『世留(ヨル)』作者:もろQ / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 アパートへ続く長い細道を一人歩く。見上げた夜の空は真っ暗で、星はおろか三日月さえ望めない。道に沿って等間隔に続いている電灯が、コンクリートの地面を冷たく照らす。こんなに遅い時間に散歩をするのは初めてだった。
 自分が一体どのくらいの間外出しているのか、よく分からない。薄汚れのスニーカーを纏った足下を見つめる。ああ、もう二時間も三時間も歩き続けているかもしれない。散歩を始めてものの十分さえ経っていないような気もする。しかしそれを考える暇もなく、一陣の風が吹き抜けて体を凍えさせた。
 歩道の右手、植え込みを挟んだ一方通行の道路を、自動車のフロントライトが唐突に走り去っていく。

 電灯の明かりの下を七つ過ぎ、長い家路を半分ほど辿った頃。前方に見える八つ目の光の中に、誰かの人影がこっちへ歩いてくるのを見た。明かりの下を外れた影が再び暗闇に溶け込むので、無意識のうちに目を細め、その暗がりを睨んだ。しかしその行為が意味のないことだとすぐに気づいたのは、携帯電話か何かで話をする男の声が、吹きすさぶ北風の音でもそれを掻き消すことができないほどに大きかったからだ。
 男の若い話し声が、見えない彼の姿とともに近づいてくる。知らない声だった。その気はないけれど話が聴き取れた。
「……ええまあそうっすね。相手が思ったよりひょろかったんで、結構早めに終わったんですよ。ええ、なんとか後ろから。……ハハハすいません。俺もさっさと帰ってこようと思ったんすけど、ちょっといろいろ工作っつうんすか? そういうのしてまして。あ、はいホントすいません」
 次第に大きくなる会話は、上司かあるいは学校の先輩か誰かとしているんだろうか、そんなお節介なことを歩きながら勝手に考える。先回りした声の後でようやく、男の姿が暗闇からぼんやり現れた。大学生くらいの彼は、灰色のニット帽を目深にかぶり、電話をしていないもう片方の耳には巨大で派手なピアスをぶら下げている。

 がに股で進む男の姿がだんだんと近づいてくる。特に何を思うわけもなく、こちらもひたすらに道を行く。お互いの距離が三メートルほどに近づく。会話に夢中な彼は自分に気づく気配がない。細道の真ん中を堂々と突き進んでくる。肌寒い風の尾をコートの裾に感じる。話し声がボリュームを上げながら、目と鼻の先まで向かってくる。間隔は一メートルに迫り、それでも彼がこちらに気づかないらしいので、仕方なく道の左手に避ける用意をする。無神経な彼と背の低い植え込みの間をすり抜けられるように、歩きつつ上半身を傾ける。五十センチ。猫背の先の薄汚れたスニーカー。星はおろか三日月さえ望めない。一方通行の道路を、また新しく、自動車のフロントライトがやってくる。
 
 エンジンの気だるい音が遠ざかり、道路の上を車の白い光が滑走していく。生温かい排気ガスが顔を撫で付ける。
 景色に再び静けさが戻った頃、たった今起きた出来事になぜか足を止めなければならなかった。視線の先に今歩いてきた道のりと、言い知れない夜の暗がりと、ニット帽の男を見つめた。不思議なことに、ぶつかった肩がぶつからなかった。
 今、細い歩道を歩く二人はすれ違った。右肩には、衝突した反動でわずかな痛みが残るはずだった。それなのに二人は、まるでそのことが当たり前であるかのように、なんの前触れもなくすり抜けてしまった。それはまさに、地面を照らす電灯の明かりのように。
 暗闇の中で立ち尽くしていた。絶対に嘘であるべきだった。今起こった出来事は嘘であると信じるべきだった。しかしそうする前に、不思議だ、と思う心の方が強かった。もはやなんの解決策も見つけられない夜の景色をただただ見つめている。若い男はがに股のまま、また暗闇の方へ溶け出していった。彼の話し声がだんだんと小さく消え入る。
 
 もしかすると、自分は最初から気づいていたのかもしれない。それで、慣れない夜間の散歩に自分を連れ出して、最後にひとつだけ分からせてくれたのかもしれない。
 今思えば、自分は恐ろしいほどに平凡な毎日を暮らしていた。生きることにおいて大きな問題もなく、他愛のないこまごまとした悩みばかりを抱えていた。それで全然かまわないと思っていた。なだらかで不変的な生活を続けてきた。そしてこれからもずっと続くと思っていたのに、ああ、どうしてこんなにも突然に終わってしまったのだろう。

 アパートに帰り着く。リビングの電気を点した床の上に、生前の自分の身体が寝そべっていた。
2006-12-02 21:59:44公開 / 作者:もろQ
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どういうわけか再投稿です。個人的にかなり具合のいいショートショートです。
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