『月は出ているか』作者: / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
涅槃。それは仏教界では吹き消すこと、または吹き消された状態を表す。そして一般にはあらゆる煩悩から開放された究極の理想の悟りの世界を指す。そして死、特に釈迦の死を表す。
全角22363文字
容量44726 bytes
原稿用紙約55.91枚
第一部



 二本目のピース・ライトに火をつけて柳田祐一は言った。
「平和を味わえるのはこのひと時だけだ」
「そうでもないぜ。仕事が終わりゃ、うまいビールが待ってる」松本が答えた。
 柳田が煙を吐く。
「お前は毎日楽しそうでいいよな。酒を飲んでいれば幸せなんだから」
「おいおい、人をアル中呼ばわりするなよ。まったく、そんな調子だからお前には彼女の一人も出来やしないんだ」
 余計なお世話だ、と言おうとしたところで休憩時間の終わりを告げるベルが鳴った。
「あーあ、休み時間てのは本当にあっという間だな」松本がぼやく。
 時刻は午前三時十分。柳田は煙草の火を消し、飲み干したコーヒーの缶を捨てて言った。
「いつまでこの二交代は続くんだろうな」
「さあね。ここんとこかなり忙しくなってきてるから、当分の間はこのままだろうよ。」
 株式会社藤田金属工業は、国道16号線から程近い工業団地の一画にある。創業三十年を迎えたばかりの中小企業だ。柳田は入社三年目の若手社員で、NC旋盤オペレーターという仕事についている。このところ業績を伸ばしており、大手からの仕事が増えてきている。そのため、柳田と松本が隔週で夜勤班に入ることとなったのだ。
「そうだよな。やるしかないんだよな。仕事なんだから」
「そういうことだ」
 二人は立ち上がり、休憩室を出ると機械のある建屋に向かって歩いていった。

 旋盤とは、主に円筒形の部品を加工するための工作機械だ。材料を回転させ、バイトと呼ばれる刃物を押し当てて削り、目的の形に加工する。NC旋盤はそれをコンピューターとプログラムによって制御する旋盤ということになる。同一の部品を大量生産するのに向いており、クランクシャフトやネジ切りなどによく使われる。

 機械の扉を開け、エアーで切削油を吹き飛ばす。マイクロメーターで寸法を測り次の材料に交換、扉を閉めて始動スイッチを押す。この三年間毎日やってきた繰り返しだ。
「これから先どうなるのかな…」
 柳田が呟く。近々設備の見直しが行われ、NC旋盤もロボットによる自動化が進むらしい。人間は機械の監視をしていればいいという事になる。機械に動かされる人間。そうなってしまうことに柳田は失望していた。
「孝弘、お前はこのままでいいと思うか。人が機械に動かされるなんておかしいと思わないか」
 孝弘、というのが松本の名前だ。二人は同期である。
「祐一、そんなに固く考えるなよ。ロボットが入れば俺達はますます楽になる。ただそこにいるだけで金が貰えるなんて最高じゃないか」
 楽天家だな、と思った。こいつはいつでもポジティヴな思考をしている。
「まったく…俺もお前みたいになってみたいよ」
「何を暗く考えてるんだ。ほら、機械が止まったぞ、さっさと回せ回せ」
「わかったよ、やればいいんだよな、やれば」
「そういうことだ。余計なことを考えるな。おっと、俺も機械がお呼びだ」
 相手をするのが面倒になったのだろう。タイミングを見計らったように松本は自分の機械に向かっていった。




 大通りから一歩踏み込んだ住宅地に建つ一軒のアパートの二階、階段を登った一番奥の部屋が柳田の住まいだった。
 夜勤明けの土曜日の朝、青白い顔をした柳田は駐車場に中古のB15サニーを停めるとコンビニの袋を提げて階段を登った。ドアの郵便受けには新聞が数日分溜まっており、溢れたものはそのまま積み上げられていた。
「資源の無駄遣いもいいところだな」
そう呟くと鍵を開け、部屋に入った。
 玄関には他に靴は無く、それどころか下駄箱らしきものすら無かった。
 乱雑に靴を脱ぎ捨てると居間に向かい、壁に寄り添うように置かれた小さなテーブルに買ってきた弁当を置く。これと同じ弁当を柳田は二日前にも食べていた。
 部屋は足の踏み場も無いくらいに散らかっており、カーテンは常に閉じられたままだ。時折ちらつく蛍光灯をつけると、最近買ったばかりのミニコンポにCDを入れて再生ボタンを押した。
 音量を小さめに絞るとテーブルに行き、温められていない弁当を食べ始める。
 柳田にとって食事はあまり楽しいものではなかった。一人で食べることの寂しさもあるが、料理を作るという作業の煩わしさが嫌でたまらなかった。自分で作るくらいなら、何も食べないほうがマシだと思っている。食べるのは早い方だったが、それは一刻も早くこの苦痛を終わらせたいからだ。
 簡単な食事を終わらせるとミニコンポの隣にあるパソコンを起動させた。半年前に出たボーナスのほとんどを使って購入したノートパソコンで、インターネットにも繋いである。
 起動画面を眺めながら煙草に火をつけ、灰を灰皿に落とす。
 メールソフトを立ち上げる。受信メールは三通だった。いずれもよく覗いているサイトからのメールマガジン。友人からのメールなど一度も来たことが無かったが、それでもメールが来ている、というだけで小さな喜びを感じていた。
 常連の掲示板やブログなどを一通り巡回すると満足げに電源を落とす。以前は携帯電話を使ってネット巡回していたが、料金がかさむので思い切ってパソコンを購入したのだった。
 ふとテレビの上の時計に目をやると午前九時半だった。この時計は電波時計だ。十万年に一秒の誤差という信頼性が気に入って購入した。クォーツ式の時計は月に十五秒も狂うので使い物にならないと思っている。
 テーブルの上から電子音が聞こえた。持ち歩いてはいるが滅多に着信の無い携帯電話が電池切れになった。
「そうか、お前ももうお休みか…」
誰も聞いていないジョークを放つと、寝巻きに着替えることも無いまま万年床に潜りこんだ。


 どのくらい眠っていただろうか。消し忘れた電気の眩しさで目が覚めた。時計は午後二時を指している。
 だるそうに起き上がると、携帯をコンセントに繋ぎっぱなしの充電スタンドに載せる。
「寝る前に充電しておけばよかったな」
ドライブでもしよう、と思い立った時だった。携帯を持たずに外出するのは不安なのだ。
「まあいいか」
 俺はクルマが大好きだった。本当はスポーツカーに乗りたいのだが、高校を出たばかりの三年前では金も無く、仕方なく今のサニーを買ったのだった。

ふと、松本のことが思い出された。同期の松本は地元では有名な金持ちの家の生まれで、親に買ってもらったクラウンに乗っていた。松本とはクラスは違うが高校も同じだった。比較的有名校だったT工業高校を出た二人は、たまたま同じ会社に就職したというわけだ。
 この職場に配属されたとき、松本をライバル視していたこともあった。だがそんな気持ちもすぐに失せた。奴と俺とは何かが違っていた。
 仕事の出来る奴、というタイプだろう。同じ機械を使っているにもかかわらず、松本は俺の生産量を簡単に上回ってしまう。要領がよく、物覚えもよかった。
 俺はといえば、単純なミスでも何度も繰り返し、不良品ばかり出していた。上司に叱られることもしばしばで、その度に深く落ち込んでいたものだった。
「何が違うんだろうな…」胡坐をかき宙を見つめて呟く。
 思考というより嘆きに近いため息をつくと、サニーのキーを手に立ち上がった。




ある程度予感はしていた。それは第六感とでも言おうか。この三年間を平穏無事に過ごすことなど土台無理な話だと、心のどこかで諦めていた。なぜそんな予感がしていたのかと聞かれれば、根拠は無いのだが。しかし、それは現実のものとなって襲い掛かってきた。
 午前中の授業が終わり、給食の時間。給食係の班が手際よく皿を持った生徒の列を片付けていく。皿は一枚のプラスチック製でノートパソコンくらいの大きさがあり、四つの仕切りがある。それぞれの場所に白米やカレーを盛り付けていくのだった。
俺もその列に加わり、盛り付けられていくカレーを眺めていた。
 自分の席に戻ると、そこには既に盛り付けられた一人分の食事が用意されていた。
「あれ、誰か俺の分もやってくれたのかな」
 一瞬、喜びと感謝の気持ちがこみ上げてきた。だが、それは一時の高揚に過ぎなかった。よく見ると、カレーは仕切りを飛び越えて全体にかけてある。先割れスプーンは既に使った跡があり、それは皿をかき混ぜたと一目でわかった。
 チョークの粉がかかっていないだけよかった、と強がってみたが、視界はぼやけてきた。涙が滲んできたのだ。
 その『豪華』な食事はいただけない。始末に困った俺は残飯を教卓の上に放置し、自分で用意した給食を食べ始めた。
 カレーが不味いと思ったのはこの時からだった。

 昼休みになると、俺の元に高田亮介がやってきた。教室の隅に連れて行かれ、数人の男子に囲まれた。
「どうして食べなかったんだよ、せっかく用意してやったのに」高田が半笑いを浮かべて言った。
「かき混ぜてあったから…」
「ひでえ奴だな、俺が作ってやったんだぜ。食えよ」
 俺の胸を突き飛ばす。本棚が背中に当たり、鈍い痛みを感じた。
「よう、これの真似したら許してやるよ」
 そう言って、本棚から一冊の本を取り出した。そこにはアニメ映画のキャラクターが大口をあけて叫んでいる絵が載っていた。
 俺は高田から目をそらし黙っていた。
「なんだよ出来ないのかよ。情けない奴だな」
 沈黙。取り巻きの視線が痛い。
 その時、チャイムが鳴り昼休みが終わった。
「あーあ、つまんねーの。これだからバカは…」
 高田達は立ち去って行った。

 俺が登校拒否にならなかったのも、単に気が弱かったからだ。嫌なものは嫌だと突っぱねる勇気があったなら、学校での出来事を素直に親や担任に訴えて戦略的撤退という手段を選べただろう。
 義務教育の弱点は、生徒が学校を選べないという事だ。いや、仮に選べたとしても、十年そこそこしか生きていない子供に自分の進路など決められるわけは無いのだが。
 高田だけではない。クラスの誰もが、柳田祐一という人間を嫌っていた。そしてその感情は、いじめという形で発散されることとなった。
 いじめはアレルギー反応だと思う。本当は無害な物質でも、何かのきっかけでそれを有害だと認識してしまう。エネルギーの発散法を知らない子供達の間では尚更だ。暴走した免疫は行き場をなくし、身近な物質をためらいなく攻撃する。
 俺がこの中学校で遭遇したいじめは、単に運が悪かったとしか言いようが無い。そう言い聞かせている。

 サニーを運転している間中、ふとそんなことを思い出していた。


 ドライブから帰宅すると、携帯にメールが来ていた。
『本日二十時よりいつもの店で飲み会! 参加する方は連絡ヨロシク!!』
 小、中学時代の数少ない友人の一人である宮本達也からだった。
 達也とは小学校の時にずっと同じクラスだった。当時から、毎日のように放課後になると互いの家を行き来して遊んだ仲だ。今では親友と言ってもいい程で、こうして時々顔を会わせている。中学に入ってクラスは分かれたが、家が近いこともあって交流は続いていた。
「いいタイミングだな」
 手馴れた様子でメールを打ち、送信した。

 駅前のロータリー。談笑する客待ちのタクシー運転手。ビラ配りのアルバイトが道行く者に声をかける。
 改札を出た祐一が階段を下りていると、向かいの居酒屋の前に三人の男が立っていた。
 達也の他に、霧島裕輔と関谷健二だ。共に中学の同級生。
「お待たせ」祐一が言った。
「おう、久しぶり。少し痩せたかな」と、達也。
「そうかな。じゃ、入ろうか」
 
 ビールを一杯空けたところで裕輔が口を開いた。
「柳田は最近どうよ。仕事は順調?」
「そうだな、夜勤も始まったし、いよいよ大変になってきたよ。大手からの仕事も増えてきたし、忙しくなりそうだ」
「随分と頑張ってるんじゃないか。さっきも言ったけどこの前会ったときより痩せてるもん。」と達也が口を挟む。
「ああ、また五キロ落ちたよ」
「そんなにか。苦労してるなあ」
「いいんだよ。ウチの会社でしか出来ない仕事もあるし、やり甲斐はあるよ」
「そうだよ、その意気だ。いいよな、俺も就職活動頑張らなくちゃ」
祐一以外は皆大学に進学した。間もなく就職の時期が迫っている。
ピース・ライトに火をつけて祐一が続ける。
「働くってのはよ、戦場に行くみたいなものだ。ボヤボヤしてるとそこらじゅうにいる敵に喰われちまう。だから常に気を張って、負けるものかと突っ張ってなきゃいけないんだ」
「ああ、なるほどね。そうだよな。よし、俺も負けねえぞ」裕輔が気合の入った声で答えた。
 大丈夫、お前らは負けることなんて無いだろうよ。俺とは違うんだから。
 不意にそんな言葉が出そうになったのを、祐一はビールで押し流した。
「そういえば、高田亮介っていただろ」健二が口を開く。
「高田?ああ、そんな奴もいたな」眉間にしわを寄せる祐一。
「あいつ、最近結婚して子供もいるらしいぜ」
「マジかよ、まああいつならありそうな話だな。当然出来ちゃった結婚なんだろ」
 達也があきれた調子で茶化す。
「そうなんだよ、よくわかったな」
「ありそうな話だよ。昔からやんちゃだったしな」
 二人の会話を黙って聞いていた祐一は二本目の煙草を取り出すと言った。
「あんなのが父親になるなんてな。この世もお終いだぜまったく…」
ハハハ、と全員が笑った。



 飲み会がお開きになり、仲間と別れた柳田はホームで電車を待っていた。そして物思いにふける。
 俺は何かが違う。それが何なのかはっきりとは解らないが、違うという事は解る。そんな漠然としたわだかまりが生まれたのは最近のことだ。
 職場の人間関係に不満は無かった。体力的にきつい部分があったのだろうか。いや、もう三年もこの仕事を続けている。学生時代に比べたら確かに体重の減少は著しいものがあったが、理想の身体を手に入れたと思っている。
 何か見えない障害物に阻まれている。そんな気がしてならない。
 高田の事も気に入らない。あんなことを平気でする冷酷な男だ。それが子供を作った。蛙の子は蛙…どんな人間に育つか見ものだ。
 柳田は子供が嫌いだった。デパートの玩具売り場でおもちゃをねだり泣き喚く子供を目にしては、背筋を凍らせていた。あの声を聞くと無性に腹が立った。自分は親というものにはならないだろう。自分の子供ならかわいいという話を聞くが、そんなものは信じていなかった。自分の子供なら尚更一緒にいる時間が長い。そんな身近なところにストレスの元凶がいたのでは円満な家庭など築けるわけが無い。
 柳田には性交渉の体験がまだ無かった。そのことは小さなコンプレックスだった。自分と同い年の高田には、それは日常のものとして行われているに違いなかった。そのことに、嫉妬のような感情を抱いた。
 子供が身近にいるストレスを高田も味わっているのだろうか。そう考えると、高田も哀れな男なのでは、という気がしてきた。いずれ児童虐待で逮捕されてくれないか、などと勝手な妄想を広げていた。

二十三時を回った頃、柳田はアパートに帰ってきた。軽く頭痛がしていた。酒が入っても尚、気持ちは今一つ晴れない。
 冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出すと、戸棚から小さめのコップを出して注いだ。椅子に腰を落ち着け、煙草をふかす。お気に入りのCDをかけることも、テレビをつけることもせずにただ煙の揺らめくのを見つめていた。
 俺は何をやっているのだろう…
 毎日が同じことの繰り返しだ。朝起きて、仕事をする。帰ってきてまた眠る。週末になるとどこに行くでもなくクルマを走らせる。
「俺は何をやっているのだろう…」今度は声に出してみた。
 問いかけに答える人がいるわけも無い。相変わらず煙草の煙は揺らいでいる。
 夜が更けていくのを、ただやり過ごしていた。
 テーブルに伏せたまま、いつの間にか眠ってしまったのだろう。気付くと午前二時を回っていた。頭痛が酷くなっていた。
 重い体を引きずって寝床に辿り着くと、そのまま倒れるようにして眠りについた。


 月曜日。いつものことだが朝になってもなかなか目が覚めず、やっとのことで起き上がってもまるで自分の身体ではないような違和感に襲われていた。朝食はいつも摂らないのが普通だったが、今日はいつにも増して食欲が無い。少し疲れているのだろう、と思ったが仕事を休むわけにはいかない。どうにか奮い立たせて支度をし、サニーのエンジンに火を入れた。
 規則正しく、寸分の狂いも無く同じ動作を続けるNC旋盤を眺めながら、柳田はあくびを二度した。
「なんだ、寝不足か?」松本が緊張感の無い顔で聞いた。
「ああ、少し疲れてるかな」
「月曜日だってのに大丈夫かよ。さては昨日いいことがあったな」
「いいことって何だよ。俺が女に縁がないのはお前が一番知ってるだろ。」
「ははは、そうだった。こりゃ失敬」
「月曜日は辛いのが当たり前じゃないか。お前はどうしてそう気楽でいられるんだ」
「そうか?日曜にリフレッシュして、月曜は張り切って仕事するのが普通だろ。その為に休みがあるんだから」
「お前はいいよな、まったく…」そう言って、煙草に火をつける。
「ま、無理だけはするなよ」
「無理、ね」
無理をしないで働くなんて事が出来るわけがない。そう信じている。頑張れというのはイコール無理をしろと言っているのと同じことだと思っている。いかに自分の限界を超えて仕事をこなすか。どれだけ消耗するかが勝負なのだと。
「頑張ってるつもりなんだけどな」
 誰もが重く疲れた身体を強引に引きずって、毎日会社に来ている。それだけでも大変なのに、自分よりも仕事の出来る連中は沢山いる。その差を見せ付けられる度に、柳田はそう自分に問いかけるのだった。

 そう、俺の感じている違和感とはこれなのだ。誰もが張り切って仕事をしているように見える。俺はそのことが不思議で仕方ない。無論、疲れることは誰でもあるだろう。だが、誰もその疲れを見せないのだ。
 このところ特に、身体がだるくて仕方ない。それでも熱があるわけでもなく、午後になれば元気になるので単に朝に弱いだけだろうと思っている。
 それにしても三点なのだ。どこか周りとの違いを感じる。俺一人だけ、虚像の世界に取り残されているのではないか。俺一人だけ、操り人形なんじゃないか。何だろう、この違和感は…
 そんな事を考えながら、いつも通りの月曜日が終わった。


第二部



「それ、珍しいわね」
祐一が吸う煙草を見て、神崎幸恵が言った。
「ああ、コンビニでも売ってないところが結構多くてね」
「カメルっていうの?」
「キャメルだ。キャメル・ライト」
「ふうん。やっぱり珍しい」そう言って、幸恵はグラスの中のカシスオレンジを一口飲んだ。
「それにしても、祐一君て変わったよね。あんなに大きかったのに、すっかりスマートになっちゃって。随分と男前になったじゃない。五年も経つと人って変わるものね」
 幸恵は高校の同級生だった。工業高校という環境には女子生徒は数えるほどで、当然好意を寄せている男子は少なくなかった。祐一もその一人ではあったが、想いを打ち明けるほどの勇気は持ち合わせていなかった。それが、この同窓会で再会したのだった。
「神崎さんも変わったよ。昔は俺なんて見向きもしなかったのに、今はこうして向かい合ってる」
「あたし、祐一君のこと嫌いじゃなかったのよ。でも、話しかけようとするといつもどこかに逃げて行っちゃうんだもん。嫌われてるんじゃないかって思ってた」
「今だから言うけど、俺神崎さんのこと…」
「あたしのこと、何よ」
「いや、何でもない」
「えー、何よ気持ち悪い。ハッキリ言いなさいよ。そういうとこは全然変わってないんだから」
「じゃあ言うよ。好きでした。俺は神崎さんが好きでした」
「ちょっと、何言ってるのよいきなり。びっくりするじゃない」
「なんだよ、言えっていうから…」
 そこに、深山が割って入る。深山は当時、祐一の隣の席だった。
「なんだお二人さん、同窓会で五年越しの告白か?」
「深山…そ、そんなんじゃねえよ」
「おいおい、飲みすぎか。顔が真っ赤だぞ祐一」茶化す深山。
「ちょっと風に当たってくる」
「あ、あたしも」取り乱した様子の幸恵。
「初デートか、頑張ってこいよ」
 祐一が、うるせえ、と吐き捨てるように言った。
 居酒屋の軒下。空には星が輝いていた。
「まったく、深山の野郎後でたっぷり飲ませてやる」
「そうね、お仕置きしてあげないと」
ははは、と笑う二人。
「なあ、改めて聞くけど、今の俺ってどうかな」
「いいんじゃないの。かっこよくなってるし、五年前に比べたらすごくいい」
「そうか…もう一度言う。俺は神崎さんが好きだ」
「その、なんて言えばいいのかな。気持ちは嬉しいんだけど。久しぶりに会って、いきなりそんな事言われてもどうしたらいいかわからない」
「俺じゃダメだってことか」
「そうじゃない、そうじゃないんだけど…」
「じゃあ、友達から始めよう。それならいいだろ」
「うん、そうだね。それなら…」
 美しい三日月に、雲が流れていた。


 五年ぶりの同窓会から二日経った火曜日の夜。いつも通りに祐一が仕事から帰ってきた。
 汚れた作業着をつめたリュックサックを床に放り投げると、台所でインスタントのコーヒーを淹れて居間のテーブルで一服していた。
 煙草が随分と短くなった時だった。誰かが玄関の呼び鈴を押した。
「はい、どちら様ですか」
「あの、隣の渡辺です」
 鍵を外しドアを開けると、そこには隣室に住む女子大生の渡辺美雪が立っていた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「いえ、実はこの子を預かっていただけないかと思いまして」
 彼女が差し出したのは小さな水槽だった。中にはミドリガメが一匹、水に浮かんだ餌を追いかけていた。
「友達から貰ったんですけど、私こういうの苦手なんですよ。捨てるわけにもいかなくて、もし良かったら飼ってもらえませんか」
「亀ですか…ええ、いいですよ」
「本当ですか、助かります。ありがとうございます」
 一人暮らしというのは寂しいものだ。そこに少しでも花を添えることになるなら、と祐一は快諾した。

 突然同居人が増えた祐一。胡坐をかき腕を組んで亀を見つめる。
「名前をつけてやらなきゃいけないな」
 部屋を見回す祐一。すると、コンポの前に落ちている一枚のCDが目に入る。
 それは、ある歌手のミドルネームだった。
「ドナルド…そうだ、ドナルドにしよう」
 こうして、二人の同居生活が始まったのだった。

 日曜日、祐一と幸恵は駅前にある喫茶店「ラベンダー」にいた。
 注文したコーヒーが運ばれてくると、祐一が切り出した。
「まさか神崎さんのほうから連絡してくるとは思わなかったな」
「そう?だって祐一君、あれからほとんどメールもくれないんだもん。寂しいから思い切って誘ってみたのよ」
「そっか、俺も仕事が忙しくてさ。なかなかゆっくりとした時間が持てないんだよ」
「随分と頑張ってるみたいね。でも無理しちゃダメよ。祐一君、この間会った時も顔色悪かったし、元気も無いみたいだった。ねえ、仕事は楽しいの?」
「どうかね。毎日仕事仕事、仕事するために生きてるような気がしてきてるよ。まったく、同じことの繰り返しでいい加減、嫌気が差してくる」
「そんな顔しないの。笑う門には福来るって言うでしょ。何か楽しみを持たないと」
「楽しみか…ドナルドをかわいがるくらいかな」
「ドナルド?アヒルでも飼ってるの」
「ははは、亀だよ。小さなミドリガメでさ。この間隣に住んでる人から貰ったんだ。なかなかかわいいぞ」
「ふうん。もっと外に出て何かしようとは思わないの」
「じゃあドナルドと散歩でもしようかな」
「何それ。亀にヒモつけて歩くなんて見たことない」
 あはは、と声を上げて笑う幸恵を見て、祐一はコーヒーを啜った。
「じゃあ、そろそろ行こうか」伝票を手に立ち上がる祐一。
「そうね、今日はたっぷり買い物に付き合ってもらいますからね」幸恵が意地悪そうに微笑んだ。
 レジで会計を済ませている時だった。入り口から、目出し帽を被った男が入ってきたかと思うと、素早く祐一の頭の上に何かを振り上げた。
 鈍い音が響いた。幸恵の悲鳴が聞こえる。小銭が祐一の手からこぼれ落ちる。
「動くな!」男の怒号がこだました。




 駆けつけた警官によって、強盗犯は逮捕された。後に警察から聞いた話では、男は近くの銀行に強盗に入り警官隊に包囲された。どうにか逃げ出した犯人が篭城しようとこの喫茶店に飛び込んだという事だ。そして、たまたま入り口の一番近くにいた祐一がハンマーで殴られた。
 救急車の車内に、幸恵の泣き叫ぶ声が響く。
 頭からおびただしい出血をし、人工呼吸器を付けられたまま身動き一つしない祐一の周りで、救急隊員が的確に手当てをする。
「祐一、祐一!」幸恵が声をかけるが、反応を示さない祐一。
 祐一が病院のベッドの上で意識を取り戻したのは、事件から三日が経った日の夜だった。
「幸恵…」
「祐一!」幸恵は涙でぼろぼろだった。この三日間、ずっと傍にいたのだ。
「手が…手が動かない…」
 医師が告げた言葉は、二人にとって過酷なものだった。殴られたときに脳の一部に障害が残り、右手の麻痺という結果になってしまったと言うのだ。
 非情な宣告は、祐一以上に幸恵を苦しめることとなった。
「ごめん…あたしがあの店に誘わなければこんな事にはならなかったのに。」
「いいんだよ、運が悪かったんだ。こんなもの、リハビリ次第でどうにでもなるだろう。そんなに責任を感じることはないよ」
「本当にごめんなさい。あたし、何でも協力するから。ずっと傍にいてあげるから」
 その日から、幸恵は時間の許す限り病院に通い、祐一に付き添うのだった。

 事件から一週間が過ぎた。
阿部圭介が祐一の病室を訪れた時、それはちょうど幸恵がリンゴの皮をむき終わりフォークを祐一に手渡したところだった。
「柳田君、散々な目に遭ったな。どうだい身体の方は」
「どちら様ですか」幸恵が聞く。
「これは失礼、こういう者です」
 阿部の差し出した名刺には、『株式会社藤田金属工業 総務課長』と書かれていた。
「ああ、祐一君の会社の方ですか…」阿部にやや戸惑いの目を向ける。
「ちょっと二人で話をしたいんだが、席を外してもらえるかな」
「え、ええ…わかりました」
 幸恵が病室を出て行くのを見届けると、阿部が口を開いた。
「いや、事件の話を聞いたときは驚いたよ。まさか君が巻き込まれるとはな。」
「すいません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや、いいんだ。松本君も君の分まで頑張ってくれているからね」
「それで、話というのは何でしょうか」
「うん、君の身体のことなんだが。聞いたところでは、右腕が麻痺してしまったそうだね」
「ええ、実はそうなんですよ。これからリハビリを始めるところでして。なんとか一日でも早く会社に戻りたいと思っています」
「そうかい。非常に言いにくいんだが…そんな身体でうちのような仕事が続けられると思っているのかね」
「と仰いますと、俺に会社を辞めろと?」
「いや、そうは言っていない。ただ、上の連中が君の事を気にしていてね。不自由な身体で無理をして続けていくのはきついだろう」
「ですからこれからリハビリをするところなんです。まだ仕事が出来なくなると決まった訳じゃ…」
「君の言いたいことはわかる。だが元に戻る保証はないだろう。治らなかったらどうするつもりだね。腕が使えないんじゃ、仕事なんて出来るわけがないだろう」
「それは…」
「まだ時間はある。ゆっくり考えてくれたまえ。それじゃ、お大事に」
「待ってください」
 一方的に話をさえぎると、阿部は病室を出て行った。入れ替わりに、廊下で待っていた幸恵が戻ってきた。
「阿部さん、何を話したの?」
「会社を辞めろってさ。この身体じゃ使い物にならないだろうってよ」
「そんな、まだどうなるかわからないじゃない。元通りとはいかなくても、普通に仕事が出来るくらいになるかもしれないのに」
「足手まといは邪魔なんだろうよ。あの会社の考えそうなことだ」
 祐一は病室のドアを睨み続けていた。

 頭の傷も大分癒え、退院が許可された祐一は自宅で布団に包まっていた。ここ数日、食事らしきものはろくに口にしていなかった。こうしている時間が、何より心が落ち着いた。
 本当は二日に一度のリハビリで通院しなければいけなかったが、そんなことは何の得にもならないように思えた。実際のところ、片腕が動かないというだけで日常生活は困難の連続だった。唯一の趣味だった車の運転も出来なくなり、すっかり生命力が衰えてしまったのだった。
 トイレに行こうと起き上がった時、ふと鏡が目に入る。そこには、目の下に隈が出来、色白で頬のこけたヒゲ面の男が生気の感じられない姿で映っていた。
「いい男になれたな…」そう自嘲ともとれる言葉を吐くと、ふらふらとした足取りで歩き出した。
 用を足すと布団の上に座り、キャメル・ライトを吸う。
俺はこの先どうなってしまうんだろう。会社は辞めるしかないだろうな。この腕じゃ、こうして部屋で腐っているしかない。俺はもうお終いだ。
何もやる気が起こらなかった。いっそこのまま餓死してしまおうかとも思った。そのくせ、空腹にこれ以上耐えられる気もしなかった。
幸恵が電話をしてきたのはそんな時だった。
「もしもし、祐一君。調子はどう?」
「ああ、最高だよ」投げやりな口調で答えた。
「今からそっち行ってもいいかな。どうせろくに食べてないんでしょ。何か作ってあげるわ」
「本当かい?それはありがたい。このままじゃ餓死しちまうところだった」
「まったく、そんなことだと思ってたわ。じゃ、ちょっと待ってて」
 あの事件以来、幸恵はやたらと祐一の面倒を見ているのだった。病室でも付きっ切りだったし、こうして電話も頻繁にかかってくる。
 三十分ほど経った時、幸恵がアパートに来た。
 やつれきった祐一の顔を見て、幸恵は心なしか悲しい表情をしたようだった。
「本当にごめんなさい。あたしのせいでこんなことになっちゃって…」
「いいんだよ、そんなに気を落とさないでくれ。幸恵は悪くないよ」
 いつしか祐一は、『神崎さん』と呼ぶのをやめていた。
 幸恵は今でもあの喫茶店を待ち合わせ場所に選んだことを後悔している。自分のせいで祐一がこんな姿になってしまったのだという自責の念があるのだろう。だからこそ、これだけ面倒を見てくれているのだ。
「すぐに仕度するから。おいしい肉じゃが作ってあげますからね」
 無理に元気を出しているのがわかった。そんな幸恵を見るのが辛かった。
 手際よく料理を作る幸恵を、祐一は煙草を吸いながら眺めていた。幸恵はいい女だな、と感じていた。こんな女と結婚できたら幸せだろうかと想像したが、果たして彼女との間に出来た子供でも、自分は愛することができるだろうかという考えが頭をよぎった。
 幸恵は家庭的な女性だ。子供が出来たら、きっと全身全霊で愛するだろう。だが自分はどうか。相変わらず、子供嫌いは変わっていなかった。それに、幸恵は罪悪感から親切にしてくれているのだ。彼女は恋愛感情など抱いてはいないだろう。そんな幸恵を、自分が勝手に縛り付けることなど許されるわけがない。なにをのぼせ上がっているのだと、祐一は自己嫌悪に陥った。
 幸恵は何も悪くない。じゃあ、どうして俺はこんなに不幸なのか。腕は不自由になった。仕事は失いそうになっている。趣味らしいものはもう何もない。
 生きていく理由などありはしない…絶望感で一杯だった。

 幸恵が帰宅した後、ドナルドに餌をやりながら今後のことを考えていた。職を失ったらどう生きていけばいいのだろうか。いつまでも幸恵に頼っているわけにはいかない。だが、この身体で働くことなど出来はしないだろう。日常生活すら満足にこなせないのだ。
 俺が死んだらどうなるだろうか。何のことは無い。一億数千万の日本人の、ほんの一人がいなくなるだけのことだ。それでも世の中は動いていくし、何の影響もないだろう。
 悲観的な考えばかりが湧き起こってくるのを自覚した。それは不思議に心地よかった。
 どう死ぬのが一番苦痛が少ないのだろう。簡単なのは手首を切る失血死か。首吊りという手もある。だがあれはいかにも苦しそうだ。それに、不自由な腕ではロープを吊るすことも難しいんじゃないだろうか。それなら車に轢かれるのはどうか。しかしあまりにも痛そうだ。それに、最近の車は衝突安全性を重視している。確実に死ねる保証はない。
 そこまで考えたところで我に返った。何を考えているのだろう…そんなことをしたら一番悲しむのは幸恵ではないか。幸恵は俺を想ってくれている。彼女をこれ以上不幸にしてはならない。なんとしても、生きていかなければならないんだ。
 急に身体が重く感じられた。座っているのも疲れるくらいだ。
 布団にもぐりこむと、沈むように眠りについた。


第三部



 神崎幸恵がその名前を柳田幸恵と改めたのは、幸恵が二十六歳の誕生日を迎えた日だった。
 二人は一年前から同棲生活を送っていた。始めは祐一のアパートと自宅を往復していた幸恵だったが、仕事を辞めた祐一が金に困るようになった頃、同居を申し出たのだ。幸恵は当時OLとして経済的に自立しており、祐一の障害者年金と合わせれば十分暮らしていけた。
 その日もいつものように食卓を囲んでいた。ただ一つ違ったのは、テーブルにはワイングラスが並んでいた。高級レストランに行くことは出来なかったが、その代わりのささやかな贅沢だった。ケーキに立てられたローソクの火を幸恵が吹き消した。
 祐一が小さな包みを取り出して幸恵に渡した。
「誕生日おめでとう。俺と、結婚してくれ」
 精一杯のプロポーズだった。幸恵は包みを開けると、小さなダイヤモンドのついた指輪を左手の薬指にそっとつけた。
「ありがとう。大事にする」
 優しく口づけを交わした初めての夜だった。

 翌日、昼過ぎに起きてきた祐一は暗い表情でキャメルに火をつけた。幸恵は既に会社に出勤している。部屋にはドナルドしかいない。
 祐一の目には戸惑いとも後悔ともつかぬ色が浮かんでいた。
 働くことが出来ないとはいえ、俺のような無能な人間にどうして幸恵はついてきてくれるのだろう。答えは一つだ。彼女は罪滅ぼしをしたいだけなのだ。自分がこうなってしまったのはあの事件のせいだ。彼女はそのことに今も負い目を感じているからこそ、親身になってサポートしてくれている。その構図は、俺が彼女を利用していることにはならないだろうか。もし五体満足な身体だったら、幸恵と結ばれることもなかっただろう。
 俺がいると、幸恵はもっと不幸になってしまうのではないか…そんな考えが頭をよぎる。
 俺は生きていてはいけないのでは。だがしかし、死んで悲しむのもまた幸恵だ。どう転んでも、幸せというものには程遠いのかもしれない。
 どこか遠くに消えてしまいたい。幸恵をしがらみから解き放つには、俺がいては邪魔なのだ。じゃあ、なぜ結婚などしたのか。自分でもわからなかった。彼女に対して恋愛感情を抱いているかというと、その気持ちもうまく説明できない。
 ただ、結婚しなければいけないという強迫観念めいた感情に背中を押されただけなのかもしれない。
 突然、胃に誰かが握り締めているような激痛が走った。ギリギリとした痛みは身体を丸めなければ耐えられないほどのもので、祐一は一人苦悶の表情でうめき声を上げた。
 しばらくして胃痛が少し和らぐと、よろよろと立ち上がり台所にある胃薬に手を伸ばした。瓶から一錠多く薬を出すと、水で一気に飲み込んだ。
 日も暮れた午後七時過ぎ、祐一は暗くなった部屋の片隅にうずくまっていた。力のない目は虚空を見つめ、時折小さな声でぶつぶつと独り言をもらしていた。足元には胃薬の空き瓶が転がっている。
 その時、ドアの開く音がして幸恵が帰宅した。祐一のただならぬ様子を見つけると、急いで持っていた買い物袋を置いて駆け寄った。
「ゆう…いち…どうしたの」
「ああ、気分が悪かったんだ…」
幸恵が空き瓶に気付いた。
「ちょっと、これまだいくらか残ってたのに。全部飲んじゃったの?」
「胃が…痛かったから…」
「それにしても飲みすぎよ!これじゃ身体に悪いわ」
「大丈夫だよ。ほら、生きてるだろ、残念ながら」うつろな目で笑った。
「何馬鹿なこと言ってるのよ。もう、しっかりしてよ」
 幸恵の目には涙が浮かんでいた。そして、しっかりと祐一を抱きしめた。
 

 誰もが寝静まった深夜、祐一は布団に横になったまま目をぎらつかせていた。眠りたくても一向に眠気はやってこない。隣では、幸恵が安らかな寝息を立てていた。起こさないように布団から這い出ると、居間に煙草を吸いに行った。
 オーバードーズを成し遂げたことに、祐一は小さな喜びを感じていた。一歩間違えれば死ぬかもしれない。しかしその対価として幸恵が心配してくれる。そのことが嬉しかった。
 歪んでるな―――
 俺はいつの間にか頭のネジが飛んでしまったんだ。こういう方法でしか、欲しいものを手に入れることは出来ないのだから。
 キャメル・ライトの煙に、薄汚れた天井が見えた。
「俺は何をやっているのだろう…」
 いつか自分に問いかけた言葉を思い出した。
 ほんの七、八年前の自分は、少なくとも今よりは輝いていたはずだ。負け犬になるのだけはごめんだと、必死になって就職して、身を粉にして働いた。だが、いくら頑張ってみても結果は出なかった。
 いつも何かに阻まれて、運命の歯車が狂ってしまう。悲惨な思春期を耐え抜き、苦悩の日々とともに社会人になった。汗水たらして仕事をして、一生懸命に生きた。
 なのになぜ、これほどまでに幸せが感じられないのか。身体障害者だからか。無職だからか。俺には幸恵という素晴らしい女性がいる。彼女は今や俺の妻となっている。しかし、幸恵と出会っていなかったら、あの事件さえなかったらもっと違った人生を送れていたかもしれない。それはきっと今よりいいものだった可能性もある。自分の足で立ち、立派に男として生きられたかもしれない。幸恵は必要の無い存在なのか。そんなはずはない。幸恵がいなかったらこの身体では生きていけなかった。
 ジレンマだ。幸恵の存在が愛おしいと同時に、憎しみの情をも抱かせる。
 煙草が切れた。深いため息をつくと、パーカーを羽織り近くのコンビニに出向いた。
 馴染みのコンビニに、キャメル・ライトが売り切れていた。別の店に行くのも億劫だし、たまには違う味を試してみようとも思った。帰り道、手にはホープ・ライトの箱が二つ入った袋が提がっていた。
 アパートの前の駐車場。かつてサニーが停まっていた場所には、幸恵が買ったばかりのムーヴが月明かりに照らされていた。祐一はムーヴのボンネットに寄りかかると、ホープを取り出して吸い始めた。
 『希望』の味も悪くない―――
 そういえば、幸恵と出会った日もこんな月が出ていた。美しい三日月だ。あれから随分遠くに来てしまったような気がする。
 月と太陽は対極にある。
 俺は月の下でしか生きられない。この人生が日の目を見ることなどないのだ。太陽は俺には明るすぎる。奴は俺を焦がし、骨まで焼き尽くしちまうんだ。
 煙草が短くなった。祐一は『希望』を足元に投げると、ためらいなく踏みにじった。


 その電話がかかってきたのは、翌日の夜のことだった。
 いつも通りに幸恵の帰宅を待っていた祐一の下に飛び込んできたその知らせは、彼を動転させるのに十分だった。七時半になっても幸恵が帰宅することは無かった。心配していた矢先のことだ。
 寝巻きから着替えることもなく、大急ぎでアパートを飛び出すとタクシーを拾った。

 病院の霊安室に通された祐一は、少し前まで柳田幸恵だったそれを見て膝から崩れ落ちた。白い布がかけられた身体は微動だにせず、表情には何の意識も感じられなかった。
 直接の死因は全身打撲だった。スーパーで買い物を済ませ帰宅していた時、信号無視の車にはねられたらしい。不幸なことに犯人の車はそのまま走り去り、幸恵は十数分現場に放置されていた。もしもっと早く処置がされていれば、命は助かったかもしれない。

 深夜、祐一はアパートで酒を飲んでいた。すでにビールの空き缶が五本、潰されて床に転がっていた。燃え尽きたホープが灰皿から溢れ、テーブルを汚していた。
 七本目のビールに手を伸ばした時、吐き気がこみ上げてきた。椅子から転げ落ちるとそのまま吐いた。床に吐瀉物が広がる。
 涙目になってよろよろと立ち上がると、椅子を掴んで放り投げた。椅子は壁に当たり、小さな穴を開けた。
 戸棚を開け、中にある食器を全て床に投げつけ割っていく。次に引き出しを見つけると、中身をばら撒いた。
 箪笥、引き出し、ありとあらゆるものを引っ張り出し、手当たり次第に投げていく。
 そこまですると力尽き、その場に腰を下ろす。
 散らかった部屋を眺めながら煙草を吸った。大量のアルコールで意識が消えそうだった。
 床で煙草の火を消すと、這うようにして靴を履き玄関を出て行った。




 住宅街の中にある公園で、宮本達也が霧島裕輔を見つけて声をかけた。
「どうだ、見つかったか」
「いや、ダメだな。どこにもいなかった」
「やっぱり警察に相談した方がいいのかもしれないな」
 
柳田祐一が失踪したことに初めて気付いたのは達也だった。祐一の結婚祝いの飲み会を開こうと電話をかけたが、自宅にも携帯にも祐一はおろか幸恵すら出ることはなかった。
 それならばとメールを送っていたが相変わらず連絡がない。仕事をしていない祐一が忙しいと言う理由で連絡を寄越さないなどありえなかった。
 気分が悪くて塞ぎこんでいるのだろうか。あいつは時々そういう事がある。
 アパートに乗り込んで驚かせてやろう。そう思った達也は祐一の自宅を訪れた。
 それは金曜日のことだった。アパートの駐車場に車はある。しかし呼び鈴を鳴らしても反応がない。それどころか部屋の中に人のいる気配すら感じられない。ドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。
「祐一、入るぞ」ドアを開ける。
 部屋の中の空気はもう暖かくなってきた季節だというのに、真冬のように凍り付いていた。まるで人が生きていることを忘れさせるかのように。
「これはどういうことだ…」
 室内は見事なまでに乱雑だった。達也は初め、空き巣か強盗の可能性を考えた。だがそれにしては無駄に散らかりすぎている。パソコンやコンポなど金目のものまでもが床に叩きつけられ壊されていた。その考えはすぐに否定された。
 片腕の自由が利かない祐一に、これほどまでの破壊行為が可能だろうか。もし自分の手でこれが行われたとしたら。
「何があったんだよ…」
 祐一をここまで暴れさせた原因は何だったのだろうか。そう考えると、祐一の身に何か大変な事態が迫っているのではないか。そして二人はどこに消えたのだろうか。
 携帯を取り出すと、霧島に電話をかけた。

「奴はどこに行ったんだ。あの部屋の状態は普通じゃないぞ」達也が苛立った声で裕輔に言う。
「もう少し探してみようよ。車を運転できない祐一がそう遠くまで行ってるわけはない」
 ふと裕輔が足元の吸殻に気付き、拾い上げる。
「ホープだ」
「それがどうした、祐一はキャメルじゃないか」
「そうだけど、これはまだ新しいよ」
「煙草の投げ捨てなんて祐一はやらない」
「確かに…」
 裕輔がゴミ箱に吸殻を捨てた。
「他にあいつが行きそうなところは無いのかな」
「この辺りはもう粗方探したんだがな」困惑した表情の達也。
「そうだ、あの森は?」
「森、自然公園か。そういえばまだ探してないが、あんな所に?」
「行ってみよう、万が一って事もある」
 自然公園。それはこの街に十五年ほど前に造られた森林公園だ。広大な敷地に多くの種類の木々や植物が植えられており、小鳥などを住み着かせることで人間と自然の共存を図る目的があった。しかしその目論見ははずれ、今では誰も近寄らない。手入れの行き届いていない樹木は荒れ果て、憩いの場は鬱蒼とした樹海へと姿を変えていた。
 達也と裕輔が自然公園に足を踏み入れた時、辺りは既に薄暗くなりつつあった。気温も下がってきて、裕輔はポケットに手を入れていた。
「こんな所に来て何をするっていうんだ」達也は森の雰囲気に圧倒されている様子だ。
「後はここしか残ってないよ。きっとこの中にいる」
 二人が意を決して歩き出す。
 コンクリートで舗装された順路を進んでいった所で、またしても裕輔が吸殻を見つけた。
「見てよ、またホープだ。これを吸ってる人間がそう沢山いると思うかい?それも捨てられてから間もないよ。絶対祐一だ。あいつはここにいるんだ」
「そんなまさか…」
 日が沈んできた。照明などあるはずも無い森の中で、最早これ以上の捜索は困難だった。
「祐一!いるんだろ、出て来いよ」裕輔が叫ぶ。
「大分暗くなってきたな。裕輔、やっぱり警察に任せよう」
「もう少しだと思うんだけど…仕方ないか」
 二人は元来た道を引き返していった。

 親友が帰っていくのを、遠くの茂みに身を隠した祐一が見ていた。その表情には焦りと安堵が同居していた。
 この森に居座って、既に三日が経過していた。着ていたスウェットは所々破れており、その下の肌には切り傷が目立った。全身泥で汚れていて、右足の靴は既に脱げていた。背中には、小さなリュックサックを背負っていた。
 こんなにも早く失踪がばれたのは見込み違いだった。ここに来ることは誰にも告げていない。それなのに…
 急がねば、と思った。その場に唾を吐くと、擦りむけた右足の痛みをこらえて歩き出す。
 森を彷徨うことを選んだのに、大した理由はなかった。とにかく人のいない場所を目指していたら、ここに辿り着いたのだ。
 歩き疲れた頃、祐一は汚れたベンチを見つけた。そこに腰を下ろすと、残り少ないホープをくわえた。手元が輝き、煙草は赤く燃え上がった。
 辺りはすっかり暗くなっていた。ちらつく街灯の光を見ていると、アパートで一人悶々としていた、かつて自分が歩んできた人生が思い起こされてきた。いじめに耐え抜いた中学時代。負け犬はごめんだと必死に働いたあの頃。そして幸恵との出会い。
 もう少し頑張っていたら、きっと幸せのレールに乗る事も出来たのだろうか。自分の置かれた境遇は、きっと幸せとは呼べない。俺は不幸なのだ。その不幸は、痛む歯を噛み締めるような快楽を与えてくれた。苦痛を味わうことが、俺にとっての幸せなのだ。
 きっと誰かは同情してくれるだろう。哀しみの涙を流してくれるだろう。その涙こそが、俺にもっとも必要なものなのだ。
 祐一の表情に凛々しさが蘇った。その覇気に誘われるかのように、冷たい風が吹き抜けた。再び立ち上がると、森の奥を目指して歩き出した。

 その頃、達也と裕輔は祐一のアパートにいた。
「これだけ探しても見つからないなんて、一体奴はどこに消えたんだ」
「本当だよ。この部屋の有様は酷いよな。ただ事じゃない」裕輔が答えた。
「虫も殺せない祐一がだよ、こいつを残して消えるなんて考えられない」
 達也がドナルドを手の平に乗せて言った。
「ドナルドって言ったっけ。随分かわいがってたみたいだったよ。前に嬉しそうに話してくれたんだ。そういえばあの時も妙なことを言ってたな」
「妙なこと?」
「『ドナルドは俺の分身だ。誰かに見捨てられても、救ってくれる人に巡り会えたんだから』ってな」
「救ってくれる人、か。幸恵ちゃんのことだろうな」
「二人は今どうしてるんだろう。一緒にいるんだよな」
「しっかり者の幸恵ちゃんがついてるなら、大それたことは起こらないだろうけど」
「大それたことって何だよ。まさか…」
「いや、そんな事は無いって。大体、二人が心中する理由なんて無いだろう」
「そうだよな、そう思いたい」達也が部屋を見回した。
 それは何度も考えたことだった。しかし、その可能性を認めたくないがために敢えて話題にはしてこなかった。
「おい、留守電が入ってるぞ」
「勝手に聞いちゃまずいんじゃないか」裕輔が止めた。
「消さなきゃいいだろ、それに何かの手がかりになるかもしれない」
「でも…」ためらう裕輔を尻目に、達也が再生ボタンを押した。
 録音データが再生される。それを聞いて、二人は顔を見合わせた。
「どういうことだ、幸恵ちゃんが死んだ?」達也は真っ赤な顔をしている。
 留守電には、早く幸恵の遺体を引き取ってくれという病院からの連絡が録音されていた。
「じゃあ祐一は今、一人でどこかを彷徨ってるってことかよ」
「急がなきゃ、何か悪い予感がする」裕輔の目に焦りの色が浮かんだ。
「悪い予感だって、何だよ!よしてくれよ」
「大それたことだ、それが起きるかもしれない」
 二人は深夜の街に飛び出した。


 一本の木を見上げる祐一。その目に迷いは無かった。
 最後の一本となったホープを取り出すと、空き箱を投げ捨てる。火をつけて、肺一杯に煙を吸い込む。
 地面に寝転がると、汚れた空気で霞む星空を眺めた。
 どんなに綺麗な星空も、汚れてしまえばただの黒い世界だ。この汚れが消えてなくなることは無い。俺の人生も、この空のように星が隠れて見えなくなってしまったのだ。
 おもむろに起き上がると、辺りを見回した。人の気配は無い。今だ…
 片腕の生活にも随分と慣れていた。リュックサックから一本のロープを出すと、手頃な枝に左腕と口を使って器用に結び付けていった。
 一つの輪が出来上がった。その下に周りに落ちていた大き目の石を重ねると、それは踏み台として十分なものだった。
 深呼吸をする。冷たい空気が肺に突き刺さった。踏み台に足を乗せる。輪に首を通し、手を離す。
「幸恵、今そっちに行くよ…」
 勢い良く石を蹴飛ばす。
 喉が締め付けられ、潰れるのがわかった。身体が叫び声を上げようともがいた。
 空っぽの胃から、胃液が逆流する。しかしそれは出口を失い、食道を圧迫した。
 視界が真っ白になる。失禁したのを自覚した。



『この文章を誰かが読んでいるという事は、俺が最も欲しがっていたものを確実に手に入れることが出来たということだろう。
 俺の人生を振り返ってみても、幸せというものはとうとう手に入らなかったように思う。だけど後悔はしていない。なぜなら、俺は不幸に陥るたびにこの上ない喜びを手に入れたからだ。陰鬱で情けない気持ちは、俺にとって最高の快楽だ。
 俺はそういう意味では、幸せ者だと思う。そこに矛盾があるとするなら、いや矛盾がある方が自然なんだ。
 人は矛盾を抱えて生きるものだ。俺はその矛盾を受け入れた。
 この手紙を読んでいるあなたは、きっと俺のやったことを悲しんでくれていると思う。それこそが、俺の欲しがっている一番大切なものなんだ。それは愛だよ。
 本当の愛情に飢えてるのさ。
 人は生まれながらにして競争することを強制される。それを拒んだ者が生き残ることは許されない罪なんだ。俺だって、一度はその競争の列に並んだ事もあった。だけど、俺にはそこで生き残れるほどの力は無かった。
 能力の無い者がどうやって生きていけって言うんだい?意欲の無い者がどうやって生きていけって言うんだい?
 だから、俺はこの道を進んでいくことを選んだんだ。もう悲しんでくれる人もいなくなったみたいだしね。
 俺は強い人間だよ。だけど、同時に弱くもある。
 人それぞれ得意分野ってのがあると思う。例えばライオンは狩りが得意じゃなきゃ生きてはいけないだろう?もし、心の優しいライオンがいたらさ、獲物を捕まえることにとんでもない罪悪感を抱いてしまうと思うんだ。でも優しいことは悪いことじゃない。ただ、生き残るには不適格ってだけのことさ。
 俺にも、そしてあなたにもそれは当てはまる。あなたがもし今の人生に不満が無いとしたら、それは幸せを感じるのが得意だってだけのことなんだよ。俺にはその能力が欠けているんだ。その代わり、矛盾を受け入れる寛容さが備わっていた。それだけさ。
 きっとあなたは俺を殴りたいと思うだろう。愚か者だと思うだろう。じゃあ、もしあなたが俺の立場だったらどうするつもりだい?果たして自分を愚か者だと思うだろうか。
 おそらく、徹底的に自分を弁護して、少しでも楽なところへ逃げるだろう。誰だってそうなんだよ。ただ、それが得意かそうでないかの違いに過ぎない。
 世の中には、ただ息をして物を食べるだけでも苦痛に感じる人もいるってことを解ってほしい。それは、生きるのが苦手だっていうだけのことだ。
 どんなことにも得手不得手があるんだよ。
 少し長く書き過ぎたかもしれない。もう終わりにしよう。

二十七歳の春に   柳田祐一』
2007-03-15 21:10:30公開 / 作者:蓮
■この作品の著作権は蓮さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
筆者はカート・コバーンを崇拝していました。
作品に込めたオマージュで、それはわかってもらえると思う。
もしあなたがこの作品を読んで何か感じるものがあったなら、一度ニルヴァーナの音楽を聴いてみて欲しい。
そうすれば、きっと違った味でそれらを楽しめると思う。
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