『鳥かご』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:石田壮介                

     あらすじ・作品紹介
 新宿の会社に勤める大澤瑠依は、決め事に厳しい生真面目な女であった。しかしそんな彼女は男との約束に生きていた。そして約束の日が訪れ、男の働く熱海へと向かうのであった。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 東に千葉あり、西に多摩あり、南に神奈川、北に埼玉、ゴシックドレスを着た厚化粧の若者は東へ、トレッキングのなりをした老夫婦は西へ、東西南北行き交う新宿駅の朝はとにかく目まぐるしい。そんな改札を抜けて西新宿へ降り立てば、背広の灰が一面に、その硬い靴底を神経質に響かせている。これらは皆、目の前のうなじが痛くなる程に高いビルへ消えていくわけだが、その灰色の川に、大澤瑠依は周りよりも少しだけラフな装いで流れていた。とは言え、彼女の職場はこのオフィス街にはなく、終端の都庁を右へ曲がった先の、びっしりと並んだ雑居ビルの内の一つで総務として働いている。
 新宿駅から職場へは、このオフィス街を通らず、斜めに近い道があるのだが、彼女がそこを通らないのは見栄の為ではない。入社試験で職場に呼ばれた時、迷わないようにと調べた道で、単に決めた道をもう七年通っているのであった。遅刻はなく勤務態度も真面目な上、以前は一つ上の先輩と二人でやっていた仕事を先輩の退職を機に一人で受け持ち、そのまま見事にやり遂げている為、同僚も一目置く程であった。唯、愛想も良く、裏方にあたる彼女はマスコットみたく可愛がられてはいたものの、規律を重んじる風なところからどことなく距離感があって、先輩が退職してからは傍目にどうも寂しく映った。
 瑠依の一日は、朝焼けの空がまだ瑠璃色になめらかな内から始まる。衣服を洗濯機にかけ、アナガリスの小鉢をベランダへ出す。下北沢の九階の外は冷んやりとした風が夏場には心地良く、瑠依はいつも小鉢に咲く花と空の色を見比べてから、ベランダの端に吊ってある、白に塗装された柵が円柱で上部がドーム型に丸くなった少し大きめの、ビルの隙間風に煽られていつも重い鐘のようにゆったりと揺れている空の鳥かごに見入って、暫くそのままでいるのが常であった。
 その鳥かごでは、過去に金糸雀を飼っていて、瑠依のまめまめしい世話もあってか、肩に乗って囀ってくれる事もあったが、ある日ベランダで誤って鳥かごを床へ落としてしまった時、金糸雀がその激震に驚いて運悪く開いてしまった扉から外へ羽ばたいてしまった。慌てて金糸雀へ手を伸ばした頃には遥か遠くの空を舞う背中があって、瑠依は裏切られた気持ちになった。
 金糸雀はそのまま帰ってくる事はなく、もう随分と時が経って、健康に生き長らえたとしても疾うに天寿を全うしている筈であった。瑠依もそれは解っていたが、金糸雀を待つと決めたからか、毎日その伽藍と空か空かな鳥かごを見つめている。
 瑠依は東新宿で擦れ違う女のように華やかに着飾らない。服も化粧品も近所の安物で揃えて、休日に商店街を歩けば、そこらの雰囲気に馴染んでいる。それは平日においても同じで、忘年会の集まりの時に上司から、若いし顔も良いのに服装が年寄りじみてて勿体ないと評される程、職場の人間には生真面目な遊びっ気のない女性に見えていた。
 但しそんな彼女も月に一度だけ、妖艶に粧し込んで東新宿の夜へ繰り出す秘密がある。知っている店のカウンターで酒を飲み、隣に見知らぬ男が座るのを待つ。話しかけてくる男は、年齢から顔から何から何まで様々であるが、要は女が容姿を着飾り、男が言葉を着飾る。だから、男が一枚また一枚と言葉を脱いでいくのを優しい相槌に包んで、他で飲み直さないか、と切り出す男の裸になった瞳を見つめるだけで良い。そこで瑠依は安心して男の申し出を断って帰る。
 そんな火遊びを「息抜き」と称して誘ってくれたのは、かつての先輩であった。先輩は仕事だけではなく、服や化粧の事、右も左も判らない東新宿の夜を瑠依に教えた。この「息抜き」を瑠依に教えた時も、先輩は実に鮮やかに断って二人で帰ったものだが、瑠依は、この適当なところで断って帰る、という火遊びの決まりを守っていた一方、先輩はいつからか瑠依の知らないところで断らなくなっていったらしく、それが災いしてか、昨年に何の前ぶれもなく退職して、それきり連絡がつかなくなった。或るバーの店主は訳知り顔で、程々にと瑠依に忠告したが、当の本人は心配には及ばないと思った。何故なら、彼女には藤野淳史という決めた男がいたからであった。
 藤野淳史という男は、八年前に瑠依が情熱を燃やした相手で、現在は熱海の旅館で働いている。初めは瑠依の大学卒業を待って、二人は東京で一緒に暮らすつもりでいた。しかし淳史は、収入が心許なかった事と、元々伊豆が好きなのもあって、熱海の旅館で働きたいと言い出し、瑠依がついていくか、いかないかの話になった。その時の瑠依は、苦労の末ようやく今の職場が決まったばかりで、今更現地で就職できる見込がなかったのと、肝心の働き先である旅館も決まらない内に熱海へ連れていこうとする淳史の無計画さに、生活が早々に立ち行かなくなる事が明らかであった為、ついていけないと断った。それでも初めての恋人である淳史は瑠依にとって全てで、彼女は離れたくない一心から泣きに泣いて、東京で暮らしてくれないかと何度も懇願したが、淳史は淳史で、一度東京で暮らしてしまえば、もう熱海で暮らすのは難しいように思われたから譲れなかった。弱りに弱った挙句、今は一旦別れよう。そして若し三十になってもお互いがまだ独身であったなら結婚しよう。俺もその時は熱海できっと立派になっているから、熱海に来てほしい。でも他に良い人が見つかったら、俺の事は忘れてくれて構わないからと、淳史は涙ぐみながらもまさに断腸の思いで瑠依に告げた。淳史にとっても瑠依はなくてはならない存在だったのである。
 瑠依は、淳史の真に迫った情熱を今でも心の内に抱えている。そして隣に座った幾人もの男の裸になった瞳のいずれも、彼以上に心を揺さぶる情熱を宿してはいなかった。実際そんな相手が現れないであろう事も瑠依には解っていた。だから、彼女が男の誘いに承諾する心配は考えるまでもなかったのである。

 瑠依が三十歳を迎えたのは日曜日であった。彼女は二年くらい前からこの日を意識していて、ちょうど休みの日である事も知っていたし、一先ず昼休みになりそうな十二時過ぎに電話を掛けてみようとも決めていた。しかしいざ当日になってみると、緊張と不安から胸は早鐘の如く、いつものように朝早くに起きたにも関わらず、午前中は洗濯から何から全く手につかなかった。瑠依は未練に捕らわれてしまうのを恐れて、別れを告げられた日から淳史に一切連絡をしなかった。八年越しの電話は彼女を臆病のあまりにおかしくさせて、一時過ぎにようやくダイヤルをした時には、どうしてか電話が繋がらないでほしいと思っていた。しかし二回の呼び出しで出た淳史の声の懐かしい響きを耳にして、瑠依は思わず目が潤んだ。
「久しぶり」
「久しぶり」
「今日が何の日か、わかる?」
「……もう三十になったか」
 淳史が感慨深げに言うのに、瑠依は昨日の事のように思えた。
「今は熱海?」
「そう、熱海」
「会いにいって良い?」
「良いよ。いつ来る?」
 瑠依と淳史は当り前にやっていた懐かしい待ち合わせのやり取りを、八年経った今もまた当り前にやっていた。

 淳史は明日の夕方からなら時間が取れるとの事であったので、瑠依は翌朝に有休を取って昼過ぎに家を出た。通勤で見慣れたホームなのに、逆に進んでいくのが瑠依は新鮮であった。脇に流れていく家々はその一つ一つに家庭があるとは信じられない程に果てしなく続いたが、相模川を渡り本厚木の駅を出てからは、いつの間にか丹沢の山々が背景に大きく、気が付けば小田原に、そこから東海道線へ乗り換え根府川駅の広がる水平線を前にした時、瑠依は非日常を強く感じて、海を見たのは何年ぶりだろうと記憶を辿りながら普段目にしている風景の狭さに驚いた。
 熱海の街はプリン屋やらラーメン屋やら若い店がぽつぽつと出てきて、通りは活気づいていた。瑠依は横道の石段を海の方へ降りて、魚見崎に聳える城を背景に湾で優雅に戯れる海鳥の歓迎に心を弾ませたが、空はまだ明るかったので、街中で風変わりな喫茶店を見つけると、珈琲と草団子のセットを注文した。入り口側の席には年配の先客が珈琲を啜りながら、同年代の店主と、近所にある老舗の跡取りの話で盛り上がっている。その次から次へと跡取りの人となりについて語られる住民同士の近さに、瑠依は何となく温かみを感じていたが、二人の会話が途切れると、開け放した入り口から風鈴の澄んだ音色が聞こえてきた。それは店の軒先にある青々しい楓の先に短冊と一緒に揺れているのが窓の左端に見えて、何より反対側から伸びた釣り竿に吊るされた、長細い四角の鳥かごが、風鈴の音にくるくると踊っているのが瑠依には運命的であった。

 淳史から連絡が来たのは、すっかり陽も落ちて街が眠りにつく頃であった。瑠依は駅ビルの喫茶で、旅館の送迎バスやタクシーを眺めて待ち焦がれていた。会いに降りると、灯りだけの改札口の傍らに黒いパーカーを着た男が所在無さげに不自然で、瑠依はすぐに淳史と判った。それは淳史にしても同じで、駅ビルの自動ドアの開いたのに気付くと駆け寄り、遅れてすまなかったと詫びた。それから、良い店があるからそこで飲もうと、再会もそこそこに歩き出して、瑠依は慌ててついていった。
 活気のあった通りは昼の店から夜の店へと入れ代わって、しかし歓楽街というよりは一日の終わりを皆で労う優しい雰囲気が、商店街の寝息のようで甘かった。淳史は通りを下った先の、細道を折れたバーへ瑠依を連れて入った。カウンターだけの小さな店は、段々にずらりと見事な酒瓶が柔らかな照明に瞬いて、宝石箱みたく眩しかった。
「仕事の調子はどう?」
 淳史は、グラスに浮かぶ丸氷で遊んでいた。
「普通かな。淳史は?」
「まあ……なんとか上手くやってるよ」
「そう」
 と、瑠依は紫に美しいカクテルの微かな波紋を目で追っていた。二人にとって会わなかった八年間はどうでも良かった。だから一つやり取りをしては、それぞれのグラスに目を落としていた。唯、瑠依が旅館に住み込みなのかと尋ねた時、
「いや、今はアパートで暮らしてる。二人でね」
 と、淳史が言いにくそうに答えたのに、
「そう……」
 瑠依はグラスに反射する天井の灯りが大きく揺らめくのを、じっと固まって見つめた。
「本当は会うべきじゃないと思った。でも瑠依と一緒にいた日々が今でも俺の中心にあったんだ。だから確かめたくなった」
 と、言葉を継いだが、瑠依はベランダの鳥かごが横倒しに落ちていくのを見ていた。

「どうする?」
 バーを出た淳史は少し戸惑い気味に瑠依を見た。それは単に負い目から来るものであったが、瑠依は何も言わず隣に立っているので、釈然としないまま糸川べりを海の方へ、川面を打つ段々の投げやりな飛沫と共に国道まで下ると、白に四角い街路灯が沿道に続いていた。しかしそれは幾つ目かの角で、弱弱しい小さなのに変わり、更に先は険しく黒い森が壁のようにあった。
 淳史がその森の方へ連れていくのに、瑠依は身震いした。しかし明るい街路灯が最後のところを海に曲がると、華やかな熱海の端の、境界に佇むホテルにふらりと手を引っ張って、瑠依は断らなかった。

 朝焼けの水平線が美しい明け方に、瑠依と淳史は帰り道が反対なのもあって、ホテルの前でさらりと別れた。瑠依は昨晩歩いた道を決まり事のように、真っ直ぐ駅へ戻ると、電車も同じように下北沢まで帰った。
 カーテンを開けた空は水色に明るく、アナガリスの鉢を並べると、アサガオを思わせる色合いであった。端に吊ってある鳥かごは、伽藍と空か空かで静止していた。瑠依はその開け放してある出入口がふと大きく見えて、中へ入れるような気がした。
 瑠依は、鳥かごを捨てようと思った。しかし捨てられないだろうとも思った。……

                    了             

2022/10/29(Sat)13:23:13 公開 / 石田壮介
■この作品の著作権は石田壮介さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 石田壮介です。
 書きかけのまま放置されてしまった二作品の内の二つ目となります。
 実はこの作品を書く為に、「男が立っていた」「恋が恋でなくなった日」の二作品を先ず書かせていただきました。
 それと言いますのも、私は十八年前にここへは二度とこないと申しましたが、一方で私はここで白雪苺 様から「鳥かご」というテーマで作品を書く約束をしておりました。私は割と約束を守れない人間なのですが、やれる範囲で有言実行であろうと心がけておりましたので、二度と来ないという有言実行と、約束した作品を完結させるという相反する有言実行が、私を悩ませたのであります。
 恋が恋でなくなった日のあとがきに述べた通り、私は筆を折った身でありますが、書けるような気がした時に真っ先に思い出されたのがこの約束で、今更な上に、どんな顔して載せるんだと嫌な気持ちにもなったのですが、やらない有言実行よりは、やる有言実行の方が優先されるべきだろうと思い直しまして、書くに至った次第です。
 見ているか判らない上に、滑稽ですが、

 白雪苺 様、十八年間も放置して申し訳ありませんでした。そして、十八年前にテーマをくださった事を深く感謝致します。

 以前に書いた作品につきましては、重複投稿となってしまいますが、パスワードも失念してしまい、編集も困難であった為、大変身勝手ながら、管理人様へ削除を依頼しておりますので、ご了承ください。

 尚、現在我が家はパソコンを所有しておりませんので、今回は加筆修正につきまして、御遠慮させていただきます。
 感想の方は必ず目を通させていただき、今後の参考させていただきたいと思いますので、いただけますと嬉しいです。

 令和 四年 十月二十九日  石田壮介

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。