『やがて深い青へ』作者:ぜろ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角5658文字
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原稿用紙約14.15枚
〜プロローグ〜
 完璧だ。
 そう思った。しかし何に対して完璧なのか、理解するまでにひとつ呼吸をしなければならなかった。慨視感かと思ったがそれはひとつの選択肢にはいっていただけだ。慨視感にしてはあまりにも現実的で直線的だった。
 今、自分の瞳に映る目の前の世界を僕は知っていた。どうして雨が降っているのか知っているし、どうして目の前に満開の桜の木があるのかも知っている。その木の下で佇む、寂しげにうつむいている女の人ですら知っている。それだけならばそれほど驚くことではないかもしれない。だが僕がこれから自分が考えるであろうことや行動、それに対してこの世界がどう変化していくか言い当てることを、十代後半の僕が九九を言うことよりも容易いものだと感じることに対しては驚いてほしい。未来を予言するわけではない。
 僕はそれを知っているのだ。
 気付けば僕を包むこの世界が文字通り音も無く崩れ去っていた。どんよりとした空から落下する水滴にいつもなら存在する世界を包み込むような地面との衝突音が全く聞こえなかった。それでもやはり僕は知る通りに木の下にいる彼女のもとへ走った。僕の心臓はどきどきと僕のからだを叩いた。心臓がどきどきするのは走っているせいだけではない。その事も僕は知っていた。
 一歩一歩彼女に近づくことで、それとともに世界に音が戻ってきている感覚を感じた。ざっざっ、と僕の足は地面を蹴りながら。
 足音に気付いたのか俯いていた彼女が顔を上げる。彼女の動作は一つ一つがどこまでもなめらかに行われた。瞬きひとつにも僕の視線は奪われた。
 気付けば僕の足は止まっていた。彼女の口が動いたように見えたが言葉が耳に入ってこなかった。
 どうしてだろう?
 僕は考えた。雨に打たれながら。
 どうして何をしたらいいのかわからないんだ?
 いや、そのことまでは知っている。
 次の足を踏み出そうと懸命に足を持ち上げる。しかし、さっきまで頭のどこかで続いていた映像が何も映し出さない。
 彼女は消えない。目の前に存在する。
 そう。僕はこの先を知らない。

〜第一部〜
 そろそろ春かな。そう感じたのは最近の風が赤ちゃんを揺するようにカーテンの先を撫でていくからだ。
 あのときも、こんな風に季節の移り変わりを感じさせるような天気だった気がする。
 いつも季節を感じるのに僕は風が大切だと思っている。夏はなれなれしく、秋はどこかよそよそしくて、冬はさっぱりしているが乱暴だ。
 そんな感覚にお礼をするかのように、桜並木を歩く僕の背中を春風が押してくれた。といっても桜はまだ寂しい状態だ。
 今朝早い時間に自然と目覚めると心地よい眠気の中にも不思議と僕の思考は回転数を増していった。顔を洗い終えコーヒーを飲んでいると、窓という額の中に描かれた空はまるで太い筆を使って一筆書きしたかのように画一的でありふれていた。本当の絵のように流動性を失っているのが何となく気にかかり、誘われるように散歩に出掛けた。
 この桜並木は家から歩いて五分ほどの公園の中にある。この公園は上下に分かれていてこの二つをつなぐように階段が三ヶ所にある。下は少年野球に使われる野球場で上と下をつなぐ間が雑草の茂る観客席、そして上には桜並木がありその中にブランコと砂場と滑り台が寂しげにぽつんとしていた。そういえば最近ここで子供が遊んでいるのをあまり目にしない。
 春風は春の天気と同様に気まぐれなのだろう。背中から吹いていたはずの風が正面から吹いてきた。少しだけ湿り気を帯びそれでも柔らかな風。あまりに気まぐれな風に付き合いきれなかったせいで目に砂が入ってしまい目を開けていられなくなってしまった。目をこすると眼球に傷がつくと子供の頃教えられたので、じわぁとスポイトから出てくるような涙が溜まるのをいたずらな風を背中に感じながらじっと立っていた。
 涙を溜めながら目を開くと視界はぼやけていたが、そのぼやけた視界の中にブランコが小さく軋む音を聞いた気がした。目から砂を追い出そうと瞬きを繰り返すと、それに合わせてきーきーとブランコが揺れているのがぱらぱら漫画のように僕の頭に刻まれる。刻まれた映像の中に春の息吹を感じるのは僕だけだろうか。
 ゆっくりと瞬きのたびに目の曇りが晴れ完全に目が開けていられるようになると、そのぱらぱら漫画の主人公はまぎれもなく彼女だった。

 今、僕が玄関を開けようとしている家は昔ながらでぼろぼろの平屋の木造建築だ。しかしそこから流れてくるギターの音色にはそれだけの年季と古さを裏返してしまうような力がある。むしろ新鮮と言ったほうがいい。
 玄関を開けると今まで壁越しに聞こえていたギターの音色が直接耳に届くようになった。音の源まで、できるだけ物音をたてないように近づく。
 源の背中が見えたところで歩みを止めた。声を掛ければ届く距離だが、そうしなかった。小川を流れるようなこの音色にもう少し耳を傾けていたかったからだ。
 結局、彼がギターを弾き終わるまで一歩も動かずにいた。いや、終わってもなお動けずにいた。このまま小川の流れに身をまかせて僕もどこかへ流されていきたかった。
「よう、来とったのか」
 ギターの音色とは異質のかなり低い声が僕を流れから連れ戻した。
「うん。じっくり聞かせてもらったよ」
「毎回盗み聞きしよって」
「ギタじいの演奏は最高だからしょうがないよ」
「またそれか。全然答えになっとらん」
「だって本当なんだからしょうがないじゃない」
 これは本当にそう思っている。ギタじいの演奏は多分うまい。多分というのは、僕が音楽に暗いからだ。それでも好き嫌いならあるもので、ギタじいが生み出す音色の数々は僕の感じる波長を心地好く震わしてくれた。
 いつから彼のことをギタじいと呼ぶようになったのか覚えていない。僕がこの家にギタじいの演奏を聴きに来るようになったのは小学生になった頃からだとギタじいから聞かされたことがある。
「今日は何しにきよった?」
「ちょっと演奏を聴きにね」
「嘘をつけ。寝ぼすけのお前がこんなに早く来たことなど今までなかった」
「そうかな」
「まあ年頃の男が悩むことと言ったら人生か女の事と、相場は決まっておる。しかし、お前は人生に悩むような真面目な性格はもっとらんからな」
 ギタじいは少し楽しそうに一言付け加えた。
「女か」
 確かに当たっていた。でもそれはもう昔の彼女のことだ、と思っていた。
「さっき美香に会ったんだ」
「美香に?」
「そう。美香に」
 目を輝かせながら答える僕とは対照的にギタじいはかすかな希望に諦めを従えた表情で呟いた。
「いや、だって美香は・・・」
 ギタじいの目から風船がしぼむように笑みが消えていった。
 そう、あの日美香は消えてしまったのだ。僕が満開の桜に向かって走った雨の日に。
 美香の家は僕の家の真裏にある。山を開拓して建てられた家でちょうど山の斜面にあたる場所だ。美香の家の方が僕の家より一段低く、ふたつの家を遮るものは胸まであるかどうかの格子状のフェンスだけだ。親どうしの仲も良く、そのため必然的に僕等は幼なじみという枠の中に収まった。
 美香との最初の出会いは初めて幼稚園へ行く日、スクールバスの迎えを待っているときだった。
 僕は幼稚園になんか行きたくなかった。それなのに友達ができるからという理由で親が勝手に入園を決めてしまった。当日、親がそばにいなくなる不安を身体全体に溜め込んで朝から何も喉を通らなかった。本当に不安でたまらなかったのだ。
 スクールバスが停車する場所に母親と向かうとそこにはピンク色の制服を着た知らない女の子が母親の手を握りながら立っていた。親同士も普段は滅多に顔を会わせることがないらしくお互い、お宅の子供さんも今日からなんですか?あら?お宅も?などと挨拶を交わしていた。
 スクールバスが到着するまで親同士はお喋りに火がついたようで、休むことなく話し続けていた。そんな親同士の会話を僕と美香は一言も喋らずに聞いていた。聞いていた、といっても僕の場合は緊張がピークに達しようとしていて身体中のあらゆる筋肉に力が入りっぱなしだったけど・・・。
 そうこうしているうちに、スクールバスが目の前にそびえたった。それまで僕はスクールバスの振動やエンジン音に全く気付かなかった。スクールバスから笑顔の保母さんが降りてきて、おはようございます、と。
 限界だった。
 一瞬緩んだ筋肉から流れでた恐怖は次に涙に変わり、そして大声で泣いた。どうしようもなかった。一度流れでたものは勢いを増すばかりで、必死でなだめる母親の声も届かなかった。先にバスの中に乗っていた園児たちは何事かとガラス窓の周りにひっつき、指を差して笑うものや、なぜかつられて泣き出している園児もいた。
 これでは今日は幼稚園にいけないと判断したのだろう。それほど僕の泣き方が尋常ではなかった。
 母親と保母さんが何やらひそひそと相談をしたようだ。保母さんが、今日のところはさようならね、と僕に向かって言う。母親が僕の手を取って帰ろうとした。
 そのとき空いている手が温もりに包まれた。美香の手だ。
「行こ」
 この言葉が美香の第一声なのを今でも覚えている。枝が風に揺れるようにさわさわとした響きだった。手から伝わる美香の温もりは全身をも包んでくれた。
「ね」
 問いかける美香の目を見つめ返している僕の目からは、不思議と涙は止まっていた。美香の温かさが恐怖や不安を浄化してくれたのだろ。
 僕等はそのままバスに乗り込んだ。唖然とする僕の母親と保母さんを残して。美香の母親だけは頬に軽く唇を持ち上げて小さく手を振っていた。
 幼稚園に着くまで僕等はずっと窓の外を流れる景色をただ眺めていた。もちろん僕は掌に美香の温かさを感じながら。
 半信半疑の、いや、一信九疑のギタじいを残して僕は帰路に着いた。
 美香が突然消えてしまったあの日からどれくらいが経ったのだろう。人から記憶を蒸発させるには十分な時間だろう。それでも僕は美香を忘れることはなかった。いや、美香の存在をと言ったほうがいいかもしれない。毎日美香のことを考えては、思い出という名のバトンを次の日に渡していった。次第にぼやけてくる美香の顔を何度も書き足していった。どこまでが本当の美香で、どこまでが僕が創造した美香だかわからない。そんな日も増えていった。
 美香に会いたい。美香に会いたい。
 切にそう願った。
 今日、公園のブランコに座る美香はすごく素敵だった。髪は顎のラインで切り揃えられ、ピンクを基調とした花柄のスカートに眩しいくらいの白のブラウス姿。シンプルで美香にとてもよく似合っていた。すっとした美香の身丈や柔らかな雰囲気とうまく調和していた、と言い換えてもいい。桜の芽がひらくこの季節に現れたのも美香らしい。
「美香。美香だろ。突然現れてびっくりしたよ」
 美香は自分のつま先あたりをぼんやりと眺めていた。
「どうしたんだよ、美香。今までどこにいってたんだよ。俺のこと忘れちまったのか」
 それでも美香は全く動かず、まるで僕が満開の季節には誰も見てはいない桜の幹であるかのように注意を向けず一定の間隔で瞬きが繰り返されていた。僕はしょうがなく美香の隣のブランコに座った。ブランコに座るのなんて久しぶりだな、と思いながら美香のいない間の僕の閉鎖的な人生を振り返っていた。きーきーと猫の悲鳴のような音をたてながらしばらくブランコをこいでいると、美香が
「私のこと憶えてる?」
 と唇をほとんど動かさずに呟いた。
「当たり前だろう。美香のことを忘れるわけがない」
 それでも美香はやはり僕の答えにも関心が無いかのようにただブランコを揺すっていた。だが、僕の声は公園を一周して美香に届いたようだ。風に揺らされた桜のつぼみが地面に落ちるのと同時に美香は顔を上げて、やはり呟いた。
「そういうことじゃないの」
 ふっと美香の視線が僕を見つめる。なぜだかそこには訴えかけるような響きが存在していた。そして僕が「それじゃあ、どういうことなんだ?」と言うと、今度は美香の目が一瞬悲しみの色に染まった。その悲しみは昔からある古い井戸のように潜在的でいくら手を伸ばしても届くというものではなかった。
 目から悲しみが去るとまた美香は俯いてしまった。何か今日の美香は変だ。確かに美香は活発なタイプではなくぼんやりとした性格ではあるけれど、今日の美香は度を通り越している。ずっとうわのそらだ。いなくなっていた間に何かあったのかもしれないけれど、それにしては身なりがきちんとしているし肌の艶だって悪くない。どこに行っていたにせよ美香は健康的に見える。それなのに、僕の声が美香の耳に届かない。
 僕がふうっと下を向いて溜息を吐いたちょうどそのとき、ひゅっと吹き付ける風によって足元の砂が舞い上げられた。砂が目をとらえる瞬間に僕はくっと目をつむりその流れるように連なる風をやり過ごした。ぴたっと風が止むと公園内には風によって生み出された数々の音の名残だけが漂っていた。
 隣に目をやると、そこには静かに小さく揺れるブランコが残されていた。風に連れ去られたように美香はいなくなっていた。周囲を見回したが美香の姿を見つけることはできず、僕は声を上げて美香の名を呼んだ。その声はむなしく公園の中に吸い込まれ、まるで隣のブランコの揺れだけが僕を肯定しているように感じたが、僅かに揺れるブランコが美香によるものなのか風によるものなのか僕にはわからなかった。
2005-05-05 20:39:42公開 / 作者:ぜろ
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■作者からのメッセージ
桜の季節をモチーフに、ファンタジーの要素を取り入れた恋愛小説です。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、京雅と申します。拝読しました。惹かれる冒頭から一気に読み進めました。長さも文章の整然さも充分に堪能出来て、面白かったと思います。敢えて、何か指摘する箇所を見つけろと申されれば、文章に要るところに改行がなかったせいか、淡淡と過ぎ去り過ぎた感じがしました。あときちんとした文章なのに人物の描写だけ一寸少ないかな。けれど内容は惹かれ、早く続きを読みたいという願望に駆られております。次回更新も頑張って下さい。
2005-05-05 20:59:30【★★★★☆】京雅
初めまして甘木と申します。作品拝読させていただきました。文章がしっかりとしていて非常に読みやすかったです。作品全体に漂う春の優しさのような空気も心地よいものでした。綺麗な世界は見えるのですが人物描写が弱かった印象があります。プロローグなのでこれから補完されていかれるのでしょうから、特段不快というわけでもありません。では、次回更新を期待しています。
2005-05-05 23:43:43【☆☆☆☆☆】甘木
計:4点
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