『マリッジ・ブルー』作者:夜行地球 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 人の存在とは、なんて儚いものなのだろうか。
 手順さえ間違えなければ、その名前は戸籍から簡単に消される。
 存在の重みなんてどこにも無い。
 『存在の耐えられない軽さ』か、そんな題名の作品もあったな。
 まあ、いくら存在が軽いものであっても、『存在を消す』という行為の罪悪感は拭い去れない。
 後悔に意味など無いのかもしれない。
 けれど、『佐藤信二』はもう存在しない。
 昨日、僕が消してしまった。
 その事実が重くのしかかる。 
 決して、『佐藤信二』が嫌いだったわけではない。 
 長い付き合いだし、気に入ってもいた。
 『佐藤信二』抜きで僕の人生を語ることなんて出来やしない。
 それでも、消さないわけにはいかなかった。
 彼女と結婚するには、それしか方法が無かった。

 中村玲子。
 僕の最愛の女性。
 大学の劇団サークルで、僕は彼女と出会った。
 当時の彼女は看板舞台女優。
 同じサークルの僕らにとって彼女は高嶺の花だった。
 誰もが彼女の彼氏に立候補し、次々と落選していった。
 見事当選したのは、冴えない小道具係の『佐藤信二』。
 サークル仲間は誰も、このカップルが長続きするとは思わなかった。
 しかし、二人の交際は社会人になってからも五年間続き、結婚も近いとまで言われていた。

 そんなある日、玲子が僕の住んでいるアパートに現れた。
 突然の訪問に驚いていると、彼女は、
「なんだか急にあなたの顔が見たくなっちゃって」
 と言って悪戯っぽく笑い、僕を抱きしめた。
 その後の展開については、あえて言わなくても良いだろう。
 健全な男女が自然な流れで肌を重ねあった。
 ただそれだけの事だ。
 それからの僕らは毎日のようにデートを繰り返した。
 周囲の目なんて気にしなかった。
 言いたい奴等には言わせておけばいいと思っていた。

 突然の訪問から三十八度目のデートの時、玲子は僕に聞いた。
「私と結婚したい?」
 僕は驚きが悟られないように気をつけつつ、
「当たり前だろ」
 と答えた。それを聞いた玲子は、
「そう、それなら聞いてほしい話があるんだけど」
 と言って妖しく笑った。
 彼女の話は非常にシンプルなものだった。
 私と結婚したいなら『佐藤信二』を戸籍から消してくれ。
 要約すると、そんなところだ。
 最初から気づいていた。
 彼女が僕に近づいてくれたのは、僕がその手のお願いを聞いてくれそうだからだって事は。

 物事には準備期間というものが必要だ。
 『佐藤信二』を消すことを決心してから実行するまでに三ヶ月を要した。
 手順は嫌というほどシミュレートしていた。
 だから、現場に行っても動揺することなどは無かった。
 作業はあっという間に終わった。
 『佐藤信二』は、もういない。
 現場には多くの人がいたが、誰も僕の行為を気に留めていなかった。
 そこは、そういう場所だった。
 それからアパートに戻り、布団にもぐって一人で泣いた。

 そして、現在。
 僕の目の前で、多くの友人や親族がテーブルに座っている。
 昨日、僕が『佐藤信二』を消したことを知っているはずなのに、みんな笑顔で僕のことを見ている。
 その優しさが嬉しかった。
 隣の玲子もウェディングドレス姿で幸せそうに笑っている。
 その笑顔を見ているうちに、それまで感じていた罪悪感が消え去っていくように感じた。
「玲子ちゃん、おめでとう」
 遠くのテーブルから声が聞こえる。
 僕の知らない人の声。
 ここに来ているのは玲子の知り合いの方が多い。
 大企業の社長の一人娘ともなると、嫌でも知り合いが増えるらしい。
 結婚披露宴、か。
 昨日、市役所に行った時点では戸籍上から『佐藤信二』が消えただけだったが、これで『佐藤信二』は社会的にも消えることになる。
 バイバイ、『佐藤信二』。
 こうして、僕こと、旧姓『佐藤信二』は中村家の婿養子『中村信二』として新たなスタートを切ることになった。

 <終わり>
2004-08-27 19:09:04公開 / 作者:夜行地球
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■作者からのメッセージ
タイトルでネタばれしそうですね。
本当は、もっとすっきりまとめたかったのですが、途中で失敗しました。
コメントお待ちしています。
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