『猫間高校奇譚』作者:甘木 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角108521文字
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 1

 キーンコーン、キーンコーン。
 四時間目の終了を告げる鐘が鳴る。今日の授業はすべて終わった。
 教室内に自由の空気が充満する。教室に入ってくる足音。出てゆく足音。無意味なバカ騒ぎ───どこの学校でも見られるごくありふれた光景。
「エミ、どこ行くの?」
「夏南美のとこ。CD貸してもらう約束してるんだ」
「いまはやめたほうがいいよ。夏南美のクラスって凄いことになってるらしいから」

 ───北城君が悪いわよね。
 ───あれじゃ夏南美がかわいそう。
 ───北城君ってニブそうだもん。
 ───椎名も北城なんてかまわなければいいのに。
 ───やっちまえ椎名!
 教室の中央に人だかりができている。
 その中に一人の少女が立っていた。
 軽くウエーブがかかったセミロングの髪。意志の強そうな瞳、引き締まった顔立ち、健康的に焼けた肌。ボーイッシュな印象を与える少女。
 ウルトラマリンブルーの制服から伸びた、長くしなやかそうな四肢には活発的な気が満ちている。
 スレンダーなボディの───とくにムネが。自称『Bカップ足らず』、現実にはAAカップと目される控えめなムネが眼に痛い───椎名夏南美(しいな・かなみ)。
「あたしが言いたいことはわかってるわよね!」
「お、落ち着け夏南美。冷静になって話し合おう。な、なっ」
「あたしは冷静よ! さっきのことを説明して下さらないか・し・ら!!」
「くっ、く、苦しい」
 教室内のざわめきが一斉に静まった。
 私立猫間大学付属猫間高校一年二組の生徒三七名は、一生涯見ることがないだろう光景を目の当たりにしていた。
 身長一五七センチ。決して長身とは言えない夏南美が、一七四センチの北城拓也(きたしろ・たくや)の胸ぐらをつかんで高く持ち上げている。
 拓也は痩身ではない。中学校時代はバスケットボール部でレギュラーだったぐらいだ。細身ながらも締まった身体をしている。
「謝るから手を緩めてくれ、息が、息が……」
「あら、謝ってくれる必要なんかないわ。あたしが教えてほしいって頼んでいるだけよ」
 口調は穏やかだが、目はまったく笑ってない。そこはかと殺意すら浮かんでいる。
「怒っていないから話してね。お・ね・が・い」
 拓也の身体がさらに高く掲げられる。
「信じてくれ、アレが初めてなんだ」
「あたしが優しく聞いているうちよ、素直に白状しなさい!」
「パンツは……」
 答えられるものなら答えたいだろう。だが紫色に変色している顔色といい、ピクピクと小刻みに痙攣する足といい、おそらく拓也に意識はない。
 揺さぶられるたびに、なされるがままユラユラと動いているだけ。
 ───夏南美、殺しはマズイよ。
 ───北城の顔が真っ白だぜ、ヤバクないか……。
 ───椎名のヤツ、マジにきれてるぜ。
 拓也と夏南美のケンカには慣れているはずのクラスメイトも、夏南美の気迫に気圧されて遠巻きにするだけ。
 意を決した男子生徒が、恐る恐る夏南美に近づく。
「おい椎名、マジに北城が死んじまうぞ。もう許してやれよ。ひっ!」
 が、振り向いた夏南美ににらまれたとたん、小さな悲鳴をあげて凍りついてしまった。
 視線で人が殺せるのものなら、この生徒は即死していただろう。ついでにまわりにいる数人も巻き添えをくらって死んでいたかもしれない。
 もう止められない───誰もがそう思った。
 クラスメイトの大半がこれから起こり得る悲劇、すなわち人が死ぬ瞬間が訪れることを覚悟していた。
「夏南美ちゃん」
 この場にそぐわない気の抜けた女子生徒の声がかかる。
 一七〇センチの長身。飾り気のないヒモでしばっただけの伸びるにまかせたままの髪、スリムながら出るべきところは出たボディ。
 きれいだけど人形のように表情が乏しい顔。
「夏南美ちゃん、ちょっと……」
 制服をツンツン引っ張られて、夏南美はやっとその存在に気づいた。ハスキーな声で話す後閑笙子(ごかん・しょうこ)の姿に。
「何か用なの?」
「どうでもいいんだけど、木南先輩に頼まれちゃったから……」
 夏南美の苛立ちなどどこ吹く風で、いたってのんびりとした口調。
『木南先輩』この言葉に嫌な予感を覚え、夏南美の意識が笙子に向かう。
「いまあたし忙しいの。用件を早く言ってよね」
「今日、緊急部会を開くから部室に来るようにって」持っていた手紙と小さな包みを差し出す。「それと、これをプレゼントするから、北城君を殺すのは待ってくれって」
「手紙? 手がふさがってるの見ればわかるでしょ、代わりに読んで」
 言われるまま、笙子は手紙を広げた。
「平部員 椎名夏南美君に告げる。
 君が生きようと死のうと勝手だ。私個人から言わせてもらえば、美しき男性を惑わせる愚かなる女人が、この地球上から一人でも減ってくれたほうがありがたい。
 が、一応君も名誉と伝統ある民俗学研究部の部員である以上、部長の私としては民俗学研究部の名前に、泥が塗られるのを看過するわけにはいかないので忠告する。
 貴重な男性部員であり、可愛い後輩でもある北城拓也君に対する私刑を即刻止めたまえ。君にも言い分はあるだろうが、私は聞く気はない。が、とりあえず北城君に代わって謝意の品を渡すので彼を許してやってほしい。
              民俗学研究部第四八代会長 木南淳(きみなみ・あつし)」
 クラスのみんなが呆気に取られている。
 そうだろう、勧告というよりはケンカを売っているとしか思えない。
 木南の言動に慣れている夏南美ですら呆れたぐらいだ。
 笙子だけは動じない。「これ、開けるよ」木南から預けられた包みのテープをはがす。
 夏南美は拓也を掲げたまま顔をだけを向け、「えっ!」驚きの声がもれた。
 クラスメイトの視線が一斉に笙子の手元に集まる。
 それはイタリアンレースで飾られた黒い絹製品。
 小悪魔的な魅力と女性的な繊細さを表現している小品。
 女性用のショーツだった。
 夏南美の腕から力が抜け、拓也はだらしなく床に崩れ落ちた。

 ことの起こりは一時間前にさかのぼる。

 2

「今日はここまで。来週は小テストをやるからな」
 ───えーっ!
 ───横暴だーっ!
 ───テストばっかりじゃん!
 数学教諭は生徒たちのブーイングに送られて教室を出ていった。
 だが不満の声も長くは続かない、すぐに楽しげな声に変わる。
 とにかく三時間目は終わったのだ。わずかな時間を惜しむように雑談に花が咲く。
 昨日のテレビの話、放課後にどこに行くか───話の内容なんてなんでもいい。クラスメイトとのコミュニケーションが大事なのだから。
 ───真希子の彼氏なんだけどぉ……。
 ───だりぃ。今日はバイト行きたくねぇ。
 ───ところであの二人、どうしてにらみあってんの?
 クラスメイトたちの他愛のない会話に、教室の空気は軽やかさを取り戻す。
 が……北城拓也の席の周囲だけ、重苦しい不穏な空気に覆われていた。
 椎名夏南美が拓也に噛みつかんばかりに迫っている。
「拓也、今月の部費を持ってきたでしょうね。今日が期限なのよ」
「カネ、カネってうるせぇな。サラ金だってもっと愛想がいいぞ」
「文句なら木南先輩に言ってよね。だけど部費を払ってくれなきゃ活動もできないの」
「わかってるって。俺だって払わないって言ってるわけじゃないんだからよ。だけどもう少し優しく言ったってバチは当たらないだろう」
「あたしだって好きでお金集めなんてしているわけじゃないの! けど、これだけ部費の支払いが悪いと言葉もきつくなるわよ」
「俺にあたるなよ。金なら手配しているから、もう来るはずだ」
「来る? 来るってどういうこと?」
 怪訝な表情を浮かべる夏南美の背後から、拓也に声がかかる。
「北城。金持ってきたぞ、例の物はあるんだろうな」
 小太りで盛大にニキビを咲かせた男子生徒───照井弘治(てるい・こうじ)が立っていた。
(四組の照井君だ。でも、拓也って照井君と仲良かったけ?)夏南美の記憶の中には拓也と照井の接点は見いだせなかった。共通点と言えばスケベで変わり者ということぐらいだろう。
 拓也はアグレッシブなスケベで、どちらかというとライトタイプ。照井は物陰から女の子をスケベな視線で視姦するような粘着タイプだった。
(この二人って、スケベはスケベでも水と油の取り合わせだと思うんだけど……)
 拓也はカバンの中から小さな包みを取りだし、「ほら、ちゃんと持ってきているだろう」包みをお手玉みたいに手のひらの上でもてあそぶ。
 相当軽いらしくポンポンと飛び跳ね、照井の顔も包みにつられて上下する。照井はネコのように手を出すが、拓也は空中で包みをインターセプトしてしまう。
「金が先だ。じゃないと商品は渡せないな」
「わかっているって」照井は財布から千円札の束を抜き出した。
 拓也は受け取った千円札を何度も数え、「……七、八、九、一〇。オーケー、確かに一万円ある。商談成立だな」
「拓也、照井君に何を売ったの?」
 黙って見ていた夏南美が口を開いた。
「えっ? あっ、椎名君いたんだ。やばっ!」
 反応したのは照井のほうだった。
「金渡したんだから、早くよこせよ約束だろう!」よほど取引に意識が集中していたのだろう、夏南美の存在に気づいて狼狽している。
「照井君、いまあたしを見て『やばっ』とか言ってたわね。あたしがいるとどうしてやばいのよ」
「えっ、あっ、えっとぉ。な、なんでもない。ない」
 猛獣ににらまれた小動物のごとく、照井は汗をかきながら口の中でもごもごと言葉を転がすだけで、いっこうに埒があかない。
「拓也、その包みの中身は何なの?」
 照井を見限って矛先を拓也に向けた。
「なんでもない、大したものじゃねぇよ」
「だったら見せてよ!」
 夏南美はいつもより強気だった。
 拓也は席から立ち上がると同時に叫んだ。「照井、走れ!」
 弾かれたように照井がドアに向かって走る。
 照井に向かって拓也は思いっきり包みを投げた。
 ぱさ……包みは夏南美の足元に落ちた。あまりにも軽すぎたのだ。
 夏南美は勝利の表情を浮かべ拾いあげる。対照的に拓也は息を飲んだまま、口を半開きにして力無くイスに崩れ落ちた。
「なにかしら。ずいぶんと柔らかいわね」
 包みの中には布製品が───現実にはあり得ない青いネコの絵。
「ネコ? あーっ! こ、これ、先週盗まれたあたしのパンツ!」
 怒りと恥ずかしさに顔を真っ赤にして拓也をにらみつける。
「盗んだのあんただったの……このド変態! 被ったりしたんでしょう!」
「そんなことしねぇよ! 俺は頼まれただけだ」
 完全犯罪を計画してアリバイが崩された犯人みたいに意気消沈する拓也。
「頼まれた? 誰に?」
「色んなヤツだよ。おまえけっこう人気があったんだな、驚いっちまった。とくに熱心だったのが照井だったよ」
「盗んだうえに他人に売るなんて、ひどい!」
「ひどいだろう、俺もそう思うよ。照井のヤツ、最初は三千円って言いやがるんだ。だけど夏南美の名誉のために一生懸命交渉したんだぜ。最後は一万円まで競り上げてやった」拓也は勝利のガッツポーズをつくった。
 パンツを握りしめる夏南美の手が小刻みに震える。
「夏南美ちゃん……お揃い」いつも無表情な後閑笙子が嬉しそうに───夏南美に対してだけは別だった。ペットように懐いている───つぶやいた。
「お揃い? なにが?」
 唐突な言葉に気勢を削がれ、呆れ顔で振り返った。
「ほらっ」と言いながら、笙子はスカートをまくり上げようとする。
「ちょっと待てーっ!」
 げしっ! スカートをつかむ笙子の手に夏南美の手刀が炸裂する。
「こんなところでなんてことするの」
『なんで』って表情を浮かべ、「本当に穿いているのを見せようとしただけなのに」未練がましくスカートをつかんでいる。
「ったく、恥ずかしい」
「本当にお揃いだから……」
 夏南美に信じてもらうことが大事で、それ以外は些細なことのようだ。
 そう、笙子は他人のことに興味は持っていないし、他人の目なども気にしていなかった。
 夏南美以外は。
「はい、はい、信じてるから」夏南美はおざなりに答える。
 一刻も早く話を打ち切ろうとしているのがありありだ。
「その言い方、やっぱり信じてない……本当だよ。見て!」
「わかった、わかった、後で見せてもらうから。ね、それでいいでしょ」夏南美の顔には諦めの表情が浮かんでいる。
「うん、わかった。約束だよ」嬉しそうな声。
「話がまとまってけっこう。それにしても、女が女のパンツ見て嬉しいのか?」
 自分の立場を忘れて拓也がしゃしゃり出てきた。
「んなわけないでしょ!」夏南美の声が大きくなる。
「嬉しい」
 不穏当な発言が聞こえた気がするが、夏南美は無視した。
「ほれ、今月の部費」
 夏南美の鼻先に千円札が二枚突きつけられた。
「大事に使えよ、苦労して手に入れたんだから」
「ちっ、違ーーーう!」
 見事な回し蹴りが拓也の後頭部に決まった。

「まったくこんなバカが幼なじみだと思うと情けなくなるわよ」
「痛てぇな、幼なじみには少しぐらいは手加減するもんだぜ。これだからムネのない女は嫌だ、ムネが薄いと情まで薄いんだからよ」
「ムネは関係ないでしょう。あたしだって十分手加減してるわよ。幼なじみじゃなかったら、あんたは病院のベッドの上よ」
 さきほどの蹴り、決して手加減しているようには見えない。普通の人間がくらったら、ただでは済まないスピードと切れがあった。
 拓也には幼なじみゆえの耐性があったか。それとも、もはやパンチドランカーで何も感じないのかも。
 夏南美は諦め似た大きなため息をつき、拓也に向かって優しく話しかける。それは母親が小さな子供を諭すように。
「拓也、こんなことばっかりしていると一生彼女できないよ」
「バカにするなよ夏南美、俺だって本気になれば彼女の一人や二人ぐらい。それもグラマーな美人をだ」
 と言ったものの、拓也の人生には不思議と夏南美以外の女性には縁がなかった。
 拓也は決してブ男ではない。どちらかといえば親しみやすい顔だ。
 事実、初対面のときだけは女の子の評価は高い。ただし一〇分もすると評価は大暴落。『変な人』『バカじゃないの』『スケベ』そんな言葉を残して去ってゆく。
「拓也、あんた悪いクスリでもやっているの。どこにそんなグラマーな美人がいるのよ。幻覚が見えるんなら病院に行きなさい」
「幼なじみだから言わずにいたけどな、おまえと比べたらどんな女でもグラマーなんだよ」
(な、な、なによ!)怒りのあまり声が出ない。何か言ってやりたいのだけど、がんとして口が開かない。
「俺だって言いたくはないんだ。だけど真実を伝えるのは、幼なじみとしての義務だからな」反論してこないことを、自分の意見に賛同したものと勘違いして、満足そうにうなずいている。「ムネはないけど、夏南美にだって良いところあるんだから悲観すんなよ」
(怒っちゃダメ、このバカと同じレベルになっちゃダメ。我慢するのよ夏南美。こんなバカでも一応幼なじみなんだし……)
 そうよね───幼稚園から始まって、小学校、中学校、高校と同じ学校。クラスもいつも同じ、家も隣同士、実時間では親よりも長く顔を会わせている───拓也はまだまだ子供なんだから、あたしがオトナになって面倒見てやらないと……。
 必死に己の内からこみ上げてくるものを抑え、やっとの思いで声を絞り出した。
「だったら見せていただけますか、そのグラマーな美人を。ま、拓也を好きになる奇特な女の子なんているとは思えないけど」
「うるせぇな。おまえみたいなガサツな女には、俺の魅力はわからねぇんだ」
「あたしのどこがガサツなのよ!」
「公衆の面前でパンツを握りしめながら俺を怒鳴るところだ!」
「なんですって!」
 ───いつもの夫婦ゲンカが始まった。
 ───毎日毎日、よくもまぁケンカの種が尽きないわね。
 ───二人とも子供よねぇ。
 キーンコーン キーンコーン。
「騒いでないで早く席に着け。授業を始めるぞ」
 二人のケンカは、英語の藤川教諭の出現で決着を見ないまま終わった。
 藤川教諭は黒板に問題を書くと出席簿に目を落とす。
「この問題は……」
 ───どうか当たりませんように。
 皆頭を低くして、目立たぬよう、藤川教諭の注意を引かぬよう押し黙る。
 いや、教室中が肉食獣におびえる小動物みたいに、息をひそめていることさえ、気づいていないものが三人。

 腕を組んで黒板の一点を見据えたまま動かない拓也。
 どうやって誤魔化そう……。
 マズイよなぁ、夏南美にばれちまうなんて、怒ってるだろうなぁ。
 だけどこれも夏南美のためにやったのに……あいつの部費集めに協力してるだけなのによ。そこんとこ理解してほしいよな。って、無理だよな……やっぱり。
 パンツがダメになった以上、部費を稼ぐ手段だよなぁ……。
 こんどはブラジャーを狙うか……をい、夏南美ってブラ持っているのか? あんな平らなムネじゃブラは必要ないよな……だめか。
 とりあえず、なんとか夏南美をなだめないとな……。
 妙案は浮かばなかった。

『ムネが薄いと情が薄い』『グラマーな美人』って……ムネ、ムネ、ムネ!
 カチカチ、ポキ。カチカチ、ポキ。カチカチ、ポキ……。
 短く折れたシャーペンの芯が飛び回る。
 夏南美はノートに向かい、一心不乱に書き込んでいた。
 いつもの夏南美なら真面目に黒板の文字を写していただろう。
 今日は授業が始まってから、まだ一度も黒板に視線を向けていない。
 机の上に広げたノートをにらみつけ、ひたすら同じ言葉を書き連ねている。
『ムネ』『ムネ』『ムネ』『ムネ』
 彫刻家がノミで石を刻むがごとく、一文字書くたびに力が入る。
 ポキッ。そして芯が飛ぶ。
 パンツ盗むなんて信じられない! よりによって他人に売るなんて……お気に入りのパンツだったのよ。
 取り返したからいいようなものの、一度、痛い目にあわせないとわからないのかしらね。
 でも、あたしが文句言えば言い返してくるし……あまつさえムネがないですって! ムネが無くって誰かに迷惑かけたか!
 あたしのムネなんだから、大きかろうが小さかろうが、あたしの自由でしょ! 
 だいいち大きくできるんなら、とっくにやってるわよ!
 もう何に対して腹を立てているのか、夏南美自身にもわからなくなっていた。
 ギリッッ 『ム』
 ギリィイ 『ネ』
 シャーペンはノートを突き破り、ベギッ 折れた。

 夏南美ちゃんも持っていたんだあのパンツ……。
 妙に嬉しそうな笙子であった。

 3

「夏南美ちゃん、北城君死んじゃったよ」
「えっ!」
 木南淳の無礼な手紙と理解を超えたプレゼントで忘れていたが、椎名夏南美は自分が北城拓也を締め上げていたことを思い出した。
 拓也は───床に横たわっている。
「ちょっと、いやだ、拓也!」
 夏南美は慌ててしゃがみ込み口元に手をかざす。
 強くはないけれど呼気が感じられる。
「はぁっ 生きてる。よかった……」
 よく見れば胸もゆっくりと上下している。
「笙子、いいかげんなこと言わないでよね。焦っちゃたじゃない」
 緊張感が一瞬のうちに緩む。
(拓也が原因なのに、なんであたしが心配しなきゃならないのよ)
 暢気そうに寝ている拓也───世間では仮死状態とも言うが───見ていると、ホッとすると同時に腹立たしさが湧きおこる。
「拓也! 拓也! 起きなさいよ、拓也!」
 パン! 頬を軽く叩く。
 パシッ! パシッ! 「はよ、起きんかい!」言葉遣いが……。
 テンポが速くなってきた、腕が伸びて腰の入った平手が決まりだす。
 バチッ! バチッ! バチッ! 「永遠に寝かしたろか、ゴルァァァァァ!」なんか目的が変わってきている……。
「い……痛ぇ……」拓也が弱々しい声をあげる。だが、夏南美の耳には届いていない。
 バグッ! 決まった。平手打ちに理想のフォームがあるとしたら、まさにこれだ。
 スピード、角度、力の入れ方、手首の返し。一部の隙もない完璧な平手打ち。
 湿り気を帯びた物体を打つ鈍い音ともに、拓也の身体は見事に吹っ飛んで壁に激突。こんどこそピクリとも動かない。
 ───さすがの北城君も今回ばかりはダメか。
 ───あれ、本当に動かない。
 ───やべーぞ。
 クラスメイトの動揺をむこうに、夏南美は落ち着いたものだ。
「拓也、意識あるんでしょ。わざとらしく倒れていないで起きなさい」
 動かない。壁際で粗大ゴミと化している。
(まったく、同情でもかおうとしてるの? わざとらしい)蹴りでもくれてやろうかと、半歩踏み出した夏南美を後閑笙子が引き留める。
「夏南美ちゃん、これ」
 さっきの木南の手紙を差し出す。
「やっぱ、先輩って変態……でも、これって使える」手紙を読んだ夏南美の目にはいやらしい光があった。
「拓也、起きなさいよ」
 だが、返事はない。
「いますぐ起きなさい。これは忠告よ」
 ……。
「あっそう、起きないつもりね。もういいわ、笙子読んで」
 木南の手紙には続きがあった。
「追記。もし、愛おしき北城拓也君のパンツ(脱ぎたてならなお良し)を入手した場合は、ブリーフ、トランクスの種類のいかんに関わらず一枚五万円(脱ぎたてなら一万円アップ)を支払おう。なお、入手方法について私は一切関与しない」
 教室内がどよめいた。
 ───五万円だってよ。五万円あったら……。
 ───不潔! 変態だわ。でも五万円よねぇ……。
 ───バイクの頭金になるなぁ。
 ごくっ。ツバを飲む音がやけに大きく響いた。
 ───北城君って意識無いんだよね。
 ───パンツぐらい穿かなくても人間死にはしないし。
 ───北城君だって夏南美のパンツを売ろうとしたんだから。
 ───北城に三割、いや、二割くれてやれば……。
 暑苦しい沈黙が続く。誰もが理性と闘っている。
(なんで拓也のパンツがあたしのより高いのよ)
(夏南美ちゃんのパンツなら買うのになぁ。でもお金ないし……)
 夏南美も笙子も己と闘っていた───クラスメイトとは違うものと。
 妄念が熱を生んだか、まだ五月だというのに教室内は汗ばむような暑さだ。
 誰かが一歩踏み出せば暴走するのは必至。
 プールの中で潜水競争をしているようなものだ。息苦しさだけが高まる。
 堪えられなかったのは───拓也だった。
 気絶(?)していた人間とは思えないほどの敏捷さで跳ね起き、脱兎のごとく教室を飛び出した───クラスメイトを引き連れて。
 教室には夏南美と笙子だけが取り残される。
「笙子、拓也を追いかけなくっていいの? あんた今月も生活苦しいんでしょ、パンツ手に入れれば五万円よ」
「ん、男の子のパンツに興味ないから」
「じゃあ、このパンツあげるよ、けっこう高そうだよこれ」夏南美の声は明るい。
 パンツを受け取った笙子も嬉しそうだ。
「今日は緊急部会があるって言ってたよね、行こうか」
 明るい表情をした少女二人はカバンを持って旧校舎に向かった。

 新校舎と渡り廊下で結ばれているのが旧校舎である。
 新校舎が完成したいま、築百年の旧校舎は一部を除けば物置と化している。
 木造の旧校舎は壁板も割れ、電灯もチラチラと点滅している。まるでオバケ屋敷のような建物だった。民俗学研究部の部室は旧校舎の奥まった一画、教諭すらめったに足を踏み入れない場所にある。
 その部室に夏南美と笙子はいた。
 呼びつけたくせに木南の姿はなく、教室を飛び出した拓也もまだ来ていない。
 夏南美はするべきこともなく時間を持て余していた。
 笙子はもらったパンツをうれしそうに広げて眺めている。
 さっきは動揺しててよく見なかったが、高そうなパンツだ。
 艶やかなシルクの輝き、繊細なレース、安く見積もっても五千円以上はするだろう。
 こんな高いパンツを笙子は持っていないはず。もちろん夏南美も持っていなかった。
(笙子ってば、大人びた顔立ちだし背も高くってスタイルもいいから、こういうセクシーな下着って似合うだろうなぁ……うらやましい)
 細い髪を通して見える笙子の横顔は、同性の夏南美でさえ息をのむ美しさを見せるときがあった。
(肌も白いし黒が映えるだろうなぁ。きれいに髪を整えて、気合いを入れた化粧をして、黒のブラに黒のパンツを穿いて、ロングブーツとロンググローブ、それにムチでも持てばどこから見てもSMの女王様)
 夏南美の脳裏にはムチを振りながら『女王様とお呼び!』と叫ぶ笙子が……。
(シャレになっていないわ)
「ねえ、あげておいて言うのもなんだけど、そのパンツ穿くの?」
「夏南美ちゃんがくれたんだもん、大切に穿くよ」パンツを愛おしげに握りしめる。
(なんだかなぁ。けど、笙子は貧乏だから、このパンツに見合うブラなんて持ってないよね。もったいないなぁ、こんなにムネが大きいのに……)
 夏南美の目が笙子のムネに───Dカップの形の良いムネ───クギづけになる。
 夏南美自身は意識はしていないだろうが、物欲しげな熱い眼差しだ。
 笙子はいそいそと制服を脱ぎ出す。
 扇状地のように肩から連なる豊満なムネ。それを覆う白のブラが見える。飾り気のない安物のブラだけど、それが覆う中身がゴージャスだから決して見劣りしない。
「何してんのよ?」
「夏南美ちゃん、ムネ見たいんでしょ。見ていいよ」
 ぐいっとムネをつきだした。
 一瞬目の前の風景が歪み、夏南美の身体が揺らいだ。
(わ、わからん……笙子が何を考えているのか)
 懊悩する夏南美を後目に、笙子はDカップのムネをほりだしている。
 惜しげもなく豊乳をさらす少女。
 静かな放課後は過ぎてゆく。
 そう、まだ放課後は静かだった。

「いいかげんに、見苦しい胸部をしまいたまえ」
 突然の声に静寂は破られた。
「神聖なる部室を汚すつもりかね」
 声の主が段ボール箱の山の陰から姿を現す。
 切れ長の涼しげな目、他人の内心まで見透かすような白目勝ちの瞳。色白で細面、冷笑を浮かべる薄い唇。整った顔立ちだが近寄りがたい印象を与える。
 さらに、左のこめかみからアゴにかけて走る、裂けたような傷痕が凄みを加えている。
 一九三センチの長身とアメリカンフットボール選手並みの肉体。
 猫間高校に在籍する者で彼の名前を知らなければモグリとまで言わしめる男。
 二年七組の学級委員長にして、民俗学研究部第四八代部長の木南淳である。
「北城君、さきほどから後閑君の胸部を注視しているが、何が面白いのかね。しょせんは脂肪の塊ではないか」
「先輩ダメですよ。早く戻って戻って」拓也が慌てて木南のソデを引っ張る。「夏南美、俺たちのことは気にしないで続けてくれていいぞ」
「するか!」
 裂帛の気合いとともに殴打音が響く。
「椎名君、もうよかろう。いくら北城君の美しさが妬ましいとはいえ、嫉妬から人を殴るのは醜いぞ」
「違います!」
 汗をした垂らせながら肩で息をする夏南美。足元には拓也の残骸が。
「それにしても暑いわね、汗かいちゃったじゃない」
「椎名君、個人の趣味をとやかく言うつもりはない。だが伝統ある民俗学研究部の部長としては、部員には民俗学研究部の品位をおとしめるような行動はとってほしくはないので、あえて言うが……」
「えっ、何ですか先輩?」
 夏南美は額ににじむ汗をふきながら聞き返す。
「君が汗をふいているものは、私が見たところランジェリーショップ『ジュラ』で売っている三枚千円の木綿のショーツだと思うが、違うかね?」
 えっ! 慌てて手にしている布を広げる。
 青いネコ……。
 ぱふさっ。パンツが床に落ちた。
「信念を持って下着を穿かないのであれば止めはしないが、女人は腰を冷やすと生理不順や不妊症になる危険があるぞ。それとも小さめのショーツを穿き続けることによって、臀部の形が悪くなることを気にしているなら無駄な努力というものだ」
 穏やかな口調に隠されているが、エライ言われようをされている。
 いつもの夏南美なら、口なり手なり速攻で反撃していたろうが、いまは何の言葉も耳に入っていない。
「違う! 夏南美ちゃんのオシリはこんなに格好いい。ほら!」
 擁護は思わぬところからきた。笙子が自慢気に夏南美のスカートをめくり上げる。
 水色のパンツに包まれたヒップが白日の下にさらされる。
 どげし! 笙子の頭頂に全長一メートルの素焼きの瓶が載っていた。歴代の民俗学研究部員が収集した物品があふれる部室の中でも、この瓶は一、二を争う大きさで優に一キロはあろう代物だ。
「笙子、いいかげんにしないと今日があんたの命日になるわよ」
 怒気を全身から発散させて夏南美が復活した。
「夏南美ちゃん。頭痛い……」なおもスカートはめくり上げたまま、情けない声をあげる。
「だーかーら、離せ! 拓也もジロジロ見るな! ドスケベ!」
 拓也の顔面に石臼がめり込む。
 木南が大きなため息をもらし、
「北城君、女人のショーツごときをなぜ注視するかね。しょせんは生殖器官と排泄器官の保護及び保温・保湿をする単なる布切れではないか」
 スカートを握ったままの笙子を、振り解こうと暴れている夏南美を一瞥する。
「ましてや椎名君が穿いているのは木綿の安物、ゴムの伸びなど痛み具合から見て二年物。情けない、おしゃれの基本は下着からだっていうのに」
 見立ては図星だったようだ。
 夏南美は恥ずかしさに真っ赤になり、「だって、だって、今日は学校で普通の日だし……朝急いでたし……」懸命に言いわけする。
「心構えの問題だな。私はいつもシルクのビキニタイプだぞ。それもシルクは中国製ではなく日本製。北城君、下着を見たいのなら私の高級下着を見せてあげよう。これこそ眼福と言うものだぞ」ベルトを緩めズボンに手をかける。
「やめーっ!!」
 拓也と夏南美の声がシンクロする。
「それは残念、今日は男の魅力をアップする黒のシースルータイプなのに。それを見ないなんて、諸君らはせっかくのチャンスをフイにしたのだ。残りの人生が後悔と慚愧の念に苛まれなければよいが」
 木南は心から拓也たちの人生の行く末を心配していた。
「まぁ、私も女人ごときに下着を見せるのは不本意であったからかまわないが……北城君は見られなくって、さぞ残念であったろう」
「じょ、冗談じゃない! 金をもらっても見たかない!」
「椎名君がいるからといって遠慮することはない。部長と言えば部員の親も同然、君には特別に後でじっくりとみせてあげよう。なに、感謝には及ばない。部長として当然のことだからな」自分に酔いしれる木南の耳には、拓也の悲壮な叫びは届いていない。
 木南の性格を───すなわち、言ったことは必ず実行する性格───思い出して、拓也の意識が遠くなりかけた。
「感動のあまり声もないとは、それでこそ私も見せ甲斐がある。前から後ろからじっくり堪能させてあげよう。楽しみに待っていたまえ」
 夏南美も笙子も拓也にかけるべき言葉はない。
 きっと時間が癒してくれるよね……夏南美は祈らずにはいられなかった。

 4

「それでは緊急部会を始める」
 木南淳が珍しく真面目な顔をして開会を宣言する。
「四八年の伝統を誇る民俗学研究部の存亡に関わる問題が発生した」
「また、もめごとですか?」椎名夏南美がうんざりした顔で、「毎度毎度、かんべんしてよね」北城拓也や後閑笙子に同意を求める。
 入部してからわずか一ヶ月。騒ぎのない日は無かったと言ってもよい。
(なんであたし民俗学研究部に入部しちゃったんだろう)いままで何度自問したかわからない疑問が夏南美の心をよぎった。
 夏南美にとって民俗学研究部は、入部を希望していたクラブだったわけではない。
 小説、音楽、マンガ、アニメ、映画、歴史研究……興味の対象は数え切れない。高校に入ったらいろんなことをやってみよう。夏南美は心に決めていた。
 入学式の日以来、いろいろなクラブに顔を出してきた。文学部、ライトノベル同好会、マンガ部、アニメ研究会、映画部など、その数は一〇を超える。
 だけど多趣味が災いして、どこのクラブでも浮いている自分に気づき、どうも落ち着けなかった。ひとつのことを追究する大切さはわかるけど、自分の趣味ではない。
 で、紆余曲折の末にたどり着いたのが民俗学研究部。
 初めは名所旧跡や神社仏閣を回ったり、地域の伝承など調べる部だと思っていた。それはそれで興味があったからかまわない。ひょっとしたら不思議な体験なんかもできるかなぁ、なんて期待もしたりしていた。
『民俗学とは人々の活動を探求する生きた学問である。人々の嗜好、風俗、日常と非日常を我が身をもって学んでこそ真の民俗学である。それゆえ伝統ある猫間高校民俗学研究部では実践を重んじている』
 と、木南から民俗学研究部の理念を告げられたときには、実践を重んじるなんておもしろそうじゃないとさえ思った。
 その時は実践の意味を軽く考えていたことに気づいていなかったのだが……。
 夏南美たちが入部して数日後には木南の実践は始まった。
 現代社会における事象研究のフィールドワークだと言って行った活動の数々は……木南の趣味全開。
 マラソンアニメ上映会、コスプレ衣装作り(なぜ?)、闇鍋(だから、どうして?)、テニス部との卓球勝負(誰か理由をあたしに教えて!)など。常軌を逸した日々の連続。
 どう考えても民俗学研究部の活動とは思えない。それなのにいつのまにか巻き込まれている自分に気づく夏南美であった。
(こんどは何?)
 またもバカ騒ぎの開始かと身構え、「まさか、他校ともめたとか……」夏南美は凍りつくような視線で木南をにらみつける。
 だが、すべての原因は意に介するふうもない。
「そんな瑣末なことではない。現代社会が産み出した必要悪、我々人類が抱え続ける宿痾。つまり経済問題。すなわちカネ。カネがないのだ!」
「おカネ? 部費はちゃんと納めてるじゃないですか」
 会計役の夏南美としては、金銭問題が起こることが一番煩わしい。なにせ入部した時点で部費が底をついていたぐらいだ。
「それだけでは全然足りない」
「足りないってなんで……」
「理由は後でおいおい説明するとして、とりあえず諸君らの協力を仰ぎたい」
「あの先輩。さっきから気になっているんですけど……」
「なんだね椎名君。君にプレゼントした下着のことかな。イタリアのリトゥラッティ社のものだが不満かね。それともエクセリア社製品の方が良かったかな?」
 夏南美とて女の子だ、ワコール、トリンプ、ピーチジョンの名前ぐらいは知っているが、リトゥラッティ? エクセリア? 耳慣れぬブランド名ばかりである。
 まぁ、知っているのと持っているのも別だが───夏南美のお小遣いじゃワゴンセール品かバーゲン品が精いっぱいだった。
「あたしが聞きたいのは、先輩がさっきからいじっているものと、後ろにある段ボール箱の山のことです!」
「パソコンとその周辺機器、それとそれを収納していた包装ケースなどだが。こんな物も知らないとは、君は本当に現代人かね」呆れきった顔で答える。
「そうじゃなくって! 昨日までなかった物が、なんであるのかって聞いているんです」
「注文していたのがやっと今日届いたからだ。それが何か?」
 ノートパソコンなら個人の物を持ってきている可能性もあるが、ここにあるのはデスクトップタイプだ。こんな物を持ち歩くバカはいないはず、と言うことは民俗学研究部の備品としか考えられない。
 だけど……。
「だって、部費はもうないのに」
「椎名君、世の中にはローンというのもがあるのだよ。名義は君たちにしておいたから、よろしく処理してくれたまえ」
 爽やかな笑みとともに請求書が差し出された。
 そこには夏南美たちの筆跡とそっくりな字で書かれたサインと、印鑑がしっかり押されている。
「パソコン買ってどうしようっていうんですか。それも、あたしたちの名前を勝手に使ってローンまで組んで!」
「現代はコンピューター社会と言ってもよいだろう。情報のやりとり、新たな文化の発信するためのツールとして必要不可欠な物となっている。
 またコンピューターは新たな伝承や風俗を生み出す現代の祭器でもある。
 ネット上の都市伝説しかり、個々のホームページに書き連ねられている文章や絵なども民俗学の対象に成り得るのだ。その対象物件を調べるためには最新のコンピューター機器をそろえ、最新の技術に親しむことは民俗学を極めようとする者にとっては当たり前のことではないか」木南は小バカにした口調でたたみかける。
「そんなもの極めたくありません!」
「わがままな女人だな。私が君たちのためにと親心でコンピューターを入手したというのに、あれは嫌、これは嫌と児戯じみた難癖をつけてくる」
「難癖じゃありません! 新しいコンピューターを買ったのだって、先輩が欲しかっただけでしょう!」
「う゛! なぜわかった……もとい、そんな気は毛頭ない!」
「やっぱり……」夏南美はジト目で木南を見つめる。
「な、なにかね、その目は?」眉間にシワを刻みこんで鋭い視線を放つ。
「なーんでもありません」夏南美はぐいっと半身を木南に近づける。
 う゛……。
 夏南美と木南は無言でにらみあう。

「おい後閑、なんとかならないかあの二人」
「いいじゃない、夏南美ちゃんも楽しそうだし。やらせておけば」
「そうもいかねぇよ。借金問題をなんとかするほうが先だろう。他人事じゃないぞ、おまえの名前も書いてあるんだからよ」
「そう。だけど私、貧乏だから払えない」
 笙子は親元を離れ一人暮らしをしている。入学金と授業料は特待生なので免除されていたが、仕送り額が少なく生活はいつも苦しかった。
 民俗学研究部の部費だって特別に免除されているぐらいである。
「貧乏だから払えないじゃ済まされないんだぜ。それに払えなくなったら民俗学研究部が潰されちまうかもしれない。それじゃ困るんだよ」
「私は困らないよ」
 笙子が入部した理由は夏南美が入部したから以外になく、歴史や民俗学を取り巻く事柄には取りたてて興味を示していなかった。
「俺も夏南美もいまさら入部できそうなクラブなんてないんだから、ここが無くなると夏南美だって困るんだぞ」
「夏南美ちゃんが困るのは困る」
「だったらあの二人をなんとかしてくれよ」
「わかった。ケンカを止めさせる」
 笙子は木南に近づくと何ごとか耳打ちした。険しい顔をしていた木南が、とたんに表情を変え拓也に向かって微笑みかける。
「そんなに待ち焦がれていたとは、私としたことが配慮が足りなかった」豹変ぶりに戸惑う夏南美を後目に、木南は拓也の肩を抱き一言つぶやき、「そうか、そうか」と、うなずきながら部室を出て行く。
「嫌だーーっ!」
 引きずられてゆく拓也の叫びが虚しくこだまする。
「笙子。あんた先輩になんて言ったの?」
「『北城君が木南先輩のパンツを見たがってじれている』って言っただけ」

「諸君、中断してしまって済まなかった。会議を再開しよう」
 何をしてきたかはわからないが、対照的な二人が戻って緊急部会は再開された。
 小鳥を食べたネコのように満足げな表情の木南。かたや拓也は……生気もなく、ぐったりとしてイスに辛うじて座っている。なんだか凄いことがあったようだが、夏南美は精神衛生のためにも詮索はよしておいた。
「ローンの件だが、私も部長として責任を痛感している。それゆえ、諸君らの支払いに協力しようと思う」
(あんたが原因だろ。当たり前よ!)夏南美は突っこみを入れたくなるのを堪えた。
「ちょうど都合がいいと言ってはなんだが、諸君らの協力を仰ぎたいことがあったのだ」
 木南は視線が自分に集まっているのを確認して続ける。
「このままでは財政難から、フィールドワークや合宿にかかる費用はもちろん、DVDやマンガ、ゲームソフト、同人誌などの現代風俗研究資料の購入もできない。いや、文化祭の参加すらおぼつかない状況なのだ。
 文化祭不参加などという不祥事を起こしては、歴代の民俗学研究部先輩諸氏にあわす顔がない。私も部長としてそのような無様を断じてさらすわけにはいかんのだ」
「無様をさらす原因はすべて先輩のせいです! 部費は全部使いこんじゃって、あたしたちが入部したときには一円も残っていなかったじゃないですか。こんどは借金までつくって。自業自得です! 先輩のシリぬぐいなんてお断り!」
「人と禽獣を隔ているものは礼節だと言う。だが、椎名君は礼節を知らず畜生にも劣る存在ゆえ、最後まで他人の話を聞きたくないというのだな。人として生まれながら獣にも劣る生き様を選ぶとは情けない。さぞ親御さんも君を生んだことを後悔しているであろう」
 木南は大げさに息を吐き出し、小さく肩を震わす。
「親御さんのことを思うと私の心は千々に乱れる。せめて私の導きで椎名君を、人として最低限の礼節を持った人間にすることは不可能なのか。しかし椎名君が私の言葉を聞いてくれない状況では無理かも……」天に懇願するかのように両手を高く差し伸ばす。
(あんたは演劇役者か!)だけどこのまま木南を放っておくわけにもいかない。このまま怪しい独り芝居はまだまだ続きそうだ。
「聞きますよ……聞けばいいんでしょう!」
 拓也との口ゲンカじゃ無敗の夏南美だが、木南相手にはまだ一勝もしたことがない。やり場のない怒りを、拳を握りしめることで必死に抑える。
 ふに。
 くぐもった怒りに燃える夏南美の頬に、柔らかいものが押しつけられた。
 何? この感触は?
「ゐ!」
 頬の先には笙子のDカップのムネがあった。
「なにするのよ笙子!」
「こうすると男の人って落ち着くって本で読んだから」
(あのなぁ……あたしは女だ。けど、柔らかいなぁ)
「気持ちいいか夏南美?」
「うん、気持ちいい……違ーーっう!!」
 うらやましそうに見つめている拓也に気づき、顔に血が上る。「ジロジロ見るな! スケベ!!」
「見せつけてるのはそっちだろう。くそっ! うらやましい」
「そんなにうらやましいのなら、拓也も先輩に抱いてもらったら。あっ!」
 禁句だった。スキあらば拓也を狙っている木南にとって格好の誘い水。
 拓也と夏南美の顔色が一瞬にして変わる。
 恐る恐る木南をうかがう。が……、
「諸君、お遊びはお終いにしたまえ」
 予想していたリアクションではない。戸惑った夏南美は、「はい」と、返事するのが精いっぱいだった。笙子も驚いたのだろう、押しつけていたムネが離れる。
「では、話を進めるぞ。パソコンのローンなぞ財政難のほんの一部でしかないのだ。諸君らが入部して以来、数々の歓迎の催しに費やされた金額も少ないものではなかった。金銭は無からは生じないのであるからな。
 さて、この財政難を打破するには労務の提供による正当な報酬の取得、すなわちアルバイトしかないだろう。しかし我々学生の本分は勉学である。アルバイトに呆けて学業がおろそかになっては問題である。椎名君や後閑君はともかく、怪しげな仕事をして北城君の将来に差し障りがあるといけない。
 そこで私が仕事を見つけてきた。報酬は大したことないが人助けにもなる尊い仕事だ」
「何です? グラウンドの草むしりですか? それとも商店街の掃除ですか?」
「甘いな、椎名君」木南は口の端を小さくゆがめた。「そのような些末なことは我々がやる必要はない。我々がやるべきことはもっと重大な任務だ。謎に満ちあふれ、場合によっては命を賭けねばならぬかもしれない」
「謎? 命を賭けて? 冗談じゃありません! あたしたちは普通の高校生なんですよ。超能力があるわけでも、怪しげな魔法が使えるわけでもないんです。先輩の身勝手さから命まで賭けたくありません」
「もう遅いのだよ諸君。依頼者からはすでに前金を受け取っている」
「即刻返してください!」
 ちっちっちっ 夏南美の鼻先で指を振る。「前金はすでにローンの支払いに使って残ってはいない」
「な、なんてことを……先輩はあたしたちに死ねっていうんですか!」
「怖れることはないぞ。この一ヶ月というもの、諸君らの根性を試すために色々な試練を与え、そして諸君らはそれを見事にクリアしてきたではないか。諸君らに不可能という文字はない。自信を持ちたまえ」
 試練って……闇鍋ではゲテ物を食べさせられた。土曜日の夕方四時から月曜日の朝八時まで、延べ四〇時間部室にこもってアニメを見させられた。これもすべて新入部員を鍛えるための木南先輩の親心……って、わけない!
 根性を鍛えられたとは思っていない。ただ世の中には逆らい得ない運命というものがあることを知らされただけである。
「真実を知って諸君らが感動のあまりに声も出ないとは、私も試練を与えた甲斐があったというものだ。感謝には及ばない。部長として当たり前のことをしただけなのだから。
 北城君が個人的に感謝の意を表したいというのなら喜んで受け取ろう。さあ、私の胸に飛び込んできたまえ、そして熱い抱擁を……」
 木南がすべてを言い終わる前に、拓也の拳が顔面にヒットした。
「そうか、それが君の返事か北城君。『漢』の会話に言葉はいらない、と言うことだな。拳と拳でぶつかり合うほうが、百万の言葉を費やすよりも想いが伝わると言うことか。ようやく君も『漢』と言うものが解ってきたのだな。
 よろしい! 撃つが良い、君の想いすべてを私に」
 ドゲッ! ゲシ! ドゲドゲゲシッ!
 両手を広げる木南に、拓也のパンチが続けざまに打ちこまれる。
「素晴らしい、これこそ美しき『漢』の世界。愚かなる女人には決して理解できぬであろう。うらやましいかね椎名君」
「うらやましくありません!」
「そうかな私と北城君を恨めしげに見ているではないか。では北城君、もっと我らの友誼を見せつけようではないか」
 パンチをものともせず、木南は拓也を力任せに抱きしめる。
 ぐげっ! 嫌な音がした。
「北城君のぬくもりが、匂いが伝わってくる。妬ましいかね」
(妬ましいわけがあるか! それよりも拓也を助けなきゃ)
 拓也は木南に頬ずりされ白目になっている。
(それにしても男同士ってそんなにいいものなの? ……って、救出が先よ!)
 夏南美は妄想の世界で遊ぶ自分を慌てて引き戻す。
 くいっ、くいっ。拓也救出に踏みだそうとした矢先、ソデが引っ張られ夏南美の足は止まる。「ん?」
 振り返った先には、両手を広げ女神のごとき笑みを浮かべた笙子。
「なにしてんのよ笙子? まさかあたしと抱き合いたいとか?」
「うん」嬉しそうにうなずく。
「なにが悲しゅうて女の子と抱き合わなきゃならないのよ」
「『女は女同士。男とは違う喜びを』って雑誌に書いてあった」
(冬の東北の海が見たい。荒波を見ながら人間関係というものを見直したい……)
 夏南美の切実なる願いは叶いそうになかった。季節はこれから梅雨に向かうところなのだから。
 とにかく疲れた。精神が泥沼に沈んでゆくような疲労感に包まれる。帰ろう、帰ってベッドに潜りこもう。そう決心して夏南美はドアに手をかけた。
 ガラッ! 夏南美が開けるよりも先にドアが開いた。

 5

「きゃっ!」
「わぁ! し、し、椎名か。お、お、驚かさないでくれ」
 濃紺のジャージの上下に身を包んだ男が───体育担当教諭にして水泳部顧問兼民俗学研究部非常勤顧問の長村公彦(おさむら・きみひこ)。二三歳、独身───立っていた。
「驚いたのはこっちですよ。それにしても長村先生が部室に来るなんて珍しいですね。何かご用ですか」
「あ、う、うん。き、き、木南は、い、い、いるか」
「先輩、長村先生がいらっしゃいました」
「お待ちしていました長村先生。どうぞお入り下さい」
 長村の登場で椎名夏南美は帰るタイミングを逃した。
「き、き、木南。み、み、みんなに話して、く、く、くれたか」
「いえ、まだです。先生の口から直接話された方がよいと思いまして、お待ちしていたしだいです」
「そ、そ、そうか」長村はどもりながら小声でつぶやく。
 夏南美はその授業を受けたことはなかったが、授業を受けている他のクラスの友達によれば、話しのわかる明るく親しみやすい先生らしい。水泳部の部員も『長村先生はハキハキと話す面白い先生』と言っている。
 だけど夏南美は、オドオドとしてどもりながら話す長村先生しか知らない。
 聞いた話によれば、長村先生は苦手意識を持つ人間の前ではどもるらしい。というより、校長先生と木南淳の前だけでどもる。
 校長先生の前はともかく、生徒に苦手意識を持つか、ふつうは逆だろう。と思っても、相手が木南先輩だ……長村先生に同情したくなった。
「で、で、では。は、はな、話すぞ。よ、よ、よく、き、き、聞いてく、く、くれ……」
 悪戦苦闘、額に汗して、何度もジャージに手をこすりつけながら長村先生は話す。
 時折、木南の顔色をうかがいながら、どもりながらも懸命に語る。まるで教育実習生が指導教官を前にして初めての授業を行うみたいに。
「……と、と言う、こ、こ、ことなんだ。よ、よろ、よろしく、た、た、た、頼むぞ」
 わずか一〇分足らずの説明だったけど、よほど緊張したのだろう。話し終えた長村先生の頬はすっかり削げ落ちていた。
 フラフラしながら部室を出ていく姿は哀れを誘うものがある。寿命が一年くらい縮まったかもしれない。

 長村先生がどもり、つっかえながら話した内容を要約するとこうだった。
 最近、水泳部に異変が起きている。
 それは練習中に誰かに見られているような感じがしたり、何かに触られたような感じがするとのことだった。それもプールの中から。
 しかしと言うか、当然と言うか、プールの中からのぞきをする者などいない。
 カメラでも仕掛けられているのではと、プールの中を調べたがそんな物はない。
 女子部員の中には気味悪がって部活に出てこない者も出てきた。
 原因がわからないまま、長村先生は数々の対策を講じた。
 精神的なものかと保健医にカウンセリングをしてもらったり、探偵同好会とラジオ無線部に頼んで盗撮カメラの有無も調べ、第三者がプールサイドに近づかぬよう、サバイバルゲーム研究会にトラップを仕掛けてもらったが、効果はなし。
 さらには、神社の神主をよんで祈祷、オカルト研究会による悪魔払いなど怪しげな方策も試みたが……ぜんぜんダメ。煮詰まった長村先生がプールサイドに独自の祭壇───十字架にかけられたお釈迦様が右手にコーラン、左手に剣を持った像───を設置して、生贄を捧げようとしたところで部員たちにとめられた。
『先生、非常識には非常識です。非常識と言えば……』
 紆余曲折の末───長村は最後まで反対したそうだが───民俗学研究部に依頼が回ってきた。
「依頼の件は分かってもらってもらえたと思う。金銭的には大した額ではないが、地道な努力が財政を建て直す第一歩となるのだ。それゆえ心して取り組んでほしい。
『善は急げ』、『時は金なり』との諺もあることだし、さっそく実行に移りたい。
 一般生徒の邪魔が入っては厄介なので、今夜七時に改めて部室に集まってくれたまえ。なお、水着を忘れぬように。では、緊急部会を終わる」
 木南は一方的に決定事項を伝えると、足早に部室を出ていった。
「先輩行っちゃったね。どうするの拓也?」
「どうするって、やるしかないだろうアルバイトを。先輩の性格を考えてみろ、断ったらどんな目にあわされるやら」
 北城拓也は諦め顔で帰りじたくをはじめる。
「それよりメシ食いに行こうぜ、腹減っちまった」

 猫間高校正門前にある喫茶店『インヴァリーブン』はいつも猫間高校の生徒で混んでいる。放課後となれば、広い店内は男子生徒の学ランの黒と女子生徒のウルトラマリンブルーの制服で二色に染め上げられる。
 夏南美たちはなんとか空いているテーブルを見つけて席に着いた。
「どうする?」
「どうするって、あたしだってあんな変なバイトはしたくはないんだけど……」
 拓也の問いに言葉を濁す。夏南美はまだ悩んでいた。
 木南の『七時に部室に集合』を素直に聞くべきか、それとも無視するか……。
 幸いといおうか、放課後になったからといってデートの約束があるわけじゃない。それどころか彼氏すらいない。だから時間はあいている。
 だけど木南がらみでは乗り気になれない。
 木南の甘言にそそのかされて何度ひどい目にあったことか。青春の貴重な時間をバカ騒ぎに捧げてもいいのだろうか……でも、行かなかったらどんな仕打ちが待っているのだろう……逡巡は続く。
「ボケかましてるんじゃねぇよ。何を注文するか聞いてるんだよ」
 拓也の声で現実に引き戻された。
 テーブルの横ではウエイトレスがニコニコしながら注文を待っている。
 夏南美はミルクティーとクラブサンド、拓也はジンジャーエールとミートソース大盛りを頼んだ。
「笙子、あんたは何にするの」
 後閑笙子は───哀しげな目でメニューを見つめている。
 メニューから顔を離すと、捨てられた子犬のような眼差しを夏南美に向けた。「夏南美ちゃん、一生のお願い。ご飯おごって。お礼は身体で払うから」
「はぁ?」
「お金無いからおごってほしいの。私の身体を好きにしていいから」真剣な目だ。
 笙子はもとより冗談を言うタイプではない。
 夏南美は気づいていなかった。笙子の声はハスキーだが、よく通ることに。
 ───あいつらレズか?
 ───げーっ、気持ち悪い。
 ───あれも援助交際って言うの?
(誰がレズよ! 援助交際ですって! 殺すぞ!)
「夏南美ちゃん……」
 言葉を続けようとする笙子を制した。「好きなもの頼んでいいから、お願い黙っていて」
 がっくり疲れる夏南美の横で、にこやかな表情の笙子が注文する。
 エビピラフ、野菜カレー、ミックスサンドイッチ……。
「ほぅ」
 拓也はしきりに感心している。そして顔を輝かせて笙子の肩に手を置いた。
「後閑、おごってやる。もっと注文してもいいぞ。なんならメニュー全部注文してもかまわない。その代わり一晩だけでいいから、おまえの身体を自由に……」
 夏南美の拳が拓也の顔面にヒットした。
「なんてこと言うのよ!」
「じょ、冗談に決まっているだろう……冗談に……」歯切れが悪く言葉が消えていく。
 ───女を巡って男と女の三角関係?
 ───食べ物でつろうとするなんて、ケチくさーい。
 ───あいつら、民俗学研究部じゃねーか。
「あーぁ、また悪名が広まったじゃない! 笙子も文句言いなさい……って?」
 笙子はウエイトレス相手に押し問答している。
「本当によろしいんですか。けっこうな量になりますよ」
「ん、かまわないから、このメニュー全部ね」
「か、かしこまりました」
 ウエイトレスはもう微笑んでいない、おびえた目をして足早に笙子のそばから離れる。
「そんなに注文しても、あたしだって払いきれないわよ。どうするつもり?」
「ん、だいじょうぶ。北城君がおごってくれるって。ついでに夏南美ちゃんも注文したら」
「注文したらって、拓也の戯言を真に受けたの」
「一晩だけ北城君に付き合えばいいんでしょう」
「あんた『一晩自由に』って意味をわかって言ってんの?」
「ん、心配しなくてもいいよ、私は夏南美ちゃん一筋だから。それに何かするような勇気は北城君にはないよ」
(言われてみればそんな気もする。拓也はしょせん口だけだし……笙子のやつ、拓也のことわかってんなぁ)
 子供の時から顔を合わせている自分より、わずか一ヶ月ちょっとの笙子の方が拓也の本質を理解していたことに、嫉妬じみた感情が湧きあがる。
 が、青い顔をして財布とニラメッコしている拓也を見ていたら、バカらしくなってきた。
(拓也が笙子になにかできるわけないもんね)
「じゃあ、あたしはシフォンケーキね」夏南美はちょっとしたイジワル心を起こした。
「マジかよ。勘弁してくれよ夏南美」
「口止め料よこれは」
「口止め料?」
「拓也が笙子にしたことは援助交際と同じよ。拓也のお母さんが聞いたらどうなるのかな」
 拓也は表情を凍りつかせて小刻みに震える。
「四五〇円のケーキひとつでバレないなら安いもんでしょ」
 拓也はうなだれ、「ぜひケーキを食べてください……」情けない声でつぶやく。
 店内のすべての人間の視線を集めながら、満漢全席並みの食事が始まった。

 6

「夜分にも関わらず快く参加してくれたことに感謝する」
 木南淳の声がやけに大きく響く。
 夜七時ともなると校舎に生徒の姿はない。建物は薄暗く、巨大なカタコンベのように不気味でもある。なまじっか昼の喧噪を知っているだけによけいに寂しく感じられた。
 校内に私服姿の人間がいることがさらなる違和感を醸し出している。
 椎名夏南美たちは一度帰宅して、思い思いの格好で部室に集まっていた。
 夏南美は明るいブルーのロングスリーブTシャツに、それにあったデニムのミニスカートとニーソックス。
 北城拓也はブラックジーンズに黒のヨットパーカーの黒ずくめ。これからドロボウに入るようなスタイル。
 後閑笙子は男物の白いシャツにストレートのブルージーンズ。飾り気なんてこれっぽっちのないけど、シンプルゆえに素材の良さが強調されている。それに加えシャツの上からでもわかるボディライン。
(笙子のことだからあるものを適当に着てきただけだろうけど、すごく女らしい。いいなぁ、スタイルがいいと何を着ても似合うもんね。でも、あたしだって秘密兵器があるんだから……)邪な企みを抱き夏南美はほくそ笑んだ。
「しかし諸君らの格好はなんだね? これから何をするのかを知らぬわけでもあるまい」
 腰に手を当てた木南が不快な表情をして仁王立ちしている。
 競泳用水着一枚で。
 はち切れんばかりに発達した大胸筋。丸太のような上腕二頭筋。固く締まった腹直筋、腹側筋、双帽筋。それらが寄せ木細工さながらにきっちりと組み合わさっている。
 余計な脂肪のないボディービルダーのような身体。
 わずかばかり隠すだけの紫色の───ラメ入り───競泳用水着。股間のモッコリが淫猥さを漂わす。はっきり言って、犯罪ギリギリの凶悪さ。
「プールに入るというのに、なぜ諸君らは水着ではないのだ。まさかその格好で水に入る気かね?」
「んなわけないって」拓也は水着を入れたバックを持ち上げる。「どこで着替えりゃいいんですか先輩?」
「さぁ」
「さぁ……って、先輩はどこで着替えたんですか」
「自宅だが」
「だから、上着をどこで着替えたんですかって聞いてるんです」
「何を言っているのかね。上着なぞ着てこなかったが。どうせ水に入るのだから服は不要であろう。水着で来るのが一番合理的であると思うが」
 木南の家は歩いて二〇分ぐらいかかるはず……途中に商店街もあったような……。
 大男が水着一枚で歩いている図は想像するにはコワすぎる。
「よく捕まりませんでしたね」
「は? なぜ私が捕まらなければいけないのかね?」
「だって、その格好……」
 とくにそのモッコリが……さすがに夏南美もこの言葉は飲みこんだ。
「この格好のどこに問題があるのだ。水に入るには水着、至極当然なことだろう」
「そ、そうですね……もう、いいです」
 夏南美には木南と意志疎通を図るより、アルマジロにコンピューターを教える方がたやすいような気がしてきた。
「プールのそばにきっと更衣室があるでしょう。行こう」
 仁王立ちしたままの木南を残して室内プールに向かった。

 夏南美が持ってきた水着は、グリーンのストライプが入ったワンピース。肩ひもとサイドがメッシュになっているところがちょっとセクシーで気に入っている。
 それに今日は秘密兵器もある……。
『朴市中 三年一組 後閑笙子』名札のついたスクール水着。
「それ中学校の時の?」
「うん」
「ウチの学校、水着は自由だよ」
「これしか持ってないから」
「そう、似合ってるね」
 野暮ったいはずのスクール水着だけど、スタイルがいい人が着るとイヤラしいんだぁ。夏南美は少しだけ男の気持ちを理解できた気がした。
(スクール水着のムネの部分ってあんなに伸びるんだ)
「じゃあ、先に行く」
 はみ出さんばかりのムネを揺らして笙子が一足先に出てゆく。
「やっぱムネだよね」小声でつぶやき、バッグの中を漁る。
 むふふふ。勝利の笑い声をあげる夏南美。
 その手にはベージュ色の秘密兵器”レモンパット”が握られている。
(これさえ入れればあたしもBカップ。見てろよ拓也!)
 そそくさと着替え更衣室を後にした。

(五センチ違うだけでこんなにスタイルが変わるんだぁ)夏南美は満足と少々の空しさを覚えながら、室内プールに足を踏み入れた。
 消毒薬と新築の建物が持つ独特のにおいが鼻を突く。
 二五メートル八コースの室内プールは今年完成したばかりで、水循環システムをはじめとする水質管理設備、室温管理の空調設備、照明とも最新式のものを使っている。
 ひとことで言うならばきれいな建物。
 プールの存在は知っていたが、中に入ったことはなかっただけに物珍しい。
 透明感のある水、クリーム色の壁、高い天井。壁際に置かれた怪しい祭壇……祭壇?
「ボケっとするなよ夏南美。時間があんまりないんだからよ」
(拓也! まさか……ホッ モッコリ水着じゃなかった)ボクサータイプの水着を見て、安堵の息がもれる。
 拓也の水着姿を見るのは中学校以来だった。夏南美が知っていた男の子の身体じゃなく、見知らぬ男の身体があった。じっと見るのは恥ずかしいんだけど、ついつい視線がいってしまう。
 同じなのか拓也もじっと夏南美を見ている。
(あたしの魅力にやっと気づいたかな)
「かわいいな」
「えっ!」予想もしていなかった言葉。「本当に? ありがとう」
「本当にかわいいよ、その水着。売ってくれないか」
「はい?」
「いや、パンツが一万円で売れるなら、水着なら五万円は固いんじゃないかなと思って、儲けは折半でどうだ……」
 長村先生の作った祭壇に血まみれの生け贄が捧げられた。しかし拓也の望みは叶えられそうにはない。請願者が生け贄となっているのだから。
「椎名君、空しくはないかね」
「拓也を相手することですか?」
「いや、レモンパットを入れて五センチも底上げをしてもなお、Bカップにしかならないことにだよ」
 真っ赤になった夏南美が小走りにプールを去っていった。
 五分後。仏頂面で戻ってきた夏南美のムネは、いつもの控えめなムネになっていた。

(泳ぐのって久しぶりだなぁ。去年は受験で海にも行けなかったし……ここのプールもけっこういいじゃない)
 夏南美は久々の水の感触を楽しんでいた。
 拓也も同様のようだ。バタフライで豪快に泳ぐ木南と競うように泳ぎはしゃいでいる。
 笙子は……プールサイドでボーっとみんなを見ている。
 笙子とは高校に入ってからのつき合いだ、笙子が泳げるかどうか知らない。
 夏南美が知るかぎり笙子はスポーツを苦手としていた。ひ弱じゃないんだけどバランスが悪いというか、よく転んだり、ボールを追って壁に激突したりしている。
 ただし。コケようが、ぶつかろうが、落ちようがダメージはない。
 密かに笙子を『アンデッド運痴』と名付けていたぐらいだ。ひょっとして、
「あんた、泳げないの?」
「ううん。泳げる」
「だったら泳いだら。気持ちいいよ」
「いい。お腹減るから」
 水中でこけることは溺れると同じだ。「げほっ、げほっ、げほっ……う゛、鼻に水入っだ……鼻の奥が痛い」夏南美は鼻からたっぷりとプールの水を堪能してしまった。
「夏南美ちゃん大丈夫?」
「なんとか……ねぇ笙子、あんた本当に泳げるの?」
「ん、泳ごうと思えば何キロでも泳げるよ」
「じゃあ……」
 一〇〇メートルを一気に泳ぎ切ったら、夏南美の家でご飯を食べさせてやると条件を出すと、喜び勇んで水に入ってきた。
「意外と深いね」濡れた髪をかき上げるしぐさは、女の夏南美ですらドキッとするほど悩ましい。
「いくね」
 プールのへりを蹴って颯爽と……。
 バシャバシャバシャ。
「なにしてんの笙子?」
「水泳」
 正式名は知らないが、通称でいうところの『犬かき』もしくは『犬泳ぎ』。
「つ、疲れない。その泳ぎ方?」
「これしかできないから」
 スクール水着を着たクールビューティーが犬かき。
 はっきり言ってマヌケだ。
 バシャバシャバシャ。
 水音は派手だけどいっこうに進まない。いや、正確にはミクロン単位で進んでいるのだろうけど……。
 流体力学の落とし穴なのか、はたまた笙子のまわりだけ、組成の違う液体が取り巻いているのか、本当に進まない。
 バシャバシャバシャ。
「とにかくがんばってね」
「うん」
 バシャバシャバシャ。

「で、諸君らは視線を感じたかね」
 さんざん泳いだ三人はプールサイドに集まっていた。
「いや、何も感じなかったな。夏南美はどうだった?」
「さっぱりよ」
 泳いでいる間、異変は感じられなかった。異変といえばあれだけ派手に水をかいてながら、前に進まない笙子の方が超常現象のような気がする。
「後閑君は何か感じたかね?」
「ぜんぜん」
 バシャバシャバシャ。
「では引き続き水中調査を継続してくれたまえ」
「うん」
 バシャバシャバシャ。
「長村先生の話では異変は毎日起こるわけではないそうだ。諸君らも長丁場を覚悟してもらいたい。とりあえず周囲の確認もしておくとしよう」
 拓也と木南は建物の外を、夏南美は内部を、笙子は水中を手分けして確認することになった。
「この格好でですか、寒いすよ」
「北城君、寒いのなら私の胸に飛びこんできたまえ。ねんごろに暖めてあげよう」
「夏南美、助けてくれ……夏南美……」
 拓也は木南に抱かれたまま、悲しげな声だけ残して姿を消した。
 黙って見ていることしかできない弱い自分を憎みながら、夏南美は唇をきつく噛み締める……な、わけはなかった。触らぬ神に祟りなしである。拓也を早々に見限って室内の確認に向かった。
 体育教官室、機械室、トイレ、シャワー室、そして更衣室。
 あった、やっぱり……。
 ペンギン柄がちりばめられたパンツ。
 なぜだかしらないけど必ずある、女子更衣室の片隅に置き忘れられている、誰の物ともわからぬパンツ。水泳部員だって毎日掃除しているだろうに───いつの時代でも、どんな学校にもある───これこそ異変のような気がする。
(男子更衣室にもやっぱりパンツが落ちてるんだろうか?)
 くだらぬ疑念は解決せぬまま倉庫に向かった。
 捜索を始めておよそ三〇分。異常は発見できず、プールサイドに戻ってきた。
 バシャバシャバシャ。
 笙子はまだ泳いでいる。
「いいかげんに止めたら」
「まだ平気」声に疲れはない。
(三〇分以上泳ぎぱなしでも平気とは、後閑笙子恐るべし)

「夏南美、異常はあったか?」
 拓也たちが外回りから戻ってきた。
「なーんもなし。そっちは?」
「こっちも無駄骨」
 笙子もなかったと言うし、本当に変なことがあったんだろうか。
「私も一日で解決するとは思っていない。本日は様子見ということで、日を改めてチャレンジしようではないか」
 結局、明日また部室に集まることになった。
 手早く着替えた夏南美たちが玄関に行くと、拓也と水着姿の木南が待っていた。
「遅い! 時間の浪費だ。たかが着替えにどうしてこんなに時間がかかるのかね。私のように初めから水着で来れば、余計な時間のロスを避けられるというものを」
「冗談じゃないわよ。真夏だって願い下げです。だいいち、この季節に水着姿で外に出てたら風邪ひきます」
「風邪? 軟弱な」
 風が吹きはじめた。春の暖かみより、冬の名残を持ったような冷たさだ。
「そんなこと言って、本当は寒いんじゃないんですか先輩」
「もし気温が下がっても、私の魂は燃えているから寒くはない。北城君との閨を想像するだけで熱い血がたぎるのだよ」
 どこにたぎるんだか……。
 拓也がブルッと身を震わす。風の冷たさだけではなさそうだ。
「もう帰るべ」拓也は木南と視線が合わぬように別れを告げ、足早に帰路につく。
「待ちなさいよ拓也、一緒に帰ろうよ」
 夏南美と笙子も後を追う。
 校庭に一人残った木南は、しばらく瞑想(妄想?)していた。ニヤッと笑みを浮かべ───他人を凍りつかせる凄みがあるが───カッとマブタを開いた。その瞳はピンクに充血し、下半身を中心にオーラを発散させている。
 むふふふふ。怪しげな笑い声をあげながら商店街に向かっていった。
 夏南美たちは知るよしもないが、木南は商店街の入り口で警邏中の巡査と遭遇していた。しかし、木南は快楽の庭で想像の翼を広げている最中で、中年の冴えない巡査など視野には入っていない。そして、当の巡査は禍神でも見てしまったかのごとく視線をずらし、慌てて巡回路を変更した。
 賑やかなはずの猫間商店街は、異形への恐怖と混乱に包まれたのである。

 7

 夜七時。
 憂鬱な授業が終わったばかりだというのに、ノコノコと部室に来るなんて……。
「はぁぁっ」椎名夏南美は部室にきてから五度目のため息をつく。
 北城拓也も押し黙っている。
「ふしゅー」後閑笙子は安らかな寝息を立てている。今日は夏南美の家でめいっぱい夕食を食べさせてもらって、部室に着くやソファーで丸くなってしまった。。
 そして木南淳は───またも、いない。
(どうして先輩は人を呼びつけておきながら毎回いないのよ)
「ふしゅー」音といえば笙子の寝息だけ。
 ……・。
 部室のドアが開き木南が姿を現した。
「諸君らが今日も時間通りにきてくれたことに感謝する」
 待たせたことを悪びれるふうもない。
「時間厳守って言ったのは先輩ですよ! 遅いからみんなだらけちゃったじゃないですか、ほら」
 拓也は机に突っ伏して寝ている。笙子にいたってはよだれまで垂らして熟睡中。
「遅れたわびの代わりに、諸君らにプレゼントがある。受け取りたまえ」
 木南は持っていた紙袋を各人に配る。
 目覚めた拓也が早速袋に手を突っこむ。
 出てきたものは皮のような光沢を持つ黒い競泳用水着。サイドに銀色のラインが入っている。笙子の袋には同じ素材でできたハイネックタイプのワンピースの水着。サイドにはやはり銀色のライン。バックは大胆にカットされていてセクシーだ。
「水着? なんで?」
「前回、私は痛感した。我々はひとつのチームなのに連帯感も協調性もない!
 軍隊しかり、警察しかり。同じ制服、同じ型にはまることによって連帯感が生まれるものなのだ。にも関わらず諸君らはバラバラの水着、これでは連帯感、ひいては協調性も生まれるはずがない。
 我々はこれから困難な問題を解決せねばならない、諸君らの意識がバラバラでは解決するものも解決しない。それゆえ、連帯感を生み出す第一歩として水着を作ってきたのだ。遠慮せずに受け取ってくれたまえ」
「これはなんですか先輩!」
 夏南美は自分の分の水着を木南に突きつける。
 みんなと同じ素材に銀色のラインのセパレートタイプ。
 ただしボトムだけ。
「どうして、トップがないんですか!」
「私も北城君もトップはないぞ」
「拓也や先輩は男でしょ、あたしは女です! 知ってます?」
「愚問だな。椎名君が純粋で純真な美しき男性を堕落させる女人の眷属であることは知っているとも。
 私とて一般の女人が無様に揺れる胸部を覆うことも知っているし、その必要性も認めている。しかし椎名君の胸部のどこに揺れる部位があるのだ」
「揺れなくって済みませんね……」
「卑下することはない。無駄を排除し、運動学的にも理想的な椎名君の胸部には、私は好意を持っているぞ」
「そぉで! す! か!」
 平静をよそおうとしていたが、夏南美の怒りは誰の目にも明らかだ。
「諸君らにも喜んでもらえたところで、本日も健全な財政の復活を目指し我らが狩り場に行こうではないか」

(誰が揺れないムネよ!)
 木南がよこした水着を床に叩きつけ、夏南美は持ってきた水着に着替える。
 笙子はモソモソと木南からもらった水着に着替えている。
「それ着るんだ」
「夏南美ちゃんが嫌ならやめるけど」
「似合ってるからいいんじゃない」
 笙子のために特注したかのごとく似合っていた。大きなムネ、くびれたウエスト、キュっと上がったオシリ。スタイルの良さを下品にならないほどに強調したデザイン。木南のセンスの良さを認めざるを得ない。
(あたしもこの水着を着れば)
 な、ワケない!
 床に転がった水着を思いっきり蹴っ飛ばした。
 
 笙子と連れだって室内プールに入るや、聞き慣れない声が耳に飛び込んできた。
「だから、オマエらこそなにもんだ、あぁ!」
 妙にかん高い声。
 木南たちの前にいる男の子がケンカ腰で怒鳴っていた。
 声の主は見知らぬ男の子。年齢は夏南美たちと同じぐらいだろう。背は一七〇センチを少し切るほどか。ただ真っ赤なヨットパーカーを羽織っているせいでハッキリしないけど、なんとなく線が細く感じられ小柄に見える。
「男なら黙ってないで答えろよ、こらぁぁぁ!」
 口調とは似つかず、女の子のようにキレイな顔立ち。ひょっとしたら夏南美よりも女らしい顔かもしれない。
 かわいい顔をしながら不良のような口調。まったく似合っていない。
 木南が黙っているのも、笑いを堪えているからかもしれない。
「これだけ言われて黙っているなんて、てめぇそれでも男かよ」
 見知らぬ男の子がくってかかる。
「ね、この人、誰? なんで怒鳴ってるの?」夏南美は小声で拓也に話しかける。
「わかんねぇんだよ。俺たちがプールに来たらこいつがいたんで、部外者は出ていってくれって言ったらこの調子でさ」
 怒鳴る顔があまりにも迫力がなさすぎて拓也も苦笑いしている。
「そんな怪しげな格好しやがってよ」
 拓也と笙子は木南からもらった水着を、夏南美はこの前と同じグリーンのワンピース。
 木南は……思いっきり怪しかった。
 皮のような光沢を持つ素材の競泳用水着まではみんなと同じだが、股間部に何本も銀色に輝く鋭いビスがついている。アメリカのハードゲイが穿いていそうな、危険物取り扱い指定を受けてもおかしくない水着だ。
「愚かな、このわずかな着衣に表現した男らしさがわからぬとは。
 君はさきほどから何度も『男』と言う言葉を使っているが、真の『漢』を理解していないな。盆栽があの小さなスペースに広大な空間を借景しているように、私はこの小さな水着に『漢』としての生きざまを借景しているのだ。
 黒い色は何ものにも染まらぬ心構えを表し、光沢はプライドの輝き。そしてこのビスはすべての誘惑や妄念をうち砕く力と、守るべきものを包む慈愛心を具現化したものだ。
 いうならばこの水着は『漢』そのものなのだ。それすらわからぬとは『漢』失格だな」
「そ、そういうものなのか……」見知らぬ男の子は急に勢いをなくして口ごもる。
 違う、違う、違う! 夏南美と拓也が思いっきり手を振る。
 だが、男の子はこれ以上ないという真剣な表情で聞き入っている。
「俺は男を理解していなかった。男の世界がこんなに奥深いとは……」
「ちょっとあんた、先輩のタワゴトを真に受けちゃダメよ」
 夏南美の忠告は耳に入っていない。
「悲観することはない。君はいま『本当の漢』を知ったのだ。これから精進すればきっと『漢』になれる。まぁ、私の域に達するにはあと一〇年以上かかるだろうがな」
 重々しく告げる木南の姿は実に堂に入ったものだ。詐欺師か新興宗教の教祖の資質十分である。
 男の子は憧れに似た視線を木南に送っている。
(先輩の域に達したら、人間として終わるような……)
「信じたら後悔するぞ」拓也が夏南美の気持ちを代弁してくれた。

「……と言うことで我々は調査をしているのだ。調査チームリーダーはこの私、民俗学研究部第四八代部長の木南淳。こっちが優秀な部員の北城拓也君。そしてその他二名だ」
 あたしらはその他かい。
「民俗学研究部。聞いたことがあるぜ、変人の集まりって話だったけど……」しかしながら否定の言葉は続かなかった。
 そうだろうなぁ。嬉しくないけど。夏南美は諦めに似た気持ちであった。
「こんな時間にプールにいるなんて尋常じゃないな、君は何者なんだね?」
「俺か? 俺は一年の純鈎(じゅんこう)」
 じゅんこう? どっかで聞いた気がするんだけど。「拓也、純鈎って名前聞いたことない?」拓也は無言で首を振る。「笙子は?」返事はなかった。
「俺は元水泳部員なんだ。入学式の日に入部したけど、ちょっと問題起こして翌日クビ。今日はもう一度入部させてもらおうと長村先生に相談しに来たんだけどよ、やっぱダメでさ、未練がましくプール見に来てたら……」
「我々が来たというのだな」
「ああ、苛ついてたところに『部外者』なんて言いやがるからよ、ついカッとしちまって。短気は俺の悪いクセでよ、悪かったな」
 けっこう素直なヤツなのかもしれない。
 ウチの学校の部って、よほどのことがなきゃ入部を断ったりしないんだけどなぁ……肉体的問題があるとか、メチャクチャ素行が悪くない限り……。
 あっ!
「思い出した。あなた一年六組の純鈎亮(じゅんこう・あきら)ね! 確か入学して早々にケンカして停学になったんじゃ」
「ウワサになっているのかよ」
「あたし『純鈎亮』って停学になるくらいだから、ゴリラみたいに身体の大きくておっかない人を想像していたけれど、本当はかわいかったんだ」
「かわいい言うな!」
 純鈎は自分の顔がコンプレックスらしく、夏南美の言葉でとたんに機嫌が悪くなった。
「容姿はともかく、大人しい生徒が多いこの学校で入学早々停学になるなど、なかなか覇気があって頼もしいではないか。ところで純鈎君、君の停学はもう解けたのかね?」
「まださ、金曜日までは登校禁止だよ」
「だったら学校に来ていいのかよ」拓也がフレンドリーに話しかける。
 拓也はこのテの不良的人間と相性がよかった。当人は不良じゃないのだけれど、世間から不良と呼ばれる人間がなぜか寄ってくる。当人もそれを喜んでいるフシがある。
「放課後に来てっからいいんじゃねぇの」
 どうやら純鈎も気にしていないようだ。
「純鈎の言う通りだな。停学は登校を禁じ、就学を禁止することだもんな」
「そうだろう」
 もう拓也の中じゃ純鈎亮は友達の範疇に入っているようである。
「新たな友情を築くための会話に水を差して済まないのだが、時間も時間なので我々は義務を遂行しようではないか。
 そういうことなので、純鈎君には悪いが失礼させてもらうとしよう」

 調査は再開された。
 怪異現象の原因を解明する───なんて絶対に見えないだろう。
 夏南美は家から持ってきた大きな浮き輪に乗っかって漂っているだけだし、笙子は調査後のハンバーガーをおごるってもらえると言う言葉に釣られて泳いでいる。
 ザバッ! 水しぶきが上がる。
「違うぞ北城君! もっと潔く前向きに倒れなければ漢の倒れ方とはいえん。志半ばで倒れる革命の闘士のように、内に生への執着を持ちながら倒れるのだ」
 拓也と木南は『漢の倒れ方』とやらの練習を続けている。
「たとえドブの中でも前に倒れる。その意気込みが大切なのだ。見たまえ、これが漢の倒れ方だ!」
 ザバッ!
 遊んでいるようにしか見えない。
(確か木南先輩、この調査を始める前に『場合によっては命を賭けることになるかもしれない』なんてことを言ってたような……なんだかなぁ)
「面白そうだな、俺も調査を手伝ってやろうか?」
 何が面白いのか帰りもせず、プールサイドに居続ける純鈎が口を開いた。
「気持ちはありがたいが遠慮していただこう。これは民俗学研究部が依頼を受けた案件なのだ。第三者の手を借りたとあっては部の信用に関わるのでな」
「そうか、わかったよ。ジャマ者は帰るわ、じゃあな」木南の言葉に気を悪くした様子もなく、あっさりと引き下がった。
「待ちたまえ純鈎君」
「なんだ?」
「君も漢を目指しているなら、この漢の魂を具現化した水着を買わないかね。いまならサービス価格の一着一万九八〇〇円でお譲りしよう」
(誰が買うのよそんな危ない水着!)
「考えておくよ」純鈎は躊躇なく答えた。
(マジ?)夏南美は純鈎という人間が色々な意味で危ない人間であると感じた。

 純鈎が去ってから三〇分。色々な調査(遊び?)が試みられたが、異変も起こらず今日も徒労に終わった。

 8

 今日の調査もハードなものだった。たぶん……。
 濡れた水着を軽く絞りながら、椎名夏南美は本日の調査を振り返る、
 水球あり、シンクロナイズスイミングありの充実した内容(?)。
 とくに北城拓也と木南淳によるシンクロは───情熱的に(先輩だけだが)互いの肉体を組み合わせるさまは───悪夢の具現、美醜を超えた技としか言いようがなかった。
 飛び散る水しぶきと空中を舞う拓也の肉体、至福の笑み(凄く怖いんですけど)を浮かべて拓也を抱きしめ四肢を絡める木南。
 ダンテが『神曲』の中でも描ききれなかった世界が展開していた。
 たぶん途中で拓也は意識がなかったと思う。だって先輩に抱きしめられた時点で白目だったもん。
 一時間ほどでプール遊び、もとい、調査は終わった。
「遅いぞ夏南美、いつまで待たせるんだよ。腹へって死にそうなんだぜ」
 着替えを終えて玄関に行くと、拓也の苦情が待ち受けていた。
「女の子の着替えには時間がかかるものなのよ、そんなにせっかちじゃ女の子に嫌われるわよ」
「うるせぇな、いまは色恋より食い気なんだよ」
「ん、同意見。色気じゃお腹は膨れない」後閑笙子も情けない表情でお腹を押さえる。
 調査はわずか一時間とはいえ、水泳部の練習が終わってから始めたから、もう七時を過ぎている。
(お腹すいたのはあたしも同じよ。だけど、お母さんは今日遅くなるって言ってたし、外食で済ましちゃおうかな、笙子の分ぐらいはお財布に入っていたはずだし)
「ねぇ拓也、どっかで食べていかない?」
「オーケー。今日はお袋は出張でいねぇし、俺も夕食どうしようかと考えていたんだ」
「夏南美ちゃん……」悲しそうな小声が。
「わかってるわよ、あんたの分はあたしが出すわよ。ただし一品だけだよ」
 笙子の顔がぱっと明るくなる。
「ところで夏南美、悪いんだけど、メシ代貸してくれねぇか」
「えっ、お金持ってないの」
「いや、お袋から夕飯代もらったんだけど……昼休みにゲーセンに行っちまって散財してさ、だから貸してくれ」
「あたしだってそんなに持ってないよ」
「頼むよ、帰ってもメシないんだ」
 拓也は顔の前で両手を合わせて夏南美を拝む。
「困ったなぁ」
(拓也の分は先輩に出してもらおうかなぁ……あれ?)
「ねぇ拓也、先輩は?」
「用事があるって言って先に帰ったぜ」
「不必要な時にはいるくせに、必要な時にはいないんだから」
「で、どーするよ?」

 結局、コンビニでお弁当を買って、学校から一番近い笙子のアパートで食べることになった。
「なあ夏南美、後閑のアパートってどんなところなんだ?」
 両手にコンビニの袋を下げた拓也が聞いてくる。
「知らない」
「知らないってなんだよ」
「実はあたし、笙子のアパート行くの初めてなんだ。なんか楽しみ」
 笙子と友達になってから一ヶ月、笙子が夏南美の家に遊びに来ることはよくあるが、不思議と笙子のアパートに行く機会がなかった。
「着いたよ」
 笙子が指差す先には木造の古くさいアパート───たぶん……廃屋と見まごうほどボロかったけど。
「ここ?」夏南美は『本当に人住んでいるの?』続く言葉を飲みこんだ。
 拓也も口を半開きにして建物を見上げている。
 割れた窓、はががれた壁板、絡まるツタ……。
「こっち」
 廊下にはうっすらとほこりが積もり、笙子以外の人間の痕跡は見られない。
 三号室と書かれたプレートがついたドアを開けた。
(をい、カギ掛けてないのかい。随分と不用心じゃない)
 ま、これだけボロいアパートに入る泥棒がいるとは思えないし。
「クツ穿いたままでいいよ」
 笙子の言葉に二人は顔を見合わせた。
(クツ穿いたまま?)子供の頃からしつけられている『家に入るときはクツを脱ぐ』が無意識の障壁となって、どうも入りづらい。
 拓也は気にならないようだ。「オジャマしまーす」躊躇なく入っていく。
「待ちなさいよ拓也……えっ!」
 カギが必要ない理由がわかった。
「ここは刑務所か」拓也の手から荷物が落ちた。
 たぶん六畳間。備え付けの小さな台所、天井からぶら下がる蛍光灯。
 飾り気のないパイプベッドと使い古したカラーボックスの他は何もない。
 畳すらない。床板がむき出しになっていて、中央にゴザがひいてある。
 そして、お約束のテーブル代わりのミカンの木箱が───いまどき段ボール箱じゃなくって木箱よ、木箱───鎮座ましましている。
(ひょっとして、貧乏ライフを堪能するため、わざとこんな内装にしているのかな?)
 なわけない! 笙子の貧乏は筋金入りだ。結果としてこんな貧乏ライフになっちゃたんだろう。
 というより、平成の日本にこんなアパートや、こんな生活があることが信じられなかった。拓也も息を飲んで何もない部屋を見つめている。
 茫然自失となっている二人を無視して、笙子はミカン箱の上に弁当を並べる。
「さ、食べようよ」
「う、うん」笙子に急かされやっと心が戻ってきた。「オジャマします」夏南美はクツを脱いでゴザに上がった。

 夏南美も拓也も部屋の雰囲気に飲み込まれ無言のままに食事は終わった。
 お腹に物が入って初めて、室内を冷静に見まわすゆとりができた。
 テレビも冷蔵庫もない。壁はポスターどころか壁紙すら貼っていない。
 薄汚れた壁に並ぶベッドとカラーボックスだけが生活色を醸し出している。
 そのカラーボックスには本が目いっぱい並んでいた。カラーボックスだけじゃない、ハードカバーの本がいたるところに積み上げてある。
『ラムジェット工学』『最新 植物病理学概論』『非鉄金属精錬』『捜査と証拠の基礎理論』『火薬学概論』『進化古生物学入門』『食中毒性微生物』『日本書紀』などなど。脈絡も関連性も感じられない本ばっかり。
 拓也も興味深げに本を眺め、『海洋動物の毒』と書かれた本をペラペラとめくる。
「おまえこんな本読んで面白いのか?」
「面白いよ、とくに六六ページからの棘皮動物の項なんか最高だよ」暗記しているのだろう、笙子は中を見ることなく答える。
「なぁ夏南美、こうゆう本読んでるか?」
「読んでないわよ。拓也はどう?」
 拓也は首を振る。
 夏南美も手にした『猫とグラフト重合』を開いてみた。題名から小説かなと思ったのだが、純粋な化学の本だった。物理や化学のセンス無いことは自覚している。読みたいという気にはならない本である。慌てて閉じるとカラーボックスに戻した。
 夏南美も拓也も同世代の人間から比べれば本は読んでいる方だ。それにしたって小説か雑誌に限られる。学術書にまでは手を出していない。
「笙子、ここにある本、全部読んだの?」
「ん、ヒマだったから」
(ヒマつぶしに学術書を読むんかい……それじゃ書いた人も浮かばれないよ)
「ねぇ笙子、ヒマつぶしに読むなら辞書や電話帳でもいいんじゃないの?」
「ん、読んだよ。結構面白かった」
(マジかい)

「それにしても今日も疲れたわね」夏南美は首をコキコキと鳴らす。
「ああ、泳ぐのは嫌いじゃねぇけど、こうも毎日だとな……俺たちは水泳部じゃないっての」拓也はゴザの上であぐらをかいたまま仰向けに倒れこむ。
「民俗学研究部の活動とも違う」笙子が醒めた突っこみを入れてきた。
「後閑の言う通りだな。俺たちは民俗学研究部のはずだよな。民俗学研究部の活動ってこんなことしかしないのかな……」
 天井を見上げたまま拓也がつぶやいた。
「そういえばさぁ」夏南美はわざとらしく頬をかく。「変なこと聞くようだけど、どうして拓也は民俗学研究部に入ったの? て言うか。なんでまだ部を辞めていないの?」
「なんだよ、俺に辞めろって言ってるのか?」
「ううん、そうじゃなくってさ。拓也っていろんなことに興味ある人だし、運動だって好きじゃない。それにさ、民俗学研究部に入ってから木南先輩にひどい目にもあわされているじゃない。なのになんで辞めもしないで部に残っているのかなって思って」
「ん……よっと!」反動をつけ拓也は身体を起こした。「確かにいろんなことに興味はあるよ。夏南美だってそうだろう?」
「うん。まあね」
「高校の運動部は熱血君が多すぎてやってられないし、模型部とか映画部なんかは教条主義的なバカが多くて入部する気になれないぜ」
「あ、わかる。あたしが行ったライトノベル同好会なんて最低だったもん」
「だろう。それに俺だって歴史や民俗学には興味あるし。民俗学研究部に入ればおもしろいことが経験できそうな予感がしてさ。
 ほら、マンガなんかだと歴史を調べているうちに、不思議な事件に遭遇して怪物と戦ったり、日本を影から操る組織の秘密を暴いたり冒険が待っているだろう。俺もそんな経験ができないかなぁ、なんて希望もあったりしてな」
 恥ずかしいのだろう、拓也はあさっての方を見ながら鼻をかいている。
「そう……」
(拓也も同じこと考えてたのかぁ……他人に言われるとちょっと恥ずかしいわね)
「ま、くだらない夢はともかく。木南先輩には借りもあるし」
 拓也の声が真面目さを帯びた。
「借り? 借りって何なの?」
「うん……」拓也は少し目を細めてうつむいた。
「どうしたの? 言いづらいことなら言わなくてもいいけど」
「いや、いい機会だから話すよ。入部してからすぐのことなんだけど、学校帰りに変なヤツにからまれちゃってさ。相手は二人いるし、場所はゲーセンの横の路地だったもんだから逃げられなくってよ」
「たった二人でしょう、拓也って運動得意じゃない、なんとかならなかったの?」
「バカ言うなよ、一対一ならまだしも、二人相手に勝てると思うほど俺はバカじゃない。それに相手の一人は森栄工業高校の近藤ってヤツでよ、近藤興業社長の一人息子だぜ」
「近藤興業ってヤクザの近藤興業? その一人息子……やばそう」
「やばいよ。暴力沙汰はヤツにとって歯磨きと同じくらい毎日の習慣だしよ、ヤクを売ったり車を盗んだりしたい放題にやってるけど、親父の力で全部もみ消してるんだぜ。近藤に因縁つけられて、連日のカツアゲを苦に自殺したヤツもいるってウワサだ」
「た、拓也もカツアゲされてるの?」
「俺は大丈夫だ」拓也は笑いながら首を振った。「そんときだよ木南先輩に借りができたのは。いつの間にきたのか、木南先輩が現われて俺を助けてくれたんだ。あっという間に近藤たちをボコボコにしちゃってさ」
「ボコボコはいいけど、相手は組長の一人息子なんでしょう。そんなことしたら後からヤクザにひどい目に遭わされるんじゃないの?」
「俺もそう考えてビビったよ。でも木南先輩が『後のことは私が片をつけておくから心配しないように』と言って」
「で、どうなったの?」
「俺も詳しくはわからないんだけど、いま近藤興業って有名無実の状態らしいんだ。なんでもバケモノのように強いヒットマンに襲われて壊滅に近い被害があったとか」
「ひょっとしてヒットマンって木南先輩?」
「かもしれない。けど、断言はできないんだ。木南先輩に聞いても『何のことだね』ってはぐらかされるし、近藤興業が襲われた翌日にも先輩には会っているけれど、かすり傷ひとつなかったし。いくら先輩が変態でも常識的に考えれば、ヤクザの事務所を襲って無傷ってことはないだろうしな」
「そうだよねぇ」
 そう言われてしまったら夏南美もうなずくしかなかった。
「それでもう問題はないんだ?」
「たぶん木南先輩のおかげでな。木南先輩って、ああ見えて面倒見がいいところがあるから。ま、俺が辞めずに民俗学研究部にいるのは先輩への借りもあるけど、居心地が良いところが最大の理由だろうなぁ」伸びをするついでに、拓也はそのまま横になる。
「そうだね。あたしもそれは感じているよ」
「どういうところがだよ夏南美?」
「木南先輩は女性蔑視だし、あたしのことなんかボロクソに言うけど」
「ボロクソに言うのは、男も女も関係ないよあの人は」拓也が言い切る。けれどその口調は笑いがこもったものだった。
「わかっているわよ」夏南美は笑顔で答えた。「あたしもさぁ、先輩には世話になっているところあるんだ。拓也みたいな借りじゃないけどね」
「なんだよそれ?」
「猫間神社について調べたいことがあったんだけど、史料がなくって困っていたのよ。そうしたら木南先輩が『猫間漫筆』という本のコピーをくれたの。あたしが知りたかったことがバッチリ書いてあって助かったんだぁ」
「ふーん、わざわざ本を探してくれたんだ」
「その本が普通の本じゃないのよ。江戸時代に書かれた私家本で現代語訳本なんてないの。それをコピーして、そのうえ現代語訳までついていたのよ」
「先輩が訳したのかな」
「そうだと思うよ。だって後からコピー代と翻訳料を請求されたもん」
「それって世話になったって言うのか?」
「助かったことは確かだし、翻訳料だってコーヒー代ぐらいだったから」
「じゃあ夏南美は、史料なんかが手にはいるから民俗学研究部に残っているのか?」
「それだけじゃないよ。拓也と同じで居心地の良さかな、残っている理由は。それにさ、木南先輩や拓也が入部してから起こした騒動のせいで、いまさら入部させてくれるクラブもないだろうしね」夏南美はミカン箱に置かれた烏龍茶缶を持ち上げ、「ありゃ、もう空か……」独りごちる。
 ツンツンとソデを引っ張られる。
 ん? 笙子が目を輝かせて見つめている。
「夏南美ちゃんノド乾いたの? お腹はすいていない?」笙子がおずおずと聞いてきた。
「へ? まぁ苦しいってほどじゃないけど……ひょっとしてまだすいてるの笙子?」
「うん」
「お弁当ふたつ食べたでしょう」
「でも……ほら、育ち盛りだから」
(育ち盛りって、これ以上どこを育てる気よ)
 刺し通すような鋭い視線を笙子に送った。
 どれだけ食べても太くならないお腹、いまだ成長期のムネ、余計な脂肪がついておらずスッキリとしたアゴ、そして雨の中で凍える仔猫のような瞳(うっ、この目に弱いのよね、あたし……)
「わかった何か買いに行こうか」
「だから夏南美ちゃん好き!」笙子はDカップの胸を夏南美の顔面に押しつけてきた。
 ふに。
(だから気持ちいいってば。危ない趣味に走っちゃったらどうするのよ。でも……大きいことはいいことだなぁ)
 五分ほど笙子のムネを堪能してしまった、いかん……。
 気を取り直して笙子を引きはがし立ち上がった。
「あたしたちはこれから買い出しに行くけど、拓也はどうする?」
「俺? 金ないから留守番してるよ。できたらコーヒー買ってきてくれないか」
「わかった、缶コーヒーでいいよね。じゃあ笙子行こうよ」

「お待たせー、近くにコンビニなくってさ……」
 ドアを開けた夏南美は───拓也の姿を見て固まる。
 拓也はゴザの上で大の字になって安らかな寝息を立てている。笙子のパンツやブラにまみれて。
「ど変態!!」
 夏南美は厚さ四センチはある『日本災異史』を───ケース入りハードカバー八七八ページ───投げつけた。
 げしょ! 一直線に飛んだ日本災異史は拓也の股間を直撃。
 安らかな眠りから一転し、地獄の目覚めに身体を丸める。
「な、な、なに……しやがる」涙を浮かべ途切れ途切れに文句言う。けれど股間を押さえた格好じゃ迫力なぞない。
「『なに』はこっちのセリフよ。下着にまみれて何してるのよ!」
「し、下着……何のことだ?」苦しげな表情で上半身を起きあがらせる。右手にはネコ柄パンツが握られている。「あれっ、このパンツ……知らねぇよ、本当だ信じてくれ!」
「拓也、頭にブラジャーが乗ってるよ」
 夏南美の冷たい声に、慌ててブラを払い落として後ずさる。「し、知らない。だいいちパンツやブラをかぶるより、盗んで売った方がいいに決まってるんだから。それなのに俺がバレるようなことするわけないだろう」
「ということは、拓也君は笙子の下着を盗んで売ろうと考えていたんだ」
「いや、例えばの話しであって、三年の加藤先輩に後閑の持ち物を盗ってくるように頼まれているとか、来月の部費の足しにしようなんて事実はないんだ」
「三年の加藤先輩って、演劇部の加藤まゆみ先輩のことじゃないでしょうね」
「えっ、なんで知ってるんだよ」
 演劇部の加藤まゆみと言ったらレズで有名じゃないのよ。
「そんなことはどうでもいいわ、ようするに拓也は笙子の下着を盗んで売ろうとしていたわけでしょ。覚悟はできているわね」
 夏南美は冷たい笑みを浮かべ一歩踏み出した。
 必死に逃げようとする拓也だが、股間のダメージで下半身が自由にならない。
「幼なじみのよしみで苦しまないように一発でしとめてあげるわよ」
 づぃ。ソデが引っ張られる。
「夏南美ちゃん、北城君は私の下着を盗もうとしたわけじゃないと思うよ。洗濯した服をあそこに畳んで積んでいたから、寝ぼけて崩しちゃったんじゃないかなぁ」
「後閑、そうゆうことは先に言えよ。な、夏南美、誤解だったことはわかったろう」
「ん、まぁ笙子がそう言うなら信じてあげるわよ」
「ということで後閑、無実の俺に暴行を加えた慰謝料としてパンツを一枚売ってくれないか? 加藤先輩が五千円出してくれるから、半分やるよ」
「拓也ーっ!」

 授業が終わるとすぐに部室に向かった。
 今日は珍しく木南の方が先に来ていた。
「どうしたのかね北城君、具合でも悪いのかね?」木南はガニ股で歩く拓也を、訝しげに眺め尋ねる。
「聞いてくださいよ先輩、世の中にはひどいヤツがいるんですよ」拓也は非難を込めた目を夏南美に送り、「昨日ですね……」
 うぉほん、うぉほん。わざとらしい空咳が拓也の話を中断する。
「うるせぇな夏南美、ひとが話しているのになんだよ……ぅうげ!」
 夏南美は英和中辞典を掲げて、無言で拓也の股間をにらみつける。
 慌てて股間を押さえて、小刻みに震える。昨日の衝撃を反芻でもしているのだろうか。
「き、昨日は何もありませんでした。股間が痛いのは、ボ、ボクの邪な心のせいです」
「なに! 股間が痛むのか! 私が痛みを和らげてあげよう。一緒に保健室に行こうではないか、ねんごろに介抱してあげよう。いざ」
 木南はガニ股で逃げようとする拓也を抱きしめると、軽々とかつぎ上げ、人間とは思えぬスピードで駆け出した。
 本日の調査はいつもより一時間遅れでスタートした。

 9

「拓也、笙子、急いで。今日も調査だよ」
 椎名夏南美はカバンに教科書を詰めながら、北城拓也と後閑笙子に声をかけた。
「うん。いつでもいい」笙子は返事と同時にカバンを持って立ち上がる。
 笙子にしては珍しく積極的だった。
 理由は単純明快。昼休みに夏南美が言った『今日の調査で二キロ泳げたら、夕食に招待してあげる』の言葉だった。
 以前、笙子が言っていた、『何キロでも泳げる』が本当かどうか確かめたくって、つい冗談半分で提案してしまった───もちろん泳ぎきれなくても、夕食には招待するつもりなのだけど。
 その結果、笙子の中では、調査イコール夕食の公式が成り立っているようだ。
「悪ぃ、先に行っててくれ。腹へっちまったから、上田たちと学食に寄ってから行くよ」
 そう言うと、拓也はクラスメイトと話しこんでしまう。
「遅くなると木南先輩がうるさいからね。さっさと来てよ」
「わかってる」
 夏南美は拓也の気のない返事を聞きながら、笙子をつれて教室を出た。

 慣れ親しんでしまった更衣室で着替え、ロッカーに荷物を入れようとした夏南美の手が止まる。
 民俗学研究部に入部したのに、よもや毎日泳ぐハメになるとは思ってもいなかった。こんなことでいいの───いつもの疑問がわき起こった。が、
(考えるのは止めよう……どうせ、木南先輩の暴走には逆らえないもん)
 だったら、少しでも状況を快適なものにするのが、人間の知恵というものだ。夏南美は自宅から持ってきた、ビーチマットと長時間水上調査補助器具を───つまり浮き輪───抱えて振り返った。
「笙子、行こうか」
「ん」スクール水着に着替えた笙子がうなずいた。
 うなずくと同時にパツンパツンのムネもプルンと揺れる。
(拓也が喜びそうな格好ね)
 どうして男の人はスクール水着が好きなんだろう? 笙子のスクール水着を見てふと思ってしまう。
 肌の露出は少ないし、色気とかセクシーさからは縁遠い水着なんだけど。
 本当に男の人が考えてることはわからない。
「夏南美ちゃんどうしたの? 水着をにらんでるけど、どこか変?」
「ううん。変じゃないよ。ちょっと美的センスにおける性差を考えていただけ」
「なにそれ?」
「なんでもない。さ、行こう」
 夏南美はプールに続くドアを開けた。
 おりょ?
 先客がいた。
 男性のシルエットが二つ。木南淳ではない。もちろん学食に行っている拓也でもない。
 水着姿の二人は、夏南美に背を向け何ごとかを話しこんでいるようだ。
「ねぇ笙子、木南先輩は今日も調査するって言ってたよね」
「うん。言ってた」笙子は握り拳をつくり、厳しい表情になる。「調査がなきゃ困る。調査が中止だと今晩の夕食がなくなる」
 当たり前と言えば当たり前だが、笙子とて調査を喜んでやっているわけではない。本来ならば体育の授業でもないかぎり、空腹の素になる運動はしたくないのだ。だけど、夏南美との賭けに勝てば夕食に招待してもらえる。
 今日の調査は慢性的な金欠状態の笙子には、生死に関わる重要事項なのである。
「水泳部の部員かな?」
「わかんない」
 夏南美たちの会話に気づいた二人が振り返った。
 げっ!
 見覚えのある顔に───正確には、見たくもなかった顔───夏南美は息をのんだ。
(なんでSF同好会の二人がここにいるのよ)
 目の前の人物はSF同好会の会長と副会長だった。思いがけない、そして思い出したくない二人。
 貧相という言葉が似合う痩せた身体。テロリストのような狂信的な面相。三〇代までにはハゲることを運命づけられた広すぎる額───SF同好会会長の横島悠紀夫(よこしま・ゆきお)。
 もう一人は対照的に小太りの体毛の濃い男。遠目から見ると毛糸玉に手足が生えているように見える。顔の割に目や鼻の造りが大きくて、不必要な暑苦しさがある───SF同好会副会長の立山康臣(たてやま・やすおみ)。
(どうして、こいつらがいるの?)
 忌まわしい思い出が夏南美の脳裏に蘇ってきた。
 民俗学研究部に入部する前、夏南美はいろいろなクラブをまわっていた。その中にSF同好会もあったのだ。SF同好会は多趣味の人が集まるクラブと聞いていただけに、けっこう楽しみにして訪問したのだが……。
『入部希望? 君はいらないや。他のクラブに行ってよ』と横島。
『そうそう。ウチはBカップ以下はお断りなんだ』立山も相づちを打つ。
 ……まったく相手にされなかった。
(いま思い出してもハラ立つ)
 夏南美は二人をにらみつける。
「なにガンくれてるんだ」横島は凶悪な顔をさらにしかめ、にらみかえしてくる。
 どうやら夏南美のことは覚えてもいないようだ。
「あんたら誰?」夏南美とSF同好会とのいきさつを知らない笙子が、不快感をあらわに声を低めて尋ねた。
「俺たちは重要な調査中なんだ。ジャマ者は出て行けよ」横島が低いくせによく通る声で恫喝する。
「ジャマなのはあなたら。私の夕食をジャマしないで!」笙子が声を荒げる。
「なんだとォ! オマエらこそ何者だ?」
「民俗学研究部」
 笙子の言葉に二人の表情が硬くなる。
「オマエらが民俗学研究部か。民俗学研究部はもうお役ご免なんだよ。帰れ!」
 横島はネコを追い払うように、シッシッと手をふる。
「お役ご免ってどういうことよ」横島の態度にムッとして、夏南美は目を細める。
「オマエら民俗学研究部がふがいないから、俺たちに調査が回ってきたんだよ」
「はい? SF同好会にも調査依頼?」
 状況がわからず、笙子の顔を見た。

 困惑する夏南美たちを見ていた横島は、優越感に浸った薄ら笑いを浮かべる。
「何も知らないようだから教えてやるよ。オマエらは月曜から調査しているんだろう。なのによ、今日まで異変解決の糸口を見つけたかよ。それどころか毎日水遊びしているだけってウワサじゃねぇか」
「う゛。ち、違うわよ。ちゃんと調査している……つもり」夏南美は慌てて浮き輪を後に隠した。
「オマエらがあんまり結果を出さないから、水泳部の倉守部長は不安になったんだよ。オマエらみたいないいかげんで、変態が部長のクラブに調査を依頼したことをよ」
(木南先輩が変態なのは事実だし、拓也がいいかげんなのも本当だ)
 反論材料がなく、夏南美は黙っているしかなかった。
「だから頼りないオマエら民俗学研究部の代わりに、俺ら優秀なSF同好会に調査依頼が来たんだ」横島はひと呼吸おき、鋭角的にとがったアゴをなでる。「なのによ、先にオマエらが依頼を受けているもんだから、俺たちの報酬は成功報酬の後払いだとよ。俺たちも安く見られたものだ。これもオマエらのせいだぞ」
「そ、そんなこと知らないわよ。水泳部が勝手に決めたことでしょう」
「そうかもな。だけど、俺たちが調査を引き受けた以上、調査のジャマになる人間はここにいてほしくないんだ。だからオマエら役立たずにはお引き取り願おう」
 横島は夏南美の肩を手で押した。
「汚い手で触らないでよ!」
 夏南美は横島の手を振り払った。と、同時に「ぐっ」とくぐもった音が……。
「夏南美ちゃん……ナイスパンチ…………」
 横島の手を払った夏南美の手は、勢いついたまま笙子のアゴを直撃。
 笙子は崩れ落ちた。
「笙子! ちょっと、しっかりしてよ!」
 夏南美の声に反応はない。笙子は見事なほど気絶していた。
「あなたたち、なんてことするのよ! 女の子を気絶させるなんて最低!」
「殴ったのはオマエだろう」
「何言うのよ。あんたが汚い手であたしに触れたからでしょう! と言うことは、原因はあんたじゃない!」
「ムチャムチャ言うなよ。それを責任転嫁って言うんだぞ。中学校で教えてもらわなかったかよ」横島はヤレヤレと肩をすくめる。
「責任転嫁じゃないわよ。貧相で、貧弱で、一生童貞間違いなしで、いままで生身の女の子の肌に触れたことのなさそうなあんたが、可憐なあたしを肌に触れること自体畏れ多いのよ。女の子だったら誰だって同じ反応するわよ!」
「な、な、なんだとぉ」横島の表情が険しくなる。
「見苦しい顔でにらまないでよ。怒ったって恐くないもん、どうせ顔だけでしょう! 本当は女の子が恐くて内心はビクビクしてるくせに!」
 初めは笙子を気絶させてしまったことを誤魔化すためだった。なのに悪口を言っているうちに、夏南美自身でも抑えきれないほど興奮してきて罵倒が止まらない。
「どうせ怒ったフリしてあたしの身体を見てるんでしょう。イヤらしい!」
 横島は屈辱に顔を青ざめさせる。
「てめぇ、横島会長をバカにするのもいいかげんにしろ! てめぇこそ男日照りみたいなスタイルのくせに。本当は横島さんに触ってもらえて嬉しかったんじゃねぇか」
 会長の危機に副会長の立山が口を挟む。
 残念ながら焼け石に水だった。火のついた夏南美はこのぐらいの悪口には動じない。かえって油を注いだようなものである。
「黙れ毛ダルマ! もう五月だというのにボウボウと毛を生やして。動物だって冬毛から夏毛に生え替わるわよ。文句が言いたいのなら夏毛になってから言いなさいよ!」
 日ごろから木南と舌戦を繰り広げた成果が存分に現われていた。
「こ、このぉ。女だから手を出されないとか思っているんじゃないだろうな。オマエみたいな貧乳は女のうちに入らないんだよ!」
 横島が夏南美の腕をつかみあげた。
「きゃっ! 痛っ!!」夏南美の身体が前屈みになり、小さな悲鳴がもれる。
「よくも好き勝手言ってくれたな。オマエみたいな下品な女はうっとうしいんだよ。ギャギャ騒ぎやがって。少し教育してやらなきゃ、自分の立場ってのがわからないようだな。
 もう一度言うぞ。オマエら民俗学研究部はジャマなんだよ!」
 さらに夏南美の腕をねじ上げる。
 ギリッ。肩のあたりが嫌な音をたてた。
「痛いってば! 離せ、離しなさいよ! 笙子! 拓也! 誰でもいいから助けてよ!」

「呼んだかね椎名君」
 更衣室のドアが開き木南淳が現われた。
 横島は木南をにらみつけ、
「木南か。オマエらはこの件から手を引けよ。いま、この生意気な女にも説明していたところだけどな。なっ、そうだよな? ムネのないネエちゃん」
 夏南美の腕をねじり上げる。
「し、知らないわよ! い、痛い……先輩、助けて」
 夏南美は苦痛に顔をしかめ助けを求めた。
 が、木南は夏南美の懇願を無視し、心の底から楽しそうな笑みを浮かべる。
「むははははは。貴様らSF同好会がいかに恫喝しようとも、この件からは手を引くわけにはいかない。これは我が民俗学研究部の名誉に関わる問題。さらには逼迫する財政問題の重要な解決策でもあるからな」木南は後ろ手を回したまま、ずいっと胸を張って答えた。
「財政が逼迫しているのは俺たちも同じなんだよ。これからどれだけのイベントがあるか知っているのか。夏コミ、SF大会、合宿……数え上げたらきりがない。そのどれもこれもに金がかかるんだよ!
 それにな、オマエらじゃ謎を解明するどころか、もっとヒドイ状況になりそうだって倉守は心配してたぜ。役立たずはとっとと帰れよ」
 横島は一気にまくし立てる。
「貴様らがくだらぬ購買で部費を失ったのは、貴様らの計画性のなさと自制心のなさであって、言うならば自業自得。クラブ運営というものは、綿密な年間計画を立て実行するのが肝要。それができぬ者は会の長たる資格はない……」
(あたしらがこんな目に遭っているのも、木南先輩の計画性のなさと、自制心のなさが原因なんだけど……わかってる?)
 ご大層な能書きを述べる木南を、夏南美は醒めた目で見つめた。
「ん。ゴホッ。ま、一般論はここまでとしよう」しらけた顔をした夏南美に気づき、木南はわざとらしく咳をする。
「部費の自己管理すらできない無能な貴様らが、我々に代わって調査するだと。笑えない冗談だな。いらぬ恥をかく前に、引き上げた方がよいのではないのかね」
 木南の罵倒に黙っていた立山が、真っ赤になってブルブルと震えだした。
「貴様らは己が無能であることに気づいていないのかね。おまけに妙なヤル気だけは持っている。始末におえないな」木南は哀れみの声をにじませ、「知っているかね。軍隊では無能な働き者は銃殺にせよと言われていることに。はぁ。私は貴様らを銃殺せねばならないのかな」ため息混じりに言う。
「お、俺たちが無能だとぉ。勝手なことほざくな! 木南、オマエこそ自分の立場がわかっていないな。こっちには人質がいるんだぜ、この女がどうなってもいいのか!」
 立山は恥ずかしげもなく悪役然としたセリフを口にする。
「構わないとも。貴様らの好きにすればよい」
 逡巡もなく、わずか〇・一秒で返答する木南だった。
「ちょっ、ちょっと待って。あたしの運命を勝手に決めないでよ!」
「うるせぇ! オマエには聞いてないんだよ」
 立山は夏南美の抗議を一喝した。すっかり悪役という役柄に陶酔しきっている。
(ヤバ……テンパっちゃてるよ。なんかアブナイ目つきになってきてるし。まずいよぉ。これ以上この人たちを刺激しないで)木南に救いの目を向けた。
「それで有利にでもなったと思っているのかね。女人の一人や二人、人質になろうと我が信念は揺らがないのだ。それもわからぬとは貴様らも愚かだな」
 木南の愚弄はとどまらない。
「んだとぉ。だったらこいつらの水着を脱がして、デジカメでヌード撮影会開いてやろうか」立山は置いてあったカバンの中から、デジカメを取りだしこれ見よがしに構える。
 精いっぱいの脅し文句のつもりだろうが、しょせん高校生のやること、退学にならない範囲での脅迫しかできない。
 ちょっとマヌケ。夏南美は人質の立場を忘れて思ってしまった。
「ヌード撮影会でも、全裸お披露目会でも自由にやりたまえ。もっとも、椎名君の貧弱な胸部や扁平な臀部を、喜んで見る酔狂な人物がいるとは思えないがな。そこの後閑君なら見たがる男子生徒もいるかもしれないが」
 木南は夏南美と笙子を見比べるように視線を動かす。
「女の子はデリケートなんですよ。裸を見られるのが、どれだけ恥ずかしいかわかってないんですか!」
「興奮してはいかんな椎名君。これは相手を興奮させ正常な判断力をなくすという、高等な交渉戦術なのだ」
「で……正常な判断力をなくした相手が、興奮して人質を傷つけたりしたらどうするんです」真顔になった夏南美が、冷えきった声で言う。
「その場合は不慮の事態として諦めるしかあるまい」
「せ〜ん〜ぱ〜い〜」
 おかしくもないのに口元が歪んでしまう。夏南美は爆発しそうな怒りを必死に抑えた。
「オレらを無視するんじゃねぇ! オマエは自分の立場がわかっていないのかよ」
 横島は夏南美の腕をねじ上げたまま一歩前に出る。
「いっ!」夏南美は息をのんで顔をしかめる。
「SF同好会は理性も常識もない、薄汚いオタク野郎の集まりとは聞いていたが、やはりウワサは正しかったようだな」木南は大げさに肩をすくめ、『やれやれ愚者には言葉は通じないか』とばかりに首を振る。
「相手にすることが、これだけ苦痛に感じる人物は初めてだ。時間の無駄遣いとはこのようなことを言うのだろうな」追い打ちをかけるように、木南は大きくため息をもらす。
 立山は熱病患者のようにブルブル震えだし、
「もうアタマにきた! 本当にこいつらを裸にしてやる!」
 夏南美の水着に手をかけた。

「待ちたまえ!」
 木南の声に立山の手がビクッと止まる。
「私がこれだけ優しく話しても理解できないとは。ならば畜生にも劣る卑しい人間には実力行使しかあるまい」木南は後ろに回していた腕を前にだす。「見たまえ!」
 木南はセーラー服を着た女の子を羽交い締めにしている。
「祐理香(ゆりか)ちゃん!」立山が悲鳴じみた声をあげる。
「私がちょっと力を加えればどうなるかな?」
 木南は鼻の上にしわを寄せ、サメのような歯並びを見せ笑う。
「やめろぉ! 祐理香ちゃんは関係ないだろぉ」立山の目にうっすら涙が浮かんでいる。
「やめろ? 貴様は自分の立場がわかっていないようだ。私が寛容でいられるのも、あとわずかだが」
「す、すまない」立山は土下座し、頭を床にすりつけ懇願する。「俺の祐理香ちゃんを離してくれ。いえ、離してください」
 祐理香って立山の恋人なの? それにしても叫んだりもしない娘だな……ん?
 夏南美は目をこらして”祐理香ちゃん”を見た。
 人形……? 祐理香ちゃんは等身大の人形だった。
 木南は祐理香ちゃんの顔をグイッと横に向ける。
「良くできたフィギュアですな。確かこれは限定一〇体生産のレア物。ネットオークションでは軽く五〇万円は超えていたはず。もし壊れたら悲しいでしょうな。貴重品はもっと安全なところに保管しないと」
「どうして祐理香ちゃんがここにいるんだ? 部室の耐震耐火貴重品ケースに保管しておいたはずなのに……」
「私がプールに来たとき、貴様らが椎名君と言い争いをしていたので、何かの役に立つかと思いSF同好会部室から借りてきただけだが。そこの立山君にとっては命の次に大切な物のようだな。そうそう、部室にはこんな物もあったが」
 木南はトランプのような紙束を取りだした。
「俺の超限定レアトレカ!」
 夏南美の顔の横で横島が叫ぶ。
 あまりの大声に、夏南美の耳は一瞬聴力をなくすほどであった。
「ほう、超限定レアトレカとは知らなかった。好きな人には貴重な品であろうな。だが、私にはトレカもフィギュアもただのオモチャ。破壊するのに躊躇する必要もない」
「それだけは勘弁してくれ!」横島は涙と鼻水でよごれた顔を木南に向け、「す、済まなかった。この女は離すから、壊すのは許してください」慌てて夏南美の腕を離した。
(痛かったぁ。女の子に暴力をふるうなんて)
 夏南美は自由になった腕をさすりながら、横島と立山をにらみつけた。
 で! 夏南美の怒りは呆れに変わる。そこにはグシャグシャの顔をして凍りつく横島と、土下座したまま『祐理香ぁ』と名前を呼び続ける立山の姿。
 こんな情けない人間に構うと、自分がダメ人間になりそう───夏南美は二人を無視して、倒れる笙子を抱え起こす。
「木南先輩、助けてくれてありがとう」夏南美は木南に小さく頭を下げた。
 視線は横島たちを見据えたまま、木南は無言でうなずく。
「さて、貴様らはまだ言うべきことがあるのではないかね」トレカを持つ手に力を入れる。
「えっ、あ、はい。この調査から手を引きます」
 横島は絞り出すように弱々しい声で言う。
「だから……俺の祐理香ちゃんを返してくれよぉ。もう、用事は済んだろう。もう水泳部の調査なんかしないからさぁ」
 土下座したままの立山が木南ににじり寄る。
「用事? 用事は済んでいないぞ。貴様らは勘違いしているな。私は調査の話をするつもりはない。貴様らと話すべきことは慰謝料についてだ」
 木南は冷たい目で見下ろす。
「慰謝料? 女性部員に手をあげたことですか?」
「そんな些末なことではない。椎名君がどうなろうとも、我が民俗学研究部に何の損失もない。私が請求するのは、この世の中でもっとも尊いものの損失。すなわち私の時間を浪費したことに対する慰謝料だ」
「んな、無茶苦茶な」横島は呆けた声でつぶやく。
「ほう、そんなことを言える立場かね」
 木南は祐理香ちゃんを抱える腕に力を加える。
 メキッ! 固い物が割れるような音。
「ひっ! やめ、やめて!」
 立山は身をよじってプールサイドを転がり回る。
「ここの床は滑りやすいな」木南は聞こえるように独りごちつき、「こんなところで転んだら、貴重なトレカごとプールに落ちてしまうかもしれないな」わざとらしくつまずいた。
「あ、あぶ、危ない!」
 横島が人知を超えたスピードで駆け寄り、木南の身体を支える。正確には我が身を挺して木南の巨躯の下敷きになった。
「このような貴重品を持っていると、緊張のあまり足がもつれ、腕は痙攣を起こしてしまいそうだな。なにしろ私は小心者だからな」
 瞳に嫌らしい光を煌めかせた木南。なぶるように這いつくばる二人を見下ろす。
「わ、わかった……慰謝料を払う!」横島と立山の声が重なって響く。「何を払えばいいんです。金ですか? 物ですか?」
「私はユスリでもタカリでもないのだ、勘違いしないでくれたまえ。他人の所有物を盗むつもりはない。ただ、我が民俗学研究部では最近テレビの具合が悪くてな……」
「テレビ?」
「SF同好会には二九インチの液晶テレビがあるようだが」
「はい。それが?」
「慰謝料として、そのテレビを貸してもらえると嬉しいのだが。もちろん無償、期間無期限、返却催促なしで」
 木南は右手で祐理香ちゃんの頭をわしづかみし、左手につかんだトレカを極限まで弓なりにしてみせる。
 数秒の沈黙の後、「わかりました」諦めきった声が聞こえた。

「すんませーん。遅くなりました」
「うぃーす」
 水着姿の拓也と私服姿の純鈎亮が仲良くプールに入ってきた。
「何しているんです? あれっ、この人たちは何ですか?」
 拓也は満足そうな笑みを浮かべる木南と、憔悴しうなだれる横島たちを不思議そうに見比べる。
「おお、諸君、いいところに来た。この二人は我ら民俗学研究部の活動に賛同してくれる有志だ。なんとこの二人は、慰労のためにと二九インチ液晶テレビを無償で貸してくれるそうだ。すまないが北城君と純鈎君は、テレビを運ぶのを手伝ってくれたまえ」
「やったぁ!」無邪気に喜ぶ拓也。
「では、テレビを借りに行こうではないか」
 木南は横島たちを促し更衣室に向う。
「木南先輩。ちょっと」夏南美は木南を呼び止めた。
「何かな椎名君?」
「変なこと聞きますけど、先輩はあたしたちを助けに来てくれたんですよね?」
「まさか」肩をすくめ鼻先で笑う。「なぜ私が愚かなる女人を助けなければいけないのだ」
「それじゃあ先輩は、どうしてあたしたちを助けてくれたんです?」
「君を助けたのではない。SF同好会と交渉する絶好の機会を逃さなかっただけだ」
「へ? じゃあ……もし、あたしたちの水着が脱がされたら、先輩はどうしたんです?」
「どうもしないさ。私は女人の裸体に興味はない。それでは私は行くぞ」
(この人、マジに、あたしたちを助ける気はなかったんだ……)
 後輩のために先輩はSF同好会をやっつけてくれた───たとえ一瞬でも、そう思ってしまった自分の愚かしさを夏南美は後悔した。
 木南は更衣室のドアの前で足を止め、「椎名君、君には感謝しているぞ」振り返った。
「はい? 先輩があたしに感謝?」
「そうとも。君が人質になってくれたおかげで、私も少々強引な策を取ることができた。ま、人質がいなくても、テレビを借り受ける方法はあったがな」
「本当に先輩はテレビが目的だったんだ……」夏南美は怒りを通り越して、呆けたようにつぶやく。
「当然ではないか」
 木南はプールから出て行った。

 10

 木曜日も調査は行われた。が、長村先生が言う異常な現象など微塵も起こらない。
 前日のゴタゴタが嘘のようにのんびりしたものだった。
 椎名夏南美は大きな浮き輪に乗っかってバカンス気分を満喫していた。
 もう木南淳の水着姿───ビス付き───にも慣れた。後閑笙子のムネに対する劣等感にも諦めがついた。
 広いプールに浮かんでボーッとしていることに安らぎすら覚え、「本当に平和ねぇ」思わず独り言がもれる。
「亮、おまえ毎日俺たちに付き合ってるけど、ほかにやることないのかよ」プールから上がった北城拓也が純鈎亮に声をかける。
「停学中だからヒマでしょうがねぇんだよ。それに拓也たちが変なことしないか監視する人間がいないとな」
「停学中のおまえに言われたくないぜ」
「うるせー、って、その通りか。ははは」
 拓也と純鈎はウマが合うらしく、互いに名前を呼び捨てにする仲になっている。
 そのせいか純鈎も毎日来ていた。木南に止められているから手伝うことはないが、プールサイドに陣取って、夏南美たちの調査をながめている。 
 何が面白いんだか。ヒマねぇ純鈎君も……などと思いながら大きな伸びをする。人のことは言えない、夏南美もヒマだった。
「諸君、集まってくれたまえ」
 プールサイドに上がった木南が、股間のビスを煌めさせながら夏南美たちを呼び集める。
「純鈎君、すまないが君もオブザーバーとして加わってくれないか」
 バシャバシャバシャ。
 笙子が静止しているとしか思えない犬かきで方向転換した……と思う。
 バシャバシャバシャ。バシャバシャバシャ。
 いっこうに進まない。
「後閑君、泳ぐのは止めて、歩いて上がってくれないか」
 バシャバシャ……ピタッ。
「ん、そうする」
 上がってきた笙子が濡れた髪をかき上げる。濡れてなお光沢を保つ水着に包まれた大きなムネが揺れた。
 拓也の目がクギづけになる。
 木南の視線は───拓也に注がれてる。
(まったく、男ってヤツは。どうせ純鈎君も……)
 純鈎は───笙子を見ていなかった。それどころか、慌てて顔を背けたけど、夏南美のことを見つめていたようだ。
(男の子がみんな巨乳に興味があるワケじゃないんだぁ。いまあたしのこと見つめてたよね、あたしに気があるとか! 自意識過剰だったかな?)なんとなく嬉しい。
「水着姿はいい、本能の赴くままつい見とれてしまった。もっと北城君の大臀筋を観賞していたいが、本題に戻ろう。
 今日までの六日間、我々は異変を解明すべく粉骨砕身、全身全霊、刻苦勉励、己が身を挺して綿密な調査を行ったが、異変の兆候すら得られなかった。本日にいたっては放課後すぐ調査に着手したというのにも関わらずにだ。
 ところが、長村先生の話によれば今週も異変があったと報告があった。水泳部の練習中には発生し、なぜ我々の調査中には起こらない。水泳部と我々の間にどんな相違点があると思うか、各人忌憚なく意見を述べてほしい」
 思いつく限りの相違点が出された。時間帯、参加人数、特定の人物の有無、水温、音、窓から注ぐ太陽光の具合、曜日、水中の人脂の量など。
 が、どれも決定打にはなり得なかった。異変の発生には曜日や時間帯の規則性はなかったし、特定の人物だけが異変に遭遇するわけでもなかった。ましてや参加人数の多少や、それに伴う水質・水温・音響の変化にも関連性を見いだせない。
「先輩がいるせいだったりして」
 夏南美は冗談ぽく言ったが、実は本心からの言葉だった。
「それは私も考えた。私のような美しく完璧な肉体は、見るものに劣等感を与えることがままある。劣等感に苛まれるのを怖れて出てこないのかとも思った。が、真なる審美眼を持つものなら逆に見られずにはいられないはず」
「劣等感じゃなくって恐怖感の間違い」笙子が真実をつく。
「椎名君は女人とはいえ民俗学研究部員であるのに、この美がわからぬとは嘆かわしいぞ」
「わからなくって幸せ」
 笙子の言葉に皆うなずく。純鈎まで首を縦に振っている。
「諸君らの感性がここまで鈍っているとは……よろしい、私が諸君らの感性を磨いてあげよう。とくに北城君には手取り足取り丹念に、かつ濃厚に指導しよう」
「え、遠慮します。マジに、本当」
「恥ずかしがることはない、ハシカと同じで誰でも一度は通る道だ。なんなら、いますぐここででも私はかまわないが。さぁ!」
 紫色のオーラを漂わせ拓也ににじり寄る。
「部長さんよ。問題の究明はいいのかい」
 純鈎の声に淫猥なオーラは霧散した。
「いかん、脱線してしまった。しかしこれも北城君が悪いのだよ。君がそんな小さい水着を穿いて私を惑わすから、つい」
「『つい』じゃないでしょ! 話が進まないじゃないですか。いいかげんにしてください。拓也も拓也よ! 先輩にこれだけ言われても、何か言い返すことはないの!」
「俺に当たるなよ、俺は被害者なんだぜ。それにしても随分と苛ついてるじゃないかよ、どうしたんだ夏南美?」
「たぶん椎名君はカルシュウム不足だろう。下らぬダイエットにうつつを抜かしていたのかもしれない。だが余分な脂肪を落とそうにも、君のムネには必要な脂肪すらついてはいないではないか」
 ムネがないとは拓也にいつも言われていたが、木南に言われると無性に腹が立つ。
「すみませんね。見応えのないムネで!」
「誤解してしないでほしい。以前も言ったように、私は椎名君のスリムなムネに比較的好意を持っているのだよ」
「俺も好きだぜ椎名のムネは。男らしくて羨ましい」純鈎が熱い眼差しでムネを見つめる。
「亮、オマエ変な趣味してるな。平らなムネが好きなんて、ロリコンか? まさかホモじゃないだろうな?」拓也はちょっとひいている。
「んなワケあるかよ。俺は純粋に椎名の真っ平らなムネに感動しているだけだ」
「死にたいのねあんたたち。望み通りにしてあげる!」
 目にもとまらぬ早さで拳が繰り出され、拓也が、純鈎が、そして木南が宙に浮いた。秒速七・八キロの早さでぶっ飛ぶ。第一宇宙速度にあと一歩、拓也たちは生身で人工衛星軌道に乗る機会を逃してしまった。
 派手な水しぶきが三つ上がる。
「ひでーな、ふつう女が殴るかよ。おまえ見かけ通りにワイルドだな」
 水浸しになった純鈎がプールから上がってくる。
「当たり前よ。女はね、もともと野蛮な生き物なのよ。上品ぶっていたら民俗学研究部じゃやっていけないの。わかった」
 夏南美は『見かけ通り』という部分は聞かなかったことにしておいた。
「身に染みてわかったよ。なぁ拓也」
「違うぞ、すべての女じゃなくって、夏南美だけだ野蛮なのは」
 いつもなら一言多い木南が出てこない。
「あれっ先輩は?」
 うつ伏せになったままプールを漂っていた。
「おい、やばくないのか。部長さん気絶しているんじゃねぇのかよ」
 拓也は夏南美のパンチに耐性を持っているし、部外者の純鈎に対しては無意識のうちに手加減していたかもしれない。しかし木南には日頃の恨みを一気にぶつけていた。
「少しあそこで頭を冷やせばいいのよ。それより、純鈎君そのままじゃ風邪ひくよ。
 拓也、体育のジャージを持ってきているんでしょう、貸してあげなさいよ」
「ああ、更衣室に青いバックがあるから漁って着てくれ、だけど今日の授業はマラソンだったから汗臭いのは覚悟しろよ」
「ああ、観念するよ」純鈎は笑いながら更衣室に向かった。
「うらましい。北城君の体臭に包まれることができるなんて。代われるものなら私が着たいぐらいなのに。純鈎君が憎い」
 声に振り向くと、水滴ひとつ付いていない木南が立っていた。
「いつのまに!」プールから上がってきた気配すらなかったのに……。
 木南は恨めしげな目で純鈎の後ろ姿を追う。
 邪悪に満ちた魂の叫びを夏南美も拓也も無視した。

「似合ってねぇー、はははーっ」
 拓也の笑い声がプールにこだまする。
「うるせぇな! こっちは我慢して着てやってんだぞ、笑うんじゃねぇ!」
「でも妙に似合ってないんだもん。なんだかかわいらしくて。ぷっ!」
 笑いを堪えていた夏南美も吹き出してしまった。
 純鈎の背丈は拓也より少し小さいだけなのだが、身体のつくりが華奢だから、ジャージを着ていると言うよりジャージに着られているみたいである。
 だぶついたジャージを着て腕をまくっている姿は、まるで女の子が男物の服を着ているようだ。女顔だけにかわいい。かわいいから、おかしくて仕方がない。
 ふふふふふ。
 あはははーっ。
 けひょけひょけひょ。
 笑い声はいっこうにやまない。笑っていないのは当の純鈎と笙子だけだ。
「なにがおかしいの? 純鈎君なんかしたの?」
「知らねぇよ。後閑、おまえも笑っていいんだぜ」
「別におかしくないから。でも純鈎君思った以上に細いんだね、もっと肉をつけなきゃ」
 ふふふふふ。
 あはははーっ。
 けひょけひょけひょ……けほけほ。

「純鈎君の身体を張った笑いに十分堪能させてもらった、感謝する」木南がバカ丁寧に頭を下げた。
「そんなことはいいから話を進めろよ」どうにか機嫌を直した純鈎が、もうそのことは言うなとばかりに催促する。
 笑いが収まってからが大変だった。すっかりヘソを曲げた純鈎は帰ると言い出すし、それをなだめていると、こんどは笙子が笑い出す。それは『純鈎のすねた顔がオオアリクイみたいでかわいい』との理由だった。
 純鈎は『かわいい』『女顔』『女性的』などの言葉に神経質である。オオアリクイのどこがかわいいのかはわからないけど、その『かわいい』に反応してまたすねる。木南は手伝わないし、笙子は珍しく感情を表にして笑っている。なだめ役は夏南美と拓也だった。
 すったもんだの末に落ち着いたのは、ついさっきのことである。
「それでは話を戻そう。水泳部と我らの相違点についてだが、連日我らの活動を客観的な立場から見続けた純鈎君は気づいたことはないかな?」
「気づいたこと? 気づいたことねぇ……あれは違うだろうし」
「些細なことでもかまわないのだ」
「俺の記憶違いかもしれないけどよ、ここのプールの水って本来循環しているんじゃなかったけ? だけど椎名にぶん殴られてプールに落ちたとき水は動いてなかったぜ」
「そうか水循環か、失念していた。ここのプールには薬液注入槽式水循環システムがあったのだな」
「なんです、そのナントカ循環システムって」
 夏南美には初めて聞く言葉だった。
「プールの水を消毒するシステムだ。このプールの地下に貯水槽があるのだよ。取水口からプールの水を取り込み、地下貯水槽で塩素などの消毒薬を注入し処理し、その消毒済みの水を噴射口からプールに戻しているのだ。
 しかし我々だけでは人数も少ないし、経費削減のためこのシステムは動かしていなかったのだ。迂闊だった、こんな大きな相違点を見逃していたとは」
 木南は一人で納得して機械室へ走っていく。
「よくそんなシステム知っていたな」拓也は素直に感心している。
「バカ野郎、俺は元水泳部員だぞ。たった一日だけだったけどな。わっ!」
 純鈎はずり落ちそうになるジャージのズボンを引き上げるのに忙しい。

「先輩、まだ泳がなきゃダメなんですか。もう腹減って力が出ないっすよ」泳ぎからほど遠い形で漂っている拓也が情けない声をあげる。
「だらしないわね、それでも男なの?」
 拓也にはハッパをかけたものの、夏南美もいいかげんうんざりしていた。
 水循環システムを動かしてから泳ぎ続けている。だが、さっぱり異変は起こらない。放課後すぐ調査を始めたから、かれこれ二時間は経っている。当然夕食も食べていない。
(お腹すいたー)いつハラの虫が鳴き出すか、内心ヒヤヒヤしている夏南美だった。
「拓也ーっ、男らしくねぇぞ! 男だったら後閑のように黙って泳げ」純鈎がプールサイドからヤジを飛ばす。
「うるせーっ! 外野は黙ってろ。後閑と一緒にするんじゃねぇ」
 笙子は派手に水しぶきを上げながら、いっこうに進まない犬かきを続けている。
 バシャバシャバシャ……ピタッ。
「北城君、そっちに行ったよ」
 バシャバシャバシャ。
「なんか言ったか後閑?」
「だから、北城君のほうに行ったよ」
「何が? へっ? わぁっ!」
 拓也は慌ててプールサイドに向かって泳ぎだす、
「足んところに、変なものが!」
 表情は真剣そのもの、いつもの冗談ではなさそうである。
「どうしたのだ北城君。何も見えないぞ」木南が訝しげな表情で拓也を見ている。
 夏南美の目にも拓也の後ろには何も見えない。
「本当にいるんだ! あっ、腰にくっついた」
 必死になって水をかいているのだが前に進まない。「先輩! 夏南美! 誰でもいいから助けてくれ!」
 泳いでいるともおぼれているともつかない状態だ。足が着く深さなのに立つことを忘れ、パニック状態のまま、しゃにむにプールサイドに向かって泳ぐ。
「北城君、大丈夫か?」
 木南が水を押しのけ、水中とは思えないスピードで拓也に近づく。
「うおっ!」
 叫び声とともに木南の姿が水中に没した。次の瞬間、信じられないことにあの巨体が宙を舞っていた。水が木南を嫌って投げ飛ばしたかのように、高く跳ね上げられたのである。
 どげしゃ! 長村先生の作った祭壇に激突。哀れな祭壇は跡形なく崩れ去った。
「こっちだ、早くつかまれ!」
 純鈎が拓也に腕を伸ばす。
 木南が宙を舞った刹那。身体の自由を取り戻した拓也はプールの底を蹴り上げ、一気に前に進んで純鈎の手につかまった。
「亮、早く。早く引っ張ってくれ!」拓也は己の腰に得体の知れない圧力が加わるのを感じた。「また来た! 早く!」
 逃れるより早く、水が拓也を捕らえた。
 水面が大きくへこみ、拓也を引きずりこもうとする。いや、へこんだんじゃない! 渦だ! 拓也を中心に渦を巻き、見る見るうちに大きくなっていく。
「拓也、逃げて!」
 夏南美は拓也を気遣いつつも、サルのような機敏さでプールからはい上がる。優雅さからは遙かに遠い。それは地球とへびつかい座V一〇五四との距離よりも遠かった。もう格好なんて気にはしていられない。
 水中を全力で駆けプールサイドに転がりこんだ。恥も外聞もなく大の字になって荒い呼吸を繰り返す。
「凄いね夏南美ちゃん。ホオジロタマリンみたいに素早かったよ」
 緊張感のないセリフ。
(ホオジロタマリンってなによそれ?)
 この前のスクール水着を着て───木南からもらった水着は乾いてなかったせいらしい───犬かきで泳ぐ笙子が妙に感心している。
 渦はもうプール全体に及んでいるのに、笙子のまわりだけは凪いでいる。凪いだ水面を運動効率を無視した動きで水を叩いている。でもやっぱり、進んでいない。
(物理学者が見たら泣くぞ)夏南美は会ったことのない学者たちに同情した。
「て、手を離せ亮! おまえまで巻き込まれるぞ!」
「いいから早く上がってこい! わぁっ!」
 物理学者への憐愍の情は純鈎の叫び声に打ち消された。
 支えを失った拓也は渦に逆らいきれず、純鈎ともども波にほんろうされる。
「うおっぷ」
 洗濯槽のパンストのように拓也と純鈎はもつれ合っている。
 渦の速度が早くなり、二人は幾度も水中に没しながらもがいている。
 このままじゃ息が続かない。
 助けなきゃ……気持ちはあるのだが、夏南美は自分が愛おしかった。
(そうよ! こんな時こそ変態的パワーの先輩の出番)
 って、いないってば───木南が転がっていた場所には、再建不可能なまでに破砕された祭壇の残骸があるだけだ。
 どこに行ったのよ! 逃げたの?
 とりあえずなんとかしなきゃ───ロープとか浮き輪とかないの! そうだ、浮き輪!
 夏南美の浮き輪は渦に巻き込まれて高速で回転している。とても回収なんてできない。じゃあ他の物は?
 あった!
 ビート板が積み上げられている。そのひとつをつかむと思い切り投げた。
 スナップを利かせたフォームから繰り出されたビート板は、回転しながら拓也に向かって一直線に……。
「ぷはっ おべっ!」やっとのことで水面に顔を上げた拓也を直撃、「殺す気かーっ! やめろぉ、夏南美!」ビート板は続く。
 必死になっている夏南美には拓也の哀れなる懇願は届いていなかった。
「おがっ! おぎっ! おぐっ! おげっ! おごっ!」
 狙いすましたように、ビート板が拓也の頭に連続して命中する。こんどは水に逆らうこともなく沈んでいった。
「それにつかまって拓也、沈んじゃだめよ! どうしてつかまってくれないの!」
 どうしてもないものである。いかに屈強な男でも連続してこめかみをビート板でどつかれたら、どうにかならない方がおかしい。
 没したあとには空しく浮くビート板があるのみ。
 どうしよう、どうしよう。夏南美はパニック寸前であった。
「ナイスピッチ、百発百中だね」
 またも緊張感のないセリフで現実に戻される。
 相も変わらず笙子は犬かきでこの大渦の中を泳いでいる。
「笙子、なんで平気なの?」
「わかんない」
 そのとき夏南美の脳裏にあることが閃いた。
 なんでかわからないけどこの渦は───もしくは水そのものが───笙子を避けている。ということは……。
「笙子お願い。拓也たちを助けて!」
「うん、いいよ」
 状況にそぐわない軽い返事が返ってくる。「夏南美ちゃんの頼みだもんね」言うや、勇んで渦の中心に向かう。いつもより力強く全力で水をかき……進まない。
 時折、拓也や純鈎が水面に顔を上げるが三〇秒ともたず水に飲まれる。
「時間がないの、泳ぎじゃなくって立って行って」
「わかったーーーぁ」
 泳ぎを止めたとたん、水が笙子に襲いかかる。容赦ない流れに巻き込まれ水中に引きずりこまれる。
「笙子、泳ぐのよ、泳いで!」
 犬かきをはじめるや、まわりの水面は静謐を取り戻した。
「なんでわかったの夏南美ちゃん?」
 笙子の問いに夏南美は答えられなかった。ただ、そんな気がしただけだ。
(聞きたいのはこっちよ)拓也を救う術を失って泣きたい気持ちで水面を見つめる。
 渦は勢いを増し、プールサイドに水があふれてきた。もうだめかもしれない。
「拓也ーっ!」叫ぶことしかできない。「死なないでーっ!」
 唐突に渦が消えた。

「やはり私の思った通りだな」
 木南が澄ました顔で夏南美の横に立っていた。
「先輩逃げたんじゃなかったの?」
「失礼な! 私は椎名君のような延髄反応だけの救助策ではなく、大脳新皮質をフル回転させて救助策を考案し、それを実践するべくこの場を離れていたのだ」
「で、どこに行っていたの?」
「よい質問だ後閑君。考えてみたまえ、昨日までの調査と今日の差を。すなわち薬液注入槽式水循環システムの稼働の有無だけだ。それゆえシステムを止めるべく機械室に。
 私の洞察力が見事に北城君を救ったのだ。これが女人と男の差、危機に及んで冷静でいられるかの性差だな」
 言葉とは裏腹に相当焦っていたようである。仁王立ちする木南だが、股間のビスにビート板が刺さっていることに気づいていない。
「そんな話はいいから助けてくれよ」疲れ切った拓也が恨めしげな目で木南を見上げる。
「おお、済まなかった。さあ私の手につかまりたまえ」
 片手で軽々と拓也を引き上げた。
「うぅ気持ち悪い、プールの水しこたま飲んじまった。俺の余生があと何年あるのかしらないけど、たぶん一生分は飲んだぜ」拓也はしきりに腹をさすっている。
「おーい、俺も忘れないでくれ」
 弱々しい声が聞こえる。真っ青な顔色の純鈎がプールの縁にしがみついていた。
「うえっ! 俺は生涯ジェットコースターには乗らねぇぞ」
 どうやら乗り物酔いならぬ、プール酔いをしたようだ。あれだけ振り回させれば無理もない。
「情けねぇな亮。しょうがない、俺の手につかまれ。先輩も手を貸してくださいよ。ほらいくぞ、せーの!」
 純鈎の身体が勢いよく水から引き上げられる。
 キャ−ッ!
 ワァーッ!
 純鈎は裸だった。パンツすら穿いていない。
 ただでさえ緩かった拓也のジャージはもちろんのこと、奔流にもまれて下着まではぎ取られていた。
「大きい……」夏南美が驚愕する。
「見事だな……」木南が感心する。
「マジかよ……」拓也が純鈎の腕をつかんだまま息をのむ。
 三人が凍りついた。
 引き上げられる途中で拓也たちが固まったものだから、純鈎も動くに動けない。
 やっとプールから上がってきた笙子が、正月の新巻鮭みたいにぶら下げられている純鈎をのぞきこむ。
「オッパイ大きいね」
 きれいな円錐形ふくらみ、Cカップ? ひょっとしたら笙子よりも大きいかもしれないムネがあった。
「本物?」
 ぷに───柔らかい。笙子の指にしなやかな弾力が伝わる。
「さわるな! 見てないで助けろ!」
 そして股間には───何もなかった。
「純鈎君って女の子なんだ」
 真っ青だった顔が見る見る真っ赤に変わる。
「うるせーっ!」
 うるせーっ! うるせーっ! うるせーっ!
 室内プール全体に怒声がこだまする。
「亮……おまえ女だったのか」
「私としたことがすっかり騙されていた。純鈎君の言動は漢そのもの、女人の気配すら感じられなかった。不覚であった……」
 拓也も木南も表情を凍りつかせたまま、カカシのように突っ立っている。
「と・こ・ろ・で。拓也! 先輩! いつまで女の子の裸を見ているのよ、いいかげんに手を離しなさい!」
 めこっ! 拓也と木南の後頭部にビート板がめりこむ。
 ぼちゃっ! ばしゃっ!
「純鈎君、バカどもが気絶している間に早く上がって。笙子、そこのバスタオルとって」
 純鈎をバスタオルでくるむと肩を抱いてせきたてる。
「着替えなきゃ、さぁ行こう」
「行くってどこにだよ」
「更衣室に決まってるじゃない。あたしのじゃ小さいだろうから、笙子、あんたのジャージ貸してあげて」
「女物のジャージなんて着れるか!」
「わがまま言わないの。それとも裸のままでいるつもり? 拓也が興奮して襲ってくるかもよ。だから早くね」
 軽くあしらわれた純鈎は、夏南美と笙子に抱えられて半ば強引に引きずられていく。
『女物は着たくねぇーーっ!』
 純鈎の叫び声は、上げ潮のゴミのように浮かぶ拓也たちの耳には届いていなかった。

 11

 木南淳の提案でとりあえずインヴァリーブンに行くことになった。
テーブルの上には食い散らかした皿の山。
 そこには猫間高校指定女子用の赤いジャージを着た純鈎亮を囲んで、椎名夏南美、北城拓也、後閑笙子が座っていた。
 皆満腹になり、落ち着いた空気に包まれている。
 が、ここまでスムーズにたどり着いたわけではない。
 夏南美は急いで制服に着替え、近くのコンビニでパンツ───もちろん女物───とキャミソール───さすがのコンビニでもブラジャーまでは置いていなかった───を買ってきたのだけど、純鈎は『そんな物着れるか』と、だだをこねる。それをなだめすかしてどうにか着替えさせるまでに相当の時間を費やしてしまった。
 さらには女物のジャージ姿でこの店に入ることを嫌がる純鈎を、拉致するように連れこむのにもひと悶着。店に入ったら入ったで、すぐに帰ろうとするのを逃げられないように取り囲むなど、注文し終わったときには全員グロッキー状態だった。
「食事も済んだことだし、そろそろ説明してもらおうか。なぜ君は男装していたのかね?」
 マスターと話していた木南が、席に戻ってきて純鈎に問いかける。
「マスターにはしばらくの間席を外してもらった。この店の中にいるのは我々だから安心してくれたまえ。ここで聞いたことは決して他言しないことは私が保証する」
 純鈎は店内を見渡し、大きく息を吐き出す。
「いまの世の中に本当の男がどれくらいいると思う?」
 は……?
 突飛な質問に皆の動きが止まった。
「俺が質問しているのに黙りこくって。俺の質問には答える必要がないって言うのか」純鈎はすねて少し頬をふくらまる。
「ゴ、ゴメン……少し脳みそがショートしてた」夏南美はギクシャクとした動きでコップを持ち上げ、水を一気に飲み干した。「ねぇ、もう一度言ってくれない」
「だから、本当の男はどれだけいると思うかって聞いているんだよ」
「男の人? 世界の半分くらいは男の人だけど……」質問の意味をとらえあぐね、夏南美は純鈎の顔色をうかがうように答えた。
「違う! 違う! 性別の”男”じゃなくって、精神的な”男”のことだ!」
「それって、身体の性と心の性が違う性同一障害のこと?」
「そんなんじゃねぇよ。女に言ってもわからないのかな……」
 純鈎はイラダチまぎれに頭をガリガリとかきむしる。
(あんただって女じゃない)ちょっとムッとした夏南美は小さく鼻を鳴らした。
「いいか、よく聞けよ。男して生まれながらも日々の生活をただ安穏と惰性だけで生き、なんの野望も野心も持たず、肥大させた妄想だけを抱きながら自分の世界にこもっているようなヤツは戸籍上は男でも本当の男じゃない! 俺はそんなヤツらが大嫌いなんだ!」
 興奮した純鈎はテーブルを叩いた。
「落ち着けたまえ純鈎君」木南が静かな声で制する。「君は物事の本質がわかっているようだな。君の言葉は私が昨今のエセ男を見て、常々苦々しく思っていたことをズバリ言い表してくれた。女人の身でありながら見事。しかし、女人である君がここまで”男”の本質を知っているのだ?」
「俺の言葉がわかるとは部長さんも男だねぇ。で、俺がなんで男の本質を知っているかだな……」純鈎は背筋を伸ばしニヤリと笑う。ゆっくりと腕を上げ自分自身を指さす。「なぜなら、この俺が男の中の男を目指す女だからだよ!」
「女が男の中の男を目指すことじたい矛盾している」
 食事の後からずっと目をつぶっていた笙子が、寝言のようにつぶやく。
「そうよ、純鈎君は女の子なんだから、男の中の男を目指してもしょうがないでしょう」
「待てよ夏南美。亮の話を最後まで聞いてみるべよ」と真面目な声で言いながらも、拓也の視線はノーブラの純鈎のムネにクギづけだった。
「どこ見てるのよ拓也。あんた一度死になさい」
 感情を押し殺した夏南美の声とともに、手刀が拓也の頸動脈に叩きこまれる。
「ドスケベは放っておいて。ねぇ、純鈎君が女物の服を嫌うのと、男の中の男を目指していることって関係あるの?」
 夏南美の言葉に純鈎はしょうがないとばかりに肩から力を抜いた。
「ちょっと長くなるけどいいか?」
「うん」
「じゃあ話すけど、俺の生い立ちに関係あるんだ……」

 純鈎は自分のことを気恥ずかしげに話しだした。
 家族は両親と姉が二人いること。父親は電気機器や不動産などを扱う純鈎グループの社長であること。父親は男の子が欲しかったのに女の子しか生まれなかったこと……。
「親父は男の子が欲しかったんだろうな、俺を男のように育てたんだ。服もオモチャもすべて男の子向けだったし、遊び相手も男ばっかりだったし、そこいらの男のガキよりずっと男らしい生活だ。俺自身中学校に入るまで、自分はちょっと変わった男だと思っていたくらいさ……おかしいだろう」自嘲気味に笑う。
「ふつう小学校に入るまえに、自分が女だってことに気づくだろう?」
「うるせぇな拓也。気づかなかったものはしょうがないだろう!」
「拓也のバカはおとなしくさせるから、純鈎さん話を続けてよ」
 夏南美はぎこちない笑みを浮かべて純鈎にうなずきかける。右手は拓也の顔面をわしづかみにした状態で。
「女だったことに気づいたのはいいけど、それまでずっと男として生きてきたんだ、いまさら急に女をやれと言われたって無理があるって」
「そうかもね」
「親父なんかガキのころから『亮、おまえは強い男の心を持て。母さんや姉さんを守れる人間になれ』なんて言って俺をしごいたんだぜ。親父のせいばかりじゃないけど、俺も『男らしく』を信条としてきたから、軟弱な男とか見ると腹が立ってくるし、俺自身真の男を極めたい夢もあるんだ」
「でも女じゃん」笙子は壁に貼られた『北海道カレー』のポスターを見つめながら言う。
「わかっているよ。俺は女だ、それは認める。俺が言いたいのは気持ちの問題だ。いまの男たちを見てみろよ、国会議員なんて悪いことをしても秘書のせいにしたり、金儲けしか考えていないヤツらばっかりだ。人間として大きくなることなんて考えず、変化を求めず、小さな欲望だけを女々しく守ろうとするヤツしかいない。
 だったら気持ちだけでも、俺が真の男になってやろうと思ったんだ。この腐った日本を変えてやるぐらいの気概を持ってな」
「すばらしい。感銘を受け私の魂は震えている」木南が両眼から滴る涙をふきもせず、純鈎の手を握りしめた。「身体は女人かもしれんが、君の魂は真の”漢”だ。私が保証するとも。『日本を変える』気概やよし、手始めに我らとともに猫間高校から変えていこうではないか!」
「わかってくれるのか……あんたはただの変態じゃなかったんだな」
「そうだとも純鈎君」
「ぶ、部長さんよ」
 木南と純鈎のまわりだけに、熱血少年マンガのような暑苦しいオーラがわきたつ。
「で、女物の服の件はどうしたの?」
 熱い感動にも動じない笙子は、いつもの淡々とした口調で二人の熱気に水を差す。
 抱擁寸前まで萌えあがっていた純鈎が我に返る。
「中学入学前後だったな……ムネはでかくなるし、生理は始まるで、俺の身体が大きく変わってきたんだ。けど、もっと変わったのがお袋さ。本当は親父が俺を男のように育てるのが気に入らなかったんだろうなぁ、急に『亮は女の子なんですから、女らしくさせます』って宣言しちゃって」
「で、純鈎君はどうしたの?」夏南美は目を輝かせ身を乗りだして尋ねる。
「どうもしないよ。いままで男同然に育ってきたから、恥ずかしくてスカートや女の子らしい服なんて着る気は起こらない」
「でも中学校なんか制服があるじゃない。制服ならスカートでしょう、どうしたの?」
「中学は私服オーケーの私立だから問題なし。高校も私服の学校にしようと思っていたんだけどな、『少しでも女らしくなるため、制服のある高校に行って』って、お袋と一番上の姉ちゃんが泣きつくんだよ」
「それで猫間高校に入ったんだ」
「そうさ。だけどよ、お袋たちも気づいてほしいよ。いくら外見が変わったって、中身はいままで通りの俺なんだから」
「そんなもんかなぁ。純鈎君じゃなくっても、女の子なら一度は男に生まれたかったと思い悩む時期があるよ。あたしだっていろいろ悩んでいるんだから……」夏南美の声が尻つぼみになっていく。
「日本を変えたい、社会を変えたいっていう俺の悩みに比べれば、椎名の悩みは悩みとはいえねぇよ。子供の駄々みたいもんさ」
「なによその言い方! あたしは本当に悩んでいるんだから! まわりには変人しかいないわ、お小遣いだって少ないし、ムネだってもっとほしいわよ!」
「こんなムネのどこがいいんだよ!」
 くってかかる純鈎が腰を浮かした瞬間、ムネが上下に大きく揺れた。それは夏南美にはマネのできないことである。
「椎名のムネはそれでいいよ、俺はおまえのムネに憧れてるんだぜ。余計な物がなくて動きやすそうでいい」憧れの熱い視線を夏南美のムネに送っている。「俺なんかこのムネのせいで、『女の子らしくしなきゃ』だの『女の子らしい身体つきになってきたんだから、バカなマネはよしなさい』言われるわ。おまけに停学にまでなったんだからよ」
「ムネのせいで停学?」
「ああ、前に水泳部をクビになったて言ったろう。俺に女物の水着を着させようとしたんだぜ、信じられるか。
 それで俺は『女物なんて着れるか。ムネが見苦しいのならサラシを巻く』って断ったんだけどよ、着ないのなら入部は認められないなんてぬかしやがってよ。ついカッとなって長村の野郎を殴ってしまったんだ。おかげで即退部兼停学だ。ムネがでかくなかったらこんな目にあわないで済んだのによ。本当にうらやましいぜ椎名が」
「椎名君のムネが男らしいことにおいては私も純鈎君と同意見だ」
 めきっ×二。
「あんたら本気で言ってんの。いくら温厚なあたしでも許さないわよ」
「夏南美、もうパンチ出てんぞ」
 拓也の呆れきった声で夏南美は気づいた。自分の拳が木南と純鈎のアゴを鋭く貫いていることに。
「男らしい、いいパンチじゃねぇか。思わず惚れちまいそうになったぜ」
 格好をつけたセリフだが、ダメージが大きく純鈎はフラフラしている。
「惚れるで思い出したけど、亮の恋愛対象はやっぱり男なのか?」
「わかんねぇ。いままで男に友情は感じても恋愛感情は持ったことはないし。かといって女の子全開みたいな女も苦手だしなぁ」
 純鈎はしばらく夏南美を無遠慮にながめうなずく。
「うん、そうだ。女だったら椎名みたいなやつがいいな。ムネもケツもなくって男らしくて最高だ」
「大きなお世話!」
 夏南美の放った双掌打によって、純鈎は残像を残して吹っ飛んでいく。

 12

 気絶した純鈎亮の意識回復を待って、会議の続きは始まった。
 純鈎のことであえて意識の外に追い出していた事象。あの不思議な出来事について。
「先ほどのヤツがすべての原因だと思われる。どう対処するかだが、諸君らに意見はないかな」
 ……が、誰も口を開かない。
 そうだろう、わずか一時間前、想像を絶する現象に遭遇したのだ。プールで起こった出来事を頭の中で消化するのに手いっぱいで、言うべき意見など出てこない。
 水中にいる見えないもの、木南淳の巨体を軽々と跳ね飛ばす力、突然の渦、平然と泳ぐ後閑笙子、女の子だった純鈎亮。
 どれもこれも信じがたいことばかり。出来得ることならば誰かに『これは夢だ』と言ってほしかった。
 けど北城拓也と純鈎が、渦に巻きこまれたのは動かしようのない事実。その証拠に純鈎に買ったパンツとキャミソール代二六八八円が、椎名夏南美の財布からなくなっている。
(本当だったんだよねぇ、それにしてもコンビニの下着ってどうしてあんなに高いの)
 夏南美は財布の中を見ながらため息をついた。
(純鈎君、お金返してくれるかな?)淡い期待を抱いたが、純鈎がパンツを見たとたん『俺はトランクスしか穿かねぇんだ!』って怒鳴っていたから……無理だよね。
 夏南美にとっては得体の知れないものの恐怖よりも、余計な出費で今月のお小遣いがなくなってきたほうが怖かった。
 拓也は純鈎の形のいいムネを頭の中で何度も再現して、短期記憶から長期記憶にすべく邪な努力に忙しい。
 純鈎はいつものサラシじゃないことで落ち着かなかった。キャミソールはぜんぜんムネを締めつけてくれないし、みんながこのムネを見ているようで情けなかった。
 笙子の考えはいつのもことだ。『北海道カレーを注文していいかどうか』だけだった。
 真剣にプールの状況を考えているのは木南だけであった。なぜあのとき純鈎君の服だけ破れ飛び、北城君の水着は無事だったのだ? いくらフィットしているとはいえ、あんな小さな水着がなぜ脱げないのだ! 純鈎君の裸などどうでもいいのだ! 私が見たかったのは北城君の生まれたままの姿なのに……『神は死んだ!』とはニーチェの言葉だが、私も知った。この世に神はいない!
 五人五様で緊張感のかけらすらない。

「では時間も時間なので話を進めよう。我々が調査を始めて明日でちょうど七日間だ。ここいらでなんらかの解決を見せないと、コストの面から採算が合わない。それゆえ、明日をもってこの件に終止符を打ちたいと思う」
「終止符って、ヤツを退治するってことか。正体も分からないのに、それどころか姿すら見えないんだぜ。ヤツは俺たちの手には負えない、もうこりごりだ」散々な目にあった拓也としてはこれが本音だろう。
「だいいち相手は水中にいるんだ、こっちは圧倒的に不利だぜ。やめとけ、やめとけ、ヘタすりゃ命に関わるぞ」
「純鈎君、君は女人の身体かもしれないが魂は真の漢ではなかったのかね! 漢は己の道を貫くためには、命を投げ出さねばならぬときもあるのだ。現世の小利のみに固執し、万世に名を残そうとしないのは矮人のすることだ。
 いや、現実社会を見渡せば男子と生まれながら志を持たず、変化を怖れ、ぬるま湯の社会の中で安寧を貪っている輩もいるのは事実だ。だが、我々は光輝ある民俗学研究部である。我が部員に命を惜しむなどいない」
 ぶんぶんぶん! 夏南美たちが音が出るほどの勢いで首を振る。
 みんな命を惜しむどころか、想像を絶する出来事に腰が引けきっている。
 どういう根拠で自信を持っているのか不明だが、『うわーっ、やる気満々だよ』と言わせしむほど前向きなのは木南だけである。
「相手が見えなくて、水中にいるうえに、力も強い。そんなの相手に命を賭けたくはありません。あたしたちの出る幕じゃないですよ」
「夏南美の言う通り。あんなのを相手にしていたら、命が幾つあっても足りないっすよ。これ以上ヤツに関わるんなら俺は民俗学研究部辞めますよォ」
 冗談めかして言っているが拓也の顔は真剣だ。
「まだやるんなら、あたしも辞めます」
「夏南美ちゃんが辞めるんなら私も」
「辞める、そうか……」
 木南は動じるどころか、嫌らしい笑みを浮かべポケットから紙片を取り出した。
「こんな写真があるのだが、これを諸君らの学友が見たらどう思うかな。きっと購入したがる人間が続出であろう」
 小さな紙片に写し出されていたものは───。
 大ぴらにムネを見せる笙子。
 夏南美の水色のパンツ。
 笙子のスクール水着姿。
 そして乙女にあるまじき姿でプールからはい上がる夏南美。
「なによこれ! よこしなさい!」
 夏南美は木南から写真を奪い取ると引きちぎり───それはもう分子サイズまで細かく───ゴミ箱に叩きつけた。
「もったいねぇ……え!」
 物欲しげな拓也に冷たい視線を───窒素が液体化するぐらい冷ややかな───送り黙らせる。
「こんな写真いつ撮ったんです!」
「いや、なに、愛おしき北城君の姿を永久に我がアルバムに留めようとデジカメを持ってきていたのだが、偶然諸君らの痴態を拝見したので、なにかに使えると思い撮っておいたのだよ。こんなに早く役に立ってくれるとは予想もしてはいなかったが。
 調査を継続してくれるならデータは消去してもいいが、どうかな?」
「やるわよ、やればいいんでしょ!」
「夏南美ちゃんがやるんなら私も」
「二人が快く引き受けてくれたことを喜ばしく思う。で、北城君はどうかな?」
「俺には関係ないね。この件から手を引くぜ。えっ!」
 木南はさらに数葉の写真を取り出し拓也に渡した。
 ひっ! 息をのんだまま動きが止まり、虚ろな表情でつぶやきはじめる。
「嫌、嫌、男嫌い、男怖い……怖いよママ。ママどこ? ママ、ママ……」
 ショックで幼児退行を起こし、写真を握りしめながらイヤイヤをしている。
(拓也が壊れるような写真って……)
 夏南美がのぞき見るよりも早く、木南が拓也の手から写真を奪いポケットに戻した。
「何を見せたんです。あたしには見せられないような写真なんですか」
「私と北城君の美しくも甘美な思い出を、女人ごときには見せるわけにはいかん。そうだろう北城君」うずくまる拓也の肩に優しく手を置く。
 ピクッ! 正気を取り戻した拓也が、上目遣いで恐る恐る木南を見る。「せ、先輩、その写真どうするつもりですか」前線に放り込まれた新兵みたいにおびえ、声が震えている。
「せっかくだからB全判に拡大して全校中に貼り、全校生に祝福してもらうつもりだが」
「俺も調査します、いや、手伝わせてください。だから貼るのだけは許してください」
「致し方ない、北城君が嫌なのなら校内に貼りつけるのはあきらめよう。全校生に私と北城君との愛の軌跡を見せつけたかったのだが」
 未練たらたらの木南であった。

「お腹すいた。追加注文してもいいかな」
(もう減ったんかい)笙子の胃液って濃硫酸か王水で出来てるのか! あれだけ食べてまだ食べ足りないなんて。
「マスターに他出してもらっているので、後閑君の要求は却下する。諸君、後閑君が空腹を訴えていることでもあるし、打ち合わせをさっさと済ましてしまおうではないか」
「お言葉ですけど、相手は化け物かもしれないのに、打ち合わせなんて無駄ですよ。あたしたちに出来ることは神に祈ることぐらいです」
 調査の継続は一応約束したものの、夏南美は心からやりたくなかった。それどころかプールにさえ行きたくなかった。
「化け物? 化け物とな! 君は現代に生きる厚顔無恥で傲岸不遜の女子高生かね。いまどきの小学生だってもっと現実を見つめた発言をするぞ。ましてや神に祈るだと、そんなものは敗北主義者の自慰行為だ。何の役にも立たない」
「じゃあ、お聞きしますけど、姿が見えない生き物なんてこの世の中にいるんですか」
「昨今の女子高生は知的レベルが低下してきているというウワサは本当だな。姿が見えない? 違う。姿を確認できないだけだ」
「それって同じことじゃないんですか」
 夏南美には木南が言う意味を図りかねた。
「わかった、保護色だ」
「素晴らしいぞ北城君、さすがは私が惚れこんだ男だけある」
 含みのある誉め言葉に拓也は憂鬱な顔を見せる。木南に惚れられても、ろくな目にはあいそうにない。
「深海魚が発光することで姿を隠すように、ヤツはなんらかの光学迷彩をしている可能性がある。ひょっとしたら体組成の九割以上を水分で占めるクラゲのような体組成で、目視が困難なだけなのかもしれない。
 さらにはプールの水を出し入れする吸入口、循環水噴射口ともそう大きい物ではない。そこを通ってくることを勘案すれば、何らかの小動物の群体かもしれない。強いて言えばポリプのような物が集まって躯体を構成しているかもしれない」
「クラゲみたいなヤツなのか。だったらなんとかなるかな」
 拓也は木南の言葉に、納得したような表情を浮かべる。
「ちょっと待ってよ。ヤツがクラゲと決まったわけじゃないよ」
「そうだとも椎名君。だが、そうではないとも決まったわけではない。姿を確認できない理由はともかく、ヤツは身体を持った既知外生物であると考えてもよいだろう。生物である以上、駆除も不可能ではないはずだ!」
「おぉ、そうかもしれない。な、夏南美もそう思うだろう」
「う、あ、うん。そうかも」
 拓也の押しに夏南美もうなずいてしまう。
「諸君らが理解を示してくれたことをうれしく思うぞ。たとえ相手が目視困難でも我らの知恵をもってすれば、必ずや駆除できるであろう」
 木南は勝利を告げるかのように片手を高々と掲げた。
 ライオンもヒグマもアフリカ象もすべて生物である。その道のプロがそれなりの装備をもって当たれば駆除も不可能ではないだろう。が、生態も形態もわからぬまま水中にいるヤツを駆除しようとすることは、厳冬期のK2北壁をパンツ一丁で登攀するのに等しいことに誰一人気づいていなかった。
「で、どういう策があるんですか先輩。もったいぶってないで教えてくださいよ」なんか拓也はヤル気満々だ。
「焦ってはいかん、まずは事実を確認しておこう。
 はじめに、ヤツは水中から出ない。長村先生にも確認したが、水泳部員が水中以外で異変にあっていないことが証拠だろう。
 第二に、ヤツは水循環システムを動かさないと現れない。それどころか長時間このプールにいられないようだ。たぶん水質や水温の変化を嫌うのだろう。そして地下の貯留槽がヤツの巣なっているのかもしれない。
 最後に、ヤツは男しか襲わない」
「待てよ、亮だって襲われたぜ」拓也がすかさず反論してくる。
 チッ、チッ、チッ。木南は人差し指を振って否定する。
「純鈎君、君はヤツに身体を触られたかね?」
「いいや」裸を見られたことを思い出したのか不機嫌な声だ。
「そう、実際にヤツに身体を触られたのは私と北城君だけだ。純鈎君は北城君を助けようと手を握っていたため巻きこまれただけだ。
 女人を嫌う、このことは武器になる。とにかくこれで手が打てる。あとはヤツを片づけるだけだ。
 明日の午後六時からこの店で祝賀会を開くので楽しみにしていてくれたまえ」
 もう勝ったつもりで予定を立てている。
「具体的にはどうするんです」
「ヤツを地下貯留槽からこっちのプールにおびき出し、こっちに来たところで取水口をふさぎ戻れなくし、プールの水を抜いてしまう。ヤツはおそらく水生生物だ、水がなければ長くは生きられないだろう」
「さすがは先輩。楽勝じゃないっすか」
 あまりにも簡潔な策ながら拓也は単純に喜んでいる。
 が、夏南美にはどうしてもぬぐいきれない不安がつきまとっていた。「本当に問題ないんですか」聞かずにはいられなかった。
「問題はない、私の完璧なプランのどこが不安なのかね」
「本当に本当ですか? 拓也の平目筋に誓って本当ですか?」
 木南の雰囲気が変わった。自信満々だった顔に憂いの色が浮かぶ。
「平目筋とは随分とマニアックな筋肉を引き合いに出してきたな。椎名、おまえって変なヤツだと思ってたけど、筋肉ヲタクだったのか」
 純鈎は自分のことを棚に上げて、『うわーっ』という顔をして夏南美を見る。
「北城君の平目筋か……」木南は拓也を見、観念したように息を吐く。「となれば私も本当のことを言わねばなるまい。不安な点が一つだけある。人的資源が少ないことだ」
「人的資源?」
「囮役は私がやるとして、ヤツの駆除に一名。そして機械操作に一名、噴射口閉塞に二名。予備兵力にもう一名はほしい。人的資源の少なさが不安と言えば不安なのだ。
 しかし欲を言ってもきりがない、現有人員で対処するしかあるまい」
「五人? それって俺も含んでいるのか?」
「もちろんだとも、純鈎君は我々と絶えず行動を共にしてくれた、部員ではないものの同じ“漢”の志を持つ魂魄の兄弟ではないか。
 明日の祝賀会には君の席も用意させてもらっている。些少ながら謝意を表したい」
「悪い、明日はダメなんだ。俺の分まで席を用意してくれたのに無駄にしちまったな……悪ぃ」済まなそうに顔を下に向ける。
「いや君が謝る必要はない。詫びなければならないのは私の方だ。純鈎君がいままで付き合ってくれたことを良いことに、勝手に君が明日も手伝ってくれると決めつけていた。
 これは民俗学研究部の問題だったのだ、君は気にしないでほしい。もし時間が許せば明日の祝賀会には出席してくれたまえ。いままでの協力を慰労させてもらいたい」
「ああ、時間があったらな……でも期待しないでくれ。じゃ、俺帰るわ。この五日間は結構面白かったぜ。ははは」笑い声が弱々しい。無理して明るく振る舞っているのがわかる。
(純鈎君もう来ないのかなぁ……女の子だってばれちゃったし)
 純鈎が帰った後には重苦しい空気だけが残った。
「色々とあったが明日で終わりにしよう」木南の声にも元気がない。
「ああ」拓也の返事にも力がこもっていない。
 拓也にも純鈎がもう来ないと感じられたのかもしれない。ウマが合っていただけに、寂しいのであろう。
「あと一日だ。明日こそ決戦、天王山。心してかかってほしい。諸君らの闘志を鼓舞するため、明日の調査は作戦名『夏まで北城君の水着姿が見られないと思うと心が張り裂けそうに残念だ』と名付ける。
 明日の準備は私がやっておくので、諸君らはゆっくり身体を休めておいておくように。では、解散!」

 13

「やっぱり来てないね……」
「ああ」
 盗み見た北城拓也の顔には寂しさが浮かんでいる。
 椎名夏南美も気づいていた。自分も同じ表情を浮かべているだろうことに。
 純鈎亮とはわずか五日の間の付き合いだったけど、なくてはならない存在になるには十分な時間だった。
「亮のヤツ教室にもいなかったんだ。
 あいつ今日が停学あけだろう、休み時間に六組に行ってみたけど姿がなかった」
 後閑笙子も寂しいのか元気がない。もっともこれは空腹なだけかもしれない。
「諸君、感傷に耽っている場合ではない。いまは亡き純鈎君の遺志に報いるためにも、我々は作戦名『そんな小さな水着で私を誘惑する小悪魔め。その名は北城拓也君』を完遂せねばならない」
(純鈎君は死んでいないし、作戦名が昨日と違ってるって)
「完遂はいいですけど、ヤツを退治する準備はどうしたんですか?」
 武器や捕獲道具の類は見あたらない。
 あるのは木南淳が用意した噴射口閉塞用の鉄板だけである。
 鉄板にはフェライト磁石がついていて、鉄製の噴射口に吸着させることで水の流入をふさげるようになっていた。が、とても武器にはなりそうにない。
「まさか徒手空拳でやれとか……」
 得体のしれない相手に素手で戦いを挑むのは願い下げだ。
「武器ならここにある。鍛え上げたこの肉体、これに勝る武器があろうか! さらにはオプションとしてニューバージョンの水着。見たまえ!」
 木南の股間には輝く尖ったビスに飾られたいつもの水着。
 じゃない! 昨日よりビスが長くなっている。凶悪度二〇〇パーセントアップ。
「このビスはサビつかず、磁石にはくっつかないオーステナイト系ステンレス鋼の一八−八鋼を採用しているのだ。この輝きの前には、いかなるものも怖れひれ伏すであろう」
「へ、変態」つい本音がもれる。
「変態とは失礼な女人だな。それにしても椎名君、最後の日ぐらい水着を統一できなかったのかね」
 拓也も笙子も木南にもらった水着を着ている。
「あれは捨てました!」
「捨てただと! あれはただの水着ではない、最新の素材を使った特注品だ。機能的にもデザイン的にも優れたものだ、なのに椎名君はなにが不満なのかね。私にはわからない。
 ともかく、君への譴責は後回しだ。これより『北城君が私のものになるのなら、悪魔に魂を売ってもかまわない』作戦を開始する」
(だから、作戦名が違っているって)

「……配備は以上だ。諸君らが奮闘努力してくれることを期待する」
 役割分担が決まった。木南が囮とヤツの駆除、拓也は機械操作、そして夏南美と笙子が循環水噴射口の閉塞兼木南の補佐。
「ちょっと待ってください。何で拓也が機械操作で、女の子のあたしたちが閉塞なのよ。ふつうは逆でしょ」
 プールにいればヤツと遭遇してしまう、いくらヤツが女の子を襲わないといっても、何が起こるかわからないのが本当のところだった。
 ましてや、昨日のあの状況───二の足も踏みたくなる。
「あたしは嫌です。役割を変えてください!」
「北城君に閉塞をやらせろとな、つまり君は北城君を危険にさらせと言うのか。冗談ではない、将来のある若者にそんなことはさせられん! その点、君なら安心だ」
「どうして安心なんです。あたしだって将来も未来もあるんですけど。わかっています?」
 むはははは。木南は腹を抱えて笑い出した。
 ツボにはまったのか止まらない。
「いやー、これだけ笑ったのは久しぶりだよ。椎名君、君にはユーモアのセンスがある。君の人生に未来や将来があるなんて、ふつうの人間にはなかなか思いつかないぞ」
(あたしの人生を勝手に決めつけないで!)
「それにしてもこの配置のどこが不満なのかね、理由があるのなら話してみたまえ」
 木南は不思議そうな顔つきで聞いてきた。
(マジで言っているの……マジみたいだわ)絶望的に意志疎通ができないことだけは確認できた。言わなきゃわかんないのね。
「ヤツは先輩を放り投げる力を持っているんですよ。もしヤツが暴れてあたしや笙子の顔に傷でもついたらどう責任取ってくれるんですか? 男の人と違って、顔は女の命なんですからね!」
「どうして女人は都合のいい時だけ女を強調したがるのだ。いつもは男女平等などと愚にもつかぬ戯言を声高にほざいているのに、難事から逃げる方策に女を強調するとは言語道断だな。
 それに『男の顔は名刺代わり』といって、顔は美醜だけではなく社会的責任を負っているのだ。どちらがより重みがあると思っているのかね。当然、北城君の方に決まっている」
 う゛、異世界の魔物と意志の疎通を図るより、木南と日本語(たぶん)で話し合う方が難しいなんて……「帰りたい」
「帰りたい? 帰りたいと言うのだな椎名君。そうか。では、この後あの画像を印刷せねばならないな。今夜は徹夜だな……」木南はわざとらしく首をもみほぐす。
 あの写真があったんだ!
「や、やるわよ。閉塞でもなんでも。その代わり約束は守ってくださいよ」
「約束? この私が嘘をつくとでも思っているのかね」
 思う、メチャクチャ思う。けど……。
 諦めて準備に取りかかった。

 ヤツが地下貯留槽に戻る循環水取水口はボードでふさいだ。これで逃げ道は噴射口しかないはずだ。
「私がヤツを引きつけている間に、椎名君と後閑君が噴射口をふさいでしまえば、もう袋のネズミだ。
 噴射口の閉塞を確認しだい、北城君はメイン排水ボタンを押してくれたまえ。そうすればプールの水は地下貯留槽を通さずに下水道へと排出される。これで勝利は確実だ。
 水さえなくなれば、ヤツなぞどうとでも料理できるからな。小一時間もあればすべてカタがつくであろう。」
「でも先輩、それじゃヤツが下水道に逃げる可能性もあるんじゃないんですか?」
「その通りだとも椎名君、それがなにか問題かね?」
「だって、逃げたらまた別なところで問題を起こすかもしれないんですよ」
「君は他人からお人好しと言われることはないかね。ちなみに、お人好しとは愚か者の婉曲表現でもある。下水道に逃げたら逃げたで良いではないか。
 私としても出来得ることなら捕獲して、学術機関に売却して部費の足しにしたい。しかし我々が依頼されたことは、猫間高校室内プールで起こる異変の調査及び解決であって、ヤツが下水道に逃げてどこで何をしようと関知するところではない。それはもう東京都下水道局の管轄だ。
 無駄口を叩いているヒマはない。『ヤツが北城君を襲ってしまう前に、いっそうのこと私が襲ってしまおうか』作戦を開始する。各自配置につきたまえ」
(もうどんな作戦名でもいいわ……)

 夏南美と笙子は噴射口から少し離れた位置にスタンバイした。この位置ならたとえヤツが噴射口から出てきても襲われないだろう。
 ヤツが出現ししだい噴射口をふさぎ、携帯電話で拓也に連絡。
 あとはヤツが居残っていれば捕獲、下水道に逃げてしまえばそれまで。これですべてが終わるはず。
「北城君、五分後に循環システムのスイッチを入れてくれたまえ」
「わかった、五分後だな」
 拓也は振り返ることなくプールを出ていった。
 残ったものは重苦しい空気だけ。
 ……。
 間延びしたかのように時間が長く感じられる。
 静かだった。プールの水がすべて飲みこんだように音がない。
 …………。
「あと一分。椎名君、後閑君いいな、ヤツが出てきてから噴射口をふさぐのだ。
 さて時間だな。さあ、パーティーを楽しもうではないか」

 地下の貯水槽から循環水が流れこんできた。凪いでいた水面に小さな波が起こる。
 さすがの木南も無駄口を叩かない。
 夏南美の口の中に苦いツバが湧く。飲み下したいのにどうしてもノドが受け付けない。
 新たな水が流れ込み消毒薬の臭いが強くなる。水温も少し上がったようだ。
 息苦しさが募る。
 取水口をふさがれたプールに浄化水が流入し、行き場を失った水がじわりと水位を上げてゆく。
 ヤツの気配はまだ感じられないが、出現が近い予感がする。
 五分後? 一分後か? いや、もう来ているのかもしれない。
 相手が見えず、どこを見ていればいいのかわからないことが、余計に不安を増大させる。
「お腹すいたな、早く出てきてくれないかなぁ」緊張感のかけらもない声。
 笙子は頬づえついてプールサイドに腰掛けていた。
「もっと緊張感を持ってよ笙子! 遊んでいないで準備して」
 笙子の緊張感のなさは前からだったが、いまばかりは苛立たしい。
 笙子は夏南美の叱咤にしょんぼりしながら、閉塞用鉄板を抱えてプールに入ってくる。
「な!」
 間の抜けた声を残して笙子の頭が水中に没した。
 が、すぐに顔を上げる。「足が滑った……あれっ?」
 笙子の身体が高速でプール中央に向かって動き出す。上半身を棒のように立たせたままスライドしていく。「えっ! えっ?」なされるがままに運ばれる。
「椎名君、ヤツだ!」
「なんで? 女の子は襲わないんじゃ」
 現に目の前で笙子が尋常ならざる動きを見せているのだ、疑う余地などない。
「理由などどうでもいい。噴射口をふさぐんだ! 後閑君の代わりは私がするから、椎名君は自分の分を頼む!」
 水をかき分けて木南が噴射口に突進する。
「は、はい!」夏南美も弾かれたように水をかくが、水位が高くなっていて思うように進めない。
「笙子を助けなきゃ」
「後閑君なら放っておいても大丈夫だ、椎名君は噴射口閉塞に専念したまえ!」
 冷たい言いようだが、確かに噴射口をふさぐことの方が先決だった。
 そして木南の言葉も正しい。
 笙子はプールの中央部で棒立ちになったまま浮いている。が、その表情はいたって通常通り、顔面の神経が切れているんじゃないかと思わせるほど緊張感はない。
「まずい、水流が強すぎる。これでは押さえきれない」木南に焦りが色濃く浮かぶ。「フェライト磁石では磁力が足りない! ネオジム・鉄・ホウ素磁石にしていれば……こうなっては我が体重をもって押さえつけるしかあるまい」
 木南は壁に張りつき身体が浮くのを押さえる。
「急ぎたまえ、早く噴射口をふさがないと水位が上がって手に負えなくなる」
「わかってます!」
 水はもう夏南美のアゴのあたりまで上がってきている。プールからあふれ出すのも時間の問題だ。
「わぁっ」持ち上げようとした閉塞板は予想以上に重かった。慌ててつかもうとしたのが失敗だった。つかんだはずの閉塞板が離れプールの底に沈んでゆく。
「どうしたのだ?」
「落としちゃったんです。あっ、あった」鈍色の鉄板が底にあった。
「早く拾え!」
 いつもの木南の口調ではない。夏南美が初めて耳にするぞんざいな物言いだ。余裕のなさがにじみ出ている。
 引き上げた閉塞板は水中にありながらも結構な重さがある。それを抱えると大きく息を吸いこみ、噴射口に固着させようと潜った。
 激しく吹き出す浄化水が、一時的に張りついた閉塞板を浮かしてしまう。磁石もなにもあったものではない。水中で自由にならない身体をもどかしく思いつつ、悪戦苦闘するが息が続かない。
 ぷはっ!
「だめ、くっつかない」
「私のように自分の身体を使って押さえるのだ」
「深すぎて届きません!」
 いまや水はプールからあふれ出し、噴射口までの深さは夏南美の身長を超えてしまっている。木南ですら水を飲まないように顔を上げている状態なのだ。
「やむ終えない、こうなってはイチかバチかだ。北城君にいますぐ循環システムを止め、同時にメイン排水システムを稼働するように連絡してくれたまえ!
 君は循環システムが止まりしだい、噴射口をふさぐのだ。わかったな!」
 閉塞板を抱えたままプールから上がるのは一苦労だった。やっとのことでプールサイドに上がったとたん、待っていたかのように水が様相を変化させた。
「急げ!」
 木南の声に振り返った夏南美の目には”渦”に変わりつつある水面が映った。
 渦の中央にはコマみたいに回る笙子、木南は必死の形相で壁に張りついている。
「拓也、循環水システムを止めて、メイン排水システムをスタートして! それから……早くこっちに戻ってきて!」叫ぶように携帯電話を切った。

 14

「大丈夫か夏南美?」
「あたしは大丈夫、でも閉塞板が……」
 椎名夏南美は抱えたままの閉塞板を見ながら途方に暮れた。
「無理、水深がありすぎるよ」
「ちっ。しょーがねぇ、俺がやる!」
 満々と水を湛え渦巻くプールを一瞥した北城拓也は、舌打ちしながらも閉塞板を受け取り飛びこんだ。
 一〇秒、三〇秒、一分……姿がやっと現れる。
「ぷはっ。だめだ! 循環水システムが完全に止まっていない。閉塞板が浮いちまう!」
 拓也も身体で閉塞板を押さえつけているのだが、鼻先まで水に浸かり息をつくのもままならない。波に洗われるたびにあえいでいる。
「うおっぷ。夏南美ぃ、機械室に……早く!」
 長身の木南淳ですら、壁に張りついて呼吸するのが精いっぱいなのだ、拓也に至っては溺れているのも同然。話しすら難しい。
「どうすればいいのよ。あたし操作なんて知らないわよ」
 拓也から返事はない。
「機械室に入ってすぐの、右パネルの赤いボタンだ。グズグズするでない!」代わりに木南から怒声が飛ぶ。
「えっ、あっ、はい」
 弾かれたように駆け出した───二歩分だけ。「ぎゅげ」乙女のあるまじき声をあげて床に押しつけられていた。
 ヤツに囚われていたはずの後閑笙子が覆い被さっていた。
「い、痛ぁ。笙子? 大丈夫、笙子?」
「たぶん……ダメ。お腹に……」笙子の身体から力が抜け意識を失った。
 偶然だが、夏南美のヒジが笙子のみぞおちに深々とめりこんでいた。
「あ、ゴメン。笙子、しっかり……」夏南美の言葉は、「のわーっ!」野太い男の悲鳴にかき消される。
 渦が嘘のように消え、水面が凪いでいる。
 その上を腹這いになった拓也が身もだえていた。
「拓也?」
「ちくしょう、離れない。助けてくれ夏南美! 先輩!」
 水面で身をよじって、必死になにかから逃れようとしている。
(水上で悶えるなんて器用なヤツ)感心している場合じゃない!
「拓也を助けてあげて先輩」
「済まない北城君! この場を離れるわけにはゆかないのだ。いま離れたらせっかくの計画が水の泡だ。
 それより椎名君、噴射口をふさぐんだ! 後閑君でもかまわない……って、後閑君はどうしたのだ?」
「予測不可能な出来事と、ちょっとした弾みによって気絶中です」
 本当に事故よ、事故。不幸な偶然が起こした事故よ!
「ではグズグズしていないで閉塞したまえ」
「わかってます。だけど……笙子重い、早くどいて!」気絶した笙子はグンニャリしていて、ジタバタするがどうにもならない。
「遊んでいる場合ではない。君しかいないのだ、早くしたまえ!」
「急いでます。けど笙子が……」
「ひゃあ!」突然、状況にそぐわない奇声があがる。
「や、やめ、やめてくれ」プールの中央にいる拓也が怪しげに身をよじりだした。顔は真っ赤になり、「こちょばい。変なところに触るな! ひゃははは」盛大に笑い出す。
「お、おのれ! 水生生物の分際で、私の北城君の肉体を撫で回すとは」
 みるみる木南の顔から血の気が失せていく。瞳は嫉妬の焔を浮かべ、開かれたまなじりからは血涙が流れている。きつく噛み締められた唇にも色はない。
 真っ白な顔にアクセントをつけているのは、左のこめかみから走る傷痕だけだ。鮮やかなピンク色に染まった傷痕が、憤怒の表情に色を添えている。
 もはや人間の顔ではない。煉獄の鬼でもこの顔を見たら怖れ逃げるに違いない。
「椎名君。生きてこのプールを出たかったら、いますぐ噴射口をふさげ! 脅しではないぞ、最後通知だ!」
 ひっ! 背筋に氷を押しつけられたみたいな冷たい戦慄が走る。
(マジだ。あたしを殺す気だ)
 夏南美はパニック一歩手前。気だけは焦るがもがけばもがくほど、笙子の手足がからまり状況は悪化する一方だ。
「どけ笙子! あんたのせいで、あたしは殺されたくはないのよ!」
 これは言いがかりだ。気絶した主因は夏南美にある。
 生死を賭けた脱出劇を演じる夏南美の横を、ウルトラマリンブルーの風が通り抜けた。
 猫間高校の制服を着た女子生徒が長い髪をなびかせて駆けて行く。プールの縁まで来ると躊躇することなく制服のまま飛びこんだ。
 後ろ姿だけではよくわからないが、噴射口の上に閉塞板を乗せたようだ。
 身体で押さえているらしく、ロングヘアーの頭が上下している。
「バカ野郎! 噴射システムを止めに行け!」
 制服姿の女子生徒は振り返ることなく夏南美に命令する。
「わかっているわよ!」命はかかっているし、笙子は邪魔だし、見知らぬ人間にはバカ呼ばわりされるし……クソッ。
「邪魔だぁぁぁぁ!」
 全力で跳ね上げられた笙子の身体は、放物線を描いて壁に激突した。
 べちゃっ! 剥離した壁材とともに笙子が力無く崩れ落ちる。
 ふう、ふう、ふう! 夏南美は肩で大きく息をし、壁際にチラリと視線を投げる。
「手間かけさせやがって」
 哀れな笙子に同情の気配もない。
 立ち上がった夏南美が目にしたものは、火照ったように顔を紅潮させて身もだえる拓也と、血涙を流し白面鬼と化した憤怒の木南の姿。
(シュールというか、世紀末というか……地獄絵図ね)妙に現実感がなかった。まるで前衛的な映画でも見ているような、不思議な状況が繰り広げられている。
「あうっ」拓也の感極まった喘ぎ声がもれる。
「北城君の貞操が……走るんだ椎名君! 君の心臓が破れてもかまわないから、全速力で機械室に行きたまえ!」
「ああーっ」
 拓也の怪しげな声をBGMに、夏南美は機械室目指して走った。

 15

「ぜっ。へっ、へっ、はーぁ。全速力での往復はキツイ。で、状況は……」
 椎名夏南美はプールサイドでうずくまり、のろのろと顔を上げた。
 閉塞板をやっと固着できたようだ。水の噴射さえなくなれば、フェライト磁石の磁力と重さで十分にふさげる。
 メイン排水システムが威力を発揮して、水位がもう半分まで下がっている。
 プールの中央では悶絶しすぎた北城拓也がグッタリとしていた。
 拓也を、正確には拓也を捕らえているヤツをにらみつけている男女。二人とも中腰になっていつでも動ける態勢をとっている。
 木南淳の表情は真剣だ。その目は獲物を狩る獣のような光を宿し、飛びかかる瞬間を待っているようだった。
 後ろ姿しか見えない女子生徒からも、限界まで引き絞ったピアノ線みたいな緊張感が伝わってくる。
 水位がもの凄い勢いで下がっていく。もうほとんど残ってはいない。
 彼らが見つめているものは───水の塊だった。
 水が固まって盛り上がっている。そうとしか表現できないものだった。
 威嚇でもしているのだろう、水のように透明な物体が盛んに外縁を蠕動させている。
 二人とヤツのにらみ合いが───ヤツに目のような感覚器官があるのかはわからないが───続く。相手の出方がわからない以上、夏南美とて迂闊には動けない。
 動いたのは木南だった。上唇をなめるとヤツに向かって駆けだし、ラグビー選手よろしくヤツにタックルした。
「汚らしい手で触るな、北城君を離せ」
 夏南美の太股並みにある腕で締めあげる。
 ヤツは苦しげに身をよじり、捕らえていた拓也を落とした。
「北城君を安全なところに」
「はい」なんで今日は気絶した人間と関わりが多いのよ。そう思いながらも幸せそうな表情で意識を失っている拓也の身体を引きずった。
「北城君の身体をもてあそんだことは万死に値する。我が怒りを受けよ!」締める腕に力が入る。
 ヤツは身体に変化が現れる。透明だった身体に色々な色が浮かんでは消える。透明に見えていたのはやはり光学迷彩だったようだ。
 色が落ち着きはじめ、形も変わり出した。球を二つに切ったみたいな身体が縦長になり、突起が生まれ四方に伸びる。
 そして……。

 夏南美は我が目を疑った。
 目の前に木南がいた。
 それも二人も。
 二人の木南がプールの底に立っている。一人がもう一人を抱きしめる形で。
「う、美しい。宇宙の意志が創りたもうた真の美だ……」
 驚愕、いや違う。木南(オリジナル)は恋する乙女のみたいに顔を赤らめ、息をのんだまま動きを止めた。
「先輩、惑わされちゃダメ。それはニセモノよ!」
 夏南美の忠告は耳に届いていない。木南(オリジナル)は熱に浮かされた瞳でもう一人の自分を見つめている。
「私は幻を見ているのか……こんなにも美しいものが私のほかにあるとは」締めつけていた腕が離れる。
 木南(偽)はその一瞬を見逃さなかった。
 丸太のように太い腕が木南(オリジナル)の胴を薙ぐ。
 完全に虚をつかれ木南(オリジナル)の巨体が吹き飛び壁に激突した。
「このーっ!」
 ウルトラマリンブルーの制服が宙を飛んだ。木南(偽)の頸部に蹴りが入る。
 普通の人間なら一発で倒すことができる勢いとスピードだ。蹴りは見事に決まり、ガクンと木南(偽)の首が九〇度に曲がった。
 女子生徒はスカートにも関わらず、続けざまに蹴りを繰り出す。勢いに押され木南(偽)が二、三歩後退する。が勢いもそこまで。濡れたスカートが巻き付き、蹴りのスピードが緩んだ瞬間、足を取られ抱きしめられてしまった。
「離せーっ! 変態野郎、触るんじゃねぇ!」口汚くののしり拳を繰り出すが、オリジナルと同様、偽物ものれんに腕押し、糠にクギである。ダメージを受けている様子はない。
 木南(偽)は女子生徒を抱え直し締めあげる。女子生徒の頭部が木南(偽)の分厚い胸に沈んでゆく。
「く、苦しい」
「その娘を離せーっ、うすらでかいホモ野郎が!」
 夏南美は手近にあった手近な物を思いっきり投げた───世間一般ではそれを北城拓也と言う名前で呼んでいるのだが───意識のない拓也はなされるがまま、回転しながら飛んで行く。
 びちゃ! 痛い音がしてズバリ命中。木南(偽)はよろめいたく。しかしまだ女子生徒は離さない。
「夏南美ちゃん、お腹が……減ったよぉ」
 意識を取り戻した後閑笙子が、開口一番情けない声で窮状を訴える。
 しかし聞こえている様子はない。
「おりゃーっ、もう一丁。くたばりやがれ、この非常識なド変態!」
 興奮した夏南美にも常識はなかった。笙子の腕をつかむと勢いをつけて投げる。
 べちゃ! 鈍い音がしてまた命中。さすがの木南(偽)も女子生徒を離しうずくまる。
「いまです先輩、早くヤツを!」
 だが木南(オリジナル)は壁に張りついたまま動かない。
「椎名君、君の本心はよーくわかった」声に怒気がにじんでいる。
「あは、あははは。そ、それより、そんなところで遊んでいないであの化け物をなんとかしてください」
「わかっている。だが股間のビスが刺さって抜けないのだ」必死に離れようとしているのだがビクともしない。
 朦朧として立ちすくんでいる女子生徒に向かって、冷笑を浮かべた木南(偽)がゆっくりと近づいてゆく。
「ったく」意を決して夏南美はプールサイドを蹴った。
 勢いのついた右足が木南(偽)の胸板を直撃するや、その足を軸に左足で後頭部に蹴りを入れる。
「凄い」夏南美の流れるような攻撃に、女子生徒が感動の声をあげる。
 夏南美は追い打ちをかけるべく、よろめく木南(偽)と対峙する。
 蹴りを食らってもなお、木南(偽)は人を見下したような表情を変えていない。
 その顔を見ていると夏南美の頭の中に、木南(オリジナル)に言われてきた罵詈雑言がよみがえってきた。
『運動学的にも理想的な平らなムネ』『椎名君のパンツは木綿の安物』などなど列記していったらきりがないほど。
(好き勝手言ってくれちゃって!)
 世界が赤く染まって見える。怒りのボルテージが上がっていくのが感じられる。
 ぷちっ! 理性の切れる音が───夏南美の身体が勝手に動いた。
「ムネがなくって悪かったわね! あたしだって好きでこんなムネをしているわけじゃないわよ!」
 蹴り上げた足がアゴを捕らえる。のけぞる木南(偽)の腕をつかまえ、引き戻しざまにヒジを鼻面にめりこませる。
「どうせバーゲン品のパンツしか買えないわよ! お小遣いが少ないんだもん、しょうがないじゃない。あたしだって本当はもっと高いパンツ買いたいわよ!」
 木南(偽)のみぞおち目がけてヒザ蹴りを繰り出す、前屈みになったところで体重を相手に預けプールの底に叩きつけた。
 相手が木南だと思うといつも以上に夏南美の腕に力が入る。
 脚、拳、ヒジ、ヒザ、カカトに額。全身を武器にして一方的に攻め続ける。
 木南(偽)は恐れの表情を浮かべ飛び退き───木南の姿が崩れ落ちた。肌色だった身体に黒い斑点が現れ、すぐにほかの色が取って代わる。
 ヤツは全身を蠕動させ、新たな姿を形成した。

 夏南美の前に夏南美がいた。
 夏南美と同じ顔、夏南美と同じ髪型、夏南美と同じ水着、夏南美と同じ……じゃないムネ。Cカップ? いや、Dカップかもしれない。
 あたし? 振り上げた拳が止まる。
 夏南美(巨乳)は妖艶な笑みを浮かべて一歩踏み出した。たったそれだけの動きなのに、ムネが上下に大きく弾む。
(いいなぁ……じゃない!)
 自分が何に見とれていたか気づいたとき、夏南美(貧乳)は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
(あんなに大きなムネにしやがって、あたしに対する当てこすりか! そうなのね、わかったわよ。よーく、わかった!)
「化け物の分際で、あたしを愚弄するとはいい根性してるじゃない」
 夏南美(貧乳)の顔には笑みが浮かんでいる。だがそれは夏南美(巨乳)の笑みとは違う。他人の心まで萎縮させる冷め切った笑みだった。
「死になさい!」
 夏南美(貧乳)は気絶したままの拓也の足をつかむと軽々と持ち上げ、目にもとまらぬ速度で振り回す。
 同じ顔だとて、もう容赦はない。生ける棍棒となった拓也を振り下ろす。
 夏南美(巨乳)の頭、身体、手足は言うに及ばず、プールの底、壁、意識を取り戻し起きあがろうとしていた笙子───夏南美(貧乳)の怒りは相手を選ばない。
 逃げることなく立ちつくしていた女子生徒が熱い吐息をもらし、
「カッコイイ……」
 つぶやいたその目は恋にも似た輝きを帯びている。
 夏南美(巨乳)の身体がぶれる。
「これでとどめよーっ!」拓也の身体を大きく振りかぶる。
 夏南美は拓也を振り下ろさなかった。いや、振り下ろせなかった。
 目の前には優しい笑みを浮かべた拓也が立っていた。

 拓也(新品)はすべてを受け入れるがごとく両手を広げる。
「か……な……み。かなみ」
 初めて聞く拓也(新品)の声は、とても穏やかな響きだった。
「えっ! あ、あのぉ……拓也?」夏南美の腕から力が抜け、振り上げられていた拓也(ボロボロ)が落ちる。
「でっ! 痛え……なんで身体中が痛いんだ?」頭を押さえながら拓也が上半身を起こす。焦点の合っていない瞳が拓也(新品)をとらえた。「なんともないじゃん俺。俺!」
 拓也(ボロボロ)は拓也(新品)を穴があくほど見つめ、突然自分の頭を殴った。「痛い、痛いよ。夢じゃないのか、じゃあ……あいつは俺で……」
 イヌみたいに二三度頭を振り、すくっと立ち上がると拓也(新品)を指差す。
「お、おまえは俺だ! えっ!」自分の言葉にショックを受けたようだ。
 心許ない表情で夏南美を見つめ、
「夏南美ぃ、あいつは俺だよな……じゃあ俺は誰なんだ?」
 自分を指差す。
 完全に混乱している。
「なにバカなこと言ってるのよ、あの拓也はヤツが変身した拓也よ。拓也は拓也でしょ……」言い終わる前に、拓也(新品)の腕がしなった。
 拓也(ボロボロ)の身体が宙に浮いた。
「でっ!」
「きゃあ!」
「うおっ!」
 後ろにいた女子生徒を巻き込み、プールの端に叩きつけられる。
(痛っ……くない)身体を丸めショックに備えていただけに呆気にとられた。
 それは衝撃のほとんどを、拓也(ボロボロ)と女子生徒がクッションになって吸収してくれたからなのだが。
 が、目の前が真っ暗だ。
(見えない、どうして?)慌てて顔に手をやる。
 ず、るっ。黒い塊が落ちてくる。
 髪の毛? 夏南美の視界を遮っていたものは髪の毛であった。
 えっ、えっ! 髪が、あたしの髪が!
「嫌ーーーっ! 髪が、髪が!」
 脱毛の恐怖のあまり、夏南美はだだっ子みたいに手足を振り回す。
「よく見ろ夏南美、それはおまえの髪じゃない。痛っ、だから暴れるな」夏南美に押し潰されている拓也(ボロボロ)が、必死に正気を取り戻させる。
「へっ?」
 ストレートのロングヘアー。
 それどころか本物の髪の毛ですらない。

 16

 カツラ?
 振り返った椎名夏南美の目に映ったものは、ボロボロになった北城拓也。
 と、猫間高校の女子制服に身を包んだ純鈎亮。
「純鈎……君?」
 あれだけ嫌がっていた女物の服を着ている。ズブ濡れだったけど、美少女という表現が似合っていた。
 夏南美は状況を忘れて見つめる。
(スタイルいいなぁ、きれいだなぁ)
「見るな! 見ないでくれ!」
 純鈎は身体を抱きしめてしゃがみこむ。
「おまえらにだけは、見られたくなかった」
 いつもの見慣れた純鈎じゃない───これは、弱々しい女の子の純鈎だ。
「かわいいよ純鈎君」夏南美にはとっさにこの言葉しか浮かばなかった。
「かわいいって言うな!」
 いつもの純鈎に戻ったようだ。
「亮、おまえどうしてここにいるんだ? 今日は来られないはずじゃなかったのか? どうして女子の制服を着ているんだ? なんでカツラなんてかぶっていたんだ?」
 拓也(ボロボロ)は矢継ぎ早に質問する。おまけに口調はいつもと変わらない。
 夏南美はこの状況で平常を保っていられる拓也(ボロボロ)を、ちょっとうらやましく思った。
(ひょっとしたら状況がわかっていないのかな? きっとそうよ! あたしの方が正常な反応よ、拓也は鈍感だから平気でいられるのよ)そう思ったら少し落ち着いた。
 そうだ! ヤツは? 笙子は? 木南先輩は……どうでもいいか。
 慌ててまわりを見渡す。
 木南淳は相変わらず壁にへばりついて、コンクリートだかFRPだかと親交を深めている。もとい、離れようとジタバタもがいている。
 後閑笙子は拓也(新品)とにらみ合っていた。
 拓也(新品)が鋭い拳を繰り出す。笙子は素早く身をかわし……きれないで、モロにパンチを食らう。続けざまに蹴りが、裏拳が、笙子目がけて放たれた。右に左に身体をねじって……遅い! すべて正面から受けとめる。と言うより、自ら身体を相手に差し出しているようなものである。
 だが、笙子は平気なものだ、殴られようが蹴られようが平然と突っ立っている。
 運動神経が切れている上に痛覚の神経も切れているのかもしれない。拓也(新品)の嵐のような猛攻も笙子の前には形無しだ。
(当分は笙子に任せておけばいいわね)

「拓也、そんなに矢継ぎ早に質問しても、純鈎君が答えられないわよ」
「そうだな。じゃあなんで女子の制服なんて着てるんだよ。おまえ女の服は恥ずかしくて着られないんだろう? かわいいからいいけどよ」
「かわいい言うな、殺すぞ!」
 拓也(ボロボロ)を怒鳴りつける純鈎だったが、女顔で───女だから当たり前───女子の制服を着た美少女が凄んでも迫力がない。
 純鈎もそう思ったのか怒鳴るのをやめ、大人しく話しだした。
「今日は俺の停学あけだろう。登校には親も呼ばれていたんだ。だからよ、学ラン着て学校に行こうとしたら……思いつめた顔をしたお袋が包丁を俺に突きつけ『その格好で行くんなら、あんたを殺してあたしも死ぬ』って泣きだしちまって。お袋は一度言い出したら引かない性格だから、俺も仕方なくこの制服に」ため息つきつつ立ち上がり、濡れそぼったカツラを拾い上げた。
「恥ずかしいからカツラかぶって、俺だってバレないように大人しくしていたんだ。とくに俺のことをよく知っている、おまえらにだけにはバレないようにな」
「どうりで。六組に行っても亮の姿が見つからないはずだ。カツラかぶって大人しくしてりゃ深窓のご令嬢んだもんな、わかんねぇよ」拓也はなめるように───別名オヤジの目つき───純鈎を見つめる。
「ジロジロ見るな!」
「落ち着いてよ。いまはそんなことしている場合じゃないでしょう」夏南美はつかみかからんばかりに怒る純鈎をなだめる。「ねぇ純鈎君、六組のクラスメイトに見られるのは構わないの?」
「構わないさ、どうせ六組のヤツらと顔を合わせるのも今日限りだからよ」
 妙にサバサバした表情で言うものだから一瞬気がつかなかったが、『今日限り』ってまさか……。
「ひょっとして純鈎君、辞めるつもりなの?」
「ああ、六組ともおさらばだ。と言ってもたった二日しか行ってなかったけどな」
「だけどそんなことで辞めるなんてよ……」拓也の声に寂しさが混ざっている。
「もう決めちまったからな」真面目な顔をした純鈎の声はとても静かだった。
 穏やかだけど迷いなどない力強さがこもっている。
 他人がどうのこうの言える雰囲気にはない。
「そう……」夏南美には言うべき言葉が浮かんでこなかった。
 拓也も純鈎を見つめたまま押し黙っている。
「おまえらが暗くなる必要はないって」純鈎はいつもの楽しげな顔に戻っていた。「おまえらに話したらなんかスッキリした。ありがとうな」笑顔を見せる。
「そう。そうならいいけど」
(ウソ。無理している)夏南美は純鈎の笑みにわずかな歪みを感じていた。
 夏南美の視線に気づいた純鈎は、わざとらしくシナをつくってスカートのスソをつかみ上げる。
「お袋に脅されたとはいえ、こんな制服着てカツラまでかぶってよ。恥ずかしいったらありゃしない。いますぐ脱ぎ捨てて焼却炉にでも突っこんでやりたいぜ。おかしいだろう? 笑ってくれてもいいぜ」
「バカなマネはよせよ亮。どんな格好しようとも亮は亮。笑う必要がどこにあるんだよ」目を伏せがちにした拓也が純鈎の肩に手を置いた。「亮がその制服を着たくないなら、着なきゃいいんだ」
「拓也……おまえ」
「で、その制服いらないんなら俺にくれないか。ついでにもう一度カツラかぶったところを写真撮らせてくれよ。美少女が着た制服だ、欲しがるヤツが山ほどいるだろう。一〇万円、いや、二〇万円で売れるかもしれない」
 げしょ!
 めこっ!
 夏南美と純鈎の拳が同時に拓也(ボロボロ)の顔にめりこんだ。
 木南との練習の成果が出たのか、拓也(ボロボロ)は男らしく前のめりに倒れた。
「忙しいところ悪いんだけど。夏南美ちゃん、そろそろ助けてくれないかな」
 存在を忘れられていた笙子が気の抜けた声で自己主張する。

(やばっ、忘れてた)
「笙子、どうしたの」
「北城君が……」
 笙子は拓也(新品)に締めつけられていた。
 拓也がスケベそうな顔をして、嫌がる笙子のムネに顔を埋めている───これは夏南美の目に映った状況である。
「このバカ拓也! いいかげんにしないと……」夏南美の怒声が中途半端に途切れる。
 倒れていたはずの拓也(ボロボロ)が、鬼神のごとき表情を浮かべ、拓也(新品)に向かって走っていく。
「こぉのー!」
 目を潤まし、肺腑をえぐるような叫び声をあげ、
「俺のくせになんて、なんてうらやましい!」
 拓也(ボロボロ)は乳を貪る仔犬のように、拓也(新品)を押しのけ笙子に抱きつく。
「ジャマだ俺! 独り占めなんでずるいぞ!」
 笙子に抱きついたまま、拓也たちがどつき合いをはじめた。
「俺のジャマをするな俺!」
「お……れ……、おれの……じゃ……ま」
「うるせーっ。黙れドスケベ!」
「ど……すけ……べ」
 どっちもどっちだ。醜い争いである。
「やるじゃねぇかオマエ、さすがは俺だ。無益な争いは時間の無駄だ、半分にするべ。右のムネは俺、左はオマエ。それでいいな」
 拓也(新品)も不満はないようだった。
 お互い顔を見合わせると同時にうなずく。
 種の違いこそあれ、『拓也』イコール『スケベ』と言う式が成り立つようだ。あれだけ敵対関係にあったヤツと協働関係を生み出すとは、拓也(ボロボロ)のスケベ力侮りがたしである。
「じゃあ改めて行くぞ、いいな俺。せーの」
「なにしとんじゃーっ!」
 二人の拓也が笙子のムネに顔を埋めようとするその時、夏南美の、純鈎の、蹴りが飛ぶ。拓也(ボロボロ)は夏南美の叫びに素早く反応、夏南美の蹴りは頭上をかすめ拓也(新品)のアゴをとらえる。
 拓也(ボロボロ)は夏南美の攻撃をよけつつ、飛び蹴りを放つ純鈎のスカートの中をのぞこうと体位を変える。
 これが命取りになった。顔面から蹴りを食らう。
 薄れゆく意識の中で拓也(ボロボロ)は、『トランクスなんて反則だ……』無念さに包まれていった。
 夏南美は拓也(新品、だんだんよれてきた)とにらみ合う。
 拓也(新品)は両腕を広げ、「か……な……み」優しげに微笑む。
「拓也のマネしないでよ」
 拓也の姿をしていると、どうも手が出しづらい。
「笙子は拓也を安全なところまで連れていって。純鈎君は先輩を助けて」

「部長さんよ離れられそうか?」
「ビスを長くしたことが裏目に出た。どんなに引っ張っても抜けない」
「じゃあ俺も手伝ってやるぜ。いいか、いくぞ」
 純鈎は木南の身体を引っ張り始めた。
 五分、一〇分。
 拓也(新品)を牽制する夏南美も限界に近づいてきていた。自分の力じゃ押さえているのが精いっぱい。素手で戦って勝てる望みなど万にひとつもない。
 拓也(ボロボロ)は気絶、笙子や純鈎君でも勝てそうにはない。勝てるとしたら……。
 変態的、いや、変態パワーの木南しかいない。
「純鈎君、まだ先輩は離れないの?」
「だめだ。びくともしねぇ」
「早くして!」
 拓也(新品)が近づいてくる。
「かな……み、かなみ」
「気安く呼ばないで。拓也がそんなに優しい顔をするわけないでしょ!」
 手刀を拓也(新品)に叩きこむ。
「凄ぇぜ椎名。お前やっぱり男らしいよ!」
「妙な感心してないで先輩を早く! 笙子、あんたも手伝ってあげて」
「うん」
 力自慢の木南がやってもどうにもならないのだ、一人や二人増えたところでおいそれとは抜けない。
「純鈎君、引いてもダメなら、ここは一発、押しの一手ってどう?」
「そうだな」笙子の提案に即座に同意した。
「バカ者! 余計にめりこむではないか。それにどこが刺さっていると思っているのだ、よしたまえ!」木南は反対するが、壁にへばりついていては逃げようがない。
「何でもいいから早くしてよ! 来るな拓也、あっバカ、触るんじゃない!」
 ついに夏南美はとらえられてしまった。「どこ触っているのよスケベ!」
「やるぞ後閑、一、二の三!」
 二人の足が木南の腰部を同時に蹴り上げる。
 めこっ!

 17

「むぅおっ!」
 奇妙な叫び声をあげて木南淳が壁から離れた。
 断末魔のゴキブリみたいに、股間を押さえピクピクと悶絶する。
「大丈夫か?」自分で蹴っておきながら、純鈎亮が同情的な表情で聞く。
 木南はやや腰を引きながらもなんとか立ち上がり、
「諸君らの協力によって壁から離れられたことは、一応感謝する。しかし覚えておきたまえ、私は恩は三日で忘れても恨みは死ぬまで忘れない主義だ」
 股間を押さえ純鈎をにらみつける。
「それよりアレ」後閑笙子がプールの中央を指さす。
 木南は笙子に促されプール中央部に視線を移した。次の瞬間押さえていた股間から手が力無く離れる。
 そこでは北城拓也(新品)に抱きしめられた椎名夏南美が、必死の形相でヒジを相手の頸動脈部に打ちこんでいる。
「なんということを!」木南は両手で顔を覆い、がっくりヒザをつく。
 ぶるぶると身体が震え、「おおーっ」嗚咽がもれる。
「北城君が……私の北城君が女人に襲われている。己の身を守るためとはいえ、女人の身体を抱きしめているとはなんと痛々しい。
 北城君が苦行じみた時を過ごしていたのに、私は己のミスから壁に張りついていたとは……済まない、許してほしい」
「部長さんよ、あそこにいる拓也はヤツが変身した拓也だぜ」
 純鈎の言葉はどこまで木南の耳に入ったかはわからない。
「何を言うんだ純鈎君。誰にしろ北城君の姿をした者が、無神経で厚かましい女人からいわれない暴行を受けているのだ。この惨状を見て心を動かされない者は漢ではない。私は心が張り裂けそうで、直視し続けられない」そう言うと、またも顔を覆う。
「そ、そうか?」さすがの純鈎も納得していないようだ、「どう思うよ後閑?」
「変態の考えはわからないけど、たぶん違うと思う」
「だよな」自分が正常であることを確認でき、純鈎はほっとため息をつく。
「あのぉ、先輩。お忙しいところ悪いんですけど、いいかげん助けてく・れ・ま・せ・ん・か!」夏南美のイラついた声がプール全体に響く。
「助ける? 北城君をか?」
「ボケていないで現実を見てください。こいつは拓也の偽物です。襲われているのはこのあたし。わかってますか先輩!」
「それは主観の相違というものだ。仮に襲われているとしても、襲われている相手が君ならば燃えるものがないのだよ」
 木南のテンションは下がりまくっている。どうやら偽物とはいえ、拓也が女に抱きついていることにショックを受けたのだろう。
「こ、このぉ!」夏南美は罵声を飲みこんだ。代わりに大きく息を吸って自分を落ち着け、努めて優しい声を出す。「先輩、拓也のパンツ欲しくないですか? あたしを助けてくれたら盗ってきてあげますよ。なんなら一枚と言わず、二枚でも三枚でも」
 あれっ? 目がおかしくなったかな。
 木南の姿が視界から消えた。
「その言葉に嘘はないであろうな」
「きゃっ」
 すぐ横に木南が立っていた。
 どうやって? 一〇メートルくらいは離れていたのに。
「本当に盗ってくるのだな」
 物理法則を無視した動きに我を失っている夏南美に、木南が念を押してくる。さっきまでのやる気を失ったふぬけた顔ではない。
 夏南美のわずか三〇センチしか離れていないところにある顔は、これ以上ないと言うほどの真剣さが浮かんでいる。
 迫力に押されて声が出ない。うなずくことしかできなかった。
「承知!」
 姿がかき消えた。

 遙か頭上から不遜な笑い声が響く。
「むははは。北城君の姿を偽る不逞の輩よ!」木南が飛び込み台の上で腕を組んでいる。
(あんたは戦隊物のヒーローか! それよりいつ登ったんだよ)
「いますぐ我が民俗学研究部の優秀な部員にして、輝ける未来を持つ椎名夏南美嬢を離したまえ」仁王立ちして、ビシッと指さす。
(あたしには未来がないと言わなかったか……だいいち『嬢』ってなによ! 『嬢』って。気色悪い)
「椎名嬢の身体に傷を付けようものならただでは済まさないぞ」
(あたしが顔に傷がつくかもしれないから嫌だと言ったとき、一笑に付したろうがよ)
「下等な無脊椎生物の分際で、麗しき容と明晰な頭脳を持つ椎名家の御令嬢を汚さんとは言語道断。我が腕を剣に変えて天誅を下さん。たとえ五行が相剋し、太陽が西から上がろうとも、貴様の悪行は見逃すわけにはいかない……」
(ったく、白々しい。セリフが棒読みだっつーの)
「口上はもう結構ですから、そろそろ助けてくださいませんかね」
「これからが本番だ、いままでは落語で言えばマクラ、料理で言えば前菜。やっとこれからが、歯の浮くような虚飾を捨てて、君の本質を述べるところなのだが」
「約束を守ってほしかったら、は・や・く!」
「スポンサーの要求とあっては致し方ない……では、逝くぞ!」
 飛んだ───飛び込み台から夏南美目指して。
「やめーっ! それに字が違うだろーっ!」
 木南の足がコマ送りのように、ゆっくりと近づいてくる。
 めこっ! ショックを受けたとき、目から火花が出ると言うがアレは嘘だ。衝撃を受けた次の瞬間目の前がすべて歪んで真っ暗になった。

「か……かな……み……かなみ……夏南美ちゃん」
 目の前に笙子の唇が迫っていた。
「笙……子!」両手で笙子の頭をつかんで唇から逃れる。
「気がついたんだね夏南美ちゃん、よかった」
「あんた、いまなにしようとしていたのよ?」
「ん、人工呼吸」
「気絶している人間に人工呼吸してなんの意味があるのよ」
「既成事実をつくるチャンスかなって思って」
 めひっ! 笙子は床とキスをしていた。
「介抱してくれたことは感謝するけどね、冗談でも殺すわよ」振り下ろした握り拳が怒りで震えている。
「痛い……なんで叩くかな、本気だったのに」頭をさすりながら笙子が立ち上がる。
(本気って、よりたちが悪いわ! たちが悪いといえばあの男)
「蹴るなんてヒドイじゃないですか先輩! 先輩……聞いてます? 先輩?」笙子の怒りはプールの中央までには届かなかった。
 プールの中央では萌えるような暑い戦いが始まろうとしていた。

 拓也(新品)が弥勒菩薩ごとき穏やかな笑みを浮かべ両腕を広げる。
 ひょっとしたらこれがヤツの威嚇スタイルかもしれない。
「よせ、微笑むな。貴様は北城君でないことはわかっているのだ」木南は左足に体重をかけ、いつでも動ける態勢を取っている。
「きみ……なみ……先……輩……」ゆっくりと木南との間合いを詰めてくる。
「く、来るな! そんな優しい顔で……だ、だまされないぞ」明らかに動揺しているのが見てとれる。身体が動こうとするのを無理矢理押さえつけている。「北城君が……北城君がそんな優しい顔をして……私を呼ぶはずがない」
「木南……先輩……来て……」
 木南は自分の太股が真っ白になるほど強く握りしめて堪えていた。
「先輩、惑わされないで! そいつは拓也じゃないんですよ」
「案ずるな椎名君、この私が同じ手にかかる愚か者だとでも思っているのかね」
「木南先輩……お願い来て……」
 拓也(新品)のしぐさは、女の夏南美ですら見習おうと思ったほど、セクシーで背筋がゾクゾクするほどだった。
(いつか使う機会があるかもしれない覚えておこう)夏南美はしっかりと心に焼きつけた。
 その機会がいつ来るかは不明だが。
「無駄だ! 貴様の企みなどすべてお見通しだ。北城君に化けて私を誘惑しようとは、浅墓で児戯にも等しい行為! 私の鋼鉄の意志は、陳腐な誘惑なぞはね除けるのだ!」
「先輩……そいつに抱きつきながら言っても説得力ないんですけど」
 木南は顔だけ夏南美たちに向けたまま、しっかりと拓也(新品)を抱きしめている。
「はっ! い、いつのまに……この私を陥れるとは侮れんヤツ! 離れろ!」
(自分から進んで抱きつきに行ったんでしょうが!)
 そう言いながらも、木南はいっこうに離れる素振りを見せない。それどころかだらしなく脂下がった顔をして拓也(新品)に顔をすり寄せる。
「先輩……先輩……」拓也(新品)は夏南美すら見たことがない特上の笑みを浮かべ、ゆっくりと両手を木南の首に回す。
「その笑み、その態度。北城君も私を受け入れてくれるのか」目には狂喜じみた光が宿っている。
「その顔、その肌……私の理性が……理性が……」
(理性なんて初めからないでしょう!)
「理性が……もうダメだ!」
 熊をも絞め殺す勢いで拓也(新品)を抱きしめ、腰を怪しげにグラインドさせる。
 うぉおうー! 獣じみた咆吼をあげ、さらに腰を激しく回転させる。
 木南の奇矯なふるまいには慣れているつもりの夏南美だったが、自分の認識の甘さを知らされた。
(謎の生物相手に……この人は種を超えた変態だ)
 腰の回転に上下の動きも加わった。
 木南の身体が桃色に変わり、肌から大粒の汗が滴る。
 のぅおうーっ! 腰の動きは目にはとまらないスピードに。
 拓也(新品)の表情が変わった。明らかに怯えている。

「う゛ぅ顔が痛い。そうだ! どうなったんだ?」顔をさすりながら拓也(ボロボロ)が起きあがってきた。「夏南美、ヤツは?」
「あそこ」げんなりした夏南美がプールの中央を指さす。
「げっ!」莫迦みたいに口を半開きにしたまま拓也は凍りついた。
 凍りつくのも無理はない。目の前で自分と同じ顔をしたものが、サカリのついた木南に抱きすくめられているのだ。
 その拓也(新品)の身体は白い靄に包まれ、顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
 むもーぉ! 木南の身体に赤味が増すたびに、靄が激しくなる。
 木南の身体が熱を帯び、まわりの水分を水蒸気に変えている。人間世界の出来事とは思えない幻想的でグロテスクな状況だ。
 拓也(新品……とは言えない状態だったが)は、しきりに身体をよじって戒めを脱しようとする。だがそれは木南の欲望の前には無駄な努力だった。
 ピッタリと身体を密着させ、愛おしげに腰をくねらす。
 拓也(新品)の姿が震えだした。身体の色が白色になる。姿はもう拓也の形をしていない、焼きすぎた餅のようにいくつもの膨らみが現れる。
「私から逃げてしまうのか北城くーん!」木南の身体が赤光を発したように思えた。
 もの凄い靄が沸き立ち、木南とヤツの姿が見えなくなる。
 ぷしゅ! 空気がもれる音がした。
 ……。
 靄が晴れた。
 そこには木南の姿だけしかない。
 ヤツは? どこにも見えない。
「北城君はどこに行ってしまったのだ……」戸惑いの声が彷徨う。
「グロかった……夢に見そう」我を取り戻した拓也が小声でつぶやく。
 ぴくっ!
 木南はその声を聞き逃さなかった、「そんなところにいたのか。この私から逃れられるとでも思っていたのかね。改めて熱い包容を……」
 ゆっくりと顔を向ける。狂気の光が宿ったままだ。
「いまこそ真実の愛の世界に」
 凍りついた拓也目がけて、愛の虜となった木南が突進してくる。
 拓也を抱きしめるよりも早く、全体重を乗せた夏南美の拳が木南のアゴにヒットした。
 勢いが横に流れ木南の身体は、濡れた床を滑りプールの壁にまたも激突。

「夏南美ちゃん、これ」
 プールの中央で笙子が拾い上げたものは、ビニールでできたような皮。強いて言えば干からびたクラゲみたいなものだった。
「これがヤツのなれの果てか」拓也が気味悪そうに指でつつく。
 どう見ても厚手のビニール袋にしか見えない。
「本当にこれでヤツはお終いなのかな」純鈎の言葉は、夏南美もさっきから思っていたことと同じだった。
 ひょっとしたら、脱皮みたいにして下水道に逃げたかもしれない。
 でも……。
「いいんじゃないの。あたしたちの役目はヤツがこのプールに出てこないようにすることだもん。これで任務は終了よ」
 達成感のある表情ではないが、誰の顔にも反意は見えない。
 ただ、喪失感と、おぞましさと、疲れだけが皆を覆っていた。
「お腹すいた……」
 笙子の言葉が重い空気を打ち破った。
「そうだ、祝賀会の準備がしてあるって先輩が言っていたよね。お腹すいたし行こうよ」
「賛成! 俺ももう限界だ」さっきまで青い顔をしていた拓也も、大げさにお腹を押さえて同意する。
「この格好でか?」純鈎が濡れたスカートのスソを摘んで、嫌そうにつぶやく。
「いいじゃない、水もしたたるいい女ってところよ」
「女装は趣味じゃないって言ってるだろう。今日は嫌々着ているんだ!」
「じゃあ、あたしか笙子の体操服に着替える? もっとも今日の体育は創作ダンスだったからレオタードだけど」
「着るか! 椎名、おまえ俺をおちょくっているだろう」
「あら、あたしは親切で言っているのよ」
「なあ夏南美、そのレオタード売る気はないか……」
 げしっ! 夏南美の蹴りが拓也の股間に突き刺さる。
「いいかげんにしなさいよ!」

 室内プールから出ようとしたとき、プールの底から声が聞こえた。
「待ちたまえ諸君。少々難儀しているので助力を仰ぎたいのだが」
 木南が噴射口のところにへばりついている。
「また刺さっちゃたんですか」
「違うのだ、股間が閉塞板に張りついて、はがれないのだ」腕立てふせをするようにして閉塞板から逃れようとするのだがはがれない。
「なぜだ? 一八−八ステンレス鋼は磁石にはつかないはずなのに」
「一八−八ステンレス鋼は曲がったり強い衝撃を受けると、磁石にくっつくようになる性質を持ってるよ」笙子がボソリとつぶやく。
「本当なの笙子?」
「うん」
 そう言えば壁に突き刺さったりぶつかったりしたもんなぁ。
 そう、あたしにも思い切りぶつかってくれたわよね。それも飛び込み台の上から。
「さぁ行こうよ。きっとマスターも待っているよ」
「行くって、部長さんを助けなくっていいのか?」
「いいでしょ、そのうちになんとかなるわよ」
 夏南美は純鈎を促して室内プールを出た。
「ま、待ちたまえ諸君……」

 18

 いつもの月曜日。教室には休み明け特有のけだるさが漂っている。
 楽しかった週末が終わり、また一週間が始まる。なんとなくクラス中に元気がない。
 椎名夏南美も北城拓也も元気がなかった。
 プールでのヤツとの死闘、純鈎亮との出会いと別れ。信じられないような七日間を過ごしたためなのだが。
 ───北城君、今日は静かだね。
 ───夏南美も大人しいよ。
 ───あの二人なんかあったんじゃねぇの。
 いつものように覇気を感じさせない後閑笙子が、フラフラと夏南美の席に来る。
「夏南美ちゃん、今日の放課後にまた緊急部会やるからって」
「わかった。拓也、今日も部会だって」
 拓也は片手を上げて了解の意を示しただけだった。
「六組に行ってきたんだけど、やっぱり純鈎君いなくなったって……」笙子は思い出したように夏南美に告げた。
「そう……」わかっていたことなのに、改めて聞かされると鉛でも飲みこんだような不快感が胃にのしかかってきた。

「ところでヤツは男性しか襲わないはずだったのに、なんで笙子を襲ったんです?」
 緊急部会が始まるや、夏南美は金曜日以来抱き続けている疑問を木南にぶつけた。
 そもそも女の子を襲わないとの木南の言葉を信じて閉塞役を引き受けたのに、結果的にはあのザマだ。
 納得できないうちは落ち着かなくって、とても会議どころではない。
「そのことか、とりあえずは謝罪しておこう。あれは私の思い違いだったのだ。
 ヤツが襲うというか、対象にしていたのは男性ではなく、水着の種類にあったのだ」
「水着の種類?」
「私も気になって先ほど長村先生に尋ねたのだが、ヤツは最新の素材を使った水着の持ち主にしか興味を示さなかったのだ。最新素材の水着を好んだのか嫌ったのかはわからぬが、水泳部員で異変を感じたのも皆そうだった」
 そういえば、夏南美は水中ではヤツに襲われていない。純鈎もそうだったが……。
「それだけ?」
「その通り。蓼食う虫も好きずきと言うではないか、ヤツはヤツなりの水着に対するこだわりがあったのだろう。他になにか質問があるかね?」
 ヤツは本当に駆除されたのか?
 あの日、木南淳がプールからどうやって脱出したのか?
 色々聞きたい疑問はあったが、もっと大きく、夏南美と拓也にのしかかっていた質問が先だった。
「本当は聞きたくないんですけど。お金の出入りについてはどうなんです?」
「まずは諸君らの活躍によって、ヤツを駆除できたことに感謝する。さらには校長、水泳部、生徒会からも感謝の意が来ているので伝えておく」
 夏南美の不安などお構いなしに木南は話を続ける。
「さて、今回の歳入だが……水泳部から三万円、学校から特別部活動費として一万円の補助、長村先生個人から三〇四一円の慰労金があった。
 ただし、水泳部からの報酬は前金で受けており、ローンの支払いに充ててあるので、実質歳入は一万三〇四一円となる。時給にすれば微々たるものだが、今回の功績で学校側の民俗学研究部に対する評価が好転したことは、大いなる利益といえるだろう」
 好転? 木南を除く夏南美、拓也、笙子の記憶の中には、評価が好転しそうな事柄が浮かばない。
 取水口をふさいだまま水循環システムを稼働させていたため、システムはオーバーヒートして要修理状態のはず。あふれた水が更衣室、教官室といわず水浸しにし、備品等に多大な被害。
 室内プールの壁やプール本体への被害───など。どう考えても悪名は上がっても、評価だけは上がりそうにない。
「壊してしまった物への弁償はどうなっているんですか? まさか借金とか?」
 木南はわざとらしく咳をするとひと呼吸置いた。「先走ってはいかんな椎名君。その件をいま説明しようとしていたところだ。結論から言おう、今回の依頼では報酬を上回る被害額を出してしまった」
「やっぱり」会計役の夏南美としては最も聞きたくない言葉だった。
 某ハンバーガーチェーンでアルバイトする、自分の姿が思い浮かんだくらいである。
「で、いくらなんです。その被害額は?」
(どうぞ百万単位にだけはなっていませんように)仏陀からベルゼブブまですべての神に祈った。
「金額を言うと諸君らにいらぬ動揺を与えかねないので差し控えたい」
 もうハンバーガーショップじゃ間に合わない。歓楽街の怪しげなネオンが……それとも……夏南美は自分の想像が恐ろしくなってくるのを止められないでいた。
(お母さんごめんなさい、夏南美はオトナの世界に行きそうです)
「せ、先輩……あたしたちはどうすればいいんですか?」
「なにもする必要はない」
「は?」
「これだから女人というものは。人の話を最後まで聞かずに勝手に恐慌を起こして。それともマゾ的な思考を楽しんでいるのかね」
「じゃあ、借金は無し?」
 木南は大きくうなずく。
「どうして……?」
「我々の活動の有意義さを認めてくれた篤志家が、すべの借財を精算してくれたのだ」
(よかった)
「ただ当初予定ではわずかながら利益が出る予定であったのだが、諸君らがインヴァリーブンで鯨飲馬食を繰り広げたため、すべて相殺されてしまったことは非常に遺憾である」
 苦虫を噛み潰したような木南とは対照的に、夏南美たちの表情は明るい。
「アレの正体は何?」くぐもった声が夏南美のすぐ横から聞こえる。
 寝ていたと思っていた笙子が、机にうつぶせになったまま聞いてきた。
「あんた寝てたんじゃないの?」
「ううん。眠いけどまだ起きてる」
 木南は笙子の態度に不快を示すことのなく───単に慣れただけかもしれないけど───淡々と話しだした。
「結論から言おう。ヤツの正体はわからない」
「やっぱり」
「だが、関係するかもしれない資料があるので諸君らに伝えておこう。江戸時代に書かれた『続猫間漫筆』という本だ。この地が猫間村と呼ばれていた頃の伝承や日々の事柄が書かれたものだが、その中に『猫間川怪異乃事』との不思議な事象が記載されている」
「猫間川? そんな名前の川、ありましたっけ」
「諸君らが日々歩いている通学路があるだろう、あれが猫間川の名残だ。昭和に入ってから河道付け替え工事によって埋め立てられてしまったが」
「川なんてどうでもいいですから、話を続けましょうよ。で、何があったんです?」
 このテの話が好きな拓也が子供みたいに催促する。
「わかった話そう。著者の伝聞として書かれているのだが。
 昔、猫間川には『水鏡』と呼ばれる妖怪が住みついていたそうだ。水鏡はその名の通り相手の姿を写し取り、相手と同じ姿になる妖怪らしい。いつもは水の中にひそみ、人がそ通りかかると川から現われ襲った」
「同じじゃないですか。じゃあ、ヤツは水鏡なんですか」
「落ち着きたまえ。この話には続きがあるのだ」木南は興奮する拓也を手で制した。「水鏡に苦しんだ村人は、名僧と言われた黙何(もくか)和尚に相談した。村人の苦渋を哀れんだ黙何和尚は水鏡を退治すべく猫間村に赴き、激しい戦いの末に水鏡を退治したと書かれている」
「ふん なんだよ、退治されちまったのか。水鏡ってヤツも根性ねぇな」拓也は不満そうに鼻を鳴らす。
「いいじゃない退治されたなら。それにこれは昔話なんだよ。昔話というのは勧善懲悪と相場は決まっているんだから」
 テーブルに頬づえをついていた夏南美は拓也をチラッと見た。
 冒険活劇のような話しでも期待していたのだろう、拓也は思いっきりつまらないといった顔をしている。
「ふぁぁ、話は終わり?」あくび混じりに笙子が木南に尋ねる。
「もう少しつきあってもらおう。
 退治された水鏡は薄衣を残して消えたとある。黙何和尚は塚を造り、その薄衣を埋め水鏡の祟りを鎮めた。それ以来、猫間川に怪異が現われることはなくなったそうだ」
「その塚はどこにあるんですか」
「いまはない。明治時代にはすでに塚の痕跡しか残っていなかったそうだ。調べてみると屋内プールがある場所に塚痕はあったようだ」
「だったらヤツは水鏡なんだ。プール建設で塚が壊されて蘇ってきたんじゃぁないかな。いままで自分を封印した人間に復讐するためにさ」
「非科学的な発言は慎みたまえ」木南は夏南美の言葉にあからさまな不快感を示す。「これだから女人は短絡思考だというのだ。私が話したことは単なる伝承だ。荒唐無稽な言い伝えにすぎない。我々が遭遇した新生物と水鏡が同じ物とは限らない」
「でも、ヤツはあたしたちと同じ姿に化けたし。水鏡と同じですよ。先輩のいう未知の生物だとしたら、こんな町中でいままで発見されない方がおかしいですよ」
「同じ姿になったのは、擬態や光学的な錯覚というところだろう。私が思うにヤツはサンゴのように小生物が集まった一種の群体ではないかと考えている。小さな生き物のためいままで誰にも発見されなかっただけで、本来はどこにでもいる生き物かもしれない。
 ただ今回はなにがしかの偶然か、外的要因によって群体をつくったのかもしれない。が、いまとなってはそれを確認する手段はない」
 木南の言葉に同意する気にはなれないが、どう反論すればいいかわからず夏南美は口を閉ざしていた。
「さておき、水泳部からの依頼は一応完遂された。諸君ご苦労だった。以上で本日の緊急部会を終わる」
 木南は部室を出て行った。
「ま、いいか」釈然とはしないが、夏南美も立ち上がった。「あたしはもう帰るけど、拓也はどうするの?」
「俺はもう少しここでゲームやってからにする」パソコンのスイッチを入れ、いそいそと準備を始める。
「笙子、あんたは?」
「ふしゅー」静かな寝息が返事代わりだった。
「それじゃお先に」

 登校する生徒たちの列から離れ、夏南美は足どりも軽く民俗学研究部の部室に向かった。
 昨日は借金の恐怖の払拭され、ゆっくり眠れたから体調は万全。
 朝出かけに拓也の家に寄ったが誰もいなかった。
 出勤が早い拓也の母親や、朝練がある妹の尚子がいないのはわかる。でも寝坊の拓也がいないとなると答えはただひとつ。
「拓也、いるんでしょ」
 部室のドアを開けたとたん、熱で膨張した空気に包まれる。
「わっぷ なによこの熱気は」
 まだ五月。なのにこの部屋の中は七月並みの暑さだ。踏み入れようとした足を止める。
「よう……夏南美。何か用か?」
 テーブルに突っ伏していた拓也がノロノロと顔を上げる。髪の毛はボサボサ、目の下にクマが浮かんで真っ黒だ。
「『よう夏南美』じゃないわよ。もう朝よ、早く顔を洗って準備しないと遅刻するわよ。
 それにしても、また部室に泊まったのね。いったい何していたのよ?」
「見りゃわかるだろう」
 テーブルの上には段ボールで作った台と、画用紙や薄いプラ板の駒が散らばっている。
「わかんないわよ」
「相変わらず鈍いなお前は、紙相撲だよ。紙相撲で最強ロボット決定戦をしてたんだ」
 はぁ? よく見ると駒のひとつひとつが、アニメや漫画やゲームに出てきた、ロボットやパワードスーツの形をしている。
「そんなことで徹夜したの、信じられない」
「うるせぇな、これがけっこう燃えるんだよ。それにしてもロボット三等兵は強かったなぁ」拓也は土俵上で誇らしげに立っている、ロボット三等兵を恨めしげににらんだ。
「こんなくだらないことに夢中になって、あんた本当にバカよ」
「バカとはなんだ、バカとは」
「よしたまえ北城君。しょせん女人には漢のロマンはわからないのだ。理解させようとするだけ時間の無駄だ」
 テーブルの下から木南が顔を出す。「それにしても昨夜は激しかったよ北城君、私の腰はもうガタガタだ。それゆえ私は睡眠を継続する。おやすみ諸君」
 怪しげな発言を残してテーブルの下に消える。
「おはよう夏南美ちゃん……」入れ替わりに笙子がテーブルの下から出てきた。
「笙子、あんたまで部室に泊まったの。ご両親が知ったら泣くわよ」
「大丈夫。うちの親なら、これくらいじゃ泣かないよ」いつにもまして覇気のない声だ。寝ぼけているのだろう。
「もういいわ。ところで笙子はどうする、授業に出る?」
「まだ眠い……ふしゅー」言い終わる前に寝てしまった。
「あーズルイ。俺も寝ていたい」
 まだ眠たそうな顔の拓也が、歯ブラシをくわえたまま文句を言う。
「先輩も笙子も成績がいいから少しくらいさぼってもいいけど、拓也は授業に出なきゃ、また追試だよ。さあ、行こう」
 夏南美は拓也を引きずるようにして部室を出てゆく。

 始業の鐘が鳴る前に教室に着くことができた。
「オハヨー!」
 返事がない。いつもならうるさいほど返事が返ってくるのに。
 みんなは教室の中央を───夏南美の机があるところだ───取り囲むようにしていて、誰も夏南美が登校したことを気にもとめてもいない。
 ───あいつ、だれだよ。転校生か?
 ───かわいいな。
 ───なによ、足も閉じずにイスに座っちゃって。
 ───もう少しでパンツが見える……。
「ね、ね、結花。みんなどうしたの?」
 夏南美はそばに立っていたクラスメイトに声をかけた。
「あ、夏南美。おはよう」
「おはよう……じゃなくって。何があったの?」
「変な人があんたの席に」
「あたしの席に変な人? ちょっと通して」
 夏南美と拓也は遠巻きにするクラスメイトをかき分けて中央に出た。
「よぉ、遅かったな」
 美少女がにこやかに笑っていた。
「純鈎……君?」
「亮、おまえ辞めたんじゃないのか?」
「ああ、辞めたぜ」
 純鈎はニヤニヤしながら、夏南美と拓也の反応を楽しんでいる。
「じゃあなんでいるんだよ。あんなに嫌がっていた女子の制服まで着て」
「そうよ! どういうことよ。
 それより、いいかげんに足を閉じなさいよ。パンツが見えちゃてもしらないわよ」
 純鈎は男子のように足を広げてイスに座っている。
「俺はスカートってヤツが苦手でよ。だけど椎名にだったら見せてもいいぜ」悪戯っぽい顔をしてスカートのスソをつまんでみせる。
「見たくないわよ」
 ちっ! クラスメイトたちの舌打ちが聞こえたが、当然無視!
「俺は? 俺には見せてくれないのかよ?」拓也の目は血走りリビドーに満ち満ちている。
「バーカ。男物のパンツを見て楽しいのかよ」
「げっ! またトランクスか。もっと色気のあるのを穿けよ」
「嫌なこった。拓也がフリルのついたパンツを穿いたら俺も考えてやるよ。ははは」
 純鈎の表情はとても明るい。
(純鈎君、楽しそう。あっ! どうして純鈎君がこの教室に?)
「バカなこと言っていないで、ちゃんと答えてよ純鈎君。さっき辞めたって言ったわよね。学校を辞めた人間がどうして教室にいるのよ、それも女子の制服まで着て」
「勘違いするな椎名、俺が辞めたのは六組の生徒でいることだ。学校は辞めちゃいねぇよ」
 へっ?
「だから、俺は六組を辞めて、この二組に転校してきたんだよ」
「そんなことできるの?」
「普通はできないんじゃないかな。だけど俺の家は金持ちだからな、少しばかり寄付金を出したら認めてくれたぜ。それに六組の生徒として問題も起こしていたしな、学校側も渡りに船だったんじゃないか。
 ただし転校の条件があったんだ、それが『女子生徒用の制服を着ること』。お陰でこのザマだ、オカマにでもなった気分だよ」
(似合っているけどなぁ)
 どうやらクラスメイトたちも夏南美と同意見のようだ。特に男子生徒たちが。嫌らしい視線が純鈎のフトモモにクギづけだ。
(寄付金を出してまでクラスを変えるなんて、お金持ちのやることはわからないわ。ん? お金持ち?)
「ひょっとしてプールの修理費を出してくれた篤志家って、純鈎君の家の人なの?」
「ああ、寄付金のついでにな」
 さも当たり前のように言うけれど、相当な金額だったはず。
「でも、わざわざ寄付金までしてクラスを変わる必要があるの」
 同じ学校なんだからいつでも会えるだろうに。純鈎の気持ちがわからなかった。
「だって六組のヤツらは大人しいのばっかりで面白くないんだ。このクラスになれば拓也も後閑もいるしよ。それに俺、おまえのことが気に入っちまったんだ」
 純鈎は夏南美に向ってウインクした。
 えーっ! 教室内がざわめく。
 ───気に入ったって、ひょっとして告白?
 ───あの人レズなの? きゃーっ、後閑さんとの三角関係よ。
 ───もったいねーっ! あんなにかわいいのに。
「どういう意味だよ亮?」拓也の耳にはまわりのざわめきが届いていないようだ。
「じゃあハッキリ言うぞ。椎名、おまえが好きだ、俺の彼女になってくれ!」
 げこっ! 夏南美の正拳が純鈎のみぞおちに深々と刺さっている。
「冗談もほどほどにしてよね! あたしだって怒るわよ!」
 ───もう怒っているって……。
 ───椎名のヤツ、マジギレだ。
「そこだ、その男らしさに俺は惚れたんだ」身体を『くの字』に折り曲げ苦しそうな顔だが、真剣な眼差しで夏南美を見つめている。「それから民俗学研究部にも入部したから、これから毎日一緒だぜ、よろしくな!」
「げっ!」
 キーンコーン、キーンコーン。
 夏南美の耳に始業の鐘の音は、ヨハネ黙示録に出てくる破滅のラッパの音に聞こえた。

 椎名夏南美の厄日は終わらない。

 付記

 水泳部の事件を解決してからちょうど一週間。
 もめ事もなく比較的平穏な日々が続いた。
 天気だけは平穏とは言い難い、昨日からの雨は勢いを増すばかり。部室に集まったみんなも、いまいち浮かない顔をしている。
 あっという間に民俗学研究部の雰囲気に慣れた純鈎亮は、テーブルに足を投げ出してマンガを読んでいる。スカートにもかかわらず。
 木南淳はパソコンの画面とニラメッコしているし、後閑笙子はソファーで丸くなって寝ている。
 北城拓也は部室に着くや、PS2のスイッチを入れてモニターに向かう。だけどいっこうに進んでない。かれこれ三〇分はオープニング画面が繰り返し流れている。心ここにあらずといった感じだ。
 椎名夏南美はテーブルに頬づえをつき、鉛色の空から落ち続ける雨を眺めていた。
(よく降るなぁ。まさか、もう梅雨じゃないよね。早く晴れてくれないかな、雨が続くと洗濯物が乾かなくって……そう洗濯物)
 がたっ 立ち上がった木南と目があった。
 夏南美は精いっぱい色ぽっくウインクしてやる。
 木南は満面の笑みを浮かべて(凄く怖い顔なんですけど)、パソコンの画面に戻った。

 雨はまだ降り続いている。
 部室はアンニュイとまったりした空気に覆われていた。
 夏南美は窓の外に顔を向けたまま、うつらうつらと夢の世界に突入していた。
「そろそろ時間だな」木南が腕時計を見ながら立ち上がる。「諸君、これから純鈎亮君の入部歓迎会を『猫間飯店』で行うので出かける準備をしたまえ」
「は? 純鈎君の歓迎会? 純鈎君が入部してもう一週間も経つじゃないですか。急にどうしたんです?」
「私とて純鈎君の入部をないがしろにしていたわけではない。だが、いろいろと忙しく時間がとれなかったのだ。それに諸君らとて、これから用事があるわけではあるまい。さあ急ぎたまえ」
 歓迎会をするなんて聞いていない。まさに寝耳に水。けど、木南が勝手に物事を決め、勝手に進めるのも、いつものことだ。夏南美たちは諦め半分に出かける準備を始める。

 ずらりと並べられた料理を前に、木南が歓迎のあいさつを述べていた。
「我が民俗学研究部は純鈎亮君の入部を歓迎する。ともに手を取り合って北城君の貞操を奪うべく……もとい、惰弱な輩が自分を恥じることなく大手を振っているこの社会、この学校を正していこうではないか。それこそが真の漢の生きる道である。
 それでは純鈎君の活躍と、民俗学研究部のさらなる発展を祝って乾杯!」
 木南にしては簡潔なあいさつが終わり、夏南美たちも烏龍茶のグラスを上げて乾杯した。
「ぷはっ 五粮液もいいが高粮酒もなかなかだな」一リットルは入りそうな大きなグラスを飲み干した木南は、口の脇についた滴をペロリとなめとる。
「ねぇねぇ、高粮酒って知ってる?」
 夏南美の問いかけに拓也は首を振る。純鈎も”さぁ”とばかりに肩をすくめた。
「高粮酒は大麦とかで造る中国酒。アルコール度数は六二度くらいあるよ。それよりまだ食べちゃダメかな」笙子は放っておけばテーブルに食らいつきそうなほど、恨めしげに料理を凝視している。
(アルコール度数六二度? そんなお酒を一気飲みして……いや、それよりあたしたちは高校生よ、お酒なんて飲んで。木南先輩だと全然違和感はないけど)
 木南は顔色ひとつ変えていない。飲み足りないのか、空のグラスを未練がましくながめている。
「まぁよいか」何ごとか納得するようにうなずき、「私は料理長に用事があるので席を離れるが、諸君らは会食を始めてくれたまえ」出て行った。
「ひただひぃまふ」あいさつと同時に料理を頬張る笙子。
「美味そうだな」純鈎は大皿に盛られた冷サラダを小皿に取る。
 温・冷サラダ、スープ、焼き・水餃子、エビシューマイ、エビチリ、ムール貝入り焼きソバや名前の知らない料理が所狭しと並んでいる。
 海鮮料理が中心だけど、どれもこれも美味しそうだ。
 笙子はもの凄い勢いで食べ続けているし、純鈎も主賓らしく遠慮なしに次々と小皿に料理を取っている。
「美味しそうじゃない。ね、拓也?」
「あ、うん。凄い料理だな」
 夏南美の言葉に、拓也は感情なく答える。
 いつもなら我先に料理に飛びついてくるはずの拓也だが、まるで自分が今どこにいるかさえ気づいていない様子だ。
「どうしたの拓也? 全然料理に手をつけていないけど。具合でも悪いの?」
「いや。身体はどこも悪くない……夏南美、聞きたいことがあるんだけど」浮かない顔をした拓也が、そぐわないほど小声で話しかけてきた。
「何? 何なの?」
「おととい、俺ん家のまわりで変なヤツ見なかったか?」
「変なヤツ? 変なヤツなんて見てないわよ。それより顔色が悪いわよ。何かあったの?」
 拓也はうつむいてしまった。
 やおらポケットから手を出し、意を決するように固く握りしめる。
「おととい、干していたパンツが二枚盗まれた」
「パンツって、尚子ちゃんの?」
 拓也は力無く首を振る。
「じゃあ、オバさんの?」
 ……。
「まさか、拓也のが?」
 コクッ。
「妹のも、お袋のも、盗まれないで、俺のトランクスだけ盗まれたんだ。
 よりによって、お気に入りのパワードスーツ柄のやつとシベリアンハスキー柄の二枚だぜ。もう気持ち悪いやら、腹が立つやらでなんともいえないんだ」
 拓也の気持ちはよくわかった。たぶん女の子なら一度や二度は下着を盗まれた経験はあるはず。そしてその気持ちはいまの拓也と同じものだ。
「おとといって小雨がぱらついた日でしょ。拓也の家、誰もいなかったから一回取り込んだのあたしだよ」
「そのときは俺のパンツはあったか?」
「詳しく見たわけじゃないけど、たぶんあったと思うよ。すぐに雨が止んだから、洗濯物はベランダに戻しておいたけどね」
「その後に盗んだんだな。それにしてもなんで俺のパンツを盗むんだよ。普通は女物だろう」
「きっと変態が盗んだんだよ。拓也のことが好きで好きでたまらない人が盗んで、いまごろは頭にかぶって悦に浸っているかも、気持ち悪いね」
「やめてくれ想像しちまうじゃねぇか。しかっし、男のパンツを欲しがるヤツがいるなんて信じられねぇよ」
 拓也は気味悪そうに顔をしかめ身震いする。
「過ぎ去ったことを気にしちゃダメだよ。そんなときは食べて忘れるのが一番だよ」
 夏南美は拓也の小皿に取り分けてやった。
「そうか……そうだな。食うか」拓也はノロノロとハシを動かす。
「男物のパンツねぇ……」目の前のエビチリをハシでつつきながら、夏南美の視線は足下に置いたカバンをとらえ続けていた。「あっ!」
「なんだと、急に変な声だしやがって」
「あたし、友達に渡す物があったんだ。忘れていたよ」
 夏南美はカバンを手に立ち上がった。
「ドンくせぇな椎名。べつに今日じゃなくてもいいだろう」純鈎がクラゲとキュウリの和え物をつまみながら言う。
「ううん。どうしても今日中に渡さなきゃいけないの。ちょっと中座するね」
「早く帰ってこないと全部食っちまうぞ」
 純鈎の声を後に、夏南美はテーブルを離れた。
 客席を抜け厨房に向う。

 厨房では、調理台を挟み木南が調理人と話しこんでいる最中だった。
 ───これを使ったスープなんかどうでしょうかね。
 ───スープもいいけど、煮物に使った方がおもしろいかも。
 ───ほぅ、さすが料理長。素材の特質を理解されている。
 ───いや、いや。木南君が珍しい食材を持ってきてくれたからだよ。
(料理の相談? ま、いいわ。約束の物、早く渡しちゃお)
 夏南美はカバンから紙袋を取り出した。
「木南先輩」
「し、椎名君ではないか。ど、どうしたのだ? 皆と食べていたのではないかね」
 珍しく木南が狼狽している。
「え、ほら……あの時の約束」夏南美は紙袋を手の上で踊らせる。
「約束? あ、あの時の約定か。ならばそこに置いてくれればよい。椎名君は早く皆のところに戻りたまえ」
 木南の態度はあまりにも異様だった。
 木南の理不尽な行動、理解を超越した言動に慣れているつもりの夏南美にさえ、驚きを与える不思議な動き───巨躯を硬直させカニのように横歩きしている。
「どうしたんです木南先輩。凄い汗ですよ。大丈夫ですか?」
 夏南美は紙袋を持ったまま調理台に近づく。
「寄るな!」
 木南が身体で調理台を隠そうとするかのように後ずさる。が、狭い厨房では大柄の身体はジャマ以外何ものでもない。ズンドウに足を取られ、派手な破壊音とともに倒れ、「のぉ」奇妙な声をあげ大人しくなる。
「先輩? 木南先輩?」
 返事はない。どうやら調理台の角に後頭部を打ちつけたようだ。先ほどのマネの続きではあるまいが、カニのように口から泡をふいている。
「木南君、大丈夫? なんか凄い音がしたけど」
「気にしないでください。木南先輩は突発的な睡魔に襲われて就寝中です」
「そう、ならいいけど」
 鷹揚な性格なのか、素直な人なのか、料理長は夏南美の言葉を信じているようだ。
 遮るものがいなくなって調理台の上が見える。そこには───奇妙な物体。ほぼ透明なビニールのような……。
(ちょっと待てや!)
「料理長、それなんですか?」
「新種のクラゲって話だけど。歯ごたえがあるうえに、わずかな量でも良いダシもでる。最高の食材ですね」
 料理長は───白衣を着ていなければエリートサラリーマンにしか見えない───ビニール状の物体を広げた。どこかで見たような……いや、あの日プールで見たヤツの脱けガラに似ているような。
「そ、それどこから仕入れたんですか。まさか、木南先輩からじゃないですよね。そうですよね。ね。ね」夏南美はわずかな希望にすがる思いだった。
「木南君が持ってきてくれたんだものだけど」
 いともあっさりと夏南美の希望は打ち砕かれた。
「美味しかったでしょう。さっき出した料理にも使ってあるんですよ」
「いっ! 料理に使ったんですか」
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。料理人というものは新しい食材を手に入れると試してみたくなるんです。それに」料理長は横の窓を指さした。
 客席に着いているときには気づかなかったが、どうやら店内の壁はマジックミラーになっていたようである。ここからは笙子たちが一心不乱に食べ続けているのが見える。
「みんな美味しそうに食べているじゃないですか。君は食べてくれなかったの?」
「幸いに……はぁ」
(食べなくてよかったぁ)心の底から安堵の息がもれた。
「どうして食べてくれなかったんです。自信作だったんですけど」
 自慢の料理に手をつけない人間がいたことに料理人のプライドが傷つけられたか、非難がましい口調になる。
「冗談じゃない! そんなことより、なんでこれを料理に入れたんです」
「安全性と味は保証するから、ゼヒにとも使ってくれって言うからだよ。なんか文句ある」ややケンカごしの物言い。完全に料理長はヘソを曲げていた。
 いつもの夏南美ならば初対面の人を怒らすことはないし、たとえ怒らせたとしてもすぐにフォローを入れていたはず。けれど、
「先輩! 寝てるんじゃないわよ!!」
 木南にまたがり、胸ぐらをつかみ上げているいまは、料理長の苛立ちを気遣う余裕などなかった。
「う、うんん……おっ、椎名君ではないか、私の上に乗るなどと失礼な女人だな。そんな短いスカートで開脚すると下着が見えるぞ」
「スカートの下にパンツを穿いているのは当たり前です。
 それより、よく聞いてくださいよ先輩。あたしの質問に真面目に答えなければ、あたしのパンツがこの世で見る最後の光景になりますよ」
 夏南美は口の端だけをゆがめて笑う。目にはいっさいの感情がない。そのことが言葉に偽りのないことを雄弁に物語っている。
「先輩が持ちこんだあの物体は何です?」
「あれは椎名君が気にするほどの物ではない」
「この場で死にますか」冷ややかな声で静かに告げた。
 いつの間にか夏南美の手には牛刀が握られている。研ぎ澄まされた刃が木南の頸部に当てられる。
「あ、あれは……プールで戦ったヤツの脱けガラだ」顔をそらし、苦しげに答える木南。
「ほぉ、先輩はかわいい後輩にそんなゲテ物を食べさそうとしたんですか」
「日ごろ部活で疲れている諸君たちに、滋養ある物を食べさせてやろうという親心からだ。決して料理長に高額で売りつけるため。ましてや諸君らを使って、味覚の試験をするつもりなど全然ないので、気にせず豪華な料理を食してくれたまえ」
「あたしたちをモルモット代わりにしたんですか。あたしたちは幸せだなぁ、優しい先輩を持って」
 夏南美はにっこり微笑み、牛刀を首筋から離した。
「わかってくれたか。だったら椎名君も食卓に戻って食べたらどうだね」
「そうですね……な、ワケあるかい!」
 牛刀を振り下ろした。
 はらり。
 断ち切られた木南の前髪が舞い落ちる。刃先は鼻先五ミリのところで止まった。
「得体の知れないヤツを食べさせるなんて、何考えているんです! もし毒があったらどうするんです。冗談やシャレじゃ済みませんよ」
 刃先が木南の鼻をなでる。
「そ、その点なら安心したまえ。純鈎君入部の歓迎会が今日まで延びたのはダテではない。この一週間かけてイヌやネコに食べさせ、毒の有無など様子を観察していたのだ」
「イヌやネコで観察?」
「そうとも。動物実験では問題はなかった。人間もイヌも同じほ乳類。きっと大丈夫だとも……たぶん」
「『たぶん』じゃありません。後輩をなんだと思っているんです!」
 ボグッ!
「あたしたちは先輩の奴隷でもオモチャでもないんですよ」
 ドスッ!
「なのに毎度毎度、騒ぎを起こして」
 バギッ!
「先輩一人で騒ぐならまだしも、いつもあたしたちまで巻きこんで」
 ゲシッ!
「先輩が変態なのだけでも肩身が狭いのに、問題まで起こして」
 ガキッ!
「あたしたちがどんな目で見られているか知ってるんですか!」
 ドゲシッ!
「言うことがあるんなら言ってごらんなさいよ!」
 ゲコッ!
 期待した返事は返ってこなかった。
「先輩……げっ!」
 口いっぱいに魚や野菜を詰めこまれた木南が白目をむいていた。
(やばっ! 無意識にそこらにあった物で殴りつけちゃった)
 夏南美はまたがっていた木南の身体から離れ、指先で頬をツンツンとつついた。
 反応はない。
「先輩。寝ている場合じゃないですよ……聞いてます? 先輩?」
 ダメだ。本当に意識がない。どうやら冷凍マグロで側頭部をどついたことと、口に突っこまれた青首ダイコンと、みぞおちにめりこんだ牛刀の柄が原因のようだ。
 夏南美はもう一度だけ、そーっと足でつついてみた。
 ピクリともしない。
「あ、あのぉ、料理長さん。木南先輩は突発性睡眠症でまた爆睡してますので、おジャマでしょうが少しの間寝かせておいてやってください」思いっきり作り笑いを浮かべた夏南美は深々とお辞儀した。お辞儀しながらも足では、木南の身体を料理長の目に触れぬよう調理台の裏へと押しやる。
「どうせ今日は貸し切りだから構わないですよ」料理長はズンドウに向ったまま返事を返してきた。
 曲げたヘソも直ったようだ。というより、新料理開発に夢中になって、他のことはどうでもいいようだ。
「そ、それじゃ、あたしは用事があるので失礼します」
「そう、この料理の自信があるんだけどなぁ。味見ぐらいしていかない?」
 料理長は刻んだヤツの脱けガラをズンドウに入れる。
「す、済みません。時間がないので……あっそうだ、向こうのみんなは新しい料理を待っていますから早く出してあげてください」
 夏南美はマジックミラーの向こうで、幸せな顔をして食事を続ける三人を見やる。
(ゴメンね。あたしはモルモットになりたくないの)
 いちおう心の中で詫びを告げ、夏南美は通用口のノブに手をかけた。
 カサッ。
 紙袋が小さな音を立てる。
 木南に渡すはずだった紙袋。カバンと一緒に持ってきてしまった。
 夏南美は紙袋を目の高さまで持ち上げる。
(しょうがないわね)ノブから手を離し調理台へと戻り、だらしなく倒れ伏す木南をしばらくながめていた。
 口に刺さったダイコンがわずかに上下している。
 夏南美は木南の頭にそうっと紙袋を置いた。
(たとえ相手が変態でも約束は約束)
 店内から歓声が聞こえてきた。
 ───うぉ、美味そう。
 ───これと同じ物をもうひとつ追加。
 ───早く食おうぜ。
 料理長が持っていった新しい料理に喜びの声があがる。拓也も元気になったようだ。
 夏南美は振り返ることなく通用口から出て行った。
 厨房に一陣の風が通り抜ける。
 風は木南の頭に載った紙袋を倒して客席へと流れていった。
 ぱふさ。
 紙袋の口が開き、布製品が木南の顔にかかる。その布にはパワードスーツとシベリアンハスキーが描かれている。
 静かな厨房。動くものはない。
 気づいた者は誰もいないが、木南の顔はとっても幸せそうに見えた。


2005-02-24 02:27:10公開 / 作者:甘木
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 初めて書き上げた長編小説です。他人の意見が聞きたくて投稿しました。
 これからも読んだ人が『くだらないけど、暇つぶしになった』というような小説を書きたいです。
この作品に対する感想 - 昇順
登場人物達のキャラはしっかり立っていて良かったと思います。無理のある描写もわざとらしいセリフも全編に渡って同じトーンで続くので、漫画的な小説だと割り切ってしっかり楽しく読めました。プールでのアクション(?)シーンでやや想像しにくかったことは残念ですが、勢いのある文面でさほど気になりませんでした。ただ、パンツやら貧乳やらの掛け合いが多すぎて飽きました。もう少し減らしても良いのではないでしょうか。これだけの長さならもっともっと伏線を張ってもいい気がします。途中でだれそうになるので、読み手を引きつける謎(工夫?)みたいのがあって良いと思いました。次回作にも期待しております。
2005-02-24 14:24:09【☆☆☆☆☆】メイルマン
メイルマンさま、長い文章を読んでいただいてありがとうございます。指摘は非常に感謝しています。いままで長編を書いたことがなく(本当は短編以外で初めて書ききったのがこの作品です)、読み手を飽きさせない伏線の作り方が分かっていませんでした。ですから指摘は一つ一つ頷けました。漫画的な小説の評は私が最も欲しかったものです。私が書きたいのは肩の凝らないマンガのような小説なのです。これを励みに次の作品を書いてみます(でも遅筆なので……次はいつになるんだろう)。
2005-02-25 21:23:12【☆☆☆☆☆】甘木
うーん、漫画的というと安直な感じですが、人間が魅力的に書かれていていい感じだなぁ、などと思いました。僕的には木南が気に入ってしまいました(汗 ……実際のところ、漫画からも小説家として学ぶ物は沢山あるんですよね。どうしても活字にこだわってしまいがちですけど。でも正直なところ、失礼なのですが気の短い読者だとこういう表現には飽きてしまうんですよね。キャラクターも魅力的で、それぞれが違った個性を持っているのですが、同じ表現方法というのはどうしても飽きを招いてしまう……難しいところです。きついかもしれませんが自分の力量を無視して言うと、こういった作品で長編を書くのは、それも、いい作品を書くのはものすごく難しい事かもしれません。漫画チックな作品なら漫画を読んだ方がいいし、SF作品なら映画を見たほうがいいし……。失礼ですよね。ごめんなさい。それでも僕は完全に今までにないような漫画チックな作品を、甘木さんに書いて欲しいです。……ちなみに、僕はなんだかんだいいましたけどめちゃめちゃ笑いながら読みました。思考の引き出しが沢山ある人はいいなぁ、とか思いながら。今後の作品も見させていただこうと思いますので、今後もがんばってください。それでは。
2005-03-06 09:54:08【★★★★☆】恋羽
恋羽さま。読んでいただいてありがとうございます。ご指摘の一つ一つに身に覚えがあるものですから「うん、うん」と頷いてしまいました。書いている自分自身が中だるみを感じていましたし、安直な表現の繰り返しを感じていました……反省。私の力量では中編ぐらいがいいのは今回身にしみて分かりました。と、言うか、ギャグなら短編から中編ぐらいじゃないと読者も書き手の私も辛い……これからも色々なものを書きたいと思っていますので宜しくご指導下さい。
2005-03-06 20:35:16【☆☆☆☆☆】甘木
計:4点
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