『凪 ―了―』作者:昼夜 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角13279.5文字
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原稿用紙約33.2枚

 うちはここで働くことをえらいと思いまへん。

 せやけど、ばばちと思います。

 身を買う男も、身を売る女もばばち。それからうちが一番ばばち。

 なあ、幸せになったらあかんのん?

 なあ、幸せって何?

     壱

 十四と三月(みつき)の頃。

「この子連れて行きまっさ」

「へえ、おおきに」
 お母ちゃんはうちの背中を強く押した。
 お金を握ったままの拳で押されたさかいそない感じたんかもしれへん。お母ちゃんはうちがお金になって嬉しそうどした。
 子供心に嬉しかった。
 おかしいねんけど、お母ちゃんの役に立てたと思た。今思い出してもちょびっと嬉しいうちはあかんたれやね。
 菊千代はんはうちのことを上から下までじろじろ見はった。うちはちっこかったから、目の前に立つ菊千代はんがえろうでっつう見えた。唖然と見上げるうちに菊千代はんは大らかな笑顔を顔一杯に浮かべはった。
「うん、ええ器量や。 もっさいのも何とかなるやろ」
 うちは何や、解れへんかったから黙ってることにした。
「ほな、行きまひょ」
 ふっくらとした右手が目の前に出されてちょっと戸惑った。今まで手なんか繋いだことあらへんかったんやもん。
「何や? えらいなるい子やなぁ」
 うちは慌てて手を取った。そしたら菊千代はんはヤニで変色した歯をちらりと見せて笑た。うちもつられて笑た。

 それからしばらく黙って歩いた。
 菊千代はんの一歩にうちは駆け足でニ、三歩進むような感じ。それに夢中になってた。
「名前、何やった?」
 静けさを破るいきなりの声に驚いた。
「――み、都」
「へえ、立派な名前もうて」
 また静寂。
 手だけはしっかり握って歩いてたら、小雨が降ってきた。菊千代はんはぴたと止まって、うちはそのでっつい先にある顔を見上げた。
 菊千代はんは腰を落とした。手がだんだん濡れてきて、さっきより強う握られてる気がした。
 まだちょびっと目線が高い菊千代はんの顔を見たら、何か辛そうな顔してはった。

「なんぎなこっちゃなあ」

 そない言いながら菊千代はんは、雨でうちの顔にへばりついた髪を指ですくった。頬でその指が止まる。
 触れてるところがほんわり暖かかった。うちは横目で其処を見てた。
 その時、菊千代はんの膝の上にあったうちの左手にぬるい水がかかった。雨は頭で遮られてて、手にぽたぽた落ちる水は雨やなかった。

「……泣いてはるのん?」
 他にどないゆうたらええんか思いもつかんかった。
「あんたにとってあそこはどんな場所になるんやろね」
 静かで綺麗に流れる、ぬくい水を目で追った。
 ひやこい水がうちと菊千代はんをびしょ濡れにしていった。

     ◆

 ぢぢぢぢぢ。

 紅い火がくすぶってる。
 二十一と三月のうちは朧に赤々と照らし出される男の首筋へ手を回して息を荒げた。
 爪で軽くひっかく。
 これはうちの技。痕は残さんようにしてるけど。

 無造作に脱ぎ捨てられた紅と紺の着物。
 ちんまりと傍らでうちと男の動きを見つめる紅い膳。
 ここは表が舞妓、裏では遊郭のちっこい店。

 ぢぢぢぢぢ。

 紅い火がくすぶってる。
 その火の前で転がる金の煙草。男の足が軽くぶつかる。

「あ」

「どない、した」
 思わず声が出てしもた。
「――いい……」
 男はにんまりと笑みを浮かべた。

 煙草の灰がこぼれただけなんやけど。

     ◆

「お母ちゃんて呼んでええよ」
 菊千代はんは部屋に入るなりそう言わはった。
「お、かあちゃ……」
 何や恥ずかしゅうなってしもたうちはもじもじして下を向いた。
「やっぱり恥ずかしいか、せえだいきばって慣れていきや」
 けらけらと笑った。
 菊千代はんはお母ちゃんよりお母ちゃんみたいやった。

     ◆

 ぢぢぢぢぢ。

 そうやわ、あの時も煙草が転がっとった。灰が零れて、踏まれて黒うなって――

 そんなことを思っとったら男が果てた。
 今日は終わりや。

     弐

「凪」
 外で日傘も閉じて日向ぼっこしてたら後ろから懐かしい声がした。よう覚えてる、うちの大事な大好きなお人の声。
「あ……」
 自然に笑顔になってしまう。
「おゆうねえさん」
「もうすっかり様になっとるね。うちが教えたんやから当たり前か」
 ああ、もう辞めてじきに二年経つんやね。夕凪はんの笑顔を見てたら女が増したような気がした。心なしかふっくらしたような。
「あんた、今うちが太った思たやろ」
 心内を見透かしたように言わはったその顔は、昔のままのいちびり笑顔。鋭く射抜くような瞳で、それでいて、えろうべっぴん。うちより五つ上なだけやのに、全てにおいて到底敵わん。
「へえ、ばれてしもた」
「あんなあへえ、それはこのせいや」
 そない言うと、夕凪はんの真っ白い両手がぽっこり膨らんだ下腹部をそおろと包んだ。
「――ややこ出来はったん!」
 予想以上の自分の声に驚いて、口を慌てて塞いだ。
 にっ、と笑う夕凪はんの顔には『倖』の文字が見てとれる。うちも何や、嬉しくなった。
「うちの人――与佐吉はんは男のややこがええんやて。せやけど、うちはどっちでもええ」
 夕凪はんはややこの眠る其処を見つめて話す。さっき女が増した、思うたけど、母親の顔やったんやね。
「あの人とうちの子、それだけでええわ」
 うちが照れてしまう。そのややこがちょびっと羨ましく思えた。
「かいらしい子が産まれますえ」
「そらそうや。うちと与佐吉はんの子やからな」
 またいちびり笑顔を浮かべる。
「ほな、菊千代と源治に久々の悪態ついてくるわ」
 夕凪はんはそない言い残して、昼は芸妓の集う裏遊郭ののれんをくぐった。
――おゆうねえさん、幸せそう。

『あんたは今日から凪や』
『――凪?』
 初めて会って、名前を与えられて、きょとんとしたのを覚えてる。

『うちの名前をあげる』

 うちの“凪”は“夕凪”の凪。
 あの日、都は亡うなって“凪”が生まれた。

 おゆうねえさんに会えて、菊千代お母ちゃんに愛されて、お客はんにも好かれて、店の皆とも上手くやってる。凪は幸せ。

――じゃあ、都は何やったんやろか。

「倖せ……」
 やすけない日傘をややこみたいにそおろと撫でて、思い切り開いた。くるくる回したら白と赤と黒がぐちゃぐちゃになる。
 まだまだ幸せが足りんと願ううちは罰当たりどす。

     ◆

 そうして何時過ぎたんやろか。
「何を舞ってるんや」
「……源はん」
 入り口の柱にもたれ掛かって、料理長の源治はんがじいっと見てた。うちがここに来る前から居て、うちのことをよう知ってくれてるお人。それにしてもいややわ、いつから見られてたんやろ。もう日傘もいらん時間になってたのに気付いてへんだ。
 うちは恥ずかしゅうなって慌てて動きを止めると、着物の裾を整えた。
「もう、見てたんやったら声掛けてくれはったらええのに」
 日傘を閉じる。黒い柄と赤い柄は蝶々やった。
「見惚れとったんや」
 至極まったりした様子で源治はんは言う。この人の優しい眼差しはほっこりするのと同時に体の芯が熱くなる。
「かんにんどすえ」
 目が見れん。うちはそんな気持ちを隠すようにせわしなく髪をいじった。
「さすがここの看板なだけはあるな。わいも鼻が高いわ」
「――あ、お、おゆうねえさんは?」
 自分でもけったいな誤魔化しやと思うけど、こないでもせな恥ずかしくて死んでしまう。
「夕凪か、まだ中でお菊はんとくっちゃべっとる。ややこが出来た言うからまったりなっとるかと思えば相も変わらずいらちでかなんわ」
 そない言いながらも楽しそうな源治はんの様子で、同じ年で同じ頃にここへ来た夕凪はんの訪問が嬉しかったことが解るけど、うちは言わんかった。
「しかし、あいつも母親か。えげつない母親になりそうや」
「そんなことない。ねえさんはええ母親になるよ」
「なんや、ほんまに凪も成長せんな」
 源治はんと話してたら、十四の頃に戻ったような話し方になってまう。源はんは一つ大きく笑うと、うちの手を握って「ほら、入る」と中へ引いた。この手の温もりも昔からいっこも変わってへん。でも、最近はこないされたら何や、困る。
「そろそろ客人が来るで」
 気分が乗らへん。おゆうねえさんやったら「今日はいやや」って言うてるところや。
 せやけど、うちは今日も客に抱かれるやろう。

     ◆

『ここには魔物が巣食うとる』

 夕凪はんの言葉。最近よう思い出す。

 ぢぢぢぢぢ。

 赤いあかい炎が燃える。恋は烈火のように燃え盛り、愛は静かにくすぶり燃える。
 けれど同じ炎なら、いつかは何処かで燃え尽きる。

――いつかは、何処かで、燃え尽きる。

「――はあっ、凪……?」
 お客はんが不思議そうに動きを止めて、うちの顔を見つめた。
「え……?」

「何故、泣く」

 ぢぢぢぢぢ。

「えろう、すんまへん……何も、あらしまへんえ」
 男にしがみ付くと、また男は腰を動かし始めた。

 うちはさり気なく手で目元を拭う。

 ぢぢぢぢぢ。

 これは、熱で溶け出した蝋どすえ。
 うちの炎が燃え出した。

「げんじ」

 うちは小さく小さく呟いた。

     参

 夕凪はんはうちが客と寝とる間に帰ったらしい。えらい残念やった。久しぶりやったのに。
「お母ちゃん」
「なんや」
 うちは階段を昇ろうとする菊千代はんを呼びとめた。
「…………」
「はよ言いおし。後片付けが忙しいんよ」
「何もあらへん」
「あほかいな」
 軽く笑って菊千代はんは激しい足音を立てて昇っていった。
「今更、源はんのことなんか聞かれへんわ……」
 一人でわやくちゃになってほんまあほらし。
「凪、今日は終わりか」
「!」
 この人足音消す方法でも知ってるんやろか。心臓に悪い。
「へ、へえ、終わりどす」
「ほなちょこっと来」
 源治はんの顔が子供みたいに輝いた。うちは動揺を悟られんよう足早に後ろへついた。
「な、なんどっしゃろ」
 連れて来られた先は厨房やった。色んな匂いが立ち込める。源治はんに染み付いてる匂い。
 源はんはうちに背を向けて「待っとれ」と言うた。
「見てみい!」
 勢いよく振り返って手をうちの目の前に差し出す。
 その手にはちっこいお盆が握られていて、その上にはちょこんとまあるい白饅頭が載っていた。
「これ……」
「この間、凪の舞いを見て創りとうなった」
 白い基盤の上に、飴細工で左隅に描かれた大きめの赤い蝶を基点に、黒と赤の細かい小さな蝶々が順良く広がる。綺麗で、うちの顔は綻んだ。
「きれい」
 思わず出た声に源はんはにっと笑って「食ってみい」と言った。うちは盆の脇に置かれた楊枝を真ん中から手前に突き刺した。
 少し広げると、中身のしろあんがしっとりと見えた。うちの好きなしろあん。
 四つ切にしてその一つを口へと運ぶ。
「……おいしい」
 在り来たりな言葉でしか表せられへん自分が忌々しかった。けど、ほんまに其れしか言えれへんくらいの美味しさ。口の中で、餡と生地が混ざり合って溶ける。
「そうか、よかった」
 源はんは顔いっぱいこの笑顔を浮かべた。うちの背後に回って、菓子を指差す。
「ここの蝶が大変やった。なかなかあんじょう書けたんやで。凪はしろあん好きやろ? それに、この菓子にはしろあんが合う」
「……普通のしろあんよりおいしいね」
 あかん。近い。源はんが後ろにいてくれてよかった。顔見られたら、心臓つぶれてしまう。
「ほんまか! 結構時間かけて作ったからなあ。粘り気も少なくてまろやかな味になっとると思う」
 声の調子がほんまに子供みたい。絶対今後ろで笑顔やわ、って想像してしもてうちは笑った。
「何笑ってんねん」
 ちびっと拗ねたように言う。こないなところがかいらしい。
「源はんの作る菓子は源はんのややこやね」
「せやな。けど、こいつは凪のややこでもあるぞ」
 源治はんがうちのねきによる。うちは隣に立った源はんの目を見た。
「うちの?」
「凪がおったから出来た菓子やからな」
 うちは目線を飴細工の蝶へと移した。
「――うちも、こんなに綺麗やったらええのに」
 源はんがうちの頭を撫でた。
「安心せい。凪はきれいや」
 源はんの指がうちの髪を整える。
「髪の毛、わやくちゃやけどなあ」
 そないな顔されたら、この頭に乗せられた手を取って触りたくなるやんか。
 そないな事されたら、べたいあんたの胸に抱きつきたくなるやんか。
「……べんちゃらはかんにんどすえ」

 御願いどす。その手でうちを抱き締めとおくれやす。

「ほんまにきれいやと思っとる」
 源治はんの手が引かれた。

『色んな男に抱かれとっても?』

 うちはその言葉を飲み込んだ。
 だって、源はんの答えが恐ろしゅうてかなんもん。

     ◆

 ぢぢぢぢ。
 不安が炎の火力を弱める。

     ◆

 晴れた昼は好き。日向ぼっこでくるくる舞える。
 その時だけでも、うちは自分が子供みたいに綺麗やと錯覚出来る。まだ子供やけどばばちいうちは。
「綺麗や」
 しっぽりした声が背後から聞こえる。ああ、源はんやったらよかったのに、なんて思ううちが恥ずかしい。源治はんはこないなしっぽりした声とちゃうのは知ってるけど。
「へえ、おおきに」
 くるりと振り返って見た先には、姿もしっぽりした人が立っとった。身なりがええところからして、ええとこの人や。お得意様かもしれへん。
「ここの、凪って言います。どうぞ、よろしゅうに」
 大袈裟にしっぽりと振舞ってみる。
「凪、か。名前も美しい」
 その人は強気な顔立ちをしてた。きりりとした顔に好感は持てたけど、何かが嫌やった。
「……おおきに」
 あくまでも笑顔を忘れんとうちは言葉を返した。
「今日、此処へ来て良かった。凪にとってもええ日になると思うで」
 言葉の意味が判れへん。せやけど、うちはまたにっこりした。あんはんなんかに興味はおへん。

「凪、そろそろ中へ入れ」
 中からしゃがれた声。源はんの声。うちは心の喜びを顔に出さんと「はーい」と言った。
「ほな」
「ああ」
 この人とはそれだけやった。

     四

 明くる日も、そのまた明くる日もうちはお客を相手した。源はんを想いながら。
 でも、うちは報われたいとは思わなんだ。こんなに醜いうちがあん人の傍におれるだけで充分やもん。
 
「凪、ちょっと来おし」
 菊千代はんがそう言って部屋から手招きした。
「なんどすか」
 うちはそおろと部屋へ入って正座する。それを何や菊千代はんは複雑な顔で見てはった。
「こんなこと言いたないんやけど……いや、嬉しいことではあるんや。せやけど――」
 一人であれやこれやと話して口ごもる。うちは首をかしげた。お母ちゃんはしんどそうな顔をした。
「どないしたん」
「……松戸屋あるやろ?」
「あこのいけずな呉服屋のこと?」
 松戸屋は松戸重郎が担う呉服屋で、安値でええもんがようけあるさかい、うっとこがようお世話になっとる。他の処からの評判も上々でたんまり儲けてはるみたい。
けど、重郎がえろういけずな狐男でにやにやしながら浴びせられる嫌味にお母ちゃんや皆はうんざりで、風の噂でその息子はえろう遊び人でどもならん男やそうや。
「一応あないなとこでも物はええし、ここに貢献もしてくれはる。お互いにお得意様なのは知ってるな」
 お母ちゃんのこの口ごもりようは何なんやろ。
「知ってるよ。何? はっきり言うて」
 うちはもどかしゅうなって来てそない言うた。お母ちゃんはうちと目を合わせへんだ。
「……そこの息子があんたを嫁にしたいんやて」
「――え?」
 頭が真っ白になる。色んなことが吹き飛んだ。
意識が戻って来た時、真っ先に思ったうちの考えはきっとお母ちゃんと同じや。だって、うちは手が冷たくなってきたし、お母ちゃんの顔色が悪いもん。
「嫁入りして欲しいんやて」
 呟くような声でお母ちゃんは言う。
「――ここから出る、言うこと……?」
真っ先に思ったこと。聞かんでもそういうことやと解ってる。けど、心のどっかで信じとうあれへん自分がおる。
「……そうや。ここから出るゆうこっちゃ」
 自分に言い聞かすみたいにお母ちゃんは繰り返した。
「――――」
 言葉が出てけえへん。腿の上で握った両手の拳をただ見つめた。
「凪、あてはあんたの母親のつもりでおる」
 お母ちゃんがうちを見かねてか話し出した。
「そのあんたを、あないなえげつない男のいてる処へやりとうおへん。けったくそわるい」
 言葉が途切れる。
「……嫌やったらええんよ」
 ――嫌や。けど……。
「もしうちが断ったら、どないなるん?」
 うちは顔を上げてお母ちゃんを見た。
 十四のうちを引き取りに来たあん時の、辛そうな顔のお母ちゃん。
「何もならんよ。そないな余計なこと考えやんと、あんたの気持ちを言うてくれたらええのん」
 嘘なんが解った。お母ちゃんの気持ちが嘘なんやなくて、うちが断っても何もならんってことが嘘や。お母ちゃん、嘘がへたやね。
「――会うてみて考える」
「……さよか。ほんまに、会わんでええんよ?」
 『会うな』って言うてるようなもんやんか。
 うちはちびっと笑った。
「ええのん。うちもそろそろ身の固め時やと思うてた」
 あんじょう笑えてるやろか。

     ◆

 会う、言うことはほとんど『はい』の返事をしたも同然や。
 この店より、自分より、うちを考えてくれたお母ちゃん。
 せやけど、うちが断ったらあの呉服屋は何をするか解らん。ほんまに解らん。
 それでお母ちゃんが泣いたり、この店が潰れてしまうことの方がうちは恐ろしかった。
 やから、ぬくい水は今日だけ流すことにする。
 ――すっきりせえへんのは声を出さんから? それとも。

 ぢぢぢ。
 火が燃え尽きそうにゆらゆら揺れる。

 源治への気持ちも流れて行って。お願いやから。

     ◆

「松戸屋へ嫁ぐってほんまか」
 源はんが二階へ上がろうとするうちの腕を掴んで問うた。
「……ほんま」
 とめてくれる?
 うちの気持ちを知る由もない源はんの右手から力がふと抜ける。目を伏せて「そうか」とだけ呟いた。
 あかんたれ。……うちのあかんたれ。
「――源はん、うちのことどない思ってはる?」
 聞いてどないするつもりやろ。どっちの答えでも傷つくのに。
「どない、て……大事な――そやな、家族っちゅうか、妹っちゅうか……」
 ほんまに、どんなお人。そない普通な顔して答えられたら、どないしたらええのん?
「そうどすか」
 うちは踵を返して階段を駆け上がった。耳が「凪」と張り上げた源はんの声を嫌と言うほど拾った。
 擦れ違ってばっかり。違う。初めから平行線やっただけ。うちが近づけば近づくほど、源はんは同じだけ離れて離れる。交わることなんかないんや。
 こないに苛立つやなんて。
 気付きとうなかった。うち、期待してたんやわ。

 うちは、この日から三日程源治と話しておへん。源はんの何か言いたげな顔に「期待はあかん」と鞭打って、うちはそ知らぬふりをした。

 松戸屋の息子と会うのは明日。

     伍

 いつもよりこうとうなべべを着て、髪をきれいに結った。さらさらしたべべの感触が慣れん。
「厭やったらやめてもええんよ」
 お母ちゃんが仕度を済ませて玄口に立つうちにそう言った。
「大丈夫。もう決めたことどす」
 うちは笑ってみせた。笑えてるかは解れへんけど。
「……そうか。ほな、源治に包みを持たせとるさかいにあこまで一緒に行き」
「え――」
 うちが頭の中を片付けられんままに見たお母ちゃんの視線の先には、源はんが紫の包みを持って立っとった。

――お母ちゃん、それは堪忍して。

 何や、道中、気まずい空気になりそうや。

     ◆

 凪と源治が店を発って数分した頃、夕凪が店に現れた。
「菊千代ー!」
「また来たんかいな。なんぎなこっちゃ」
「そろそろこれが目立つようになってきたさかい、あの人が家事も休めって言うてくれたのん」
 呆れたようにいう菊千代に夕凪は腹を指差すと口元を緩ませて言うた。
「なにいうといやす。それでも家事をするのが勤めでっせ」
「ええんよ、そんなうちを好いてくれてはるんやから」
 口をすぼめながら、きょろきょろと目をせわしなく動かす。
「どないしたん」
「凪は?」
 その問いかけに菊千代はちびっと妙な顔をした。
「松戸屋の息子に会いに行ってるわ」
 菊千代の答えに夕凪は顔を歪ませた。
「はあ? なんで」
「……重吉が凪を気に入ったんやて」
 夕凪の眉間に立て筋がぐぐっと寄る。
「――よりによってあのけったくそわるい重吉にか」
「――せや」
 夕凪の眼が菊千代をしっかり捕らえた。菊千代はじんわりとその目から逃れた。
「……菊千代、断れへんかったんか」
「…………」
「なあ、あんたやったらあの子が断れへんの解ってたはずやろ?」
 菊千代が下唇を噛む。
「よりによってお得意さんの松戸屋や。あんたやこの店を思ってあの子が断れへんって解ってたやろ?」
「……あてもどないしたらええんか解らんかったんや」
 夕凪の目に菊千代の俯く姿が映る。

「――凪より店を取ったんか」

 吐き捨てるように夕凪が言う。菊千代はその言葉に顔を紅潮させた。
「ちゃう! 凪は、あの子はあてにとって大事な子や」
「その大事な子を松戸屋みたいなえげつないところにやるんか!」
 菊千代の腰が浮く。
「凪にとってここに居るより幸せなことかもしれん」
「はん! あの狐の重郎と重吉んところで何が幸せや」
 夕凪も負けじと詰め寄る。二人の眼ががっちり合うた。
「ここよりは――」
「凪にとって幸せはここにあった!」
 夕凪は言葉を遮ってちっこい庵を叩いた。
「……あんたは気付いてやるべきやった」
「――なにを」

「凪と……源治が互いに惹かれ合うてたことに」

 夕凪は立ち上がって菊千代に背を向けた。
「それからな。身売りは確かに幸せなこととちゃうかもしれんけど、うちはそこにも幸せはあったと思う」
「夕凪……」
「けどな、ここの頭の菊千代はんに否定されたら、それをして来たうちも凪も、他の皆も不幸やったことになるやんか」
 振り返った夕凪の目は潤んどった。


     ◆

 二人の草履が地面を擦る音だけが耳についた。
「……厭か?」
 源はんが口を開いた。
――厭。
 そない言うたらどないしてくれはる?
「わいなあ、よう考えたんや。普段頭なんか使わんから、えろう頭痛なってしもた」
「……何を?」
 横目で見た源はんは何とも言えん面持ちで歩く。
「三日前にお前が言うたやろ? どない思とるか、って」
「――へえ」
「今まで菓子作りしかしてきてへんかった。せやから難しゅうてかなんだわ」
 何を言いたいんやろ。うちまで頭痛うなるわ。
「あのなあ。考えても何もはっきり解らんかったんや」
 いきなり立ち止まって源はんはうちを見た。うちも足を止めた。
「けどな」
 源治はんの右手がうちのかんざしを整える。

「お前があこに嫁ぐのは厭やと思うた」

 真剣な眼差しに胸が熱うなる。背の高い源はんがうちの頭に手を置いて、うちはその手を取りたかった。

「ああ、凪。待っとったで……何や、菓子職人も一緒か」
「……重吉はん。どうも」
 しっぽりした声に反応して、源はんの手が引かれる。
 あの日向ぼっこの日に会うた人が重吉やったんか。いやな予感は当たっとったんやね。
「これ、渡せと言われとりました」
 源はんの顔がちびっと怒ったような顔やった。
「さよか」
 そう言って重吉は源はんの手から紫の包みを引っ手繰るようにして取った。いけすかん。
「ほな、もう菓子職人に用はないさかいに」
 うさんくさい笑みを浮かべてうちの肩に左手を回す。嗚咽感てこないな感じなんか。
 うちは回された手からさりげなくいのこうと動いた。
「なあ、凪」
 それを拒むかのように重吉はうちの肩をがっしり掴んだ。
「……へえ」
「おまえの大事な店を、うちの知り合いの十手持ちに見られとうないな?」
 重吉の小声に胃の中身が戻ってきそうやった。
 一瞬振り返ったら、源はんが手を握り締めて俯いてた。

 ぢぢ。
――源はん、うち、ほんまは厭や。

     ◆

 夕凪は走った。
 菊千代に源治も付き添いで向かっとることも聞いて、店を後にした。
「こないなこと、まんが悪いってだけで済ませへんっ」
 真直ぐ走って、三つ目の角を曲がろうとした時に源治に出くわした。
「げっ、げん、じ……」
 息が切れる。
「ゆう、なぎ?」
 驚いたように妊婦らしからぬ妊婦を見つめる。
「あんた、何、しとんのやっ」
「何、って……凪と重吉はんが見合うさかいに菓子を運んで来たん――」
「あほかっ」
 切れ切れの言葉の中に怒りが見える。疲れてなかったら飛び掛って殴られそうやと源治は思うた。
「あんた凪を好いとるんやろが!」
「――わいが凪を?」
「――――っ、ほんまにこの、すかたんがっ! ここまでどんやとは思わんかった! ええかげんにしてんか!」
 夕凪は大きく息を吸いちびっとずつ呼吸を整えた。
「……ぼろくそやな」
 全くもって解らん、と言った風に源治は言う。夕凪は乱れた髪も直さずに頭を掻いた。
「あんた、これでええのん!?」
「ええもなにも。凪が決めたんやからどもならんやろ」
 さっきの重吉を思い出してか、源治の顔が曇った。
「ちゃう! あんたがええのか聞いとるんえ」
「わいがか」
「せや」
 夕凪は今にも胸倉を掴みそうな勢いで源治を見上げる。
「わいは……好いとるとかそないなことよう解らんのや」
 困ったように眉を八の字にして源治は言う。思わず夕凪は胸倉を掴みかかろうとした。

     六

 松戸屋は流石に呉服屋としては名高いだけあった。家はでっつうてうちの与えられた部屋の三部屋分くらいが一部屋やった。
「よう来たね。まあ、お座り」
「へえ、このたびはえろうおおきにどす」
 うちはその場に正座すると三つ指をついて頭を下げた。こないな屈辱もお母ちゃんの為や。
「そないな堅苦しい前置きはなしにしよや。もっと楽しいことがあるやろ」
 いけすかん。
「……舞でも舞まひょか」
 すぐねきに寄る重吉から離れようとうちは腰を上げようとした。その腰をぐいと引き寄せられる。にやにやした顔が近くに来る。
「ええ、舞なんかに興味はあらへん」
 いけすかん。
「綺麗や」
 あんたはうちの舞を綺麗や言うたんやなかったんやね。
「――気が早いおすなあ。とりあえず包みでも開いてもらえませんやろか」
 うちは重吉の体を離そうと手に力を込めた。ほんまに気分が悪い。死んだほうがましや。

――死んだほうがまし。

「ほしたら見てみよか」
 そう言って重吉は包みを開けた。
「なんや、ぶさいくな菓子やな」

――凪の舞いを見て創りとうなった。

 頭の芯がかあっとなった。

「返して」

「は?」
「そないなこと言われとうない! これはうちのややこなんや!」
 重吉の指をあの菓子に触れさせとうない。
 源はんを馬鹿にした男と体を重ねとうない。
 もう、店もお母ちゃんもどうでもええ。
「何言うとるんじゃ」
「返して!」
 もう、わやくちゃや。

     ◆

「夕凪」
 名前を呼ばれて夕凪の手が動きを止めた。
「解らんけど、わいが止めにはいったらおかみさんも店も困らんやろか」
「知らん」
 自信たっぷりに夕凪は答えた。
「せやけどな、凪は困る」

「それはわいも困る」

 そう言って身を翻した源治に夕凪は叫んだ。
「あんたはどこへ行っても通用する菓子職人やで」

     ◆

 この菓子を触れられる前に奪いたかった。
 うちと源治の絆を穢される気がしたから。

 その菓子は今畳の上でぐちゃぐちゃになっとる。蝶が羽根を捥がれたみたいに。

「大人しゅうしとったらええんや。いつもの仕事と変わらんやろ」
 爪あとを顔につけて重吉はうちにまたがって言う。
「……あんたに抱かれるんやったら死ぬ」
 うちは呟いた。着物の隙間から胸をまさぐる重吉の手が止まった。
 右手が風を切って、刹那、うちの頬がひりひりした。
「死なせへん。死なさんと抱いたる」
「……吐き気がする」
 反対の頬にも閃光が走った。両頬がじくじく痛む。
「……くく、あんたも幸せを知らんのやね」
「やかましい」
「……ふふ、こないな風にうちを犯せて幸せ?」
「――やかましいっ」
 首に圧迫感。
 重吉がうちの首を絞めてる。
 よかった。抱かれる前に死ねそうや。
「……蛆虫」
 更に力が強まった。ひゅーひゅーと声にならん変な音が漏れる。頭に血が溜まるんが解る。目が霞む。
 なんや、死ぬってこんなことか。

 ぢっ。
 燃え尽きる。

――げんじ。

 声にならへん。

     ◆

「やめろ!」
 途端、重吉の力が弱まった。うちは突然入り込んできた空気にえろう咳き込んだ。
「この野郎、凪になにさらす」
 ぼやけた視界に源治が重吉に殴りかかるのが見えた。
 一発、二発。馬乗りになって止まらん手の動きがじんわり鮮明になってきた。源治の顔がいつもと違た。
「――やめて、やめて!」
 うちは恐なって思わず源治にしがみついた。
「……凪」
 源治の目がうちを捉えた途端、源治の赤うなった手が震えた。
「凪――」
 そのままぐったりした重吉から腰を上げて、泣きそうな顔した源治がうちを引き寄せた。
「凪」
 求めた源治の手がうちの首をさする。
「凪」
 聞きなれた声が何度もうちの名前を呼ぶ。
 体を離して源治はうちの目を見た。

「二人で何処かへ行こう」

 何かがこみ上げてうちの目頭を熱くした。

「源……」
「お前が殺されるかと思うた」
 源治の頬を伝ったぬくい水をうちはすくった。
「あんはんと結ばれへんのやったら殺されてもよかったどす」
 うちのぬくい水を源治がすくった。
「お前を失いとうない」
 源治はまた、うちを抱き寄せた。

     ◆

 ぢ、ぢ、ぢ。
 うちの炎は燃え尽きそうになったんやなくて、いつからかくすぶり燃えとった。
 それは、恋がいつからか愛に変わったように。

     ◆

――なあ、色んな男に抱かれててもきれい?

――おまえは綺麗やって言うたやろ。そないなこと関係あれへん。

――倖せ。












 終劇
2005-04-13 14:20:48公開 / 作者:昼夜
■この作品の著作権は昼夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
     ◆あとがき

 その後、店に戻った凪に菊千代は泣いて謝り、抱きしめた。
 重吉はこのことを根に持ち、復讐を企んだが、松戸屋が村人の一揆に合い一年後に命を落とした。
 父の重郎は行方が知れない。
 店はお陰で役人に知れることもなく細々と舞妓と裏家業を続けている。
 夕凪は子を産み、そのややこに『都』と名づけた。
 源治と凪は夫婦になるべく店をやめ、違う土地に移り菓子の店を構えた。
 その店が繁盛して老舗となるのはあと十年後の話。





 どうも、完結しました昼夜です。ここに来て当初の予定によりジャンルをラヴ・ノヴェル(気持ち悪い)に変更。

影舞踊様--コメント爆笑してしまいました。似合いすぎです(マテ あんじょうやれてるんかは解りまへんが、わりかしまとめにくい展開になりおした。ちょびっと駆け落ち、ぽい?(笑

うしゃ様--げへへ(犯人ぽく ちゃんと天使様になりましたよ。危うく殺されるところでしたが。源治に対して私も同様のことを感じました(笑 この男かっこよくしきれねえや。あはは。

甘木様--炎は今回のストーリーにかかせないテーマにしてみました。今回で炎の燃え方についてはっきりすると思いますがどうでしょう。心を痛めて頂けたかなあ。結構あっさり感になってしまったかな。

バニラダヌキ様--小森のおじちゃま!(爆笑 古いです、古いですが伝わってしまいました。凪は純粋な面が多く、夕凪より擦れた感じがないイメージでした。だから結構動かしにくいキャラ(コラ ということで悪役が出て来ざるを得ません。やっぱり夕凪活躍させちゃったし。妊婦なのに。『妊婦らしからぬ妊婦』とか源治と話すシーンで初め書いてましたがあまりにも笑えるのでやめました(笑 四分の一、訂正してみましたがいかがかな。

京雅様--おおう、名前がこの小説にぴったりな気がしてしまいました。いやはや、本当にそう言って頂けると嬉しいです。やはり京ことばの雰囲気は魅力的なものがありますね。私もエセ京ことばには違いないのでしょうが(汗

恋羽様--三度寝。私も得意分野であります(マテ もっとおどろおどろしい恋愛、情愛を描きたかったのですが、そんなに長くするわけにもいかず。完全なる計算ミスであります(笑

神夜様--ダメ読者などととんでもない発言をする神夜様は堪忍しまへんえ(ぇ 擦れ違う二人、心通った時既に遅し、って展開は作者が耐えられなかったので寸止め。もっと源ちゃんをかっこよくしてあげたかったなあ。無理だあ(笑

ゅぇ様--かなり京ことばの持つニュアンスに助けられている部分が多いです。というか、ロックライフみたいなレスってどういう意味でっしゃろか、おねいさん(笑 何でしょうな、この店は違法なんです。規制されて来た時って設定で。もう本当に格下であります。私も島原に行こうかな。京都の旅館に一人旅……自殺者だと思われますかね。

オレンジ様--有難う御座います。自分で書いていると本当に切なさも雰囲気も解らなくなりますのでそのお言葉は本当に感謝です。こんな微妙な源治と名前が被ってしまって申し訳ない(笑 

 皆様、此処までお付き合いくださって目を通してくださり誠に有難う御座いました。
 この後頂けた感想は後にお返し致します。非常に凪を殺すか迷った為に皆様のコメントが楽しみであると同時に恐いですねえ。
 なにはともあれ完結です。お粗末様。
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