『アニマ・シャドウ 0〜0・完結』作者:冴渡 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角65368.5文字
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原稿用紙約163.42枚
  ◆アニマ・シャドウ  0〜0・完結

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 0. 序章
 
 私は床に傍観すべく座っている。

 目の前で暗黒が囁くように蠢く。

 蠢きは次第にヒトの形となり、蠢きは静寂に変わった。

 静寂は静かに私に向かって伸び、私の手を強く掴む。

 捕えられた私の手は、行き場を無くし漂うように下に落ちた。

 小さな汚濁が私を汚した。私の体中を駆け巡るように流れるモノ。

――――赤い赤い、汚濁の血。

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 1.  スタートライン

 春の暖かい陽気の中、二人の男女が待ち合わせをしていた。
先に来た女性が公園の噴水横のベンチに座っている。
 通りすぎる人たちが、思わず振りかえるような美人。それが菅野ゆきであった。
 彼女は今、大学に通っており、今年で二年生になる。
 漆黒の長い艶やかな髪、透き通るような白い肌、花を落としたかのように赤い唇。細い肢体。確実に人の目を引く、艶やかな女性だった。
 しばらくすると、そこに一人の男性が走りよる。
 その男の名を藤堂誠司。彼女と行っている大学は違うが彼も大学二年生。
 容姿も一般的で、特に目立つところはない。

 この二人の間には小さな鎖があった。
 切っても切れない、重く、血塗られた鎖が。
 
「…ひさしぶり…ですね。」
 小さくゆきが声を出した。まるで、会いたくなかった、とでも言うように。
「本当に、こんなところにお呼び出しして申し訳ありません。」
 ゆきの嫌そうな様子に、少し心苦しそうに誠司は返事をした。
「いえ…別にお気になさらず。ところで、一体何のためにここに…?」
「もう、あの事件から十二年になります。」
「…あの事件の話はもうしないと…」
 眉間にシワを寄せ、明かに不快そうなゆきを尻目に、誠司は口を閉じない。
「もうしないと、約束しました。けれど、僕はやはりあの真実が知りたい。あなたも、そう思ったことはないのですか?」
 それは…と口篭もるゆきに、さらに誠司は言葉を続ける。
「なら、今一度、追いかけましょう。あの事件を。」
「嫌です…!」
 ゆきははっきりとした口調で誠司を拒んだ。
「貴方には、貴方には分からないのです!私は、私は嫌です!私は、思い出せないのです。あの日の事を、何一つとして。私が思い出せば全てが分かるというのに…。期待されても困ります。本当に、何一つとして思い出せないのです。思い出そうとしても、頭が痛んで思い出す事を拒むのです。」
 ゆきは涙を目にうっすらと溜め、身を守るようにして縮こまる。
 一瞬、子供の笑い声が小さくなり、静寂が周りを包んだ。
「…僕は五年前、当時十五歳の高校一年生であった貴方に思い出すことを強制しました。そして、思い出せない貴方に対して酷いことを言ったことをお詫びします。ですが、今度は貴方の記憶を当てにしていません。あの日、あの三人に何が起こったのか。誰が、どのような目的で、あのような事件が起こったのか、知りたいのです。」
「…それでも、私は嫌です。今さら、掘り起こしてどうなるというのですか。」
「…貴方は、平穏を望んでいる。それは分かります。僕だって思い出したくはありません。でも、それ以上に真実を知りたい。」
 誠司は少し黙りこんだ。
「貴方は、お強いのですね。でも、私は・…。」
「進まなければ。僕たちは、あの日から一歩も進めないでいる。」
「進…む…。」
「そう。スタートラインに立ちましょう。僕たちは十二年経った今、ようやくスタートラインに立つ機会を与えられたのです。」
「…そうですね。」
 噴水の端で手を水につけながら、ゆきは呟くように言う。
「…ご協力、いたします。私に出来ることがあれば、の話ですが。」
「ありがとうございます…。」
 本当に、ありがとうございます、と何度も何度も誠司は頭を下げた。
「…あの、頭を上げてください。」
「いえ、こうしたいんです。本当に、僕の勝手な気持ちで、貴方に嫌な思いをさせることを許して下さい。」
「…。」
 ゆきは何も言わなかった。それが、真実である事を知っていたから。
「そうです。僕たちは今、ようやく立てた。」
「今更、追いつけるのでしょうか。」
「追いつきましょう。」
 大丈夫。きっと、追いつけますよ。
 誠司はゆきの肩を優しく叩き、公園を後にした。
 自分たちに課せられた運命と対峙するために。



“菅野ゆき”

“藤堂誠司”

 常に同じ空気を吸い、同じ環境の中で生きてきた家族。

 世界にただ一人しかいなかった人達。

 一瞬にしてこの世から消された。

 存在の真実。 

 それを探るスタートラインは十二年前にもう引かれていた。

 そのラインに、今ようやく二人は立っている。


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 2. スタートラインの背後

 誠司とゆきが公園を後にし、向かった先は近くのレストランだった。
 二人はそこで昼食を取りながら、過去を振り返る。
 白線が引かれる前のことを。
「私と、誠司さんが出会ったのは、丁度十二年前でしたね。」
「はい。それまで全くと言っていいほど僕は菅野家とは接点がありませんでしたから。」
「そう、私の両親の葬式に来て始めて、貴方は私という存在を知り、私は貴方という存在を知ったんですものね。」

 あの日はまだ寒くて、静かに降る雨がまるで私の替わりに泣いてくれていたような気さえした。
 寒くて凍えそうなとき、いつも暖めてくれた優しい両親は白い着物を着せられ、 木箱の中で眠っていた。
 その時、伯父さんが一人の少年を見るように促した。
“ほら、ごらん。あれが一緒に亡くなった方の兄弟の方だよ。”
 伯父さんの視線の先に、一人の少年がただ呆然と座っていたのが分かった。彼自身も、まだ理解できないことが多過ぎて困っているのだろうと察せられた。
 自分の兄が殺されたなんて、信じられるはずがない。
 私だって、あの時…両親が殺されたなんて信じられなかったのだから。

 十二年前。
 ゆきと誠司はまだ八歳であった。


「あの事件の捜査は打ち切りになったそうです。」
 誠司がナイフで切り分けフォークで刺して、料理を口に運んだ。
「そうですか…。で、これからどうするのですか…?」
「とりあえず、警察に行って事件記録を見せてもらおうと思っています。」
「見せてもらえるのですか?」
「とあるツテで。」
 どんなツテなんだろう、とゆきは思いつつも食事を進める。
「もう二十歳になったんです。様々な事ができます。僕たちはもう小さかった八歳ではない。」
「そう…もう高校生でもないんですね。…で、私は何をすればいいのでしょう?」
「ゆきさんは、しばらく君の両親の事を調べて欲しいんです。」
「…私の両親の…?」
「そう。噂とかそういった事です。」
「…分かりました。聞いてみます。」
「じゃあ、またあの公園で落ち合いましょう。」
「えぇ。そうしましょう。」
 二人は立ちあがると、レストランを出た。
 割り勘にしようとゆきは言ったが、誠司は伝票を一人で片付けてしまった。

 誠司は警察へ。
 ゆきは病院へと向かった。

 病院のロビーには相変わらず薬待ちの人たちや、診察を待つ人たちでごった返していた。ツンと鼻に来る病院の匂いに、安心する。
 エレベーターで最上階の四階まで一気に上がる。
 一つの大きな部屋にノックすると“どうぞ”と声がかかり、ゆきは扉を開けた。
「哲伯父さま。お久しぶりです。」
 おぉ、と感嘆の声を上げると老年の男性が彼女に近づいた。
「やぁ!ゆきちゃん。一体急にどうしたんだい?宿題が終わらなくて大学のレポートの手伝いを頼みにきたのかい?」
「もう、伯父さまったら。私もう高校生じゃないんですよ。」
 クスクス、とゆきは笑う。
 菅野哲也。ゆきの伯父である彼は、両親の死後ゆきの面倒を見てくれている。
 ゆきにとっては父親代わりのような人だ。彼は、この病院で院長として働いている。そのせいか、白衣と病院の匂いをかぐと、どこか懐かしい気持ちになる。
「伯父さま、今日はちょっとお聞きしたい事があって来たんです。」
「何だい?私の可愛い姪っ子よ。」
「実は、お父様とお母様についてお聞きしたいの。」
 伯父は少し複雑な顔をした。
「どうして、また…。」
「哲伯父さのには言うけれど、藤堂誠司さんから連絡があったの。お父様とお母様の事件、本当に調べてみることにした。」
「今更、かい?しかも、藤堂誠司…。」
 伯父は誠司に良い印象を持っていなかった。
 誠司は前にも述べたように、ゆきが高校生の時、家に詰め掛けた事があった。その時、ゆきの記憶が戻らない事に煩わしさを感じた彼はゆきに暴言を吐いた。
 今にも発狂しそうなゆきと誠司の間に割って入り、誠司の暴言からゆきを守ったのは他でもない伯父だった。
「今更でも、少しだけでいいから真実を見てみたいの…。誠司さん、記憶は必要ないって言ってくれたし…記憶が戻らない自分でも役に立てるのなら…。」
「そんな事を思っていたのかい?」
 申し訳なさそうに、ゆきは俯いた。
「だって、私が思い出せば全てが終わるのに…。」
「だからといって、思い出せないのは仕方がないだろう?」
「だけど…。」
「こらこら、伯父さんはセラピストじゃないんだ。それ以上言われても、何とも言えないよ。」
 ゆきは、伯父の小さなジョークに笑って見せた。
「そうね。で、何かお父様とお母様について知っていることはない?」
「そうだなぁ。お父さんとお母さんがおしどり夫婦だった事ぐらいしか、知らないな。」
「そう…何か会社のことでもいいんだけど。」
「さぁ…。お父さんは会社の社長さんだから、色々とある事はあるかもしれないな。上に立つ者っていうのは、疎まれやすいからなぁ。」
「でも、お父さんは皆に好かれてたって聞いたけど…。」
「うん。とても好かれていたよ。だから、私には分からない。もっと関係者に聞いてみるといいさ。」
「うん、ありがと哲伯父さま。」
「いや、いいさ。」
 院長室の扉にノック音が響き、ドアが開いた。
 伯父がどうぞ、と言うと一人の若い男とが入ってきた。
「失礼します。院長…あ、ゆきさん。」
「あ、智久さん。」
 彼の名は西村智久。ゆきの婚約者である。院長の片腕としてこの病院で働き、将来も有望な彼は幼い頃から伯父と仲が良かった。
 ゆきは現在二十歳だが、彼は三十四。十四歳差の二人の恋は、西村の一目惚れから始まった。
「そう言えば、今度暇が出来たんです。ちょっと遊びに出かけませんか?」
「いいですね。花見にでも行きましょうか。」
「それなら、いいスポットを知ってますよ。一緒に行きましょう。」
「はい。」
 二人の何処か甘い雰囲気に、伯父は当てられたように肩をすくめる。
「全く、見せつけてくれるねぇ。ところで西村君、用事はなんだね?」
「いえ、もうすぐ会議が始まるそうなので呼びにきたんです。」
「そうかい。残念だったね、西村君。ゆきちゃんとラブラブできなくて。」
「本当にそう思っているなら、さっさと会議終わらせてくださいよ。」
「それはできんなぁ!」
 はっはっは、と豪快に笑う伯父を見て、ゆきも明るく笑った。
「じゃあ、忙しいようですから私は退散しますね。」
「あぁ。また会いに来てくれるかな?最近大学に入ってからめっぽう病院に寄りつかなくなった。」
「こう見えても、忙しいんですよ。」
「そうかい。ま、寂しいね。」
「ゆきさん、ではまた後で詳しい事はメールしますね。」
「はい。お願いします。」
 それでは、とゆきは病室を後にした。
 病室のロビーでゆきはしばらく考えていた。
 少なくとも、ゆきの父と母に過失は無さそうだ。では、何かの事件に巻き込まれたのか、誰かの策略的な悪意によって消されたのか。
 先はまだまだ遠そうだ。

 病院から出て、携帯の電源を入れた。
《♪》
 途端に携帯が鳴り、着信を告げる。
 慌てて液晶画面を見ると、携帯番号のみが通知されている。
 誰だろう、と思いながらゆきは電話を取った。
《もしもし、菅野さん?》
「…はい。貴方は誰?」
《あっ、すいません。僕は藤堂。藤堂誠司。電話番号は知り合いから聞きました。》
「そうですか。で、どうしたんです?」
《警察でちょっと事件簿を見てきました。今から会いたいんだけど会えますか?》
「あ、はい。私もお話したいことがあって…。」
《じゃあ、今日の公園でまた。》
「はい。何分ぐらいで着きますか?」
《多分、五分後くらいには。》
「私もそれくらいで着くと思います。それでは。」
《それじゃあ。》
 プツ、と通話は切れた。
 携帯電話をしまうと、ゆきは手を上げてタクシーを呼んだ。病院前ということでタクシーは沢山通り過ぎていく。
 その内の一台が争うようにして止まり、ドアが開いた。
 乗りこむと素早く公園へ行くように頼み、しばらく車に揺られながら公園に向かった。


 公園の噴水前、二人が出会った時からもう何時間も経ち、日が暮れていた。
「お待たせしました。」
 誠司が向こうから走ってくると、ゆきはベンチから立ちあがった。
「いえ。私もついさっき来たばかりですから。」
「警察から、当時の事件簿をツテで何とか少し見せてもらいました。、少し込み入った所も教えてもらいました。ただ―――」
 誠司は口ごもった。
「ただ?何ですか?」
「ただ、かなり辛い内容です。それでも、よろしいですか?」
 思わず無言になるゆきに、誠司は慌てて言葉をたした。
「いえ、別に見なくても話は出来ます。見なくて済むのなら、見ない方がいいでしょう。」
 ゆきは視線を落としながらも、頭を横に振った。
「いいえ、見ます。…私が望んだ事ですから。」
 なら、と誠司は静かにゆきの目の前にいくつかの資料を並べた。
 ゆきはごくり、と唾を飲み込み、それを食い入るように読み始めた。

――――――――――――――――――――――――

 
 十二年前の十月二十一日未明。
 菅野家自宅で事件は起こった。
 菅野家に押し入った強盗は、出版社・社長、菅野宗司氏(三十六)、その妻である菅野優子氏(三十三)、さらに息子の菅野卓斗君(六)、そして家に偶然来た宗司氏の秘書、藤堂信司氏(二十二)の四人を殺害した後、金目の物を奪って逃走。
 一家惨殺かと思われたこの事件であったが、幸運にも宗司氏の娘が呆然とただずんでいる所を保護された。
 警察ではこの少女の回復を待って、事件の唯一の目撃者である彼女に当時の様子などを聞くことになっており、事件解決は早いだろうとの見方であった。
 だが、少女は重度の衝撃により当時の記憶を失っており、証言者としての能力は皆無。
 警察は強盗殺人の方向で犯人を追っていたが、犯人は今だに捕まっていない。
 
 だが、この事件が異様だとされたのは殺害方法からでもある。
 まず犯人は、小さなナイフなど鋭利な刃物で、居間でくつろいでいたと思われる、菅野宗司氏と優子氏を殺害。さらに、二階で寝ていたと思われる卓斗君を殺害している。後に車でやって来たと思われる秘書藤堂信司氏も同様の手口で殺害した。
 さらに、死亡後に大きな斧のような物で首を切断。
 それを一列に並べ、まるで何かの儀式のように棚に置いてあったという。

 この殺害方法については第一目撃者、菅野宗司氏の父が見た光景で、一般には詳しく公開されていない。


―――――――――――――――――――――――

 ゆきは、自分の喉を強く掴んだ。
 喉の奥底から、唸るように嫌悪感が走る。
 思わず嗚咽が出た。
 誠司は、落ちついて深呼吸をするように、とゆきに促した。
 ゆきは首を縦に振りながらも目には涙が溜まり、吐き気をこらえるのがやっとの状態だ。
「大丈夫ですか…?」
「…だ、大丈夫です。」
 涙が落ちないように、懸命に目を大きく見開く。
 誠司はゆきの様子を見て、本当に申し訳なさそうに呟いた。
「本当は、お見せするべきではないと思ったのですが…。」
「いいんです。私が見たいと言ったのですから。」
 しばらく待ってから、誠司が先に口を開いた。
「事件の話なんですが、辛いとは思いますが聞いて下さい。」
「そのために、ここにいるんです。どうぞ…。」
 涙をまだうっすらと浮かべたゆきに、誠司は苦笑する。
「この事件では、四人の被害者が出ています。
 それは、僕の兄である、藤堂信司。そして、貴方の父母の菅野宗司・優子さん。さらには弟の卓斗君。この四人の接点は言わなくとも分かると思いますが…ここで、この事件の動機を見なおしてみましょう。
 一. 金品目的の強盗殺人。
 二. 社長としての菅野氏に恨みを持つ者の犯行。
 三. 菅野家に対して何らかの悪意を抱く者の犯行。
 四. 通り魔殺人。
 この四つが挙げられるかと思います。
――ですが、このうち二つは確実に違うことが分かります。」
 何かわかりますか?と誠司はゆきに問う。
 だがゆきは気分が優れず、まともにモノを考えることが出来ず首をただ振るだけであった。
「まず、金目のモノを奪う事が目的であったのならば、全員を殺す必要性が無いんです。別に、金目のモノを奪うだけなら、脅すとか、こっそりと盗むとか、色々と手段はあったはずです。第一、寝ていた弟の卓斗君を殺したのもおかしい。つまり、“一”の金品目的の強盗殺人の線はまず無いと見て確かでしょう。
さらに、もう一つおかしいのは“三”です。」
 ここで、ゆきが反応した。
「なぜですか?菅野家に対して恨みを抱く者の犯行だって、あり得るじゃないですか。」
「確かに、あり得なくはありません。だが、ここで一つの疑問が湧くのです。」
誠司はゆきを見つめた。
「どうして犯人は…
   ―――――――ゆきさん、貴方を生かしておいたのでしょうか。」
 ゆきは、ハッとして誠司を見返す。
「そうです。貴方の父や母、弟の卓斗君、更には菅野家とは秘書という仕事上の繋がりしかない僕の兄まで殺しておいて、何故貴方を生かしておいたのでしょうか。一家に対して恨みがあるのだとしたら、貴方が生きている筈はありません。まっ先に殺されていてもおかしくは無い筈です。」
「そう言われれば、確かに…。」

 ゆきは真っ青になった。
 もしかしたら、あの日、あの場所で自分も殺されていたのかも知れない、という事実に今ごろ気づく。

「つまり、犯人は菅野家の誰か“個人”に対して恨みがあった。だから、全員を殺すという事を“あえて”しなかった。もしくは、貴方を残すことによって全てを失わせたという悲しみを、貴方一人に背負わせ、犯人は自分の持つ怨恨を晴らそうとしたのかも知れません。最後の通り魔殺人ですが、僕はこれについて否定します。可能性的には“三”よりは十分あり得ると思います。ですが、通り魔殺人にしては手が込んでいる。刺し殺すだけならまだしても、犯人は首を切っているのです。第一、動機も無しに人を殺すのは僕には理解できません。犯人がよっぽどの狂人で、殺人好きであればわかりますが、メリットも無いのに、リスクを犯す人間はそうそういません。」
 ゆきは誠司の推理をただ黙って聞いている。
 呆然と、懸命に。
「つまり、僕は菅野家の誰か個人に恨みを持つ者の犯行、つまり“ニ”が一番怪しいと睨んでいます。他にも可能性はあるとは思いますが――…。」
 さすがに名探偵でも刑事でもないのでそれ以上はわかりません、と誠司は少し苦笑した。
「つまり貴方の中では、“一”と“四”はゼロに近く、“三”よりも“ニ”の説が有力であると考えているのですね。」
「はい。だから今日、貴方には噂などを集めてきてもらったのですが…どうです?少ししか時間はなかったのですが、何か掴めましたか…?」
「いえ…伯父を当たってみたのですが、恨まれるような事は何も…。」
 そうですか…と誠司は呟いて、あっ! と声をあげた。
「そうですよね…。あぁ、本当にすいません。」
 いきなり謝り出した誠司に、ゆきは戸惑う。
「一体何のことですか?」
「いや、本当に抜けていました。すいません。普通、貴方の父母の悪い噂を目の前で言うわけがないんですよね。」
 ゆきは確かに。と思った。
「では、こうしましょう。僕の兄のことを貴方は調べてください。名前は知ってのとおり、藤堂信司。知っている人がいるかも知れません。それで、僕は失礼かも知れませんが貴方のご両親について調べますが…?」
 良いですか?と誠司は視線で聞いてきたので、ゆきはコクリと頷いた。
「では、そうしましょう。何かあったら、僕にメールか電話で…機種は同じのようですね。では、番号でメールが出来ますからさっきかけた番号を登録しておいてください。」
「はい。」
 ゆきは携帯を操り“藤堂信司”と名前を入れ登録した。
「ここからが、第一歩って訳ですね…。」
「はい。もう、後ろには何も残っていない。」
 明るい春の日が、光を失って闇に飲み込まれた。
 闇は明るい世界を蝕んで、増殖する。
 街は闇に包まれ、抵抗するかのようにネオンが輝き出す。
 その輝きの裏。陰の部分はより色を濃くしていく。
 二人は光から身を遠ざけ、闇に溶けこもうとしている。

 それが二人の運命を動かす最後の歯車だった。

 歯車はぴったりと噛み合い、一つのメロディを紡ぎ出す。

 果ての無い終わりという名の切ないメロディを。

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 3. 眠れぬ夜

 二人は真っ暗になった公園で別れ、それぞれの帰路についた。
 ゆきは伯父のいる東京の家へ、誠司は東京に借りているアパートへと帰っていった。

 ゆきの伯父の家は、東京の一等地に建てられている。ゆきの元住んでいた、あの凄惨な事件の起きた家もかなりの大きさだった。実はゆきの父、宗司氏は出版社社長としてかなりの腕を振るっていて、資産総額はかなりあった。それを遺産として全て受け継いだのがゆきだった。ゆきの秘密の通帳には、遺産がぎっしりと詰まっている。
 今となってはこの膨大な遺産を放棄するにも放棄できずもてあましている。遺産相続の時、放棄すれば良かったと思ったが小さかった自分は遺産の放棄方法など知るわけも無かった。
 だが、伯父もかなりの資産家で、院長として働く傍ら、株にも手を出し成功している。
 
 一方、誠司の方はアパートを借りて暮らしている。
 岐阜県に実家があり、父母はそこで兼業農業を営みながら暮らしている。
 誠司は自分でアルバイトをして生活費を稼いでいる。親からの仕送りは何かの時のためにとってあった。 
 授業料の方は父母が払ってくれているので、誠司の心配は生活だけだった。だが、安いボロアパートでも金が底を尽きるのは早い。そのためアルバイトは辞められなかった。
 アルバイトの合間をぬっての調査になるだろう、と誠司は少し疲労感を受けた。

 家についた誠司は、鍵を開けると小さな自分の城へと入った。
 閑散とした部屋だった。
 必要最低限のモノしかそこには無く、綺麗に整理されている。
 とても、一人暮しの男の部屋とは思えない。
 それくらい、生活感の無い部屋だった。
 あえて生活観がある所といえば郵便受けぐらいだ。様々な風俗や高利貸し、明らかに怪しい金儲けの広告が、無理やり入れらている。
 これは、誠司が考えついた広告を無駄に入れられないための打開策だった。
 こんなに詰まっていればこれ以上いれられないだろうという、半分やけくその策だった。
「ふぅ…。」
 ため息をつき布団に寝転がった。
「兄貴は…。」
 兄は、巻き添えだったんだろうか。
 あの日、事件があった時に兄は菅野家に宗司氏、社長を迎えに行ったのだと思う。そして、犯人を見てしまった。瞬間にして、犯人は目撃者を消そうと思っただろう。
 兄は一瞬にして殺された。
 ただ、それだけなのだろうか。
 それとも、菅野家への恨みの中に兄も入っていたのだろうか。
 
 調査は明日からだ。今日はもう、体を休めよう。

《♪》
 誠司が布団に身を埋めた瞬間、電話が鳴った。
 携帯だ。
 手に取ると、液晶画面の表示は“実家”からだった。
「もしもし、藤堂ですが。」
《誠司?お母さんだけど…。》
「うん。どうしたの?何かあった?」
《誠司、あんた何か変なことに首を突っ込んでない?》
「別に何も…。」
《嘘おっしゃい。お母さん、何か嫌な予感がするのよ。》
 そうだった。誠司は少し頭をかいた。
 誠司の母は第六感がすごいのだ。特に、家族の事になると敏感にそれが反応する。
 兄が死んだ時もそうだった。
 いきなり立ちあがったかと思うと、雷に打たれたように棒立ちになった。
 目からは涙が流れ落ち、手は小刻みに震えていた。
「信司…?信司はどこ…?」
 母は怯えるように静かに声を紡ぎ出している。
 誠司は驚いて、信司の携帯に電話をかけた。が、電話はいくらかけても繋がらなかった。
 そして、信司が生きて家に帰ってくる事は無かった。

《あんた、何か変な事に首突っ込んでるんでしょ?》
「母さん、心配しなくても大丈夫だから。」
《嘘ね。あんたは心配されるような事をしているから、心配しないでって言うのよ。
 それに、私にはもう目星がついているの。あなた、信司の死を追っているのでしょう?
 …実はね、今まで言わなかったけれど信司、遺書を残していたの。》
 始めての母からの真実に、誠司は目を見張った。
「なんだって?母さん、なんてそんな大事な事を…。」
《遺書に書いてあったのよ。この遺書の事は、アイツを危険にするから秘密にしてくれって。お母さん宛てと、お父さん宛て、そして、最後に貴方宛てに小さな手紙が、遺書の中には入っていたわ。》
「母さん、それをすぐに送ってくれ!」
《もう、送ったわ。ちょうどこの電話をしている頃には着いていると思うけど、郵便受け、どうせ見てないんでしょ?》
 見ていなかった。
 何十枚もの広告が無理やり押しこまれた郵便受けの中から、白い手紙が出て来た。
「あった…。」
《母さん、全てその中に書いておいたから…誠司…。》
 母が思いつめたように、黙り込んだ。
「なに?」
《お母さんよりも先に…いなくなったりしないで頂戴ね。》
「母さん…分かってる。心配しないで。もう、遅いから寝なよ。」
《そうね…。それじゃあ、体には気をつけるのよ。》
 電話を切る時、いつも母が言うセリフだった。
「もちろん。母さんもね。」
《えぇ、おやすみなさい。》
 電話が切れ、短調な音が耳に響いた。
 携帯を置き、白い手紙を手にとってまじまじと見る。
 それからゆっくりとナイフで開けた。
 中から、二つの手紙が出て来る。
 色ボケて黄色くなった紙と、真新しい白い紙。
 新しい方が母からの手紙だろうと、誠司は真新しい紙を開いた。
 几帳面な母の字がそこにはあった。

「 誠司へ。
  貴方はきっとこの手紙を気付かずにポストに詰まらせている事だと思います。
  だから、私が電話をしてようやく気付くでしょうね。
  実は、貴方の兄、信司から遺書があったのです。
  しかし、誠司にはその事実を教えられませんでした。
  なぜなら、信司がそれを拒んだからです。
  遺書の中には、私宛て、お父さん宛て、そして貴方宛ての手紙が入っていました。
  私の手紙には、この遺書の事は誠司には秘密にするように、と書いてありました。
  私は信司の遺志を汲んで、この事は貴方には秘密にしていました。
  ですが、最後にこう書かれていたのです。
  “もし、誠司が僕の死について調べているようなら、この遺書を渡してやってくれ”
  と。
  貴方は、私のカンが正しければ信司について調べているのでしょう。
  だから、この遺書を託します。
  見るか見ないかは、貴方に任せます。
  ただ、私はもう信司の死を放っておいてあげて欲しい。
  なるべくなら、変な事には首を突っ込まないで欲しい。
  ですが、きっと貴方は聞かないでしょう。
  高校生の時、私が止めるのも聞かず菅野さんのお宅に向かった時のように。
  無茶は、しないで下さい。
                     ――――母さんより。」

 誠司の胸に、母に心配をかけていることに対しての罪悪感が生まれた。
 だが、書いてあるように止める気は全くない。
 迷うことなく、色ボケた黄色い紙を開く。
「 誠司へ。

  お前がこれを見ているという事は、
  お前が僕の死について調べている、という事だと思う。

  お前に一つ言っておく。
  

  止めろ。
  
  僕の死に関わるな。


  これ以上、母さんと父さんに悲しい思いをさせないでくれ。
  頼む。
  これがお前に向けた僕の願いだ。

  お前はきっと、この手紙に何らかのヒントが隠されていると思ったことだろう。
  残念だったな。
  僕はお前にこの事に関しては何も教えてやるつもりはない。

  じゃあな。
  最後まで、酷い兄ですまない。
  
  母さんと父さんを、頼んだ。
                     ―――信司。」

「…兄貴。」
 兄は、いつもどこか孤独な目をしていた。
 母に愛され、父に愛され、僕に愛されていても、自分から愛する、という事をあまりしない人だった。
 大切に思ってくれているのは知っていた。だが、愛してまではしてくれなかったと思う。
 それでも大切に思ってくれているだけで、僕は良かった。
 普段あまり笑わなかった兄が、少し笑ってくれるだけで僕は幸せになれた。
 自分とは違って、いつも素早く物事をこなしていく兄のことを尊敬していた。
 尊敬していたからこそ、この死が信じられなかった。

 何も教えてくれないと兄は書いた。
 が、兄はこの手紙によってある事を証明してしまった。
 “自分には死ぬ疑いがあった”という事だ。
 遺書をあらかじめ用意しておかなければいけないような、そんな危ない状況に兄はいたのだ。
 ならば、菅野家と兄の間に何が。

 突然の母の電話、兄の遺書によって、誠司は眠れぬ夜を過ごすことになった。

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 4.明け方

 眠れぬ夜がゆっくりと明けた。
 誠司は朝日に包まれながら、痛む目をこすった。
 起きあがり、適当に朝食を取り着替えると、すぐに家を出た。
 午前中はアルバイトに行くため調査は出来ない。
 誠司は着替えながら、午後の事を考えた。


 ゆきは、ん〜っ、と背伸びをした。
 誠司とは対照的に、思いきり寝てスッキリしたゆきは下に降りて朝ご飯を作った。
 メニューはいつもの朝とだいたい同じ。
 伯父の朝食はパン派だから、パンを軽く焼いてジャムを用意しておく。それからサラダを作り、果物を切る。ジュースはオレンジ。それから目玉焼きを焼いて、焼けたトーストの横に添えた。
 そうこうしている内に、伯父が降りてきた。
「おはよう…。」
「おはよう、哲伯父様。もう朝ご飯の用意はできたわ。」
 ああ、ありがとう、と伯父は席に着くと早速朝食を取りはじめた。
「ねぇ、哲伯父様。お父様の勤めていた出版社って東京本部よね?」
「そうだよ。それがどうかした?」
「ううん。何でもないの。ただ昔、お世話になった方がいたでしょう?ほら、覚えてない?新垣さん。いつも私のお世話をしてくれた…今ごろ、どうしているかなぁ、と思って。」
「ふぅん。会いに行くのかい?」
「暇があれば、の話ですけどね。」
 そうかい、と伯父は言うとフォークを置いた。
「ご馳走様。おいしかったよ。ところで、今夜はちょっと遅くなるから、夕飯の用意はしなくていいよ。」
「あら、そうなの。分かったわ。」
 玄関を出ていく伯父に手を振って見送ったあと、朝食の後片付けをして、多い部屋数にも関わらず全てに掃除機をかけた。
 十一時。
「…新垣さん、まだ勤めていらっしゃるのかしら?」
 とりあえず行ってみるしかない、そう思ったゆきは化粧をし、着替えて家を出た。

 父の勤めていた出版社は、都心にあり、かなり良い業績を上げていた。もちろん、今もその業績は変わらない。
 懐かしいガラス張りの高層ビル。
 ゆきは、十二年前の事件のあった日と、前後数日間の記憶を全て失っているが、それ以外はだいたい覚えている。
 その中で、父に連れられてこのビルに何度も来たことを覚えている。
 受け付けで、二人の女性が優雅に座っていた。
「あのー…すいません、新垣さんっていらっしゃいますか?」
「どちら様でしょうか?」
「えっと…新垣さんの知り合いの菅野ゆきと申します。」
「菅野さんですね。少々お待ち下さい。」
 受付嬢は小さくお辞儀すると、隣にある電話の受話器を取った。
 電話から数分後、そばかすの眼鏡をかけた女性が現れた。
「どうも大変お待たせいたしました。お久しぶりです。」
 他人行儀な言葉に少しぎこちなさを覚えながらも、ゆきは笑顔でお辞儀をした。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「はい。お嬢様にお会いするのは、十二年ぶりですね…随分大きく成長なられて。思わず探してしまいましたよ。」
「新垣さんは十二年経っても変わりませんね。」
「それ、女性にとって最高の褒め言葉ですよ。」
 嬉しそうに新垣は笑うと、ロビーの椅子に座るように勧めた。
「ところで、どうなさったのですか急に。」
「実は、藤堂信司さんの事をお聞きしたいのです。」
「あぁ…彼もあの事件の被害者でしたからね…。」
「…はい。だから、何かわかればいいと思って…。」
「そうですか…。私の知っている限りの事はお話しますが、そんなに親しかった訳ではないので、詳しいことは分かりません。それでも宜しいですか?」
 お願いします、とゆきは真剣な目をして答えた。
「信司さん、とても良い方でした。少し無愛想なところはありましたけど、優しくて、細かい事にも気がついて、頭の良い人でした。私は、たまにお話する機会があったんですけれど、それだけでも良い人だというのは分かるような、そんな素敵な方でした。社長とも仲が良かったし、変な噂もありませんでした。」
 ゆきは“藤堂 信司”という人の事をあまり知らない。
 家によく迎えにくる人、という程度で面影もぼんやりとしか思い出せない。
 がたいはいいが細く、足が長くて、いつも黒いスーツを着ていたような覚えがある。
「でも、一つだけ確信を持って言えることがあります。」
「それは…?」
「信司さんは社長を尊敬していた…いえ、というよりも、好きだったと思います。」
 新垣は淡々と言葉を続ける。
「いつだったか、彼が一回社に来て、それから社長を迎えに行った事があったんです。その時偶然廊下で会って、私が彼に“これから社長をお迎えに行くんですか?”って聞いたんです。すると彼は“はい”って返事しただけだったんですけど、その時の笑顔が、いつも作る愛想笑いの笑顔とかじゃなくて、本当に嬉しそうに微笑んでいたんです。
 それを見た瞬間、あぁ、この人は本当に社長の事が好きなんだなぁって思ったんです。」
 彼のそんな笑顔を見たのは、あれが最初で最後でした、と新垣は苦笑する。
「私が知っているのはこれ位です。社長とも、秘書である信司さんとも、そんなに親しくありませんでした。お嬢様を任せられたのも社で一番若かった私なら、暇だろうし、お嬢様も親しみやすいだろうという事で…。」
「いえ、大変参考になりました。本当にありがとうございました。」
「お役に立てたなら光栄です。」
「それでは、次の取材がありますので、機会があればまた。」
 新垣は静かに立ち去った。
 ロビーで一人椅子に腰をかけながら、次はどうしようかと考える。
 今、十二時半。
 とりあえず昼食を何処かで取ろうと思い、ゆきは出版社を後にした。

 タクシーを呼びとめ、乗りこむと近場のカフェへ行くように頼んだ。
《♪》
 突然携帯が鳴った。
 いつもとは違う着信メロディが流れる。
 慌てて通話ボタンを押した。
「はい、菅野です。」
《もしもし、西村ですけど。》
「あ、智久さん。どうしたんですか?」
《今度、花見のことなんですけど…。》
「あぁ!いつにしますか?」
《えっと…じゃあ、今夜八時にいつものバーで会えますか?》
「いいですよ。じゃあ、いつものバーに。」
 後ろで看護婦か誰かが西村を呼ぶ声が聞こえた。
《おっと…じゃあ、また。》
「忙しいのに、わざわざ電話ありがとうございました。では、頑張ってくださいね。」
《ありがとう。じゃあ、また今夜。》
「はい。また今夜。」
 電話は切れた。

 そういえば、花見をしようと約束したのだった。すっかり忘れていた。
 ここ最近、事件についての事ばかりが頭の中をぐるぐる回り、それ以外の事がかなりおざなりになっている。
 “怨恨”。
 私の父と母は、一体誰に恨まれていたのだろうか。
 一体何を、したのだろうか。

「…客…ん、お客さん!!」
 ハッ、となって我に返った。
「着きましたよ、どうかしましたか?」
「いっ、いえ、ちょっと考え事をしていて…。」
 ありがとうございました、と言いお金を払っておりた。
 このカフェは雰囲気がお気に入りで、よくお茶を飲みにくる。日替わりランチが美味しいと有名だったが、ゆきはまだ一度も食べたことがなかった。
 ちょうどいい機会にめぐり合えた、と思いゆきは足早に店に入った。
「いらっしゃいませー」
 店中は平日という事で、OLや会社員でごった返している。
 幸運なことに向かい合う二人用の席が空いていて、そこで食べることにした。
「すいません、日替わりランチ一つ下さい。」
「かしこまりました。」
 カフェは温かい陽気に包まれていて、固くなった心を少しほぐした。
 その時、目の前を通り過ぎる人を見て、ゆきは驚いた。
「誠司さん!」
 驚いたのは相手も同じだった。
「ゆきさん?!どうしてここに…?」
「いえ、ただランチを食べに。」
 あぁ、と言うと空いている前の席に座った。
「美味しいでしょう、ここのランチ。」
「いえ、今から食べるんです。」
 髪の毛を後ろで縛ったウェイトレスの女性が、出来たて日替わりランチをゆきの前に置いた。
 前に座っている誠司に向かって、女性は声をかけた。
「あら、誠司くん。…もしかして、彼女?」
「違うっつーの。ほら、さっさと仕事しろよ。ほら、日替わりランチ一つ。」
「はいはい、かしこまりました。じゃあね、今日はお疲れ様。」
 日替わりランチを前に、フォークを握ったゆきは誠司に問う。
「あれ…?お知り合いですか?」
「あぁ、僕ここでアルバイトしてるんです。丁度今終わったところで…。」
 ゆきは誠司の日替わりランチが来るまでしばらく待ち、来たところで一緒に食べ出した。
「…ところで、どうです?何か分かりましたか?」
「はい…」
 ゆきは、今日新垣と会って話したことを全て話した。彼は恨まれるような人ではなく、無愛想ではあったがとても好感の持てる人であった事、社長の事が好きだった事、そしてその理由、全てを話した。
「兄が、満面の笑みを…?」
「はい。聞いた話によると、あんな笑顔は最初で最後だったそうです。」
 兄が、満面の笑みをした。
 それは誠司にとっては考えられない事であった。家族内でもそんなに見せたことのないあの極上スマイルを、他人に見せた。
 それほどまでに微笑ませたのは、社長、菅野宗司氏の存在。
「そちらは、どうですか?」
「いえ、午前中はアルバイトで忙しかったので、午後から行こうかと…。」
「私、それについて行ってもいいですか?!」
「え…でも…。」
 それじゃあ、お互いにお互いの身内を調べる意味が…と誠司は言いかけた。
「遠くから待機しているだけでいいので、着いて行ってはダメですか?」
 それくらいなら大丈夫だろうと誠司は頷いた。
 嬉しそうにゆきは微笑む。しばらくはたわいも無い話をしながら食事を取り終えた。

「では、行きましょうか。実は今日は生前、貴方の父と仲良くしていた人と会う約束をしています。」
「もう調べたんですか?」
「はい。昨日のうちに。」
 そう、彼は眠れないのを利用して、生前宗司氏と仲の良かった人と連絡を取り合っていたのだ。

 午後四時。
 二人が向かった先は、一つの駐車場だった。
 誠司は車を降り、ゆきは後ろの座席の下に隠れていた。窓を少し開けて、会話が聞こえるようにして。
「すいません、お待たせして。」
「本当にわざわざすいません、こんなところまで。」
 別にいいさ。だがあまり時間がない、手短に頼む。と相手が言う。
 相手は藤堂に対してあまり好意的ではない口調だった。
 少し遠いのか、ゆきには声があまり聞こえない。
「それでは、少し聞きたいんですが、宗司氏はどんな方でしたか?」
「宗司はとても頭の良い奴だった。それに、優しくて、正義感が人一倍強くて、面白い奴だったよ。」

 ゆきは耳を疑った。
 聞き覚えのある声。
 優しく響くその声は、紛れも無いあの人のものだ。

 ――――哲伯父様。

 胸の中で不安が弾けた。

 うずくまる座席の下で、心臓が高鳴っていくのを感じた。

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 5. 魔性

 誠司と伯父・哲は、震えるゆきを知らずに話を続けている。
「彼は人に恨まれるような人ではなかったと?」
「さっきも言った通り、宗司は正義感が人一倍強かった。」
「…はい。」
「曲がった事が大嫌いで、不正があればそれを許すようなマネはしなかった。危ない橋も、何度か渡ったようだ。」
「つまり、恨まれる要素は充分にあったと?」
「充分かは分からないが、少なくとも“逆恨み”という理由ならあったかも知れない。」
「では…」
 誠司が次の話を切り出そうとした時、伯父は彼を止めた。
「もうこれ位にしてもらおうか。本当なら、君と話すのもあまり心地の良い話しではないのだから。」
 誠司は平静を装って少し苦笑する。
「それはそれは…。」
「今日来たのは、君に一つ言っておきたい事があったからだ。」
「何でしょう?」
「ゆきを巻き込むのは止めろ。彼女の傷口をまた広げるようなマネをして…。あの日で懲りたんじゃなかったのか。」
 五年前押しかけた時の事を言われると、誠司は何も言えなくなる。
 明かに自分が悪かったと分かっているからだ。
「君は、ゆきを不幸にする。ゆきの傷口を広げるだけ広げて、結局何もわかりませんでした、で済む話じゃないんだ。もう、こんな馬鹿げたマネは止めたらどうだい。大学生にもなって、まだそんな事もわからないのか?」
 誠司の胸の中に怒りが湧きあがる。
 誠司はこの事件を着きとめることを、馬鹿げた事だとは思っていない。大切な事だと思っている。
 だが、ここで怒ってはいけない、と自分を押しこめた。
「…とにかく、ゆきを危ない目に会わせたら君を許さない。」
 いいか、と凄み、伯父は駐車場から去っていった。

 誠司もゆきの待つ自分の車へと乗りこんだ。
「お、お帰りなさい…。今日会う人、哲伯父様だったんですね…。」
「会話、聞こえましたか?」
「全然聞こえませんでした。たまに哲伯父様が声を大きくした時だけ、聞こえただけで。“馬鹿げた”とか、“分からないのか”とか、“いいな”とかしか…。」
「そうですか…。」
 ゆきは誠司の背後に、赤い炎のように燃えあがる怒りを見た気がした。
 誠司は荒々しくハンドルを切った。
「哲伯父様は何と…?」
「貴方の父が実に正義感の強い人だったと仰っていました。だから、もしかしたら逆恨みという形で恨まれていたかも知れないと。」
「そうですか…。」
 ゆきは少し元気なく答える。
 知らぬ間の辺りは暗くなってきている。もう夜六時半。
 いつもの公園で降りた二人はライトアップされた噴水をみていた。

「今日は、ありがとうございました。」
「いえ、僕の方こそ、ありがとうございました。」
 怒りが消え、どこか物悲しげな誠司の様子に、ゆきは戸惑うばかりだ。
「少し、聞きたいことがあるんですが…。」
 誠司は元気なく言う。
「何でしょうか?」
「事件の前、貴方の周りで何か起きたりしていませんでしたか?」
「…よく…思い出せません。事件当日以外の事ならだいたい覚えている筈なんですけど…何か…あったような…?」
「思い出せないならいいんです。もしあれば、と思っただけの事ですから。今日はもう失礼します。少し一人で考えたい事があるので…。」
「…は、はい…。お気をつけて…。」
 ゆきは何かが頭の中でうっすらと動き始めたのを感じた。

―――頭が痛い。
 何か思い出せそうな予感がする。
 事件のあった日よりも前、何かあったような気がする。
 何か。
 誰か。
―――痛い。
―――頭が、割れるように痛い。

 あまりの痛みにゆきは頭を抱え、それでも懸命に何かを思い出そうとしていた。

 
 誠司は車へと戻る道を歩いていた。
 公園内は人気がなく、静かだ。

 桜がちらほらと咲き始めている。
 誰の話だっただろうか、桜には魔物が住んでいるという。

 誠司はそんな事を思い出しながら、桜を愛でていた。
 見上げれば、まだ咲きかけの桜が薄暗い闇に良く映えている。

「綺麗だな…。」

 桜に見惚れる。

 彼が桜に囚われている内に、魔性が彼を捕まえる。

 指が少しずつ、彼の背後へと近づき、影を踏んだ。
 指は絡むように、彼の首へと巻き着かれていく。

 生暖かい手が、誠司の首を掴んだ。

 刹那、熱い痛みが首に走る。

 何者かが誠司の首をきつく絞めた。
 まるで、首ごと持って行こうかとしているように、指は絞め方を強めていく。

「ぐっ…あがっ…」

 誠司は自分の首を絞める手を、渾身の力で引き剥がした。

 げっ、げほ、と誠司はむせつつ振り返ったと同時に叫ぶ。

「誰だ!」

 信司は、それが真の魔性だと思った。

 優艶に微笑む魔性は、誠司が負わせた手の傷を舌の先で舐めている。

 貴方を死へ誘ってあげる。
 死して全てを知りなさい。
 死して全てを守りなさい。
 死して全てを忘れなさい。

 魔性はただ微笑んでいるだけ。

 それは誠司が聞いた幻想だった。

 誠司は、魔性が“誰”なのか知っていた。
 
 そして、魔性は初めて言葉を発する。

「アンタ、死ぬのが怖いかい?」

 紅い妖しい唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。

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 6. 真実の拠り所

 魔性は微笑む。

「アンタ、死ぬのが怖いかい?」

 僕は固まったまま、魔性を見る。
 頭の中は混乱状態にあり、マトモに物を考えられる状態ではない。

 なぜ“彼女”が。

「聞いてんのか。オイ、アタマ、イッちゃってんじゃねぇだろな。」
 
 ―――――――“菅野ゆき”が、僕の首を絞めるのか。

「…ゆき、さん…?」
 乾ききった口を何とか動かして、誠司はようやく一つの言葉を口にした。

「ゆきぃ…?あぁ、これの所有者の事か?残念ながら違うねぇ。」
 これ、と自分の体を指しながら、男口調のゆきはくっくっと笑う。
「…では君は一体…?」
「…俺の名前はセト。ゆきの中の一人さ。」
「ゆきさんの中の一人?」
「そうさ。俺はゆきでもあり、ゆきは俺でもある。」
「どういう意味だ?」
「アンタ、バカじゃねぇの?いい加減、アタマ使えよ。脳みそ腐っちまうぜ?」
「…もしかして、別人格…?!」
 そう言えば、何かの本で読んだ事があった。
 人が絶えられないような衝撃、例えば虐待などを受けた場合、その辛さから身を守る防衛手段として、他人格は生まれるという。
 覚醒者の人格と、夢見者の人格が交代する症状。夢見者の人格は覚醒者の人格存在を知っていて、覚醒者の人格は夢見者の人格の存在を知らない場合が多いという。
 この場合、覚醒者がゆき、そして夢見者がこの“セト”という人格ということになる。

 外見はゆきと全く変わらないのに、口調や表情だけでこうも別の人に見えるものなのか。

 誠司は驚くばかりだった。

「そーゆーコト。アンタ、余計なコトに首突っ込み過ぎ。」
「余計な事…?」
「事件のコトだよ。これ以上、ゆきに変なこと思い出させんじゃねぇよ。」
「彼女は、思い出しかけているのか?」
「アンタに一つ聞くけど、この世から危険を無くすにはどうしたらいいいと思う?」
「それは…自分自身が気をつけたり、警察などが…」
「つまんねーヤツ。はい、三十点落第! 一番簡単な方法は、危険なモン全てを壊すコト。全て壊せば、何も残らねぇ。何も残らなければ、何も起きない。簡単だろ?」
 納得のいかない誠司に構わず話を続ける。
「つまり、だ。ゆきが思い出していなくとも、危険因子は取り除く。それが俺の役目ってワケだ。お分かり?脳みそ腐りかけのオニーサン?」
 だが、とまだ何か言おうとする誠司をゆき…いやセトは制した。
「とーにーかーく、余計な事に首を突っ込むな。殺されたくなきゃな。」
 キャハハッと、ゆきは今までに見たこともないような顔で笑う。
 魔性のように美しく、そして禍禍しく。
「あーあ、殺しそこねちまった。ツマンねぇの。」
「君は…」
「ん?おーっと、いけねぇ。ゆきが起きてくる。もうお終い・“ザ・エンド”さ、オニーサン。せいぜい短い命、楽しんどけ。」
 じゃあな、と言うや否や、セトは倒れた。
 慌てて、ゆきの体を支えた。

「ん…」
「ゆきさん?」
「あ、誠司さん。」
 誠司はホッとした。
「あれ…?私どうしたんでしょう?」
 ゆきは、自分がここにいる事に不信感を抱いているようだ。誠司も何と言って良いか分からず、ゆきの動向を見守る。
「…私、ベンチに座ってて、それで…どうしたんでしたっけ?」
「…僕を追いかけてきて倒れたんですよ。」
 誠司は嘘をついた。
「あら!そうなんですか?!恥ずかしいです…。」
 やはり、覚醒者には夢見者であった間の記憶は無いのか。
「あら!いけない!知らない間にこんな時間!もう行かなくちゃ!」
 時計は七時半を告げていた。
「車で送りましょうか?」
「あ、いいんですか?お願いします。」
 二人が車に乗りこむと、車は静かに発進した。
 無言のまま時間は過ぎていき、ゆきが“いつものバー”という“マキナ”という店の前でゆきと別れた。

 車中で誠司は、“人格障害”について調べてみようと家に急ぐのであった。

 一方ゆきは、少し遅れたが誠司のおかげで時間に間に合う事ができホッとしていた。
 ドアを明けて階段を降りると、カウンターで西村が待っていた。
「すいません、お待たせしてしまって。」
「いえ。僕も今来たところですよ。」
 西村が明るく微笑むと、ゆきもつられて微笑んだ。
「ゆきさん、食事はもうしましたか?」
「いえ、時間が無くて…。」
「実は僕もなんです。じゃあ、食事をしに行きましょうか?」
「はい。そうしましょう。」
 二人は何も飲まずに“マキナ”から出ると、裏に止めてあった車に乗りこんだ。
 向かった先は、高級レストラン。
 最上階でフルコースを食べつつ、二人は話をしていた。
「じゃあ、花見は今度の連休ということで。」
「えぇ。楽しみにしています。」
 そう言えば、とゆきは今日の昼のことを思い出した。
「哲伯父様、今日夕方、どこかにお出かけになった?」
「…あぁ、確か会議の後にどこかへ食事に行きましたよ。昼忙しくて、取れなかったそうです。」
「そうだったんですか…。」
「それがどうか?」
「いえ、似たような人を見たものですから。」
「なら、それは院長かも知れませんね。」
「哲伯父様、まだ病院にいらっしゃるのかしら?今日は夜遅いみたいな事を言ってたけど…。」
「いえ、いないはずですよ。僕よりも先に帰りましたから。」 
あら、そうなんですか…。ゆきは相槌を打ちながらも、不安が胸の中に渦を巻いた。
「どうかしましたか?顔色が悪いようですか…?」
 西村の優しさに、ゆきの顔が少し緩む。
「いえ、大丈夫です。」

 どうして伯父様は、朝、誠司さんと会うことを私に言ってくれなかったんだろう…。
 私に心配をかけたくなかったのだろうか…。
 しかも、今日夕方遅くなるって言ってたけど、病院にはいない。
 では、今、どこに…?

 食事が終わると、伯父の家まで西村が送ってくれた。
「智久さん、わざわざありがとうございました。」
「それじゃ…。」
 車の窓から顔を出した西村と、車から降りたゆきは軽くついばむようなキスをして別れた。
 帰っていく西村に手を振って別れ、ゆきは家に入った。

 ゆきと西村が付き合いだしたのは、ちょうど一年前ぐらいだろうか。
 伯父の病院に前から勤めていた彼は、明るく優しく、病院内でも人気者だった。
 彼は一番初め会った時からゆきに一目惚れをし、ゆきもそんな彼を好きになって付き合う事になった。
 だが、未だにキス以上にはいかず、正しく「これぞ正しい男女交際」の見本のようなお付き合いをしていた。
 自然とそういう形になっているだけだ。
 誰が強制したわけでもない。ゆきが拒んだわけでもない。
 そんな自然な形が、ゆきは好きだった。

 ゆきは家に入るとベッドに倒れこんだ。
「あぁ…頭が痛い…。」
 化粧も落とさずに、すぐに深い眠りに飲み込まれた。


 一方、誠司は一人部屋のパソコンをいじっていた。
「あった…!人格障害について…」
 誠司はパソコンをじっと見つめ、書いてある文章を読んでいる。

 人格障害。
 自分が耐えうる範囲を越えた衝撃を受けた場合に起きる精神の分裂のこと。
 本人(覚醒者)は夢見者がいる事に気がつかずにいるケースが多い。
 ある患者は小さい頃父から重度の虐待を受けていた。すると、次第に耐えられなくなった精神は分裂し、夢見者を作り出していた。
 覚醒者の話によると、父の虐待が始まると知らぬ間に意識が遠のき、虐待を受けている自分を見ている自分がいた、という。
 これは一種の自分を守るための術であると言える。
 全ての精神が壊れてしまう前に、侵入された部分だけを切り取る事によって自分の身を守ろうとするのであろう。
 特にこれは身を守る術を何も持たない幼児に顕著である。

 誠司はこの部分をファイルに保存すると、インターネットアクセスを切った。

 誠司の中で今日出会った“セト”という人格の事を考えてみる。
 あれは、ゆきの作った人格、“セト”。だが、本人はその存在に気付いていない。
「つまり、彼女も知らぬ知らぬの内に、自分を守ろうとして精神が分離したわけか。」
 そして精神が分離し、それが“セト”となった。
 セトは、ゆきに気付いている。

 さっき保存したファイルを開き、さらに目を通す。
 下へ、下へと何か情報が無いか探す。
 専門的な用語も多く、分からない部分もあった。
 それでも下に進んでいくと、とある重要な一言を見つけた。
「夢見者が出ている時、本人である覚醒者は記憶を無くしている場合が多い。だが、夢見者である者たちは、覚醒者が起きている間でも記憶を共有している。」
 
 誠司の頭に、この言葉が染み渡っていく。

 本人は夢見者が起きている間は、記憶が無い。
 だが、夢見者たちは本人が起きている間も記憶がある。

 つまり、全てを見ている。
 全てを、覚えている。
 全てを、知っている。

 ゆきが失った過去も。
 ゆきが失った真実も。
 ゆきが失った存在も。
 ―――あの事件が起きてから全て。

 誠司は全ての鍵を握る人物“セト”と接触した。
 真実の鍵を握る人物は、ゆきの中にいたのだ。

 誠司は考えた。どうすれば、またセトと接触する事が出来るのか。
 セトは“ゆきの記憶を思い出させようとする危険因子全て”を壊す。
 つまり、また“ゆきの記憶を思い出させよう”とすればいいのだ。

 ゆきにとっては、辛い事になるだろう。
 誠司は心の中で何度も何度も彼女への罪悪感で一杯になる。
 だが、真実はゆきの胸の中にあるのだ。

 誠司はパソコンを睨んだまま、考えを巡らしていた。



 朝、目覚めると昨日までの頭痛はすっかりと取れ、気分は好調だった。
 下に行くと、珍しく伯父が先に起きてきていた。
「伯父様…いつお帰りに?」
「一時過ぎだよ。昨日は何かあったのかい?今日は随分起きてくるのが遅かったね。」
「ごめんなさい。今、用意を…」
「いいさ。もう済ましたから。いつもいつも、ありがとう。」
 伯父の暖かい言葉に、ゆきは嬉しくなる。
「ところで、昨日はどこへ?」
「昨日は、病院にいたよ。夜間勤務でね。院長も大変さ。」
「…あぁ、そうなの…。」
 ゆきは昨日の西村の言葉を反すうする。
“いないはずですよ。僕よりも先に帰ったはずですから。”
 
 西村はそう言っていなかったか?

「ゆきちゃん?どうかしたのかい?」
「いえ、何でもないんです。私も昨日は疲れたみたいで…。」
「そうかい。まぁ、今日はゆっくりと体でも休めなさい。」
「はい。そうします。」
 ゆきはニッコリと微笑んで見せた。
 微笑めて良かったと、自分でも安堵する。

 伯父様、どうして嘘をつくの?
 昨夜は誰とお会いしていたの?

 聞くに聞けない疑問だけが、ゆきの中でチリのように積もっていった。

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7.  ジョークに近い現実


 山になりつつあるチリをどこかに掃き出したくて、ゆきは携帯電話を手に取った。

 数分後、ゆきはとある静かなカフェの一角でコーヒーを飲んでいた。
 すると、向こうから誠司がやってきてゆきの前に座った。
「すいません、わざわざお呼びして。」
「いえ、いいんです。今日は暇だったのでどうしようかと…」
 誠司はまた嘘をついた。
 本当は、どうやってゆきに会う口実を作ろうか悩んでいた誠司にとって、突然の ゆきからの電話は、願ってもないチャンスだった。
「あの、実は私の伯父なんですけど…。」
「あぁ、この間お会いした…。どうかなさいましたか?」
「あの、何と言っていいのか分からないんですが…おかしいんです。様子が。」
「様子…とは?」
「はい。昨夜伯父は私に“遅くなるから夕飯はいらない”と言ったんです。それで昨夜、同じ病院に勤務する男性とお会いした時に伯父は病院にいるのか?と聞くと、先に帰ったからいないだろう、と言ったんです。
で、今朝になって伯父に尋ねてみると“昨日は病院で夜勤をしていた”と言うんです。」
 これって、絶対におかしいですよね、とゆきは不安そうに語った。
「それは確実におかしいですね。昨夜、何かをしていた、と見てまず間違いないと 思います。しかも、それはゆきさん、貴方には知られたくない事だった。」
「やはり、事件の事なんでしょうか…。」
「…分かりません。もしかしたら、何らかの繋がりがあるのかも知れません。」
「そうですか…。」
 ゆきはどうしていいか戸惑うように、少し俯いた。
 誠司はいつゆきの中の“セト”を呼び出そうかとその機会をうかがっていた。

 結局カフェでは何も言えず、二人はいつもの公園へ行くことになった。

 公園につくと、二人はいつものベンチに座る。

 初めに沈黙を切り裂いたのは、誠司だった。
「…ゆきさんに、一つ聞きたいことがあるんですけど、聞いてもいいですか?」
「あっ、ハイ。なんでしょうか。」
「貴方は失った記憶を思い出したいですか?それとも、思い出したくないですか?」
 ゆきは黙り込んだ。
 何かを頭の中で考えているようだった。
「…もちろん、思い出せるのであれば思い出したいです。」
「その言葉に嘘はありませんね?」
「もちろんです!どんな記憶であっても、私の記憶なんですから。」

 これが自分の罪を軽減させるための質問だという事を、誠司は分かっていた。
 自分の心苦しさから逃れたいだけの、それだけの質問だった。

 誠司は心を決めた。

「ゆきさん、事件の少し前から、誰かがよく家に遊びに来るようになった、とか、見かけるようになった、というのはありませんか?」
 それは昨日の話題。
 昨日の別れ際、ゆきは何か思い当たる節があるかのような、おぼろげな顔をしていた。
「誰か…。分かりません…。思い出せません。」
 あの日も、一度は“思い出せない”と言ったのだ。
「では、家に遊びに来た人は?」
「家…に…?」
 頭痛がするのか、ゆきは頭を抱えている。
「家…に…誰か…。」
 ゆきは頭を抱え、何かを懸命に思い出そうとしていた。

 家に。 誰かが。 遊びに。 来た?

「う…う…分からない…分からない…分からない!痛い…、頭が…痛ぃ…。」
 激しく何度も何度も頭を振るゆきに、誠司は心苦しさを隠せない。

――早く、早く出て来い、“セト”!

 誠司は胸の中で、そればかりを祈った。

“君は、ゆきを不幸にする”
 突然思い出された伯父のその言葉が、強く誠司の胸に突き刺さった。

 変化は突然だった。

 プツッ、と糸が切れたかのようにゆきは俯いたまま動かなくなった。
 誠司は恐る恐るゆきに声をかけた。
「ゆきさん…?」
 それとも、“セト”か?

 だが、それは誠司の期待通りのモノではなかった。

 ふ、とゆきは顔を上げた。
 その表情はいつもと変わらず、誠司もダメだったかと思い、声をかけた。
「ゆきさん?大丈夫ですか?」
 ビクッ、と怯えたようにゆきはベンチから立ちあがった。
「…さわらないで。」
「へ?」
「おにぃさんは、だぁれ?」
――他の人格だ!
 誠司の中を衝撃が書けぬけた。
――人格障害――多重人格障害だったのか。
 誠司は頭を切り替えて、この幼そうなゆきに語りかける。
「はじめまして、だね。お兄さんの名前はね、藤堂誠司って言うんだよ。」
 君の名前は?と聞くと、二十歳のゆきを姿した“誰か”は、怯えたまま答える。
「わたしのなまえは“アリ”。おにぃさん、どうしていじめるの?」
「いじめる?僕が、いつ?」
「おにぃさん、いじめる。わたしのこといじめる。わるいひと。」
「いじめてなんて…」
「うそ。アリ、おもいだしたくなんてないのに。おにぃさんがことばをいうたびに、したからなにかがうかびあがってくる。
とてもこわいもの。それが、すこしずつうかびあがってくるの。
いまはまだ、ふかぁい、ふかぁいところにあるけど…。」
 怖い、怖いといってアリは震えている。
「アリ…、君は、ゆきを知っている?」
「知らないわ。ゆきってだぁれ?」
「じゃあ、君は何歳なの?」
「アリは、やっつよ。…こわい。こわいの。おにぃさん、おねがいだから、これいじょう、なにもいわないで。アリを、ほうっておいて。」
「アリ…?」
「おねがい、おねがい…」
 幾度となくそれを繰り返しながら、アリはベンチに座ると静かに眠った。

 スースーと隣で寝息が聞こえる中、誠司は新しい人格“アリ”について考えていた。


 夢見者“アリ”は、覚醒者“ゆき”の存在を知らず、“ゆき”が起きている間の事を見て、それが自分に起きているのだと思っているようだ。
 だから、アリはゆきの存在を知らない。
 “セト”そして“アリ”。二人の間にある共通点。

 それは、ゆきが“過去を思い出そうとした時”だ。


「ん…。」
 ゆきの目が覚めた。
「ゆきさん…?」
 誠司が語りかけると、ゆっくりとゆきは目を開けた。
「誠司さん…、目を、閉じて下さい…。」
「え?なぜ?」
「…いいから。お願いします。」
 誠司は首を傾げながらも、一応目を閉じた。

 だが、嫌な予感がした誠司はすぐに眼を開けた。
「――!」

 目の前に広がったのは、両手でペンを握り、それを誠司に向けて突き刺そうとしているゆきの姿だった。
 ゆきの手を握り、その手に握られていたペンを落とさせた。
「何をする!」
「あーあ。バレちまった。我ながら、良い手だと思ったんだけどなー。」
「セトか?!」
「あったりー!オニーサン、脳みそ使うようになってきたジャン。」
「丁度良い…君に聞きたいことがあったんだ。」
「何さ?」
「今日“アリ”と会った。」
「アリと…?アイツ、元気だったか?最近ちっとも会わねぇと思ったら。で、何話したんだよ?アイツ、何か言ってたか?」
「別に何も。ただ、怖がっていたよ。」
 セトは、アリと僕が会った事を知らなかった。
 嫌な予感が頭をかすめた。
「あぁ…。アイツは臆病者だからな。」
「君と、アリはどういう関係なんだい?」
「そんな事、テメェに関係ねぇだろ!」
 キバを剥くように、ゆきの顔は歪んだ。
「君は、あの事件の日を覚えているのかい?」
「事件のコトは知ってるよ。」
「それは…?」
 どういう意味か図りかねて、誠司が問うと、セトは少し笑った。
「分かったよ、アンタ、俺をわざわざ呼び出して、聞きたかったんだな?“あの事件の真相を教えろ”とさ。だから、わざとゆきに思い出すような事を言ったんだろ?だが、偶然アリが出た。そういうコトだろ?」
 誠司は何も言わない。
「図星ってワケか。残念だったな。俺は“事件”の“真相”については何も知らねぇ。俺が知ってるのは、新聞に載っているようなありきたりな事だけ。」
 くっくっく、とセトは笑う。
「無様だなぁ…!ゆきを苦しい目にあわせておいて、何一つ分かりゃしなかったんだから!滑稽、滑稽!」
「苦しい目…?」
「あぁ、そうさ。俺は、ゆきの痛みや苦しみに関しては敏感なんだ。知ってるだろ?ゆきは記憶を取り戻そうとすると頭が痛む。その痛みが俺を呼び起こすんだ。」
「そうだったのか…。」
「オニーサン、ゆきを苦しめて楽しいのかい?」
「楽しくなんか…!」
「ふぅん、随分強引だね。ゆきが苦しむと分かっていて、ワザとやっているとしたら、アンタ、かなりの悪人だよ。案外、ゆきの両親、アンタが殺したんじゃないの?」
 きゃはははは、とゆきは笑う。
「…消えろ。」
「おや?オニーサン酷いねぇ。アンタが呼び起こしたんじゃないか。用なしになったら、すぐポイかい?オイオイ、そんなにムキになるなよ。」
「消えろ!!」
 力を込めて怒鳴った。

 公園の鳩が空へと舞い上がって行く。
 数人の家族連れが、こちらを見ているのが分かった。

 セトは “ジ・エンド”だな。 といって消えた。
 
 今は横で“本物”のゆきが眠っている。

「くそっ…!」
 誠司は自分の拳を強く握った。
 爪が手に食い込むのも、血が垂れていくのも無視して。

 ただ、強く握った。

「ん…?」
 ゆきが目覚めた。今度は本物のようだ。
「あ…私ったらいつの間に…?誠司さん…?」
 ゆきは誠司を見る、誠司は何か?と笑っているが、いつもとどこか違う雰囲気だった。
「誠司さん、どうかしましたか?」
「いえ、別に。ただ、眠ってしまって、どうしようか迷っていたところですよ。」
「そうですか…。」
 何となく釈然としないものがあったゆきは、誠司をじっと観察する。
 誠司はただ笑っているだけだ。

「…誠司さん! その手、どうしたんですか?」
「あっ、あぁ、さっきちょっとやってしまいまして…」
「何をやったら、そんな血が出るほど手を握れるんですか…?」
 血。
 赤い。赤い血。
 今は黒く変色している。
「早く…治療をしないと…。」
「ゆきさん?顔色が悪いようですが…?」
「血を…血を見るのが嫌いなんです…。早く、手当てを…。」
「無理しないで下さい! 大丈夫ですから。それよりも、ゆきさんの方がよっぽど顔色が悪い。今日はもう帰ったほうがいいでしょう。僕は、こんな手ですから上手く運転できませんし、更に貴方の気分が悪化しても困るので、一人で帰ります。さ、早く、タクシーを使って。」
「は…はい。すいません。それでは…。」
 ゆきは真っ青になりつつもタクシー乗り場へと向かう。

 血が、血が見えた。
 誠司の手から、ポトポトと滴る血が。
 赤い。
 気持ちが…悪い。

 吐きそうになりながら、ゆきは伯父のいる病院へと急ぐのであった。

「伯父様、哲伯父様…!」
 病院に入って院長をノックしても返事が無い。どうやら今はどこか別のところにいるようだった。
 その間にも気分はどんどんと悪くなっていき、ゆきは立てなくなってしまった。
「伯父…様…。」
「ゆきさん!」
 突然の大声に驚いて、ゆきは声のした方を見た。
 すると、そこには西村が立っている。
「智久…さん…。」
「どうしたんですか?」
「あの…ちょっと…伯父様に用があって…。」
「院長なら、今、会議中です。残念ながら、あと一時間ほどはいません。」
「あぁ…そうですか…すいません、本当に…また後できます…。」
「そんな、顔色がものすごく悪いですよ! 大丈夫なんですか?!」
「…は、い…。大丈夫…です。」
 本当のところ、ゆきはかなりの気分の悪さ、吐き気、そして眩暈に襲われ、もう一人では立っていられない状況だった。
 西村に平気なところを見せようと、必死に立ちあがって見せる。
「ほら…大丈夫でしょう…?」
 だが、すぐに足がふらつき、倒れそうになったところを西村が支えた。
「大丈夫じゃないじゃないですか!僕の診察室に運びますよ。いいですね?」
「は、はい…。」
 ゆきは抱きかかえられ、西村の診療室へと運ばれた。
 部屋にあった簡易ベッドに寝かせてもらい、少し気分が落ち着いてきた。
「一体、どうしたんですか?」
「あ、あの…ちょっと、血を見たら気分が悪くなってしまって…。」
「あんなに真っ青になるほど?」
「…はい。実は、昔から血を見ると、すごく気分が悪くなって…。いつも、哲伯父様からお薬を頂いていたんです。」
「鎮静剤とかですか?」
「はい。多分、そのようなものだと思います。」
「今もまだ、気分は悪いんですか?」
「はい…。少し。でも、大丈夫です!」
 ほら、と言って起きあがって見せようとするゆきに、西村は苦笑した。
「そんなに、頑張らなくてもいいんですよ。」
「頑張ってなんか…。」
「貴方の頑張ってる姿は好きです。ですがせめて、僕の前だけでは安らいで欲しい。」
 西村の真剣な顔に、ゆきは少し頬を赤く染めた。
「はい…。」
「さ、今はもう眠った方がいい。一眠りすれば、少しは気分も落ち着くでしょう。院長が来たら、起こしてあげますから。」
「お願いします…。」
 ゆきは、安心したのか西村の言う通り少し眠ることにした。


 一方誠司は、血が止まった手をみながら、車を運転していた。
 無表情で自宅につくと、鍵を開け、扉を思いきり閉めた。
 バタン! と、大きな音がアパートに響いただけだった。


「起きて下さい、ゆきさん。」
「ん…。」
 今日はよく眠る日だな、と思いつつゆきは目を開けた。
「哲伯父様…!」
「ゆきちゃん、大丈夫だったかね?血を見たそうじゃないか。」
「…えぇ、伯父様。でも、智久さんのおかげで随分良くなったのよ。」
「そうかい…。西村君、ありがとう。」
 いえ、そんな…と西村は謙遜した。
「ところで、ほら、いつもの薬だよ。まだ気分が悪かったら飲むといい。」
「ありがとう、伯父様。でも、今は大丈夫。これ、もらっておきます。」
 一包の薬を鞄の中にしまうと、ゆきは時計を見た。
「あら!もう六時!いけない!夕飯の用意をしなくちゃ!哲伯父様、今日は帰ってきてくださる?」
「あぁ、今日は仕事も一段落ついたから…。」
「分かったわ。今日は、哲伯父様の大好きな肉じゃがよ。早く帰ってきてね。」
「はは、分かっているよ。」
 それじゃ、とゆきは病院を去っていった。

 西村と伯父は、ゆきを見送った後、院長室で話をしていた。
「西村君、今日はゆきのこと、本当にありがとう。」
「いえ、そんな対したことはしていません…。」
「ゆきはどんな風だったんだい?」
「僕が偶然廊下を通りかかるとゆきさんが院長室の前で座りこんでいて、凄く顔色も悪く、立てない状況だったので、僕の診察室で休むように言ったんです。」
「そうか…。」
「ゆきさんは、確か血を見るのが嫌いなんですよね?」
「あぁ…昔の事件のせいだと思うが。血に極端な反応を示すんだ。昔はもっと酷かった。あれでも、マシになった方なんだよ。」
 伯父は昔を思い出して苦笑した。
「それで、薬を…?」
「あぁ。私が色々な薬を調合して、副作用の少ない鎮静剤を使っているんだ。少し、睡眠効果もある。気分が悪くなるたびに、私が渡していたんだよ。」
 これでも、薬剤師の免許は持っているんだ、と伯父は軽く笑った。
「いつ気分が悪くなるか分からないのなら、常に持っていさせた方がいいんじゃないですか?今日みたいに、院長がいなかったら大変な事になりますよ。」
「確かに、君の言う通りだな。だが―――」
 西村は言葉の続きを待った。

「――その薬を飲んで、自殺するかも知れないだろう?」

 伯父の凍てついた笑みが、タチの悪いジョークのような現実を、より現実に近づかせた。

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 8. 物語

 連休。
 ゆきと西村はお花見に来ていた。

「綺麗ですね。」
「えぇ。今が一番見頃らしいですよ。」
 西村の微笑みに、ゆきも思わず頬が緩んだ。

 二人は、春なら花見、夏なら花火大会、秋なら紅葉狩り、冬なら温泉と、四季折々の行事がとても好きだ。
 その季節にしか味わえない行事だからこそ、楽しみたいと思う。

 桜は満開で、たまに吹く風が満開の花びらを一つずつ散らしていく。
 屋台が何台も出ていて、家族連れやカップルが賑わしている。
 二人も手をつなぎながら、桜満開の道を歩いていく。

 桜を綺麗だ、と思っていながらも、どこかで別のことを考えている自分がいた。
 ゆきは、それに気付いていて、知らないフリをしていた。

 今、目の前にある真実が怖い。

 伯父のことを考えても答えはどこにもないような、闇の中をさまよっているような感覚に襲われて、なるべく忘れ様としている自分がいる。

「…きさん?ゆきさん?」
 ハッ、となってゆきは慌てて返事をする。
「どうかしました?」
「人の話、聞いていました?」
「すっ、すいません…。ちょっと考え事を…。」
「前から言っているでしょう?僕の傍にいる時ぐらいは、安心して欲しいと。」
「すいません…。」
「謝ることはないんですよ。ところで、本当に今の話聞いてなかったんですか?」
「…はい。」
「今、僕はとても大切な事を言ったんですよ?」
「す、すいません。本当に聞いてなかったんです…。」
 ゆきはしょんぼりしながら西村の顔をうかがった。
「…全く。やっと言ったと思ったのに…。」
「へ?」
 ゆきは何を言われたのか全く分からない。
「仕方ない…もう一度言いますよ?」
「はい、お願いします!」
 今度こそ聞き逃すまいと、ゆきは身構えた。
 そんなゆきを見て、西村は顔をそむけた。
「お願いですから、そんなに気構え無いで下さい…言い難い…。」
「ご、ごめんなさい。」
 ゆきはいたって普通にしようと、普通のふりをしているがどうもぎこちない気がする。

「ゆきさん、僕と結婚しませんか?」
 
 へ?、とゆきは西村の顔を見る。
 いつもの平常そうな顔は、どこか不安を帯びているように見える。
 眼鏡から見える目は、あえてゆきを見ないようにしている。

「あ…!」
 強く風が吹いた。
 ゆきの長い髪が風に吹かれてなびく。

 西村が、その髪を捕まえて、少し微笑む。
 それから、困ったような顔をした。
「?」
 
 ゆきはボサボサになった髪を整えてから、西村の顔を見た。
 あの困った顔以後、前を向いたまま何も言わない。

「そこまで見つめられても…。」
「あ、すいません…。」
 何で何も言わないんだろう、とゆきは少し不思議に思う。
「あの…どうかしました?」
 西村はため息を吐いた。
「…本来の話、忘れてませんか?」
「ん?」
 あっ!そうだった!まだ返事をしていない!
 確かに、何も言えない筈だ。
 ゆきは自分の忘れっぽさに恥ずかしさを覚えた。
「えっとー…あの…そのぉ…。」
 ゆきはどうしようか決めかねていた。
 “結婚”という言葉があまりしっくりこない。現実味が無い。
 西村はまた、ため息を吐いた。
「…すいません。」
「えっ?!」
「唐突過ぎました。しばらく、考える時間も必要でしょう。急速に答えを出す必要性はないのですから。」
「は、はぁ…。」
「さ、今日はせっかくお花見に来たんですから、楽しみましょう。」
「は、はい。」

 “結婚”二つの文字が小さく重なる。
 頭の中がパンクしそうだ。
 西村の事、伯父の事、自分の事。
 一体何から考えればいいのだろうか。


 誠司は、起きてすぐにバイトに行った。
 皿を洗いながら、昨日の事を考えていた。

 昨日のセトとアリの話によって、分かった事がある。
 セトは、ゆきの存在を知っているが、実際にゆきの体験した事を知っているわけではない。ゆきの痛みに対して反応し、表に出て来る。
 だが反対に、アリはゆきの存在を知らない。が、ゆきが体験している事を自分自身が受けていると思っている。異常に恐れている所を見ると、多分アリはゆきの恐怖に対して表に出て来るのだと思う。
 セトは、アリを知っているようだった。
 むしろ、気に掛けているようにも見える。

 ―――パリンッ!
 皿が割れた。
「誠司君、何やってるの?何か考え事しているみたいだけど。」
「すいません…。」
「疲れてるんじゃない?今日はもういいから帰りなさい。」
「でも…。」
「そんな状態で皿を何枚割るつもり?給料から引かれる前に、帰りなさい。」
「…はい。」
 制服を脱ぐと、荷物をまとめて店を出た。 
 家に帰る気にもなれず、図書館へ行った。
 図書館のパソコンを使用して、インターネットをすることにした。

 セトと、アリ。どこかに共通点があるのかもしれない。

 そう思った誠司は、検索サイトを開くと、さっそく“セト”に続けてスペースを押し、“アリ”と打ちこんだ。
 しばらくすると、ページが変わり、検索結果が現れた。
「…本?」
 どうやら、“セト”と“アリ”は、本に出て来る登場人物のようだ。
 詳しい事が書いてあるか、さらにサイトを見て回る。
「“世界の神話”…?」
 世界の神話。それが本の名前であった。どうやらこの本は、世界の様々な神話を集めたものらしかった。よくある“日本の歴史”や“中国の歴史”と同じようなもので、世界の神話ばかりを集めた本らしい。
 “セト”と“アリ”。この二人は、どうやら“世界の神話”の三巻に出てくるようだ。
 早速、図書館内の検索システムに切り替え、“世界の神話 三巻”と打ちこんだ。
 “世界の神話 三巻 本館一階 セ105”。
 誠司はパソコンを切り、早速一階に探しに行った。
 図書館は広く、連休ということもあってか、人は少なかった。ドミノ倒しでもしたら、ものすごい事になりそうな本棚の山の中から、ようやく“日本の歴史”や“中国の歴史”などといった分野を探し当て、ようやく“世界の神話・三巻”を発見した。
 本を持って、カウンターまで行き、貸し出しの手続きをとってから席に座った。

 そして、ゆっくりと本を開いた。

――――――――――――――――――――――――――
 昔、古代ローマ帝国には、このような神話が語り継がれていました。
 天界にある宮殿の奥底に妖艶な美の女神“アリ”は、他の女神たちと花に囲まれて、穏やかで健やかな日々を過ごしていました。彼女の美しさは、大勢の人を魅了し、彼女は様々に人に愛され、幸せに生きていました。
 ある時、幸せだった宮殿に悲劇が襲いました。衛兵を次々となぎ倒し、一人の男が宮殿の奥深くまで侵入したのです。その男は人間である勇者“セト”。
 彼は美の女神であるアリを天界から奪い去っていってしまったのです。
 天界から連れて来られたアリは、部屋に一日中閉じ込められ、見えるのは高い位置にある窓からの景色のみ。彼女はいつも泣いて暮らしていました。
 彼女には翼がありませんでした。空を飛ぶ自由も、ここから逃げ出す自由もなかったのです。
 だが、セトは彼女の事を愛していました。美の女神である彼女は、誰からも愛されてしまう存在です。セトは彼女を外に出したら、誰かに奪われてしまうのではないかと心配だったのです。
 セトは、アリのために毎日花を取って来たり、珍しい生き物を見せたり、様々な事をしてアリを喜ばせようとしました。
 ところが、アリは“天界に帰して下さい”と、日々泣いてばかりいました。セトは、アリを喜ばせたくて様々な事をしますが、それでも彼女は帰りたい、とそればかりを口にします。
“こんなに愛しているのに、なぜ君は愛してくれない?”
 彼女は決して答えませんでした。セトは、その真実を認めたくなくて、花を運ぶのも、珍しい動物を見せるのも、止めてしまいました。
 何もない暗い部屋で、アリはただひたすら祈り続けました。高い窓から見える天界に向かって、ひたすら祈りつづけたのです。

 その頃、美の女神“アリ”が消えてしまった宮殿は、ガラリと変わってしまいました。咲き誇っていた花は枯れ、他の女神たちから笑みは消え、宮殿は廃れる一方となってしまったのです。
 その時、一人の翼を持った大天使“ジン”が宮殿に舞い降りました。
“これは、どうしたというのです?あの美しく栄えていた宮殿がこのようになにってしまうとは…”
 他の女神たちはすがるように、ジンに助けを求めました。
“人間の男が、アリ様を連れていってしまわれたのです!どうか、アリ様をお助け下さい!”
 そう聞いたジンは、早速アリを探しに行くのでした。
 ジンは天界から下界へと降りると、翼をしまいました。そして、アリを探しました。アリは美の女神であり、一度見た人は必ず虜になってしまうはずです。ところが、どの村でもそのような美しい娘がいるという噂は聞きませんでした。
 ジンは、ほのかに聞こえる祈りを聞きました。天界への想いを込めた祈りでした。
 ジンは祈りのする方向に向かって走りだしました。高い窓の中からその声が聞こ えてきます。ジンは翼を広げ、窓から中を見ました。
“女神アリ、ここにいるのですか?”
 アリは、翼を広げたジンを見て、驚きのあまり涙をこぼしました。
“大天使ジン様。どうしてこのような場所に?”
“貴方のいない宮殿はあまりにも寂しくて、皆が泣いておりましたよ。さ、帰りましょう。”
 アリは、その言葉を聞くと一瞬嬉しそうな顔をしてから、不安な顔になりました。
“私が帰っても大丈夫なのでしょうか?あの男は…”
“きっと大丈夫です。もうあのような悲劇は起こらないようにします。さ、帰りましょう?貴方がいるべき場所は、ここではない。”
 アリは、ジンと帰る決意をしました。ジンはアリを救い出すと、腕に抱えて天界へと舞い戻りました。
 ジンとアリは自然に恋に落ち、二人は結婚し、幸せな日々を送っていました。

 一方、帰ってみるとアリがいなくなっていることに気付いたセトは、真っ青になりました。
“一体誰が…?”
 セトは何かないかと家の周りを歩いていました。すると、真っ白な美しい大きな羽が落ちていました。
“天使か…?”
 セトはアリを誰かが奪っていったのだと確信しました。そして、また天界に昇り、アリを取り戻しに行く事を決意しました。
 幸せ一杯の二人の目の前に、突然セトは現れました。
“よくも、私の愛する人を奪ったな!”
 ジンは、怯えるアリをかばう様に二人の間に立ちました。
“よく言う。一方的な愛を、愛とは呼ばない。”
“うるさい! お前は黙ってろ! さ、アリ、俺と一緒に帰るんだ!”
 アリは恐怖に怯えて声も出せず、ただ首を横に振るだけでした。
“アリ…!”
“もう下界へ帰りなさい。ここは君のいるべき場所ではない。”
“うるさい! お前は黙れ!”
 セトは短剣を抜くと、勢い良くジンに向かって走り寄り、短剣はジンの心臓に突き刺さりました。
 アリの悲鳴が高く宮殿に木魂しました。目の前には愛するジンが、胸から血を流し倒れています。
“アリ…。”
 ゆっくりと優しく歩み寄ってくるセトの姿は、まごうとなき悪魔でした。アリは、抑えきれぬ震えに翻弄されながらも、恐怖と戦っていました。
 アリはジンの胸に突き刺さる短剣を抜きました。すると、ジンから少し血が吹き出ましたが、ジンはもう死んでいました。
“主よ、私をお救いください。そしてどうか、私の愛するジンをお助け下さい。私の命と引き換えに、ジンの命をこの世に戻して下さい。そのためならば、私は何度でも自ら命を絶ちましょう。”
 アリは短剣で自分の喉を掻っ切りました。噴水のように血は滴り、青くなったジンに降り注ぎ、アリは倒れました。
“…アリ!”
 一番驚いたのはセトでした。
“アリ、アリ、死なないでくれ。お願いだ、君を、愛しているんだ。”
“…セト、最後まで貴方の気持ちには応えられなくて…ごめんなさい。”
 そう言うと、アリは死んでいきました。
 残されたセトは胸の痛みのあまり、アリへ愛の言葉をつぶやきながら短剣で胸を突いて死にました。
 一人生き帰ったジンは、死んでいるアリと、それを抱くようにして死んだセトを見て、絶望しました。
“アリ…君は、僕一人を生かしてどうするつもりだったんだい? 僕にこの長い永久のような人生を一人で生きよというのかい?”
 ジンは、そう呟くと、アリとセトの亡骸を、誰にも分からない秘密の場所へ埋めました。

 アリは、美と愛、そしてそれに伴う恐怖と失望の女神として天に迎えられ、天使殺しのセトは、勇敢と、強さ、そして復讐の悪神として地よりも下に落とされました。
 その後、生き長らえたジンは優しさと自由、そして秘密の番人として、主に仕えたといいます。

――――――――――――――――――――――――――
 本を閉じた。
 随分重い話だと思いながら、思考を巡らせた。
 セト、アリにはもう会った。この話の通り、勇敢で攻撃的な復讐神セト。恐怖に怯えるアリ。
 では、あと一人。
 “ジン”も、彼女の中にいるのではないだろうか。彼女の中の“秘密”を守る番人。
 その役目を持っている“ジン”がゆきの中にいるとすれば、真実を知っているかもしれない。
 だが、それをどうやって目覚めさせればいい?
 痛みには、セト。
 恐怖には、アリ。
 ならば、ジンは―――?



 ゆきは夜遅く自宅の電話を取った。

「あのお話、お受けします――――――」

 春の荒風が窓を強く叩く夜の事だった。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 9. 腐った卵

 誠司はゆきに呼び出され、公園の噴水前ベンチに座っていた。後から来たゆきが小走りに駆け寄る。
「お待たせして申し訳ありません。」
 いいえ、いいですよ、と誠司は答えた。
「どうしたんですか、急に?」
 ゆきは頬を少し染め、照れた様子で口を開いた。
「あの、実は今度、結婚する事になりまして…。」
「それはそれは!本当ですか?」
 えぇ、とゆきは嬉しそうに頷く。それから申し訳なさそうに俯いた。
「はい。それで、事件の方なんですけど…。」
「…そうですね。結婚ともなればお忙しいでしょうし…。」
「はい。ですから、しばらくは調査などは…。」
「分かってます。そこまで強要はしません。しばらくは、事件の事は忘れて幸せを堪能して下さい。一生に一度の大事な式です。」
「はい…。」
 ゆきはほんのりと微笑んだ。誠司も、幸せそうなゆきに安堵する。

 だが、誠司は安堵する傍ら、どうやってジンを呼び出そうか困惑する。
 ゆきは結婚する。
 ならば、これは最後のチャンスかもしれない。

 誠司は乾く口を開いた。
「ゆきさん、“世界の神話”っていう本を知っていますか?」
「あ、はい。父の書斎にあったんです。日本の歴史と一緒に揃えてあって、それがあの頃の私に唯一読める本でした。」
「それで、その中のどんなものが印象に残ってますか?」
「…よく、覚えてないんですけれど、何か三人の男女が出て来るのが一番印象に残っています。読もうとしたら、父がそこだけ取り上げて、読ませてくれなくて、こっそりと忍びこんだ時に、読んだんです。たしか、その話、一人の女神の悲しいお話だったと思います。」
「本はよくお読みに?」
「えぇ。父がよく読んでくれました。すると、母が私の大好きな林檎を切ってくれて…。うちのお母さん、私と一緒で林檎が大好きだったんです。林檎があると、必ず皮をむいて、塩水につけてから出すんです。そうしないと、色落ちして気持ち良く食べられないでしょう?って皮ごと食べようとする私から取り上げては、よく言いました。
 だから、私は、母が林檎を向いて、塩水につけている間、ずーっと待っているんです。その時間がものすごく待ち遠しかった事を覚えています。」
「そうですか…。」
 誠司は笑いながらも、頭では話など聞いていなかった。

 どうやら、“世界の神話”はジンを呼び出す鍵ではないらしい。
 では、何をすれば呼び出せる?
 ジンは、何を待っている?
 強く、手を握る。
 じわじわと時間が失われていくのがわかる。
 どうすれば、そればかりが頭の中をかけめぐる。
 過去の記憶に、彼が反応するとは思えない。
 さあ、どうする?どうすればいい?

 この最後の機会を、失いたくは無かった。

「じゃあ、もう帰ります。いろいろ決めなきゃ行けない事がありますし…。」
「あ…そ、そうですか。」
 誠司はゆきを引き止める手段を持っておらず、何でもいいので引き留められるような話題を探した。
「き、今日は、何で来たんですか?」
「タクシーです。」
「じゃあ、僕の車で送っていきますよ。」
「…良いんですか?」
「はい。是非。」
「じゃあ…お言葉に甘えて…。」
 二人は公園を歩く。少し花を見ていきましょうか、などと言って遠回りをしながら。
「綺麗ですね。」
「はい。」
 微笑みながら、誠司は焦る。
 喉かな風景が広がる公園で、家族連れの楽しそうな声が聞こえる。椿が綺麗に咲き、桜はもう散りつつあった。
「いてっ…。」
 誠司は小さな石に躓いて転んだ。
「せっ、誠司さん! 大丈夫ですか?」
「あ…はい。多分。」
 恥ずかしいですね、と誠司は笑って立ちあがろうとした時、痛みが体中をつき抜けた。
「痛ッ…!」
「きゃあっ!」
 見てみれば、転んだ拍子に地面に突き刺さっていたガラスの破片で腕を切ったらしい。八センチほどの傷からは、赤い血が滴り落ちている。
 怪我は意外に深く、誠司もさすがに顔を歪めた。
 すぐに気付かなかったのは、他の部分も痛かったからだ。そして、立ちあがろうと腕の筋肉を使ったので痛みが増し、傷に気付いたのだと分かった。
「だ、大丈夫ですか…?」
「はい。ちょっと手を貸してください。」
「はい…。」
 手を貸してゆきは誠司を立たせた。だが、血は止めど無く流れつづけている。
「ゆきさん、僕よりも貴方の方が顔色が悪いですよ…?大丈夫ですか…?」
「せ、誠司さんよりは大丈夫かと思いますが…。」
 真っ青な顔をしたゆきは、震える体で何とか必死に立っている。
「とにかく、車まで行きましょう!」
「は、はい…。」
 ゆきは真っ青の上に、今にも吐きそうなほど気持ちが悪いようだ。目を閉じたまま車につくと、助手席にゆっくりと座った。
「大丈夫ですか?」
 誠司はひたすら心配する。
「あ、あの…たしかここの辺に薬が…。」
 ゆきは目を閉じたまま、手探りで鞄を探す。すると、前伯父からもらった薬がそこにあった。
「水を、お願いできますか?」
「はい。」
 なるべく血を見ないようにしているゆきは、目を閉じたまま、水をもらい薬を飲んだ。
「あの…これで、落ちつくと思います…。それで、この薬を飲むと少し眠たくなるんですけど…」
「はい、分かりました。その間に僕はこの腕を何とかします。それから、貴方を自宅まで送り届ければいいですよね?」
「はい…お願い…しま…す…。あと、これを…使ってください…。」
 ゆきはもう眠ろうとしているようだった。彼女が手渡したものは、ハンカチで白い綺麗なものだった。
「ありがとうございます。」
 誠司がお礼を言うと、ゆきは少し微笑んで眠った。

 ゆきが眠ってから、誠司は公園の水のみ場へと歩いた。もちろん、車の鍵は閉めて。水道で傷口を洗いった。乾いたハンカチで傷を圧迫するように押さえ、止血しながら車へと戻った。
 車の鍵を開けて、運転席に乗り込むと、ゆきが眠っていた。
 ほっ、と胸をなでおろす。
 これで時間が稼げた、という安堵と、ゆきが苦しんでいる状況から抜け出せたという安心感で。
 しばらく、ゆきの寝顔を見つめた後、目を閉じて誠司は呟くように言った。

「ジン、か…。」
 

「――何か?」


 誠司はゆきの顔を見る。ゆきは目を閉じたまま、眠っているようにしか見えない。
 気のせいか、と思い誠司は前を向いた。
「僕に何か用か、と聞いているんだよ。」
 今度こそ、確かにゆきから発せられたものだと気付く。
 誠司は眠っている風なゆきに向かって叫んだ。
「誰だ?! セトか?! それとも、アリか?!」
 ふふ、とゆきは笑う。
「…君は僕を待っていたのだろう?」
 ハッ、となって、口に手をやる。
「…まさか―――“ジン”か?!」
 満足そうに、ゆきは微笑む。
「そう。僕の名前はジン。ようやく“直接的”に会えたね、“誠司”君。」
「君は、僕の事を知っているのか?」
「もちろん。僕は全てを知っている。それは、もう君もわかっている事だろう?」
「あぁ。君は、全てを握っている。全ての答えを持っている…そうだろ?」
“ジン”は、目を開け起きあがった。腕を組み、対等に誠司を見る。
「よく、そこまで調べ上げたね。素晴らしい…敬意に値するよ。」
「…ゆきさんの失われた記憶を教えてくれ。君の知っている全てを。」
「そんな事、僕が言うとは思っていないだろう?もちろん、僕は記憶の番人。秘密は一生守り通す。必要な限りね。」
「必要な…限り?」
「もし君が、真実に近い場所にいるとしたならば、僕は迷い無く教えただろう。だが、君はこの事件の事を何も分かっていない。 この事件は、君が思っているよりももっと暗く、そして―――病んでいる。」
「なら、僕の質問に答えてくれ!」
「…いいとも。君には関心している。少しだけならば、答えられる範囲で君に応えよう。」
 誠司は焦る気持ちを抑え、ジンへの質問を考えた。
「君たちは、表に出て来るためには、ある事が起きなければ出て来れない。セトであれば、痛み、アリであれば、恐怖。では、君は何に反応して出て来たんだい?」
 そんなことか、とジンは笑った。
「神話を覚えているかい?僕は、血を心の臓から流し死んだ。そして、アリの噴き出した血によって目覚めた。
ゆきは血を見ると過剰に反応する。その反応を抑えるための薬には、深い催眠効果があってね。ゆきは薬を飲んだ後、ものすごく深い眠りに着くのさ。僕は本来、ゆきの中でもものすごく深い部分にいてね。その時だけ、出ていく事を許される。だが、出るか出ないかは僕の自由。今日は、君が面白い事を言うから、わざわざ出てきたのさ。
それにしても、随分な偶然だ。僕は血に好かれているようだ。」
「…では君は、ゆきの“中”で、どんな存在なんだ?セトやアリは、君の事を知っているのか?」
「もちろん、セトも、アリも、僕が存在している事は知っている。僕もよく、アリに会うよ。」
「…会う?」
「そう。彼女はよく一人で泣いているんだ。君が会ったアリはかなり小さかったようだけれど、本当はもっと大きく、年齢も僕と同じくらいでね。泣き声が聞こえては、僕が傍で慰めているんだよ。」
「セトは、アリには会えないようだったが…?」
「僕は特別だからね。セトやアリは、普段会うことは出来ない。たまにすれ違う事はあっても、喋ったり、会いに行ったりすることはできない。」
「どうして君は特別なんだい?」
「それは答えられない。」
 くっ、と誠司は眉間にしわを寄せた。
「なら、ゆきは犯人を見たのかい?」
「ノー・コメント。」
「じゃあ、事件が起きる前、何が前兆のようなものはあったかい?」
「ノー・コメント。」
「それなら、首を一列に並べた意味は?!」
「ノー・コメント。」
「なら、一体何なら答えてくれるっていうんだ?!」
「事件以外のことならば。」
 ゆきの顔をしたジンは、くすっ、と笑う。
「――犯人は、何を考えてこんな事をしたんだろう…?」
「それは質問かい?それとも自問かい?だが、一つだけ言える事がある。犯人は“狂って”いる。」
「狂って?」
「そう。狂っている。君は物事を固く捕え過ぎている。もっと、柔軟に世界を見るべきだ。真実は、動機とか、理屈とか、計画性とか、そういったものを越えた所に存在する。全てを越えたところにそれはあるのさ。」
「越えた…?」
「そう。セトがアリにしたように、アリが僕にしたように。全てはとてもシンプルで簡単だ。」
 誠司は頭の中は絡まっていくばかりだ。

「さて…そろそろゆきが起きてくる。今回は随分と薬の効きが短かったかな。」
 去ろうとするジンに、誠司は慌てた。
「まて、最後に一つ、答えてくれ。どうして、君たちは生まれた…?」
 ジンは驚いたような顔をしてから、微笑んだ。
「…ノー・コメント。それに、君はもう分かっているんだろう?」

 それは、予想された返事だった。

 多重人格障害が起きる理由、それは“耐え切れない衝撃を受けた”だ。
 だが、そんな“オモテ”の意味が聞きたかったんじゃない。
 その中にある、裏。真実の部分を。

「…一番初めに、僕が生まれた。“彼女”の耐えざる衝撃から身を守る為に、記憶を僕が受けた。
 それから、“僕”が、アリとセトを作った。この記憶を守るために。恐怖から“彼女”を守るために。
 僕たちは、全てを隠蔽するために生まれた。あの事件の内容を。目の前に広がる光景を、全て隠すために。
――――犯人から、身を守るために。」

 突然のジンの告白に、誠司は唖然とする。
「…何故?」
 その“何故”は、答えに対しての何故、ではなく、答えた事に対する何故だった。
「お礼さ。…記憶を…無理に思い出させようとしなかった君へ。そして、僕たちの存在を隠してくれた君へのね。」
 “ジン”は、シートに倒れこむと目を瞑った。
「アリに…優しく…してくれて…ありがとう…。」
 彼女は君にお礼を言っていたよ…、とジンは少し笑った。

 そして“ジン”は、また眠りについた。

 シートで眠るゆきの傍らで、誠司は車を発進させた。
 ゆきの家へと続く道を進みながら、誠司は“ジン”の言葉を頭の中で何度も思い出す。
 彼が特別な存在だった理由―――。
 それは彼が一番初めに生まれた人格だからだ。彼がセトとアリを作った。
 何を隠している?
 真実は未だに遠いところにある。

 全てを知る方法は、あと一つしかなかった。




 車は町を通り抜け、豪華な邸宅の前へとついた。
「ゆきさん、つきましたよ。」
「あ…ありがとう…ございます…。」
 誠司が起こすと、ゆきは少し照れくさそうに笑いながら起きた。
 ドアを開けて車から降りる。
「今日はありがとうございました。」
「いえ…こちらこそ。」
「?」
「それじゃあ…。」
 疑問に思っているであろうゆきを置いて、誠司は車を発進させた。


《♪》
 家に戻ってきたゆきは、携帯が鳴っているのに気付き、慌てて通話ボタンを押した。
「はい、もしもし?」
《もしもし、西村ですが。》
「あ、智久さん。どうかしましたか?」
《はい。あの、結婚したら僕と一緒の家に住むことになると思うんです。それで、荷物をまとめておいて欲しいんですが…。》
「あ、はい。分かりました。まとめておきます。」
 しばらく、結婚についての細かい話をした後、電話を切った。しみじみと、胸の中から“結婚”という言葉が出て来る。
「そっか…。結婚するんだものね。」
 さっそく、部屋の片付けに入った。冬服など着ないものなどをしまいながら、自分の所持品を見ていく。
 意外と多いな、と思ったら、それは遺品だった。
 遺品用のダンボールが三つほどあった。

 一つは、弟の。 
 もう一つは、母の。 
 もう一つは、父の。

 その中の、父のダンボールを開けた。埃が舞いあがる。
 十二年前以来、明けていなかったパンドラの箱のようなダンボール箱が開かれた。
 様々なモノの中から古ぼけた手帳が出てくる。
 それはまるで、遠い過去からゆきを待っていたかのように。
「お父様の…。」
興 味本意で事件近くの予定表に書かれている事を見てみる事にした。色あせた手帳がパラパラとめくられていく。
「何…これ?」
 書かれているのは、伯父の勤めている病院名ばかり。
「どういう事…?」
 父は何かを調べていた。あの病院で父が掴んだ“違和感のある何か”を。
 めくればめくるほど、何個も伯父の勤め先の病院名が出て来る。
 そして、ついに事故の起きた十月二十一日。
 その日の手帳の予定は――――――
「―――発表。」

 たったそれだけだった。

 父は、伯父の病院について何か知っていた。そして、それを明かにしようとしていた。
 が、殺された。その発表の日に―――。
 ならば犯人は?
 菅野家に恨みのある人物は?
 殺す動機のあった人は?
 それは――――?

 コンコン。

 突然のノック音が、ゆきを現実に引き戻した。慌てて手帳をしまい、ダンボール箱を元に戻し、ゆきはようやく返事をする。
「はーい、どうぞ。」
「ゆきちゃん、失礼するよ。」
「あ、あぁ…哲伯父様…。」
「聞いたよ?」
「えっ?!何を?!」
「結婚の事だよ!西村君と、結婚をする事に決めたんだって?」
「…えぇ。決めました。」
 ゆきは結婚の方だったのか、と少し安堵した。
「いやー、本当に驚いたよ。おめでとう、ゆきちゃん。」
「ありがとう、伯父様。今まで、本当にありがとうございました。」
「お礼を言われるほどの事はしていないよ…。それにしても…」
 どうかしました?と、ゆきは伯父をうかがった。 まさか、遺品を見ていた事がバレたのだろうか。
「君は、本当にお母さんに似てきたな。」
「えっ?!お母さんに…?」
 突然の話に、ゆきは戸惑った。母の面影なんて、もう覚えていない。
「あぁ。瓜二つだ。お母さんも綺麗な人だったけれど、君も、とても綺麗になった。西村君もそう言っていたよ。」
「智久さんも?」
 ぽっ、と頬が赤くなる。
「でも、もし西村君に何か嫌な事でもあったら、いつでも家に帰ってきていいんだぞ。」
「まさか!彼、とってもいい人よ?」
「分からんぞ?とにかく、何かあったらすぐに帰ってきなさい。いいね?」
「やだわ、伯父様。そんな真剣な顔して。そんな事ないですって。」
「そうか…。ならいいんだが。ま、とにかく、結婚には驚いたが、ゆきちゃんが決めた事だ、私は反対しないよ。」
「ありがとう、伯父様。」
「いえいえ。さ、忙しいだろうから、もう立ち去ろうかね。」
 はっはっは、と笑うと伯父は去っていった。
 

 伯父が消え去ると同時にダンボールをまた取り出した。
 すぐさま、その中から手帳を取り出して、他に情報が無いかを調べる。
「小田桐…梓…?」
 病院名とともに出て来る一人の女性の名前。
 もしかすると、関係があるのかも知れない。
 ゆきはさらに手帳をめくっていく。
「電話帳…?」
 たくさんの番号が書かれた中に、“小田桐 梓”という名があった。すかさず、 その番号を見て、携帯電話から電話をかけた。

 胸が高鳴っていく。
 何かが何かを伝えようとしている。

 ゆきは、そう思った。

《はい、小田桐ですが…。》
 綺麗な女性の声が、ゆきを出迎えた。ゆきは、慌てることなく口を開いた。
「あの、昔お世話になりました、菅野と申します。」
《菅野さん…?あの事件の事は、ご愁傷様でした…。》
 何度も聞いたその言葉に、思わず無言になる。
「…梓さんはいらっしゃいますか?」
《…梓は、死にました。》
「えっ?!いつ頃ですか?!」
《十ニ年前になります。》

 十二年前。
 少しずつ、あの日に近づいていく。

「私の父である菅野宗司と家族の誰かがお会いした事がありますよね?」
《私が、何度かお会いした事があります。》
「その時、父は何を…?」
《お電話では、お話できません。》
「では、お宅へうかがってもよろしいでしょうか?」
《…分かりました。》
 電話に出たのは、小田桐梓さんの母、小田桐萌さんだった。住所を聞くと、明日会うことを約束し、電話を切った。

 真実が近づいてきた。唐突に、それを感じる。
 すべてがゆきに向かって動き出した。
 ゆきは体中にそれを感じ、背筋がぞくりと寒くなった。


 次の日、ゆきは住所を頼りに小田桐の家へと向かった。
 東京の外れにある小さな路地の奥にその家はあった。
 インターホンを押して、中からの返事を待つ。しばらくすると、扉はゆっくり開いた。
「お待ちしておりました…どうぞ中へ…。」
 ゆきは小さくお辞儀をすると、靴を脱いで玄関を上がった。
 清潔感漂う居間は、日光の入る気持ちのいい場所だった。出してある机には、座 布団が二枚引かれており、ゆきはゆっくりと座った。
「今、お茶を入れてきますので、少々お待ちを…。」
 ゆきは、そんなお構いなく、と微笑んだ。
 小田桐萌は、お茶をゆきの前に置いてから、ゆっくりと座布団に座った。
「本当に、宗司さんの事は、ご愁傷様でした…。」
「いえ…いいんです。もう、十二年も前の事です。」
  静かな空気が流れる。
「あの、父は何のためにここに来ていたのでしょうか…?」
 先に口を開いたのは、ゆきだった。
 何か耐えているような小田桐は、突如、額を床にこすりつけた。
「申し訳ありません…!」
「なっ、何がですか?! 小田桐さん、顔を上げてください。」
「申し訳ありませんでした…っ!」
 小田桐は、小刻みに震え、泣いているようだ。
「小田桐さん、どうしたんですか? 顔を上げてください! 理由を、説明してください! 貴方には、その義務があるんです。」
 小田桐は、ハッ、と顔を上げた。
「な、なにか…?」
「いえ…宗司さんもそのような事を言ってたのを思い出したものですから…。」 
 涙をハンカチで拭って、小田桐は息を整えた。
「お話いたします。もう、十二年も経ちました…。そろそろこの話も時効でしょう。それに、娘の貴方ならば、言ってもよいかも知れません…。」

小田桐はぽつぽつと思い出すように語り始めた。


 実は私の一人娘、梓は肺を患っておりました。
 風邪をこじらせて、肺炎になったのです。そこで、近くの病院に私は梓を入院させました。
 それが、あの病院だったのです。梓はあの病院で治療を受け、次第に回復していきました。
 ところが突然、病状が悪化して梓は死んでしまったのです。
 私も、医師の方が言う通り、病状が悪化して死んでしまったのだと思っていました。

 ところが、突然、宗司さんが私の家に電話してきたのです。
 彼は私に“貴方の娘さんは、医療ミスによる死亡である可能性が高い”と言うのです。
 私は、まさか、と思いました。
 ですが、確かに考えてみればおかしいのです。治りかけていた病気、それが突然悪化…。
 宗司さんは、あの病院の医療ミスについて調べていたようです。過去にも何件あったと聞いています。
 私は、しばらくこの事は誰にも言わないでくれ、と言われていましたので、決してどなたにも言いませんでした。
 もちろん、警察の方にも―――。
 あの事件以来、私は彼の事をずっと胸にしまっていました。これ以上、事を荒立てる必要もないだろうと思ったからです。
 ですが、貴方からのお電話をお受けした時、話そう、と思いました。
 これ以上、黙っているのも心苦しかったのです。

 ですから、突然このような話をする私を許して下さい。
 本当に、ごめんなさい…。

 小田桐は、頭をゆっくりと下げた。小さな嗚咽が、静かな部屋に響いた。
 ゆきは、そんな小田桐を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「お一人、ですか?」
「――はい。夫とは離婚しております。梓だけが、私の心の支えだったのです。」
 懐かしむように、少し微笑んだ。
 それは、涙ももう枯れてしまった人の哀愁の顔だった。

 ゆきは、胸の中に渦巻く疑問を、小田桐にぶつけた。
 そうしなければ、ゆきはそれに飲み込まれてしまいそうだった。
「…梓さんの、担当医は…誰だったのですか…?」

「―――――たしか、菅野哲也と。」
 菅野宗司さんと名字が一緒だったので、覚えています、と彼女は言った。

 ゆきは自分が確実に固まっている事に気付いていた。
 だが、言葉を発することも、身動きをする事もできない。

―――哲伯父様…

―――貴方は、何を背負って生きてきたのですか…?







 絶望の中、ゆきはどうやって自宅までたどり着いたのか覚えていなかった。
 全てが壊れていっているような気がした。
 
 あんなに追い求めていた真実を、今はこんなにも拒んでいる。

 差し伸べられた手さえ、血に塗れていたらどうすればいいのだろうか。

 壱しかないのならば、零になってしまえばいい。

 全て壊れて消えてしまえばいい。
 
 ゆきは部屋の中で、呟くように放った一言で思い立った。

―――そうだ、家に帰ろう。

 全てを無に戻したいのならば、始まりの場所へ帰らなければ。

 孵らなければ。

 この腐った卵の中から。

   
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

0. 全ては零に帰す 

       ―――アニマ・シャドウ―――

 新幹線の駅の中、行き交う人はまるで湧きあがる清水のように絶え間無く動きつづける。
 その中でたった一人、微動だにせず新幹線の来し方行く末を見守る。
 高い場所から低い場所に流れ落ちるように、この中心地から人は各々の場所へと帰っていく。
 それはまるで波のよう。
 新幹線が着くと人の波は大きく移動し、ざわめきだけがその場に残った。


 ゆきは、東京から名古屋への切符を買った。東京から名古屋までおよそ一時間半。
 指定席の新幹線は、快適で過ごし易かったはずだった。
 だが、どこか居心地の悪さを感じて何度も何度も目を閉じては開けた。

 さらに、電車に乗り換え、岐阜まで三十分。そこからバスに乗って山奥にあるバス停で降りる。
 ようやく、懐かしい風景が目の前に広がる。

 山奥のせいか、春なのに風が冷たい。

 いや、山奥だからじゃない。
 自分が冷ややかな気持ちだからだと、ゆきは思った。

“彼”には、手紙を置いてきた。
 きっと、あの言葉で“彼”は分かるだろう。
 それが何を指しているのか。

 バスを降りて、少し歩く。
 足に伝わる砂利道の感触が、妙に足に残った。
 
 林に入る。
 その奥に時間が止まったように屋敷はあった。
 林に囲まれたその屋敷は、あの頃と変わらないように見えた。

 玄関に立ち鍵をドアにさした。右に回すと、小さな金属音がした。
 ドアノブを回せば軽い音と共にドアは開いた。
 中は埃っぽく、くもの巣が張っていた。
 一歩中に入れば、足跡がうっすらと残った。

 玄関を入るとすぐに左には登る階段が。右には鏡が見える。そして目の前に、大きな重い扉がある…はずだった。
 その扉は今、大きく開放されていた。

 事件の起こった場所。

 見えるはずもないのに、床一面に血の後があるような気がした。

 ふと、足元に人の足跡が幾つもあることに気付いた。古いものから、新しそうなものまで。
 あんな事があった後で、警察や親戚がここに訪れている事は知っている。事実、 一部まだ諦めていない警察官もいると伯父から聞いた事がある。内密に調査を行っていると…。

―――カタッ

「?!」
 ゆきはハッと振りかえる。だが、そこには誰もいなかった。
 ほっ、として前を向いた瞬間、ゆきは体中を強張らせた。

「…どうして…ここに…?」

 そこにいたのは、最近会わなかった彼。

“藤堂 誠司”がいた。



「何故…?」
 ゆきは少し後ろに足を引いた。

 誠司はそんなゆきの姿に、少し身を引いた。
「―――何か分かれば…と思いまして。」
 勝手に入ったりして、申し訳ありません、と誠司は謝った。
 ゆきは、少し警戒を解いた。
「本当は外観だけを見にきたのですが…」
「…ですが?」
「ドアが開いていたので。」


―――そんな馬鹿な。私は鍵を開けて入ってきたのに?


「私が…私が入った時は、鍵は閉まっていました…」
「今、何と…?」
「わ、私が入った時は、鍵は閉まっていたんです!だから、この鍵を使って…」
 誠司はゆきの手元を見た。手元には、小さな鈴のついた鍵達が鈍く光っている。
「なら、一体――。」
 誠司は言葉をのんだ。ゆきも、何も言わなかった。

―――ならば一体誰が開けたのか。
       そして、誰が閉めたのか―――


 突然、時計の音さえも耳につくようになった。
 風が小さく窓を揺らす。
 その音に、ゆきはビクッと体を震わせた。

「きっと―――…きっと、何かが戸の間に挟まっていたんですよ。それで、前の人が鍵をかけた時に、うまく掛からなかった。だから、僕は開ける事ができた。しかし、戸を閉めたと同時に、鍵がようやく掛かった。という事ですよ。」
「そうでしょうか…」
「そうです。きっと。僕もつい先ほど来たばかりですから。」
「そうですよね、そうです。きっと…」
 自分に信じこませるかのように、ゆきは少し繰り返す。
「で、何か分かりましたか?」
「いえ…何も。始めから期待はしていなかったんです。中に入れるとも思っていませんでしたし。何かインスピレーションがわけば、と。」
「そうですか。私、ちょっと自分の部屋に行ってきたいと思っているんです。誠司さんは、どうしますか?」
「僕は、ここでしばらく調べています。一階が何か気になるんです。」
 そうですか、と言うとゆきは居間から見て右手側にある階段を登っていった。

 古い木の階段は、ゆきが歩みを進めるたびに軋んだ。
 手前から右手側に、弟の部屋、ゆきの部屋。そして左側に、母の部屋、夫婦の寝室。さらに一番奥に、父の書斎がある。
 鍵の束の中から、ゆきの部屋の鍵を出すと静かに回した。
 中に入ると、ベッドや机、ソファなどがそのまま置かれていた。伯父の意見でゆきが成人するまでこのままにしておいて欲しいと、成人したら本人に処理するのか 決めさせるからと、そのままにしておいてくれたのだ。
だが、さすがにベッドに布団はなく、剥き出しの状態だった。
「伯父様…。」
 だが、今考えれば、伯父はここをわざと残しておいたのかもしれない。
 私がいつか罪を暴きたいと言い出すかも知れないと。
 私がいつか罪を暴き、断罪してくれるかと。
 頭を振って、全ての考えを払い落とす。自分の机の中にも、ベッドの下にも、ソファの隙間にも、何もなかった。

 ゆきは自分の部屋から出ると、また鍵をかけた。
 下に戻ろうかと思った瞬間、一番奥の父の書斎が気になった。
 一歩ずつ、書斎に近づく。ドアノブは回らない。鍵がかかっているのだ。
 鍵穴に鍵を指しこむと、簡単に回った。
 滑り込むように中に入ると、静かに戸を閉めた。
 
 懐かしい風景だった。ずらっと並ぶ本棚の中には、本ばかりが入っていた。びっしり詰まった本棚は、威圧感さえ感じる。
―――そう言えば、あの本は下の方にあったんだわ。私が読みやすいようにと。
 ゆきは本棚の下の方に目線を移した。
「あった…日本の歴史…。世界の神話も横に…。」
 この本は絵ばかりでとても読みやすかったんだっけ。と、ゆきは少し笑った。
 
 瞬間、ゆきは違和感に襲われた。
 おかしい。―――何かがおかしい。
 机や本棚、ソファ、置物、花瓶は昔と変わらない位置にある。だが、確実におかしい。何か、違う。

 机、本棚、びっしりの本、威圧感、日本の歴史、世界の神話、花瓶、机、絨毯、窓、カーテン、何かが…変だ。

 ようやく、ゆきは何がおかしいのか気がついた。
 “世界の神話”のうち、一冊だけが微妙に綺麗に並べられた他の物よりも大きいのだ。というより、少し、出ている。
 並べ方が悪いのかと、ゆきは一冊を押した。だが、奥に入らない。
 どうしてだろうと、手に取ってみると中に入っていたのは“世界の神話”ではなかった。“宗教とその概念・ニ”という違う本が入っていたのだ。
 ゆきは間違って入っている本を取り出すと、その本の本当の在処を探した。奥の方の一番上に、その本の在処はあった。
 ゆきは背伸びをして、その本を手に取った。背伸びをしてようやく届く高い場所に“宗教とその概念”たちはあった。すかさず中身を見ると、思った通り“世界の神話”が入っていた。
 “世界の神話・三巻”を抜き取り、“宗教とその概念・ニ”を元の位置に戻した。
 本をパラパラとめくると、この本は、父が読ませてくれなかった本だと分かった。
 古代ローマ帝国・悲しい女神の話。
 だから、わざと父はこんな高い位置に隠したのだ。


「…?」
 ゆきは下から何か音が聞こえたような気がした。誠司が物でも落としたのだろうか。
 台所はまだ食器類が置いてあり、何が落ちてもおかしくはない。
 
―――――――ガタ…

 ゆきはビクッと体を震わせた。
 瞬間、ゆきの頭の中で何かが弾けるように広がった。

―――――――――――――――――――――――――――――

“おとうさん、おかあさん!”
 仲睦まじかった父と母。愛し合う二人はゆきの理想だった。

“おとうさん、どうして読ませてくれないの?その本読ませてよ!”
“駄目だよ、この本はお前にはまだ早い”
“私もう八さいだよ。絵の本ならよめるもん。”
“読めても駄目だ。ほら、お願いだからそんなワガママ言わないでおくれ。”
“…分かった。”
 父のお願いにはとても弱かった。悲しそうな顔をする父を見ると、とてもじゃないがそれ以上頼む気にはなれなかった。
“さ、下へお行き。お母さんにリンゴを剥いてもらいなさい。”
“はぁい!”
 リンゴの話になると、途端に元気になってゆきは下へ降りていく。
 書斎を出て、一階に降りる。それでもやはりあの本の事は気になった。
 読んではいけない、といわれると読みたくなるのが人の心理だ。

 ゆきは頃合を見計らって、ある日父の書斎に潜り込んだ。簡単だった。父は書斎に鍵を閉めたりすることは滅多に無かったからだ。
 すぐさま三巻に手を伸ばすと、中身が違う事に気付く。それが父の仕業だという事はすぐにわかった。
 少し怒りながらも、中身の入っていた本の本当の場所を探す。
 それはすぐに見つからなかった。
 なぜなら、それはゆきの背よりも遥か高い場所にあり、ゆきの手が届かないようにしていたのだ。
 そこまでしなくても、と思いつつゆきは椅子を動かした。重い椅子だったが、何とかゆきは本棚の下まで運び、その上に乗った。
 椅子の上でさらに背伸びをする。ようやく本の下に手が届いた。
 爪でカリカリと少しずつ動かし、やっと本を落とすことに成功した。
 本はゆきをかすり、床に落ちる。
 ゆきはドキッとしてしばらく様子を伺ったが、誰も来る様子がなかったので、さっそく本を読み始めた。
 本の終盤は一人の女神とそれを巡る悲しいお話だった。
 読み終えて、別に読ませたくないような部分は何もなかったような気がしたゆきは首を傾げた。
 本を閉じた瞬間、一階で大きな音がした。
 ゆきは小さく跳ねあがって驚いた。
―――父がくるかも知れない。
 ゆきはそう感じ、慌てて本を元に戻した。焦れば焦るほど上手く行かず、指先を使い何とか元に戻すと、椅子を元通りにしてから、こっそりと書斎を出た。
 それから、階段を降りて―――それから―――――――

―――――――――――――――――――――――――――――

 ハッ、とゆきは我に返った。本は元の場所ではなく、ゆきの手の中にある。
 それを抱きかかえるようにして、世界の神話のカバーだけを元に戻した。下に向けた瞬間、何かがはらりと落ちた。
 ゆきは、小さな破られた紙を見た。
 それは、メモのようなものだった。
“――と会う”
 破られたメモには、そう書いてあった。メモをポケットに入れると、ゆきは書斎を出た。

 相変わらずの静けさに、ゆきは少し体を強張らせた。
 階段を降りて、居間に入ろうとする。

―――どうしてドアが閉まっているのだろう?
 さっきの音はドアが閉まった音だったのかもしれない。

―――あ――また―――――

――――――――――――――――――――――――――――――

 大丈夫だろうか、変なトコロはないだろうか、父にばれないようにしなければ。
 あの本を読んだことを。
 居間に何食わぬ顔をして入らなければ。
 さぁ、扉を開けなければ。

―――――――――――――――――――――――――――――――


 ゆきはドアを開けた。


「――――あ―あ―あ――あああああ――――!」

――――――――――――――――――――――――――――――――

 重い扉を開けた。
 父と母はそこにはいなかった。

 いたのは――――

     ―――――ただの赤いカタマリだった。

――――――――――――――――――――――――――――――――

「あ…あ、あ、あ―――!」

 ゆきは恐怖のあまり、叫ぶ事さえままならない。

「あ…あ―――あ・あ・あああ―――」
 頭を抱え、全てを否定するように頭を振る。

―――まただ――――

――――――――――――――――――――――――――――――――

 赤いカタマリ。
 広がるように、じわじわと周りを侵食する。
 何か分からない私に、誰かが囁くように真実を呟く。

“―――君も―――殺して欲しいかい?”

――――――――――――――――――――――――――――――――


「君も――殺して欲しいかい?」


 一瞬、それは過去の幻想だと思った。
 囁くような声は、ゆきの真後ろから聞こえる。
―――そんな…とゆきは振り向く事も出来ず、ただ後ろから感じる気配に身を強張らせた。
「――愛しい人…どうしてここにいるんだい?」

 後ろから突き倒され、ゆきは血の広がる床に倒れこんだ。
 瞬間に、現実だと悟る。
 気持ちの悪さがゆきの体の全てを支配しようとしていた時、赤い血を流すカタマリが声を発した。
「―――ゆ、き…さ…ん…――。」
 それは、確かに誠司の声だった。
 ゆきはハッと声のした方に目をやる。
 血まみれの誠司が目に付いた。
 背と、腹、足、腕と各所に傷があり、立つことも、動く事もできない状態でただ血を流していた。胸にはナイフが刺さったまま。
「あっあっ…あぁああぁ!」

 血。赤。傷。カタマリ。
 ゆきは頭が痛くなり、意識を保っているのがやっとだった。
「愛しい人、大丈夫かい?」

 聞きなれたその言葉。
 優しい声。
 震える体で、何とか言葉の聞こえる方向へ上半身を起こした。

 ゆきは目を疑った。これも、幻想なのかと思うくらい。


「―――――智久――さん?」


 ゆきが呼ぶと、満足そうに西村は微笑んだ。
「お呼びかい?愛しい“ゆき”。」


 嘘。

 これは、嘘だと。

 誰か、言って。










 おや、と西村は足元に落ちている本を見た。
「これは―――――“世界の神話”か。僕の家にもあった。これを何度も何度も母が読んでくれたのを覚えているよ。特に、最後の女神の悲しいお話が好きでね。僕に何度も何度も読み聞かせてくれたよ。悲しい美の女神…彼女にそっくりだ。」
 西村は何事も無かったかのように、軽く笑う。
 ゆきは呆然と見つめるだけだった。

「お前が―――兄たちを…殺し、た、のかっ?!」
 叫んだのは、痛みに苦しむ誠司。
 その問いに、さも不快そうに西村は誠司を睨んだ。
「――何を言ってるんだい。一人被害者のフリかい?元はと言えば、君の兄が全て殺したようなものだ。」
「――何を…」
 言っているんだ、と言おうとした誠司よりも早く西村が答えた。
「――君の兄…信司さえいなければ、こんな事件にもならなかったろうに。」
「兄と――知り合いなのか…?」
「君はもう死ぬんだ。死ぬ前に、教えておいてあげてもいいだろう。この事件の真相を。」
―――愛しいゆき、君もそう思うだろう? と西村は笑った。
 ゆきは反応しなかった。

―――十二年前のあの日僕は居間の扉のガラスから、中を見ていた、と西村は言った。

「あの日、秘書である君の兄・信司はこの屋敷に訪れた。いつものように、社長を迎えに来たのではなく、話をしに。
それは、例の“医療ミス”の件についてだった。
それを発表するのは止めた方がいいです、と彼は言った。すると、あの男・宗司社長は彼を睨みつけた。いきなり何を言い出すのかと、問いただしていた。
信司はあまりにも危険過ぎる、と。弁解していた。だが、次第にあの男の話はそれていった。」
 一間開けて、西村は誠司を見た。
「―――知っていたかい?君の兄は、彼女――優子夫人をたぶらかしていたんだ。」
 あはははは、と西村は笑う。
「被害者ぶって。お前の兄は巻き込まれたんじゃない。巻き込んだんだ!」
「嘘だ!違う、そんな馬鹿な…!」
 誠司は絶え絶えの息で呟いた。
「嘘なものか。宗司社長はそれを知った時から、彼女を外に出さなくなった。信司が家にくるときは、必ず彼女にリンゴを剥かせ、決して顔も、声も全てにおいて接触する事を禁止した。そのリンゴは、ゆき、君が食べていたんだよ?覚えているかい?」
 ゆきは反応しない。
「そして、宗司社長は信司に掴みかかり、二人はもみ合いの末信司は倒れた。その時、端にあった植木鉢に頭をぶつけてね。頭から血を流して倒れた。
 動かない信司を見て、宗司氏は焦った。自分が殺してしまった、と。その時、始めて彼の中で悪の意識が動き始めた。隠してしまえ、と。自分の保身を考えた。
 そして、一歩動いた瞬間、後ろから皿が割れる音がした。
 一面に広がるのは、綺麗に剥かれ、塩水につけられたリンゴ。全てが床に散らばり、皿は割れた。
 宗司社長は慌てた。が、その時にはもう遅かった。
 悲しそうな顔をして駆け寄ってくる彼女を両手で抱きしめようとした宗司社長は、それがもう遅かった事にようやく気がついた。
 胸に走る痛み。
 それは、彼女が宗司社長を刺した瞬間だった。
 崩れるように宗司社長は倒れた。
 立ちすくむ彼女は、この惨状を見て泣いていた。
“何て事を―――。私が、私さえいなければ。こんな状態に―――なる事は―――。愛する人を―――欺かなければ。―――私が―――私さえいなければ。”
 彼女は、喉をついて自害した。
 それから、驚いた事に信司は目を覚ました。どうやら、軽い脳震盪だったらしく、血は出ていたもののそんなに対した傷ではなかったらしい。
 起きあがった信司は、すぐさま何をしたと思う?
 彼女に駆け寄ったのさ。血を噴き出して死ぬ彼女を、抱き上げて信司は泣いた。
僕は呆れた果てた。
 アイツのせいで彼女が死んだというのに、彼女を欺き、全てを奪い、それでも彼女にすがり付いて泣く。
 何と言う、愚かさ!

 彼女は皆に欺かれていた。
 名前の通り優しい人だった。彼女は天使のような人だった。だが、その天使に纏わり付くハエが、彼女を汚した。
 彼女は優しい人で、人の裏なんて考えない。

 だから、間違えてしまったのさ。

 本当に、誰を愛すべき人を。

 ――――――それが、僕だという事を。」

 西村はくっくっ、と笑った。

「だから、殺してやった!宗司社長の胸に突き刺さっていたナイフで、彼女にすがり付くように、纏わり付くハエを!お前に泣く権利など無いのだと!そう言ってやった。
 一瞬、アイツは驚いたような顔になったが、微笑んで嬉しそうに死んでいったよ。彼女からアイツのカタマリを引きはがすと、彼女の顔を見た。彼女は微笑んでいた。
 彼女は、天界へ帰っていってしまった。
 元いた場所へ。

 急に後ろのドアが開いた。僕はとっさに壁にへばりついて隠れた。
 すると、どうした事だろう。彼女がいるではないか。小さな彼女が。
 小さな彼女はこの光景を見て呆然としていたよ。
 だから、囁いてやった。
“君も、殺して欲しいかい?”と。
 だが、僕は殺す気なんて全く無かった。小さな彼女は、強張った顔で僕を見た。
 動くに動けず、ただ僕を見つめる視線は、まるで彼女が僕を見つめたときのようだった。
 僕は身体が心の底から震えるのを感じ、小さな彼女の視線に酔いしれた。

 ―――これぞ、運命だ、と。」

 ゆきの頭の中で、また何かが弾ける。

―――――――――――――――――――――――――――――

 囁かれたものの、呆然としていた私の元に、大きなカタマリが表れた。それは、父によく似ていた。
 だけど、父ではなかった。
“もし、君がこのことを言ったら、こんな風になるよ?”
 笑顔のお兄さんは、父に似たカタマリを私の前に置くと、何か大きな物を振り下ろした。

――――ドスン

 父似のカタマリの、上が落ちた。
 何かが、何かが滴っている。

―――――――――――――――――――――――――――――

 西村が笑っている。
 ゆきの頭はフィルムのように、過去が開かれていく。

―――――――――――――――――――――――――――――

 私は何をする事もなく、足を折って座った。

 目の前でまた新たな何かが崩れ落ち、落ちた先から何かが垂れている。

 それは次第に私の方に流れてきて、手を湿らせた。

 手を汚し、服を侵し、全てを破壊しつくした後、ようやく気付いた。

 私と同じ、体中を駆け巡るように流れるモノ。

――――赤い赤い、血であったこと。

 そして、目の前に並べられている父と、母と、父の秘書と、弟に似たカタマリが。

――――彼らの首である事に。

―――――――――――――――――――――――――――――

「欺いた天使に産ませた間違いの子供は、すぐに殺した。泣き喚いても無駄だった。ナイフで一突きすれば、少し痙攣して、すぐに動かなくなった。その子供の首を切り、目の前に並べた時、ようやくゆきは頷いた。頷くように倒れこんだ。それだけで、充分だった。
 小さな彼女は僕を選んだのだ。真実を探る事でなく、僕を騙す事でなく、僕を間違える事なく、生きる約束を選んだ。」

 誠司は胸の奥から込み上げてくる気持ちの悪さと、手足の震え、そして血が無くなっていく寒さに懸命に耐えていた。
 ゆきは決して動かなかった。
 動けなかったのかもしれない。

 動かないゆきを見て、西村は呟く。
 本当に綺麗になったと。よく彼女に似ている、と。

「でも、愛しいゆき。どうしてこんな事を?思い出したかったのかい?そして―――――殺して欲しかったのかい?」
 西村は微笑む。
「だけど、そんな事、君が望んでいるはずがない。またしても、信司が邪魔をしたんだね。こんどは弟という媒介を使って。」
 安心して、と西村はゆきに微笑む。
「今すぐ、殺してあげよう。そして、並べてあげよう。そうすれば、君はまた忘れるだろう。全てを。忘れる事は決して悪いことじゃない。さぁ、その男を君に捧げよう。」
 ゆきは震えている。
 誠司は、寒さに震えながらゆきを見る。
「―――ゆき…さ…」
 声をかけようとした瞬間、ゆきは静かにほんの少し動いた。
「―――智久…さ、ん、あなた、が…私、の、か、家族、を―――?」
 血を見て動く気分がかなり悪いのか、前に倒れこむようにしているゆきはポツポツと言葉を紡ぐ。
「ゆき、何を言っているんだい。君の父を殺したのは母であり、母を殺したのは彼女自身だ。そしてその原因を作ったのは、彼の兄、信司だ。」
「では――――弟は?私、の、弟…は?」
「それは、君の父だ。彼女を欺き産ませた子。間違いの子は、死ぬべきだ。」
「―――最後、に、お別れ、を、さ、せて。彼と――。」
 ゆきは血を見ないように、誠司を指差した。
 西村は微笑んだ。
「いいよ。愛しいゆき。好きにしなさい。」
 ゆきは少し唇の両端を持ち上げた。


「―――――誠司、さ、ん、今、まで、あ、りが、とう。」
 ゆきは血まみれの光景に、今にも吐きそうな雰囲気だった。薬もなく、彼女は耐えているのだ。苦痛と、苦しみと、過去と。
「ゆき…さ、ん…に、逃げ…て…。」
 回らなくなりつつある口を、懸命に回して誠司は言葉を放った。
「逃げなく、ても、大丈夫。私、は、もう、大丈夫だ…から。」
 ゆきは、その時微笑んだ。
 いつもの微笑ではなく、悲しみを胸に一杯含んだ笑顔だった。
 
――――――さようなら。

 それが、誠司に向けられた最後の言葉だった。

「お別れは済んだかい?」
 コク、とゆきは頷く。
 前向きに倒れたまま、ゆきは揺れていた。

「じゃあ…。」
 作業に取り掛かろうとする西村をゆきが止めた。
「智久、さん。私、の、事…愛して…いる…?」
 西村は、何を言うんだろう、と疑問一杯の顔をしている。



「――――もちろん、愛しているよ。」

 だが、しばらくしてゆきの問いかけに、西村は当然のように答えた。

 ―――――そう。
 とゆきは呟いた。

「―――私もよ。」
 それは今までに発したどの言葉より、はっきりと確実にゆきは言った。




 ゆきは上半身を持ち上げた。
 ゆっくりと立ちあがり、西村を見つめる。
 微笑んだ美しい顔に、漆黒の髪が良く似合う。美の女神と間違われても、仕方の無いような美しさだ。
 西村もその美しさに恍惚としているようだった。






――――だから、さようなら。






 ゆきはしがみ付くように西村の胸に飛び込んだ。
 西村の幸福な顔は次第に歪み、床に倒れた。
 西村は信じられないようだ。

――――胸に突き刺さった銀色のナイフ。

 シャツをじんわりと赤く染めていく。

 それは、つい先ほどまで誠司の胸に刺さっていたものだった。





  その時、誠司は“彼女”が、誰なのか分からなかった。

―――アリか?
 いや、違う。彼女がそんな事をするわけがない。
 
―――セトか?
 いや、違う。彼は黙って殺したりしない。

―――では、ジンか?
 いや、違う。彼は殺したりしない。


 では―――――誰だ?

 この位置からでは、後姿のゆきしか見えなかった。




 西村は、か細い声を紡ぎ出す。
「ゆき――――?」

 ゆきは、無言で西村の胸に刺さったナイフを抜いた。
 西村はうめき声を上げる。
 だが次の瞬間、西村はゆっくりと微笑んだ。
 信司と同じように、微笑んだ。

 ようやく、アイツが笑った意味がわかったよ――――――

 西村は静かに動かなくなった。


 ゆきは振り向いた。
 誠司に向かって。

 ごめんなさい、と言葉にはせず口を動かす。


 誠司はようやくそれが誰なのか理解した。

 ―――――アリでもなく―――――

 ―――――セトでもなく――――――

 ―――――ジンでもなく――――――




 ―――――彼女、“ゆき”自身の内なる殺意――――――
 




 ゆきは汚れたナイフを上に掲げた。
 誠司に許しを乞うように。天に許しを乞うように。

 誠司はそれがまるで、女神が天界へ帰る為の儀式のように思われた。

 翼がない女神は、こうして赤い翼を得るのかも知れないと。


 喉元につきつけたナイフが光った時、ゆきの中で何かが弾けた。

 最後に――また―――――

―――――――――――――――――――――――――――――

 首が一列に四つ並んでいる。

 どうして、並べているのだろう。

 なぜ、並べなくてはいけないのだろう?

―――――――――――――――――――――――――――――

 ――――あぁ、そういえばあの本の表紙は、四つの首が並んでいたっけ。





















 誠司は薄れゆく意識の中、ゆきがゆっくりと微笑んだように見えた。

 満足げなその顔は、女神にふさわしかった。

 眩い爪が喉元で輝いて――――消えた。







―――――――――――――――――――――――――――――


 蝶が飛んでいる。ふわふわと、息も詰まるほど、たくさん。
 ゆきがいる。
 三人のゆきがいる。
 ばつの悪そうな顔の“ゆき”
 悲しみをたたえた“ゆき”
 冷ややかな視線で僕をみる“ゆき”
 そして、三人の後ろに見える、小さくか細い血に濡れた“ゆき”


――――ありがとう。

――――さようなら。


―――――――――――――――――――――――――――――













 刑事の一人が呟くように言った。
「まさか、こんな事になるとは…。」
 隣にいた補佐も、付け足すように呟く。
「…思いもしませんでしたね。」
「あぁ――――。」
 刑事は悔しそうに机を叩いた。
「事件が解決しても、もう、七人の犠牲者たちは帰ってはこない。」
 こんな時、自分はどうしてこんなにも無力なんだろうと思うよ、と刑事は苦笑いをした。
 フラッシュがたかれ、至るところで証拠写真が撮られていく。
 刻み付けるかのように、赤い染みを。
 絨毯のように広がる惨劇の跡を。


 この事件は、病院などの医療機関に大きな衝撃を与えた。マスコミなども一斉に医療関係の事件について注目するようになった。





 とある墓地に一人の男が立っていた。男は、悲しそうに石碑を見る。
 墓には“菅野家之墓”と書かれている。
 男は水を汲んできて、墓にかけ、墓を軽く掃除した。それから、古くなった花を捨て、水を入れ替え、新しい大きな花達を入れた。
 新聞紙に包まれた線香を取り出し、新聞紙に火をつけて線香に火を移した。
 線香を指すと、ゆっくりと手を合わせる。
 線香の煙が、空へと上がっていく。
 何もかもが終わってしまった、と男は感じた。





「すいません、遅れました…。」
 そこに表れたのは、女だった。どうやら、この墓地で男と待ち合わせをしていたらしい。
「いえ…僕もついさっききたばかりなので…。」
「あ…お墓、ありがとうございました。」
 いえ、と男は少し悲しげに微笑んだ。
「―――あれから、一週間になりますね。」
「―――えぇ。もっと長いと思っていたんですけれど…。」

――――――――――――――――――――――――――――


 誠司が気を失ってからすぐ、ゆきは喉を突いた。
――――いや、正確には突こうとした。

 だが――――――

「止めるんだ、ゆきちゃん!」
 居間の扉を荒々しく開けて、男が飛び出してきた。

 鮮血が飛ぶ。
 ナイフがカタリ、と地面に落ちた。

「――――哲――伯父様…?」
 ゆきは呆然と手に付いた血を見た。
 とっさにゆきを押し倒した伯父の腹には、ナイフが刺さった。
 地面にナイフが落ちたのは、伯父自身が強引に抜き取った為だった。

「ゆきちゃ…ん、大丈夫…かい?」
「お、伯父様?どうしてここに―――――?」
「手紙を、見たん、だよ。僕が、来たときには、ゴミ箱に…捨てられていたけどね。」
 伯父は痛みに耐えて平気なフリをしている。
「ど、どうして―――?」
「―――君に…君に断罪して欲しかったのかも、知れない。」
「――――何を…?」
 伯父は、慈悲を求めるように話を聞いてくれ、と言った。


 宗司は私の罪を知っていた。
 君ももう知っていると思うがあの“医療ミス”。私の患者“小田桐 梓”は西村君が投与する薬を間違えて、死に至らしめた。宗司は…その事を私に追及しそれをきちんと公に、公開すべきだと言った…。どうやら、西村君はそれを聞いていたらしい。宗司に優子さんが不倫している事を密告し、不倫している事をバラすと脅して秘書の信司君を利用した。
 そして…あの事件が起きてしまった。西村君は全てをうまく利用し全てを壊すことに成功した。
 ただ偶然残ったのが――――君だった。
 あの日、私は何か悪い予感がして、出版社から電話があってすぐに宗司の家に向かった。だがその時にはもう遅かった。玄関を開けてすぐに西村君がいた。まさか、と思ったが予感は当たっていた。西村君に駆け寄ると西村君は笑っていた…。
“――遅かったね。”…と彼は言った。
“――全て、片付けておいたよ。”
 私は何て事を!と彼を責めた。だが彼は何といったと思う?
“言いたければ、警察に行けばいい。それでいいと思うのなら。”
 私は躊躇した。次期院長になる事が決定していた私は、咄嗟に自分の保身を考えた。
 全てが、奪われる――そう思った瞬間、私は物言わぬ貝になった。そして私は、共犯者になり、第一発見者になった。
 だが―――――


 伯父は一端言葉を切って、息を吸った。
 ゆきは、伯父の止血を試みた。だが、血は一向に止まる気配はない。
 ゆきは、メモを思い出した。
 あれは、西村と会う約束をしたメモだったのかと思う。


 だが、次第にその考えは間違っていると思うようになった。
 人間とは愚かだね。当時はそれでいいと思っていても、時間が経つにつれ、良心や、様々な思いが胸を縛るようになる。
 特にゆきちゃん。君を見ていると、本当にすまない事をしたと何度も思った。
 次第に大きくなっていく君を見ていると、本当なら宗司や、優子さんがその成長を喜んでいたのかも知れない、と何度も何度も思うようになった。
 西村君との結婚も、あの事件の時から決まっていた。四つの首を目の前に、ただ呆然としている君を見て“この子はいつか僕と結婚する”と西村君は公言した。私に逆らう力はなかった。ただ、頷くだけだった。
 君もどうやら彼のことを好意的に見ていたようだったから、あえて否定的な事を言う必要は無いだろうと思った。ただ、もし何か変な事があれば、いつでも帰って来られる事を強調しておいた。忘れ形見まで、無くしたくはなかったからね。
 捜査している事も西村は知っていた。よく、君の後をつけたりもしていたようだ。
 ――――それがまさか、こんな事になるとは。



 伯父は、血を吐いた。ゆきの服に血が掛かった。
「哲伯父様、喋らないで―――!血が…血が止まらないから…っ!」
「ゆき、ちゃん…本当に、すまな、かった…。誠司君まで…巻き込んで…」
「喋らなくてもいいから――――伯父様!今、救急車を呼びますから!」
「―――呼ばなくて…いい。もうすぐ…警察が…来る。」
「何故―――?」
「ここで、何が、あっても、無くて…も、全てを、告白、する、つもり…だった。
―――本当、に…すまない――――――。」

 ゆきは今にも泣きそうな、目に涙をためて必死に耐えている。
「ゆ、き、ちゃん…血は大丈夫なの…かい?」
「――今は、それどころじゃないでしょうっ!?」
「…そうか…それは…良かった…。」
「人の心配をするよりも、自分の心配をなさって下さい!」
「はは…ゆき、ちゃん、は、本当に、優しい、いい子に育って…くれた…。それだけで…もう、充分、だ、よ。」
 伯父の頬に、ゆきの涙が滴り落ちた。
 ゆきは、目を閉じて祈る。
 今のゆきには、それしかする術が無かった。
 目を閉じると、心臓に合わせて血が噴き出しているのが分かる。

 助けたい。
 たった一つの思いだけが、胸を包んだ。
 

 
 神様。
 神様、お願いです。
 もう、これ以上、私から奪わないで。
 何もかも、私から奪ってしまわないで。
 充分でしょう?
 ―――これ以上、何を奪うというのですか?

 私、無力だわ。

 人に守られて、人に助けられて。

 でも、誰一人助けられない。

 なんて、無力。

 こんなにも――…無力。

 なのに、私一人が生きている。
 
 誰か、助けて。
 お父様――…お母様――…卓斗―――…。
 
 
 ―――――私…どうしたらいいの? 

 



“何やってんだよ。止血はそうじゃない。こうやって押さえるんだ。”
「誰?!」
 ゆきは、ハッとなって回りを見渡すが誰もいない。

“悲しい気持ちに囚われないで。貴方は、一人じゃないわ。”
「誰なの?!」
 声がする方向はすぐそばなのに、振りかえってみても何もない。

“忘れないで。僕たちがいた事を。八歳の君を―――。嫌な事を全て忘れてしまうんじゃなくて、真正面から立ち向かっていく力を―――持つんだ。”
「誰?誰なの?!」

 三回とも声が違った。
 どこかで聞いた事があるような、懐かしい声―――――。

“忘れないで。俺たちが―――――
       私たちが―――――
       僕たちが―――――
             ―――――いた事を。”


「―――卓斗…? ―――お母様…? ―――お父様…?」


 遠くでサイレンの音が聞こえる。

 明けないと思っていた闇が、光の差す元に照らされていく。
 全てを壊して。
 全てを孵して。

 全てを――――還して。

 十二年という歳月を飲み込んで。
 
 壱から零へと。

―――――――――――――――――――――――――――

 だが、結局伯父は死んでしまった。
 一時、命を取り留めたのだが、それからすぐに病状が悪化した。

 伯父は、末期のガンだった。

「伯父様、最後、とても満足したような顔をしていらっしゃいました。」
 そうですか、と誠司は呟いた。
 ゆきの父・母・弟、そして誠司の兄。さらには、小田桐梓、西村智久、菅野哲也。この七人の命を奪って、ようやくこの事件は解決したのだ。

「知っていますか?」
「―――何をでしょうか?」
「西村は、貴方の事を“アニマ”と手帳の中で表現していたそうです。」
「――――アニマ…?」
 はい、と誠司は目線を下げる。
 線香の煙がふらふらと漂っている。
「心理学用語で男性における理想の女性像を、アニマ、と言うんだそうです。」
「…アニマ。」
 ゆきは噛み締めるように、繰り返した。
「はい、だから西村にとっての女性の理想像は―――」
 貴方ですね、と言おうとした誠司の言葉を、ゆきは遮った。
「―――いいえ。違います。私は影にすぎません。」
「?」
「彼は、私を愛してなんていませんでした。彼が愛していたのは、私の中に残る、母の影でした。」
「―――影。」
「えぇ。彼は私の中の影、母の部分を愛していたのです。私という個人ではなく、母という大きな存在を。」
 

  ―――――アニマ・シャドウ―――――


 誠司の頭の中で、その二文字が浮かび上がった。


「変かと思われるかもしれませんが――――」
 ゆきは突然話を変えた。
「―――あの日、何もできなくて、どうしていいのか分からなくなった時、三人の声が聞こえてきたんです。私は、それが父と、母と、弟の声だったような気がするんです。
 三人はずっと、私の傍にいてくれたんじゃないか―――って。」

―――そうか、あの三人は――――
 誠司はようやく分かった事実に微笑んだ。
 そういう、事だったのだ。

 事件は簡単だった。
 ジンが言ったように、全てはシンプルで簡単だった。
 セトがアリを愛したように、アリがジンを愛したように。
 全てが「愛」という名の重い鎖で繋がれていた。

 西村や兄、そしてゆきの父が、ゆきの母を愛したように。
 ゆきの母が、兄をそして夫を愛したように。
 西村が、ゆきの中の影を愛したように。
 
 全てはアニマに従って。


 そして僕も、アニマに従い彼女を愛すだろう。
 
 だが、彼女は僕を愛さないかもしれない。
 だが、それでもいい。
 僕が彼女を愛することと、彼女が僕を愛することは全く別の事なのだから。

 今は、ただ、彼女の傍にいるだけで。
 

「誠司さん?」
 突然の問いかけに、誠司はハッ!と我に返った。どうやら、考え事をしている余り、ゆきの声に気付かなかったようだった。
 慌てて返事をする。
「あっ…すいません、何でしょうか?」
「これから、どうしますか?」
「ゆきさんは?」
「私は…ご飯でも食べようかと。」
 もうすぐ、お昼でしょう?とゆきは笑った。
「ならば、僕もご一緒してもよろしいですか?」
「えぇ。もちろん。」
 二人は墓場を後にした。


 全てが終わり、全てが始まる。

 二人は、十二年前のスタートラインからようやく、ゴールラインを踏んだ。

 だが、ゴールラインはまた次へのスタートラインなのだ。

 さらに先―――未来へと進むための。





――――――――――――――――――――――――――――

 何年か経ったある日、墓場にまた人が立っている。
 
 今度は一人ではなく、そして二人でもない。

 四人の家族連れは、楽しそうに墓参りをしている。

「ねぇ、ママ。ここにあたちのおじいちゃんたちがいるの?」
「いいえ。ここにはいないわ。」
 長い髪を少し短くした美しい女性は、小さい娘に向かってゆっくりと微笑んだ。
「じゃあ、どこにいるの?」
「ママの胸の中にいるのよ。」
「パパ、あたし、よくわからない…」
 まだ幼い娘は、その言葉の真意を掴めないでいるようだった。そんな娘をあやすように、産まれたばかりの息子を抱きながら、爽やかな風貌の男は娘に言った。
「まだ難しい事だからね。ただ、ママの近くにいるって事だよ。」
 そうなの?と娘は不思議そうに言い返した。

 美しい女性は、静かに目を閉じて墓石の前で思いをはせる。

“忘れないで―――”
 あの日の声が、今でも耳に残っている。

 忘れない。
 痛みと、苦しみと、悲しみを伴う記憶でも、それは全て私の記憶だから。
 全て忘れずに抱えて生きていかなければ。
 ―――それが、失った人に対してできる、最後の事だと思うから。

 ―――それが、失った人たちの最後の願いだったから。
 
 墓参りを済ますと、四人は墓場を後にした。




――――――――――――――――――――――――――――――


 全ては壱から零へと帰す

     零から全てはまた始まる。



        ――――アニマ・シャドウ――――      




                    ―――――完―――――


2004-06-06 23:14:41公開 / 作者:冴渡
■この作品の著作権は冴渡さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 えっと、読みたい方がいらっしゃったので、また再度投稿させていただきました。
 アニマ・シャドウは私にとっては思い出深い作品です。
 皆さんも気に入ってくださると、本当に嬉しいです。

 区切り線など、全スラッシュを使っていますが、それに関してはお気になさらないで下さい。お願いします。

 感想などなど、お待ち申し上げております。
この作品に対する感想 - 昇順
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