『雪蝶華と蒼雨草の叙情詩』作者:蒼蛾(そうが) / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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雪蝶華と蒼雨草の叙情詩■□

 雪に惑う蝶の花と 雨に濡れて微かに光る蒼い花

 各々を携えた二人は 互いに背を向け 歩み始めた
 
 別れは再来と共に在らん事を祈りつつ―――


          『ラッツフィーナの叙情詩122章〜別れ』

              
              * * *

 狼の遠吠えにも似た角笛の音が、カゼンナ国の城下に響き渡る。
 慌てた様に母は僕の手をしっかりと掴み直し、ロープやら洗濯物やらで作られたアーチトンネルの裏道を走り出した。
「どうしたの?」
 簡素な作りの麻の服の裾が、通路に転がっている籠やバケツや、時には人に引っ掛からない様に左手で持ち上げつつ、尋ねる。息子の不安げな眼差しを見返して、彼女は答えた。
「ごめんね、ハルヴィアス。急がなくっちゃならないんだ。私とお前の使命みたいなものだよ」
「一体、何があるの?」
 そんなんじゃ分かんない、と言う彼の軽い体を持ち上げて、
「五つのあんたに見せたいものじゃない。でも、きっとそれはお前を強くする」
 いや、それ以上に、この愛らしいハルヴィアスの心を暗く変質させてしまうかもしれない。そんな不安を心の中に押し殺して、彼女は続けた。
「処刑が始まるんだ」
 重く、暗い声。
 腕の中の息子の、明るい青色の、あの人そっくりの瞳に恐れの色が浮かんだ。
「ハルヴィアス」
 穏やかに彼の名前を呼ぶ。そしてそれ以上何を言うでもなく、彼女は円形の大きな広場の南の入口に立ち、反対方向の入口をじっと見つめた。
 着いたよ、と小声で囁き、少年を下ろして広場の中央を囲む人の輪の中に入っていく。前へ前へ……小突かれても怒鳴られても、少年の手を引きながら人々の輪を割ってゆく。
 がらんとした擂鉢(すりばち)状の広場のほぼ中央、一段高くなった所に女性が一人、両手を黒固めの監視兵に捕まれ、足枷を嵌められて立っていた。
「お母さん…あの人」
「綺麗なお人だろう? ……でもお可哀相に、あんなに痛めつけられて」 
 放心したように、鼠色の囚人服を着た女性を見つめる母親を怪訝(けげん)な顔で見つめ、彼はまた視線を戻す。
 灰色の長い髪の幾房は明らかに焦げた跡があり、白い手足や首、顔にまでも青黒い痣(あざ)と蚯蚓腫れ(みみずばれ)があった。全身汚れて、服もかなり破れていた。
 ザッ、ザッ………
 足音、数十人はいる。
「来たよ」
 王家の紋章である十字草を肩に印した歩兵達だ。辺りには更に民衆が、飴に群がる蟻のように集まってきていた。
 特有の、狂気じみた熱気に圧倒されて、ハルヴィアスは母の体に身を寄せる。
 彼らが民衆の前に並び終えると、続いて、大振りの剣を両手で空に掲げた小姓が入ってくる。
 その後に、大柄な執行官が、黒い外套をひらめかせて現れた。彼は、つかつかと中央の灰髪の処刑者に歩み寄り、
「ルウィーナ・アヴェルークだな? ……かつての名家アヴェルークの令嬢も落ちぶれたものよ」
「一族の血を引く者達も、既に都を追放されております」
 傍らの監視兵が告げた。執行官は薄ら笑いを浮かべた。
「それではもう、ただのルウィーナだな、え?」
 冷めた、青白い雪の目を彼に向けたきり、女性は何も言わない。
「答えぬか…、まぁよい。ルウィーナ、そなたを勅命により、国家反逆の罪状で死刑に処す」
 ざわめきが、狂気混じりの怒号と興奮に変わる。
 彼は辺りを見回し、満足そうに小姓の掲げていた剣を手に取った。

 殺される直前のあの人が 僕を見て

 微笑みを

 それは、平和を望みながら邪悪な出来事を心待ちにする人々に捧げられた贄(にえ)なのだろう。言いようのない、禍々しい興奮の渦を、母と僕はやっとの事で抜け出した。
 青ざめ、まだ震えている母の手を引きながら、しようと思っていた質問を深く胸の奥底にしまい込んだ。
 あの人は誰なのか、その答えを、いつか母は言ってくれるような気がした。同時に、母が少し遠くへ行ってしまった様な心地がした。
 彼は、強く母の手を握った。

              * * *

 日没を告げる鐘の声を聞きながら、少女は十センチ角の明り取りの窓から顔を離した。
「ナトゥ爺さま?」
 振り返り、格子戸に向かって声を掛ける。
「そうです、シルフ様」
「今は見回りの時間じゃないでしょ?どうかしたの?」
 顔馴染みのナトゥの低い視線に合わせて、シルフは尋ねた。
「シルフ様、今日が何月何日かお覚えでしょうか」
「……分からないわ」
「六月の二十二日です」
 ナトゥは固い面持ちで続けた」
「夏至祭ね…へぇ、もうそんな時季なの」
「一応、あなたの十五歳の誕生日でもあります」
「いつも誕生日なんて嬉しくないけど、今年は最悪だわ」
 少女はそう言い、部屋の中を見回した。青みがかった岩を刳(く)り貫いて作った塔の屋根裏の、冷たく、寂しい牢獄。
「一夜位はここから出られるかな」
「それは私には分かりかねます。王のお眼鏡に適うかどうかですから」
「ここから出られるならあいつの物になっても構わない、って気分よ」
 投げやりに言う。
「仮にも父上様の事を悪し様に言うものではありませんよ」
 ナトゥはそう諭して、少女を見つめた。
「しばらくしたら他の看守達が来て、あなたを連れて行くでしょう。どうか、貴女自身を強くお持ち下さい。私はもう行かなくてはなりません」
「分かったわ。わざわざありがとう」
 ナトゥは少しだけ微笑んで、そして、くるりと後ろを向いて去っていった。
 その後ろ姿が見えなくなった後、シルフは一人、溜め息をついた。
 十五歳。それはカゼンナ国に於いて、重要な節目の歳である。男子は十五歳から軍に入隊する事ができ、女子は結婚、又は後宮に入ることができる。シルフはその後宮での王の寵妾、ルウィーナ・アヴェルークの一人娘であった。その母も、五歳のシルフがこの塔に幽閉された後、病死したと聞かされている。そのために、シルフは母をおぼろげにしか覚えていない。
 暖かい温もりと柔らかな声の女性だった気がする。しかし、それが本当の記憶かさえ、シルフは断言できない。あまりにも長すぎる孤独が、彼女を内側から蝕(むしば)んでいた。
 この塔に来る者達の中で、唯一ナトゥは自分に親切にしてくれた。外界についても教えてくれた。しかしナトゥは、彼女の本当に知りたい事に対して、決して話してくれようとはしなかった。
 彼女がここに閉じ込められている理由。それを未だシルフは理解していなかった。
 ただ、十五歳になったら、夏至祭の日に宮殿で王の目通りを受ける事。妾を選ぶ席に並ぶ事。それだけはナトゥからも他の看守からも聞いていた。
 その後は……?その後は自分はどうなるのだろう?母と同じように、妾になるのだろうか?それとも……
 シルフはすがるように、部屋の奥を見やった。
 獄中の彼女に唯一与えられたものは、大量の古書であった。題名が剥(は)げ落ちているもの、十数ページが歯抜けになっているもの、虫食いのため、文字が読み辛くなっているものも多かったが、優に数百冊が部屋の奥の暗闇の中に所狭しと並べられていた。もちろん、乱雑と積み上げられていたものを彼女が直したものである。
 十年間、彼女は彼らと共に生きてきた。彼らはシルフに、居場所というものを与えてくれたように思う。
(ちょっと寂しいな……)
 シルフはそう考えて、そこでまた首を振った。
「王に目通りを受けて、選ばれなかったらまた此処(ここ)で暮らすんだから」
 呟いて、彼女はまた首を振った。
 夏至祭での王との謁見をする、その事は初めから決められていた事らしかった。つまり王は、シルフを妾を選ぶ席に並ばせるために、生かしていたのではないか?と考えられる。そこでもし選ばれなかったら、果たして自分に存在価値はあるのだろうか。
 頭をよぎる不吉な考えを振り払おうと、シルフは手を伸ばし、一冊の分厚い本を手に取った。
 『ラッツフィーナ叙情詩』と、藍色の古びた表紙に丁寧に銀文字で印された、八世紀ほど前の詩人ラッツフィーナによって書かれた、物語としての色合いの濃い詩集である。全十八巻に分かれ、それぞれに四十章ごとのまとまりがある。この本は今ではあまり読まれていないようで、博学のナトゥ爺も知らなかった。彼女が好きなのは、野盗に襲われた商人一家の兄妹がそれぞれ奴隷として売り飛ばされ、その後に死を覚悟で逃亡し、再び会い見(まみ)えたというストーリーの四巻である。その話には二つの花が度々登場し、ストーリーの展開の上で重要な役割を担っているのだが、シルフはその花の名前に不思議に惹きつけられていた。
「雪蝶華(シルフィス)と蒼雨草(ルヴィア)……」
 とても懐かしい響きがするのだ。そしてまた、優しい鼓動を感じるのである。
 シルフは自分の名に似た、この花が好きであった。
「シルフ」
 彼女の名が不意に呼ばれ、慌てて写本を元に戻して格子戸の方を振り返った。
「看守様」
「時間だ、来い」
 大の男二人に麻袋のように担がれて、彼女は唇を噛んだ。
 くらくらするような急な螺旋(らせん)階段を下ってゆく。地中深くまで堕ちて行きそうな眩暈(めまい)に襲われながら、彼女は思う。
(シルフィスだけじゃなくて……ルヴィアも懐かしい気がするのは―――)
 自問を最後まで全うする前に、シルフは甘い香りの中で瞳を閉じた。

              * * *

 穏やかな初夏の夕日が沈み、カゼンナの城下町では、至る所で祭の音楽が流れ始めた。最も短い夜を、最も楽しもう、というわけである。
 踊り子の手足の鈴が鳴り、吟遊詩人の歌声が街中を駆け抜けてゆく。普段は割合静かな街が、今日だけは華やかに煌めく。夜店が並び、花が飾られ、人々は音楽に合わせて踊り始めた。未婚の少女達は真っ白な、丈の長いドレスに薄桃のローブをまとい、既婚の女性達は薄浅葱のドレスに白いローブをまとって舞う。その姿は、さながら花畑にでもさ迷いこんだかの如きである。
 恋人達は愛を誓い、女の子達は純白の衣装を身につけることのできる十五の年を指折り数えつつ、ピンクや水色の服を着て、踊ったりはしゃぎ回っている。
 明確な男性社会の中で、今日だけは女性陣が主役の日である。男は、子供から大人まで、灰色や黒の服を着て、花泥棒に扮している。
 一年の中で最も、民衆にとって素晴らしい夜であった。

              * * *

 甘い香りをかがされた後、記憶が無いシルフであったが、気が付くと全身から花の香りが溢れていた。灰色の長い髪は十年ぶりにちゃんと梳(くしけず)られたようで、結い上げられた髪から零れた短めの横髪が滑らかに揺れる。
 シルフは目をしばたたかせて、柔らかいベッドから身を起こした。
 塔に閉じ込められていた時も、週に二回は水浴びをさせてくれていたが、今回はそれとは全く様相を異にしていた。爪はヤスリで磨かれ、足首と手首には青紫の花の模様が描かれており、未婚の女性用の純白の衣装を着せられているのである。体が火照っているところをみると、風呂に入れさせられていたようである。
(意識なくて良かった……)
 起きていたら、ちょっとこれは我慢できない、と彼女は思った。
「やっと起きたの」
 中年の女性が無愛想にそう言った。
「早くそこから出なさい。王の温情であんたは生かされているんだからね」
 シルフは無言でベッドを整え、立ち上がる。薄く茶みがかった淡い灰色の髪が揺れる。
 純白の衣に対する真っ青な双眼。
 周りで忙しげに働いていた使用人の女達が、彼女の瞳を見て目を丸くした。
「ルウィーナ様……」
 一人が呻(うめ)くようにそう呟くと、事情を知る者達は一様にはっと息を呑んで目を伏せる。
「知っているの?」
「そんな事はどうでも良いわ、あんたは口を開かないで。ほら、ジーフ、あなたが連れて行きなさい」
 年配の女性がシルフの手を取った。
「私がジーフです。あなたを王の間まで案内します」
 シルフが頷くと、ジーフは彼女の手を引いて、歩き出した。
 部屋を抜け、誰もいない石の廊下を歩きながら、ジーフは静かに声を落として告げた。

「……あなたは、あなたの母上様に良く似ております」

              * * *

 シャラン、シャラン、シャラン、シャラン………
 細い足首を飾る銀色の鈴が声を上げる。
 夜風に舞う、白灰色(はくかいしょく)の、艶やかな髪。雪のように白い手足がしなやかに伸びる。
 竪琴の音色と、遊ぶように、ためらうように、絡み合うように、逃げるように。
 トッ……
 立ち止まる。振り返る。唇に微笑を浮かべて、逃げ出す。
 柔らかな肢体の動きの割に、かなりハードな踊りをしている、この白灰色の髪の美しい踊り子の唯一の欠点は、どうしても目が行く、その右目だった。
 閉じられた右の瞳。瞼から目尻、頬にかけては東方風の独特な文様が紺色の顔料で描かれている。
 左の灰色の瞳と対を成していた頃の瞳が想起されてならない。もしかしたら、唯一の欠点、それこそが至上の魅力とも知れなかった。
 人々が見つめる中、踊り子は物怖じもせず、堂々と月を崇(あが)める聖なる踊りを王に献上していた。
 シャラン、シャラン、シャラン、シャラン……
 青い薄絹がなびく。
 どこか悲しい響き。ミステリアスな、月が囁いているような、そんな音色。そんな不思議な女性。
 閉ざされた瞳の奥底を覗き込んでみたい……、そんな狂おしい願いを人々が持った時、踊りは静かに終わりを迎えた。
 彼女は膝を突き、左の瞳を閉じた。

 静けさを破ったのは、王だった。彼は十数段の階段を下り、下を向いていた踊り子の顎に手を触れ、上を向かせたのだ。
 灰色の左の瞳が開く。
「右眼も是非見てみたいものだ。見えぬのか?怪我をしているようには見えぬが」
「ええ、その通りでございます。左目は生まれつき光を失っておりますので……焦点が合わず……」
 聞く者の心を揺さぶる、ハスキーがかった声。
「間近で見ると、更に美しい」
「いえ…」
「謙遜することはない、おぬし、名は何と申すのか?」
 彼は、踊り子の淡い色の瞳を覗き込んで言った。
 彼女は恥じらうように、うつむき加減で言う。
「名は……ヴィーア、と」
 可愛らしい程の抵抗をして下を向こうとするのを、なおも上を向かせて王は、
「ヴィーアか……。あそこにいる娘共よりも上玉かもしれぬな」
 はっと眼を見開いて、彼女は王の黒灰色の双眼を見上げた。
 宮殿の王の間に並んでいた、貴族や権力者達が躍起(やっき)になって飾り立てた少女達から、ざわめきが漏れる。
 緊張で体を堅くした白灰色の髪の娘を愛らしく感じ、王は臣の方を振り返って言った。
「決めたぞ。今年の夏至祭の娘は、ヴィーアだ。あそこの娘共は、シルフを除いて帰らせろ」
 かっちりとした服を着込んだ臣は、頷いて、指示にあたった。
「シルフ……?」
 ヴィーアの呟きに、ギザール王は笑いながら告げた。
「案ずるでない、シルフはただの余興に使わせてもらうのみよ。我を裏切った女の娘だからな」
「何を、するおつもりですか?」
「さて、どうしてやろう? 裸で火あぶりにでもしようか」
 ヴィーアは不安げに彼を見返した。
「私は、あまりそういうものは……」
「嫌か?」
「どうか、おやめ頂けませんでしょうか」
 ギザール王の顔が醜く歪む。
「もしそうしたら、お前は何をしてくれるのだ、ヴィーア?」
 意地悪な問いを投げかける。この優しくて脆(もろ)そうな娘は、一体何と答えるのだろう?
「私自身と、私の心を差し上げます」
「足りないな」
 ヴィーアは、まるで囁きかけるかのように、言った。
「それでは、私の右の瞳をお見せいたしましょう」
「―――いいだろう」
 彼女には、それに値するだけの魔的な魅力があった。
 その時にはもう、ギザールの頭の中にシルフという名は消えていた。

              * * *

 吐息が聞こえる。
 明かりを消したため、窓から差し込んでくる月や星の光だけが、ぼんやりと部屋の中を照らしている。
 男は目の前の女を見つめた。
「約束だ、右の瞳を見せておくれ。愛しいヴィーア……」
「後悔はしませんか?」
「後悔など……」
 する筈がない。
 その答えにヴィーアは少し微笑んで、男に顔を寄せた。彼は太い指で、娘の薄衣(うすぎぬ)のような目蓋(まぶた)をゆっくりとなぞり、そのまま下へ下ろして唇を横へなぞる。湿って柔らかいヴィーアの唇を指先に感じながら、彼は娘を促した。
「ヴィーア」
「分かりました、ギザール様」
 かすれ気味の彼女の声が、胸を高鳴らせる。
 ゆっくりと、焦らすように、ヴィーアは右の目蓋を持ち上げる。
 淡い月光の下で、それは宝玉さながらに輝いていた。
 ただし、それは薄い灰色の水晶ではなく、
「サファイア―――」
「お気に召して?」
 ヴィーアは首を傾げて、床に下りた。そして、振り返る。
「お酒に混ぜた痺れ薬、お口に合いました? もしお嫌いでしたらごめんなさいね。あっ、痺れてもう声も出せないんでしたっけ」
 極上の微笑を湛(たた)えて、彼女は続けた。
「あ、と、それから、ギザール様? 何人も女に手を出したのが間違いでしたね。……いえ、今のこの状況という事じゃなくって……あなた自身の事」
「……」
 黒灰の眼だけが弱々しく動く。
「……右の脇腹に多数の斑紋」
 静かに告げる彼女の言葉に、ギザールの頬がひくり、と引きつった。言外に何かを悟ったようだ。
「俺が手を下すまでもないな、花毒(かどく)の末期症状だ」
 口調が変わった。ヴィーアは冷たい眼差しを彼に向け、それから薄青のローブを肩にかけつつ言った。
「哀れなのは後宮の女性達だな……。自分自身の病気だ、お前は知っていたのだろう?当然慎むべきところを、お前は道連れを増やそうと感染(うつ)し回った」
 まるで初めからその存在を知っていたかのような自然な動きで、ヴィーアは引き出しの奥から鍵を取り出す。
「もう会う事もないだろう」
「……ル……」
 しわがれた声。
 振り返ったヴィーアは、病人の震える唇の動きを読み取って、そして小さく息を吐いた。
 
 ルウィーナ。
 
 それは、かつての、王の寵妾の名であった。

              * * *

 深い闇が、窓の向こうに続いている。
 まだ民衆は起きているらしく、遠くの方にざわめきが聞こえた。朝まで踊り明かすつもりなのだろう。
 十五の年から六年間、公式の席と王宮の限られた範囲外の出入りは禁じられていた。もうずっと、あの華やかな祭も見ていない。会う人々も限定され、特に女性とは話すことさえ禁止されている。
 だが……、人は慣れてしまう。自分の心が、日ごとに何も感じなくなっていくのは自身が一番良く知っていた。
 王家の次男として生まれ、制限された人生を送ってきた。長男とその息子が生きている限り、それは変わる事はない。この狭い王宮の中で、ただ腐っていくだけの人間。皇子という名に、民が憧れ、持てはやす陰で、彼はそのやりきれなさを胸に抱いていた。
 全ては、世継ぎ争いを避けるためだ。自分は正妃の息子であるから一応の皇子という名を戴き、生かされているが、妾の産んだ息子にいたっては即刻殺されてしまうらしい。
「嫌なら変えてみなよ」
 傲慢な口ぶり。ランツェークは振り返った。
 内扉の前に人影があった。
「ちょっとお待ちください」
 彼は、壁に掛かった燭台(しょくだい)に火を灯して、この深夜の訪問者にソファーに座るように示した。
「ずいぶん、丁重なんだね。刺客とか思わないか?普通……」
「そうですか?これが私の普通なんです。刺客だろうと何だろうと、お客は貴重ですから」
 彼は語尾を下げつつ、首を傾げる。
「……ヴィーアさん?ですか?」
 訪問者は少し笑みを浮かべ、青年を見上げる。
「眼が……?」
 彼は驚いたように口を開いた。
「眼が見えないって言ったのはウソ。これが元々なんだ」
 右が灰色、左が青色の瞳。微妙なバランスが、ぞくりとするほどの危うさを生み出しているようだ。
 ランツェークは、ヴィーアに向かい合うように腰を下ろした。
「一体、どういう事なんですか?あなたは王と一緒だったのでは?」
「あんたに頼みたい事があって」
「はあ」
「用件を始めに言おう、ランツェーク殿、あんたにこのカゼンナ国の次期国王になってもらいたい。いや……ならなくてはならない」
 ランツェークは眉根を寄せた。
「そう言って頂けるのはありがたいのですが、それは」
「本当は俺の知った事じゃないんだ。でも、敢えて言ってやる。もしここであんたが王の座を蹴ったら―――」
「……俺……?」
 彼の呟きに、ヴィーアは話を切って、苦笑いを浮かべた。
「ちょっとそこの剣借りるよ」
「ええ、構いませんよ。あ、でも、私は斬らないで欲しいな」
 ヴィーアは壁に掛けてあった細身の短剣を手にとって、後ろ向きに左手をひらひらと振った。
「斬らないって」
 その左手で自身の白灰(はくかい)の長い髪を掴み上げて、剣を横に滑らせた。バサッ、と音を立てて、白い滝のように髪が床に放射状に広がる。ランツェークはその黒い眼を見開いて、ヴィーアの後ろ姿を見つめた。
 向き直って剣を置き、ヴィーアは口を開いた。
「ヴィーアっつのは一部の奴がからかって付けた愛称でさ。本名はハルヴィアス、よろしく」
「男の方ですか?」
「いちおーね。長い髪大嫌いだから、すっきりしたよ」
 彼の笑顔は、ヴィーアの丁寧すぎる微笑みとは違って、ざっくばらんで、良かった。
「それじゃ、長居はできませんね。王が気付く前に逃げ出してきたんですか?」
「俺は、刺客だよ」
 あまりに正直なハルヴィアスの言葉に、彼は顔色を失った。
「……殺したんですか?」
「そのつもりだったけどね、そうするまでもなかった」
「……?」
 訝(いぶか)しげに、ランツェークは眉をひそめる。
「王は花毒にかかっている。もう数日も持たないところまで悪化している。そして恐らく……後宮にも蔓延している可能性が高い」
「……」
「この意味が分かるか?花毒は感染率がほぼ百%だ。つまり、お前の兄も非常にまずい状況にある」
 ハルヴィアスは一息ついた。
「俺の言う事を信じられないも当然だ。だから、これは忠告だ。―――もし、あんたが引き受けなければ、確実にこの国は傾く」
 吹き込んできた風に、蝋燭(ろうそく)の炎がちらちらと揺れて、オレンジ色の反射光もまたそれに合わせて揺らめいた。町の喧騒が、遠く、聞こえる。
 ランツェークは静かに聞いた。
「何故ですか」
 痛々しげな表情がそこにはあった。
「何故、あなたは私にそんな事を教えるんですか?あなたには関係ない話なのに」
 ハルヴィアスの青と灰の双つの瞳が、微(かす)かな光を帯びた。
「関係なら大有りだ。俺が憎いのは、王と、この国の制度そのもの。だが、潰したらいいって訳じゃない。俺は、制度の変革をしたいんだ。もっと自由で、女性を悲しませない国にしたいんだ」
 ランツェークは、唇を噛む。突き上げてくる感情を抑える。
「と、言っても、俺にはもう一つすべき事があるから、この仕事はあんたにやってもらいたい。……頼まれてくれるか?」
 ……コトッ……
 ランツェークは、無言で立ち上がった。その眼差しは、黒豹のような気品に溢れていた。
 嘘かもしれない。彼の言葉は虚言(きょげん)かもしれない。だが―――

「私が、やろう」

 それは、不意に口をついて出た言葉だった。しかし、初めからその答えを決めていたかのような気がした。
 唇を、真一文字に引き結んで、彼は部屋を出る。すれ違いざまに、ハルヴィアスの肩に一瞬手を置いた。
 ありがとう。
 彼はそれだけを告げると、すっと立ち去った。
 他人(ひと)の温もりを感じて、ハルヴィアスは、心の奥に暖かい光が宿るのを感じた。
 小さく息を吐き、彼もまたドアを開ける。
 飾り気がなくただ広いだけの回廊を、薄雲のヴェールに包まれた半月が、おぼろに照らし出していた。

              * * *

2004-04-28 23:38:47公開 / 作者:蒼蛾(そうが)
■この作品の著作権は蒼蛾(そうが)さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
指摘があった中盤部分を一部修正しました。
今回はつながった〜って思ってください。お願いします。
だいたい3分の2過ぎくらいまで来ました。
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雪蝶華はシルフィス、蒼雨草はルヴィア、と呼んで下さい。
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