『呪詛(加筆』作者:蘇芳 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約8.72枚
 
 酷い臭いが満ちていた。
床には腐敗した病院食らしきものがブチ撒けられ、形容し難いほどの異臭を発し、目を背けたくなる様を呈していた。
ベッドは吐瀉物で汚れ、壁には五本の細い血痕が、幾何学的な紋様のように刻まれていた。
壁を引っ掻いたのだろうか、所々の壁紙がめくれている。壁紙のめくれた部分に血が染み込み、まるで肉片が付いてるような錯覚さえも覚える。
ベッドに横たわる人物は、警察が犯人の拘束に用いる、拘束服を着せられて、ブツブツと何かを呟いている。
内容は聞き取れないが、それは不気味な物であった。
端的に聞き取り、自分で補完してみると、それは「嫌だ」と呟いているようだった。まるで古の術者が、相手を呪わんと唱えつづける呪詛。
そのような響きが、一拍途切れることなく続いている。
げっそりと削げ落ちた頬に、充血した紅い眼。そして目と対になるように、蒼白い肌。
筋肉が弛緩しているのか、口はだらしなく開いたままで、唾液がだらだらと垂れている。
切っていない、いや、切れないであろう頭髪は、かつて大ヒットを記録したホラー映画の人物を髣髴とさせる、気味の悪いものだった。
これが自分と同じ構造をもつ人間とは、俄かには信じ難い。
その鼻をつく腐臭と、呪詛の言葉。
それに耐え切れず、私は病室を辞した。


長いモルタルの床を歩き、院長室へと向かう。
途中すれ違った通院患者が、何か怯えたような表情を私に向け、目線を逸らした。
無理もあるまいな、そう思う。
看護士や入院患者、他の医師でさえも、私の顔を直視する事は無い。原因は、私の顔にあるのだろう。
私の顔には、大きな火傷の痕がある。顎から右の頬までを灼く、大きな火傷だ。
その部分だけ黒ずみ、醜く爛れている。
髪は染めていないにも関わらず、ほとんど白に近い。
恐怖に染まれば、一夜にして髪が白くなるという話がある。私の場合は生まれた時から白髪だった。自分で調べてみれば、単純に髪のメラニン色素が少ないだけだった。
異様な風貌に、ほとんどの人間が私を恐れていた。


無機質な扉の前に立ち、身なりを整える。
扉の上には明朝体で【院長室】と書かれたプレートが貼ってあり、それの影響で妙な威圧感とでもいう、圧迫感を示していた。
身内とはいえ院内での最高責任者に会うのだ、それなりに礼儀は見せないといけない。
ネクタイを正して、ドアを二回叩く。
 一拍置いて、扉が開けられる。
「あ、伊織さん、どうぞ」
 秘書の貴枝だった、それなりの美女である。この人も身内で、私にとっては従姉弟にあたる。
母方の従姉弟で、幼少の頃から何かと世話になっており、未だに頭の上がらない人物の一人でもある。
その貴枝に軽く頭を下げて、院長室の中に入る。
事務机に本棚。本棚の中には医学書やファイル、事典などが詰められているが、まるで今の状態が常とでも言わんばかりに、使われた形跡は無い。
ただ単に病院という場所だから、インテリアの一つとして置いてあるのだろう。
そして観葉植物が部屋の隅に一つ。青々とした針葉を広げるドラセナの幼木だ。
事務机の前には来客用のソファが一対に置かれ、その間にガラステーブルが置かれている。
足元は毛足の短い、赤茶けた色の絨毯が敷かれている。
この部屋の主、院長である高瀬源三は、事務机の上に置かれた書類に目を通していた。
 眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだった。
「院長、少しお話があるのですが…」
 遠慮がちに話を持ち出す。誰だって熱心に作業に打ち込んでいる人に話し掛けるときは、遠慮がちになるだろう。
 私の場合、原因がそれだけでは無いのだが。
「ああ、掛けて待っていてくれ」
 書類からは目を離さず、軽く手を挙げて、そう促した。
とりあえず言われた通りに、来客用のソファに腰掛ける。
おそらくあの書類は、昨日入院した参院議員の物だろう。
なにかと黒い噂が絶えないだけに、参院も慎重になっているのだろうか。このような場所まで、政治絡みの問題を持ってきて欲しくは無いのだが。
ガラステーブルには白いレースのクロスが敷かれ、丁度中心に位置するところに、灰皿が置かれている。
水晶か、ガラスか。とりあえず透明な灰皿に、吸殻は入っていない。
磨き上げられ、タールのこびり付きさえも見えない。
 煙草を吸おうかと思ったが、院長の手前でもあり、この灰皿を見てから、吸うのが悪いような気がしてきた。
「……」
 懐に入れかけた手を収め、両膝の上に置く。
「どうぞ」
 貴枝の声と共に、テーブルの上にコーヒーが置かれる。
 砂糖とミルクはついていない。甘いコーヒーが嫌いな事は、理解してくれているようだった。
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げ、コーヒーを一口啜る。
苦味と酸味、香ばしい香りが口の中に広がり、鼻へと抜けていく。
おそらく豆から出しているのだろう、私程度ならば、インスタントでも構わないのだが。
それを口には出さず、ちびちびとコーヒーを啜った。

「待たせたな」
 そう言って源三が、ソファに腰掛ける。
 間を置かずしてコーヒーが置かれる。よく気付く女性だ、と思う。
「突然お邪魔してすみません、あの患者なのですが…」
 源三が煙草を咥えると、貴枝が火をつける。
 源三の煙草、アークロイヤルの甘い香りが、鼻腔を擽った。
「ああ、私もお前を呼ぼうと思っていてな」
 そう言って煙草を咥え、煙を吸い込む。
「あの患者だがな、カルテは見たか?」
「いえ…精神病というのは分かりましたが……」
 カルテは見ていないが、あの様子を見る限りでは精神病だろう。
精神遅滞の延長か、それかPTSDだろう。
 併発して精神分裂病を引き起こしている可能性が高い。
「精神病、か…それだったら楽だろうな」
 言葉の意を汲み取れずにいると、煙草を灰皿に押し付けた源三が、重々しい声で続ける。
「あの患者は、こちらに移る前の病院でも、あの状態だった。無論、精神鑑定はできない。一度だが点滴を変えようとした看護婦が、ボールペンで腹部を刺されている。診察のしようが無いので、原因は一切不明。分かっているのは、暴力傾向と精神不安定のみ。そこでこちらに回されて来たのだが…正直なところ、うちでも持て余していてな、そこで伊織医師に頼みがある」
 嫌な予感がした。それが見事な形で的中するとは、思ってもみなかったが。
 源三がコーヒーを一口啜り、私の方を見る。
「人物の特定は出来ている、故郷は三次だ。三次へ行って、原因を探って来い。これは業務命令だ」
 釈然としなかった。何故ただの医師である自分が、病院にとっての業務外のことまでしないといけないのか。
そこまで一人の患者に拘るのは何故か。
 他にも、色々と思うところはあった。
「……はい」
 だが業務命令、逆らえば病院を追いやられるだろう。それに一介の医師に、院長に逆らうような力は無い。
それに断る為の、明確な理由というものが存在しない。ただ「嫌だから」という理由では、世間は渡っていけない。
嫌な事でも受け入れ、従うのが世渡りのルールである。
「分かりました…」
 不承不承にも承諾した。これが災難の、危険の始まりであるとも知らずに。
「よろしい、詳細は貴枝を通じて連絡する、それまでは院内で待機していてくれ」
「…はい、失礼させて頂きます」
 それだけ言って席を立ち、ドアノブに手を掛ける。
出て行く間際に、院長と貴枝に軽く頭下げ、そしてまたモルタルの廊下を歩いていった。


伊織が退室した院長室では、源三が頭を抱えていた。
 その顔は、酷く思い悩んでいる。そして後悔の色が強い。
「まさか、身内を使う羽目になるとはな……」
 オールバックで固めた髪に、両の五指を食い込ませている。
今にも頭皮を突き破り、血が流れ出しそうなほどに。
肩と手が小刻みに震えている。力が篭もり過ぎているのか、それとも恐怖しているのか。
その真意は定かでは無い。ただ源三は後悔していた。
小刻みに震える源三の肩に、貴枝の手が置かれる。
その顔には、悲しみの色が強い。
源三が、今にも泣き出しそうな童の表情を浮かべて、その手に自分の手を重ねる。
 院長室には、二人の嗚咽が響いていた。
2004-09-02 00:24:28公開 / 作者:蘇芳
■この作品の著作権は蘇芳さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
拝啓
残暑の尾を引く中、皆様いかがお過ごしでしょうか。この度は残暑を吹き飛ばそうと、テクモより発売された『零〜紅い蝶〜』をプレイしておりますが、それに突き動かされて、サスペンスホラーを書いてみようかと思いました。例の如くに更新が止まる事もあるでしょうが、続くところまではお付き合いくだされば、感謝の極みにございます。
敬具

投稿してから思ったこと、
「何だこれ、ひどっ…」
ちいとばかし加筆してきました。申し訳ない。
この作品に対する感想 - 昇順
まだ残暑が厳しいので涼しくなるような作品、最高ですね。サスペンスホラーですか。狂った患者の原因を探す医者の話ですね。最初の部分で患者がどれだけ狂っているのかがよく分かりました。何が彼をそうさせたのか、あっと驚く物を期待しております。
2004-09-01 21:45:00【☆☆☆☆☆】九邪
サスペンスホラーですか。いいですね、自分にはまず書けないジャンルだけに、暑さが吹き飛びそうです(笑  物語は序章なのでまだ何とも言えませんが、暑さが消えるようなゾッとする物語をお待ちしております。   話は変わって「紅い蝶」ですか!自分も去年の十一月頃に「ZERO」をクリアし、その頃に発売した「紅い蝶」を即効で買ってやりたくってました。めちゃくちゃ面白かったッス。中でもお気に入りが立花千歳ちゃん。兄ちゃんって……萌え(黙れ  久しぶりにやってみようかな……って、関係ないことを長々とすいませんでした(汗;
2004-09-01 22:13:18【☆☆☆☆☆】神夜
読ませていただきました。前半の何とも薄気味悪い描写が、ゾクゾクと薄ら寒くなるほどの臨場感を生んでおりますね。全体を通してダークな雰囲気に包まれており、まさにサスペンス・ホラーの序盤と言った感じです。「恐怖に染まれば、一夜にして髪が白くなる」と聞くと、乱歩の「白髪鬼」を思い出しますね。ぞわぞわと恐怖を喚起させて、とても惹き込まれる第一話でした。ワタシもフリーズ、と言うよりは半冷凍状態といった感じなので(笑、読者としてはちょこちょこ顔を出させていただく事と思います。楽しみにお待ちしておりますので、ぜひぜひ更新頑張ってくださいっ!!
2004-09-02 10:25:36【☆☆☆☆☆】卍丸
三次という土地に、あの底なし恐怖ワールドのような話が展開するのでしょうか。萌えキャラはでるのか、とか、いろいろ想像してしまいます。  冒頭でちょっとひっかかったのですが、吐瀉物は最近のものと考えられても、病院食がそのような形で長期放置されているというのは、正常な病院では、どんな凶暴な患者の病室でも、ちょっと不自然かと。拘束衣着せられる状態な訳ですし。『これが自分と同じ構造をもつ人間とは、俄かには信じ難い。』という1行が単独で投げ出されるのも、これだけのハンディを持ちながら精神科医という存在でいられる主人公の主観としては、あまりに無防備かと。精神科とはいえ、医大生の段階で解剖実習などで人間を即物的に見る鍛錬はなされているはずですし、インターンとしての場数も踏んで来ているわけで。それらの描写を残すとすれば、正常な病院でそうせざるを得なかった状況とか、充分に場数を踏んだ医師ですらそう思ってしまったという設定、そのあたりに言及があれば、逆にインパクト倍増するかも、などと思いました。
2004-09-03 12:44:21【☆☆☆☆☆】バニラダヌキ
表現が凄く上手いですね!!僕も見なら話なくちゃ・・
忙しくて、やっと読ませていただきましたぁ!!(すいません)
話しが、少し暗い感じの話しだと思います。すごく続きがきになるので、続き期待してます!!
2004-09-03 17:48:49【☆☆☆☆☆】ニラ
計:0点
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