my father.”……それじゃ、矢羽、訳して」
 隣に座っている生徒の教科書をなんとなしに見ていた啓作は、教師が教科書の文法例文をそのまま読んでいるだけだということに気づいた。おかげで考える手間が省ける。ますますつまらない。
「今日は勤労感謝の日です。私は、父が使っている部屋を掃除するつもりでーす。」
「うん、いいでしょう。次、じゃ、その文法を前へ出て説明して。えーと、黒崎」
「はい」
 ノートを持って立ち上がると、翔は黒板の前へ歩いた。同時に、生徒たちがせかせかとペンを持ち始める。彼が前に立つときだけ、今こそ理解のチャンスだと、皆の勉強に対する思いが一変するのだ。
「この文の場合、“room”に“used by my father”が後置修飾されているので――」

――よくもつな……。

 暇つぶしにシャーペンを指で回しながら、啓作は感心した。説明を終えた翔が当然のように合格をもらって席に戻り、座り終える、その一部始終を細々とチェックを入れながら見ていたが、少しの違和感もない。
 知人が一日に二人も死に、そのうちの一人は目の前で殺され、実の母親にその存在を忘れられ、それでもなお、普通。
「……ふぅ」
 啓作には、翔の精神の強さが分からなかった。


 結局、午前授業を終えて先生が教室を出て行くその一瞬まで、彼は普通だった。いすに座ってぼんやりと窓の外を見詰める翔に、啓作が後ろから声をかけた。
「食堂行こう」
「あぁ、うん」
 翔が啓作のもとへ歩み寄ると、彼は一歩彼を通り過ぎた。耳元に口を近づけ、誰にも聞こえないように小さな声で囁く。
「朝は悪かったよ。知らなかったんだ……泊まってけよ、“俺んち”」
 彼が過去に対して謝るという意外性に少し驚いた翔は、彼と同じだけ笑う。
「うん、助かるよ」
「その代わり、夜は保健室から一歩も出るなよ。見つかったら大事だから」
 誰が見つけにくるんだよ、と笑いかけて、せっかくのチャンスを無駄にしては大変だと思い直し、翔は軽くうなずいた。
「It’s secret for everyone.(秘密だよ)」
「あぁ……sure.(もちろん)」
 内緒話には決まって耳をそばだてる池に気づかれないように、英語で会話を交わす。啓作が突然英語を使い出したので、翔もすぐに気づき、早速英語を使う。池は英語が大の苦手なのだ。
「Do you know how to use the heater here?(ここの暖房の使い方は分かる?)」
「No, but I’ll think about it when the time comes.(いや、でもそのときに考えるさ)」
 つまりどういうことかというと、両親のいない啓作は、土日も学校に泊まっているのだ。土日は教職員も誰一人として残らないので、夜中は完全に啓作一人になる。それを上手いこと利用して、啓作は翔を学校に泊める気でいるのだ。むちゃくちゃな話だが、これは立派な事実である。
「はー、今日は久しぶりにチャーハンでも食べようかなー」
「あ、そんじゃ俺ねー……オムライス!」
「今日はオムライスないでしょ」
「え、嘘! じゃ、天蕎麦でいいやー」
 廊下に出て、二人は昼休みのゆるりとした時間だけはせめて気楽に過ごそうと、互いに笑いあった。


「はーい、はい、ちょっと待って」
 丁度昼食のときの食器洗いを終えた千草は、エプロンで手を拭きながら、やかましく鳴る呼び出し音に駆け寄った。受話器の通話ボタンを押す。
「黒崎です」
「母さん?」
 黒崎家のリビングの隅に置かれた電話を取って、千草は微笑んだ。
「あら電話なんて珍しい。もう学校は終わったの?」
「うん」
 どことなく暗いような、元気のないような息子の声に、千草はすぐに気がついた。しかし、その一部が自分の記憶喪失のせいなどとは夢にも思わない。とにかく自分から何か聞くことはせずに、翔が自分から話すのを待つ。
「今日さ、啓作のとこに泊まるから」
「啓作君って、矢羽啓作君?」
 千草は彼の名前に聞き覚えがあった。確か、両親が亡くなったとかで家計も大変だとか何とかという話を、授業参観日に聞いたのだ。
「お家、迷惑じゃないの?」
「啓作の家、今日は誰もいないみたい」
 はっきりと息子が言ったので、千草はそれ以上何も尋ねなかった。彼の意思で動くのなら、大抵のことは任せて大丈夫だということを充分分かっているから。
「そう。じゃあ帰って来る日の朝に電話、頂戴ね」
「うん」
 少し間をおいて、千草は電話を切った。ふうっとため息を吐いて、キッチンのガスコンロの上に置かれた小さななべに目をやる。
「せっかく二人前作ったのに」
 千草は意地悪く呟いて、しゃんと背筋を伸ばした。悲しきかな、そして彼女は何も知らずに再びキッチンへと向かう。
「……はぁ」
 電話の向こう側の翔も、電子音を聞きながら同じようにため息を吐いていた。カレンダーが目に入る。そして、今日が金曜日であることに気づく。

――だから“帰って来る日の朝に電話”、ね。

 保健室は暖房も効いているし――やはり、適当にいじったら暖房が入った――、毛布もシーツも清潔なので、快適である。受話器の通話ボタンから電源ボタンへと親指を動かすと、高い電子音が鳴った。
 静かな保健室。生徒や教師たちはもう全員下校し、この学校には啓作と二人。その啓作は今教室の施錠をしに行っているから、聞こえてくるのも暖房の風音だけだ。
「――っ」
 翔はそのままベッドへ倒れこんだ。天井をにらみつけ、いるはずの、でももしかしたらいないのかもしれない神に、厳しい声で問う。
「こんなこと、誰が仕組んだ……あなたか?」
 小奇麗な顔をしてクラス委員を務める普段の彼とは思えない、荒れようだった。
「いい加減にしてくれ……気が……変になる……」
 腕を額に乗せて、思い切り唇を噛む。少し、血がにじんだ。


「よーっし、終わり」
 最後に一階の音楽室を施錠して、これで啓作は全ての教室の扉にマスターキーで鍵をかけた。学校で暮らしている同然の啓作には、全ての部屋を好きなときに開け閉めすることができるのだ。
「……まったく」
 廊下を歩き、階段を下りて、保健室へと続く廊下へ足を踏み入れる。通りがかった教室内の時計をちらりと見て、もうすでに六時を回っていたことに気づく。おそらく眠っているだろう翔の声はせず、物音一つしない。
「疲れてないわけないでしょーが」
 啓作は呟き、靴の裏でわざと大きな音を立てながら、夕方の校舎をのし歩いた。
 保健室のドアを開けると、ベッドで翔が眠っていた。眉間にしわを寄せて、時々搾り出したような嗚咽を漏らしている。うなされているらしい。
 彼の髪を軽く撫ぜてやると、ほんのわずか楽そうな様子を見せた。
「…………」
 本来ならカルテ関係の書類が積まれている机の上に、参考書や要点を書きとめてあるノート、教科書などの山が出来ている。山の中央の数学のノートを見て、
「うわ、珍しい」
 彼の計算ミスに気がついた。よく見ると、その一つ前の問題にもミスがある。間違いがあるのは全て今日の日付のノート。きっと啓作がここに来るまで勉強していたときに間違えたのだろう。どれもこれも、彼らしくない初歩的なミスばかりだ。

――まったく。

 啓作は何秒もかからない間に間違いを全て正すと、ノートを閉じて元の位置に置いた。腰から落ちるように椅子に座り、本日何度目かのため息を吐く。
 静かな室内、聞こえるのはやはり暖房の風音だけ。


 その頃千草は、まさか息子が突然倒れたことなど梅雨知らず、幸いにも“二人分”作ってしまった夕飯のシチューを上機嫌で皿によそっていた。
「出来ましたよ、信也さん」
「あぁ、ありがとう」
 リビングのソファーに腰掛けて、久々に故郷の新聞を読みふけっていた男が顔を上げた。千草の夫、つまり翔の父親である男、黒崎信也だ。
「今日はたまたま翔が泊りがけだって言うから夕飯の支度出来ていましたけど、今度からはもっと早めに連絡して下さいね」
 怒ったような口調でありながら、それでもやはり嬉しそうに笑う千草。普段、父は単身赴任で海外に暮らしているのだ。久々の再会に、頬が緩まないはずもない。
「ククッ、そうするよ」
 意地悪く笑う信也。眼鏡越しの冴えた目つきは、翔に良く似ていた。
 程よく湯気の立ったホワイトシチューを前にして、信也は満面の笑みを見せる。
「懐かしいな、千草の料理は」
「ふふ、そうですね」
 にこにこと笑みを浮かべながら、千草はスプーンを取った。信也も新聞をたたんで食卓に着き、
「いただきます」
「どうぞ」
 暖かくて優しい、幸せな夕飯のひと時を始めた。信也が口を開く。
「子どもたちは元気でやってるのか」
 千草の手料理だからだろうか、普段よりも食が進む。
「えぇ。成績の面では校長先生から直々に褒めていただいて、大学進学もまず問題ないでしょう、もしあるとしたらそれは引っ張りダコで悩むくらいですね、って」
「そうか……それはよかった」
 シチューを口に運びながら、信也は満足げに笑った。
 いくら時間が経っても、友里の話題が出ることは、どちらの口からもなかった。


「ん、っ……」
 何もかもがにじんだ世界の真ん中に、顔が見える。啓作だ。瞬きをすると、冷たい涙が一筋零れ落ちて頬を伝った。
「起きた? 今ね、一時半。随分酷くうなされてたけど、大丈夫かい?」
 啓作の目を捉えて安堵したのか、大きなため息をつく。目の上に腕を乗せて、浮かぶ涙を拭った。なんだか酷く疲れたような気がする。
「……悪かった」
「いや、俺は何も」
 啓作は翔の顔の横に手をつくと、意地悪い目を笑わせながら口を尖らせて言う。
「辛いのとか怖いのとか、どうせ隠すならもっと上手くやれっての――リトル」
「…………」
 自分の内が根っから彼に悟られていたことを知ると同時に、余計に莫大な心配と不安をかけていたことに気づいた。ひっ、と可笑しそうに白い歯を見せた啓作につられたのだろうか、自然と口元が緩む。
「とにかく、朝までしっかり眠りなさいな」
 啓作が、棚から小瓶を取り出してきた。中には何か透明な液体が入っている。ふたを取ると、強い酒のにおいがした。
「何で……そんなもの」
 本能的に自分の口に手の甲を当てた翔。しかし案の定、啓作はその手をどけ、ベッドに押し付けて動かなくした。あぁ、飲まされる。
「いいから」
「…………」
 ぼんやりと体から力を抜いた翔の肩を抱き起こし、彼の口元で小瓶を傾けた。口の中に入ってきたそれは、必然的に喉の奥へ流れ込んでいく。嫌に懐かしい水割りの味に、翔は抵抗を覚えなかった。
 瓶の中身が一気に半分ほどにまで減ると、さすがに啓作は傾けた瓶を戻した。ふたをしながら、楽しそうに笑う。
「案外強いんだ? 翔のことだから、すぐ吐き出すかと思った」
「安い水割りだ、吐き出そうかとも思ったよ」
 少し微笑んで、翔は枕に頭を沈めた。シーツがひやりとする。
「したたかな悪だな、委員長」
「ん……っ、一気に飲んだから気分が悪いよ……」
 翔が楽に冗談を言う様子を見て、啓作はまた複雑な気持ちになる。
「……ふうん」
 ベッドのふちに座って、再び翔の目を見詰めた。
「そのふうん、ての……あんまり好きじゃ、ない……」
「じゃ、言わせるな」
 ふざけて拗ねたような彼のまなざしに、翔はおとなしく目を閉じた。
 こんなにも自分を思っている、迷惑で、面倒で、しつこい他人。だから他人には無駄に笑わないし、無駄に泣かないし、無駄に怒らない。そんな“他人”に、翔は久しぶりに感謝していた。
「おやすみ……」
 暖房のせいで乾燥した空気は、程よくぬるい。


 啓作は、明かりの消えて静まった食堂を開けた。気持ちのいい音で鍵が開き、電気をつけるといつもの、しかし人のいない食堂が姿を見せた。
 小銭を入れて自販機のスイッチを押すと、パンが一気に三つほど落ちて来た。
「うわ、大丈夫かな、これ」
 文句を言いつつも、それを食べないと腹が減ってどうしようもないので、袋を破って口に入れる。口が良く慣れた、コンビニの味。
 ごろりと床に寝そべった啓作は、ポケットに入れていた水割りの小瓶を取り出した。ふたを開けて、翔に飲ませた残りを全て、一気に口の中に流し込む。
「はー」
 頭の後ろで手を組んだ。ぼんやりと天井を眺めると、早速目に映った蛍光灯の光が揺れている。早くも酔いが回ってきたのだろうか。今考えれば、翔に飲ませた量も決して少なくは無い。大丈夫だろうか。
「疲れたね、ほんと」
 一人呟いた啓作は、そのまま眠ってしまった。


「……んっ……」
 うっすらと開いた翔の目にまず始めに移ったのは、点きっぱなしの蛍光灯の光だった。まぶしさに目を細め、手をかざす。
「…………」
「啓作……?」
 何か声が聞こえたような気がして、小さな声で呼んでみるが、カーテンの開いた隣のベッドにも、その隣にも、人影はない。仕方なく明かりを消そうとしてゆっくり起き上がると、どうにも頭が痛む。飲まされたアルコールのせいだろう。
 翔は毛布をはいで、空気がとても冷たいことに気づいた。思わず身震いをして、ドアに目をやる。校庭に続く裏道のドアが、開いたままになっていた。

――何で、開いてるんだ……。

 こんな些細なことにさえ苛立ちを覚える。馬鹿ばかしい。
 カーディガンを肩にかけて、ドアを閉めようと近づく。ドアノブをぐっと引き寄せ、
「ん……?」
 校庭の隅に、薄ら明るい光が見えた。目を細め、光の中心を見て、翔は目を見開いた。ずっと幼い頃から、よく知っている顔。
「友里……!?」
 再びドアを開けると、ふらついた足で革靴を引っ掛け、光のもとへ駆け寄る。そこにあったのは、昨晩確かに死んだはずの、しかし紛れもない友里の姿であった。
「友里、なのか……!?」
「お兄ちゃん」
 少し響くような彼女の声に、翔は喉が詰まるような気がした。意味の分からない状況に、漸く心の助けが来たような喜び。そして、二度と失いたくないという要望。
「お兄ちゃん」
 目にうっすらと涙を浮かべながら、翔は彼女に手を伸ばした。しかし触れようとした友里の腕を、手は無常にも通り抜ける。翔はそれを見て表情を強張らせた。
「……ごめんね、忙しいのに心配かけて……」
「……ッ……!」
 出来ないと分かっていながら、それでも我武者羅に手を伸ばす。手は当たり前のように友里の体をすり抜け、空を掴んだ。胸が潰れるような思いがする。
「やっぱり、だめよね。私はもう、人間の体じゃないもんね……」
「そんな、の……嫌だよ」
 自分の無力感と、現実との意識の遠さに思わず苦笑する。そんな兄に向かって、友里は少し真剣な顔をした。胸の前で両手を組む彼女の癖が、その証拠だ。
「あのね、お兄ちゃん……聞いて欲しいの」
「何……?」
 頭の中で色々なことが葛藤していたが、妹に対する兄心が自然と働いたのか、翔は一旦それらを全てストップさせた。ゆっくりと友里を見つめた瞳は、優しかった。
「この世界にはね、槐っていう悪い悪魔がいるの」
「エン、ジュ?」
 突然何を言い出すかと思いきや、彼女の口から出たのは聞いたことも無い種族のような名前だった。怪訝な顔をする翔に、友里は尚も言う。
「そう。私、死んでから分かったの……私を轢いたトラックの運転手さんもきっと、槐」
「待って、どうして? そもそもその“エンジュ”って、いったい何?」
 勉強ならこんなことはないのだろうが、翔には友里の言っていることがさっぱり理解できなかった。あのトラックの運転手が槐だったら、だからどうなんだ?
 友里は寂しそうに目を伏せて、そしてゆっくりと翔を見上げた。
「ごめんね、あまり詳しいことは私にも分からないけど、お母さんが私のことを忘れてるのが何よりの証拠なの。槐が次に狙ってくるのは、きっと私のことを覚えてるお兄ちゃん……。お願い、本当に気をつけて」
「気をつけて、って……待って、話がよく――、っ!?」
 気づけば、友里を模っていた白い光が所々なくなっていた。
「もう行かなくちゃ」
「待っ……行くな!」
 いつからかぼんやりと消え始めていた友里に必死で訴える。友里でさえ初めて見る、兄の混乱状態だった。そこまで追い詰めてしまった辛さが、もうほぼ消えてしまった彼女の胸を、最後に締め付けた。
「消えるな……消えるなよっ! 友里!!」
「ごめ、ね……お、兄ちゃ……」
 途切れ途切れになっていく友里の声。彼女の目から、光の粒のように綺麗な涙が零れた。それが永遠の別れを告げられたようで、翔はありったけの声で否定する。
「やっ、やめろ!! 嫌だ、やめろよっ!!」
 友里の口が最後に小さく動いた。――ありがとう、と。
 ふっと光が消えて、そこにあった暖かさが一気に冬の冷たさへと変わった。
「っ……あ……!」
 友里は本当に、何があっても泣かない子だった。
 公園の滑り台の早登り競争で負けたときだって、生意気言って、上級生に散々からかわれて帰ってきたときだって、犬に追いかけられて転んで足の骨を折ったときだって泣かなかったのだ。――それなのに。
「や……だ……!」
 彼女がいて、彼女の笑い声があって、黒崎家は黒崎家なのだ。
 それなのに。
「いや……だ……」
 頭で考える前に口が、最後の友里の言葉を受け取って、それを激しく否定している。大事なものが滑り落ちていくことが、最後の瞬間がやって来ることが、他人が一人いなくなることが、やけに恐ろしく、怖かった。
「あ、ぁ……!」
 すっかり暗くなった校庭。光があった場所を、翔は抱きしめた。空を切った腕が自分の胸に当たっても、強く、強く、抱きしめた。


「ふぇ?」
 土曜日の夜明け、程よい寒さにすっきりと目を覚ました啓作は、辺りを見て目をぱちくりさせた。
「俺……なァんでまたこんな所で寝てるわけ?」
 自分に少し呆れながら、少し冷えた体を摩擦で暖めようと、擦る。立ち上がって、空になった酒瓶をゴミ箱に放り、
「スットラーイク!」
 気持ちよくガラスの砕ける音を背に食堂を施錠して、去った。翔が心配なのもあり、長い廊下を小走りに進む。保健室のドアを勢い良く開けて、
「おっはよ! 朝だよ!」
 この時間ならまだ眠っているだろうベッドに目をやる。乱れたシーツと掛け布団が乗ったベッドに、彼はいなかった。勉強に使う机にもいない。

――どこいったんだ、こんな朝っぱらから……。

 電気ストーブの消えた寒々しい室内には、風があった。嫌な予感がして、ぱっと裏口を見る。予想通り、ドアが開きっぱなしになっていた。そしてドアの向こうの校庭の真ん中で、うつ伏せになって倒れている翔を見つける。
「翔!」
 スニーカーを引っ掛けて彼のもとへと駆け寄り、肩を揺さぶる。返事はない。脈を計ろうと手首を取って、その冷たさに、ぞくっとした。
「……ぁ」
 ずっと眠っていたような、とろんとした目を啓作に向けた翔。少し顔が青ざめていて、すっかり冬の寒さに凍えていた。割かし元気そうな目に、啓作はいくらか安堵する。
「ったく、何でこんな所で寝てんのさ……真冬の夜中、ロマンチックに天体観測やって凍死したなんて洒落んなんないよ?」
 啓作は翔の体を起こすと、自分の上着を脱ぎ、翔の肩にかけてやった。それにそっと手をかけた翔が、弱弱しく苦笑しながら言う。
「夢を……見てたのかもしれない」
 小さくため息をついて、啓作は翔の冷え切った手を握ると困ったように言った。
「死んだら話にならないでしょ」
 それを聞いた翔がわずかに微笑んで、うなずいた。肩が小刻みに震えているのが分かって、啓作は胸が締め付けられるような思いだった。

――あの翔が、ここまでなるなんて。

 一日経ってしつこいようだが改めて、啓作は心底驚いた。
 戻れるか、と尋ねようとして、翔に先を越された。泣いてなどいなかったような声で、しかしうっすらと目が濡れていた。
「もう平気。戻ろう」
「……あぁ」
 立ち上がって少し歩くと、二人の後ろで何やら声が響いた。
「!」
 聞いた啓作は素早く目を走らせ、
「友里!?」
 翔が思わず彼女の名を口走った。言ってからはっと口を噤み、下を向く。啓作が小さなため息をついて、困ったような顔をした。
「夢って、そのこと?」
「……笑いたけりゃ、笑って」
 そんなつもりないさ、と啓作が言う。翔はふと寂しそうに笑い、信じてくれるはずもないだろうと重々承知の上で話す。
「夢の中で言われたんだ……“エンジュ”に気をつけろって」
 啓作が一瞬、血相を変えた。
「槐……?」
「そう、そんな名前。でも何だか訳分かんないから、多分気のせい」
 帰ろう、と再び翔は言った。
「……ふう、ん」
 珍しく難解な問題を考えているときのように、唇の端が少し笑っている。
「……啓作?」
「それじゃ、これはちょっとねー……」
 次の瞬間、体の奥底から本能的に危険を感じたのが分かった。身の毛がよだつような悪寒に、思わず翔は体を硬くする。その横でじっと一点を見詰める啓作。様子がおかしい。啓作はゆっくりと呟いた。
「危ない、かも――」
 その言葉が言い終わるや否や、体に鋭い衝撃が走った。
「…………?」
 気がついたら翔は啓作の体の下に座り込まされていた。一瞬の出来事に反応すら出来ず、思わず身震いをする。
「……だいじょ、ぶ?」
「え――」
 上からの声に顔を上げて、
「啓作!」
 思わず声を上げた。彼が口から血を流している。それを手の甲でぐっと拭って、啓作はぱらぱらと手を振りながらにこやかに言う。
「あ、これね、全然大したこと無いから放っといて」
「大したこと無いって……だって」
 だって、血。そう言いかけて、啓作のどこか一点を見詰める鋭いまなざしに口を噤まされた。彼は、本気で何かをしている。
「来る――」
「何やってるんだ、馬鹿が!」
 啓作よりも更に上、つまり空から威勢のいい男の声がした。姿は見えないが、黒の長い髪がふわりと風に舞っているのがほんの一瞬見えた。
「あっは、すんまへん」
「あっは、じゃないだろ! 本気でやってたらお前、今頃死んでるとこだ!」
 啓作の隣に、二本の足が下りた。赤い帯の、真っ黒な着物姿。傷を負ったらしい啓作の背を治すかのように一撫でした後、散々檄を飛ばして、腰のところの鞘から刀身の長い刀を抜くと、その刃先を翔の喉下に向けた。
「お前」
「っ」
 別に先端恐怖症ではなかったが、妙にその刀には殺気がこもっているようで、翔は無意識のうちに息をも押し殺していた。
「俺が見えるか」
 あまりの空気の重さに、声が出ない。空気というか、雰囲気が、というか。喉が詰まってしまって、声の代わりに涙が出てきそうなほどだ。
「見えるのか」
 切れ長の鋭い目にまっすぐに見られ、強張った目線が逸らせない。少し口調を強められたせいもあって、翔はやっと小さくうなずいた。
「声は」
「聞こえてるから答えてるんでしょ、神崎」
 啓作の指先に額を触られて、翔は漸く目線を落とした。息が少し乱れている。訳の分からない恐怖が、間に啓作を挟むことでやっと終わったような気がした。
「お前はすっこんでろ」
「いや、そうもいかないんだよね。こいつ、俺のダチ」
 ぽん、と頭を叩かれる。喉下に突きつけられた刀は数ミリも動かずにそこにあったが、状況を理解している啓作がそこにいるという安心感が、少し翔の緊張を解く。
 啓作が神崎と呼んだ男が、相変わらずの悪い口調で啓作をにらみあげる。
「ダチィ? んなこと仕事に関係ないだろ」
「うーん、まあね。でも俺はこいつが殺されるところを見たくない」
 さらりととんでもないことを口にした啓作。翔はぎょっとして彼を見上げた。
「……ま、そーだろうな」
「そう、そう」
 へら、と啓作が笑ってみせた、次の瞬間。神崎の刀を握る手が、何かに無理矢理もぎ取られるように吹っ飛んだ。目の前を、真っ赤な血が染める。
「がっ!!」
「っ!」
 翔の喉下を二ミリほど切ると、神崎の手を離れた刀はわずか一瞬で、肉眼では見えないところまで飛んでいった。信じられない。
「くっそ、もう来やがった!」
「参ったね、こりゃ……」
 啓作の目が、また本気になった。さっぱり訳の分からない翔は、目の前で腕を吹っ飛ばされた人間が傷口を押さえているその光景に、ただおびえていた。
 そしてまた次の瞬間、今度は啓作の肩から真っ赤な血が噴き出した。深く切られた傷が、今一瞬のうちにできたのだ。
「っ、ぐ!!」
「!」
 がくん、と地面に膝を突いた啓作。目の前でとんでもない気迫と威厳を見せていた二人が、一瞬にして血だらけになっていた。
「人間から離れてその場に伏せろ、槐!」
「!?」
 エンジュ。今確かにそう聞こえた。二人のはるか後ろ、空に浮いているのは、一人の若い男だった。翔や啓作よりも年上の、おそらくはもう成年。
「大丈夫か!」
「……ぁ」
 地面に降り立った男は、自分の登場のせいでますます混乱した翔に駆け寄ると、喉の傷がそれほど深くないのを確認して、ほっとしたように笑った。
「俺は人間を槐から護るためにいる、保護人。俺がお前を絶対殺させやしないから、もう大丈夫だよ」
「それ……それは……っ」
 震える声を必死に絞り出して、翔は絶対に認めたくないことを保護人に尋ねる。利き腕を無くしても尚、スペアの刀を構える神崎の姿が目の端に入った。
「啓作が……ボクを殺す、ってこと……?」
 違うと言って欲しかった。しかし保護人は無情にも告げる。
「殺したいかどうかは分かんないけど、仕事上そうせざるを得ないんだよ、彼は」
 友里を殺した諸悪の根源“エンジュ”――彼が? じゃ、彼は今まで全部知ってた……?
「う……そ」
 蚊のなくようにかすれた声が、漸く出た。それを聞いた啓作が、切られた肩を強く押さえながら彼の名を呼んだ。表情を強張らせた翔が、恐る恐る啓作を見やる。
「お前は……絶対殺さない!」
「…………!」
 殺さない。殺さない、本当に? そんな疑問を抱いてしまう自分が嫌になる。そして、今までの長い人生を生きてきて、今更気づいたことがあった。
 疑いたくない。信じたい。啓作を、信じたい。――信じたいのに。
「も、ちょっと……待っててちょーだい」
「――――」
 何か答える余地も無く、がちん、と響いた嫌な金属音に、翔は反射的に目を閉じた。休み無く続く金属音に、体ががちがちに縛り付けられるようで苦しい。
「危な」
 啓作が言いかけた直後、ずぶり、と嫌な音が響く。恐る恐る目を開けると、そこはまた真っ赤に染まっていた。
「――っは」
「っ、神崎!!」
 神崎の右胸を、保護人の刀が貫通している。倒れ際に引き抜かれた刀が胴体を切り裂くことはしなかったが、つん、とした血の臭いで吐き気がする。どさりと倒れた神崎は、
「てめぇ!!」
 怒りを露にする啓作に、保護人が冷静な口調で告げる。
「あんまり私人間のいざこざに口出ししたくはないけど、俺も仕事上放っておけないからね……ちゃんとお前らをあの世に帰さねーと」
「っ、え!?」
 横から、思わず聞き返してしまった。保護人が振り返って、あぁ知らなかったっけ、と少し笑った。
「彼らね、本当はもうとっくに死んでるんだよ」
「――おい、保護人!!」
 慌てた啓作が怒鳴りつける。翔は目を見開いた。
「俗に言う、ゾンビってやつ。未練があると、たまにこっちに帰ってきちゃうのがいるんだよ。君の先輩の、和泉もそうだ……だから君の妹が死んだ」

――なんだって?

「槐の親玉が面白半分でトラックの無謀運転をさせて、君の妹が犠牲になった。君の妹ごと壁に突っ込んで自分も死ぬ寸前に、和泉は槐の特殊な能力でお前の記憶が飛ぶのを防いだんだ。人間界で食い違いやパニックが起きないように、普通だったら死んだ人間についての記憶は飛ぶんだよ。俺も正直、お前が忘れてないことにびっくりしてる。和泉のおかげだな……。あ、一旦槐にされた人間は、死に際に槐から解放されて人間に戻るから、和泉の心配は要らないよ。それから親玉も、もう俺たちが居場所突き止めて攻め込んでるから――、説明分かる?」
 目の前が真っ白になる。一気に全てを知らされた翔は、どうしようもなく震えてしまう声で、確認するように呟く。
「……じゃ、和泉さんが亡くなったのは、エンジにやられたから……」
「そういうこと。……お前頭いいんだね、説明が省けて助かっ――」
 保護人が言葉を切った。
「大丈夫か?」
「はっ……、はぁっ……!」
 体が酷く震えて、いくら押さえようとしても止まらない。息が上手く吸えない。恐ろしくて、悲しくて、悔しくて、頬に一筋の涙が伝った。
 翔の背中をそっと撫ぜながら、保護人は淡々とありのままを告げる。
「つまり、こいつは仕事上、お前に生きててもらっちゃ困るんだよ」
「だからって――殺さない!」

――分かってる、けど。

 翔は組んだ両手を額に当て、止まらない涙を腕にまで伝わせながら思う。
 それでは、彼は一生“エンジュ”のまま。一生戦い続けて、一生人間を殺し続ける。それを肯定して、果たしていいのだろうか。
 がきん、と鈍い音がして、再び二人の刀が弾き合われる。闘っている保護人の後ろで倒れていた神崎の指先が、ぴくりと動いた。刀を握りなおして、ゆっくりと起き上がる。保護人は気づいていない。おそらく後ろから、やるつもりだ。
「俺が翔を殺せるはずない!」
「さてどうかな」
 ぎちぎちと悲鳴を上げる刀が、少し啓作の方へ押された。

――どうしよう。

 ここで声を上げれば、保護人は簡単に神崎を殺すことが出来るだろう。でも、それでは、啓作が。――でも。
神崎の刀が、助走を取ってまっすぐに引かれた。
「――――!!」


 それは一瞬の出来事だった。
「ゆ……り」
 四角い黒い塊とともに、交差点の向こう側へと消えた妹。
 隣で立っている母さんが、甲高い悲鳴を上げる。それで我に返ったボクは、塊が過ぎ去った方へ走った。
「友里!!」
 トラックの中では、運転手らしき男がぐったりとなっていた。友里の姿は見えない。壁とトラックとの間に押し潰されているのだろうか。ボディに手をかけても、トラックはびくともしない。
「友里! 友里、返事しろ、友里!!」
 静か、すぎる。
「友里!!」
 静か、すぎる――。
「友里ぃ!!」
 最後に妹の名前を叫んだ後、頭の中で真っ白な光が光って、気づいたらボクも母さんも家で眠っていた。友里だけは、やはりどこを見てもいない。
「か……母さん!」
「おはよう、翔。どうしたの、そんな大声出して」
 いつもながら暢気な母さん。でも、今日のそれは何か違った。
「友里……っ、友里は!?」
「ゆり?」
 驚いて、思わず目を大きくした。
「ゆりさん、って?」
「……え……っ!?」
 どうして何も言わないの? どうして? それじゃ、ボクが見たのは夢だった? あんな鮮明な、あんな恐ろしい、夢?
 母さんはいつものように、ほんのわずか笑顔。そしてボクにこう尋ねる。
「ゆりさん、って、誰……?」
 それは、一瞬の出来事だった。


「……は……っ……」
 弱い息がこぼれる。いったいどうしてこんな真似をしているのか、さっぱり分からない。翔自身、今まで生きてきて他人をかばったりした記憶がない。
 肋骨の丁度下の辺りに、気がつけば激痛が走っている。神崎の、まっすぐに磨がれて黒光りした刀身が、体の前から後ろへと貫通している。馬鹿、みたい。
「翔!!」
 神崎と保護人の間に滑り込んだ翔は、両手を広げて保護人の盾になっていた。翔はもちろん、保護人も、神崎も、そして啓作も酷く驚いていた。
「……っ」
 おそらく最後の力を振り絞ったのだろう神崎が、目を見開いてその光景を見詰めながら、瞳孔を開けて倒れた。彼は、ついに生きるのを止めた。
「かは、がはっ!」
 びくん、と体を痙攣させて、激しくむせ返った翔は血を吐いた。頭の芯がくらくらする。保護人が素早くそれを支え、人間に危害が及んだことに対して小さく舌打ちをした。
「――あああぁぁぁぁっ!!」
 友人、大好きな友人が吐いた血を見て、啓作が瞳孔を開け広げ、狂ったように大声を出す。そのまま我武者羅に保護人に切りかかろうとして、
「え」
 自分の胸に突きつけられた神崎の刀を見て、ぴたりと動きを止めた。その自らの血に濡れた刀を握っているのは、
「……え……?」
 幾筋もの涙を流す、翔だった。
 刀に手をかけていた保護人が、ゆっくりとその柄から手を離す。
「かはっ……はぁ、っ……!」
 切っ先が、刀身が震えている。おびただしい量の血を吐き出す傷口をもう一方の手で強く押さえながら、翔は啓作に刀を向けていた。
「翔……?」
「……生きてて、よ……!」
 かすかな声で、翔はそれでもはっきりと言った。信じられないと言った顔をする啓作をぎりぎりに見上げ、零れていく涙越しに、わずかに笑う。そして、繰り返す。
「ほんと、の……啓、作が……生きててよ……!!」
「――――!」
 心の中のもやもやとしたものが、このときすうっと引いていったような気がして、啓作は目を見開いた。翔は自分に、矢羽啓作に生きていて欲しいと、今はっきりと、そう言った。今はっきりと、それが聞けた。――間違いなく、彼の声で。
「……そーだよなぁ……」
 ぽつりと呟くと、啓作はその場に胡坐で座り込んだ。だらしなく下がった派手な金髪。それが今日はなんだかやけに静かに見える。
「…………?」
 刀を握る腕を落とし、目をやると、頭を上げた啓作が笑っていた。いつもの日常生活に、当たり前にあった笑顔で。
「死んだらさぁ……もう一回翔、お前に会えるかなぁ……?」
「……っ!」
 堪えていたものが、一気に込み上げてきた。今まで感じたことのない気持ちの高ぶりが、はっきりと感じられる。
 ゆっくりと息を吸って、そうでありたいと願いながら、翔は心から笑った。
「うん……!」
 一瞬また表情が悲しみに染まって、翔の体がふわりと浮いた。優しく笑っている啓作に抱きつく。啓作の左胸に、まっすぐに刀が突き刺さっていた。
 時が、ほんのわずか止まったような気がした。
「…………」
 啓作の手が持ち上がって、翔の柔らかい髪をくしゃりと撫ぜた。
「……悪かったね、面倒かけて」
「ぁ……っ」
 震えた唇の間から、嗚咽が漏れる。啓作の服を握る手に、ぐっと力が入る。
「ありがと……お前、大、好き……」

――大好き。

 暖かい手が、ぱたりと落ちた。そのままの姿勢で、啓作は動かなくなった。
 緊張の糸が切れたのだろう、気を失ったらしく、翔も啓作に寄りかかるように倒れる。失血死の心配もあり、保護人は翔を抱えると姿を消して、この近くの病院へと飛んだ。
「お疲れ様」
 血に濡れた校庭の中央が、ゆっくりと元の砂色に戻っていく。二人の槐の体も、それと同じようにゆっくりと消えていった。
「ほんと、お疲れ様――」
 ただ一つ残ったのは、そこに確かに存在した暖かさだけ。


 ――春。
 桜の木が正面に立つ校門を、真新しい制服に身を包んだ新入生と一緒に、一人の長身の青年が歩いてきていた。やけに大きいな、と、寮の窓からそれを見ていた黒崎翔は思う。
「…………」
 学生かばんの持ち手を片方だけ肩にかけ、ボタンをいくつも開けている。深緑色のだぼついたセーターを上手く着こなす彼は、随分な態度で歩いてくる。
「…………」
 髪は派手な金髪。しかし格好に似合わず優しい目をしていて、とても暴走族まがいのようには見えない。そんなに根が悪そうにも、見えない。
「…………?」
 ふと桜の木を見上げた彼が、翔に気づいた。その変に頭を上げた微妙な体制のまま、彼の方が一歩左にずれる。目が、合った。
「…………」
「…………」
 そのたった何秒かの間で、彼らは何かに気づいたように、目を丸くした。
「……あんた」
 第一声、あんた。つまらないその声に、翔は不気味なほど安心感を覚え、同時に絶対にその声を知っているような不思議な感覚に襲われた。
 ざあっ、とひときわ強い風が、真っ青な空へピンク色の花びらを流していく。青年はその向こうで、ぽかんと口を開けたまま言った。
「どっかで見たことあるね」
「奇遇だね、ボクも君をどこかで見たことある。二年だろう? きっと、ボクら同室だ」
 少し微笑みながら、翔がすかさず言った。自分の口からまさかそんな“ジョーク”が出てくるなんて、彼自身考えてもみなかったのだから、少し驚いている。
 青年は更に目を丸くして、面白そうに唇の端を上げた。
「……ふうん」
 あの笑み。よく知っているような、大好きな笑み。
「よろしく」
 青年が笑った。それにつられるように、翔も笑う。
「よろしく」
 ふわりと暖かい日差しが、二人を日向へと誘い出した。




【番外編】


 昔から、他人は嫌いだった。
 変に気を使い、無駄な同情をし、常に愛想笑いをする、
 その動作一つ一つの意味が
 浅はかで。

 なんとも浅はかで。




 黒崎翔、十六歳、男。
 彼は今日、これまでの中学三年間の猛勉強のかいあって、めでたく高校入学を果たした。中学三年間の猛勉強は、単なる高校入学のための勉強ではない。奨学金生狙いレベルの勉強である。つまり、彼は猛勉強で入学金免除を勝ち取ったのである。
 現在単身赴任をしている父親も、普段は特別翔を褒め称えることなどないのだが、電話越しの声は明らかに満足げだった。
「よろしく! 俺のことは、大ちゃん、でいいから」
「おう、よろしく大ちゃん! 俺、きっくー、って呼んで」
「何で“きっくー”?」
「俺、菊川」
「あー、なるほど」
 変に浮き足立ってざわついているクラス内の、歯が浮くような奇妙な空気。その中で翔は、前席の少年が楽しげに自己紹介をしている様子をぼんやりと眺めていた。どちらを見渡しても、男、男、男。ここは正真正銘の男子校である。
 何をするでもなく担当教師を待つその背に、後ろから声がかかる。
「黒崎翔くん」
「?」
 振り返ると、そこには眼鏡越しに自分を見つめる頭の切れそうな少年が立っていた。何か変なものでも見るように目を細めて、じっとこちらを見ている。
「君が、黒崎翔くん?」
「……うん」
 変な奴だ、と思いながら頷くと、彼は打って変わって目を輝かせて、机の上でおとなしく組まれていた翔の手を両手で握り締め、大声で言った。
「入学試験で満点取ったのって、君か!」
「っ!?」
 翔は、思わず数センチ身を引いた。周りの少年たちが、皆こちらを向いて唖然としている。入学試験で満点、という話よりも、大方が眼鏡の少年の大声に驚いている様子である。――何なんだ、彼は。
 目を白黒させる翔が否定せずにいると、大きな口で、さも楽しそうに少年は笑った。
「いやー、すごい! 尊敬するよ! なぁ、君!」
「えっ……あぁ、うん、そ、そうだね」
 突然話を振られた“きっくー”もだいぶ驚いている。その隣の“大ちゃん”が、目を丸くして翔を見ている。その視線に気付いた翔が、彼の方へ目を向ける。
「……本当に、満点取ったの?」
 もはや事態は彼の代表質問である。気付けばクラス中の視線は皆、翔に向けられていた。嫌な予感こそしたが、翔はやはりありのままを話す他ない。眼鏡の少年に両手を握られたまま、クラス中の注目の的になりながら、
「そう、だけど」
 ぼそり、と呟いたその一瞬後を、大絶叫と大歓声が追うように湧き上がった。あっという間に翔の席の周りを少年たちが埋め尽くす。
「マジかよ!! すっげぇなぁ、お前!!」
「天才って、いるもんだなぁ」
 口々に感嘆の声を上げる少年たちの中心で、翔は一人何が起きたのかさっぱり、と言った様子で固まっている。度々求められる相槌を打っては、あちこちからの質問攻め。こうなるともう、交流を通り越して尋問である。
 そのうち話題がそれて、ある少年が入学試験当日に翔を見かけたと言う話が出たり、翔の隣に座ったという少年が三人ほど出たり、挙句の果てには翔の話題からもそれ、試験中にテスト用紙を落としたのに気付いてもらえなかった話が始まった。
 廊下にまで響いていた大声に怪訝そうな顔をして入ってきた若い担当教師が、生徒が一人の少年を囲んで大騒ぎをしている光景に目を見開いた。
「何やってるんだ!」
 呆れ半分のその声には、ベテラン教師の慣れた含み笑いが混じっていた。だからこそ、彼らの大騒ぎは治まらない。教師にまで翔の満点騒ぎをぶちまけて、
「このクラスやべぇ、絶対楽しいぜ!! なっ、センセ!!」
「いや、この調子だと絶対崩壊しそうに見えるけどな、俺は!!」
「さっすが、先生!! 分かってるねぇ!!」
「ぎゃはははは!!」
 大騒ぎの中、大声で話さないと聞こえない会話を重ねに重ね、騒ぎはどんどん膨れ上がり、最終的に教頭が直々にやってくる始末となった。


 ――五分後。
 出席簿順にたった三人の名前を呼ぶ間、何度も爆弾のような笑い声が再発し、点呼がまったくに等しく進まない。
「ゴホン、えーと」
 顔を真っ赤にして息を整える、少し髪の薄い教頭。その厳しい視線にしっかりとにらみつけられながら、担当教師は変な咳払いをし、出席簿に目をやる。
「池恭介」
「はい」
 眼鏡の少年は、池という名前だった。
 一番楽しそうに翔に接した彼は、その後散々翔に笑わせられた後――無論だが、翔本人は何も可笑しなことはしていない――、初体面のウケをきっちりと自分がもたらしたということに誇らしげな様子で席に戻っていった。
「大友康弘」
「はいっ」
 クスリ、と誰かが鼻で笑う。
 試験中にテスト用紙を落とした短髪の大友は、一番後ろの席で椅子の背ごとロッカーにもたれかかって、なんとも偉そうな態度である。
「菊川栄二」
「はーい」
 クスクス、と鼻で笑う声が大きくなる。
 一番前の席に座る茶髪の“きっくー”は、返事をし終えるや否や翔の方へと振り返り、意味深長な笑みを浮かべた。翔はそれに、少しだけ笑う。
「黒崎翔」
「……はい」
 翔が疲れた返事をして間も無く、また爆発のような笑いの渦が巻き起こった。


 割り当てられた寮の部屋で、翔は早くも過ぎていった入学初日を、時折苦笑いを交えながら振り返っていた。こんな騒ぎになるなんて思ってもみなかった。
「やった、黒崎と一緒!」
「お前がいたら、毎日大笑いだよなぁ」
「俺たち最高についてるぜ! なぁ、黒崎?」
 割り当ての出席番号制を恨むべきか、黒崎家に生まれたことを悔やむべきか。廊下にびっちりと張り出された割り当てにミスがなければ翔は、池、大友、菊川の三人とこの先三年間を共にすることとなった。
 部屋の左右端に置かれた二段ベッドにそれぞれが寝転びながら、翔の返答、無論同意を目で催促している。ただ一人ベッドに胡坐の翔はそれを痛いほど感じて、
「……そうだね」
 苦く同意した。
 それを聞いた三人は一斉にガッツポーズをし、歓声を上げた。勢い余った大友が上のベッドとの境の板に拳をぶつけ、上から池に軽く叱られながらも大声で、
「今夜はオールだ、飲むぞ!」
 ずっこけそうになる。ただでさえ頭が痛いような気がしてくるというのに、なんだって、この十二分な未成年者は夜通し飲む、と?
「一応聞くけど、飲むって……何を?」
 もちろん薄々感づいてはいたのだ。しかし、口が余りにも軽すぎる。
入学初日から爆笑の渦を巻き起こした男子校も、有数な上レベルの高校の中で翔がしっかりと吟味して選んだ上の上レベル、早い話がエリート校なのである。そんな学校に入学してきたレベルの生徒が、まさかそんな軽はずみな発言などするわけが
「何って、酒に決まってんじゃん?」
 ――するか。
 信じられないといった顔をする翔。彼を見上げる大友が茶化す。
「あれ、もしかしてお前、酒知らない?」
「別にそういうわけじゃ」
「サワーにチューハイ、紅白ワイン、何でもあるぜ。まず何飲む? あ、翔くんはオレンジジュースが好きでちゅか?」
「いや、だから」
「あっは、馬鹿言うなよ! そんなもんねぇって!」
「……その」
 あっという間にテーブルの上が酒瓶だらけになって、翔が一際苦い顔をする。これには池も驚いた。精々缶ビールの二、三本だと、彼も思ったのだろう。
 そんなことにはまったく気付かない様子で、大友と菊川の二人は一本目の酒瓶を開け、コップに注ぎながら楽しそうに笑っている。
「やっぱ、みんな考えてること一緒だよな!」
「ここに来るのもガキってこと!」
 大いに盛り上がる二人。とても初対面の人間とは思えない。酒を前にすると、友好関係もよくなるのだろうか。早くもコップを傾けようとする大友の手を、翔が軽く叩く。
「ねぇ」
「あ、翔も、はい!」
 なみなみと酒の注がれたコップを暢気に差し出そうとした大友の表情から、すっと笑みが取り払われた。翔の表情が、少し怒っているように見える。
「それ、法律違反」
 顔を見合わせて一瞬黙り込んだ二人だが、この場の空気を適当に和ませようとしたのだろうか、同時に吹き出して笑い始める。
「法律って、そんな固いこと言わないでさ、今日くらい甘めに見ろって!」
「固いも何も、捕まるよ、君ら?」
 捕まるよ、という言葉に、ついに池が口を出す。
「そうだよ。やっぱ初日から騒ぎ起こすってのはまずいよ。……ほら、まだ俺ら一年だし、っていうのもあるし……」
 きちんと先輩の目を気にするそれは、確かにまっとうな意見である。
 テーブルにコップを置いた菊川が、池の話などまったく無視して翔に歩み寄った。菊川はもう笑っていなかったが、翔の落ち着いた表情は変わらない。すう、と息を吸って、翔は怒鳴り声を覚悟する。しかし。
「何でそういうこと言うのっ」
「……は?」
 わざわざ目の前で何を反論されるかと思ったら。綺麗なことを言うなとか、いい子ぶるなとか、そんなことを言われるだろうと予想していた翔は、拍子抜けして変な声を出した。そして、酒の入ったコップが口元に突き出されたのを見て漸く気づいた。お前も飲めと言っているのだ、このにこにこ顔の彼は。
「これ飲んで仲直り! 美味しいから、ね!」
 何が仲直りだ。
「……分かんないね、君も」
 ここまでくると、もう苦笑するしかなくなってしまう。菊川が翔に向かって殴りかかる場面を頭によぎらせた池が、ほっと胸をなでおろす。
「今日だけ、お願いします!!」
「頼まれたって困るよ、ボクは警察でも何でもないもの」
 大声を、なんだか妙に不自然な大声を出した大友。さらりと受け答えをしながら、翔は心の片隅で不審に思った。すると案の定、部屋のドアが乱暴に開く。
「おっ、酒じゃん!」
「あらら、俺たちが入って来ないうちに早速打ち上げ?」
「最近の後輩は冷たいのが多いなぁ」
 男が三人、入ってきた。体格や制服の着くずし方からして、三年生。最初に酒に目をつけたスキンヘッドが、勝手に始めんなよ、とかなんとか言いながら、大友と菊川にじゃれている。翔はすぐにピンと来た。

――「お願いします!!」

 いつからドアの前で待ち伏せしていたか知らないが、彼らは大友の声を聞きつけて入ってきたのだ。不自然に声が大きかったのは、酔っただとか、ただ単に声がよく通るだとか、そんな可愛いものではなかったのだ。
「大友……」
 彼の方へと目を向けると、彼は男たちの隙間から恐る恐る翔を見て、申し訳なさそうな顔で首を振った。彼ではどうにもならなかったのだろうか。菊川に目を移しても、やはり同じような顔でこちらを見ている。やれやれ。
「……あの!」
 緊張気味に声を上げたのは池だった。
「あのさ……どういうこと? 大友、菊川、この人たちは……?」
「だーかーら、俺ら先輩だって!」
 一番目立つ金髪の男が、池の目前まで腰を折って言った。少し身を縮めた池だが、引き下がらない。ぎゅっと唇を引き結んで、目の前の顔をにらみつけている。
 金髪はからかうような目をして、ねっとりとした声で聞く。
「ねぇ、入試で満点取ったのってお前?」

――またか。

「あ……」
 鼻先を指差されて、池は固まっている。
「聞いてんだよ」
「ボクです」
 もうキスが出来そうなくらい間近に言い寄られている横から、翔が言った。金髪の目が、ぎょろりと翔をにらむ。池が、蚊の鳴くような声で翔の名をこぼしたのが聞こえた。
「満点取ったの、ボクです。彼は関係ありません」
「あぁ、そうだったの。悪かったねぇ、君、早とちっちゃって」
 池の頭をぽんぽん、と撫ぜると、男は翔に向かってゆっくりと歩み寄った。近くに来ると、身長差は楽に二十センチはある。立ち止まって、池のときと同じように中腰になると、まじまじと翔を見詰め、真顔で一言。
「綺麗な顔してんのね、お前」
「…………」
 正直、心外だった。男から外見を褒められるのは心底嫌いだ。翔が何も言わずにいると、彼はそのままの体制で、そのままの顔で、もう一言。
「酒飲めんの?」
「…………」
 男の目が据わっている。早いところ逃げたほうがよさそうだ。池と部屋を出ようと思って振り返ると、
「っ、放せ! 放して下さい!」
「池!」
 後ろにいた男たちが即座に池の両手を掴んだ。逃がさないつもりだ。ぎり、と唇を噛んで、どうしたらいいか何十通りもの策を考え、
「ねぇ」
 耳元での甘ったるい声に、ぴたりと思考回路が止まった。熱い息と唇が頬に触れて、ぞくりとする。肩が少し上がったのが分かった。
「死ぬまで飲ましてみたい」
「っ、ふざけるな!」
 反射的に言い放って、男の頬を手の甲で叩いた。池を力ずくで男たちから離すと、他の二人を置いたまま、池の手を引いて部屋を飛び出した。


「はっ、はぁ、はぁっ」
 いったいここがどこだかさっぱり分からない。とりあえず、寮の昇降口からは出ていないから、寮内のどこかだ。それも、彼らの部屋である三階よりも上の部屋。二人は、とりあえずドアの開いていた部屋に飛び込んだのだ。明かりはついていない。
「はぁっ――池?」
 眼鏡が少しずれている池は、床を見詰めたまま顔を強張らせて動かない。三年生がよほど怖かったのだろうか。
「もう心配しなくていい。満点取ってやっかまれてるのは、君じゃない」
 翔はそっと彼の顔を起こすと、自分と目線を合わせて言い聞かせた。まるで母親が幼い子どもにしてやるように、安心感があった。
「いいね」
 優しい翔の声に、池は本当に小さくだが、漸くうなずいた。
「だぁれかな?」
「!」
 さっきの男の声ではない。こちらに向けた椅子に座っておどけたように首を傾ける青年は、これもやはり金髪だったが、さっきの彼とは似ても似つかない、優しい目をしていた。その目が今、驚いて丸くなっている。
「あれぇ、お前ら新一年? 迷子かい?」
「いえ――勝手に入ってすみません。すぐ出ます」
 すかさず翔が適切に謝って、部屋を出ようとしたそのとき。ドア口からにゅっと手が伸びてきて、前へ出た翔の前髪をわしづかみにした。
「っ、つ!」
「見ぃーっけ」
 あの男だった。片手には一本の酒瓶が握られていて、男は素早くその飲み口を、翔の口元で傾けた。中身が一気に流れ込んでいく。アルコール濃度が強い。
「ん、う……っ、けほ、げほげほっ!!」
「もーったいねぇな」
 こぼれた酒がじっとりと襟元を濡らす。苦くて、息苦しくて、体が酷く重たかった。頭の芯がくらくらとして、体から力が抜けていく。
「く……っ」
 苦しさに表情を歪めて男をにらむ翔の後ろで、池は嗚咽を漏らしながら固まっている。とにかく人を呼ばなければ、と思った彼が、漸く一歩足を踏み出したとき、
「ゆーさ、ちゃん」
 部屋の奥から、ゆっくりと落ち着いた声が響いた。呼ばれた男が翔を押しのけるように壁に叩きつけ、部屋の奥をにらみつける。そして、
「矢羽先輩……!」
 打って変わって表情を焦らせた、遊佐というらしい男。頬杖をついてこちらをみている金髪の男が、にこりと微笑みながら言う。
「ここ俺の部屋」
「っ……すいま、せん」
 頭を下げ、一度だけ翔と池を交互ににらみつけて、遊佐は立ち去ろうとする。
「ストーップ」
「っ!?」
 びくりと動きを止めた遊佐に、金髪の男はそのままの笑みで言う。
「右手の瓶、置いてって」
「う……はい」
 床に酒瓶を置き、遊佐は一目散に走って逃げていった。なんだかこうして見ると、チンピラもあっけないものである。
「黒崎、大丈夫!?」
 叩きつけられてからはぴくりとも動かなかった翔の肩を起こして、池がわめく。翔は少し青い顔をしていたが、
「ん……へーき」
 打った頭を軽くこすって、小さく笑った。
 本心、だいぶ参っていた。
 無理に酒を飲まされたことはこれが二度目。一度目は、中学で同じような満点騒動に巻き込まれたとき、これもまた先輩から。そのときは缶チューハイを少しだけだったせいもあって体に支障はなかったが、どうも今回は調子が悪い。
 見ると、遊佐が置いていった瓶のラベルには“焼酎”の文字。調子も悪くなるわけだ。
「……ふうん」
 そんな様子を見て取ったのか、金髪の男は椅子から立ち上がって翔のところへ歩み寄り、変に中腰になったと思うと、
「うわっ」
 軽々翔を持ち上げた。思わず声を上げた翔には構わず、池に告げる。
「何か平気じゃなさそうだから、しばらくこの子、ここで寝かすわ。夕食には戻るからって、同室の子に言っといてくれる?」
「は、はい!」
「ちょ、池、待っ……」
「お前はおとなしくしてるの」
「もう平気ですから」
「もう平気な奴が何でおとなしく俺に捕まってんの」
 言われた翔が、酷い頭痛に黙り込む。
「黒崎のこと、お願いします」
「はいはーい」
 ひらひらと手を振る男に、眼鏡が落ちるのではないかと思うほど深々と頭を下げ、池は来た廊下を走って帰っていった。
「……あの」
「あぁ、あれね、三年の遊佐ちゃん。頭いい奴には昔っからあぁなんだよ……気ぃつけなね、“頭いい奴”」
 ――聞きたかったのはそれではないんだが。
 見上げた彼は、相変わらず微笑んでいた。


 小さな明かりをつけると、中は新入生のそれよりもずっと広く、ずっと豪華だった。
 入って右奥にキッチン、中央にテーブルと四脚の椅子、左壁に小窓、そこまでは一緒だ。しかし、キッチンの奥に風呂とトイレ兼化粧室が個別にあって、入ってすぐ左には、一軒家と同等な小さい暖炉まである。暖炉の前の床にはチェックのワインレッドの絨毯がしいてあり、さっきまで金髪の彼が座っていたソファーが暖炉に向かって置いてあった。羨ましいことに、それでいて個室だという。
 テーブルで紅茶を啜りながら、その豪邸の主は笑う。
「俺は矢羽啓作。同じ金髪でもさっきのみたく遊び狂ってないから、安心してね」

――分かる。

 分かるのだ、なんとなく。
 信じていい他人などいるはずないと、いつか翔は甘えてきた他人に言い切ったことがあった。しかし、彼は違う。違う、というか、疑う必要がなさそうなのである。
 暖炉のちろちろと揺れる火を見つめながら、
「……すいません、面倒かけて」
「なんのこれしき」
 また彼は笑う。ついさっきまで彼が座っていたソファーに寝かされ、暖かい毛布までかけてもらって、翔は頭痛と眠気とが相殺しているような感覚を覚えていた。
「二年生を、三年生が先輩呼ばわりなんですね」
 ふと呟いた翔に、啓作はあぁ、と忘れていたように声を漏らして、
「俺ね、毎年ダブってるだけで、一応今年で四年目なのよ」
「何でまた……」
 言いながら、目が笑っていた。啓作はそれには気付かない様子で、嫌に気持ちよくはっきりと答える。
「んー、つまんないんだよね。ちゃーんとやって、ちゃーんと上がってくのが」
「…………」
 天才派が言う台詞。秀才派の翔に言わせてみればまた別の考えになるだろうが、まあ、確かに啓作に言わせればそうだ。何をやっても出来てしまう、何をやっても結果は同じ、つまらないのも無理はない。
 カップをテーブルに置く、乾いた音が聞こえる。
「馬鹿だって、思う?」
 壁に貼られた一枚の家族写真を見つめながら、啓作は尋ねる。尋ねられた翔は、視線の先をぼんやりと絨毯に落として、
「現に天才なんじゃ、言いようがないですよ」
「っへへ、まーね」
 言われた啓作が、正直に照れ笑いをした。ここまで正直だと、いいとこ自慢もいっそすがすがしい。翔も少し笑って、でも、と付け足す。頭がぼんやりとして、何を言っているのか分からなくなっているのかもしれない。
「でも、嫌いじゃないです」
「俺もお前みたいなの嫌いじゃないね。むしろ……好きだよ」
 変な間のせいで変な風にも感じられたが、翔には素直に楽しかった。
 しばらく経って、啓作が丁度紅茶を飲み終えたとき、教会にあるような鐘が鳴った。六回叩いて、最後に一回。この学校は、鐘で時間を知らせる。この鐘は、六時を教える鐘だ。
「夕食だね」
 啓作が立ち上がって、翔に呼びかける。しかし、返事がない。ソファーを覗くと、翔は静かに眠っていた。やはり焼酎のアルコールが効いたのだろう。
「…………」

――可愛い奴。

「黒崎、ね……」
 ふっ、と笑って、啓作は翔の柔らかい黒髪を撫ぜた。
「――また遊びにおいで」
 啓作は部屋から出て行った。その言葉どおりというか、単に無用心というか、ドアに鍵はかけていかなかった。


「あ、黒崎!」
 歩いてくる翔の姿を見つけた池が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。心配で、部屋の前でずっと待っていたらしい。――まったく。
「もういいの? 夕食には行ける?」
「大丈夫」
 静かに笑った翔は、夕食に間に合わないといけないから、と小走りする池を追いかけるように足取りを速めた。
「池! 黒崎!」
 大声に振り返ると、大友と菊川がおそらく全速力で駆け寄ってきていた。二人の前で急ブレーキ、ぽかんとしている彼らの目を一瞬だけ見て、
「ご、ごめん!!」
 ややうつむき加減で、ほとんど叫ぶような感じで謝った。周囲の目もいささか気になるところで、翔も池も驚いて顔を見合わせる。
「俺たち、式の帰り道にうっかり話しちゃったんだ。入試で満点取った奴がいたらしいぜ、って……」
「そしたら後ろで先輩が聞いててさ、誰だ、って話になって……ほんと、ごめん!!」
 二人の話を最後まで黙って聞いていた翔は、小さなため息を飲み込んだ。
 これだから面倒なのだ、人間と言うのは。特に面倒なのが、“他人”。赤の他人ならまだしも、少し知ってしまった他人は特別面倒だ。気を使い、同情をし、愛想笑いをしなければいけないから。
「顔上げてよ」
 翔は、わずかだが表情を柔らかくして言った。恐る恐る顔を上げた二人は、気まずそうに顔を見合わせて目を伏せる。
「何言ったって、事実だ。それにもう過ぎたことだし」
「そうそう! さ、早く飯食いに行こうぜ、あんまり遅くなると食堂閉まっちゃう!」
 池がゆっくり走り出す。それを見た菊川が思わず、
「あ……食堂そっちじゃねぇよ!」
 聞いた池が、ぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り返ったその顔は、眼鏡が曇るのではないかと思うほど、真っ赤。それを見た三人から笑みがこぼれ、やがてかの“大爆発”が沸き起こった。

 ――それが、出会い。 (続)
2007-12-09 21:35:27公開 / 作者:公崎
■この作品の著作権は公崎さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
暗記物をやっていて弱音を吐くと、“覚えていることよりも忘れていくことのほうが難しい”とよく言われます。けれどもやっぱり、“忘れさせられようとしていることを覚えていること”のほうが、もっとずっと難しいと私は思います。この小説を書こうと思ったきっかけは、天邪鬼の私がそうやって反論を抱いたことでした(笑)

ええと、さすがに短すぎるということで、番外編なるものに挑戦してみました。とはいっても、ただ単に本編の過去、翔の入学当初(正確には当日のみですが;;)です。
こんな感じのものを、実はもう一つ製作予定です。制作上の参考にさせていただきたいので、何かアドバイスなどがあったら是非教えていただきたいです^^*
よろしくお願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
どうも、暴走翻訳機と申します。
淡々と進んでゆく物語、恐怖や悲しみを上手く取り込んだ描写、なかなかの手際に感服いたしました。
友情とある種の情愛、人はなぜこうも心の拠り所を見つけようとするのか?そんな疑問を抱かされる物語でもある。人は一人では生きていけず、孤独なように思えて何処かで何かに依存しているのかも知れませんね。
それが主人公の翔にとって、友里の記憶や啓作との友情に現れているのでしょう。まあ、少し短いというのが残念ですが、シリアスながら読み易かったのでよしとしましょう。

>用は見返りである
とりあえず、これは「要は」の誤変換ではないでしょうか?誤字脱字等の指摘は私の主義ではないので、自ら見つけることをお勧めします。

最後の作者のメッセージですが、“覚えていることよりも忘れていくことのほうが難しい”と言うのは確かです。人間、誰しも忘れているようでフッと思い出す記憶がある。それは、一度覚えたことと言うのは忘れようとしても忘れられないものだからでしょう。脳と言うのは、人間の神秘ですねぇ〜。
そして、“忘れさせられようとしていることを覚えていること”が難しいと思われるのも確かな話です。人って、割と「忘れろ」と言われても脳が無意識に反抗して、「忘れろ=覚えろ」のように変換してしまうようです。それは、脳が物事を覚えるのに知識やショックなどと「覚える事柄」を関連付けてしまうから、忘れるようとすることが「覚える事柄」を呼び覚ましてしまうからです。
いえ、私は脳医学や精神医学の権威などではないので言い切れることではありませんが、少なからず公崎さんや多くの方々に見られる傾向だと思います。そんなわけで、暗記物をするときは何かと関連付ける(語呂合わせや知識内にある何かと)ことが手段の一つとしてあります。

っと、これ以上の翻訳(感想)は長くなってしまうので、この辺りにしておきましょう。それでは、出るのかも分からぬ次回作に期待してお待ちしております。眠いぜ、この野郎ぉ〜。
2007-11-29 01:55:14【☆☆☆☆☆】暴走翻訳機
>>暴走翻訳機さん
とても丁寧な感想をいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございました^^*
そうですね、少し短くまとめすぎてしまった感もありますが……読みやすかった、との嬉しいお言葉をいただき、胸をなでおろす思いです(笑)

そして、変換ミスをやらかしてしまいました;;何度か読み返しはしたのですが、チェックが甘かったようです。本当に申し訳ないです。早速直して再投稿致します。わざわざご指摘いただき、ありがとうございました。

そして、私のつまらない私事メッセージにまでお付き合い下さり、本当に頭が下がります。私が思っていたことをそのまま文章にして下さって……心から感激致しました。そうなんです、忘れきってしまうことなんておそらく無理に等しいんですよね。それについては最後の場面の二人の余韻にも気づいていただけたようで、あぁもう何と言ったらいいか;;くどいようですが、とにかく感激致しました。

最後になりましたが、大変励みになる感想を本当にありがとうございました。
次回作は……そうですね、とりあえずはもっと綺麗に作品を作れるように頑張ってみたいと思います。差し支えなければ、またこちらにお邪魔したいと思っています^^
それでは。
2007-11-29 13:12:09【☆☆☆☆☆】公崎
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。