『永久の夢 【読み切り】』作者:神夜 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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     「永久(とわ)の夢」




 好きです、と彼女に告白されたのは、高校時代の一体いつだったろうか。
 今ではもうそれさえも思い出せない。
 ただ、それでも、おれは幸せだった。彼女の笑顔が、彼女の声が、彼女の髪が、彼女のすべてが鮮明に思い出せるその記憶の中で、おれは一人で佇んでいる。幸せだったその瞬間に身を委ねるように。
 高校を卒業して三年。それはつまり、彼女と別れて三年目を指していた。
 そして、おれは夢を見た。
 幸せだった、あの頃の夢を――。


     ◎


 昨夜の夜更かしを警戒して、目覚ましを五個も掛けたのに結局は起きれず、遅刻かどうかという実に中途半端な時間に、ぼくは制服を着て高校へと続く土手道を転がるように走り抜ける。
 チャイムが鳴るまであといくらもないはずである。自分と同じように必死になって走っている生徒はいない。つまり遅刻などをする馬鹿は、本日はぼく一人だけだった。普段運動をしないせいか、運動不足が祟ってもはや肺が焼き切れんばかりに熱い。足が限界を超えそうだった。
 後ろに流れる景色に見惚れている暇などこれっぽっちもなかった。土手の左側に広がる団地も、右側に広がる芝生とその先の川にも目もくれず、ぼくは走り続ける。ものすごく情けなかった。
 そして、ぼくの足が遂に限界を超えてしまった。その場に停止して膝に手を付き、肩で呼吸をしながら腕に巻いた時計へと視線を送る。あと一分でチャイムが鳴ることが判明。ここから学校まで最低でも五分は掛かる。……諦めよう。今日は遅刻しよう。皆勤賞が賭かってたけどもういいや。
 吹っ切れてしまうと逆に清々しい気分になる。誰もいないこの土手の通学路は純粋に綺麗だった。芝生に寝転んで時間を潰そうかと思った瞬間、後ろからいきなり背中に飛び乗られた。何の抵抗もできず、ぼくは土手から転がって芝生の上へと落下していく。その中で背中に飛び乗った人物を抱き寄せて怪我をしないように庇う。
 芝生の上を二回ばかり転がって、完全に静止した。ぼくの腕の中でこういう事態を招いた張本人は、おかしそうに「あはは」と笑った。
「……笑うな。危ないだろ、美咲(みさき)」
 彼女はぼくの腕の中で上目づかいにぼくを見つめ、悪戯をするように人差し指を鼻へと当ててきた。
「恭くんが悪いんだよ。せっかく一緒に登校しようとしたのに、遅刻なんてするから。これは天罰です」
 それからまた笑った。
 まったく、何が天罰だろうか。これで怪我でもしたら本当にどうするつもりだったのか。そしてふと見た所に、彼女がいつも持ち歩いている傘が目に入った。真っ白いカラーに一輪の花が刺繍されている子供っぽい傘である。
「今日も傘持ってるんだ。雨なんて降らないよ?」
「もしかしたら降るかもしれないじゃん。もし降ったって恭くん入れてあげないんだから」
「別に良いよ。どうせ降らないし」
 むぅー、と彼女は頬を膨らます。
 ぼくと彼女は、土手の芝生の上で中途半端に抱き合ったまま、空を眺めた。空は冗談のように青くて、雲一つない。まあこれは絶対に雨は降らないだろうな。だけど、良い天気だ。このまま学校をサボりたい衝動に駆られる。
 腕の中の彼女が、ぼくの心境を察したようにぽつりと、「今日はこのままサボタージュしよっか?」と言う。
 今度はぼくが「あはは」と笑う。彼女は不思議そうにぼくの顔を覗き込む。
「いや、ぼ……おれもそう思ってたんだよ」
 すると彼女は、またぼくの鼻に指を当てる。
「またやった。だから『ぼく』って言って良いって言ってるでしょ。わたしの前で格好付けてどうすんのよ」
「……違うって。おれはその言い方を直したいの。高校生にもなって『ぼく』ってあんまり格好良くないし」
 それこそ違うよ、と彼女はぼくに抱き付いてきた。ぼくの胸に吹き込むように、彼女はこう言った。
「わたしは、そっちの恭くんの方が好きだよ」
 ぼくは、彼女がこの世の誰よりも好きだった。
 ぼく達は付き合っている。どういう理由かは未だにわからないが、彼女がぼくに告白してきたのが始まりだった。最初は手も繋げないような初々しさがあったが、今ではそれも和らいでこうして土手で寝転がったりしながら普通にいれる。これは、ぼくにとってはすごい進歩だと思う。……もちろん、これ以上の上の段階へ進むのには、まだまだ時間が掛かりそうだけど。
 でも、こうしている時間がすごく楽しくて、嬉しくて。
 彼女の声を聞くたび、ぼくの心は彼女に染められているんだなって思う。そして、彼女の心も、いつかぼくで染めたい。高望みかもしれないけど、それが本音だった。恥ずかし過ぎてそんなことを彼女と面と向かって言ったことはないけど。
 見上げる空は冗談のように青く透き通っている。
 こんな永久に続く夢のような光景の中、ぼくは彼女と最高の時間を共有している。


     ◎


 おれはバイトがあるので外へと外出した。外は生憎の雨で傘を差さなければならない。正直な話、面倒だった。
 二十歳から始めた一人暮らしは思いの他面倒で、仕送りがあるにせよ生活費にかなり困っている状態だった。二十一歳になった今も大学に通って漠然と生きていて、生活費の足しになるようにビデオ屋でバイト中なのだ。まあ退屈ではあるが、何となく充実しているとは思う。たぶん。
 アパートの鍵を閉めて傘を差して歩き出す。五分も行かない内に人通りがかなり多い大通りへと出る。雨が降っているのにも関わらず、いつもながらにここは人がごった返していて空気が薄く感じる。暇そうにしている人が大半だ。おれのようにバイトしろバイト。とは言うものの、たぶん向こうから見ればこっちもその連中と大して変わらないに違いない。ため息も出ない。
 呆然とビデオ屋までの道のりを歩く。何度も何度も通っているので体が自然と覚えていて、別に意識しなくてもその足はビデオ屋へと向かう。一定の速度で流れる景色を目から入れて耳から出していく。
 やがて人通りが一番多い十字路へと挿し掛かった瞬間、目から入って耳から出ていくはずの光景が、脳に入力された。
 足は自然と進むが、目がそれを見ている。視界一杯に広がるその中で、真っ白いカラーで一厘の花が刺繍されている子供っぽい傘から目が離れない。それは、彼女のお気に入りの傘と同じ柄だった。
 珍しいなと素直に思った。まだあの柄の傘があるんだ。だからどうだという訳でもないが、少しだけ昔を思い出していた。おれはそのまま足を進める。やがてその傘を差した人との距離がかなり縮まったとき、その人と目が合った。合った目が離せず、そのままずっと見つめ合って互いに擦れ違う。
 数歩歩いた所でおれの足が自然と止まる。ゆっくりとおれが振り返るのと、彼女が振り返るのは全くの同時だった。
 そのとき、時が確かに止まったはずである。
 そして、やっと理解した。
 流れる人波の中、おれはぽつりと言う。
「――……美咲?」
 向こうも気づいていた。
「――……恭くん?」
 おれは自然と笑っていた。彼女も、笑っていた。
 先ほど歩いて来た道を走って戻り、互いの手が届く位置まで辿り着く。周りを歩く人など、その時だけは見えていなかった。
 傘を差していない方の手を互いに合わせ、笑顔で再開を喜んだ。
「久しぶりだな美咲! 高校卒業以来か!?」
「うんうん、久しぶりだね恭くん! 元気してた!?」
 周りの景色が、あの三年前まで遡った気がした。それは一時の幻影、わかっている、わかってはいるが、今だけはそれに身を委ねてもいいのではないだろうか。
 彼女はおれを足から頭まで見つめ、また「うんうん」と嬉しそうに微笑んだ。
「それにしても、恭くんはあんまり変わらないね。背は伸びたけど」
「それを言うなら美咲も変わってないだろ。おれは、そうだな、背は伸びたな」
 そして、彼女が遠くを見据えるような視線をおれに送る。
「……もう違和感ないんだね、『おれ』って言っても」
「まあな。今では『ぼく』っつー方が違和感ある」
 似合うだろ? とおれが聞くと、彼女は思いっきり笑った。
「微妙だね。どっちもどっちかな?」
「む。それなら美咲もそうじゃん、まだその傘持ってたのか?」
 彼女は自分の持つ傘を少しだけ見上げ、くるくると回した。
「わたしのお気に入りだもん、そう簡単には捨てないよ」
 それから、彼女は「でも、今日恭くんと会えて何だかよかった」と言って、微笑んだ。
 そのとき、おれは初めて自分で自分がわかったような気がした。押し込めていた気持ち。しょうがないと諦めていたどうしようもない本音。それが、彼女を見て一発で返って来た。ああ、そうなんだなと思う。おれはちっぽけな一人の人間でしかないのだ。おれは、弱いのだ。おれの心はまだ、彼女に染められているのだ。
 そう思っただけで、何だか泣きそうになった。それを彼女に気づかれないように堪え、おれは笑う。
「時間あるか? 飯でも食いに行かねえ?」
「あ、うん。いいね、行こっか?」
「おう」
 今日だけはいいのではないか。今日だけは、あの頃のように同じ時間を共有してもいいのではないだろうか。
 あの夢のように、今だけは、そうしていたかった。


     ◎


 高校の授業を、始めて抜け出した。
 発端は彼女と一緒に昼休みに弁当を食べているときだった。何を思ったのか、彼女が突然「アイスクリーム食べたいね」と提案した。そにぼくが、「だったら食べに行こうよ」って冗談交じりに返答しのが運の尽きで、どうやら彼女はそれを鵜呑みにしたらしかった。言い出したのがこちらなので今更やっぱやめようとは言えず、流されるままに実行に移してしまう。
 しかし午後の授業はロクなのがなかったので、白状するとぼくも結構乗り気だった。友達から自転車の鍵を借りて自転車置き場へ隠れながら向かった。先生に見つかったらただでは済まない。それに細心の注意を払いながら進んで行く。途中で彼女が「スパイみたいだね」と嬉しそうに言っていたが無視しておいた。一つだけ断っておくが、いつもいつもこんなことをしている訳ではない。今日はたまたまだ。自慢ではないが、ぼくも彼女も学校では優等生で通っている。今日はええっと、そう、魔が挿したって感じだ、うん。
 ぼくも彼女も自転車通学ではないので、友達のを借りなければならないのは少しだけ誤算だった。友達の自転車の鍵を外すと、閉まっている門を開けて急いで学校から離れた。もたもたと自転車に彼女を乗せている余裕はなかったので、取り敢えず走った。怖かったけど、楽しかった。
 学校から姿が見えない所まで来ると、ぼくは荷台に彼女を乗せた。
「掴まっててよ。落ちても助けないからな」
「ウソばっかり。落ちたら絶対に助けてくれるクセに」
 照れ臭そうにそう言いながら、彼女がぼくの腰に手を巻いた。それを確認してからぼくはペダルを漕ぐ。だんだんと加速していき、自転車が道路を走る。
 そこはもう、二人だけの世界だった。
 町も風もすり抜けるようにぼく達は進み続ける。アイスクリームを買うという当初の目的を、忘れてしまっていた。
「うわあ、気持ち良いね、恭くん!」
 そう言って長い髪を掻き揚げる。彼女自身が意識していない癖だった。ぼくは、その癖が好きだった。
「うん、すごく気持ち良い」
 あの日のように、空は冗談のように青くて透通っていて。
 唐突に叫びたくなった。自転車に乗ってべダルを漕いだまま、ぼくは大声で空に吼えた。
「うわあああああああああああ―――――――――――――!」
 その意図を察してくれたのか、後ろの彼女も笑いながら青空に向かって大声を出した。
「わあああああああああああ―――――――――――――!」
 爽快な気分だった。
 二人揃ってそのあとで爆笑した。何がそんなに可笑しいのかってくらいに笑った。自転車は進む。
 このまま、彼女を永遠に続く時の向こうまで連れて行けたのなら、どれだけ幸せだろうか。ずっとずっとこのままでいらたら、どれほど楽しいだろうか。
 振り返ればいつも彼女がそこにいる。永い時の向こうで、長い髪を揺らしながら彼女は側にいる。それ以上の幸せなど、この世に存在するだろうか。
 青い空の下、いつまでもいつまでも、この夢のような光景を見られれば、ぼくはそれ以上何も望みはしない。
 この空が曇らぬ限り、そうしていられると信じていた。


     ◎


 バイトが定時に終って、スキンヘッドだけど根は優しい店長へ「お疲れッス」と声を掛けて店を後にした。
 時刻は夜の八時を二分過ぎていた。人通りが多いこの通りは、夜だというのに昼間以上に人がいて、街灯やビルの明かりが幾つもの小さな太陽のように見えた。薄い空気を胸いっぱいに吸い込み、背伸びをしてから歩き出す。人波へ呆然と足を飲ませ、家路に着く。
 ぼんやりと歩いていると、ふと前に彼女を見た。三年振りに再会したあのときから、今日で一ヶ月になる。久しぶり見た彼女は、やっぱり何も変わっていなくて、あの頃のままだった。
 笑うときの笑顔も、無意識に髪を掻き上げるあの仕草も、何も変わらずにそこにあってくれた。時の速さに消されることなく同じであってくれたことが、おれを三年前のあのときまで連れ去っていく。それが、何だか無償に嬉しくて仕方なかった。しかも、この場所は一ヶ月前に彼女と再会した場所と、全く同じ場所だった。運命なのかもしれない、と少しだけ馬鹿げたことを思う。
 おれは少しだけ歩調を速め、その手を上げ、そして、
 彼女の前に立っている、見知らぬ男を見て動きが停止した。
 それは、当然なのかもしれない。必然だったのだろう。笑顔も癖もそのままであったとしても、心までもそのままであるはずがなかったのだ。
 彼女の心は、おれではない、違う誰かに染められていた。中途半端に上げた手が凍り付いている。そのときになって初めて、【友達】という言葉の意味を思い知った。あの頃に彼女に言われた言葉を、三年経った今になって、ようやく理解した。運命だと? 何を自惚れているんだおれは。おれに、そんなことを思う資格などあるはずがないのだ。
 おれは、途方もない馬鹿だった。
 ――またね、ってその見知らぬ誰かと手を振って人混みへと消えて行く彼女の背中を見つめながら、
 おれは馬鹿だ。だけど、それでも。
 彼女の手をここで握って、そのまま奪ってしまい衝動に駆られた。
 自嘲染みた笑いがこぼれる。
 そんなことを思い、本当に駆け出して、そしてすぐに止まった。おれはその場で佇み、消えゆく彼女の姿を見送った。
 今度は、おれは本当に笑う。彼女は自分で決めた道を進んで行っているのだ。その道を笑顔で進んでいるのだ。それを、おれがぶち壊して何になるというのだろう。彼女が笑顔でいてくれればそれだけでいいはずだ。だから、おれはおれの道を進もう。いつか互いに、自ら進んだ道を誇れるように。
 夜の町を照らす街灯に身を委ね、おれは小さく見える夜空を見上げる。
 流れ星が一つ流れているのを偶然にも見た。
 それに祈るように、おれは笑顔で思う。
 ――いつかまた、会おう――って。
 君が、幸せになってくれることを願う。


     ◎


 それは、突然だった。
 学校から帰って来て、ベットの上に寝転がってテレビを観ていたら電話が鳴った。ぼくが受話器を取ると聞こえてきたのは彼女の声で、『今から会おう』と言われた。
 その声が、今まで聞いたこともないようなほど強張っていたのをはっきりと感じた。ものすごく心配になって慌てて家を出た。外は雨でも降り出しそうなほど曇っていて、夕方なのに夜のように思えた。
 約束の場所は、ぼくの家から少しだけ離れた所にある公園。そこは彼女の家とぼくの家を結ぶ中間地点みたいなものだ。
 公園の敷地内に足を踏み入れると、彼女は時計塔の下で俯いて立っていた。ぼくはその側へと駆け寄る。
「どうしたの美咲? 何か用でもあった?」
 しかし彼女は何も言わない。ぎゅっと握った拳を足に付け、ぼくが来たのにも関わらず俯いたままだった。
 言いようのない不安感があった。彼女がどこか遠くへ行ってしまうような、どうしようもない不安。そしてその重さに耐えられなくなって、ぼくが彼女へと再び声を掛けようとしたときにはすでに、予感は的中していた。
 俯いたまま、彼女は自分の中で考えに考え抜いたその言葉を、ぽつりと言った。
「……恭くん、わたし達、友達に戻ろう……」
「――……え?」
 そんな間抜けな声を出したぼくの頭は、思考停止になっていた。
 彼女の言った言葉の意味が全く掴めない。そんなぼくを見透かしたように、彼女はさらに簡潔に、その言葉をつぶやく。
「……別れよう……」
 曇りに曇った灰色の空から、ついに雨が降り始めた。
 最初はぽつりぽつり小さな雨粒が、数秒ごとに大きく多くなっていく。十秒もしない内に、それは本格的な夕立になる。
 彼女は、傘を持っていなかった。あの愛用の傘を、こんな雨が降りそうな日に持ち歩いていなかった。それはつまり。
 そして、ぼくがようやく彼女のその言葉の意味を理解した。雨が体を打ち続ける。髪から流れる雫が、とても儚かった。頭が真っ白になっている。
 それでもぼくは、口を無理矢理開け、その言葉を振り絞った。
「……どう、して……?」
 彼女がその顔を上げる。
 彼女は、泣いていた。雨で濡れていて泣いているかなんてどうかはわからないはずなのに、彼女は確かに泣いているんだとぼくにはわかった。
 雨に混じって涙を流し、彼女はずっと悩んでいたことを言い切った。
「もう疲れた……っ! 恭くんと付き合ってもう一年になるのに、恭くんはわたしに何もしてくれなかった……っ!」
 真剣に訴える彼女の瞳に、ぼくの体が凍てつく。
「手を繋ぐだけじゃわたしは嫌だった、キスとかもして欲しかった……っ! でも恭くんは何もしてくれなかった……わたしはずっと不安だった、恭くんは本当はわたしのことなんて好きじゃないんじゃないかって……。そんなこと思っちゃうと、恭くんと一緒にいるの疲れるんだよ……っ」
 最後の一撃を、彼女はぼくの心へ向けて打ち付けた。降り注ぐ雨の中、彼女は叫んだ。
「恭くんからわたしのことを好きだって言ってくれたことも一度もないじゃないっ!!」
 すべてを言葉にした彼女は、また俯いて微かに肩を震わした。
 そんな彼女に対して、ぼくは何も言えない。体を覆う雨の感触がない。だけど体は信じられないくらいに冷たくて、ぼくの心も完全に凍ってしまっていた。
 違う。その言葉を、ぼくはついに言えなかった。
 違うんだ美咲。ぼくが君に何もしなかったのは、してしまったら君との関係が崩れてしまいそうで不安だったからだ。
 君にぼくから好きだと言わなかったのは、言わなくてもわかってくれると思っていたからだ。
 考えてみればすぐにでもわかったことだった。何かを変えたいのなら行動するしかない。何かを伝えたいのなら言葉にするしかない。自分で納得してそれを他人に押し付けるのは、完全なエゴだった。それはただの自己満足に過ぎない。そんな当たり前のことを、ぼくは彼女に言われるまで気づけなかった。結果、それで彼女を追い詰めていた。さらに、ツケは必ず自分に降り掛かる。
 待ってくれ美咲。ぼくは、ぼくは君のことが――
 震える肩を抱き、彼女はゆっくりと踵を返す。ぼくの横を通り去るように歩き出した彼女の手を、無意識に掴んでいた。
 今伝えるから、ぼくの本心を。だから、
 そして、彼女はぼくの手を振り解き、雨の中へと消えて行った。
 追い掛けることなど、できなかった。その資格が、ぼくにはなかった。結局は、すべて自分のせいなのだ。
 ぼくは君を愛し、君はぼくを愛していてくれたと思っていた。思い上がっていたのだろうか。でも、ぼくの心は確かに君に染められていた。それを気づいてもらえなかったのが余りにもショックだった。
 だが彼女を責めるのは筋違いだ。責任はぼくにある。他の誰でもない、このぼくだ。
 だから、追い掛けてるなんて、できはしなかった。
 ぼくはその場に膝を着く。雨は止まない。灰色の空の下、ぼくは一人で泣いた。雨が止んでしまわないように願う。このままぼくが流す涙をすべて洗い流して欲しい。そして雨が止んだときには、ぼくの心まで洗い流して欲しかった。
 苦しまないで良いように。彼女が幸せになってくれるように。
 今だけは弱音を吐かせて欲しい。雨が降り続ける、この間だけは。
 冗談のように青い空はここにはない。
 それは、彼女との終わりを差していた――。


      ◎


 長い長い永久の夢が終った。
 夢が覚めたそこに、彼女はいない。
 おれはベットに寝たまま、泣いていた。
 いつまでもいつまでも、泣いていた。


 偶然の悪戯か、おれはまたそこで彼女と擦れ違った。
 ――また会ったな。
 ――また会ったね。
 そんな感じに目線で話して、歩きながら苦笑した。
 目線を外し、離れた所で立ち止まった。また、おれが振り返るのと彼女が振り返るのは同時だった。
 だけど、それだけだった。近づくことはもうしない。互いに歩んで行く道は違えど、いつか交わったとき、お互いの道を誇れるように、今はこれで抑えるべきなのだ。愚かだったあの頃の自分と同じ過ちは繰り返さない。それが、今のおれに唯一彼女にできること。
 今度は二人で笑う。
 おどけた感じに手を振った。
「バイバイ、恭くん」
「バイバイ、美咲」
 そして、おれ達は歩き出す。互いの、違う道を。
 空は冗談のように青くて、灰色の空はない。
 それは、あの頃とは全く別の関係を始める合図だった。
 ――おれ達は、歩き出す。


     ◎


 離れて初めて自分で自分をわかった。
 おれは呆れるくらいに弱くて、ちっぽけな人間だった。
 ただ、人間は変わることができる。戦うことだけが人を強くするとは限らないのだ。過去の過ちから目を背けず、真っ直ぐに向かい会えば人は必ず変わることができる。大切なのは、その一歩を踏み出すこと。過去の過ちと向き合う勇気を持つこと。それさえできれば、人は変われるはずだった。
 だから、おれは変わった。今なら言える。はっきりと、この永遠に続く青い空に向かって、叫ぶことができる。


 今なら君を最後まで守れるだろう。
 今なら君を離さずにいられるだろう。


 ぼくはまだまだガキだった。
 青二才の小僧だったのだ。
 それを悔しく思うこともある。だけど、それでも彼女から貰ったものは最高の贈り物だった。もう何もしてあげることはできないけど、彼女の中にもそんな物が必ずあるはずだ。ぼくが送った最高の思い出。彼女は、今もそれを忘れずにいてくれているだろうか。
 彼女の心の片隅には、今もぼくがいるだろうか。


     ◎


 記憶の中に埋もれている思い出は今も綺麗なままだった。
 だけどそれを思い出すと、少しだけ寂しくなる。いつかの彼女の腕のように、胸を締め付けられるような気がする。
 だからそれを懐かしむ。一時の幻影に少しだけ身を委ねてみる。また、変わるようにと。
 彼女と出会っても、笑っていられるように。
 情けない姿を見せないように。
 互いの道を、胸を張って生きれるように。
 向こうで、また会えたって話し合うために、ここに目を瞑る。


 汚れ無き恋をしていた。
 永久の夢は、もう覚めることはないのだろう。


 ぼくは――
 おれは――

 ここに、眠りに就く。

 永久の夢を、見続けるために――。




                           END


2004-09-11 21:09:50公開 / 作者:神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして方は初めまして、お久しぶりの方はそんな日にちは経っていませんがお久しぶりです。今までノンストップで長編ばっかり書いてきた自分ですが、久しぶりにショート(短編?)を書き投稿させてもらいました
この物語は、自分の好きなコブクロの「memory」「アンブレラ」という二つの曲を無理矢理融合させ、そこからオリジナルへと進化させて生まれたモノです。コブクロ及びその二曲を知っている人がもし一人でもいてくれれば、めちゃくちゃ嬉しかったりします(笑
さて。一人称で小説を書く、というのが実はこれが二作品目になります。初めては自分が最初に書いた長編小説でした。それにしても、難しいですね……やはり一人称と三人称の混合っていう、今の書き方が一番すんなりと行きます。そしてショートか短編かわかりませんが、これくらいの長さの物語を書くのが三作品目です。ショートを書くのがただでさえ下手糞なのに、そこに一人称とくれば一杯一杯です。もし何かとんでもない勘違いをしていたらやべぇなぁ、と(苦笑
しばらくはこれくらいのショートで攻めようと思ってます。長編は今現在オフで、一章一章がクソ長いモノを書いているのですが、ここではあまり好まれない長さなので封印です。もし読みたいという人がいましたらメールでもくれればお送りしm(撲殺
ゲフンっ。ゴフンっ。次は何にしようかなぁ。最近地震も多いですし、それ系の話でも書いてみようかなぁ。しかしまあ、この時期はテスト期間やら何やらで忙しいのでしばらく書けないような感じなんですが。今までの神夜なら「そんなモン知らねえよ」ってな感じですが、制限掛かっちまったのでピンチだったり(苦笑

遅くなりましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。自分のショートに『オチ』などという超技術は存在しません。自分の辞書には『不可能』という文字に赤線が引いてありますから。これからも書くとしたなら切ない恋愛モノとかです。もしよろしければ、また覗いてやってくださいな。
それでは、読んでくれた皆様に最高級の感謝をここに、感想、指摘、頂ければ幸いです。
(歌から小説作るのって反則なのか?などと思ってたり。とある方に相談し、今現在こうして投稿したのですが、もしイカンのでしたら連絡を)
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