『楓』作者:神風 / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 好きだったんだ
 彼女の奏でる音が
 好きだったんだ
 彼女からする海のような香りが――

 
 ◆◆

 俺は悲しみに暮れていた。何もかもが空っぽだった。毎日がただ流れるように過ぎていき、無意味なものにしか思えない。俺はいつからここにいるんだっけ。なんでこんなに悲しいんだ。なんでこんなに痛いんだ。同じ問いかけを何度もする。何度してみても、何も思い出せない。思い出したくない。
「楓。お前、最近顔色悪いけど……大丈夫か?」
「ん……大丈夫」
 この会話も朝から何度しただろう。何度聞かれても、大丈夫と答える自分。一体何が大丈夫なんだ? 大丈夫なんかじゃない。こんなにも胸は張り裂けそうなほど痛んでいるのに。なのに痛みの原因がわからない。ただ痛いだけ。ただ哀しいだけ。俺は大切なものを失ったんだ。それだけはわかる。でも、それが何なのかわからない。
「ごめん、先帰ってくんない? 俺、寄るとこあるから」
「またかよ? 最近、毎日じゃ……って楓!」
 級友の返事を聞く前に、俺はその場から飛び出した。そして、そのまま階段を駆け上る。何もかもがどうでもよかった。何も耳に入れたくない。こんなにも苦しいなら、こんなにも後悔するなら、あのときどうして俺は……
 ふと何かを思い出しかけたとき、4階から何か音が聞こえた気がした。音というより、音色のような……

……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬

 
 やっぱりそうだ。四階の音楽室から聴こえてくる。誰かがピアノを弾いているようだ。俺はもっと近くで聴いてみたくなって、音楽室に近付いた。そして近くでその音色を聴いた瞬間、何か言い様のない感情が湧きあがってくるような気がした。そのまま扉に背を預けてズルズルと座り込んでしまう。
 
……♪♫♪♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♩♬

 
 
 なんてキレイな、音。透き通っていて、それでいて心に直接響いてくる。切なげに奏でられる音が俺の中に深く染み込んでいく。俺はこの曲が好きだ。この音色が好きだ。そう感じたとき、頬に何か温かいものが伝った。
 ……なんで、俺は泣いているんだろう。自分でもよくわからない。ただ哀しいほど気持ちが溢れてくる。大切なものを思い出せるような、そんな感覚。
 俺は、そっと音楽室を覗いてみた。誰がこんな音を奏でているのか気になった。覗くと、真っ白く塗られた音楽室の窓辺に、大きくて真っ黒なグランドピアノ。その向こうに人影がチラリと見えた。窓からの日光に遮られて、よく見えない。顔を見ようと立ち上がりかけた瞬間、強い風がその人影を通り越して俺の方に来た。そのとき海のような潮風のような香りがフっと鼻を掠めた。俺は、もうわかっていた。その人影が誰なのかを。頭で思うよりも早く、気付いたら口に出していた。

 
「安藤……」
 俺の大切な人の名前を。

 
 


 ◆◆

 俺は安藤夏海が好きだった。いつのまにか目で追っている自分がいる。そのキッカケが何だったのかは思い出せない。それでも今も安藤を好きだという気持ちだけは変わっていない。安藤を好きだと感じるときの自分は、少しだけ優しくなれるような気がするのだ。彼女の奇麗な心が、まるで俺にも浸透したかのように。彼女を想うだけで、こんなにも胸がいっぱいになる。
「楓。今日は元気だな?」
「何言ってんだよ。俺はいつも元気だぞ」
「昨日は死人のような顔してたくせに」
「……?」
 何を言っているのか、わからなかった。死人のような顔? 誰が? 俺は昨日からずっとこんなにも満たされた気持ちでいるのに。そんな顔をするわけがない。全く覚えがなかった。でも今はそんなことさえどうでもいいような気がする。早く放課後が来て欲しい。そしてあの音色を聴きたい。全てを洗い流してくれるような、あの彼女の奏でる音を。

 
 ◇
 
 それからの俺は、毎日のように放課後音楽室に通った。安藤の奏でる音を聴くだけで幸せな気持ちになれる。だから決して彼女に話しかけず、ただ音楽室の前で座り込んで耳を傾けるだけだった。それだけで十分すぎるほど満たされた。
 音楽室に通うようになってから数週間、安藤の弾く曲はいつも同じで、静かな流れるような曲調だった。それなのに何度聴いても飽きることはない。常に心に浸透していく。忘れないように心に留めて、家に帰って思い出そうとしても駄目なのだ。今この瞬間ほど鮮明には流れてこない。何度も繰り返される旋律が俺の身体中を駆け巡って、でもこの場所を離れるとすぐに忘れてしまう。そんな不思議な曲だった。
 安藤の奏でる音色を聴けるのはこの時間だけで、安藤の姿を見れるのもこの瞬間だけだ。何故かそれ以外では彼女の姿を見ることはないのだった。それでも俺は全く気にならなかった。今このときが、何よりも大事だったから。

……♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫


 ずっと流れ続ける音。止まることのない旋律。今この場所には安藤と俺しかいなくて、その二人を包み込むかのように曲が終盤へと向かっていく。それはとてつもなく切なくて、哀しくて、まるで泣いているかのような音色だった。
 彼女は、泣いている。間違いなく泣いている。俺は泣けない。心がこれほど痛むのに、涙が出てこない。涙が出たのは彼女の奏でる音を初めて聴いた、あの日だけ。だけど、あれが初めの日だったのだろうか? 本当はもっと、ずっと以前に知っていたんじゃないのか。この音色を。泣き叫ぶかのような旋律を。

 俺は何かを忘れている。それは決して忘れてはいけないことだったはずなのに。何か大切なことを。

 


 ◆◆

「お前、やっぱ最近変だよ」

 級友の一人が、突然そう言った。何のことだかわからなかったので俺が黙っていると、そいつは続けて言った。
「いつも放課後どこ行ってんの?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
 俺は聞き返した。するとそいつは溜息混じりに、
「昨日、俺見たんだよ。お前が音楽室に行くの」
 と真剣な表情で言ったので、俺は少しドキリとした。安藤のことを好きだということは知られたくない。
「いや別に……音楽室に忘れ物したから」
 ただ言い訳をするつもりだったのに、相手は『信じられない』というような目で俺を見た。
「何言ってんだ。音楽室は今、閉め切ってて入室禁止だろ」
「……は?」
「去年あんな事件があったから……点検するって言ってたじゃん」
 頭を重い鈍器で殴られたかのような衝撃があった。おかしい。そんなはずはない。確かに音楽室は昨日も開放していて、安藤がピアノを奏でていたはずだ。そのはずなのに、そう確信しているはずなのに、何故これだけ自分は動揺してるんだ? 嫌な汗が背中をつーっと流れた。聞かずにはいられなかった。俺は何か大きなことを見落としてる。
「なぁ……お前、安藤のこと最近見たか?」
 声が掠れていた。もう今や汗が止め処なく溢れてきている。
「安藤って……安藤夏海のことか……?」
「そうだ」
 やっとの思いで頷いて、相手の顔を見た。相手は目を見開き、しばし呆然としていた。何なんだ。一体俺が何を言ったっていうんだ。
「……お前それほどあのことを気にして……たのか」
「何言っ」
「安藤は去年死んだだろ!」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。何を言ってるんだ、こいつは。悪い冗談はやめてくれ。そう言おうとした。だけど声が出ない。世界がまるで色を無くしたかのように、落ちていく。
「去年の冬、安藤とお前は音楽室にいた。二人でいた。安藤はピアノの椅子に座っていた」
 嫌だ。何も聞きたくない。これ以上、落ちていくのは嫌だ。
「ピアノの丁度後ろの棚に器材が置かれていた。それが突然何の前触れもなく真下に落下した」
 やめてくれ。そう叫びたいのに、声が出ない。
「そこには安藤がいた。目の前に、お前がいた。お前は彼女を庇おうとしたが間に合わなかった」
「違う!」
 気付けば叫んでいる自分がいた。クラス中のやつらが俺を見た。そんなことどうでもいい。もう何も聞きたくない。何も聞きたくないんだ。
「楓っ!」
 俺は走り出した。あの場所に行かなければ。俺の唯一の居場所に。そしたら、そこにはきっと安藤がいる。そしていつものように俺の好きな音色が流れている。きっと、流れているんだ。

 

 
「なんでだよ……」
 なんで、なんで……
「なんでどこにもいないんだ!」
 その場所には、誰もいなかった。電気さえ着いていなかった。昨日までの温かい場所なんてどこにもなくて、ただ真っ暗な空間が広がっている。もう何もない。俺の唯一の居場所が、どこにも。
「……ぅっあ……」
 それが誰の声なのかも、もうわからなかった。それはあまりに哀しい声で自分の中から出ている声だとは思いたくなかった。
「ああああああぁああ!」
 自分独りの声が、真っ暗な空間でただ響いていた。

 
 
 ◆◆

 俺が安藤に出会ったのは、高一の夏。それは今思うと一目惚れだったのかもしれない。
 俺は高校に入学してすぐに肺炎にかかった。なので、ろくに学校にも行けないまま一学期が過ぎようとしていた。だが終業式の前日に退院し、終業式だけは出れることになった。もう俺の入る居場所なんて、どこにもないんじゃないかと不安でたまらなかったのを今でも覚えている。あの頃の俺は今以上に弱くて、自信なんてこれっぽっちもなかった。だから、あの日も学校には行ったものの、クラスのやつらに会うのが嫌で、終業式をサボったのだ。『お前、誰?』と言われることが怖かった。存在を忘れられているのが怖かった。
 
 今でも、あの時のことを覚えている。
 教室でボーっと一人、窓から海を見下ろしていると、どこからともなく音楽が聴こえてきたのだ。
 それは優しく繊細で、少し寂しそうに俺の中で響いた。その音は、どうやら音楽室から聴こえてきているみたいだ。俺の足は自然と音楽室に向かっていた。こんな音を奏でられるのは、一体どんなやつなんだろうという興味が俺を自然とそこに向かわせていた。
 音楽室は四階にあって、そこから静かに音が漏れてきている。窓が開いているのだろう、気持ちの良い風が俺の髪を撫でた。俺は少しだけ緊張しつつも、音楽室を覗いた。海のような潮風の香りがフっと鼻を掠めた。

 そこに、彼女がいた。
 まるで自身が音に融合しているかのように、ピアノに身体を預けて。そうとしか見えなかった。彼女の周囲だけ見えないはずの風の動きがハッキリと見えたような気がしたのだ。見えないはずの音色が彼女を囲んで包んでいるように見えたのだ。
 息をするのも忘れて、その光景を見つめた。音を聴くというよりも、肌で感じているような感覚。これが本物の音楽なんだろうか。ぼんやりとそんなことを思った。
 このままずっとこの音色を聴いていたい。ずっとこの世界に融けこんでいたい。そう思い始めた矢先に、彼女がふっと顔を上げた。いつのまにか、目がまともに合ってしまう距離まで俺は近付いていたのだ。自分でも気付かないうちに。
 心臓が早鐘のように鳴り響き、でも彼女の視線を逸らすことなんてできなかった。彼女はしばらく俺を見つめた後、口を開いた。
「伊藤君……だよね?」
「……へ?」
 自分でもおかしくなるぐらい、マヌケな声を出してしまった。今、俺の名前を呼んだ?
「肺炎で入院してたんだよね。もう大丈夫なの?」
 彼女は心配そうに俺を見つめた。そんな彼女の顔を見て、俺はなんだか無性に泣きたくなった。まさか自分の名前を覚えててくれている人がいるなんて。たった一日しか学校に行っていないのに、心配してくれていた人がいるなんて。思いもかけなかったことに、俺は声を出せずにいた。すると、彼女はにっこりと俺に笑いかけたのだ。
「復活して早々、サボリ?」
「え、あ……」
「私もよ。気が合うね」
 そう言って、また微笑んだ。その顔はとても綺麗で、俺は思わず見惚れてしまった。このときにはすでに、もう彼女のことを好きになっていたのかもしれない。少なくとも、惹かれていたのは確かだ。こうして、俺と彼女は出会った。

 

 その日から俺は彼女とよく話すようになった。彼女の名前が安藤夏海だとわかり、彼女がピアノの道を目指しているということも聞いた。心配なんてしなくても、クラスのやつらともすぐに打ち解けた。毎日が楽しかった。
 放課後の音楽室で、安藤と話すのが俺の日課になった。安藤は話すのがとても上手で、話が途切れることがない。そして時たまピアノを弾く。まるで会話の続きをしているかのようにピアノで応える。それだけで俺の心は満たされた。
 ある日、俺は聞いてみた。
「いつからピアノやってんだ?」
「物心ついたときから。気付いたら、いつもピアノの前にいた」
「すげぇな。持って生まれた才能だな。羨ましいよ」
 俺がそう言うと、彼女は寂しそうに笑った。そして小さな囁くような声で呟いた。
「私は伊藤君が羨ましい」
「え……?」
 その声が消えそうなほど小さかったので、俺にはよく聞こえなかった。俺が聞き返す間もなく、彼女はまたピアノを弾き始めたので、何を言ったのかは最後までわからなかった。ただ彼女の奏でるピアノが切なくて――胸が締め付けられた。安藤の奏でるピアノの音はいつだって哀しい。切ない。それが彼女の痛みだなんて、あの頃の俺はまだ気付いていなかったんだ。

 
 
 ◇◇

 安藤に出会って一年半。俺は安藤に自分の気持ちを伝えると決めていた。いつのまにか安藤への想いは自分でも制御できないほど大きくなっている。安藤と過ごす時間が何より大事に思える。この想いを安藤にも知ってほしかった。だからあの日、俺はいつもより少し緊張しながら音楽室に向かった。
 ピアノの音が漏れていたので、安藤がもう音楽室にいることはわかっていた。俺は音をなるべくたてないようにそっと音楽室に入った。安藤は今日も窓から入る潮風を全身に受けて、流れるようにピアノを弾いている。いつも通りの光景。俺の好きな音。俺の好きな香り。全てがいつも通りに流れているはずだった。
 彼女のピアノ演奏が終わり、静寂が訪れた。安藤は顔をゆっくりと上げ、俺をまっすぐに見た。
「そっと入ってこないでよね」
「いや演奏の邪魔したら悪いと思って」
「伊藤君なら別にいいよ」
 ドキっとした。その言葉から取れる意味をどう受け取ればいいのか。彼女も俺を想ってくれている? もしそうなら今、自分の気持ちを言うべきだ。俺は決心して、口を開きかけた。けどそれは安藤の声で遮られた。
「伊藤君、聴いてほしい曲があるんだけど」
「えっな、何……?」
「私が作曲した曲。伊藤君に最初に聴いてほしい」
 彼女は少し固い口調でそう言った。想いを伝えようとしたそのときに遮られたので、心音は今だ早く打っていたが、彼女の作曲した曲を聴いてみたいと思った。しかも俺に最初に聴いてほしいだなんて――想いを伝えるのは、その後でも遅くない。
「うん、いいよ。俺も聴きたい」
「ありがとう。じゃあ、弾きます」
 そう言うと、安藤は鍵盤に指を乗せた。音楽室の空気が、彼女の奏でる音によって変わっていく。

 
 
 今まで彼女が弾いたどの曲よりも、今弾いている曲は心に響いた。音を通じて俺と彼女がまるで一体であるかのような錯覚さえあった。音色が自分と彼女を繋いでいる。そこには言葉なんて必要ない。無意味だ。その音色は何よりも彼女の心なのだ。
 今までの彼女の奏でる音は哀しく、切なく、寂しかった。まるで聴いているこっちが泣きたくなるような、そんな音だった。でも今はこんなにも温かく、優しい音色が奏でられている。聴いていると、満たされていくような感覚。本来の彼女の奏でる音は、こちらなのだとわかった。
 俺はその音色に聴き入った。目を閉じると、潮風も感じることができる。あぁ、好きだ。俺は安藤が好きだ。安藤の奏でる音色も、この潮風が運ぶ海の香りも全て愛しい。心が満たされるというのはこのことなのか。この音色にずっと耳を傾けていたい。

「聴いてくれて、ありがとう」

 
 安藤の声にはっと顔を上げると、もう音色は止んでいた。少し物足りないような気持ちになったが、音色の余韻で心は満たされている。安藤はまっすぐに俺の目を見てきた。
「伊藤君に最初に聴いてもらえてよかった」
 胸が高鳴る。
「それは……どういう意味?」
 俺は思わず、そう聞いた。安藤の気持ちが知りたい。俺のことを、どう思っているのかを知りたい。
 安藤はそれには答えず、言った。


「この曲のタイトルはね……」

 
 安藤がそれを言おうとした瞬間、窓から強風が吹いてきた。何か埃らしきものが目に入り、一瞬前が見えなくなった。それでも次の瞬間、俺は見た。見えてしまった。安藤の丁度後ろの棚から音響器材が落ちていく瞬間を。俺は声を張り上げた。
「危ないっ!!」
 


 手が届く距離だったんだ。走れば間に合う距離だったんだ。なのに俺は一瞬躊躇った。躊躇ってしまった。安藤のことよりも、自分の危険を考えてしまった。助けられたのに。間違いなく救うことができたのに。俺は彼女を見殺しにした。
 ――目の前で安藤が倒れていた。ピアノの下に出来た血の池……俺の大切な人の血……さっきまで微笑んでいた彼女の顔がどんどん蒼白になっていく。現実とは思えなかった。思いたくなかった。
「ぁ……んど……」
 返事は、ない。ただ時が過ぎていくだけ。もうこのとき、彼女はこの世にいないとわかった。わかってしまった。
「ぃやだぁあああ!」

 俺の記憶は、そこで途絶えた。


 







 ◆◆

 俺は安藤の死を受け入れられなかった。だから記憶から消したんだ。それでもどうしようもない哀しみだけは拭えなかった。毎日がただ苦しいものでしかない。安藤のいる時間はあんなにも満たされていたのに。
 だけど、安藤はもういない。俺のいる世界にはいないんだ。あの音はもうどんなに聴きたくたって叶わない。彼女の奏でる音をもう一度だけ聴きたい。あの最後の曲をもう一度だけ――


……♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫

 
 突然耳に入ってきた音色に、俺は驚いて顔を上げた。さっきまで閉鎖しきっていた音楽室が開放している。今まで暗闇でしかなかった空間に色が差し込んでいる。まさか、と思った。やっぱり彼女は生きていて、俺は悪い夢を見ていたのか。きっと、そうだ。俺は立ち上がって、急いで音楽室の扉を開けた。

 
 彼女が、そこにいた。
 何も変わらない彼女の姿がそこにある。あの頃のように、優しく満たされるような音色を奏でて。彼女が、目の前にいる。
「…………」
 聴きたかった。この音を俺はずっと聴きたかった。彼女にしか奏でられない、この音色を。
 気が付くと、俺は泣いていた。止め処なく涙が溢れてくる。この瞬間が何より大切な時間だったのに、どうして忘れてしまっていたんだろう。どうして俺は、忘れたりなんかしたんだろう。

「伊藤君、泣いてるの?」
 彼女の声が耳に入ってくる。それだけでこんなにも安心できるのに。
「……泣いて、ねぇよ」
 強がって言ってみても、涙は止まらない。俺は涙を拭うこともできずに、ただ彼女を見つめていた。今、安藤から目を離すと、また見失いそうな気がするんだ。
「……ずっとね、伊藤君に伝えたいことがあった」
 俺にはわかる。俺もずっと知りたかったこと。あの曲を聴いた瞬間から、ずっと知りたくてたまらなかったこと。
「この曲のタイトルはね……」
 



「――『楓』」

 
 あのときとは違う、優しい風が二人の髪をくすぐった。彼女の香りが、する。彼女の声が心に染み込んでいく。
 この曲のタイトルは『楓』。俺の名前だったんだ。満たされるようなこの気持ちも、優しく奏でられる音色も、全て全て安藤の想いだった。想いだったのに、俺は気付けなかった。自分の気持ちで精一杯で、気付いてやることができなかった。
「私ね、寂しかった」
 安藤は少しだけ微笑んで、話し始めた。
「私にはピアノしかなかったから。それでも私が弾きたいように弾くと、怒られるの。そんなんじゃプロになれないって。いつだってプレッシャーで押し潰されそうだった」
 初めて聞く、安藤の想い。いつもあんなに安藤の奏でる音色を聴いていたのに――
「だからここで放課後ピアノを弾くときだけが私の唯一の楽しみだった。学校でも私に近付いてくる人は誰もいなかったから……」
 安藤はクラスでも浮いていた。容姿は美しく、未来にも期待されている。誰もがそんな安藤を遠巻きに見ていた。
「そんなときに伊藤君に出会った。伊藤君は私が弾くピアノを好きだと言ってくれたよね。それが本当に嬉しかったの」
 誰でも彼女のピアノを弾けば、好きになるだろう。でも彼女は好きなように弾くことを許されていなかったんだ。弾きたいように弾かせてもらえなかった。
「伊藤君は、すぐに友達もたくさんできて……自由で……少し羨ましかった」
 あのとき、聞こえなかった安藤の本音。あのとき、気付いてやれなかった安藤の痛み。
「それでも……伊藤君と過ごす時間が大切だった。この音楽室が私の居場所だったんだよ」

 あぁ、彼女は孤独だったんだ。ピアノしか頼れるものがなかったんだ。俺は知っていたじゃないか。安藤の奏でる音色の哀しさを。泣き叫ぶような音を。どうして気付いてやれなかったんだろう。
「この私にとって大切な時間を曲にしようと思った。タイトルはもう決めてたの」
 初めて彼女が作った曲。それは俺との時間だった。俺と過ごした日々だった。だからあんなにも優しく満たされた音色だったんだ。ずっと同じ想いで、俺達は――
「伊藤君」
 安藤の身体は、もうほとんど見えなかった。透き通っていて、触れれば消えそうなほどだった。俺はもうわかっていた。もう、逃げたりなんかしない。
「安藤、俺……」
「私、伊藤君と会えてよかった。伊藤君と過ごせてよかった」
 もう安藤の身体は目を凝らしても、よく見えない。それでも伝えたいことがあった。伝えなければいけないことがあった。
「贅沢言うなら……もっと伊藤君と過ごしたかったな」
「安藤!ごめん……俺、安藤を護れなかった。本当に……ごめん」
「そんなの気にしてないよ」
 ほとんど見えなくなっても、安藤が微笑んだのがわかった。あの変わらない笑顔で。
「ごめんね、もう行かなきゃ……」
「待ってくれ!まだ言いたいことが……」
 安藤の手が俺の手に重なった。感覚はなかったが、それでも安藤に触れた気はした。できるなら、その手を掴んで離したくない。ずっと触れていたい。
 安藤は笑って、最後にこう言った。

 
「私ね……伊藤君のことが……」

 
 
 ――好きだったよ
 風に乗って、その声が俺の元に届いたときには、もうどこにも安藤の姿はなかった。ただ静寂の中で波の音と風が吹く音がしている。
 爪が食い込むぐらい手を握り締めて、俺は涙を堪えた。それでも滴が落ちていく。
「俺も……好きだった」
 誰もいない静寂の中で、虚しく声が響く。

 
 好きだった
 彼女の奏でる音が
 好きだった
 彼女からする海の香りが
 好きだった
 彼女の全てが――


「俺も好きだったよ、安藤……」
 涙を拭って、窓から空を見上げた。安藤に聞こえればいいのに、と願った。
 潮風が優しく俺の身体を包み込む。いつも安藤からする香りだと、今更ながら気付く。その風は俺だけを撫でるかのようにくすぐっていた。
 

 

 ――『ありがとう』と言われているような気が、した。
 









2006-08-10 16:19:00公開 / 作者:神風
■この作品の著作権は神風さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めて投稿します。
小説を書くことに関しては初心者なので、読みにくい部分や伝わりにくい部分も多くあると思います。なんて未熟なんだろう、と改めて自分でも感じました。
厳しく評価してくださると嬉しいです。
この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして、神風さま。上野文と申します。
 「楓」を読みました。
 綺麗な作風でせつなく、よい物語だったと思います。
 もう少しだけ主人公とヒロイン、そして二人の思い出の場所について書き込めば、より感情移入できたと思います。
 面白かったです。

 では。
2006-08-12 13:23:25【☆☆☆☆☆】上野文
上野文さま、初めまして。神風です。
ご感想ありがとうございます。
上野文さまの物語も前々から拝見していて、しっかりとした文章力をとても尊敬していたので、
そんな方に、『よい物語』『面白い』と言って頂けて光栄です。

そして御指摘もありがとうございます。
私も改めて自分の書いた作品を読み直し、上野文さまの仰るとおりだなと思いました。
好きになった経緯が雑すぎましたね。
まだまだ未熟で情けないですが。

コメントありがとうございました。
では。
2006-08-12 22:04:57【☆☆☆☆☆】神風
初めまして甘木と申します。作品を読ませていただきました。
綺麗にまとめられている作品ですね。切ない思いが人の心を凍らせ、最後にはゆっくりと溶かしてくれるような心地よさがありました。欲を言えばもっと感情面のメリハリが欲しかったです。安藤を好き、安藤を喪って悲しい、と言う感情ははっきりしていますが、冒頭の虚ろな感情とか、安藤と出会った時の感情変化などもあると、より作品世界に浸れたと思います。
では、次回作品を期待しています。
2006-08-13 23:40:13【☆☆☆☆☆】甘木
甘木さま、初めまして。神風です。
作品を読んでくださり、その上温かい御言葉までありがとうございます。

正直、急いでいたのもあり、最後は無理矢理まとめた節がありました。
それが作品にも出ていて反省しております。
甘木さまの仰るとおり、感情のメリハリも少なかったですよね。
次の作品を書くときは、もう少し丁寧に書こうと思っています。

ご指摘ありがとうございました。
2006-08-15 17:02:03【☆☆☆☆☆】神風
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。