『ウロボロス』作者:SAQ / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
いつ果てるとも知れない夜の闇、人工の光だけが世界を照らす。歪に模られた世界の片隅で、常夜凛は自ら死を選ぼうとしていた。誰のために、何のために、その意義すら思い出せないまま――
全角66776.5文字
容量133553 bytes
原稿用紙約166.94枚
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 肌を切るような冷気が頬をなでる。
 コンクリートの熱、暖房機の出す熱、なにより寄り添う人々の熱。雑多な熱が放出されて、普通なら都会の夜は冷え込まないものだが、流石に高層ビルの屋上ともなると、そんなものは関係ないらしい。
 常夜 凛は、ビルの屋上の一角に立ち、その下に蠢く都会の様子をゆっくりと観察する。
 眼下に広がるのは、やけにぼやけて見える都会の光景だった。それは例えば、幾何学的な模様を描く交通標識とか、むやみに光るコンビニの看板とか、あるいは路駐の自動車だとか、その他もろもろ雑多なもの。
 そういったものが、凛にとっては別世界の出来事のように思える。眼下に見下ろす全ては鏡の向こうの世界の出来事だった。
 そして、彼女にとってもっとも重要なのは、その双眸に写る現実感のない世界などではなく、ここから一歩踏み出せば、地上へと真っ逆さまに落ちると言う事実。そして、ここからなら確実に死ねるという事実だった。ここから地上まで、人間が米粒以下の大きさになるくらいの高さはあった。
「………」
 彼女は終始無言であった。屋上の外周に張り巡らされたフェンスを跨いで、その向こう側のわずかな足場に身を置く。風で制服がたなびいているが、体勢を崩すほど強くはない。
 凛は冷静な眼差しで空を仰ぎ、そして目を閉じる。その表情は、その名の通り凛としているようにも見えたし、ただ単に無表情なようにも見えた。
 彼女の動きに躊躇はなく、周囲に人の気配や視線はない。つまり、彼女の行動は、この年頃の女の子に見られるような、リストカットの類ではない。自傷行為で自己の存在を確認するとか、周囲の関心を煽るとかそういう目的は無く、ただ死ぬためだけに投身自殺をするような趣がある。
 凛には恐怖はない。感傷もない。あるいは、感情すらも無いのかもしれなかった。ただ、機械の様な意志が、彼女の死を決めていた。
「……ん」
 凛は一つ息をつく。そして、それが合図であったかのように、彼女の右足にわずかな力がこもった。凛はフェンスから手を離し、ついに、人生最後の一歩を踏み出そうとする。
 だが、その時、
「おいおい、早まりなさんな」
 不意に、彼女の後ろから声がかけられた。
「!」
 凛の動きがピタリと止まる。

 ――誰?こんな時間に、どうしてこんなところに?

 そんな思いが頭をよぎり、絶対にありえない事象に心臓が一つ大きく突き上げられたような気がした。
 凛のこの行動は、突発的なものではない。人が来ないような場所と時間帯を選んで、途中で邪魔が入らないようにしたのだ。つまり、ここに人がいるはずがない。
 では、どうして――?
 様々な可能性と疑問が怒涛のように浮かび上がるが、依然として凛は無言であった。そして、ぜんまいの切れかかった玩具さながらに、ぎこちなく後ろを向く。
「――ふむ。今日の天気は、晴れ。ところにより『人』って所か」
 そこに立っていたのは、男だった。年齢は、凛と同じくらい。詰襟を着ているところを見ると、まだ学生なのであろうが、自殺寸前の少女を目の前にしている割には、いやに落ち着いていた。
「お出かけの際は、傘と救急車の用意を忘れずにってね」
 人を馬鹿にしたような口調で、男は少女に笑いかける。
 なに、こいつ――
 凛は精巧な眉をわずかにひそませて、その男を見た。
 見るからに変であった。
 顔に張り付いているのは、大抵の人間が好感を抱くような、人懐こそうな笑み。しかし、これ以上ないほどの完璧な笑みが、この場に限っては酷く胡散臭い。よくよく見てみると、男の着ている制服は、凛の通っている学校のものと同じだった。黒を基調に、少々緑がかった詰襟。暗闇で視界が悪いとは言え、自分の学校の校章を見間違うはずもない。
 大体、いつからこの場にいたのか。凛がここに来てから、人が入ってくる気配はしなかった。ということは、少なくとも凛より前にここにいたはずである。そして、ここは私有地であって、見回りの警備員か、凛のような至極特別な用事がある人間以外は、こんなところに訪れる理由はない。
 そんなわけで、見かけの普通っぽさに反比例して、男は変であった。
「おいおい、そんなに怖い顔をしないで欲しいな。ま、ロープレスバンジーを邪魔したのは悪いと思うけどさ」
「……あなた、誰?」
 凛は言葉の棘を隠そうともせず、冷え切った声でそう言った。
「――天使」
「?」
「と言ったら、信じてくれるか? 前途ある若者が自殺するのを見るに耐えない、心優しい天使様」
「………」
 凛は眉間に刻まれたしわをさらに深くする。彼女の頭に真っ先に浮かんだのは、春先に出現するちょっと可哀相な人間だったが、そういった類の人間がこんなところに来るわけもないし、やはり単なる物好きか、あるいは本当に天使様なのか――どの説にも説得力が無い。ついでに言えば、足があるから幽霊の類でもない。
「ノーリアクションってのは、なんともそっけないね」
男はそういって肩をすくめる。凛は警戒心をむき出しのまま、男を見つめていた。
「………」
「それともアレか。僕の美貌に見とれているのかな?」
「……鏡が無いのが残念ね」
 ようやく口を開いた凛の言い草は、辛辣極まりないものだったが、それでも反応が返ってきたのが嬉しいらしく、男は笑みを崩さなかった。
「ま、こうやって話すのも何だし。とにかく、こっちに来ない?」
 凛は依然、フェンスの向こうにいた。
「その必要はないでしょう?天使様」
 冷たい声色の中に、少しだけに皮肉を混ぜて、凛はそう言う。
「ここでも十分。そもそも、あなたと話す必要性がないわ」
「僕はぜひ、君とお近づきになりたいんだけどね」
「私の言いたいこと、分かってる?つまりは、消えろってことよ?」
「いやいや。さすがに、ビルから飛び降りようとする奴を見たら、止めないわけには行かんでしょうが」
「………」
「そっちにも事情はあると思うけど、自殺は無条件に止めないとね」
「……後悔するわよ」
「誰が?」
「あなたが」
「止めない方が、後悔すると思うけどね」
 男のもっともな言葉に、凛は一つため息をつく。
「……とにかく、こっちにきたらどうだい? それに、もう一つ忠告させてもらうと、今日は諦めたほうがいいな。 僕みたいな奴が側にいたら、自殺って雰囲気じゃなくなるだろう?」
 男はそう言って、再びうそ臭いくらいの笑みを浮かべた。この笑みのせいだろうか。凛には、男と視線をはずすことがどうしても出来なかった。
「どうだろう?」
「……」
 凛は少し考えるそぶりをしたが、「……お節介」とわずかに呟いて、フェンスの内側へと移動する。相手の思惑に乗せられているようで癪ではあったが、確かにこの青年の前で飛び降り自殺を実行するのは、心理的に無理だろうと思った。
「それで――?」
 苛立ちを隠そうともせず、凛は男に尋ねる。
「う〜ん、美人が台無しだねぇ」
「………」
 そういう言い草も、神経を逆撫でする。男の言葉を黙殺しつつ、凛は言葉を続ける。
「それで、他に何か御用は?」
「いいえ、特にはございませんよ。お嬢様」
 芝居がかった仕草に、慇懃な言葉で返事をされて、凛はどっと疲れたようにため息をついた。
「それなら、もういいでしょう。……今夜は何もしないから」
「だから、とっとと失せろって?」
「その必要もないわね。私はもう行くから」
「それじゃ、家まで送ろうか」
「いらない」
 凛は短くそう言うと、男を残してその場から立ち去った。
 昇降口を下り、エレベータを使って一階まで降りる。時間が時間のせいだろうか。ビルの中に人の気配は無く、来たときと同じようにしんと静まり返っている。
 来た時と同じと言えば、ビルの外の様子もそうだった。雑多の風景に、似たような服装と同じ顔立ちの人たちが街を歩いていて、彼女を気に止める者はいなかった。
 たとえ、ここで凛が死んだとしても、この世界に住む殆どの人はそのことを知らずにいるであろうし、それは至極当然のことだった。
(……馬鹿みたい)
 凛は心の中で呟く。
 それが屋上の男に向けられたものか、それとも自分自身に向けられたものか、判別はつかなかった。







 僕の同僚は――彼女はもうこの世にはいない。だから、名指しをせずに『彼女』とだけ呼ばせてもらおう。


 ……彼女は、突然僕に聞いてきた。
「人間にとって、一番大切なものは何だと思う?」
「大切なもの?」
 その質問の意図が分からず、僕は思わず聞き返す。
「そう、人間にとって大切なもの。人間が何のために生きているかと、言い換えてもいい」
 こんな風に、彼女は時として禅問答のような問いを僕に投げかけてくる。多少面食らうこともあるが、僕はこの時間が好きだった。そういう他愛無いやり取りから、研究のインスピレーションが浮かぶこともあるし、何より、意見を交わすことは純粋に楽しい。
 まあ、二人とも若い健康的な男女なんだから、もうちょっと色気のある会話が出来ないものかと思わないでもない。けれど、彼女相手にそれを期待する方が間違っているのは、ここ十何年かの付き合いで分かりきっていた。
「私の問いに答えられるか?」
 彼女はそう言って、挑発的に聞きなおす。
「何のため、か……。そうだな、僕は自分を高めるために生きていると思う。別に、向上心に固執しろとは言わないけどね。自分が満足できる自分になること。それは、人生最大の目標だろう?」
「そういうことじゃない。私は、そんな概念的なことを聞いてるのではないよ」
「?」
「私が聞いているのは、もっと根源的なことだ。<人がなぜ生きているか>などという、満ち足りた人間の考える啓蒙思想ではない、より本能的な部分での答えを求めている」
 僕は少しだけ考えた。
「それなら――そうだな、僕は、生きるために生きていると思う。僕を含め、多くの人は誰でも、理屈抜きに死にたくないと思っているんじゃないかな。そういう本能が働いているから生きている。……そういう答えを欲しているのかい?」
「なるほど……。まあ、そんなところだろうか」
 彼女は、決して的外れではない僕の答えに、ゆっくりと頷いた。
「――しかし、その答えは不十分だ。君の考えでは、奴隷であろうが富裕な人であろうが、生きてさえいれば幸せだと言う結論になるだろう」
「僕が言ったのは、最低限度の条件だよ。」
「そう。だから、私はもっと包括的に考える。私は、『人間はエクスタシーを求め、欲求を満たすために生きている』と思っている」
「………」
 ――胸の奥がちりちりする。
 こういう露骨な言い方をする彼女を、僕は好きになれない。
「君が言っていたのは、『生きたい』と言う欲求だ。最も根源に存在する欲求だな。だがそれが全てではない。人間の欲求には、他にも色々とあるだろう? 底辺に存在するのは、食欲・性欲・睡眠欲。その上位に、物欲。さらに上には、権力欲・名誉欲。細かく上げればきりがないが――それらの欲が達成されたとき、人間には快感が発生する。どの程度の快感で満たされるかは、個人差があるが、まあ人間はこれらを満たすために生きていると言っていいだろう」
「そういうものに関心のない人もいるけどね。他人に尽くせる人とか」
「それとて、他人に奉仕することで快感を得ているだけの話だ。どの種類の快感を好むかということも、当然個人差は発生するからな」
「………」
 ちりちりした感覚は、次第に胸に異物が詰め込まれたような嘔吐感へと変化していく。
 彼女は時として傲慢になる。自分の考えが正しいと信じ、それに固執する。それは、研究者としてやむを得ないことであるし、時として必要なことでもある。
 僕は、彼女のこのような一面も彼女らしさだと思っていた。
 そう、彼女は愚かではない。理屈と世の理は別のものであって、そんな寒々しい結論は間違っていると言えば、きっと分かってくれるはずだった。
 しかし、このときは違った。僕は彼女の目に映る奇妙な光を、確かに見て取ったのだ。
「……君はどうして僕にそんなことを話す?」
「どうして?……私の論理が間違っていまいか、確認したくてね」
 彼女はそう言ったが、その口調には自信の程が窺える。そして、僕は彼女の言い分に確かな嫌悪感を覚えながら、それに反論するだけの根拠を持たないことも事実だった。
 理屈のない反論や、代案のない反論を述べるのは、僕の研究者としての矜持が許さない。だから、僕は彼女の言葉に黙っている。
 そして、それは彼女の論理を肯定することに他ならなかった。
「それだけ分かれば十分だ。……私は、人を神の領域にまで高めて見せるよ」
 彼女は、まるで神に反逆することを決意した堕天使のように、高らかに宣言する。
 僕は、その姿に一抹の不安を覚えていた。






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 世界は、何かが間違っていると思う。
 ふとすれ違う人間に対しても、違和感が湧き上がる。
 いや。
 あるいは、間違っているのは自分の方か。世界が正しくて、自分が間違っているのかもしれない。
 凛が感じるものは、不安だった。
 世界と自分が馴染まない不安、自分の居場所がない不安。
 自分がいれば、誰かが傷つく。……そんな不安。
「………」
「何、暗い顔してるのよ?」
「……ん、曜子。どうしたの……?」
 凛はクラスメイトの顔を見て、怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたの、はこっちの台詞でしょうが。凛はボーっとしすぎ!!」
 曜子は快活そうな笑みを見せて、こちらの顔を覗きこんでいた。背は自分より小さいながらも、ショートボブの活動的な髪型で、とにかくちまちまと良く動く。なんだか、体温の高い小動物――例えば、ハムスターみたいだと凛は思った。太陽の色をしたゴールデンハムスターである。
 この手のタイプは友達の出来やすいはずだが、なぜか自分にばかり話しかけてくる。そう考えると、随分と奇矯な人物だ。
「ねぇ、そんなに空ばかり見ていて、楽しいわけ?」
 なおも、曜子は凛に話しかけてくる。絵に描いたような人好きする笑みである。
 どうしてそこまで自分に構おうとするのか――?
 それとも、執拗なまでに人間関係を求める曜子の姿こそが、人間のあるべき姿なのか。だとすると、もしかしたら、自分は怠惰なのかもしれない――が、全てが億劫で、これ以上考えたくなかった。
「外の様子のこと?……確かに、面白くは無いわね」
 わずかばかりの社交性が発揮できたらしく、凛は返事をする。そして、視線は再び窓の外へと向けられた。
 ガラスの向こう側に広がるのは、代わり映えのしない風景。本当に、何一つ変わらなくて、時間の感覚すら麻痺してしまう。学校から街まではそう遠くないから、ビルや人家が発する光がここからでも見える。けれど、確かにそんなものを眺めていても、気が滅入るだけかもしれない。
「そ・ん・な・こ・と・よ・り!!」
 いきなりテンションを三倍増しくらいにして、曜子はピンと人差し指を立てる。
「あの話は聞いた?」
「――なんのこと?」
何も思い浮かばない凛は、素直に聞き返す。それに対し、曜子は凛の世情の疎さに肩をすくめながら、
「あ〜の〜ね〜、転校生の話よ。しかも、男よ、男! 期待に胸が躍るよねぇ……」
「ん……あまり、興味ない」
「うわ〜、相変わらず枯れてるね〜」
「枯れていて結構。そんなに行きたければ、どうぞご自由に。――私はそんなに暇じゃないのよ」
「あはは〜、しょうがないね〜。それでは、暇人一号は、敵情偵察に行ってまいります」
 凛の話している暇が有らばこそ、曜子は猛ダッシュで教室の外へと出て行く。
「……忙しないこと」
 凛は、曜子の後姿を見送って呟く。まあ、これもいつものことだ。
(……にしても、転校生ね)
 普通、転校は学期の節目に行うものだから、時期はずれの転校生と言うのは、大概のっぴきならない事情を抱えているものだ。そう考えれば、曜子のように好奇心を露わにする気持ちも分からなくはない。
 しかしながら、生憎と凛には好奇心なるパラメータが0に等しいから、いつものように自分の席に座って、俄かに騒然としはじめる教室を何気なく観察するだけだった。
 女子の期待も男子の落胆も、凛には関係ない。他人に心を煩わせるなど、彼女のもっとも嫌いなことだ。
 それよりも、気になったのは、教室に並んだ机のうち3分の2くらいは空席だったことだ。これはもう、学級崩壊寸前といっても差し支えない状況だが、リベラルな校風で知られる学校のせいか、誰もそれを問題としていないようだった。授業に関しても、出たくない科目に出席する必要はないし、大概いい加減すぎる。
 そのうち、教師が教室へと入ってきて、SHRが始まった。
 凛のクラスの担任である岩屋教諭は、三十代半ばで、くたびれたスーツと不自然なくらいにかっちり固めた髪型が印象的な、国語の教師だった。
 ちなみに、あだ名は『ヘルメット岩屋』であり、通称ヘル岩でちょっとかっこいい。人気が高いわけでもなければ嫌われているわけでもなく、頭の上の毛髪人口が過疎化の一途をたどっていること以外には、取り立てて言うことのない人物であった。
ただし、いつもと違うのは、既に見飽きた感のあるこの教師の後ろに、この学校の制服を着た見慣れない青年がいたことであろう。
 凛は、クラスに広がる僅かなざわめきを感じていたが、それはどうでも良かった。言い換えれば、噂の転校生がどうでもよかったのだ。
 そういえば、曜子が教室に戻ってない。彼女が、転校生の自己紹介などと言う絶好のイベントを見逃すとは思えないのだが。
「あー、皆も知っていることと思うが――」
 マニュアル通りといった感じの抑揚のない声で、岩屋教諭はその青年を紹介する。
「今度、このクラスに編入されることになった、東間君だ。みんな、仲良くするんだぞ」
 そんなお約束の言葉の後、東間はクラス全体からの好奇の視線を一身に受けて、一歩前に歩み出る。
「烏兎 東間です。皆さん、よろしく」
「――!?」
 凛はその声に、はっと顔を教壇へと向けた。
 そこに立っていたのは、昨日ビルの屋上で会ったあの男。彼女が自殺しようとしたことを知っている男。それが今、目の前にいる。
 東間は、一瞬だけ凛の座っている席へと顔を向けたが、すぐに視線を元に戻すと、
「まあ、適当に仲良くしてください」
 緊張など微塵も感じてないというように軽く頭を下げて、東間は余裕の笑みを浮かべた。
 ただ浮かべるだけで他者から好感を得られるような、博愛主義の笑み。さりとて、卑屈なわけでも、馴れ馴れしすぎるわけでもない。
 少なくとも、東間がいじめ問題で転校してきたという可能性はないだろう。
「………」
 凛は少なからず動揺していた。
 当たり前だ。出来の悪い少女マンガじゃあるまいし、こんな偶然があるはずがない。
 だとすれば、自分を追ってきた?……ありえなくはないのかもしれない。しかし、その目的が見えない。
 なにより、東間は凛が昨夜なにをしようとしていたのかを知っている。これは、彼女にとって他人に知られたくないことであるがゆえに、東間がこのクラスに来たというのは、凛にはすこぶる不安であった。
「では、東間君。君の席だが……」
 教師の視線が凛の隣の空席に向いたのを感じ、さらに嫌な予感がした。
「常夜君の隣が、ちょうど空いているな」
 予感的中。嫌な予感ほどよく当たるというのは、紛う方なき真実らしい。
 東間は凛の隣に来ると、優等生然とした仕草で机に座る。
「よろしくお願いするよ。凛さん」
「……ええ」
 凛は周囲に気づかれないくらいに眉をひそめた。
 この男に名前を教えた覚えなど、凛にはなかった。







 転校初日の高校生と言うのは、とかく多忙なものである。
 新しい環境に慣れるというのはもちろんのこと、檻の向こうから珍獣を見るような、周囲の好奇心を満足させなければならない。
 そう言うわけで、休み時間の東間はクラスメイトに囲まれ、苦笑しながらも質問攻めに答えていた。血液型や出身地から始まって、好みのタイプ、趣味、特技、入ろうとするクラブ。どうでもいいといえばどうでもいい一過性の台風は、芸能リポーターもかくやと思わせるほどだった。
 そして、東間も困ったような表情を浮かべながら、的確にそれに答えていく。
「優等生でござい、決して波風立てません」といった具合の見た目通り、すぐさまクラスの雰囲気に溶け込んでいた。
 凛はといえば、自分の机に座ってたまに東間を横目で見るだけだった。その視線には、少なからず警戒の色が含まれている。
 考えることは、一念に尽きる。
 ――あのことを知られたくない。
 当たり前だ。
 もし、東間が昨夜の凛の行動を教師に訴えでもしたら、煩わしいことになるに決まっている。
 必要以上に触れられたくない――詮索を凛は怖れていた。何も知らない人間に、したり顔で説教されるのはごめんだった。
 未だ教室に戻ってこない曜子のことも、気にはなる。
 それでも、凛の頭の多くを占めるのは、東間の動向であった。幸いにして、東間は普通の学生を装ったまま、真面目に授業を受けていた。
 まあ、今のところは、ではあるが。

                ―――――

 四時限目を終える予鈴が鳴った。
 何事もなく午前の授業は終わり、昼休みになる。
 昼食を採るということもあるのだろう、東間に対する質問攻めは目に見えて弱まった。新しいクラスメイトに対する一通りの好奇心は満足させることが出来たし、なにより育ち盛りの青少年の食欲というのは、好奇心なんかよりもよっぽど大きいのだ。
 東間は、数人の男子生徒となにやら――おそらく昼食の誘いであろう――話し合っていたが、凛の机の前まで来た。と言っても、隣の席に移動するのだから、二歩もあれば事足りる。
「ちょっといいかな?」
 東間は凛の席に手を置いて話しかける。それに対し、凛は東間の顔を見上げると、
「……天国じゃないの?」
「へ?」
「出身地。……さっき、西の方って言ってたから」
 東間は、それでようやく凛の言わんとしているところを理解して、
「うん。僕が天使だってことは、下界のみんなには秘密なんだ」
 小声でそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
 どうやら、東間には皮肉の類は通用しないらしい。……もちろん、本当に天使というわけではあるまい。
「……それで、何か用?」
「うん、まあ、ちょっと付き合って欲しいんだ」
「……私、忙しいから」
「転入生に校内を案内するのは、隣席の生徒の義務だろう?」
「あなた、曜子みたいなことを言うのね」
「曜子? ……ああ、さっき保健室に運び込まれた子ね」
「……曜子が保健室に?」
「みたいだよ」
「………」
 東間の言葉を聞いて、凛は無言のまま席を立つ。
「……おや、どこに行くんだい?」
「保健室」
 凛は短く言い切ると、東間を置いて教室の外へと出て行く。曜子の体調など別に気にならないが、目障りなこの男から離れるにはいい口実だった。
 しかし、東間もその後ろについてきた。予想されうる事態ではあったが、なんでこんなに自分に構うのか、凛には理解出来ない。

             カッカッカッカ……

 金魚のフンみたいにくっついてくる東間を無視するように、凛は早足で保健室へと向かう。東間も、凛と全く同じスピードで歩くものだから、まるで二人きりの競歩大会といった風情だった。
 始めのうちは無視していた凛も、次第に痺れを切らして、
「……あのね」
「ん?」
「どうして付いてくるの?」
「凛が保健室を紹介してくれるらしいから」
「そんなこと、一言も言ってない」
「結果的にそうなりそうだけどね」
「………」
「それに、彼女が怪我をした責任は、僕にあるようなものだし」
「……それ、どういうこと?」
 凛の足がピタリと止まる。
 凛には、東間が見た目どおりの無害な優等生だとは、どうしても思えなかった。その上、曜子に何か危害を加えたとすれば、次は我が身とも限らない。
「まあ、彼女に直接聞いてみたら良いんじゃないかな」
 東間がそれ以上喋る気配は無い。
 どうも釈然としないものの、なるべく東間と口を利きたくはない。凛は黙ったまま歩いていく。階段を下って、青白い蛍光灯に照らされた廊下をあと20mも歩けば、保健室はすぐそこだった。
「曜子、いる?」
 保健室を開けるなり、凛は室内の様子を確認する。
 白で統一された壁面とカーテンに、人体模型や身長体重測定器など、お約束の備品が並ぶ何の変哲も無い保健室。
 しかし、この場に一番無くてはならないもの――保健医の姿が無い。
「………」
 凛は一瞬だけ、保健室の奥に埋もれるように存在する扉に眼を向けた。その扉には、張り紙で『ヒ・ミ・ツの花園☆』と書かれている。
 保健室の主である上利は、暇さえあればこの部屋に篭って、何かしているらしい。
 ……これこそが、我が校の七不思議の一つ。ヒミツの花園である。曰く、保健室に来た哀れな患者を実験している、とか。曰く、遺伝子を改造して新種の生物を作っている、とか。さまざまな憶測が飛び交う中、中に入って確かめた者は誰も居ない。扉につけられた擦りガラスの向こうには、阿鼻叫喚の地獄絵図が待っているのかもしれなかった。
 ただ、凛にはそういう愉快な想像をするような子供心がないから、まあ給湯室か喫煙室なのだろうと理解している。
「――誰もいないようね」
曜子の姿を探しながら、凛は室内の表面をなぞるように見回す。
「多分、ベッドじゃないかな」
 保健室の中で、ベッドだけは白いカーテンで仕切られていて、確かに曜子が保健室にいるとすれば、あとはここしかなかった。
「……一体、何をしでかしたのやら」
 凛は肩をすくめて、ベッドへと向かう。そして、東間の言うとおり、曜子はそこで体を休めていた。
「元気そうね」
「あ、凛――と転校生君」
 凛と東間の姿を確認して、曜子はベッドから体を起こす。部屋に入ってくるのに気付かなかったのを見ると、眠っていたのかもしれない。その声は、どこかばつの悪そうだった。何が起こったのかは知らないが、表情や顔色からして、それほど深刻な怪我を負ったわけではなさそうである。
「東間です。よろしく」
「あ、うん、こちらこそ」
 転校生君と呼ばれた東間は、曜子に向かって手を差し出して握手をする。そして、曜子は凛のほうに向き直ると、
「ねえ、ヘル岩、何か言ってた?」
「別に。いつもの通り、関心0。……それで、何があったの?」
 僅かに眉をひそめて、凛は曜子に問う。曜子の身を案じるのではなく、東間の動向を知るためにこのようなことを聞く自分は、多分冷たいのだろう。
「いやぁ、それが、体当たりを失敗しちゃって……」
「体当たり?」
「ほら、今朝言ったじゃない。転校生とお近づきになるために、まずぶつかるところから始めないとって」
「ああ、そのことね」
「そしたら、東間君がかわすもんだから、地面に激突しちゃって」
「……どんな体当たりよ、それ」
「んーと……」
「控えめに言って、サテライトドロップキックだったねぇ、あれは」
 東間が、しみじみと口を挟む。
「サテライト……?」
 凛の聞きなれない単語だった。ちなみに、サテライトドロップキックとは、通常のドロップキックを回転しながら繰り出す大技である。全体重を乗せた蹴りと回転力とが相まって、当たると悶絶するぐらい痛い。
「ほ、ほら、それくらいインパクトのある攻撃じゃないと! 病院送りにするかされるか、その瀬戸際にこそ愛が目覚めるのよ」
「相変わらず、無茶苦茶ね。その内、本当に病院送りになるわよ」
「私、夢のためなら死ねるから!」
 曜子はそう言って、ぐっとガッツポーズをとる。
「……処置なし」
 凛はそう言って肩をすくめるが、その表情は、言葉ほどには呆れていなかった。
「それより――」
 曜子が意味ありげに、凛と東間に視線を傾ける。
「凛と東間君、いつの間に仲良くなってるの?」
「別に、仲が良いわけじゃ――」
「照れるな照れるな。いいよー、実にいいね。転校生とお近づき作戦は失敗だったけど、凛と東間君を見守る親友ってポジションも捨てがたいもんね」
曜子の妄想に、東間大きく頷きながら、
「ふむふむ。そして、それはいつしか三角関係に……」
「そうそう、東間君も良く分かってるじゃない。私が、メガネで三つ編みで目立たない、文学少女だったりなんかするとベタなんだけどね〜」
「……馬鹿みたい」
 凛は、いつの間にか意気投合している東間と曜子を見やって、そう言って捨てる。それが凛の口癖だと知っているから、曜子も気を悪くした風ではなく、
「ちぇっ、残念無念」
「全くだね」
 東間とそう言い合うくらいだった。
「それだけ元気があれば、心配いらないわね」
 凛は時計に眼を向ける。もうそろそろ昼休みも終わりかけていた。
「それじゃ、私はもう行くわよ」
「それでは、どうぞ末永く、お幸せに〜」
「……言ってなさい」
 凛は、曜子が手を振ってこちらを見送るのを見て、とりあえず容態に問題が無いことを確認すると、保健室を後にする。昼休みが終わりかけていることもあって、もう廊下には人影がまばらだった。
 教室へと戻ろうとすると、東間も当然のように凛の後を付いてきた。
「……」
「……ねぇねぇ、あのさ」
 行きと同じように、無言で教室まで戻ろうとする凛に対し、東間が声をかけてくる。
「なに?」
 歩みを止めぬまま、凛は東間に返す。
「止まってくれないかな。結構大事な話だから」
「………」
 凛の足が止まった。『大事な話』が少なからず気になったせいもあるし、東間の声が今までに無いくらいに真剣だったせいもあるだろう。
「良かった。なかなか、二人きりの時間が作れなかったからね」
「二人きり――?」
 東間の言葉に、凛は怪訝そうな表情を浮かべ、次いで周囲を見回す。そこは階段の踊り場だった。今まで無意識に歩いてきたが、確かに周囲には誰もいない。昼休み終了間際には、生徒は全員教室に戻っていて、誰かが通る気配は無い。それが、人通りの少ない一階保健室への階段であれば、なおさらである。授業が始まって教師がここを通るまでは、おそらく誰も通らないだろう。
「曜子ちゃんをダシに使うようで、悪かったけどね」
 東間はそう言って、例の屈託の無い笑みを浮かべる。
「……私と二人きりになるために、保健室まで付いてきたの?」
「そういうこと。――ああ、曜子ちゃんを怪我させたのは、わざとじゃないからね」
「そう。……それで、大事な話って?」
 凛は無表情な瞳と声で、東間に問いかける。
「ん、意外と素直だね」
「ここで逃げて、何度もこんなお膳立てされるのは面倒だから」
「なるほど」
 東間は大きく頷いて、一歩凛へと近づく。
「話って言うのは、他でもない。今夜、僕に付き合って欲しいんだ」
「……正気?」
「もちろん」
「冗談は顔だけにしてよ。どうして私が――」
 耐えかねたように語気を荒げる凛であったが、東間はその言葉を先回りするように、
「……いいのかなぁ。そんなこと言っちゃって」
「――どういうこと?」
「人間、誰にでも知られたくないことってあるよねぇ」
「――」
 刹那、東間の笑顔が酷く空々しいものに思えた。無論、なにか東間の様子が何か変わったわけではない。しかし、凛には、東間がまるで能面を被って、心の中で嘲笑しているような、そんな風に感じられた。
 これは、多分不安のせいだ。
 次に東間が何を言いだすか、凛には本能的に分かっている。絶対の切り札をちらつかせ、笑顔で脅しているのだから、その笑顔が額面どおりであるはずが無い。
「言われたら困るよねぇ。例えば――昨夜のこと、とか」
「………」
 やはり――
 凛は自分の予想の正しさを知る。そう、アレは知られたくない。誰にも。絶対に。
 東間が何故、アレが凛にとって致命的であることを知っているのか。
 いや――そんなことはどうでもいい。現に彼は、その秘密を知っていて、凛に脅迫めいたことをしている。そして、抗えないことを知っている。だからこそ、凛は無言であった。そして、その無言とは肯定に他ならず、東間は凛の様子を見て満足そうに頷いた。
「うんうん、分かってくれて嬉しいよ。じゃあ、そういうことで、放課後にまた声をかけるから。それまでは、ただの転校生とクラスメートだからね」
 まるで、既にただならぬ関係になったかのように言う。
 その馴れ馴れしさに眉をひそめながら、凛は先に教室に戻ろうとする東間の背中に声をかけることは出来なかった。
「………」
 どうするつもりだろうか。凛には、東間と言う男の腹積もりが分からない。それはもちろん、ここで考えても分からないことなのだけれど。

              ――キーンコーンカーンコーン

 そして、まるで遅刻してきたように、五時限目の予鈴が廊下に鳴り響く。
 凛には、その音が他人事であるように聞こえた。






 この街の光は、まるで洪水のようだった。
 繁華街ともなれば、店先から漏れる光に、街灯に、ネオン。それに、交通量が烈しいから車のヘッドライトも良く目立つ。ざっと見回しただけで、これだけの光が溢れているのだから、洪水と言う比喩も誇張ではない。
「どこに連れて行く気?」
「まあまあ」
 東間は、不機嫌そうに後についてくる凛をなだめると、再び歩き出す。
 凛は部活に入っていないので、授業が終わればすぐにでも帰れる。一方、東間は、執拗な運動部の勧誘を振り切ってここにいた。確かに、東間は運動も勉強も出来そうなタイプに見えるから、どの部活からも引く手あまたであろう。
 しかし、そういった諸々の勧誘に対し東間が放った言葉は、「セパタクロー同好会を作るから無理」であった。本当に、セパタクローを日本の国技にしてやるぜ!くらいの笑顔で東間がそう言い出した時は、流石に凛も苦笑してしまったが。
「ん、困ったな――」
 繁華街も半ばまで進んだところで、東間が歩調を緩めて呟く。それを見た凛が、ふと気がついたように、
「……もしかして、行く先が決まってないの?」
「実は、そうなんだ」
「馬鹿じゃない?」
 凛はあきれ果てたように、首をすくめる。人を脅して付き合わせるくらいだから、きっと無茶な要求をしてくるに違いないと踏んでいたのだ。それ相応の覚悟で臨んだ自分が馬鹿みたいだった。
「なにせ、転校してきたばっかりだからね」
「……」
 無言のまま、東間についていくこと数分。
「チェストー!!」

                  ガコン!!

 道の向こうから、聞きなれない物音がした。
 自然とそちらの方に眼をやると、白衣を着た男がUFOキャッチャーの筐体に、胴回し回転蹴りをクリーンヒットさせていた。雑踏の中でも一際目立つ電子音は、ゲームセンターの店先には定番のものだった。
「あれは……」
ぶっきらぼうに歩いていた凛の足が、地面に吸着したかのように不意に止まった。
「知り合い?」
「……いいえ」
 凛は眉をひそめてそう呟く。その声色と表情からは、関わりたくないオーラがビシビシと立ち上っていた。しかし、
「――あれ、常夜?」
 筐体を蹴っていた男は、あっさりと凛を呼び止める。
「上利……先生」
「お前ら、こんなところで何やってんの?」
「……先生こそ」
「見て分かるだろうが。UFOキャッチャーだ」
 凛の通う学校の保健医である上利は、自信たっぷりにそう言う。服装こそ白衣なのだが、下に着ているシャツは胸元を大きく開け、メッシュが入った長髪を後ろに束ねているその姿は、保険医というよりはチンピラに近い。
 この男が――いい年こいて、UFOキャッチャーと戯れるこの男が――学園七不思議のうち四つまでを担う謎の保健医、上利だった。
「知りませんでした。UFOキャッチャーとは、キックの力を計測する機械だったんですね」
「相変わらず、ピリリと嫌味の効いたトークだな。凛」
「お褒めの言葉、どうもありがとうございます。器物損壊は、刑法に引っ掛かりますよ」
「馬鹿言っちゃいけない。俺は、苛立ち紛れに機械を壊そうとしたわけじゃないぞ。ただ、筐体に振動を加えることにより、次の奴が取りにくくなるようにしただけだ」
「それはそれで、問題ありですが」
 ちなみに、上利の背後の筐体は、『?ボタンを押してね☆』をひたすら連呼していて、修理しなければにっちもさっちも行かないことは明白だった。
「まあ、あれだ。俺のことはどうでもよろしい。それより、常夜君。後ろの彼が誰なのか、お父さんに紹介しなさい」
「どうして、私が――」
「じゃあ、俺ともう少し心温まるトークでもしようか?」
 その言葉に、凛は心底嫌そうな表情を浮かべ、
「――烏兎東間。転校生」
誰がお父さんやねんとか言う突っ込みは一切抜きで、凛は淡々と言う。
「すごいなぁ、漢字だけの紹介だね」
東間は、凛の愛想の無さに苦笑を漏らした。
「ああ、そうか。君が、今度ウチの学校に来たっていう物好きだな」
「物好き――ですか。そうですね、自分でもそう思いますよ」
「しかも、初日から常夜を狙うとは、非常に物好きだ」
「それも、そう思います」
「先生は、女性の好みをとやかく言うつもりはない。ただ、常夜はちょっとやめといたほうがいいな」
「どうしてです?」
「ここだけの話、常世は魔性の女なんだ。彼女にハマった男が、もう何人も黒魔術の餌食になっているとか。ウチのクラスの欠席が多いのは、実験材料にされているからだとか。黒い噂が絶えないのだよ。……う〜ん、実にミステリアス」
「……いい加減、訴えますよ。チンピラ保健医」
 『これだから、この男は好かない』と、凛は考える。色々と、デリカシーが足りないのだ。そんな凛のムッとした表情を、上利が意に介することなどもちろんない。
「あっはっはー。先生の忠告はよーく聞いておきたまえ、転校生君。――そして、常夜!曜子君の体の調子は大分良いようだから、心配ご無用だ! ……それでは、いざさらば!!」
 妙なテンションのまま、上利は雑踏の中へと消え去っていく。
「……全く。保健医として優秀なのが、逆に腹が立つわね」
 ちゃんと曜子の容態を凛に伝えてくるのだから、患者やその友人関係に対する気配りは、相当綿密である。性格がアレでも解雇されないのは、そこのところに理由があるのかも知れない。
「しかし、どうしようか。これ」
 東間は後方のUFOキャッチャーを示す。このままだと、二人がこの筐体を壊した犯人だと思われかねない。
「罪を擦り付けられるのだけは、勘弁してほしいわね」
「じゃあ、まあ、僕たちも逃げるとしましょうか。――と、ちょっと待ってて」
「?」
 東間はおもむろに人形の取り出し口に手を突っ込むと、そこから景品のところまで手を伸ばして、一つのぬいぐるみを取った。
 そして、それを凛に差し出して見せると、
「あ、やっぱり取れた。盗難防止のストッパーも壊れてたみたいだね」
「……犯罪者二号」
「君へのプレゼントだから、君も共犯だね」
「いらないわよ」
「前科を持つのも良い経験だと思うけど」
「……あのね」
 上利に会った後の不機嫌な雰囲気を多分に残しつつ、凛は東間をねめつける。
「そんなに見つめられても困る」
「睨んでいるのよ。……犯罪に手を染めるタイプには見えなかったんだけどね」
「まあ、いいじゃないか。君、こういうの好きそうだから」
「勤続20年の専業主婦じゃあるまいし、生活にスリルは求めてないわよ」
「違う違う、こういう可愛いもの」
 そう言って東間は、デフォルメされた猫のぬいぐるみを押し付けるように凛に渡す。
「じゃあ、そういうことで、今日は失礼するかな。もうすぐ店員さんも来るし、逃げるなら二手に分かれたほうが良いからさ」
「あ、ちょっと……!」
 取り残された凛は、独りでポツリと立つ。
 正直、凛はフカフカしたものが嫌いじゃなかった。それはもう、相当嫌いじゃなかった。近所の野良猫を撫でるのを至上の喜びとするくらいに、嫌いじゃなかった。
 ……だからかもしれない。
 不覚にも、東間から渡されたものを受け取ってしまったのは。






「――んで、何で君はここにいるのかな?」
「……そっちこそ」
 凛は東間の声に、無気力そうに答えた。
「そうか、万引きの罪をはかなんで死ぬのか……」
「やったのは、貴方でしょう?」
「そう言えば、そんな気もする。――んで、何で君はここにいるのかな?」
「同じことを聞かないでよ」
 高層ビルの屋上。フェンスの向こうとこっちをはさんで、二人は不毛な会話を続けていた。凛は例によって、一歩踏み出せば地上へまっ逆さまの危険な位置にいたが、フェンスの網目に指を絡ませ、とりあえずは死ぬ気がないことを示していた。
 否。死ぬ気がないわけではない。
 ただ、笑顔の中にも少し真剣味を帯びた東間の表情を見ていると、胸がひどく苦しくなるのを凛は自覚していた。それは、昨日この男に会った時にも抱いた感情だった。
 この男の前では、妙に死ぬ気が失せるのだ。なんとなく。
「……今日のデート、楽しくなかった?」
「デートじゃないけど。……どうして、そんなことを聞くの?」
「楽しいことは、良いことです」
「……あのね」
 凛はそれ以上の言葉を留めた。東間の答えは、いつも的を外してくる。どうせ、まともな答えなど、返ってくるはずもない。まして、こちらから伝えたいことなど、一つもない。問答は無意味なのだと思う。
「――君はとても寂しそうに見える。だから、今日の出来事が、楽しかったらいいと思っただけだよ」
「勝手に連れまわしといて、楽しいもなにもないでしょう?」
「でも、楽しそうだったね」
「………」
「ね?」
 そうやって何度も問いかける東間の言葉は、決して押し付けがましくはない。道理の分からない子供に言い含めるような、穏やかな浸透圧をもった言葉だった。
「……少しだけ、ね」
 この特殊な空間のせいだろうか。脳のフィルターを通すより先に、思考そのままの言葉が口を突いて出ている気がする。捩くれたキャッチボールのようなこの会話も、どこかで心に響いているのかもしれない。
「君は寂しい人だけれど、それでも僕がいる。泣きたい時は、僕の胸で泣くといい」
「……きもちわるい」
「なんとも酷いね。傷つくじゃないか」
 東間は大してダメージを受けた様子もなくそう言うと、フェンスをよじ登って、そのてっぺんに腰をかける。
「ひゃー、絶景かな」
「危ないわよ」
「それを君が言うかい」
「……」
 そうして、二人は何を喋るでもなく、明けることのない夜を――永遠に続く夜景を眺めていた。
「しかしまあ、煌びやかな街だよね。こうして見てみると、人間の英知って奴を感じずにはいられないよ」
「……そう?」
 東の言葉に、凛は気のない返事を返す。凛は街が嫌いだった。
 無駄に明るい夜も嫌いだし、同じような顔をして歩いていく通行人も嫌いだ。しかも、あいつらときたら、どれもこれも、同じことを喋っているようにしか聞こえない。
ついでに言えば、そう言うことに無頓着な周囲の人間にも腹が立つ。
 壊れたスピーカーじゃないんだから、もっと違うことを喋ってよね。――そんな、理不尽すぎる願いだって、生まれないわけじゃない。
「私はそれほど好きではないけど」
「……そうなんだ」
 東間は、寂しそうな嬉しそうな、苦笑いにも似たあいまいな表情でそう答えた。
「僕も好きってほどじゃないけどね。実を言うと、君とこうしていられるなら、場所はどこでも良いんだ」
「……自殺しようって人間に言う台詞?」
「僕は天使だからさ。君の悩みを少しでも軽くしたいんだよ」
「……悩んでる?私が?」
 それが意外だとでも言うように、凛は少し眼を見開いて首を傾げた。
「自殺する人は、普通何かに悩んでいるものだろう」
「……そう、かしら?」
「違うの?」
「……そうね、私は悩んでない。ほんの少しも。悩むというのは、次に何をして良いのか分からない人間がすることだもの」
「じゃあ、君は、何をすべきか分かっているの?」
「すごく、曖昧だけどね」
「それは、何?」
「当然、ここから飛び降りることよ」
凛の瞳が、東間を捉える。その言葉には、なんの躊躇いも気負いもない。厳然たる事実を在るがままに伝えるように、凛の声は淡々としている。
「なんとも。潤いのない人生だね」
「それでもいいのよ」
 凛の言葉は、死の臭いを感じさせない。東間は超然とフェンスの向こう側――死の淵に立つ凛の姿を見つめながら、不意に口を開く。
「……あのさ、聞いてもいいかな」
「何?」
「君は、何で自殺をしようと思うの?」
「――」
 当然といえば、あまりに当然な東間の問い。ベクトルが狂ったキャッチボール。不意に来たストレートを、凛はまともに受け止めることが出来なかった。そして、凛は時間が止まったような完全な沈黙の後、
「……何となくよ」
 ただ、それだけを口にした。
「……何となく、ね」
 呟くような鸚鵡返し。東間のその声色から、納得したのかしていないのか、判別することは出来ない。
「不思議?」
「そうだね」
「でも、人生は<なんとなく>に支配されているのよ。人生に意味がなくても、明確な目標がなくても、人は何となく生きてる。私が死にたいのも、何となく」
「人生に疲れているだけなんじゃないの?」
「違うわね。私が死にたいのは、絶望とか虚無とか、そういう月並みなものじゃないと思う」
「そこまで分かってるなら、なんとなくじゃないでしょう」
「なら言い換えるわ。――確信的ななんとなく」
「それって、結局はなんだろう?」
「そうね……」
 凛にも、確かなことは何一つ分かっていない。だから、「何となく」としか言えないのだ。
 けれど、凛は確信に満ちた声でこう言う。
「私は、みんなのために死ぬのよ」





                   ?




「……何を見ているんだい?」
 彼女は、ディスプレイをつまらなそうに見ていた。
 彼女は、自分の興味のあること以外には見向きもしない人だったから、『つまらなそうに見る』と言う行為が、とても珍しかった。
「ん、ああ。新聞だよ」彼女は、そう生返事を返す。
 それは、この国において発行部数トップの新聞紙だった。……紙の新聞など、とっくに廃れたと言うのに、『新聞紙』という言葉が残っているのは、ちょっと面白いかもしれない。
 突出して面白いことは書かないが、安定した内容と節度ある文章は、大手の名に相応しいという風評を聞く。
「……馬鹿みたいだな。私と君が、アインシュタインの再来などと書かれている」
「そう言われるのは、気に入らないのかい?」
「アインシュタインは、決して神童ではなかった。子供の頃には、落ちこぼれとして、まともに学校にも通えなかったほどだ。確かに、才覚の面では我々と同等かもしれないが、成熟の速度は私達のほうが優れている。まるでコピー商品扱いされるのは不愉快だな」
 その言い草に、僕は苦笑する。自尊心と自負心に満ち溢れたその言葉は、実に彼女らしい言い分だと思った。
「アインシュタインは、馬鹿だから落ちこぼれたんじゃないよ。学校の教師から見たら、良くも悪くも通常の規範からはずれていたと言うだけの話だ」
「社会が、真価を認めなかっただけだと言うことだな」
「僕たちの場合は、ただ周囲の理解があっただけだよ。まあ、誰かと比較されるのは、うれしくないけどね」
 僕はそう言って、彼女に向かって笑みを浮かべる。そして、机の上に置いてあったコーヒーを一口含んだ。
「……あー、あー、ところで?」
「ん?」
「君と言う奴は、人のコーヒーを勝手に飲むんじゃない」
「ん、ごめん。でもまあ、一口くらいいいじゃない」
「そういうことを言ってるのではなくて、衛生面の問題だ。君に対しては今後一切、私のカップ、キーボード、ペン、目覚まし時計、その他諸々に許可なく触るのを禁ずる。もし破った場合は、全身煮沸消毒だからな」
「む」
「あと……。私に触るのも、なるべくならよしてくれ」
「その潔癖症、いい加減治らない?」
「こと、君に関しては無理だな。そちらこそ、その適当な性格と生活態度を直したまえ」
 彼女は、憮然とした表情でそう言った。まあ、確かに僕は私物の管理とかがいい加減だから、こういう不一致もしょうがないんだけど。
「……でも、何かむかつくから、ベタベタ触っちゃえ」
「――君は子供か!」
 痴漢っぽく手をワキワキさせて触っていると、彼女はピシリと僕の腕を叩いた。
「……まったく、そう言うことを予告なしでされると困る」
「予告すればいいんだ?」
「そう言うことではなくてだな――!」
 彼女は顔を赤くして、握りこぶしをぎゅっと固めた。
こういう時、これ以上からかうとろくなことにならないことを、過去の経験上から知っている。――う〜ん、学習って素晴らしい。
「うん、まあ、言いたいことは分かる。気をつけてみるよ」
「……微妙に、不安が残る答えだが」
 気勢をそがれたのか、彼女は呆れ顔でそう言った。
「それよりもさ――聞いたよ」
 世間話もほどほどに、僕はここに来た本題を切り出した。
「ん?」
「例の研究。国から予算が出たんだって?」
「ああ。連中は半信半疑かもしれないがね。私は実現してみせるよ」
 その言葉と共に、彼女の顔は一瞬にして研究者のものとなる。それだけで、今回の研究における、彼女の意気込みが分かろうというものだ。となると、当然次の言葉が言い出しにくかった。
「……その、君の研究ってさ、人をダメにするよ」
「君は、私が新手の麻薬でも開発するとでも思っているのか?」
「………」
「私とて、木石にあらずば情くらいある。非人道的なことはしない。運用もちゃんと考えている」
「なら、いいんだけど」
 完全な納得は出来ない。
「それに、私の暴走を止めるのが君の役目だろう?」
「え――?僕もスタッフなの?」
「何を驚いている?……今までずっと、一緒にやってきたんだ。今回も、側にいてくれなくては困る」
「うん、そうだね」
「長丁場になると思うが、よろしく頼むぞ」
「……でも、ちょっと意外だな」
「何が?」
「いや、君のことだから、僕の事なんか必要としていないと思っていた。君はいつも一人でやってしまうもの」
「心外だな。……少なくとも、君の才能は当てにしている」
「才能だけデスカ」
「それ以外は――。まあ、いいじゃないか」
 彼女はそう言って言葉を濁した。
 ……僕と彼女は科学者で、同僚だった。それ以上でもそれ以下でもなく、当然恋人ではないし、友人ですらないのかもしれない。
 ――それでも、いいんだ。
 僕には、彼女と一緒にいられるだけの才能があるのだから、それで十分だった。
 現状を維持できれば、僕はそれで幸せだった。五時の鐘がなって家に帰らなければならない幼児みたいに、ただ離れたくないと純粋に願っていた。
「じゃあ、何から始めるの?」
「そうだな――」
 ……こうして、僕たちの研究が始まった。







 凛はゆっくりと教室を見回す。
 雑然としていてどこか気だるい、HR直前の風景。いつも見慣れたその日常は、同じ風景が繰り返されているようにも思える。頭の中で、ビデオテープが再生と巻き戻しを繰り返して、キュルキュルと軋んだ音が聞こえるような気がした。その風景に馴染めない自分は、ただ遠目にクラスメイトの様子を観察するだけだった。
 初めと終わりが繋がった、無限円環のような日々。それが錯覚だと教えてくれるのは、バッグに結び付けられた、手のひらサイズのぬいぐるみくらいのものだ。
 昨日、押し付けられたそれを見た後、凛の視線は、何とはなしに東間の方へと向く。
 東間は、男子のグループに混ざって談笑をしていた。時々聞こえてくる言葉の切れ端は、他愛ない雑談の類だった。
 学校では、東間から凛に話しかけてくるようなことはしない。未だ彼が何を考えているのか分からないが、二人きりの時以外は、東間は 普通の学生を装っているようだった。
(まあ、色々騒ぎ立てられるよりはましだろうけど)
 そうひとりごちる。
「凛〜!おっはよぅ!」
 教室を観察していた凛に、聞きなれた声がかけられる。
「……曜子。もう具合はいいの?」
「まあ、単なる腰痛だからねぇ。それよりそれより、昨日は東間君とどこまで行ったの、A?B?C?」
「強いて言うなら、心中一歩手前」
「うわぉ、二人の関係はもうそこまで!なんか、心中とかって聞くと、昔の文豪を思い出すよねぇ。入水あり服毒あり、まさに究極の愛の形!……く〜、しびれるなぁ」
「……ま、いいけど」
 もはや、コメントする気すら起きない。このコには、もう何を言っても同じだ。
「ところで、どうして昨日東間と一緒にいたことを知っているの?」
「ああ、上利先生が教えてくれたよ」
「……」
(――奴は、殺す……)
 一見無表情な中に、静かな殺意を燃やす凛だった。
「それにしても――」
 凛はもう一度クラスを眺めて、少し思案する。
「ん、どうしたの?」
「……なんか、今日も学校来ている人、少ないわね」
 いちいちクラスの人数なんて覚えていないから、正確にどうとは言えない。ただ、半分以上虫食いが出来た教室は、嫌がおうにも閑散とした雰囲気を醸し出す。
「そんなもんなんじゃないの?」
 曜子は事も無げに言う。
 そんなものだろうか。前はもう少し席が埋まっていたような気がする。
 今は――半分を切っているだろうか。いくら、奇矯な人物が多いこの学校でも、これは流石に多すぎる。この人数で、まともな授業が出来るものだろうか。
 しかし――回りは誰も気にしていない。となると、やっぱりこんなものなんだろう。
 普段の自分の無関心さが露見したようで、凛は心の中で苦笑していた。
「あ、凛。今、笑ったでしょう?」
「え?」
 凛は驚いたように、曜子を見る。
「だから、いま少し笑ってたよ」
「そう、だった?」
「うん、珍しいなぁ。凛が笑うのなんて、初めて見るんじゃないかな」
「まさか。それは言いすぎ――でもないか」
 凛自身にも、笑っている自分など想像できなかった。最後に笑ったのはいつだったろう。それはひどく昔の出来事のように思える。
「――」
「凛、どうかした?」
「……いえ。なんでもないわ」
 結局、自分がどれだけ笑うことを忘れていたのか、凛には思い出すことが出来なかった。ただ、考えられるのは、その変化をもたらした人間のことについてだけ。
「………」
 凛はさっきまでと少し違う目で、東間の方を見る。
 不思議だった。
 この男の行動全てが予測不能だった。まるで、こちらの行動や意図がすべて筒抜けになっているかのような錯覚を受ける。
 そして、何よりも不思議なのは、自分がいつの間にか、東間のことを気にしていると言うことだ。凛が自覚するに、およそ自分は他人に興味を抱くタイプではない。それは、極々狭い交友関係からも明白である。
 自分は他人と関わりたくないし、他人も自分と関わろうとしない。
 笑うこともなく、怒ることもなく、ただ変化のない毎日を送ればいい。そういう生き方が、一番楽だったはずだ。
 なのに、東間は自分の領域にズカズカと踏み込んでくる。人の感情に、揺さぶりをかけてくる。そして、その結果――
 ……私は、笑えるようになった?
 先ほどの曜子との会話を思い出し、凛は眉をひそめる。そういう結論に達するのは、癪だった。
 東間に感謝する必要など、どこにもない。相手は、こちらの秘密を握った『敵』なのだ。天使と言うよりは、堕天使とかペ天使とか言う言葉の方がしっくり来る。
 油断など、出来るはずもない。
「凛――顔が怖いわよ」
 曜子の声で、思考が遮られる。
「……ちょっと考え事。愚にもつかないことをね」
 眉間によった皺をほぐして、凛はそう言う。あの男に思いを巡らすなど、本当に愚にもつかない行為だ。
「それより、曜子」
 曜子の様子をまじまじと見ながら、仕切りなおすようにそう言った凛の声のトーンは、先ほどよりも少しだけ落ちていた。
「ん?」
「少し、顔色が悪くない?」
「そう――かな?」
「さっきはそうでもなかったんだけど。私と話してる間に、調子が悪くなったみたいね」
「そんなことないよ」
 曜子はそう言って、凛に微笑みかける。
 しかし、曜子の顔色が少し青ざめていることとか、会話のテンションが徐々に落ちてきていることを、凛ははっきりと感じ取っていた。
「保健室に行って来た方が良いわよ」
「でも――」
 明朗快活を絵に描いたような曜子が、これほどに言いよどむことは珍しい。その理由について、凛には思い当たる節があった。
「私の噂のこと、気にしてる?」
「う〜ん、ちょっとだけ」
「なら、早く保健室に行って、私を安心させて。その方が嬉しいから」
「……えへへ、なんか不思議だね」
 はにかむように笑う曜子に、凛は怪訝な表情を浮かべた。
「不思議って、何が?」
「ほら、なんていうかな。凛に気を使ってもらうなんて、思いもしなかった」
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味。――私はあんな噂信じてないから、凛も気にしないでね」
「私のことより、自分の体を心配しなさい」
 凛はそう言って、渋る曜子を教室の外に押し出す。そういう強引な手段を取れたことに、自分でもちょっと驚きだった。曜子の気遣いが純粋に嬉しいと思えることに対しても、我ながら意外という他ない。
「やれやれ――」
 曜子を保健室へと送り出して、凛は一つため息をつく。そして、席に着いた途端、
「さっきの言葉って、どう言う意味?」
 隣の席から声をかかる。東間だった。
せっかく人がいい気分に浸っていたというのに、ここぞとばかりに水を注された気分だった。
「言っていることが分からないわね」
「だからさ、さっき曜子ちゃんと話していたこと。あんな噂って、どんな噂なの?」
 凛の気持ちを忖度する様子もなく、東間はさらに聞いてくる。
「………」
 嫌な時に、嫌な男に話しかけられたものだと思う。こっちの「話しかけるな」っていう視線を、完全にスルーしてくる。
 凛は仕方ないという風にため息をついて、周囲を見回す。先ほどまで東間と話していた男子たちは、いつの間にかいなくなって、凛と東間の半径3m以内には誰もいなかった。凛はそのことを確認すると、
「……私、魔性の女らしいわよ」
 いくらか声をひそめて呟いた。
「それはどういう意味かな?」
「………」
「男をとっかえひっかえ手篭めにしてるの?……そんなに器用には見えないけどね」
「そういう意味じゃなくて。私の側にいる人間は――不幸になるらしいわ」
「ああ、何かそんな感じのことを上利先生が言っていたっけ」
 東間は、昨夜の上利の言葉を思い出す。黒魔術の餌食がどうとか言う話だ。それは、荒唐無稽で稚拙な噂の類だった。しかし、凛が周囲を気にして話すところを見ると、どうやらそれは全く信憑性のない話ではないらしい。
「けど、不幸って言ったって、ピンからキリまであると思うけど」
「……私の近くにいる人間は、体調を悪くしたりして、最後には神隠しに逢うらしいわね」
「それで、本当に寄ってきた男を片っ端から、実験材料とかにしてるの?」
「……否定できる材料がないわね」
 冗談めかした東間の言葉に、凛は自嘲めいた声色と陰鬱な表情の双方で答える。
「なるほどね……」
 凛のその表情で、東間は何となく事態を把握した。
 おそらく、噂の元になるような出来事――凛の周辺の人間が蒸発するという事件が、実際に起こったのだろう。だから、凛は東間の言葉を笑い飛ばすことも、皮肉を返すことも出来なかったのだ。
「……けど、私はやってない」
 僅かな沈黙の後、凛はため息をついてそう言った。
「うん。分かってる」
 先ほどの曜子とのやり取りを見れば、凛に悪意がないことは自ずから分かる。
 噂は所詮噂であり、真実とは無関係なのだ。そして、噂とは話のタネなのだから、真贋など問いはしない。ただ面白ければ良いのである。例え、それがどれだけ人を傷つけるようなものであっても。
「ということで、ここは一つ証明作業が必要だね」
「証明って?」
「だから、君と仲良くして、それでも僕が消えなければ噂は嘘ってことになるでしょ?そういうわけだから、今日も学校が終わったら付き合ってもらうね」
「……なんか、私の話が上手くダシに使われた気がするんだけど」
「世の中には、気付かないほうが良いこともあるねぇ」
 東間の言葉に、凛は本日何度目かのため息をついて、
「……どうせ、断われないんでしょう?」
「まあね。なにせ、こっちには切り札がありますから」
 東間はそう言って、凛に笑みを傾ける。それは、相手の感情が全く読めない、全てを塗りつぶしたような笑みである。本当に、この男は何を考えているのか分からない。
 ――でも、凛は自覚している。
 自分はもう、東間の笑みに嫌悪感を抱いていなかった。







 その日の授業。
「今日は、質量保存の法則についてやるぞ〜」
 上利はそう言って、黒板にカツカツと文字を書く。
 何で、保健医である彼が教鞭を振るっているのか、と言う疑問が凛の頭に湧き上がるが、それもすぐに頭の中で霧散してしまった。学校の内部事情など凛の知ったことではないし、上利の個人的な事情に興味も無い。真面目ぶった上利の口調が、面白くはあるけれど。
 一応、保健室に行ったはずの曜子がどうなっているのか気になるが、上利が患者を放っておくとも思えないので、まあ大丈夫なのだろう。
 そう言えば、今日のSHRにはヘル岩が顔を出さなかったことを思い出す。やはり、何かの事情で教師が足りていないのかもしれなかった。
「化合や還元を行った際、化学変化の前と後の質量は全く同じになる。酸素と鉄の質量とそれを燃焼させた酸化鉄の質量が同じ、といった具合だな」
 そう言って、テキパキとチョークで化学式を書き込んでいく。
「無から何かが生まれるということはない。この法則を突き詰めると――この世界は、常に一定の質量で構成されていると言える。何かが生まれれば、何かが消えると言うことだし、何かが消えれば何かが生まれると言うことだな」
 余談にしてはやけに真面目な口調で、上利はそう言った。らしくない少し硬い口調と話の内容が、妙に齟齬を感じさせる。
それに――気のせいだろうか。上利の視線が、凛の方に向けられていたような気がする。それは、思わず目が合ったと言うようなものではなく、上利が意図的に凛を見たのだ。
「………」
 ……何かが生まれれば、何かが消える。
 上利の視線の意味は分からないが、その言葉だけが凛の耳に残った。
「それでは、今からスチールウールで実験をするからな。これを燃やすと、鉄と化合した酸素の質量が分かる。後でお前らにもやってもらうから、よく見ておけよ。――ちなみに、頭に載せてアフロヘアーとかやった奴は、島流しな」
 ……チョビ髭はセーフだろうか?
 凛が下らないことを考えている間に、授業は進んでいく。
 まるで、テレビショッピングの実演販売員みたいな流れる動きと軽妙なトークで、上利はスチールウールを使った実験をやってみせた。
 それは、普段の授業風景となんら変わることはなく、先ほど感じた違和感も既に消えている。
 しかし、なぜだろうか。
 凛の頭の中には、一瞬だけ垣間見せた上利の視線がいつまでも残っていた。


              ――――


 そして、終了のチャイムが鳴り、上利は荷物をまとめて出て行こうとする。
「……先生」
 凛は、その後姿を呼び止める。何か話があったわけではない。ただ、先ほどの妙な違和感が気になって、声をかけてみようと思っただけだ。
「ん〜、どうした?」
 上利は振り返って、軽薄そうなにやけ顔を凛に向ける。日頃見慣れた上利の表情に、凛は妙な安堵感を覚えた。
「もしかして、質問か。うれしいねぇ、きょーしみょーりに尽きると言うか」
「……慣れない言葉を使うものではないですね」
「全くだ」
 上利はそう言って苦笑する。
「それで、何を聞きたいのかな。まさか授業のことじゃないだろう?」
 少し声のトーンを落として上利はそう言う。
「あ――。いえ、曜子の様子を聞こうと思って」
 まさか、授業中の違和感のことをそのまま尋ねるわけにもいかず、咄嗟の口実が口を突いた。まあ、曜子のことが気になっていたのも嘘ではないが。
「…………………」
 返ってきたのは、予想に反した長い沈黙。
 その表情は険しく、先ほどの授業の上利を髣髴とさせる。
「……うまくないな」
 喉の奥から絞り出されたのは、その一言だった。
「正直な話、症状は悪化している。」
「そんな。ただ腰を打っただけでしょう?」
「だから困るんだよな。彼女の症状は、腰痛って訳じゃないし」
 確かに、先ほどの時間の曜子は、気分が悪そうだった。頭を打って気持ち悪くなるってことはあるかもしれないが、腰なら患部の打撲痛以外の症状がでることは殆どない。よしんば出たとして、手足の痺れか。しかし、今朝の曜子はそんなそぶりを見せなかった。
「……お見舞いに行っても良いんですよね」
「済まないが、面会謝絶だ」
「――! そんなに酷いんですか!?」
「いや。別に、心配する必要はないよ。何日か安静にしていれば、具合は良くなるさ」
「だったら、どうして私が曜子と会ってはいけないんですか」
「……身に覚えはないかな?」
「………」
 自分の頭の中を探ること数秒。
「――ああ、そう言うことですか」
 凛には身に覚えがあった。自分が魔性の女だと言うこと。それを裏付けるように、曜子が急に具合が悪くなったということ。
「私がいては、治るものも治らなくなると?」
「………」
 凛の言葉に、上利は黙して語らない。だが、それは肯定以外の何ものでもない。
 授業中に感じた違和感。あの視線は、そう言うことなのか。
 患者の症状を悪化させた『敵』を見ていたということなのか。まるで、異端か怪物でも見るかのように。
 私は違う!!――そう訴えたい。
 けれど、その声は喉の奥に突っかかる。
 ここで喚いたとしても、噂が立ち消えるわけでもないし、曜子の容態が良くなるわけではない。そして、噂は一面的には事実なのだ。
「……分かりました。それで曜子が治るなら、文句はありません」
 結局、凛の口から出たのは、感情が完全に死んだ声だった。否、無理矢理にでも殺さなければやりきれなかった。
 そして、上利が去って、凛自身も休み時間の空気に埋没していく。
 しかし、気分は日常に戻れない。
 ひどく――ひどく胸が痛む。
 おかしい。
 他人からどう思われようとも構わない。そう思ってきたはずなのに、どうしてこうも切ない気持ちになるのだろうか。
 いや――そもそも、自分はこんなに色んなことを考える人間だっただろうか。
 自身に問うてみても答えは出てこなくて、ただ心が鉛のように重く灰色になっていくだけだった。





「……それで、今日は一体どこに連れて行ってくださるのかしら?」
 凛は、口調だけは丁寧にそう尋ねる。彼女の持てる全ての皮肉を、この慇懃な言葉に練りこんでいた。
「そうだねぇ――どうしようか?」
 答える東間の口調は、のほほんとしたものだ。皮肉に気付いてすらいないような表情に、凛もすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「あ――そうだ」
 東間は不意に思い出したように声を上げた。
「?」
「昨日、ゲームセンターに結局入らなかったじゃない?……だから、ちょっと行ってみようよ」
「でも、私、入ったことないから……」
「だから行くんだってば」
 東間はそう言って、見た目よりもずっと強い力で凛の腕を引っ張った。それは強引と言うよりも、逸る気持ちを抑えきれないといったような無邪気な動作だった。
 この男には、本当に目的などないのかもしれない。ただ、本当に自分と一緒に居たいだけなのだろう、そう思わせるような純粋さがあった。
「しょうがないわね――」
 凛は手を引かれるまま、昨日と同じ道を通る。
 本音を言えば、今日の東間の申し出はありがたかったのかもしれない。
 学校での上利との会話。曜子の容態。やりきれない思いが、今もずっと尾を引いている。きっかけは何でも良いから、自分の感情をなんとか誤魔化したかったのだ。
 漠然と今日のことを思い返しているうちにも、東間は凛の手をとってズンズン先に進んでいく。
(手――)
 凛は自分の手元に目をやる。
 いつも見慣れた自分の手と、それを握る骨太な男性の手。通行人に自分達の姿がどう映るかを想像して、凛はなんだか名状しがたい気持ちになった。
 そして、昨日上利と会ったゲームセンターに到着する。
「――?」
 昨日と何も変わらない風景――のはずだったが、店先がどうも寂しい。凛はすぐに、その違和感の原因に気付いた。
「……昨日のUFOキャッチャーがないわね」
 店頭に鎮座していたUFOキャッチャーの筐体が跡形もなく消え去っていた。
「撤去されたのかな?それとも、修理に出されたとか」
「たった一日で?」
「そういうこともあるんじゃないの?」
 東間の言葉にも、凛は釈然としない。
 店側が壊れたその日に業者に連絡して、業者はすぐさま引き取って行った――?
 それはちょっと考えにくいような気がした。
 普通だったら、まず店員が故障箇所を調べて、自力で直せるか点検する。そして、店の人間の手におえないと分かったとき、初めて業者に引き取ってもらうのだ。しかし、その一連の流れを一両日でできるのだろうか。
 いや。……そもそもUFOキャッチャーは、ゲームセンターの顔ではあるが、稼ぎ頭ではない。そんな急ぎで修理する理由などないはずだ。
「案外、神隠しに逢ったのかも」
 真面目くさった様子で、東間はそう言う。
「じゃあ、さらったのは、ぬいぐるみ好きの神様ね」
「……かもね」
 ――たちの悪い冗談だと、凛は思った。

               …………

 最近のゲームセンターというと、リズムゲームだとかプリクラだとか、アーケード筐体以外の設備が充実しているような印象がある。これは言うまでもなく、女性層や新たな客層を開拓するための企業戦略である。
 だが、東間は声を大にして言いたい!
 駄目だ!そんなゲームセンターは邪道だ!
 ゲームセンターはそうあるべきではない。かつて、インベーダーゲームが世間を席捲したときのように、ゲームセンターにおいて存在を許されるのは、レバーとボタンを使った筐体だけなのだ。
 使い古されて適度に柔らかくなったレバーと、ボロっちくもメンテの行き届いた設備。こういう場末の雰囲気こそが、東間の最も好むところである。
 そう言う意味では、清涼飲料の自動販売機だって許せない。
 そう。――愛。足りないのは、愛だ。
 ゲームセンターに対する愛がない奴は、大人しく自室で家庭用ゲーム機の十字キーを操っていれば良いのだ!!
「分かるかね、常夜君!?」
「――なにが?」
 手にぐっと力を込める東間を見て、凛はその温度差に鼻白む。
 その様子を見て、東間も自分の突き抜けっぷりに気付いたらしい。表情をいつもの状態に戻して、
「まあ、この手のゲームセンターといえば、やっぱりシューティングと格闘ゲームが花形だよね。――どっちがやりたい?」
「どっちもやりたくないわね」
「良いのかなぁ、そんなこと言っちゃって。僕には切り札が――」
「格闘ゲーム」
 凛は即答した。
 なんか、最近切り札の安売りがされているような気がしてならないが、かといって、言うことを聞かないわけにも行かない。
「よし、格ゲーね。操作とか、そういうのは?」
「だから、こういうところに入るのは、初めてなのよ」
「じゃあ、色々教えるね」
「結構よ。他の人のやっているのを見れば、大体分かるでしょう」
 凛はそう言って、店の中央に置かれている対戦台へと向かう。それは、色々な作品のキャラが無節操に詰め込まれた格闘ゲームで、毎年違うバージョンが出されている大作だった。
 凛は、コントロールパネルにつけられたレバーとボタンを見て、
「――?」
 原始人が精密機器を見たときのような顔をする。
「どうしたの?」
「……格闘ゲームって言うから、パンチングマシーンかと思った」
「じゃあ、シューティングは?」
「射的」
「………」
 凛の『ゲーム』は、電気を使わないでもどうにか出来るところで止まっているらしかった。
「不思議ね。レバーとボタンだけで娯楽になるなんて」
「娯楽ってのは、単純だからこそ娯楽になるんだと思うけど。まあ、やってみれば分かるよ。なんなら、後で僕と対戦しようか」
「――それは是非、勝ちたいわね」
 東間の言葉を受けて、凛は筐体の前に近づく。
 しかし、いきなりスタートはせずに、説明をよく読んでから、他人のプレイをじっと食い入るように見る。今日は東間に一矢報いてやろうという気持ちが強いのか、画面を見る目は真剣そのもので、普段は垣間見ることの出来ない、鋭く怜悧な眼光が輝いていた。
 30分近くそうしていたのだが、迫力すら漂う凛の様子に、東間は意外そうな表情で見つめるだけだった。
 そして、凛はふと緊張を解いて、
「要するに――これは、攻撃の判定を持つグラフィックを、相手の体に当てるゲームなのね。それに、防御や無敵などの要素が絡んでくると」
 そう結論付ける。
「まあ、極論を言えばそうだけど」
「それじゃあ、やりましょうか」
 凛はそう言うと、スタートボタンを押す。これは人気の機種なので、当然差し向かいには既にプレイヤーがいる。いわゆる、乱入って奴だ。
 流石に、東間もズブの素人である凛が勝てるなどと思っていない。
 だが、凛の表情は真剣そのものだった。東間の百戦錬磨っぷりを肌で感じ取ったのか、これをその前哨戦と考えているらしい。
 そして、対戦は始まり――
 1ROUND。当然の如く、ほぼパーフェクト負け。まともにキャラを動かせただけ、マシと言うものだろう。
 だが、凛の瞳に落胆の色はない。それどころか、彼女の顔を注意してみていれば分かっただろう。僅かに浮かんだ勝利を確信した笑みを。
 そして、運命の2ROUND。凛は勝利した。
 そこには、何のトリックもなかった。
彼女はただ、相手の技の出がけに小技を当て、大きな隙には大技を当てるだけだった。傍目には、地味に通常技を当て続けて勝っただけだ。
 3ROUNDも結果は同じ。凛は体力ゲージを殆ど残して勝っていた。
「これは見事だね」
 ふーっと大きな息を吐いて緊張をほぐした凛に、東間は賞賛の声をかける。
「別に、大したことじゃないわ」
 そう言いつつ、凛は柄にもなく得意げな表情だった。生来、勝負事が好きなのかも知れない。
「いや、すごいよ。どうやって勝ったのか、教えて欲しいものだね」
「――要するに、これってじゃんけんよね。相手の出す手を読んで、自分が勝つ手を出すだけ。後は技を出すタイミングくらいで、相手の癖が読める分もっと単純。さっきの相手は、足払いをした後、すぐに飛び道具を撃ってくるし、小技を連打すると無敵になる技で返してくるし。誘導に引っ掛かってくれるから、簡単だったわ」
 つまり、初戦に負けたのは、相手の癖を見るための捨て試合だったということだ。
 凛の言うことは、多少ゲーム慣れしている人間なら容易に気付くことだが、それを実践できる人間はなかなかいない。初見でそれを理解するセンスと分析力は、驚嘆に値する。
「これは、格闘ゲームじゃなくて、心理ゲームと呼ぶべきね。そういう駆け引きだったら、得意よ」
「……凛らしいね」
 東間は、どこか懐かしむような声色で言った。
「そう?」
 凛は名前を呼び捨てにされたのにも気付かず、小首を傾げる。
 結局、その後挑戦者は現れず、凛はコンピューター戦になるとあっさり負けた。
「人間相手なら、勝てるのに……」
 負けたことがよほど悔しいのか、ゲームオーバー画面を見てそう呟いた。
「じゃあ、次は僕と対戦しようか」
 真打登場といわんばかりの風格で、東間が声をかける。
「そうね。ここは一泡吹かせたいわね」
 凛もそれに動じることなく受け答える。分が悪いのは百も承知だが、同時に東間の上位に一瞬立てる千載一遇のチャンスなのだ。
 凛と東間は筐体をはさんで対峙する。それは、巌流島にて対峙する武蔵と小次郎というべきか、それとも竜虎相搏つというべきか。
 その均衡を破ったのは、凛の一言だった。
「……ところで――」
「ん?」
「これ、どうやったら良いの?」
 ――彼女は波動拳が出せなかった。





 フェンスに背を預け、じっとそこにうずくまる。
 ――今日は、無理だと思った。
 今日はとてもじゃないが、ここから飛び降りるような気分になれない。それどころか、フェンスをまたぐことも出来ずに、ただ所在無く佇んでいる。
「……っ」
 不意に、凛は体を縮こませた。
 興奮が、体の奥に熾火のようにくすぶっている。
 東間との勝負は、凛の惨敗だった。東間と凛のゲームセンスが同等だとすると、後は場数の差がものを言う。その点で言えば、凛は生まれたての赤子も同然だったし、何より、ジャンプと必殺技が使えないと言う、致命的な技術格差があったのだ。
 確かに悔しかった。勝ちたかった。
にもかかわらず、それ以外の感情も浮かんでいた。これは――
「――」
 これが、『楽しい』という感情だと言語化するのに、少し時間を要した。
 うん。そうだ。これが楽しいと言う感情だ。
 どうして、今の今まで忘れていたのだろう。勝敗なんか関係ない。ただ、楽しかったのだ。
 そう自覚できると、なんだか嬉しくなった。自分と言うピースが、一つ一つ埋められていくような充足感がある。
 同時に、どうして死ななくてはいけないのだろうと言う疑問も頭をもたげた。
 自分は死ななくてはいけないのだ。何故だか分からないが、それは分かっている。そのことを思い出すと、自分のしていることが後ろめたいような気がした。
 ――何故、私は自殺するのだろう。
「………」
 ……ダメだった。肝心のところがどうも思い出せない。
 というより、こんなことで悩むこと自体がダメなのではないだろうか。自分が、弱い人間になったような気がする。
「………帰ろう」
 一人で色々考えても無駄だ。屋上にはもう誰も来そうにないし、目的も果たせないのでは、これ以上ここにいることに意味はなかった。
 凛が立ち上がって、出口へ行こうとしたその時、

               ギィィィィ………

 重い金属扉が軋む音と共に、出口が勝手に開いた。
 いや、そうではない。誰かが屋上に入ってきたのだ。
 初めは東間なのかと思ったが、扉の向こうから姿を現したのは、意外な人物だった。
「よお」
 投げやりと言うかおざなりと言うか、そんな感じで男は片手を挙げる。こんないい加減そうな声を出す人間は、凛の知り合いには一人しかいない。
「――上利、先生」
 凛は呆然とその姿を捉えていた。
「そんなに見つめちゃイヤン」
 何かお寒いことを言っているが、そんなものは凛の耳には入らない。この場に来るはずのない人物の来訪に、自然と身体が硬くなるのが分かった。
「何故、ここに――?」
「そんな不思議そうな声を出すなよ。たまたま見かけただけだ。教え子が私有地に入っていくのを見たら、そりゃあ何するのか気になるでしょうよ」
 その答えに、凛は安堵する。少なくとも、東間が密告したなんてことはないらしい。それなら、いくらでもごまかしが利く。
「それで、こっちから質問なんだが、君は一体ここで何をしていたのかな?」
「すこし、風に当りたいと思っただけです」
「こんなところでか?」
「高いところが好きなんですよ。人様のビルに入ってはいけないことは分かってるんですが」
 これは予想できた質問だから、あらかじめ用意していた答えを返す。
「ふーん。じゃあ、質問を変えるわ」
 そう言うと、上利の表情が変わった。それは、今日の授業の時に見せた、凛を敵視するような表情。上利らしくない、張り詰めた顔だった。
「お前は、気付いていないのか。それとも、気付いていないふりをしているのか?」
「………」
 ……質問の意図が見えない。気付いているとかいないとか、一体何を指しているのだろう。
 だが、上利の質問が冗談の類でないことも分かる。彼は、なにかとても重要なことを聞いているのだ。ただ、凛には目的語の欠落したその質問に答えることは出来なかった。
 そして、何に気付いていないのか、問い返すことも出来なかった。
 その凛の沈黙を受けて、
「……そうか。気付いていないなら、仕方ないな」
 上利は一人で納得していた。そして、一つため息をついて、
「お前、変わったな」
「……私がですか?」
「笑うようになった」
 上利も、曜子と同じようなことを言う。もしかしたら、東間と遊びに行った時の感情の残滓が、顔に出ているのかもしれなかった。
 しかし、上利と曜子では、凛に対する感情は全く違う。
 上利の声色は、凛の身体を押しつぶしてしまいかねないほど重苦しかった。生徒が明るくなったことは、教師としては喜ぶべきことであるはずなのに、凛を見る上利の目は、なにか畜殺の決まった動物でもみるような嫌悪と哀れみの光を湛えていた。
「俺は、あの男を憎むよ」
 上利はポツリとそう呟いた。
「憎むって、誰をですか」
「――烏兎東間」
 上利は一言だけ言った。そして、凛がその言葉を問いただそうとするより早く、
「じゃあ、俺はもう行くよ。――頼むから、曜子には近づかないでくれ」
 そう言い残して、上利は凛に背を向ける。勝手なことを言うなと反論したかったが、上利の声はあまりにも切実だった。上利は上利で、曜子のことを考えているのだと思うと、感情は行き場のないところを漂ってしまう。
 いずれにせよ、もはや上利を今までのような目で見れないのは確かであった。
 今日の授業中の上利の態度。それより何より――
「………」
 徐々に凛から遠ざかっていく上利の後ろ姿。凛は彼の手に握られていたものを注視する。
 それは、一本のナイフだった。 
 折りたたみ式で、上手く掌に収まるように持っていたが、中途半端に握られた指の隙間からは、銀色に光る柄の部分が見え隠れしている。
 そして、それを使って上利は何をしようとしていたか。――その想像は、凛を戦慄させるに十分であった。
 そして、あの敵意に満ちた上利の顔を思い出すと、自分が彼に殺されると言う場面も、容易に想像できるのだった。





                 





 今日はくすんだ蒼天だった。シアンの絵の具を塗りたくって何年も放置したような空色は、何か、憧憬のようなものを感じさせるものだった。
 僕は、抜けるような晴天が好きではない。果てまで見通せるようなクリアな空は、どこか作り物めいた感覚を伴うからだ。世の中は、綺麗なものとか汚いものとか、曖昧なものがたくさんより合わさって出来ているのだ。綺麗なだけの空は、誠実ではないと感じる。
「何をやっているの?」
 と、僕は灰色の摩天楼を眺める彼女に問いかけた。
「休憩中。またの名を、サボタージュ」
 そう言いながら、彼女はこちらに顔を向けようとしない。何かに気を取られているでもないのに、こちらを振り向こうとしないのは、自信家の彼女としては珍しいことだった。
「嘘つき」
「心外だな」
 彼女はふっ、と自嘲するように笑って、空を仰いだ。今日は風が強くて、着ていた白衣が風にたなびいている。同時に、彼女の長い黒髪も揺れていた。
「今日は、空が近いな」
 彼女はそう言って、少し目を細める。
 僕たちが居るのは、高層ビルの屋上だった。それは、林立するビル群の中でも一際高く、確かにこの街で最も空に近い場所なのかもしれない。
「ほら、あの雲なんか、手を伸ばせば掴めそうじゃないか?」
 彼女はそう言って、腕を真上に差し向ける。それは、何か見えないものを掴もうとしているようにも見えた。けれど、その手は虚空を握るばかりで、何も手に入れていない。指の隙間からこぼれる陽光が、どこか物悲しかった。
「そうだね、今日は空が近いかもしれない」
 蒼穹を見上げたまま動かない彼女に向かって、僕はそう言った。
「それで、明日の空はもっと近いのかな」
「?」
「明後日は、明々後日は、もっともっと近くなるのかな?」
「……君の言っていることは不明瞭だな」
 少し間の空いた彼女の言葉。それは、これから僕が続ける言葉に対する予感のようなものを、彼女自身が感じ取っていたせいなのかもしれない。
「空は、どんどん近くなって、それで――最後には、君は空に行ってしまうのかもしれないね」
「だから――!」
「死ぬんだって?」
「!!」
 彼女はそのとき、初めて僕の方を向いた。簡単な言葉遊びから一気に現実に引き戻されて、彼女はどんな表情をしていいのか判らずに、ただ混乱に押し固められたまま僕の方を見ていた。
「……死ぬって、誰が?」
 平静を装うとしながら、彼女はそう言う。それでも、言葉は揺れる。平素には程遠い。傲岸なまでに恣意的な彼女は、装うことに慣れていないのだ。
「君が。病気で死ぬって聞いた」
「………」
「本当――なんだ」
 彼女の表情を見て、それは確信に至る。
そうか。彼女は死ぬのか。それは言葉としては浮かんでくるけれど、全然実感のない響きだった。
「黙っていてすまなかった。――医者に聞いたのか」
 観念したのか、彼女は申し訳なさそうに俯いたまま言う。
「最近、君が根を詰めすぎだから、そのことを相談しに行ったんだよ。そのとき、聞かされた。……僕は、君の保護者だから」
「何を言う。私がお前の保護者だろう」
「どっちでもいいけど。……あ、そうだ。守秘義務違反だからって、お医者さんを責めちゃいけないよ」
「――わかっている。私とお前は家族のようなものだからな。私の病状を教えたくなる心情も、理解できないではない」
「うん。そうだね……」
 家族、と言う言葉にちょっと鼻白んでしまったかもしれない。過剰に反応しすぎだ。
「でもまあ、一応僕のことを心配してくれてたわけだよね」
「……何のことだ?」
「いや、だから、この前言ってたじゃない。君や君の所有物に触るなっていうのは、感染の危険を考えていたからでしょ。いや〜、良かったよ。もしかしたら、嫌われてるのかなぁとか思ってたからさ」
「――それは、断じて違う!」
 突然、彼女はすごい剣幕で僕に言う。思わず、ちょっと後ろに引いてしまった。
「な、何をそんなに怒ってるのさ」
「あ、いや、だから――違うんだ」
「違うって何が?」
「その、色々とだ」
「わけわかんないよ」
「だから……だからだなぁ――。ああ、くそ、数秒待て」
 何か言い出しにくいことを言おうとしているらしく、ゆっくりと目をつぶる。
 そして、次に目を開いた時には、彼女は真っ直ぐに僕の方を見ていた。そして、その目には、何かの決意が込められていた。
「うん、よし、決心した。……今言わないと、言う機会がなくなりそうだから、言っておく」
「うん」
「……私は科学者だな」
「うん。そうだね」
「科学者とは理性の人だ。時として閃きが必要であるにせよ、その閃きを現実のものとするには、論理的思考は欠かせない。そして、技術の用途を考えられる理性がなければ、ただのマッドサイエンティストになってしまう。かように、科学者にとって理性とは大切なものなのだ」
「それ、今更僕に言うようなことじゃないでしょ?」
「だからだな、私が言いたいのは――たかだか君に触られたぐらいで、理性を撹乱させられるなど、あってはならないということなのだ!!」
「……えっと、ゴメン。言っている意味が良く分からない」
「だから!!――君に触られると、まともにものを考えられなくなるのだ。心拍数や脈拍が上がり、血流量も血圧も上がって、真っ白になってしまうのだ!!」
「いや、だから」
「分からん男だな!つまり、私は、君に、好意を持っていると言っている!!」
「は?」
 誰が、誰に?
 ――……彼女が、僕に、好意を持っている?
「ま、回りくどいよ。もっとすっきり言ってくれないと!」
「私も自分の気持ちを整理するので精一杯なんだ!」
「そ、そうなんだ……」
 彼女の言葉に、僕はどう反応していいか分からなかった。
 いや、もちろん僕も好きだったと言いたい。けれど、それは一体、どう伝えればいいのだろう。
「……ああ、くそっ!こんなこと言うんじゃなかった。前後不覚に顔が赤くなっている自分が、馬鹿みたいじゃないか!!」
 その言葉のとおり、彼女の顔は真っ赤になっていて、涙目になって訴える姿が妙にかわいらしい。
「流せ!忘れろ!脳内メモリから消去してしまえ!!」
「っていうか、その前に、僕の返事とか聞かなくていいの?」
「いらん!……というか、聞きたくない!結果なぞ、考えたくない!!」
 彼女はそう言って、足早に屋上から立ち去ろうとする。
 彼女の逃げたい気持ちは分かる。
 僕たちは、生まれてからずっと同僚で友人で家族のようなものだった。それはとても心地よく、安心できる関係だった。つまり、彼女はその関係が壊れてしまうのが怖いんだ。そして、それは僕も同じことで、だからこそ自分から告白なんて出来なかった。
 でも――
「それじゃあ、困るんだよ」
 僕は、通り過ぎようとする彼女の腕をつかんだ。
 彼女が、今この場でしか自分の想いを口に出来なかったように、僕もまた今この場でしか素直な気持ちを言うことは出来ない。僕たちの関係はそれほどまでに近しく、同時に交わりがたいものだった。
「それじゃあ、困る」
 僕はもう一度言う。
「ちゃんと、僕の言葉も聞いてくれないと」
「………」
 その言葉を聞いて、彼女はようやく立ち止まる。そして、振り向こうとする彼女の手を引いて、体を引き寄せる。言葉はどれだけあっても、感情のひとつも表現できない。けれどこうしていれば、僕の気持ちの何割かは伝わるような気がしていた。
 すぐそこに、驚く彼女の顔がある。
「………」
「………」
 そして、二人の体が離れて、僕は改めて彼女の顔を見る。
 彼女は――微笑んでいた。今まで僕が見たことのないような、優しい笑みだった。
「……ちゃんと、伝わった?」
「……言葉ではないではないか」
「そうだけど」
「しかし、君にしては、大胆だった――褒めてやらんでもない」
「さっきまで、顔を真っ赤にしてたくせに良く言うよ」
そう言った僕の肩を、彼女は笑顔でポンと叩いて、
「……あとで、私の研究室に行こう。後遺症の残らないように、綺麗に記憶を消してやるからな」
「え、遠慮しときます」
 彼女の目は、どこまでも本気だった。告白しようがしまいが、彼女はやはり彼女である。
「……でも、良かったのか?」
「なにが?」
「私は――私の身体は、もう永くないのに」
「うん、いいんだ。君が死ぬまでに、僕の一生分の愛を君に使うつもりだから」
「恥ずかしい男だな。……それで、その後は?」
「その後は――いい思い出にして、新しい人生を歩もうかな?」
「ふふ、馬鹿を言え。私ほどのいい女を忘れられるわけがなかろうが」
 そうして、青空の下、僕らはひそやかに笑いあう。本当に、この瞬間のためだったら、僕は僕の人生全てを使っても悔いはない。
 僕たちは、家族のようなものではなく、本当の意味で家族になった。








 日常は間断なく続く。昨日と今日の間に切れ目はなく、今日と明日にも境界はない。あるのだとすれば、便宜上の切れ目だ。それは、時刻であったり、寝てから起きるという生活サイクルであったりする。
 これに当てはめて考えると、凛にとって便宜上の一日の始まりとは、つまり学校のSHRの時間ということになろうか。
 いつも変わらぬ教室の風景。それを気だるく眺めることが、凛にとっての一日の始まりであった――はずだ。
 しかし、今、彼女の目の前に広がっているのは、『日常』ではなかった。
 異変は目に見えて現れていた――
「なに、これ――」
 凛は教室に入った途端に立ちつくす。
 おかしい。明らかに、クラスの人数が少ない。
 ざっと見回してみても、教室の中には十人程度しかいない。つまり、3分の1以下だ。43人学級の教室にこれだけの人数しかいないと、妙な齟齬を感じる。身の丈に合わない服を無理矢理着せられている感じだった。
 何よりおかしいのは、この事態を誰も気にしていないことだ。男子は男子の、女子は女子のグループを作り、他愛ない会話に花を咲かせている。グループの中の何人かがいなくても、誰も気にした様子はない。ぽっかりと空いた空白を、空白と認知していないのだ。
この異常を日常めいて見せていることに、なおのこと違和感を覚えた。ゴクリと息を呑む自分の喉の音だけが、凛の耳にリアルに響いた。
 もうすぐSHRが始まる。となれば、これ以上他の生徒が登校してくることはない。つまり、これがこの学級の全生徒なのだ。
 これは、どういうことか。知らない間にインフルエンザでも蔓延していた?それとも、集団ドッキリ?そんな理屈では説明できない気持ち悪さが、この教室の中にはあった。
「………」
 凛はもう一度、教室に視線を巡らす。彼女の視線は、自然と東間の姿を捜していた。しかし――いない。彼もまた、この奇妙な集団神隠しの犠牲になったのだろうか?
 ……あの東間が、有象無象と一緒に消えるとも思えないが、凛には親しくなった者に不幸が訪れると言う噂があったから、それが作用したのかもしれない。結局のところ何とも言えなかった。
「――凛、何突っ立ってるの?」
 不意にかけられた声に、凛はそちらを向いた。
「曜子……」
 凛は、安堵したように息を漏らした。
 いつもと変わらない曜子の表情は、わずかながら日常を感じさせてくれる。
 いや、しかし――安心するのはまだ早い。
「ねえ、曜子。今日、学校に来ている人、少なくない?」
 これは、昨日と同じ質問。
「そう?こんなもんなんじゃないの?」
 そして、昨日と同じ答え。
(やっぱり――)心の中で凛は呟く。
 この教室は、本当にいつもと変わらないのだ。クラスの人数が減ったことに対し、気付いた様子もない。唯一、自分が違和感を覚えていること以外には。
 ……思い返してみれば、クラスの人数の減少は今に始まったことではない。東間がやって来たあの日、クラスの人数は3分の2程度だった。次の日、その人数は確実に半分を切っていた。そして今日、クラスはこんな状態になっている。
 その事実に、凛は戦慄する。
 確かに、ここ何日かの間で、クラスの人間たちは段階的に消えていたのだ。そして、その事実は、ちゃんと全員が目の当たりにしていた。ただ、その事実に誰も気付いていなかったと言うだけの話で。いや、「気付いていなかった」などと、過去形で言えることではない。今も、自分を除く全ての人は、この異常事態に気付いていない。
 一体、何故――?
 凛には、昨日もクラスの人数の減少にチクリとした違和感があった。自分と他の人間との違いは一体なんであろうか。何故、自分だけが、この異変に気付いたのだろうか。
「………」
「どうしたの?早くしないと、HR始まっちゃうよ?」
「ええ……」
 いつもと変わらぬ曜子の態度が恨めしい。一人だけで悩んでいると、どうも自分が異常であるような気がしてくる。とにかく、ただ立っているだけでは、事態は改善しない。というより、現状を上手く把握できてない。とにかく、落ち着くことが必要だ。
 凛は席に着くと、一つ息をついて曜子に尋ねた。
「ところで、東間のことなんだけど……」
「……東間?」曜子は一つ小首を傾げる。
「ええ。例の転校生よ」
「転校生?転校生ねぇ……ん〜。――それ、誰のことかな……?」
 その言葉の中に、演技めいたものは一つもない。ただ、凛の問いが真剣なものであることは分かっているらしく、聞いたことのない単語の意味を模索するように、「東間、東間」と口の中でその言葉を転がしている。
「――ごめん。やっぱり、私の勘違いみたい」
 努めて平静に、凛は曜子に言った。やはり、消えた人間は完全に忘れ去られているようだ。まあ、クラスメイトの様子を見ていれば、当然予想できたことではある。それでも、自分の親しい人間にその事実が降りかかってくるとなると、やはり精神的にこたえるものがある。
「で、東間って誰?……凛のコレ?」
 そう言って、曜子は自分の小指を立てる。……どうでも良いが、その表現は現代の若者として、いかがなものか。
 と、ここで、凛はふともう一つの違和感に気がついた。
「そういえば、曜子」
「ん?」
「身体の具合は――」
「な、何のことかなぁ……」
 そう言って、曜子は明後日の方向を向きながら、壊滅的に調子っぱずれな口笛を吹く。どこまでもベタな反応である。
「あのね……」
「いや〜、もう元気全開バッチグーさっ!!」
 と、機先を制して曜子は言うものの、そんなものは嘘だと分かっていた。確かに、昨日よりは良くなっているのかもしれない。けれど、答えるまでの微妙な間とか、昨日に引き続くテンションの微妙な低下とか、そういうもので彼女の体の調子が窺い知れた。
 いくら異常事態だったとは言え、すぐに曜子の不調に気付けなかった自分の迂闊さが恨めしい。曜子は曜子で無理に普通を装うから、なおのこと気遣わなくてはいけなかった。――もしかしたら、曜子の不調は自分に原因があるのかもしれないのだから。
「無理しないで、保健室で休んだ方が良いんじゃない?」
「いやいや、そういうわけにも行かないよ。うん、本当に、大したことないんだから」
「でも……」
「いいからいいから。まずは、自分の心配をしようね」
 曜子の言いたいことはわかる。自分に関わった相手に不幸が降りかかる――この不名誉なジンクスは、凛にとって冗談で済ませられることではなかった。その辺のことを、曜子は気遣ってくれているのだ。
 しかし、曜子と言う存在は、この異常な空間の中で唯一残された安息だった。だからこそ、それを損なうような真似をしたくなかった。
「私のことは良いから、自分の体のことを心配してよ」
「うわ、凛にそんなこと言われるなんて、感激だね〜。様子見のつもりだったけど、何か気分いいから、このまま授業受けちゃおうかな〜」
「……そういうわけには行かんな」
 曜子の言葉に受け答える男性の声と共に、不意に曜子の首根っこが掴まれる。
「はわっ!上利先生」
「……捜したぞ。曜子脱獄囚」
 ほうぼうを探し回ったのだろうか。上利の息は、かすかに切れている。
「さあ、とっとと保健室に戻るぞ」
 上利は曜子の襟首をがっしりと掴んで、ズリズリと身体を引きずっていく。曜子も多少は抵抗するが、所詮は男と女。その膂力の差は歴然としている。
「いや〜っ、あそこの臭い飯はもう嫌なのよぅ〜」
「人聞きの悪いことを言うな。そんなことばっかり言ってると、穴掘りさせるぞ。掘り終わったら、すぐに埋めなおさせるタイプの奴だ」
「ボンカレーは、どう食ってもうまいのだ〜!」
「……なんか、二人とも刑務所のイメージを間違ってない?」
 というか、ネタが局地的過ぎる気もした。
「ううう、三年間鉄格子に味噌汁を掛け続け、アルミの食器を金鋸に改造して、やっとあの暗い牢獄から抜け出せたのに〜。また、あのクセえ穴倉に逆戻りですか〜」
「人聞きが悪い!そんなことばっかり言ってると、刑務所対抗運動会の応援団長は他の人に任せるぞ」
「ああっ、刑務所唯一の甘味料、ピーナッツバターもナシですかっ!?」
「……今度は、正しいけど意外な刑務所の実体に触れてるし」
 凛が居なかったら、延々とボケ倒しそうな雰囲気だった。
「ということで、お姉様っ!追っ手がかかりました、愛の逃避行もここまでです!!」
「……学生が、非生産的な愛に耽るのは、どうかと思う」
「うわ〜ん、ボケに真面目に返された〜!」
 とか言ってる間にも、曜子の体はズリズリと引っ張られていき、廊下の向こう側へと消えていった。
「……ふぅ」
 凛は再び教室を見回し、ほっと一つ安堵の息を吐く。あの喧しい雰囲気から開放されたせいもあるが、それ以上に曜子と上利の姿を見て、まだ変わらないものがあるのだと、確認できたのが大きい。
 日常と言えば、今朝の上利の様子は普通だった。
 だとすれば、昨日の上利の姿こそが何かの間違いで、今日の上利の姿が本物なのだろうか?――出来れば、そう願いたいものだ。
 凛と上利の関係だって、決して昨日今日始まったものではない。もっとも、上利が一方的にちょっかいを出してくる程度のものだった。だがそれでも、上利の存在が、凛を日常につなぎとめてくれる楔の一つには違いなかった。
 凛は、二人の姿を思い出して、ふと廊下に目を向ける。
 と――
 刹那、凛の体が固まった。教室内の喧騒が、一気に遠くなったような気がする。
 上利がそこに立っていた。両の眼に凛の姿を映し、しかして一言もしゃべらない。微動だにしない。曜子を引っ張っていったはずなのに、そこに立っている。
 そして、その目が。視線が。――尋常ではなかった。
 目は人の持ちうる全ての器官の中でも、最も感情を表すパーツだ。固まりかけの血液のような黒く凝った視線が、何よりも雄弁に上利の心情を示していた。
 それは、憎悪か。あるいは明確な殺意か。
 その境界は曖昧で、凛の及び知るところではない。ただ、上利が凛のことを怨敵のように思っていることが理解できれば、それで十分だった。
 そして、上利の口が裂けるように開き、声に出さぬままこう呟く。
 
                ――シ、ネ――

 理解にたやすく、また難解だった。
 私が何をしたというのだろう。――凛は自問する。
 しかし、考えたところで結果は昨日と同じ、自分に関する悪い噂のことしか思い浮かばない。
 ――凛に接すると悪いことが起こる。何の証拠も無い、不完全な経験則から生み出された、悪意ばかりの噂。
 しかし、上利のあの目は、そんな曖昧さを一片も感じさせない。
 彼の目は語る。お前が犯人だと。お前が、曜子を殺すのだと。
 だから分からなくなる。彼は一体、何を知っているのだろうか。
 いつの間にか、上利の姿は消えていた。しかし、呪詛のような上利の言葉は凛の耳の奥にいつまでも残り続ける。
 あとに残されたのは、異様に人数の減った教室の風景だけで。
 結局――日常を拾い集めることすらままならず、凛に残されたのは悪夢のような現実だけだった。








 考えなければならない。考えなければならない。
 何が原因で、このようなことが起こったのか。
 凛の目の前では、「いつもどおり」の授業が展開されている。しかし、教員の数も少なくなっているせいか、一、三時間目と同じ教師が授業を行っていた。思えば、昨日上利が授業をやりに来たのも、どんどん教師の数が少なくなっているせいなのだろう。
 いや……おかしくないか?
 一時間目の授業は、数学。三時間目の授業は国語だった。いくらなんでも、この二つの教科を同じ教師がやるなんて不自然ではないか。そもそも、現在教壇に立っている教師は、今の今まで数学しか教えていなかったはずだ。
 それが、今になって突然国語の授業をやり始めた?
「………」
 理解不能。
 どちらにせよ、それはもう大事の前の小事のように思えた。これはつまり、「人間が消える」という大きな矛盾を補填するための、小さな矛盾なのだ。まともじゃない世界を、まともに運営するための措置とでも言うべきか。
 となると、結局人が消えてしまったという現象自体のことを考えなければならない。
 人が消えるとなると、どうしても自分の悪い噂の事を思い出す。けれど、凛自身は故意に人を傷つけるようなことはしていないし、そもそも集団神隠しを起こせるような、神がかった力なんか持っていない。
 だとしたら、凛の中に眠る知られざる第二の人格が、彼女の知らないうちに何かしたとか?……ありえなくもないが、可能性はきわめて低い。
 だったら、何が原因なのだろう?
 異変が始まったのは、二、三日前だろうか。正直、凛は周囲に対して万事無関心だったし、心を煩わせることが嫌いだったから、明確なことは言えないが、ここ数日でこの異変は始まったと思われる。
 だとすれば、その間に何かしらのきっかけがあったのではないか。
 もちろん、この異変が天災のように、自分のあずかり知らぬところで起こったのなら、このような詮索は無意味なのだろうが。
 しかし、上利の豹変やその言葉の意味を考えると、この異変の原因が、自分やその周囲に関わっているのではないかと思うのだ。
 自分の周辺。それは例えば、曜子か上利か――あるいは、東間。
 ――東間。
 そう言えば、あの男が転校してきたのは、ちょうど三日ほど前のことで――この異変の始まるタイミングと見事なほどに一致する。思い返せば、あの男の出現から、全てがおかしくなっていたような気がする。
 そう考え始めれば、きりがない。あの人間離れしたような掴み所のない態度、思わせぶりな言葉。凛の行動を知り尽くした神出鬼没さ。……それはさながら、世界の法則を無視した超越者のようである。
 確かに東間は、この異変に巻き込まれるように姿を消した。だから、被害者といえるのかもしれない。だが、この場に居ないことが、今になってはより怪しい。
 つまり、この元凶は――
 凛はそこまで考えて頭を振った。まだ、決め付けるには時期尚早というものだ。
 上利ならば、おそらく凛の知らない東間を知っているはずだ。
 昨日の夜、上利は確か「東間を憎む」というようなことを言っていた。あの、見た目優等生然とした男が、日常的なトラブルで憎まれるようになるとは思えない。だから、上利は凛の知らない何かを知っているのだ。
 ……思考がここまで至ったのなら、次にするべきことは決まっている。
 ――上利に話を聞かなければ。






 凛は気分が悪いといって、保健室へと向かった。
 凛のへたくそな演技に対して、教師は一瞥しただけで、一切の注意も気遣いも見られなかった。もしかしたら、黙って教室を出て行っても、何も言わなかったのではないか?――教師の機械じみた反応に、うすら寒い感触すら覚える。
 ……まあ、少し前の自分も似たようなものだったのかもしれないが。
 とにかく、凛は保健室へと向かう。それはつまり、曜子の居るところへ行くということであり、上利がいい顔をしないのは目に見えている。しかし、それでも、凛は上利に話を聞いてみたい。――東間が、本当に今回の件に関わっているのかを。
 そして、凛は考える。
 自分は、おそらく東間が犯人でないことを願っている。
 事実の片鱗は、東間が元凶であることを示しているのだが、それでも、凛はどこかで東間を信じたいと思っている。
 理由なんか聞かれても分かるわけがない。ただ――自分は、東間のことを気に入っているんだろう、多分。だから、裏切られたと思いたくないだけだ。
 ……なんて、稚拙な感情論だろう。こんなクールじゃない自分は、自分じゃない。
 整合の取れない思考を繰り返している内、凛は保健室まで着いた。僅かにためらいつつも、凛は扉を開く。割と通い慣れているはずの保健室の扉が、今日はやけに重いと思った。
 ――そして、扉の向こう側の世界を見た瞬間、凛の動きが止まった。
「凛――?」
「曜子――?」
 部屋に入った第一声。曜子は、来るはずのない凛に驚いて素っ頓狂な声をあげ、そして凛は曜子の異常な姿を見て、茫然とした声をあげていた。
 現実だろうか。これは。
 曜子の――彼女の体は、半透明に透けていた。
 今保健室にいるのは、凛と曜子の二人のみ。保健室内を見渡すまでもなく、上利の姿は見えない。曜子は制服姿のまま、保健室のベッドに横になっていた。
 ここ数日で何度か見た風景。しかし、それはいつもと決定的に違う。曜子の体が、なりかけの透明人間みたいになっている。服も肌も一律に薄まり、ベッドのシーツの白を透かしている。
 これは、一体どういうことなのだろう?曜子の身に何が起こったのだろう?
 凛は何度も自問してみるが、「人間が薄まる」という事象に答えを導き出すことは不可能だった。
「どう、なってるの?――それ?」
 震えた声は、どうやっても抑えきれない。
「よく分からないんだよね。……でも、大丈夫だって」
 曜子はそう答えたものの、それが不安や恐怖を無理やり押さえ込んだものだということは、目に見えて分かった。曜子の浮かべているのは、凛も見たことのないような笑み――いろんな感情がない交ぜになった、半透明の笑みだった。
「大丈夫って、そんなはずないじゃない!」 
「ほら、まだ、手も握れるし」
 そう言って、曜子はベッドのすぐ傍まで来ていた凛の手を握る。
 確かに、その手には重みも温かみもある。けれど、その存在感は明らかに希薄だった。そんな非現実的な不確かさは着実に進行して、「曜子」という個を薄めていってしまう。
 『まだ』手も握れる――もうすぐ握れなくなる。薄まるだけ薄まって、いつのまにか消えてしまう。
 それでも、まだ確かに在ることを確認したくて、凛は曜子の手を強く握る。
「ね、大丈夫でしょ?」
 消えると分かっているはずなのに、曜子はそう言って笑う。欺瞞だ。でも、その空気がひどく嬉しいと感じるのは何故だろう。
「……それにね、こんな状態だからこそ、分かったこともあるんだよ。あっちとこっちが繋がって、色んなことを思い出したんだ」
「どういうこと――?」
「……私がどうなっても、私は凛を恨んだりしないよ。だって、凛は私の命の恩人だもの。少しでも長く、私を『人間』として生かしてくれた」
 凛の言葉には答えず、曜子は言葉をつむぐ。
「嬉しいんだ。凛っていう友達がいることが」
「違う――曜子だったら、もっとちゃんとした友達が出来たのに」 
「ううん、凛が良かった。凛じゃなきゃダメだったんだよ」
「それは――」
 曜子の言葉は嬉しかった。けれど、凛は笑えない。手のひらに添えられた曜子という存在は、どんどん少なくなっていく。そして、握っていた曜子の手が、凛の手から零れ落ちた。もはや、彼女という事象は、質量を保つことすら出来ずにいた。
 曜子が消えてしまう。それはもう、抗いようのない運命だった。
 それでも、凛は話し続ける。消えていくものを必死で拾い集めようと、滑稽なくらいに普通のトーンで、凛は話し続ける。
「まあ、確かに私と曜子なら性格も正反対だし、相性はいいのかも」
「そうそう、相方には打ってつけ」
「……でも、最近病弱キャラも加わって、訳わかんなくなってきてるけど」
「アクティブとネガティブのコラボが最近の主流だよ。いつまでもステレオタイプなキャラ作りではイカンと思うのですよ」
「そうね、私も何か一芸身につけようかしら――」
「そうそう。そうこなくては」
「………」
「………」
 そして、訪れた空白。もはや、誤魔化すことが、無為であることは分かっていた。
「――私、消えちゃうね」
 曜子はポツリとつぶやいた。
「ええ………」
「ねえ。これって、すごい感動的なシーンだと思わない?」
「少女マンガみたいに?」
「そうそう。恋人同士だったら、永遠の愛を誓う場面だよ」
「残念だけど、私にそっちのケはないから」
「うん、分かってる。……でも、手を離さないで」
 既に、凛が曜子の手に触れることは叶わない。
 それでも、凛は曜子の手に両の手を添えた。
 曜子はそれを見て、嬉しそうに笑う。
「――うん、なんか温かい。……ちゃんと生きたって気がするよ――」
 ――それが、彼女の最後の声だった。
 音もなく、曜子は消えてしまった。
 「在る」ことと「無い」ことの境目が、果たしてどこにあったのか分からないくらい、静かに密やかに曜子は無くなってしまった。空気の中に、曜子の欠片すら見つけることは出来ない。彼女は完全に消去された。
 おそらくは、この世界の多くの人間と同じように。
「………」凛は一人立ち尽くす。
 ――この世界は、何なんだろう?
 人が、消えてしまう。例えば死体のような、存在の残滓を残すことすら許容せず、世界は曜子を消してしまった。いや、それは物質的なものだけではないかもしれない。
 例えば、曜子は東間のことを忘れていた。自分はともかく、クラスメイトにとって、曜子は初めから存在していないことになっているのではないか。
 消えた人間は、人々の記憶からも消え去るのだ。
 もう一度自問する。――この世界は何なのだ?
 その答えを与えてくれるであろう男は、凛のすぐそばに立っていた。
 つい先日までは、気のいい保健医であった。凛に接触してくる人間はそう多くない。だから凛にとって、男は名前を覚えている程度には親しかった。悪い男ではないと思う、医師としての腕も信頼に足る。少々、態度はうっとおしいが、それもまあ許容範囲内だ。男は、確かに凛の中で「他人」以外に分類される人間だった。
 そして今、上利は手にナイフを持って、凛の前に立っている。
 昨日と同じ、柄の部分がアルミで出来た、折りたたみナイフ。構造そのものは華奢で、投擲することも出来なければ、暴虐なほどの殺傷能力を持っているわけでもない。
 だが、それは関係ない。上利の位置は、凛の数歩先。その気になれば、凶器を使わずとも、凛を殺すことなど簡単に出来る。それでも、上利の手にしたナイフは、まるで殺意の象徴のように鈍い光を放っていた。
「なぁ――どういうことか説明してもらえるか?」
 汚泥のような、沈鬱した声が曜子にかけられる。
「曜子は――あいつはどこへ行った?」
 その口ぶりは、一患者を心配するものではない。……もしかしたら、上利と曜子は何か結びつきがあったのかもしれないと凛は考えた。
「聞いてるんだ!!――曜子はどこへ行った!!」
 その偏狂的な光。上利はきっと、答えを求めていない。
「なぁ、答えろよ!!どこへ行った!!お前の臓腑になったのか、脳になったのか、それとも手か足か。――どこへ行ったんだ!!お前が喰った、俺の曜子は!!」
 
                  ガッ――!!

 凛の体が引き倒される。世界がぐるりと一回転したような気がした。
 そして、広がる保健室の白い天井と、熱くぼんやり広がる腹部の痛覚。仰向けに倒れた凛の腹部には、深々と上利のナイフが突き刺さっていた。
 鈍い痛みと、全身から湧き上がる熱のせいで、全ての感覚が白昼夢のようにはっきりしない。
 「どこだ、どこだ」と、半狂乱に騒ぎ立てる上利の声が、透明な膜の向こうから聞こえてくる。
 それと同時に、凛の腹部に刺されたナイフがゆっくりとスライドしていく。それは、まるで、医者が手術野にメスを引いていく行為に似ている。
 そして、上利の「どこだ、どこだ」と言う声。
 ああ――。上利が何をしているのか、凛は理解した。
 この男は、決して凛を殺そうとはしていない。ただ単に、凛の中にいるらしい曜子を探しているのだ。頭の頂点から、足の先まで。あるいは、上皮組織から、小腸の襞の隙間まで。ただただ、狂おしいほどに曜子の姿を捜し求めている。
 しかし、そんなものはどこにもありはしない。曜子は薄まって消えてしまった。凛の中をまさぐってみたところで、曜子を発見出来るはずがないのに。
 なぜ、上利はこんなことをするのだろうか?そして、東間はどこへ行ったのだろう?
 今、ここで死んだら、東間や曜子のところまで行けるのだろうか。……それは、それで幸せなのかもしれない。
 でも、凛にはまだ何も分かっていない。この歪で矛盾した世界のことを何一つ分かっていない。だから――こんなところで死ぬわけにはいけない。
 東間と会ったあの日。何も考えず、自殺していれば、こんな苦しむことはなかったのに。でも、もう全てに対して無関心ではいられない。
 だから、今は死にたくない。
 死にたくない。ただそう願いながら――凛の意識は、闇へと落ちて行った。





              …………………………




 某月某日(水) 国立××病院 緩和ケア病棟にて


 さらりと。白いカーテンが、風に舞っていた。
 窓からはやわらかい陽光が射し込んで、病室のベッドとシーツの白を際立たせている。
 私の目の前にいるのは、一人の少女だった。年頃は私と同じくらい。ベッドにその身を横たえ、私が何か言い出そうとするのを待っている。
 風に運ばれ、かすかに鼻腔を刺激するのは、消毒薬の匂いだった。私にとっては馴染み深い匂いだ。もちろん、彼女にとっても。
あとは、かすかに漂う花の香り。花瓶に生けられていたのは、小さく白い花だった。野に咲く花のような可憐な姿は、花屋などではあまり見かけないものだった。おそらくは、見舞いの品だろうが――なんという名前だろうか。我ながら、妙なことが気にかかる。
こんな詮もないことに気が回るのは、これから言い出そうとしている言葉に、私自身が少なからず罪悪感を覚えているせいだ。
「先生」
 少女の声が、私の耳に届く。『先生』が、私であることに気づくのに、たっぷり5秒はかかった。私は医者ではない。私は科学者で、目の前の少女は被験者だった。
「どうしたんですか?……お疲れですか?」
「ん、いや。少し、ぼうっとしていただけだ」
「……気をつけて下さいね。あんまり無理をしちゃだめですよ」
「死期が早まる、か?」
「………」
「あまり、笑えないな」
 私は小さく首を振った。
 私の実験に参加してもらう少女、<上利曜子>は不治の病に犯されている。いまだに日本人の死亡原因の上位に居続ける、悪性腫瘍という名の病。忌憚なく言ってしまえば、ガンという病を、人類はまだ駆逐できていなかった。
 元来なら闊達であったろう曜子の表情には衰弱がありありと見られ、活力という活力を病魔に吸い取られているような印象を受けた。足掻き、憤る時期は、とうの昔に過ぎている。穏やかさと不安を同居させたような室内の雰囲気は、病気や死といったものに、長く同化し続けた人間の放つものだった。
 もっとも、同じ病気にかかっている自分が、あれこれ批評できた義理ではない。
「今日の調子はどうだ?」
「すこぶる良好だよ。先生の長話にもしっかり耐えられます」
 生気を失った小さな体に、小さな笑顔。痛々しくすらある。
 同性同年齢のためか、それとも同じ病気を持つ気安さからか、曜子は私に対して非常に砕けた感じで接する。施設で育った私に、もし友達というものが居たら、このようなものなのだろうと感じさせる。
「そうだな。君にはしっかりと説明しておかなくてはならないな」
 ……私の研究と、彼女の状態について。
「君の腫瘍は、全身に転移している。まして、年若い君のことだ。腫瘍の増殖は加速度的に進むだろう」
 海底をはいずるような息苦しく緩慢な部屋の空気が、わずかにこわばるのを感じた。
「君自身、分かっていると思うが、もはや手術しても意味がない段階まできている。……しかし、君は幸いにして、一番大切な部分が病巣に侵されていない」
「?」
 私は自分のこめかみの辺りを指差して、
「それは、ここ。脳だ。脳は、記憶と人格と精神が集約された、『私』そのものといえる。ここが健在である限り、人はいつまでも生き続けることができる」
「それはわかりますけど――」
 曜子の言葉には、戸惑いの色が多分に含まれていた。無理もない。私がこれから喋ろうとしているのは、一般人にとっては、トンデモ話以外の何者でもないのだから。
「私たちは常に現実を、脳というフィルターを通して理解している。故に、人間は脳を通した世界で生きているといえる。極論を言えば、脳に無理矢理現実だと理解させれば、非現実は現実となる。だとすれば、人の脳に人工的な情報を送り続ければ、人は仮想空間の中で生き続けることができるのではないか、というのが、私の考えだ」
「ずっと夢を見続けているみたいに、ですか。……昔、そんな映画がありましたね」
「ああ」
 私は、曜子の言葉に苦笑する。確かに曜子の言うとおりだった。そうやって、通俗的な例をあえて言い出すのは、私の言葉を信じていないからというよりは、信じるのが怖いから冗談めかしている、といったところか。
 しかし、これは冗談でも夢物語でもない。だから、私は科学者として、彼女の気持ちを忖度することなく話を続ける。
「ここまで話せば、わかると思う。君の頭と体を切り離し、頭の部分だけを生かす。そして、君には仮想空間の住人になってもらいたい」
「……それで、その後は?」
「一生培養槽の中で暮らすことになるだろう。そして、目覚めることなくずっと夢を見続ける」
「………」
 沈黙する曜子の表情は、意外と平静だった。私が冗談など言わないことは、彼女も理解しているし、何より曜子の中には諦めがある。もはや、先の短い己が身なのである。何が起きても驚くには値しないのだろう。
「正直に言う。これからやるのは、人体実験だ。どの程度の確率で成功するか分からないし、だからこそ君には断る権利がある。このまま自然に死を迎えるのも無論かまわないし、むしろそちらのほうがいいかもしれない。だから、答えは君自身で出してくれ」
 私はそこまで言って、曜子の答えを求めた。
「――」
 曜子の息を呑む音が聞こえる。空気が重い。
「本当に、夢を見続けることが出来ますか?」
 長い沈黙を経て、彼女はようやく声を絞り出した。
「……――私、ちゃんと生きてない」
 その声は、けして大きくないのに、輪郭がはっきりとしていた。そこには、何らかの決意があることが見て取れた。
「………」
「私、ちゃんと生きてないんです。生まれてからずっと、家と病院の往復でした。こんな狭い世界に生きてきて、何のために生きてきたのかわからない。わたしは、もっと広い世界で生きてみたい。――先生は、私に生きた時間をくれる?私の望みを叶えてくれますか?」
「……それは、本物ではないかもしれないが」
「自分の体がなくなるのは怖いけど、<私>が居なくなるのは、死ぬのは、もっと怖い。だから――騙して。私を騙し続けてください」
「……わかった」
 私は曜子の手を握る。
「一緒に夢を見よう。――どんな夢がいい?」
「それは、学校に行く夢がいいな。私、授業を受けたり、クラスの友達と話したり、そういうことがしたかった」
「――それはいいな。私も、学校というものに行ってみたいんだ」




 その日の帰り道、私は曜子の病室に飾られていた花が気になって、本屋に立ち寄ることにした。私が思うよりはメジャーな花だったらしく、図鑑を探せばすぐに見つかった。

 <スノードロップ――ヒガンバナ科の観賞用植物。地中海西部からコーカサスに約20種分布。葉は線形でうすく白粉を帯びる。20cmほどの花茎を出し、先端に数個の白色花を下向きにつける>

 辞書的な説明と写真が載っていたが、私の気を引いたのは、最後の一行だった、
「花言葉は希望」
 その文字を見て、私は――そう、とても後ろめたい。そう感じた。
 曜子にスノードロップを送った人物は、どのような想いで病室にこの花を飾っていたのだろうか。それはきっと、自分に出来る精一杯のことだったに違いない。
 それに比べて、私のやっていることは――







             ……………………………



 まぶたの向こう側に、うっすらとした光を感じる。カーテンの向こうから光が透けるような妙に生々しい感覚に、凜は重いまぶたをこじ開けた。
「――」
 そして、絶句した。
 置きぬけの凛の瞳に飛び込んできたのは赤だった。
 赤い。
 赤。紅。赫。マゼンダ。カーマイン。部屋中にべったりと貼り付けられたありとあらゆる深紅は、眩暈を起こしそうになるほど鮮烈な色だった。
「――っ!」
 あまりにも強烈な視覚刺激にやられたのか、突然頭痛がした。
 そして、突拍子もなく飛び出したのは、白衣を着た自分の姿だった。科学者としたその姿は、見覚えがあるような気がするものの、はっきりとした映像にはならない。まるで、夢の中の出来事みたいだった。
 それよりも、大切なのは、この部屋の様子だった。
 この赤――血か――?
 その色が、急激に凛の意識を覚醒させ、彼女は意識を失う直前に、自分の身に何が起こったのかを思い出した。
 そう――自分は上利に刺されたのだ。腹部を深々と突き刺され、まるで解剖でもするかのように、体を切り開かれた。
 では、この目も眩む赤は?
 ――当然、血だ。腹部を開かれて生きている人間は居ない。まずショックで即死だろうが、そうでなくても出血多量で死ぬ。その際には、おびただしい量の血が出たことだろう。
 では、何故自分は生きているのか。
 そこまで考えが及んで、ようやく凛は自分の体の違和感に気付いた。
 ――傷がない。
 自分の腹部を触ってみる。そこには、濡れた感触もなければ、痛みもない。刺された傷どころか、衣服が破れた様子すらなかった。
 ……そんなバカな。
 傷跡一つない滑らかな肌は、「誰かが凜の手当をして、服を着替えさせた」――という可能性すらも否定する。
 これは、現実なのか。自身に問うてみる。
 曜子も上利もここには居ない。ただ、凛の体験した生々しい感触と、床に捨てられたナイフが、あの非現実がリアルであること教えてくれる。
 では、無傷の自分にどう説明をつける?そもそも、この赤は何なのだ。
 凛は窓に目をやり、初めてその「赤」の正体に気付いた。
 窓の向こうに顔を覗かせるのは、血染めのような真っ赤な太陽。
 朝焼けなのか夕焼けなのか知らないが、赫光は保健室中に滴り落ち、室内を鮮やかなほどの紅に染め上げていた。
「何で――?」
 凜は見慣れたはずの太陽に、強烈な違和感を覚えていた。
 ――見慣れた?
 いや、違う。見慣れてなどいない。
 この数日を思い出してみて、太陽が出ている日は果たしてあっただろうか。
 答えは、否だ。
 教室の窓の向こうに浮かぶ風景は、いつも変わらなかったし、廊下の蛍光灯だってずっと付きっぱなしだった。
 最後に太陽を見たのはいつだろうか? ――咄嗟に思い出せないことに、愕然とする。今、見ている太陽がなければ、そんな単純なことにすら気付けなかったろう。
 終わらない夜という不条理を、自然なことだと刷り込ませるこの世界。まるで、催眠術にでもかかっているかのようだ。
「――っ」
 世界が崩れていく様に、胸が締め付けられる。
 しかし、凛はそのまま呆けているわけには行かなかった。彼女には、まだ何も分かっていない。何故、曜子が消えなければならなかったのか。そもそも、この現象は何なのか。
 だから、自分に出来ることは――それはやはり、この世界が何なのかを解明することしかないように思える。
今、この世界の異変を分かっている人間は、そう多くは居ないだろう。もしかしたら、自分だけかもしれない。で、あれば、知りたいと凛は思う。世界を救おうとか、曜子を救おうとか、そんな気持ちは毛頭ない。ただ、凛はこの世界を知りたかった。
 凛は、立ち上がって保健室から外へと歩き出す。曜子はともかくとして、上利はどこへ消えたのだろうか。それに、東間の行方も知れぬままで、とにかく二人を捜すのが凛の当面の目的だった。
 そして、凜は保健室のスライドドアを開ける。すると、ヒョウ――と、風が室内に流れ込んできた。それと同時に砂埃が、凛のスカートにまとわり付いてくる。
「――」
 そして、目の前の光景に、立ちすくむ。
 もう、何が起こっても驚かない――その覚悟はできていたはずなのに、それでも目の前の非現実に思考が停止するのを感じていた。
 凛の眼前に広がっているのは、大きな余白。言い換えれば、グラウンドだった。
 保健室を一歩出れば、そこはもうグラウンド。体育で怪我をしても、これで安心かも。――そんな現実逃避じみた間抜けな考えが、凜の頭に浮んだ。
 校舎の構造がねじ曲がったわけではない。ことはもっと単純だ。――学校の校舎は、彼女の今居た保健室を残して、一つ残らず消えていた。
 敷地内には、鉄筋コンクリートの建物はどこにもない。更地にサッカーゴールや鉄棒などが、ちらほらと見られるだけだ。後ろを振り返ると、保健室だけがきれいに切り取られたように残っていた。広大な平地に、プレハブ小屋よろしくちんまり取り残されている様は、かなり異様だった。
「――ああ――」
 数秒考え、凜はこの現象を理解した。
 要するに、消えるのは人間だけではないのだ。有機物無機物問わず、その質量も問わず、この世界の構成物は消滅していく。
 ――不条理、極まりない。
 







「吐き気がする世界だな」
 上利は目の前の男にそう言ってみせる。
「第一声がそれか」
 つぶやくように、東間は答えた。
「ニューロンとグリア細胞で出来た世界だ。作り物の建物、作り物の人間、作り物の感情。――まるで、ゲームじゃないか」
「ロールプレイングだね。まさしく、僕たちは『役割』を演じているわけだ」
「RPGなら、どうすればクリアできる。姫を助けるのか?それとも、魔王を倒すのか?」
「………」
 上利は答えを求めていない。だから、東間もそれに答えない。
「そんな目標などありはしない。この世界の人間は、ただまどろむだけだ」
「彼女は、そんな世界を望んだんだ」
「その『彼女』も、もう居ない。俺が殺したからな」
 保健医という役職にふさわしくない「殺した」という単語にも、東間は眉ひとつ変えなかった。もはや、学生という仮面も保健医という仮面も必要ないことを、二人は理解していた。
「常夜凜は、もうこの世に存在しない。俺が殺した」
「……ということは、曜子ちゃんが死んだということかな?」
「………」
「………そう、か。残念だった」
 そういう東間の声には、確かに哀惜の念がこめられていた。ただ、それも『彼女』と比べてみれば、二の次の感情であることは否めないのだが。
「他人事のように言ってくれる!元はといえば、貴様らが、俺の妹をこの実験に巻き込んだんだろうが!!」
「否定はしないよ」
 激する上利の言葉にも、東間は涼やかに答えることが出来た。大切なものは、それぞれ違っていたのだ。上利の価値観を否定する気は毛頭ないが、肯定する気はさらにない。
「それに、お前がもっと早くあの女を殺していれば、曜子は死なずに済んだんだ!!」
「それも、否定しない」
「ちっ!!……だが、もういい。常世凛はもういない。今更、お前にどうこう言っても仕方ないさ」
 それは、はき捨てるような言い様だった。お互いの話が通じ合わないことは、上利とて理解しているのだ。
「――あり得ないね」
 東間は、そこで初めて上利の顔を見る。
「なに?」
「凛は死んでない。――いや、君に彼女を殺せるわけがない、と言い換えるべきか」
「ふざけるなよ。腹の中身を切り開かれて、死なない人間がどこにいる!?」
「凛は、そういう存在なんだ。――彼女は、この世界の神様だから」
「……それを殺すのが、お前の役目じゃなかったのか!?」
「それは無理な相談だね。僕にだって、凛は殺せない。彼女を殺せるのは、彼女だけだよ。つまり、彼女が死にたいと願わない限り、凛は死なない」
「ならば、あの女が死ぬように仕向けたらどうなんだ?」
「……その必要もないと思う」
「何故」
「遠からず、凛はここに来る」
「………」
「世界は崩壊し続けているし、凛ももうすぐその原因に気づくと思うよ」
「あの女が、ここに来る理由の説明になってない」
「――ここは、凛と僕が出会った場所だからね」
「………」
「だから、僕はここで待つよ。……君はどうする?最後まで見届けるかい」
「ふん。その必要はない。あの女の顔も、この世界も、もう二度と見たくない」 
「そう。なら、さよならだね」
「………」
 上利は黙って東間に背を向けた。
 二度と見ることはないであろう上利の背中は、東間にはとても小さなものに見えた。
「………もう、すぐだな」
 そこには、凛と初めて会ったときと同じような、冷たい風が吹いていた。






 凛は街を走る。
 息が吸えなくなっても、心臓が破れそうになっても、それでも凛は走り続けた。
 ……というか、この動悸や、今も軋みを上げている筋肉は、現実のものなのだろうか?ここが夢なのか現実なのか。自分が人間なのか胡蝶なのか。全てが曖昧だった。
 そんな不確かさを払拭させるためにも、誰か生きている人間に会いたい――それは切実な願いだった。
 おそらく何か知っているであろう東間、あるいは上利。この世界の謎を知るためにはどちらかに会わなくてはいけない。――その必要性はもちろんある。
 だが凛を突き動かしているのは、もっと単純なものだった。
 ――それは、恐怖だ。
 今しがた気づいた事実。生きている人間がここには居ない。
 知った人の姿を探し、左右を見回しながら凛は走っていく。

                  どすん

 人通りの激しい繁華街なだけに、誰かと肩がぶつかった。
 凛は咄嗟に、その人間を見上げる。
 だが、視線の先にあるはずの人の顔が、そこには存在しなかった。
 これは人ではない。木偶だ。
 人らしい形をして、人らしい挙動はする。しかし、のっぺらぼうのごとく顔に凹凸がなく、意味を成さないガヤガヤとした群集らしい音を一人一人が出している。
 凛がぶつかった(推定)男は、何事もなかったように、雑踏を歩き出した。
 ――これが世界か。
 先日、東間と一緒に街に出たとき、通りには大勢の人が居た。
 だが、それはおそらく全て木偶だったのだろう。何百何千という木偶が、この世界を<現実らしいもの>にするために動いている。
 ――アレだ。こいつは、RPGの通行人Aだ。世界を賑やかにするためだけのNPC。話しかけたら、決められた台詞を延々と繰り返しそうだ。
 見たところ、人と呼べるものは自分以外に居ない。それと同時に、東間と曜子以外のクラスメイトの顔が一人も思い出せないことに気づいた。
 いや、そもそも、この狂った世界の住人である自分は、はたして人間なのか。自分の立っている場所が、ぐにゃりと歪んだような気がした。
 東間や上利を探さなければいけないと思うのだが、足が一歩も動かない。どんどんどんどん世界が壊れていく。それに恐怖する。
 いや、世界は初めから壊れていた。
 いつからか――おそらく、世界の始まりから。
 凛はこの街が嫌いだった。夜の癖に無駄に明るい町並み。同じような顔で、同じような言葉ばかりしゃべる通行人。――それは、以前東間に話したことだった。
 結局、自分は知っていたのだ。ここがまともな世界ではないことを。
 ただ、見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かなかっただけだ。
 この世界の住人は、ただまどろんでいればよかった。自分が描く楽園の中で、凛や曜子が望んだ学園生活の中で、幸福を享受していればよかった。
 だがもうそれはできない。
 東間が現れたあの日から、世界はもうどうしようない速度で壊れ始めているのだから。
 誰も、何も、見つからない。
 ただ、焦燥感だけが先にたって、何をしていいか分からなくなる。
「私は――一人だ」
 今になって、途方もない恐怖が凛を襲っていた。
 一人には慣れていたはず。なのに、恐怖を感じてしまうのは、きっと、ここ数日で、一人ではないことに慣れてしまったからだ。
 あの男が近くに居たせいで、全てが変わってしまった。世界も、そして凛自身も。








 凛には、東間を探すような当てはなかった。
 何せ、凛が東間と接した期間は、ほんの数日ほど。彼と一緒に行った場所も数えるほどしかない。にもかかわらず、凛はとあるビルの屋上に来ていた。
 凛が、何度かここから自殺を図ろうとした場所。そして、凛と東が初めて会った場所でもある。
 無意識にせよ、何でこんなところに足を運んだのだろうと、凛は考えてみるが――何のことはない。東間のそばが一番安心できると、自分で認めているだけのことだ。人は恐怖に駆られると、自分の領域に行こうとするらしい。東間の残滓にすがろうと、ここに来てしまった。それだけのことである。
「ふ、ふふ――」
 自然と笑いがこみ上げてくる。
 自分は弱い。『終わり』を選びたくなる自分の心情が、手にとるようによく分かる。この世界と孤独が、真綿で首を絞められるように、凛の周囲を圧迫していく。一思いに、ここで死んでしまえれば、どれだけ楽になるだろうと思った。
 そもそも、凛ははじめから死ぬつもりだったのだ。それを今実行したところで、なんの滞りもない。それが、ただの自棄だと頭では理解していたが、何もかも投げ出してしまいたいという気持ちをとめることは出来なかった。
 人を殺すのは、絶望ではない。孤独である――どこかで聞いた言葉が、脳裏をよぎった。かつて、一人で死ぬことが怖かった少女は、いま一人で生きていることが怖かった。
 そして、凛がフェンスに向かって歩き出そうとしたそのとき、
「まるで、あの日のようだね」
 凛の背後から声がかかる。
「……ホント、あなたって、人が来て欲しくないときばかりに来るのね」
 凛の声は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。待ち望んだ声であったはずだが、心のどこかで、東間が現れることは当然であると、予感していたのかもしれない。
「あの日と同じね。私が死のうとすると、あなたは止める」
「いや、今日は止めないよ。というか、この状況になってここに来たということは、もう大体のことは思い出したのかな?」
 そう言い出す東間の声は、いつもと違って聞こえる。もう、作り物めいた声色は感じない。これが、素の東間なのだろうと感じさせるものがあった。
「大体のこと、ね。それは――白衣姿の私と関係があること?」
「ふむ」
「そういう夢を見たわ。あれが何だったのかは分からないけど、ただの夢ではないということは理解している」
「というと、殆んど何も思い出していないということだね。……まあ、しょうがないか。催眠効果が弱くちゃ、そもそもこの世界が成り立たないから」
「その口ぶりだと、あなたはいろいろなことを知ってそうね」
「そうだね。君の知りたいことは、ほぼ全て」
「話してもらえるのかしら?」
「そうしないと、納得して逝くことは出来ないだろうから、全部話すよ。話さないほうが幸せではあるけれど、ね」
 不安を掻き立てるような東間の言葉であったが、凛はそれでもはっきりと首を縦に振った。今更、引き返すような選択肢は、彼女の中にはない。
 そして、彼は物語を語りだすように、全てを語り始めた。
「今からほんの少しだけ昔のこと、一人の科学者がおりました。そして、彼女にはひとつの信念がありました。それは『人間という生き物は、エクスタシーを求め、欲求を満たすために生きている』というものでした。そして、その科学者は、人間の究極的な目標が欲求の充足――快楽であるならば、どうにか人工的に快楽を作れないかと考えたのです」
 東間の言葉を聞いていると、凛はどうにも落ち着かない気分になってくる。開いてはいけない扉を少しずつ押し開けるような、いやな感覚だった。それと同時に、今までぼやけていた自分の正体や世界そのものが、急に鮮明になっていくのが分かった。
 そんな凛の様子に構わず、東間は言葉を紡ぎ続ける。
「そして、彼女は人間という生き物が、脳の認識の世界で生きているということに着目したのです。赤い林檎を赤いと感じるのは、脳がそれを赤だと認識しているから、人が人を好きになるのは脳がそう認識して、化学物質を放出しているから。で、あれば、脳に起こる全ての事象を人工的に作り出せれば、それはまさに理想郷の創造になる。さらに言えば、人がどれだけ快楽を味わっていても、それに没頭することが出来ないのは、快楽というものが、些細なきっかけあるいは避けることの出来ない『死』というきっかけによって、終わりが来る刹那的なものであるということを理解しているから。しかし、本当に脳の中に望むがままの世界を構築することが出来るのならば、そういった悩みとは無縁の、まさに永遠の世界となる」
「………」
 凛は黙って東間の言葉を聞いている。不思議な感覚だった。初めて聞いた話であるにもかかわらず、凛はこのことを『知っている』。だから、東間が次に何を言おうとしているのかも、見当が付く。
「とはいえ、そこには色々な問題がある。まず一つには、技術的な問題。人間はまだ、脳の全容を明らかには出来ておらず、擬似感覚の生成に問題が残ったということ。もう一つは、資金面の問題だね。言うまでもなく、脳の中の世界だけで生きるなんて、社会的にそう簡単に認められるわけがない。人間の生きる意義を無視するものだからね。そういう意味で、研究資金をいかに調達するかというのは問題だった」
「――科学者は、その問題を解決したのよね?」
 凛の言葉は、疑問というよりは確認に近い。もはや、その科学者が誰であるのか、凛には分かっていた。それでもあえて口にするのは、東間の説明をガイドするためだった。
「そうだね。まあ、資金的な問題については、色々と大人の裏取引があったみたいだ。まあ、君の研究は、ある意味精神的な不老不死の研究でもあるし、物理的な面でも人は脳だけなら200歳まで生きられるという報告がある。そして、古今東西、不老不死の魅力に取り付かれた権力者は数多い。加えて、社会は閉塞しきっていたから――って、これは今の君にはあんまり関係のない話か。つまり、非合法的手段をとれば、君の研究自体は引く手数多だったわけだ」
「それで――技術的なことは?」
「人の技術では、0から葉っぱ一枚作れないように、単純な電気信号や神経伝達物質を理解しただけでは、人間の感覚や感情を作り出すことはできない。――人間の<心>はどうやら脳の中に宿っているらしい。しかし、何がどう絡まりあって一つの人格が形成されているのかが、まったく分からない。怒りという一つの感情にしたところで、前後不覚に一つの感情に支配されるなどという状態はまず存在しない。その奥には悲しみがあるのかもしれない。冷静さがあるのかもしれない。その曖昧さを理解できずに、リアルな人の<心>を、はじめから構築できるはずはない」
「だから……科学者は――」
 凛は一瞬だけ目をつぶって、そして言い直す。
「だから……だから、『私』は――」
「だから、君は世界に一人のマスターを作った。人間の感情を徹底的にサンプリングし、その他の人間に分け与えることが出来る人間を。人間は、確かに0から葉っぱ一枚も作れない。ただ、元となる葉っぱがあれば、それを増やすことも変質させることも出来る。君は、世界で一番初めの葉っぱだ。この世界における全ての人間――いや、全ての物質・事象の基礎となる物を作った、神だとも言える」
 東の言葉に、凛は思い出しうる限りの昔に思いを馳せながら、
「神、か――。以前君に語ったように、私は文字どおり神になったわけね。マスターは、とても精緻に感情を表現できるように出来ている。その人格を完全に世界に没入させ、二度と戻れないようになっているのだから、当然だけれど」
「本来ならば、誰をマスターにするかというのは、とても難しい問題だ。マスター以外の住人――スレイヴは、理論上は眠っているのと殆んど変わりないから、二度と目覚めないという可能性は低い。それに比べて、マスターになるということは、二度と仮想世界から抜け出せないということ。すなわち社会的な死だからね。――でも、それも解決済みだった。何故なら、このシステムの開発者である<常夜 凛>は病魔に冒されて、既に半分死にかけていたから。……もう、確認するまでもないことかな?」
「……そうね。個人的にも対外的にも、私がマスターになれば都合がよかった」
「そんなこんなで、君は、記憶を元にこの世界を構築した。そして、一通りの町並みがそろったところで、スレイヴのサンプルである<上利曜子>がこの世界にやってきたわけだ。かくて、二人はかねてからの願いにより、学生となり友人となり、末永く暮らしました。めでたし、めでたし」
 東間はそう言って、両手をひらひらと振って見せた。ここで話を区切ろうとするのは、これ以上先に進むことに対する警告のつもりか、あるいは本題に入る前の溜めのつもりか。どちらにしろ、ここで終わるつもりなど凛にはない。
「――そうではないでしょう?」
「おや、性急な」
「茶化さないで。これで、めでたしめでたしなんて、性質が悪すぎる」
「まあ、そうなんだけど」
「この世界のこの状況は何?どうして、世界はどんどん消えていくの?」
「ここまで話しても、まだ分からないかな」
「この世界の外の出来事は、私には分からないもの。私に分かるのは――あなたが現れた時から、異変が始まった事くらいね」
「だから、僕に原因があるんじゃないかって?……一因はそうだけれど、根本的には違うね。君はもう、その原因について分かっているはずだ。気付こうとしていないだけさ」
「………」
 凛はしばし考える。まだ思い出していないことがある。――というよりは、きっと、自分でも思い出したくない何かがあるのだろう。
「何から話せばいいのかな。そうだな、じゃあ、いつかの質問を繰り返そうか。――君は何故、自殺したいと思うのだろう?」
「だから、なんとなくだと言ったでしょう」
「まだそんなことを言って。そもそも、この世界は、理想郷として作られているんだ。自殺したくなる要因なんて、あるわけがない」
「………」
 東間の言葉に、凛は沈黙するしかなかった。本当のところ、そこまで言われれば、凛も東間との会話の中で大体のことは思い出していて、東間の問いに対する答えも分かっていた。だが、それを口に出すことは、凛には出来なかった。凛が答えられないのを見て、東間は話を続ける。
「……凛はさ、ウロボロスって知っているかな?」
 一見関係のない話題も、これまでの話につながる1パーツに違いなかった。
「蛇よね。自分の尾を咥えた蛇」
「そう。円環を模していて、それ一つで自己完結した姿は、無限や不死の象徴として時々語られるね。しかし一方で、ウロボロスは自分の体を自分自身で飲み込み、ついには無に帰してしまうという「無」の象徴であるとも言われている」 
「………」
「僕は、この世界はウロボロスそのものだと思うよ。永遠に続く世界でありながら、その世界はどんどんその創造主によって食われている。創造主――つまりは、君の事なんだけど」
「………」
 凛は東間の言葉に顔を背けた。東間の言葉は正しい。それは理解しているはずなのに、認めたくないという気持ちが何処かにあったのかもしれない。
「ねえ、凛。人の心ってさ、容量にしたら何ギガくらいあるのかな?……いや、別にギガじゃなくても、テラやエクサで答えたっていいんだけど」
「それは――私には分からないわ」
「うん、だからこそ、それが問題になった。マスターはその特性上、精神や記憶を100%こちらの世界に持ってくる。それこそ、イドやら超自我やら、潜在意識的なものを含めて。それゆえに、マスターという存在は、夢見心地でマスターの感覚を受け取るだけのスレイヴとは、感覚の精度や存在の密度がまったく違う。そして、だからこそ、君の存在は、『容量を食う』」
「………」
「僕は――君もだけど、人間の心の深淵を理解していなかった。人一人の精神が、システムのリソースの殆どを食いつぶすほど、成長するものだとは思っていなかったんだ。――君がいろんなことを考え、いろんな感情をあらわにする。その度に、システムは複雑怪奇な人の情報を蓄積しつづける。その結果、世界の『容量』は完全に足りなくなった」
「それを補うために――世界は消滅するのね」
「システムは、マスターの存在を最優先に考える。だから、足りなくなった容量の分は、すでに構築された世界を潰して空きを作るしかない。そして、システムはマスターの近くにある、不完全なものから順番に消していく」
 凛は今まで自分の身の回りで起こっていた、不思議な出来事を思い出していた。
「心当たりはあるわね。それは例えば――壊れたUFOキャッチャー。あるいは、怪我をしたスレイヴ。ただのクラスメイトや通行人だったら、接触しただけで『食べて』いたかもしれない」
 自分の人間らしさを継続するために、近寄るものをすべて食べていく――これでは、魔女を通り越して、ただの怪物だ。
「それ以前に、太陽とかはもう昇らなくなっていたから、凛自身も世界の消失を理解していたんだろう。だからこそ、この世界で僕と出会ったときの君は、完全に感情を殺していた。ほぼ全ての記憶を手放していた。そして――自殺しようとしていた」
「………」
「スレイヴならいざ知らず、この世界におけるマスターの死は完全な消滅だ。まあ、世界を救うにはその手段しか、なかったのかもしれないけど」
「分かっているじゃない」
「うん」
 東間は表情も変えずにただ頷く。
「……それが、分かっているなら――!」
 凛の声が、不意に震えた。東間の取り澄ましたような表情が、どこまでも憎たらしく思える。
「それが分かっているなら、どうしてこんなことをしたの!?私を助けて、色々付きまとって、楽しいとかうれしいとか色々感じさせて!!あなたが来るまでは、少なくとも世界は現状維持に留まっていたわ!!今のこの事態を招いたのは、結局あなたじゃないの!?」
「そうだよ。だって、僕は世界の維持には興味がないもの」
「な――!」
「僕はただ、君が抜け殻同然に死んでいくのを、黙って見ていられなかっただけだ。どうせ死ぬなら、最期は人間らしく。ただ、それだけを願っている」
 凛は、ようやく東間の感情が理解できたような気がした。結局、この男は『常夜凛』のことしか考えていないのだ。彼女の幸せのためなら、それ以外の全てを犠牲にしても、かまわないと思っている。それは、ひどく独善的な考え方のはずなのに、凛はそれでも東間のことを愛おしいと思う。
「生きろとは言わないのね」
「君がここで生きるということは、世界を食べながら、一人で生きていくということだ。そして、ウロボロスの最後に待ち受けているのは、自分を食い尽くした後の「無」でしかない。そうでなくても、一人で生きて行くことなんて、誰にも耐えられないよ」
「だとしても、私が今、何を考えているか分かっているの?――『死にたくない』よ。この数日のせいで、一人で死ぬのが怖くなってる」
「……じゃあ、ちゃんと責任を取ろうか?」
「どういうこと?」
 そう聞いた凛に、東間は屈託のない表情で、
「僕が、一緒に死んであげる」
「な、馬鹿じゃないの!?」
「そうだね。控えめに言って、おおうつけだね」
「――やめてよ。言っておくけど、私はそうやって悲劇に耽溺するのは好きじゃない。東間も私も、お互いに依存する存在じゃないはずよ」
「流石、死の直前まで己の研究を貫き通した女傑は、言うことが違うね」
「それじゃまるで、私が鋼鉄の女みたいじゃない」
「いや、惚れ直しただけだよ。ここまで追いかけてきた甲斐があった」
「だから、言ったじゃない。私ほどいい女を忘れられるわけがない」
 そう言って、凛は東間の体を抱きしめた。あの時は、少しは冗談も入っていたはずなのに、今となっては何のてらいもない真実になっていた。
 そう感じられる幸せだけで、凛には十分だった。
「夢を見すぎたわね。……ここはとても心地よかったけれど、今思い返してみると、去勢されたみたいで、ちょっと私らしくなかったかもね」
 凛は苦笑気味に呟く。
「僕は、本当は――」
 何かを言いかける東間を、凛の言葉は遮った。
「君のことは好きよ。――だから、ちゃんと生きてね」
「…………うん」
 その言葉を最後に、凛と東間の体が離れる。
 凛の体は、薄く発光し、その輪郭は少しずつぼやけていった。
 凛はこの世界における神であり、彼女自身が死ぬことを願うのであれば、わざわざ飛び降りることなどしなくても容易に死ぬことが出来る。飛び降りるという行為は、自分が「死ぬ」という概念を明確にするための儀式であり、今はもうそのプロセスを必要としないほどに、凛は自分の死をよどみなく受け入れていた。
 凛という世界の殆どを占める『容量』は段々とデリートされていき、消去されていた街は急速と復元されていく。それだけではなく、凛から抽出されたデータは、今はもうシステムに有機的に編みこまれ、マスターが存在せずとも自動的に街を生成できるほどに発達していた。
 東間の目の前に広がっているのは、灰色の町並みだけではない。野ができ、山ができ、川ができる。もはや住む者もいない抜け殻の町に、今まで抑圧されていたものを一気に取り返すかのように、凛の描いた理想郷は広がっていく。
 そして最後に、暗く夜に閉ざされた世界に、陽の光が射し込んだ。
 ――朝がやってくる。








 私が目覚めたとき、目に入ったのは白い天井だった。清潔なシーツと消毒薬の匂いが、私の鼻腔を刺激した。
 この光景は、もう何度繰り返されたのだろう。もう一年以上、ほとんどの朝をこうして迎えているような気がする。もはや、この状況に慣れすぎていて、普通の生活がどのようなものだったか、思い出せないくらいだ。
 先生――凛が亡くなってから、かれこれ一週間が経つ。私はあの永い夢から覚め、今こうしてここにいる。永いと言っても、現実では二週間ほどしか経っていなかった。あの世界にいたときは、何年も生活しているように感じたものだが――夢とは得てしてそういうものなのかもしれなかった。
 体と頭を切り離されると凛からは聞いていたのだが、私は今五体満足でここにいる。――いや、私の病は未だ進行中だから、五体不満足だ。
 その件については、先日、凛の同僚である東間という人が説明をしてくれた。彼もあの世界にいたらしいのだが、あいにくと私は思い出せなかった。
 どうやら、私は精神世界での出来事が、現実の肉体にどのような影響を及ぼすかという実験の被験者になっていたらしい――もちろんこれは、凛のあずかり知らぬことだ。要するに、凛以外の人間は私の延命には興味もなく、眠っていた間にも病魔は確実に進行中である。それでも、そのおかげで、ここでこうしていられるのだから、内心はとても複雑だった。
 それにしても、凛のことを語る東間という人の雰囲気。あれはおそらく、ただの同僚じゃない。友達が欲しいといっていたくせに、リアルで恋人を作っていたとは、凛は最後まで侮れないやつだった。
 しかし、今となっては、彼女の存在を示すものはどこにもない。
 凛の行っていたのは国家的なプロジェクトで、しかも、絶対に公にはできない類のものであり、プロジェクトを継続できる人物がいなくなったことから、全ては無かったことにされ、私も元の病院に戻されることになっていた。
 今にして思えば、凛と過ごした学校の生活は何だったのだろうと思う。
 夢のようであり、現実のようでもあり、しかしルーチンワークのような日々に戻されると、それはもう過ぎ去ったものなのだと分かる。
 私は何も変っていない。
 けれど、確かに何かが変っていた。
 私の枕元には、いつも花が生けられている。兄さんが持ってくるのだ。
 スノードロップ――花言葉は「希望」
 もはや、助かる見込みのない人間の部屋に飾られた、希望。
私はそれを見るのが、とても嫌だった。押し付け、白々しさ。そんなものばかり強く感じていた。
 今は、それだけではなくて、送った人間の気持ちも少しは考えられる。
 少し、世界が広がったのかもしれない。
「……今日は、調子がいいみたいだな」
 そう言って、兄さんが病室に入ってきた。いつものように、私を安心させるような落ち着いた笑みを浮かべていた。ただ、今回の件から何か思うところがあるのか、わずかに私から距離をとっているような気がするのも確かだった。
「まーね」
「何か、いいことでもあったのか?」
「ん〜……」
 ……あの、凛の作った世界での日々は、私にとって、唯一生きていた時間だったのかもしれない。それが、例え作り物の世界であったとしても、私の感じたものは確かにそこに存在した。
 いいこと――確かにあった。
 私は、兄に笑いかける。
 凛は、私のことを騙し続けてはくれなかったけれど、私の願いを最後まで叶えてはくれなかったけど、それでも――――
 

「思い出していたんだよ――大切な友達のこと」







                                   完
2006-06-23 23:20:04公開 / 作者:SAQ
■この作品の著作権はSAQさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まずは、ここまで読んでくださった方に大感謝。
初めて投稿させていただきました、SAQというものです。
拙い我が作品ですが――というより、拙い作品だからこそ、推敲や今後の作品作りのため、ご意見等をいただければと思います。
この作品に対する感想 - 昇順
 初めまして。まだ序盤を読んだだけですが、引き付けられる出だしと、謎めいた『彼女』の挿入。面白そうだなって思いました。徐々に読んで、次回最後まで読んだ感想を書かせて頂きますね。ところで、『彼女』のところでたまに『彼』とありましたがミスなのか……少し分かりにくいなと思いました。では、また。
2006-06-15 23:09:35【☆☆☆☆☆】ミノタウロス
 最後まで読ませて頂きました。先ず初めに、とても面白かった事と感動させて頂いた事にお礼を。久しぶりに登竜門の長編を読みましたが、読んで良かったと思いました。泣ける作品に出会えるとかなり嬉しくなるのです。
 大まかなストーリー展開は、オキマリの仮想現実の中で精神的に追い詰められた主人公の話で夢落ちに近いのですが、不可解な世界の謎解きより、『彼女』と彼の愛の形に、寂しくも温かい友情に私は心動かされました。勿論、謎解きも面白い部分があったし、知識欲を駆り立ててくれる事象の解説は良かったです。
 ただ、謎解きに重きを置くのか、愛情や友情に重きを置くのかによってこの作品の評価が変わります。包み無く言えば、謎の面では少々中途半端。多くを隠そうとして、ただ分かりにくさを強調してしまっている部分もあります。それと会話が続くシーン。テンポはいいが、誰の台詞か分からないところがある。描写不足です。
 だが、この作品は読んでて楽しかった。久々に先を読み進む欲求に駆られた。
 誤字や描写不足を直す事でより良い作品に仕上げる事をお薦めします。
 楽しい一時でした。ありがとうございます。
2006-06-18 12:00:53【★★★★☆】ミノタウロス
ご感想ありがとうございました。
 一気に最後まで投稿してしまったので、この分量を読んでくれる人が果たしているのかどうか、少々不安でしたが、楽しんでいただけたのであれば幸いです。
 ご指摘にありましたとおり、伏線の張り方は我ながら、微妙というか上手くなかったと反省しております。元々、謎解きを主眼にした作品ではなく、仮想空間を使った人間関係や価値観の相違みたいなものを表現したかったため、「普通のようでちょっとおかしい世界」の雰囲気だけを伝えられればいいかな〜、と考えていたのですが、読者側からすれば答えの片鱗すら与えられない、ストレスの溜まる構成になってしまったかもしれません。自己満足で終わらないようにしなければなりませんね。今後の改善点です。
 誤字脱字や描写不足については……言い訳しようもないミスというやつですね。とはいえ、描写に関して言えば、これを過不足なく行うのは、至難の技ではあるのですが――少しでも読み手の分かりやすい文章になるよう、描写の補足などいたします。
2006-06-18 23:45:47【☆☆☆☆☆】SAQ
 はじめまして、いやはやチェリーと申します。初投稿というのは驚きです。文章力もよく、私にはとても勉強になるものであると思います。途中、台詞の連続で描写がぼやけた感じもありましたがしょうせつの流れとしてみると形式はやはりいいのかな。う〜ん。でも初投稿でこの文章力、そして物語の土台がしっかりしているため完結まですらすらと読めるこの作品には賞賛に値します。シナリオとしては、『定番』が感じられそうでしたが読んでいくうちにそれも解消されるかと。うん、うまいなぁ。いつのまにか力のある作者様が増えて驚きを隠せません。私と違って将来性も高いです。謎、愛、世界観、いやぁよかったなぁ。なかなかこういう作品にはご無沙汰していなかったので読んでいてとても満足感が沸きます。あ、長くなりました。ではでは、次回作期待してお待ちしております。 ノシ
2006-06-22 02:31:12【★★★★☆】チェリー
ご感想&ご指摘ありがとうございました。&お褒めの言葉、恐縮です。
やはり、台詞の連続の部分は、描写をはさんだほうが人物の細かな機微が分かりますね。テンポ重視もほどほどにしておかないとって感じです。
というわけで、少々描写の部分に付け足しをしてみました。これで少しはマシになった――と思いたいところ。
2006-06-23 23:45:32【☆☆☆☆☆】SAQ
計:8点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。