『ひねくれている〜hinekure-tail〜 【前後編】』作者:影舞踊 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角17400.5文字
容量34801 bytes
原稿用紙約43.5枚



――忌み嫌われることを望む者がいた
――忌み嫌われることに泣く者がいた
――知る者と痴る者
――どちらが幸せかなど……

――言うまでもない







 荒涼とした荒野が広がる中に唯一つ大きな間違いがある。物理的に不可能で、何らかの『人工的』な機械を使えば可能なのかもしれないそれは、宙に浮いた庭園。
 周りに聳え立つ山々には鳥の囀りも聞こえなければ、当たり前のように緑の生い茂る木々もない。何もない場所に、あってはいけないものだけがそこにはあった。
 宙に浮いた庭園の名は憂死魔(うきしま)。物理的に不可能なそれを支えているのは『人工的』な何かではなく――そもそもこの世界にそのような言葉はないし、人間という存在もない――つまりは、それを支えている基盤は超常的な何かなのである。
 この世界の名称は特に覚える必要はない。ただここではそのような超常的なことが普通であり、人間の思考で考えることのできるおおよその事態は起こりうって罷り通る。
 【妖獄界】と呼ばれるこの世界では、血で血を洗う者もいれば人間のように過ごす者もいる。だがしかし、大抵の者は己のことだけを考えそのために動く。利己心こそが力であって、力のない者はこの世界では排除されるのだ。
 どんなに賢かろうと、どんなに流麗であろうと、力のあるものに気に入られなければここでは生きていけない。そんなものばかりだというわけでもないが、妖獄界はそんな世界だと判断すれば、それほど生き辛いこともない。

――ふらりふわりゆらり、すとん……

 そんな世界の一端の、一度入れば戻って来れぬと言われる要塞憂死魔に、今一人の人あらざる者が降り立った。

 物語はここから始まる。







――生まれたときから一人だった?

 気が付けば握ったナイフで手を赤く染めていて、周りに広がる無数の死骸をなんとも思わずに見つめられる自分がいた。もがいてもがいて、辿り着くところを見失った自分に、何かを思うということはしなくなった。
 それが当然だと、誰もが言った。
『化け物、近寄るな』
 そう言われる事にももう慣れている。生きる上で特に支障のない言葉だったから。
 一人の少女が通路を歩く。
 周りにいるものはそれぞれ獣の面を被ったような顔をしているが、少女が近寄るとすぐさま道を譲った。
 少女の名は雌萌(しほう)。妖獄界の冥家(めいけ)、乱刃族(らんじんぞく)の生き残り。すっと線の細い顔立ちに、瞳孔には猫のような細い縦線が入っているのが何よりの証である。ぴんと立った頭に付いている耳も、自己の存在を主張するからこそそのままにしてあった。
 私は悪魔ですと。
 そんな意味合いはいつしか誰にでもなく込められたものであるが、慣れれば心地よいものでもある。
 道を譲られた少女はお礼を言うでもなく、すたすたと歩き続ける。
 冥家だから偉い。偉いから強い。
 人間界では権力という笠をかぶり、思うままに力を操るものがいる。たとえその者自身に能力がなくとも、どんなに馬鹿であろうとも権力を持った瞬間に絶対となり、生まれた瞬間にそれが決定してしまう者もいる。
 だがここは妖獄界、そんな理論は存在しない。
 家柄は生きる上で大事ではある。大事ではあるがそれ以上に必要とされるのは物理的な力。何者をも拒んで、排除する力がこの世界では生きるために必要なのだ。それが冥家ともなれば必然的に強大である必要がある。
 嫉む者、その存在自体が気に食わぬ者、力を試したい者など。理由などなくとも襲ってくる。
『冥家だから』、その一言が全てを収める。
 血が憎いと思ったことはない。両親から受け継いだ、姉弟達とも繋がったものだから、憎みたくはない。
 雌萌は腕を掻き毟る。白い肌に爪跡が残り、うっすらと赤い血が滲んだ。大好きだった父にも、甘えさせてくれた母にも、頼りっぱなしだった姉にも、何かと聞いてきた弟にも、もう会えない状況に彼女はいる。随分前にみんな死んでしまった。
 ぎゅっと噛み締めた唇から笑いが零れた。
――何やってるんだろ
 今はもう忘れたはずだ。自分を助けてくれた、自分のことを必要としてくれるマリスを見つけた。過去に縛られていては何もできないのだと、あのマリスはそう言った。
『生かされている意味を知れ』
 生かされている。死ぬことは許されない。どうしようもなく重いものが体に乗っかっている気分だった。
 帰ろう、早く。そう思って踵を返す。空中庭園とは名ばかりの、枯れた植物が生い茂る摩訶不思議な場所を雌萌は歩み続ける。止まりそうだった足と思考に踏ん切りをつけて、さくさくと足を上げる。視界も自然と前を向いた。
 ボロボロの小屋が集積した広場の片隅、ふと見慣れない少年の姿を捉える。ぴんと立った耳が揺れた。
 肩まである黒髪と、額にあるおかしな十字架の刺青が印象的で、ほとんど裸に近い格好をした少年は身軽そうに歩いている。漆黒の双眸はこちらを一瞥した後、興味も示さぬように広場の角を曲がった。少年の姿が消える。あっという間の瞬間だったが、間違うはずはない。
 目を疑った。その先にあるのは、雌萌がこれから向かおうとしている空中庭園憂死魔の支配者、堕鶯の住む城である。許可証がなければ一瞬にして殺されてしまう道を、少年は行こうとしていた。否、もうその道に入っているのであるから何かしらの役目を負ったものか、自殺志願者か。正気などないこの世界でも、恐怖はあるだろうに。
 明らかにここに住むものではないだろう。ここに住むものであるならば、誰もがそのような無謀な行為をするはずがないのだ。
 手に持っている袋に入った食べ物を気にしながらも、雌萌は地面を蹴る。追いかけていた。早く、急げ、と頭の中で鳴る警報音に反応した体から嫌な汗が流れる。
――死ぬ……
 そこまで必死になっている理由がわからなかったが、少年を見殺しにすることはできなかった。
「まちなさいっ!」
 何とか追いつき雌萌がそう叫んだ時には、少年は驚くべきスピードで歩いていたようで、もうほとんど城の前まで来ていた。とにかく間に合ったことに安堵して再び少年の顔を見た時、自分が必死だった理由が少し解ける。
 弟の顔に少し似ていた。雰囲気もどことなく通ずるものがある。思わず声を上げてしまいそうになりながらも、城の前であると思い出し口を噤む。まじまじと少年の顔を見詰め、妙に一人納得している雌萌に、歩みを止められた少年が睨んで言った。
「何だ貴様? 死にたいのか?」
 この上なく大層な物言いになんと言い返してやろうかと考えたが、
「死にたいの? ここは憂死魔の支配者、堕鶯(だおう)様の城よ。許可証がなければ入れない」
「黙れ。これから死ぬものに見せる許可証など持ち合わせておらんわ」
 何を言っている? まさか堕鶯を知らないわけではあるまい。
「死ぬって、もしかして堕鶯様が? どうして?」
 たまらず訊ねたことがよほど可笑しかったのだろうか、少年は馬鹿にしたような甲高い声で哄笑した。
「俺が殺すからに決まっておろう。さぁ、さっさとそこをどけ。貴様も殺すぞ」
 無理やり城内に立ち入ろうとする少年の前で両手を大きく広げ言い返す。
「なっ、何を考えているの! 無理に決まってるでしょ! 大体なぜ堕鶯様と闘おうとする!?」
「力を確かめるためだ。それ以外に理由などない」
 淡々とした口調とは裏腹に、少年の目は鋭い光を放つ。黒い光が雌萌の思考を濁らせる。
 自分がなぜここまで必死になっているのか、本当にわからない。少年の目が真剣そのものであることと、溢れる自信がこちらにも分かってくることと、もしかしたら本当に、という思いがそれぞれ重なって――
――自分は堕鶯を……どうしたい?
 何度も自問して答えは出ている問いに、
「そんなことが出来るわけ無いでしょ! それに今はここにはいないわ。堕鶯様は留守よ」
 言い放つ。
 ここにはいない、そう言えば帰るか。それとも――
「なに、ではどこへ行った? 厄泄(やくも)か?」
 何を期待していたのか。
 そうだともそうでないとも分からない濁した返事をして、踵を返す。とりあえずここにはいないわ、とだけ言い残して城内へと繋がる門に手をかけた。くすりと笑いが零れる。
 何を期待していたのだろう。自分は何を望んでいたのだろう。
「っち、まぁいい。おい貴様、堕鶯にあったなら伝えて置け。華死乃の煉錠が来た、とな」
 人一人が入れるほどの小さな黒い門を閉じ、外界と隔てられた城内から少年を見やる。華死乃の煉錠、にこりと感情の篭もらぬ微笑を返して名を留めておく。舌打ちを返して廃町(はいまち)の方へと戻っていくその後姿の小ささに、やはり追い返してよかったと安堵する。
 いつまでもいつまでも、こんなことを思っていては生きてゆけない。生かされているのだから、死ねないのだから。でももう少し、彼の――煉錠の後姿を見ているのは罪ではないわよね。
 この、『裏』にある気持ちはもう――捨てるから。





「遅かったな。何か蟲でもいたか?」
 低く大広間に響き渡る声は何かを試しているような、そんな声色。
「いえ、何もいませんでした。問題はありません」
 大きく醜い口からは臭気が吐き出され、それに触れた草が片っ端から枯れてゆく。皮膚がないその顔の上で、剥き出しの目玉と磨り減った鼻が筋肉に作用されて微妙に動く。尖った耳は何かを串刺しに出来そうなほど鋭いが、それをするのはもっぱらその両手。鉤爪から覗く固まった絵の具のような血も武器となる。
「ところで雌萌よ。近いうちに蟲を狩ってきてもらおうと思うのだが」
 大きな大広間に敷きつめられた茶色のカーペットには血の跡が芸術的にこびりついている。石と鉄の中間のような材質の鉱物で建造されているこの城には温かみなどまるでない。そこで響く堕鶯の声にも、同じことは言えるが。
「ええ、なんなりと。獲物の名は?」
 いつものことだ。答える雌萌の声に期待や予想などない。あるとすれば諦めか。
「華死乃の煉錠というやつだ」
――あぁ、さっきの
 そうとしか思わなくなった自分の性が悲しかった。
 本当はそんな風に思ってもいないのに、本当は否定したいはずなのに、堕鶯にそう言われると反射的に心が冷たくなるようになった自分が嫌だ。慣れてしまったと、一言で済ませるには随分と気に障る感情で、なかなか胃の腑に落ちてはくれない。
「わかりました」
 簡潔にそれだけ言って立ち上がる。先ほど手に入れてきた食料が妙な四角い台に乗っかって運ばれてきた。食事の時は静かに一人で、というのが堕鶯のモットーである。ここにいてもしょうがない。
 大広間の出口へと体を向ける。
「雌萌、あいつのところに行くのか? 仲がよいな」
「ええ、どうも」
――フザケルナ
 出来るだけ感情を込めずに、ただ前だけを見てそう言う。どうかすれば飛び掛りそうな衝動が体を支配した。顔を背けていてよかったと心から思う。
 この話の時ばかりは、堕鶯の顔を見て受け答えが出来るほど冷静でいられない。
 あわや口から飛び出しそうになる罵声と、掴みかかろうとする我が手を握り締め、爪が食い込んだ瞬間に堕鶯の笑い声が聞こえる。「珍しいものだ」そう言って嗤う堕鶯から逃げるように、「失礼します」と笑顔で言うと、雌萌は大広間を後にした。







 食事時、少年は荒れた酒場で一人カウンター席を独占する。
「おい貴様、華死乃の煉錠という名を知っているか?」
 カウンターでこそこそとせわしなく動くアヒル男に話しかける。働いているわけではない、ただ動いているだけだろう。なぜならここには客がいない。少年が話しかけたのは暇そうだと、そんな相手のことを気遣っての言葉ではなかった。
 ただ確かめたかったからである。己の存在がどれほどのものか、ここにきてから少年にはそれがわからなくなっていた。
「さー、しーりませんね」
 惚けているのか。そう取れるほどふざけた調子で答えるアヒル男に一瞥もくれず、そうかと少年――煉錠は言う。
 己の住む華死乃という土地では歩けば者どもがひれ伏すほどの影響力を持っている。こうまで変わるものかと世界の広さを知った気がした。
「堕鶯は」
 煉錠がその言葉を放った途端、ガタンとアヒル男が腰を抜かした。カウンターの上に置かれていた蟲の固まりが零れる。
「堕鶯は今どこにいるか分かるか?」
 そんな店主の様子も気に留めず煉錠は続ける。ここ憂死魔で堕鶯という名を口にすることがどれほど恐ろしいか、煉錠は知らないし知ろうとも思わない。ここに住むものならばたとえ『様』とつけたとしてもその名を口にすることを嫌がる、それほどの影響力を持ったマリスなのである。腰を抜かした店主はまだ肝が座っているほうであった。
「さ、さー。しーろにいるんじゃないですかね」
「なに?」
 びくびくと怯えた様子のアヒル男は鳩でもないのに首を前後に動かしながら、カウンター向こうを移動し続ける。
「それは本当か? やつの配下らしい糞猫はおらんと言っていたが」
 そう言えば名を聞かなかったなと思うがこの際どうでもいい。知ったところでわざわざ呼ぶつもりはない。糞猫で十分だろう。
「あー、あの乱刃族の生き残り。やーつは曲者ですから、騙されたんじゃないですか?」
 やはりそこそこは肝が座っているのだろう。先ほどまでびくびくしていたのに、もうその震えは止まっていた。
 乱刃族か。なるほど、それなりに有名な冥家だったか。
 ふんと鼻を鳴らし、騙されたという言葉に幾分気分を害された気持ちで眉を顰める。皿に乗った蟲の固まりを口の中にほうり込んだ。
「乱刃族は全滅したと聞くが生き残りか、よほど強いのか?」
「えー、そーれはもう。やーつを見れば私なんぞは竦み上がりますよ、あーのお方の配下でもありますしね。おーそろしいったらありゃしません」
 こいつは馬鹿なのではないか。よく知る間抜け面をした蜥蜴の顔がオーバーラップする。
「いーつもおかしな匂いがついてますしね」
 もともと乱刃族は戦闘集団。強いのは当たり前である。とするとそれを配下にしている堕鶯というのはやはりかなりの力を持っていると見て間違いはないだろう。あの糞猫を殺ってみるのも準備運動としては面白いかもしれん。
 ふとそんなことを考えた時だった。刹那に背後でボロボロの酒場の扉が破られる音が響く。誰もいない店内であるから騒がしくなることもないが、再び腰を抜かしたアヒル男を見て何とはなしに後ろを振り向い
 後頭部を何かで打ち付けられて、軋んでいた床に頭からめり込む。気持ちがいいほど瓶が割れる音が耳に響いた。
「こらラッキーだぞ。カスが奢ってくれるってよ」
 奢る奢らないなど関係ない。ぞろぞろと入ってくる集団は皆一様に鉄仮面をつけていて表情は窺えないが、どうせ不細工な面構えなのだろう。
――面白いやつらだ。自殺志願者か?
 体に纏わりつく埃を払って立ち上がる。ボロボロだった床が抜け、足が埋まった。
「おーおー、立ち上がったよ僕ちゃん。まぁいいや、さっさと出てきな」
 誰が言ったかわからない言葉に鉄仮面連中が笑い出して、びびった店主は今度は働こうとせわしなく動き始める。やはりそこそこ肝は座っているのだろう。腰が抜けてからの立ち直りが早いことに感心する。
「さて……一番はどいつだ? 死にたいやつは前に出ろ」
 埋まった足を引きずり出しながら、今度は慎重に床の上に立つ。どうやらここは大丈夫なようだ。
「は〜あ? おい聞いたか、こいつ俺らを殺すんだってよ」
 いっせいに沸き起こる笑いに混じって煉錠も嗤う。呑気な奴らだと思うが、自分もそう思われているとは微塵も思わない。
(こーの方たちは、あのお方の配下ですよ。みーせでの暴れは困ります)
 店主であるアヒル男がそっと耳打ちする。いつもなら知るかと言ってのけるところだが、このアヒル男には妙に愛着が沸くので、しょうがない外に出るかと思い直す。
「おいおい、マジかよ。やる気やる気? 餓鬼はこれだから面白ぇなぁ――おいっ!」
 出て行こうとしていた煉錠の体が宙に浮き、鳩尾から突き抜けた衝撃で樽棚へと吹き飛ばされる。派手な音を立ててバラバラになった樽からは申し訳程度の酒が零れた。
――空か、よかったなアヒル
 よく店が壊れなかったものだと全く関係ないことに安堵して立ち上がる。酒で少し服が濡れて気持ち悪い。あーあーとやる気のない声を出し、再び店の出口へと歩を進めた。面倒なやつらだ、やはりこの場で殺すか?
「なんだぁ、口だけか僕は? ほら、抵抗してみろって!」
 今度は横から殴り倒される。きちんと殺意と怒気が混じった心地よい一発。横殴りに倒されて、地面へと頭からぶつかる。床が軋んだが壊れなかったので、なんだ意外と頑丈だなと思い、再び立ち上がる。
 つと、赤い液体が目に入った。
「おい、外だ。外でやっ」
 そこまで口にした瞬間、全方向から飛んできたナイフに視界が塗りつぶされ思わず体を動かす。避けるつもりはなかったが、動いてしまったのは体の本能だから仕方がない。避け切れなかったナイフの傷口から血が滴る。
――おーおー、出てるな
 即効で固まるその血液は傷口に刺さったナイフを溶かし、ぽとぽとと地面に落とす。体中に出来た瘡蓋は痛々しいが、そもそも痛みというものがなんなのか分からないからどうでもいい。
「はは、こいつ面白ぇ?――」
 鉄がへし曲がるとか、凹むとか、割れるとか、そんな中途半端な音ではない。粉々に砕ける心地よい音が音楽のように響き渡った。さながら下手糞なオーケストラばりの演奏が、ぼろぼろの酒場から聞こえ始める。たった数秒、その数秒の最後にはえもいわれぬコーラスも混じり、それをど真ん中特等席で見つめていたアヒル男は声を失い、涙すら流す。助けてくださいとの意味を込めて。
 動き回ったせいで剥がれ落ちた瘡蓋の痕にはもう既に傷跡はなく、握り拳についた自分の物でない血のほうがぽたぽたと床を汚す。鉄仮面ごと顔も粉砕された死体が二十前後、まるで戦争の後のようにそこに倒れていた。
 立ち尽くす煉錠の顔には笑みと驚きの表情。
「よく考えれば俺が貴様の言うことを聞く必要はないな。こんな弱いやつらにへこへこしている貴様が悪いのだ」
 よくわからない理由を呟く。そうだ、貴様が悪い。そう言って店を出てゆく煉錠を店主はただ呆然と見つめるだけであった。
 後始末よりも、自分が今助かったことに恍惚感を抱いているのに気づくのはそれから少し後である。







 食事時の大広間。運ばれてきた血肉の塊に手をつけず、珍しく堕鶯は話し込んでいた。
「珍しいな、こうして食事に手をつけずにいるのは」
「馬鹿を言うな。俺はそんな野獣ではない。第一、一人で食事をするのが好きなのでな」
「おっとそれは済まない」
 テーブルの上に置かれたグラスを手に取り、傾ける。堕鶯を前にして悠然とたたずむこの男は厄泄の支配者であるが、この際名前は必要ないだろう。奇妙なマスクをつけて、そこからにょろりと飛び出した舌が特徴的である。
「貴様も丸くなったものだな」
 随分と細面な男は体も縦に長く、その場に渦を巻くように座っている。大きさは堕鶯と変わらないぐらいか、ゆうに三メートルはあるだろう。
「なぜそう思う?」
 落ち着いた調子で尋ねるその言葉に見下した様子はない。しかし対等な立場のものと話さなくなって久しい堕鶯のその言葉は、どこかぎこちないものがある。
「ところで、乱刃族の娘は役に立っているようだな」
 それた話を特に訝しがる様子もなく、堕鶯は黙って頷く。遠まわしに言うのが好きな男なのだ、とわかっているのだろう。
「随分と噂を聞く。よくも手懐けられたものだ」
「ふん。なぁに、誰しも己が身の可愛さよ」
「約束だろう?」
 グラスに入った酒を口に含む。ぽこりと飲み下す音が静かな大広間で響いた。
「何か一つでも下のものの言う事を聞いてやるとは、随分『優しく』なったじゃないか」
 幾分馬鹿にしたような、そんな振る舞いが出来るのもこの二人が随分と親密であり力関係も同等であるからだろう。ちょろりと、素顔を隠したマスクから出た長い舌を堕鶯の前でちらつかせる。堕鶯のこめかみにうっすらと線が引く。
「丸くなったのは貴様のようだな」
 静かな水面を表すような、それでいてよく見ればふつふつと泡が浮き出している熱湯。力を押さえ込むのに必死になっているわけではなく、常にこの状態であるから、やはり上からの言葉のほうがやりやすい。
「……どういうことだ?」
 意味がわからず困惑する。さしずめ蛇男とでも形容しようか、長い肢体に巻きつかせた金銅色のマントがはらりと床を擦る。
「約束とは破るためのものだろう?」
 いやらしい流し目に宿るは一寸の隙もない悪意。暫しの沈黙の後、ともに零れた冷笑は誰に向けられたものか。
 人外の生物の気持ちなど知る由もない。







 空間自体が澱んでいる。
 何か体に悪い不純物がありったけ沈殿したかのようなこの空気に慣れることはないだろう。閉ざされた真の闇に閉じ込められ、こんな空気だけを吸って生きれば先は見えている。それでも自分がこの人にしてあげられることは何もない。
 ここから出してあげれば……。
 何度そう思ったか分からない。分からないが、行動に移すことが出来たのはただの一度もなく、やはり自分にしてあげられることは何もないのだと、ここに来る度絶望感が頭をもたげる。
 かと言ってここに来ることをやめることが出来るかと言われればそれは不可能で、矛盾した感情だけに自分で自分を見失うこともしばしば。何のためなのだろうと考えてみても、それは自己満足なのかもしれないと、やはりわけの分からないことを思う。混乱していれば全てが勝手に流れてくれると、そう信じているのかもしれない。
「ごめんなさい」
 なぜ謝るのだ。そんな風な顔は嫌いだ、と彼は言う。鎖のついた腕をもたげ、腐敗した肉体を隠そうともせず、暗黒の中で彼は怒る。
 怒ってくれる。
「そうだ。今日はね、すごく綺麗なお花畑を見つけたの。父様や母様に供えるお花がね、いっぱいで――」
 嘘がうまくなった。ありもしない幻想を抱いて、楽しませる方法を身につけた。せめて自分を助けてくれたこのマリスには、装飾された自分の生を話し聞かせたい。そっと買った花を置く。
 我は満足しているのだ。
 彼は言った。貴様を助けたことに後悔はないと。むしろあのような強いやつと闘う機会を与えてくれた貴様に感謝していると。死をも恐れぬ勇敢なマリスとは誰も呼ばない。堕鶯にはむかった馬鹿なマリスだと、乱刃族を好いた馬鹿なマリスだと他のものは彼を嗤った。
 彼が愛していたのは目の前の自分ではない。彼が助けようとした――本人はそうは言わないが――最愛のマリスは、彼が心から愛していたであろうは自分の姉。目の前で簡単に殺された姉を見て逆上したのかどうかは分からない。彼が言うのは堕鶯と闘えたことに感謝していると、それだけだから、雌萌もその事には触れない。
 父は、母は、弟は、姉は、皆殺された。
 自分が今現在仕えている、堕鶯のほんの気まぐれで。
 今日も彼は言う。鎖で雁字搦めの体をほんの少し動かし、潰れた目と、そがれた鼻と、捻じ曲げられた唇で、優しく雌萌に語りかける。
 過去を見て生きるやつは嫌いだ――笑え雌萌。
「やだな、いつも笑ってるよ」
 何も見えない暗黒の園で、笑顔を振りまいた少女は今日も『一人』躯に話しかける。

 大丈夫、笑ってるよ。
――あの日からずっと



 終わらない笑顔のシークエンス。
 あの日からずっと続いている悪夢は、今もこうして目の前にある。





 姉様はいつも笑っていた。光がないこの世界でも眩しいぐらいの笑顔で、一際明るく私達を照らしてくれていた。
 父様も母様も弟も、もちろん私も、みんな姉様を好きだった。
「ほら雌萌、早くしな。急がないと集会に遅れるよ」
 父様も母様も姉様を信頼していて、私と数十年しか変わらない若さの姉様に乱刃族冥家の当主を任せていた。弟はまだ何にも出来ない子供だったし、父様が病気がちだったことも関係していたのかもしれない。母様はいつも姉様に謝るような感じで接していたけど、それをもっと謝るような感じで応えている姉様の気さくさが頼もしかった。
 そんな姉様が自慢で、憧れていた。
「『失敗できる』んだから、雌萌はまだまだ頑張れるよ。たまには助けてね」
 笑顔でそう言ってくれた姉様の優しさを、私は忘れない。
 母様に叱られた夜だった。父様に効く薬草を採ってくると言って森へ駆け出したのはよかったが、森までがかなりの距離で随分と帰るのが遅くなったのだ。
 否、正確には森までの場所は聞いていたが、どうやら移動するのか。聞いた場所には森がなかったことがそもそもの問題で、あたり一面には荒野だけが閑散と広がっていた。そんな状態であるのに、森なんて探したところで見つかるものではなかったのに、無理をして探し回ったのが悪かった。結局別の森が見つかったが、薬草は見つからずじまいで、その時たまたま見つけることが出来たそれも、かなり小規模なものだった。
 赤茶けた地面が妙に渇いていたのをよく覚えている。薬草も手に入らず、家に帰るとそのまま母様に説教をされ、随分とお仕置きを受けた。冥家であることをもっと自覚しなさいと、きつく言われてひどく泣いた。
 姉様のように誉められたくて、弟のように可愛がられたくて、したことだった。
 両腕を縛られて吊るされた状態で一日半。その間何度も姉様と弟が見に来てくれたのを思い出すと、今でも泣きそうになる。
 現当主としての責任感と重圧でどれほど制約を受けていたのか。そんな姉様が零した言葉だったからこそ、重みが違った。
 冗談でも、自分を頼る言葉をかけてくれた姉様が偉大だった。
「お願いです。力を貸してくださいっ!」
 思えばこれが最後の集会だった。
 堕鶯という名の妙なマリスが冥家を片っ端から潰していっていると、風の噂は瞬く間に広がって私達の耳にも入ってきていた。集会に集まる私達の他ももちろん冥家、なのに彼らはその願いを聞き入れてくれなかった。ここにいる皆で助け合おうと、そうすれば堕鶯になど屈しないのだからと、その問いかけは空を掴むが如く何の手応えもなく、なぜだと言っても誰も応えるものがいなかった。
 その時に疑うべきだったのかもしれない。彼らが私達を堕鶯に売ったことに気づくべきだったのだ。
 私達がもっとも古く、最も強かったから堕鶯がその条件を飲むのはごく自然と言えた。弱いものには興味を抱かないのは強者の必定。私達は売られたのだ。
 それでも頭を地面に擦り付ける姉様の凛々しい顔は見ていられなかった。
「雌萌。私ね、もうすぐ嫁ぐわ」
 父様や母様には悪いのだけれど、雌萌もいるから大丈夫よね。そう言って姉様は力なく微笑んだ。
 嫁ぐ。父様も母様も了承のうえだと言う。寂しい気もしたが、幸せそうな顔をする姉様の顔を見ると何も言えなくなった。弟ももう随分しっかりとしてきていたから、丁度いい頃だったのだと思う。姉様の肩から感じていた疲れも、少し和らいだ感じがした。
 女の顔をした姉様は、本当に綺麗だった。



「雌萌……」
 首元を鷲摑みにされこれから殺されそうだという時に、姉様はどうしてそんな風に、
――笑ってられるの
 最後の言葉で私は姉様を嫌いになりそうだった。
「やめろっ!」
 姉様が紹介した嫁ぎ先。優しそうな、けれども激情的な心を持ったマリスだった。
 敵うはずのない堕鶯に向かっていった彼を見ても、姉様は微笑んでいた。

 堕鶯の手が姉様の体を貫いて、その先にいた彼にも突き刺さる。

 何も聞こえなくなったそこで、堕鶯の笑い声に怯えた私は、


「貴様がいいな」


 私は今、堕鶯の戦利品として生かされている。
 どうしてか分からないけれど――生きている、笑顔で。
 小さな扉をくぐって、外に出た。
 硬質な床が現実感を甦らせる。ぼんやりとしていた意識も、松明の灯りに照らされてかはっきりと形を保った。
 階段を上がり、準備を整えにいく。
 煉錠という名のマリスを殺さねばならない。

――のか?





 階段を駆け上がって、地上に出る。大きな門が遠くに見えるそこで、暫く外の風景を眺めると、
 途中、再びあの少年の姿がそこにはあった。いないと言ったはずなのに、追い返したはずなのに、煉錠という少年はそこにいた。巨大な門へと近づいて、恐らく入ろうとしているのだろう。近づいた守衛が一瞬で蒸発したのが目に入った。
 どこまで馬鹿なのだ。何で戻ってきたのよ。
 むしろ好都合だとは考えたくなかった。
 考えたくなかったが、意思を無視した体は門に近寄る少年へと走り出す。
『近いうちに蟲を狩ってきてもらおうと思う』
 堕鶯の言葉は絶対か?
 嫌だと抗うほどに強く、体が強張っていくのがわかった。
『華死乃の煉錠というやつだ』
 一回の跳躍で五メートルはあろうかという茨の門を飛び越え、重力とともに壁を蹴って煉錠へとめがけて降下する。
 考える間もなく動き出した体を止める術など知らず、門へと近づく少年の首元を的確に蹴り飛ばす。大きく仰け反った少年の体は、首の骨が折れたのではないかと思うほど勢いよく地面へと激突した。
 不意打ちだろうと何だろうとこれでいい。暗示のように繰り返される堕鶯の声を振り払い、自分の意思で煉錠を蹴ったのだと言い聞かせる。言いなりになっていると思いたくなかった。
 門へと近づいていた煉錠の横顔。躊躇しなかったと言えば嘘になる。
 雰囲気だろうか。声も顔も体つきも良く見ればほとんどが違うのに、妙な既視感はありつづける。額の十字架などは顔の印象を大きく歪めてしまうのに――拭えない焦りが染み付いている。
 地面を滑るように流れ、抉れた土が砂煙を上げる。首元を刈るように蹴った一撃で、並みのマリスならば死んでもおかしくない一撃。そんな攻撃をしておきながらも、死なないでとそんなことを思ってしまう自分が本当にわからなかった。いっそのこと彼になら殺されてもいいのかもしれない。
 むくりと起き上がった煉錠に驚きもなかったのは、そんな感情のまま何かを期待していたからかもしれない。
「今度は貴様か。いきなりが多い日だ」
 少し不機嫌そうな声だが、怒りをもっているようには感じられない。土煙がうっすらと漂う中、蹴られた首元の匂いを嗅ぐ煉錠。何をしているのか分からなかったが、にやりと微笑んで、
「木天蓼(またたび)か。随分強力なやつを嗅いでいるな」
 土煙が収まった場所から現われた煉錠の言う言葉を、瞬時には理解できなかった。いきなり何を言っているのか。臨戦態勢をとっている雌萌を目の前にして、おどけるような素振りすら見せて煉錠は続ける。
――木天蓼?
「今もっているなら俺にもよこせ。それから俺は貴様とは闘いたくない」
 何のことか分からない。それに今闘いたくないといったのか? 力を試したいなどとほざいていたやつが?
「何のこと? 木天蓼って何?」
 混乱する頭で訊ねる。もしかすると戦略的なタイプなのかもしれない。油断させておいて、どすんと。それならば相手が悪いな、煉錠。
 緊張を保ちつつ目を逸らさない雌萌に、ほんの少しだけ敬意を表してか、それとも喋ることが嫌いではないのか、煉錠が口を開いた。
「木天蓼。一種の薬だ、幻覚剤。貴様のようなやつにはよく効く、迷いがあるやつには僅かばかりの希望を見せる面白い薬だ。絶望をみるのが趣味なんでな、俺にもよこせ」
 そんなもの知らない。知っていたとしても使うはずがないではないか。そんな最悪の薬、誰が、そんな……もの――
 体に染み付いた香の匂いが鼻の頭を掠める。
 これだけのことで煉錠と闘う気をなくしている自分に今更驚く。もともと闘う気がなかったのか、絶望的な予感がそれすら掻き消したのか。どちらにせよ、もう全てが遅かった。
「っち、持っていないのか。まぁいい、ならそこをどけ。貴様のような腑抜けは殺す気にもならん」
 煉錠が唯一殺すことを躊躇うタイプ。彼は雌萌のように攻撃に殺気も怒気もこもっていない相手を極端に嫌う。もちろんそれ以上に攻撃を仕掛けてくれば殺すことは厭わないが、楽しくないことは進んでやろうとはしない。
 感じられるものが何もない。悲しみや痛みなども、雌萌の蹴りからは感じ取れなかった。
 俯く雌萌を置き去りに、煉錠は門へと手をかける。
「まてっ!」
 止めなければいけない。そうしなければきっと殺されてしまうことが目に見えているから。木天蓼の効果が続いているせいなのか、妙に視界が揺れていた。
「堕鶯様は――」
「黙れ。貴様の言うことなど聞く義理はない」
 止めようとした雌萌より遥かに強大な力で門を吹き飛ばす煉錠。爆風で吹き飛ばされそうだった。
 もうこれで、きっと助からない。頭の中でそう悟る。
――ならば
「少し待って! ほんの少しだけ、『堕鶯』は今食事中なの。伝えてくるからっ!」
 ふと、やんわりとした空気が頬を撫でた。感じたことのないある種の威圧感に気圧される。
「そうか、ならば仕方ないな。さっさと伝えてくるがいい」
 煉錠も堕鶯と同じ性分である。食事中はマナー違反だと勝手に心の中で決めている。まぁ例の如く、それがしょっちゅう破られるものすごく脆い規則だというのは言うまでもないだろう。
「感謝する」
 そう言って駆け出す雌萌が何を思うか。
 無論向かう先は堕鶯のいる大広間ではない。

――堕鶯っ
 歯を食いしばって地を駆ける。





 錆びた青銅色をした門、その前に立ち並んだ警備兵を一蹴し、鍵のかかった巨大な蓋をこじ開ける。堕鶯の城の最下層。誰も寄り付かないこの場所に囚われているはずのマリスに会えるのは日に一度だから、今日はもう会うことは出来ない。だがそれを破り、こうしてここに来たのにはそれなりの理由があった。
『俺様の言う通りに動け。ならばこの男は生かしてやる』
――そんなはずはないんだ……
 堕鶯は約束した。それに今日もここで会えたのだから、そんなはずはない。
『木天蓼。一種の薬だ、幻覚剤。貴様のようなやつにはよく効く、迷いがあるやつには僅かばかりの希望を見せる面白い薬だ』
 払拭できない不安に包まれながら巨大な扉を力の限り押す。
 いつもこそこそと開かれた小さな扉から入るため、この巨大な扉を開いたことはない。暗い廊下を照らすための松明の灯りが、ゆらりと小さな部屋全体を包み込んだ。
 光の差し込まないこの小さな部屋に囚われた大きなマリス、とは言っても雌萌の二倍ほどの大きさで、腐敗した四肢のせいで座り込んでいる彼はとても小さな印象を受ける。堕鶯に逆らったことになるかもしれないが、日に二度会いに来た自分に彼はどんな顔をするだろうか。怒られないために笑おう、そう思って、
 はずだった。
 彼はそこにいる――はずだったのに。
 光が射す状態で見たことがないから、戸惑うのも無理はない。
 香がない状態で見るのだから、息を呑むのも無理はない。
 そこには何も、
 想像していたものの欠片すらなかった。
 埃が溜まって呼吸が出来そうにない空間で、全身を縛られた躯が一つ。死んでから随分経っているだろうに、妙にそれには馴染みがあった。その前に雌萌が今日持ってきた花束が置かれている。幅の広い門からようやくきつい香の香りがつんと鼻腔を刺激した。
――……ちくしょう
 ちくしょう。
 今更何をしたところで時間は戻ってこない。過ぎた時を悔やんでも、何も変わらない。
 ちくしょう、堕鶯ぅ……。
 自分の馬鹿さ加減が嫌になった。そもそも、あの男があんな約束を守るわけがないではないか。父も母も姉も弟も何の理由もなく殺されたのだから、今更そんなことを信じているほうがどうかしていた。どうしてもっと早く気づかなかったんだ。
 湿気った空間を後にし、暗い廊下を神速の速さで駆け抜ける。目に映るもの全てを破壊してやりたい衝動に駆られ、拳を握った。大広間までの階段がどれくらいあったのか、翼が生えたのではないかと思うぐらい体が軽く、気づけば食事中の堕鶯の前にいた。
「堕鶯っ!」
 そのものを目の前にして、そう叫んだのはあの最悪の日以来だった。敬称をつけずに呼んだ名は、随分と自然に口から零れた。堕鶯は何か汚らしいものでも見るように雌萌の姿を捉える。
「言わなかったか雌萌? 俺は食事は静かに食いたいのだ。それに今何と言った?」
 口中から赤い液体を垂らし、汚いという言葉すらこいつにはふさわしくない。
「堕鶯っ! あのマリスをどうした!? お前は――」
「あぁ、見たのか。あいつは、そうだな……逃げた。そういうことにしておく。それより雌萌、貴様――」
 もう答えなどほとんど聞いていなかった。自分から訊いたことだったが、もう返事などわかりきっていたから。せめて詫びの一つでも聞けるかと、またそんな甘い考えを持っている自分がひどく情けなかった。
 首元を掴む。ヒラヒラした薄いシャツが引きちぎれんばかりに――むしろ引きちぎってやろうと――強く掴んだ。
「お前はっ!」
「雌萌よ」
 この期に及んで尻込みするな。こんなやつに負けるはずがないんだ。私は乱刃族なのだ。
 言い聞かせて、拳を握る。堕鶯はそんな状態でも哄笑して、言った。
「俺はな、『過去を見て生きるやつは嫌いだ――笑え雌萌』」
――ちくしょう、どこまで……
 殴れなかった。
 握った拳はそのままに、激しく掴まれた腕が悲鳴を上げる。堕鶯にとっては花を摘むような、そんな軽い一動作で簡単に折られたのが力の差か。それでも眼光だけは負けず劣らず、堕鶯の醜い顔を睨みつける。折られた腕から片手で持ち上げられ、投げられそうな瞬間
 ぺちんと頬を張ってやった。
 ぺちんと。
 涙が出るくらい、乾いた音だった。
「まぁいい。もう十分貴様は役に立ったしな」
 ゴミのように投げ捨てる。堕鶯にとって雌萌はもう価値をなくしたのだろう。あるとすれば雌萌にかかった懸賞金ぐらいか。薄笑いを浮かべた顔で指を鳴らすと、弾かれたように飛び出す黒の集団。暴れる雌萌を取り囲み、数十名で雌萌を抑えるところを見るとそこそこの手練なのだろう。乱刃族という冥家を知っているものならば、そう思ったはずである。
 一瞬にして彼らが吹き飛ばなければ。
 大して何かした風でもなく、たった一人の少年が、変わりに雌萌を支えてそこに立つ。
「食事中すまんな。あまりいい匂いがしたもので、つい来てしまった。――さて、堕鶯はどいつだ? 今吹き飛ばした中にいるやつか、糞猫?」
 あくまでマイペースな煉錠に支えられるというより捕らえられて、雌萌は口を噤んだ。否、噤まざるを得なかったのだ。
 煉錠はいつまで経っても(と言っても数秒だが)返事のない雌萌の顔を見て口元を緩める。
 今までに――とは言っても、ここに来て少し前に会っただけであるが――見たことのない、ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった顔が、そこにはあった。
「貴様、出来るではないか。薄気味悪い笑った顔よりも、やはりそちらのほうが心地よいものだ」
 笑顔ではなく泣き顔を誉め、堕鶯のことを糞げろ(げろのような顔だかららしい)と呼んだ小さなマリスが、この時どうしようもなく頼もしかった。
 藁にもすがる思いだと言うかもしれないが、そんな気持ちは全然なく、ただ純粋に嬉しかった。
 ここで死ぬにしても、この少年と一緒ならば。そんなことさえ思ってしまうほど、ある種の酩酊感のようなものに包まれた一瞬だった。







 自分と同じか、いやきっとそれ以上の悪魔だったのだと思う。
 けれど彼は自分のことを死神だと言って聞かない。
 煉錠が堕鶯を殺したのは事実だが、この姿を見るととてもそうは思えなかった。
 明らかな致命傷を受けてなお立ち上がり、楽しそうに笑った顔で堕鶯を完膚なきまでに叩きのめした男には、ほとんど傷一つない。というかあったがもう治ってしまっている。
 死んでも死なないなどと、そこまで非常識なマリスは見たことがなかったが、現に存在した。




「糞猫。貴様は俺様の戦利品だ。名を言え」
「雌萌と言います」
 返事はない。聞き入れたではあろうが、確認のためもう一度言うとやかましいと怒鳴られた。
「ありがとう」
 表情は変わらなかったが煉錠の足が止まった。これは聞こえているなと、二度目は言わない。また怒鳴られるのも嫌だから。
「煉錠様って呼びますね」
「勝手にしろ」
 勘違いでもいい。助けてくれたのだと勝手に思う。
 きっとこの方はそんなことに興味はないだろう。
 今はこうして次のことに頭をまわしている。
「笑うな、気色の悪い」



 長い夢から覚めた気分で、忘れるはずのない姉様やあの大きなマリスのことも消してしまいそうなほど魅力的な日常。
 姉様が笑っていた理由も、あのマリスが笑えと言った訳も、今ならばわかる気がする。



――泣くだけ泣けば、自然と笑顔しか出来なくなるから。






///Fin///
2005-05-29 13:42:32公開 / 作者:影舞踊
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■作者からのメッセージ
近い内に投稿するといって、本当に近い内に投稿しやがる有限実行魔です(うざくてすいません 物語の進みが唐突だと言われる事をひどく恐れ、ですが言われたほうがよくわかるダメ野郎なのではっきりと仰ってくださって結構です。(一応考えてはいるのですが
戦闘描写等は少なくしたつもりが、よくよく考えればこの物語、心情描写が少ないのではとも思っております。情景描写等にばかり気を遣ったような……(もちろん心情描写を忘れたわけではないのですが 雌萌が主人公なのか、煉錠が主人公なのかにつきましては、皆様の判断にお任せします(無責任主義(マテマテ
読んでくださった方、本当にありがとうございました。自己満足の極みの作品、感想を貰える事がどれほど嬉しいかと言うことも含めて、新しく学ばせていただきました。本当に感謝感謝です(ペコ
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京雅様のご指摘による箇所を修正。
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