『雨とコーヒー』作者:セツ / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
おかしな喫茶店『雨やどりカフェ』での小さな物語。
全角2140文字
容量4280 bytes
原稿用紙約5.35枚
 本当の名前が何なのか、知らない。もし知っていたとしても、長いこと本当の名前で呼んだことがないから忘れてしまっている。
 その店は『雨やどりカフェ』と呼ばれていた。営業日は雨の日、休業日は雨の降らない日という何ともおかしな喫茶店で、狸のような、素晴らしい太鼓腹の中年男が主人だった。そういえば、主人の名前も覚えていない。
 『憂鬱な雨の日に、ささやかでも幸せな時を過ごして欲しい』がモットーのカフェの店内には、いつもラブ・ミー・テンダーが小さく流れていた。小学校でオーラリーだと習ったこの曲が、本当の曲名はそれなのだと知ったのは、この店でだった。当時、新米フリーライターだった私は、仕事に行き詰ると必ずこのカフェに足を運んだものである。そういう日は、たいてい雨が降っていた。

 雨の日、トーストをホットミルクで流し込み、ベンジャミンにいつもの半分だけ水をやると『雨やどりカフェ』へ向かう。大きな麻のトートバッグには、溜めに溜めた仕事が詰まっている。大降りの雨だと、傘を差しても服が塗れ、大中小様々の雨染みがよく出来てしまう。だから雨は嫌いだ。それでも、『雨やどりカフェ』に行く雨の日はわくわくする。雫がはねるように心が躍り、雨の日特有の湿った埃っぽいにおいも気にならなかった。
 その日は割りと空いていて、空いた席が目立っていた。私はカウンターの隅に陣取り、原稿用紙の束や資料等を積み重ねた。いつもの様に、ホットサンドどカフェオレを頼もうと店主を呼ぶと、ふとメニューが目に留まった。どうやら新メニューが出たらしい。メニューの紙の隅っこに小さくではあるが、色をつけて目立つようにメニューが付け加えられている。読んでみると、こう書いてあった。
『コーヒー(商品名未定)』
 商品名未定のコーヒーとは、なんとも奇妙である。一体どんなコーヒーなのだろう。
「新メニューを見てるんですかい?」
 しげしげとメニューに見入る私に、店主が声をかけた。
「え、はぁ。まあ」
「遠くから仕入れた新しい豆のコーヒーをメニューに加えたのですが、もうコーヒーはメニューにありますからね。名前を募集しているんですよー」
 店主の豪快に笑うリズムで、お腹がゆさゆさと揺れている。私は、カフェオレをやめて『コーヒー(商品名未定)』を頼むことにした。コーヒーはあまり得意ではなかったが、不思議な名前のそれにとても興味をそそられたのだ。
 運ばれてくるまでの間、ひたすら資料を睨みながら原稿用紙にペンを走らした。この店の和やかな雰囲気は、どうやら仕事の効率を促進させてくれる作用があるらしい。いつも、担当者にがみがみ叱られている私とは思えない程の進みっぷりで、出来るならこの店にオフィスを置きたいくらいだ。
 ふと、カウンターの奥を見る。アンティークなコーヒーメーカーが、こげ茶色の雫を上から下へと落としていっていた。一粒、一粒。ぽつり、ぽつり。苦味の利いた芳しい香りを広げていきながら。隣のコンロでは、ケトルが中身のミネラルウォーターを沸騰させている。しゃん、しゃんと薄い水蒸気が優しく立ち上り、空気中に静かに消えていっている。コーヒーを淹れるだなんて、どの家でもやっていそうなことなのだけど、なんとなくこのコーヒーは特別なのだと思った。立ち上る、しっとりした湯気も、コーヒーメーカーから滴り落ちるコーヒーの雫も、まるで今日みたいな雨の日のようだと思った。
「はい、おまちどうさま」
 コーヒーが運ばれてくると、私は店主を仰ぎ見て言った。
「コーヒーの名前」
「え」
「このコーヒーの名前、『雨やどりコーヒー』っていうのはどうですか?」
 雨やどりコーヒーねぇ……。と店主は少し考えるように上を向くと、日が差したような笑顔を私に向けた。
「うん、いいねぇ。その名前。それにします」
 店主は奥からマジックペンを持ってくると、ふっくりした手でメニューを取り上げた。角ばった字で新しい名前を書いていく。
「うん、いい感じですね」
 彼はそう言うと、ほかのお客のところへ去っていった。その『雨やどりコーヒー』は、少し酸味があって美味しかった。後から出たホットサンドをかぶりつつ、原稿用紙を埋めていくと、ふとあるフレーズが浮かんだ。ペンを握りなおすと、落書きのように、メニューの『雨やどりコーヒー』の横に書き加えた。
『憂鬱な雨の日に、ささやかでも幸せな時を過ごさせてくれる飲み物』
 うん、いい感じ。一人でくすくす笑った。外は、相変わらず大降りの雨だった。

 五年ほど経っているが、あの日から『雨やどりカフェ』には行っていない。仕事の都合で、他県へ移住することになったのだ。それでも、仕事が溜まってくると雨の日に一括して取り組むという習慣は、今でも変わらない。コーヒーもあれからよく飲むようになった。
 もう『雨やどりカフェ』は無いのかもしれない。あの場所には、高層ビルが建ってしまっているかもしれない。そうだとしても、雨の日になると心のどこかが騒ぐ。また、あのコーヒーを飲みたいと思う。
 雨の中に、あのコーヒーの匂いが、かすかに香ったような気がした。
2006-05-28 21:39:07公開 / 作者:セツ
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■作者からのメッセージ
はじめまして、初投稿です。
短めですがどうでしょう。
辛口でお願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
 初めまして。河野つかさと申します。拝読いたしました。
 文章表現がとても丁寧でお上手だと感じました。何気ない情景を適切に、控えめですが活き活きと伝えていると思います。どことなく、稲垣足穂の不思議なファンタジーを思い出します。主人公の目の高さが作中で一貫されていて、読者として安心してついていくことができました。
 辛口、というよりは、単に私の感性でお話してしまって恐縮なのですが……
 主人公が最後に書き加えたメッセージが、どうにも陳腐に感じました。今までの、日常を描きつつもどこか新鮮な雰囲気、と、このメッセージのありきたりさ(失礼!)が、どうにも合っていないような気がします。特に、「……時を過ごさせてくれる飲み物」の、最後の「飲み物」に違和感を感じました。この単語がなくても十分意味は通じると思いますし、ひっかからなかったかな、と……
 また、細かいですが、最後の段落の「また、あのコーヒーを飲みたいと思う。」の一行は自分なら削ります。「心のどこかが騒ぐ」→「コーヒーの匂いが……」で、十分に主人公の気持ちはわかると思いますので。
 好き放題書かせていただきました。ご不快な思いをされましたら陳謝いたします。
 全体的にとても読みやすく、素敵だな、と思いましたので、投稿させていただきました。次回作を期待いたしております。乱文にて失礼いたしました。
2006-05-29 06:55:13【☆☆☆☆☆】河野つかさ
ありがとうございます!
私の駄目なところがよくわかりました。
これから、もっと精進しようと思います!!
批評も、読みやすいと言っていただけたのも、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。
2006-05-29 21:42:14【☆☆☆☆☆】セツ
 この作品に対して好感を抱けるところは、まず喫茶店やコーヒーに関するしっかりとした描写ですね。珍談奇談から一見無縁なところにあるような事物に対してしっかりとした描写をやるというのは、普段そういったものに対するしっかりとしたまなざしを持っている証拠だと思います。その辺り、ビギナーとそうでない水準との、ひとつの分かれ目なんだろうなと思う。
 さて、それだけに段階をあげるべきでしょうね。例えばフリーライターという商売の設定にリアルをあまり感じない。仕事に行き詰まった新米フリーライターは果たして感じのいい喫茶店に行くことでストレス解消ができて仕事がはかどるのか。多分これは喫茶店の効用を説明描写するための設定だと思うのだけれど、製作意図に対して説得力がちょっと連動していないかなと。組織に帰属する勤め人という気楽さがあっても、仕事に煮詰まると発狂せんばかりにグダグダになることを思えば、自分の腕一本で食っている、一歩間違えばすぐに食えなくなるヤクザな家業のせつなさって、こんな安直なものじゃないと思う。ちょっとそういうところに想像性が及んでないなあと。
 一人称語り主人公形式もより熟考し洗練する必要があると思います。というのは形式上作品の全てが主人公の主観によって語られる。そのためには主人公はいったいどういう人間であるのかを主人公の語りによって提示してあげないとならないということでもある。といって、「私は○○これこれこういう人間である〜」などと自己宣言している人間というのはいないわけで、またいたとしてそんな自己説明は胡散臭いわけで、自らの語りにより自らを造形していくさりげなさを演出しないとならないわけですね。それをなすことによって読み手に語り手主人公のひととなりを印象付けていくと共に、書いている自分自身が語り手主人公を適切に他者として見つめ、把握していくことになるとも思うのです。
 段階があがれば、当然のことですけれど、書かれた文章の五倍ぐらいは水面下で考えを持ってないとならない。読み手はひとつひとつのセンテンスや言葉に立ち止まり、その向こう側にある何かを手探りで探し出そうとするのだし、またそれが快楽的なのですね。その無言の問いかけに対して言外の何かを持っているような、そういういい作品を描くポテンシャルがあると思いますので、自分自身の中の鉱脈に対して着実に貪婪であり続けてもらいたいと思うのです。
2006-06-07 04:14:47【☆☆☆☆☆】タカハシジュン
計:0点
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