『キャッチボール』作者:神安 藤人 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約9.76枚
キャッチボール

 私は、行き詰まっていた。仕事、家庭、人生……。何に行き詰まっているのかもわからないほどに。そう、私はどこへも向かう事が出来ないほどに、行き詰まっていたのだ。
 私は、売れない物書きをしている。年に数えるほどしかない仕事をようやくこなし、雀の涙のような稿料を貰う。もちろん、それだけでは生活することは出来ないのだが、共働きの妻の収入と両親の残した遺産のおかげで、贅沢をしないかぎりは満足に暮らしていくことが出来た。
 私の父がどんな仕事をしていたのか、詳しい事を私は知らない。ただ、父は仕事においてそれなりに成功をしていた事。家にはほとんど帰っていなかった事。母との仲が上手くいっていなかった事などはおぼろに覚えている。
 そんな父が何を思ったのか、母を旅行に誘った事があった。当時の私は中学1年で、家族旅行というものは気恥ずかしくてしょうがなく、この旅行には着いて行かなかった。それに、家に一人だけになるというのもまた、当時の私にしてみたら楽しみなイベントだった。
 それが良かったのか、悪かったのか。旅行帰りの両親を乗せた車は、反対車線を超えてきたトラックと正面から衝突してしまい、家に帰ってくることは無かった。
 あの時、もしも私が一緒に旅行に行っていたら、両親の事故は無かったのか。たまにそう考える事もある。そして、両親の事故が無ければ、私が今こうして、しがない物書きをしていることも無かったのかもしれない。
 それらは全て、仮定の話でしかない。しかし、今のこの状況を思うと、そうでも考えなければやってられないのだ。もしもあの時、私が旅行に出かけていたら、と。
 いくら考えても答えの出ないこの問いかけに、私は疲れ果てていた。そして、いつものように、私は考えることをやめた。
 コーヒーを入れる為、書斎を後にする。居間には仕事をしている妻がいたが、彼女にコーヒーを入れることは頼めない。彼女には彼女の仕事があり、そしてその仕事の収入は、決して馬鹿にならない。私たちはお互いに独立した収入があり、それは家庭での二人の関係にも現われていた。
 私達の間には、もう数年ほど関係が無い。お互いが自宅での仕事を持っている為に、浮気をするような事は無いのだが、その仕事の為に、私達二人の間は冷め切っていた。
 私は自分一人分だけのコーヒーを入れ、妻に声をかける事無く、再び書斎へと戻った。
 いつから私達夫婦がこうなってしまったのか、私には思い出す事が出来ない。私達にも恋愛の時期があり、幸せな蜜月の時があったはずなのに。
 熱いはずのコーヒーが冷めてしまうまで、私はいろいろな事を考えた。妻の事、仕事の事、そして両親の事故の事。全てにおいて、正しい回答を導くことはできないということはわかっているのに、なぜ、私は考えることをやめることができないのだろうか。
 私は、ふっとため息を漏らし、それから冷えきったコーヒーをすすって、書斎を後にした。この部屋にいては、気が滅入るだけだ。少し、外を散歩するつもりだった。
 居間を通って玄関に出たが、妻は私に声ひとつかけてこない。もちろん、私の方からも彼女に声をかけることは無い。こういう時、普通の家庭では妻に一言かけるものなのだろうか。それとも、妻が私に声をかけてくるものなのだろうか。すでに、そんな事すらも私にはわからなくなってしまっていた。
 玄関のドアを開けると、外は雨だった。たいした雨ではないにしても、散歩をして気分が晴れるというような天気でもない。しかし、玄関のドアを開けた手前、家の中にはいることははばかられた。私は仕方なく後ろ手にドアを閉め、雨の中を歩き始めた。
 今、私が住んでいる家は、両親が遺産として残してくれたものだ。私はこの家で、今の年まで生活してきた。私の人生は、この家と共にあったとも言える。
 家の前には道路を挟んで山があり、その山肌は宅地整理で削り取られていた為に、コンクリートで固められていた。 この壁が、私の子供の頃の遊び相手だった。人付き合いの下手だった私には友達が少なく、私はよく、この壁を相手にキャッチボールをしていたのだった。
 それをキャッチボールと言っていいものかはわからない。投げるのが私ならば、受け取るのも私だったからだ。しかし、その遊びは当時の私にとってはキャッチボールそのものであり、逆に言えば、それ以外のキャッチボールを私は知らなかった。
 当時のことを思い出し、私はぼんやりと壁を眺めた。雨は霧雨になっていて、濡れる事は気にならない。私は、雨に身を任せて壁を見つめた。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか。私は、すでに下着まで濡れていた。いいかげんにしないと風邪を引いてしまうと思い、私は家の方を向いた。
 そして、ドアを開けようとした時、私の耳はある音を拾っていた。ポーン、ポーン、というその音には、どこかしら懐かしい響きがある。それは、壁にボールが当たる音ではなかったか。
 私は、壁のほうを振り返った。目の前には高くそそり立つ壁。降りしきる雨の中で、景色は不思議に色あせて見える。
 そして、そこに少年はいた。
 赤い野球帽をかぶり、雨を気にもしないで、つまらなそうに壁に向かってボールを投げている。それは、壁とのキャッチボールだった。
 少年はまだ幼いようだったが、それでもその顔にはどこかしら男の表情が見える。男の子と言うにはもう失礼に当たるのかもしれない。そんな年頃のようだった。
 きっと、近所の子供なのだろう。私はあまり気にしないで、家に入ろうとした。
 しかし、その時、ボールが私の方へ転がってきた。投げそこなったボールが、思いもよらぬ方向へと弾んだのだろう。私はボールを拾うと、少年に向かって投げ返した。
 少年は少し照れているのか、私の顔をまっすぐに見ようとはしなかったが、小さな声で「ありがとう」と礼を言った。
 それで、私は少し彼に興味を持った。なぜ、この雨の中、壁に向かってボールを投げているのか。
 「壁に向かってキャッチボールなんて、楽しいかい?」
 私はそう彼に声をかけた。そして、ボールをこっちに向かって投げるようにジェスチャーする。程無くして、彼は私に向かってゆるいボールを放った。
 「楽しいよ」
 ぶっきらぼうな返事も、ボールと共に返ってくる。そうか、と私は小さく呟き、再びボールを彼に投げた。
 「なぜ、こんな雨の中を外で遊んでいるんだ?」
 「家にいるよりはよっぽど楽しいから」
 「ご両親とは遊ばないのかい?」
 「今、家にはいないんだ」
 ボールといっしょに、私たちは会話をした。ボールを投げる度に、お互いの言葉も投げる。それは、最近の私の生活には無い、新鮮なものだった。いったい、いつからこのように人と話していないのだろうか。妻や友人、至る所に話し相手はいたはずなのに、なぜ私は人と話すことを拒んでいたのだろう。
 私のボールを投げる手が止まった。私はひょっとして、キャッチボールを拒んでいたのだろうか。自分の殻に引きこもり、ただ壁に向かってだけボールを投げていただけだったのか。
 その時、少年が呟いた。
 「壁に向かってキャッチボールなんて、楽しいかい?」
 驚いて私が顔をあげた時、少年はもうそこにはいなかった。夢でも見ていたのかとも思ったが、彼の投げたボールは私の手の中にある。
 壁に向かってキャッチボール。楽しいはずが無いのだ。なぜ、私は気が付かなかったのだろうか。両親と旅行に行けばどうなったかと一人考え、今の自分を否定し続けてきた。そんな生活が、楽しいはずは無いのだ。
 私はボールを握り締め、家へと戻った。居間では妻が、仕事を続けている。いつも通り、彼女が私に声をかける事は無い。そして、いつも通りなら私も声をかけることは無かった。
 しかし。
 「なあ」
 私は、彼女に声をかけた。驚いた様子で、彼女が私の方を見る。私は続けた。
 「君の仕事に区切りがついたら、どこか旅行にでも行かないか?」
 彼女は戸惑った様子で、どう答えたものか悩んでいるようだったが、やがて微笑んで言った。
 「温泉。
 温泉、行きたいな。私」
 私も微笑を返して頷くと、書斎へと戻った。私の右手には、まだ、少年の投げたボールが握られている。
 雨の中を、壁に向かってボールを投げていた少年。あの少年は、昔の私だったのかもしれない。人付き合いが下手で、いつも壁に向かってボールを投げていた私。
 もしかしたら、私とボールを投げ合った事で、彼の人生は変わるかもしれない。これからは、誰かに向かってボールを投げる事が出来るようになるのかもしれない。それは、決して難しい事ではないはずだ。今の私が変わる事が出来たように、あの少年も変わる事が出来たら……。
 私はなんとなくうれしくなって、右手のボールを宙に向かって放った。ゆっくりと天井すれすれまでボールは飛び、それから、同じ速度で落ちてくる。しかし、そのボールを私は受け取らなかった。もう、自分に向かってボールを投げる事は無い。一人だけのキャッチボールは、今日でお終いだ。
 床に落ちたボールが、転々と部屋の角まで転がって、止まる。次にこのボールを投げるときは、きっと相手がいるはずだ。さて、とりあえず今は、私の大事なキャッチボールの相手の為に、温泉宿の検索でもしておくことにしようか。
2005-06-08 20:58:35公開 / 作者:神安 藤人
■この作品の著作権は神安 藤人さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
現状に満足しているわけではないのに、そこから抜け出すことができない。
ひょっとしたら、ちょっとしたきっかけでそんな思いを断ち切れるのではないか。
そう思って、書いてみた作品です。
拙作ではありますが、皆様の御感想、お待ちしております。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、京雅と申します。爽鬱な思考で渡り歩く私にとって、行き詰まるとは至極大変な事であります。止まった瞬間鬱になる。考えが全て後ろを向く。そしていつも些細な事でそれを乗り越えて、どうしてこんな風になったのかは解りませんけれど今の京雅に至ります。……ん?何語っているんでしょうか。ま、まあ、とりあえずそんな私にとっては堪能できた作品でした。キャッチボールの件が巧いと思います。旅行について行ったら自分も死んでいたかも知れないって考えないのでしょうか、と疑問はありますがどうでもいい事です、受け流してやってください。意味不明な事ばかり綴って申し訳御座いません。次回作も期待しております。
2005-06-08 21:24:39【☆☆☆☆☆】京雅
羽堕ですm(._.*)m読ませて頂きました♪なんだか、ホッとする話でとても良かったです(*゜▽゜)*。_。)キャッチボールの使い方は私も上手だなぁーと思いました( ̄∇ ̄*)ゞ行き詰ったと時に過去の自分を振り返ると言うのは、あるかもなと思いつつ、私も昔の事を、ふと思い出させてくれました(⌒▽⌒)では次回作、楽しみしています(。・_・。)ノ
2005-06-08 23:24:57【☆☆☆☆☆】羽堕
作品拝読させていただきました。キャッチボールというのがいいですね。キャッチボールは一人じゃ出来ないんですよね。相手がいて初めて出来る。その行為を自分の過去と重ね、さらに前向きにキャッチボールの相手を求める主人公に「よかった」と感じました。では、次回作品を期待しています。
2005-06-09 00:48:23【☆☆☆☆☆】甘木
はじめまして、夕空と申します。「キャッチボール」拝見しました。
「私」の行き詰まった感のある描写と、少年とのキャッチボールを機にそこから立ち直っていく物語。とても素敵でした。こういう心がほんわかとあったかくなる作品は、とても私ごのみなので大好きです。これからも頑張ってください。応援しています。
2005-06-09 20:27:07【★★★★☆】夕空
冒頭で挨拶するのを失念しておりましたので、ここで。初めまして、神安です。以後、よろしくお願いいたします。
感想を下さった皆様、返答が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。皆様の感想、祖手も胸に染み入りました。やっぱり、感想をもらえるってうれしい! 次回策への情熱がふつふつと湧き上がってきました。当方、遅筆なので、次がいつ完成するのかはわからないのが難点ですが……。

>京雅さま
堪能していただけたようで、ほっとしております。「旅行に行ったら死んでたかも」とは、まさにその通り。これは主人公に非は無く、単純に作者の考えの浅さですね。きっと、変にポジティブな感性の持ち主だったんでしょう、と切り抜けたいなぁ。

>羽堕さま
行き詰ったときに過去とのことを思い出すのは、作者自身を投影しているからで、私自身が困ったときは昔のプチ成功を引き合いに出しては自分を励ますという性格が、そのまま作品に反映されているようです。共感していただけて、正直ほっとしております。

>甘木
「よかった」と感じていただけるものに仕上がっているのは、作者として光栄です。ありがとうございます。作者自身は、子供の頃に一人キャッチボールで遊んでいた口で、今になってみれば、やっぱり人とやったほうが面白かったのになぁ、と後悔するばかり。遊びにしろ、コミュニケーションにしろ、誰かを誘うことがやっぱり大切ですよね。

>夕空さま
こういった、心がホンワカする物語、実は書くのがとても苦手なんです。今回の「キャッチボール」に関しては、多少なりとも実験的な部分もあって、それが評価されたことはとても自信につながりました。これからも、こういった作品も手がけて行きたいと思っております。がんばります!

感想を付けてくださった皆様に、本当に、感謝です。
2005-06-10 01:51:06【☆☆☆☆☆】神安 藤人
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。