- 『神様へのメッセージ 【前・後編】』作者:神夜 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
- 全角20149文字
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原稿用紙約50.37枚
「神様へのメッセージ」
――神様。
貴方は、この世界にいますか?
もしいるのであれば、なぜ彼女を助けてはくれなかったのですか?
何もしていない彼女を、なぜ連れて逝ってしまわれたのですか?
彼女が罪人だとでも言いたいのでしょうか? 死ぬべき人間だったと言いたいのでしょうか?
貴方はなぜ、優しい彼女を助けてはくれなかったのですか?
貴方に取ってみればただの下界の都合なのかもしれません。
ですが僕には、それは余りに残酷な仕打ちでした。心が、痛みます。
でも、それでも僕は貴方に、感謝をしたいです。
彼女に出逢わせてくれたこと。彼女と一緒に過ごせたこと。彼女と共に生きれたこと。
僕は、貴方に感謝をしたいです。でも、だからこそ、貴方に言いたいです。
なぜ、彼女を助けてはくれなかったのですか?
なぜ、彼女を連れて逝ってしまわれたのですか?
別れがあるのならなぜ、僕と彼女を出逢わせたのですか?
――神様。
貴方は、この世界にいますか?
彼女は、いま、笑っていますか――?
◎
家賃が四万八千円で六畳で風呂も便所も付いていて台所だってあって、でもどつけばすぐに壊れそうなほどボロくて、本格的に大きな台風でも来たら屋根が吹っ飛んでしまいそうな二階建ての部屋が八つあるこのアパートの名をパーラー・宇宙ヶ丘という。ちなみに『宇宙』と書いて『コスモ』と読む。カタカナで書くと『パーラー・コスモガオカ』になる。まあ、どうでもいいっちゃーどうでもいい。
そんな完璧名前負けしているこのアパートの一階の右端の部屋には『春日浩介(かすがこうすけ)』と書かれた表札がある。つまり、それが僕の名前だ。今年で二十一歳になる現役大学生で、親の仕送りと必死のバイトにより何とか食い繋いでいる哀れ悲しき苦学生だ。……嘘だ。すいません、嘘つきました。別に苦労してる訳じゃないです。のんびりほのぼのとバイトして、昆虫のように講義受けてたりします。本当の苦学生さん、ごめんなさい。
しかしまあ、金に困ってはいないが飯に困っていることは事実である。僕は料理が下手だ。どれくらい下手かというと、卵焼きを作ると黒くなる。焦げの黒じゃなくて炭の黒だ。漫画のような話だ。だが実際に行ったのであれは現実でも起こり得る出来事なのだろう。それに昔、電子レンジで生卵を加熱したこともある。まさか本当に破裂しないだろうと思っていた僕が馬鹿だった。卵は見事爆発して掃除に手間取った。白状してしまえばぶっちゃけつい五分前の話だ。今現在も電子レンジ掃除してたります。
何とも生臭い匂いが漂う部屋の中、僕は雑巾片手に電子レンジの中を丁寧に掃除して行く。どちらかと言えば自分は器用だと思う。掃除は好きだし裁縫も得意だし何より綺麗好きだ。なのに料理が出来ない。パーフェクト超人などこの世に存在する訳がないのだ。全く神様の気まぐれにもほとほと参る、なぜ自分に万能の才能を与えてくれなかったのか永久の謎だ。
ぐちぐちと文句を垂らしながら掃除をしていると、ポケットの中の携帯電話から電子音が響いた。着メロは最近流行のラブ・ソングである。そしてその着信音に設定してある人物はただ一人だけ。電話ではない、メールだ。雑巾を放り出し、僕はポケットから携帯電話を取り出して折り畳み式のそれを広げた。
ボタンを押して音を止め、カーソルを操作してメールボックスを開く。グループ事に『友達』『家族』『宇宙人』『彼女』とボックスが並んでいて、その中で先ほど受信したメールが入っているボックスを開らいた。グループ名は『彼女』である。未読のメッセージにカーソルを合わせて決定ボタン。内容が開かれる。
『こんばんは浩介くん! 今何してますかぁ? あたしは暇で暇で溶けてしまいそーです。あたしウサギなのかなぁ、寂しいと溶けそうになります。……ふっふっふ、彼女を溶かしたくないのなら今すぐ返信請うぜ』
苦笑が漏れる。まったく、進歩がない。
僕は短く返信する。
『ウサギは寂しいと溶けるんじゃなくて死ぬんだよ』
取り敢えず電子レンジの掃除はこれで終わり。何だか変な臭いしたら明日また掃除しよう。
僕は立ち上がって歩き出す。すぐ隣の畳部屋に敷いている布団の上に大の字に寝転がる。と、またメールが受信された。
『そうだっけ? じゃあ死んじゃいそーであります』
じゃあって何だじゃあって。
『そっか。火葬して骨拾ってあげるね』
『勝手に火葬するなバカ!』
『埋葬?』
『それも違うっ! 何で浩介くんあたしを殺したがるの!?』
『別に殺したがってないじゃん。ただ志保が死にそうだって言うから……』
『おめえ、彼女が死にそうって言ったら殺すだべか!?』
どこの方言だよ。
そんな下らないようで実は楽しいメールのやり取りを、それから何通も続けた。
彼女の名前は立花志保(たちばなしほ)。一応、僕と付き合ってたりする。知り合う切っ掛けになったのは、大学に入って最初に受けた講義のときに席が隣同士だったっていうなんともベタな出逢いだった。志保の第一印象は、素直に可愛いと思った。まるで日本人形のように長く綺麗な黒髪を腰まで伸ばしていて、雪国で育ったかのように肌の色は真っ白で、ぱっちりとした瞳は宝石のみたいで、顔立ちは十分過ぎるくらいに整っていた。だからこそ、僕は最初、隣に座った彼女に声をかけることができなかった。可愛く綺麗過ぎるが故に近寄り難い雰囲気があったのだ。
僕には無縁の女の子だと思って諦めたそのとき、意外にも先に声をかけて来たのは志保の方だった。ただ、そこで印象が百八十度違う方向へ傾いた。なにせ志保の第一声はこうだったのだから。彼女は隣に座る僕の肩を突き、振り向いた僕ににっこりと笑い、挨拶をしている講師を指差していきなり、「ねえ、あの人ってズラだと思わない?」と言ったのだ。そのとき、僕はただただ呆れて、何だこの女と思ったのをはっきりと憶えている。
志保は可愛く明るい子だった。でも少し変わっていた。ノリが良いと言うか何と言うか。まあ、少しだけ普通とは違ったのだ。だけど、そうだったから僕は彼女に惹かれたのかもしれない。最初に知り合った人、という関係上、それから僕と志保はよく二人で喋ったり昼食を食べたりしていた。そして、僕達は必然だったかのように、当たり前に恋に落ちた。
知り合ってから三ヵ月後、どちらからともなく告白して付き合い始めた。僕と志保は驚くほど対照的だった。僕はスポーツは出来たけど物静かで、志保はスポーツは出来ないけど活発で。僕は掃除は上手だったが料理が下手で、志保は掃除が下手で料理は上手で。僕が不得意なものが志保は得意で、逆に僕が得意なことは志保が不得意だった。
だから互いに不得意なものを補い合い、僕達は巧く廻っていたのだ。対照的だったからこそ、僕と志保は巧く行っているのだと思う。そんな二人がただ一つだけ共通していること、それが好意だった。僕は志保が誰よりも好きで、志保は僕が誰よりも好きで。冗談で結婚しようなんて言ってるけど、それが実現するのもそんなに遠くないと思う。なにせ大学を卒業して就職したら、僕から正式に申し込もうと考えているのだから。
彼女が好きだった。この世の誰よりも。
そんな僕の心境がテレパシーで伝わったかのように、志保から返って来たメールにはこんなことが書かれていた。
『浩介くんさ、今あたしのこと好きだ、とか思わなかった?』
テレパシーって、まさかそんな訳ないよな……。僕は取り敢えず、『なんで?』と返した。
数秒後、メールを受信する。
『何となく。違った?』
僕達は見えない絆でもあるのではないか。
僕はキーをちまちまと押す。一文字一文字を打ち込みながら願う。形の無い想いを繋ぐメール。この想いが、彼女に届きますように。
『いいや、思ってたよ。僕は志保が好きだ』
メールが返って来るまで、少しだけ間があった。
『あはは、やっぱり? あたしも思ってた。うわぁ、テレパシーってヤツ? それともなんだっけ……ええっと、シンクロ……シンクロ……ナイスド、じゃない。わかんない、答え教えて』
答えって言っても問題がわからないので教えようがない。しかしそれでも僕は律儀に考える。シンクロから来る言葉と言えば――。一つだけ、心当たりがあった。僕は答えっぽいのを電波に載せる。
『もしかしてそれってシンクロニシティってヤツじゃなかったっけ?』
『ああそうそう、それそれ! よくわかったね、伊達に二十一年生きてないね!』
それは志保も同じだろ。僕と同い年のクセに。
携帯を手にしたまま、僕は視線を上げる。いつの間にそんなに時間が経っていたのか、今現在時刻は夜の十二時を差していた。そろそろ風呂に入って寝なければ明日が厳しくなってくる時間帯だ。僕は布団の上から起き上がり、窓の方へと歩き出す。手にした携帯に『もう十二時なんだね。だいじょうぶ? 眠たいんじゃない?』と打ち込んで送信する。
もう一年も掃除していない窓を開け放ち、秋の風を感じる。志保と出逢った春が過ぎ、志保と付き合い始めた夏が過ぎ、それから季節が一巡して、幸せな秋が訪れていた。その風は、涼しかった。窓際に置いてある灰皿を手摺の上に置き、同じく窓際に置いてあった煙草のパッケージに手を伸ばす。
ソフトタイプのそのパッケージから一本だけ出して口に加え、煙草のカート買ったときに付いてきた百円ライターを拾い上げて石を回して火を点ける。煙を吸い込むと何だか落ち着いた。何度か吸っては吐き、吸っては吐くのを繰り返した後、僕は夜空を見上げる。
近くに大きな建物が無い分、少しだけ星が見えた。正座を探してみるが一つも見つけられない。それが何だか癪で、視線を煙草に戻したとき、携帯が鳴った。
『うーん……眠たいかも。ごめんね、こっちから送っといて。今日はもう寝るよ、明日また一緒に行こうね』
煙草を片手に返信する。微かな恥ずかしさがあったが、それでも僕は正直に送信した。
『うん。おやすみ、志保。世界でいちばん好きな君が、良い夢を見られますように』
まだまだガキだな、と僕は苦笑する。根元まで吸ったタバコを灰皿に押し付け、火を消した。
ポケットの中に携帯を入れながら、もう一度、夜空を見上げる。
世界は毎日、同じような日常を繰り返している。それをウンザリだと思う人もいるかもしれない。でも、僕はその日常が大好きだった。志保といれるこの日常が、ずっと続けばいいと思う。
当たり前の日常。志保といられる世界。僕は、それが好きだった。
さて。恥ずかしい考えはここまで。風呂でも入ろう。
僕は灰皿を部屋の中に回収して、窓をしめようと手を伸ばした。
そして、一匹の悪魔がその爪を振り下ろした。
最初の一撃で、体が宙に舞った。
気づけば体は部屋の外に放り出されていて、何を考えるより早くに地面に叩きつけられた。
ものすごい轟音を聞いたように思う。何かが圧し折れる音が辺りに響き渡り、目の前の建物が一気に崩れ落ちた。それは、僕の暮らしているアパートだった。仰向けにそれを見ていた僕の頭上からとんでもない速さで何かが落下して来る。
避ける、という選択肢はついに出て来なかった。
何も出来ないまま、僕は瓦礫の下敷きになる。
意識が、途絶えた。
――2004年9月26日・AM:0:04
この町に、震度7の地震が発生した。
◎
意識を取り戻したとき、まず最初に違和感を感じた。
目を開けているはずなのに光が見えないその不可解な現象。部屋の電気を消していたとしてもこんなにも完全な闇が訪れるはずはない。体を動かしてみるが別段変わった所はなく、自然と動かせる。が、上げた手がすぐに何かにぶつかった。冷たい、無機質な何かだった。
まるで小さな洞窟の中に閉じ込められたような感覚。そう思った瞬間、無性に怖くなった。がむしゃらに手を振り回り、体を包み込むようにある上の何かを必死に押し上げる。限界まで力を入れると、それが僅かに動いた。その状態を維持し、少しずつ移動させて視界を確保した。
微かな光が射した。遮るものがなくなった夜空を見上げ、小さな隙間から自分の体を這い出す。月明かりを感じて初めて、僕は気づいた。
自分の左肩に、20センチはあるような木片が、突き刺さっていた。
それを視界に収めた瞬間、今まで何も感じなかったはずの激痛と爆発的な恐怖が生まれた。
何よりもまず、自分の肩に突き刺さっているその木片が信じられないほど恐ろしかった。流れ出ている血はシャツを真っ赤に染めて恐怖を煽り、身を捩るとさらなる激痛が生まれる。その場に蹲るようにして、恐さと痛さに涙があふれ出す思考の中で、漠然と抜かなくちゃと思った。
木片に触れると、自分の肩の肉が動く感触がはっきりと伝わってきた。それが死ぬほど恐ろしく、今からこれを引き抜くかと思うと意識を失いそうになる。だがこのまま突き刺さったままにしているのは、それ以上に恐ろしかった。木片をそっと握り締め、歯を食い縛って引き抜こうとしてみる。
刹那、今までとはまったく違う、真っ白な激痛がきた。
その場で呻き声を吐き出し、涙と鼻水でベトベトになった顔をぐちゃぐちゃにして泣く。どうしてこんなことになっているのかが、まるでわからなかった。一体何がどうなって、なぜ自分の肩にこんなものが突き刺さっているのかが理解できない。これは夢ではないのか、夢なら今すぐ覚めて欲しい。誰でもいい、この状況を代わって欲しい。どうしてこんな思いを自分がしなければならないのか、これは果たして現実なのか。涙と嗚咽と激痛と恐怖の増幅は止まらない。ガタガタと体が馬鹿みたいに震えて、その度に肩の肉がスプーンで抉られるような苦痛が全身を掻き毟る。
かっ、はっ、かっ、はっ。規則正しく、自分の口からは切れ切れに恐怖の息が漏れる。自分は一体どうなっているのか。この木片は実は肩から入って心臓に突き刺さっているのではないか。これを引き抜いたら血が吹き出て死んでしまうのははないか。駄目だ考えるな、今すぐ板切れを引き抜け、だいじょうぶ、ぐっと掴んでぎゃっと引っこ抜けば激痛は一瞬だ、臆するな、先延ばしにすればそれこそ痛みも恐怖も多くなる、今すぐやれ、手を伸ばして掴め、力を込めて抜け、言い訳は聞かない、今すぐやれ、今すぐやれ、今すぐやれ、歯を食い縛って掴んで抜け、一瞬で終らせろ。
震える手を伸ばし、木片を掴んだ。自分を落ち着かせ、大きな深呼吸をしてから歯を食い縛る。全身の力を込め、木片を引き抜いた。
皮膚の破ける音がした。目の前が真っ白になった。
気づいたら、木片を投げ飛ばしながら地面に蹲って絶叫していた。肩からそれまでとは違う生温かい液体が流れ出しているのをはっきりと感じた。ズキズキと痛みが響き、顔を上げることも目を開けることも出来ない。それでも口からはいつまでも絶叫が流れ出していた。
無意識に右手で傷口を押さえ込んでいた。その拍子に誤り、人差し指が傷口から肩の中に数センチだけ入って激痛よりもその生の感触が何よりも恐かった。急いで引き抜き、全身の力を込めて傷口を押さえ込む。涙がさらにあふれ出すほど痛く、それでも血を止めなければならないと思った。
それから、一体どれほどの時間が流れただろう。三十秒しか経っていないのか、それとも五分は経ったのか、もしくは一時間も経過していしまっていたのか。唐突に、左肩の痛みが消え失せた。まるで手品のようだった。血の流れ過ぎでもう何もわからなくなったのか、自己防衛が働いて麻痺させたのか。よくわからなかったが、それで幾分か落ち着いた。
右腕をそっと外し、傷口を見ないようにしながら起き上がった。ベトベトな顔を右腕で拭い、ふらふらの足取りで立ち上がる。
初めて、自分の置かれた状況を理解した。
目の前には、瓦礫の山が広がっていた。見覚えがある瓦礫だ。それは、パーラー・宇宙ヶ丘の残骸だった。意識が途絶える前に見た光景がはっきりと蘇る。あれは、夢ではなかった。しかしなぜ、アパートが――?
呆然と辺りを見渡す。そこで、僕はさらなる絶望を目にする。瓦礫の山は、僕を中心とした三百六十度、どこまでも広がっていた。家であったはずものが、何一つ原型を留めていなかった。何かの映画で見たことがあるような光景。確かあれは原爆が投下されて吹き飛んだ町ではなかったか。ならばまさか、この平和な日本にも原爆が落とされたのか? だが、そうなら自分自身が生きている方が不思議である。蒸発してもおかしくはないだろう。
僕は目を閉じ、耳を澄ます。何より、状況を把握したかった。先ほどまで聞こえいなかったはずの雑音が、一挙に流れ込んでくる。大きな祭りの喧騒に似ていた。響き渡る消防車のサイレン、ものすごいスピードで走り抜けているパトカーのサイレン、どこかで何かが圧し折れ地面に衝撃を震わす轟音、何かが燃える嫌な音、大声で叫ぶ野太い声、女性の高い悲鳴、子供の泣き声、何十匹も重なる犬の遠吠え。その中で、たった一つだけ、完全なる情報を載せたものがあった。
聞き取れたのは、たった一つの単語。小さな頃から何度も遭遇し、小中高の避難訓練で何十回と練習した災害。
誰にも、どうすることがないそれは、地震だった。
僕は目を開ける。目の前に広がる、夜に支配された世界に漂う土煙、遠くで燃え盛る炎のオレンジ色、夜空を裂くパトランプの閃光を視界に収める。この町に地震が起きたという事実を受け入れるまでに、かなりの時間が必要だった。馬鹿みたいに突っ立っていた僕は、やがてゆっくりと歩き出す。
かつて僕が住んでいた、アパートの瓦礫の山へと。愚かなことだった。もう原型を留めてもいない。ただの瓦礫だ、こんなもの。その中で、僕は無意識に捜していた。そう、このアパートに住んでいたはずの住人、計六人を。生き残った人は必ずいるはずだ。なにせ僕自身が生き残っているのだから。悲鳴にも似た瞳を彷徨わせ、突き重なる木片を見続けた。
その中で、人間の手が突き出ているのを発見した。中指に大きな骸骨の指輪がしてある。あれは確か僕の隣に住んでいる澄田守(すみたまもる)(男・二十六歳)さんの指輪だったはずだ。澄田さんは坊主頭で髭を伸ばしながら売れない作家をしている人で、彼とは何度か酒を共にしたときにその指輪を見せてもらっているので間違いない。良かった、澄田さんは生きてる。
僕はそこまで走り寄った。澄田さんの手を必死に掴み、上手く呂律の回らない口を動かす。
「す、すみっ、たさんっ! だい、じょっぶですか!?」
しかし返答は無く、掴んだ手にも反応がない。
無我夢中に、僕はその手の方向から予想する澄田さんの顔がある方向へと視線を向けた。上に覆い被さっている巨大な板切れに手を掛け、全力の力で持ち上げる。忘れていた肩の痛みが再発するが知ったことではなかった。最初はゆっくりと持ち上げた板切れだったが、それから後は一気だった。前に思いっ切り押し倒し、そこに倒れる澄田さんを確認する。
気づくべきだった。澄田さんの手が、氷のように冷たかったことに。しかし、半ばパニックと自暴自棄に陥っていた脳みそは、気づかなかった。
僕は、その瞬間に胃から食道を伝わって流れ出て来るものを、止められなかった。瞬時に膝を着き、肩を震わせて胃の中のものすべてを嘔吐した。胃酸の刺激臭で鼻をやられ、また涙がどっとあふれ出す。手を伸ばせばすぐ届く距離に、澄田さんはいる。だが、僕は手を伸ばせなかった。直視することも出来なかった。
澄田さんは、顔の右半分が、なかった。言葉に出来ないものが辺りに弾け飛んでいるのを見てしまった。嘔吐しながら泣くしかなかった。生まれて初めて見るその死体が、どんなものより恐ろしい。
胃の中のものをすべて吐き出し、涙を強引に拭い、澄田さんから顔を背け、僕は走り出す。何もかもが、死にたくなるような絶望を投げ付けて来る。道路に飛び出てもその光景は何も変わらず、地面は罅割れ車は転倒し、家は原型を留めているのは本当に数えるくらいしかない。よく見かける近所の小学生が一人大泣きしている、電柱が一つ残らず倒れて電線が火花を散らしている、その傍らで焼け焦げた何かがある、道端で人が倒れている、首から上がない犬の死体が転がっている、火事に巻き込まれて皮膚が焼け爛れ、それでもなお廃人のように生きて歩き回る人がいる。
地獄絵図だった。すべてぶちまけたはずの胃から、胃液だけがまた吐き出される。道端に倒れ込み、僕は一人で叫んだ。
三種の単語が頭の中を駆け巡る。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ。恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い。嘘だ夢だ恐い嘘だ夢だ恐い嘘だ夢だ恐い嘘だ夢だ恐い嘘だ夢だ恐い嘘だ夢だ恐い。
何が本当で何が嘘なのか。何が現実で何が夢なのか。何が楽しくて何が恐いのか。答えを返そう。自分自身についている「地震なんて起こってない」と思っているそれこそが嘘だ。答えを返そう。夢は寝て見ろ、お前は起きてる、だからこれが現実だ。答えを返そう。楽しいのは日常だ、恐いのは非日常だ。目を背けるな。これが本当で、現実で、楽しい楽しい非日常だ。お前の好きな日常は終わりを告げた。ここからはお前の嫌いな非日常だ。さあ、お前の物語は一体どんな結末を迎える? お前は、一体何を望む?
さあ。惨劇の、始まりだ。
思考がふっつりと焼き切れた。目が虚ろで音が聞こえなくなった。無音の世界に、僕は一人取り残された。
地面に倒れ込んだまま、僕はポケットからそれを取り出す。幸いにも傷が付いていなかった携帯電話。左手で触れてしまい、べっとりと血が付着してしまったがもう何も考えられない。どうでもよかった。折り畳み式のそれを広げる。
アンテナは立っていない。圏外になっていた。
無音の世界にたった一つだけ、音が差し込む。
――……浩介くん……――
僕は立ち上がる。
鉛のように重い足を動かし、それでも僕は歩き出す。
思うことはただ一つだけ。
――……志保……――
日常の中に、悪魔が入り込んだ。そして、非日常を巻き起こす。
神様はどうしているのだろう。悪魔と戦ってくれたのだろうか。もしかて負けてしまったのだろうか。
神様。貴方はいま、どこで何をしていますか?
彼女は、いま、どうしているか、わかりますか――?
◎
地震が発生してから三時間が経過する。その間に起きた出来事について、ほんの少しだけ触れてみようと思う。
ある港にて。
地震で家が全壊し、それでも奇跡的に生き残った漁業を営む一人の老人が我が船が気になり港へ走った。何もかもが破壊され尽くされている光景に涙を流しながら、数分しか走っていないのにガクガクと震え出す足を何とか繋ぎ止め、それでも老人は港へ向かう。何十年も働いて来た港は、変わってしまっていた。眼前に広がる光景は荒れに荒れ、何十隻も停められた船の数多くが転覆してしまっている。その中で、【亀井号】と命名された老人の船は無事だった。長年連れ添った妻に先立たれ、残った最後の相棒である。我が船の無事な姿を確認すると、老人はその場に膝を着き大声で泣いた。しかしその泣き声は長く続かない。世界が揺れていた。地震ではないその揺れに、闇の水平線へと視線を凝らすが老眼で衰えてしまった目ではよく見えない。揺れが大きくなる。港に設置されているサイレンから大音量で避難警告が発せられる。老人は思う。相棒を置いて行けるか、と。揺れが最大になる。老眼で衰えた老人のその目でも、はっきりと見えた。見上げるような巨大な津波が、押し寄せて来ている。老人は走る、我が相棒の下へ。海で死ねるなら本望。そう願い、老人の体は船と共に海へと消える。
あるデパートにて。
地震が起きて、それでも無傷だった一人の青年は、まず何よりも先に食料と水を調達しなければならないと思い立つ。付近にあるデパートへと有りっ丈の金を掴んで走り出す。しかしデパートにはすでに溢れ返るばかりの人でごった返していた。それは、暴動に近かった。地震ではなく、人間の手によってショーケースは叩き割られ、自動ドアは全壊し、食料品売り場はデパート始まって以来の人数で埋め尽くされている。半端な覚悟では到底食料を調達出来ないと思った青年は、金をその場に捨てて人混みの中へと突っ込む。思うように進めないその青年は、食料は諦めてせめて水だけでも調達しようと思った。何十回も来たデパートの中は知り尽くしていて、最短でそこまで辿り着く。奇跡的に天然水の入った一リットルのペットボトルを掴むのに成功し、レジに向かった。が、どの道金を持っていないことを思い出してそのまま外に出ようとした瞬間、この状況でもまだ営業をしようとしている店員の声を聞く。金を払ってから出て行かんかあっ! これは立派な犯罪だあっ! お前達は普段このデパートに一体どれだけ世話になっとると思っとるっ!! 馬鹿か、と思った。そして青年と同じことを思った一人の男が店員を殴り倒す。商品を手にした客は我先にと転がっている店員の上を踏みつけて外に飛び出して行く。やがて商品がすべて無くなり、人が完全にいなくなった頃、デパートには息をしていない血塗れの店員の姿が虚しく置き去りにされている。
ある病院にて。
地震の被害で傷を負った重軽傷者は、合わせて数万単位で現れ、大きな病院に傷の手当を求めて次から次へと訪れる。両親に医者を呼んで来るからここで待っていろと言われ、片腕が切断された幼稚園のさくら組に通う子供は一人、中庭に取り残されていた。病院に来る人の数はもはや一目ではわからぬほど多く、子供はその光景を見ながら「すごいすごいこのおまつりすごいね」とはしゃぐ。自分の片腕がなくなっていることにすら気づいていない。足がなくなっている人が前を通るとまたすごいすごいと目を輝かせ、血塗れの人が通るとあかいあかいと声を上げる。そんな行動を何十回か繰り返した後、全身から血を流す男が現れる。子供はきゃっきゃっと騒ぎ、その男に指を差して大笑いする。男の目にどす黒い光が宿り、そっと子供に近づく。両親が「1356番」という番号札を持って中庭に戻って来たときにはすでに、男の姿はどこにもなくて、ついでに子供の首から上もどこにもなかった。
ある道路にて。
罅割れてぐちゃぐちゃになったそこで、二十代後半の男と頭が禿げ上がった中年のおっさんが言い争っている。おっさんは手にコンビニからかっぱらって来た一杯の食料を持っていて、男は手にナイフを持っている。これは妻と娘の食料だっ! やる訳にはいかんっ! るせぇえっ! 殺されたくなかったら今すぐそれを置いてどっか消えろっ!! しかしおっさんは譲らない。やがて逆上した男がナイフの切先をおっさんの腹に突き刺し、そして首を一直線に裂いた。真っ赤な鮮血を浴びた男はナイフを取り落とし、その場で震え始める。しばらくしてから食料など見向きもせずに歩き出し、狂ったように笑いながら去って行く。食料は事の成り行きを見ていたホームレスが奪い去る。次の瞬間にはそのホームレスの鼻が圧し折れて頭がカチ割れ、一人の女性がヒステッリクに笑いながらシャベルを投げ捨て食料を持って逃げて行く。
ある裏路地にて。
一人の女性が仕事場から両親の安否を知るために全力で走っていた。普段なら絶対に通らない裏路地を、服の汚れも気にせずに走り抜けて行く。もう少しで我が家だと思って気を緩めた瞬間、後ろから口を押さえ付けられた。力任せにさらなる暗闇に引き摺り込まれ、喉下に刃物を突き付けられる。必死に状況を確認する女性は、そこで数人の男達を見た。そいつ等の目は完全にイっていて、涎を垂らしている。恐怖が体を支配して叫ぶことも逃げることも抵抗することも出来なかった。無理矢理押し倒され、その場で服を剥ぎ取られる。サイレンの響く夜空に、女性の悲鳴が上がるが誰も耳を傾けない。数分後、そこに残っているのは全裸で体中を切り刻まれていた女性の死体だけだった。
そして、パーラー・宇宙ヶ丘にて。
地震発生から三時間後にして、春日浩介という男が偶然にも積み重なって圧し潰されなかった瓦礫の下で意識を取り戻し、這い出てきた。彼は左肩に突き刺さった木片を絶叫しながら引き抜き、一人の死体を見る。やがて彼は魂の抜けた、抜け殻のような体を引き摺りながら歩き出す。途中で地面に倒れ込み、ポケットの中から携帯電話を取り出して何事かをつぶやく。やがて立ち上がり、どこかを目指すように歩き出す。彼の行き先は決まっていた。今からは、その彼に密着してみようと思う。
ここから先を見るか見ないかは、自由である。強制はしない。
さあ、惨劇はまだ始まったばかりだ。
◎
志保の家は、パーラー・宇宙ヶ丘から車で三十分ほど行った所にある。一応車は持っていたが、この状況で乗り回すなど不可能だったし、鍵を瓦礫の下から探し出す気力は当たり前のようになく、そもそもそのときは車のことなど忘れていた。
ただ、それでも僕を動かしていた考えはたった一つだけ。志保の所に行かなくちゃ。きっと彼女は泣いているだろう。少し変で活発で強気な彼女だけど、人一倍寂しがり屋なのだ。一人でいることを何よりも嫌い、本当にウサギのように可愛い僕の彼女だ。だから、僕は彼女の所に行くんだ。志保を、一人きりにさせはしない。僕が側にいるんだって、一刻も早く安心させてあげたかった。
最初は出来の悪いブリキ人形のように歩いていた足が徐々に力強さを増し、気づけば僕は全速力で走っていた。全身から炎が噴き出すほど体は熱く、左肩はそれこそ灼熱だった。それでも僕は止まらない、左肩を見もしない。壊れるなら壊れてくれて一向に構わない。肩の一つで志保の所まで行けるのなら喜んで献上しよう。
普段車で通っている道路のアスファルトは罅割れ、時折横倒しになっている電柱が邪魔をし、崩壊した家の瓦礫が行く手を阻む。それらをすべて夢中で乗り越えた。もう、辺りの状況など、僕の目には入って来ていなかった。火事で燃え上がる家のすぐ側を何度も横切ったことも、コンビニを破壊する男の手によって投げ付けられた酒のビンが足元で弾けたことも、道端で両足を失って倒れている人の悲鳴も、置き去りにされた老婆が神様に祈っていることも、水道管が砕けて水が噴出していることも、この地震で起こったすべてのことが、もはや何も見ていない。一刻も早く、志保の所に行きたかった。
夢中で走り続けている僕の目の前に、一台の横倒しになった原チャリが飛び込んできたのはそんなときだった。それまで何に対しても興味を示さなかった僕が初めて足を止める。乗っている最中に地震が来たのか、持ち主はどこにもおらず、しかし原チャリにはキーが刺さったままだった。何とも思わなかった。持ち主に悪いとか、これは盗難だとか、何とも思わなかった。原チャリに近づいて無理矢理起こし、キーを回すとまだ壊れていないことがわかる。
他人の血で汚れていたシートにお構いなしに跨り、ブレーキを壊れんばかりに握り締めてイグニションボタンを押し込む。が、ギャルルルルルとセルモーターが空回りするだけでエンジンが始動しない。それでも諦めずにブレーキを握り締めながらイグニションボタンを押す。しかし幾らやっても結果は同じで、エンジンは一向に掛からない。動け、動け、動け、動いてくれ、頼む、志保の所に一秒でも早く行かなくちゃならないんだ。こんなことをしている時間すら惜しい。完全な無駄手間だったと諦めて原チャリを放り出そうとしたとき、
ギャルンッ、ボ、ボ、ボ、ボ、ボ、ボ、ボ、ボとエンジンが息を吹き返した。歓喜の悲鳴を上げ、僕はアクセルを開ける。改造してあるからなのか、エンジンは大音量で加速が異様に速かった。重力をクソ食らえで捻じ曲げ、ハンドルを切って道路を直走る。瓦礫の中から比較的まともな場所を瞬時に探し、そこをアクセル全開で突っ切る。
今だけは人間の能力を超えていたと思う。何度転びそうになっても絶対に倒れなかったし、スピンして後輪が滑ったときも冷汗の一つも流さなかった。爆走していた。とんでもない距離をとんでもない速さで突っ走って行く。夜の闇を、原チャリのハイビームが風のように切り裂く。これならすぐにでも志保の所に行けるとアクセルを極限まで開けた瞬間、目に飛び込んできた。
クマのぬいぐるみ、
抱える腕、
泣く子供、
間に合わない、
ハンドルを切る、
ブレーキ、
左肩が痛む、
流れ出ていた血でブレーキから手が滑って離れた、
前輪が罅割れたアスファルトに乗り上げる、
原チャリごと体が宙に舞う。体が地面に叩き付けられ、真上から落ちて来た原チャリに圧し潰さそうなって身を縮めた刹那、頭のすぐそこにサイドミラーを弾け飛ばして原チャリが突っ込んで来た。改造してあるツインマフラーの片方が壊れ、下にあった僕の額に落ちた。ジュウぅう。そんな音を立て、加熱されたマフラーは額を熱する。
絶叫して起き上がった瞬間、右目を真っ赤な液体が遮った。慌てて手を添えると、熱された場所とは違う頭から大量の血が流れ出ていた。目を覆ったその赤さに吐き気が込み上げる。何もない、もう吐くものなんて何もない、だから我慢しろ、立ち上がって走れ、まだ志保の家には着いていないぞ。気力を奮い立たせ、僕は立ち上がる。
目を拭ってふと見たときに、親と抱き合うクマのぬいぐるみを持った子供がいた。この地震が起きて初めて、良かったと思う。しかしその考えはすぐに消え去り、僕はふらふらの足取りで走り出す。大分進んだようだ。もうすぐ、もうすぐ志保の家だ。何度も行ったことがあるので間違いない。志保はいま、どうしているだろうか。泣いているだろうか。おじさんやおばさんはどうなっただろう。そうだ、僕の父と母もどうなったか心配だ。だけど実家はここから離れている、だいじょうぶのはずだ。だから今は志保のことだけを考えよう。
やがて目の前がチカチカして意識がぼんやりとし始めた頃になってようやく、立花家へ到着した。その現状を見て、僕は言葉無く立ち竦む。
志保の家は、パーラー・宇宙ヶ丘同様に、全壊して瓦礫の山と化していた。
そして僕は、その瓦礫の山の上で動いている一つの人影を見つける。見覚えがある。数えるほどしか会っていないが間違いない、あのすごいガタイの大男こそ志保のあじさんだ。
僕は叫ぶ、
「おじさんっ!!」
おじさんはそれで僕に気づき、おおうおおうっと言いながら瓦礫の山を駆け下りて来る。
「浩介くん! 良かった、無事だっ、すっ、すごい傷じゃないか!? 病院に行った方がいいんじゃないのか!?」
それはおじさんもそうだった。たぶん僕の方が酷いんだろうけど、おじさんも結構な量の血を全身から流している。
が、今はそれより大切なことがある。自分の命がどうなろうと知ったことではないのだ。
「おじさんっ、志保と、おばさんは!? 無事なんですかっ!?」
この家の惨状では助からないと思った方がすっきりと行くが、現におじさんは生きている。これなら志保も無事だって不思議ではない。もちろんおばさんも無事に決まっている。今頃病院に行っているかそれとも、志保も僕と同じように、僕の家に向かってしまったのか。それなら大変だ、今すぐ戻ってあげないと彼女はきっと泣いているだろう。一人にさせてはいけない。
おじさんは言葉に詰まり、それでも言う、
「妻は足を折ったんで病院に運んで来たんだ、」
「それじゃ志保も病院に!?」
「そ、それが……っ」
その言いよどみこそ答えだった。
僕は視線をおじさんから外し、瓦礫の山を見上げる。
「……まさか……おじさん、まさか志保はまだこの中にいるんですかっ!?」
おじさんは泣きそうな顔で肯いた。
目の前が、流れ出ていた血で真っ赤になっていたはずなのに、そのときだけは真っ白だった。嘘だ、志保がまだこの中に? そんなの嘘だ、だっておじさんはこうして助かって、それにおばさんも足を折っただけで助かってる、なのに志保だけがこの中に? 嘘だ、嘘だ、嘘だ、
「嘘だろっ!? 志保っ、志保―――――――――――――ッッ!!」
喉が破れんばかりに叫び、おじさんの制止も受け付けずに瓦礫の山へと突っ込んで行く。
志保の部屋は入り口から入ってすぐの階段を上った二階の一番奥の部屋だ。そこがあったはずの位置に向かい、積み重なる家の破片を無我夢中に退けて行く。重過ぎてどうしようもないものに行き着く度に発狂しそうになる。そんなとき、僕一人の力ではどうしようもないそれが、一気に持ち上げられる。おじさんだった。肯いたおじさんと協力して次々と瓦礫を退けて行く。
途中、瓦礫が雪崩れを起こした。足場が飲み込まれ、背中を何かで抉られた。が、痛みを感じている暇も傷口を見ている余裕もない。遠くまで転げ落ちてしまったおじさんに自分でもわからない声を張り上げ、一人で瓦礫を掻き分ける。
心の中で叫び続けた。志保、志保、志保、志保、志保、志保、志保っ! どこだどこにいる!? 君はいま、一体どうしている!? 頼む、返事を聞かされてくれ! 僕達は繋がっているんだろう!? シンクロニシティを感じているんだろう!? だから、今すぐに君の返事を聞かせてくれ! 僕の名を呼んでくれ! そうしたらすぐにでも君を見つけ出してみせるから! 君を、一人にさせはしないからっ!!
闇に沈んでいた夜空に、ゆっくりと青白い光が射し始める。夜明けが迫っていた。
そして、それが一縷の奇跡に繋がる。
――……こ…………く……――
「志保っ!?」
確かに聞いた。聞き間違いじゃない。志保の声を、今確かに僕は聞いたはずだ。
「志保ォオ!! どこだ!? どこにるっ!!」
――……う…………ん……――
僕は目を閉じ耳を澄ます。心の中を開放する。
志保を感じよう。
今度のそれは、はっきりと聞こえた。
――浩介、くん――
志保の存在を、はっきりと感じた。
目を開け、僕は自分の立っている場所から三歩だけ前に踏み出した。そこに積み重なる瓦礫をゆっくりと、しかし確実に一つ一つ退かして行く。体が自分でも不思議なほど冷たくなっていて、脳みその中などそれこそ氷のように冷静だった。
そうさせるのは、一つの確信だった。
【ここに、志保がいる】
確証はない、しかし確信がある。必ず、この下に志保はいる。幾つ目かの瓦礫を退けたとき、ピンク色のシーツが見えた。間違いない、これは志保の部屋にあるベットに使われているシーツの柄だ。そこを中心に、さらに瓦礫を退かして行く。
数枚の写真が出て来た。志保の部屋の壁に掛けてあるコルクボードだ。そこに貼り付けてある僕と志保の思い出の写真。確かこれは海へ行ったときだ。志保の水着姿が可愛かったっけ。確かこれは大学の中庭で遊んでいたときだ。皆に冷やかされたっけ。確かこれは志保と二人で旅行へ行ったときだ。何だ夜中、興奮して眠れなかったっけ。確かこれは夏祭りに行ったときのだ。そこで初めて志保をキスをした。僕と志保の忘れられない思い出の写真。泣き出しそうになっている自分がいた。
そして、最後の瓦礫を、僕は退かした。
やっぱり、そこに志保はいた。僕は間違っていなかった。僕と志保は繋がっている。ねえ、志保。僕は君を愛している。この想い、君に伝わる? 君の想いは、僕に伝わって来るよ。あたしもって、君は思ってるんだよね? わかってるよ、僕は君と繋がっているんだから。僕と君は、二人で完全なんだ。不得意なものを補い合い、僕達は廻っている。ねえ、志保。そうだよね。だからさ、頼むよ……お願いだから、止まってくれ……。……彼女の血を、誰か、止めてください……。
最後の瓦礫の下には、志保がいた。長い髪を辺りに伸ばし、雪のように白い肌を見せ、彼女はそこにいた。ぱっちりとした宝石みたいな黒く綺麗なその瞳で僕を見ると、彼女はゆっくりと笑った。彼女は、生きていた。本当に、奇跡的に、生きていたんだ。けど、だからこそ奇跡的なんだ。
医学の知識がまるで無い僕にも、はっきりとわかった。志保は、生きている方が不思議なんだ。いま、こうしていること自体が奇跡的なんだ。
志保の下半身は巨大なコンクリートに圧し潰されていて、右手はどこにもなかった。彼女の下には、すごい量の血溜まりが出来上がっていた。それでもまだ血は流れ出て続けており、それでもまだ彼女は生きていて、それでもまだ彼女は僕の顔を見て笑った。
志保は、生きている方が不思議だった。
「……志……保…………?」
こほっ、と口から血を吐いた志保は、それでも僕に向かって左手を差し出した。
それは、神様が残してくれた、志保の最後の力だったのかもしれない。
「……ご、めん……ね……みぎ、て……ちから、はいん、ないや……」
おかしいね、ごめんね浩介くん。志保は、そんな顔をして苦笑していた。
差し出された左手を包み込むように握り締め、志保の虚ろな瞳を見つめる。言葉が出て来なかった。代わりに、涙があふれ出していた。頬を伝う涙は、顎から落ちて志保の頬を濡らす。
これこれ、男の子が泣くんじゃないよ、しょうがないなぁ。志保は、そんな顔をしていた。
「……どう、した、の……? ど……こか、いたい、の……?」
痛かった。心が、とても痛かった。
木片が突き刺さった肩の傷口よりも、熱された額よりも、血が流れる頭よりも、抉られた背中よりも、心が痛かった。涙が止まらない。止まってくれない。冷たくなっていたはずの体が暴れ出す。脳みそが沸騰し始める。
どうして彼女がこんな目に遭わなければならないんだろうか。どうして彼女は、自分の体よりも僕の体のことを心配してくれるんだろうか。志保がどうして、こんなことになっているのだろう。なぜ他の誰でもない、志保がこんな目に遭っているのだろう。なぜ、僕ではなく、志保なのだろう。
志保の手を握り締める。志保は弱々しく笑う。
「いたい、よ……どう、したの、って、ば……? いって、くんなきゃ……わかん、ないよ……?」
僕の口は、無意識に言葉を紡いでいた。
「……志保、今度、二人っきりでまた、旅行に行こう……」
僕は一体、何を言ってるんだ?
「前みたいにさ、二人っきりで、山か海に行こう。あ、海外でもいいや、もちろん僕の奢りでさ」
何だこれは、何を言ってる? どうしたと言うのだ、気でも狂ったか。
「そこでさ、いっぱいいっぱい、楽しいことをしよう。昼間楽しんだら、今度は夜も楽しもう。ね、志保。だからさ、だから……」
だからどうしたいのか。だからどうしろと言うのか。僕は一体、どうしようと思い、こんなことを言っているんだろう。
やがて、それを聞いていた志保がゆっくりと微笑んだ。僕の手をそっと握り返し、うん、と肯く。
「い、いね……いこ、っか…………でも、こうすけ、くん……えっち、だよ……」
僕は笑う。涙を流し、嗚咽を押し殺し、志保の最後のぬくもりを感じながら、笑う。
「そうかもね。でも、男だし、当たり前だろ? ……約束しよう。絶対に、僕とまた、旅行に行こう」
「……うん……たの、しみ……だ、ね……」
朝日が現れる。世界を壊した夜に光を与えに昇る。
神様。貴方はどこにいますか? あの朝日の中にいますか? 悪魔は、どうなりましたか? 貴方が、倒してくれましたか? ……彼女を、助けてはくれないのですか? このままだと、彼女はもうすぐ目を閉じてしまいます……馬鹿な僕でもそれくらいはわかります。お願いします、神様……彼女を、助けてけてください。僕はどうなって構いません。ですからお願いします。彼女を、彼女だけを、助けてください――。
朝日に照らされた志保の顔は、信じられないくらいに美しかった。
そして、僕は志保を感じた。
――浩介くん。大好きだよ。……バイバイ。
それは、本当にあっさりとしていた。彼女の手から、力が抜けた。
虚ろな瞳から光が完全に消え去り、すっと目を閉じる。流れ出ていて血は、いつの間にか止まっていた。
朝日の中で、僕は志保の手を握りながら、そっと彼女の唇に口付けを交わす。
――僕も、君だけが大好きだ。
でも、バイバイは言わないよ。だって、約束したじゃないか。旅行に行くって。君も楽しみだねって言ってくれたじゃないか。だからバイバイは言わないよ。約束が果たされるその日まで、僕はその言葉を口にしない。だって……そんな言葉を口にしたら、もう、どうしようもないじゃないか……っ!
冷たく、動かなくなった志保の体を抱き締め、僕は大声で泣いていた。
朝日が浮かぶその中で、いつまでも僕は泣いていた。
神様。貴方は、いま、どこにいるんですか――?
◎
振り下ろされたそれは、
死者・二万八千七百二十六人
行方不明者・四十八人
重軽傷者・十一万三千五百九十八人
という巨大な爪跡を残し、この世界から去って行った。
重軽傷者の中には、春日浩介も含まれている。
死者の中には、立花志保も含まれている。
日常が終わり非日常が始まり、非日常が終わり日常が始まろうとしていた。
◎
――神様。
貴方は、この世界にいますか?
もしいるのであれば、なぜ彼女を助けてはくれなかったのですか?
何もしていない彼女を、なぜ連れて逝ってしまわれたのですか?
彼女が罪人だとでも言いたいのでしょうか? 死ぬべき人間だったと言いたいのでしょうか?
貴方はなぜ、優しい彼女を助けてはくれなかったのですか?
貴方に取ってみればただの下界の都合なのかもしれません。
ですが僕には、それは余りに残酷な仕打ちでした。心が、痛みます。
でも、それでも僕は貴方に、感謝をしたいです。
彼女に出逢わせてくれたこと。彼女と一緒に過ごせたこと。彼女と共に生きれたこと。
僕は、貴方に感謝をしたいです。でも、だからこそ、貴方に言いたいです。
なぜ、彼女を助けてはくれなかったのですか?
なぜ、彼女を連れて逝ってしまわれたのですか?
別れがあるのならなぜ、僕と彼女を出逢わせたのですか?
2004年9月26日から半年経った2005年3月17日の今日。
冬が過ぎ、暖かい春を迎えようとしていたこの日、使い物にならなかった携帯電話に電波が戻るという知らせがあった。
そんな知らせを半信半疑で構えていた彼は、昼の十二時きっかりに電波が戻るの見た。
圏外から、アンテナ三本に変わった。そして、その瞬間に、一通のメールを受信する。着メロは半年ほど前に流行ったラブ・ソングである。この着信音に設定してある人物はただ一人だけ。彼は震える手を押さえ付けながら、ゆっくりと音を止め、カーソルを操作してメールボックスを開く。グループ事に『友達』『家族』『宇宙人』『彼女』とボックスが並んでいて、その中で先ほど受信したメールが入っているボックスを開らいた。グループ名は『彼女』である。未読のメッセージにカーソルを合わせて決定ボタン。内容が開かれる。
送信日は2004年9月26日のAM:0:03だった。
『おやすみ、浩介くん。世界でいちばん大好きな君が、良い夢を見られますように。また明日ね。バイバイ』
彼は一人、その携帯電話を握り締め、言葉を漏らす。
「……バイバイ……志保……っ」
彼の頬に、一筋の涙が伝う。
――神様。
貴方は、この世界にいますか?
彼女は、いま、笑っていますか――?
END - 2004-09-19 08:07:58公開 / 作者:神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。 - ■作者からのメッセージ
さて、そんな訳で【神様へのメッセージ・後編】です。
……イカンですね、初めてアンハッピーを書いたような気がします。最後の最後まで、どうしようか、生かそうか、殺そうか、という瀬戸際を迷っていた訳ですが、ここで生かしても何だか微妙でしたし、「切ない」とかそんなことを前作でも言っていたような気がしますので、こうなりました。
改めて自分の知識の少なさを実感する神夜です。後編の最初の話、書いててすげえ楽しかったのですが、いやはや、本当にこんなことが起こるのか?と聞かれれば素直に首を振りたいです。津波は起こるでしょうが……殺人はどうなんでしょうね……どっちかって言うと、自分はコンビニに駆け込みそうですが(冷静だった場合に限り)
そして最後の携帯シーン。本当は考えてなかったのですが、ふと唐突に思い浮かび載せてみました。それが裏目に出てたらやべえなぁ、と。
ハッピーエンドはやっぱり長編でしか書けないのかと思う神夜でした。
ここまで読んでくれた皆様、ありがとうございました。今回は感謝のレス返しをしようと思います(ぇ
夢幻花彩さん>ずるい……ずきんと来ますね(笑(マテコラ 前作に引き続き、一番乗り、誠に感謝です。文章構成、素直な描写はあれのですが、一人称というのが何とも否めませんでした……やっぱり難しいですね。後半も読んでくれたことを祈り、これからもよろしくお願いします。
卍丸さん>ショートを書く場合、なぜか冒頭に「ああいう感じ」のものを書く癖が出来てしまったらしいです(【永久の夢】も似たような感じですし(ぇ 先に冒頭を書き、そのまましばらく放置してあったのでいきなり庶民的な出だしになってしまった、というのが本当だったり。主人公のキャラ、ぶっちゃけてしまうとまたまた友達がモデルになってたりする裏があるんですけどね(笑 大地震に遭遇したことがないので軽薄な文になっている可能性は大ですが、それでも楽しんで(ちょいと違うかな?)もらえたのならそれだけで感謝の極みです。後編も読んでくれたことを祈り、これからもよろしくお願いします。
GOAさん>初めまして。一人称の描写はやっぱりイカンです、かなり苦労しますし、そもそも向いていないではないか?と弱気になってたりします。感情移入がしやすいと言うのはすごく嬉しいお言葉です。 主人公が絶叫する場面、最初は「」で「ぐああ」とかそんな感じで考えたのですが、それの方が陳腐っぽかったので普通に書いてみたのですが、どうやら裏目に出てしまったようですね……そうか、改行があったのか……誠に参考になるご意見、ありがとうございました。 対義語についてですが、あまり深く考えずに、言ってしまえば適当に書いてたりします(オイ! そっちの方がスラスラと行けるんですが……ああ、ごめんなさい、これからはちゃんと考えて書きます故、どうか見捨てないでください(汗;
ベルさん>お久しぶり、ですよね?(ぇ すいません、誤字がどうしても気になってしまい、UPしてしまいました……別に狙ったとかそんなことはないですよ、決して(滝汗; 芥川賞……言ってしまえば次元が違うなぁ、と……あんなもの化け物が獲る賞ッスよ(涙 予言のことですが、ふと浮かんだのがその日にちでしたので、深い意味はなくそのまま決行しました。本当に起こったらすげえ恐いなと日々を過ごしてます(起こるわけねえじゃん。 それでは、後編もお付き合いを。
明太子さん>少しでも【HINA】の頃から現実味を帯びているような書き方をしよう、と思ったのですが、ほんの少ししか変わらなかったなぁ、と。ちゃんと死体は書きましたよ、ええ。ですがそれが逆に現実味なかったり(汗; 冒頭は……そのときの気分気分で書いていますので、そう言われても仕方ないなぁ、と。しかもそれを最後のシメとしてまた使ってるのは本当にどうなんだと思いつつ、もはや引き返せない所まで来てしまっております(マテ 災害の前の日常、似たり寄ったりになってしまうのはただ単純に自分の技量が少ないからでしょうね……よくよく読み返すとその通りです、申し訳ありません。 ……むぅ……どう、なのでしょう(マテ 影響……受けているのでしょうか……受けてないと信じたいのですがはっきりと否定できないのがかなり辛いところです(大汗; それでも、見捨てずにまたご意見を頂ければ幸いだなと思いつつ、この辺りで(焦
バニラダヌキさん>グロさは大体は前編と同じくらいかな、と。下手したら微妙ですが(何が? そしてごめんなさい、引っ掛けじゃなかったです、こうなってしまいました(汗; あの三種の単語は……ホントに、勢いで書いてしまってそのまま投稿、という愚行に走ってしまったがための行為でした……。もう少し絞った方がやはりよかったですね、てゆーかあの表現自体が間違いだった?と自問自答を繰り返しています(ぇ タイトルに関しては、【読み切り】にしたかったけど長すぎたので前編、ということなのですが、やはりマズイですよね……変更しておきました。指摘、誠に感謝です。ちなみに一気読み更新でも良かったのですが、長いですから……自分の方が力尽きそうです(マテ 後編も読んでくれていることを願いつつ、これからもよろしくお願いします。
疾風さん>お久しぶりですね、お久しぶりのはずです(汗; 最近は、ショートは切ない系にはまりつつありますので……それが極限まで発揮されて悲惨な状況に陥ってしまいました。ぶっちゃけてしまうと、書いている自分は結構ノリノリだったりしm(黙って瓦礫の下敷きにされろ! 後編も読んでくれると嬉しい限りです、これからもよろしくお願いします。
ドンベさん>ノーマルの描写は三人称と一人称の混合のとき同様、素直に行けるのですが、完全なる一人称の場合、どこまで保つべきなのか、どこで崩すべきなのかというはっきりとした箇所が漠然となってたりします……一人称を苦手とする理由はそこにあるのかもしれません(汗; そして後編、冒頭部分通りに【痛い】ものになっているはずだ、と不安な神夜です。アンハッピーには変わりないのですが、ヒロインを殺して物語を構成するのはやっぱり難しいと唸ってました。それでもドンペさんが少しでも楽しんで(やっぱりその表現は違う?)もらえたのならそれだけで嬉しい限りです。これからもよろしくお願いします。
ニラさん>自分の小説なんか泣いてくれるのなら、それだけで自分も泣きそうです(意味不明 勉強になる、とはかなり嬉しいお言葉です。自分の苦手な短編をそれでも何度も読みたくなると言ってくれるニラさんに感謝を送りたいです。後編も読んでくれたことを祈り、これからもよろしくお願いします。
それでは、読んでれくた皆様、ありがとうございました!また神夜の別の作品で出会えたら光栄です!
次は……また短編かな?それか少しだけ短い長編。そんな訳で、この物語を読んでくれて誠にありがとうございました!!
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