『アリス』作者:田中ひろし / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
暗い。空虚。人生に手ごたえもないサラリーマンの話。短編。
全角2048文字
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原稿用紙約5.12枚
 電車で耳にしたヘッドホンから、アメリカ人の歌声が聞こえてくる。女性の透き通るようなきれいな声だ。まるで歌手が本当に耳元で歌っているかのように、僕の鼓膜を伝って脳に心地よい刺激をあたえてくれる。電車の窓の外では風景が走り去って行く。ビルやマンションが通り過ぎ、鉄橋にさしかかって川が見える。また街が見えてきて、小さな人や車が見えてくる。
 会社についたら何をしようかな。満員の電車の中、吊革をつかめないポジションに立ってしまった僕は、後ろのサラリーマンに寄りかかりながら考えた。考えたとは言っても、結論はすでに知っていた。なにもないのだ。席に座ってパソコンを適当にたたき、なんとなく頼まれたコピーを取り、同僚との会話もろくにせず家に帰る。そんな毎日が延々と続いているのだ。僕にはこんな日々から抜け出す方法など見当たりもしなかった。
 そういえば、さっきから聞こえる音楽も流れるようでいいのだが、なんとなくパンチがない。歌詞だって英語だから、何を言ってるのか意味がわからない。流れていく景色も時速100キロで一瞬にして移り変わる。その一コマ一コマを切り取って味わおうとしても、到底僕の脳には処理しきれない。あれ、今僕はどこにいるんだっけな?満員の電車に乗っていたはずなのに、急に真っ白な空間に一人だけ立っている気がしてきた。そういえばイヤホンも耳から外れている。サラリーマンに寄りかかっていたはずなのに、僕は支えを失ってそのまま地面に後頭部から倒れていった。さらに僕の倒れたところにはちょうど穴があいていたようで、僕は真っ白の中を逆さまに落ちていった。落ちているはずなのに、風も感じない、音もしない。不思議の国のアリスにこんなシーンがなかったっけ?確かこのあと不思議な世界に迷い込むんだったな。そんなことが頭をよぎった……。
 穴の底はさっきの満員電車だった。元の場所にいつの間にか戻ってきていた。なんだ、つまらない。どうせならアリスと同じように、いや、もうハリーポッターとか、ドラえもんとか、なんでもいいから違う世界とあの穴がつながってたいらよかったのに。自分でも考えていることのくだらなさはわかっていた。でももうこんな空虚な世界にはうんざりだ。
 
 会社についても誰も僕に挨拶をする人はいなかった。自分から挨拶をすることもないから、自然に周りの人も僕に声をかけなくなっていったのだ。部長は奥のほうから僕のことを睨むように見ていた。クビになるのは何日後だろう。部長の視線を無視して、僕はデスクに座った。とりあえずパソコンを立ち上げアリスと200回打ち込んでみる。なにも起こらない。10分もかからなかったので、次は1000回打ち込んでみた。やはり何も起こらなかった。時々入るコピーの仕事をかたずけながら、僕は昼までそんなことを続けた。画面にぎゅうぎゅうずめにされたアリスの三文字は、なんとなく一つの作品として完成している気がする。誰にも価値が見いだせない僕だけの芸術。パソコンの画面は僕にしか見えない七色の光を放っていた。
 昼休みになんとなく屋上へ出てみた。風のない日だった。屋上には誰もおらず、すすけたコンクリートの地面がただ広がっている。いつの間にか僕は手すりを乗り越えてその一番端に立っていた。下のほうから、なぜか風が吹いているのを感じる。眼下の道路を歩く人々の表情も、七階建てのビルの屋上からだというのにはっきりと見えた。街路樹もやけにあざやかである。あんなに緑がきれいに見えたことは今まで一度もない。眼下の景色は僕の脳に鋭い刺激をいくつも送り込んできていた。朝、イヤホンが僕の脳に送りこんできたものとは全く異なる刺激である。これ以上の快感がこの世にあるものか。そう思わせてくれるほどに、その刺激は僕の脳を支配していた。
 飛び降りる決断を下すのはさほど難しくなかった。今僕は強烈な風を感じて急降下している。あの真っ白な空間を落ちていくのとはわけが違った。車の走るエンジン音が耳に飛び込んでくる。いつも聞いている音なのに、それがなぜか爆音に聞こえた。さらにそれは自分が風を切る音と相まって、僕の鼓膜と脳を覚醒させていく。怒涛のように押し寄せてくる興奮が時の流れさえも妨げていた。どうせ一瞬で地面に着くと思っていたが、まるで宇宙から飛び降りたかのように、僕は急降下しつつも長い時間その興奮を楽しむことができた。地球が僕に迫ってくる。はっきりとそれを感じる。
 そしてフィナーレはやってきた。僕は頭から地面に衝突した。今までとは比べ物にならないほどの衝撃の渦に僕は巻き込まれている。頭蓋骨がはじけ飛んで、脳がぶっ壊れた。体中の骨が連鎖的に爆発して、僕の肉体を粉砕していく。内蔵は骨の爆発の熱で蒸発し、気体と化した。血液は体外に吹き出し、手も足も耳も鼻も、とうとうすべてが破滅した。
 僕のデスクの上では、パソコンが煙をふいていた。画面上のアリスの文字は消えうせていた。
2007-05-30 17:26:06公開 / 作者:田中ひろし
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