『シグナル』作者:イサイ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角5576文字
容量11152 bytes
原稿用紙約13.94枚
 恐ろしく嫌な夢を見た。見たといっても、詳しい内容は全く覚えていない。ふと意識が覚醒したと同時に、夢は走るように逃げ出し、どこかに身を隠してしまったのだ。それでも、そこにいた名残り、存在感は残るもので、ただ漠然とした不快感だけが、新井真治の脳裏に残っていた。それとタイミング同じくして、激しい頭痛が襲ってきた。割れるように痛い。まるで、自分の脳みそがのた打ち回っているかのように、暴れている気がする。その為、しばらく真治は目を開けることができなかった。
「目が覚めたかね」
 激しい痛みの中、聞きなれない声ははっきりと真治の耳へと入ってきた。
「誰だ」声に出して聞き返したかったが、どうにも痛みに負けて、声は喉の奥でゴロゴロと鳴るだけだ。
「無理して話そうとしなくてもいい。気分の方はどうだい。良かったら右手を握ってくれ。そうでなければ、左手を」
 気分は悪かった。頭痛と共に仲良く嘔吐感が襲ってきている。真治は、左手で拳をつくろうとした。しかし、思うように左手は動いてはくれなかった。確かに、脳では「左手を握れ」とシグナルを発しているはずなのに、左手はまるっきり無視しているかのように動いている感覚がない。
「動け、動け」さらに左手にシグナルを発した。すると、あきらめたかのように小指、人差し指と徐々に動きはじめ、ゆっくりと丸い拳が出来上がった。たかだか左手を握ることに数分かかった。
「体を操るには、少しリハビリが必要みたいだな。それで、症状はどんな感じだ」
「…頭が、痛い」
 まるで七面鳥が首を絞められているような、おかしな声が口から漏れた。これは俺の声か。ふと、真治は思った。ずっと長い間眠っていて、久しく声を発していなかった時のそれと似てはいたが、違和感がする。
「頭痛か。少し、調べてみよう」
 そっと、冷たい手が瞼に触れた。その手は優しく閉じられていた真治の瞼を開けていく。眩しい光が降り注ぎ、思わず眉を顰めた。光は上下左右に揺れ、ほどなく目の前から姿を消した。急に目に光が注がれてきたせいか、しばらく真治の視力はぼんやりとしていた。靄がかかっているかのように、全てが軽く白く濁って見えた。冷たい手は、真治の左手で脈をとっている。ぼんやりと自分の右手の肘間接辺りから、細いチューブのようなものが伸びているのが分かった。「ああ、これは点滴だ」「点滴されているということは、ここは病院なのか」傷みに襲われている脳は、ゆっくりと現状を把握しようとしている。
「特に以上はないようだ。術後の傷跡が痛んでいるのかもしれない」
 真治は、視線を声の主に移した。ひょろりと痩せた男だ。青ざめたような色合いの良くない顔にどこか視点の定まらない目がぎょろりと真治を見下ろしている。
「あんたは誰だ」
 かすれてはいるが、先ほどより幾分ましな声が出る。何かが違うと思った。
「ここの病院の医師だ。君の主治医でもある」
なるほど。男は細い体に白衣を纏っている。
「起き上がる事はできるかな。傷口の消毒をしたい」
 言われたとおりに真治は、上半身を起こそうとした。やはり、脳からのシグナルが上手く伝わらないのか、体は鉛のように重たい。苦闘していると、医師は真治の背中に手を入れ手助けをしてくれた。視線が徐々に高くなるにつれて、頭痛が増す。ようやく向かいの壁と自分が平行になるくらいまで起き上がると、医師は背中に枕らしきものをあてがってくれた。
「それじゃあ、包帯をとるから動かないでくれ」
 医師は、真治の頭に触れた。「俺は、頭を怪我していたのか。どうりで頭痛がするはずだ」しゅるりと目の前に包帯が垂れ下がっていく。「でも、何故俺は頭を怪我している?」痛みの中でも、脳は正常に働く。自分の置かれているこの状況を真治は理解しようとした。しかし、何も思い出せなかった。自分はいつ病院に運ばれてきたのか。何故、病院に運ばれる事になったのか。
「俺は、どうして病院にいるんだ」
 何だ。この違和感は。
「覚えていないのかい。君は事故にあった。それで救急車で運ばれて来た。」
 手際良くそばの脱脂綿を取りながら、医師は答える。
「覚えていない」
 何だ。何かが違う。
「事故による記憶障害が起きているのかもしれない。まだ、頭痛が続くようだったら、これを飲むといい。鎮静剤だ」
 医師は、白いタブレッドを一錠真治に手渡した。すぐにでも飲みたかった。痛みは引きそうにない。思うようにシグナルを受け取ってはくれない右手で、タブレッドを口へと運んだ。医師は、すっと水の入ったコップを差し出してくれる。水を飲むのも一苦労だった。注がれた水は、だらしなく開いた口の端からだらりと零れ落ちる。医師は何も言わずに濡れた真治の口と掛け布団を拭いてくれた。
「まるで、借り物の体だ」と思った。脳からのシグナルを体は受け取ってくれない。渋々と仕方なくといった程度にしか。
「もう少し寝たほうがいい。時期薬も効いてくる」
 医師は真治を横にならせようとしたが、真治はそれを目で制した。
「それより、話が聞きたい」
 頭痛はひどかったが、それよりも自分の置かれている状況を知るほうが真治には必要だった。何か落ち着かない。何かが違う気がする。その原因を知りたかった。医師は、真治から離れると、そばの小さな椅子に腰掛けた。鋭い眼光が真治を指す。それでも、本当に真治とは目を合わせるのを避けているようだった。
「何を聞きたい。さすがに君の人生全ては答えられないけど」
 少しばかり、見えるか見えないかの微笑を口元に浮かべながら、医師は尋ねた。
「俺は事故にあったのか」
 違和感。
「ああ。さっき言った通りだ」
「どんな事故だ」
 違う。
「警察じゃないから詳しい事は分からないな。ただ、君は車に跳ねられたらしく、この病院に運ばれて来た時は危険な状態だったよ」
「車に跳ねられた」そんな記憶は全く残っていなかった。事故にあった人間は、事故直前の状況を忘れてしまうという話は聞いたことがある。確か、無意識のうちに自己防衛が働いて、恐ろしい瞬間を脳が忘れるようになっていると。
「私はすぐ君の緊急手術をした。今までで一番難しい手術だったよ。正直、あのまま君は意識が戻らないのではないかと思った」
「そんなに重症だったのか」
 何だ。この感覚は。
 一瞬、医師の目に翳りが見えた気がした。
「ああ、とてつもなく難しい手術だった」
「俺は運が良かったのか」難しいといわれる手術を受けながらも、真治はこうして今生きている。これが不幸中の幸いというものだろうか。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。私は、田中だ」
「新井真治です」
 違う。何が?
「新井くんか。実は君の名前は運ばれて来た時には分からなかった。免許証も何も、証明となるものを君は持っていなかったから」
 確か、免許証は持っていたはずだ。高校を卒業してすぐに取った覚えが真治にはあった。そして、免許証は常に財布に入れ、持ち歩いていた。ということは、真治は財布を持たない状況下で事故にあったということか。
「ご迷惑おかけしました」
 違う。違う。違う。これは、これは…
 俺の声じゃない
 真治は愕然とした。「声が違う」それは、自分だからこそ分かるものだ。 風邪をこじらせて喉が腫れたときも、鼻がつまって声が変になった時も、真治はこんな声を聞いた事はない。これは誰の声だ!?
「声が。声が違う…」
 聞慣れないその声は震えていた。だが、明らかにそれは自分の発した声だ。自分の脳が自分の声帯にシグナルを発し、声帯が出した声だ。
これは俺の声じゃない。
その事実に戸惑う真治を見ながら、医師はそっと椅子から立ち上がった。そして壁に向かって歩くと、机の上に置かれている白い布に包まれた長方形のものを手に取り、真治に歩み寄ってきた。
「新井くん。私はまだ、君に話していないことがある。今からここにあるものを君に見せるが、どうか気を確かに持って見て欲しい」
 医師の声は感情がなかった。真治には言っている意味は分からない。ただ、「あ、あ」と口から漏れる聞きなれない声に呆然としていた。これは事故の後遺症なのか? この声は元に戻るのか? 疑問が頭を駆け抜けていく。そして、医師が自分にまだ話していない事とは何だ? 整理のつかない脳のままで、無意識のうちに真治はぎこちなく首を縦に振っていた。
 医師は、長方形の物体に被せてある白い布を静かにとった。鈍い光が布の隙間から覗くと、そこには見慣れない人物がいた。ほっそりとした体に病院の患者が着るような、薄い青色の服を身に纏っている。ベットに腰掛け、その男は真治をじっと見つめている。
「誰だ」
 真治が呟くと、その男も同じように口を動かす。医師の手にした長方形の中で、男は尚も怪訝そうに真治を見つめる。頭には、痛々しく包帯が巻かれ、右腕には点滴のチューブが伸びていた。
「動け、動け」と右手にシグナルを送り、真治の右手はゆっくりと男に向かって指し伸ばされる。同時に男の左腕が真治へと向かって指し伸ばされた。
「あ…ああ…」
 ようやく真治は気づいた。気づきたくはなかったが、嫌でも現実は目の前に広がっている。医師の持っている長方形の鏡の中には、眉をしかめ助けを求めるように真治を見ている真治がいた。
「これは俺なのか…」
真治の代わりに、医師は答えた。
「新井くん。いや、林義弘くんと呼んだほうがいいのかな。今君が見ている体は林義弘という人物の体だ。そして、その体を見ているのが新井くん、君だ」
 真治の視線は、鏡の中の真治に注がれているだけだった。否、真治と呼べるものなのか。その姿は真治の知っている自分の姿ではなかった。しかし、鏡の中の体は正確に真治の脳のシグナルに反応している。
「難しい手術だった。君の脳と林義弘の体を繋げるのは」
医師の声は、ただ説明をする機械音でしかなかった。
「どうして、こんな事になっているのだ」神事は叫び出したかった。しかし、鏡の中の真治であり、真治ではない男は、パクパクと口を動かしているだけだった。
 医師はそっと鏡に布を被せた。現実が消されていく。
 現実なのか? 悪い夢の続きじゃないのか? さっき残っていた、悪い夢の残像が悪夢を見せていただけではないのか。
 頭痛はましていた。薬は効かなかったようだ。
「薬をくれ…頭が痛い…」
 真治は弱々しい声で言った。
「あの薬は、一日一錠が限度だ。ましてや君は意識が回復したばかりだ。過度の薬の投与は、脳に負担がかかる」
「いいから、よこせよ!!」
 真治の声ではない声が叫ぶ。
「何だよ、あんたは。馬鹿げた話をしていたと思ったら、急にまともな話をしやがる。いいから、薬をくれ! 頭が割れそうなんだ!」
 これは誰の声だ。医師の言う林義弘の声なのか。
 今の真治には、どうでも良かった。ただ眠りたかった。眠れば、この悪夢も消えるだろう。これ以上の悪夢なんてありはしない。
「分かった。薬はあげよう。今の君には休息が必要だ」
 医師は、先ほどと同じ白いタブレッドを真治に渡した。それをひったくる様に医師の手から取ると、真治は口の中にほうり込んだ。その動作も、驚くほど鈍い。真治の脳のシグナルを、体は拒否しているのか。「これは、おまえの体じゃない」と。
「今の君に真実を告げるのは早すぎたみたいだ」
 独り言のように医師は呟いた。真治の耳には届いていて、「ふざけるな」と罵倒したい所だったが、意識は急速に遠のいていく。再び、世界が白く濁って見えた。頭痛がすうっと引いていく。
「ああ、これはやっぱり悪夢だったんだ」そう考えると、真治の意識はふと遮断された。

 静かな病室の中に、小さくノックの音が響く。
「先生」
「どうぞ、入りたまえ」
 了承の声を聞くと、若い看護婦が懐中電灯を手に病室の中へと入ってきた。
「巡回中かね」
「はい。人の声が聞こえましたので、様子を伺いに来たのですが」
 若い看護婦はちらりと、ベッドの患者に目を向ける。
「先月運ばれてきた患者さん、意識が戻られたのですか」
「いや」
 医師は、首を横に振る。
「私も気になって覗いてみただけだ」
「そうですか」
 看護婦は、落胆のため息をこぼした。
「もう、一ヶ月ほど意識が戻っていないですからね。体力のほうが心配です。それに…」
 言いにくそうに、看護婦はちらりと医師の視線を伺う。
「それに、まだ身元も判明してないですし。誰か親戚の方でも見つかれば良いのですけれど」
「そうだね。私のほうでも色々と当たってはみているのだけれど。まあ、患者の体調のほうが優先だ。とりあえず、様子を伺っていこう」
 医師はそっと看護婦の背中を押した。
「巡回中だろう。ここは私が見ておこう」
「お願いします、田中先生」
「ああ、わかった」
 ペコリとお辞儀をして、看護婦は病室から出て行く。
 布団の水跡が見つからなくて良かった。色々と面倒な事になる。田中医師はそっとベッドに近づくと、丁寧に布団の水気をふき取り、患者に掛けなおした。患者はすやすやと眠りに落ちている。先ほどの薬が効いているらしい。ごく弱い睡眠薬だったが、起き抜けの患者にはよく効く。
「ゆっくりおやすみ」
 田中医師は、そっと真治の頭を撫でると、病室を後にした。
2004-10-14 01:31:17公開 / 作者:イサイ
■この作品の著作権はイサイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
前回の短編と同じテーマを使って、無謀にも長編に挑んでみます。どうも、このテーマが好きなようです。前回のご指導の下、心理描写や、情景をできる限り濃く書いていきたいと思います。どうぞ、よろしければ一読お願いいたします。
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。