『They are in the world.』作者:胡蝶愛生 / ِE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角11244文字
容量22488 bytes
原稿用紙約28.11枚
【序章】


 少女は顔を真っ青に目を潤ませて廊下を走っていた。腰まで伸びるダークブラウンの髪が乱れていても、肩と背中が開いた空色のドレスが着崩れていても今の少女にはそれを気にしている余裕はなかった。廊下を歩いていた侍女や雑談を交わしていた兵が驚きの表情で少女を呼んでもいつもの明るい返事は返ってこない。
 やがて「医務室」と書かれた扉の前で止まると少女は深く息を吸い、扉を開けた。
 城の医師や女官たちが薬や道具を持ってカーテンで遮られた場所に出たり入ったりしている。どうやら少女が入ってきたことに気づいていないらしい。
 ほんの少し、様子を眺めているとカーテンで遮られた一角から誰も出入していない場所があった。
 少女はそこへ向かって走る。
「ジェダイト!」
 カーテンを引きながら少女は医務室に響く程度に叫んだ。医師や女官たちは漸く少女の存在に気づく。
 夢であってほしいと冗談であってほしいと願っていたそれは目の前の光景で崩れ去っていった。
 枕元で顔を伏せて泣いている栗色の髪をした女性を銀髪の男性が抱き寄せ宥めている。ベッドを挟んだ反対側には顎鬚を蓄えた老人が立っている。
 そして、ベッドの上にはダンデライオンの髪をした少年が瞳を閉じて眠っていた。
 だか、聞こえるはずの寝息は聞こえてこない。
「ジェダイト?」
 真っ白い少年の顔に恐る恐る触れる。そこは普通の人間では有り得ないほど、冷たかった。
「ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト!」
 もう戻ってくることのない少年の名を呼び続ける少女。返事は決して返ってこない。
 頭の隅では分かっているのに、無駄なことだと分かっているのに呼び続けていないと自分も壊れてしまいそうで。
 少女の翡翠の瞳から涙が溢れ出てくる。
「ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト、ジェダイト!」
 少年の体を力の限り揺さぶる。だが、ベッドから落ちそうな勢いで揺さぶっても少年が起きる気配はない。
 男性に宥められていた女性は抱き寄せられている腕を解き、もう死んでいる少年を強く離さんばかりに抱きしめる。
「ジェダイト!」
 女性の悲痛な叫びが医務室に響き渡る。
 少女も女性も顔を濡らす涙を拭おうとはしなかった。否、拭うほど精神が安定していなかった。
 少女は少年の頬を引っぱたいたり抓ったり、女性はただ強く抱きしめる。
 男性は乱れた少年の髪を整え、老人は手を合わせて祈る。
「ジェダイト!」
 女性と少女の声が重なった。


【一章】


 栗色の髪を綺麗に結い上げ、いつも着ている騎士服ではなく礼服を纏っている女性は緩やかな歩調で階段を上っていく。隣には二人分の荷物を抱えた礼服を着ている銀髪の男性がいる。
 今二人がいるのは城下町から少し離れたところにある岬に続く長い階段。上り始めてから既に一時間は経っている。だが普段から鍛えている二人にすればこの程度のものは準備運動ぐらいにしかならない。
「あ、白詰草だわ。沢山ある」
 将軍という地位である二人が揃って休めることなんて滅多にない。一ヶ月に一度休暇がとれればましなほうだ。
 その二人が今日揃って休みをとることが出来たのには理由がある。
「十三年、長く思えて短いのね」
 最後の段を上った女性は一点を見つめて、小さく呟く。
 目線の先にあるのは一つの墓。
 女性――リール=コロンビアと男性――エメラルド=コロンビアの一人息子ジェダイト=コロンビアの墓である。
 二人は十三年前に死んだ自分の息子の墓参りに来たのだ。
 毎年この日だけは休暇を貰い墓参りに行く。現在のエトワールの十代目女王ティルニディーナ=マルク=アンリシールも国の要である二人が休むのを大いに賛成している。
 当時十歳だった姫が本気で本当に愛した男の墓参り。未だに姫は彼を好きでいる。
 その姫が彼の墓参りに来ていない。
 毎年黒のドレスを着て、両手一杯に深紅の薔薇の花束を抱えてやってくる姫。いつも二人より先に来ていてずっと祈っている姫。
 リールは毎年と違うその光景に知らず知らず眉を顰めていた。
「リール!」
 呼ばれたリールは驚いて体を震わす。気づけば隣にエメラルドの姿はなく、その本人は崖から下を覗いていた。真っ青な海しかない崖の下を、名前と同じ色をした瞳を大きく開けて見下ろしていた。
 視線を崖の下に落としたままエメラルドは手招きして覗くよう促す。
 エメラルドが何を見せたいのか分からなかったがリールは小さく頷いて素直に従った。
 芝生の上に女性らしく足を揃えて座り、ゆっくり崖の下を覗く。
「――っ!」
 覗いた瞬間リールは声にならない悲鳴をあげて、前のめりになる。崖から落ちそうなリールをエメラルドが確りと抱き留めた。
 顔色が悪い。温かいが血の気はない、唇も白い、冷や汗もかいている。とてもじゃないけど見ていられない顔。
 その白い唇がある人を紡ぐ。
「サファイア姫が!サファイア姫が――ああ!」
 そしてそのままリールは――卒倒してしまったのだ。
「おい、リール!?」
 体を揺さぶってみても名前を呼んでみても目を覚ます気配はない。リールはエメラルドの腕の中で完全に気を失っていた。
 崖の出っ張りに散らばっている深紅の薔薇の花束。
(サファイア様が、自殺?)
 エメラルドは、気を失ったリールを抱き上げる。
「?」
 その目線の先に一つ、光るものがあった。銀の鎖に通された丸いサファイアのペンダント。
 サファイアが御身離さず持っていたペンダント。

「サファイア!」
 ダンデライオンの髪を微風に靡かせ、緑竹の色をした瞳を宝石よりも輝かせた少年は皮手袋をした手を大きく振って大好きな人の名前を呼んだ。
「待って!」
 呼ばれた少女は腰まで伸ばしたダークブラウンの髪に真珠の髪飾りと黒のリボンをつけ、翡翠の瞳で少年を見つめていた。
「ドレスは止めたほうがいいよ、って僕言ったよね? 早くお出でよ僕のお姫様!」
 少年は無垢な笑顔で言い、石造りの階段を動きづらい絹の筒ドレスで一生懸命上っている少女を見る。
 午前中はずっと雨が降っていたためか石造りの階段はとても滑りやすくなっていた。水溜りも出来ていて少女のドレスの裾も、酷く濡れてしまっている。
「もう! この後わたくしの生誕パーティーがあるのよ? 早く帰らないとお母様に怒られてしまうわ!」
 そう文句を言っていながらも、少女の顔は笑っていた。
 伸ばされた手を強く握る。
 最後の一段を上り終えた少女は目の前の景色に心を完全に奪われた。
 太陽の反射によってまるで海底から雲の狭間に目がけて伸ばされた太い、虹。その虹の周りを飛び交う白鳥(しらとり)。
 絶景以上の美しさに少女の瞳に涙が伝う。
「僕が死んでしまう前に、君に知ってもらいたくて」
 少年の低い声は少女に聞こえていなかった。それでも構わず少年は続ける。
「だから今から言う約束を僕が死んでしまっても守ってほしいんだ」
 少女が少年に目線を向ける。
 少年はポケットからあるものを取り出すと少女の手を自分の手で包み込むように渡す。
「このサファイアのペンダントに約束しよう。僕と君の愛のために」
 そこまで言うと少年は強く少女を抱きしめ、耳元で囁いた。
「十回目の誕生日おめでとう。それと」

「『大好き、だ、よ』――!!!」
 少年は自分の寝言で目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、現実を見つめる。
 見慣れた部屋、乱れた自分の金髪と騎士服。そこまでして自分が寝ていたことに気づく。近くに置いてあった時計を見ると既に午後の三時を指していた。
「俺、いつ寝たんだ?」
 その呟きに答えるものはない。
 少年は重たい頭をどうには動かして、記憶を探る。
(午前中は町の警備に出されてて、その後はマーチと昼食べて、あれ? それって昨日だっけ? つーか俺、今日いつ起きたんだ? 今日は将軍が来ないから早めに寝て、それで……?)
 起きたばかりか、頭が回らない。そのせいか、誰かがこの部屋に入ってきたのにも気づかない。
(それに、またあの夢。なんで俺がサファイア様と、ジェダイトって奴の夢を見なきゃならないんだ)
 この少年は最近、自分が見る夢について大いに悩んでいた。週に四、五回は見るという全く同じ場面の夢。
 十三歳の少年少女たちにしてみれば、週に同じ夢を何度も見るのには実に奇妙な話であった。
 それに内容が内容である。選りに選って少年が敬愛する女王の娘と尊敬する将軍の息子が出てくる夢。人にも言えない。
(くそっ)
 内心自分を毒づいた少年は、
「っ!?」
 頭を思い切り殴られ、完全に目を覚ました。
「誰だっ!」
 そう叫びながら周りを見渡す少年。そこへ、甲高い声が降ってくる。
「幼馴染が遥々会いに来たというのに寝てるなんて失礼じゃない。ね、ヴェルディール=テレストル?」
 少年の目先に、赤毛のショートヘアー、海色の瞳をした少女が腰に手をあて仁王立ちして構えていた。窓から零れる太陽の光が少女の腰のベルトに通された鞭に反射して、輝いている。
 少年――ヴェルディール=テレストルは力なく笑うと口を開いた。
「久し振りで御座います、ルビー=ルテウス嬢。相変わらずお元気そうでなによりです。それよりも貴女の双子の姉であるサン=ルテウス嬢は一体?」
 芝居がかったヴェルディールの台詞に少女――ルビーは業とらしく答える。
「わたくしの姉サンはここエトワールの主君ティルニディーナ=マルク=アンリシール女王陛下にお会いしています。面会が終わり次第こちらへ向かうといっていました」
 恭しく礼までしたルビーに拍手が送られる。
 顔を上げ、目が合った二人は、次の瞬間、
「ははっ」
「ふふっ」
 笑っていた。
「もしかしてルビーの夢って劇団員? だったら、『願いを込めて』のロッド姫をやってくれよ」
「『願いを込めて』ってホリゾン=クリール作の? 幾らなんでもそんな役あたしじゃ一生出来ないわよ!」
 「願いを込めて」とは、小説家ホリゾン=クリールの大傑作。一国の姫ロッドと隣国の将軍レイスを中心に六人の戦いの物語。それを様々な脚本家が劇に仕立てて上映している。これを知らない人はいない。
「『願いが叶わないのだったら生きる理由もないわ。私は自分の願いが叶えばそれでいいの』」
 ルビーが手を握り、しゃがみ込む。ヴェルディールは声を低くして冷たく言い放つ。
「『俺はロッドの願いに興味はない。お前がどうなろうと知らない。ただ、俺とお前の関係がその程度のものなんだってことがよく分かった』」
 その台詞にロッド姫を演じているルビーの瞳が大きく開く。
「『私は今でもレイスのことが好きよ。でも、私はその気持ちよりも願いのほうが強いの。だから、最後のときでいいから、自分の願いを叶えたいの』」
 ロッド姫はそう言うと両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
「……中々いいじゃん」
 長い金髪を後ろで結わきながらヴェルディールは言う。ルビーは泣いている振りを止め、立ち上がり、首に巻いてあるスカーフを結び直しながら、口を開く。
「それよりも、ヴェール。彼女出来た?」
 途端、ヴェルディールの顔が真っ赤になる。口を開け閉めするヴェルディールに対し、顔をニヤニヤさせているルビー。
「なんで顔が赤いの? 城下町の子? それとも小間使い? ね、教えて」
 普段は幼く見える顔立ちも今ばかりはほんの少し大人の女性に見えたりする。女の子というのは色々知りたがるもの。しかもそれが男女の恋愛のこととなると質問の量が増加する。
(だから年上の女は嫌なんだ!)
 ヴェルディールより年下な子供は恋愛感情に疎い。そもそも恋愛はなんなのかと訊いてくる子供もいる。
 だが今ヴェルディールにそのことを訊いているルビーは見た目は背も低く幼い顔立ちをしているが、ヴェルディールよりも二つ年上の十五歳である。
「教えて」
 幼い頃世話になったし本当の姉のように慕っていたルビーに逆らえないヴェルディールは気づかれないように話題を変えた。
「サファイア様に会った?」
 その名を口にした途端、ほんの少し一瞬であったがルビーの顔が曇った。それを見逃さなかったヴェルディールは透かさず訊いた。
「この国に関わることだったら全て話してくれ」
 先と打って変わり低い声で真剣な表情でいるヴェルディールにルビーは沈黙で答える。
(本当にあたしが言わないと駄目? サンが言えばいいのに)
 実はルビー、ティルニディーナと面会したとき一つ言伝を頼まれたのだ。最初は断ったのだがサンが「女王陛下に頼まれるなんて信頼されている証拠じゃないの。それに私はティルニディーナ小母様に母様のことで話があるからすぐに行けそうにないの」と嫌味ったらしい笑顔で(そのときはティルニディーナに背中を向けて話していた)言ってきたので渋々承諾することになった。
「……今から」
 しかも頼まれた言伝はヴェルディールが言ったように確実に国に関わっている。内容を聞いたときは姉妹揃って本気で驚いた。
 一歩間違えれば国を滅ぼしかねない。
「今から、あたしがティルニディーナの小母さんに頼まれたことを言うから、ちゃんと、聞いて」
「え、分かった」
 困惑の表情をヴェルディールは素直に頷いた。
「『ジュエルオメイ騎士団騎士ヴェルディール=テレストルに妾ティルニディーナ=マルク=アンリシール告ぐ。明日(みょうにち)の明け、跡を消していった王家の第一王女サファイア=セント=アンリシールを求めよ。期日は今日(こんにち)のエメラルド、リール=コロンビア将軍夫妻の第一児ジェダイト=コロンビアの忌日(きにち)から歳晩まで。尚期日を抜かした場合、抜かした日子(にっし)の数の分、罰を下すこととなる。妾の言伝はこれのみ』」
 ヴェルディールの顔は真っ青だった。血色の瞳を揺らがせ、歯をガタガタさせている。
 その状態で言う。
「サ、サファイア様、が、いなくな、た?」
 直後、
「リール将軍!?」
「リール様!!!」
 外から兵や女官の悲鳴が、
「ヴェルディール! ルビー!」
 ルビーと瓜二つの容貌をした少女が乱暴に扉を開け、部屋に入ってきた。


【二章】


 時刻は五時。エトワール国の城下町に教会の鐘の音が響き渡る。遊んでいた子供は家へ走り、主婦は料理の本を開いて台所で腕を振るう。一家の大黒柱は愛する我が子の祝いにとプレゼントを持ち帰る。
 エトワール最大の規模と最多の客が集まる「音楽祭」がいよいよ明日、開催される。
 音楽祭とは世界各地からオーケストラや演奏者が集まり、一週間の間指定された音楽ホールで演奏を行う祭りである。代表者の募集で選ばれた代表者が素晴らしいオーケストラ、演奏者に各一票ずつ入れ、一番多かったオーケストラ、演奏者には最終日、城と町を繋いでいる広場で演奏してもらう。音楽祭に出られるのはオーディションに受かり、勝ち残ったもの。ベテラン揃いでしかも無料で聞けるのだから有難いことこの上ない。
 城下町には万国旗や花が飾られ、道を華やかにする。商店通りのほうも金を集めようと値札の取り替えを行っている。
 そのお祭り気分と懸け離れた城の一室。ヴェルディールの部屋に部屋の主とルビー、突如現れたルビーの双子の姉、サン=ルテウスがいた。
「サン!」
 混乱していながらも幼馴染と再会出来たヴェルディールは歓声をあげた。ベッドから降り、サンの手を取る。だが、
「今は再会を喜んでいる場合じゃないの」
 サンは冷たく言い放ち、ヴェルディールの手を払う。その普段では絶対に有り得ない行動に、ヴェルディールはまじまじと自分の手を見つめる。ルビーも驚く。
「サファイア様のことは聞いたのね? ルビー、貴女もヴェルディールと一緒にサファイア様を探しに行ってほしいの」
「え?」
 サンの思いもしなかった台詞にルビーの空色の瞳が大きく開く。ヴェルディールも思わず顔を上げる。
「どうして、あたしが?」
「どうして?」
 サンが復唱する。
「あたしにはこれから、エトワルの巨大樹の封印のかけ直しに長としての仕事が沢山残っているわ! それなのに」
(長?)
 ヴェルディールはルビーの台詞から最も気になる台詞を拾い上げた。
「ルビー、貴女自分がどうして長になれたのか、分からないの? 前の長の話を聞いていなかったの?」
「聞いたわ。でも長はずっと?神の子?の話しかしてないわ。――!!!」
 ルビーの顔から血の気が引いていく。ローブを握り締め、なにかを言おうと口を開け閉めする。
 二人の会話の意味が全く分からないヴェルディール。その意味を理解し、自分の存在の大きさに驚くルビー。現実に鈍い二人に事実を言うサン。
 僅かに流れる沈黙。
「天より授かった我が歌よ、大地を滑り空へ飛ぶ思いの場に奏でよ」
 謳うように呟き始め、沈黙を破ったヴェルディールに視線が注がれる。
 騎士剣を腰に携え、寝乱れていた騎士服を整え、詠唱する姿は神秘を思わす。
 足元に奇妙な文字で書かれた紋章が浮かび上がる。
「サン、ルビー。来なくていい」
 紡がれた拒絶に二人が動きを止める。その間に、素早く唱える。
「?瞬間移動?」
 体が軽くなり、意識が飛ぶ。
 自分の部屋が歪んでいくのが感覚で分かる。それと同時に自分が念じた場所が見えてくる。

「エメラルド将軍、これは一体!」
「説明は後だ。リールを医務室に連れていってくれ」
 担架で運ばれていくリールをただ見送ることしか出来なかったエメラルドは妙な感覚だった。
(ここ一ヶ月のサファイア様の行動と今日の出来事はなにか関係している?)
 リールの安否も気になるが。それよりもサファイアの突然の行動のほうが気になる。
 一ヶ月前からサファイアはなにか不自然だった。ジェダイトから貰ったサファイアのペンダントを穴が開くほど見つめたかと思ったら投げ捨てようとしたり食事もあまりとっていない。食べたと思えば気持ち悪くなり、吐く。そんなことがずっとあった。
 医者に診てもらっても異常はない。
(サファイア様は一体なにが理由でいなくなった?)
 手の内にあるサファイアのペンダント。だが、それはなにも語らない。
(ティルニディーナ様に報告だ)
 そう思い、一歩踏み出したとき、
「ヴェルディール?」
 奇怪な紋章の上に立つ少年の存在に気づいた。
 うっとおしい金色の髪を払い、血色の瞳に途惑いを混ぜて見つめている少年。
 一礼してから、ヴェルディールは低く静かに語った。
「エメラルド将軍。ティルニディーナ様は既に御存知です。そして、わたくしに探してくるよう命を下さいました」
「そう、か」
 エメラルドは小さく答え、手の内にあったものをヴェルディールに渡した。エメラルドの手の内にあったためか、ほんの少し温かい。
「サファイア様に会ったら渡してくれ」
 それを見たとき、ヴェルディールは驚いた。銀の鎖に通されたそのサファイアのペンダントは見間違えのない、
「僕と君の愛のために」
 夢で何度も見たものと全く同じだった。今の関係が崩れることがないとずっと思っていたサファイア、自分の危機を逸早く気づきサファイアに願いと誓いを託したジェダイトの関係を示す唯一のもの。
 二人の宝であるサファイアのペンダント。
「頼んだよ。五月の宝石(ジュエルオメイ)騎士団騎士ヴェルディール=テレストル」
 ヴェルディールの肩を軽く叩いて、滅多に見れない微笑みでエメラルドは見送る。
 その尊敬していた将軍の笑みを見れた嬉しさに一礼するのも忘れてヴェルディールは返事をした。
「はいっ!」

「あたしも行く」
 城門に立ち塞がるルビーに、ヴェルディールは顰面になった。
「一人で探しに行けるほど強くないでしょ? だからあたしがヴェールを守るわ!」
 腰のベルトに通された鞭に手をかけ、意気揚々に話すルビーは男の人以上に逞しかった。
 ヴェルディールはこの展開に喜んでいる自分を隠し、無表情で言う。
「駄目だ。俺の仕事を邪魔する気か?」
 こう言えば、ルビーは必ず「ヴェールがそう言ってもあたしは行く」と強引にヴェルディールの腕を引っ張っていく。昔からそうだった。
(ルビーがいるならその分旅路が楽になる)
 物心がついたときには自分の傍にいたルビー。一生の中では一番つき合いが長い。互いの性格、癖なんかも知っている。
 だが、
「勿論、ヴェールの仕事を邪魔する気よ」
 言われたのは、自分が言った疑問に肯定するもの。今までにない、初めてのことだった。ヴェルディールの中でなにかが壊れた。
「いい加減にしろっ!」
 ヴェルディールが気づいたときには、もう手遅れだった。
 細くて綺麗な形をした眉はぎりぎりまで吊り上がり、普通の人より小さい顔にはいつもの穏やかな表情はなくなにかに対する怒りが込められていた。不気味に思えるほど珍しい血色の瞳には目の前に立つ幼馴染の姿が映っていた。
「昔から俺の後ばかりついて来て、迷惑だ! これ以上、俺に関わるな!」
 本当はそんなこと少しも思っていない。ヴェルディールは自分の言った台詞に驚いた。そして、素直になれない自分を責めた。
「ヴェール」
 酷いことを言われたのに、ルビーは驚かず、怯えもせず、ヴェルディールに近づき、頭を叩いた。
「嘘を吐くときに無表情になるの、止めれば?」
 一瞬、意味が分からなかった。だから、「は?」と間抜けな声を出してしまった。再び頭を叩かれ、言われる。
「昔からの癖、でしょ?」
 いつの間にか、怒りはどこかへ吹っ飛んでいた。ヴェルディールは肩を上げ、呟いた。
「完敗」
 それを聞いたルビーはにっこり微笑み、ヴェルディールの腕を掴んだ。そのまま引っ張られ、ヴェルディールは体勢を崩す。自分の左足に右足が引っかかり前かがみになる。
「ちょっと待て! 俺まだ同行を認めてないぞ!」
「ついてってほしいって顔に書いてあるわ」
 ヴェルディールは口を封じられた。返すべき言葉がない。
「そんな変な顔しないで。大丈夫、あたしがヴェールを守るから」

「ヴェルディール=テレストル」
 誰だ、俺の名を呼ぶのは。
「良かったわ。私の声が聴こえるってことは、生きているのね。本当に良かった」
 だから、誰だよ。俺の生死がなんだよ。
「そうよ、ヴェルディールが死んでしまったら貴方の前世に永遠に謝れないし、私たちの苦労が水の泡になってしまうわ」
 一人で勝手に喋ってて名乗らないのかよ。しかも、俺の前世だとかお前の苦労ってなんの話しだし。
「だから、今言うわ。よく聞いて。いい、私たちが私たちじゃなくなる前に貴方の前世の魂を救って。そして、ここへ向かっている子を一緒に連れて帰ってね」
 は? なんだよ、それ。
「頼んだわ。それと、ご免なさい」
 なんで謝るんだよ。
「もし、守ってくれなかったら貴方も貴方の大事な人全員を貴方の前世と同じように、呪い殺すから」

「――っ!!!」
「ヴェール!?」
 声無き悲鳴にヴェルディールの名が重なる。ヴェルディールははっと我に返る。目の前に、瞳を丸くさせているルビーがいた。
 布団が掛けられているが、全く以って意味がない。体中が汗ばんでいるのが原因なのか、とても寒い。
 勿論、汗の原因が今見た夢だということは言うまでもない。
「どうしたのよ。凄い汗」
 ルビーが読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上げる。「悪い夢でも見たわけ?」と訊かれても今のヴェルディールに答えられる余裕はない。
「少し落ち着いたら? 確かに今日は色々なことがあったけど、明日は音楽祭なんだから楽しまなくちゃね」
 あの後二人は一度ヴェルディールの部屋に戻った。「今日はもう遅いし、明日は音楽祭で来た人から色々訊けばいい」というヴェルディールの尤もな意見が理由だ。
 ルビーは城の一室を借りた。サンとは別だが隣室である。
 城下町の商店通りで安い飯を食べているヴェルディール、ティルニディーナと楽しく喋りながら盃を交わし一流シェフがつくった豪華な手料理を美味しく頂いているサンとルビーの違いはなんだ。
「小母さん、亡くなったんだ。葬儀、行きたかったな」
 食後に聞いた悲しい事実。サン、ルビーの母親が亡くなったという悲しい知らせ。
「祈らせてくれ」
 本当の両親を知らないヴェルディールにとって二人の母親は本当の母親のような存在だった。
 だからルビーはヴェルディールが祈りたいといったときは喜んで賛成した。
「紙とその子が見守る世界を瞬きの間に生きた命よ。数知れず思いと支えを抱いた命よ。数多の世界を渡り、この世界での使命を終えた魂は新たな世界へ渡り命を生かすことだろう。今生きる命は、この世界に留(とど)まる魂は、再び同じ世界で生きることを願う」
 目を閉じ、手を組んで祈るヴェルディール。
「どうか忘れないでほしい。この世界で生きたことを、その命が生きた証は必ず残ることを」
 祈り終えるとベッドで大の字になる。そして枕元に置いてあった魔法書を手に取り、一言。
「魔法を教えてくれ」
 そう言われ、ルビーはテーブルを挟んだ椅子に座り、魔法を教えようとしたのだが、途中で本人が眠ってしまったのだ。とりあえず、布団を掛けておいたら、魘されて全員汗だらけで起きたのだ。
「悪夢から覚めたばかりのヴェールにこんなこというのは嫌なんだけど、明日の音楽祭で情報を集めようとしてもさ、知らない人のほうが多いと思うんだよね。ね、イーサーへ行かない?」
「イーサー?」
 ヴェルディールが面倒臭そうに問い返し、ルビーが頷く。自分の荷物の中から一枚の古い地図を取り出すとヴェルディールの目の前で大きく広げて見せた。
「イーサーまではエトワルの巨大樹経由で二日あれば着くわ。そこでお願いが二つあるの。急がなきゃならないのは分かってるわ」
 上目遣いに見上げてくるルビーに業と溜息を吐いて見せて「なに?」と訪ねる。ルビーは音楽祭のパンフレットを手に持ち、
「エトワルの巨大樹は半日あれば着くでしょ? 午前中にエトワルフィルハーモニー楽団のブラームス交響曲第一番が聞きたいのね。もう一つは、ほんの少しでいいからエトワルの巨大樹の様子が見たいわ」
 早口に言ってきた。
(エトワルフィルハーモニーってエトワールで一番実力のあるオーケストラだよな?)
 音楽の発祥地といわれるエトワールでは国民の殆どが音楽の歴史や演奏を学んでいる。オーケストラのレベルも他のオーケストラよりも数倍高い。
「自由席だろ? 座れんのか?」
 その問いにルビーは不気味に微笑んだ。
2007-04-21 14:01:59公開 / 作者:胡蝶愛生
■この作品の著作権は胡蝶愛生さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 登竜門の皆様、初めまして。
 胡蝶愛生(こちょうあいう)と申します。
 この度は私もここで小説を書かせて頂くことになりました。
 皆様に一歩及ばずのところですが、一生懸命に書かせて頂きました。
 どうぞ宜しくお願い致します。

 二〇〇七年
 四月二日   序章、一章、更新。
 四月二十一日 二章、更新
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