『月が自ら輝いた時 〜第2話』作者:よもぎ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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プロローグ

桃色の花が咲き誇る庭。暖かい日差しに包まれて、木製のベンチが金色に輝いている。
不自然なくらい均一に整えられた芝生には、雑草が一つも見当たらない。
ロフトスペースに置かれた植木鉢からは背の高いチューリップが顔を覗かせていて、その横には白詰草と赤詰草が連なるように咲いている。
庭の隅に聳え立つ金木犀の若樹の下には、父親が仕事の合間を縫って作成した小さなテーブルが置いてある。
本当に小さなものなので一人分のスペースしかないように思えたのだが、後から父親に聞いてみたところ、俺用に作ったものなので心配無用とのことだった。
手作りのテーブルは俺の背丈に丁度よく、たまにそこで読書をしていると、母親がお手製の紅茶を淹れてきてくれた。
広い庭を見下ろすように建つ家は、父親が設計したものだった。
建築家である父は、自分の家は自分で造りたかったらしく、建築作業を全て知り合いの枠で完成させた。
何よりも気に入っているのは、大きく作られたたくさんの窓。
居間だけでも四つある窓の縁には、どれも数種類のガラス細工が並べられていた。
母親が趣味で作ったものもあるし、俺が祭で買ってきた安物も含まれている。
透き通ったガラスは、午前中は日光に照らされて輝きを放ち、夜になると室内の灯りに照らされてオレンジ色に光の色を変えた。子供心に、なんて綺麗なのだろうと感嘆した覚えがある。
四つのうち一番大きな窓には、俺の好きな青色のカーテンを掛けてくれた。
夏になるとそれは水色に変化し、秋と冬には紺色のものに変えられる。
それでも基本となる色は統一してくれていて、俺は自分の好きな色で包まれた居間が大好きだった。

二人は俺が関わるものへの気遣いが素晴らしく、中でも食べ物に関しては度を越えていた。
食品添加物の含まれる食材は一切禁止して、無添加物の物や無農薬野菜のみを食べさせる。
わざわざ庭の隅に家庭農園を作って、夏にはそこからたくさんの野菜が採れた。
お菓子は駄菓子以外のものなら何でも食べさせてくれた。洋菓子や和菓子、果ても中国のお菓子まで、全て母親の手作りだった。
そのせいなのか分からないが、学校で出される給食が不味くて仕方がない時期もあった。
現に一度吐いてしまったこともあり、暫くの間弁当を持って通っていた。
少し過敏なのではないかとも思えるが、それは母親の持病から来ているのだろう。
そんな努力の賜物で、俺はかなりの健康体に育った。
病気や風邪を引くことも少なく、中学の三年間では連続皆勤賞を取るほどのものだった。
ある友人から聞くと、家では父親がタバコを吸うため、空気清浄機を置かないと息が出来ないらしい。そのせいで友人はよく体調を崩していた。
俺の父親はタバコも酒もとらないので、何もしなくても、家はいつも綺麗な空気で満たされている。
友人を家に招待すると決まって、「お前が羨ましい」と悲しそうに言っていた。
そんなこんなで中学も卒業し、俺は公立の有名進学校に合格した。
二人は私立校を薦めていたのだが、仲の良い友達がそこに行くのだと言うと、あっさり受験を許してくれた。
俺は受験が終わるとすぐに、高校へ入る準備として髪を染めた。
何を考えているのかと思われるかもしれないが、俺は栗色の地毛のために、理不尽な教師郡からかなり叩かれていた。
中学の生徒指導からは「染めろ」と言われ続けていて、俺は言われるたびに耳に穴を空けて、胸に装飾品の数々を付けてきた。今では合わせて八個の穴が空いている。
両親はそれに関して何も言わなかった。俺の気質を理解してくれていて、時には気に入ったピアスをプレゼントしてくることもあった。
俺は髪を金色に染めた。ついでにカットもしてもらい、首の真ん中まであった髪は、針山のように短くなった。
少し勿体無かったわねと言う母親に対して、父は「格好いいじゃないか」と褒めてくれた。

高校の入学式の前日、両親は鎌倉の祖父の具合が悪いというので、朝から出掛けて行った。
俺は明日の準備がある関係で、留守番を引き受けた。
二人が出掛けている間、俺は庭の世話を頼まれていたので、居間からサンダルを履いて外に出た。
ロフトスペースに上って、白詰草と赤詰草に水をやる。
ついでに昨年買った水栽培のセットを持ち出して、金木犀の下の専用スペースに運んだ。
テーブルの上で栽培用の容器を組み立てる。持ち前の器用さで作業は三分で済んだ。
容器に水を汲めて、上に掛けた蓋の穴に球根を置いた。
それはヒヤシンスの球根で、感じで書いたときの「風信子」という文字が気に入っていった為、初めて自分で買った花だった。
大体の作業が済むと、俺は容器をロフトスペースに運んだ。
赤と白の花の隣に並べると、ロフトから降りてテーブルの方に戻った。
金木犀の樹が自分を優しく見下ろしている。
俺はシルバーのピアスを外して、ポケットの中にしまった。



――――――臨時のニュースをお伝えします。
今日未明国道○○号線上で、乗用車とトラックの追突事故が発生しました。
トラックの運転手が飲酒をしていたとのことで、ブレーキを誤って反対車線の乗用車に追突したものと思われます。
乗用車に乗っていた二人の男女は、すぐに病院に運ばれましたが、一時間後に死亡しました。
トラックの運転手は市内に住む 芥川昭二(36)。
二人の男女は、東京都在住の森本達也さん(35)、怜子さん(35)と確認されました。
なお、この事故により、国道○○号線は一時通行止めとなっています――――――


「県警のものですが、そちらは森本裕也様ですね?」
「はい」
「ご両親のことで、一度署に御同行願えますか」
「…はい」


『夜までには帰るから』
父さん。
『明日の準備をしておくのよ』
母さん。

『行ってきます』


庭の花が全て、萎れてしまったように見える。
もう戻らないあの日々を、泣きながら求めるかのように………





第1話「蓮華」

不幸とは突然降り掛かるものだ。
本人が意図していなくとも、関係なく襲い掛かってくる。
俺は電話を片手に、暫く事態を呑み込めずにいた。
いつもと同じように出掛けていったのなら、いつもと同じように帰ってこなければならない。
そうでなくてはいけない。そうあって欲しかった。
「御本人ですね」
白い布を持ち上げると、それと同じくらい白い顔が見えた。
一番よく知る人の顔なのに、こうやって見ると別人としか思えない。
「よく確認してください」
体中の力が抜けて突っ立っていた俺に、刑事は厳格な口調で言い放った。
俺は反抗的な目を向けた。警察が鬼に見えた。
刑事は気にも留めずに何かを部下に伝えると、足音を立てながら部屋を出て行った。
部屋には俺と下っ端刑事と、両親の四人だけになった。
「…ご愁傷様です」
下っ端刑事が言い難そうに顔を歪めた。どうやらこういう場に居合わせるのは初めてらしい。
俺は軽く会釈すると、もう一度両親に視線を戻した。
きっちりと閉じられた瞳は、もう笑い返してもくれない。
色褪せた唇はもう開かれない。栗色の髪が風に靡くこともない。
そう考えると急に、我慢していた感情が溢れ出してきて、俺は必死で涙を堪えた。
下っ端刑事はゆっくりと傍に寄ってきて、俺の肩をポンと叩いた。
「外に出よう。コーヒーでも奢るよ」
俺は小さく頷くと、片手で顔を隠しながら部屋を出た。

古いソファーに座ると、重みでスプリングの軋む音がした。
下っ端刑事は近くの自動販売機に走って、120円の缶コーヒーを買ってきた。
一つを俺に渡すと、もう一つを小さなテーブルの上に置いた。
「飲まないんですか」
「君が飲むまで待つよ」
よく日焼けした顔が、その人の柔らかい雰囲気を作り出していた。
俺は下っ端刑事から目を背けて、熱い缶を冷たい手の中で転がした。
「飲んでくださいよ。俺のことは気にせずに」
「飲まない」
「変な人」
「よく言われる」
刑事は両頬を引っ張って、ニヤリと笑った。
俺は強張っていた顔を少し緩ませて、無言で缶のタグに手を掛けた。
二人はほぼ同時にコーヒーを口にした。何だか変な気分だったが、嫌なものではなかった。
それから30分くらい経つと、先程出て行った刑事が戻ってきた。
事件についての詳細を説明するからと言われ、4畳半の汚い部屋へ連れていかれた。
刑事は俺と向き合って、小さな電球を頼りに何枚かの書類に目を通し、ついさっき起きた事件の一部始終を話し始めた。
全ての説明が終わる頃には、両者とも気力体力が尽き果てていた。
ヨロヨロしながら部屋を出ると、さっきの刑事が廊下で待っていた。
「家まで送っていくよ」
言われるがままに、俺は荷物を持って車に乗り込んだ。
車道沿いに立ち並ぶ桜の木は、外灯に照らされて不気味に見える。
刑事は出発してから暫くの間は寡黙を通していたが、家に近づくにつれて多弁になっていった。
「まだ自己紹介をしていなかったね。俺の名前は橋本春樹。この仕事に就いてから1年しか経っていない新米刑事だよ」
「そうですか」
「君の事も教えてよ」
上から聞いているだろうにと思いながら、しぶしぶ「森本裕也」と呟いた。
「裕也くんかぁ。先輩から聞いたけど、もうすぐ高校一年生になるんだってね」
「明日が入学式です」
そう言うと橋本は急に車を止めて、後ろを振り向いた。
「そのことなんだけど。先輩たちが言うには、まだ君には聞きたいことがたくさんあるらしいんだ。だから必然的に明日も署に来てもらうことになる。もちろん入学式は後日ちゃんと行うように、僕等の方から頼んでおくよ。」
予想通りの言葉に、俺は驚きもしなかった。
無言で頷くと、橋本は安心したかのように向き直って、車を走らせた。

家に着くと、玄関の灯りが点いたままだった。
鉄製の門を開けて、庭の芝生を踏んだ。昼間にやった水がまだ残っていて、少し湿った空気が流れている。
橋本は車から出ると、門の外から俺に手を振った。
俺はチラリとそちらを見ただけで、すぐに家に入って鍵を閉めてしまった。
一瞬見えただけだったが、橋本は少し悲しそうな顔をしていた。
ドアの外で車の出る音を聞くと、ゆっくりと鍵を開けて庭に出た。
庭は今朝見た景色と変わらずにいた。
夜の空気を吸い込みながら、芝生の上に寝転がって空を見上げる。
背中が濡れるのを感じたが、頬に流れる涙のおかげで気にならなかった。
庭を囲むようにして植えてある蓮華の花は、俺を慰めるかのように優しく語りかけていた。
俺は身体を起こして、蓮華畑の中に顔を埋めた。
夜露を含んだ花弁が鼻に当たる。青臭い匂いがした。
桃色の花を一本だけ摘み取ると、それを月の明かりに照らしてみた。
提灯のような形は、三日月には似合わなかった。
「あなたは幸福です」
昔教えられた花言葉。俺は小さく呟いて、涙を零した。
明日のことなんてどうでもいい。
今この遣る瀬無い感情をどうにかしてほしい。
俺は刹那的な自分を厭味に感じた。





第2話「母子草」

カーテンの隙間から青い空が見える。今日はいつにも増して良い天気だ。
枕元の携帯に目をやると、「着信アリ」と表示してあった。
青色の布団から腕だけを出して操作すると、見慣れた名前が表示される。
俺は即座にベッドから起き上がって、黒色の携帯から電話を掛けた。
『もしもし』
コール音が三回鳴った後、今最も会いたくない人の声がした。
「俺…森本だけど」
『裕也? よかった、朝何回も掛けたんだけど繋がらなくて』
「寝てたから」
『もうお昼だよ』
「眠かったから」
耳に痛い声を極力かわしながら、朦朧とする意識の中必死で応答していた。
それでも俺は早く会話を終わらせたくて、「用件は何」と素っ気無く聞いた。
『別に用事は無いんだけど、昨日の今日だからさ。どうしてるかなって思って」
頭痛がした。
空白を置いて呼吸を整えると、俺はなるべく穏やかな口調で言った。
「用事が無いなら掛けてくるな」
返事を聞く間もなく電話を切って、携帯を白い壁に投げつけた。
ゴンという鈍い音がした後、壁を伝ってズルズルと落ちていく。
ぼんやりとその光景を見ていると、一階の居間からコール音が聞こえてきた。
舌打ちをして大急ぎで階段を下りる。
コール四回目の直前で受話器を取ると、その瞬間凄まじい爆音が耳に入ってきた。
「!?」
『裕也? 聞こえる?』
頭の中を引っ掻き回されたような気分で、相手を確認する余裕がなかった。
俺は受話器を出来るだけ耳から離して、爆音に負けないように大声で答えた。
「聞こえるよ!」
『そりゃよかった。あのさぁ今からこっち来ねぇ?』
「こっちって何処だよ」
『いつもの溜まり場。留美子も来てる』
電話の相手、沢村一平は爆音の向こうで飲酒をしていた。その証拠に呂律が回っていない。
「留美子」という名前を聞くと、背中に寒気が走った。
「今日はいいよ。丁度今から用事あるし」
『お前も忙しい身だなぁ』
「いっちゃん程じゃないさ」
一平は照れたように「へへへ」と呟いた。
汚れた手足に油塗れの作業服。寂しそうな一平の顔が浮かんだ。
『それなら仕方ないな。えーと…』
一平は何か話すことを探しているようだった。
相手の意図が理解出来ると、友人の不器用さに笑いを溢した。
『何笑ってんだよ』
「本当は心配して掛けてきたんだろ」
『ちっ違ぇよ! ただ誘うために掛けただけだ!』
「いっちゃんらしいや」
『誤解すんな! じゃあな!』
荒々しい受話器を置く音の後は、単調な電子音が流れるだけだった。
表情を元に戻して受話器を置いた。
改めてリビングを見渡してみると、重たいカーテンが閉められたままだった。
両親が居た頃は、俺が起きる時間にはもう、明るい光がこの部屋に差し込めていた。
そんなことを懐かしく思いながら、その反面今にも泣きそうな気持ちの自分がいた。
一日で状況を呑み込める自分は、なんて冷たい人間なのだろう。
あの頃に戻りたいと願う自分は、なんて心無い人間なのだろう。
弱い自分に傅くもう一人の自分を、我ながら切ない存在だと思った。
フローリングの床を滑るように歩いて、一番奥にある大きな窓の前に辿り着く。
青いカーテンを開けた途端、眩しい光が暗い部屋を照らしていった。
深い闇から解き放たれた明るい居間が姿を現す。
カーテンから手を離すと、サンダルを履いて庭に出た。
いつもの日課となっていた水遣りを済ますと、昨夜と同じように蓮華畑の中に顔を埋めた。
朝露で顔が濡れる。朦朧とした頭が覚醒するようだった。
ふと気が付くと、蓮華集団の隣に小さな草が生えていた。
濃い緑色をした葉の上に、小さな黄色の花がいくつも咲いている。
どこかで見たことのあるその草は、「ゴギョウ」という春の七草の一つだった。
「ゴギョウ…確かもう一つ名前があったと思うんだけど」
米神を指で刺激しながら、回想に神経を集中した。
ぼんやりと浮かんでくるのは母親の姿。何故かはわからないが、彼女の笑顔だけが思い出された。
云々と呻いていると、急に誰かに肩を叩かれた。
驚いて振り向くと、そこには全身日に焼けた下っ端刑事、橋本が立っていた。
「こんなところで何してるの?」
「何処から入ってきたんですか」
「門からだけど」
何を聞くんだという顔をして、橋本は首を傾げた。この刑事には遠慮というものがないのか。
「昨日言ったように、お迎えに上がりました」
「自分で行けるのに」
「あんな遠いところまで一人で来させるワケにはいきません」
「別に遠くないですよ」
「電車を二つも乗り換えるんだよ?」
「………」
年齢を伝えるのを忘れたのかと思った。
その瞬間、自分がこの刑事に子供と見做されていることに気付き、猛烈に腹が立った。
しゃがんでいた場所から腰を上げると、自分より遥かに背が高い橋本を睨んだ。
「俺は子供じゃない」
橋本は一瞬驚いたような顔を見せて、その後早送りで見ているかのように表情を変えた。
整った眉が垂れ下がって、澄んだ瞳から光が無くなる。
まるでおもちゃを取られた子供のような顔で、先程の表情との大差に驚いていた。
呆気に取られていると、橋本は低い声で、「ごめん」と呟いた。
謝られるとは思っていなかったので、どう対応すればいいかわからなかった。
橋本は俺とは逆に芝生の上に腰を下ろして、固く締められたネクタイを解いた。
開けられたボタンの隙間から、何か赤いモノが見えた。
「君を子供だと思っているワケじゃない。ただ、本当に心配だっただけで…それだけなんだ」
酷くつらそうに話す橋本は、昨日見た人間と同一人物とは思えなかった。
俺は少し間を空けて隣に座り、ゆっくりとその顔を覗き込んだ。
泣いてはいなかった。けれど、今にも泣きそうな顔だった。
この人が何故そんな顔をするのか、それを知るには俺はまだ早過ぎるような気がした。
「ごめんね」
一言呟くと、橋本は顔を見えないくらい俯かせた。
斜めから見える口は、必死で感情を塞ぎ込もうとしているかのように、固く閉じられている。
よく焼けた健康そうな肌には、満面の笑顔しか似合わないと思った。
俺は茂る蓮華の花を掻い潜って、見つけたばかりの草を摘み取った。
「これ、ゴギョウっていうんだ」
橋本は顔を上げて、目の前に突き出された草を見つめた。
「ゴギョウって、春の七草の?」
「うん」
俺はそれを押し付けるようにして渡した。
そして芝生から腰を上げると、一人で居間に入っていった。

携帯の電子音が鳴る。
画面に表示された名前を見ると、心臓が跳ね上がりそうになった。
落ち着いた自分を作ろうと焦りながら、折り畳み式の携帯を開いてボタンを押した。
『もしもし裕也? 今朝はごめんね。私、心配で仕方がなかったから』
朝一番に聞いた声が蘇ってくる。一番愛しくて、一番聞きたくない声。
「理沙」
『なに?』
「俺も……」
照れが生じたのか、俺はうまく言葉を発することが出来なくて四苦八苦した。
庭の方を盗み見すると、橋本はシャツの襟を立てて、ネクタイを締め直していた。
ホっとして溜息を溢すと、理沙は大袈裟に反応した。
「ああ、違う。理沙に向かって吐いたワケじゃないよ」
『それならいいけれど』
「あのさ」
『ん?』
聞き慣れた声が、今度は厭味に感じない。脳が覚醒したからだろうか。
「俺も……ごめん」
理沙の驚く顔が目に浮かぶ。
大きな瞳がいっぱいに開かれて、形の良い鼻から唇へ涙が伝う。
「ごめんな」
『もういいよ。私の方こそごめんね』
「理沙が謝ることじゃないよ」
『そんなことない。私、裕也の気持ち、全然考えてなかった』
しゃくり上げる声が妙に切なかった。
両親を昨日亡くした彼氏を慰めるのは、恋人である自分の務めだと思ったのだろう。
けれどその慰めは不要なものだった。
泣くことも出来ない人間にとって、その時一番求めるものは、他でもない「孤独」だ。
孤独な時間と場所を与えてくれれば、一日でも与えてくれれば。
明日にはまた元の自分に戻って、笑って「おはよう」と言えたはずなのに。
『私分からなかった。今自分に出来ることは何なのか。裕也に何をしてあげればいいのか』
「うん…」
『いくら考えても答えが出ないから、とりあえず傍に居ようって思った。傍に居ればいつか分かるかもって思ったから。今日も本当は会いに行こうって思ったんだけど…』
「今日は入学式だったからな」
理沙は鼻を啜り上げた。
『結局私も世間体が大事なんだって、自己嫌悪に陥っちゃった。大事な時に最優先することくらい分かっていたのに』
「うん」
『ごめんね、ごめんね。裕也、ごめんね』
謝りの言葉を言い続ける彼女に、俺は気の聞いたことを言えずにいた。
ただ泣きじゃくる彼女を宥めて、明日時間が出来次第会う約束をして電話を切った。
俺は急いで二階へ上がると、軽装を身に着けて玄関から外に出た。
門の外には橋本が乗る覆面パトカーが止まっていた。
ドアに鍵を掛けて門を出ると、飛ぶように車に乗り移った。
「じゃあ、行こうか」
橋本がエンジンを掛けると、後方からブオンと大きな音がして、車は景気よく発車した。
車道を走りながら橋本は、さっき自分が渡した草を片手に言った。
「これ、別名「母子草」って言うんだよね」
「母子草……ああ!」
俺は両手をパンと叩き合わせた。
橋本はそんな俺の行為を見て、大きな口を開けて笑い出した。
「さっき云々悩んでいたのはこれのこと?」
「……」
「図星だね」
自分の頬が紅潮するのを感じた。こんなつまらないことで朝から悩んでいたなんて。
俺は橋本から草を奪い取って、もう一度まじまじと見つめてみた。
さっきこの名前を思い出そうとした時、何故母親の顔が浮かんだのか。橋本の一言ではっきりと理解出来た。
頭の片隅に置かれた「母子草」という草は、いつの間にかその根を張り巡らして、俺の脳全体を包み込んでいたんだ。けして派手なものではないから、いつその存在に気付くか分からない。だから誰かのたった一言で、不意に思い出されるように。自分という存在を思い出してくれるように、本当にいつの間にか、俺の頭の中に隠れて存在していたんだ。
橋本は真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「御両親のこと、忘れちゃ駄目だよ」
「え?」
「どんなにつらいことがあっても、忘却だけはしてはいけない」
俺は自分の隣に座る若い刑事の横顔を、不思議そうに見つめた。
「忘れるなんて…有り得ないことでしょう?」
「初めはそう思うけれどね。いざ苦境に陥ってみると、人間の性かな。「こんなつらい思いをするのなら、いっそ忘れてしまいたい」と思う人が多いんだ」
仕様が無い事だけれどね、と橋本は笑った。
俺は視線を窓の外に移して、署に着くまでの間、なるべく橋本の顔を見ないようにした。
掌の上で儚げに揺れる母子草は、いつもソコにあるような気がしてならなかった。




母子草の花言葉:「いつも思う」



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2004-04-27 23:55:58公開 / 作者:よもぎ
■この作品の著作権はよもぎさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
最後の言葉(「掌の上で〜」の所)の意味、分かりますか?
誰か理解出来た人がいましたら、そっと教えてくれると嬉しいです。
この作品に対する感想 - 昇順
文章に厚みがあって(表現の)、弾き込まれてしまいますね。ただ、もう少し展開を早くしてもいいのかな? と感じました。ですがとてもすばらしい文章力をもたれているので続きがいつかと気になります。がんばってください。
2004-04-24 18:54:22【★★★★☆】和宮 樹
和宮 樹様、ご感想&アドバイスの程ありがとうございました。私自身も書きながら、「ああ〜これじゃいつまで経っても進まないよ〜」と苦難したりするのですが、書きたい言葉があり過ぎて、ついつい長ったらしい文章になってしまいます。まだまだ修行が足りませんね(汗)第1話の方もUPしたので、良かったら御覧になってください。
2004-04-25 17:18:20【☆☆☆☆☆】よもぎ
あぁ、花言葉使うのって好きです。淡々とした進行なのですがこの最後の「蓮華」でモノクロームな情景にアクセントがつきましたね。これからの主人公の日常がどうなっていくのか楽しみです(裕也くんには申し訳ないけど)。文章の整理も意識されているのが伺えますね。続き、楽しみにしています。次の展開で物語の方向性がはっきりするのではなかろうかという勝手な見解から、今回は感想のみで……それでわ
2004-04-25 18:34:30【☆☆☆☆☆】和宮 樹
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。