『en』作者:紅月薄紅 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約12.4枚


 ...en


 
「何を、しているんだい?」
 ある春の日の真夜中に近い夜。雨の降る誰もいない公園で、男はその少女に出会った。
「座っているのよ」
 ベンチに座る少女は、いきなりしゃべりかけてきた見知らぬ男を見つめ、“見てわからないのか”と言うような口調で答える。
「いや、それはそうなんだが……。濡れてしまっているじゃないか」
 男は戸惑いながら言う。けれど少女は、困っている様子も、雨をよけることを諦めた様子もなく、
「濡れる為にいるんだもの」
 と当たり前のように言った。
「そ……そうなのか」
 見るところ、17歳ぐらいだろう。前髪はまっすぐに切りそろえられ、長い髪を背中へと流している。
服装は、薄手の黒いキャミソールに同じく黒い、ひらひらとしたミニスカート。それだけだ。
もう春だとは言っても、雨が降っていて今日は寒い。街行く人達は皆、上着を羽織っている。
それなのにこの少女は上着もなければ靴もはいていない。裸足だった。
 男は差していた傘を閉じ、少女の隣に座る。
 濡れるわよ。そう言われたが、「いや、いいんだ」と返した。
「君、名前は?」
 気になって訊ねてみた。もしかしたら、両親とけんかでもして家を飛び出してきたのかもしれない。
「名前? そんなものないわ」
「ない?」
「えぇ」
 しっかりと縦に首を振り、少女はまっすぐに男を見つめる。
 そうして、何かを思いついたかのように口を開く。
「そうね……“en”とでも呼んでちょうだい」
「en?」
「そう」
「en……か」
 男は呟き、
「どういう意味なんだい?」
 と訊いてみた。
 少女―――enは少し目を細め微笑むような顔をして答える。
「それはまだ教えてあげない。私とあなたがお別れする時、教えてあげる」
 男は、始めてその少女の表情が変わるのを見た気がした。
「そうか、まだ秘密か」
 はは、と小さく笑って俯く。自分でも気づかずに、ため息が漏れた。
「あなた、何か悩んでいるのでしょう?」
 enが男を見ず、まっすぐに前を向いたまま言う。
「!? ……どうして、そう思うんだい?」
 慌てて問い返すと、こちらを向いたenと目が合った。
「だって、ため息ついてたじゃない」
 嫌でもわかるわ。
 男はその言葉を聞いて、再び俯いた。
「そうか、わかってしまうか……」
 膝の上で組んでいた指に、力が入った。
 全身雨に濡れた身体は、雨が降っていることさえも忘れさせる。
「僕の話しを、聞いてくれるかい?」
 返事も聞かず、男は話し出した。


「僕はね、愛しい人と別れたんだ」
 あれは一週間ぐらい前だったろうか。
 仕事が終わったあと、いつも通り二人で歩き、いつも通り同じ店に入り、いつも通りに食事をした。
 いつもと違っていたのはその後。
 デザートを食べ終わり、ゆっくりと食後のコーヒーを飲んでいたときだった。
「別れましょう」
 突然そう告げられた。けれど、何を言われたのか、自分が今どんな状況なのか直ぐには理解できない。
「え?」
 そう呟くと、彼女はコーヒーカップをテーブルに置き、もう一度その言葉を口にした。
「別れましょう。もう、さようならよ。私と貴方は、もう終わりなの」
「何を……言っているんだい?」
「ごめんなさい」
 お金は払っておくわ。
 そう言い残して、彼女は席を立ちあがり背を向けた。
 僕はただ呆然とするばかりで。
 追いかけることも、止める言葉も言うことができなかった。
 それから彼女とは逢っていない。
 一度だけ、街で彼女を見かけたことがあった。その時は、もう他の男と歩いていたよ。
 悲しかった。彼女は僕の中でどれだけ大きい存在だったか。今更気づいたよ。
 もっと大切にしていれば、もっとこの愛を伝えていれば、今頃僕はいつも通り彼女といたはずなのに。
 もう、それもないんだ。


「それで?」
 話を止め、深く俯いた男に、enは先を促した。
 男は俯いたまま、続きを話し出す。


「死んで、しまいたいと思ったんだよ」
 ふと気づけば、自分の中で死を考えてしまっていた。
 彼女がいない現実など、もう生きることは出来ない。
 こんなに辛い思いをするぐらいなら、死んでしまった方がましじゃないか。
 家へと向かう足は、橋の方へと進んだ。
 ここから飛び降りてしまって、すべてを水に沈めてしまおう。
 そう、思ったんだ。思ったんだよ。
 けれど、恐かった。急に恐くなった。
 橋へと手をかけ、「さぁ、落ちてしまおう」と思っても。
 手が震えて、足も震えて、目の前の川が地獄のように見えた。
 このままここに落ちて、地獄に行ってしまったらどうする?
 僕は天国へなんか行けないかもしれない。ちゃんとした良いことなんて、一つもした覚えがない。
いつもいつも、逃げてばっかりなんだ。
 彼女といる時だって、どんな時だって、僕は逃げていた。
 さもすばらしいことを言っているかのように、みんなのことを考えているかのように話をして、
結局は自分のことしか考えていなかった。汚い人間だよ。
 今思えば、彼女は僕のそんなところが嫌だったのかもしれない。
 自業自得だよ。さよならを告げられてしまうのは。
 僕が悪いんだ。僕が―――。
 だから死んでしまいたいんだ。けれど死が恐い。
 どうしていいかわからなくなって、少し公園でゆっくり考えようとここへ来た。
 そうしたら、君に出会ったんだ。


「これが僕のお話だよ。なんて情けなく滑稽なお話だろう。これじゃぁ、きっと一冊も売れないだろうな」
 自分を嘲るかのように男は笑い、enの方を見た。
 悲痛なその顔を、enは無表情に見つめる。
 組んでいた指には力が入り、両手の甲には血がにじんでいた。
「en。僕をどうにかしてくれ。このままじゃ辛いんだ。答えをくれ」
「私が?」
「あぁ、そうだ」
「……」
 enは男を見つめたまま黙り込む。
 男は焦り、enにしがみつきながら叫んだ。
「死にたいんだ! でも死ねないんだよ! どうやったらこの苦しみは解ける!?
どうにかしてくれよ!! もう気が狂いそうだ……!」
「なら、私が殺してあげる」
「……君が?」
「そう、私が。どんな死に方がお望み? その通りに殺してあげるから」
「僕は……」
「私は悲しいけれどね。あなたが死んでしまったら。泣きはしないかもしれないけれど、
今日この時を一緒に過ごした人だから。だから死んでしまったら悲しいわ」
「……」
 男はenの腕を掴んだまま、その言葉を聞いて目を目を見開いた。
 enは続ける。
「でも、あなたがどうしても死にたいというのなら、殺してあげる。
生物の命は、作り出すことは難しくても消すことは簡単だから」
 そんなものでしょう? この世のものって、なんでも。
 enはまた、目を少し細め微笑むような顔をする。
「生きていれば辛くても何か手に入るかもしれない。死んでしまえば辛さはなくなるけれど何も手に入らない」
 男の腕は、細かく振るえだした。
「どうする? 何がお望み?」
 私は生きていたほうが良いと思うけれど。
 問いかけるその声はただただ冷たい。
 身体を濡らす雨よりも。橋の下を流れていた川よりも。
「僕は……」
 声は雨の音に消された。
「何? 聞こえないわ」
「僕は……」
「あなたは?」
「en。僕に生きる目的を下さい。でなければ僕が死ぬのを止めないで」
「生きる、目的?」
 問い返したenに、男は頷き返す。
 細い腕を掴んでいた手はだらりと落ち、下を向いた男の顔は、雨だけでなく涙に濡れた。
 必死に泣き声をあげてしまわないように、歯で噛んだ唇は白くなっている。
「そうね、じゃぁあげるわ。あなたの生きる目的を」
「……!」
 ばっと顔を上げ、enを見る。
 彼女は、微笑んでいた。今度は目を細めるだけじゃなく。本当に。
「あなたは、私のことを覚えていて。名前もない私のことを、いつまでも。
そうすることで、私は存在することが出来る。あなたの中に、この世界に……」
「……」
「こんな目的じゃぁダメかしら。あなたが生きることはできない?」
「……」
 返事は、ない。
 男はenの顔を見つめつづける。
「ダメだというのなら、私は止めない。あなたが死ぬのを。手伝ってあげるわ」
「……いや、十分だよ」
 やっとだした声は、ひどく枯れていた。
 enはもう一度微笑む。それにつられて、今度は男の顔も柔らかく歪んだ。
「十分だ。僕の生きる目的には。十分過ぎるぐらいだよ」
 涙が溢れ出し、enの顔がぼやけて見えた。
 こんなに幸せな涙を流したのは久しぶりだった。心地よい、温かいものが胸に広がる。
「ありがとう、en。僕に生きる目的をくれて。僕が死ぬことを悲しいといってくれて。ありがとう―――」
 背広の袖で涙を拭き取り、男は立ちあがった。
「ありがとう」
 もう一度、感謝の気持ちをこめて言う。
「いいえ、どういたしまして」 
 enは座ったまま、男の気持ちにこたえた。
 いつのまにか夜は明けようとしていた。どれくらい話していたのだろう。雨もいつのまにか止んでいる。
enと話している時、時の感覚が無くなっていたようだ。
「そろそろ行くよ。また明日も仕事があるからね」
「えぇ」
 enの顔は出会った始めの時のように、無表情に戻っている。
「帰る前に、頼みがあるのだけれど……。この傘を持っていてくれないか。僕が君と出会った証に。僕がここに存在していた証に」
 君の中に、僕が存在し続けられるように。
 差し出されたのは、飾り気も無い男物の真っ黒な傘。
「えぇ、頂くわ」
 enは傘の受け取り、ばさっと音を立てて開いた。
 白み始めてきた空に、黒い傘と黒い服の少女がそこだけ浮いて見えた。
 その不思議な景色を見つめ、男は思い出したように言う。
「そうだen。君の名前の意味を教えてくれよ」
 もう、お別れの時間だろう?
 enは少し目を見張り、「そうだったわね」と頷いた。
「私の“en”は“empty”のen。そして“end”のen。私は、儚い願いに終わりを告げるもの。だから、en」
 男を見つめる17ほどの少女は、真面目にそう語っていた。
「……そうか。僕も君によって願いに終わりを告げられたんだね。“死にたい”という願いに―――」
「そう」
「そうか……」
 二人の間に沈黙が流れた。それはさよならを告げる前の、悲しく、けれど心地よい、忘れることの出来ない時間。
「さようならだね」
「えぇ、さようならよ」
「本当に感謝しているよ、en」
「えぇ」
 enの返事は短い。けれど男にはわかっていた。これが、enなのだ。
「さようなら、en」
「さようなら」
 男は背を向けて歩き出した。しっかりとした足取りで、一歩づつ。
 その背を、enは見つめた。黒い傘を差したままくるくると回して。
 
 
 公園の出口についた時、男は一度後ろに降り返った。
 先ほどまで自分とenが座っていたベンチ。
 数分前の、別れの時。enが座っていたベンチ。 
 そこには、誰もいなかった。
 黒い服を纏った少女の姿は、なかった。


「さようなら、en」
 僕の中でいつまででも存在しつづける人。
 僕の存在がここにあったことを証明してくれる人。
 儚い願いに終わりをくれた、人。
「また会おう、en」
 僕はそう言って歩き出した。もう、振り返ることはしなかった。

 
 
「さようなら、私ために生きてくれる人」
 少女の声が、遠い空に消えた。


                 ...end

2005-05-28 13:47:56公開 / 作者:紅月薄紅
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■作者からのメッセージ
こんにちわ。以前ちょこちょこと作品を投稿させて頂いていました、紅月薄紅です。初めましての方が多い(というかほとんど/苦笑)だとおもいますので、どうぞ宜しくお願いします。
今回は、個人的にお題をお借りして書いている、「en」という小説の一つのお話を投稿させて頂きました。連載、というわけではないので、この1話だけで読めるようになってます。
まだまだ未熟者ですが、この掲示板でみなさんの作品を読み、学び、自分の力にして、少しでも成長した作品を投稿できるよう頑張りますので、どうぞよろしくおねがいします。でわでわ。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、京雅と申します。綺麗な流れだとは思うわけですが、この話だけじゃあ読み取るのが難しいですね。これは幾つかenに纏わる物語を読んでいって初めて「意味」を理解出来ると推測します。失礼を承知で語れば、これだけだと唐突感の強いSSになっちゃいますよ。あ、連載していくならいいわけですけどね。個人的な事で「僕はね、愛しい人と別れたんだ」の一文は改行の前に入れたほうがいいですよ。「en。僕に生きる目的を下さい。でなければ僕が死ぬのを止めないで」に至る男の心情を掴み切る事が出来なかった、私の読解力の無さが問題なわけですが、もう少しその辺突き詰めてもいい様な気がします。長長と語りました、申し訳御座いません。次回作期待しております。
2005-05-28 16:58:30【☆☆☆☆☆】京雅
初めまして甘木と申します。作品拝読させていただきました。物語は綺麗に纏まっていて良かったです。でも死を望んだ男の心情が弱く、死への憧憬と死への恐怖がなんだかありきたりのもののように感じられました。それとenと出会った時の男の感情をもう少し描いて欲しかったです。なんだか辛口の感想になってしまい済みませんでした。では、次回更新を期待しています。
2005-05-28 21:36:45【☆☆☆☆☆】甘木
計:0点
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