『電波受信中 一章』作者:一徹 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 第一章 渡る世間は鬼ばかり

あるところに、おじいさんとおばあさんがいた。おじいさん、といっても、おじいさんの肉体は老いておらず、マッチョで健康的で、おばあさん、といっても、おばあさんにあるようなシワはなく、背中も曲がっていない。二十歳前半の容姿を保っていた。
 おじいさんは、しばらく前に、山で鬼が暴れている、という話を聞き、かつての相棒、ずしりと重く、ぬらりと赤く不気味に光る出刃包丁を手に、山へゴミ掃除に、おばあさんは、実に一ヶ月ほど何もせずぐうたらすごし、いよいよ、と思ったその日、昼間のうちは熟睡し、夜になると淫猥な衣装で身を包み、ネオンの淡く光る街へ、馬鹿な男達をだまし金を根こそぎ奪うため、行った。
 街の黒くにごったどぶ川の横を通ったとき、おばあさんは、上流かどうか、水が停滞していて、よく分からなかったが、ともかく上流と思われる方向から、どんぶらこどんぶらこ、とまでは、川がねばねばしていたので、ありえないが、ともかく大きなグレープフルーツが流れてきた。おばあさんは、はじめ無視しようかと思ったが、かすかにだが、そのグレープフルーツから声が聞こえて、
「なんだい、まったく」
 と愚痴りながらも、そのグレープフルーツを岸に上げた。上げるとき、コンクリートに当たって、あるいは当てて、ご、と鈍い音がしたが、気にしない。グレープフルーツに耳をあて、
「おかしいわね、確か、ここから音が聞こえたと思ったんだけど」
 音は、ない。空耳、勘違いかしら、とおばあさんは思った。音、声が聞こえないのなら、このグレープフルーツは、ただの大きなグレープフルーツ(大きさを言うのなら、全長二メートル、横幅、奥行きともに一・五メートルと、世界を探しても、これほど大きなグレープフルーツはないだろう、というぐらい大きかったが、おばあさんにとってすれば、所詮どれほど大きかろうとも、グレープフルーツはグレープフルーツであった)である。家に持って帰るものでもない。そう判断したおばあさんは、まあ結局のところ面倒だったので、どぶ川へ、再度捨てようとした。
「こら、そこのお前。そんなところでなにをしている」
 そのときであった。背後から声がして、おばあさんは振り返った。
警察だ。
 警察の男は、おばあさんが淫猥な姿格好をしているのに気づくと、あからさまに嫌そうな表情を浮かべ、
「なんだ、売女か」
 と吐き捨てた。
 それよりもひどく、詐欺そのものを行ってきているおばあさんだ。警察の男の、売女、という勘違いは、それはそれでよかった。
近頃、世の中の治安が悪くなってきている。警察の指揮も、末端ともなると、サボりばかりで、売春婦ぐらいは、誰が見ても、文句など言わないのであった。
「その手にもっているのは、なんだ?」
「ああ、これ? グレープフルーツよ」
「グレープフルーツ? あれは、そんなに大きなものだったか?」
「品種改良が進んだんでしょう、きっと」
 おばあさんはいい加減なことをいった。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより、その大きなグレープフルーツを、川へ向けて傾けているが、それでどうするつもりなんだ?」
「どうするって、捨てるに決まってるじゃない」
「ほう、捨てるのか。しかし、それは許可できないな」
「? なにいってるの」
警察の男は、ごほん、とせきをして、
「俺だって、人のポイ捨てをとやかく言うのは、面倒くさくてたまらんのだ」
「だったらほうっとけばいいじゃない」
「そういうわけにもいかんから、現に、お前を注意してるんじゃないか」
「なんでだめなのよ」
「ふん、これだから、売女は・・・」
 警察は、やはりはき捨てた。
 怒ったのはおばあさんである。
「・・・あんた、なにふざけたこと抜かしてんの」
売女でもなんでもない、ただの詐欺師なのに、マシンガンのごとく、けれど冷たい視線のまま、まくし立てるおばあさん。
「そもそもね、売春婦の人が、そういう仕事してるのは、あんた達国の人間がしっかりしてないからでしょう・・・。全部不景気が悪いのよ。わかる? ぼうや、誰だって、好きでもない男に抱かれる仕事なんてしたくないわよ。それなのに、やらなきゃいけない。あんたらに、その気持ちが分かる? ・・・分かるわけないわよね、だって、ぼうやは国家試験を、がんばって通ったエリートさんなんですもの、ねえ?」
警察の男は怯えた。
「わ、分かった、俺が悪かった。だから、そういう槍みたいな視線を向けるな」
「分かったら、いいのよ、ぼうや」
 俺より年下なのに、ぼうやとは何事だ、と警察官は言いたかったが、痛い視線を食らうと、今度こそHPが〇になってしまいそうだったので、口を閉じた。
「で、話戻すけど、どうしてダメなの? 捨てるのが」
「ああ、それはですね、今回市長に当選した人が、街の有様をみて、これではダメだと言い出しまして」
 敬語で、というより腰を低くして理由を述べる。
「それで、まず外見から、とかおっしゃられてまして、街を上げてのクリーン活動に取り組んでいるわけでありまして」
「ああ、そう。分かったわ、それで、捨てるな、と」
「そうなんですよ。市長は警察を総動員して、街をきれいにする、と。それで、もしきれいにならなかったら、減俸になるんで」
「無茶苦茶な市長ね」
 おばあさんは、こぽこぽと変な風に泡のたつどぶ川に目をやった。
「それで、・・・この川はどうなの?」
「不味い状況ですね。このままじゃ、当分、晩飯のおかずはたくあんかなあ」
「ああ、そう・・・」
 警察も警察で大変なのね、とおばあさんは思った。
「ですから、そういう大きなグレープフルーツを捨てると、なお片付けしにくくなりますから、どうか、お持ち帰りなれませんでしょうか」
「でも、一個ぐらい・・・」
「ダメです!」
 今度は、警察官の番であった。けれど、腰は低いままだ。
「考えてください。もし、貴方が一個グレープフルーツを捨てたとして。一個だけならば、なに、簡単に片付けられましょう、けれど、他の人が同じようにグレープフルーツを捨てないとも限りません。人間というのは、他がやっていたら、自分も、というようにズルい生き物ですからね、貴方が捨てたとたん、そこらじゅうの扉が勢いよく開けられて、これ幸いといわんばかりに中からたまりにたまったグレープフルーツを捨てるため、何十人、何百人、ともすれば何千人という人が、どっと雪崩のごとくあふれ出てきて、割と大きめなこのどぶ川はもちろんのこと、たとえ一級河川といえども、グレープフルーツで埋まりきるのに、一週間、いえ、三日とかからないでしょう。そうなれば、どうです? 全部片付けるのに、ショベルカー、ダンプカー、そのほか色々なものが必要で、費用が何千万必要か」
「いや、そこまではならないと思う・・・」
「甘い!」
 警察官は断言した。
「人間は、卑怯な生き物です。この川がグレープフルーツで埋まっていると、放送局から人が来て、全国に放送されてでもみなさい。全国からグレープフルーツを捨てるため、この川に人が集まってきます。そうすれば、片付けても片付けても、グレープフルーツはなくなりませんし、人が来れば、街は散らかります。人は、自己中心的な生き物で、自分の部屋、家、街がきれいなら、他のところはどうなろうと構わないとか思ってるんですよ。そうすれば、減俸は退職になるその日まで続くことになるのです」
「よく分かったわ、ありがとう」
 よく分からなかったが、頷いた。話を聞くうち、面倒になってきた。
「それにですね・・・」
「あ、いいわよ、もう分かったから」
 長々としゃべる警察官の相手をするより、グレープフルーツを持って帰ったほうが、面倒くさくないように思えた。
 当然、グレープフルーツのことなど考えない。
グレープフルーツは、どこまでいってもグレープフルーツだからだ。


 ともあれ、ポイ捨て禁止を頼まれたおばあさんは、面倒ながら、グレープフルーツを家に持って、いやむしろ転がして帰った。油のギトギトなどぶ川から拾ったグレープフルーツである。どう扱おうが、構うまい。
「ああ、おじいさんは、まだ山ね。出て行って、どれぐらい経つかしら」
 おじいさんの活動力にあきれ、ため息をついた。
「それにしても、おじいさんは元気ね。ま、何百もある鬼が島の鬼を完全抹殺しただけはあるわね。そんなに鬼が憎いのかしら」
 と、声がする。転がし、ぼこぼこに変形した、グレープフルーツからである。
「・・・だ・・・た・・・お」
「あら、声が聞こえるわね」
 グレープフルーツに、耳を当ててみる。
「よく聞こえないわ」
「・・・・・・助けてくれ・・・」
「人? 中に、人が入ってるの?」
 グレープフルーツに、人が入っている。この事実に、おばあさんは、面倒さを隠しきれない。このまま捨ててしまいたい。おばあさんは、そんなことを考えた。
「・・・た、・・・たすけ・・・」
 けれど本当に捨ててしまえば、法的にまずそうだ。訴えられるかも知れない。だから、いやいやながら、グレープフルーツを割ってみることにした。
 しかし、割るためには包丁が必要である。その包丁は、今朝おじいさんが山へ鬼退治に持っていってしまっていた。
「どうしようかねえ・・・」
 おばあさんが、捨てようと本気で思っていたとき、グレープフルーツの人が、外の人の気配に気づいたようで、声を荒げていった。
「そ、そこに誰かいるのか! 頼む、俺をここから出してくれ!」
 気づかれた。おばあさんは舌打ちした。これでは、気づかず捨てた、という言い分も通りそうもない。
「誰もいないわよ」
「いるじゃないか、そこに」
 すぐに突っ込みを入れるグレープフルーツ。きっと中に入っているやつは、ものすごい地獄耳なのだろう。とんでもないものを拾い持ち帰ったこと、まあ転がし帰ったことに、おばあさんはいまさらながら後悔した。
「誰もいないって言ってるのに、聞き分けのない子ね」
「聞き訳とか言う問題じゃねえ。とっとと出してくれ、さあ早く」
「知らないわよ、あんたなんか。勝手にグレープフルーツの中に入ったんでしょう。だったら、勝手に出ればいいじゃないの」
「出れないから頼んでるんじゃないか!」
「そもそもね、どうしてあんた・・・・・・」
 グレープフルーツの中になんて入っているの、という質問は、のどでとめた。グレープフルーツの中に入っている、ということだけで、ややこしく面倒なのだ。理由を聞いて、これ以上、面倒にしたくない。
「なあ、なに黙ってんだ?」
「・・・・・・」
 おばあさんは、考えた。どうすれば、面倒にならないのか。けれどそれは不可能のように思えた。
「なあ、とっとと出してくれよ」
「・・・・・・あ」
 おばあさんは気づく。面倒にならない、最良の方法を。
「あんた、ちょっと待っていなさい」
「え、なに」
 家を出て行くおばあさん。家ごと捨てたのだろうか。いやいや、おばあさんは、そんな無駄なことはしない。
「あの・・・もしもし?」
 グレープフルーツの声は、しん、と沈みかえった居間に響いた。
 それからしばらく。数十分ほどたって。
 外が、騒がしくなってきた。入ってきたのは、おばあさんと、若い女だ。女は、おばあさんに引きずられるように入ってきた。
「なにがあったのですか。授業中にいきなり呼び出して」
「あんたね、小遣いが欲しいって言ってたでしょ?」
 若い女。十台後半のおばあさんの娘だろう女だ。くすんだ金髪のショートカット。ボーイッシュな感じ、乱暴そうだ。
「え、誰?」
 グレープフルーツは、訊いた。が、おばあさんは、答えず、フフフ、と笑みを漏らしながら、ごす、とグレープフルーツを殴った。衝撃が内部まで伝わり、無音となる。
「な、なんですか、これ・・・」
「見て分からない? グレープフルーツよ」
「えっと、微妙に分からなかったりするんですけど・・・」
「気にしてはダメ。小さなことを気にしてたら、お母さんみたいな立派な女になれないわよ」
 お母さんのどこが立派なんだ、と娘は考えたが、口に出さなかった。娘まで敬語で接さざるえないほど、おばあさんの放つオーラは、相手を屈服させる力を持っていた。
「それより、あなた、知ってる? この巨大種のグレープフルーツには、お金が入ってるのよ」
「え、本当ですか」
 娘は目をきらきら光らせた。
「ええ、本当よ。いつ、お母さんがウソなんて付いたかしら?」
「え、でも、この前大事な仕事で街に行くとかいって、実は父とのデートだったじゃないですか」
 おばあさんは、笑みを凍らせ、ずいっと娘に顔を近づけ、
「・・・つけたのね?」
「いえ、そういうわけじゃ・・・」
「じゃあ、なんでそういうことを知ってるの?」
「え、あの、そのう・・・」
 お母さんは笑っているが、目が笑っていない。強気なはずの女は、実の母に冷たい氷の刃のような視線を向けられ、ごもごもと口ごもった。
「つけたのね?」
「いえ、そういうわけじゃ。その、わたしの友人が、お母さんと父が一緒にいるところを発見したといってたんです」
「あら、そう」
 おばあさんは、ふふ、と笑った。そのとたんである。家の空気が、固まった。女の背中には、じとっと冷や汗が流れ、鳥肌まで立っている。
「今回は、許してあげるけれど、ウソは身を滅ぼすだけよ?」
「え?」
「お母さんが、どれだけ情報流出を恐れていると思っているの? 写真だって、一枚も残していないわ。これで、どうやってその友達が、私たちと、あなたを親子だって見分けられるのかしら?」
「・・・す、すみません」
 そこまで徹底しなくても。別に写真でもなんでも撮ればいいじゃない。娘は思ったが、口に出さなかった。これ以上、反論すると、身の安全が保障できないと、そう思ったからだ。
「お母さんだって、普通に暮らしたいのよ?」
「は、はあ」
 これこそがウソである、と断言したかったが、しない。理由は前述した通りである。
「でもね、お父さんが、そういうの、嫌いなのよ」
「父が?」
「そういえば、あなた、お父さんとちゃんと会ったこと、ないわよね」
「ええ。世界中を飛び回る仕事についている、と訊いています」
「半分あたりで、半分大はずれ」
 くすりと笑う。
「それはどういう・・・」
「お父さんはね、馬鹿なの」
・・・・・・?
「え、よく意味が」
 娘は戸惑った。
「だから、言ってるじゃない。お父さんは、馬鹿なの。いつも、意味の分からない気分で行動するかと思えば、これが規則だ! とかいって飛び出しちゃうこともあるし、藁を持って、シャツとズボン、草履で出かけたかと思えば、後ろに何人かの黒い服を着たボディーガードを雇って、彼らに一箱何千億も入っている銀色のアタッシュケース、何十個を持たせて帰ってくるし、久しぶりに正装で出かけたな、と思っていても、帰ってくるときは生クリームにまみれて、まるでマシュマロのような姿形になってるときもあるし。海に行ってくるって海パンはいていって、宇宙船で帰ってきたこともあるわ」
「つまり、それは・・・」
 要約しようと思ったが、不可能であった。
「だから、馬鹿なの」
 それでまとめていいものか、と娘は思ったが、確かに考えてみると、馬鹿、という言葉かが一番あっているような気もする。自分に父へ対する考え方がないのに、拒否することも出来まい。
 途中、変態、という言葉も浮かんだが、父を変態呼ばわりするのは気が引けて、というかまだ馬鹿のほうがマシのように思え、やはり黙った。
「その話は置いておいて、問題はこれよ」
「え、問題ですか?」
娘は母の口から滑り出た本心に疑問をもった。
「え、なにいってるの? プレゼント、よ。プロブレムじゃないわよ。似ているから、聞き間違えたのね」
 言い訳にもなっていない。合っているのは最初の『プ』のみである。
「言ったのは、もんだい、で英語のプロブレムは言ってなかったと・・・」
「気にしちゃダメよ」おばあさんは可愛げに指先で娘の唇をつつく。
「ほら、あなた、今英語を勉強してるじゃない? だからよ、きっと。お母さんが『プロブレム』といったのに、頭で自動翻訳して『問題』にしちゃったのね」
「結局、お母さんが言ったのは、『プロブレム』、問題、なんですね?」
 娘の突っ込みに、おばあさんは、
「気にしちゃ、駄目よ?」凄味をつけて、唇を、今度はつつくのではなく、手の平で押さえつけた。
「もが、もが」
「そう、プレゼントを貰えて、うれしいのね。母さんもうれしいわ。ふふっ、早くマップタツに分割したいって顔ね」
 娘は手の拘束から逃れるため、後方に下がる。が、そのつどおばあさんも前進して、さっぱり手は離れない。
 最後には、壁まで娘を追い込んで、が、と壁に押し付け、完全に動きを取れなくしてしまった。
「本当、母さん、今までケチりすぎたわよねえ。娘にちょっとも小遣い上げてなかったんですもの。ごめんね、これでも必死でやりくりしてたの」
 さっき、何千億入るアタッシュケースを何十箱も持って帰ってきた父の話が脳裏をよぎったが、口を押さえつけられていていえなかった。押さえつけられていなくとも、いえなかったろう。
「だから、この金の入っているグレープフルーツを、あなたにあげるわ。素敵な問・・・こほん・・・プロブレム・・・コホンコホン・・・プレゼントでしょう?」
 笑みで娘を見る。
「いい? お母さんの善意、受け取ってもらえるわね?」
 が、娘にしてみれば、いつ殺されるかもわかったもんじゃない、音声が、『少量』、のただの恐喝であった。恐喝であるから、断れば、悲惨な結果が待っていると考えねばならぬ。恐喝する人間が母であるならなおさら、こくん、と頷くほかない。
「そう、よかった。気に入ってもらえて」
 おばあさんは娘の口から手をのけた。
「あ、あ、ありが、ありがとぅ・・・」
 恐怖で舌が回らない娘。
 おばあさんは知ったこっちゃない、とグレープフルーツという問題、もといプロブレム、もといプレゼントを渡した。
「それじゃ、学校のほうもがんばってね?」
 無理矢理送り出される。


 その日の学業を終えた娘は、部屋に置いたおいたグレープフルーツを取りにいった。戸を開けると、中からむっとした空気が流れてきた。なにせ、今の季節、クーラーの利いている教室と違って、自室は一日中閉めきられて、大変なことになっていた。
 こんな中に生ものなんて置いていたら、確実に、腐るか、O-157大増殖である。
「お母さんはああいってたが、この中にお金が入っているなど、信じられないな」
 グレープフルーツを探す娘。しかし、自分が置いたベッドの上にそれはなく、あったのは、ベッドから離れた部屋の隅。勉強机の上に置かれていたインクは無残に飛び散り、グレープフルーツの黄色さと絨毯の床を黒く染めていた。
「な、なにがあったんだ?」
 誰に訊くともなく、娘はいった。言ったといっても、ぼそりと呟く程度である。しかし、それにグレープフルーツは敏感に反応した。
「・・・・・・」
 声は聞こえないが、なんというか、無音の訴え、というか、そういった類のものが、グレープフルーツから染み出してくるようである。
 娘は、ゆっくり怯えた足取りでグレープフルーツに近づく。グレープフルーツは何も言わないが、代わりに不可解な力でごろごろうごめいた。
「ポルター、ガイスト・・・?」
 怖くなった。この部屋には、誰かいる。誰か、相手が幽霊なので分からないが、そのことが恐怖をより強いものにした。
「ひ、人を呼ばないと・・・」
 人一倍負けん気が強い彼女であったが、母とそういうオカルト関連には弱い。だから映画でよくある、ちょっとした興味心から危ないものへ近づく、なんてことは間違ってもなかった。
 部屋を走り出ていく娘。
グレープフルーツから、
「・・・たすけ・・・」
 なんていう、ようやく絞り出したような声は、まったく、本当にこれっぽっちも届かなかった。


 呼んできたのは刑事である。前、テレビで「刑事は現実しか見ない」という話を聞いて、不可解な謎も、至極簡単なことだ、と一発で推理して解決してくれそうな気がしたからだ。
「ここだ」
部屋の前に立って、いう。
「お嬢ちゃん、おじさんは、仕事中なんだかね」
刑事は苦笑いで答えた。とはいえ、若い子に相手にしてもらって、うれしそうである。
「この部屋には、来るときにいったように、幽霊がいる」
「幽霊、ねえ」
「幽霊なんていう不可思議なものは存在していない、と思うが、部屋の中のものが動いて、こわ・・・こほん・・・うるさくて眠れないのだ」
 娘は冷静を取り繕った。見抜けぬ刑事ではなかったが、とっとと終わらして本業に戻りたく、そういうことにしておいた。
「でも、そんなのだったら、おじさんを呼ばなくても、他の人を呼べばよかったじゃないか」
「いや、私の知り合いは皆怖がりだから、言ったら絶対来てくれない。それに・・・」
「それに?」
「刑事なら、幽霊の存在を完全に見破り、いないことを証明してくれそうだったから」
「う〜ん」
 刑事はあごをさすった。
「どうした?」
「いや、お嬢ちゃんはお化けを信じていないみたいだけど、おじさんは信じてるからね」
「え・・・?」
「おじさんは特殊な刑事でね。凶悪犯罪ばかり任されているんだが、仕事柄流血沙汰が多く、今まで数え切れないぐらい人の死に関わってきていてね・・・よく、聞こえるんだよ」
「な、な、な、な、なに、が?」
 そこまで、どもらなくてもいいのではないか。刑事は娘の底のない恐怖心に呆れた。
「ありがとう、という声がさ」
「・・・・・・!」
 娘はふらついて、額に手を当てた。
当初の予定ならば、幽霊などいないことが立証されて、ああ安心やっぱりそんなことないよね当然だよねははは、と笑っているころあいだったのに、刑事の話を聞けば聞くほど、身体は震え、この場から逃げたい衝動に駆られるではないか。
「それに、このご時世だ。皆未練ばかりで、そこいら中に幽霊はいるだろうね、きっと」
「・・・・・・」
「おじさんの家系はみんな刑事だったんだ。刑事といえば、殉職だろう? すると、全員残ってるわけだよ、こっちに。仕事がない日とか、家ごろごろしていると、ざわ、ざわって、ほんと、騒がしくてたまらないよ。家内はとっとと除霊しろってうるさいんだけど、なにせご先祖さまだ。大事にしないとね」
「・・・・・・」
「ああ、ごめん。この部屋のポルターガイストのことだったね。ん? この部屋は・・・」
「へ、部屋がどうした?」
意味深に刑事が言ったので、娘は尋ねたくないながら、部屋の住人として尋ねた。
「十数年前、この学校で殺人があって、まだ危ない橋を渡る前の若かりしころ、おじさんが調べることになったんだが、被害者が殺されていたのは、確か、この部屋だったような」
「!」
「あの時は凄かったなあ。部屋中が血だらけだったね。よくアレだけ血が吹き出たよ。きっと高血圧だったんだろうと今更ながらに思うよ」
 刑事は昔を懐かしんでいるようだ。
 この刑事はなにかと危ない。だから特殊刑事になったんだろう。娘は内心舌打ちした。このままでは、いつ心臓が止まるか、分かったものではない。
「加害者の子も、自責の念に駆られて、頚動脈を刃物で・・・」
「わあああああああああ!」
「うわっ。どうしたんだい、急に大きな声をだして」
「頚動脈の話はもういいだろう、うん、いいに決まっている。頚動脈なんて、必要ないんだ、うん、生きていくためには衣食住が必要で、頚動脈なんてものは必要ない」
「まさか怖いというわけでもないだろうし。病院にいったほうがいいんじゃないかな」
 お前か行け、と娘は思った。
「とはいっても、暑いね」
「まあ、このごろは異常気象が続いていて、夕方でも三十度を越えるからな」
「となると・・・うわ、お嬢ちゃん、部屋の中、熱気ですごいことになってるよ。天然の蒸し風呂だね。これじゃ、幽霊もこの部屋には入れそうもない」
 娘は表情を輝かせた。
「え、幽霊はいないのか?」
「たぶんね。なに、幽霊だって、元は生き物だ。好き好んで暑い場所になんていたくない。昔なんかは墓地が涼しいって集まってたらしいけど、このごろはクーラーがあるだろう? だから、そういうところの前に集まって、涼んでいるってわけさ。どんな未練怨念も、暑さ寒さには勝てないね」
 自室にクーラーをつけていなくて幸いであったと、娘は初めて思った。
「う〜ん、そうなると、ポルターガイストの話も、信じられないぞ」
「え? え、ええ、そうだ、うん、そうだ、ポルターガイストなんていうのは、きっと私の勘違いだったんだ、うん、すまない刑事、仕事中に呼び出して」
「まったく。ちゃんとしてくれよ、お嬢ちゃん。これじゃ、いつになっても仕事が終わらない」
 刑事が、ははあ、とため息を付き、娘が緊張の解け始めた表情に笑顔を浮かべた直後である。
部屋の中から、がた、と音が響いた。緊張の糸は、さらに張り詰める。
「・・・今のは?」
「きききききっとすずめか何かだ。もしかすると、カラスかもしれない。あるいはフルーツ好きな生物だ。私の部屋の中にはグレープフルーツが置いてあるから、きっとそういうグレープフルーツを追い求めて集まってきたんだ。うんきっとそうだそうに違いないうん」
「・・・もしかすると」
 刑事は幽霊がいて、何かものを動かしていて音がした、とは考えなかった。それより思考の先端に来るのは、空き巣、盗人。それも若い女性ばかり狙う下着ドロの可能性が大きい。
「きっときっとまた聞き間違いだあ! そうに決まっているう!」
「し・・・」
 刑事は懐から銃を取り出し、構えた。危ない橋ばかり渡ってきた刑事にとって、発砲は危ない、という判断に至る思考回路は、とうの昔になくなっていた。
「銃は不味い・・・」
「大丈夫。相手が反応する前に撃ちぬくから。頭を」
 このとき娘は幽霊より、この目の前にいる刑事のほうが数百倍危ないことにようやく気がついた。幽霊が怖い? なんてことを考えてたんだろう、幽霊は所詮幽霊、クーラーのあるところでしか活動できない貧弱野朗ではないか。それに比べて、この人間は。危ない、としか形容の仕様がない。やはり、人間がもっとも恐れるべきなのは人間なのだ、と哲学的なこと、ともすると常識的なことを、娘は突入するまで、脳内で何十何百と反復して唱えた。
 そして突入する。娘は戸のところで残っておきたかったが、なにしろ部屋の主は、悲しいかな、自分である。赤の他人が銃器を振り回し侵入するのに、自分だけのほほんとするのは、なんだか許せないような。
「そこにいるのは誰だ!」
 いたのは、頭に角を生やした人間であった。頭に角を生やす時点で、すでに人間ではないのだが、刑事にとってすればそんなものは関係なく、姿を確認した瞬間、それはただの的と化した。
 発砲。
 頭に角を生やした人間は、軽やかなステップでグレープフルーツを持ったまま窓から逃げた。撃ち放たれた弾丸はグレープフルーツにめり込んだが、気にしない。
「ち、逃げられた」
「いきなり発砲するのは、なにかと不味い・・・」
「え、そう? でも頭に生えている角を見る限り、あれは鬼の類だったから、一瞬反応が遅れたら、こっちが切り刻まれてたよ?」
「え」
「鬼はね、ああ見えて人間なんかより、何倍も素早いし何倍も力持ちだし何倍も頭がいいんだ。いうなれば、人間より進化した高等生物だね」
 人間がそんなこといって完全敗北を認めてしまっていいのだろうか、と娘は考えたが、おおかたこの刑事にとって進化とか高等生物とか、そういうのは所詮銃の前には無力なのだろう。せめて、手を上げろ、ぐらいはいうかと思ったが、いきなり発砲するし。
「それにしても、何か盗られたようだけど」
「あれがさっきいっていたグレープフルーツだ」
「あれが? ずいぶんでかいグレープフルーツなんだね」
「おおかた品種改良だろう」
 娘はいい加減なことをいった。
「母からもらったのだが、あの中には種の変わりに黄金が入っているらしい」
 おばあさんはそんなこと、まったくこれっぽっちもいっていなかったが、これだけ苦労しているのだから、それぐらいあってもいいじゃないか、という娘の願望に近い申告だった。
「種が・・・黄金・・・そんな阿呆な・・・いや、まさか、彼が手を加え・・・」
 刑事は小言でぶつくさつぶやいた。
「どうしますか、刑事」
「・・・追おう。訳のわからん鬼に馬鹿にされっぱなしというのも、気に入らないしね」
 刑事は適当な理由を装った。
2004-08-14 00:46:12公開 / 作者:一徹
■この作品の著作権は一徹さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
始めは格好良く書くか、完全パロディーを狙っていたのですが、途中から意味が分からなくなりました。この調子でまだまだ続きます。ええ、長いです。まさか、これほど長くなるとは、作者自身思いもしませんでした。長くなると、こういう投稿小説には向かないとは思いますが、どうか根気をもって読んで感想か何か、お願いします。
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