- 『ポンペイの棺』作者：醤油塩せんべい / Ej - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
- 全角3178文字かつてその街は、栄華と繁栄を極め、人々の笑い声で満ちていた。
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細やかな装飾を施した、大理石でできた建物。果物と酒が美味く、美女の多いその街を知らぬ者はなく、その街に立ち寄った者は、これより美しい街はないと言い、その街に暮らす者も、ここより素晴らしい街はないと信じていた。
誰もが、その日々が永遠に続くことを、疑いはしなかった。
しかし、全てのものには終わりがある。
輝かしい歴史にも、終止符が打たれようとしていた。
最後の時は突然訪れた。
悲劇が起こったのは、八月二十四日の正午だった。
大地は揺るぎ、火口が地獄の入り口のように口をあけ、絶望を象徴するようなきのこ雲が、空に高々とそびえた。
「ベスビオの神が我々に裁きを下したのだ」
ある者はそう叫んだ。
突然降り注いだ災厄に、人々ができたのは、ただ逃げ惑うことだけしかなかった。
悲鳴が街を覆い、抗う術もないまま、人々は一瞬のうちに、街を捨て、家を捨て、その地の繁栄の歴史を捨てる決意をしなくてはならなかった。
しかし、中にはその選択すら叶わないものも居た。
「御主人！ 行かないでください！ 置いて行かないでください！ 私も共に連れて行ってください！」
熱に焼かれながら、置き去りにされた犬が叫んだ。
家人は、せめて彼に自由を与えてから行くべきだったが、恐怖と焦りが、彼の存在を記憶から抜け落とした。
犬は、主人の後を追おうともがいたが、鎖は頑丈で、彼の意志ではどうにもできず、その場でぐるぐると回るしかなかった。
「御主人！ 私を！ 私も共に！」
最愛の者に置いて行かれたという衝撃が、熱波より激しく彼の胸を焼いた。
これ以上ないほど忠実に、主人を愛してきた。家を守り、家人を守り、近隣の者にも評判になるくらい、彼は彼の仕事をこなしてきたつもりだった。
それなのに、主人は彼をこの場に置き去りにし、わが身のことのみを思ったまま行ってしまった。 吼える自分にちらりとも目もくれず、走り去って行く家人たちの背中を、彼は、呆然と見送ったのだ。
犬は、張り裂けんばかりに飼い主を呼んだ。
飛び出すほど目を見開き、牙を剥き出しにして、人の姿が徐々に消えていく通りに向かって吼え続けた。
やがて吼え疲れた彼は、幾分心が冷え、やや冷静に、絶望的な状況を改善すべく、辺りを見回した。
彼の目は、庭の低い木の上に、動く物の存在を捕らえた。
猫だった。
黒い毛皮はつやがなく、すぐに野良猫だとわかった。
「猫め。置いて行かれた俺を嘲笑いに来たか」
犬は思ったが、わざわざ楽しませてやる義理もないと、気付かない風を装った。
地震と、耳を劈く轟音は、ある程度収まったものの、激しく降り注ぐ砂礫と灰は、やむことはなかった。少し気を緩めると、あっという間に埋もれそうになる。
猫は、まだそこに居た。木の上で、時々積もる灰を振り落としながら、犬をじっと見つめていた。
その視線に耐え切れず、犬は猫に吼えた。
「貴様、何のつもりだ。動けない俺を眺めて、もう充分楽しんだ筈だ。消えろ。目障りだ」
しかし、猫は動かなかった。
金色の瞳で、犬を見据えている。犬は、猫の様子に怒りを覚え、再び暴れ始めた。
「馬鹿にしやがって。降りて来い、野良猫め」
殺意をこめて、ウオンと吼えると、流石に怖気づいたのか、猫は石塀の向こうへ姿を消した。
「ざまあみろ」
しかし、一度沸き立った怒りは、収まることはなかった。
犬は気が違ったように暴れ、熱くなった鎖を引きちぎろうとしたが叶わず、再び吼え猛った。
今度は飼い主を呼ぶのでもなく、ただ、心に巣食う絶望と、行き場のない黒い怒りのままに、燃える空に向かって遠吠えた。
「何故だ！ 俺が一体何をした。日々主人に尽くして生きてきただけの俺が、何故このような仕打ちを受けねばならぬ！ 何故だ！ 何故だ！！」
いつの間にか、先の猫が、同じ場所に納まり、吼え狂う犬を見つめていた。彼は、怒りの矛先を猫に向けた。
今の惨めな立場も、苦しみも、全て猫のせいのような気がした。
「知っているぞ。俺はお前を知っている。前にも何度もここへやって来た。俺は気にもとめなかったがな。繋がれた俺を、いつもニタニタ笑いながら嘲っていた！」
犬は渾身の力で吼えた。
「卑怯で、汚らわしい猫め！ 俺はもう死ぬが、お前のその腐った喉笛を噛み砕いてやれぬことだけが、ただ無念だ！」
猫は、微動だにせず、灰と礫に埋もれ行く犬を静かに見ていた。
さらに時が過ぎた。
暴れ続けた犬は、大量の灰を吸い込み、虫の息で横たわっていた。
最早吼えることすら叶わなかったが、灰の中、犬の目だけが、いまだ見開かれ、この世に対する憎 悪と絶望を渦巻かせ、ぎらぎらと光をたたえていた。
木の上の猫が、するりと地に下りた。
猫は、積もった灰を踏みしめながら、一歩ずつ犬に近づいて行った。
「街は、終わる」
猫が、口を開いた。
「一つの歴史が消えるということは、多くの命が失われるということ。それがたまたま今日この日であっただけ。悲しむことはない」
呟くと、俯いた顔を今度は犬へ向けた。
「私が貴方に初めて逢ったのは、二年前の冬です。貴方は全く憶えていないようだけれど」
動かない犬に向かって、語りかける。
「私は、まだ生まれたばかりの子猫だった。道端に捨てられて、ミルクも家もなく、死にかけた私はあの夜、この庭に迷い込んだ」
「貴方は、なんの躊躇いもなく私を噛み殺すこともできた。しかし、そうしなかった」
黄金の瞳が、愛おしそうに細められた。
「貴方は、疲れきった私の体を舐め、その豊かな毛皮を私に一晩貸してくれた。次の日、貴方の飼い主は、私を溝に放り捨てたが、私は今日まで貴方を忘れたことはなかった。例え、ただの気紛れだろうとも、暖かな寝床と、慈しみを与えてくれた貴方を」
猫は、灰の積もった犬の顔に、頬を摺り寄せた。
黒い毛皮が、白く染まった。
「貴方は、私を欠片も憶えていなかった。しかし、そんなことは構わない。親を知らない私にとって、貴方はそれ以上のものだった。私の死に場所は、貴方の側以外にはありえない。もう一度、あの夜の、幸せな暖かい夢をみられるのならば」
心残りは、一つもありません。
黄泉の国へお供しましょう。
犬の耳に呟き、猫は、もう動けない犬の体に、そっと身を寄せた。
不思議なことが起きた。それまで、犬の目にあった呪いの光が、すうと消え、質の全く違うものが現れた。
安らかな光だった。
それが、もうほとんど意識のないであろう犬の瞳に浮かんだのを最後、その目は永遠に閉じられた。
灰は、とめどなく降り積もり、冷たさを持たない雪のように、音もなく二匹の体を覆い隠していった。
こうして、わずか二昼夜のうちに、かつて最も美しいと謳われた街は砂礫の底に沈んだ。
始めのうちこそ人々は悲しんだが、すぐにその街を忘れていった。
その地が培ってきた歴史も、幾万の人々が築き上げた栄光も、噴火によって失われた大勢の人々も、命の叫びも、やがて風化し、儚く消えた。
ただ、微かに、そこに街があったという記憶だけが残り、何もないはずのその平地は、
キヴィタ（街）と呼ばれた。
そして、幾百重にも重積した灰の下、街は、長い長い眠りの中、再び呼び起こされるのを、ただひたすらに待った。
親子のように寄り添った、二匹の化石が掘り出されるのも、それから千五百年後のことになる。 - 2005-05-05 01:18:11公開 / 作者：醤油塩せんべい
■この作品の著作権は醤油塩せんべいさんにあります。無断転載は禁止です。 - ■作者からのメッセージ
はじめまして。醤油塩せんべいという者です。
後味最悪の話ですが、感想いただけると嬉しくて踊ります。
ソフトマゾなので（笑）、「つまんなーい」とか「読みにくーい」とか酷評をいただいても大丈夫です。
あと、大変短い話なのに、SSに分類せず、勝手に歴史小説にしてしまったのですが、まずかったら変えます。ご指摘下さい。
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初めまして、京雅と申します。醤油塩様、いや、塩せんべい様？いやいや、区切らないのか、醤油塩せんべい様。さて。滅び行く文明の中、犬と猫にスポットをあてられたのは面白かったと思いました。猫を助けるほど心優しかった犬が飼い主に見捨てられる。まあ、心優しい犬なら、飼い主が助かればそれでいいかなんて考えないか、と一瞬よぎりましたが、それは人間側のエゴですよね。捨てられれば怒ります。後味は悪くなかったですよ？歴史小説……ではないかな。「大理石でできた建物。」という描写に、全てが大理石で出来た建物は逆に気色悪いよなぁなんて想像し、勝手に一人笑いました。あと途中、「私は、まだ生〜」と「貴方は、なんの〜」、猫の科白なのに分けられて続いていて、読み難かったかなと。では次回作にも期待しております。
2005-05-05 01:36:02【☆☆☆☆☆】京雅よませていただきました。はじめまして、走る耳です。
タイトルに惹かれて読み始めましたが、心の中では歴史小説である以上ちゃんと調べごとを済ませてるんだろうか、じゃなかったら気持ちよくない、と思っていました。
ですが主観は犬におかれていました。やっぱり歴史小説ではないのでは？別にどちらでも、ぼくはかまいませんが。
短編小説は、多少設定が強引でも通るところがあります。最近長編でもかなり強引で、筋が通っていない話を読みましたが、めちゃくちゃ面白かった。だからなにいいたいんだろ。とにかく、だから猫が不思議な力を持っていた、というのは素直に受け取れられます。生い立ちを数行で済ましてしまうのは、正しいことにも感じられました。ですが、この犬の飼い主に対する忠義は、短編小説の中だと、利己的、表現がみあたりませんが、見返りを求めたものだったのだな、と思ってしまうものでした。
でも、全体を見たら面白い話でした。次回作に期待しています。2005-05-05 03:11:47【☆☆☆☆☆】走る耳はっじめまして〜、タイトルに惹かれて読ませていただきましたっ（６∀６）ふむ、ポンペイは好きなのでその中で犬猫に視点をあてたのは良かったなと素直に思います。猫が良かった、猫が。でも猫が良かったから余計に、犬が矮小なものに見えてしまいました（笑。少々犬や猫の台詞が説明じみていたので、そこらへんをもう少し心情豊かに綴っていただければさらに心うたれたかな、とも思います。あ、あと読点が少し多すぎる気がしますっ！！（これはあくまであたしの個人的感想ですが）……っと、いろいろこうるさいことを言いましたが、基本的にはおもしろかったので、次回作にも大きな期待を寄せておりますっ♪2005-05-05 09:34:10【☆☆☆☆☆】ゅぇ初めまして甘木と申します。作品拝読させていただきました。視点が面白かったです。文章も読みやすく良かったです。ただ犬が主人公のハズなのに恨み言しかでず、本当はあっただろう飼い主との良い思い出がなかったのが残念です。良い思い出があるからこそ裏切られた時のショックは大きいのではないでしょうか。それと個人的な感想ですが（公の立場はないし、公の感想というものもありませんけどね）「こうして、わずか二昼夜のうちに〜」以降の文章はなかった方が良かったように感じました。その方が余韻を楽しめたような気もします。ポンペイの街で大理石なのって公的建物ぐらいじゃないんですか？ 代議員の家も土壁に漆喰を塗ったもので、その壁に代議員になれた喜びを書いた落書きをテレビで見た記憶がありますが……細かいことですがね。では、次回作品を期待しています。2005-05-05 13:34:32【☆☆☆☆☆】甘木初めまして、上下と申す者です。
自分の感想は読解力の無い戯言だと思ってください。
ストーリーなどはかなりいいと思います。ラストも、自分はそれほど後味が悪いと思いませんでしたし。こういう終わり方は好きです。
しかし、町の滅び方が唐突過ぎるような気がします。もう少し滅びる様を書いてもよかったと思いました。
え〜、あまり役に立たない感想ですみませんでした。あまり気にしないで下さい。それでは、次回作品も楽しみにしています2005-05-05 16:19:27【☆☆☆☆☆】上下 左右計：0点 - お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。