『木漏れ日の下で』作者:九宝七音 / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全てが憂鬱に思えていた……。私は仕事を辞め、『如月荘』と言うボロアパートに引っ越す。そこには一風変わった管理人が住んでいた。そんな中、私はある小学校の校庭に聳える大きな楠木を見つける。木漏れ日の舞う幹のたもと……、そこに《視力のない彼女》はいた。私は瞬時にして、その彼女に恋心を抱いてしまうのだが、彼女の《父親》は数ヶ月前に、《完全密室》と化した部屋で不審死を遂げていた……。
全角87448文字
容量174896 bytes
原稿用紙約218.62枚
<一>

 ずいぶん昔の事のようにも思えるし、つい最近の出来事にも思える……。
 湿気の多い狭い洞窟を何の明かりも持たず歩くように、あの頃の私には、何の未来も見えず、ただがむしゃらに暗闇の中を手探りで歩いていくような、そんな時代であった。今にして思えば酷く陰鬱で、滑稽で恥ずかしく、それでいて何かを必死で探し続けていた自分……。思い出してみても、ただただ苦笑いが浮かんでくるだけである。
 確かにあの頃の私は若く、まだ世間のなんたるかも知らない青二才であった……。
 ふと、当時の同世代の若者たちと私とは、ずいぶん違うものであったと感じる事があった。それが良い事だったのか、それとも悪い事であったのか、今の私にしてみればどちらでもいいことだと思えるのであるが、当時の私は、その事に酷いコンプレックスを抱いていたことは間違いない。もしそうでなければ、私はあの『如月荘』(きさらぎそう)というぼろアパートに住み着く事もなかったし、あのような悲しい事件に巻き込まれる事もなかったであろう……。
 人と人とが出会い、そして別れる。それは時折『運命』という名のレールの上に置かれることがあるが、あの事件はまさにそうした運命の導きによって行われたものであろうと思う。運命など存在しない、運命とは自分で切り開くものだ、と豪語する人間も確かに多数存在するであろう。それはそれで私は否定もしないし肯定もしない。ただ、運命を感じる事が一生のうちで、必ず一度はあるものだ、という事を私はあの事件を通して知り、そしてさらなる自分の運命に対しての無力さを思い知らされた出来事でもあった。

 果たして今、このように筆を執り、読者諸君に私の『運命の物語』を公開するにあたって、正直な話、私はまだ多少の不安を抱いている。
 今から綴る物語は決してフィクションではなく、私が身をもって体験した物語なのだ。その物語の中には青春があり、笑いがあり、そして悲しみがある。読者諸君はそれを読み、恐らく腹を抱えて笑ったり、ハンカチで目頭を押さえる事になるであろう。しかし私は、それに対して何の脚色もしていなければ、空想の産物も織り交ぜていない。ただ、冷徹な第三者としてこれからの物語を綴っていくつもりである。だから私は、この物語を書くうえで幾つもの感情を封印しなければならないであろう。そうしなければ、到底この物語を事実上のものとして完成させる事はできないと思っているからだ。そうする事によって、あの悲しみをこの物語の中に永遠に封じ込めようと思っている。それであるから、当時の出来事を思い浮かべるにあたって、自分で体験した事に関わらず、私は笑いもしない、泣きもしない。ただ無心でこの文体を刻んでいくだけだ……。

 さて、読者諸君にとってどうでもいいような弁論じみた解釈はここまでにして、いよいよ物語の扉を開こうと思う。それは同時に、私の心の扉を開く事でもある。しかし私は決して……否、せめて、この物語を書き終わるまで、感情の扉は閉じておこうと思う……。

(※途中で一部、友人の話のみで構成した部分があるのだが、そこは多少の空想を加えている事をどうかご了承していただきたい。その場面はどうしてもこの物語を綴るうえで、欠くことのできない場面だからである。微力ながら、その友人の話を忠実に再現したつもりではある)



<二>

…大分県 大分市 
        六月……。

 二十三歳を目前に控えていた私は、四年間勤めていた印刷会社を突然に辞めた。もともと社会に出るつもりのなかった私にとって、会社勤めはずいぶんと憂鬱なものであった。しかしながら、幸運な事に私の勤めていた会社は若い人間が多く、新入社員の頃からずいぶんと可愛がられてやってきた。気の合う仲間も多く、よく居酒屋に大勢で飲みに行ったり、会社の昼休みには野球をして遊んだりなどしていたから、それほど居心地の悪いところではなかったように思う。だから、全くもって社交的でない私が、その会社を四年間も勤め続けられたのであろう。
 しかしそれでも、憂鬱さが掻き消える事は一時もなかった。その理由は恐らく、誰もがその歳には持ちうるような些細なものである。毎日が同じことの繰り返しで、果たして自分はこのままで歳をとり、死んでしまうのであろうか? この仕事が、本当に自分のやりたかった事なのか? ……など、くだらないなりにも当時の私にとっては、自分の人生を左右する大きなことに思えてならなかった。勿論、それだけではない。ただ単に面倒くさい、給料が満足しない、などの、それこそ自分に対する甘えから来るわがままも確かにあった。
 毎日がつまらなく、くだらない事のように思えていた。
 私はもともと根暗な人間である。そうであるから、友人も少なく、自らその輪を広げようとも思わなかった。久しぶりの友人たちと集まっても、出てくる話題は女やセックスの話、はたまた好みの女優や何時からあるドラマが面白いなど、あそこのパチンコ店がどうだこうだ、麻雀の話がどうだこうだ……。そういう者たちから、私は徐々に離れていった。
 気づくと私は独りぽっちになっていた。
 何をするにも無気力で、自信が持てず、誰かを信ずる事をしなかった。恐らく私は、一歩間違えば大きな犯罪を犯していたかもしれないし、自殺を図っていたかもしれない。自分が嫌いであったし、自信の欠片もなかった。
 だから会社を辞めた。暫くは一人になって、何も考えずに暮らしたかった。ただそれだけだ……。 私は親元で暮らしていたのだが、会社を辞めるとすぐに家を出ようと決心し、アパートを探し始めた。私の両親は根っからの良識家だったので、無職でぶらぶらとしている息子を家に置いておく気は勿論ないらしく、私が家を出て行くと言った時点で、じゃあ、親子の縁を切る、といわれた。別にそれで構わなかった。
 私は完全に追い出される前に、と急いで不動産屋へ駆け込んだ。


「家賃三万円ねぇ……」
 駆け込み一番私が尋ねると、不動産屋の主人は鹿爪らしい顔つきをして、額から禿げ上がった髪の毛を軽く掻いた。歳は五十代半ばぐらいであろうか。
「ええ、別にどんなところでもいいんですよ。まぁ、あまり悪い噂がないところだったら」
 私が力なくそう言うと、主人はふぅむぅ、と唸って自分の手元にある台帳をめくった。
「ここなんかどうだねぇ? 個人で経営してるところなんだけど……。『如月荘』っていうアパートなんだけどね」
 私は指差されたページを覗き込む。
「しかし、ここの管理人がずいぶんと変わり者というか、偏屈者でねぇ。一癖も二癖もある人間なんだよ。以前、私も話した事があるんだけどねぇ、あれはついていけないなぁ」
 やけに緩やかな口調で話す主人である。
「はぁ、そうなんですか」
「う〜ん、他に家賃が三万円ってところはねぇ……。いまどき、山奥の方に行かないとそんな安いところはないよ」
 山奥の方に行かなくてもあるなら、その『如月荘』で構わない。
「あの、一応そこに行ってみます。場所を教えてもらえますか?」
 私は台帳のそのページを指差し、言った。しかし、主人は相変わらずの渋面で頭を掻いている。
「本当にいいのかい? 六、七万円出せば、もうちょっといいところに住めるよぉ。お兄ちゃん、女の子好きだろう? ここなんかいいよぉ、女子大学の寮が隣にあってねぇ……」
「あ、否、そんなのはいいんです。とりあえず如月荘に行ってみますから」
「ふぅん。まぁ、あんたさんがそう言うのならいいんだけどねぇ。でも、ここの管理人は本当に変わってるよぉ。他人をからかうのが趣味だって言う、人をくった人間だよ」
「はぁ、そうなんですか……」


 冴えない会話のあとで、不動産屋の主人はようやく『如月荘』の住所を教えてくれた。その場所は、地元からそれほど離れていない場所だったので、私は電車に乗って移動する事にした。
 目的の駅で降りると、私はそそくさと歩きだす。
 暫くは閑散とした住宅街が続き、迷路のような入り組んだ路地に、私は苦戦していたが、なんとか『如月荘』を発見する事ができた。
 そこは、先ほどまで通ってきた住宅街からはだいぶん離れた場所に建ってあった。一見すると木造の古めかしいアパートに見える。瓦敷きの屋根の上には大きな文字で『如月荘』と殴り書きされたような看板が、畏怖堂々と設置されてあった。
 暫く私は遠めにそのアパートを見ていたのだが、このままここでじっとしていても埒が明かないと思い、『如月荘』なる貧相な建物の敷地内に入ったのである。
…おや?
 まず私の耳に聞こえてきたのは、どこかの部屋からアコースティックギターの音が漏れる音であった。誰かが音楽でも聴いているのだろうかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。同じフレーズを繰り返したり、途中で音が止まったりしている。物悲しいアルペジオ調の曲のようだ。
 私は、音の漏れる部屋のほうへ導かれるように歩いていった。
 この『如月荘』は、1階に三部屋、二階に三部屋が横一列に並んでいるようである。音が聞こえてくる部屋は、一階の向かって一番左側の部屋だ。私はその部屋の前で立ち止まる。

『管理人 影戸輝(かげとひかり)』

 扉の横につけられた、蒲鉾板のような表札には丁寧な墨字でそう書かれてあった。『影戸』とは珍しい苗字だな、と思った。
 尻込みながらも、表札の下にあった、これまた貧相なインターホンを押すと、ギターの音が止み、人の気配が玄関越しに近づいてくるのが解った。
「はぁい?」
 少々くぐもったような声のあとで玄関が開かれて、中から部屋の住人が顔を覗かせた。
 私と同い年ぐらいの青年だった。しかしながら、その容貌は私とは天と地ほどに差がある。切れ長の綺麗な二重まぶたに、一本筋がはっきり通った鼻。バランスのとれた唇は色白の肌には桜の莟のように見える。そして、縁無しの小さめの眼鏡の奥の瞳は、少しブルー掛かって見えた。まるでギリシャ彫刻にあるような、絵に描いたような美青年だ。恐らく、混血(ハーフ)だろう。
 暫く私が、その綺麗な顔に見惚れたまま声を出せずにいると、
「うん? 新手の宗教かい? 人の顔をじっと見て……。近いうちにあなたにはとんでもない不幸が訪れるでしょう、とか言うんだろう?」
 などといわれてしまった。
「あ、え、い、否……」
 私は態勢を立て直すべく、彼から一歩あとずさると、手を振った。
「え、えっと、部屋を見せてもらおうかと思って……。お父さんかお母さん、おられます?」
 私がそう問うと、美青年はあからさまに不審気な表情を顔に出した。
「オトウサン? オカアサン? ……君は何を言ってるんだ。そんな人ここにはいないぞ。それとも、君の両親がここに住んでるとでも言うのかい? それならあいにく、このアパートは僕しか住んでないよ」
「へっ?」
「へっ? て、疑ってるのかい? ……ははん、もしかして君の両親は誘拐でもされたのかい。それで、僕を犯人だと疑ってるんだ。悪いけど、それは全くの見当はずれだ。僕には心当たりがないね」
「あの、そうじゃなくて……」
 話が妙な方向に進んでいるような気がしたので、私が弁解しようとすると、彼は私の言葉を構わずさえぎる。
「警察には言ってるのかい? 身代金の要求は? 何か誘拐されるような心当たりは? ……あーっ、そうか! ここが身代金の受け渡し場所なんだな。全く、勝手に人の敷地を指定するなんて、とんでもない輩だ」
 彼はそう言いながら、ついには玄関から完全に出てきて、腕を組み、私の前に立ちふさがった。
 ずいぶんと背が高い。百八十五センチ近くはあるだろう。全体的に細身の華奢な体付きで、足が長く、まるでファッション雑誌のモデルのようだ。
「君、心配する事はないぞ。僕がその不届きな奴らをふん捕まえてやる!」
「え、いやぁ、だから違うんです」
 しどろもどろになりながらも、私はようやくそういうことができた。
「違う? 何が?」
 彼は鼻先にずり下がった眼鏡を人差し指で上げてから、理知的な顔を私に近づけた。同性とはいえ、彼のその容貌にはドキリとする。
「へ、部屋を見せてもらいたいんですよ。だから管理人の影戸輝さんをお願いしたいんです」
 私が言うと彼はなんだぁ、と溜め息をつく。
「入居希望者か。それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
 そう言われても、自分が勝手に話を進めていったのではないか。そう言おうとしたが、彼のほうが先に口を開いた。
「君は、この表札が目に入らなかったのかい? 僕がここの管理人だよ」
 彼は蒲鉾板の表札を指差す。
「えっ、そうなんですか!?」
 意外な彼の返答に、私はずいぶん驚いた。不動産屋の話し振りでは、ずいぶんと頑固者のオヤジ、というイメージを受けていたのだが、まさかこんなに若い管理人だとは思いもしなかった。そのせいだろうか、妙な違和感を覚えてしまう。
「部屋が見たいならちょっと待ってて、鍵持ってくるよ。見るだけなら、僕の隣の部屋でいいだろう? どこの部屋も造りは同じだからさ」
 管理人はつまらなさそうに言うと、すぐ自分の部屋の奥へと姿を消した。
 確かに変人だ。否、まだ会って数分しか経っていない。変人のような気がする、と言い換えておいた方がいいだろう。彼の容貌と、言動とのギャップが私にそう思わせたのである。
 ややあって、管理人が部屋から出てくると、鍵を持って隣の部屋を開けてくれた。
 部屋の中はアパートの外見とは違い、中々小奇麗であった。四畳半二部屋にキッチンの2LKのようなものである。
「ボイラーやエアコンは付いてないよ」
 管理人は言う。
「ええ、それは別に構わないです。あれば便利なだけで、なければないでも、生活していくうえで何の支障もないですからね」
 私はそう答えた。そしてここに住もうと決心する。
 管理人に断って、一応、一通り部屋の中を見て回ったが別段気になるところはない。
「管理人さん、僕、ここに住んでもいいですか? できれば二階のほうがいいんですけど」
「あ、そう。僕は勿論構わないよ。ただし、家賃は毎月三万円だ」
 私は管理人の言葉にうなずく。
「じゃ、好きなときに来ればいい。荷物なんかも運んでこなきゃならないだろう? 鍵はそのときに渡すよ」
 管理人は、相変わらずつまらなさそうにそう言うと、さっさと自室へ引き返そうとする。
「ち、ちょっと、書類とか書かなくていいんですか?」
 私が尋ねると、管理人はしかめっ面で私のほうを振り返り、首を横に振る。
「そんな面倒くさいものいらないよ。月初めの第一水曜日に、三万円を僕に渡してくれればいい」
「あ、ええ、それは勿論ですけど……。なんかトラブルとかがあったときは……」
「なんだ!? 君はそんなものを起こすつもりでいるのかい」
「と、とんでもない。そんなつもりはないですけどぉ……」
 管理人の態度に、私が戸惑っていると、
「う〜ん、解ったよ。そこで少し待ってて」
 といって、そそくさと自室へ引き返していった。書類でも持ってきてくれるのだろうか?
 それにしても、と私は思う。ずいぶんといい加減な管理人である。本当にこの先、このアパートでやっていけるのだろうか……。私は少しだけ不安になった。
 暫く待って、管理人が持ってきたのは、なんとテープレコーダーだった。
「書類を書くのは面倒だろう? なら、僕たちの会話をこれで録音しておこうではないか。なにかあって、裁判沙汰にでもなったら、これが証拠になる!」
 若い管理人は快活にそう叫ぶと、得意げな顔をする。勿論、私は狼狽するが、そんな事お構い無しに管理人は録音ボタンを押した。
「えーっ、まず、私はこの如月荘で管理人をやっている影戸輝でございます。そして、今、僕の隣にいるのが、ここに住みたいという若人……」
 そう言って、私を睨む。
「へっ? あ、あのぉ……」
「早く自分の名前を言いたまえ」
 管理人……影戸に促されて、私は戸惑いながらも自分の名前を口ずさむ……。なんだか、実にアホらしい。私は煙草を取り出すと口に咥えた。
「よろしい。じゃあ、今から条約を言うから、君は『YES』と答えてくれ。……それではまず一つ! 煙草はいいが、決して家を焼かない!」
「はぁ?」
「返事は?」
「イ、イェス」
「ふたーつ。家賃は第一水曜日、僕のところに三万円を必ず現金で持ってくる事。三日は待つけど、それ以上待たせる場合は、即撤退を要請する」
「イ、イェス」
「みーつ。ペットを飼うのは基本的に駄目だけど、犬は許す」
「は、はぁ、どういうことですか?」
「どういうこともへったくれもない、僕は犬が好きなんだ! 返事は?」
「イ、イェス……」
「よし、次で最後だ。よーつ。午後十時半以降は、部屋の中で騒音を鳴らさない。つまり静かにする事」
「あ、あのぉ、どうして十時半以降なんですか?」
「僕が寝る時間だから! ……返事は?」
「イ、イェス……」
「オッケー! これで録音終了!」
 管理人はそう言って、停止ボタンを押した。
 一体なんだというのだろう。私はしばし呆然と煙草を咥えているだけだった。
「これで用件は済んだろう?」
 管理人は、肩眉を吊り上げて聞いてくる。
「え、ええ、まぁ……」
「じゃ、僕は帰るよ」
「ち、ちょっと待ってください」
 私は呆然としながらも、再び管理人を呼び止めた。
「なに? まだ用事があるのかい? いきなり僕を訪ねにきたかと思えば、やれ誘拐だの、やれ宴会だのって一人で騒ぎ出して。全く、君は落ち着きがないなぁ」
 それはあんただろう! とよほど言おうとしたが、また話が滅茶苦茶な方向へ行かされそうなので、ぐっと耐える。
「明後日、ここに越してきますんで……」
 私はそれだけ言った。
「あっそう。待ってるよ」
 管理人は手を上げると、テープレコーダー片手にゆっくりと自室へ戻っていった。
 私はその後姿を見送り、そのあとで大きく溜め息をついた。
 
 今日はなんだか、ずいぶんと疲れた……。
        

 


<三>

 それから三日後、私はレンタカーの軽四トラックを借り、荷台に引越しの荷物を載せて如月荘に向かっていた。もともと、私自身マイカーを持っていたのだが、仕事を辞めたと同時にその車も売ってしまった。勿論、月給のなくなった私に残りのローンを支払える見込みがなくなったからである。
…いずれは、アルバイトでもしないと家賃も払えなくなるな。
 そんな事を思いながら、アクセルを踏んでいた。まあ、少しの間は、失業保険なるものが宛がわれるし、多少の貯えもある。
 煙草をくゆらせながら、ゆっくりとハンドルを右に切る。そして、閑散とした住宅街の細い路地を抜けると、やがて如月荘が見えてきた。
 私はそのボロアパートの敷地内に車ごと乗り入れると、エンジンを止め、車を降りた。そして三日前と同じようにして、如月荘なる奇妙な管理人の住むアパートを見上げた。
…今日から新しい生活が始まる。
 別にその事に希望が湧く訳でもなかったし、心が躍るわけでもなかった。なるべく人に関わらずに生きていきたい、そんな思いだけが私の頭にあっただけである。
 空は快晴で何よりの引越し日和だ。少し蒸し暑くはあったが、夏が近づいている証拠であろう。
 とりあえずは、あの偏屈な管理人に挨拶しておくべきだろう、と思い、彼の部屋へ向かった。自分の住む部屋の鍵を貰わなければ、荷物も運び込めない。
 私はインターホンを押す。今日はギターの音は聞こえてこない。
 暫く待っても返事がない。再びインターホンを押す。しかし、結果は一緒であった。管理人は、どこかへ出掛けているのだろうか。不審に思って、私がドアノブに触れようとしたとき、不意に後方でギターの音がした。何事かと振り返ってみると、例の管理人、影戸輝が勝手に人の荷物を漁っているではないか。
「へぇー、君も『アコギ』持ってるんじゃないか。しかも中々ビンテージものだね。ヤマハかぁ、見かけによらずシブいなぁ」
 管理人はそういって、再び私のギターをかき鳴らす。
「うん、バランスのとれた音だね。ほぉう、ピックアップもついてるじゃないか。一九九三年に作られたやつだね。型番は……LL‐25Eか。ふーん」
 言いながら、管理人はその場に座り込み、楽しそうにギターを弾いている。
 私は、ゆっくりと彼のほうへ近づいていく。
「どうも、今日からお世話になります」
 一応丁寧に頭を下げておいた。
「やあ、そういえば、君が来るとか言ってたのは、今日だったけ? すっかり忘れてたよ。今、ちょうど散歩から帰ってきたところなんだ」
 私のほうに顔を向けず、ギターを見たままで管理人はそっけなく言う。
「その散歩の途中でね、近くの公園に寄ったんだけど、まだ幼稚園ぐらいだろうなぁ……女の子たちが集まって『かごめかごめ』をやってたよ。まだ、あんな遊びをする子供たちもいるんだね」
「はぁ、そうですか」
 突然な会話だ。管理人は一体何を言いたいのだろうか。
「ところで君、『かごめかごめ』の歌を知ってるだろう? あれって、面白い歌だとは思わないかい。まったく詩の内容が理解できない。君、ちょっとそこの地面に歌を書いてみてよ」
 そういわれて、私は頭の中で『かごめかごめ』を歌ってみた。別に断る理由もない。言われたとおり、人差し指で地面をなぞって詩を書いていく。

              かごめかごめ 籠の中の鳥は
              いついつ出やる
              夜明けの晩に
              鶴と亀が滑った
              うしろの正面 誰?

 大体こんなものだっただろう。私が記憶している限りでは、これでいいはずである。
「どうだい? その意味が解るかな?」
 管理人はそこでようやく私に顔を向け、悪戯を楽しむ子供のような笑みを浮かべた。
 確かに、全くもって意味不明な詩である。
「うぅん、そういえば意味の解らない歌ですね。大体『かごめ』ってなんなんですかね? 籠の中の鳥ってことは、カモメの事ですかね?」
 私がそういうと、管理人は手を叩いて大笑いする。
「はははっ、君って中々面白いやつだな。『カモメカモメ』か! いゃぁ、傑作だね」
 あまりにも馬鹿笑いされるので、私は少しむっとする。
「な、何がそんなにおかしいんですか?」
「ああ、悪い悪い。……いいかい、『かごめ』を漢字で書くとこうなるんだ」
 管理人はそういって、地面に字を書く。
「『籠目』。……籠の編み目をさしてそう呼ぶ事があるんだ。でも、この童謡の場合では『かごむ』、つまり『かがむ』の命令形になるんだよ」
 なるほど。私は一人座っている子供の周りを、手を繋いで囲っている子供たちの姿を思い浮かべた。
「でも、そうだとしても大して意味は通じませんよ」
 私は思った事を口にした。
「そうだね。……そこで僕は、この歌は長い年月の間に詩の内容が微妙に変化してしまったと考えてるんだ。この歌は本来、身売り専門の女郎屋かなにかで唄われていた歌じゃないかな、ってね。それが子供たちの耳に伝わり、今の形になった……」
「どういうことです?」
 私が問うと、管理人は再びにやりと笑う。
「『かごめ』って、こんな字をあてるんじゃないかな」
 そういって、先ほどと同じように、管理人は地面に字を書く。
「『籠女』……。つまり、籠の中に囚われた女性だ。そうやって、少し詩の内容を変えてみるとこうなる……」

                籠女籠女 籠の中の鳥は
                いついつ出やる
                夜明けの《番人》
               《ツルン》と《仮面》が滑った
                うしろの《常連》 誰?

「ねっ、こうするとなんとなく意味が通じるようになる。籠の中の鳥、って言うのは、もちろん囚われた女性を喩えた言葉だね。そして、その女性が逃げないように、夜明けまで見張っている番人がいるんだ。その番人は、いつも仮面をかぶっているんだけど、実はその女郎屋に入り浸る常連の一人だったりする……」
 そういわれて、私は管理人の書いた詩の内容を想像してみた。
 暗闇の中、籠の中に囚われ、泣きながら座り込んでいる一人の女性。そして、そのうしろで女性をじっと見張っている仮面をつけた番人……。その番人の仮面は、鬼の面だろうか? それとものっぺらぼーのような、表情のない仮面か? ……どちらにしろ、陽気なお面は連想しにくい。その番人が、女性を見張りながら、陰気な声でこの唄を歌っている……。
「不気味な歌ですね」
 なんだか、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。しかし、管理人は私の反応とは正反対にハハハッ、と笑うと、
「いま思いついただけだよ」
 と、何も無かったかのように再びギターを弾きだす。
 時間の無駄だった。やはりこの男とは、あまり関わらないほうがいい。不動産屋の主人が言ったように、まるで人を馬鹿にしている。
「荷物運ぶんで、鍵ください。二階の向かって一番端の!」
 わざと気分を害したかのように声を荒げて言ってみたが、管理人はどこ吹く風といった感じで、
「ああ、そうだったね。二階の右端って言うと、二〇三号室だね。ちょっと待ってて」
 といかにも涼しげな顔で、ギターをハードケースの中にしまい、自分の部屋へゆっくりと戻っていった。
 三分ほど待っていると、管理人はややあって、鍵を持って私の前に姿を現す。
「はい、これが鍵だよ」
 そういって私の手に鍵を置くと、三度(みたび)その場に座り込んで、私のギターを取り出した。
 私はそれを無視して、所々錆びの浮いた狭い鉄製の階段を昇ると、目的の部屋を開け、中を覗いた。確かにこの前見た部屋と変わりはない。それだけ確認すると、私は荷物を部屋に運び込む作業を始めることにした。
 しがない一人暮らしであるため、重たい荷物はそれほどない。小さな2ドアの冷蔵庫と十四インチのテレビ、あとは小さな箪笥ぐらいだろうか。その他諸々(もろもろ)は簡単に一人で持ち運びができる。とりあえず私は、軽い荷物から順番に部屋にもってあがる事にした。しかしながら、軽いといっても、何度も階段を往復しなければならないので、結構疲れる。それでもせっせと作業を繰り返していると、ようやく残るは重い荷物のみとなった。
 まずは、テレビを持ってあがる。十四インチなので一般家庭のものと比べてずいぶん小さいものである。階段の途中で何度か休憩しながら、なんとかテレビを部屋まで運び込む。あとは箪笥と冷蔵庫のみだ。
 私は首に掛けていたタオルで汗を拭うと、ちらりと管理人の様子を窺った。どうやら、私を手伝うという気持ちは少しもないらしく、相変わらず呑気にギターを弾いている。そのうち、ギターに合わせて鼻歌を歌いだす始末だ。
「あの、管理人さん。残っている荷物があるんですけど、見ても解るとおり、一人で運ぶのはちょっと大変なんで、手伝ってもらえませんかね」
 私は、冷ややかな視線を管理人に送る。すると管理人は、そこで初めて気づいたかのように私のほうを見た。
「冗談だろう? 僕に肉体労働をやらせようって言うのかい? 悪いが僕は、そういうことをしない主義なんだ。それに、僕の事を『管理人さん』なんて呼ぶのはやめてくれよ。首のしたが痒くてしょうがないんだ」
「そんなこといわれても、一人じゃ運び込めないんですよ!」
「人間、やればできるさ」
「そういうことじゃなくて……。あのですねぇ、あなたは人を助けるという気持ちは持ってないんですか?」
 少し頭にきたので、そういってやった。
「君は何を言ってるんだ。そっちが勝手に困ってるだけだろう? なんだって僕が君を助けなきゃいけないんだ?」
 管理人……影戸は無表情でそういう。
「ああ、そうですか、解りましたよ! もう、あなたになんか頼みません。そのギター返してください。僕のなんですから!」
「おいおい、大人気ないなぁ。そんな意地悪な事、普通言うかい?」
「あなたに言われたくありません!」
 私はそういって、影戸からギターを取り上げると、ハードケースに荒々しくしまった。
 影戸は肩をすくめて溜め息をつく。
「はぁ〜、解ったよ、手伝ったげるよ。全く、君はずいぶんと独裁者的な個人主義だなぁ」
 影戸はうんざりしたような表情で、再び溜め息をついた。
…だから、それはあなただぁぁぁ!
 よほど叫ぼうかと思ったが、手伝ってくれるといってくれた手前、その言葉をぐっと飲み込む。
「それで、何を運ぶんだい? あまり重たいようだったら、工事現場からクレーン車でも借りてくるよ」


 荷物を運んでいる間じゅう、影戸からは嫌というほどの嫌味や皮肉を言われ続けたが、なんとかすべての荷物を部屋へ運び込む事ができた。
 私は荷解きができず、散らかったままの部屋に座り込むと、煙草を咥え汗を拭った。影戸も私の近くに座ると、ポケットからガムを取り出し、口の中に放り込む。彼はどうやら汗をかかない体質らしく、意外と涼しげな顔だ。
「いゃあ、ようやく終わったね。おかげで無駄な体力を消費してしまったよ」
 彼は、鼻先の眼鏡をゆっくり押し上げる。
「すいません、助かりました。ありがとうございます」
 あまりいいたくはなかったが、感謝の言葉を口にする。
「なぁに、それほど感謝される事はやってないさ。第一、これは強制的にやらされたも同然だからね」
 相変わらず影戸の嫌味は続く。しかし、その表情は、言葉とは裏腹に実にさわやかな笑顔に満ちていた。
「さて、強制労働も終わった事だし、僕はそろそろ部屋へ戻るよ。しなくちゃいけないことが山ほど残ってるんだ」
 そういうわりには、ずいぶんとのんびりしているではないか。
「まさか、荷物の整理までしてくれ、なんて言わないだろう?」
 影戸はそういいながら、立ち上がった。
「あのぉ、この近くにスーパーとかないんですかね? コンビにでも構わないんですけど」
 私は、立ち去ろうとする管理人のうしろ背に尋ねた。
「君、人に頼ってばかりじゃ人間精進しないぜ。自分で考え自分で行動する、それが成人した人間のとるべき姿勢だ」
 影戸は、振り向きもせずにそういうと、姿を消した。
…自分で探せ、てことか……。
 仕方なく私は、散歩がてら近所を散策する事に決めた……。
 

<四>

 気づくと正午をとっくに過ぎていた。昼食はもちろん食べてなかったし、夕食の準備さえもできてない。今日からは自分で食事を作らなければならないのだ。
 私は財布をポケットの中にねじ込むと、荷物の片付けもそこそこに部屋を出た。
 同じ県内とはいえ、もともと家に篭もりがちのわたしにとって、足を踏み入れた事のない地域は異邦の地同然だった。何の手がかりもなく、とりあえずは近辺をぶらぶらと歩いてみるが、その辺りはほとんど住宅街のため、入り組んだ狭い路地が続くばかりだ。
 やがて住宅街を抜けると、ようやく何件かの店を見つけた。小さな電気屋、スーパー店、コンビニエンス・ストアー……。商店街ほどではなかったが、思ったよりもいろんな店がところどころに点々とあった。規模の小さなものがほとんどであったが、私にとっては十分だ。しかしながら、如月荘からはなかなかに距離があるので、これから毎日のように通うとなれば、自転車でも購入したほうがいいかもしれない。
 そんな事を考えながら歩いていたが、私は一つのスーパーに入ると、今晩のおかずになりそうなものを買った。ついでに米も買っておきたかったのだが、なんとなく今日は米を研ぐ気にはなれそうになかったので、安いステーキ肉と、何故か食パンを買ってしまった。妙にアンバランスだな、と自分で思いながらも、ステーキに振り掛ける塩・胡椒、そしてパンにつけるマーガリンを買った。普通ならば、ステーキにかけるソースも買うのだろうが、私はあまりソースというものを掛ける習慣がない。塩・胡椒で十分だ。
 一通り買い物が終わって店を出ると、私はパンを焼くトースターを持っていない事に気づいた。ついでにステーキを焼くフライパンさえもない。財布を覗いてみたが、今はそのようなものを買う持ち合わせはなかった。
 結局私はコンビニにより、弁当を買う。一人暮らしとはいえ、必要なものは結構あるもんだな、とその時しみじみ思った。


 如月荘に帰る途中、私はとある小学校を見つけた。別段珍しいことではなかったが、歩いているときその校内から、実に大きな木が覗いて見えたので、少しだけ興味を持った。正門を見つけて学校名を確認すると『M小学校』と書かれてあった。門は開いていたので、私は校内に入る。
 日曜日であるため、もちろん生徒たちの姿は見えなかったが、部活動(小学校ではクラブというのだろうか?)をしている子供たちが、ユニホームを着てサッカーをしている姿が広い運動場に見えた。
 校舎のほうは、長年風雨に晒されてきた痕がありありと解るような様子で、ずいぶんと長い歴史を持つ小学校だとわかる。母校ではなかったが、少しだけ懐かしさがこみ上げてきた。
…あの頃は、みんな純粋だった……。
 将来に対する恐れや不安など、あの頃は微塵もなかった。ただ、毎日が楽しくて泥に塗れ、汗に塗れ、疲れることも知らずに毎日はしゃぎまわっていた。無責任な大きな夢を描き、それでもその夢が無責任だとは思わずに、その夢が必ず叶うと信じて疑わなかったあの頃……。いつの間にこんなにも時間が過ぎ、あの頃の友達は変わってしまったのだろう。もちろん、私もその一人だ。嘘を覚え、人を騙すことを覚え、自分の保身だけを考える。人を見下し、貶して、話すことといえば金のことや異性の話ばかりだった。
…人は大人になるほど馬鹿になる。
 何かの本で読んだ、そんな一文が頭に浮かんだ。私もその馬鹿の一人なのだ。そう思うと、少しだけ憂鬱になった。一体、自分はどこまで堕ちてしまうのだろうか……。
 そんな事を考えながら校庭を歩く。そこにはジャングルジムやシーソー、背の低い鉄棒などが並んである。学校の昼休みなどは、子供たちがここに集まり無邪気な声を上げながら遊ぶのであろう。
 そんな校庭の隅に、例の大きな木は聳え立っていた。どうやら楠木(くすのき)らしい。大の大人が三人手を繋いで囲んでも、まだ囲みきれないであろう大きな幹。青々と隙間なく広がる葉は、遥か天空で広がっている。
 そんな時、その楠の幹の下で一人の若い女性を見つけたのである。

 私は、その瞬間を生涯忘れることはないであろう。
 微かな木漏れ日の舞う幹の袂(たもと)。そこに彼女は立っていた……。

 真っ白な丈の長いワンピースを着ていて、手のひらを胸の前で組み、目を瞑ったままで楠を見上げている。私のほうからは横顔しか見えなかったが、病的なほどの白い肌に、肩まで伸びた艶のある髪。長い睫毛は燐として上を向いており、その姿はまるで絵画のなかにあるような、幻想的で神秘的な女神の姿に見えた。
 私は暫く、呆然とその美しい彼女の姿に見惚れていた。
…あれは?
 私は、楠の根元に立てかけられた、銀色の細い杖のようなものに気づく。
「誰かいるんですか?」
 一瞬、彼女から視線を逸らした時に、彼女は私に気づいたらしく、いつの間にか瞑っていたはずの目を開き、私のほうを向いていた。
 大きく魅力的な瞳だった。しかし、少し様子が変だ。彼女の視線が、まっすぐ私の顔を捉えていない。私の背後に他の人がいるのだろうかと振り返ってみたが、やはりそこには私一人しかいなかった。
「刑事さん、ですか?」
 彼女は依然、定まりのない視線のままでそう尋ねてきた。声を発するたびに動く彼女の小さな唇は、紅をさしている様ではなかったが、淡い桜色をしている。
「あ、ああ、いえ……」
 突然彼女に声を掛けられて、私の動悸は早鐘のように鳴り響いていた。なんと切り返せばいいのか解らず、私は少しばかり戸惑う。さすがに、あなたの姿があまりにも美しいので見惚れていました、などとは到底言えない。
「あ、あのぉ、近くを通りかかったら、この楠が見えたもんですから……。は、ははっ……」
 意味もなく、私はぎこちない笑いをあげる。
「そうなんですか……。ゴメンなさい、私、目が不自由なもので」
 彼女は少しだけ首を傾けて、そういった。
…ああ、そういうわけか。
 傍目(はため)から見ても、彼女がそうであるとは全然気づかないであろう。しかし、彼女の視線と楠の根元に立てかけられた杖が、それを真実のものとして物語っていた。
 暫く沈黙ができたが、このまま黙っているのも心苦しく感じたので、私は口を開く。
「本当に大きな木ですね。人間で言うとジャイアント馬場みたいだ」
 別に笑いをとろうと思って、そういったわけではない。私は心から真面目にそう思い、それを口にしただけだ。それであるから、突然彼女がくすくすと笑い出したのに、私は少し驚いた。
「面白いかたですね。……近くに住んでらっしゃるんですか?」
 唐突な彼女の質問である。
「えっ、僕ですか? あ、いえ、今日近くに越してきたんです。だからちょっと散歩がてら近所を散策してたところなんですよ。はい、決して怪しいものではありません」
 もう一度言うが、私はふざけているつもりはない。心から真面目だ。それなのに、彼女は再び小さく笑った。
「フフフッ、別に怪しい人だなんて思ってませんよ」
 ずいぶんと笑いを堪えているようだ。そんなに私の言葉が面白かったのであろうか。
 私は苦笑いを浮かべる。
「あ、あのぉ、あなたはこの近くに?」
 初対面の女性にそんな事を聞いて怪しまれないだろうか、と必要以上にびくびくしながら私は尋ねた。
「ええ、ここの小学校のすぐ近くなんです。毎日散歩途中、ここへは来てるんです。平日の日なんかも、学校が終わった頃にここへくるんですよ」
 彼女が気さくにそう答えてくれたので、私は少し安心した。
「目が見えないのに散歩するなんて、変でしょう?」
 彼女はそう言う。
「いや、別にそんな事はないと思いますけど……」
 私がそう答えると、彼女は今度は、先ほどとは反対側に少し首を傾けた。
「失礼ですけど、まだお若い方ですよね? 声の感じでそう思うんですけど」
「え、ええ、一応は若いです。もうすぐで二十三になります」
 そう答えると、彼女の顔が一瞬ほころんだ。
「そうなんですか! じゃあ、私と一緒ですね」
 そこで初めて、彼女は明るい声を出した。
「お名前も聞いていいですか?」
「ぼ、僕のですか?」
「あっ、私は泉っていいます。泉玲花(いずみれいか)」
 そういって、彼女は私の姿を真摯と見つめる。とはいっても、その視線はやはり微妙にずれているが……。
「えっと、僕は……」
 女性のほうから先に名前を聞かれたのは初めてのことだった。そのためだろうか、私は落ち着きなく辺りを見回し考えた。
…ここは一つ、ウケを狙うべきなのだろうか?
 必要以上に気負ってしまう。
 楠木の近くに、薪を背負い、本を読みながら歩いてる姿の、二宮金次郎(にのみやきんじろう)の像が建てられてあった。私はそれを見て思わず、
「……に、二宮です。二宮金次郎といいます!」
 そう答えた。私の予想では、彼女がここで笑うはずだった。しかし、彼女は、
「二宮さんですか」
 と、真面目にうなずく。どうやら本当に私の名前と受け取ったらしい。
「あ、あれ? ……あのぉ、えっとぉ……」
「二宮さんは、大分の人ですか? 引っ越してきたばかりだ、って言ってましたけど」
 本名を言い直そうとする私を尻目に、彼女は次の質問をしてくる。私は完全に、本名を名乗るタイミングを失ってしまった。
「あ、は、はぁ……、そうですけど。引っ越したといっても、実家を出ただけですから。……一人暮らしでもしてみようかな、と思って」
 私が言うと、彼女……玲花はそうなんですか、と呟いた。
 再び沈黙があった。
 私は先ほどから、異常な胸の高鳴りを覚えている。
「い、泉さんはあれですか? この木が好きなんですか?」
 自分でもよく解らない質問だ。
 案の定、彼女はくすりっ、と笑う。
「ここの小学校は、私の母校でもあるんですよ。この楠は、小さいときからの私の友達なんです……」
 彼女はそういって、その表情に少し陰を宿した。
「……私、小さい頃から暗い性格で、友達もあまりいなくて……。お昼休みのときなんかは、ここに来て一人で本を読んだり、皆が遊んでいるのを、ただぼうっと見てたりしてたんです。あの頃は、私の目も見えていて……、楠葉の間からこぼれる木漏れ日が、とても綺麗だったのを憶えてる……」
 少しばかり悲しい表情を見せる彼女は、やはりどことなく幻想的で、私はあまり現実感を持てないでいた。これも、彼女が言うように綺麗な木漏れ日のせいなのであろうか。
「昔は目が見えていた、って病気かなにかしたんですか?」
 無神経で迂闊な質問かもしれなかったが、私はそう尋ねた。
 彼女は翳(かげ)りのある微笑を浮かべる。
「中学三年生のときに、母と乗っていた車が事故にあって、その時、酷く頭を打ったみたいで……。その後遺症で目が不自由になったんです。間近なものはうっすらと見えるんですけどね。……母はその事故で亡くなりました」
「ああ、そうなんですか……。ごめん、なんか変な事聞いちゃったな」
 私が言うと、彼女は首を横に振った。
「いえ、いいんですよ。もうずいぶん昔の事ですから」
 彼女がそういってくれたので、私は少し安心した。
 サッカーをしている子供たちの声が、この中庭まで聞こえてくる。声変わりのしていない甲高な声……。私も以前は、あんな声で叫び声を張り上げていたのだろうか。よくは憶えていない。
「子供って、元気ですよね。声だけを聞いてても羨ましくなるくらい。ただ、《今》て時だけを考えてて、それだけに夢中で……。でも、変に優しかったり、残酷だったり……不思議ですよね。なんだか子供って、陰と光りが重なってできたみたい」
 子供たちの声が彼女の耳にも届いたのか、詩情的とも哲学的ともいえる言葉を呟いた。私にはよく解らなかったが、彼女が『陰と光り』と呟いたところで、私の頭には如月荘の管理人、影戸輝の顔が思い浮かんだだけである。
「……じゃあ、そろそろ私帰ります。今日はなんだか楽しかったです」
 彼女はそういって頭を下げ、楠の幹に立てかけてあった銀色の杖を手に取る。
「そ、そうですね。じゃ、僕も帰ろうかな。なんかお邪魔したみたいでごめんね」
 そうは言ったが、本当はまだ彼女と話をしていたかった。
 彼女……玲花はにこりと微笑んで、再び頭を下げる。
「あ、あのぉ……」
 気づくと私は彼女を呼び止めていた。自分でも驚きだ。
「また……、ここに来てもいいですかね? あっ、お邪魔だったらいいんですけど……」
 私が言うと、彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、やがて勿論ですよ、とうなずく。
「そうですね……、二宮さんってナゾナゾ得意ですか?」
 唐突な彼女の問いに、私は少々面喰う。
「あ、はぁ、どうかな……」
「ふふっ。じゃあ、問題出しますね。この次来るまでに、答えを考えててくださいね」
 玲花は悪戯っ子のような、無邪気な笑みを浮かべた。
「この楠の根元に、長さ四メートルの丈夫な綱で鼻面をしっかり括られた牛がいるとします。そこに一人の牛飼いさんがやってきて、楠の根元からちょうど五メートル離れた位置に餌を置いて立ち去っていきました。でも、その牛は牛飼いさんがいない間に、その餌をペロンと平らげてしまいました。さて、牛さんはどうやって餌を食べたのでしょう? 綱は解けたり切れたりはしてませんよ」

 

<五>

 その日の夜はあまり眠れなかった。
…泉玲花。
 彼女の名前と、あの可憐な姿が頭の中に憑いて離れない。それにいつまで経ってもあの胸の高鳴りが治まらなかった。
…明日も逢いにいこう。
…何を話せばいいんだろう?
…恋人なんかはいるのだろうか?
…彼女は僕の事をどう思ったのだろうか?
 そんな事ばかり考えていて、睡魔が襲うよりも、逆に目が冴える一方だった。
 彼女とはまだ一度しか会っていないのに、しかもほんのわずかな時間だ。私は一体どうしてしまったというのだろう。
 ずいぶん、夜が長く感じられた……。
 時折、彼女が別れ際に出した『ナゾナゾ』なるものも考えたりしてみたが、頭の悪い私にはちんぷんかんぷんな問題である。三メートルの綱で繋がれた牛が、どうやれば五メートル先にある餌を食べられるというのであろう。いくら考えても、それは不可能のように思える。となれば、何か気の利いた駄洒落のようなオチでもあるのだろうか……。私には思い浮かばなかった。
 そんな事を考えながらも、私が眠りについたのは、恐らく夜が白み始める頃だった。


 けたたましい突然のベルの音で、私は布団から飛び起きると、そばにあった目覚まし時計を確認した。
…午前七時。やばい、遅刻だ!
 急いで服を脱ごうとするが、そこでふと思い出す。
…そういえば、仕事は辞めたんだ。
 会社を辞めて一週間近くになろうとしていたが、いまだいつもの習慣が抜け切れず、このような状態になる事がしばしばあった。
 私は大きく溜め息をつくと、脱ぎかけた寝間着を着なおし、再び布団にもぐったが、もう寝付くことはできなかった。私は一度目がさめると、中々寝付けない体質らしい。結局、顔を洗い、服を着替える事にする。
 眠りに就くのが遅かったせいだろうか、頭の中がぼうっとしたままで、私は荷物の片付いていない居間の真ん中に座り込み、煙草を取り出して火をつけた。勿論、その間も頭の中にあったのは泉玲花であった。
 なんとなく、昨日の事が夢のように感じる。
 暫くそのままでぼうっとしていたが、そうしていても仕方がないと思い、私は少しずつ周りを片付け始める事にする。
 三十分もしないうちに、粗方の荷物は整理がついた。もともと荷物が少ないので、楽といえば楽だった。テレビのアンテナも自分で繋ぐ事ができたし、冷蔵庫に入れ込むような食物も今のところない(昨日買った、食パンとステーキ肉は入れてあるが……)。
 今日は予定を立てた買い物をしよう、と思い、私は必要そうなものを紙に書き留めた。
 ずいぶん悩みはしたが、ようやくそれに満足するとそれでは早速、と出かけようとしたが、時計を見るとまだ午前八時である。開いている店は少ないであろう。
 早く起きすぎたな、と思いながらもテレビをつけてみるが、もともと私はテレビを真剣に見る人間ではない。興味をそそるような番組がないと知ると、すぐにスイッチを切った。
…どこか近くに自動販売機でもあったかな?
 缶コーヒーでも買いに行こう、と私は財布片手に部屋を出ることにした。


 玄関を出るとまず、管理人の影戸輝が地面を竹箒で掃いてる姿が目に入った。日本人離れした容姿に竹箒とは、なんともミスマッチな感じがする。
 私は錆びの浮いた階段を降りるとおはようございます、と一応挨拶した。
「やあ、お早う。これからお勤めかい? ご苦労な事だね」
 影戸は竹箒の動きを一度止めて、肩をすくめた。
 そういえば、管理人に自分が無職である事を一言も言ってない。尋ねられていないのだからそれは当然であるが、一応は言っておいた方がいいだろう。そんなので家賃が払い続けられるのかい? などと嫌味を言われるかもしれないが、仕方ない。
「管理人……じゃなくて、影戸さん。実は僕……、無職なんです」
 私は、単刀直入に言う。
 しかし影戸は、唐突な私の告白に別段驚いたりもせずに、
「ああ、そうなの。ふーん」
 と無関心にうなずくだけだった。
「じゃ、暇なんだろう? 僕の部屋にでも寄っていかないかい? 珈琲のいっぱいぐらい入れてあげるよ。それとも、どこかにお出かけするのかな?」
 影戸は竹箒を肩に担ぐと、部屋に戻ろうとする。どうせ私も珈琲が飲みたいと思っていたところだ。管理人の言葉に甘える事にした。
 影戸の部屋へ入ると、私はまずその部屋の様子にしばし呆然とした。部屋の中が異常に汚いとか、臭いとか、そういうことではない。
 リビングの向かい合う両壁には、横幅が三メートル、縦幅は天井すれすれ(三.五メートルほどだろうか)の大きな本棚が設けられていて、その二つの本棚には上から下までぎっしりと本が詰め込まれている。向かって右側の本棚に立てられている本の背表紙には、ほとんど英文のタイトルが記されているから、恐らく洋書の類であろう。左側の本棚は日本語タイトルの本がほとんどであるようだが、暫く目で追っていても私が理解できそうな本は見当たらない。
 その両壁の本棚に挟まれるようにして、真ん中にガラス張りの小卓があり、さらにその小卓を挟む形で黒革のソファが二つ置かれている。しかも、その小卓の上にはチューイングガムと思われるものが、束になって置かれてあった。
 リビングの窓際には、学生の頃、職員室で見かけるようなスチィールデスクがあり、そのうえに一台パソコンが置かれてあった。パソコンの電源はつけたままになってある。
「どうしたんだい? ぼうっとしちゃって。まぁ、そこのソファに座っててよ」
 影戸に促され、私は感嘆の溜め息をつきながらソファに腰掛けた。その間に影戸は、キッチンのほうへ姿を消す。
「影戸さん、ここにある本は全部読んだんですか? 古本屋でも開けそうですね」
 キッチンに立つ影戸に呼びかける。
「はははっ、それでもかなり整理したんだけどね。この部屋に入らなかったのは、他のところに預けてあるんだよ。何か読みたい本でもあれば貸してあげるよ。心理学系統の本なんか面白いね。あと、脳に関する書物なんかも……。ああ、それから、僕を『さん』付けで呼ぶのはやめてくれ。君とそんなに歳は変わらないはずだろう? なんだか君に『さん』付けされると、僕がずいぶん年寄り見たく思えてくるよ」
 影戸はそういいながら、缶コーヒーとカップに入った珈琲を両手に持って、向かい側のソファに座った。そして、《缶コーヒーのほう》を私の前に置く。
「僕の知人がね、缶コーヒーを山ほどくれたんだ。でも、僕は缶コーヒーはあまり飲まない主義だから、君飲んでくれ。お代わりならいっぱいあるよ」
 平然と言いながら、影戸はカップに入った珈琲をうまそうに啜る。これではまるで嫌がらせだ。そうでなければ、完全に人を馬鹿にしている。どうして、客であるはずの私が缶コーヒーで、影戸自身はちゃんとしたレギュラーの珈琲なのだ。
 私は滲み出る怒りを何とか抑えながら、一応缶コーヒーのふたを開けた。「おっと、そうだ! 君にいいものを見せてあげるよ。ちょっと待ってて」
 突然影戸は立ち上がると、別の部屋(恐らく寝室であろう)に消えた。
 暫くしてリビングに戻ってきた影戸の手には、一本のアコースティックギターが握られてあった。
「これいいだろう? 僕の知人にねクラフツマンがいるんだけど、その知人と一緒に作ったオリジナルギターなんだ。表板にはエゾ松の単板を使ってあるんだ。裏・側板はローズウッド。勿論、裏板は2ピースだよ。ネック材にはホンジュラスマホガニーを使ってて、指板と下駒はエボニーだ。かなりいい音がするんだぜ」
 そういって影戸はギターを弾き始める。私には、彼が何を言っているのかさっぱり解らなかったのだが、恐らくいい素材で作ったギターを私に自慢したかっただけなのであろう。
 私は影戸のギター捌きを暫く眺めていたが、彼の腕がかなりである事に今頃気づいた。アコースティックギターをまるでエレキギターのように弾きこなしている。
「影戸さ……くんて、ずいぶんギターがうまいですね」
 私は思わず呟く。
「そんな事はないさ。僕なんかまだまだ未熟者だよ。上にはうえがいる」
 そういわれると、なんだか自分が情けなく思えてくる。私は簡単なコードフォームしか押さえられないのだ。影戸が未熟者であるなら、私は一体なんだというのであろう。
「少し前までね、ギターを集めるのが趣味だったんだ。ここにはないけど、知人の家にたくさん預けてあるんだ。君にも見せてあげたいなぁ」
 影戸はそういって、ギターをソファの後背に立てかけると、再び珈琲を啜った。
 そんな時、私はふと玲花が出したナゾナゾの事を思い出した。もし、私が彼にその問題を出したら、なんと答えるだろうか。興味が湧いてきた。
「影戸君。突然だけど、ナゾナゾは得意?」
 影戸は不意を突かれたように、目を大きく見開く。
「本当に突然だな。一体なんだい? 藪から棒に……。今からクイズ大会でもしようって言うのか? 悪いけど、僕はフェアな問題しか解く気にはなれないよ。『パンはパンでも食べられないパンはなんだ?』なんて問題は論外だね」
「多分、そういうのじゃないと思うけど……」
「多分、て……。ははん、君も答えを知らないのか。まぁ、面白そうではあるね。どんな問題なんだい?」
 私は泉玲花に出題された通りの問題を出した。こう見えても、私は中々記憶力がいいのだ。影戸に一字一句の間違いもなく問題を伝えた。
「どう? さすがの影戸君にも解らないでしょう? だって、常識的に考えれば、ぜんぜん不可能な状況だもんね」
 私は影戸がよくするような、皮肉の笑みを浮かべた。しかし、影戸は平然としたような表情で、小卓のうえにあったチューイングガムを一つだけ口に放り入れると、
「それのどこがナゾナゾなんだ?」
 などという。
「え、いやぁ、だから三メートルの綱で繋がれた牛が、どうやれば五メートル先の餌を食べれるか、という……」
「きみ、問題を出し間違えていないかい?」
「いや、それは絶対にないです」
 確かな自信があった。
「ふ〜ん。じゃあ、そういう問題なんだね。面白くもなんともない」
「もしかして、答えが解ったんですか?」
「解ったもなにも、そのまんまじゃないか」
 影戸は呆れ顔で私を見る。
「どういうことです? 僕にはさっぱりわからない」
 すると今度は、影戸が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「じゃ、君。この問題がわかるかな?」
「ちょ、ちょっと、さっきの問題の答えは?」
「まあいいから聞きたまえ。……周りに全く生物がいない、風も吹かなければ地震も起きない。それなのに、そこに建っていた家のドアは開いたりひらいたりしていた。……どうしてか?」
「生物がいない、て人間も?」
「勿論。いかなる生物も存在しない」
 不可解な問題だ。風も地震もなく、どうやってドアが動くというのだろう。
「もしかして、お化けが動かしているとか? お化けは死んでいるから生物じゃないし」
「それはアンフェアだな。そんなものも存在しないよ」
 私はうーん、と唸って五分ほど考えていたが、どうしても答えが見つからない。
「ああ、解らない。降参します。答えを教えてください」
 私が両手を挙げると、管理人は大声で笑い出した。
「はははっ、君は本当にからかい甲斐があるな。よく問題を反芻してみたまえ」
 何がそんなにおかしいのか。私は面白くない。彼に言われたとおり、問題を反芻してみるが、やはり答えは解らない。
「まだ解らないのかい? ドアが『開いたりひらいたり』してるんだぜ」
「アイタリヒライタリ? ……あっ! 開いたりひらいたり、て同じ事じゃないですか!」
「大正解! つまり、はじめからドアなんて動いてないんだよ」
 影戸は実に楽しそうに、まるでシンバルを持ったチンパンジーの玩具のごとく手を叩いて笑う。
 私はいい加減うんざりしてきた。その気持ちがダイレクトに私の表情に出たのであろう、影戸はまあまあ、そんなに落ち込むことはない、と言いながら私に一枚ガムをくれた。まるで犬扱いだ。
「さて、君の出した問題も、僕の出した問題と大して変わりはない。つまり微妙な言葉を使った、心理的なトリックが問題の中にあるんだ。……いいかい、楠の根元に三メートル綱で鼻面を括られた牛、だ。鼻面だぜ」
 そこで私は、思わず指を鳴らしてしまった。
「ああ、そうか! 言い換えれば、三メートルの綱で鼻面を括られた牛が楠の根元にいる、てのと同じだ。つまり……、つまり、根元に牛が括られているわけじゃないんだ!」
「そういうことだよ。それであるから、牛飼いが何メートル先に餌を置こうとも、牛は自由に動けるわけだから何の問題もない。大体において、一般のイメージでは、牛は結ばれていてあまり動けないという印象が強い。だから、そういう先入観が働くのさ」
「ははぁ、なるほどね」
 私は妙に納得して、何度もうなずいた。答えが解ればなんでもない簡単な問題だ。
 影戸はそんな私の姿を見てか、人差し指で眼鏡を押し上げると、
「頭の柔軟性は人間にとって、とても重要なものなんだよ……」
 と、いきなり講義らしきものを始めた。
「……僕たちは幼い頃から習い覚えた沢山の『常識』を持ってるだろう? 確かに『常識』ってやつは、日常生活においては大いな有用性を示してくれる。だけど、時と場合によってその常識ってやつはもろくも崩れ去ってしまうものなんだよ。何の知識も常識もない子供やチンパンジーなら、苦労もなく解ける問題も、大人の頭で考えると以外に難しい事があるんだよ。豊富な知識や常識は決して無駄なものではないけど、時にはそれが思考の妨げとなる場合もある。でもね、そうとは解っていても頭を切り替えるのは中々に難しいね。どうして人間の思考は、こうまで『常識』や『過去の経験』にとらわれてしまうのだろうか?」
 影戸はそういって、右手の人差し指と親指で、自分の下唇を揉み始めた。
「……人間の頭の仕組みがあまりにもうまくできすぎている……。僕はね、そう考えているんだ。いつもいつも環境の変化に即応して、人間の思考力が動員され、精神的エネルギーが傾けられるんだから、人の心は疲れてくたくたになってしまう。そこで人の心は、適当なところで手を抜き、ほね休みを考える。特に、過去において何回か経験し、常識に従って行動して差し支えないような問題の場合、人間の頭はてきめんに思考の節約をしてしまうことになる。そういうふうだから人間の頭は固くなり、創造的な思考を大いに妨げる事になるんじゃないかな」
 影戸は一気にまくし立てると、満足げに一度溜め息をついた。
「え、ええ、まあ……、そうかもしれませんね」
 私は管理人の言葉を受けて、とりあえずうなずいておいたが、本当は話の内容の半分も理解できていない。
「君、本当に僕の言葉が理解できてる? 冴えない顔は生まれつきなのかな」
 どうやら、彼は私の心のうちが読めるらしい。しかも皮肉つきだ。
 私が反論できずにもじもじしていると、影戸は一度肩をすくめた。
「まあ、いいか。……それにしても、君が出した問題、一体誰に出題されたんだい? ナゾナゾ好きの友人でもいるのかな?」
「う、うん。と、言うか……。影戸君、M小学校って知ってます? ここから三キロほど離れたところにあるんですけど」
「ああ、あの大きな楠がある小学校だろう? 勿論知ってるさ。もしかして、そこの先生からナゾナゾを出されたのかい?」
「いや、違うんです……。そこの楠の下で、たまたま会った女の人に突然出題されて……」
 私は泉玲花の顔を思い浮かべる。
「……とても綺麗な人だったよ。なんとなく、不思議な感じのするで。……彼女、目が不自由なんだ」
「なんだって!?」
 突然、影戸が素っ頓狂な声を上げたので、私は驚いて思わずソファの背もたれに仰け反った。
 影戸は鋭い眼光を私に向ける。
 吸い込まれそうな蒼い瞳。
 まるですべてを見透かしているような。
 私の心の奥までも……?
…この男は……!?
「きみ、その女性の名前は?」
 ゆっくりとした口調で管理人が尋ねてくる。
「えっ、ああ……、泉玲花って言ってました……」
 私が答えると、彼の片眉が歪(いびつ)にあがるのが解った。
 

<六>

 影戸輝は私から視線を逸らすと、大きく溜め息をついた。
「彼女とは関わらないほうがいいよ。これは《忠告》だ」
 唐突の影戸の言葉。勿論私は面喰う。
「な、何をいきなり言い出すんですか!? ……まさか、泉さんを知ってるんですか?」
「知らなきゃ、こんな事は言わないよ」
 影戸は私から視線を逸らしたまま言う。
 嫌な予感がした。管理人は泉玲花を知っている……。
「もしかして、泉さんと……」
 私が恐る恐る尋ねようとすると、影戸はそれよりも先に私の言葉をさえぎり、あからさまな嫌悪感を表情に出した。
「誤解しないでくれたまえよ。知っているといっても、実際には会ったこともないし、君が思っているような卑しい気持ちで忠告しているわけじゃない。彼女自身に対しては、これっぽっちの興味もないよ」
「ああ、そうなんですか……。でも、関わるなって、どういうことなんです?」
「それはいえないね。堅く口止めされてるんだ」
「誰にです?」
「困ったときだけ僕を頼ってくる、迷惑な知人さ」
 そんな事を言われても、余計に訳が解らない。もしかして、影戸の知人が泉玲花に想いを寄せているのだろうか。しかし、それにしても関わるな、という言葉はそれにそぐわないような気がした。
…そういえば。
 私はふと、昨日の彼女のある一言を思い出した。いくら目が不自由だといっても、あの台詞は少しおかしい。
「そういえば彼女、僕のほうに気づいて、いきなり『刑事さんですか?』なんて尋ねられた……。何か関係あるんですか?」
 私は管理人にそう尋ねる。
「君の言ってる『ケイジ』さんは、国家公務員の刑事さんなのかな? それとも、人名のケイジさん?」
 影戸に逆に質問され、私は戸惑った。
 確かにそうである。私はてっきり警察の刑事だと思い込んでいたのだが、人名である可能性もある。『ケイジ』というなまえからすれば、恐らく男性の可能性が高い……。
…もしかして、彼女の恋人の名前かも……。
 そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。……何故だろう?
 そんな事を考えていた私は、ずいぶんと暗い顔をしていたのだろう。影戸は多分、私のその表情を思いつめた顔、と勘違いしてか、突然、解ったよ、と顔を顰めた。
「そんな自殺志願者みたいな顔をしないでくれたまえ。訳を話せばいいんだろう?」
 そういって、鼻先にずり下がった眼鏡を人差し指で上げる。
「……実はね、この話は君の出したナゾナゾなんかよりも、実に興味深くて面白いものなんだ」
 管理人はそういって、意味不明な笑みを浮かべた。
「彼女の……泉玲花の父親、泉健作(いずみけんさく)は、三ヶ月前に『死亡』しているんだ」
「死んでるって、事故か病気ですか?」
 確か、彼女の『母親』は事故で亡くなっているはずである。
「いやいや、そんな単純なものじゃないんだよ。最初はね、『自殺』だと思われていたんだ」
「自殺…? 《最初は》って、よ、よく解りませんけど……」
「まぁ、人の話を最後まで聞きたまえ。……泉健作は自宅のほうで死体で発見されたんだ。死因は、額に受けた『銃弾』だ。無論、即死だね」
「じゅ、銃弾ですって!? 銃弾って、鉄砲の弾の事でしょう?」
 私は頓狂な声を上げる。銃で自殺する人間など、日本国内においては実に珍しい事であろう。
「当たり前だろう。でも、鉄砲って言っても、猟銃みたいな大きな鉄砲じゃない。日本の警察が持っているような小型のリボルバー式の短銃さ。……その拳銃は健作氏の右手に握られていたそうだよ。勿論、額に受けた銃弾も、その銃から発射されたものだ。リボルバー式の銃には六発弾が入るんだけど、健作氏の握っていた銃には五発しか入ってなかった。つまり、あとの一発は健作氏の額の中に入っていたってことだね。銃弾の型も、健作氏の握っていた短銃と一致している。それに加えてね、自宅の窓や玄関には、すべて鍵が閉められていたらしいんだ。要するに、鍵を使って玄関を開けない限りは、部屋の中に入れない状態だったわけだ」
「それって、『密室』ってやつですよね」
 推理小説などでよく使われる言葉だ。実際警察の人間が、このような状況を『密室』などと呼ぶのかは疑問であるが……。
「へえー、面白い言葉を知ってるんだね。まあ、その通りではあるんだけど」
「てことは、本当に泉さんの父親は自殺したんですね。自分で自分の額を打ち抜いて……」
「現場の状況から見ると、そうなるね。警察も当初はそう思っていた。……ちなみに、拳銃の出所はまだ捜索中らしいよ。拳銃なんて、一般市民が簡単に持てるものじゃないからね」
「ねえ、影戸君。さっきから《最初は》とか《当初は》とか言ってるけど、今は自殺したとは思われてないの?」
 私は、管理人に疑問を投げかける。
「そこなんだよ、君。……司法解剖の結果、彼の死は自殺だと断定できなくなってしまったんだ。面白いだろう?」
「面白いって……。どういうことなんです? 大体、被害者の状態が明らかに自殺であると見て取れるなら、司法解剖なんてしないんじゃないんですか? それとも、何か不審な点があったんですか?」
「それは違うよ。『自殺体』って言うのは変死扱いになるから、無条件で司法解剖に回されるんだ。……それでね、なんと不審な事が浮かんだんよ!」
 影戸は突然立ち上がると、楽しくてしょうがない、と言いたげな笑みを浮かべ、快活にそう叫んだ。
「普通、拳銃で額を打ち抜いて自殺しようとする場合、銃口は額にくっつけるはずだろう? するとどうなるか……」
 管理人は右手の人差し指と親指を立てて銃の形を作ると、その人差し指を自分の額に当てた。
「どうなるかって、銃弾が自分の頭に撃ち込まれるでしょう」
 私は答える。
「勿論そうだ。額には銃弾の入り込んだ傷跡ができる。でも、それだけじゃないんだよ。銃弾は火薬によって発射される。火薬とは、一瞬のあいだ高熱を発する。つまり、銃口は人間の皮膚が耐えられないほどの熱をもつんだ! だから、健作氏の額には、火傷の痕もなければならないはずだ。でも、それがなかったんだよ!」
 ずいぶんと回りくどい説明に思えるが、理屈は間違ってない。
「それが、自殺ではない、という結論になったんですか?」
 どうも私には納得できない。確かに理屈ではそうなのであろうが、必ずしも銃で自殺しようとする人間が銃口に額を当てて、自分の頭を撃ち抜くということはないであろう。別にぴたりと銃口を額やこめかみにあてずとも、引き金さえ引けば銃弾は飛び出すのだ。
「健作さんは、額から銃口を少し離して撃ったのかもしれませんよ。考えられない事じゃないでしょう? そうすれば、火傷の痕もできなくて当然です」
 私は思った事を管理人に告げる。
「確かに、その可能性もないとは言い切れないね。でもね、警察はそれを切っ掛けに、健作氏の遺体を自殺体だと断定できなくなった。それはさらに、実に不可解な事実が判明したからなんだ。……なんだと思う?」
「さあ……?」
「それはね、健作氏の額に撃ち込まれた銃弾は、《最低でも十メートルは離れた場所から撃ち込まれた弾痕》であることが判明したんだよ」
「そ、そんなことが!?」
 そうなると、確かに泉健作の死が、自殺であるとは考えにくくなる。まさか、健作氏の手が十メートルも伸びるはずもない。
「健作さんが亡くなってた現場の広さは?」
 私はなんとなく嫌な予感がした。
「彼の住んでいた家は、ごく一般的な一戸建ての家らしいよ。健作氏はリビングで死んでたらしいんだけど、勿論、十メートルもの広さがあるリビングじゃない。せいぜい、横幅縦幅共に四メートル程度の広さらしいね」
「ということは、家の外から何者かに撃たれた、という可能性が高くなりますね。……あれっ、でも窓にも玄関にも鍵が掛かっていたんでしたっけ?」
「そう! その通りさ!」
 影戸はパンッ、と一度大きく手を叩いて立ち上がった。まるで、今にも踊りだしそうな雰囲気だ。
「解剖の結果から考えて、銃弾は屋内で発射されたとはどうしても考えにくい。否、その可能性はゼロだといっていい。そうなると、健作氏の遺体は屋内にあった訳だから、何者かが『屋外』から健作氏に向けて、銃を発砲したと考えるのが自然だ。確かに、リビングには窓ガラスがあるみたいなんだけど、やっぱり鍵が掛かっていた。勿論、窓ガラスには銃弾を受けたような傷は少しもない。となると犯人は、《窓ガラスをすり抜ける銃弾》を使って健作氏を殺害した事になる」
「窓ガラスをすり抜ける!? そ、そんなものがあるんですか?」
「まさかぁ。あるわけないだろう」
 影戸は言って、クククッと笑う。
「ま、待ってください。もう少し詳しく話してもらえませんか? ほら、例えば健作さんの死体がどういう状況で、いつごろ発見されたのか、とか……。密室って言っても、普通の家なんですから、玄関を開ける鍵ぐらいはあるでしょう?」
「ほう、君も少しは論理を組み立てる術を知ってるみたいだね。確かに些細でも、情報がなければ論理的思考は成り立たない。あらゆる可能性を想定し、自分で得た情報によってその可能性を一つずつ消去していく。そして、その中で残ったものが真実に一番近い」
 影戸は再びソファに腰を落とす。
「……事件が起きたのは、今から約三ヶ月前だ。健作氏の遺体をはじめに見つけたのが、定岡啓介(さだおかけいすけ)という人物で、なんでも健作氏とは昔から懇意にしていた仲らしい。……実はね、この定岡氏は、もと大分県警の第一課の刑事だったらしいんだ。三年前に定年退職していて、今はのんびりとした隠居暮らしをしているそうだよ」
 第一課といえば殺人課である。しかも、定年退職をしてるということは六十近くの初老の人間なのであろう。
「定岡氏の家は、泉健作さん宅からそう遠くはない場所にあるんだけどね、その定岡氏の話によると、銃声のようなものが聞こえたので、何事かと慌てて家を跳びだしたらしんだ。そして、近所を散策している途中、健作氏の家を訪れた……。しかし、呼び鈴を押しても応答はないし、玄関にも鍵が掛かっている。部屋の電気はついているみたいだったから、定岡氏は少し不審に思ったそうだ。それで、リビングの見える窓から中を覗いてみると、額から血を流して倒れている健作氏を見つけた。定岡氏は驚いて、窓から中に侵入しようとしたが、やはり窓にも鍵が掛かっていたらしい。仕方なく、近くにあった石で窓を叩き割ると、窓の鍵を開けて部屋の中に入ったが、すでに健作氏は事切れていた……ということだ」
 影戸は一気にそういって、新しいガムを口の中に放り入れた。
「時刻はいつごろなんです?」
 私は尋ねる。
「定岡氏が遺体を発見したのが、午後の九時過ぎらしいね。健作氏が死んだと思われる死亡推定時刻は、それよりも三十分から一時間前だ。死体発見が早かったから、死亡推定時刻もかなり絞り込めたみたいだね」
「あのぉ、定岡さんの聞いた銃声は、他の近所の人には聞こえなかったんですかね?」
 私は不審に思った事を口にした。勿論、銃殺であるのなら、銃声が聞こえてしかるべきだ。
「それは当然の質問だろうね。だけど君、日本という国はほとんどにおいて、銃とは無縁な国なんだよ。もし今、この近所で誰かが銃を発砲したとしたら、君はそれを銃声だと思うかい? 花火か爆竹の音だと思うだろう? 確かに、何事かとは思うだろうけど、あいにく事件当時は、実際に近くの広場で花火をして遊んでいる高校生たちがいたそうだ。だから、近所の人たちはその音だと思ったんだろうね。それに、近所といっても、泉宅は住宅街からは少し離れた場所にあるらしいんだ」
「で、でも、定岡さんって言う人は、銃声だと思ったわけでしょう? どうして彼だけそう思ったんですかね」
「だから、さっきも言ったろう。定岡氏はもと刑事だ」
「ああ、そうか。警察なら銃を撃つ機会があるはずですよね。だから、銃声も聞いたことがあるし、それを聞き分ける事ができるかもしれませんね……。うん、なるほど」
 私はそう言いながら、一人うなずいた。
「そういうことさ。……それから、気になる玄関の鍵の行方なんだけどね……、鍵は普段、健作氏と玲花嬢が別々に一つずつ持っていたらしい。つまり、泉宅の部屋の鍵は二つ存在したわけだ」
 そういえばそうである。泉健作は玲花の父親であるのだから、健作の住んでいた家に玲花が住んでいても何の不審はない。それどころか、玲花は目が不自由であるのだから、なおさら父親の助けが必要だったであろう。それなのに私は、影戸が語っているこの事件と、玲花の存在を別々のものと考えていた。
…泉さんも、一応は事件の関係者になるのか。
 私は玲花の顔を思い浮かべながら、ふとそう思った。
「それで……?」
 私は促す。
「健作氏の持っていた鍵は、健作氏自身のズボンのポケットに入っていたらしいね。と、なると玲花嬢が強力な容疑者になるのは自然な考えだ」
「そ、そんなぁ!?」
 私は悲痛のような叫びをあげ、すがるようにして影戸を見つめる。
「そんな目で僕を見られても困るなぁ。だってそうだろう? 唯一鍵を持っている玲花嬢にだけ犯行が可能なんだから……」
 影戸は鹿爪らしい表情で、そう言い放つ。
「……例えば、健作氏を『屋外』で遠方から射殺し、それから健作氏の死体を家の中に運び込む。そうして、持っている鍵で玄関を閉めれば任務完了、ってわけさ」
「ま、待ってください! 玲花さんは目が不自由なんだ。遠方から標的を狙うなんて、できっこありません!」
 私は勢い込むように反論した。
 影戸はにやり、と笑う。
「はははっ、冗談だよ。第一、彼女には犯行当時の不在証明(アリバイ)があるし、健作氏の死体も動かされた形跡はないんだってさ。つまり、殺人現場は間違いなく泉宅のリビングなんだ。それに加え、玲花嬢の鍵は、屋内……玄関の靴箱の上で見つかったそうだよ」
「ああ、そうなんですか。よかった……」
 私は胸を撫で下ろす。
「実はね、玲花嬢は事件当日、午後の七時からずっと定岡氏の家にいたらしい。定岡氏もその事を間違いのないこと、と証言している」
「そうなんですか。健作さんと定岡さんが仲が良かったってことは、玲花さんとも仲が良いってことですね」
「まぁ、そういうことだね。なんでも、玲花嬢のことは赤ちゃんの頃から知ってる、て言ってたらしいよ」
 影戸はそういって、大きく背伸びをした。
「さあ、他に何か質問はあるかね?」
「こっそりと何者かが、合鍵を作ったという可能性はないんですか?」
「勿論、警察もそのことは調べたみたいだけど、どうもないみたいだね。もしそんな事があったのなら、すぐに調べがつくはずだよ」
「そうですね……」
 私は少しうな垂れてから返事をする。
 他にどのような可能性が考えられるであろうか。そもそも、影戸の言うように、泉健作が何者かによって殺害されたのなら、どうして犯人はわざわざ密室という状況を作り出さなければいけなかったのだろうか。そして、どのようにして密室という不可解な現場を作ったのだろうか。
…偶然にできたものか?
 ならば、どのような偶然が……?
…自殺に見せかけるために密室を……。
 ありえない話ではないだろう。
…それなら、一体誰がそんな事を?
 私に解るはずがない。
「あのぉ、まさかとは思うんですけど……、糸やワイヤーを使って密室を作り出したという……」
「はん! そんな事はドラマや小説の中だけにしてほしいね。警察の調べでは、どこの窓や玄関にもそんな仕掛けを使った形跡は見当たらなかったそうだよ。もしそんな事であったら、僕はとっくにこの話を切り捨ててるね! 糸やワイヤーを使っただって? ふん! 面白くもなんともない」
 私の質問を途中でさえぎり、影戸は露骨に鼻筋に皺を寄せて、そう吐き捨てた。どうやら、そういう類の仕掛け……とでも言えばいいのだろうか……は、好きではないらしい。しかし、この管理人の好みで、事件をあれこれ推測してみるのはどうかと思う。
…まあ、警察もない、て言ってるんだからいいか。
 と私が思ったとき、ふと単純な疑問が浮かんできた。
…どうしてこの男は、こうも警察の情報に詳しいのか?
「影戸君、もしかしてこの話を持ってきた知人って言うのは、警察関係の人?」
 私は尋ねる。
「ああ、そうだよ。少し奇怪な事件が起こって、自分の手に負えなくなるとすぐに僕を頼ってくるんだ。僕を散々悩ませてくれる事件なら大歓迎なんだけどね、彼の持ってくる話は、どれも大したことはない」
 と管理人は肩をすくめる。
 私はそんな彼の返答に少しばかり驚いた。大体において、警察の人間が一般市民に情報を流して良いものだろうか。しかも、ずいぶんと詳しくこの管理人に教えているらしい。どうみても影戸輝という男は信用の置ける人間には思えないのだが……。しかも、警察の手に負えない事件をこの男に相談するというではないか。一体、何のメリットがあるというのだろう。まさか、シャーロック・ホームズよろしく名探偵のように鮮やかに事件を解決してくれるとは、どうしても思えない。確かに、頭のよい男であるような気がするが、あくまでも《気がする》と言うだけだ。
「どうしたんだい? そんな深刻そうな表情で、僕の顔を見つめたりして。まさか、《そのけ》があるんじゃないんだろうね」
 影戸は、再び鼻筋に皺を寄せて、ソファの背もたれに仰け反った。
「ち、違います! そんな趣味は一切ありません!」
 私は慌てて影戸から視線を逸らした。
 影戸はそんな私の態度がおかしかったようで、大袈裟に手を叩いて笑う。
「いゃぁ、実に面白い! 君みたいな《逸材》はなかなかいないよ」
 そんな影戸の言葉に、私はむっときたので、
「缶コーヒー、ご馳走様でした!」
 と、わざと大声で言って、管理人の部屋を大股で出て行った。
 

 
<七>

 その日、私は半日掛けて粗方の買い物を済ませた。
 買ったものを整理して、部屋の隅々に配置していく。
…ようやく、一人暮らし者の部屋になってきたな。
 一人満足にうなずき、煙草をくゆらせる。
 何気なく、床に置かれた時計に目をやる。
 午後五時。
…もう、とっくに学校は終わってるな。
 私は、灰皿で煙草をもみ消すと、部屋を出ることにした。



 私はM小学校へ向かっていた。勿論、泉玲花に会うためだ。
 頭の中では、何を話すべきかというシュミレーションが幾度となく繰り返されていた。そして、高鳴る鼓動。
…一目惚れ……。
 私はその事を、今更ながら自覚した。



 校庭には、いまだ数人の生徒の姿があったが、ごく少数だ。私は、楠のある場所を目指す。
 彼女……泉玲花は、今日もその場所にいた。しかし、そこにいるのは彼女だけではなかった。
…あの人は?
 玲花の隣には、見知らぬ初老の男が立っていて、どうやら玲花と会話を交わしているようだった。
 私はその場で大きく深呼吸すると、玲花のもとへ歩んでいった。
「ど、どうも、こんにちは……」
 私はにこやかに言ったつもりなのだが、恐らくその笑顔は引きつっていただろう。案の定、私のほうに振り向いた初老の男は、訝しげな表情で私を見やった。
「あっ、その声、二宮君!?」
 玲花が、口元に手を当てて声を出す。やはり、とても綺麗なコだ。
 それにしても、昨日の二宮『さん』から二宮『くん』に昇進したのには、少しばかり感動した。しかし、実名でないのが残念だ。
「そうです。今日も来ちゃいました」
 私は、頭をかきながら言った。
 玲花はくすくすっ、と笑う。
「もしかして、ナゾナゾ解けたんですか?」
「も、勿論だよ。だから来たんだ」
 私は思い切って、敬語無しの口調で喋ってみた。同い年なのだから、それぐらい許されるだろう。
 玲花はにこやかな表情のまま、初老の男のほうに顔を向けると、
「こちらが二宮君ですよ」
 と、私を紹介した。
「ああ、君がそうなのか。いやね、さっきまで玲ちゃんに君の事を聞かされていたところなんだよ。……ワシは、定岡という者です。玲ちゃんとはふるい仲でねぇ」
 男はそういうと、少しだけ頭を下げた。
…この人が、定岡敬介か。
 私も彼にならって、頭を下げる。
 ぼさぼさに伸びた髪の毛はほとんど白髪であり、小さな温和そうな目は、とてももと刑事とは思えない。無精ひげが印象的で、ずいぶんと小柄な男性だ。
「それじゃ、ワシは帰るとするかな。お若い男女が二人いるのに、みずぼらしい老人はお邪魔でしょう」
 定岡啓介はそう言って、一人ワハハッと笑った。
「もう、おじさんったら」
 玲花もそう言ってクスクスッと笑う。
「おっとそうだ、玲ちゃん。さっきの事はくれぐれも肝に銘じておくようにな」
 突然、定岡は真面目な顔つきになってそう言うと、再びにこりと笑ってそれでは、とその場から立ち去っていった。その言葉を受けてか、少しだけ玲花の表情が暗くなったような気がした。
「さっきの事、って?」
 定岡が立ち去った後、私は何気なく玲花に尋ねてみる。
「う、ううん、なんでもないの……。それよりも、本当にナゾナゾが解けたの?」
 左右に首を振った後で玲花は笑顔に戻り、私に尋ね返してきた。
「えっ、あ、ああ。じゃ、答えを言おうか。……牛は木に繋がれているわけじゃないから、自由に動ける。だから、何メートル離れたところに餌があろうとも、牛はその餌を食べれるわけだ。……どう、あってる?」
 私は簡略に答えを述べた。と、言っても私が解いたわけではなく、如月荘の管理人が解いたものなのだが……。少しだけ影戸に対して、罪悪感のようなものを感じたが、この際考えないようにする。
「わぁー、正解! 二宮君って頭が良いんだ。今まで私がこの問題出して、解けた人って一人もいないんだよぉ」
「ハ、ハハッ……、それほどでもないよ」
 私は額にずいぶんと冷や汗をかいていたが、彼女の目が見えないのが、今の私にとって幸いだった。
 暫く沈黙ができた。やはり、私はどことなく緊張している。
「こ、今年の梅雨は空梅雨みたいだね。雨が少しも降らない」
 私は空を見上げ、そんな事を言ってみた。空は私が言ったとおり、実に快晴である。
「そうだね。でも、私は雨が降らないほうが助かるなぁ。雨が降ったら、お散歩するのも億劫だし、服も濡れちゃうし……。ふふふっ、私って、結構わがままなんですよ」
 彼女はそういって微笑む。そんな彼女の仕草は私にとって、実に魅力的であった。
 緊張。
 胸の高鳴り。
 わずかなる充実感。
 どうやら私は、完全に彼女に恋心を抱いてしまったようだ。なんとも無謀な恋であろう。しかし、そうは思っても、私がもう少し積極的な人間であったならば、今すぐにでも彼女に交際を申し込みたい……、などという馬鹿げた考えが、私の頭をよぎった。
「さっきの定岡って人、玲花ちゃんとどういう関係なの?」
 解っていた事だが、私はわざと知らない振りをして彼女にそう尋ねた。しかも、厚かましく『玲花ちゃん』などと、どさくさにまぎれていってみる。
「定岡のおじさんはね、私のお父さんのお友達なの。私が小さい頃からの付き合いで、いろいろお世話になってる人なんだよ。昔は刑事さんの仕事をしていた人」
 彼女は、少しだけ目を細めてそういった。
「へぇ、もと刑事さんか。じゃ、事件の話とかいろいろ聞かされたりしたんじゃない?」
「うーん、それほどでもなかったけど、時々してくれたかなぁ」
「やっぱりあれかな、殺人事件の話とか?」
 私はそういってから、自分で言った言葉をすぐに後悔した。
 彼女は思ったとおり、表情を曇らせる。完全な私の失言だ。少し浮かれすぎていたせいか、玲花の父親が何者かに殺されていたという事を、すっかり忘れてしまっていた。
…ああ、嫌われたか?
 再び、私の額から冷や汗が流れ落ちる。
 彼女は無言だ。
「え、あ、あの、僕さぁ、学生の頃、実はミステリ作家目指していた事があってさ。ちょっと殺人事件とかに興味があったりして……」
 適当な事を言って、私は場を繕おうとした。
 すると、彼女の表情に少しだけ笑みが戻った。
「そうなんだぁ。どおりで、私の出した問題も解けちゃうわけなんだ」
「あ、いやぁ、そういうのは得意だからさ」
 私は額の汗を拭きながらそういう。今まで自分でも気づかなかったが、どうやら私は嘘つきの素質が備わっているようだ。なんとも情けない……。
「今は? もう作家は目指してないの?」
 と玲花。
「う、うん。どうも才能がないみたいで、もう諦めたよ」
「えっー、夢を諦めるなんてもったいないよ」
 彼女はそういって、唇をすぼめる。なんとも愛らしい表情だ。
 私は、そんな彼女を力強く抱きしめたい衝動に、突然かられた。もしかして、私には変質者の素質も備わっているのだろうか……。
「そ、そうだね、いつか賞にでも応募してみようかな」
 私は今までに感じた事のない感情を必死に抑えながら、そういった。
 どうして、私のような顔も心も醜い男と、彼女のような綺麗なコが、こうやって会話などを交わしているのだろう。考えてみると不思議で仕方ない。
 昨日、この楠の下で彼女と出会い、言葉を交わした。そして今もこのようにして言葉を交わしている。
…僕は……。

 胸の奥が少しだけズキンッ、と痛んだ気がした。
 
 


<八>

 それから私は、毎日彼女に逢いに行った。
 別に下心などない。
 魂胆などない。
 目的などない。
 玲花に逢いたかった。彼女と話がしたかった……。
 ただ、それだけだ……。

 玲花と逢い、話をするたびに、私はますます彼女に惹かれていく自分を知った。
 話をするたびに、彼女の事が少しずつ解っていく……。それが何よりも嬉しかったし、楽しかった。彼女と過ごしている時間は、いつも感じている時間の流れよりも、二倍にも三倍にも早く感じられた。
 とても無邪気で、屈託のない笑顔。
 とても素直で、優しさに満ち溢れている。
 とても純粋で、頭の回転も速い。
 気づくと私は、どうしようもないほどに、彼女の事を好きになっていた……。
 しかし、時折彼女が見せる陰りのある表情……。それはやはり、父親の事なのであろうか……。
 泉玲花と知り合って一週間。私はその事を聞く決心をした。


 その日はあいにくの曇り空で、いつ雨が降ってきてもおかしくない天候であった。
 日曜日……。
 私たちは、いつものように楠の根に腰かけて、たわいもない会話を楽しんでいた。
「……サラ・ヴォーンでしょう、リナ・ホーンにコールポータも好き。あっ、あと、チック・コリアもよく聴くかな」
 今日は、音楽の話で盛り上がっていた。玲花はどうやら、スタンダード・ナンバーやジャズが大好きらしく、私の知らない外国人の名前を次々と挙げていく。
「ははっ、全然知らないや。僕はあまり洋楽は聴かないからね。まぁ、知ってるといえばビートルズぐらいかな」
 威張る事ではなかったが、私は胸を張ってそういう。
「ビートルズはいいよねぇ。……二宮君はどんな音楽が好きなの?」
 玲花は、斜めに首を傾げて聞いてくる。
「僕は、別にこれといってないけど……。うーん、なんだろう?」
 自分のことなのに、真剣に考え込んでしまう。相変わらず私は間抜けのようだ。彼女が頭の中に描いている私の顔は、きっと相当に酷いものに違いない。しかしながら、その酷い顔と実際の私の顔とはそれほど大差はないのであろう。
「どうしたの?」
 暫く黙っていた私の顔を覗き込むようにして、玲花が尋ねてくる。
 彼女の目は不自由だ……。私の表情など、ほとんど見えてないのであろう。そうだと解っていても、私は彼女の顔を正視することができない。何故なら、玲花の顔を三十秒以上見つめ続けていたならば、このやり場のない愚かな感情を抑える事ができそうにないからだ。
…君が好きだ……。
 そんな言葉が、思わず口から漏れそうになる。
 私は感情を切り替えるべく、わざとらしい咳払いをした。
…聞かなければならないことがある。
「あ、あのさ、ちょっと小耳にはさんだんだけど……、玲花ちゃんのお父さんのこと……」
 私がそういった途端、玲花の表情が陰る。やはり、聞くべきではなかったのだろうか。
「定岡のおじさんに聞いたの……?」
 玲花は暗い声で尋ねてくる。
「い、いや、そうじゃないんだけど……」
「ごめんなさい…。その話はしたくないの……」
 玲花は唇をかみ締めて、そう言う。
「いや、こっちこそゴメン。無神経な事聞いちゃったかな……」
 私はどう対応してよいのか解らず、ありふれた謝罪の言葉しか出てこなかった。
 その時、玲花の瞳に小さな雫が浮かび上がった。
…泣いてる?
 泉玲花は、静かに涙を流していた。
 そんな予想もしていなかった玲花の態度に、私は完全なパニック状態に陥ってしまった。そんなにも彼女にとって、自分の父親の死は辛いものだったのか……。
 私はなんと言っていいのか解らず、ただその時、彼女の父親を殺した犯人を自分が捕まえてやる、などという無謀な決心をしてしまった。
…そうとも、彼女を悲しませるやつは僕が許しはしない!
 玲花を泣かせてしまったのは、私の不躾な質問のせいなのに、そのときの私は、そんな事はすでに頭の中から忘れ去られていた。
…彼女を元気づけてあげよう。
 そう思った刹那、私は自分でも驚くような提案を、彼女に発言していた。
「今度さ、玲花ちゃんが良ければドライブでも行こうよ。……あっ、車の免許は持ってるからさ。どこか行きたい所があれば、僕が連れてってあげる」
「えっ?」
 彼女は、驚いた表情で顔を上げた。
 どうせ断られる事は目に見えている。なるようになれ、と私は半ば開き直った気持ちになっていた。
 しかし、彼女の返答は予想外のものだった。
「ほんと、本当に? ……二宮君はいいの?」
 玲花の表情に、明るさが戻ってくる。
「も、勿論さ! 僕も暫くは暇だしね。君が喜んでくれるなら、どこにでもお供するさ」
 私は、浮かれに浮かれてそんな言葉を口走る。
「私ね、行きたい所があるの。ちょっと遠いところなんだけど……」
「ああ、構わないよ。玲花ちゃんさえ良ければね」
「わぁー、うれしいー!」
 玲花は、今にもはしゃぎださんばかりに立ち上がった。
 その時、彼女の足が楠の根に引っかかり、玲花が倒れそうになる。
 私は慌てて立ち上がり、彼女を抱きとめた。
…えっ!?
 私は、ふと自分の行動に驚愕した。
…今、僕は彼女を抱きしめてる?
 見た目よりもずいぶん細い体だ。私の両手は、彼女の腰のくびれにまわっている…。
…引っ叩かれる!?
 私の頭に、安物のドラマによくありがちな一場面が思い浮かんだ。
 私は、すぐに彼女の体から手を離す。
 暫くの沈黙……。
 どうやら、彼女の平手打ちは飛んでこないようだった。
「あ、ありがとう……」
 玲花は少しうつむいて、呟くようにそういった。そんな彼女の顔は、少し赤面している。
「え、あ、ああ……」
 私は自分でもよく解らない返事をした。多分、玲花よりも私のほうが赤面しているはずだ。その証拠に、先ほどから額の汗が止まらない。
「あ、あのさ、それでどこに行きたいの?」
 気まずい雰囲気を変えるべく、私はそう尋ねた。
「う、うん……。あのね、K高原にある『薔薇園』に行きたいんだけど……」
「薔薇園?」
 私は少し驚いた。彼女は目が不自由だというのに、花が見たいというのだろうか。否、そんな事を考えるのは彼女に対して失礼だ、とすぐに思い直す。たとえ玲花の目が不自由だとしても、花には匂いがある。その匂いからいろいろな花をイマジネーションすることは安易にできるであろう。目が見えないからといって、他人の私がとやかく口を出す事ではない。
「よし、それで決まりだ!」
 私は、快活にそう叫んだ。
 そんな私の言葉を合図にしたかのように、小雨が降り始めた。
「まいったなぁ、雨が降り始めてきたよ。傘持って来てないのに」
 私は曇天の空を見上げながら言う。
「大丈夫よ、この木の下にいれば。雨がやむまでここにいよう……」
 玲花は、楠の幹に背を凭れ掛ける。先ほどまで流していた涙は、すでに拭い去ったようだった。
「ドライブの日は、晴れると良いね……」
 私は、呟くように一言だけぽつりと言った。
 
 

<九>

 雨がやむと、私は泉玲花を自宅まで送り返して、如月荘へ引き返していった。
 依然、曇り空は続いていたが、私は実に上機嫌で、帰路の途中もスキップをしたくなるほどだった。
 如月荘へ帰り着くと、私は即座に感情を切り替える。何故なら、玲花の父親の事を影戸輝からもっと詳しく聞きだそうと思ったからだ。
 管理人部屋のインターホンを押すとややあって、いつものように影戸が顔を覗かせた。
「おや、君か。何か用事かい?」
 影戸は肩をすくめながら尋ねてくる。
「ええ、まあ、そうなんですけど……」
「ふーん、用事ねぇ……。まあ、あがりたまえ」
 彼はそういって玄関を大きく開いた。私は一度頭を下げて、管理人の部屋へと入る。
 部屋に入ると、私よりも先にソファに座っているものがいた。
…お客かな?
 私はその場で足を止める。
 ソファに座っているのは男だった。ずいぶんと体躯の良い男性でのようで、髪型は角刈りだ。
 ソファの男はそんな私に気づいたようで、私の方に不審気な表情を向けた。太い眉毛に、小さな一重瞼の目は疑心に満ちた目で私のほうへ向けられている。小作りな鼻に、口。体躯のわりには、顔のパーツは小さい。
「紹介するよ。……彼がこの前、ここへ引っ越してきた人間だ」
 私よりもあとに部屋に入ってきた影戸が、ソファの男に私を紹介する。
 すると、ソファの男の顔が一瞬明るくなった。
「ハハハッ、確かにからかい甲斐のありそうな面だな」
 ソファの男は、第一声にそんな不躾な言葉を私に浴びせた。
「彼は、佐々木清(ささききよし)。僕と同い年でね……、まぁ、よく言えば知人だよ」
 影戸はそういってソファに腰掛ける。
「おいおい、何だよその言い草は。もっと素直に友達だ、って言えねぇのか?」
 佐々木清はしかめっ面で影戸に言うと、ソファから立ち上がり、いまだ立ち尽くしている私のほうへと近づいてきた。
「あんたも大変だな、こんなひねくれた管理人のアパートなんか選んじゃって」
 彼はそういって、私の肩を力強く二回ぽんぽん、と叩くと、今度は影戸のほうに首だけ向ける。
「ちゃんと考えとけよ。……じゃあ、俺は帰るからな」
 佐々木は影戸にそんな事を言い残すと、そそくさと部屋から出て行った。
 佐々木清なる人物が部屋からいなくなると、管理人は大きな溜め息をついた。
「まったくぅ、あいつには参るね」
 そういって、小卓の上にあったガムを口の中に放り込む。
「何かあったんですか?」
 私が尋ねると、影戸は肩をすくめ、
「今度ね、あいつの友達の誕生日パーティーが開かれるらしんだ。そのパーティーに何故か僕も出席しろって言うんだよ。全くもって強引な男だね」
 と、眼鏡を人差し指で押し上げる。
「それで、僕に用事というのはなんだい? そんなところにいつまでも突っ立ってないで、早くソファの座って用件を言ってくれ。僕は忙しいんだ」
 どうやら、今日の管理人は少し不機嫌らしかった。私は急いでソファに座ると、早速用件を切り出した。
「あのぉ、この前話してもらった、泉健作さんの事をもう少し詳しく聞かせてもらいたいと思って訪ねてきたんですけど」
 私がそういうと彼はふん、と即座に鼻を鳴らす。
「言ったはずだ、彼女……泉玲花には関わるなと」
「あ、ええ……」
 図星だったので、私は返答に窮する。
「最近どうも君がそわそわしながらどこかへ出かけていると思ったら、やっぱり彼女と密会してたんだな」
「み、密会だなんて、そんなオーバーなものじゃないですよ」
「オーバーもホーバーもないよ。どうして僕の忠告が聞けないんだ」
 管理人はいつになく、呆れ顔だ。どうして、私が呆れられなければならないのか……。少しむっとして影戸を睨みつけていると、彼は再び大きな溜め息をついた。
「解った、もう君には何も言わないよ。その代わり、僕に誓ってくれないか?」
 突然、影戸は意味不明な事を言い出す。
「誓う? なにをです」
 私が問うと、影戸は鋭い視線を向ける。
「近々、泉玲花嬢のもとに、《大いなる災い》が訪れる可能性がある。君は、彼女を守れるかい?」
「災い? 一体何のことなんですか?」
 尋ねる私のことなど無視して、影戸は続ける。
「君は、泉玲花を守る『騎士』になれるかい?」
…騎士?
 勿論ナイトの事であろう。一体管理人は、私に何を言わんとしているのであろうか。
「え、ええ。影戸君の言う事が本当で、泉さんに災いが降りかかるというのなら、僕は彼女を守ります!」
 私が恥ずかしげもなくそういうと、影戸は暫く私の目をじっと覗き込んでいたが、ややあって観念したかのように肩をすくめた。
「解ったよ……、その言葉を信じよう。……さぁ、何が聞きたいんだい?」
「え、ええ……」
 何がなんだか解らないまま、私はとりあえず頷く。どうせこの管理人の事だ、こけ威しをして私を試そうとしているに違いない。
 私は質問を始めることにする。
「生前の泉健作さんのことなんですけど、どういう人物だったんでしょうか?」
 私が尋ねると、影戸は鹿爪らしい表情をする。
「健作氏は、かなりの愛妻家だったらしいね。真面目で、仕事もよくこなしていたらしいよ」
「健作さんはどんな仕事をしていたんです?」
「銀行員だったみたいだ。しかし、すべては彼の奥さんが事故で亡くなる前の話だよ」
「と言うと……?」
「奥さんを事故で亡くしてから、泉健作氏はずいぶんと豹変したらしいね。それほど飲まなかった酒の量が増え、仕事のほうも手付かずになったそうだ。……そのうち、銀行員の仕事がクビになり、毎日家の中で浴びるほど酒を飲むまでになったそうだ」
「そうなんですか……」
 愛する妻を失った男の、哀れな末路といったところか。
「健作さんは、そのぉ……、誰かに恨まれるような事をしたとか、交友関係でのトラブルとかはなかったんですかね?」
 私がそう尋ねると影戸は突然、ハハハッと笑い出した。
「まるで君が刑事で、僕が被害者の家族みたいだ」
 管理人はそういって、人差し指で眼鏡を持ち上げる。
「……健作氏は奥さんを亡くして以来、ほとんど外では姿を見かけなくなったらしいよ。でもね、不審な二人組みの男が、よく泉宅に訪れていたという目撃情報が入っている」
「二人組みの男、ですか……」
 不審な二人組みというからには、勿論怪しいのだろう。
「さあ、よく考えてみたまえ……。もと銀行員の泉健作。そして、怪しげな男が二人。さらに、健作氏の死には短銃が絡んでいる。何か連想できないかい?」
「えっ?」
 唐突に質問されて、私は少々戸惑う。
…銀行員、二人組みの男、短銃……。
「健作さんは仕事をクビになったんですよね? じゃあ、収入とかはどうなっていたんでしょうか? まさか玲花さんが働いていたという事はないでしょうけど」
 影戸の質問には答えずに、私は逆に尋ね返した。
「暫くは、亡くなった奥さんの生命保険で生計を立てていたみたいだけど、勿論限界が近づいていた……」
 影戸の答えで、私は閃く。
「まさか、健作さんは《銀行強盗》を計画していた!?」
 私が叫ぶようにして言うと、管理人はにやりと笑う。
「その通りだよ。君、中々頭の回転が速いじゃないか。少し見直したよ」
「そ、そんな……。という事は、その不審な二人組みの男との間に何かトラブルが生じて殺された、という可能性が出てきますね」
「いや、それがね、その不審な二人組みの男は、すでに警察に拘束されているんだ。確か、一ヶ月ぐらい前だったかなぁ」
「ええっ、そうなんですか!?」
 私は思わず頓狂な声を上げてしまった。
「彼ら……確か名前は、吉住由紀矢(よしずみゆきや)と千田一樹(せんだかずき)といったかな……。その二人は健作氏と共に、彼の勤めていた銀行を襲撃する計画を立てていた事を認めたらしいね。しかし、健作氏の殺害に関しては強く否定している。短銃の入手経路については、やくざふうの男から買い取ったそうだが、二人ともその男に会ったのが二回ほどらしく、あまり相手のことは知らないらしい。……まぁ、短銃を売った男も健作氏の殺害については無関係だろうけどもね」
「そうなんですか……」
 犯人の目星がついたように思えたので、影戸の言葉は、私に少しの落胆をもたらした。
 私は暫く押し黙り、頭の中で事件の整理を試みた。しかしながら、どうしても事件の先が見えてこない。それは、泉健作が殺された奇怪な現場のせいである。
「影戸君、どうしても僕には密室の謎が解けません。泉さんの家は何度か見ているんですが……家の中までは入ったことはないんですけどね……。どこから見ても、不審なところは見当たりませんでした。……前に影戸君が言ったように、《窓ガラスを擦り抜ける弾丸》という存在を認めない限り、あの健作さんの殺害現場は説明できないように思うんです」
 私が言うと、影戸はおかしそうに私の顔を見つめながら、新たなガムを口の中に放り込んだ。
「世界は広いようで狭い。しかし、狭いようでいて広い。解るかい? 世界のどこかに、《窓ガラスを擦り抜ける弾丸》という全くもって物理学を無視した存在がどこかにあるかもしれない。幽霊、未確認飛行物体、未確認生物……。世の中にはありとあらゆる未知と不思議が充満している。君は何を信じ、何を信じない? 神を信じるかい? それとも悪魔を信じる? ……哲学者のアリストテレスが、人間がどのようにしてこの世界の物事を認識するか、と考えたとき形相(けいそう)と質量の区別は大きくものを言ったんだ。……概念と概念を結び付けて考える…とても大事な事だよ」
 相変わらず難しい事を言う男だ、と私は思う。
「……君が《窓ガラスを擦り抜ける弾丸》というものを認め、それで納得できるのならば、それ以上の思考は何の役にも立たないよ」
 管理人は意味ありげに微笑みながらそういうと、ソファから腰を上げた。
「君にもう一つだけ忠告しておこう」
「なんです?」
 私は影戸を見上げながら尋ねる。
「人を守るのは、言葉で言うほど容易(たやす)いものじゃない。勿論、君も理解しているだろうけどもね。……守るべき人間が一人だろうが十人だろうが、その比重はさほど変わらないよ」
「え、ええ、そうですね……」
「果たして君には、人を一人守れる強さがあるのかな? ……まぁ、期待していよう」
 影戸はそういって、部屋の奥へと姿を消した。
 私は何も言わず、そんな管理人の後ろ姿をじっと眺めているだけであった……。

 


<十>

 それから一週間がたった……。
 あいにくの曇り空で、少し蒸し暑い日ではあったが、私は早朝から実に浮かれ気分だった。どんなにも今日という日を待ちわびていただろう。
…玲花ちゃんとドライブだ。
 昨夜からその事ばかりが頭の中を渦巻き、まるで遠足を明日に控えた園児のように、その日の夜はほとんど眠れないでいた。
 勿論、私はろくな睡眠もとらぬまま目覚め、それでも終始にこやかに鏡の前に立ち、穴が開くほど身なりのチェックをした。もともとファッションにはうとい私であったが、それでも自分が持っている中でも、とびきりオシャレなものを選んだつもりだ。髪型も必要以上に整髪料を塗りたくり、ガチガチに固める。
…髭よし! 財布もよし! 車の免許も持ったな!
 私は上機嫌で家を出ると、レンタカーショップへと向かった。どんな車を借りるべきかずいぶんと悩んだのだが、普通のセダンを借りる事に決める。
 時間を確認すると、約束の時刻まではまだ一時間以上もあった。
 私はコンビニによると、サンドイッチとコーヒーを買って、車の中で軽い朝食を済ませる事にする。
 それでも時間が余ったので、車で近辺をぶらぶらしたあとで、泉玲花の家へ向かった……。
 玲花の家の前で車を止めると、高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、車を降りる。そして、玄関前まで来ると、私は一呼吸置いてから呼び鈴を鳴らした。
 ジリリンッ、と電子音が家内で響くと、ややあってゆっくりとした足取りが近づいてきた。
「はぁーい!」
 いつもよりも若干張りのある声で、玲花の返事が返ってくると玄関が開いた。
「や、やあ、お早う。ちょっと早く着いちゃったかな?」
 私は頭をかきながら俯き、照れた笑いを浮かべる。何故か気恥ずかしくて彼女の姿をまともに見れない。
「えっー、もう来ちゃったの? まだ支度ができてないよぉ」
 玲花にそう言われて、そこで私はようやく顔をあげた。
…えっ!?
 玲花の格好を見て、私は一瞬、玲花とは別人の人間がそこに立っているのかと錯覚してしまった。何故ならば、私がいつも見ていた玲花の格好とは、まるで違うイメージに変わっていたからだ。
 玲花はいつもは、毎回色の違うワンピースを着こなしていたのだが、今日に限っては若草色の爽やかなノースリーブのTシャツにストレートのブルージーンズを着ていた。普段より幾分、肌の露出具合も違う。
 私は暫く目のやり場に困って、おろおろとしていたのだが、ややあって玲花が、
「ちょっとあがって待ってて」
 と、言葉を発した。
…えっ!?
 私はさらに狼狽する。今まで玲花を家の前まで送っていったことはあるが、家の中にまで招待してもらった事は一度もない。
「まだお化粧が残ってるの。ほら、私、目が悪いから普通の人よりも時間が掛かっちゃうんだ」
「あ、ああ、そうか……。そうだね」
 微笑みながら話す玲花の顔をちらちらと盗み見ながら、私はうなずいた。確かに普段、彼女は化粧など施していない。勿論そんなものをしていなくとも、玲花はじゅうぶん魅力的な容貌をしていると思われるのだが……。
 私は少しだけ躊躇した後で、
「じゃあ、お邪魔します」
 と、靴を脱いで玄関を上がった。
 どうやら玲花は、さすがに自宅を歩くのには慣れているらしく、杖もなしに軽やかな足取りで私を居間へと案内する。
「そこのソファに座って待ってて、すぐにお茶待ってくるね。あっ、珈琲がいいかなぁ?」
 玲花は後ろ背で腕を組み、右斜めに首を傾げながら聞いてくる。
「えっ、い、いや、気を使わなくても良いよ。おとなしくここで待ってるからさ。そんなに時間は掛からないだろう?」
「それはそうだけど……。うん、解った! じゃ、すぐに支度してきまーす!」
 実に明るい声で玲花は右腕を上げると、足早にどこかの部屋へ消えていった。
 そんな微笑ましくなるような玲花の姿を見送った後、私は自分のいる居間を見渡した。
…ここで事件が……。
 確かに、普通のどこにでもあるような居間だ。私の実家と大して変わりはない八畳ほどの部屋。床に敷かれた濃い緑色の絨毯。居間の真ん中に置かれているリビングテーブル。そして、そのテーブルを挟むようにして、両脇に二人掛けのソファがそれぞれ置かれてある。
 私は、そのソファの一つに座っているわけだが、その向かいの壁際には二〇インチほどのテレビが、ビデオの納まったガラス扉つきの棚の上に置かれてあった。そして、逆側の……私から見れば後ろ背になる……壁には、スライド式の大きな窓ガラスが設置されてある。居間の広さも、実に一般的だ。
 私は立ち上がり、窓ガラスのほうへ歩み寄った。
 二つあるうちの一方の窓は、縦幅横幅共に七十センチほどの大きさの腰高窓である。もう一方の窓は、縦幅二メートル、横幅一メートルほどの掃き出し窓で、窓枠が床まで続いている。こちらの窓は、庭(車寄せか?)に直接降りることができるようだ。要するに、玄関から入らずとも、庭のほうへ回り込めば、この窓から居間に侵入できるというわけだ。勿論、もう一方の窓から出入りする事も不可能ではないが……。
 次に私は、錠を確認してみる。どちらの窓も、よく見かけるクレセント錠で、手前にある三日月型の錠を半回転させ、奥の留め金に滑り込ませる形式のものだ。確かに、窓には隙間がないようで、糸やワイヤーを使った仕掛けは施せそうにない。
 私は大きな窓のほうを開けた。そこに拓ける意外と大きな庭。この庭の一番奥側から居間までなら、十メートルはあるだろう。その庭は縦幅一メートルほどのコンクリート壁によって区切られている。その壁の向こうに広がる雑木林……。
 一体ここで、どのような悲劇が起こったというのだろうか……。
 そんな事を考えながら、窓の外をぼうっと眺めていると、暫く経って玲花が居間に戻ってきた。
「おまたせぇー! 準備万端、整いました」
 明るく声を張り上げて言う玲花は、今までに見た事がないほど満面の笑顔だ。
 私はそんな玲花の顔を、今度は真摯と見つめる。
 薄桃色の口紅と、軽いファンデェーションを塗ってあった。たったそれだけの化粧で、玲花は更に美しさを増していたような気がした。
「ねえねえ二宮君、うまくお化粧できてるかな? 口紅とか塗り残してるとこない?」
 そういわれて、私は玲花のそばへ歩み寄る。
「あ、ああ、大丈夫みたいだよ。……と、とても綺麗だ」
 私はそう口走ってから、酷く赤面した。
…なんてキザなことを……。
 自分で言っておきながら、自分で照れてしまう。どうやら私は、この先何年経とうが、女の子に平然として気の利いた台詞など言えないのであろう。
「またぁ、二宮君たら。そんなお世辞言っても何も出ませんよ」
 玲花は私の言葉を軽く受け流しながら、微笑む。
「別に、そういうつもりで言ったんじゃないんだけど……。ま、まぁいいや、準備ができたところで、出発進行といこう」
 私は相変わらずの浮かれた調子で、快活に声を上げた。
 


<十一>

「お母さんとの思い出の場所……か」
 私はステアリングを握りながら、助手席に座る泉玲花を横目で見やった。
 依然として曇天の空模様は続いていたが、車窓から流れてくる風は妙に心地良い。これも、すぐ隣に玲花が座っているため、私だけが感じているある種の優越感のせいだろうか。勿論、こんなにもすぐ近くに座っている玲花のおかげで、心拍数が落ち着かず、ステアリングを捌く手が妙に汗ばんでいる。
「そうなの……。私がまだ小学生の頃だったんだけどね。ちょうどこの時期にいった記憶があるわ。……一面にね、赤や黄色の薔薇がぎっしり咲いていて……。ずっと昔から、もう一度行きたいな、って思ってたの」
 玲花はフロントガラス越しにやや目を細め、昔を懐かしむような憂いた表情になる。無論、今の玲花には車窓に流れる景色は、ほとんど見えていないのであろうが……。
 私は玲花に断ってから、煙草を咥え火をつける。
「へぇー、そんなに綺麗なところなんだ。大分じゃ有名なところだから、そういう場所があるってことは知ってたんだけどね。でも、僕は行った事がないな」
「もしかして二宮君、お花嫌いなの?」
 少し不安な面持ちで玲花が尋ねてくる。
「いやいや、別の嫌いじゃないよ。花を眺めているのは好きだけどね。ほら、この時期なんかは紫陽花(あじさい)とかさ。その紫陽花にカタツムリなんかが乗っかってたら、僕は風流ってやつを感じるよ」
 自分でもよく解らない事を口走ったあとで、案の定、玲花はクスクスッと笑う。
「それって、風流って言うの?」
「え、そ、それは……。だって、そういう場面って、よく俳句とかになるじゃん」
「そうかなぁ? 例えばどんなのがある?」
「えっと……」
 私は少し返答に詰まる。
「……こ、こんなのなかったけ? ……『紫陽花で ノロノロノロノロ カタツムリ』……とか」
「えっー、私そんなの知らないよぉ。二宮君のオリジナルでしょう?」
「ありゃ、ばれたか」
 私が頭を掻くと、玲花は先ほどよりも大きな笑い声を上げ、それに釣られるようにして私も笑った。
…このまま時間が止まってしまえばいい……。
 柄にもなく私はそのとき、そんな事をふと思った。ずっとこのまま玲花と笑い続けていられたら、どんなに幸せだろう……。
 暫くは、見通しのいい道路をずっと進んでいく。山上の高原を目指しているため、上り坂が続いている。周りに見える景色は四方がただっぴろい平野に囲まれていて、その所々では馬が放牧されてあった。
 とても穏やかで、綺麗な風景……。私はそう感じていたのだが、目の見えぬ玲花は、車窓の向こうに流れる景色を眺め、一体何を感じ、そして何を考えているのであろうか……。



 玲花の家を出て、おおよそ一時間半ほどで目的の『薔薇園』に着いた。土曜日だからだろうか、大きな駐車場にはほとんど駐車スペースがないほどに、車が止まっている。
 私はあいている駐車スペースを見つけると、そこに車をとめ、ゆっくりと車を降り大きく背伸びをした。
…ああ、薔薇の匂いだ。
 車から降りるとすぐに、薔薇の微かな匂いが私の鼻腔をくすぐった。ここからではまだ、薔薇の姿は見えなかったが、恐らく立派な薔薇が幾千も咲いてる事だろう。
 私は長時間の運転のため、少しだけ痛くなった腰を擦りながら、助手席ドアのほうへと回り込む。
「さぁ、お着きしましたよ、お嬢様」
 揶揄するように言ってから、私は助手席のドアを開けた。しかし、玲花はそこから中々降りようとはせず、暫く考え込むかのようにしてフロントガラスのほうをじっと見つめていた。
「どうしたの?」
 思わず私が尋ねると、玲花はおずおずといった様子で、とんでもない事を口走った。
「二宮君……。手、繋いで歩いてくれないかなぁ?」
「へっ!?」
 勿論、私は頓狂な声を上げてから、我が耳を疑う。
…幻聴か?
 本気でそんなふうに思った。
「歩きなれてない道は杖だけじゃ怖くて、ちょっと心細いの……」
 彼女のその言葉を聞いて、どうやら幻聴ではない事を悟ると、急激に心臓が高鳴った。
「あ、ああ、そうか、そうだね……。も、勿論、僕は構わないよ」
 そう言いながら、ジーンズで自分の手のひらを拭う。
「本当!? ありがとう」
 玲花はにこやかに微笑むと、私のほうに左手を差し出してきた。私はその可憐で色白の彼女の手を、遠慮がちに右手で握り返すと、彼女はようやく助手席から降りた。
 指が長く、実に綺麗な彼女の温もりある手のひら。その手を今、私が握っているのかと思うと、到底信じられない気分になる。緊張のあまり、繋いだ手のひらがすぐに汗ばんでしまうのが少し気がかりだ。
「いい匂い……」
 彼女は深呼吸をするようにそう言うと、少しだけ繋いだ手に力を込めたようだった。
 私は、再び彼女を抱きしめたい衝動にかられる。
「さあ、歩きましょう」
 無垢な笑顔で呟くように言った彼女は、そんな私の心情など、全く察していないようであった。
 


 赤、白、黄色……、色とりどりの薔薇が広大な大地一面に、鮮やかに咲き開いている。彼方(かなた)上空から見下ろせば、それまさに草原に広がる艶やかで巨大な絨毯に見える事であろう。
 私は、彼女が地面に躓かないように細心の注意をはらいながら、玲花の手を引き、微力ながらエスコートする。
「なんだか気持ちいいね。今日はそんなに暑くもないし、薔薇の香りもいいし……。とても懐かしい気分がする……」
 玲花は、なんとなく憂いに満ちた表情で呟く。恐らく、事故で死んだという母親の事を思い出しているのであろう。
「……ねぇ、二宮君のご両親はお元気なの?」
 案の定、玲花はそんな事を尋ねてくる。
「えっ、ま、まぁね。口うるさいぐらいに元気だよ」
「そうなんだぁ……。大分に住んでるんでしょう?」
「うん、そうだよ。でもね、今は両親と喧嘩中で実家のほうには暫く帰らないつもりだ……」
「喧嘩中って、どうして?」
 今日の玲花は、いつもよりも質問攻めが多い。私は返答に詰まってしまった。
「いやぁー、そのぉ……、働きもしない息子を家に置いておく気はない、って追い出されたんだ」
 体裁が悪いが、それが事実なのでそう答えた。
「そうなんだぁ。どうして……どうして、二宮君はお仕事辞めちゃったの?」
「う〜ん、なんとなく無気力感に襲われちゃってね……。本当に僕は、このままでいいんだろうか? なんて考えちゃってさ。……もう一度、自分を見つめ直したかったんだ……」
 私はそんなふうに答えたが、八十パーセントは都合の良い奇麗事を並べた、ただの言い訳だ。
 玲花は私の言葉を受け、不思議そうに少しだけ頭を傾げたが、やがてにこりと微笑んだ。
「早く自分が見つかるといいね」
 彼女はそう言ってから、少しだけ歩みのスピードを速めた。
 私は、彼女の手を少しだけ強く握り返した。



 途中、祭りの出店や遊園地などでよく見かける射撃場を見つけた。お菓子やぬいぐるみが並ぶ棚があり、それをコルク玉の鉄砲で狙い、撃ち落したら景品として貰えるやつだ。
「ちょっと、あれやってみようよ」
 私は彼女の手を引き、射撃ゲームのほうへと行く。
「なに、どうしたの二宮君?」
「射撃ゲームさ」
 『五発三百円』と書かれた張り紙があったので、私は店の人間に三百円を払い、コルク玉を五個受け取った。
 大きな熊のぬいぐるみ、小さなリスのぬいぐるみ、コアラのマーチ、カルビーポテトチップス……などが棚に並んである。
「僕ね、射撃ゲームには自信があるんだ。見ててよ、あの大きな熊のぬいぐるみを取って、君にあげるから!」
 私は意気揚々と言いながら、銃口にコルク玉を詰める。しかし、ここの射撃ゲームの鉄砲は、小型のピストルだ。普通は、ライフル型の大きな鉄砲のはずだが……。少々不安を感じたが、私は熊のぬいぐるみを狙って引き金を引く。それと同時にポコン、といういかにも頼りなげな音がして、コルク玉が熊のぬいぐるみ目掛けて飛んでいった。
…当たった!
 そう思ったのも束の間、熊のぬいぐるみはびくともせずに平然とそこに居座っている。ピストルの威力が弱すぎるのだ。
「あんなの落とせるわけないじゃないかぁ」
 私は思わず独りごちたが、半分意地になって懲りずにまた熊を狙う。しかし、何度やっても結果は同じだった。
…こんなのインチキだ。
 今更思っても、気づけば残りのコルク玉はあと一発だ。
 私は玲花のほうへ向き直る。
「玲花ちゃんもやってみなよ。あと一発しかないけど……」
 私はそう言いながら、銃口に弾を詰める。
「えっ、私? ……い、いいよ、的なんて全然見えないし……」
 玲花は激しく首を振る。
「ハハッ、大丈夫さ。こういうのは案外、適当に撃ったほうが当たるもんなんだよ」
 私はそういって、おもちゃのピストルを玲花に渡した。
「こ、怖いよぉ」
「心配ないよ。ほら、構えてごらん」
 私に言われて、玲花は渋々ピストルを前方に構える。心なしか、玲花の手は震えている。
 ポコン、と相変わらずの貧相な音が響き、コルク玉が飛び出した。それは、私の狙っていた熊のぬいぐるみとはまったく別方向に飛んでいったが、小さなリスのぬいぐるみを直撃した。リスはあっけなく棚から落下する。
「おおっ、玲花ちゃん、リスのぬいぐるみに当たったよ!」
 私は思わず興奮して、叫んでしまった。
 店の人が、落下したリスのぬいぐるみを拾い上げて、玲花におめでとうございます、といって手渡す。
「あっ、わ、私……」
 玲花は何故か、少し青ざめた顔でリスのぬいぐるみを受け取った。
「すごいよ玲花ちゃん! ねっ、僕の言ったとおりになったろう?」
 私は玲花の肩を、ぽんと軽く叩いた。
「そ、そうだね……」
 玲花は呟くように言うと、そこでようやく微笑んだ。
 


<十二>

 薔薇園を出る頃には、正午をとっくに過ぎていた。
 私たちは再び車の中に乗り込むと、車を発進させた。
「あー、楽しかった」
 玲花は軽く助手席で背伸びをすると、明るい声でそういった。
「それは良かった。また来たくなったら、いつでも僕が連れてきてあげるよ」
 得意になって私が言うと、彼女は微笑んでからありがとう、と呟いた。
「二宮君って、優しいよね」
「えっ、僕が? ……そうかなぁ? 別に普通だと思うけど」
 玲花にやさしいね、といわれて、もちろん悪い気はしなかったが、実際、私の持っているものは優しさなどではない。ただ単に気が小さいだけなのである。気の小さい人間ほど、『いい人』だとか『優しい人』だとか言われるものだ。
「ねぇ、私ずっと思ってたんだけど……、二宮君て彼女とかいないのかなぁ?」
 玲花は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、唐突にとんでもない事を尋ねてくる。
「か、彼女!? そ、そんなのいないよ。大体、僕の場合は彼女どうこう言う前に、友達すごく少ないんだから」
「威張って言う事じゃないよぉ」
 玲花はクスクスッと笑う。
「れ、玲花ちゃんは? 彼氏とか……いるの?」
 私にとってそれは恐ろしい質問であったが、会話の流れ上、仕方がないような気がして私は玲花に尋ねた。もし、この質問に彼女がうなずけば、私の恋もここで終わりになる。私は他人の男から、玲花を奪えるほど自分に自信のある男ではない……。否、そんな事で本当に玲花をあきらめきれるのであろうか……。
 玲花はそんな私の質問に、自嘲気味な笑みを浮かべてこう答えた。
「私もね、実は二宮君と一緒で友達少ないんだ。だから彼氏もいないよ。私……、目が不自由になってから学校辞めちゃって、それからずっと家に籠もりきりだった……。もともと根暗な性格なんだけどね、ヘヘッ……。お母さんが死んでから、ずっと一人だった……。そうだなぁ、友達といえばあの楠と小学生の子供たちぐらいかな。定岡のおじさんも良くしてくれた……」
「君のお父さんもだろう?」
「えっ、う、うん、そうだね……」
 玲花はその表情に陰りを見せる。やはり、父親の話はあまりしたくないのだろうか。
 そんな時、ぽつりぽつりとフロントガラスに雨粒が落ちてきた。
「おっ、雨だ」
 私は呟く。
 雨は瞬く間に激しくなった。
 暫くの沈黙……。
 私はワイパーを作動させる。
 玲花の横顔を見つめる。
 小さくて綺麗な顔立ち……。
 何故か、すごく胸が苦しくなった。
「玲花ちゃん……」
 私は左手だけをハンドルから放し、助手席の玲花の手を静かに包んだ……。
 玲花は、そんな突然の私の行動にずいぶんと驚いた表情で、私のほうを見つめる。
 エンジンの音。
 ワイパーの作動する音。
 そして、雨の音……。

「君が好きだ……」

 そして、私の呟き声……。
 そんなありふれた言葉しか出なかった。私の玲花へ対する気持ちは、そんな一言で片付けられるとは思えなかったが、私はその一言を言うだけで精一杯だった。
「二宮君……」
 玲花は一瞬、大きな瞳を更に大きく見開いたが、やがてその表情は悲痛なものに変わった。
「僕と……付き合ってくれないかな?」
 そう言ったあとで、再びの沈黙……。
 胸の鼓動は高鳴るばかり。私は一線を越える言葉を、ついに発してしまったのだ。少しの後悔と期待……。
 しかし、玲花は俯き、悲痛な表情を少しも和らげようとはしなかった。
 沈黙の時間だけが、無常に過ぎていく。
 玲花の左手には、薔薇園で獲った小さなリスのぬいぐるみ。そして、右手は私が包んでいる……。
 やがて玲花は、静かに私の手をほどいた。
「ごめんなさい、二宮君。私はそんなつもりじゃなかったの……」
 私はそれを聞いて、何故か微笑んでしまった。
…やっぱり、僕なんかじゃ駄目だよな……。

 しかし、何故だか胸が苦しくて、うまく息ができなかった……。

 


<十三>

 私たちは終始無言だった。堪え難い沈黙とでも言おうか……。とにかく、あんな事を言ってしまったあとで、私は何を話せばよいのか解らないでいた。玲花もずっと俯いたままだ。
 玲花の家の前まで着くと、私は車をとめた。
「着いたよ……」
 小さくくぐもった声で私が言うと、玲花はうなずき、助手席のドアを静かに開ける。
「ありがとう……」
 玲花は今にも泣きだしそうな表情で呟くように言うと、杖をつきながら車を降りた。
 雨に濡れながら、それでもゆっくりと歩いていく彼女の後ろ姿……。私は、彼女が完全に玄関の奥に姿を消すまで、そんな後ろ姿をじっと見つめていた。



 レンタカー店に車を返したあと、私は暫くそこで呆然と煙草を噴かしていた。
 雨は依然激しく降り続いており、止む気配など微塵もない。朝から曇り空だったとはいえ、傘など用意してなかった。
 私は煙草を消すと、土砂降りの中をゆっくりと歩き出す。瞬く間に全身がびしょ濡れになったが、今はそんな事はどうでも良かった。走りもしなければ、雨を嫌うように首をすくめたりもしない。雨を全身に受けるようにして私は歩いた……。
 もともと私は、幼い頃から傘をさすのを嫌う人間だった。たとえ雨が降って、傘を持っているときでも、私は傘を差さずにいた。雨に濡れるのが気持ちよかったし、面白い事だと思っていたから……。しかし、両親はそんな私を『馬鹿だ』とよく罵った。それもそうだろう。雨の日に傘をさす常識を知らない人間は、馬鹿だと罵られても仕方がない。
…あの頃と何も変わってない……。
 大人になった今でも、こうして傘もささずに雨の中を歩いている。傍(はた)から見れば、大の青年が傘もささずに堂々と雨の中を歩いている姿は、実に滑稽に映っているのだろう。否、頭のおかしな人間と思われているかもしれない。
…僕は、昔から何も変わっていない……。
 私は今だって、こうして土砂降りの雨に打たれているのが、とても素敵に思えている。きっと私は、幼い頃から馬鹿で、頭のおかしな人間なのだろう……。



 まっすぐ家に帰るつもりはなかった。否、そんな気になれなかった。私は雨の中を、ただ彷徨っていた。もう、靴の中までびしょ濡れだった……。
 ふと気づいたら、どこかの河川の堤防に突っ立っていた。どこまで続いているか解らない、まっすぐな土手。人通りはない。
 不意に私は、その堤防にできた真っ直ぐな道を全速力で駆け抜けたい気分に襲われた。
 誰も見てない……。
 私は、陸上短距離レースの選手さながらに、その場に両手を付き、腰を低く構えた。
 誰も見ていないから、恥ずかしくもない。
「よぉ〜い!」
 大声で叫ぶ。
「どぉん!」
 自分の掛け声と同時に、全速力で駆け出す。
 すぐに息があがる。
 でも私は止まらない。
 雨飛沫を飛ばしながら走り続ける……。
 胸が苦しくなる。
 でもまだ止まらない……。
 呼吸が困難になる。
…まだだ、まだいける……!
 心臓も太股も張り裂けそうだった。
 私は、三百メートルほど全力疾走したところで、蹴躓くようにその場に勢いよく倒れた。
 膝を擦り剥いた。手のひらもだ。
 うまく息ができなくて苦しい……。
 私はそのまま仰向けになるよう、体を反転させた。
 雨が私を包んでいる……。
 息が詰まって、胸が張り裂けそうだ……。
…どうしてなんだろう……。
 何故か、不意に涙が出てきた。一度溢れ出すと、もう止まらなかった。

『そんなつもりはなかった……』

 彼女は……泉玲花はそう言った。
 そんな事は解っていたのだ。解っていたのに、私はいつからか浮かれていて、彼女の一言一言に、何かしらの勘違いをしていた。
…もしかして、僕に好意を抱いているのかもしれない。
 しかし、何もかもが自分の勝手な思い込みだったのだ……。
 自分が情けなく思えてしょうがない。土砂降りの中、膝を擦り剥き大の字になって寝転び、おいおいと泣いている自分……。このやり場のない感情をどうすれば良いのか、私には解らなかった。アスファルトに自分の拳を叩きつけてみても、それはただ単に自らの拳を痛めるだけで、余計に惨めさを扇情させるだけだ。
 人を好きになって涙を流した事など、今までに一度もなかった。恋や愛など、そんなものは心のどこかで否定し続けていた。
…それなのに……。
 今の自分の姿はなんなのだろう……。
…こんなにも、君が好きなのに……。

 私は暫くそのままで、雨空を見つめていた。
 


<十四>

 私はずぶ濡れのまま、如月荘の自宅に帰り着くと、すぐに浴室に向かいシャワーを浴びた。
 何も考えたくはなかったが、そう思えば思うほど玲花の顔が脳裏に浮かび、酷く沈んだ気分になってしまう。
 浴室から出ると、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。
 私は一度だけ、窓の外に広がる雨景色を眺めると、布団を敷いて横になった。勿論、睡魔が襲ってきたわけではない。ただ、何もしたくなかっただけだ……。
 テーブルに置かれた目覚まし時計に目をやる。
…午後七時。
 おおよそ、一時間は堤防に寝転んで雨に打たれていたことになる。
 別にどうでも良かった、と開き直りたい。そんな事を思おうとする、自分の虚しさ……。
…もう、彼女と会うことはないかもしれない……。
 そう考えると、再び胸が苦しくなり、涙が出そうになる。
 人を好きになる事、愛する事は素晴らしい事ではなかったか? 誰もが口をそろえて、そう言うのではなかったか?
 私はそれらをずっと否定し続けていた。恋や愛など幻想にすぎない。醒めてしまえばくだらない事だと気づく。だから私は他人との係わり合いを避けてきたのではなかったか。
…本当にそうだろうか?
 私は自問自答する。
 私はただ、人を好きになるのが怖かっただけだ。それは、自分の自信のなさからくる恐れ……。私のような人間が他人から好かれるはずはない……。そう決め付けて、自分の殻に閉じこもり、何の努力もしようとしなかった自分……。
…だから、こんなにも切ないのだろうか……?
 己の胸三寸からも明確な答えなど見つかりはしない。
 意味もなく流れる時間……。玲花に逢いたいと思った……。こんな私は、やはり女々しいといわれても仕方ないのだろうか。
 雨の日が、こんなにも悲しいなど思った事はないのに……。



 どれだけの時間、私は布団に包まって呆然としていたのだろう。部屋の中はすでに暗闇に包まれており、私は電気をつける気力もない。
 不意に呼び鈴の音が響いた。
 テーブルの時計に目をやる。
…午後九時前。
 こんな時間に、一体誰が来訪してくるというのであろうか。セールスにしては時間帯が遅すぎる気もするし、私を訪ねてくるような友人もいないであろう。
…もしかして、管理人だろうか?
 だとしたら、こんな気分のときに、彼などとは話をしたくない。余計に気分がめいりそうだ。
 私は呼び鈴の音を無視する事にした。
 雨の音……。まだ、降り続けている。
 暫く間を置いて、再び呼び鈴の音。
…頼むから帰ってくれ。
 私は布団の中に潜り込む。
 そして三度目の呼び鈴。
 私は起き上がると部屋の電気をつけて、渋々玄関のほうへ向かった。
「はい?」
 くもった声を発しながらも私は玄関をあけ、来訪者の顔を確認しようとした。
…あっ……。
 玄関の外で傘を持って立っていたのは、管理人などではなかった。人の良さそうな初老の男……。
…定岡敬介。
 彼は、玄関口に現れた私の姿を見て、ずいぶん戸惑った素振りを見せた。
「おや? あんた、二宮さんだな。表札と違うんで驚いたよ」
 勿論、表札には本名が書かれてある。二宮というのは不本意な偽名だ。
「あ、ああ、その表札は前住んでた人の名前ですよ。まだ入れ替えてないもんで……」
 一から説明するのも面倒だったので、私はそんな嘘をついて誤魔化した。
「前の住人の名前か……。まあ、そんな事はどうでもいいんだがね。……良かったよ、家にいてくれて」
「はぁ?」
 定岡は、ぎこちない笑みを浮かべながらそんな事を言ったが、私には彼の言葉の趣旨が理解できないでいた。
「いやぁね、いくら探しても『二宮』なんて表札がないもんだから、別のアパートかと思ったんだよ。しかし、『如月荘』なんてアパートは他に知らないしねぇ……」
「もしかして、僕を訪ねてきたんですか?」
「そうだよ。何か不都合だったかな?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
 そうは言ったものの、私はいぶかしむ。何故、定岡が私などを訪ねてくるのであろう。私の住まいは玲花から聞いてきたのだろうが、それにしても何の用件があってのことだろうか。
 定岡は不意に困った顔をする。
「玲ちゃんがねぇ、もう一度あんたと話がしたい、ってワシに泣きつくんだよ……。本当は連れて来るべきじゃないんだが、あんなに泣きつく玲ちゃんも久しぶりなんでね……、まぁ、連れてきたわけなんだ」
「えっ!?」
 私は定岡の言葉に驚いて、思わず辺りを見渡す。
「玲ちゃんは、下で待っとるよ。……今、いいのかね?」
 覇気のない笑顔を浮かべて、定岡は尋ねてくる。
「え、ええ……」
 私も覇気のない返事を返す。
 私の返答を聞いて、定岡は暫く躊躇するように視線を泳がせていたが、やがて階段を降りていく。
 ややあって、定岡が玲花の手を引き、私の前に戻ってきた。
「さぁ、ワシはこれから用事があるんでな……。あとは二人で話しなさい。……二宮君、話が終わったら、玲ちゃんを自宅まで送ってほしんだが……、頼むよ」
 定岡はそういうと、暫く私と玲花の顔を見比べるようにして視線を彷徨わせていたが、やがてその場を静かに去っていった。
 私は定岡の後ろ姿を見送ったあとで、玲花のほうへ顔を向ける。つい何時間か前に分かれたばかりだというのに、玲花の顔を見るのはずいぶん久しぶりのような気がしていた。しかし、玲花の表情はあの時と変わらず、悲痛に曇り、俯いていた。
「あ、あのさ、どうしたの? わざわざ僕の家まで訪ねてきて」
 玲花から言葉を発するような気配がなかったので、私からそう尋ねた。勿論、極度の緊張のため、平常心を保ったつもりでいるはずが酷く上擦った声になってしまう。
「う、うん……」
 玲花は俯けた顔を、少しだけ上げる。
「……二宮君に、さっきのこと謝りたくて……」
「謝る? どうして……?」
 私がそう聞くと、玲花は再び俯き口を閉ざす。
「あ、あのさ、こんなところで立ち話もなんだから……、汚い部屋だけどあがりなよ」
 相変わらず心臓の鼓動は激しかったが、私がとりあえずそういうと、玲花は小さくうなずいた。
 玲花を部屋に招き入れると、彼女を小卓のそばへ座らせた。ソファや座布団といったような気の利いたものなど、一切私は持ち合わせていなかったので、少し気兼ねがしたのだが、ないものは仕方がない。先ほどまで寝転んでいた布団も出しっぱなしだ。
「今、麦茶くらいしかないんだけど……、いいかな?」
 私は冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「うん、ありがとう。……あまり気を使わないでね」
 玲花は沈んだ声でそういう。
 私は麦茶を二つのコップに汲むと、一つを玲花の前に置き、彼女の向かい側に腰を下ろした。
「で……、僕に謝りたいって言ってたけど……」
 少し間を空けてから、私は口を開いた。
「う、うん……。だって二宮君、急にあんなこと言うから、私驚いちゃって……。酷い事いったかなって思ったの」
 玲花は俯いたまま話す。
「それだけ? わざわざ、そんな事を言うために、僕のとこへ来たの?」
「うん……」
 彼女は、小さくうなずく。
「あ、あのさ、二宮君には私なんかじゃなくて、もっと素敵な人が見つかると思うの。……ほら私、目が不自由だし……。男の人と付き合うとかよく解らないんだけど……、きっと、たくさん迷惑かけちゃうと思うんだ。だから……」
「玲花ちゃん、もういいよ……」
 私は、玲花の言葉を途中でさえぎる。
「え?」
 玲花はそこでようやく顔を上げた。
「フラれた女の子に慰めてもらうなんて、よけいに惨めになるだけだ。……だから、そんなこと言うのはやめてくれないか?」
 私はあえて冷たく言い放つ。いっそうの事、玲花に嫌われたほうがあきらめもつくのだろう。このままこんな気持ちを、ずるずると引きずりたくはなかった。
「そ、そうだね。ゴメン……」
 玲花は再び俯く。
 考えてみれば、おかしな状況だ。どうして、先ほどフラれた女性が私の部屋にいるのだろう。なんだか滑稽に思える。
「玲花ちゃん、君が謝るんなら、僕も謝らなくちゃいけないんだ。でもね、僕は君に謝りたくなんてないんだ……。強がりとかじゃないよ。……僕はただ、正直な気持ちを君に伝えただけだ。悪い事を君に言ったつもりはない……。それとも、あんな事を言われるのが不快なぐらい、僕は嫌われていたのかな?」
 私は冷たい口調を崩さない。
 玲花は私の言葉に何度も首を横に振り、ついには涙を流し始める。
「頼むから泣かないでよ。……女の子って自分に不都合な事が起きると、すぐ泣いたりするよね。僕そういうの嫌いなんだ。なんでも泣けば、自分の思い通りになるって思ってるんじゃないの? なんだか人の弱みに付け込んでるみたいで、本当にイヤだね」
 玲花の涙は更に溢れ出す。
 私は膝の上で、力強く握りこぶしをつくる。
…これでいいんだ……。
 自分に何度も言い聞かす。そうしないと、私まで泣き出しそうだった。
 私など、このまま彼女に嫌われてしまったほうがいいのだ。フラれた腹いせの意地悪だと思われても構わない。負け犬の遠吠えだと思われても構わない。
…僕なんか、嫌われたほうがいいんだ!
「玲花ちゃん、もういいだろう? ちょっと気分が悪いんだ。帰ってくれないかな……。家まで送るよ」
 私は立ち上がる。いくら冷酷になりたいとはいえ、この雨の中、目の不自由な玲花を一人外に放り出すわけにはいかない。
 玲花も泣きながらゆっくりと立ち上がる。
「ごめんね、本当にゴメンね……」
 何度もそう繰り返す玲花をみて、私は胸を締め付けられる。
…そんなに謝らないで。
 罪悪感が私の心を覆う。
「……でも、でもね、本当だよ。二宮君は優しいから、きっとすぐにいい人が見つかるよ」
 玲花は、震える声でそう言う。
「だから、そんなこと言うなよ!!」
 私は、思わずそう叫んだ。
 一瞬、部屋の中が静まり返る。
 雨の音……。
 どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう?
 気づくと、私も涙を流していた。
「僕は……、優しくなんかない。ただの臆病者だよ……」
 私は俯き、独り言のように呟く。
 玲花は、右手で涙を拭う。
「ううん、二宮君は優しいよ。だって、私、二宮君の事好きだもん。……二宮君に好きだ、って言われて、私すごく嬉しかった……。嘘じゃないよ。こんな気持ちは初めて……」
「えっ?」
 私は思わず顔をあげる。
 玲花は涙を流しながらも、微笑んでいた。
「でもね、だめなの……。私は、二宮君の気持ちを受け取れるような資格なんてないの」
「どうして!?」
「私……、二宮君が思っているような女じゃないよ」
 玲花は再び俯く。
「そんな事は、これからお互いに知っていく事じゃないか。……僕だって、君が思っているような男じゃないかもしれない。……でも、僕は君が好きなんだ。もう、どうにもならない気持ちなんだよ」
「本当に……、本当にそういえる?」
「ああ」
 私は、玲花を見て強くうなずく。
 再び、沈黙が私たちを包む。
 やがて、玲花は呟くようにこういった。
「私、一度お腹の子を堕ろしてるの……」
 


<十五>

 耐え難い沈黙……。
 泉玲花のその一言は、私に多大な衝撃をもたらした。
…子供を堕ろしている……。
 情けない事に、私はそのまま二の句が告げないでいた。
「ほらね、二宮君驚いてるでしょう? 軽蔑した? 幻滅した? ……私は、二宮君の思っているような女じゃない……」
 玲花は胸の前で手を組み、まるで神にでも祈るような仕草で首を振った。
 確かに、思ってもみない玲花の言葉だった。しかし、軽蔑や幻滅などしていない。
…本当にそうだろうか……?
 私は、自分の襟首を右手で掴む。
「……解らない、解らないけど……、そんな事で君を嫌いにならない。僕は……」
「嘘よ!!」
 今度は玲花が叫んだ。
「……私はずっと一人だった。今までも、これからもずっと一人なの。……目が見えなくなって、色々な事をあきらめてきたわ。夢も仕事も、恋だって……。他の若いコたちは皆、楽しそうに暮らしているのに……、そんな話を聞くたびに私は惨めになったし、自分の不幸を呪ったわ。慣れない道を一人で歩く事もできない、料理もまともに作れない、家事や洗濯だって満足にできないわ。何も一人じゃできないのよ? そんな私を好きだなんて、絶対に嘘だよ……」
 玲花は必死に涙を堪えようと、歯を食いしばり体を震わせる。
 なんとなく、痛々しさを感じさせる姿だった……。何もなければお互い、こんなに苦しまずにすんだのかもしれない……。しかし、私たちは出会ったのだ。あの大きな楠の下で出会ってしまったのだ……。
 人を好きになる事は、こんなにも苦しいものなのだろうか。人を好きになるのは当たり前のことなのに、どうしてこんなにも切ないのだろうか。
 気づくと、私は玲花のすぐ目の前まで歩み寄っていた。そして、そのまま玲花の体を静かに抱き寄せる。
「えっ……」
 玲花は驚いたようで、一瞬だけ私の行動に抵抗した。
「一人でできないなら、二人でやればいいさ……」
 私は、玲花を抱きしめたままそっと言う。
「二宮君……」
 玲花は私の名を呟くと力を抜き、私の胸にしがみついて泣きじゃくった。
「……そうなれるように努力していこう? ……僕は、本当に不甲斐ない男だけどさ、君の事を考えているときだけは優しい気持ちになれるんだ。この気持ちをずっと大切にしたい……。こんなこと、口で言えるほど簡単な事じゃないだろうけど、君がそばにいてくれればできるような気がするんだ」
 そう言って、私は玲花の白い頬にそっと触れた。
 たとえ、ドンキーホーテーになろうとも、私は泉玲花を護る騎士となる……。
 玲花の唇に触れ、おもむろに口づけをする。彼女は私のその行為を優しく受け入れてくれた。
 唇を重ね合わせたまま、私たちはきつく抱擁しあう。そうしている間に、お互いの理性はいつの間にかどこかへ消えていった…。
 私は玲花の首筋に唇を這わせ、服の上から玲花の乳房に触れる。見た目よりも豊かな手ごたえに、私の口づけは激しさを増し、玲花はそのたびに甘い吐息を洩らした。
 私たちが、敷いたままの布団の上で横になるまでには、それほどの時間は掛からなかった。
 玲花が着ていたものを少しずつ脱がしていくたびに、彼女の透き通るような白い肌があらわになり、私はその都度その部分に口づけをする。
 その時、私はあることに気づいた。玲花の体の所々に、紫色の《痣の痕》のようなものがあるのだ。そのほとんどは、すでに治りかけているようであったが、玲花の白い肌に、その内出血の痕はよく目立つ。私はどうしたのか、と尋ねようとしたのだが、それよりも先に玲花のほうから唇を求めてきたので、私はその事を聞きそびれてしまった。
 お互いの行為は、やがて加速していった……。彼女の乳首を指先で弄ぶと、玲花は眉根を寄せて吐息を洩らす。
「ねえ、二宮君だよね? 本当に二宮君だよね?」
 何故か突然、玲花は一瞬だけ怯えた表情になり、そんな事を尋ねてくる。
「どうして?当たり前だろう」
 私がそう答えると、玲花は安心したように目を瞑った。
 私の指先は彼女の乳房から離れ、もっとも敏感なところへ向かおうとしていた……。
 聞こえてくるのは、雨の音と互いの吐息だけだ……。



 性行為が終わったあとも、私たちは裸のまま布団の中で横になっていた。無論、洗練されていない私の性行為に、彼女が満足したとは思えなかったが、私は確かな充実感と幸福を感じていた。夢などではなく、現実の玲花が私のすぐ横にいること……。大袈裟な言い草かもしれないが、彼女の姿を見るだけで生きる希望が湧いてくる。私はようやく護るべきものを見つけたのだ。
「僕があなたを護る騎士となりましょう」
 私はおちゃらけて、隣に横たわる玲花にそう言った。すると、玲花はクスクスッと笑う。
「ふふっ、どうしたの? 突然」
「うーん、《誓い》、かな」
 そう言って私も笑う。
 このままずっと、玲花と生きていきたい。そうなれば、どんなにも幸せだろうか……。
「もう今日は、泊まっていきなよ」
 私は玲花の髪に触れながら、提案する。
「うん、そうだね。……でも、定岡のおじちゃんが心配するかな?」
「電話しとけば大丈夫だろう?」
「そうだね……。うん、じゃあそうする」
 玲花は微笑んでうなずく。私は、そんな玲花にもう一度口づけをした。
 不安も恐れもなかった。ただ、玲花がそばにいてくれるだけで良かった……。
 私はその時、そんな事を考えていただろう……。
 


<十六>

 昨日から降り続いていた雨は小降りになったとはいえ、今朝方になっても止む気配はなかった。庭に咲いた紫陽花は、そんな雨を喜んで受け入れるかのように、見事に咲き開いていた。
 定岡敬介は、この季節になるといつもその紫陽花を見て、自分の妻の事を思い浮かべる。
「妻は、そこに咲いている紫陽花が好きでねぇ、朝からこの縁側に座って、花をじっと見ておったよ」
 定岡は自分の隣で、胡坐(あぐら)をかいて座っている若い男にそう言った。
「紫陽花ですか……。確かに綺麗な花ですね」
 男はそう言ってから、鼻先の眼鏡を人差し指でついっと上げる。
「失礼ですが、奥さんは?」
 暫く間をあけてから、男が尋ねてくる。
「妻は……、三年前に亡くなりましたよ。脳梗塞でねぇ。前日まで元気だったのが、突然ぽっくりと逝っちゃいましたよ。……人間の命なんて、本当わからんものですな」
「人間誰しも、明日があるなんて保障はどこにもありませんからね」
「まったく……」
 定岡は呟いてから、お茶を啜った。
 時刻は午前九時……。
 この異国ふうの男が、突然定岡の家を訪ねてきたのが今からおおよそ一時間前だった。男は如月荘の管理人で、影戸輝と名乗った。
「……それで、さっきの話の続きなんですけど……、つまりあなたは《その事を知らなかった》。だから、あんな《不可解な現場を作ってしまった》んですね?」
 若い男……影戸輝は、肩をすくめてから定岡に尋ねてきた。
 一時間前、日本人離れした容姿の青年は、何の前触れもなく、突然定岡の前に現れたかと思うと、いきなり『泉健作の死』について、根掘り葉掘り勝手に話し出した。最初は、如月荘の管理人だと言ってきたので、てっきり玲花の身に何か良からぬ事が起きたのかと思ったのだが、全くの見当はずれで、若い管理人は三ヶ月前の事件を定岡に聞きに来たのである。しかしながら、聞きに来たといっても、影戸と名乗る青年が一方的に喋るばかりで、定岡は中々口を開けないでいた。だは、その話の内容は、まるで事件現場を見ていたかのような的確さで、恐ろしいほどに定岡の心中を射抜いていた。
 ようやく、影戸の話が一段落ついたようなので、その隙をつき、定岡はお茶を持ってきて話を逸らそうとしていたのだが、あえなくそれは失敗に終わり、如月荘の管理人は再び事件の話を始めたのである。
 定岡は観念して、大きな溜め息をついた。いつかは、必ずこういう日が来るとは覚悟していたのだ。しかし、定岡の前に現れるのは、古いアパートの管理人などではなく、警察かマスコミの人間だと思っていたから驚いただけだ。
「影戸さん……と言いましたかな? どこでそんな情報を仕入れたかは、あえて聞かないが……」
 定岡はゆっくりと口を開く。管理人ははい、とうなずく。
「……確かに、あんたさんの言うとおり、ワシは《その事》を知らなかった。だから、あの現場をあのようにすれば、少なくとも《殺人は誤魔化せる》と思ったんです……。しかし、ワシが《その事》を知ったのは、翌日だった。……ワシはこう見えても、元殺人課の刑事なんでね、もっと早くに《その事》を知っていれば、もう少し賢い方法で誤魔化しておったよ」
「そうですね。定岡さんが《その事》を知っていれば、あの殺人現場を《密室などにはしなかった》はずです」
「ふふっ、なんでもお見通し……ですな」
 定岡は思わず笑い声を洩らしてしまう。すると影戸は一瞬だけ肩をすくませ、胸ポケットからチューイングガムのようなものを取り出すと、それを口の中に放り込んだ。
「そんな事はありません。僕は神ではありませんからね……。どうです、定岡さんも一枚?」
 影戸は、定岡の前にガムを一枚差し出す。
「牛乳の味がする不思議なガムです」
 定岡は首を横に振る。
「お気持ちだけいただいときますよ。あいにくワシは、歯が悪いもんでね……。それに、牛乳味のガムなんて聞いたことがない」
「ははっ、冗談ですよ。本当はミントの味です」
 影戸は無邪気な表情で笑う。
 定岡はそんな影戸の表情を見て、不思議な男だと思った。
 定岡は刑事という職業を経ているため、さまざまな人間を見てきている。一見善人で気が弱そうだが、三人もの命を殺めた人間。強面(こわもて)だが、自分の命を懸けてまで人命救助に徹した人間。見かけどおりの人間……。
…さまざまな人間を見てきた。
 しかし今、目の前にいる男はどうであろう。今まで定岡が見てきたどの人間のタイプにも当てはまりそうにない……。
…目だ……。
 定岡はそう思う。影戸と名乗った男の目は、不思議な蒼色をしている。じっと見ていると吸い込まれそうになるのだが、その瞳の奥には何かいい知れぬ闇が宿っている……。そんな目なのだ。何を考え、何を企んでいるのか全く読み取れないのに、何故か自分の心の内はすべて読み取られてしまっているような気分になってしまう。
…この男は、本当に人間か?
 本気でそう考えてしまうほど、得体の知れない男だと思った。
「さて、定岡さん。僕がどうしても解らない……否、知りたいのは、どうして自らの立場も顧みずに、あのような行動をとったのか? と言うものなんですが……。『親心』に似たものなんですかね?」
 確かに影戸の言うとおり、自分の犯した罪は重いのであろう。その事は定岡自身、じゅうぶん理解していた。元刑事という立場上、それはなおさらだった……。
「親心に似たもの……ですか……」
 定岡は呟いた。
「……確かにそれはあったかもしれませんなぁ。だが、そんなものじゃない。……せめてもの罪滅ぼし……という気持ちのほうが強かった」
「罪滅ぼし……というと?」
 影戸に問われ、定岡は少し思案する。
「いいでしょう、すべてあんたさんにお話します。……ただし、条件を付けさせてもらいますよ。……勿論、あんたさんにすべてを話したら、ワシは警察へ出頭します。しかし、それ以上、《事を荒立てないで》ほしい」
 定岡は影戸の目を見つめ、挑むようにして言った。
 しかし、影戸はあっけなく返事を返す。
「それはできませんね。別に、あなたを脅迫してお金を取ろう、なんてことは毛ほども思っていませんよ」
「それでは、どうして条件は飲めんのです?」
「簡単な事です。……定岡さんはご存知かどうか知りませんが、僕のアパートの住人が、今回の事に《絡んでしまってる》んですよ」
 影戸に言われて、定岡の脳裏に二宮という男の顔が浮かんだ。やはり、玲花をあの男の家まで送り届けたのは間違いだったのだろうか? 昨夜、玲花からその男の家に一晩泊まる、という連絡が入ってきていた。
「それに定岡さん、あなたが自首して事件が穏便に済んだとしても、本当にそれですべてが終わるんでしょうか?」
 影戸の表情は、その言葉とは裏腹に涼しげだ。しかし、定岡は言葉を返す事ができなかった。影戸の言う事は、定岡にとってじゅうぶんな説得力を持っていたからだ。
 影戸は続ける。
「だいたい、この事件はあまりにもお粗末すぎる。警察やマスコミが、未だ事件の真相にたどり着いていないなんて間抜けもいいところだと思いませんか? どうして人間という生き物は、こんな簡単な事を見過ごしてしまうんですかね。あまりにも事件を複雑視し過ぎてますよ。特に日本人においては、簡単な問題をわざわざ複雑視し、難しい問題を簡単視する傾向が多いですよね。……まぁ、そんな事はどうでもいいんですが……。要するに、遅かれ早かれ事件の真相は、近いうちに明るみに出る、と僕は思いますよ」
 影戸は淡々と言葉をつむぐ。
 定岡は、少し間を置いて尋ねる。
「影戸さん、そう思うのなら何故、わざわざあんたはワシの家まで訪ねて来られたんです? ワシとしては、 放っておいてもらってたほうがありがたかったんだが……」
 すると影戸は、そこで定岡の言葉をさえぎった。
「そうはいきません。警察やマスコミに知られてからでは遅すぎるんですよ。……正直な話、あなたが自首しようとしまいと、僕にはどうでもいいことなんです。だから、いくら僕が事件の真相を知っているからといっても、警察に通報する気もさらさらありませんよ。……ただ、僕の知人が不本意にもこの事件に絡んでしまった。恐らく彼は、《何も知らない》でしょうね。もし、彼が事件の真相を知ったならどうなるか……。彼は僕の見たところ、強い人間ではありません。誰かの助けが必要になるでしょうね。……そうなる前に、僕は彼を救いたい。管理人として、彼を助けたいだけですよ」
 定岡はそれを聞いてうなだるを得なかった。このままでは、確かに無関係な人間までをも巻き込まなくてはならなくなる。
「あんたは、それができるんですかね? 彼を救う事が……」
 定岡は、力なく尋ねた。
「ええ、できます」
 そう答える影戸の目は、自信に満ちているようであった。
「解りました。すべてお話しましょう……」



 如月荘の管理人……影戸輝にすべてを話し終わった後、定岡敬介はなんとなく脱力感に襲われた。
 庭に咲いている紫陽花を見つめる。
…妻は、どう思っているだろうか?
 そんな事を考えながら、影戸の表情に視線を移す。一見、先ほどと変わらずに平然とした表情をしているようであったが、その瞳の奥には、さすがに悲痛の色が浮かんでいるかのように見えた。否、定岡自身がそう思いたいだけなのかもしれない。だがしかし、影戸の瞳には、必死で滲み出る感情を抑えるようなものが見えたような気がした。
「そうですか……」
 影戸は呟くように一言だけそういうと、おもむろに立ち上がった。
「長い時間お邪魔して、すいませんでした。僕はこれで失礼させてもらいますよ」
 人差し指で眼鏡を押し上げながら、そばに立て掛けてあった黒色の傘を開く。
「影戸さん、ワシにできる事はありますかな……?」
 定岡は再び紫陽花に目を移して、そう聞いた。
「そうですね……。そこで、じっと待っているだけでいいと思いますよ」
 影戸は、少しだけ笑みを浮かべる。
「そうですなぁ……。それしかありませんな」
 定岡も自嘲気味な笑みを浮かべ、うなずいた。
「それでは、失礼します」
 そういって、影戸輝は雨の中をゆっくりと歩き、定岡の庭を出て行った。
 定岡はそんな影戸の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと座ったまま見送った。
…あとは、彼に任せよう。
 そうして、影戸の姿が見えなくなると改めて思うのだった。
…不思議な男だ……。
 と……。
 


<十七>

 玲花と結ばれた翌日、私は目覚めるとすぐに、隣に泉玲花が寝ているのを確認した。昨夜のことはすべて夢だったのではないか、と不安になったからである。しかし、私の意に反して、玲花は私の隣で小さな寝息をたてていた。私はそれを見て、胸を撫で下ろす。
…夢ではなかった。
 今まで、一度だって女性に対し、あんな行動に出たことはなかったのに、昨夜はまるでそれが自然の流れのごとく、すらすらと言葉が出てきたし、行動もできた。今考えてみて、女性に対して奥手で通っていた私があんな事になるとは、自分自身でも信じられない。
 私は、玲花が起きないよう注意しながら布団を出て、窓際に向かった。カーテンを開け、外の様子を窺う。
…まだ、雨降ってんなぁ。
 どうやら、清々しい朝とはいかないようだった。しかし、いつもならば朝からこんな天気の日は、気分が妙に憂鬱になるものだが、玲花が私の部屋にいるという現実が、そんな気分を寄せ付けないでいた。
 私は、何気なく部屋の空気を入れ替えようと、窓の鍵に手を触れた。その刹那、不意に天啓のようなものが私の脳を貫いた……。
…まさか……。
 私は、暫くそのままの状態で動けなくなる。手が触れている窓の鍵は、玲花の家のものと同型のものだった。
…あの現場を説明できる、唯一の結論……。
 玲花の父親、泉健作……。彼が何者かによって殺害されたのは間違いがない。だがしかし、どうしても解らなかったのが、健作が殺害されていた現場であった。
…完全なる密室。
 窓はすべて内側から鍵が掛かっており、玄関もロックされていた。健作の死体は動かされた形跡がない……。それなのに、健作の額に残された弾痕は、少なくとも十メートルは離れた場所から撃たれたものだという……。つまり、家の中にいた健作を、何者かが屋外から射殺したのだ。しかし、窓には鍵が掛かっていた。そうなると、窓ガラスにも弾痕が残っていなければならないのだが、そんなものは残っていなかった。まさか犯人が、わざわざ窓ガラスを張り替えるはずもないだろうし……第一、そんな事をすればその痕跡を警察がいち早く見つけるだろう……。即死であるはずの健作が、額を撃たれたあと、自ら窓ガラスを閉めれるはずはない。……と、なると、前々から私が言っている《窓ガラスを擦り抜ける弾丸》が存在しなければならないのだが、勿論そんなものがあるはずはないのだ。こんな状況で泉健作を殺害するなど、どうかんがえても『不可能』だ。
…絶対に不可能。
 どうして、私はそんな事に早く気づかなかったのだろう。否、早くから気づいていたのに、その状況を《どうすれば、可能なものにできるか》という事ばかり考えていたのだ。
…そもそも、その考えが間違えだった。
 絶対に不可能な事を、可能にできるわけなどないのだ。だからこそ、私はこう考えなければいけなかった。
…その現場は、どうかんがえても『不可解』だ。
 要するに、理解できない事を無理に理解しようとするのではなく、簡潔に理解できるようにしなくてはならない。
 いつか、管理人の影戸の言った言葉が、脳裏に蘇える。

『あらゆる可能性を想定し、自分で得た情報によってその可能性を一つずつ消去していく。そして、その中で残ったものが真実に一番近い』

 あらゆる可能性を想定しても、自分の得た情報を整理してみても、あの密室の謎は解けない。と、なると、私はこう考えなければいけないのだ。

…『密室など存在しなかった』。

 それが、私の思考の中で唯一残った答え。つまり、真実に一番近いという事になる……。
 ここまでくれば、あとの思考は簡単だ。
 存在しないはずの『密室』を肯定できる人物は、ただ一人……。健作の殺害現場に一番早くたどり着いた人物……。
…定岡敬介。
 すべて彼の『偽証』だったとすれば、何の問題もなくなるではないか。
…でも……。
 一つだけ大きな問題が残る事に私は気づく。それは。定岡敬介、泉玲花共に、『お互いのアリバイを証明しあっている』ということだ。
…否、これも偽証アリバイだとしたら?
 玲花は、定岡が自分の父親を殺した事を知ってるが、何らかの弱みを握られ、定岡に偽証を求められている……。そう考えると、不意に昨夜の玲花の言葉が思い浮かんだ。

『私、一度お腹の子を堕ろしてるの……』

…そうだ、そのことだ!
 私は、玲花の寝顔に視線をやった。
 きっと、そのようなことで玲花は定岡に《脅されている》のに違いない。そうでなければ、事件の辻褄が合わないのだ。それこそが、事件の真相……。
 そんな自分の推測に至った時、私は自分の中で確たるものを見つけたような気がした。
…玲花を定岡から護らねば。玲花の騎士として……。
 私は、その思いを心に刻んだ。
 その時突然、呼び鈴の音が部屋内に響いた。刹那、私は警戒心を抱く。もしかして、定岡が玲花を迎えに来たのかもしれない。
 おもむろに玄関口に向かい、覗き穴から外の人物を確認してみるが、玄関の外に立っているのは、どうやら定岡ではないらしい。私は、ほっと胸を撫で下ろすと玄関を開けた。
「よう、朝っぱらからすまねぇな」
 軽く手を上げてそう言ってきた男は、この前影戸の部屋に来ていた体躯の良い男……確か名前は、佐々木清だとか言ったはずだ。
「あっ、お早うございます……。どうしたんですか?」
 私は訝しんで、佐々木に尋ねた。
「あのよぉ、影戸の奴しらねぇか? 昨日から電話してんだけど、あの馬鹿でぇねんだよ。……さっきも部屋訪ねてみたんだけど、鍵掛ってていねぇみてえだし」
 そう言えばここ最近、管理人の姿を見ていないような気がする。昨日のことは知らないが、前日までは部屋の電気などがついていたから、いることはいるのだろう。
「多分、散歩にでも出てるんじゃないんですかねぇ。外は雨ですけど……。なにか大事な用件でもあるんですか?」
 私が聞くと、佐々木は苦虫を噛み潰したかのような表情をする。
「いやぁな、俺の友達の誕生日パーティーに出席するのかどうか聞きたくてなぁ。……あいつ、パーティーには興味ないけど、建物には興味がある、とか何とか言って、中々ちゃんとした返事をくれないんだよ。まったく、困った奴だ」
「建物に興味があるって……、どういうことなんです?」
「ああ、それな……、俺の友達の兄貴が『パルテノン荘』に住んでるらしいんだよ。そこで誕生日パーティーをするって話なんだけどよ。……お前、知ってる?」
 佐々木は、少し自慢げな表情になって、私に尋ねてくる。
 確かに、パルテノン荘は知っている。なんでも、ギリシャに建つパルテノン神殿を忠実に再現した建物だとかで、建造された当時はずいぶんと有名になったが、何十年も昔の話だ。
「まぁ、名前は聞いたことありますが……」
 とりあえずそう答えると、
「だぁろう!?」
 と、佐々木は嬉しそうな顔をした。(実はこれより一ヵ月後、このパルテノン荘にて奇怪な連続殺人事件が起こるのであるが、それはまた別の話になる……)。
「……まぁ、影戸の居場所を知らないのならいいや。またあとであの馬鹿に電話でもしてみるよ」
 佐々木は、少し間をあけた後そう言うと、朝っぱらから悪かったな、と手をあげて去っていった。
 私は半分肩透かしを喰らった様な感じで、佐々木の姿を見送る。
「誰か……、お客さん?」
 不意に後方で声がしたので、思わず振り向くと、そこに玲花が立っていた。寝癖のせいで少々髪の毛が乱れているようであったが、私は可愛らしいと思った。
「あっ、ゴメン、起こしちゃったかな?」
 私は部屋の奥に戻りながら、玲花に謝る。
「ううん、ちょうど目が覚めたところ。……お友達だったの?」
「いやいや、別にそういうのじゃないんだけど……。このアパートの管理人さんの友達だよ」
「ふーん」
 玲花は一度だけ髪をかきあげてからうなずく。慣れない部屋のせいか、それとも寝起きのせいだろうか、玲花の足元はあまりおぼつかない様子だ。
 私は部屋の隅に追いやった小卓の前に座ると、煙草に火をつけた。先ほど私の考え付いた推理は、とりあえずはまだ玲花には話さないでおこうと決める。
「あのさ、玲花ちゃん」
 布団の上に座った玲花を見やる。玲花の視線は、勿論私の視線を的確には捉えてなかったが、私のほうに顔は向けていた。
「……昨夜、眠りに就く前までずっと考えてたんだけど……、僕、明日からでも新しい仕事を探そうと思うんだ」
「えっ?」
 突然の私の言葉に、玲花は少々驚いているようであった。
「君と一緒にね、色んなところへ行きたいなって……。色んなものを見たり、聞いたり感じたりして、一緒にいたいなって思ったんだ。でも、色々なところへ出かけるとなると、やっぱりお金がいるだろう? それに、僕がちゃんとした職業に就いていたほうが、君も安心できると思ったんだ……。勿論、職が決まったら、今までみたいに毎日は逢えなくなるかもしれないけど……」
 少し照れくさかったが、私はそんな台詞を口にした。台詞といっても、無論うわべだけのものではなく、本心からのものである。確かに、私は社会には向いていない人間なのかもしれない。それでも、玲花のためなら頑張れるような気がした。
「二宮君……」
 しかし、玲花は何故か悲しげな表情をする。
「玲花ちゃん?」
 そんな表情を見て、思わず私が玲花の名を呼ぶと、そこで彼女はようやく力なく微笑みありがとう、と言った。
 


 時刻は午前十時……。
 私と玲花は、部屋を出た。勿論、玲花を家まで送り届けるためだ。雨の中、一つの傘の下に私と玲花が納まっている。彼女は右手には杖を、左手は私の右手に繋がれていた。
「ようやく梅雨らしくなってきたなぁ」
 傘に当たる雨音に耳を傾けながら、私は言う。
「そうだね。梅雨が終わると、また暑い夏が始まるんだね」
 そう答える玲花の表情は、どことなく虚ろげだ。
「定岡のおじちゃん、心配してるかな?」
 玲花は、少しだけ俯いて呟くように言った。
…もう、何も心配要らないよ。僕がついてるから……。
 私は心の中で言い、玲花の手を少しだけ強く握り締めた。
 それから私たちは、暫く無言で歩いた。そうしていると、やがてM小学校の前にたどり着く。二人の足は、自然とあの大楠の幹へと向かった。
 私と玲花が、初めて出逢った場所……。あれからまだ、それほどの日にちは経っていないと言うのに、何だかずいぶんと懐かしい感じがしていた。
 楠の下は、高く大きく広がった葉のおかげで、傘の必要はなかった。私はその場で傘を閉じると、雨粒を振り払う。
 今日は日曜日で、この天気だ。子供たちの姿はどこにも見当たらない。
「皆、なにしてるのかな?」
 玲花は大きな幹に背を凭れ掛ける。
「皆って?」
 私は地面から突き出た、大きな根に腰を下ろす。
「子供たちの事……。雨の日は皆、何して遊んでるんだろうって思ったの」
「そりゃあ、テレビゲームしたりとか、漫画読んだりしてるんじゃないかなぁ。ほら、今の子供ってあまり外で遊ばない、って言うじゃん。だから、晴れていようが雨だろうが、今時の子供はあまり関係ないんじゃないかな」
「そうかな……。でも、皆が皆そうじゃないでしょう?」
「そりゃそうだろうけど……。でもなぁ、今時缶蹴りや鬼ごっこなんてして遊ぶ子はあまり見かけないね……。玲花ちゃんは、小学生ぐらいのときは何して遊んだ?」
 私が尋ねると、玲花は少し首を傾ける。
「私も、あまり外で遊ぶほうじゃなかったかな。家で本読んだり、お人形さんで遊んだりしてた事が多かったと思う。でも、たまには外でも遊んだよ。ほら、ゴム縄跳びとかなかった?」
 玲花に尋ねられて、私は思わず一度だけ手を叩いた。
「ああ、あったあった! そう言えば、女の子はよくそんなことして遊んでたなぁ。僕なんか、あれのどこが面白いんだろうなんて思ってたけどね」
 私が言うと、玲花はクスクスッと笑う。
「男の子だって、ドッチボールとかでボールの当てあいこなんかして、何が面白いんだろう、って私も思ってた」
 それを聞いて私も笑う。
「ハハハッ。でも、ドッチボールは面白かったなぁ。……う〜ん、そういえばあの頃の時代は、女の子と遊ぶ事は友達内で無言のタブーになってたからね。女の子と遊んでると、よく女たらし〜とか言われて、仲間外れにされたからなぁ。……まぁ、今の子供たちはそんな事はないんだろうけどね」
 そんなたわいのない会話が楽しく思えた。くだらない事で笑い合える相手がいることが、こんなに幸せなんだと思った事は、今まで一度もない。
…うん?
 不意に私は、前方から人影が近づいてくる事に気づいた。長身のようで、黒い傘を体全体に覆いかぶせるように差しているため、顔は見えなかったが、私はそれが誰だかすぐに解った。
…管理人だ。
 それは、影戸輝の姿であった。非常にゆっくりだが、彼の歩みは確実に私たちのほうへ向かっている。
「どうしたの?」
 突然無口になった私を不審に思ってか、玲花が尋ねてくる。
「えっ、いや、向こうから見覚えのある人が近づいてきてるから……」
 私がそう答えている間にも、影戸は私たちのほうへ近づいてくる。そうして、ある程度、距離が縮むと彼は傘をたたみ、この楠の下に無言で入ってきた。
「か、影戸君、なにやってるんですか、こんなところで?」
 私は楠の根から腰をあげると、思わず管理人にそう尋ねた。
 すると影戸は、不敵な笑みを浮かべる。
「何をやってるって、散歩に決まってるじゃないか。君もおかしな事を尋ねるねぇ」
「おかしいって……、こんな雨の中を散歩ですか?」
「そうだよ、何か不都合かい? 君たちも散歩してるんじゃないの?」
 影戸は、人差し指と親指で自分の下唇を揉みながら、私と玲花の顔を見比べる。
「別に僕たちは、散歩って訳じゃないんですけど……。あっ、紹介しときます……彼女が泉玲花さんです」
 私と影戸の会話を不思議そうに見守っていた玲花を指し、私は言った。
「やぁ、あなたが泉玲花さんですか。僕は如月荘の管理人をやっている影戸輝というものです。……あなたの事は、耳にタコができるくらい、彼に聞かされてますよ」
 大袈裟だ、と思う。私は管理人に、玲花のことなどほとんど話していない。
「は、初めまして……泉です。あ、あのぉ、私……」
「知ってますよ。目がご不自由なんでしょう?」
 玲花の言葉を汲み取るように、影戸が言った。
「ええ、はい……。すいません」
 玲花は、少しだけ頭を下げた。
「いやいや、別に謝るような事じゃないでしょう。ハハッ、あなたも彼と一緒で、少し変わった方ですね」
 取りようのよっては実に失礼な言葉を、影戸は愉快げな表情でさらりと言う。
 それにしても、何故アパートの管理人がこんなところで散歩などをしているのであろうか。なんとなく、胸の奥がざわめく。悪い予感という奴だ。
「影戸君、本当にただの散歩ですか?」
 どうも胸のざわめきが治まらないようなので、私は再び管理人に尋ねた。
 影戸は、そんな私の問いには暫く答えずに、ポケットからガムを取り出すと、一枚だけ口の中に放り込む。そうして、曇天の空を見上げてこんな事を言い出した。
「この前言ったよね……、泉玲花さんに近々大きな《災い》が訪れる、て」
 唐突な影戸の言葉に私は戸惑って、一瞬玲花の顔を見やった。
「あ、は、はい……。確かに聞きましたけど」
 私は、何とかそう答えた。
「どうやら、今日がその日のようだ」
「へっ?」
 思わず、私は頓狂な声を上げる。
「わ、災いって……?」
 そう言い掛けたとたん、影戸は私のほうに顔を向け、にやりと笑った。しかし、その蒼色の目は恐ろしく鋭利に光っている。
「僕が、その《災い》さ」
 そんな影戸の言葉を合図にしたかのように、雨足が一層強くなった……。
 


<十八>

「……言ってる事の意味がよく解らないんですけど……。また僕をからかってるんですか?」
 私は、暫く影戸の言葉に呆然としていたが、ややあって苦笑いを浮かべながらそう言った。
「まさかぁ、からかってなんかいないよ。僕はすこぶる真面目な話をしてるんだぜ」
 肩をすくめながら言う影戸の表情は、いつもと変わらないように見える。
「影戸君、一体何が言いたいんですか? 影戸君が《災い》って、何のことなんですか?」
 私が尋ねると、影戸は一度、鼻先の眼鏡を押し上げた。
「じゃぁ、単刀直入に言おうか……。彼女……泉玲花さんは、『父親殺し』の犯人だよ」
 本当に唐突な影戸の言葉……。
…父親殺し? 玲花が?
 私の頭は、一瞬パニックに陥る。
「か、影戸君、本人のいる前でなんて事を言うんです!? あなたは、言ってよい冗談と悪い冗談の区別もつかないんですか!?」
 思わず大声を張り上げてしまう。
「冗談なんて言ってないさ。玲花さんは間違いなく、父親である健作さんを殺害している」
 影戸は、平然と言い放つ。
「いい加減にしてください! 僕の事を馬鹿にするのは構いませんが、彼女を侮辱する事は僕が許さない! ……もともと、あなたがいい人だとは思っていませんでしたが、そこまで常識のない人間だとは思いませんでしたよ!」
「ふむ、君が認めたくないのは解るが、それが現実だよ」
「嘘だ!!」
 私は影戸の胸元を掴んだが、それはすぐに振り払われる。
「君こそ、いい加減に目を覚ましたまえ。冷静になって考えれば、すぐに解ることじゃないか」
「違う、あなたは間違ってます! 健作さんを殺したのは……、定岡敬介さんだ」
 私がそう言うと、影戸の片眉がぴくりと上がった。
「へぇ、君でもそこまで考えつけたんだ。警察やマスコミより頭の回転が速いじゃないか。見直したよ」
…何を言っているのだ、この男は?
 私は多分、憤懣やるかたないといった表情で、影戸を睨んでいたに違いない。影戸は、そんな私の表情を見て大きな溜め息をついた。
「……君はどうして、定岡さんが健作氏を殺したという結論に至ったんだい?」
 そう尋ねる影戸の声は、私とはまるで正反対に冷静だ。
 私は、影戸に対する怒りを静めようと、意識して肩の力を抜き、一度大きな深呼吸をした。
「健作さんの殺害されていた現場は、どう考えても不可解なんです。あんな状況で健作さんを殺害できるわけがない。かといって自殺でもなければ……、やっぱり定岡さんが一番怪しいと思ったんです。大体、あの現場に一番先に足を踏み入れたのは、定岡敬介さんただ一人でしょう? 玄関も窓も鍵が閉まっていたから、窓ガラスを割って中に侵入したというのは、定岡さん自身の証言でしかない。でも、それを鵜呑みにしたんじゃ、あの殺害現場の状況は、まるで説明できないんです」
「ようするに、窓、玄関のどちらか……あるいはどちらも……鍵など閉まっていなかったという事だね? 定岡さんの証言は偽証だと?」
 影戸は、蒼色の瞳で真摯と私の顔を見つめている。
「そうです……。多分、定岡さんは『屋外』から、家の中にいた健作さんに向けて銃を発砲した。その時、《窓ガラスは開いていた》んだと思います。……銃弾は健作さんの額に当たり、健作さんは死亡した。それを見計らって、定岡さんは屋内に侵入して健作さんの手に銃を握らせ、内側から玄関の鍵を閉めた。そうして、窓から外に出ると、窓ガラスを割ったんです。……それから、自ら警察に連絡して玄関も窓も鍵が閉まっていたので窓ガラスを割って侵入した、と警察に嘘を言えば、あの不可解な現場が成り立ちます」
 それが私のたどり着いた、事件の真相だ。
「ハハッ、すごいじゃないか。名探偵顔負けの推理だ!」
 影戸は場違いな笑い声を上げて、快活に手を叩く。しかし、すぐに人差し指で眼鏡を押し上げると、鋭い眼光を私に向けた。
「……だけど、君の推理には二つほど大きな問題が残る」
 私はそれを聞いて訝しんだ。
…一つではなく、二つ……?
 一つ目の問題というのは想像がつく。恐らく、『アリバイ』のことだ。
「まず一つ目は、定岡さんのアリバイだよ。玲花さんと定岡さんは互いのアリバイを証明し合っているはずだ。そうなると、君の推理では、玲花さんも定岡さんの偽証に協力している事にならないかな?」
 案の定、影戸は私の予期していたとおりの問題点を突いてきた。
「それは、違うと思います。……大体、何故自分の父親を殺した男をかばわなければならないんですか? きっと、玲花ちゃんは定岡さんに何かしらの《弱み》を握られていて、偽証を強要されていると考えたほうが自然だと思います」
 そう言って、私は玲花のほうを振り向こうとしたが、それよりも先に影戸が言葉を発する。
「なるほどね。確かにそれはない、とは言いきれないなぁ。でも、玲花さんの《弱み》とはなんなんだろうね」
 影戸は言って、にやりと笑う。
「それは……解りません。大体、そんな事は僕の口から言う事じゃないと思います……」
 私は力なく言った。
 酷い雨だった。すでに楠の葉は雨宿りの対象になるには心許ない状態になってきている。現に三人の体は、徐々にだが雨に濡れ始めている。
「まぁ、その事はいいだろう。君の言い分は説得力のないものではないからね」
 そう言って影戸は、再びポケットからガムを取り出すと、口の中に放り入れた。
「……では、もう一つの問題点にも答えてもらおう。……何故、定岡さんは《殺害現場を密室に仕立てる必要》があったのか?」
…え?
 不意に肩透かしを喰らった感じだった。それのどこが問題点だというのだろう。答えは明白ではないか。
「それは多分……、健作さんが自殺したように見せるためでしょう?」
 私は、影戸の質問の真意が掴めぬままそう答えた。
「おや? それはおかしいなぁ。だって、健作さんの死因は《他殺》だと断定されたじゃないか」
 影戸は大袈裟に肩をすくめてみせる。
「そ、それは、定岡さんの計算ミスで……」
「それは説得力に欠けるなぁ。……君は大事な事を忘れてないかい? 定岡さんは《元殺人課の刑事》だよ。自殺体が司法解剖に回される事はじゅうぶん承知してたはずだぜ。そうなれば、健作さんの死が自殺ではなく、他殺と判断されるのは明白な事と解ってたはずだ。遠方から銃を発砲してるんだからね。それなのに、わざわざ健作さんの死を自殺に見せかけるために、密室を作り出したなんてのはおかしな話だ。……もし、僕が定岡さんだったら、わざわざ密室なんてしないよ。適当に健作さんの家を荒らしておいたほうが、まだましだ。だって、そのほうが物取りの犯行だ、と警察に思わせれるだろう? つまり、行き連れの犯行だと見せかけて、警察の捜査を別の方向へ持っていかせる事ができる。……まあ、健作さんを《至近距離から撃った》、となると、司法解剖の結果を経ても、警察に自殺を信じさせれるかもしれないけどね」
 影戸は鹿爪らしい表情で、捲くし立てるように言った。
 私は言葉が出なかった。影戸の言う事が、もっともに思えていたからだ。
「……でもね、君の推理は『補強』できる余地があるんだ。……そう、こう考えたらどうだろう? ……定岡さんは《健作さんが遠距離から撃たれた事を知らなかった》。そうすれば、定岡さんが健作さんの殺害現場を密室にした動機は、健作さんの死を自殺に見せかけるためのものだった、と説明ができる」
「えっ!?」
 再び、私の頭は混乱した。
…『遠距離』から撃たれた事を知らなかった?
 つまり、定岡は《健作を殺害していない》ということになる。しかし、密室という現場を作り得たのは定岡だけだ。
…まさか!?
 私の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
「君は惜しいとこまでいったけど、《詰め》が甘い」
 影戸はそう言って、玲花のほうに顔を向けた。
「定岡さんは、玲花さんを《かばおう》としただけだよ」 



<十九>

 降りしきる雨の中、影戸の声はまるで冷酷みを帯びてるように続けられる。
「……泉玲花さんは、屋外から……さっき泉さんの家を外から見させてもらったんだけど……、健作さんの倒れていた場所から考えると、恐らく庭の一番奥側から、健作さんに向けて銃を発砲した。そして、その銃弾は健作さんの額に命中したんだと思う。それから、彼女は《一度家の中へ戻っていった》んだ。……そこへ、銃声を聞きつけた定岡さんが来たわけだよ。定岡さんはその状況を見て、玲花さんは《至近距離から健作さんを射殺した、と思い込んでしまった》んだね。定岡さんは、幼い頃から知る彼女の事を想い、犯行を何とか誤魔化そうと考えた。至近距離から撃ったのならば、物取りの犯行と見せかけて下手に捜査を長引かせるより、自殺と見せかけたほうが、捜査はすぐに打ち切られて、わざわざ警察を混乱させずにすむ、と考えたんだろうね。健作さんは、奥さんを亡くして私生活も荒れていたから、自殺の動機も充分説明ができると考えた。勿論、定岡さんは玲花さんに疑いが掛からないよう、二人で口裏を合わせて嘘のアリバイも偽証したんだ」
 でたらめだ、と思いたかった。否、叫びたかった。しかし、影戸の推論は私の導き出したものよりも、更に論理的な的を射ていたので、反論の余地など無いように思えた。
…嘘だ! 玲花ちゃんが自分の父親を殺すなんて……。
 そう思った刹那、私は重大な事に気づいた。
…玲花が、遠距離から人を《狙う》なんて無理じゃないか!
 そうなのだ。目の不自由な玲花が、どうして遠方の父親を狙い撃ちできるというのだろう。私はすぐさまその事を影戸に問い詰める。
「玲花ちゃんに健作さんを狙い撃つ、なんて行為は無理です! だって、彼女は目が……」
 勢い込んで私が言おうとするのを、影戸が途中でさえぎる。
「そんな事は、君に言われなくても解ってるよ。大体、僕は一言も彼女が健作さんを《狙い撃った》なんていってないだろう」
「え?」
「玲花さんには、確固たる殺意がなかった。……そう、《たまたま撃った銃弾》が健作さんの額に当たったんだよ」
「そんな馬鹿なことが……!」
 そうだ、そんな馬鹿なことがあっていいはずはない。
「そうとしか考えられないだろう? 不可能な事じゃない。下手な鉄砲でも数撃てば当たる、という言葉もあるし、ベートーベンは耳が不自由でもちゃんとした作曲ができたんだぜ。玲花さんは、生まれつき目が不自由だったわけじゃない。だから、銃というものがどういう形のものであるか、少なくともテレビや映画などで知っていたはずだよ。……たまたま撃った銃弾が、たまたま《一発目で》健作さんに当たってしまった。たとえそれが、確率論的に百分の一だったとしても、その当たりが最初の一発目で出てしまったということだね」
 影戸のその言葉を聞いて、私は慄然とした。
…あの時。
 薔薇園でやった射撃ゲーム……。勿論、玲花にはあの小さなリスのぬいぐるみなど狙えるはずがない。でも、あのコルク玉はリスのぬいぐるみを撃ち落した……。あの時、玲花は蒼白な顔をしていた。
…偶然に玉が当たった……。
「嘘だ……」
 ただのこじつけだと思いたかった。でたらめな憶測だと思いたかった……。
「そんなことが……そんな事があるわけないよ!」
 校庭に響く私の声。
「……そんなの、ただの憶測でしょう!? 何の証拠もないじゃないですか!」
 私は影戸の顔を睨む。
「もう……もういいよ、二宮君……」
 不意に、静かな声がした。玲花の声だ。私は玲花のほうへ振り返る。今まで一言も声を出さずに、私と影戸のやり取りを見ていた玲花のその表情は、今まで私に見せたどんな表情よりも、暗いものだった。
「全部、影戸さんの言うとおりです……。私が父さんを……父を殺めました……」
 玲花は、必死で悲しみを堪えるかのように声を震わせながら、そう言った。
「玲花ちゃん……」
「ごめんね、二宮君……。それだけは、どうしても怖くて言えなかった」
 玲花は俯いてそう言う。
「どうして……、どうしてなんだよ!? 何でそんな事になったんだよ!?」
 私の思考回路は、完全な混乱に陥っていた。ただ、玲花を送り届ける途中で、この楠に寄っただけなのに……。明日からは職探しをして、玲花を安心させようと思ってたのに……。
…一体なんなんだよ!
「お母さんが死んで、私の目が見えなくなって……、それから何かがおかしくなり始めたの……」
 玲花は、おもむろに語りだした。
「……父さんは、すごくお母さんの事を愛していたから、お母さんが死んでからは……父さんは……父は《壊れ》始めた。突然、真面目に勤めていた仕事をクビにされて、普段から飲まないお酒を、毎日浴びるように飲み始めたわ……。でも、その時は父の変貌も一時のものだと私は思ってた……。だけど、そうじゃなかったの。あんなに優しかった父が、突然私に暴力をふるい始めた……。地獄のような毎日が始まったわ……」
「まさか、君の体に残っていた痣の痕は……」
「そうだよ、二宮君。父から受けた暴力の痕……。料理もまともにできないし、掃除も洗濯もできない……。父にとって、私は役立たずの何者でもなかった……。顔を殴られた、お腹を蹴られたりもした、泣いても叫んでも、誰も助けになんか来てくれなかった。私は毎日、父に怯えて暮らしてきたわ」
…ああ、なんてことだろう……。
 私は、玲花の言葉一つ一つに、胸が押しつぶされそうになった。私は、玲花のことなど何一つ解ってなどなかったのだ。
「そ、そんなこと……」
 何か言葉をかけようと思ったが、それから後に続く言葉がどうしても見つからなくて、私は俯いた。
「二宮君、昨日話したよね……。私、昔子供を堕ろしたことがあるって……」
「あ、ああ」
 私は、力なくうなずく。
「父さんはね……、私を殴ったり、蹴ったりじゃ許してくれなかったんだ。……お酒に酔って見境をなくすと、父さんは《私の体》も求めてきたの……」
「ま、まさか……!?」
 一瞬、体中の血液が逆流したような感じを受けた。玲花がこれから言おうとしている言葉が、私には予想がついたのだ。
「そう、堕ろした子供はね……、実の父親と私の間にできた……」
「やめろぉぉぉぉぉぉ!!」
 私は耳を塞ぎ、雨で泥だらけになった地面の上に身を埋めた。激しい嗚咽と共に涙が溢れてきた。
…嘘だ、嘘だ、嘘だ!
 これは、きっと悪い夢なのだ。悪夢なのだ。目が覚めると、私は自分の部屋にいて、あの埃臭い布団で蹲っているはずだ。そんな私の横では、玲花が小さな寝息をたてていて、それを見て私は、夢を見ていたと気づくのだ。
…だから、だから夢よ覚めてくれ!
 私は何度も地面に頭を叩きつける。顔が泥だらけになろうが、額から流血しようが構わなかった。涙や鼻水や泥が口の中に入ろうとも、私はその動作をやめなかった。
「やめるんだ!」
 影戸が私の動作を止めようと肩を掴んできたが、私は駄々をこねる子供のようにそれを振りほどき、再び両手で耳を塞ぐ。
「そんな事をやって耳を塞いでも、現実は消えやしないよ。君は僕に、彼女の騎士になる事を誓ったじゃないか! だったら、君は最後まで彼女の話を聞かなきゃいけないんだ」
 影戸だけではない。私は玲花本人にもそれを誓ったのだ。そもそも、はじめから私は間違っていた。誰かのために騎士になろうなんて、そんな事がこの私にできるはずがなかったのだ。
…なんて愚かなんだろう。
 自分自身が憎くてしょうがない。いつだって、私は愚か者だ。小さな頃からずっと、愚か者だった……。
 私は耳を塞いでいた両手を離し、地面の泥を力いっぱい握り締めた。必死で涙を堪えようと、顎が砕けそうなほどに歯を食いしばり、顔を上げ玲花をみた。
「なんで……何でもっと早くに話してくれなかったんだ!」
 そう言って私は、今一度自分の額を地面に叩きつけた。雨のせいでほとんど半液体化した土は、握り締めた指の間から洩れ出ていく。
…そうだ、僕は彼女の騎士だ! だったらせめて、最後まで彼女の話を聞くんだ!
 私は覚悟を決め、自分に言い聞かせた。
「全部……全部、僕に話してくれ……!」
 震える声を必死で押し殺し、私は彼女を促した。これが夢ではない以上、それしかできない。
 額から、生暖かいものが伝い落ちる。それがすぐに自分の血液だと気づいたが、不思議とそれほどの痛みは感じなかった。
 彼女は悲痛な面持ちのままうん、とうなずく。
「ある日、父は家に二人の男の人たちを連れ込んできて、何か相談してた。その時は、父たちが何を話していたか知らなかったんだけど、二人組みがいなくなってから、父は誇示するように今度銀行を襲撃する、って言ったの。そのための銃も手に入れた、って……。その時の私は、もう生きるのも辛くていつ死のうか、なんてことばかり考えてたわ……。だから、父が銀行を襲撃しようがどうしようが、どうでも良かった。ただ、もう沢山だ、って思っただけ……」
 玲花はそこで一旦言葉を切って、微かに微笑む。
「……あの日も、父はお酒に酔って早くから眠ってた。テーブルの上に銃を置きっぱなしにしてね……。別に、そんなものに興味はなかったんだけど、偶然に私の手に銃が触れたの。魔が差したって言うのかな……、私はそれを手に持ってみた。思ってたよりも重くて、冷たかった……。引き金を引くだけで人を殺せるんだ、って思った。……気づいたら私は、寝ている父のほうに銃口を向けていたわ。引き金さえ引けば、私は地獄から開放される……。でも、それよりも早くに父が目を覚ましたの。最初は寝ぼけているみたいで、訳が解ってないみたいだったけど、そのうち何してる、て掴みかかられて……。私は驚いて、窓を開け、庭のほうに逃げ込んだ。父は戻って来い、って怒鳴ってたわ。私はただただ怖くって、声のするほうへ銃口を向けた。勿論、私に父の姿が見えるわけじゃなかったわ。父が追いかけてきそうで怖かった。捕まったらなにをされるか解らない……。だから、それを止めようと、私は引き金を引いたの……」
「それが、君のお父さんに当たったのか……?」
 私は、再び玲花を見上げる。
「そう。私も本当に父に当たるなんて思ってなかった。でも、一瞬父の呻き声が聞こえて倒れる音が聞こえると、私は背筋が凍った……。慌てて父のもとへ駆け戻ったわ……。父は、窓際で倒れてた……。私はどうしていいか解らなくって、呆然としていたわ。さっきまで父を殺そうと思ってたのに、本当にそうなったら気が動転して……」
「そこへ、銃声を聞きつけた定岡さんがやってきたわけだ」
 影戸の声は、相変わらず平然としている。それに対して玲花は小さくうなずいた。
「実はね、ここに来る前まで、定岡さんのところへ行ってたんですよ」
「そうなんですか……」
 玲花は、少しだけ顔を俯ける。
「彼はその現場を見て、すぐに何が起きたのかを悟った。まず、玲花さんの触った短銃を拭き、指紋を消してから健作さんに握らせた」
「そうです。……おじさんは全部自分に任せなさい、って言ってくれました」
「定岡さんは偽のアリバイをあなたに提案し、健作さんの死体を自殺に見せかけようと提案した。そうして、あなたを一旦自分の家に送ってから、彼は再びあなたの家へ戻り、ガラスを割ってから警察に連絡した」
「そうです……」
 玲花は俯いたままでうなずく。
「だけどその時の定岡さんは、てっきりあなたが至近距離から健作さんを撃ったものだと思い込んでいた。目の不自由なあなたが、まさか遠方から撃ったとは考えなかったでしょうね。……あなたが、健作さんを遠距離から撃ったって事を伝えたのは、事件の翌日の事なんでしょう?」
「はい……」
「定岡さんは、ずいぶん戸惑われたでしょう?」
「ええ……。どうしてもっと早くに言ってくれなかったんだ、と言われました」
 玲花がそういうと、影戸は満足そうにうなずく。そうして、私のほうへ向き直ると、私の腕を引いて無理やり立ち上がらせた。
「さぁ、聞いたとおりだよ。……まったく、なんて情けない格好なんだ。二十歳をすぎた男が、泥に塗れて泣きべそかいて……。せめて、鼻水ぐらい拭きたまえ」
 影戸はそう言って、私にハンカチを手渡す。そんな影戸を、私は鋭く睨んだが、彼の眼鏡に光が反射して、その時の彼の表情は窺えなかった。
…光り?
 刹那そう思って、私は空を見上げた。
 いつの間にか雨はやんでいて、薄くなった雨雲の上に、微かな太陽が垣間見えている。
「どうやら、ここで《災い》の役目は終わりだな……。あとは二人の問題だ。僕はこれから急いで帰らなきゃならない。どうもガスの元栓を閉め忘れたようだからね」
 そう言って、影戸は今一度傘の雨粒を振り落としてから、それを肩に担いだ。
「晴れそうだね」
 一言だけ言って、軽やかに踵を返すと、影戸輝は悠然と私たちの前から歩み去っていった。
 残された私と玲花……。
 楠は、ただ無言で私たちを見下ろしている。
「二宮君……」
 玲花が私の名を呼ぶ。
「玲花ちゃん、僕は……、本当はそんな名前じゃないんだ……」
 私が力なくそういうと、玲花は小さくうなずく。
「知ってるよ」
「えっ?」
 私は驚く。
「でもいいの……。あなたの名前が『二宮』じゃなくても、私にとっては二宮君だから」
 彼女は静かに微笑んだ。
「玲花ちゃん……」
 私は彼女のそばまで歩み寄ると、玲花を抱きしめた。そして、そのまま泣きじゃくった。
 彼女の事が好きだ。泉玲花が好きだ。……今の話を聞いても、私の気持ちは変わらない。同情などではない。理屈などないのだ……。
 出逢いが遅すぎたのか。それとも、初めから決まっていたことなのか……。
 玲花は、雨の中に捨てられた子猫のように打ち震えていた。どうして、彼女のようなコが、このように過酷な運命を背負わなければいけなかったのだろう。
 玲花も暫く目を瞑って私の胸に顔を埋めていたが、やがて、そっと私から体を離す。
「私、行かなきゃ……。きっと、定岡のおじちゃんが待ってる……。本当にゴメンね。ずっと本当の事を言おうと思ってたんだけど、今の幸せが壊れそうで怖かった。こんな私が、幸せや平穏を望んじゃいけないんだろうけど、あなたはそれをくれた……。短い間だったけど、本当に楽しかったし、嬉しかった……。でもね、もう、私のことは忘れて……」
 玲花の笑顔は、やがて涙声に変わる。
「……きっと、二宮君には素敵な人が見つかるよ」
…忘れるなんて……君を忘れるなんて……。
「忘れるなんて、できるわけないよ!」
 私も涙声で叫ぶと、彼女は泣いた顔のまま笑った。
 どうして、このような状況であんなにも眩しい笑顔がつくれるのか。
「ありがとう……」
 何故か、彼女はそういった。そうして、右手で瞳に浮いた涙を拭う。
「私の騎士さん、最後のお願いを聞いてください。……私を定岡のおじさんのところまで無事に送り届けてほしいの」
 彼女はそういって、探るようにして私の右手に触れると、そっと握り締めた。
 私も玲花の手を強く握り返す。締め付けられるような胸の苦しさ……。涙がとめどなく溢れてくる。
 その時私は、心から強くなりたいと思った。
 これ以上涙が落ちぬよう、空を見上げる。
「ええ、必ず無事に送り届けますとも!」
 曇り空が割れて、太陽が鮮やかな光を差す。それは、楠の葉を突き抜けて、穏やかな木漏れ日となり、私たち二人を優しく包んだ。
 私は、笑顔で力強くそう言ったつもりなのだが、多分……うまくできなかった……。
 


<二十>(エピローグ)

 泉玲花が、私の前から姿を消してちょうど一週間の時間が流れた。
 ワイドショーやマスコミなどは、泉健作殺害事件解決を、こぞって報道していたが、一週間も経てばいくら不可解な事件だったにしろ、解決したものは一時しか大衆も興味を示さず、もはや大袈裟な報道をするところはどこにもなかった。しかし、殺人犯として、玲花や定岡の顔写真がテレビや新聞に出ることが、私には酷く耐えがたく、まったくもって私はそのようなものを見ようとはしなかった。ろくに食事もとらず、ただ布団の中で蹲る毎日……。
…シャボン玉のように……。
 ずっとそんな事ばかりを考えていたように思う。彼女との別れは、あまりにも突然で、早すぎた……。そう、まるで一瞬間だけ空に浮いたシャボン玉のように、弾けて、消えた……。
 部屋から一歩も外には出ることはなく、世間がどうなろうが、私の知った事ではなかった。自分の心に殻をつくり、ずっとそこに逃げていた。立ち直ろうとも思わない、元気を出そうとも思わない……。私はいつまでもジメジメしていたのだ。
 そんなある日、珍しく私の部屋の呼び鈴が鳴った。鍵は閉めてある。勿論、こんな状況では玄関を開ける気にもなれず、ただひたすら来客人があきらめて帰るのを願っていた。
 私はふと時計を見る。もうすぐで、正午になるようだ。
「お〜い、部屋にいるんだろう? 出てきなよ〜」
 玄関から、呑気な叫び声が聞こえてくる。管理人の声だ。
「今からバーベキューをするんだけど、君も付き合ってくれよ! 一人でするのは寂しいじゃないか」
…何を考えているんだ!
 あの男は、人の気持ちなど少しも考えやしないのだろう。自分中心で地球が回っているとでも思っているのだろうか。妙に腹立たしい。無論、私はそんな影戸に取り合うはずもなく、布団をかぶりこむ。もう二度と、あの男とは関わりたくない。
…如月荘(ここ)を出よう……。
 私はそう思った。
「おい、ってば〜! ……まったく」
 そんな声を残して、管理人の気配が消える。あきらめたのだろうか。しかし、そう思ったのもつかの間、どたどたと階段を駆け上がるような音がしたかと思うと、ガチャリと玄関の鍵が開けられた。
…えっ!?
 私は慌てて布団から起き上がる。
 影戸は、勝手に部屋に上がってきた。
「なんだぁ、生きてるんじゃないか。僕はてっきり、首でも括って死んでいるのかと思ったよ」
 管理人はそんな事を言うが、少しも私を心配していたような様子はない。
「ど、どうやって鍵を……」
 私が尋ねようとすると、影戸は肩をすくめる。
「僕はここの管理人だぜ。全部屋の合鍵ぐらい持ってるよ」
 彼は、平然とそう言い放ったかと思うと、私の腕を引っ張り、無理やり外に連れ出す。私に靴を履かせる暇も与えてくれない。
 庭には、炭焼き用のプレートと何種類かの肉、ボールに入った野菜が用意されていた。どうやら、バーベキューをするというのは冗談ではないらしい。
「今日は予報どおりの快晴だ。暫く鬱陶しい雨が続いたからね。ビールも用意してあるんだ。たまには、ぱーっとやろうじゃないか! ……そうだなぁ、少し遅くなったけど、これは君の歓迎会だとでも思ってくれ」
 影戸はそういうと、一人高らかに笑った。
「影戸君……」
 私は俯いたまま呟く。裸足で外に出ている自分が、酷く滑稽に思える。
「……僕は、今はまだそんな気分にはなれません……」
 私がそういうと、影戸は不思議そうに私を見つめた。
「どうして?」
 あっけらかんとして尋ねる影戸……。私はそんな影戸を見て、完全に頭に血が上った。
…この男は!
 気づくと、私は影戸の胸ぐらを掴んでいた。
「そんなとぼけた顔するなよ! あんたのせいだろう? あの時、あんたが僕たちの前に現れなかったら……、あんな事を言い出さなければ、僕と玲花ちゃんは離れずにすんだんだ! ……どうして、どうして僕たちの事をほっといてくれなかったんですか!」
 影戸は、そんな私を冷めた目で見据え、大きな溜め息をつく。
「はぁー、まったく君には呆れるね。もっと物分りのいい奴だと思ってたんだけど……。どうやら、間違いだったかなぁ」
「呆れるのはこっちだ!」
 私は、彼の襟首を掴んでいる手に、更なる力を入れた。
「なに馬鹿な事を言ってるんだ。僕は最初から彼女には関わるな、と忠告していたじゃないか。それを聞かなかったのは君のほうだろう? そうじゃなかったら、誰があんな真似を好き好んでやるものか」
「訳の解らない事を言って誤魔化すな!」
「君こそ、いい加減にしたまえ!」
 影戸は刹那、彼の襟首を掴んでいた私の右腕を掴むと、軽々とそれをはずし、逆に私の腕をひねり上げた。それと同時に、私の右腕には激痛が走る。
「このまま、君の腕を折ったっていいんだぜ。それでも君は、まだ現実を見据えないかい?」
 私は腕の痛みに耐えかねてううっ、と唸り声を上げた。そんな私を見かねてか、影戸はひねり上げた私の腕を突き放す。
「いいかい、よく聞くんだ……。あんな『ちんけ』な犯罪が、いつまでも誤魔化せるとでも思っていたのかい? いつか誰かが必ず気づいたはずだ。実際、僕の知人の刑事も定岡氏を疑い始めていた……。君でさえ、事件の真相の三分の二にはたどり着いていたじゃないか。たとえ、あの時僕が、君たちの前に現れなくとも、他の誰かが君たちの前に現れていた……。僕はそう断言するよ」
 影戸は、鼻先の眼鏡を人差し指で押し上げる。
「……警察が君たちの前に突然現れて、玲花嬢を連れ去っていくんだぞ。君には恐らく何の説明もされないまま、警察に連行されるんだ。君がその理由を知るのは、テレビや新聞でしかないだろうね。彼女の騎士になる事を誓った君は、それで納得できるかい? たとえ、警察が来る前に彼女の口から君に事件の真相を告げたとしても、君はどうしてた? 目の不自由な彼女と一緒に、警察の手から逃れるため、十五年も逃げ回るかい? はんっ、そんなことをしても、いづれ二人共々破滅が来るのは目に見えている……。もっと悲惨な結果になっただろうね」
 私は痛む腕を押さえ、影戸の言葉にうな垂れた。
「そんな事、解らないじゃないですか……」
 私は、ほとんど呟くようにしていった。
「解ってからじゃ遅いだろう? 君が玲花嬢に関わらなければ、僕だってこんなつまらない事件に首を突っ込むつもりはなかったよ。でも、君はその忠告を無視し、玲花嬢の騎士のなる事を誓った。あの時……、君がうなずいたとき、僕も君たちの災いになる事を決めたんだ。……そう決めざるを得なかった……」
…ああ……。
 そうなのだ。彼女が不本意にも殺人者である以上、彼女に恋心を抱いていた私には破滅の道しかなかった。果たして、影戸の介入なく、彼女の口から真相を聞いて、私は玲花に素直に自首を勧めただろうか。……多分、それはできなかっただろうと思う。それに、たとえ彼女と共に警察の手から逃れようとするのならば、私は彼女と同じ罪を背負う事になり、更には破滅の道が待っていたはずだ。
 そう思い至ったとき私はようやく、この管理人が私をもっとも最善な方法で救ってくれたのだ、と気づいた。影戸は、私が心の弱い人間だと初めから見抜いていたのだ。それもそうだろう……社会が嫌になり、会社も辞め、人付き合いもやめ、両親のもとを追い出されこのアパートに逃げ込んできた私が、一人の人間を護る事などできるはずもなかったのだ。……私は、泉玲花を目の当たりにして、現実とは程遠い幻想を見続けていた……。管理人は、それらをすべて見通していたのだろう。
 そう思うと同時に、玲花に対して持っていた私の気持ちが、急に不安定なものになってきた。
…僕は、本当に泉玲花が好きだったのだろうか?
 否、それだけは何の偽りもない私の気持ちだった。確かに私は、泉玲花という一人の女性に心を惹かれ、好きになった。本当に短い間ではあったけれど、私は玲花という女性を確かに愛した。きっと、彼女も同じ気持ちであった、と信じることができる。
「定岡氏はね、玲花嬢が父親からどんな仕打ちを受けていたのか知っていたんだ……」
 影戸が、暫く間をあけた後、おもむろに口を開く。
「……でも、彼女を助ける事はできなかった、って言ってた。だから、彼女が健作氏を殺害したとき、定岡氏はすべてを理解したようだったね。彼も多分、こんな日が来る事を予感していたんだろう……、玲花嬢にせめてもの救いを差し伸べようと、自ら彼女と同じ罪を背負ったんだ。多分、警察が彼の家に来たなら、定岡氏は、すべての罪を一人でかぶるつもりでいたんだろう。でも、玲花嬢は、そんな事を黙視できるような女性には思えなかったんだ。だから僕は……」
「もう……いいです」
 私は影戸の言葉を途中でさえぎり、首を振った。影戸輝は、何も私と玲花の仲を引き裂こうとしてあんな真似をしたわけではないのだ。彼は、私を救ってくれたのだ……。それに気づいただけで、私は良かった。
「そうか……、じゃあ、もう何も言わないよ」
 彼はそういって、おもむろに踵を返した。
「あの、影戸君……。一つだけ教えてください。……あなたは初めからすべて《知っていた》んですね?」
 私が聞くと、影戸は肩をすくめる。
「まぁ、そこそこにね。確証はなかったけど、恐らく僕の推論はあっているだろうとは思ってた。でも、証拠があるわけでもないし、事件の背景もあまり解らなかったんでね、知人の刑事には何も話してないよ」
 そういって、影戸は微かに微笑む。私もそれを見て、なんとなく笑顔が洩れた。
…謝ろう……。
 私はそう思った。が、しかし、それよりも早くに影戸が口を開く。
「おっとそうだ! この前、君に貸したハンカチあるだろう? あれ、実は外の掃除をするとき、近くに落ちている犬の糞を拾うのに使っていたやつなんだ」
 そう言って、管理人は高らかと笑う。
…やっぱりこの男は!
 でも、私は怒りはしない。ただ、もう少しこの如月荘に住み着いてやろう、と思っただけだ。
「影戸君、今からバーベキューするんでしょ?」
「そうだよ。君が、ちゃんと靴を履いてきたらね」
「こんな僕でも、歓迎してくれるんですか……」
「当たり前じゃないか。相変わらず、君は変な事を聞くね」
 影戸はククッと、押し殺した笑い声を上げる。
 この影戸輝という管理人は、どうやら優しさという面では、ずいぶんと不器用なようだ。
 人をからかうときの無邪気な笑顔。そうかと思ったら、時折人の心を見透かしているような、悪寒の奔る視線を向ける事もある。

…不思議な男だ。

 私はそう思う。
「影戸君、もう一つだけ聞いていいですか?」
「ああ、構わないよ、窪(くぼ)くん」
 なんだか、ずいぶん久しぶりに本当の名前を呼ばれたような気がした。
「影戸君……、あなたは本当は何者なんです……?」
 私が尋ねると、影戸は不意を突かれたような表情になる。
「僕が何者かだって? ……如月荘の管理人に決まってるだろう? まさか僕が、相撲取りには見えまい」
 それを聞いて、私は笑う。
 影戸も笑う。
「……う〜ん、そうだなぁ……。よし、いいだろう! 君にだけは、僕の本当の『正体』を教えてあげようじゃないか」
「はぁ?」
 今度は、私が不意を突かれる番だった。影戸は突然、両手を天空に掲げる。
「窪君、僕はね、本当は古代に存在した偉大なる魔法使いの末裔なんだ。今から、その証拠を見せてあげるよ」
 影戸はそのままの状態で言い、にやりと笑った。
「……我が名において命ずる……。一陣の風よ、吹き荒れろ〜!」
 彼がそう叫んだ刹那、本当に一陣の風が私たちの髪を掠めていった。
 私は驚愕し、思わず影戸の顔を仰ぎ見たが、私よりも彼のほうが驚いた顔をしていた。


 あの時、別段悲しくはなかった。勿論、嬉しくもなかった。ただ、私よりも驚いている影戸の表情が、少しおかしかっただけだ。
 だから、私は少しだけ声に出して笑ったはずだった……。


 でも、何故だろう……、あんなにも涙が溢れてきたのは……。


                 <了>
2006-01-28 15:05:30公開 / 作者:九宝七音
■この作品の著作権は九宝七音さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
恋愛をテーマにした物語が、果して自分にも描けるのだろうか?
いや、無理だろう。ならば、簡単なミステリネタを含ませてみてはどうだろうか……?
意外な犯人もいない。意外なトリックもない。
少しばかり退屈な物語になってしまったかもしれない……。 
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