『六月一週、晴れ間のレインコートマン』作者: / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
寝坊、遅刻魔の高校生、合羽ヒロ。二学年に進級した初日、十年前から疎遠になっていた幼馴染のキョウカと再会する。キョウカは再会を喜んで笑っているが、ヒロはキョウカの存在に戸惑ってしまう。
全角37686.5文字
容量75373 bytes
原稿用紙約94.22枚
 ダダッダー!
「なにぃ? まさか、あいつが?」
 なにやら激しい効果音が響いた。肩まで流れ落ちた白い頭部に、その下の全身が妙に艶やかに黒光りしている奇妙な怪人の手には、ヒロインのアイちゃんが抱えられていた。雨の中、びしょ濡れになっている。
「たすけてぇ! レインコートマン8(エイト)!」
 アイちゃんが叫び声を上げた。その時、雨の向こう側からゆっくりと姿を現す影。
 怪人との距離を縮めると、その姿が分かった。どこにでも売っているような上下セットの紺色のレインコートに、白やら赤やらのラインが施されており、胸には?8?をかたどったかの様に黄色いラインが交差している。目元は黒く透けているビニールで囲ってあり、その下の顔はレインコートと同じような素材のマスクのようになっていた。
「くっ――出たなレインコートマン8!!」
 まるで作り物のような顔をしている怪人が、表情を微動だにせず声を出した。後ろに控える黒子のような全身タイツの男二人に、丁寧にアイちゃんを預ける。
 腕を思い切り前に突き出すと、バッという効果音がなり、「シィーッ!」という雄叫びを上げながら無数の全身タイツが紺色の影――レインコートマンに襲い掛かる。
 ――少年は、小さなテレビの中のその光景を、目に憧れの光を灯して見ていた。口を間抜けに開き、画面に合わせて体を揺らして、釘付けになっていた。
 ボーン、ボーンと怪人が爆発する音が聞こえてきた。レインコートマンは大きく足を上げて、決めのポーズを取っている。そこへ駆け寄ってくるアイちゃん。レインコートマンはいつの間にか持っていたピンクの傘を広げてアイちゃんに差し出す。
「ありがとう! レインコートマン8!」
 そう言ったアイちゃんにレインコートマンは無言でフンと頷くと、アイちゃんは傘から空を覗き込んだ。「雨――もうすぐ止むかな」
 レインコートマンは振り返り、歩き始めた。少し歩いてから止まり、言う――。

 四月某日。
 朝が来た――あまり心地よいとは言えない目覚めだと、合羽ヒロは感じた。
 ヒロの寝相はと言うと最悪で、寝る前には足元に見えた掛け時計が起きた後には頭のすぐ上に見える。そしてそれは長年、毎朝抱える謎であった。
 そんな謎はいつものように欠伸と共に吐き出して、頭上の時計を見た。その針は八時少し前を指している。自転車で通学している高校まで行くには、これから朝をのんびり過ごす時間はない――のだが、ヒロは焦る様子もなく、ただボーっとしていた。いや、焦るどころかこの時間に目が覚めるのはヒロにとっては快挙と言ってもいいくらいで、いつもはまだ夢の中にいる時間なのだ。
 そうして、ヒロはまだ眠たそうな目を付けたまま、階段を降りて一階のリビングへと向かう。
「おはよう、ヒロ君! 今日は早いお目覚めなんだねぇ!」
 幼い声をムリヤリ低くしたような声でそう言ったのは、リビングのテーブルの上でカタカタ揺れている『レインコートマン』という「ヒーロー」の人形だった。
 ヒロはツッと舌打ちをすると張りの無い声で「あぁ」とだけ言ってレインコートマンの頭部へデコピンを喰らわせる。コキャと小さな音を立てて、人形の首だけがテーブルの外へ飛んでいった。OBである。
「あぁーー!!」
 人形の腰の辺りをつまんで動かしていた男の子が叫びながら立ち上がり、テーブルの少し上まで額を覗かせた。「どこにヒーローの首を飛ばすヒーローがいるんだよ!」
 そう言ったこの男の子はヒロの弟のタクと言う。高校生であるヒロより10歳年下で、ヒーロー物の番組が大好きな――と言うより、いわゆる「特撮オタク」の幼稚園児なのだ。
「おい、だから俺はヒーローなんかじゃねぇっての。いい加減にしろよ」
 ヒロは、椅子に座って厄介そうに吐き捨てた。
「いいや、君は正義の施設『レイニーサークル』から命じられたのだ! 豪雨のヒーロー『レインコートマン8』に変身し、数々の湿気怪人からこの町を守るのだと! そして――」
 ワーワーとまだまだ続くタクの話を無視して「母さーん。メシはー?」とヒロは言った。
「全く! メシは? じゃないでしょ! 遅刻ばかりして――今日から二年生でしょ!?」
 台所から慌しく器と牛乳、コーンフレークを持ってきて、ヒロの母は言う。それをヒロは「またコーンフレークかよー?」と断ち切った。
「うるさい! そんな事言ってると今日車で送っていかないわよ?」
「え、今日送ってくれるの!? 珍しいな」
 ヒロの母はもうすぐ40に手が届く歳なのだが、大変な面倒くさがりなのだった――趣味は寝転がる事で得意料理はコーンフレークですのよ。オホホ。
 なので、朝が苦手でもはや遅刻魔と化していても、ヒロを車で送っていく事など大変珍しい事なのだった。が、もっとも今日は遅刻ばかりしながらも何とか進級できたヒロの第二学年の始業式という特別な日なので、親として遅刻させる訳にはいかない、と思ったのかも知れない。
「いいから早く支度しなさい! 急げばまだ間に合うから!」
 ヒロはコーンフレークをシャクシャクっと牛乳で流し込み、通学の支度を始めた。その間、タクの幼稚園の通園バスが迎えに来たりヒロが寝惚けて体操着に着替えたりして、合羽家の朝は久々に騒がしくなった。
 因みにタクは、
「……そもそもレインコートマン8というのはR(レイン)C(コート)M(マン)シリーズの第三弾で10年前の作品でありながらマニアの中では今も尚評判のある――」
 通園バスが来るまで延々と誰も聞いてやしない特撮の知識を披露していた。

 ヒロの通う高校はヒロの家から10km程度の所にある。
 駅も近くにある事はあるのだが、何だか中途半端に離れているので自転車通学にしたのだ。しかし、何しろ片道40分かかるので、朝が苦手なヒロにとってそれだけ早く起きるのは辛いことだった。なので、高校に進んでからは遅刻の常習犯になってしまった。そういう運命だった。
 そうは言っても、その道も今は快速にして快適な乗り物――そう、自動車に乗って進んでいる。
 春の暖かい陽射しがフロントガラスから飛び込んできて、ヒロは気持ちが良くなり今にも二度寝に突入しそうになっていた。
「ちょっとヒロ、寝ないでよ」
 と、二度寝への輝かしい花道の途中で、この自動車の運転手である母が邪魔に入った。
「何だよ、学校までまだかかるだろ」
「私は、自分が働いている横で楽をしてる人を見るのが嫌いなのっ」
 母は、何だか救いようの無い発言をした。「だからヒロもそこでなにかして動いてて」
「はぁ!? ――何をしろって言うんだよ」
「何でもいいから――あ、あんたまた寝癖ひどいわよ。鏡あるから直してなさいよ」
 母は左手をハンドルから離してヒロの頭をザシャザシャとかき回す――ハーイ、じゃあね、くれぐれも安全運転でお願いしますよー。と、ここでラジオから声が聞こえてきた。
 ヒロはツッと舌打ちをして振り払い、左にあるサイドミラーを覗いた。そこにはまだ眠そうにつぶれた顔をして、髪がシンクロナイズドスイミングをでもしているかのように所々反り立っている頭をした男が映っていた。それを手櫛で何回か引っ掻くが、髪はまた反り返るだけだった。
 その寝癖もまた毎日のように作り、髪が寝るのは入浴後くらいのものだった。しかしこれはヒロの特徴であり、一種のチャームポイントでもあった。
 寝癖を直すのも諦めて、ヒロはただ窓の向こうの追い越されていく景色を眺めている。
「あんたさ――」
 運転をしている母が、真っ直ぐ前を向いて話を始めた。「最近イイカゲンなんじゃない?気力が感じられないのよ、若いくせに」
「あぁ?」
「あんた、タクが何してるか知ってるでしょ? がんばって母さんのお手伝いするようになってもう二年よ」
「引き換えに特撮フィギアを買ってやってるんだろ? よくやるよな、あんな物のために」
 ヒロはそう言って、欠伸を一つした。車はカーブを大きく右に曲がる。
「でも、あんたもそれくらい頑張れるような物見つけなさいよ。あの子のフィギアだってもう百体もあるのよ」
「そんなもんで比較するなっ……てアレそんなにあるの!?」
 ヒロは怒って母に反論するよりも、フィギアの数に驚いてしまった。確かにタクの部屋に入るとヒーローやら怪獣やらのフィギア(ヒロには見覚えのあるキャラクターもあったが、見覚えのない物がほとんどだった)が無数に飾ってあったが、具体的数字を聞くのは初めてだった。
「……」
 それにしても、毎朝コーンフレークしか出さないような人はがんばってると言えるのか――ヒロはそう思ったが口には出さなかった。
 そして、車は赤信号に引っかかってしまった。

 春季休暇を挟み半月ぶりの登校になる訳だが、まずは友人からの称賛とからかいの混ざる言葉の嵐から始まった。
 彼らにとってヒロが遅刻せずに登校してくる事は、プロ野球の代打でプロレスラーが出てくるような事だった。
一年間お世話になった担任から用紙が配布され、それぞれ自分の名前の隣に記されている教室へ移動し、クラス替えとなる。
 ヒロはクラスの別れる友人に軽く別れを告げ、再び同じ教室で過ごす事になった二,三人の友人に付いて行くように新しい教室へと向かった。
それから始業式が終わり、新しいクラスになっての記念すべき一回目の出欠席確認が行われた。
「えー……合羽ヒロ」
 これから一年間お世話になる担任がヒロの名前を呼ぶ。
 担任は頭上の露出度が割合高い中年の男で、昨年度はヒロのクラスの二つ隣を受け持っていた陸上部顧問の教師だ――というどうでもいい事を覚えている事が稀にある。
「はい」とヒロは眠そうな声で返事をする。
「合羽」なんていう名字に五十音順で勝てる名前はそうなく、これでヒロは小学校一年生から十一年連続で出席番号一番を授かる事となった。
 そんな事を考えているうちに何人かのクラスメイトの名前を聞き逃していたが、ある名前の響きがどこか記憶の底にある物を刺激したのだ。
「折笠キョウカ」
「はい」
 それは出席番号七番の女子生徒で、座席位置は廊下側から二列目の一番前――つまりヒロのすぐ隣に座っていた。
 ヒロはなんとなく気になり、そのキョウカという女子の方へ目を向ける。しかしどうい
う訳か、キョウカは少し前からヒロの顔を眺めていたらしく、その目線と正面衝突してしまった。ヒロは反射的に目を逸らし、ハゲ頭――いや失敬、担任の方へ目を向け直した。
 キョウカは少し微笑んでいたように見えた。

 新学期一日目のホームルームが終わる、バックを持つ、椅子を引く、立ち上がる、そしていつもの仲間たちに声をかけようとした時、声が聞こえてきた。
「ヒロ君」
 ヒロは肝を潰されたかのように驚いた。
 声の主はまだ隣に座っていて、ヒロの顔をじぃっと見上げていた。
 黒い髪は肩の少し上にかかる程度で、前髪は眉の少し上でそろっている。ぱちりと開いた大きめの目と少し鼻にかかったような声は、幼い印象を与えた。
「ヒロ君、久しぶりだね! えっと、何年ぶりかな?」
 キョウカは、ヒロの顔を真っ直ぐに、そして嬉しそうに見つめながら言った。
 だが、ヒロにはこのキョウカという子が誰なのか、そして何がそんなに嬉しいのかどうにも解らず、ハニワが土偶を見つけたかのような顔をしていた。
「ヒロ君、どうしたの?」
 嬉しそうに喋っていたキョウカだったが、ハニワを見て不思議そうに尋ねた。
ヒロはこの状況をとにかく打破しようと、一度席に座りキョウカの目線に合わせてから言った。
「えっと……あの、悪いんだけど君の事覚えてないんだ。誰?」
 ヒロが言う通り、確かに名前にはどこか聞き覚えがあるものの、キョウカの顔も声も、記憶の中には見当たらなかった。
 キョウカはまるで予想外な言葉を投げつけられたかのように、はっと口を少し開き少しの間固まっていた。
 その顔は先ほどまでの喜びに満ちた色でも驚きで呆然としている色でもなく、のっぺらぼうのように無色であり、光を失った目は何を見るでもないかのように何かを見つめていた。
 その状況に少し苦笑いを浮かべ、ヒロは恐る恐る「どうしたの?」と尋ねた。
 キョウカはその言葉に反応したのか、再びヒロとしっかり目を合わせ、口をゆっくり開き始めた。
 ヒロは何だか気味が悪く感じて少し身を引いた。
 ――そのとき、キョウカが開きかけた唇をクッと結び、何も無かった顔に一瞬だけ、一瞬だけ深いもの哀しさのような色をみせた――のだが、それをヒロは見逃してしまっていた。
キョウカはハッと我に帰ったようにエヘヘと苦笑いを浮かべ、
「そうだよね。十年も経ってるんだし、仕方ないかな?」
 と言った。
 ヒロは様子が戻ったみたいなのでホッとし、話を合わせるようにうん、うん、と肯いた。
「あのね、私、折笠キョウカ。一応ヒロ君とは同じ幼稚園だったんだよ?」
 キョウカは何だか普段の調子を取り戻した様に落ち着いた様子だった。
 ヒロは幼稚園という単語から、その時代の記憶を探り始める。と同時に彼女が自分を「ヒロ君」と、そう呼んでいることに気づいた――俺の事、そう呼ぶ人っていたっけ?
 その響きに再び記憶を底にある物を刺激され、そしてそれは折笠キョウカと言う名の響きと、パズルのピースが上手くかみ合ったように重なった。
「キョウカちゃん……?」
 それは突然、後ろから頭にバレーボールをぶつけられたように蘇った。
「思い出してくれた!?」
 ――そうだ……そうだったんだ。キョウカちゃんだ! 何で忘れてたんだろう。
 それは当然の疑問のように思えた。彼女とは幼稚園の頃の一番の仲良しで、それはもう毎日のように遊んでいた。しかし、二人の家から最寄りの小学校が違っていたため、二人は卒園以降十年間、付き合いをなくしてしまった。それにしても、今の今まで綺麗に忘れていたのは何故なのか、ヒロは自分でも解らなかった。
「まぁ……うん」
 それでもヒロは、折笠キョウカの存在をなんとか思い出し、二人は十年目の再会を果たしたのだ。
「ホント久しぶりだね」
「え、あぁ……久しぶりだね」
 ヒロはキョウカの存在を忘れていた事への後ろめたさと、十年間と言う長い時間への戸惑いで、キョウカとの距離を掴めずにいた。
 そんな事はお構いなしに、キョウカは子供のような声で
「良かったー、忘れられてなくて良かったよぉ」
 と本当に安堵したような顔で言う。
 それにしても、キョウカは顔だけじゃなく喋り方や雰囲気なども妙に幼いように感じられた。それは、丁度弟のタクと同じくらいの歳の――ヒロが苦手な子どものような印象を与え、余計に掴む距離を見失ってしまった。と同時にあまり関わりたくないと思わせてしまった。
 安堵の笑みを浮かべているキョウカを前に、既に話を切り上げて帰る方法を考えていると、ヒロは突然頭の上に伸びてくる何かを確認した。一瞬、何なのか解らなかったが――それがキョウカの腕である事を改めて確認した。キョウカの少しだけ柔らかい手の平が、ヒロの頭の上にポフと乗った。
「……」
 ヒロは何が起きているのか解らず、ただニコニコ幸せそうに微笑むキョウカを――どういう意味があって自分の頭の上に乗っかっているのか解らないこの手の平の主を、凍りついたような顔で見ていた。
「な……なに?」
 ヒロが意を決して、恐る恐る尋ねると、
「ネグセ」
 キョウカは一言そう言った。
 そのなんでも無い言葉によく理解のできない緊張が走り、ヒロはまるで熊にでも触れられているかのように硬直してしまった――わわわ、こういう時どうするんだっけ。確か目を見続けてそのまま決して後ろを向かずに後ずさりして距離を取って、死んだふり……だっけ?
「寝相の悪さは相変わらずなんだね!寝癖がついてるよ」
 そしてキョウカはそう言って笑う。そう言われると何故かヒロは力が抜けてホッとした。と同時に思い出す――そういえば、幼稚園の頃もこうして、頭を触られた気がする、と。
 そこでヒロは我に返るように辺りを見回した。うわ、このままではマズイ。まだ教室には見知った顔がいる! こんな所を見られたら――スクープ!! 久々の再会に甘える男子生徒A! 「もっと撫でてぇ」なんていう活字。冗談じゃない! これじゃあ下らない週刊誌の見出し広告だ、まるで。
 ヒロは慌ててキョウカの手を掴み、振り払おうとし――
「ちょっと、キョウカ!」
 横から聞こえてきた声の方向を見ると、そこには一人の女子生徒がキョウカを見下すように立っていた。
「あ、ミッちゃん……」
 キョウカは彼女の顔を見上げて呟いた。ミッちゃん……? とヒロもつられて彼女の顔を見る。彼女も、眉間にしわを寄せ不審な目でキョウカを見下していたが、しわをより深くさせて、ヒロの方にふっと向きなおした。どうやらキョウカが何故男子の頭に手を乗せていたのか不審に思っていたのだろう。そう思ってヒロはハッとした。まだ手は乗っかったままで、しかもヒロはその手を掴んでいる。なんだか、ヒロが無理にやらせているように見えなくはない――よなぁ、ハハ。
 ヒロはキョウカの手を掴んでいた両手で振り離した。キョウカは少し驚いたようだった。
「あなた一体――」
 女子生徒は怒ったようにヒロの目をじっと見た。彼女の髪は肩の少し下までサラっと伸びていて、光に当たると少し茶色に見えた。それからヒロも彼女の顔を見た――のだが、
「――あ、合羽君じゃない!」
「三ツ木……?」
 二人がそう言ったのはほぼ同時だっただろうか。ヒロが三ツ木と呼んだその女子生徒は声を弾ませて、眉間のしわがヒュルリと消えた。
 ヒロと三ツ木は同じ中学校の同級生で、二人は知り合いだった。
「あらぁ、久しぶりねっ」
 三ツ木が同じ高校にいたのは知っていたが、ヒロはどうも顔を合わせるのは一年ぶりのようだった。
「おぅ、やっぱりお前だったか! 化粧なんかしてるから解らなかったよ」
「こんなの、してるうちに入らないよー」
 もともと中学生の頃に交流があったため、お互い久々の再会に少し高揚しているみたいだった。そこで、
「ミッちゃん、ヒロ君の事知ってるの?」
 何も知らないキョウカが言う。少し寂しそうで小さな声だった。
「あぁ、うんっ。中学の時同じクラスでね」
 三ツ木は返事をする――した後少し間があって、再び眉間にしわをよせた。「って、キョウカは何で合羽君の事知ってるの? て言うか――ヒロ君だと?」
 続けて三ツ木はヒロの方を向き、
「て言うか、あなたキョウカに何させてたのよ!」
 と頭をわし掴みにする。先ほどの頭ナデナデの事を言っているのだろう。
「いや、あれはキョウカちゃ――」
 と言った所でヒロは言い直した。「この子が勝手にしたんだよ」
「そうなの?」
 三ツ木がキョウカに問う。するとキョウカは、はにかんだ笑顔でうんと頷く。
「ヒロ君とは一緒の幼稚園でね――」
 そのキョウカの言葉を聞いて、三ツ木はハッとした顔をして、
「ちょっと待って! ――ねぇ、もしかして……!?」
 と言った。そしてバッとヒロの方を向き、汚れた帽子でも見るような――とても残念そうな表情を浮かべ、固まっていた。
「なんだよ」
 ヒロは少し眉を寄せた。その疑問は当然の事で、ヒロには何の事だか解らなかった。
「――ううん。なんでもないよっ」
 三ツ木は顔を変えて、そう言う。ヒロはまだ釈然としない様子だったが、
「――でも、三ツ木こそなんでこの子の事知ってるんだ?」
 と話を戻すように尋ねた。
「あ、一年の頃にね、同じクラスだったの。合羽君は教室三階だったっけ……? 私たちは四階だったから、会う機会もなかったのね」
 三ツ木の説明に、なるほどという風にヒロは納得した。
三人の関係が理解できたところで、ヒロは何だか力が抜けて眠くなってきた。クタリと腰を滑らせて、椅子の背もたれに肩を乗せる。流し目で、左の机にお尻を乗せて何事か考えているような三ツ木を見て、それから正面のキョウカに目を向ける。ニコニコ。何を言うでもなく幸せそうに微笑んでいる。喉の奥の方からフフッと声が漏れている。
 ヒロはスゥと鼻から息を漏らし「俺帰るわ」と席を立つ。
「ちょっと!」
 三ツ木は机から降りて追いかけるように声を放った。キョウカも先ほどの笑顔から一転して驚きと寂しさの混じった表情を見せる。
「じゃあな、三ツ木、に――折笠さん。これからよろしくな」
 ヒロは少し止まって言う。そして逃げるように教室から出て行った。
 ――十年越しの再会。その当時の事なんて記憶から引っ張り出すだけで力いっぱいなのだが、キョウカはあの時と全く同じように笑う。けれどそれは少し不気味なんじゃないだろうか。確かに、当時と同じように笑う彼女の声や顔は少し懐かしいように感じたが、けどそれは誰か――電車でたまたま隣に座った人の記憶ででもある気がしている。
 ヒロの目の前には初めて出会った少し変わっている女の子しかいない。しかし、だとしたら彼女は一体何に向かって微笑んでいるのだろう。ヒロはその笑顔を見ていると何だか居心地が悪い気がした。
 ――はぁぁっあ、早く帰って昼飯食って、寝よう。
 ヒロは昼前の春暖かい陽射しを浴びながら、欠伸をした。

「――本日から本格的に梅雨入りする模様です。週末まで雨空が続くでしょう」
 六月第一月曜日。
 窓からほんのり明るさが忍び込んできた時間。ヒロは奇跡的に目が覚めた――いやまぁ、そんなことはある訳がなく、昨夜から点けっぱなしのテレビから聞こえてきた天気予報が寝ぼけ半分のヒロの耳に届いただけであり、意味は理解出来ていなかった。ただ、こんな意識のはっきりしていない中でも一つ、後悔している事があった――あぁ……昨日のテレビの罰ゲーム企画、面白そうだったのに途中で寝ちゃったよー……。
 そうして、せっかく気づいたテレビも消さず、睡眠の世界へ帰ってしまった。
テレビは誰も聞いていないニュースをお伝えしていた。

 その日、始業式から大体二ヶ月近く経ち新学年にも慣れ始めてきたヒロは、社会科室なる教室の窓から憂鬱そうに空を見上げていた。灰色の空から雨粒が落ちてゆく。天気予報の通り、何日か続きそうな空だった。
「はぁ……」
 それは、ため息の出るような話だった――ヒロにとっては余計に。
「それはいくらなんでも無理な話だぜ」
 と、現実味を帯びない話を聞くようにヒロは呟いた。
その話とは委員会での朝清掃なる物だった。
「中間考査も終わって一息付いたところでな、学校を綺麗にしてやらんとな、いけないから。たった30分だけだしな。でぇ、今週だけな」
 この社会科室には各クラスから二名ずつ選ばれた環境整備委員会の生徒が集まり、委員会の顧問だろうか、青いジャージを身に着けた白髪交じりの教師が慣れてないように喋っている。生徒たちは各々クラスのパートナーと何やら話していて、小さな声が集まって耳障りな音を出している。
 中間考査が終わりその次の一週間、環境整備委員会の生徒たちが登校時間30分早く来て校内の清掃を行う。これがこの委員会の仕事だった。朝の大事な30分を奪われるという事で、これは生徒たちに大変不評だった。しかし、各クラス二名の内、一人でも来ていればいいとの事なので、交互に出て何とか凌ぐのが上手いやり方なのだった。何にせよ、生徒たちには大変面倒な決まりだった。しかもヒロは唯でさえ通常の登校時間に間に合う事が少ないというのに、更に30分早く登校しろというのは到底無理な話だった。これでは同じクラスのパートナーに多大な、それはもう巨大な迷惑をかけてしまう事になる――しかし、その点についてヒロは全く心配していなかった。何故かと言うと、
「ヒロ君――朝、ダイジョウブ?」
 その片割れがキョウカだったからだ。キョウカはこの二ヶ月間何かとヒロに付きまとうようになっていた(ヒロには迷惑以外の何物でもなかったが)。だがそのおかげなのか、随分キョウカの事が分かってきた。
 基本的にはとても幼稚的で、とてもマイペースな性格のようだった。しかし思考はとても常識的で、しっかり者だった。授業中はヒロの事など忘れているかのように黙って受けているし(休憩に入ると同時に幼い笑顔になって何かと語りかけてくるのだが、それをヒロは遮ってそそくさと友人の所へと移動してしまう)、普段しっかり授業を聞いているためか、成績も良い。先日も、返却されたテスト用紙を「見て見てぇ!」と点数を勝手に見せて来たのだが、それはヒロのそれの倍近くある数字だったという事にさすがのヒロも少々焦った。それと、好きな食べ物はチョコレート、特技は料理、趣味は掃除。そう――掃除なのだ。
 キョウカは部屋やら学校のロッカーやら片付けるのが好きみたいで、こんな面倒くさい仕事もキョウカなら喜んで引き受けてくれるだろう、とヒロは高をくくっていた。
「あぁ、俺ダメ。そんな早く起きるなんて無理だよぉぉぉほぅ……」
 最後の方が欠伸になっていた。目を拭うヒロの隣に座るキョウカは「そっか……」と呟く。目をパチクリさせていて、ヒロはキョウカの顔を見ていなかった。
「うん、ヒロ君は朝苦手だもんね! 私がやるよ!」
 キョウカは意味もなく嬉しそうな顔で言う。それを見たヒロは
「あぁ、悪いな」
 という言葉だけ出して、心の奥ではほくそ笑んでいた。
 ヒロはこの二ヶ月間、この子が苦手でどうも避けつつあるのだが、こういう面倒を任せるには適役という事を知っていた。何事にも真面目で抜け目がない、ややこしい事にも進んで取り組み、何よりヒロの言う事は何でも聞いてくれるだろう。授業中寝ていて聞き逃した穴埋めプリントの解答を写してもらっている(そしてそれをよく三ツ木に怒られたりしていた)。
「でも――」
 キョウカが細い声で言う。「一日でいいから……一緒にお掃除……しようよ」
「はぁ……?だからそんな早く起きられないって」
 ヒロは不機嫌そうに目を細めて言った。
「ごめん――でも一日でいいから……」
「キョウカちゃん毎日行くんでしょ? それなら俺必要ないじゃないか」
「そんな事ないよ。二人でやればもっと綺麗になるし、それに――」
 前で何やら紙と向き合ってなにやら考え事をしていた教師が、んんと咳払いをした。
「じゃあまぁ、明日からな、よろしくな。解散」
 顧問は途中で黙りこくってしまったり、生徒は終始かったるそうにしていたり、なんだかグダグダしたまま委員会の集会は終わり、顧問が前の引き戸から廊下へ出て行く。その後ろに、緊張感の抜けた生徒たちがぞろぞろと去っていく。
「じゃあね」
 ヒロはそれだけキョウカに告げると、退室の列に付いていく。キョウカはあわてて立ち上がり、ヒロの横に付く。
「ねぇ、幼稚園の時からヒロ君は朝が苦手で、いつもネグセ付けてたよね」
 キョウカはいつものようにヒロを追いかけるように話を始め、ヒロもまたいつものように迷惑そうに、
「バカッ、周りに聞こえるだろ。やめろよ」
 とキョウカを戒めるように言う。
キョウカは少しの間黙り、周りの人が少なくなってから、
「よく、朝二人でウサギ小屋のお掃除して――ヒロ君、いつも眠そうにしてて」
 と続ける。
「俺、こっちだから」
 一階へ降りる階段に差し掛かり、ヒロは言う。
「私もだよ」
 キョウカに返され、ヒロは黙って鼻から息を吐き、階段を一歩降りる。キョウカもそれに付いていく。
「だから、また一緒に――」
「分かったよ」
 ちょうど一回の廊下へ足を着いた所だった。「明日行くからもう静かにしてくれよ」
「ホント!?」
 ヒロの口から軽く出たような言葉にキョウカは至極嬉しそうに言った。
 そこへ、昇降口の方から声が聞こえてきた。
「キョっウカー!」
 軽い足取りで走ってきたのは三ツ木だった。「合羽君もっ。今日委員会だったんだ?」
「ミッちゃん!」
 キョウカはまた顔を明るくして言った。お互いの肩に手を触れ合い、笑んでいる。
「おぅ、三ツ木。じゃ、俺行くから」
 その横を抜けるようにして、ヒロが去ろうとする。それを三ツ木は睨むようにして、
「ちょっと待ってよ」
 ヒロを止める。「またキョウカに何か言ってないでしょうね?」
 三ツ木もまた、やたらキョウカとヒロに関わるようになっていて、何かとキョウカを避けようとしているヒロに、何かしていないか目を光らせている。
「ううん」
 キョウカが首を振った。「明日ね、朝一緒にお掃除するの」
「そうそう、その事を話してただけ」
 キョウカの言葉に乗っかるように、ヒロは言った。
「朝!? この超ねぼすけ遅刻魔男が!?」
 三ツ木が疑心感いっぱいの顔をした。「――本当でしょうね?」
「うん! ――約束だよ?」
 ヒロが三ツ木の言葉に返事をする間もなく、キョウカが口を挟む。
「約束……」
 薄っぺらい口調でヒロは呟く。三ツ木はまだヒロを疑いの眼差しで睨んでいた。
「――そうだ、俺これから塾あるんだった! という事だから、またな!」
 ヒロをギッと見ていた三ツ木のスキをついて、ヒロは走り去っていく。
「あ、ちょっと!! ウソつけぇ!」
 走り去るヒロに背中に、三ツ木は怒鳴り声をぶつける。放課後の静かな廊下に、ヒロの焦っている足音と三ツ木の声の余韻が響いた。
 三ツ木は不機嫌そうに小さく息を吐き、
「どうしてあんなに無責任なのかしらっ」
 と言った。
「無責任……?」
 キョウカはその言葉の意味する事を尋ねるようにして首を傾げたが、三ツ木はまた微笑み「ううん」とキョウカの意図を遮った。
「私たちも行こうか」
「――うん!」
 二人は並んで昇降口へ向かった。雨はまだ、小さな音を立ててヒトヒトと落ちている。

 六月第一火曜日。
「ふぁぁぁ……あぁぁ……!」
 ヒロは昨夜遅くまでやたら完成度の低いお笑い番組を見ていたため、この日の朝も辛そうに欠伸をしていた。時間は八時半を迎えようとしている。目の前にはコーンフレーク、なかなか食べる気がしなかった。
「もう、また遅刻じゃない!」
 ヒロの母の怒鳴り声は、いまいちヒロの耳に声が届いてないようだった。「遅くまでテレビばっかり見てるからこうなるんでしょ!?」
「だって……」
 母の文句に寝ぼけた頭のまま何か返そうと思ったのだが、ヒロは何も反論がなかった。それはそうだ、意味もなく夜更かししてたのは事実であり、弁護できる余地はなく有罪に異議を唱えられる者はいないであろう。
 そしてヒロはキョウカとの約束を思い出した。多少後ろめたい気分にもなったが、どうせこんな時間に起きるのは分かっていた。もともと行く気などなかったのだ。気にする事はなかった。
 ヒロは気を取り直してコーンフレークを少しずつ食べ始めた。そこで窓を見て、
「あ、あれ雨降ってるじゃん」
 と言う。「昨日から降ってるでしょ」との母の声に納得するものの、昨日より雨脚が多少なりとも強くなっている事を確認した。
「雨強いじゃん。母さん送ってよ。それなら遅刻しないでしょ」
ヒロが思いついたように言うと、台所で洗い物をする母が返す。
「自業自得!レインコート着て行きなさい!」
「そんなダサい物着て学校行けるかよ」
「じゃあ傘差して行きなさい!」
「危ないよ」
「雨降ったらいつもそうしてるじゃない」
「今日風強いし……」
「もう、濡れて行きなさい!」
「風邪引いちゃうよ」
「薬飲んでから行けば?」
「……」
 折れない母に何も言葉が出なくなり、ヒロは諦めて、コーンフレークを食べる事に集中した。
「ハァーハッハッハッハ!! お困りのようだね! ヒロ君」
 どこからか聞いていたのか、例の無理やり低くしたような声が、後ろから聞こえてきた。
「なんだよ」
 ヒロは素っ気無く返す。「まだいたのか」
 もうそろそろ、タクの幼稚園のバスが来てもいい時間だった。タクは幼稚園の制服を着ていた。
「ジャーン! これを見たまえ!」
 タクは、何やらズルズルと引きずっていた服のような物を両手で高々と持ち上げた。それは背の低いタクよりもまだまだ長いようで、リビングの床に着いている。
 それを見て、ヒロは眉をしかめた。それは紺色のレインコートだったのだが、なにやら所々に白やら赤やら黄色やらの模様が施されていて、安っぽいコスチュームのようになっていた――コスチュームだと? タク、が自慢げに持ってるコスチューム……。
 結びついて連想した物はやはり、
「これはだね、あの『レインコートマン8』の戦闘服なのだよ! これを着れば、脚力100倍であの必殺技、『レインコートハイキック』ができるようになると言う……」
 こういう事だった。「これを着て学校まで行けば、こあいもの知らずだね!」
「おっぃ……! それ俺が着るのかよっ?」
 ヒロはタクのマニアの程度には慣れた物だったのだが、これには久々に驚いた。確かにタクはよくソレの関係の服装で外出などもしたりするし、自分にソレを期待してる事(どういう理由でそう思うのかは分からないが)もあったのだが、まさか本当に用意するとは……。
「もちろんだよ! 大人サイズだからね」
 ヒロはそれを少し手に取って立ってみる。手からズボンのようなものがズルリと落ちた。ご丁寧に上下セットになっているみたいだ。確かに俺に着られそうだけど、なんでそんな物あるんだよ――と、ヒロは思った。恐らく手伝いをして母から稼いだ小遣いでいつものように(こんな歳で、ネットオークションなどで幾つもの特撮グッズを購入している)取り寄せたのだろうが――ヒロは相手にするのも面倒臭くなり、
「こんな物着られる訳ねぇだろ!」
 と、それを床に投げ捨てた。それを見たタクは
「な、なにするんだよ! 兄ちゃん!」
 と、吠えた。
「あのなタク、いつまでもこんな物ばっか集めてんじゃねぇぞ?」
 ヒロは屈み、タクの目線に合わせて言う。「来年から小学生だろ?」
「いいじゃん! 僕の宝物なんだから!」
「そんな物いつかゴミになるだけなんだって!もういい加減現実を見ろよ」
「ゴミじゃないもん!ヒーローだって現実じゃん!」
「お前なぁ……そんな物はただの作り話だろ?お前外で普通にそのヒーローっての見たことあるか?」
 タクは黙ってうつむいてしまった。少し涙目になっているようだった。そして、口を開いた。
「……ない」
「だろぉ!?」
 ヒロはバカにするように、そしてやたら得意げに言った。「そんな物いないんだって」
 タクは顔を上げてヒロの顔を見る。涙が何粒か流れていた。ヒロとにらめっこをしているようだったが、少しすると、
「ハイキック!」
 と大きく足を上げて、屈んでいるヒロの二の腕のあたりに蹴り当てた――と思ったら、体重を支えられなかったのか、そのまま後ろへ倒れてしまった。
「――なにしてんだ?」
 倒れてしばらく動かないタクに言うと、タクは顔だけをこちらに向けて、目を震えさせていた。
 ――うぁ、まずい。
 ヒロがそう思った瞬間だった。
「……お兄ちゃんなんか……お兄ちゃんなんか怪人になっちゃえばいいんだぅあぁぁぁぁぁぁん!!」
 タクは寝転がり、大きな声で泣き出してしまった――あぁ! もう何なんだよ! うるせぇな!
ヒロは、子どもの泣き声を聞くと無性に苛々してしまう性格だった。そして、普段はやたらと大人らしくしているタクのソレは、余計に耳障りに聞こえた。
 ヒロは、こういう時は何を言っても解決しないのはこれまでの経験から知っていたので、そそくさとその場から逃げるようにして自室へ戻った。リビングから聞こえる泣き声に苛立ちながら素早く着替えをし、通学鞄を持って玄関に向かう。後ろから母の怒鳴り声が聞こえてきたが、苛立ちを抑えるために聞こえていないように振る舞い、玄関の傘立てに挿してあるビニール傘を引っこ抜いて外へ出た。
 軒下に置いてある自転車を乱暴に転がして、傘を広げた。サドルに乗った所で、タクの幼稚園のバスが迎えに来たのがちらりと見えた――あぁ、アイツが泣き止むまで、少し待ってもらうんだろうな、とヒロは人事のように思い、構わず通学路を出発した。
 タクは傘を差しながら自転車を走らせていた。傘を差しているとは言っても、足元だけはどうしても濡れてしまい、気分が悪かった。ヒロは早く学校に着こうと、前屈みになって傘に受ける風の抵抗を押し、ひたすら足を動かしていた。
 しばらく進んだ辺りで、ティシャァァァ、と水溜りに思い切り突っ込んでしまった。前屈みになっていて前がよく見えていなかったので気づかなかったのだ。車輪は辺りに濁った水しぶきを巻き上げた。
 が、ヒロはその時に人の気配を感じ取り、素早く振り返った。
 そこには、黄色の傘を差した女の子が突っ立っており、横にはしゃがみ込んでいる女性(恐らく母親だろう)が並んでいた――ヒロが立てた水しぶきを女の子が浴びてしまったであろう事が分かった。声こそは聞こえなかったが、女の子が泣いている事も見て取れた。ヒロはまた前を向き、走り出した――くそっ! これだから子どもなんて嫌いなんだよ!
 治まり始めていた苛立ちが蒸しかえった。
『怪人になっちゃえばいいんだ』
 タクは、こう言った――タクには、俺が怪人にでも見えたんじゃないだろうか……大好きなヒーローを否定する俺が、不気味な怪人にしか見えなかったんじゃないだろうか?
「あぁぁっ!!」
 ヒロはなんだか感情が抑えられなくなり、苛立ちを吐き出すように小さく怒鳴った。

「ヒロ君っ」
 目を覚まして、目の前に在った物を挙げていこう。机、黒板、キョウカの顔。「今日はずっと寝てたね」
 この日ヒロはほとんどの授業の時間を机に突っ伏して睡眠に使っていた。それはやはり朝の嫌な気分を忘れるためだっただろう。しかしいつもなら、少し寝れば大抵の事を忘れられる自信を持っているヒロだったが、何故なのか、今日の事はなかなか頭の中から離れてはくれなかった。足元もまだ湿っていて、一層機嫌を悪くさせる。
 ヒロはキョウカの顔を素通りして、時計を睨む。時刻はとうに下校時間を指していた。ヒロはふぅと眠たそうに息を吐き、鞄を掴んで立ち上がった。
「どうしたのヒロ君? なんだか今日は怖いよ?」
 ヒロは少し首を前に落として、キョウカの顔を睨み、
「あのさ、今日はもう気分悪いんだ。だからもうどっか行ってくれ」
 そう言って教室を出て行く。しかしそんな事で負けるキョウカではなく、いつものようにくっついて教室を出る。ヒロもいつものように早足で歩く。そして、言った。
「ねぇ、ヒロ君――今日どうして来てくれなかったの?」
 ヒロは、ぴたりと立ち止まってしまった。今朝の事ですっかり忘れていた。そうか、そんな約束してたっけ。
 けれどそれは小さな事のように思えて、
「あぁ――ごめんな」
 それだけ、言った。多少、申し訳ない気分もあったので、荒れ気味の気持ちを抑えて極力穏やかな口調で言った。
「私、待ってたよ? ずっとずっと待ってたんだよ?」
 食い下がらないキョウカにヒロは気分が荒れるのを感じた。何も言わず、逃げるように再び廊下を歩きだす。
「――明日も、待ってるからね?」
「あぁ!もううるせぇな!」
 ヒロの気分は小さく弾けて、キョウカを襲ってしまう。「言っておくけど、明日も明後日も行く気無いからな!」
「……!」
 さすがの彼女も、少し驚いている様子だった。この二ヶ月間、軽くあしらったり無視する事こそ多々あったものの、ヒロがこのように悪意をむき出しにして怒鳴るのは初めての事だった。
「大体なんで俺の周りばかりつきまとうんだよ! ガキの時の知り合いだからって調子乗りすぎなんじゃねぇのか?」
「ヒロ君……?」
 キョウカは不安そうな表情をして首をかしげる。ヒロがなぜそんな事を言うのか本当に理解できていないようだった――そしてそれはヒロの怒りに一層拍車をかけてしまった。もう約束を破ってしまった事に対する後ろめたさは微塵もなくなっていた。
「だからその顔! そんな顔するのはやめろよ! いつまでもガキみたいな真似してるんじゃねぇよ! 気持ち悪――」
 ここでヒロは右腕を何か重い物に引っ張られる感覚がした。それは肩が外れるんじゃないかというような力でヒロを持って行き、体がふわりと浮いた(ような気がした)。一瞬の事のように、ヒロには何が起きているのか理解できなかった。廊下を引っ張り回され、転ばないよう足をパタパタと動す事しかできなかった。ただ、コロコロと景色が回っている中で、本能的に抵抗しなければと促されたある文字が目についた。『女子トイレ』――え?
 抵抗する間もなく連れ込まれた小さい個室。淡い桃色の壁で囲まれて、冷たそうなタイルの上には、その狭い空間の中で堂々と居座っている真っ白い――便器。
 ヒロはどういう訳か分からないまま上女子トイレの一室に立って、ヒロを連れてきた腕の主――扉の前を塞いで目と眉を吊り上げている三ツ木を睨みつけていた。お互い少し息が上がっている。
「おい、どういうつもりだよ!」
 その小さい個室を抜けて、声がトイレ全体に響く。
「それは――ごめん……。こうでもしないとキョウカ追いかけて来るから」
 三ツ木はそう言って腰の後ろに手を回してカチンと鍵をかけた。この狭い空間に押し込まれて、ヒロと三ツ木が向き合っていた。
「だから、何が言いたいんだよ! こんな訳分からない所に、閉じ込めて?」
「キョウカに酷い事言わないで」
 三ツ木は壁に手を着いて、それだけ言った。ヒロはツッと舌打ちをする。
「お前なぁ、俺の迷惑も考えろよ。俺はあれだけ近寄るなって言ってるじゃんか――なのにアイツは懲りもせず……もうありゃストーカーだろ。うざったいし、気持ち悪い」
 ――ばん! と三ツ木は扉を拳で思い切り叩いた。ヒロは少し驚いたが、怒るのはヒロにも予想は付いていたし、大体怒っていたのはこっちが先だ。ヒロはふてくされたような顔で三ツ木の顔を睨んだ。三ツ木は少し目を瞑ってから、口を開いた。
「合羽君……子どもの頃にキョウカと最後に会った時の事、覚えてないの?」
 三ツ木はやけに落ち着いた口調だった。その様子がヒロの予想外だったのだろうか、眉をヒクリと動かした。
「そんな昔の事なんか覚えてねぇよ」
「今のあなたは怒るだけかもしれないけど――」
 三ツ木は少し間を置いて、続けた。「合羽君は、キョウカにとってヒーローみたいな存在なのよ!」
「――ヒーロー?」
 ヒロは少しだけ、体が固まった。偶然なのか、もしかしたらそうじゃないのか、この単語は今朝にも聞いて、自分をこの一日苛立たせる原因となった単語であった――なんなんだ? どいつもこいつも。流行ってるのか? 本年度流行語大賞の候補にしてやろうか、俺の中で。
「合羽君が覚えていないのなら――もう無責任にあの子を傷つけるような事言わないで!」
 三ツ木が突然感情的になったので、つられたようにヒロの感情も高まった。
「何が無責任だよ! お前まで変な事言うな!」
「何も知らないくせに! あの子の事も――私の気持ちも――」
「そんな事、知りたくもねぇ!! ――もういい、どけよ!」
 ヒロは三ツ木の肩を掴んで横に動かすように押す。
がつん――というような音が響いた。
 ヒロは、しまった、と思った。
 入れていた力が三ツ木の華奢な肩の上をすべり、顔を壁に押し付けるような形で叩きつけてしまい、三ツ木は小さく悲鳴を上げた。
「……」
 ヒロは何も言えずに、頬を押さえる三ツ木の顔色を窺っていた――のだが、パシィンという音が響くと共に左頬に鋭い痛みを感知した。
 ――ヒロは三ツ木の手に平手打ちを喰らわされたのだ。
 ハッとするような表情をする三ツ木を、ヒロは流し目で見ている。そして言った。
「……ほら見ろ。俺が――ヒーローだなんてのに見えるかよ」
 ヒロは小さく息を付いて個室から出ようとする。今度は三ツ木もあっさりと通してくれた――鍵を開けて出た扉の先はいつも見るようなトイレの風景なのだが、小さな違和感を感じた。……男性用のソレが見当たらなかったからだろう。まぁ、今のヒロにはどうでもいい事だったが。
 ヒロは廊下に出る扉ではさすがに覗き込んで、人の気配が無いことを確認する。廊下に出ると、ここがどこだか確認して(元居た位置からどう移動して来たのか分からなかった)、昇降口へ一直線に歩き出す。
 外に出ると、雨はまだ朝と同じように降っていた――教室に傘を忘れた。ヒロはそう思って下駄箱の方へ振り返る。
 ――そこに、キョウカが立っていた。
 いつも笑っている顔を曇らせて、ヒロをじっと見ていた。
 この風景を気まぐれで撮った写真のように二人とも無言のまましばらく立っていた。
 しばらくしてからヒロが踵を返し、外へ飛び出した。
 何かから逃げ出したかった。結局傘を取りに行ってないが、どうでもよかった。
酷く――惨めな気分になっていた。そんな気分のまま必死に傘を差して行くよりも、何も考えず、こんな気分など雨に流してもらいたかった。
 ヒロは自転車を出した。雨は――ヒロの比較的細い体を容赦なく濡らしていく。

 六月第一水曜日。
 一晩経った今でもヒロの気分は晴れなかった。昨日より幾らか収まった雨も降っている――空も晴れなかった。
 この日もヒロは遅刻してきて、学校に着いた時には二時限目後の休憩時間になっていた。
 階段をかったるそうに登っていると、何人かの生徒がすれ違い、階段を下っていった。
 教室の前に来る――キョウカにも三ツ木にも……いや、誰にも会いたくなかった。どうしてこんな気分なのか分からなかったが。
 誰もいなければいいのに――そう思ってヒロは教室の扉を開けると、その部屋には本当に誰もいなかった。廊下で騒ぐ他クラスの生徒の声が響いている。
 電気の付いていない教室にふらふらと入ると、訳も分からず辺りを見回した。
 あ。
 教室の前に掲示してある時間割表を見て、ヒロは気がついた。水曜の三時限目は化学――確か今日は化学室での授業だった。
 息を一つ吐いて、ヒロは鞄を持ったまま教室を出た。
 ヒロは化学室の場所を頭の中で確認した――三階から二階の踊り場へ、そこから二階へ。二階へ降りれば化学室はすぐそこだった。
 近くの階段まで歩き、一歩階段を降りた――と、その時。
 ――心臓が驚いて、少し痛んだ。
 そこでヒロは何やら背中に圧力がかけられたのを感じた。それは確かに――人の手だった。
 そしてその手には悪意があった――だってここは階段だぞ?階段で押されて悪意が無い訳が無い。
 ヒロは何物かに背中を押されて前に倒れた。5段程先がどんどん近づいてくるのが分かった。反射的に手を付いたが上手くつけず、踊り場まで5段ほど残っている階段を転がり落ちてしまった。その際、右の肩と頭を強く打った。
 ヒロはあまりの痛さに唸りながら意識を失ってしまったのかもしれない、それからの事はよく分からなかった――


幼稚園の小さな運動場――雨が降っていた。
「えぇ!? キョウカちゃん、ガッコー行かないの?」
「ううん。おとなりのガッコーに行くの。だからね、もう、ヒロくんとはあそべないの」

「……」
「そんなことないよ」

「キョウカちゃんが会いたくなったら『レインコートマン8(エイト)』みたいにいつでも飛んで行くもん!」


「……うん!」

『この雨があがったら――』

『また会おう!』 

 彼は、当時好きだった「ヒーローもの」の決めセリフを吐き捨て、走り去った。それを聞いた彼女と再開するまでの間、幾度となく雨は降り――止んでいった。
 その間、この少年はどこを走り続けていたと言うのか……どこへ行ってしまったと言うのか?

 ヒロは目を覚ました。夢を見ていたようだ――いやでもこれは……この夢は――
 時計を見る。夕方の四時前だった。自分の部屋だ。学校は? なんでこんな所に――
 ヒロが体を動かすと、右の肩が少し痛んだ。そして、痛みと共に一掴みの恐怖が内から沸いてくる――そうだ、俺は誰かに階段から突き落とされたんだ!
 ヒロはあれからの事を思い出していた。頭を打ったせいか、記憶が曖昧だった。
 通りかけた生徒に発見され、教師が駆けつけてきた。それから保健室へ運ばれて、家に連絡したら母が迎えに来た――それにしてもよくあの母がわざわざ駆けつけてきたな。
 保健医に言われ、念のためそのまま病院へ行って診てもらった。骨が折れてるかも知れないとの事だったが、幸い骨には異常がなく、打撲で済んだとの事。そしてそのまま帰宅――あれ? その前にどこか寄ったような……。
 ヒロはここで思い出してしまった――レンタルビデオ屋に寄った事を。あの横着な母がわざわざヒロを迎えに来たのは借りていたビデオを返す「ついで」だったらしい。
 じゃあビデオがなかったら来なかったのか? ――ヒロは思い出したのをひどく後悔した。
 それから、家に帰った後はそのまま布団を敷いてもらって寝た――という事だけを投げやりに思い出してヒロはもう一度先程と同じように目を瞑った。
 それにしても――誰が俺を突き落としたんだ?
 ヒロはそれを考えると、そういえばこの事は誰にも言ってない事を思い出した。妙な騒ぎになるのを面倒くさがって、何か聞かれてもただ足を踏み外したとだけ述べていた。
 ヒロが寝返りを打とうとすると、右肩に鈍い痛みが走った。小さく息を出して顔をゆがめた。それと共に自分をこんな目に合わせた犯人に対して怒りがこみ上げてくる。
 イラつきながらも、もう一度眠りに付こうかと自分の心を落ち着かせていた。
 やがて、もう一度眠りに落ちようというところで――ピンポーン……玄関のインターホンの音が聞こえ、ヒロはゆっくり目を開いた。
 ピンポーン。少しして二回目の音が鳴った。ヒロは動き出し、右肩をかばいながら体を重たそうに起こして止まった――母さん……いないのかな。
 少しの間そのままでいて、もう一回鳴ったら出るかと布団の上で待つ。
 ピンポーン。ヒロは立ち上がり、少々よろよろしながら玄関へ向かう。立って歩いている間は案外肩の痛みは感じなかった。
 ヒロはサンダルを引っ掛けて、制服姿で寝ていたのだろう、そのままで玄関を開けた。
「こんにちは」
外にいたのは、眉を持ち上げて、少し不安そうな表情を見せるキョウカだった。
 ヒロは困ったような、落胆したような、驚いたような、よく分からない表情で――「よぅ」と、キョウカを迎えた。

 白い清潔そうな急須から、鮮やかな緑色の緑茶がお茶碗に注がれていく。
「あのな――」
 ヒロはリビングの椅子に座り、目の前の緑茶から湧き上がる湯気を眺めていた。「なんでお前が茶を淹れてるんだよ? 普通俺じゃないの?」
「だって、ヒロ君怪我してるし……すっごく心配したんだよ?」
 キョウカはお茶碗をヒロの前に寄せる。ご丁寧にコースターの上に置いて。
 なんというか、やっぱり常識はずれなヤツだ――ヒロは思った。同時に、いつもならこんな家にまで押しかけられたら、真っ先に声を上げて追い出していたかもしれないと思ったが、今日は特に何も思わなかった。それどころか、何故かリビングでお茶をしている。へいカノジョ、お茶しない? ――べつに、こんな子ナンパした覚えなんかないのにな。
 ヒロは緑茶をすすった。少し渋く感じた――お茶っ葉入れすぎなんじゃねぇのか?
「あのさ」
ヒロはお茶をすすりながら尋ねた。「ウチの場所なんか知ってたの?」
 幼少の頃遊んでいたと言っても、家が幼稚園から反対方向だった事もあってお互いに訪ねた事はなかった。
「ううん、知らなかったけど、ミッちゃんが教えてくれたの」
 ヒロの問いにキョウカが答えた。ヒロの正面の椅子にちょこんと座っている。「さっきまでいたんだけど、帰っちゃった」
「いたの!?」
 ヒロは、三ツ木の名を聞いて、トイレでのやり取りの事を思い出した。
『合羽君は、キョウカにとってヒーローみたいな存在なのよ!』
 ヒロは、聞くのを少し躊躇ったが――思い切って聞くことにした。
「三ツ木が――言ったんだ。折笠さんが、俺の事をヒーローだと思っている。なんて」
 ヒロは何気なく言おうとしたが、どうもぎこちなくなってしまった。キョウカの顔を見ると、また、いつものように幼い笑顔に変わっていった。
「うん! ヒロ君、約束してくれたもんね!」
 笑顔は、続けた。「会いたくなったら、飛んできてくれるって!」
 無邪気な顔をして、えげつない事言うな――とヒロは思った。
 それは、先ほどまで見ていた夢によく似ていた。とても不思議だった。頭を打ったせいなのか、ヒロは十年前、キョウカとの別れの日の事を鮮明に思い出していた――
 幼稚園の卒園式の日に、ヒロは二人が別々の小学校に上がるのだと知った。キョウカはヒロが大好きだったし、ヒロもキョウカが大好きだった。大好きなキョウカが寂しそうな顔をしている。だからヒロは、キョウカのヒーローになる事を約束した。
 しかしヒロは、小学校に上がるとそこでの生活が忙しくなり(と言っても、お遊びで、だが)、家の遠いキョウカの事はいずれ会いに行こうと思っているウチにタイミングが分からなくなり、次第に――忘れていった。
「だからね、ずっとずっと――待ってたの」
 それなのに、この子はいつも俺を待ってたって? それはそれは――
「馬鹿じゃねぇの?」
 ヒロは、嘲笑混じりにそう言った。「君ね、そりゃ待ちすぎだって」
「うん――だからっ、会えてすごい嬉しかった――」
「バカやろう!!」
 ヒロはテーブルを叩き、勢いよく立ち上がる。お茶碗が跳ねて、お茶が少しこぼれた。「俺は、お前のことなんかすっかり忘れてたんだぞ! 綺麗さっぱりな! それどころか――」
 その続きはなんだか言葉に出来なかった。肩が痛んだが、あまり気にはならなかった。
「なのにお前がそんな――そんな嬉しそうだったら俺が惨めじゃないかよ! ダサいじゃないかよ――」
 ヒロはキョウカを睨みつけた、惨めさと情けなさが混ざった苛立ちは行き場を見失っているようだった。
 そして、二人は少しの間黙ってしまった。ヒロは鼻から息を吐き、落ち着かせるように小さく唸っている。あまりキョウカの顔は見えなかったが、ずぅっとヒロのお茶碗の辺りを見ていたようだ。
しばらくしてヒロはキョウカの顔を覗き込む――ヒロは異変に気づいた。
 キョウカの目に光がなくなっており、小さく揺れている。その顔には色が無く、のっぺらぼうのようになっている。
そしてそれをヒロは見たことがあった。二学年の始め、再会した日の事だった。あの時は、ハッと我に帰ったように元に戻ったが――
「ただいまー」
 リビングのドアがカチャリと開いた。そこに現れたのは幼稚園から帰宅したタクだった。
 タクは一度ヒロの方へ目を向け、それからキョウカの存在にも気づいてそちらにも目を向けた。
「あれ? 兄ちゃん、このお姉ちゃんは――」
「ヒロ君!!」
 キョウカは突然大きな声を出し、飛び上がるように椅子から立ち上がった。口を開いていたタクも、それを眺めていたヒロも驚き、ハッとキョウカに注目した。
 キョウカの様子はおかしかった。ヒロ君と叫んだ先の目線にいたのは――タクだった事にヒロは気がついた。よろよろと歩き出し、一瞬もタクから目を離さなかった。タクも、近づいてくる見知らぬ女性に若干顔を強張らせていた。
 キョウカはタクの目の前まで行くと、上手く下の段を抜かされただるま落としのようにかくんと腰を落とし――思い切り抱きしめたのだ。
 タクは一瞬だけ小さな体をびくりと揺らしてから、息苦しそうな顔でヒロの方を見る。
この人誰? 何で抱きしめられてるの? この状況は何? という風な質問を詰め込んだような目線を送っている。ヒロがこの質問に答えていたとしても「俺にも分からん」というような答えしか返ってこなかっただろう。
 状況が動く事を待っているかのように呆然として動かない兄弟の期待(?)に答え、キョウカは篭った声で言う。
「ヒロ君! ヒロ君! やっと来てくれたんだ! わたし、いやなことがあっても泣かなかったんだよ? ヒロ君が――たすけに来てくれるから!」
 タクは口元がキョウカの肩に当たっているらしく「ふふぅふぁふぇふぁひひぃふぉ?」と全く解読できない事を言っていたが、ヒロには――状況が把握できた。
 な――なんだよこの子……タクの事を、俺だと――ガキの頃の俺だと思ってるのか?
 ヒロは初めて狂人を見たような気分だった――いや、それは狂人となっていたのかもしれない。少なくとも、今はそう見えた。
 タクに思い出の中でのヒロを見ているかのように、何度も呼びかけている。ヒロが後ろから見たその背中と――心は、子どものソレになっていた。
「おい! 何言ってるんだよ!」
 ヒロは立ち上がり、言った。
 声が少し震えていた。そして途端に力が入らなくなり、膝を折り曲げて腰を落とした。キョウカとタクに目線の高さが合うようになった。
 キョウカの肩に手の平を乗せる。キョウカはひくりと肩を動かし、振り返った。いつも通りの顔がこちらを見ている。
「お兄ちゃん――誰?」
 キョウカは首を傾げた。
「ヒロは俺だ! そっちは弟だよ……!」
 キョウカの肩を揺する。しばらくして首を落とす。「俺たちはもう――子どもじゃないんだよ……」
 少し間を置いた後、キョウカはハッとした。目があちらこちらに泳いでいた。
「――折笠さん」
「ヒロ君……ごめんね」
 キョウカはもうタクから腕を離していた。タクは目をパチクリさせている。「私……本当は分かってたの――随分前から」
 肩を落としてひどく落胆しているように伏し目がちになっていた。ここでヒロは何か違和感を覚えた。そしてそれが何かすぐに分かった。
 いつもの――この子と違う。
 今目の前にいるキョウカはいつも、学校でくっついてくるキョウカとは、どこか相違があった。
「変わってしまったんだよね……なにもかも」
 そうだ。いつも見られる幼さが抜けてしまっているのだった。表情からなのか口調からなのか――ふわふわしているような雰囲気がなかった。それは学校にいる他の女の子――丁度三ツ木のような子と同じだった。
「分かってたのに……私、分かってたのに」
 キョウカははっきりそう言ってから、鼻から少しずつ息を抜きながら――ゆっくり涙を流し始めた。
 うえぇぇぇ、グス、うえぇぇぇ、グス、と小さく泣いているキョウカを見て、ヒロは驚いていた。まさか、こんな風に泣き出すとは思わなかった。
「私――最低なの」
 キョウカは床に手を着いて泣き崩れてしまうのを耐えているようだった。「ヒロ君はもう昔とは違うんだって、変わってしまったんだって分かってたのに……私は昔のヒロ君しか見ていなかった――今のヒロ君は見たくなかった!」
 ヒロは何か、胸の奥で針の先が刺さったような感覚がした。
「ごめんなさい……本当に――ごめんなさい」
 キョウカはヒロの目をまっすぐ見つめてそれだけ言った。そして立ち上り、タタタと玄関の方へかけていった。
 玄関の閉まる音が聞こえた後、ヒロは呆然としてしまった。
 とっとっと――と小さな足音が聞こえる。タクがすぐ目の前まで来ていた。
「兄ちゃん――女の子を泣かすのはね、怪人なんだよ?」
 ヒロは顔を上げてタクの顔を見た。唇を引っ込めて、少し不安そうだ。
 何も言わず立ち上がって、リビングのドアに手をかけた。その時、
「でもね――ホントは兄ちゃんに怪人になんてなってほしくないよ」
 タクはとても小さな声で言った。とても……。
 ヒロには聞こえたのか、聞こえていないのか……。
 ドアを開けて自室へ戻り、丸まっていた布団を無造作に広げて潜り込んでしまった。
 ――確かに、そうなのかも知れない。子どもの夢を奪い、女の子を泣かせ……それは本来ヒーローに倒されるべき存在の怪人と変わりはないのかもしれない――ぐぇっぐぇっぐぇっぐぇ、俺様は遅刻怪人アイバーン! 今日も遅刻するぞぉ? 嘘をついて約束も破るぞぉ?
……ヒロは、あまりの下らなさと――それは案外的を得ている例えなんじゃないかと思ってしまった事に、少しため息が出た。
そのため息を最後に、この日はもう目を覚ます事はなかった。

 私は――大馬鹿だ……!!
 全部分かっていた――人は、変わっていく。
 私みたいな人間は、珍しいんだ。
 だから、皆私の事を避けているんだ。
 だから、皆私の事を否定するんだ。
 信じていたのは、私だけ……。
 別に演じていた訳ではない。心の底から信じていた。子どものまま。
 でも、進んで行くしかないんだ。一人でも、進んで行くしか……。

 六月第一木曜日。
 ヒロはこの日、肩の痛みを抑えてなんとか自転車で登校したが、例によって遅刻をした。それも――大遅刻だった。
 教室に入ると、前の方で友人の何人かが集まって昼食を取っていた。
 一人がヒロを見つけると、その集団が大いにざわついた。心配の声ありからかいの声あり。
 ヒロはそれらを適当に構うように笑ってやり、自分の横の空席を見る。教室を見回してもその席の主は見当たらなかった。
 その代わりと言ってはなんだが――教室の中心より少し廊下側の方に立っている三ツ木の視線とぶつかってしまった。
 三ツ木はヒロが何を言いたいのか分かったという風に、後ろの扉から教室を出た。ヒロもすぐ後ろにある前の扉から廊下に出る。
 三ツ木は少し早足で近づいてくる。表情は少しだけ固いようだった。
 ヒロはここに来て初めてトイレでの事を思い出したが、まぁ、それはどうでもよかった。
「怪我……大丈夫?」
 三ツ木は、普段の声の調子で、そう聞いた。
「あぁ……まぁ」
 ヒロはそんな事はどうでもいいと言った風に答え、そして尋ねた。「折笠さんは……?」
「……休みだって」
 ヒロの問いに、三ツ木は少し間を置いて答えた。「で、どうしたの?」
「何が?」
「合羽君が人の事気にするなんて珍しいじゃない。昨日、何かあったんでしょ?」
 ヒロは胸の奥の方がドキリとしたのが分かった。三ツ木はヒロのいる扉側の壁と向かい合う窓側の壁に背中を着けた。
「何で休みなの?」
「何があったの?」
 三ツ木は少し強い口調でヒロを制した。
 ヒロは何も口にできなかった。
「……」
 痺れを切らして、三ツ木が口を開いた。
「あの子は、無意識の間に子どもになろうと――いえ、子どものままでいようとしてたんじゃないかな」
「……」
「私が一年の時、周りの女の子何人かでグループになってたんだけど、その子達が性格最悪でさー」
 三ツ木は、急に腕を組みだして話し始めた。それは教室でヒロなんかより親しい友達と話すような口調になっていた。
「……三ツ木?」
「まぁ聞きなさいって――で、そいつらがある日、キョウカに目を付けたのよ。あの子、はっきり言って浮いてたから」
「……まぁ、今でもな」
「最初はからかってただけなんだけどさ――正直言うと、私もね。それがどんどんひどい事になっていって……靴とか隠したり、ペンで刺したり。この辺から私は、さすがに止めに入った――お決まり通り、私も一緒にそのお遊びの対象になった訳だ」
 三ツ木は肩をすくめて見せた。「ま、その内のリーダー格だったヤツ二人ほど、二年に上がれなくて学校を辞めました――めでたしめでたし」
 ヒロは、なんでこんな話をしているのか分からなかったが、黙って聞いていた。
「で、私も仲間外れにされて、孤立を誤魔化すためだったのかもしれない、自分への慰めのつもりだったのかもしれない……キョウカと友達になった。でも、それから何回か――ちょっとおかしな様子になる時があったの」
「おかしな……?」
「うん――突然、ハッとしたようになって、顔から何の表情もなくなるようになるの。少しすると急に戻るんだけど」
 ヒロには心当たりがあった。
「俺も、見たことある……」
「そして、あの様子になる時は『ヒーローを否定された時』だった。ヒーローを待っているなんて事を馬鹿にされたり、けなされたり……」
 ヒロはキョウカと再会した時、キョウカの事を覚えていないと言った。昨日、キョウカが家に訪ねて来た時、自分を惨めだと形容した。
 そして共に、その後三ツ木の言う?おかしな様子?になっていた。
 キョウカから見るヒロを、ヒロ自身が否定した時――それはヒーローを否定した時だったのかもしれない。
「私、あれ見てなんだか――あの子のそれまでの事が分かってくるのよね」
 三ツ木は、先ほどまでの世間話をするような目から、トイレでヒロを戒めたときの様な目つきに変わった。「あの子は、病気なのよ」
「――病気?」
「あの子は、あなたと別れてからずぅっとあなたを――ヒーローが現れるのを待っていた。私も知らないけど、その間に何回もさっき話したようにヒーローを否定され続けてきたのかもしれない。でも、ある時自分も思っちゃったんじゃないかな。ヒーローなんていないんじゃないかって」
 三ツ木はふっと小さなため息をついた「その時からもう一人――ヒーローを疑うキョウカがあの子の中に生まれた」
「二重人格って事か……?」
「それに近いかもしれない。それで、ヒーローを信じる心が少しでも揺らぐと、それが顔を出して二つの人格が葛藤を始める――それで、あの状態になるんだよ」
「それだけでよくそこまで推測できるな」
 ヒロの言葉を聞いた後で、三ツ木は目を引きつらせ、急に表情を変えた。
「できるわよ!」
 淡々と自分から見た推測を並べていた三ツ木だったが、そこで突然感情的な言葉が発せられた。
 ヒロはそれに少し体を動かし、驚いてしまった。ヒロは間抜けな顔で三ツ木を見つめていた。三ツ木は少し自分の足元を見て、何か言うのをためらう様な様子だった。
「三ツ木……?」
 ヒロが不審がって一歩前に出ると三ツ木は、
「くっ……!」
 と息を吐いて走りだした。
 ヒロは動揺して、少し辺りを見回した。え、俺何かした!? もしかしてズボンのチャックが……空いて……ない――自分のズボンのチャックを焦って確かめていたヒロだが、そんな事している場合じゃないと思い、三ツ木が走っていった方に足を向けた。
 廊下を少し移動した所に、特別な教室がある隣の棟に続く渡り廊下がある。そこに、目元を押さえるようしながら走る三ツ木の姿が見えた。
 追いかけるとそこは、人気のなく薄暗い廊下――ここは確か美術室とかがあったような……?
 と何気なく見回すと、掃除用具のロッカーのすぐ横に女の子の霊が――それは昔優秀な美術部員が不幸な事故で腕が使えなくなり苦悩の挙句……という風な話ではなくただ単に三ツ木が座り込んでいた。
「私ね、さっき言ったように一年の時はいつもキョウカと一緒にいたんだ」
 ロッカーに寄り添うように足を抱えて座っている三ツ木は、少し顔を上げて言った。「そうしたらあの子の純粋な部分が見えてくるの――」
 暗くてよく見えなかったが、三ツ木は少し涙を浮かべているようだ。声が少し震えている。
 そして、誰に聞かせるわけでもないような口調で――言った。
「私、キョウカの事いつも見てるの――キョウカの事が大好きなの!!」
「え」
ヒロの口から無意識のうちに出ていたような声だった。そして、その言葉の意味を理解していくのと同時進行しながら驚きの声が続いた。「はぁー!!?」
「別に――どう取るかはあなたの勝手だけど……!」
 三ツ木は手の甲で涙を拭いた。照れているような寂しがっているような顔で自分の足元の辺りを眺めている。
 どどどど、どう言う事なんだ……? ――三ツ木の様子を見ると、その言葉にはどうも危険な香りが……あいや、ここはあえて何も言わずに……その――とにかく、少々混乱気味のヒロに構わないように三ツ木は続けた。
「とにかく私にはあの子の事がよく分かる。純粋なあの子だからヒーローをずっと待っていられて、そのヒーローがあの子にとってどんなに大切かも知ってる!」
 涙はもう止まっているみたいだった。「あの子はいつもそのヒーローの彼の事を言ってたけど、私にはもうその彼はあの子の前には現れないんだろうって思ってた――それなら、私があの子のヒーローになってあげようと思った」
 三ツ木は顔を上げて、ヒロを睨むように見上げた。
「でもね、そこであなたと再会したキョウカを見て、あなたがその?ヒーロー?の彼だって気づいた」
 ここで三ツ木は何か黒い影を背負った笑みを浮かべた――ように見えた。「愕然としたわ。あなたは私の知ってる限りでは遅刻ばかりして無気力な――それはもうヒーローなんて呼べる代物じゃなかったものね」
 ――ヒロはぞくっとした。それは何かテレビドラマで悪女役の女優が見せる嫉妬の演技に似ていた。
 それから――三ツ木はこう続けた。
「でもキョウカは毎日毎日あなたの事ばかり話して、あなたばかりを追い回して……こんなキョウカをあなたは邪険に扱う。正直、もう許せなかった――殺してやろうかと思った」
 三ツ木からの悪意ある言葉がヒロの耳に入った。しかしこの感じに既視感を覚えた。この……悪意ある感じは、つい昨日――
「お前――まさか!」
 ヒロは階段を下っていた時に背中に感じた掌の感触を思い出した。既視感の理由が分かった時、ヒロの口からは自然と言葉が漏れた。そして、段々と怒りがこみ上げてくる。「なんでだよ!!」
 ヒロは腰を屈め、三ツ木と同じ目線に合わせると、ブラウスの胸倉を思い切り掴んで引き寄せた。
 三ツ木の顔に驚きと怯えの混ざった色が浮かんでくるのが分かったが、ヒロは黙って睨んでいる。
「えぇ……あなたを突き落としたのは私よ?」
 三ツ木は言った。
 ヒロは再び何か怒りの言葉を吐き出そうとしたのか、息を吸った。しかしそこで三ツ木の言葉がそれを遮ってしまう。
「キョウカが困っていた……!!」
 三ツ木の目には再び涙が溜まり始めていた。今度は近かったからかヒロにはその涙の粒までハッキリ見えた。それに消火されるように、怒りもどこかへ行ってしまうのを感じていた。
 三ツ木は続ける。
「あなたが階段から落ちた事を聞いてとても不安そうにしてた……私はそれを見て後悔した。いえ――もともとあんな事するつもりなんてなかったのに、なんでそんな事したのか自分が分からなくなった」
 三ツ木はポロポロポロポロと涙を流している。「だってあなたに何かあったらあの子が悲しむなんて分かっていたもの!」
 ――ヒロは、申し訳なさそうに三ツ木の胸倉から手を放した。
「でも、一つだけ分かった――私じゃあの子のヒーローにはなれない。あの子にとって、あなた以外にヒーローなんていないの!」
 三ツ木は必死に涙を堪えているようだった。荒い息使いが聞こえる。
 しばらくの間、その音だけが続いていた。
「――あの子が昨日言ったんだ」
 何事か考えていたのか、ヒロが口を開く。「俺はもう変わってしまった――人は変わってしまうんだって。分かってたのに、昔の俺ばかり見ていたんだって……」
「キョウカが……?」
 三ツ木は少し、驚いているようだ。鼻が小さくグジュと音を立てた。
「自分の事を最低だと言って――泣きながら出て行ってしまった」
「泣いたの!?」
 三ツ木は間を置くことなく言い、ヒロの胸元を掴んだ。「ねぇ、あの子が――泣いたの?」
 なにやら執拗に尋ねる三ツ木にヒロは小さく肯いた。
「もう今の俺の正体なんてとうに見透かされてた……だから、俺はもうヒーローなんかになれはしないよ」
 三ツ木は両手をヒロの胸元に強く握り締めて、首を落として、言う。
「そんなの――無責任だよ……」
 肩の震えが少し、ヒロの胸に伝わってきた。「キョウカをあんな事にさせたのはあなたでしょ!? それなのに、そのきっかけの約束まで破るなんて――」
「そうだよ、俺はもう――」
 ――?怪人?なんだよ。
 ヒロは、なんだか口に出せなかった。
 昼休みの教室の方では、大勢の生徒のお喋りや騒ぎ声が飛び交っている音が溢れ出している。
「私は、あの子が泣いたのなんて見たことがない」
 ヒロの足元の方を向く形のまま、三ツ木は呟いた。「あの子はいつだって笑ってて、いつだって楽しそうで――それはいつもヒーローが来る事を信じてたから……」
 三ツ木はゆっくり顔を上げた。
「だからあの子が泣くなんて信じられない。だってそれは――自分がヒーローを否定する事だから!!」
 三ツ木はヒロの顔をまっすぐ見ていた。収まり始めていた涙が三度こぼれそうになっているのをヒロは確認した。
 ヒロはまだ今のキョウカとは二ヶ月ほどの付き合いだったが、彼女がどれほどヒーローという物――自分を信頼していたかは、よく分かる気がした。それが、涙と共に自分の目の前でこぼれ落ちていったのだった。
 自分がどこで何をしているかも分からない間、キョウカはずっと待っていた。その間は、とても寂しい気分だったのかもしれない――俺はその分の涙を流してやる事しかできないのか?
 三ツ木が口を開いた。
「私はキョウカとあなたが再会してから、いつも不安だった……! 心が不安定だったあの子がいつバランスを崩すか――そして崩したら、あの子はどうなってしまうのか、私には分からなかった」
 三ツ木は、ヒロの胸元から手を放した。ずっと掴まれていた制服はくしゃくしゃになり、少し湿っているようだった。
「私じゃどうする事もできないの――」
 三ツ木はそれから薄暗い廊下の少し先へ何歩か歩いた。
「お願い……!! キョウカの……っ! ヒーローに――あの子のヒーローになって!!」
 その涙声は暗い廊下に吸い込まれず、ヒロの耳にまで響いた。
 薄暗い廊下にいても三ツ木が泣いているのが分かった。
 ヒロは振り返り、走り出した。
 急いで駐輪場に向かい自転車を出し、家路を急いだ。

 六月第一――金曜。
 午前、大体5時くらいだろうか。
 ヒロは帰宅した後から、これまでずっと自室の布団の中にいた。寝ていたのか、何か考え事をしていたのか……とにかく暖かい闇の中でじぃっとしていた。 
「ヒーローになって」
 昨日の三ツ木の言葉が思い出される。
 ヒロは自分に自信がなかった――いや、自信を持っていない事に気づいてすらいなかった。
 毎朝寝坊ばかりしている怠けた高校生だ。人の気持ちもこの先の事も特に考えていない――ヒロはそんな高校生だった。
 そんな人間に突如告げられた使命――一人の少女のヒーローになる。
 最初はバカバカしいと思っていた。
 だが、それは少女の心に大きく関わる問題だった。
 本当はキョウカが怖かった。会った時から怖くて逃げていた。
 これ以上キョウカから逃げていたら……彼女の心はどうなるだろう? そうしたら……。
 まだ間に合うはずだ――果たして俺が怪人なのか、それともヒーローなのか。
 それをハッキリとさせなくてはいけない――ヒロはそう思っていた。
 ヒロは被っていた布団をガバッと弾き飛ばす。朝の涼しい空気が顔を撫でた。ヒロは、不思議と眠くはなかった(十二時間以上布団の中にいれば当然かもしれないが)。
 ヒロは窓の外を見た。まだ雨がひとひとと降り続いていたが、外は少し明るくなっていた。
 こんな朝早くの空を眺めるのは久しぶりだった。今度は晴れた日に見たいな――ヒロはなんとなくそう思った。
「……っくぅ」
 眠くはないはずなのに、欠伸が出た。
ヒロはそれを誤魔化すように首を左右に振り、自室のドアを開けた。
 ヒーローになる方法なんて分からない――しかし、今出来ることは知っている。
 何年も待たせてしまっている彼女に、会いに行く事だった。そしてその時には――
「おい、タク起きてくれ」
 カーテンが閉まっていて、まだまだ薄暗いタクの部屋に入ると、小さい布団を少しめくる。「んん……」と小さい声を出して、タクは少しまぶたを開いた。
 よくこんな下らない事をしようと思ったものだ。しかし、他に方法が分からなかった。
 ヒロは寝起きのタクにこう言った。
「お前のレインコート貸してくれ」
 タクは小さな声を出して、タンスの横にかかっているその赤や白のラインが入った上下セットのレインコート(大)を指差した。
 そして起き上がり、「ふぇ!?」と驚きの声を出した。

「わーい!兄ちゃんかっこいい!!」
 興奮してすっかり目を覚ましたタクはまだ薄暗い朝の廊下を嬉しそうに飛び跳ねていた。
その横には、目を引きつらせて鏡を覗くレインコートマンが突っ立っていた。
 ――うえぇ、着てみると予想以上に恥ずかしい……。
 タクの部屋にかかっていた大人サイズのレインコートマンの衣装は、ヒロには少しだけ小さかった。そのため、袖からは長い手首が露出しているし、裾からもまたズボンの裾が見えている。しかも、ヒロはこんな時にリュックが濡れるの嫌がり、レインコートの下にリュックを背負っている。それでヒロの背中は妙に盛り上がっており、甲羅のサイズを間違えた亀のようになっていた。そしてそれは全体的に――所謂とてもダサい格好だった。
 しかし今、ヒロの目の前にはその姿を見て目を輝かせている弟がいる。ヒロはその姿にその年頃の自分を見た――俺も、目の前にヒーローがいたらこうして嬉しそうに飛び跳ねていたのだろうか?
 いや、まだ自分はヒーローにはなっていないとヒロは思った。これからそうなるために、キョウカに会いに行くと決めた――この、あの頃の自分が憧れていたコスチュームを着て。
 ヒロが無言で玄関に向かうと、パタパタとタクも足音を立ててついてくる。靴を履いて玄関のドアノブに手をかけると、タクは後ろで
「頑張ってね!!」
 と大きな声で言った。
「バカ、母さんが起きちゃうだろ」
 と言いながらヒロは後ろを向くと、そこには顔いっぱいの笑顔で大きく手を振っている子どもがいた。
 いつもなら少し頭に来るこの幼稚な笑顔も、今のヒロには励みになるようだった。
ヒロは、つられて小さく笑みを漏らす、そして言った。
「行ってくる!」

 レインコートの外側から、小さな雨粒がコツコツと音をこもらせる。
 ヒロはいつもの通い慣れた通学路を自転車で走っていた。ただ、いつもとは違い、妙なデザインの少々小さいレインコートを着て。
 こんな所を誰かに見られたら、恥ずかしさのあまり光の速さで逃げてしまいたくなるだろうが、幸い人の姿は全然見られなかった。それはそうだ、まだ五時を過ぎた雨の日に誰が好き好んで徘徊などするものか。
 それに、ヒロもう決めていた――こんな格好してりゃ恥ずかしいのは当然だ。今だって恥ずかしい。帰りたい。でも俺はヒーローになるんだ。
 ヒーローなんてのは万能ではないんだな、とヒロは思った。
 小さい子どもに励まされて、こんな恥ずかしい思いをして――格好良いヒーローなんていないんだろう。そんな事を考えていた。
「ハァ……ハァ……!」
 ヒロはただ、ペダルを漕いでいた。レインコートの中は少し蒸れていて、気持ち悪い暑さを着ているようだ。
 雨はまだ降っている。
 時間はまだ大分あるはずだが、ヒロは急いでいた。昨日学校を休んだ彼女が今日来るのかも分からないのだが、この苦手な朝の中、ヒロは走っていた――自分でも何故こんな事をしているのか分からない、ただ、早くキョウカに会いに行かなくていけないという思いだけで動いているようだった。
 ――キョウカちゃん……待っててくれ。今会いに行くから。大人になるにつれて俺は怪人になっていった。きっと傷つけてしまっただろう。ごめん。でも、なんとかしてまた笑顔にしてみせるから……俺は、キョウカちゃんのヒーロ――「うおっ!」
 ヒロは、1秒にも満たない短い落下時間を感じた後、頭の中に響いた篭った音を聞いた。
 猛スピードで走っていた自転車は急なカーブを曲がるときに濡れたコンクリートを滑り横転してしまった。
 その上に載っていたヒロは受け身の手を突く暇もなく、体を地面に滑らせ、転がった。そしてその際思い切りコンクリートに頭突きをしてしまった――まぁ、頭突きと言っても、ぶつけた箇所は少し右寄りの後頭部だったが。
 そして、治りかけの右肩にも激痛が走る。おいおい、安静にさせないといけないんだから勘弁してくれよ。それにしても今週は随分ツいてないな、俺もお前も――そんな事を右肩が言っているような気がした。
 その後にだんだんと意識が薄れていって、ヒロは強制的に二度寝に突入させられる事になってしまった。この水浸しの硬いベッドの上で……。

 時計の針が三回ほど回った頃、ヒロの学校の校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下にキョウカが箒を持って立っていた。ここは昇降口と繋がっていて、生徒たちが普段土足でも上履きでも歩くので土埃が溜まっていた。
 私……どうしよう。ヒロ君が、あの頃のヒロ君じゃないって、分かってしまった。そんなの当然の事なのに……とても怖い――キョウカはボーっとしたような色の無い顔をしながら、足元を掃いていた。
 ザッ。
 私は、これからどうすればいいんだろ。 
 ザッ。
 誰か、来た?
 ザッ。
 来ないよね?
 ザッ。
 待っているのはもう――
 ザッ。ザッ。ザッ。
 ――キーン、コーン、カーン……
 チャイムが鳴り始めた。朝のホームルームが始まる10分前のチャイムであり、キョウカにとって朝清掃終了の合図でもあった。
 もう、終わりなんだ。そうか、終わりなんだね。もう終わっちゃうんだね……今まで、私は何をしていたの? 終わり? ――キョウカは、箒を戻すために掃除用具入れの扉を開けた。
 キョウカはふと、遠目に(あれは自転車通学の生徒たちが使う裏門の辺りだろうか)黒い人影が何やらよろよろしているのに気がついた。
 キョウカは首をかしげながら少し近づいてよく見てみた。
 カタン――箒が倒れた音が響いた。あれは――!
 キョウカは廊下から抜け出し、自転車置き場の方へと歩いて行く。頼りない歩調だった。
 屋根も途切れて、雨粒が顔に飛びついてくるのが分かった――ちょっとちょっとお嬢さん、上履き汚れちゃいますよ?後でちゃんと拭いて下さいね。雑巾ありますから。
 自転車置き場を横切り、焼却炉の前を通過するとそこが裏門の出口だった。そしてそこにはキョウカが見たものが立っている。
 妙なデザインのレインコートを着たその男はよろよろと足元をふらつかせている。キョウカはこの妙なデザインに見覚えがあった。テレビで見たようにマスクはしていないし、手足からは違う衣類がはみ出ているし、着ている物に合っていない足元の白いスニーカーは濡れているしおまけに背中には大きなこぶがあるように膨れている――しかし、この格好は昔ヒロが大好きだったヒーロー「レインコートマン8」だった。
 ――ヒロ君。
 キョウカは近づいて心配そうに顔を覗き込んだ。頬の辺りに泥がでっちょり付いているヒロの顔だった。
ヒロはあれから、ほぼ無意識のまま、倒した自転車も気にせず歩いてここまで歩いてきたのだった。時間や服装の事など何も気にはしていなかった。
 透明ビニールの向こうに見える目は虚ろがちになりながらあたりを見回していたが、やがてキョウカを発見し、焦点を合わせたようだ。
「キョウカちゃん……」
 ヒロは呟いた。息が切れているように肩が上下していた。それをしばらく眺めていたキョウカが、
「ヒロくん……っ」
 何が何だか分からないといったような顔で言った。「どうして……どうしちゃったの!?」
「ごめんねキョウカちゃん……」
 息が半分以上混ざったような声で言った。
 ヒロはまだ意識がハッキリしていないようだった。
「俺、なんとか……今からでも約束果たそうと思った。でも、ボロボロだし頭も肩も痛ぇし服のサイズは合ってないし背中は膨らんでるし……こんなのヒーローじゃないかもしれない――」
 キョウカは首を振った。濡れ始めている髪の毛が水を飛ばした。
「私本当は分かってたの! ヒーローなんかいないって、ヒロ君だってもう私の事なんて忘れてるって――でも、子どものままでいつも待ってた……」
 キョウカはヒロの目を見つめて言った。「変わらなきゃいけないって思った――」
「変わらなきゃいけないのは、俺の方だったんだ」
 ヒロもキョウカの目を見つめていた。「俺はキョウカちゃんの事を忘れてなんかいなかった。本当は会いたかった。ただ、タイミングが分からなかっただけなんだ。いつの間にか本当に忘れて行って、中途半端に大人になって――」
 ヒロは気が遠のいていくのが分かった。足に力が入らなくなり、大きくよろけてしまった。
「ヒロ君!」
 キョウカは両手でヒロの胸元を支えた。
 ヒロはすぐに気を取り戻し、自分を支えてくれているキョウカの肩にそっと手を乗せた。
 そしてキョウカの顔を見て、
「俺……もう一度ヒーローになりたいんだ」
 ヒロは小さな声でそう言った。
 キョウカはハッと驚いたような顔で顔を上げた。ヒロの顔がすぐ近くにあった。
「既にこんなフラフラだし、ヒーローになんかなれるのか今はまだ分からない――でも、約束するよ。これからはキョウカちゃんが不安にならないように、俺が忘れないように、ずっと一緒に歩いてくって」
 キョウカの大きな目が自分を見ているのがわかった。
「一緒に……?」
「うん。本当は二人で一緒に歩くはずだった道を――今度こそ二人で」
 そう言っている時の事だった。
 ――ティシャァァァァァ!!
「きゃっ!」
 ……ヒロは後ろで何かが通り過ぎて行くのが分かった。そして、頭に……いや、後ろの体全体に何か――大量の水がかけられるのを感じた。ドボボボボとフードの中に音が篭った。
 キョウカの目は、左の方を向いて何かを追っている。ヒロもそれに習って同じ方を見る。
 大きめの白い車が遠ざかっている。スピードが結構あるようだ。
 そして何か揺らめいている物を感じて、後ろの足元を見る。そこには大きな水溜りがあり、濁った水が波を立てていた。ヒロは何が起こったかすぐに分かった――水をかけられたんだ。
「す、すごかったね……」
 驚いて苦笑いを浮かべているキョウカの顔を見て、ヒロはどれだけの水が弾き跳んだかが見てとれるようだった。
 ヒロ自身も少し驚いて、心臓が大きく鼓動しているのが分かった。
「そうだな――大丈夫だったか?」
 キョウカはヒロの顔から少し目をはずし、少し間を置いてから、
「うん!」
 と頷いた。
「そうか、良かった……全く、俺はこの格好だから良かった物の、危なくキョウカちゃんに泥水がかかるところだった」
 ここでヒロはキョウカの肩から手を放し、膝に手を付く姿勢で去っていく車を睨んでいた。
 その時キョウカが、クスリと笑んだ。
「……? どうした?」
 キョウカは何やら微笑んでいた。それは、いつも通りの少し幼い微笑みだった。ヒロはそれを久しぶりに見たような気がして、ホッとしたような気がした。
「ヒロ君――」
 キョウカはヒロが被っていたレインコートのフードをひょいと取った。「ありがとう」
 ヒロは、眉をひそめた。するとキョウカはボッサボサのヒロの頭に手を乗せて、
「守ってくれた」
 と言った。
 ヒロは一瞬何のことか分からなかったが、少し考えてから気がついた――……まさか、さっきの水の事を?
「な、何言ってるんだよ。そんなの偶然に――」
 ヒロは少しばかりドギマギしながら答えた。
「ううん、ヒロ君がいなかったら私に思い切りかかっていたもん」
 なんだか無理矢理こじつけたように聞こえたが、それが彼女の優しさなのか……いや、きっと違う――ヒロはそう思った。
 だって、こんなに嬉しそうに笑ってるから。
 キョウカは一歩引いて、言う。
「ねぇヒロ君。今度は私と一緒に歩いてくれるの……?」
 ヒロは答える。
「うん、約束だ」
「そっか。じゃあ――」
 キョウカは顔いっぱいの笑みを浮かべた。「ヒロ君は私のヒーローだよ!」
 ヒロは、息を呑んだ。
「危ないときに守ってくれて、一緒に歩いてくれるのなら、もうそれはカッコいいヒーローだよ!」
 キョウカの顔が明るくなっていくが分かった――これは……?
 ヒロは東の空を見た。
『この雨が上がったら――』
 キョウカも、ヒロと同じ空を見た。
『また会おう!』
 空には晴れ間が広がっており、久しぶりに朝日が顔を出して、光が二人を照らしていた。
 ヒロはいつの間にか雨が上がっていた事に気がついた。
 ――そうか、俺はやっとヒーローになってここに帰ってくる事ができたんだ。
 しばらくその光を眺めていた後、
「ヒロ君大変!そろそろ始まっちゃうよ!」
 キョウカが突然言った。
 ヒロが校舎の時計を見ると、もう朝のHRまで三分ほどしかない事に気がついた。
 ――今日は、遅刻したくなかった。
「行こう、キョウカちゃん!」
 ヒロはキョウカを促すように行って、走り出した。
「あ、ヒロ君顔が泥だらけだよ!」
「キョウカちゃんだって、雨で濡れてるから拭かないと!――あ」
 ヒロはどこかの部室(ちなみに陸上部だった)の軒下にあった物干し竿にかかっていたタオルを2枚ほど借りてキョウカに渡す。
 そして、代わりに来ていたレインコートを脱いで、そこにかけたのであった。
 晴れ間から漏れる光を浴びて、レインコートが小さく揺れていた。
2007-02-05 22:54:15公開 / 作者:鯨
■この作品の著作権は鯨さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
作家を目指しています。
まだまだまだまだを繰り返してもまだ稚拙な文章ですが、呼んで下さった方、どうかご感想、ご指摘あればよろしくお願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
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