『遠回り 前編〜中編〜後編』作者:WAJU / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 あれ? 雲が出てる。おかしいなぁ。今日は朝から晩まで晴れるって天気予報で言ってたはずなのに……。しかも黒い。雨雲? 雷雲? どっちにしろ、天気予報はハズレかなぁ。もぉ〜、こんな日に限って……。


 水をタイヤで切って走行する車の音が、あたりに木霊する。シャァッという鋭い音が繰り返し鳴っては、その度にコンクリートがそのどす黒い外面を映えさせるように濡れる。住宅街はいつもより静かになった。本来ならば、日差しの強い昼になるはずだった。だが、予想が簡単に当たるほど、空は甘くはない。正午を過ぎた頃に降り始めた雨は、一時間経っても止む気配どころか強まるばかりだった。これだけの長雨、そして豪雨。いつ以来だろうか。
「ったく、何が『今日は朝から晩まで太陽が照り付ける日になります』だよッ!」
 横断歩道で信号待ちをしていた少年の怒鳴り声もこんくりーと
を叩きつけるような雨の音にかき消されていく。170センチに満たないか、そこらの背丈で、シリコン製のリストバンドをはめた右腕の手に無色透明の折りたたみ傘を持ちながらも、短く切られた髪がグシャグシャに濡れている。纏っている衣服も、水分を吸い少年の体を冷たさだけが覆う。黒いTシャツの後ろにはブランドの名前だと思われる刺繍が大きく縫い付けられ、赤を基調とし、ポケットが無数についているパンツ。風貌は若干幼く、見掛けは中学生か、良く見て高校生といったところだろう。黒と蒼で彩られたスニーカーで何度もコンクリートを踏みつけて、信号が青に変わるのを待っている。傘は差しているが横なぶりの雨のため、全く意味を為していない。余計、自分の体を冷やしているだけだった。
「こんなんじゃ携帯も見れねえよ……」
 そもそも、今日は朝から何かおかしかった。目覚まし時計は電池が切れて鳴らないし、母さんも朝からどこへ行くとも伝えずに、朝の分も昼の分もメシは用意せずに出かける始末。テーピング買いに行こうと思ってスポーツショップ行ったら定休日、なんか食うものでも買いに行こうと思ったらこの雨。プチ厄日かなんかだな、うん。こういう日は何やっても上手く行かないもんだ。早いところ家帰って大人しくしていよう。
 信号が青に変わった。自分の中で開き直った少年はこれ以上雨に打たれてたまるか、と言わんばかりに水溜りを気にせずに走り出した。コンクリートを踏みつけるスニーカーから上がる水しぶきが少年の足元に襲いかかり、空から無数に飛んでくる雨粒が風に乗って容赦なく体に叩きつけてくる。雨宿りの場所らしき場所もないから、たとえどんなに冷たくとも少年にはこうするしかない。そんな少年の状況に同情などせず、雨はより強さを増して降りつける。次いで、ドガシャァンッという通常では滅多に聞こえない鋭く大きい音が辺りに木霊する。
「おいおい……雷かよ。早い所家に帰らないとかなりヤバそうだな、こりゃ。」
 スニーカーが混凝土を踏みしめるペースが速くなった。叩きつけるような音の中に、荒くなった息遣いが消えていく。体内から湧き上がるはずの体温の上昇も、雨の冷たさに抑えられた。頭部から垂れてくる水分が眼球にまとわり付く。うざったく感じ、すぐにそれを腕で拭いた。前には本当に何が有るかもわからない。だが、ひたすら走るしかないという状況下。少年の体力は徐々に磨り減っていく。ふと、少年の行く手を遮るものが見えた。目に映るのは「通行止め」の文字。
「な、なにぃ!? ここ一直線に向かえば家だってのに……チクショウ!!」
誰へ向けるとも知れぬ怒りの声も雨の中に消えていった。残り少ない体力を限界まで引き上げて、別の道を走って家へ向かおうとしていたその時、少しだけ神が少年に救いの手を差し伸べてくれたのかは知らないが、少年は短いトンネルを視界に捉えた。これ幸い、と獲物に喰らいつく獣の如く少年はトンネルへ猛然と駆け込んだ。トンネルの中は薄暗く、居心地はあまりよくなかった。だが、今の少年にとっては何よりの安らげる場所であった。セメントで固められた壁にもたれ、時間を掛けて乱れた息を整える。壁に身を委ねているうちに、ようやく体温が上がって、冷やされた少年の体を暖めていく。だが、幾度も幾度も混凝土を踏みしめた脚全体から悲鳴が聞こえた。どれくらいの距離を走っただろう、と少年はふと思った。雨が降り出してからはずっと走っていたような気がして、推定でも見当が付かないくらいになるまで彼は長い時間走っていた。息を整えつつ、ふとトンネルの入り口のほうを向いた。相変わらず止む気配も見せず、雨はまたコンクリートを叩きつけていた。
「止まねぇな……」
呟いた言葉は、トンネルの中にはしっかりと木霊してくれた。息がある程度整うと、少年はゆっくりと腰を降ろして力を抜いて、それまでよりも強くトンネルの壁に身を委ねた。対面の壁には、スプレーで、書いた人間にしてみれば芸術なのだろうが、見る人間にしてみれば落書きとしか思えない物が描かれていた。雨の音と共に大きな水切り音が聞こえる。大方、トラックかなにかでも通ったのだろう。トンネルの中にピチョンッという音が木霊し、雨粒が薄暗いトンネルの気味悪さを際立たせる。疲れ果てた体を壁に預けながら、ぼんやりとトンネルの天井を見つめている少年の耳にあらゆる音が入り込んでくる。
「……ゴホッ……」
 刹那、何とも知れぬ鈍い音が聞こえた……ような気がした。気のせいだろうか、と少年は起き上がらせた体を再び壁に預けようとしたが、再び鈍い音が耳に入り込んでくる。気のせいなどではない。それは紛れも無く人間が喉を鳴らし咳込む音だった。
(先客か? ……なわけないか。それならとっくに気づいてるよな……)
 状況を断定すると、入り口の方向から対面の壁の方向へ体の向きを変えて少年はまた壁にもたれかかり、体を休めようとしていた、が
「ゴホッ! ……ゴホッゴホッ! ……ックシュッ!」
どうも様子がおかしいと少年が感づいたのは間もなくのことであった。単純に雨に打たれただけで、この咳込みようはおかしい。余程長い間雨に打たれたか、元々風邪などを持っていない限り、ここまで咳がトンネルの中に木霊するはずは無い。気が気でなくなり、少年は起き上がって、ズブ濡れになったスニーカーを動かし音の主のほうへ歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
 そうでないことは自分でも分かりきっている。だが、一番単純で、一番早く浮かんだ言葉がこれだった。近づいてみれば、呼吸も荒く、肩が震えている。見当は間違っていなかったようだ。声に気付いたのか、こちらの方へ顔を向けてくれた。薄暗いせいで顔自体は見れないが、姿形からして女、しかも少年と同年代のようだ。
「……あ……だ、大丈夫です。はい。……そ、それよりも、あ、あなたのほうも濡れてるし……」
 唇も震えているのだろうか。俯きながら放つソプラノの音を司る呂律が回っていない。何を言っているんだ、といわんばかりに少年は少女との距離を縮めた。
「大丈夫なわけ無いでしょう?髪もグッチャグチャになってるし、肩まで震えてるし……」
 しゃがみこんで長い髪に覆われた顔を覗き込んだ、その瞬間。少年は、言葉が続いていかなかった。薄暗くも色白で目立ち、その顔の構成、全てが少年には見えた。少年の顔を捉える眼光は、冷たさすら感じ、生気が宿っているのかすらわからないくらいに、弱弱しかった。そして、少年に代わるように、少女の方が言葉を放つ。
「……タカ……?」
つられるように、少年も言葉を放った。
「……ミキ……な、なんでここにいるんだ? ちょっと、早く立て!」
 動揺しつつも、タカと呼ばれた少年は、少女の腕を持って強引に、そして乱暴に起き上がらせる。ミキと呼ばれた少女は戸惑いながら、少年の行動にされるがままだった。少年の言葉は続く。
「事情は後で聞く! ちょっと今からウチに来い!」
「だ、大丈夫だよ、タカ!」
「体ガタガタ震わせて、呂律もまともに回ってなくて、息荒くして、ズブ濡れになって! そんなヤツのどこが大丈夫だ! ほら、傘貸してやるから! すぐそこに家ある! 走れるか!?」
次の言葉も聞かず、少女の言葉を振り払うようにして少年は持っていた傘を渡し、少女の手を持って、まるで連れ去っていくかのように全速力で走っていった。二人はトンネルを抜けて再びコンクリートを叩き付ける豪雨の世界へ入っていった。トンネルはまた、人気の無い、単なる薄暗いだけの存在になってしまった――。



「シャワー貸す。着替えとかは俺の服貸すから」
 家に着くなり、開口一番出てきたのはこの言葉であった。玄関先を被ってきた水が濡らし、誰もいない家の静けさだけが二人の周りを覆う。
「ちょ、タカ本当に良いって。私、本当に大丈夫だから……」
「うるさい。遠慮とかいらないよ、別に問題ないから。使い方わかるよね?」
 それまでの強引な態度と打って変わり、突き放すようにしてシャワーがある部屋のほうへ案内する。案内、というよりかは、命令だが。ミキは何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。何とも言えぬ雰囲気のまま、二人は別の行き先へ歩んでいった。ミキが見えなくなるのを確認すると、張り詰めていたものを吐き出すように、タカはゆっくりと深呼吸をした。
「ハァ……なんつー日だ、今日は」
 話せばとにかく長くなる。佐伯美紀。それが、アイツの名前。アイツとはもう十年前からの仲だ。引っ越してきた俺の、一番最初に出来た友達。物心つく前で随分とガキの頃だったが、あの頃のことはヤケに覚えている。保育園に始めてきた時、親父の後ろに隠れて恥ずかしがってた俺に笑って声掛けてくれたっけ。保育園も、小学校も、中学も同じで、幼馴染ともいえるし、ある意味腐れ縁ともいえた。別にお互いに特別な感情があったわけでもなく、普通の親友という関係だった。男女としてではなく、普通の人間同士として。ほんの少し、前までは――。
 下着とジャージを更衣室に置き、台所の水道水で喉の渇きを潤すと、体中に帯びた水気を気にもせず、タカはゆっくりとソファーに寝そべった。柔らかな感触が体を覆い、疲れ果てた心身を全て預けるかのようにすると、ゆっくりと目を閉じて全てを無にするように深い眠りに入った。


『ねーユキタカくん、ミキのおはなしきいてー』
『なぁに? ミキちゃん』
『あのね、あたし、ユキタカくんのおよめさんになりたいの』
『オヨメサンってなぁに?』
『いっしょにくらすってことだよ。でもいまはムリなんだ〜。もーすこししないとだめなんだって、ママがいってた。』
『へ〜。じゃあやくそくしよ。その、オヨメサンになれるときがきたら、いっしょにくらそう。ゆびきりげんまん』
『うん。やくそくだよ』
『『ゆーびきりげーんまーん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった!』』
――幼き日の記憶が、脳内に渦巻く。まるで、フィルムを巻き取っていくかのように次々と変わっていく映像。全ては思い出せない。だが、確実に脳には留めている映像。徐々に、その映像が遠くなって、真っ白なキャンパスになっていく。目に見えているものは、果たして現実なのか、それとも――
「タ……きて……カ……タカ!」
 映像が完全に途切れると、また別の映像が映し出された。だが、これはあまりにも鮮明で、巻き取っていくような感覚は無い。――夢……か、とタカが気付くのには、そう時間は掛からなかった。
「シャワー終わったよ。ほら、タカもシャワー浴びてきて」
 天井と、少女の顔が映っている。ソファーの柔らかさに、まだ体を預けたまま、状況を整理しつつ、少女の問いかけに応えた。
「俺は……いいよ。大丈夫だから。何か暖かい物でも飲む?」
 柔らかい感覚から抜け出すと、重い足取りで言葉を発しながら、タカは台所へ向かう。しかし、ミキが目の前に突っ立って、それを阻んだ。その目は、トンネルで見たような冷たい目ではなく、いつも見る、真っ直ぐな目だった。
「大丈夫なわけない。……あたしをここに連れてくるまで、ずっとタカ雨に打たれてた。その前も雨に打たれてたんでしょ? だから、大丈夫なわけない。」
 自分が言った言葉を、そのままそっくり返されてしまったような気分だ。自分より、15センチほど低い背丈で、見上げるようにして強い眼差しでこっちを見てくる。続く言葉は見つからなかった。ただ、重い足取りで着替えを持ち、ゆっくりとシャワーがある浴室へ向かうことしか出来なかった。浴室で濡れた服を洗濯機に脱ぎ捨て、細身の体をさらけ出してく。浴室の中は、自分が使っているシャンプーの匂いで渦巻いていた。
(昔から、ずっとこうだ。変に洞察力がよくて、いっつも世話したがって、こっちが嫌がっても、無理矢理引っ張り出してくる。俺なんかより、ずっとマジメで、ずっと器用で、ずっと……)
 蛇口を捻ると、暖かい水が流れ出してくる。冷たい体を暖かさが覆い、全てを流しつくす。ふと、雑念が脳裏を過ぎった。自分が座っている椅子はアイツも座って、今から使うボディソープも、シャンプーも、なにもかも、アイツが使ったという雑念。流れ出てくる温水を頭に浴びながら、雑念を消し飛ばそうと必死になる。蛇口をより捻って、多くの温水を浴びても消え去らない。洗面器を手にとって、溜まった水を頭から被った。それでも、消え去らなかった。
「……チックショウ……!」
浴室の中からでも、雨が流れる音は聞こえてきた。一向に、止む気配すら見せていない。ボディソープを体に馴染ませていき、その雨の音を聞いていた。この雨のように、この雑念も消え去らないのだろうか、と心の中で呟く。とにかく、早くここから抜け出したい。温水で体中に纏った白濁物を洗い流し、手っ取り早くシャンプーを手にとって髪を手早く洗っていく。それでも、雑念は、増して行くばかりだった。


浴室から出ると、丈が全く合っておらず、袖も手を隠し、裾も足の指が見えないくらいまでになっているジャージ姿でソファーに座って、ブラウン管を見つめるミキがいた。雑念が、余計脳の中を覆いつくしていくのをタカは感じた。言葉を何もかけずに、台所へ向かう。食材を置いている物置から、ココアの粉が入った袋を取り出して、開封口を開けた後、粉末をコーヒーカップに注いでいく。ふと、後ろを振り向いてミキのほうを見た。何が面白いのかはわからないが、どうやらドラマの再放送らしい。今どこのテレビ局でも、出演のオファーが殺到している女優が、三年前始めてブラウン管の中に姿を現した時の映像が流れている。当時は、出演シーンが少なかった脇役に過ぎなかったのに、今や出るドラマ、または映画は必ず主役、または準主役という人気者だ。ここにも同じような劇的な時代の流れを感じながら、タカはコーヒーカップに入った粉末とホットミルクを混ぜていた。
「ミキ、ココア飲むよな?」
作っている最中にも関わらず、今更のように問いかけた。しかし、必ずYESと返答してくれるとわかった上での、問いかけだった。昔から、ココアは大の好物だと、わかった上での。
「うん」
案の定。自分の記憶が鈍っていないことを再確認し、出来上がったココアが入ったコーヒーカップを携え、テーブルに置く。ミキはゆっくりとそれに手を付けて、吐息を吹きかけ冷ますと、口に運んでいく。タカもソファーに座りココアを口に運んでいく。ブラウン管の向こうではドラマが一旦止まり、CMに入った。タカはそれを確認すると、まるで尋問するかのような口調で、ミキに問いかけていく。
「なんで、あんなとこにいたの?」
 ビクッと身動きしたように見えた。気のせいかもしれない。だが、明らかに返答に戸惑っている。聞いて欲しくなかったのだろうか。それでも、聞かずにはいられない。問いかけを続ける。
「普通さ、あんなとこにいるわけないよね? 何か有ったの? ねぇ、何か言って」
 カップを持ち、何と答えていいかわからないかのように、困惑の色を見せるミキを構う事も無く詰め寄っていく。すると、そのピンクが掛かった唇が少し動いた。
「さ……散歩! 散歩だよ、散歩。そしたら急に雨が降ってきちゃってさ、ハハハ……」
 誤魔化し切れると思っているんだろうか。明らかにわかる作り笑いで、こちらの疑問に答える姿は、逆に呆れさえもした。その答えには反応せず、タカは質問を続けて、さらに詰め寄っていく。
「本当は何があったの?」
 黙りこくって、何もいえないかのように俯いてしまった。それがタカを見れないことから来る俯きか、それともどうしてもいえないことから来る俯きかはわからなかった。しかしトンネルで見せた冷たい目とはまた違った弱弱しさ、まるでこっちがいじめているようではないか。詰め寄っていく手を、少し下げた。とにかくこの状況は打開できないと、タカは悟った。
「とにかく、雨が止んだらオバさんに電話掛けて、迎え来てもらうから。一応、今誰もいないけど、夕方になれば母さんも帰ってくるし、親父も帰ってくるし、それに姉ちゃんだって……」
言葉を続けていると、視線を感じた。まるで、それは駄目だといっているかのような視線が。視線の方向を向くと、感じたとおりの目がそこにはあった。言葉は発しなくても、その首を振る動きと、目付きでよくわかった。
「……もしかしてさ……またオバさんと喧嘩したの?」
コクリ、とミキは頷いた。推測は当たった。単純に何もない所からの推測というよりも、経験に基づいた確証性をもった推測だった。タカは更に、呆れたような顔を浮かべ、溜息をつく。そしてミキの目と自分の目を合わせると、堰を切ったように怒鳴りだした。
「またかよ!! つーか今度は何!? 昼ご飯に自分の嫌いなものが出たとか!? それともチャンネルどれにするかでモメたとか!? それとも!?」
「ち、違うもん……」
 怒鳴りつけた勢いが、弱弱しい声によって、一気に無くなっていくような感を受けた。ハッと我に返ったタカは一息ついた後、それまでの勢いと打って変わって相手を思ってか、優しく声を掛けた。
「あんまり、聞いて欲しくない?」
 ミキはまた、コクリを頷いた。
「家に帰りたくないほど、喧嘩したんだ?」
 次々と聞こえてくる優しい声に、コクリ、コクリ、と頷きながら、タカの問いかけにミキは答えていく。最初からこうすれば良かった、とタカは少し心の中で後悔した。ミキの様子も考えずに、問いかけを続けていた自分が少し嫌になった。
「でも……ウチにおいておくわけにはいかないんだよね……。いくら休みっていったって、さっきも言った通り、母さんも親父も姉ちゃんも帰ってくるだろうし……」
 また、ミキは俯いてしまった。どうしようもなく、途方にくれるかのように。今度は続く言葉が見つからないまま、二人の間に沈黙が流れる。なんと言っていいかもわからないため、タカはココアを口に運ぶ。
そもそも、何故あの時俺は、ミキを自分の家に連れてきたんだろう。決してあそこから、ミキの家が遠かったわけではない。確かに、自分の家のほうが近かったが、多少無理をすれば連れて行ける距離であった。事情は知らなかったとはいえ、こんなややこしいことにはならなかった。それに、ミキの気持ちを考えたとしても、ミキの家でなくても、他の方法はあった。例えば、ミキの友人の家に連れて行くとか……いや、いくらなんでも無理か。いくら知ってるヤツの家に行ったとしても、いきなり押しかけちゃあな……。
 すると、部屋の中に、電子音が鳴り響いた。ソファーの柔らかい感覚から抜け出し、その音の主の方へタカは向かう。その主とは、コードレス電話。ボタンを押し、その電子音を止める。
「はい、もしもし」
『ああ、ユキタカ?』
受話器の向こう側から聞こえてくる声は、今日一度も聞いていないとはいえ、聞きなれた声だった。
「母さん? ちょ、いまどこにいんの?」
 その問いかけに、母はなんの躊躇も無く答えてくれた。
『いやね、丁度向かいの孝子さんと隣町に来てお買い物してるの。本当は、夕方には返ってくるつもりだったんだけど、いきなり雨降ってきたから……。だから、帰りは遅くなりそう。それと、今日は父さんも遅くなるみたい。だから、今日はアユミといっしょに外食とかコンビニ弁当でも買って食べてて。それじゃあ』
「ちょ、何がだからだよ!それじゃあ、ってアンタ」
 こちらの言葉が言い終わらないうちに、ガチャッという音が聞こえた。続くのはツーツーツーという電子音。何をどうすればいいのかもわからず、ボタンを切ると、電話を元々あった場所に戻すと、うなだれたまま、またソファーに体を預ける。
「オバさん、なんていってたの?」
 事の次第を何も知らないミキが問いかけてくる。
「……母さん今日は夜まで帰ってこないって。しかも、親父も同じだって……」
 明らかにタカはどうして良いかわからなくなっていた。当然だろう。それまでこの状況を脱するための口実にしていたことの二つの理由が全てなくなったから。それも、かなり大きな要因だったはずの二つが一度にしてなくなったのだから。
「え〜と……それじゃあ、あたしはどうすればいいのかな……?」
 困っているタカにどう声を掛けていいかもわからなかったが、とにかく、とミキは問いかけを続けた。
「……家には帰りたくないんだよねぇ?」
 コクリと頷く。
「今……3時? ……どうすればいいんだろ……」
 また、沈黙が流れた。そんな雰囲気にも構わず雨は降り続ける。降り始めておよそ2時間とそこら。止めと願っても、簡単に止むわけがない。気まずい空気が流れるものの、雨はその空気までは流してくれない。気がつけば、カップにはいったココアが既になくなっていた。だが、再び、それを入れ替えてこようという気分にはなれなかった。しばらく、会話が無いまま、時間だけが過ぎていく。雨音と共に。


【中編】


 相川雪貴。それがアイツの名前。初めて会ったのは、十年も前の話。親から近くに引っ越してくる家族の中に自分と同い年の男の子がいるって聞いて、翌日の幼稚園が楽しみで仕方が無かったのを覚えている。そして蓋を開けてみれば、父親の後ろで恥ずかしそうに隠れて何にも話さない、頼りなさそうな男。それがタカだった。手差し伸べてやっても、中々返してこなくて、父親に促されてようやく返してきたっけ。何するにしても男のクセにほっとけないっていうか、とにかく引っ込み思案。いつも一緒にいてあげないとこっちが不安になってくるくらいで、結局縁なのかなんなのかはわからなかったけど、小学校も中学も一緒になった。そこに男女の関係とかは無くて、普通の友達……というか保護者と表現してもおかしくなかった。ほんの少し前までは――。
 ドライヤーで乾かしたばかりの肩に掛かるくらいの長い髪をいじりながら、ミキは横目でチラッとタカを見ては再び戻し、また見ては戻しを繰り返していた。気がつけばブラウン管の向こうでは再放送のドラマも終わってCMが延々と流れていた。この状態が続いてどれだけの時間が過ぎただろうか。あれから言葉らしい言葉を交わしただろうか。恐らく、無いはずだ。
(何っにも変わってない。どっかのCMの仔犬かっての、アンタは。さっきだってちょっと俯いただけで態度が一変した。昔からあたしがちょっとテンション下がると心配そうな顔する。別にそれが悪いとは言わないけど……トンネルの時も結局はそうだったんだろうなぁ。そこに別の概念があったわけないよね。もちろん、あの時も)
 心の中で愚痴をこぼした後、ミキは鼻の奥に違和感を感じた。それを和らげようと鼻を押さえるが、その違和感は耐え切れずに爆発した。それも二度。すかさず、長い袖で見えるかどうかという小さい手で、口を押さえる。
「ヘックシ! ……ックシ!!」
……あ〜辛い。そりゃあれだけ長い時間雨に打たれれば当然かぁ。実際タカが来なければ相当ヤバかったかも。……そんな心配そうな顔でこっち見ないでよ。逆にこっちが困っちゃうじゃない。たとえ顔が大人びてきても、背がいつの間にかあたしより大きくなっても、頼りなさそうで、ほっとけない所は昔からずっと同じ。……それが良い所かもしれないんだけど。……はぁ……これからどうなるんだろうなあ。
心の中で溜息をつきながら、グスッと鼻の中に蔓延る水分を収めた後、ティッシュを数枚箱から取り出すと、鈍い音を立て濁った水分を柔らかい白紙にぶちまけた。域を通し、鼻の中に水分が無くなった事を確認して、ティッシュをゴミ箱の中に投げた。

直後、ピンポーン、という小気味良い音が鳴った。横目が立ち上がるタカを捉えた。心なしか、安堵の表情を浮かべているようにも見えた。タカが立ち上がっても小気味良い音は鳴り止まない。ピンポーン、ピンポーン。時折リズムを変えて家の中に鳴り響く。再度、タカの表情を確認すれば、音の主が誰だかわかったかのように面倒くさそうな顔つきが見て取れた。タカがゆっくりとした足取りで玄関へ向かう。多少、嫌々そうにしながらチェーンロックを外し、鍵を捻って開ける。その間も、音の主は小気味良い音を鳴らし続ける。ドアの取っ手をガチャッと引いて鳴らし、音の主とご対面。
「酷いな〜。御姉様がお帰りだというのに、呼び鈴を何回鳴らしても中々鍵を開けてくれないとは。それ以前に鍵をかけてるとは。ねぇ? ユキタカくん。」
ドアをゆっくりと開けた途端に、ソプラノとアルトの境目のような声で、主はタカへ詰め寄った。
「……世の中物騒な事件が多いですからね。ドア開けた途端にナイフ突き出してポックリとか、安心してドアも開けれない時代になりましたから」
主に対して丁寧な口調で応対するタカの表情は明らかに主に対しての嫌悪感を示していた。まるで、こんなタイミングの悪い時に、とでも言うかのように。そんなタカの表情もお構いなしに、ヒールの高い靴を脱いで、主は雨に濡れた服のまま家の中に入って(タカからすれば侵入して)いく。
「そりゃ犯罪大国アメリカの話でしょうよ。少なくとも日本じゃそんな事起こらないって。外に出ればそれ以上の事は起こるかもしれないけど」
「わかりませんよ〜? 模倣犯って世の中にいくらでもいますから。それを楽しんでやってる愉快犯とか、色々。ていうか冷蔵庫のプリン食べてたでしょ、アンタ」
 傍若無人とした態度でいる主に対して、変わらず丁寧に応答しつつも、タカの言葉の端々からは、主に対する嫌悪感を越えた苛付きのような物が見え隠れしていた。最も、それを聞いている人間が全く気付いていないのだが。
「プリンくらい良いでしょ〜? その代わりアンタの好きな参夕堂のイチゴ大福買ってきてあげたから。雨の中大変だったんだよ〜? 感謝しなさいね」
 のらりくらりとタカの言葉をかわしながら、手に吊り下げたビニール袋を主はアピールする。一瞬、苛付きが薄れた。参夕堂のイチゴ大福。三年前出会い、初めて口に入れて以来、その感触は最早手放せないものとなった。そのアンコの甘さといったら、ある種のドラッグのようなものである。一言で言えば天国にでも昇るような快楽。天は、いや参夕堂は、何故これだけの物をもっと早く出会わせてくれなかったのか、と後悔するほどのタカにとっては大好物であった。
「……ありがたく頂戴致します……」
「よろしい。それじゃ冷蔵庫に入れとくからね。早く食べないと父さんに食べられちゃうかもね〜。」
 完璧にかわされてしまった。例えれば、ボクシングの試合で繰り出したパンチが全て受けられ、その隙を見計らって決定打を撃たれ、最終的に判定負けしたようなものだ。過去にどれだけそんな試合があっただろうか。恐らく、まだ一勝も出来ていないだろう。劣等感を感じているタカを尻目に、主は冷蔵庫がある台所のほうへ向かう。
(……相変わらず楽しい姉弟……)
 リビングにいるミキからは、玄関との距離もそう遠くは無かったので二人の会話の内容はしっかりと聞こえていた。ソファーの肘掛に頬杖を付きながら、退屈そうにブラウン管を見つめつつ、会話を聞いていた。
(姉弟だから、なのかなぁ。全然態度違うじゃん。あたしに見せる態度と、全然。強気で、反抗的で、声から強さ感じて。そう、トンネルの時みたいな……)
 少し、ミキは嫉妬感を覚えた。やり場の無い、嫉妬感だった。溜息をついた後、また鼻の奥に違和感を感じた。
「……ハックシ!!」
ジャージの袖で声を出さないようにしていたが、思ったよりも声量が大きかった。再び鼻の中に水分が蔓延る。当然、台所にいる主もその大きな声に反応する。
「なぁに〜? 友達でも連れて来てるの?」
 一瞬、タカの目が泳いだ。主にミキが居ることを知られては困る。必死に取り繕うとしたが、既に主の目はリビングのほうに向いていた。
「あれ〜ミキちゃんじゃん! 久しぶり〜元気してたぁ〜?」
「あ、どうも、お邪魔してまぁす!」
 ソファーに座っている人間を視界に入れた瞬間、主はそれが誰だか認識できたらしい。そして認識した後、ソプラノとアルトの境目の声が嬉しそうに響くのが聞こえた。ミキもガラス戸を通して、主に軽く一礼して声に応える。冷蔵庫に大福を置いた後、すぐに主はミキのほうへ歩み寄っていった。
「へぇ〜髪伸ばしたんだぁ〜。ミキちゃんずっとお下げだったのにね。でもそれも凄く似合ってる! うん!」
 引きつった表情をして立ち尽くしているタカを尻目に、嬉々と主は話を続ける。
「どうも。夏休みの間ずっと伸ばしてたんですよぉ〜。おかげで暑かった暑かった。所で、アユミさんって、今は何してるんですか? 大学合格したって言うのは聞いたんですけど」
「ん〜? たいしたことはやってないなぁ。バイトに合コンにサークルに。ま、大学生活をエンジョイしてるって感じかな」
「へぇ〜。楽しそうですねぇ。今度一緒に遊びに行きましょうよ! 久しぶりに!」
「うん、そうだね! どこいく?」
ミキも話に乗ってくるからタチが悪い。元々、アユミ、もとい姉とミキは5歳も歳が離れているくせに相当仲が良かった。近頃、会うことが滅多に無かったが、波長が合う人間同士というのは、時間が経ってもその波長が狂うことは無いらしい。実際、その具体的な例がここにいる。
「てゆーか、なんで、ウチにいるの? てゆーか、そのジャージタカのだよね?」
 一番、言って欲しくなかった言葉が放たれた。この流れならば聞かれないだろう、と高を括っていたのが間違いだった。アユミの目線が、こっちを向いた。明らかにタカを疑っている。
「ま・さ・か……ユキタカ、アンタ」
 誤解を解けば良いだけの話だが、この人に対してそれが簡単に出来るわけがあるまい、とタカは逃げるように視線を外す。だが、逃げられるはずは無い。足音がだんだんとこちらに近づいてくる。
「……ゴムはちゃんと付けるのよ」
……予想通りの言葉が待っていました、と心の中で呟きながら、詰め寄ってくるアユミに対して、ゆっくりと肩を叩く。
「安心して下さい。自分、まだ子どもですから」
若干、棒読み気味に忠告に応えた。アユミもならいいんだけどね、と告げてソファーのほうへ戻って行った。……何がいいのか全くわからないが、言わないで置こう。アユミが柔らかい感覚に身をゆだねようとしたその時、もう一度こちらを振り返った。そして、こう言い放つ。
「……ん? ……じゃあ、なんでミキちゃんがいるの?」
……俺はこの先、この人に勝てる日が果たして来るのでしょうか。そう心の中で呟きつつ、タカは頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。


茜色のキャンパスに赤みが掛かった入道雲が浮かんでいる。住宅街も朱に染まって、街を照らしている光も徐々に弱まっていき、若干欠けている月も見えるようになってきた。街は今正に一日の釘路を告げようとしている。ふと、見下ろしてみると、同じくらいの大きさをした、二つの影が見えた。その影は歩道をガードレールに沿って、ゆっくりと、全くリズムを変えないで、揺れながら動いていた。ふと、片一方の影が止まって、もう一方の影のほうを向いた。
「ねぇ、ユキタカって好きな女の子とかいる?」
「ん〜……いるってゆえばいるし……いないってゆえばいないし」
「何それ。じゃあいるとしたらだれ?」
「ミキ」
「……え……」
「うそ。いないよ、そんなの。オレそんなのきょーみないんだよね」
「……うそつき。パパがゆってた。どんなにカッコいい男の人でも、うそつきは嫌われるって。うそつくと女の子はよってこないって」
「じゃあ、ミキはオレのこと嫌い?」
「うん、嫌い。大ッ嫌い」
しばらくすると、影は揺れながら動き始めた。夕焼けももうすぐ見えなくなる。その光が差し込んでくる方向へ、また同じリズムで歩んでいった。


「なるほど」
いつになく、真剣な表情を浮かべてアユミは頷く。先程までのあっけらかんとした面持ちとは裏腹に、本当に真剣そうに考えている顔になった。あの後、大方の事情を話しているうちに、アユミは顔だけでなく、口数も徐々に少なくなっていった。
「で、どうします?」
 ようやくまともな話が出来る、と思いつつ、タカは状況解決のための提案を聞き出してみた。だが、アユミの口から放たれた回答は、期待していたほど芳しいものではなかった。実質、タカの脳内で思い浮かべていたものと、さして変わりはなかった。
「どうって……そりゃ送っていくしかないでしょ。いくらミキちゃんだって佐伯の叔母さんに迷惑かけるわけにはいかないわ。ましてや……理由はわからないにしても、14歳で家出はマズいよ」
 アユミが口を閉じた、その一瞬。ミキの表情が曇って、あからさまに失望しているかのように、タカには見えた。こちらの期待の裏切られ方とは違って、まるで幼児が親に玩具を買ってもらえなかった時のような表情を、ミキがしたように、タカには見えたのである。気のせいかもしれないが、伊達に長い間付き合っているわけではない。
「とにかく、叔母さんには連絡するから、ね?」
 アユミがミキに同意を求める。しかし、ミキはその口を開かなかった。フローリングの上に敷き詰められたカーペットの床を見つめながら、ただ押し黙って座っているだけだった。
今日、どれだけこんな顔を見ただろう。確かに、今まで付き合ってきた中で、こんな顔はいくつか見たことがある。運動会のリレーで自分のせいでクラスが負けた時や、風邪ひいてるくせにテスト受けて悪い点数取った時や、他にも色々あった。あった、が……あまりにも細切れの記憶で、詳しくは覚えていない。単に、“珍しいこと”としてしか記憶が出来ていないんだ。コイツが泣いたことなんて見たことはほとんどない。小学校の卒業式でも、コイツは泣かなかった。どんな時でも、コイツは強かったんだ。なのに、今にも、泣きそうな顔をしている。
気がつけば、外の雨も勢いを弱めていた。確かに、コンクリートを叩きつける音は聞こえるが、先程までの勢いと比べたら可愛いものである。屋根から滴り落ちてくるポチャンッ、ポチャンッという音と共に時間は過ぎていく。
「じゃ……とにかく、連絡はするからね」
同意の言葉を聴かないまま、アユミは充電器に差し込んでいるコードレス電話のもとへ歩いていった。手に取ると、電話帳を片手に手際よくボタンを次々と押して行く。一通りの行程を終えると、電話帳を耳に当てて声を発する。
「……あ、もしもし、佐伯さんのお宅でしょうか? 私相川亜弓といいますが……はい、どうも御久し振りです。あの、ミキちゃんなんですけど……ええ、ええ。はい、実はうちに……」
 相手先の声は聞き取れなくとも、会話の内容は大筋察することが出来る。大方、これから迎えに来ることの算段でも話しあっているのであろう。タカは、ソファーに腰を掛けゆっくりと息を吐いた。これでとんでもない一日が無事に終わる、という安堵の心から来る物だった。ミキは相変わらず床を見つめたままだが、これでいいんだ、これで、と呟き、ソファーに身をゆだねようとした時である。
「はい、安心してください。はい、はい……ええ、それじゃあ」
 コードレスの受話器の電源のボタンを切った。そしてまた元有った場所へ置くと、アユミはタカのほうを向くなり、こう言い放った。
「よし、アンタが家まで送ってきなさい」
 ……何をいっているんだ、この人は。真っ先に、浮かんできた言葉である。脳裏は疑問符で埋め尽くされている。ましてや、ようやく全てが終わると思っていた矢先にこれだから、尚更のことである。
「……何故に……?」
 理由を問いただすと、丁寧にしっかりと回答してくれた。
「一つ、オバさんは車の免許を持っていません。二つ、とはいえど状況が状況なのでオバさんから迎えにいけるわけがありません。三つ、まさかミキちゃんを一人で行かせるわけにも行きません。四つ、私はもう疲れました」
 聞き逃しの無いように、耳を傾けて順序よくアユミの言葉を聞いたが、最後の言葉を聞いた途端、タカは自分の体が固まるのを感じた。更に、脳裏の中に疑問符が増えていく。
「ちと、いいですか? 一つ目もわかります。二つ目もわかります。三つ目もわかります。ですが、私、四つ目はどうしてもわかりません。明確な理由付けをした上で、回答を御願いいたします」
 この問いただしに関しては、思ったよりかなり簡潔な回答であった。
「聞いたままのこと。あたしはバイトと買い物で疲れたの。ということで、これからゆっくりと寝させていただきますので。よろしくおねがいいたします」
 ミキのほうをチラッと見た。こちらのほうを見ている。目からはハッキリと読み取れないが、大筋自分と意見は同じであろう。タカは再びアユミに対して問いただした。
「……私に拒否権なるものは……?」
「あるわけないでしょ」
即答。どうやら、諦める他ないらしい。言葉を失ったままミキに目で合図を送ると、ようやく手に入れるはずだった平穏が、手からすり抜けるように落ちていくのをタカは身をもって感じた。


傘を隔てて2人の男女が歩いている。風貌からして、2人とも中学生やそこらの年齢だろう。背丈の差はおよそ15センチ程度。歩調を合わせて、一歩一歩水溜りが無数に出来ている濡れたコンクリートを踏みしめていく。少年の持つ傘が雨粒を断ち切っているが、2人の肩が傘の中に納まりきっていないため、時折お互いの肩を冷たさが覆う。しかし、今の2人にとって、今はそれどころではないのであるが。
「なあ……」
少年が声を発する。だが、それが苦し紛れに発した何気ない一言であることは言うまでもなく、それに続く言葉は全くない。少女のほうもなにかいうのか、と思っているのか口を開かない。しばらく、雨がコンクリートを叩く音が続いた。
「……何?」
そんな状況を見兼ねて少女が聞き返す。しかし、言葉が返ってくるわけでもなく、また長い沈黙が続く。お互い俯き加減な目線で、決して顔を合わせることはまずない。一台、トラックが通って、大きな水しぶきをあたりにぶちまけた。――一瞬、少年の声が聞こえたような気もした。だが、少年は今まで通り濡れたコンクリートを見つめたまま歩いている。
「あのさあ……」
 今度は少女のほうから切り出した。少年は何も応えず、反応も見せない。まるで、二人を分ける傘の取っ手が、断崖絶壁の淵のように感じる。気付けば、足元もスニーカーが水分を多く吸い込んでいて、肩と同様に冷たさが覆っていた。信号が目の前に立ちはだかる。ほぼ同じタイミングで、2人は横断歩道の前で立ち止まった。流石に雨の中ということもあり、歩行者はおらず、車もまばら。少女は、少年に聞こえないように小さく溜息を吐いた。そして、もう一度口を開く。
「あのさあ、こないだのあれは……なんていうか、事故みたいなものだからね。事故」
 ここでも、互いに顔を合わせることはなかった。数秒ほどすると、少年のほうから今度はしっかりと返事を返してくれた。
「……うん。わかってる」
それが、本音なのかどうかはわからなかった。その場凌ぎの応対だったのか、本心から来る言葉だったのか。少年にしか、知らない事実。
「一応言っておくけど……あれはハルに陽動されたみたいなものだから。」
「……うん。わかってる」
また、同じ言葉を返してきた。ふと、横目で上のほうを見てみると、信号の色が青から赤に変わるのを見た。もう少しすれば、再び濡れたスニーカーを動かさなければいけない。
「実はな」
目の前で軽乗用車が止まった瞬間、少年のほうもようやく顔を上げて口を開いてきた。目の前の信号が、青に変わって動き出す。
「オレ……最初から最後のほうまで聞いてた」
 初めの一歩を踏み出そうとした瞬間、その言葉は発せられた。突如、そんな言葉を告げられるものだから、次の一歩が中々出てこなかった。違和感を感じたのか、少年は後ろを振り向く。
「……なに……それ」
 立ち止まって降ってくる雨に打たれながら、少年の目を見て少女は声を発する。
「……なんていうか、忘れ物取りに来たのは本当なんだ。で、それで教室に来て……何にも出来なかったから、扉の前で立ち止まって……そこで、話全部聞いて……」
 少年が弁明している間も、少女は横断歩道の途中で立ち止まったままだった。その間の距離は、傘の間よりもずっと深い、隔たりだった。ほんの、数メートルしかないはずなのに、届きそうで届かない距離。厳密に言えば、もしかしたらずっと届くことはない距離。
「じゃあさ、ちゃんと聞いて良い?」
 少女の問いかけに、少年は何も言わずゆっくり頷く。車も、歩行者もほとんど通っていなかった。
「あたしのこと……好き?」
 ――少年は、微動だにせず少女の顔を見たまま歩道に立ちすくんでいた。少女も、横断歩道の途中でずっと立ち止まって、少年の目を真っ直ぐ見つめていた。信号が、点滅し始めていた。
「……わかんない、でも、嫌いじゃない。それは……確かだと思う」
 信号の色が、赤に変わった。
「……バカ!!」
  途端に、雨の音でもかき消しきれない大きな声で、少女は叫んだ。
「何でそうなの……? 昔から、男のくせにうじうじして、泣き虫で、全然頼りなくて!!ずっとそうだった! 中途半端で、優柔不断で……もうタカなんて大ッ嫌い!!」
「ちょ、おま、待てって! ミキ!」
引き止めようとする少年の手を振り切って、少女は全力で駆け出した。少年も、傘を投げ捨ててそれを追いかける。だが、溜まり続けた疲弊が少年の体を突然覆った。上手く、足が動かせず、中々少女との距離が縮まらなかった。息を切らして、必死に追いすがるが、全く無意味であった。すると、視界が信号を捉える。見れば、点滅し始めている。あそこしかない、と少年は最後の気力を振り絞った。――信号が赤に変わる瞬間、既に少女は、横断歩道を渡りきっていた。少年は信号も無視して、横断歩道を渡ろうとするが、並み居る車に邪魔されて、その場に立ち竦み、少女が見えなくなるのを何も言わず見届けるしかなかった。
全力で走ったという疲労感よりも、言いようのない絶望感が、少年を覆い尽くす。雨に打たれながら、少年は諦めるかのように来た道を戻っていった。いや、諦めたというよりも、追っても無駄だという失望なのかもしれない。ゆっくり、歩いているうちにまた雨が強くなってきた。恐らく、今日の夜までずっと降り続けるかもしれない。そう、ずっと――。


【後編】


閑散としている廊下に、無色透明のガラスを通して、オレンジ色の光が差し込んでくる。床に反射して輝いている光は何の彩もない空間を、鮮やかに映えさせてくれ、ある種の芸術ともいえた。日中まで活気に満ち溢れていた校内とは対照的に、内履きが床を叩く音さえも壁に反射して大きく聞こえるほど沈黙に満ち溢れている。やがて時が経てばオレンジの光はなくなって、この空間は夜の闇に包まれていく。そして、闇が晴れればまた活気に満ち溢れていく。この空間は、常にその繰り返しで成り立っているのだ。
疲れを溜め込んだ足を何度も悲鳴を上げさせて動かし、固い床を何度も踏みしめて、辺りに音を散らしてゆく。普段なんともないはずの階段を一段ずつ上る作業が、体全体にズシッと圧し掛かってくる重い疲労感、衣服と肉体にまとわり続ける冷めた水気、全身の筋肉を襲う痛み、その全てによってとてつもなく辛い労働と化していた。階段を上りきった後の感じていいのかわからない達成感が、妙に胸の中に立ち込めてくる。一息付くと、目的の場所へ照準を定めた。
「……ねぇ……ってさ……」
 沈黙だけが覆っているはずのこの空間に、人の声と思われる音が響いていた。気にも止めずに、目的の場所に向かっていれば、別に何の問題はなかった。だが、意外とそうは行かないもので、目的に近づけば近づくほど音はハッキリと聞こえてくる。やがて、会話の内容もしっかりと聞こえてくるようになった。
「もったいぶる必要ないでしょ〜? ねぇ、ミキ、誰が好きなの?」
「別に言う必要ないじゃん! しかも何でわざわざハルなんかに! 私が誰好きでもいいでしょ!」
 所詮は女子が繰り広げる他愛もない会話で、こちらには聞いていて何の損得もない会話のはずだった。しかしそうは思えない理由がそこにはあったのだ。その会話の内容を聞かずにはいられないと、自分の好奇心が知らぬ間に体を操っていた。気がつけばドアの前で身動きが出来なくなっていた。別に、足が動かないわけでもなかったのに。
「誰にも言わないからさ〜。良いでしょ! ね!?」
「…………」
 次の言葉を、早く聴きたいという気持ちと、聴きたくないという気持ちが、同時に心に浮かんでくる。
「……タ……」
 上手く、聞き取れなかった。もう一度言ってくれと、心の中で思わず叫んでしまった。
「何? 聞こえないよ」
「……タカ」
 一瞬、視界が真っ暗になった。言いようもない感覚が、全身を襲ってくる。思わず、腕が動いてドアを叩き、音を出してしまった。視線がこちらへ集まったような気がする。逃げろ――。叫び声が聞こえたような気がした。聞いてはいけなかったはずの言葉を聞いてしまったという罪悪感と、一刻もこの場から立ち去らなければいけないという焦りが、その声を聞かせたのかもしれない。しかし、足は動かなかった。まるで瞬間的に自分の体が凍っていくように、神経が停止してしまった。足音が聞こえる。徐々に、こちらのほうに近づいてきた。心臓が高鳴る。叫び声が、大きくなるのを感じた。早く、逃げろ! 逃げるんだ!!――


 ブツッ、という音が聞こえた。いつの間にか目の前を彩っていたはずのオレンジがなくなって、空間も移り変わり、自分の体を覆っていた痛みや疲れもなくなっていた。そんな曖昧な感覚だけは頭に刷り込まれていた。だが、何が映っていたのかは、刷り込まれていなかった。どんな夢を見たのか、事細かには思い出せない。だが、その映像が今の自分にとって足枷になっていることは、その断片的な映像からでも認識できた。この映像がどれだけ自分の精神を削ってきただろう。思い出すたびにもどかしい想いだけが胸にこみ上げて、いつも苦しんできた。ふと、時計を見ると短針が「5」を指し、長針は「12」にあった。頭が、上手く働かない。無理矢理止まった細胞を動かして、強引に認識させる。時間は掛かったが、それが何を意味しているのがようやくわかった。
「……ったく……」
 若干、不機嫌になった。いつもは6時に起きるというのに、一時間も早く起きるなんて。秋に入っていくにつれ、この時間帯は特に朝を冷たさが覆うようになった。布団の温もりから抜け出し、カーテンを開けると、日差しが真っ先に入り込んでくる。その光に一瞬たじろぎ、タカは目を覆った。やがて目が慣れてくるとゆっくり瞼を開いて、外のほうを見る。空にはいつの間にか雨雲はなくなり、白光だけが浮かぶうす青く色づいたキャンバスが出来上がっていた。
「……なんだったんだよ……」
 その嘆くような声はあまりにも空しく、狭い部屋に響いた。


「休み?」
 多くの人間によって作り出される喧騒に、教室は包まれていた。数人単位のグループが一角一角に陣取り、取り留めのない会話をそこかしこで展開している。休みの日はどこに行っただとか、ブラウン管の前で行われた出来事の感想だとか、何も意味を持たない――それでいて彼らにとってはとても大事な――会話が教室の中には広がっていた。
「風邪だって。ていうかユキタカ君のほうが知ってるんじゃないの?幼馴染なんだし。ていうか何かあったでしょ」
人気のない階段の近くで坂本遥(ハルカ)は睨むような鋭い眼差しを添えて、言葉を返してきた。明らかにタカを疑っている口調、そして目線である。
「いや……別に」
 目を逸らし、鋭い眼差しと疑いから逃れようと言葉少なに曖昧な返答をする。逃れられるはずもないということは、自分でもわかりきっていた。それだけあまりにも意味のない言葉だった。
「しらばっくれようったって無駄だよ」
 言葉の端々から、刺々しいものを感じる。逃れないどころか、自分は既に包囲網の真っ只中にいるらしい。
「……ミキからなんか聞いた?」
 半ば諦めて、逃れられないのであれば、歩み寄ってみることにした。
「聞いたって言うよりか……とにかく、昨日ミキから電話があったの。それで泣きながらね……」

『……ハル……グスッ……』
『何? どうしたの? とにかくなんか言ってみな?』
『あのね……あたしもうダメかもしんない……』
『え? な、何かあった?』
『グスッ……うんとね……とにかく、もうダメなんだ……』

「……こんな感じに」
「……んで、何故に俺?」
 和らいでいた眼差しが、途端に鋭くなった。
「ユキタカ君って何でこの期に及んでまで、そういう態度を取れるかなぁ……」
 どうやら、一歩も動くことは許されていないらしい。
「なんでも聞いてください」
「じゃあ率直に。……フったの?」
 いくらなんでも率直過ぎないか、なんでも聞いてくださいと言ったがそりゃないだろ、とここで自分に突っ込む権利はあるのだろうか、と軽く自問自答してみた。
「……さぁ……」
 とはいえ、決して突拍子もない質問でもなかった。実際それに近い事が起きたのは確かで、否定するわけにも行かなかった。しかし、あまりにも不透明で投げやりな応え方をしてしまったために、浴びせられる疑いの目線の勢いは更に強まる。
「……サイッテー」
随分キツい言葉をぶつけてくる。確かに、やった事は自分自身でも未だに引きずっているし、どんな罵倒の言葉を浴びせられても無理はない。しかし、いくらなんでも確証も為しに、面と向かって最低はいくらなんでも酷すぎるんじゃないか。最低は。
「いや、一応言っておくが……」
 言っておくが? 俺は何をこの後に言うつもりなんだろう。自己弁護の言葉を並べるだけ並べて、正当化でもするんだろうか? それとも、ありのままの真実を話して救いの手でも求めるのだろうか。いずれにせよそれが何か意味を持つというわけでなく、余計自分の立場を悪くするだけであるということを、タカは悟った。
「……どうしたの?」
反論するのかと思いきや急に黙りこくったため、ハルの鋭い眼差しが一瞬困惑に変わった。
「……いや、なんでもねぇ……」
 結局、言葉は見つからなかった。それが悪い手段だとしても、良い手段だとしても、手段の根源すら見つけられなかった。ただ、何か言うつもりであったことを否定することくらいしか、今の自分には出来ないのだとタカは自身に失望を感じた。――キーンコーンカーンコーン――休息の時間から、再び授業への切り替えを知らせる予鈴が鳴り響く。
「……とにかく、何があったのかわからないけど、あたしじゃどうにもならないし、何とかしてね。お願い」
 気がつけば教室の中を覆っていた喧騒も散り散りになって、それまで何事もなかったかのように、静寂が訪れようとしていた。
「……あぁ」
 何とかしろといわれて、何とかできるほど自分が器用な人間でない事は、ハルにだってわかっていたはずだ。余計な重荷を背負わされて、正直迷惑だった。だが、自分の蒔いた種を無責任に放置するわけにも行かず、そんな自己嫌悪がありきたりな応答に繋がった。いつの間にか、部屋を覆うものは完全に喧騒から静寂へと変わっている。


 昼下がりになっても雲は全く見えず、青いキャンバスは明朝からずっと汚れる気配も見せていなかった。白光だけが悠然と空に浮かび、自分を見下ろしている。その光が、自分を苦しめているという事をヤツはわかっているんだろうか。恐らく、わかってはいまい。地面から熱気が湧き上がり、ランニングシューズを覆っていく。秋だというのに、この熱さはなんだろう。昨日は雨だったというのに。おかしすぎないか、と誰に聞こえるわけでもないのに、問いかけてみた。踏みしめるたびに温度は上がっていき、やがて熱さは痛みへと変わった。
「54……55……56……」
 流れ落ちる汗が差し込んでくる光に反射する。肺は何度も何度もその細胞を動かし、入っては出て行く酸素と二酸化炭素の入れ替わりを手助けした。体中の血液がまるで沸騰しているかのように、全身を熱気が襲ってきた。地面を踏みしめるたびに、その体の中の見えない所で行われている速度が早くなっていくのを感じる。
「4分53……」
 全ての動作をストップした後、解き放たれるように心臓が高鳴る。下半身を中心に激痛が襲ってきた。耐え切れず、思わずその場に座り込んでしまう。体中の絶叫が聞こえてくるような気がした。肺が今まで以上に激しく動いている。自分でもわかるほど、激しく動いている。
「どうした、相川。今日一度も4分半切れてないじゃないか。それどころか五分切るのがやっとなんて、珍しいな。どっか悪いのか?」
 声を掛けられたことで、どこかへ吹き飛びそうだった意識をかろうじて戻すことが出来た。激しい痛みと、重い疲弊。単純に、それだけが原因ではない。何かが自分を縛って、抵抗もさせずに苦痛の底に落としいれようとしている。まるで、何かの償いをさせているかのように――。
「……おい、相川!」
 再び幻想の世界から、現実へと引き戻された。気がつけば、倒れこみそうなほど自分の体は力がなくなっていた。
「え、あ、すいません」
 その場凌ぎの応答をすることしか出来ないまま、必死に心臓に休息の時間を与えようと、肺をひっきりなしに動かす。脹脛が、震えている。いつもの練習では、考えられないことだ。
「病気でも怪我でも、早めに治しておけよ。コンディションが整わなくてダメでした、なんてなりたくないだろ? 県大会も近いんだからな」
 病気でも怪我でも、か。なら何も問題はない。余程の大事でもない限り、必ず治るんだから。……いや、この場合はその大事なのかもしれない。例えばこれから二度と治る見込みもなく、死に行くだけの病気や、自分の全てを失くすような怪我なのかもしれない。治る可能性は決して0ではない。しかし、治るのはいつかなんて、わかるわけがない。医者に診せて簡単に治りますよ、なんていわれれば苦労なんてしない。とんでもない病気がこの世にあったもんだ。全く。
 タカはゆっくり立ち上がって、水道管が見えるほうへ歩き出す。その間にも、心臓の鼓動は未だに聞こえてきた。収まれよ、と心の中で呟こうが、収まるはずがない。蛇口を捻り、吹き出してきた水を一気に体内に取り込む。それでも、体中の血液の温度が下がることなんてない。途中で、喉にまで達していた水分を、排水口にぶちまけた。体中の全部を吐き出すように。それでも、収まらない。息を切らせながら腰の角度をより縮め、吹き出てくる水の標的を唇から頭に変えさせる。冷たい。だけども、すぐに熱くなっていく。もう、いいや。諦めた。なにもかも。こんなことしてたって、余計疲れるだけじゃないか。多分、この青いキャンバスだって、少しすれば黒く濁っていくはずだ。
「あ、ユキタカ君だ♪」
 どこからか、間の抜けた声が聞こえたように思える。少なくとも、それを視界に捉えることは出来なかった。後ろからか、と思いつつタカは振り返ってみた。
「やっほ♪ ユキタカ君、練習頑張ってる?」
 振り返った時に、その声の主は視界にハッキリと捉えることが出来た。後ろ髪を紐で結んだ制服姿の少女、ハルだ。先ほどと明らかに態度が違うような気がするのは気のせいだろうか。少なからず人目に触れる場だからだろうか……。
「……何?」
 あまりにも無愛想に言葉を返してしまった。いくらハルとはいえ、しまった、という言葉がタカの脳裏に過ぎる。
「あのさ、今日ミキ休んだでしょ? だから授業とかわからなくなるじゃん。それで、クラスの皆でミキのために今日の授業のノートとか、連絡事とか書いてたから、ユキタカ君それミキに渡してくれない?」
 タカの無愛想な応対を気にする素振りすら見せずに、ハルは全く逆の態度でスラスラと用件を伝えてくる。少し、自分が恥ずかしくなったような気がした。こんなんだから、ああいうことになるんだろうな、と自虐の念に駆られそうにもなった。
「……聞いてる? ユキタカ君?」
 フッと、心中での自己問答をストップさせられた。
「ん、ああ……」
 現実に戻された後、タカは悩ましげに頭を掻いた。他人からの頼みは、上手く断れない性質とはいえ、今回ばかりはしっかりと断るべきだという自分と、もしかしたら今の状況を何とかできるかもしれないという自分が、心の中で交差した。そこから自分が何をすべきか、答えを導き出すのには、それなりの時間を要した。
「ミキとユキタカ君って家近いし、幼馴染なんでしょ? だからクラスの皆でそうしようってことになったんだけど……ダメかな?」
 事情は、どうやら伝わっていないらしい。それはそれで助かるのだが、また別の意味で助かっていないという状況にも繋がっていた。さて、どうしよう。断ることだって、出来る。
「……わかった。帰りに持ってくから」
 かといって、自分にもモラルだとか、イメージだとかを重視はしなければいけない。
「あ、本当? 良かったぁ。じゃあ、これよろしくね♪」
 そう告げると、ハルは手に携えていた小さめのトートバックをタカに渡し、ありがとね、と一声かけて去っていった。一体、なんだったんだろう。女というのは、あれほどまでに変わることが出来る生き物なのだろうか、そう思いながら歩きながら遠のいていく同級生をボーッと見つめつつ、トートバックを手に携えながら、タカはある事に気がついた。結局、気付いていながら依然として無愛想な態度は一向に改まっていなかったということを。そして、自分が今携えているものをどうやって上手く渡すか悩むに違いないということを。


 気がつけば、この時間帯は今までなら茜色だったはずの空が、薄黒くなるようになってきた。だが、雲は相変わらず全く浮かんでいない。うざったくなるくらいに、空一面には何もなく、下弦の月がしっかりと浮かんでいた。まだ薄明るいがその光はしっかりと空の中で輝いている。疲労と痛みを溜めに貯めた足を精一杯動かし、タカはガードレールに沿ってゆっくりと歩いていた。その道は、昨日、通ったばかりの道だった。信号をあと三つ渡って、左に曲がって真っ直ぐ行けば、ミキの家は見える。その距離およそ1km強。たったそれだけのことが、機能の自分には出来なかった。次の信号が、昨日、立ち止まって何も出来なかった信号。色が青に変わって、車も動き出す。あと二つ、待つ事なく渡って、後一つ。心臓の鼓動が、微かに聞こえてくる。歩を進めるたびに、そのリズムが速くなっていくのも、音が大きくなっていくのも、感じることが出来た。
 何を、緊張しているんだろう。ただ、今携えているトートバックを渡せば済むだけの話じゃないか。何で、緊張する必要があるんだ? アイツに会えるわけでもないのに。アイツが、今家にいるかもわからないのに……。
 いつの間にか、最後の信号も渡り十字路を左に曲がって、あとは真っ直ぐ進むだけでミキの家が見えるところまで来ていた。心臓も、ずっと鳴りっぱなしだった。自然と、足を運ぶスピードも速くなっているような気がした。ここまで来るのに、どれくらいの時間が経っただろうか。それすらもわからなくなっていた。そして、玄関の前に立った。インターホンを押す手が、震えている。
ピンポーン。
 ベッドの上で寝ていても聞こえるその音。今日も、何度か聞くことが出来た。これだけ家の中が閑散としていれば、当然かもしれない。だが、その音の主に会う必要はない。代わりに、母が行ってくれるから。今日は、ずっとベッドの上で何もしていなかった。たまに、棚に置いてある本を読んだり、携帯をいじったりするだけで、何かする必要もなかったし、する気力すら起きなかった。昨日、流すだけの涙を流し続けた反動かもしれない。風邪も嘘で、確かに微熱と軽い鼻詰まりはあったけど、学校に行けないほどのレベルじゃなかった。けど、学校に行く気力もなかったんだ。それもこれも、アイツのせい。そう だ、アイツのせいなんだ……。
 耳を澄ますと、コツコツという音が立っている。誰かが、こっちに向かっているみたいだ。音がしっかりと聞き取れるようになるたび、それが近づいてきているのがわかる。そして、ドアの前で立ち止まったようだ。
「ミキー? 相川君が来てくれたわ。授業のノート届けに来たんだって。お礼くらいしたらどう?」
 その言葉を聴いた瞬間、無意識に布団から抜け出している自分がいた。だが、完全には抜け出しておらず、膝から下はまだ布団に埋もれていたままだった。面と向かって、何を話すんだろう。拒絶でもするんだろうか。それとも、許しでもするんだろうか。いずれにしても、それすらもちゃんとできるんだろうか。数多くの問答を繰り返した。ドアの外の方から母が呼ぶ声は聞こえる。だが、その内容まで意識がいかないほどの状況だった。
「お母さん、あの……」

 今頃、身支度でもしてるんだろうか。アイツ、泣いてたとか言ってたし、目腫らしたまま出てくるんだろうか。いつもどおり、素っ気無く返されるんだろうか。それでも、なんとなくいいような気がしてきた。鼓動が収まらない。ドアが開く瞬間なんか、張り裂けそうになってた。本当に、なんで緊張なんかする必要あるんだろう。薄く、音が聞こえたような気がした。ドアが開いていく。
「ごめんね、あの子、まだ具合悪いみたいで……」
 声の主は、さっきまで聞いていたおばさんの声だった。勿論、玄関の先にも、アイツはいるはずもなかった。ハハ、緊張してたのが馬鹿みたいでやんの。
「……わかりました。じゃ、これ……」
 トートバックを目の前にいる相手に手渡すとすぐに、踵を返して何事も無かったようにタカは歩き出した。ミキの母親のありがとう、という感謝の声もまともに聞かないまま、ゆっくりと来た道を戻っていくタカの背中には、どこか寂しさが宿っているような気がした。
「……バカ……」
 カーテンの隙間から、寂しさが宿る背中を見ていた。また、目の奥から涙がこみ上げてくるのを感じる。涙を溜めた目で、どんなに小さくなっていっても窓越しからその背中をずっと見ていた。頬を伝って、涙がこぼれてくる。視界が、涙によって覆われてきた。必死に、擦って水気をなくしていく。それでも、またこみ上げてきた。擦っても、こみ上げてきて、その繰り返しで……気が付けば、背中も見えなくなっていた。


「ただいま」
 ドアを開けた瞬間、見慣れた風景が視界に広がった。ふと、足元を見ると、二足分の靴が置いてあった。しかも、二つともレディースの色違いのハイヒール。それだけで、全ての状況をタカは察することが出来た。
「あら、おかえり。遅かったんじゃない?」
奥の方から、年季を重ねているアルトが掛かった声が返ってきた。その声を聞いたあと、スニーカーを脱いで、丁寧にコンクリートで出来た下足置きに整えた。そして、フローリングで出来た床に足を落ち着かせた。
「うん、まあ、ちょっとね……」
誤魔化し気味に返事をすると、靴下を履いた足をゆっくりを動かして、声のするほうに向かう。
「お風呂沸いてるわよ? 今スープ暖めてるから、先に入りなさい」
 台所に足を踏み入れるなり、その言葉を聞いた。少し、間を置いた後に了承の形で言葉を返す。
「わかった」
 冷蔵庫を開け、1リットルパックの牛乳を取り出して、コップに注ぐ。100ミリリットル程度の白濁液を一気に飲み干すと、すぐに台所を後にして風呂場のほうに向かう。更衣室に足を踏み入れる前に、上着をかごに脱ぎ捨て、準備を整える。下着も脱ぐと、すぐに浴槽のほうに向かった。熱を留めるための風呂蓋も取り、真っ先に体を水に預ける。しばらくの間、浴槽にずっと浸かっていようとした時だった。
「ユキタカく〜ん♪ 湯加減はいかがかな?」
 後ろから能天気な声が聞こえてくる。どうやらゆっくりと浸かっていようなんていってられないようである。返答しようかしまいか、迷った。関わりあって面倒なことになろうものなら溜まったものではない。しかし結果的には、風呂場なら大丈夫か、という安易な考えに行き着いた。
「結構でございます。御姉様」
 我ながら、随分無難な回答である。
「一つ聞きたい事があるんだけども、いいかな? 今日いつもより若干帰りが遅かったけれども、それはもしやミキちゃんの家にでも行ってたのかな? 言い訳は許さないよ」
 まずいいかな、なんて聞くのなら了承をとってからにしろ。思いっきりピンポイントに付いてきやがって。俺には選択権はおろか言論の自由もないのか。声に出せば、間違いなく痛い目には遭う。ここは大人しく心の中で突っ込むことにした。
「一応……。でも、単純にクラスのヤツから頼まれてた物渡しただけだし……ミキにも会えなかったし。つーか、なんでわかるんですか?」
 曇りガラス越しに返事を返す。部屋自体が密閉されているため、声が敷き詰められたタイルに反射して、相当響いていた。
「女のカンってヤツよ。なめてたら痛い目見るわね。んで、大人しく帰ってきた、と。バッカじゃない? アンタホントに男?」
 女のカンが非常に凄いことはわかったから、俺に関する権利はまだしも、せめて言葉くらいは選んでくんねえかなあ。決して声に出せない愚痴をどこかへ吐いてみた。確かにバカといわれても仕方がないことくらい、自分にだってわかってる。あの時、別の行動に出る事だって出来たはずだ。でも、俺は帰ってきた。ミキから、逃げてきたんだ……どうやら、まだ何かついでに言いたげにしている。黙っているのが筋だろう。
「それとも、アンタミキちゃんのこと嫌いなの? ……ならあたしの早とちりだったんだろうけどね」
 嫌い……嫌い、じゃないよなあ……。だけど……俺、ミキのことはっきりと好きって言えるんだろうか……。心の中で、嘘をついている自分と、正直な気持ちでいる自分が戦っているような気がした。結局、自分の本音って、一体なんなんだろう。昨日も、同じことで悩んでいた気がする。いや、今の今までずっと。そんな中途半端な答えが、自分の本音なのだろうか。あの時、ミキに直接言った言葉が、そして、ミキを追いかけることも出来なかった事が、自分の本音なのだろうか……。
「少なくとも、あたしにはそう見えなかったけどね。どんな時でも、アンタが見てて楽しそうにしてたのは、ミキちゃんと一緒にいたときだったから。あくまで“だった”だけどね。今はどうかは知らないけど」
 それが、俺の本音なのか? じゃあ、今は? ……結局、本音も導き出せないほどのビビりだってのか? 俺は。自分に嘘をついているんだけれども、それを認めたくないんだろうか。何故? 認めない必要が、どこにあるんだ。本当の答えは自分にしかわからない。だけど、今の俺はきっと、誰かにその答えを見せてもらいたいんだろうか。……考えれば、考えるほど、頭の中の迷路が更に複雑になっているような気がした。余計、出口への道を遠くしているかのように。
「わかんねぇよ……そんなこと……俺にだって」
また逃げることしか、出来ないのか。我ながら、あまりにも情けない。
「……自分の気持ちに素直になれ、なんてあたしは言わない。素直になればなるほど、自分が苦しむことだって、あるから。……だけどね、このまま、ミキちゃんとギクシャクしたままで、アンタはいいの?」
 良いはずはない、そう言い返したい。だけど、何故か言い返せない自分がいる。ミキとの関係をこのまま崩壊しようなんて、露にも思ったことはない。だが、自分でもわからない葛藤が、心の中にある。説明のしようがない、葛藤が。
「…………」
 押し黙っていることしか、出来なかった。そんな自分の状況を察してくれたのか、アユミも気が付かないうちに、姿を消していた。大きく息を吸い込んで、湯の中に顔を沈める。約40度の熱が肌を一気に覆う。熱い。そして、苦しい。溜め込んだ息も、一分もしないうちに持たなくなってしまった。ぷはっ、と大きな息を付きぼんやりと、天井を見詰めた。ペンキで塗り固められた白い壁。湯の熱さに覆われながら、ずっと、見つめていた。


 外から聞こえてくる地面を叩きつけるような音――。不自然も良い所の空模様である。朝からずっとこの調子だ。天気予報士は、「予測はできていた」なんて言っていたが、こんな空模様の調子の波さえも予測できるほど、今の技術は精密になったのだろうか。日曜は全くの大外れだったくせに。頬杖を付きながら、黒板を見ているフリをしている。つまらない授業に付き合っている暇が今の自分にあるわけはない。
「え〜だから、ここのxが……」
 教師の声が雨音に混じりながらも、教室に響く。随分と大変な仕事なものだ。赤の他人といってもおかしくない、自分よりも一周りも二周り離れたガキ相手に1時間近く口を動かし続けなければならないのだから。それに、その話をマジメに聞いている生徒など、正に一握りであろう。
「それじゃあ、ここを……17番の佐伯……は休みか、だったら……」
 部屋の中で、それぞれが与えられた席に座る中、一つだけポッカリと与えられているのにも関わらず誰も座っていない席。その人間のおかげで、教師の話を流しながら、未だに抜け出せない迷路を必死に走り回っている。この調子では、恐らくいつまで経っても出口は愚か、中間地点にまでたどり着けないだろう。そもそも、この迷路に出口なんてあるんだろうか……。キーン、コーン、カーン、コーン……。授業の終わり、そして、教室での缶詰生活の終わりを告げる予鈴の音。教師の話が止まり、静かだった教室がドッとざわめきだした。
「ねぇ、ユキタカ君」
 ざわめきだした教室内にあって、タカは変わらず頬杖を付いてボーッと黒板を見つめ続けていた。結局、一日中ずっと。まともに話なんて聞いていなかっただろう。聞こえてくる声によって、ハッと我に返ることが出来た。
「……何?」
 振り向けば、ハルがいた。やはり、人目に触れる場だからしっかりとキャラを作っている。本当に忙しいヤツだ。そんな中、また自分が無愛想な態度でいることにタカは気付けていなかった。
「今日もミキ休みでしょ? だから、今日もお願いできる、かな?」
 首を傾げながら、手に携えた昨日とは色違いのトートバックを差し出してくる。変わらず、無愛想な態度には気にも留めずに。
「……別にいいよ」
 また、無愛想な返答。気付かない限りは、直ることはないだろう。いや、その前に気付きもしないかもしれない。
「……あのさぁ、ユキタカ君とミキって、いつから知ってるの?」
 一瞬、沈黙が流れた後ハルがおもむろに口を開いた。変わらない態度のまま、その質問にタカは答える。
「ん〜……十年前くらいからかな。腐れ縁も良い所だよ。でも、何でそんな事聞くの?」
 質問に対して、返答をした後更に質問を重ねた。
「え? う〜ん、なんていうのかな……なんか、ミキとユキタカ君ってさ、単なる親友には見えないんだよね。上手くいえないんだけど、何かで繋がってるみたいに。……ミキとあたしには無い何か、でね。なんか、嫉妬っていうのかな、そんな感じなの。悔しいって言うかさ……」
 必死に言葉を選びながら、返答していることが伺える。突っ掛かることが多く、明らかに明確な答えにはなっていない。返答はまだ続く。
「あ、いきなりゴメン。こんな話して……でもね、ミキは誰よりも一番ユキタカ君のことが……」
 それ以上の言葉は出てこなかった。
「……じゃあさ、ミキが俺のこと好きなら、俺はどんな風にそれに応えたらいいのかな?……全然わかんないんだ。どうすればいいの?」
 補うようにして返答する。もう一度、沈黙が流れる。先ほどよりもずっと長く。
「……一回さ、ミキの顔もう一度見てみたら? ……それでどうなるかはわからないけど……でも、何もしないより、ずっと良いと思うよ。」
 必死で探し回って、出てきた言葉である。切なく、タカの中に響いた言葉だった。
「……わかった、俺、今からミキの家に行く。会えるかわからないけど……いや、絶対に会う。それで、ハッキリさせてみる」


 水飛沫を上げて、バシャッバシャッという音が響く。降り注ぐ雨の中で、必死に腕を振った。少しでも速く、そして長く走り出すために。雨の冷たさを物ともせず、体中の血液は沸騰し続ける。アツイ。だけど、今はそれを気にしている暇はない。とにかく、速く、ハヤク。それだけを考えなければいけない。走る先に、何が待ち受けているかはわからない。でも、今の自分には走ることしか、出来ない。一瞬、目に雨粒が入り込んできた。袖を使って、すぐに取り除く。若干霞んだ目が、点滅している信号を捉えた。今度は渡れる。今の自分には、渡る事が出来る。ズキッと、脚に衝撃が走ったような気がした。イタイ。だけど、どこが痛んでいるか、確認してる余裕なんてない。
アツイ、イタイ、クルシイ、ツメタイ、ツライ――デモ、ハヤク、モット、モットモット、ハヤク。アイツニアウタメニ、ハシラナケレバイケナイ。
三つ目の信号を止まる事無く渡り、左へ曲がった。後もう少し、もう少しで、自分をきっと、ずっと待ち受けているものに会える。その一心で、最後の力を振り絞った――。
ピンポーン。
 また、家中をこの音が響き渡る。だけど、それに反応する人間は、今家には自分しかいない。二日間、泣き続けたせいで、目元の腫れが未だに直ってない顔で、来訪者への対応をしなければいけない。寝巻き姿というオマケ付で。内心、非常に気だるかった。ゆっくりと椅子から立ち上がり、玄関のほうへ向かった。ピンポーン。その間に、もう一度ベルが鳴る。もしや、宅急便か何かではないかと感付いた。だったら余計、迷惑である。こんな時、アイツでも来てくれればいいのに。そうすれば――ドアノブに手を掛け、ゆっくり開けていく。雨音が、漏れてきた。
「ハァ、ハァ……よ、よぉ……」
ドアの先にいる人間が誰だか確認できていなかったため、一瞬幻聴かと疑った。その疑念を晴らすため、勢いよくドアを一気に開く。
「……タ……タカ……?」
 困惑と、驚き。両方が交じり合ったまま、目の前にいるずぶ濡れの男を見つめていた。自分よりも15センチ近く高い背、短く切り整えられた髪、まだ幼さが残る風貌、見慣れた学生服――。
「ハァ、ハァ……」
 胸の高鳴りが、ずっと収まらない。走り続けてきたせいだとか、そういうものではないと、何故か自分で理解できた。これが、答えなのか? そして、ずっと彷徨い続けてきた迷路の、出口なのか……?
「ちょ、タカ、なんで? 学校は!?」
 視点が、定まらなかった。もう目が腫れている事や、寝巻き姿のままであることなど、全く関係ない。とにかく、どうすればいいか、わからなかった。そして、全ての疑念を晴らす為に、声を上げる。
「……すぐ、帰って、来た。ほら、学校の、授業の、ノート……ハァ、ゼェ……」
 呼吸が、上手く出来なかった。そのおかげで、上手く相手に言葉が返せなかった。みっともない姿かもしれない。今までよりも、ずっと。
「授業のノートとか、もう良い! 早く、家入って!」
 突然、冷たさが体を覆った。でもどこか、暖かかった。心臓の鼓動のようなものが、すぐ近くで伝わってくる。しばらく、それをずっと感じていたかった。
「あぁ〜もう疲れたぁ〜……ずっとこうしてて、いい?」
 冗談のつもりで言ったのか、本気で言っているのか、最早自分でもわからなくなってきた。でも、別に構わない。
「ちょ、何してんの!? 離れてよ!! 冷たい!!」
 フッと我に返って、拒絶するが、あまりにも大きな力の差があり、身動きすらも出来なくなっていた。
「あ……いつものミキだ……」
 こんなことしてて、言える台詞でもないかもしれない。でも、今の自分には、それだけで、幸せだった。あと、もう少しで、出口への一本道に抜け出られるような、気がした。
「……あのさ……俺、ミキのこと、好きかもしんない……いや、好きだ」
 温もり、柔らかさ、細さ。なにもかもを、抱きしめていたかった――
「……バカ……! ……バ……カッ……!」
 瞼に、また涙がこぼれてきた。この二日で、流した分は、流しつくしたと思ってたのに。なんで、三日も、コイツのせいで泣かなきゃならないんだろう。でも、不思議と、そこに悪意的な感情は生まれなかった。ずっと、こうしていたかった――

 雨が止む気配は、これっぽっちも無かった。ずっと、地面を打ち付け続けて、あらゆるものに叩きつけるように降り続けた。だけど、しばらくすれば、絶対に晴れるだろう。天気予報士がなんと言おうと、どんなに不機嫌な表情を空が見せようと、いつか、きっと――
2005-11-27 20:45:29公開 / 作者:WAJU
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■作者からのメッセージ
 どうも、お久しぶりです。これだけ感覚が開けば最早覚えていない人も絶対いらっしゃるでしょう(苦笑)身辺があわただしかったことにより、PCに触れることすらもママ成らない状況が続いていました。とにかく、後編を書き終えることが出来て、まずは一安心といったところでしょうか。

 ただどーも絶対に安心できないのは、やっぱりあまりにも出来の速さを重視したあまり、展開の移行も、終わり方もかなり急ぎすぎたきらいがなくもないかな、ということかもしれません。もっと書きたかったことがあったはずなんですがね。結局、題名の「遠回り」の意味すらも組み込むことが出来ずじまいでしたし。非常に猛省の至りです。修行が全く足りてません。
 しかもこの流れから行くと「後日談」なんてパターンも作ってしまうかもしれませんね〜……その暇があるかどうかはわかりませんが(笑)とにかく、アユミに関してはもっと書きたかったことがあったはずなのに、活かしきれなかった不完全燃焼の感が否めません。

 アドバイスをくれた、京雅様、甘木様、ミノタウロス様、全く参考に出来てねーじゃねーか、と思ったのであれば、忌憚ない意見を下さい。そして、「後日談」を作る際はまた参考になる感想やアドバイスをお待ちしております。また、次の文章の際にも、お世話になると思われますので、その際はよろしくお願いいたします。それでは、また。
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