『フェリース・ナビダード』 ... ジャンル:SF 未分類
作者:天野橋立                

     あらすじ・作品紹介
巨大産業都市・市《シティ》が全てを支配する世界。ある出来事によって、社会のメインルートを外れることになった「私」は、降誕祭《ナビダード》の季節に起こった、奇妙な事件に遭遇する。

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 満員の高架軌道《Sバーン》の車内はひどく息苦しくて、私は思わずネクタイを緩めそうになった。しかし、そんなことをしてみたところで、この息苦しさから解放されることはないはずだったし、会社に着くまでの間にもう一度ネクタイを締め直さなければならないのも面倒なことだった。私は天井を見上げながら、深いため息をついた。そこではライトグリーンの扇風機が、精一杯車内の空気をかき混ぜながら、しきりに首を振っていた。
 誰かが窓を開けてくれれば、外からの風が入ってくるはずだ。いかにこの市《シティ》の空気が澱んでいるとは言え、車内の空気よりはましだろう。しかし、冷たい外の風が入って来たりすれば、それはそれで文句を言う人が必ず出てくるだろうから、誰もそんなことをしようとはしない。
 車窓の向こう側に広がる市街地のシルエットは、白く霞んでいた。あちこちに林立する無数の煙突、それらが吐き出す煙が、その原因だった。戦争後、工業地帯として急速に発展したこの町の、今では風物詩とも言える眺めだった。
 その中でも、巨大さで特に目を惹くのが、千鳥ヶ淵化学会社本社工場の四本の煙突群だった。煙突の先端は、低く垂れ込めた雲の中にまで届いていて、目にすることができない。さながら地上と天界とをつなぐ、柱のようでもある。
 煙突群の中心には、化学会社の本部ビルであるアール・デコ様式の摩天楼が、そびえ立つ。あれは戦争前からの建物のはずで、軒や柱の各所にテラコッタによる装飾が施されたその重厚な姿は、化学会社の伝統と格式の象徴にもなっていた。
 あんな大会社に入れていればなあ、と私は思った。今とは比べようもない高給を貰って、田園都市街区《ガーデン・シティ》の上級アパートに住むことが出来ただろう。もしかしたら、いくらかは蓄えも出来て、それを頭金に自家用のくろがね三輪を買うことだって出来たかも知れない。週末にはそのサイドシートに恋人を乗せて、団栗浜パームビーチなんかにドライブへ行ったりして……などと想像を膨らませかけて、私は我に返って苦笑する。そんなことを考える前に、まずは恋人を見つけるほうが先だろう。
 安月給とは言え、この混乱した時代に、こうしてちゃんと毎日出勤する先があるというだけで、十分恵まれていると言えた。高等職能校《ビジネススクール》卒のサラリーマンというステータスに加えて、学校で専攻した販売心理学のテクニックを応用すれば、そこそこ気の利いた女の子をものにするのもそんなに難しいことではないはずだった。
 次の駅で私はようやく電動客車から降り、息苦しさからも解放された。同じようにホームに降り立ったたくさんの乗客たちも、みな一様にほっとしたような表情を浮かべている。半分近い乗客を降ろした電客は、いくらか軽快になったように聞こえるモーター音を残して、軌道を走り去った。
 晩秋の冷たい空気を、むしろ心地よく感じながら、私は人の流れに乗ってホームを歩き、改札口に向かって階段を下りた。踏み板の鉄板が、いかにも金属質な硬質の靴音を響かせる。
 高架下にある駅の構内は、照明のラドン燈管が少なめなせいもあって、ひどく薄暗い。外の光は、アーチ状をした改札口からしか入ってこない。四つある改札口のそばには、それぞれ何十もの企業名がずらりと書かれた案内板が設置されていて、どこから出れば便利なのかを、訪れた者に伝えていた。高度集積地区《コア・エリア》の周縁に位置するこの街区には、主に中堅クラス企業の本社が何百と集まっているのだ。もちろん、私は今さらそんなものを見る必要もないから、迷わず第三出口へと向かう。改札掛の若い女性は、提示した市内隣接域通行権利証《パス》の券面をろくに見もせずに、私を通した。毎朝のことだから、お互いもう顔を覚えている。
 真っ直ぐに伸びた通りの両側には、ビルがずらりと建ち並んでいた。大企業のないこの辺りでは、大規模な高層建築物は見当たらず、高くても十階建て程度の低中層ビルばかりだ。私の周囲を歩くのは、みな同じようなスーツ姿の勤め人ばかりだった。その群れの一員として、葉の落ちた街路樹が並ぶ通りをこうして歩くとき、私は自分が社会の中に安定した地位を築いていることに、安堵するのだった。
 やがて通りの前方、白く霞んだ空気の向こうに、私が勤める照葉交易総本社の建物がぼんやりと見えてくる。アール・デコとは行かないが、煉瓦色のタイルに覆われた壁面がそれれなりにシックなこのビルには、戦争後間もなくの創業、という我が社の歴史に相応しい風格があった。
 ところが、総本社ビルの前に立った私は、その落ち着いた雰囲気にそぐわない騒ぎが起きているのを目にすることになった。正面玄関の前に人だかりが出来ていて、みんな口々に大声で何かしゃべり合っている。一体何事だ、と胸騒ぎを感じながら、私は閉ざされたままの玄関ドアに近づいた。人だかりの中に、同じ総務業務室のアスカという社員の姿を見つけた私は、後ろから肩を叩いた。
「おい、アスカ。こりゃ何事だい」
「おお、お前か」
 振り返った彼は、真っ青な顔をしていた。
「大変なことになったぞ。これを見ろ」
 彼は白いペンキでべったりと塗られた、頑丈な鋼鉄製の玄関ドアを指差す。そこには、一枚の文書が貼り出されていた。その内容を一目見て、私は血の気が引くのを感じた。

[廃業のお知らせ]
 謹啓、晩秋の候、皆様におかれましてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、突然ではありますが、当照葉交易総本社におきましては、諸般の事情により、昨日を以て事業を廃止させていただきました。
 なお、今後の当社に係るお問い合わせについては、七日市場法律事務所(532ー××××)が窓口となって対応いたします。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。

「――どういうことだ、これは」
 恐らく私の顔色は、アスカと同じく真っ青になっているに違いなかった。
「見ての通り、倒産だよ。俺たちみんな、失業だ」
「しかし……こんないきなり」
「前から、危ないって話はあったんだ。例のラピスラズリ先物で、うちの会社は相当の損失を出してたからな。恐らく――」
 アスカは空を仰いだ。いや、彼の視線の先にあるのはビルの最上階、社長室の辺りだ。
「上の連中、自分たちが損をかぶることになる前に、会社を閉めちまおうと決めたんだろうな。社員にも知らせずに、こうして不意打ちで」
「そんな……」
 私は言葉を失った。何をどうしていいのか、全く見当がつかなかった。とにかく、明日からの生活を何とかしなければ。明日……。そうだ、明日は。
「明日の振込みはどうなるんだ! 俺の今月分の給料は!」
 誰かが叫んだ。そう、本来なら明日は給料日のはずなのだ。
「無理だろうな」アスカが、陰鬱な顔で呟いた。「そこまで見越して、今日にしたんだろう。明日の給料なんか、出るはずがないよ」
 思わず、はっとした。明日の振込みがなければ、今月分の第二等差アパート賃借料の引き落としが不能になってしまう。そうなれば、私はすぐにでも部屋を出て行かなければならなくなる。低額賃借契約で部屋代が安い代償として、そう決まっているのだ。
「とにかく、この法律事務所とやらに、話をつけに行ってみるしかないな。何とかなる見込みは薄いだろうが……。お前はどうする」
「家に、すぐ帰らないと」私は言った。「このままだと、部屋を出て行かなきゃならない。低額賃借なんだ。とりあえず、急いで荷物をまとめないと」
「そうか、そりゃ大変だな」
 アスカの表情が曇った。
「わかった。お前の給料も、俺が確認しといてやる。何か分かったら、コンソールに送っとくよ」
「すまん、助かる」
 私はそう言って彼に頭を下げると、再び駅に向かって歩き出した。
 駅からの人の流れは、まだ続いていた。紺や灰色のスーツの群れを掻き分けるように、流れに逆らって歩いていると、自分が決められたコースから突然投げ出されたのだ、という事実が、身に滲みて感じられるようだった。ついさっき、ほんの十分ほど前、この流れに乗っていることに安心感を覚えながらここを歩いたのが、まるで何かの間違いのようであった。
 通りの前方、霞んだ空気の向こうに、高架軌道のガードが見えてきた。ちょうど、濃緑とクリーム色に塗り分けられた電動客車が、がたがたと大きな音を立てながら、通りの上を横切って走り去っていくところだった。
 ガード下の改札口を、例によって市内隣接域通行権利証《パス》の券面をいい加減に提示して通ろうとした私の顔を、駅員の若い女性はおや、とでも言いたげな表情で凝視した。ついさっき改札を出て行ったばかりの私が、またすぐ戻ってきたことが、不審に思えたのだろう。
 これからは、と私は思った。何をするにも、こうして不審な目を向けられることになるのではないか。ちゃんとした勤め人として、規則正しい暮らしをしている人間には、決して向けられることのない目が。
 ホームの屋根にぶら下がって、くるくると回転している球状時計が五周もしない間に、次の電動客車がやって来た。高度集積地区《コア・エリア》から、やはり人の流れに逆らって、外部へ向かって走るこの客車は、見事にがらがらに空いていた。向かい合ったシートに座っている数少ない乗客は、みな老人ばかりだった。
 さっきよりも昇った太陽の光に照らされて、車窓から見える町のシルエットは、いくらか明瞭さを増していた。本格的な活動開始の時間を迎えて、町は活気付いているようだった。この無数のビル、工場、それらの中で、人はそれぞれ自分の仕事を始めているはずだった。
 思わず私は俯き、頭を抱えた。なるほど、この不安定な時代に、突然職を失う者はさほど珍しくはないだろう。中規模企業の倒産など、ニュースにもならないかもしれない。しかし、それが自分の身に起きたことだとなれば、話は全く違うのだ。
 窓の上にずらりと並んだ広告、宇宙線玉掛駆動式の高級爪時計も、多面貫通6チャンネル実体幻視機も、堵州産捻転蟲糸製のギャルソン・コートも、こうなっては全く異世界の品物と言って良かった。もちろん、いずれも私の給料程度で買えるような品物ではそもそも無かったが、それでもこのまま勤めが続いて、役職手当が付くようにでもなればいつかは手が届く、昨日まではそんな思いで眺めていた広告群だったのだ。
 高架軌道は間もなく高度集積地区を外れ、車窓を彼方まで埋め尽くしていた灰色の建築物の群れは、急速にまばらになってきた。変わって現れたのは、洒落た赤い三角屋根の一戸建てや、白壁と紺色のバルコニーのコントラストが瀟洒な小ぶりな集合住宅などの、真新しい住宅群だった。木々の緑も目立ち、空気の汚れもさほど目立たない。この辺りが、いわゆる田園都市街区《ガーデン・シティ》と呼ばれるエリアで、コア・エリアで働く中産階級向けの住宅地として、近年整備が進んだ地区だった。
 間もなく、電動客車は木立に囲まれた駅に停まった。老人たちは誰も降りないし、乗って来る人も無い。木漏れ日が点々と落ちるプラットホームには、この小ぎれいな街区の玄関口に相応しくということなのだろう、トウヨウセイムリアを初めとした色とりどりの花々が咲き誇る花壇が整備されていた。ここもまた、今の私とは縁の遠い場所に思える。
 田園都市街区を走り抜けると、前方に大きな川が見えてくる。この川が、市《シティ》とその外側である郡部諸街区《カウンティ》との境界線となっていた。市が管理する高架軌道の路線はここまでで、この先はいくつもの小さな町をつなぐ、郡部諸街区連接鉄道《ディジーチェーン》の路線となって、彼方へと続く。
 向かい岸が霞んで見えるほどの大河を、電動客車はごとごととやかましい音を立てながら、長い時間をかけて渡った。右を見ても左を見ても、圧倒的な水面の広がりの中で、単線の特殊狭軌道《ナロー・ゲージ》の貧弱な鉄橋はいかにも頼りない。ちょっと強い風でも吹けば、このちゃちな電動客車は、たちどころに水中に転げ落ちてしまいそうに思えた。

 橋をほとんど渡り切ると、前方に渡守区の市街地が見えてくる。こじんまりとした建物が、岸辺の堤防に沿って並ぶこの町は、その名の通り、かつてはこの川を行き来していた渡し舟の渡船場を中心に、河港の町として栄えた町だ。鉄道が通った今では、港町としての役目は終えつつあったが、郡部諸街区の中ではシティに最も近い玄関口の町として、なおも賑わっていた。
 ここからずっとレールの向こう、僻遠の地と言ってもいい山間の村落都市から、高等職能校《ビジネススクール》に進むために出てきた私がこの町に住むことになったのも、やはりシティに通うのに便利、というのが理由だった。
 橋を渡り切った電動客車は、古びた家屋がごみごみと密集する町なかを走りぬけ、やがて急角度でカーブを描いて分岐する枝線へと入ると、かまぼこ状の屋根の下にある低いホームの前で停車した。すぐ前方で軌道は途切れ、その向こう側には横倒しにした木樽が積み上げられていた。シティからの電動客車はここで終点となり、さらにこの先の諸街区へと向かうには域外通行査証を受けた上で、ディジーチェーン本線の駅から出る長距離列車へと乗り換えることになっていた。
 老人たちに続いて、私はホームに降り立った。市内隣接域通行権利証を呈示して改札を出ると、その向こうには狭い路地が続いている。初めてこの町を訪れた者が、駅にたどり着くのはきわめて難しいだろう。
 路地の突き当たりを曲がると、そこから先もまた路地である。両側には、立ち並んだ建物の壁がずっと続いている。その多くはコンクリート造りの無機質な建築物で、高くても四階建て程度ではあるものの、道幅が狭いせいで、頭上に見える空はほんのわずかな広さでしかない。川岸の限られた平地に発達したこの町においては、このような迷路のような町並みが市街地の多くを占めていた。
 アーケード、というよりはトンネルを思わせるスレート屋根の下に、肉屋やパン屋が並ぶ商店街を抜けると、ようやく開けた空間に出る。「開けた」とは言っても広々としているとまでは言えず、八人くらいまでなら何とか並んで歩けそうな道幅の通り沿いに、婦人服や宝飾品、カメラ屋に洋食レストランなどが並んでいるという程度ではあったが、ここがこの町のメインストリートに当たる場所だった。若干高級感のある、日常の生活レベルよりは少し背伸びをして買い物をするような店舗が集まるこの通りは、繁華街の名にふさわしく多くの人出で賑わっていた。シティへの玄関口として栄えるこの町を象徴するような場所でもあり、かつては郡部諸街区《カウンティ》では唯一と言われるデパートがあったほどだったが、残念ながら最近になって閉店してしまっていた。
 私の住む第二等差アパートは、このメインストリートに面して建っていた。渡守区の中に限って言えば、かなり立地のいいアパートで、実際この町には他に第二等差アパートはない。第三等差以下のアパートばかりなのだ。シティに住むほどの経済力はなかったが、これは私なりの贅沢だったのだ。
 しかし、この背伸びは裏目に出たかもしれないな、と私はそう思いながら、アパートの建物を見上げてため息をついた。通りに並んだビルの中でも特に目を惹く、スリムな建物だ。好条件故に、やはり高めの家賃を抑えるために低額賃借契約にしたのだが、この契約では家賃を滞納すれば即居住権を解除されてしまうのである。等級が高いおかげで、室内の設備が高度に自動化されていることも、この際は痛手だった。居座ろうにも、部屋中のあちこちが高電荷シリンダー錠でロックされてしまえばお手上げである。今はまず、部屋から急いで荷物を持ち出すしかない。
 エレベーターを八階で降りて、私は歩き慣れた廊下を部屋へと向かう。しかし、もうここを歩くのもあと数回限りなのかも知れなかった。
 部屋に元々用意された収納スペースで十分だったことから、大きな家具類は特に持っていなかったが、実体幻視機を初めとしたいくつかの高価な電気製品類をどうするか、私は悩んだ。しかし、明日からは住む場所にも困ることが確実な今の情況で、そんな大きな荷物を持って行くのはどう考えても至難の業であるように思えた。
 みんな売ってしまおう、と私は思った。そう言えばあのトンネル風の商店街に、ジャンク買取の店があったはずだった。今は余計な物は手放して、手持ちの現金を優先すべきだろう。
 私は手始めに、実体幻視機を抱えて部屋を出ると、廊下をエレベーターへと向かった。ガラスの塊のようなこの機械は何せ重いから、腰に力を入れて、必死に踏ん張って歩くことになる。途中ですれ違った、同じ階に住む老婦人が、何事かと言う顔で私を見ながら、しかし上辺は丁寧な物腰で「ごきげんよう」と言った。
 内部の精密な機器が壊れぬように、エレベーターの床に慎重に実体幻視機を置いた私は、一息ついてから内扉の格子戸を閉め、操作ハンドルを起こした。エレベーターはうなり声を上げて、一気に降下を始める。今日はこうして何度か、上下の往復をしなければならないだろう。
 着飾った人々が歩くメインストリートにあって、恐らくは必死の形相で重い荷物を運ぶ私の姿はさぞ目立ったことだろうが、そんなことは気にしていられなかった。やがてたどり着いた、目指す商店街の狭い入口、その頭上には左右の建物の壁ぎりぎりに接するように、アーチ状の看板が架けられていた。そこに書かれた「仙女座《アンドロメダ》街」という文字は、それが頭上に支えそうに低い、灰色の天井が続くこの商店街の名なのだとすれば、何かの間違いだとしか思えなかった。ここを歩きながら、無限に広がる大宇宙に想いを馳せることには、相当な困難を伴うことだろう。
 大きな機械を抱えた私は、上下左右共に狭苦しい通りを、道行く人に邪魔者扱いされながら進み、どうにか目的地であるジャンク屋にたどり着くことができた。店先には、道にはみ出すように旧式の電気製品が山と積み上げられていて、その中には実体幻視機も何台か見られた。どれも私のものよりも型が古く、片面貫通1/2チャンネル式などの、現代ではほとんど使い物にならないようなものさえ混じっている。これなら、私の品物が買い取ってもらえない、などという事態は生じないだろう。
「ごめんください」
 私は声を掛けると、その薄暗い店内に足を踏み入れた。返事はない。うず高く、さまざまなガラクタ類が積み上げられたその場所に、人の気配は無かった。
 再度、声を掛けようとしたその時、突然目の前の床板が、埃とともに跳ね上がった。驚きの余り、私が声を失って立ちすくんでいると、ぽっかりと穴の開いた床から、人の顔が現れた。分厚い丸縁眼鏡をかけた、ボサボサの白髪頭をした老人だ。
「やあ、どうも。驚かせて済みませんな」
 その人物はそう言って軽く片手を上げると、床下からよっこいしょと這い上がってきた。くたびれた作業着姿をしている。
「ちょっとこの下で、作業を行っていたものでしてな。なに、どんなオンボロでも、わしの手にかかれば立派に息を吹き返すのですよ。ここらに積んである品物は、そういうものばかりなのです。見てくれはこんなだが、どれもちゃんと動くわけでしてな」
「あの」私は、店主と思われる老人の言葉を遮った。「実は、私は品物を買いに来たわけじゃないのです。買い取っていただきたい品があって」
「結構、結構」老人はうなずいた。「今言ったとおり、どんなオンボロでもうちは構わないわけですからな。品物を見せていただきましょうか」
「これなんですが」
 私は、入り口近くに置いた実体幻視機を指差した。
「これは……まだ新しい型ですな」
 品物を見た老人は、なぜか渋い顔をした。
「泰西ビクターの、相互貫通式2チャンネル機です。ちゃんと写りますよ」
 私がそう説明すると、老人はおもむろに幻視機のハーネスを、傍らの柱に取り付けられた単式プロトコルターミナルに接続して、起動スイッチを倒した。ガラスの水槽のようなバブル・チェンバーの底で二基の粒子銃が白く輝くと同時に、透明な直方体の箱の中に、ミニチュアサイズの街角が浮かび上がった。一組の男女が、ホテルと思われる建物の中から現れて、愛をささやきながら通りを歩き始める。主婦に人気の連続ドラマらしかった。
「ふうむ、何の問題もないぞ」
 老人はつぶやくと、疑わしげな目をして私の顔を見た。
「なぜあんたは、こんな立派な品物を手放そうとするのかね。しかるべき所に売りに出せば、まっとうな値段が付く品だ。こんな店に持ち込むような品じゃない。悪いが、うちじゃ引き取れんね」
「待ってください」
 予想もしなかった言葉に、私はあわてた。
「事情があって、私はこれをすぐに手放さなきゃならないんです。そう言わずに、お願いします」
「ふん、事情がね」
 老人はなおも疑わしげな目をしたまま言った。
「まあ、聞かんこともない。話してごらん」
 私は、今自分が置かれた状況を、懸命に説明した。今から、他の店を探して回る時間などない。ここで断られてしまったらどうにもならないのだ。特に演技をしなくても、私の表情には悲壮感があふれていたはずだ。話し続けるうちに、老人の瞳からは、疑いの色が次第に薄れて行ったようだった。
「話は分かった」
 話し終えた私に、老人はうなずいた。
「いいだろう。うちで買い取らせてもらうことにしよう。ただし、高くは買えんぞ。この品なら、ちゃんとマーケットで競りに出せば一兆両《クレジット》は堅いだろうが、うちで今出せるのは五千億までだ。それで構わんかね?」
「はい。お願いします」
 私は、頭を下げた。
 他にも、高周波油脂溶融式衣類洗浄機やプラズマ七輪《クイック・クック》、櫓内熱源式半身暖房槽《やぐらごたつ》などの品物を引き取ってくれることになり、私は老人の運転するくろがね三輪に乗って、アパートへと向かった。驚いたことに、店の横にある車庫から出てきたくろがね三輪は、そのままこのトンネル状の商店街を走り始めたのだった。いくら小型の三輪トラックだとは言え、この狭い通りを走るのは無茶である。単気筒エンジンの爆音を反響させながら、通りを歩く人を押し退けて走る車は、道行く人からの激しい罵声を次々と浴びたが、老人はそんなことは一向に気にしていない様子だった。助手席の私は身を縮め、ひたすら顔を伏せていた。
 アパートの八階から一階へと台車を何往復かさせて、部屋中の金目の品を全てくろがね三輪の荷台に積み込み終えると、私は一兆両《クレジット》を超える現金を老人の手から受けとることになった。これだけの金があれば一月分くらいの家賃には足りるのだが、しかし今後のことを考えると、こんな贅沢な住まいに住み続ける訳にもいかない。
「どうも、ありがとうございました」
 荷台に荷物を満載したくろがね三輪の運転席に収まった老人に、私はそう言って頭を下げた。背中に背負ったリュック一杯の荷物、それが今の私にとっての全財産というわけだった。
「で、あんた、これからどうすのかね?」
 エンジンの爆音に負けまいとするかのような大声で、老人が訊ねる。
「とにかく、どこか落ち着ける場所を探します。このご時世ですから、仕事は簡単には見つからないかも知れませんが……」
「そうかね。まあ、これも何かの縁だ。困ったことがあったら、いつでもわしのところへ相談しに来なさい。なに、金を使わずに生きていくことにかけちゃ、わしはベテランだからな」
 分かりました、ありがとうございます、と再度頭を下げて、私は老人に別れを告げた。背後を爆音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は通りを歩き始めた。
 いつの間にか、時間はすっかりお昼を回っていた。そろそろ昼飯にするか、となじみのグリルへ向かいかけて、私はあわてて足を止めた。とんでもない、あんな高い店で食事するなんて。今は一億両だって惜しい状況じゃないか。
 安い店、今は安い店だと自分に言い聞かせながら通りを歩き始めたものの、たまに見かける大衆向けの店は、いかにも柄の悪そうな客同士が大声でしゃべり合いながら飯をかっ喰らっていたりで、とてもその中に入っていく勇気は出なかった。どうにか入って行けそうな、立ち食いのすいとん屋を見つけた私は、カウンターに並んだいかにも労務者風の群れに混じって、黙々と団子をかじり、汁をすすった。長いこと、こんな粗末な食べ物を口にしたことはなかったが、これはこれでうまかったし、何よりも懐かしい気分がした。街に出てくる前、まだ故郷にいた頃は、屋台のすいとんを良く食べたものだった。
 わずか十億両コイン《ダイム》一枚という、ごく安い代金を支払って店を出た私は、すっかり元気になった足取りで、再びメインストリートを歩き始めた。さあ、いよいよ住むところを見つけなければならない。
 東西方向に伸びる、もう一つの広い通りとの交差点に差し掛かったところで、私はふと足を止めた。そこには、ポスト・ネオゴシック様式の立派な建物が建っていた。かつては「丸物屋百貨店」と呼ばれていたその建物こそ、例の郡部諸街区《カウンティ》唯一と呼ばれたデパートの跡だった。業績は好調だったと言われるこのデパートが、なぜ閉店してしまったのかは分からないのだが、その姿は今でも営業していた当時と全く変わらないままで、屋上の「物」という赤い文字を円で囲んだ看板も、店の正面にあるショウ・ウインドウの中身も、手付かずのまま残されていた。
 私が足を止めたのは、そのショウ・ウインドウが気になったからだった。そこにはいかにも快適そうなふかふかのベッドと真新しい家具の数々、そこから壁を隔てて、ピカピカに磨きあげられた琺瑯引きの浴槽とシャワー、それらの品々がどこかのアパートの一室をそのまま再現したような体で陳列展示されていたのだった。
――こういう部屋に、もう一度住めたらなあ。
 そう思いながら、ガラスの向こうの空間を眺めて、私はため息をついたのだった。
 まあ、そんなことを考えてみても仕方ない。そう思って歩き出そうとしたとき、ショウ・ウインドウの一番隅に作られた緑色の鉄扉が、私の目に入った。屈まないと通れないような、小さな扉だ。恐らくは、この中に入って模様替えなどの作業を行う時に使われる扉なのだろう。私は何の気なしに、その扉につけられたドアノブをつかんで、回してみた。意外なことに、それは何の抵抗もなく、右方向にくるりと回った。まさか、と思いながらそのままドアを引いてみると、その扉は軽い手応えと共に、手前に向かって開いてしまった。どういう理由でかは知らないが、鍵がかかっていなかったのだ。
 それを見た私の心に、いたずら心が芽生えた。ひとつ、中に入ってみよう。通行人からは丸見えだが、つぶれたデパートのためにわざわざ不法侵入を通報する人もいないだろう。
 そうは言いながらも、やはり恐る恐る、私はショウ・ウインドウの中に足を踏み入れた。埃っぽい空気を予期していたのだが、案外そんなこともなく、ちょうど新築の家のような、新しい木材と布の匂いが感じられる。これはいよいよアパートみたいだな、私はそう思いながら、例のベッドに近づいた。いかにも軽そうな、おそらく高級な詰め物を用いているのだろう掛け布団は、やはり特に埃をかぶっているということもなく、見るからに快適そうだった。
 ここで眠ってしまいたい、という強烈な欲求が、私を捉えた。今日は朝から色んなことがありすぎて、私はくたくたに疲れきっていた。ずっと抑え込んでいたその疲れが、この高そうな布団を目の前にして、一気に噴き出してきたらしかった。
 ええい、構うもんか、と私はベッドの枕元に、重いリュックを投げ出した。それから掛け布団をめくると、まるで空気のように軽いその布団の下に潜り込む。
 これは天国だ、と私は思った。温かい感触にふんわりと全身を包まれ、まるで私は無重力の国にいるようだった。急なスロープを滑り落ちるように、私の意識はたちまちブラックアウトして行った。

          *           *          *
 
 気が付くと、私は暗い場所にいて、見慣れない天井を見上げていた。灯りをつけないと、と私は思う。起き上がって、スイッチを入れないと。スイッチ? どこにあったっけ。そもそも、ここは一体――
 私は、慌ててベッドから体を起こした。ガラスの向こう側は夕暮れの繁華街で、たくさんの人が行き交っていた。街灯のラドン燈管が、ショウ・ウインドウの内部をぼんやりとオレンジ色に照らしている。
 ずいぶん長い時間、私は眠っていたらしかった。何を考えてるんだ、と自分でも呆れてしまう。こんな場所で眠りこけてしまう人間が、どこの世界にいるのだ。良くもまあ、誰にも見咎められなかったものだ。
 幸い、つぶれたデパートのショウ・ウインドウに興味を持つ者はいないらしく、通りを行く人は誰一人として、こちらを覗き込もうとはしなかった。
 とにかく、と私は思った。早いところここを出て、泊まる場所を探さないと。すっかり腹も減っていた。
 人通りが減る瞬間を狙って、私はすばやく扉を開けると、通りへと飛び出した。繁華街の喧騒にいきなり包み込まれた私は、軽いめまいを覚えながら、メイン・ストリートを歩き始めた。
 夕食は、例のワンダイム立ち食いすいとん屋で済ませた。幸い、シンプルなすいとんなら何食続いても平気だったし、今は何より手持ちの金を長持ちさせることが優先だった。
 困ったのは、宿泊場所のほうだった。メインストリートに面した立派なホテルなどは論外だったから、迷路のような路地に分け入って簡易宿所《ドヤテル》を探したが、そんな宿でも宿泊料はかなりの額になってしまうようだった。どんなボロボロの、身動き一つできないような部屋でも構わないから、と安い宿を探し回ったが、ぎりぎり一泊百五十億両《クレジット》を切るのがやっとだった。
 仕方ない、今日はもうそれで我慢して、明日はもうちょっと頑張って安い宿を探そう。そう諦めかけて、待てよと私は思った。
 こうなったらいっそのこと、さっきの廃デパートで一晩過ごしても良いのではないか。時間も遅くなって人通りもすっかり減っていたし、ショウ・ウインドウの中に置かれたベッドで人が寝ているかどうかなんて、誰一人気付きもしないだろう。何より、あのベッドは快適だ。簡易宿所の蚕棚《ベッドラック》なんかよりも、はるかに寝心地は良いのである。灯りはないが、どうせもう寝るだけだ。暗くたって、困りはしないのだ。
 そうと決まれば、早く戻るほうがいい。私は再び、人もまばらになったメイン・ストリートに戻り、旧丸物屋百貨店へと向かって真っ直ぐに歩き始めた。

 そして私は、ふかふかのベッドで朝までぐっすりと眠ることが出来た。どこからも誰からも、邪魔が入ったりすることはなかった。夜明けと共に起き出して、試しに「浴室」の蛇口をひねってみたが、さすがにそこから熱い湯が出てくることはなかった。
 人通りの少ないうちに通りへ出て、すでに店を開けていたパン屋に併設されたコーヒー・スタンドで、ブレンドコーヒーと棒パンのモーニングセットを注文した。コーヒーカップから湧き上がる湯気が、カウンターを照らしているバチェラー燈の光に白く輝きながら、まだ暗い通りへと流れていく。二十五億両もする贅沢な朝食だが、一泊分の費用が浮いたことを考えれば、このくらいのことは許されるだろう。
 腹ごしらえも済んですっかり元気になった私は、近くの支分情報公署まで無料の市民共用公開端末《オープンコンソール》を閲覧しに行ってみることにした。社内コンソールが使えた昨日までは、わざわざコンソールを閲覧に出かけるなど、考えもしなかったのだが。
 公署の前には、閲覧者の行列ができていた。小半刻ほど待たされて、ようやく自分の番が回ってきた。私はコンソールの前に座ると、画面下の鍵穴に個人錠を差し込んで半回転させた。機械が起動して、真っ黒だったマイクロフリップディスプレイの画面に、色とりどりの帯文字《リボン》が表示される。そのいくつかを決められた手順通りにプロットペンでなぞって保護暗号を解除し、私は個人向けメッセージ閲覧申請を行った。
 たちまち、いくつものメッセージがずらりと並んだ。その大半は、何らかの商品の売り込みだ。私が失職したという属性情報は、まだあまり広がっていないらしい。それらのどうでもいいメッセージを片っ端からプロットペンで消去していくうちに、探していたものが見つかった。つい昨日まで同僚だった、アスカからのメッセージだった。
 その内容によると、会社の窓口として指定されていた法律事務所では、ろくな話を聞けなかったようだった。相手は「法的には」という枕詞を繰り返すばかりで、要するには我々元社員には残りの給料も退職金も出ないのだから諦めろ、とそういうことらしかった。
 埒があかないと判断して再び総本社の前に戻ったアスカたちは、何とか中に入れないかとビルの回りを隈なく調べたが、やはりどの入り口も完全に閉鎖されていて、手も足も出ない。
「物理的侵入が無理なら」と、アスカは綴っていた。「仮想空間からの侵入、つまりは社内コンソール・キューブへの電子的侵入も試してみた。昨日までキューブのオぺレータだった俺だが、やはり駄目だ、歯が立たない。保護暗号鍵《キーリボン》のパターンが、一晩のうちに全て書き換えられていて、暗号を破らない限りフラグメント化された情報をマージできない。十の六兆乗の組み合わせがある帯文字《リボン》のパターンから正解を見つけることは不可能だ。つまりは、今のところは万策尽きた、そういうことになるわけだ」
 大体予想していた通りではあった。要するには、失業という現実をおとなしく受け入れるしかない、そういうことだ。
 彼に礼を述べるメッセージをポストすると、私は真鍮の個人鍵を捻ってコンソールから抜いた。全てのマイクロフリップがかすかな動作音と共に瞬時に反転し、コンソールは画面を暗転させて停止した。
 支分情報公署を後にした私は、さてどうしたものか、と思案に暮れた。まずは仕事探し、ということになるわけだろうが、それならばこの街区よりも市《シティ》に出たほうがいいだろう。幸い、市内隣接域通行権利証《パス》はまだ当分の間は通用期限が残っていて、シティへは自由に行き来ができた。
 駅に向かうべく、私はメイン・ストリートを歩き始めた。通りに並んだ店の営業時間まではまだかなり間があり、人通りはまばらなままだ。ところが例のトンネル商店街、「仙女座街」に足を踏み入れると、そこはすでに活気に溢れていて、巨大な榴弾瓜やら宙豚のブロック肉やらを詰め込んだ買い物籠を手にした買い物客の群れが、通りを闊歩していた。
 あの老人のジャンク屋も、すでに店を開けていた。老人の「いつでも来なさい」という言葉を思い出した私は、このまま通りすぎるのも愛想なかろうと、店をのぞいていくことにした。
 驚いたことに、店頭の一番目立つ場所には私が昨日売ったばかりの実体幻視機が目玉商品よろしく鎮座していて、二兆両《クレジット》の値札がつけられていた。買い取り値の四倍で売られているわけだが、まあそんなものなのかも知れない。
「ごめんください」
 と声を掛けて、私は油で黒ずんだ床板を注視した。恐らく、またここが突然開いて、老人が出てくるはずだ。
 ところが予想に反して、「お入り」という声が、今回は頭上から聞こえてきた。見上げると、高い天井の近くに巣箱のような小部屋があり、老人はその窓から顔を出していた。
 急な段梯子を登って、私は老人の居住スペースらしき場所にたどりついた。狭いながらもそこは、ソファーやローテーブルが置かれた、リビング・ルームらしい体裁が整った場所になっていた。
「まあ、掛けなさい」
 そう言ってソファーを指差した老人は、熱いミルクティーを運んできてくれた。
 あれからどうしたね、と問う老人に、私は潰れたデパートのショウ・ウインドウで一晩を過ごしたということを説明した。
「なるほどな!」
 老人は、感心したようにうなずいた。
「そういう手があったか。わしも昔は色々、貧乏暮らしを工夫したものだが……あの丸物屋のショウ・ウインドウを宿代わりとは、それは思いつかなんだ」
 ぜひその「部屋」を見に行きたい、と老人は言い出した。しかし、これからの時間は、店が開いて人通りが多くなる時間帯のはずだった。さすがに見咎められる恐れがあるので、夕方からにしましょうと私は言った。
「で、あんたは今からどうするのかね。仕事探しかね?」
 老人が訊ねる。
「ええ」私はうなずいた。「とりあえず、シティに出掛けてみようかと思います。さすがに高度集積地区《コア・エリア》のまともな会社に勤め先を見つけるのは簡単じゃないでしょうが……」
「このご時世だからな。あんたは恐らく、そこそこの大学か高等職能校《ビジネススクール》を出てるんだろうが、今はそれだけじゃ厳しいな」
「そう思います。私の専門は販売心理学で、一応心理交流分析士《PTA》のαクラスを持ってはいるんですが、それだけでは」
「αPTAか。それはなかなかのものだ。慌てずとも、いずれ仕事も見つかろう。いや、実はだが」
 老人は咳払いして、ミルクティーを一口飲んだ。
「ちょうど今、助手を探していてな。先週までは学生のアルバイトが一人いたんだが、千鳥ヶ淵電子に勤めの口が見つかったとかでな、辞めてしまったのだよ。そこでだ。今日一日でいい、臨時の助手をやってもらえんか。八百億両《クレジット》でどうかね?」
「助手、と言われましても」思いがけない老人の言葉に、私は戸惑った。「機械の修理なんかは、私はとても……」
「そんなことはせんでもいい。それはわしがやる。ただ、この歳になると、機械の重さが堪えてな。実体幻視機くらいならともかく、コンソールキューブみたいな重いものを運ぶのは骨が折れる」
「それで良ければ、やりましょう」
 私はうなずいた。荷物運びで八百億なら、悪くない。
 こうして私は、老人の手伝いをして一日を過ごした。旧式のコンソールキューブは、なるほど鉄の塊のようで、私でも運ぶのは大変だった。
 こんな店に、果たして客が来るものなのだろうかと疑問だったのだが、案外客の数は多くて、そのうちの十人ほどが何らかの品物を買って行った。元は私の持ち物だった例の実体幻視機も、試しに売り込みをかけてみると、あっさり売れてしまった。αPTAとしてのテクニックもあるが、元々自分でも気に入っていた品物だっただけに、セールスポイントをしゃべるのは簡単だったのだ。
 二兆両もする目玉商品がたちまち売れて、老人は上機嫌だった。特別ボーナスということで、八百億だったバイト代を、一千億に増やしてくれるということになった。一瞬喜びそうになったものの、考えてみれば元々は自分の品物である。まあ何にせよ、手持ちの金が一億両でも増えるのはありがたいことではある。老人が用意してくれた、昼食のファンデルワールスト・サンドイッチも、モザイクサーモンと結晶化炭酸の組み合わせが絶妙で、久しぶりにまともな食事をした気分になった。

 陽が落ちる時間になると、老人はさっさと店じまいをして、さあ行こうと私を促した。よっぽど、ショウウインドウ・ライフに興味があるらしかった。まるでキャンプ気分なのか、バッグに何やら色んなガラクタ機械類を詰め込んでいる。
 トンネル商店街はまだまだ大勢の人で賑わっていて、爆音を立てて走るくろがね三輪は、前回と同様に次々と罵声を浴びた。メイン・ストリートのほうも、人通りは少なくなかったが、老人はお構いなしに旧丸物屋の前に路上駐車した。二人で順番に低い扉をくぐり、ショウ・ウインドウの中に入ると、すでに馴染んだ、あの新築のような匂いがした。私はまるで自分の家に帰ってきたかのような安心感を覚えた。
「ほお、こりゃあいい。上等だ」
 そう言いながら、バッグから取り出したカンテラのバチェラー燈を点灯しようとした老人を、私は慌てて止めた。さすがに、真っ暗なショウ・ウインドウの中で突然明るい灯が点って、怪しげな老人の顔が浮かび上がったりしたら、道行く人に見咎められる恐れがあった。
「何だ、つまらんな」
 そう言いながら、老人は今度はバッグから携帯式のプラズマ七輪《クイック・クック》と、フェライト鍋を取り出した。
「材料も用意してきたぞ。ほれ」
 老人はカーペットの上に遮水ペーパーを敷くと、肉やら野菜やらを並べ始めた。
「こいつは高級品だぞ、なにせ成層圏コーチンのミンチだからな」
 そんなことを言いながら、老人は窓の外から差し込むラドン燈管街灯の光を頼りに食材をカットしては、いつの間にか鍋に満たされただし汁に次々と放り込んで行った。
 その鍋は(老人は「チャンコ・シチュー」と呼んだ)実にうまかった。昼食のサンドイッチに続いて、まともな食事を取ったという満足感を、私は心から感じることが出来た。
 最高級だと言う白百合ウーゾをしたたか呷ってすっかり出来上がった老人は、上機嫌で鼻歌を歌いながら「室内」の検分を始めた。
「おい、風呂まであるじゃないか」
 大声を上げる老人に、
「残念ながら、お湯は出ませんよ」
 と私は返したが、
「よし、飯のあとは風呂だ。風呂入れるぞ」
 老人は私の声など聞こえなかったように、パーマネント雑巾で浴槽を掃除し始めた。
 酔っ払いにも困ったものだ、と私が呆れていると、老人はまたしてもバッグから、何やら見慣れない装置を取り出した。それは銀色の球体で、正面にダイヤルとボタンが一つずつ付いている。
「驚くんじゃないぞ」
 そう言ってにやりと笑うと、老人はその球体を浴槽の真ん中に置いてダイヤルをひねり、ボタンを押した。球体の表面が、きらりと輝いたように見えた。
 途端に、球体の下から大量の湯が噴出した。私は呆然としながら、ざあざあと言いながら溜まっていく湯を見ていた。
「こいつは砂漠戦用に作られた貴重な機械でな。今じゃちょっとやそっとの値段じゃ手に入らんのだが、こいつが何ものなのか知らん客が、他のガラクタ類と一緒にうちに持ち込んできてな。ぶっ壊れた循環シリカジェルコンバーターを直すのはちょいと骨だったが、今じゃこうして、湯でも水でも自由に用意できる」
 謎のテクノロジーによって湯を満たされた風呂だったが、まあ要するに風呂は風呂である。老人に続いて浴槽に入った私は、二日ぶりの風呂の気持ちよさに、思わずため息を付いた。通りを行く人はまばらにはなっていたが、白く曇ったショウ・ウインドウのガラスの向こうで風呂に入っている人間がいるなどとは、誰一人気付きもしないようだった。ただ、歩道を湯気を立てながら流れていくお湯に、首を傾げた人はいるかも知れない。さすがに浴槽の排水口は下水にまではつながっておらず、落とした湯はショウ・ウインドウの床下から通風口を通って、表の通りへと全て流れ出てしまったのだった。

 こうして、夜はこのショウ・ウインドウに泊まり、昼間は老人のジャンク屋でバイトをする、という暮らしが始まった。この場所がよほど気に入ったらしく、老人はしばしばここに遊びに来ては、鍋物だのパエリヤだのトムヤムクンだのといったご馳走を作ってくれた。どれもうまかったし、例の給湯球体のおかげで風呂にも入れるしで、非常にありがたかった。売れ残りの超音波界面活性式衣類洗浄機を安値で譲ってもらったおかげで、洗濯までできるようになった。
 トイレが問題だと思ったのだが、「室内」をあちこち調べてみたところ、奥の壁の一部が扉になっていて、そこから旧店内に入ればトイレが使えるということが分かって、これも解決した。もっとも、真っ暗な旧店内には裸のマネキンがあちこちにそのまま残されていたりしてひどく不気味だったので、あまりうろうろしようという気分にはならなかった。
 十二分に快適な生活を送ることができるようになり、市《シティ》までわざわざ出かけて行って仕事を探そう、という気持ちを私は失ってしまった。アスカとは、市民共用公開端末《オープンコンソール》を使って連絡を取り合っていたが、相変わらず社とのやりとりにも進展はなさそうだった。
 しばらくは、このままの生活でいいか、と私は思い始めていた。もちろん、こんな生活がいつまでも続くはずもなかったのだが、だましだましでもこれで何とかなるうちは、まあいいじゃないかと思ったのだった。
 季節は急速に冬への傾斜を滑り降りて行った。そして、ちょうど降誕祭《ナビダード》のシーズンが訪れたその頃、彼女がやって来た。

 例によって、私と老人は暗闇の中で、オイルフォンデュをつつきながら、ガ州産の大吟醸ライスヴァインで酒盛りの最中だった。いつもながら、通行人は誰一人として、真っ暗なショウ・ウインドウの中になど目を向けようとしない……はずだった。
 ガラスの向こうで佇む人影に気付いたのは、私のほうだった。街灯の光を背にしたその柔らかいラインのシルエットは、どうやら女性のようである。単に歩道に立っているだけなのではないらしい。こちらに向けられた視線を、明らかに感じる。
「ちょっと、静かに」
 楽しげな大声で、戦争中の飛行機械の話を続ける老人に向かって、私は唇に指を当てて見せた。
「どうした? ここからが、いよいよ郵便機大陸横断の佳境に入るんだがな」
 私は黙って、ガラスの向こうを指差した。
「なんだ、客人かね」
 老人はライスヴァインのボトルを抱えて立ち上がると、ガラスの前にふらふらと近寄って行き、人影に向かって話しかけた。
「おい、どうだね。あんたも一杯やるか」
 私は慌てて、老人を押し止めようとした。しかしその時、外の人影が何か言うのが聞こえた。
「おお、楽しいよ。お嬢さんも、そっちのドアからお入り」
 老人は大声でそう言って、入口の扉を指し示した。
「ちょっと、やめて下さい」
 私はさらに慌てて、老人の腕を引っ張る。しかし人影はたちまちに扉のほうへ向かって、早足で歩き始めた。
 きしみ音を立てて、小さな鉄扉が開いた。外の冷気が吹き込み、甘い香りと共に、小柄な若い女性が姿を現した。
「こんばんはー。お邪魔しちゃいます」
 近づいてきた女性は、どうやら少女と呼んだほうが良さそうであった。長い髪を頭の左右で二つ結いにくくり、ごく短いスカートの下に、膝上まであるオーバーニーソックスを履いたその格好は、今時滅多に見かけない、戦争前に流行ったデカダントなスタイルだった。
「良く来たな。まずは一杯、いかがかな」
「あ、これって大吟醸じゃないですか。いただいていいんですか」
「どんどん行きなさい。お得なたっぷりサイズのテン・エイト・ボトルだからな、まだまだいくらでも呑めるとも」
 思いがけない人物の出現に、ぽかんとしている私をよそに、老人と彼女は何だか盛り上がっている。
「おいしい! このお酒」
「ガ州産だよ。何と言っても、醸造アルコールの旨味が違う」
 まあいいか、と何も考えないことにして、私も手元のコップに酒を注いだ。何だか良く分からないが、女の子も楽しそうにしているのだし、老人と二人で辛気臭く飲むよりいいじゃないか。
 どれくらいの時間、酒盛りが続いたのか。気が付くと老人の姿はすでになく、私は謎の少女と二人でカーペットの上に転がっていた。暖房代わりのプラズマ七輪は点いたままだったが、さすがにこれだけでは寒い。私は少女を抱き上げてベッドへと運び、毛布をかけてやった。彼女はひどく酒臭かったが、しかしその匂いと混じり合うように明らかな女の匂いが感じられて、私は思わずうろたえそうになった。外から丸見えのこんな場所で、おかしな行動に及んだりしては大変だ。
 とりあえず落ち着こうと、老人が置いて行ってくれた給湯球体で浴槽をお湯で満たし、湯気で曇ったガラスがさまざまな灯りで複雑な色に染まるのを眺めながら、ゆっくりと時間をかけて入浴した。これですっかり気持ちが落ち着いた私は、ベッドから少し離れたカーペットの上に、掛け布団にくるまって横になった。凍てついた外の風景を眺めながら、体がぽかぽかする心地よさを噛みしめているうちに、私は再び眠りに落ちた。

 世界が、ぐらぐらと揺れているようだった。断続的に、衝撃も走る。そして、頭に何か圧力が加わる。まるで、何かに踏みつけられているような――
 私は、目を開いた。視界に飛び込んできたのは、黒いソックスを履いた足と、その先にすらりと延びた太股、そして白い女性用下着だった。足の先は私の頭の上に載っていて、つまり私は踏まれているのだった。
「あ、やっと起きた」
 彼女はそう言って、足を床に下ろした。短いスカートに隠れて、下着が見えなくなる。
「揺すっても蹴っても全然起きないから、困っちゃったよ」
「……えーと、」
 君は誰だ? と訊こうとして、私は昨夜のことを思い出した。そうだ、この子は。
「ねえ君、変なことしなかったよね? もししてたら、タダじゃ済ませないから」
「こんなところで、できるわけないだろ」
 私はそう言いながら起き上がって、外を見た。ガラスの向こうはもうすっかり明るくなっていて、通行人が当たり前のように歩道を歩いていく。早く外に出ないと、まずい。
 荷物をリュックに詰め直し、私は少女を連れて通りへと出た。お腹が空いたと言うので、私は仕方なくいつものパン屋にあるコーヒー・スタンドへ、彼女を連れていった。お金もないと言うので、私はしぶしぶ二人分の棒パン代を支払った。痛い出費だが、仕方がない。
 君は何者なのか、どこに住んでいるのかと訊いてみたが、わかったのは彼女の名が「スバル」であることと、まだ成人してはいないこと、そして私と同じく家を持たずに放浪しているのだということだけだった。
「あんないい場所、よく見つけたよね。あのデパートのことは良く知ってるけど、ショウ・ウインドウなんて思い付かなかったよ。簡易宿所《ドヤテル》の蚕棚《ベッドラック》とかさ、そんなとこよりずっといいよね。私はお金ないし、そんなとこさえ滅多に泊まれなかったりするけど」
 どうやら彼女、スバルは、旧港の乗船客待合所跡とか、かつて帝都防衛隊が設置した高射砲台の監的哨跡とか、そう言った廃墟系を中心に寝泊まりしているようだった。その割には身綺麗に、デカダントファッションで固めているのが不思議だが、そこだけはこだわって唯一お金をかけているということらしい。収入は、自分で作った詩集を路上で売るのと、あとはあんまり人には言えないような商いで得ている、ということだった。
「変なことしたらタダじゃ済ませない、ってのはそういうこと」
 と彼女はそう言って、あっけらかんと笑ってみせた。特別に美人とは言えない彼女だが、その笑顔の華やかさには、人の心を惹き付けるものがあった。
 特に予定も、行く場所もないというスバルは、私がジャンク屋にバイトに出掛けるのについて来ると言った。彼女と二人で歩くメイン・ストリートは、降誕祭《ナビダード》シーズンに向けた装いに、すっかり衣替えしていた。どの店も、赤いリボンが華やかなリースや、金色の星を誇らしげに輝かせたツリーで飾られ、「フェリース・ナビダード」の文字があふれかえっていた。中には「メリー・クリスマス」や「ジョワイユ・ノエル」、「聖誕節快楽!」といった文字を飾り立てている店もあって、恐らく異国からやって来たのだろう彼ら店主の、ルーツを主張しているようでもあった。
 夜になれば、この通りは様々な色に輝く電飾星《イルミネーション》で彩られるはずだった。若い女性と、そんな通りを歩くのもロマンティックじゃないか、と私は横目で隣を歩くスバルを見た。もっとも、私より十以上若いだろうこの娘にしてみたら、そんなのは冴えないおじさん《チョンガー・イモオジン》の妄想だと肘鉄を食らうかも知れなかったが。
 作業台に向かって機械の修理や組み立てなどを行う老人のそばに陣取って、スバルはその細かい作業をじっと見ていた。そんな二人を横目に、いつものように各種ジャンク類を運んだり、時折訪れる客相手に商品を売り付けたりしているうちに、一日はたちまちに過ぎていった。
 帰り道は、老人と三人になった。残念ながらロマンティックとまでは言えないが、それでも無数の電飾星《イルミネーション》が輝く通りを若い娘と一緒に歩いているというだけで、何となく心が浮き立ってくるような感じがした。スバルも何だか嬉しげに、あちこちのショウ・ウインドウの前で立ち止まっては、中を覗き込んだりしている。結果的に、デパート跡までのそんなに遠くはない道のりを、ずいぶんゆっくりと時間をかけて帰ることになった。
 例によって、鍋物をつつきながらの暗闇での酒盛りが終わると、老人は一人で帰って行った。昨日に引き続きここに泊まることになったスバルと、私はまた二人きりになった。風呂には交代で入ったが、風呂上がりの彼女はシャツ一枚だけの姿で現れ、もしここがこんなに暗くなかったら、私は目のやり場がなくて困ることになっただろう。
 また床の上で寝ようとする私に、ベッドで寝れば、とスバルは言った。
「だって、充分二人で寝られるよ、このベッド。そんなところで寝たら寒いし、せっかくこんないい場所見つけた意味ないじゃない。それじゃ悪いよ」
 少し迷ったが、結局私は彼女と一緒にベッドに入って寝ることにした。確かに、この場所の値打ちはこのベッドにこそあるのだ。床の上で寝るのでは、意味がない。
 こうして私とスバルは同じベッドの上に、二人並んで寝ることになった。間隔は空けたが、それでも体の温もりは伝わってくる。「泊めてもらってるんだし、なんだったら無料でもいいよ」と彼女は言うが、やはりここでそんなことはとてもできそうにない。しばらく悶々とはしたが、そのうちに私は眠ってしまった。

 こうして、私とスバルはこの「部屋」で、二人で暮らすことになった。
 朝が来ると、私は彼女を連れて老人のジャンク屋へと出勤する。私と老人が仕事をしている間、スバルは本を読んだり、ローテーブルの上で詩らしきものを書いたり、気が向けば仕事を手伝ったりした。お昼はみんなで、お決まりのファンデルワースト・サンドイッチを食べる。そして二日に一度は、三人でショウ・ウインドウに集まって、鍋を囲んで酒盛りをするのだった。
 食と住が満たされたせいか、スバルは身体での「商い」のほうは休業しているようだったが、時々メインストリートへ出かけて行って、路上に自分で書いた詩集を並べて売っていた。私も一度読ませてもらったが、残念ながら私には詩心がないらしく、その良し悪しについてはさっぱり判断ができなかった。
 なぜかは分からないが、スバルは旧丸物屋の店内に興味があるらしく、バチェラー燈のカンテラを片手に、しばしば無人の元売場を探検に出かけた。気味が悪いから止めとけよ、と私は言ったのだが、彼女は「大丈夫よ」と取り合わなかった。身の上をほとんど語ろうとはしない彼女だったが、どうやら子供の頃は家族でよくこのデパートに買い物に来たようで、もしかしたら詩人らしく、その思い出の断片を探そうとでもしているのかも知れなかった。
 そんなある日の夕方、その日新たに仕入れたアービトラージ計算尺をジャンク屋の店頭でテストしていた私の前に、良く知った人物が姿を現した。
「よお、やってるな」
 にこやかな顔をしてそこに立っていたのは、アスカだった。シックなセミ・チェスター・ギャルソンコートを着込んだその姿は、失業者のようにはとても見えない。
「良く来てくれたな、こんなところまで」
 私はそう言ってアスカと握手してから、老人に事情を話して、彼をいつものソファーへと案内した。
 老人が仕事を中断してお茶を淹れて来てくれたので、我々三人はアスカを囲んで、しばしティータイムを取ることになった。
 実は、コンソール・キューブ・オペレータの仕事が新たに決まったのだ、とアスカは言った。
「それで、俺ももうあんまり、動けなくなりそうなんだ。あんな逃げ方をした経営陣の連中には心底ムカついてるし、このまま泣き寝入りってのも悔しいんだが……済まない」
 と頭を下げるアスカに、私はあわてて「こちらこそ済まない」と頭を下げ返した。彼らがあの法律事務所だかに掛け合ってくれたおかげで、わずか二千億両《クレジット》程度の額とはいえ、「退職見舞金」がもらえるというところまで話が進んでいた。ここまで頑張ってくれたことに、私はほんとに感謝していた。なにせこちらは何にもしていないのだから、文句などあろうはずもなかった。
 スバルはなぜか、彼のキューブ・オペレータという仕事に強く興味を持ったらしく、根掘り葉掘り質問をしていた。意外なことに、彼女はコンソールについてかなり深い知識を持っているらしく、専門用語だらけの二人の会話は横で聞いていても何がなんだか解らなかった。
「せっかく客人が川を越えてこんな町まで来られたことだし、それに何と言っても今日は降誕祭《ナビダード》前夜でもある。どうだね、今夜は四人でスキヤキ・パーティーというのは」
 と老人がそう言って、停滞保存庫《ステイシス・フリッジ》から、銀色のトレイをうやうやしく取り出してきた。そこには、透き通った脂が今にもとろけそうな、まさに最高級と思えるマーブルド・ストラトビーフの薄切りが並んでいた。アスカを含む残り三人は、一瞬の迷いもなく「賛成」の声を上げた。

          *           *          *

 店を閉めてから、我々は四人揃ってデパート跡へと向かった。外の空気は凍えそうに寒く、時折雪も舞ってはいたが、メイン・ストリートを歩く人々はそんなことはものともしないようだった。みんなそれぞれに幸せそうな顔をして、両手一杯の買い物袋を持って、はしゃいだ声でしゃべり合いながら前夜祭のムードを楽しんでいるようだった。私もついつい自分の懐事情を忘れて、「三博士がやって来た」を景気良く演奏しながら、通りを行ったり来たりしているストリート・アドバタイザー《チンドン屋》に、おひねりを投げてしまったりした。電飾星《イルミネーション》はいつもに増して美しく輝いて見えたし、空を見上げれば済み切った大気の彼方で、本物の星々が模造品に負けじと競うように煌めき合っているのだった。
 いつもと同じく暗闇のショウ・ウインドウも、通りに溢れた光を受けて、普段よりもずっと明るく感じられた。高級肉のスキヤキと、大吟醸ライス・ヴァインとが奏でる味のハーモニーを、我々は心行くまで味わった。スバルがいつの間にか用意していた、これもガ州産らしいミョーガ・ジンジャー・ジュースという飲み物も、刺激的な味が癖になりそうだった。
 こんな楽しい降誕祭は、初めてのような気さえしていた。だから、私は異変には気づかなかった。
 真っ先に気づいたのは、すばやく立ち上がったスバルだったろう。と言うよりも、恐らく彼女は事態を予測していたのだ。
 急に吹き付けた寒風に、驚いて振り替えった私が見たのは、ガラスの真ん中にぽっかりと空いた、大きな穴だった。その向こう側に見える、ナビダードに賑わう町の風景は、なぜか陽炎のように揺らめいていた。
 呆然と立ちすくむ私をよそに、スバルがその穴に向かって何かを投げつけた。青い稲妻が走り、何もなかったはずの場所に、コンバット・スーツに身を固めた三つの人影が突如として姿を現す。私は思わず、息を飲んだ。
――オプティカル・マルチカム!
 それは、光学迷彩技術を用いた、最新の戦闘用強化服だった。戦争中にすでに開発されていたというその技術を復活させたのは千鳥ヶ淵化学会社の技術陣で、市《シティ》の軍警察と取引があった照葉交易も、この最新の装備を取り扱っていた。
 しかし、彼らが身に付けているコンバット・スーツは、私が目にしたことのないタイプだった。第一、いかに最新の光学迷彩であるオプティカル・マルチカムであろうとも、こんな風に風景が完全に透けて見えるというほどの性能はないはずだ。
「みんな、逃げるわ! 来て!」
 スバルの叫び声で、私は我に帰った。何がなんだか分からないが、音もなくガラスに巨大な穴を開けられるような能力を持ったこんな物騒な連中が、仲良く話し合いをしに来たとも思えない。スバルが投げつけた、アーク・グレネードらしき物体の光電放射で連中が足止めされている今のうちに、逃げるべきだ。
 奥の扉を開いて旧店内へと駆け出したスバルの後を追って、私とバッグを担いだ老人、それに完全に巻き込まれた形になってしまったアスカが走り出した。暗闇の中では、スバルが手にしたバチェラー燈ランタンの光だけが頼りだったが、彼女は勝手知ったる様子で、迷宮のように入り組んだ店内を迷いもせずに走り続けた。
 階段を二階分も降り、その先に続く通路も走り抜け、ついに壁に突き当たって行き止まりとなった場所で、彼女はようやく走るのをやめた。
「どうするんだ? ここから。大体、あいつらは何なんだ?」
「その話は、後で」
 スバルはそう言うと、壁に向かって真っ直ぐに手を伸ばした。驚いたことに、彼女の指先は何の抵抗も受けなかったように、壁にめり込んだ。
「あとしばらくの間だけ、ここは通れるの。ちょっと気持ち悪くなるかも知れないけど、大丈夫。私の後について来て」
 彼女はそのまま前に向かって歩き始め、壁の向こう側に消えた。
「有機クラスターコロイド膜の、ダミーウォールだな、これは」
 老人がつぶやく。
「行きましょう。ここまで来たら、もうそうするしか。有機クラスターの毒性など、知れてます」
 アスカがうなずいた。
 まずは老人が、次いでアスカが壁を抜けた。私もおっかなびっくりながら、その壁の向こう側へと足を踏み出した。通過の瞬間だけは、確かに一瞬めまいのようなものを感じたが、抜けてしまえばどうと言うこともなかった。
 壁を越えたその場所は、どうやら妙にただっ広い、がらんとした空間であるらしく、カンテラの淡い光は何も照らし出さなかった。スバルが可変フレネル・レンズのフォーカスを絞って光束を狭めると、円形になった光が、ようやく遥か前方の壁面を照らし出した。そこには、「地下鉄/SUBWAY/帝都高速度交通営団」という文字が、青地に白抜きで書かれていた。
「これは……」
 前方に立っていた老人が、驚いた表情で振り返る。
「そう、ここは戦争前の地下鉄、地面の下を走っていた鉄道の駅跡なんです。昔、丸物屋デパートは、この地下鉄駅と直結していたんです」
 スバルが静かな声で言った。
「そうか、こんな遺構がまだ残っていたか」
 老人が唸る。
「ほとんどの駅は、戦後埋められてしまって、地下鉄の線路は完全に地上とは切り離されました。このデパートは今や数少ない、地下鉄跡への入り口なんです」
「君は、一体……」
 言葉を失った様子のアスカに向かって、彼女は振り返る。
「私は『解読者』の一員です。ごめんなさい、巻き込んでしまって」
「解読者?」今度は私がスバルの顔を見た。「それは何だ?」
「また後で、お話します。今はとにかく、私について来て」
 彼女はうなずくと、短いスカートを翻して前方に向き直り、再び歩き始めた。
 駅の跡は、ほとんど当時のまま手付かずで残されているようだった。何台も並んだ「自動券売機」という見慣れない機械や、その券をチェックするためのものらしい細長い装置が並んだ改札口など、戦争前の貴重な技術がここにはそのまま残されていた。柱に取り付けられた路線図には、さまざまに色分けされた無数の路線が、まるで血管のように絡み合っている様子が描かれていた。
 再度階段を下ってホームに出た我々は、先導するスバルに倣って、そこからレール上に飛び降りた。どうやらここからは、地下鉄の線路跡を歩くらしい。コンクリート製らしい枕木が並び、あちこちに機器類の出っ張りがある線路跡はスバルのカンテラが放つ光だけではひどく歩きにくかった。時々転びそうになりながら、私は必死で前へと歩き続けた。今にも後ろからあの連中が、姿を見せないままで追いかけてくるのではないか、そんな気がした。
 突然スバルが、歌を唄い始めた。どうやら彼女自身が書いたらしいその歌詞は、何とも奇妙なものだった。その声で、我々の居場所が知られてしまう危険性もあるはずだったが、不思議とそういう不安は感じなかった。むしろその歌は、暗闇の中を歩き続ける恐怖感を、和らげてくれるように感じられた。それが果たして彼女の歌声の柔らかさ故なのか、それとも連ねられた言葉の響きによるものなのかは、私にも分からなかった。
 ずいぶんと長い間、我々は歩き続けた。そのうちに次第に目も慣れてきて、暗い中でもそんなに不自由なく線路跡を歩くことができるようになってきた。
 かなりの距離を歩いたはずなのに、いつまで経っても次の駅にたどり着かないのが不思議だったのだが、ようやく姿を現した隣の駅のホームに残されていた駅名標を目にして、私はその理由を理解した。そこは渡守区から、川を渡って市《シティ》側に入った地点、今の名で呼べば田園都市街区《ガーデン・シティ》の最も外れに当たる場所らしかったのだ。つまりこの間、我々はあの大河の下を延々と歩き続けていたのだということになる。
 ホームの上に座り込んで、少しの間だけ休憩を取ってから、我々は再び歩き始めた。
「あともう少しだけ頑張って、ついて来てくださいね」
 とスバルは言ったが、私としては何にせよ彼女について行くしかなかった。恐らくはこの先に出口があるのだろうし、それにあの物騒な連中が待ち伏せしているかも知れないデパート跡に戻るのは、論外だったからだ。
 彼女は歩き続け、歌い続けた。その歌を聞きながら、単調なリズムで両足をただ前に進める私の目に、歌詞の内容そのままの情景が浮かび上がった。
 水底深くから夜空を見上げていた魚が、やがて水面へ向かって上昇を始め、そしてその勢いのままに空へと舞い上がる。彼方にあるはずの楽園を求めて、魚は星々の間をどこまでも進んでいく。

――星の森は凍えた木の國、氷の鍵に閉ざされた庭、鎖を溶かす火の鏝はどこ? その磐箱は六つら星に、六つら星に。

 この歌には、と私は思った。きっと何らかの意味が込められているのだろう。だって我々は今現に、こうして川や地面の底を歩いているのだから。
 彼女の言った「あともう少し」は遠かった。途中でさらに、もう二つの駅を通り過ぎ、我々はなおも前へと進み続けた。もうすでに、日付も変わったことだろう。そんなことを思いながら歩いていた私は、前方の暗闇の硬質感が和らいでいることに、ふと気付いた。ごくわずかだが、明るくなってきている。
 やがてカーブした線路跡の前方に、明るい光がはっきりと見えてきた。どうやらそこが、彼女の目的地であるらしかった。
 いきなり明るい場所に出ると目をやられてしまうから、ということで、我々はゆっくりと目を慣らしながら、先へと進んだ。そこは、出発してから四つ目に当たる駅だった。まるで今でも現役で使われているかのように、真昼の太陽を思わせる白い光で煌々と照らされたそのホームには「千鳥ヶ淵」という駅名標が残されていた。
「そう、ここは」とスバルが言った。「千鳥ヶ淵化学会社本社ビルの真下に当たる場所。あの人たちも、まさか自分たちの足元に、こんなものが残っているなんて、気付いていないわ」
「『あの人たち』って、さっきの連中はもしかして……」
 私は彼女の顔を見た。
「あれは千鳥ヶ淵総本社直属の、特殊工作部隊の人たち。彼らは、私たち『解読者』をずっと監視していたの。そして、私たちがついに何かをつかんだらしいってことを知って、その拠点である丸物屋跡を制圧しに来たんだわ」
「じゃあ何か、僕らはそんなややこしいことになってるのを何も知らずに、そんな場所で寝泊りしたり、宴会をしたりしてたのか」
「驚いたわよ、あなたたちがショウ・ウインドウで酒盛りを始めた時は。危険性はない、物理排除は不要だ、っていう判断はすぐに出たのだけと、店内をあまりうろうろされて、余計なことに気付かれてもまずいって言うので、私が送り込まれることになったの。結局、その心配はなかったみたいだけど」
「それで、君たちの目的というのは果たして何なのかね? 一体何をつかんだというのかね?」
 老人が、静かな声で訊ねる。
「それは、もうすぐ分かります」
 スバルは、ホームから上階へと続く階段を指差した。
「ごめんなさい。全てが終わるまで、あともう少しの間だけ私と一緒に来てください。それから、みなさんを地上へとお連れしますから」
 階段を上り、例の装置が並ぶ改札口を抜けると、その正面には巨大なガラスを用いた扉がいくつも並んだエントランスがあり、扉の上に掲げられた金属製のプレートには「千鳥ヶ淵ホールディングス ヘッドクオータービルディング」の文字があった。いかにも巨大企業集団中枢部の玄関口にふさわしい威容だが、スバルの話からすると、ここは遥か昔に放棄され、封印されていたのだということになる。
 エントランスから中へと入り、天井に並んだ白い灯に煌々と照らされた通路を歩き、今度はまた階段を降りる。この階段は元々、機械動力で自動的に昇降するようになっていて、上に乗った人を移動させることが可能だったらしかった。果たしてどのような仕組みでそんなことが可能なのか、私には見当もつかなかった。
 何階分かを降りたところで、スバルが立ち止まる。
「着きました。ここです」
 そう言って彼女が指差した扉には、「データセンター・情報基盤戦略室」という文字があった。なぜ彼女は、我々をこんなところに連れてきたのだろうか? そう思いながら、私はスバルに続いてその部屋に入った。
 ひどく横長で、狭い部屋だった。正面の壁には三枚の巨大な磁白板《ホワイトボード》が並べられていて、それらの手前には何かの操作盤と思われる、机型の装置がこちらも三組。そしてスイッチやボタンが無数に取り付けられたそれらの装置の前には、男女二人で一組のオペレータらしき人物が座っていた。これだけで部屋はほぼ満杯で、我々四人がそこに入るとかなり狭苦しい感じになった。
 三枚の磁白板には、色とりどりのグラフがいくつも描かれていた。何十色もの磁粉体マジックを使ったらしく、まるで印刷物のように美しく描かれたこれらのグラフは、一体何を意味しているのだろうか。そう思いながら磁白板を眺めていた私は、次の瞬間我が目を疑うことになった。全ての白板が一瞬にして真っ黒になり、描かれていたはずのグラフが消え去ってしまったのだ。代わってそこには、コンソールのコマンドライン画面を思わせる、「READY」の文字と四角いカーソルが現れた。いや、恐らくこいつは、コンソールのディスプレイ装置そのものなのだ。これほどの鮮やかな発色と表示の肌理細かさは、微細な多色表示板《マイクロフリップ》を反転させて表示を行うマイクロフリップディスプレイでは実現不可能なはずで、これもかつての千鳥ヶ淵が持っていた技術によるものなのだろう。
「戻ったか、スバル」
 中央にある操作盤の前に座っていた男が、振り返った。濃いあご髭を生やし、ギョロ目に薄いサングラスを架けたその顔は、人相がいいとはとても言えず、あまり知り合いになりたい感じではない。
「はい、局長」
 スバルが姿勢を正して敬礼する。短いスカートにオーバーニーソックスのその姿には、全くそぐわない動作だ。
「民間人の避難誘導は、完了しました」
「ご苦労」
 その「局長」と呼ばれた人物は、重々しくうなずく。
「いよいよ『プレアデス』は実用流量での稼働段階に入った。間もなく、解読プログラムのデバッグが完了する。完了次第、我々は『ディープ・パープル』の解読作業に入る」
「何だって」
「なんと」
 同時に声を上げたのは、アスカと老人だった。全く話について行けない私は、首をひねるばかりである。
「もうお分かりですね」スバルがうなずいた。「我々は『解読者』。『ディープパープル』の解読により、この世界に自由をもたらすべく結成された、秘密組織です」
「おい、おい」
 驚愕の表情を浮かべているアスカを、私は横からつついた。
「何なんだよ、『ディープ・パープル』って。解読って何のことだよ」
「お前も、知っているだろう」
 この上なく真剣な表情で、アスカは言った。
「今や、この世界における全ての情報は、コンソールと、その親機にあたるキューブ同士の相互情報通信網によって伝達されている。そして、その情報の秘匿性を保証しているのが、原理的に絶対に解読不能な真性乱数保護暗号、『ディープ・パープル』だ。もしこれが破られれば……」
「そうだ」今度は老人がうなずく。「相互情報通信網上のあらゆる情報が、全て公開されてしまうことになる。社会は大混乱に陥るだろう。あんた方は一体……」
「確かに、あなた方のおっしゃるとおりです」
 スバルの声は落ち着いていた。
「しかし、今の情報通信体制には一つ大きな、そして許されるべきでない問題があります。『ディープ・パープル』で保護された情報を、自由に解読できる立場の者たちが存在する、という問題が」
「それは、一体」
 アスカが訊ねる。
「『ディープ・パープル』を作り出した千鳥ヶ淵総本社と、その傘下にある市《シティ》当局です。不可逆キーを持つ彼らは、あらゆる情報を自由に盗み、改竄し、そうやって長い間この世界を支配してきたわ。郡部諸街区《カウンティ》の人々を、まるで踏み台のようにしてね」
「しかし」
 なおも、アスカは食い下がる。
「偽モジュラー函数《プセウドモジュラー・ファンクション》の原理を利用した真性乱数暗号を、不可逆キーなしに解読するということは、つまりは『ファルコンの不能定理』を証明することとイコールのはずだ。そんなことが可能なコンソールなんて、原理的に存在しないはずだ」
「さすがアスカさん、詳しいね」
 スバルは微笑んだ。
「でも、目の前にあるこの装置が、世界でたった一台の『ウルビット・コンソール』なのだとしたら、どう?」
「な、何だってー!」
 またしても、アスカと老人は同時に叫んだ。私はやっぱり取り残される。
「戦争前の千鳥ヶ淵は、密かにこの究極とも言われるコンソール、『プレアデス』の開発に成功していたの。それがなぜ地下深くに封印され、忘れ去られてしまったのかは分からない。でも、現にこうして、それはここにあるの」
「おいおい、おい」
 呆然とした様子のアスカを、私はまた横からつついた。
「お前らいい加減にしろよ、わけわかんないよ」
「分かりやすく説明するとだな」
 と、アスカはしゃべり始めた。しかしその説明は、ちっとも分かりやすくは無かった。
「コンソールが持っている全ての情報は、『ビット』という単位の集まりで出来ている。通常の『古典ビット』は、一つのビットとして1か0のどちらかの数値を持つことが出来る。コンソール・キューブの量子演算装置に使われている『キュービット』は、1と0の状態を重ね合わせてもつことが出来る。そして『ウルビット』、アンリミテッド・ビットは、1と0の間の全ての数値を同時に持つことができるんだ。0.000001でも、0.9999……でも」
「で、それの何がすごいんだ?」
「『ウルビット・コンソール』は、『無限』を扱うことができるんだ。例えば円周率、知ってるな。あれは小数点以下無限に数字の列が連なる無限小数、つまり無理数の一種だが、この『ウルビット・コンソール』は真の円周率を用いて演算を行うことができる。なぜなら、『無限』を扱うことができるからだ」
 これはもう無理だ、と私は思った。到底理解できるような話の中身ではなかった。無理数だけにそりゃ無理だ、と半ば駄洒落で諦めるしかなかった。
「しかし、どういう原理で動いとるのだ、これは」
 老人が興味津々と言った様子で、操作盤をのぞき込む。
「案外、原理は簡単なんです。要するに、演算媒介にホメオパス還元水を用いた流体素子によってアキュムレータを構成している、ベースの技術はそれだけのことなんです」
「液体記憶か。そんな、簡単なことで」
 老人が、驚きの表情を浮かべる。私はもう諦めている。
「おしゃべりはそのくらいにしておけ、スバル」
 振り返った局長が、彼女をギロリとにらむ。
「デバッグ完了率、97%を超えます!」
 局長の隣に座った、ショートヘアの女性オペレータが叫ぶと同時に、前方の三つのディスプレイ装置にバーグラフが写し出される。左側から右に向かって伸びる赤いバーは、急速に「100」の目盛りに近付いていた。私にも、さすがにその意味くらいは理解できる。やがてバーの先端が右端に届き、その色が緑に変わった。
「デバッグ、完了しました」
 女性オペレータがうなずく。
「よし、それでは」
 局長が立ち上がり、五人のオペレータたちを見回した。
「今から、『ディープ・パープル』解読作業に入る。全員、用意はいいな」
「いよいよ、世界にプレゼントを贈る時が来ましたね」
 そう言って瞳を輝かせる隣のオペレータには目もくれず、局長は相変わらずのデナト虫を噛み潰したような顔のままで、コマンドラインモードに切り替わった中央のディスプレイを食い入るように見つめている。
「ポンプ出力、最大へ」
「圧力弁閉鎖、ホメオパス還元水圧力上昇120%」
 オペレータたちが、画面上のパラメータを確認しながら次々と報告を行う。
「『プレアデス』流量最大です。局長、起動コマンドを」
 緊張した面持ちの女性オペレータが、局長の顔を見る。
「ふん」
 徐に腕を伸ばし、局長は操作盤のタイプライターキーボードを叩いた。ディスプレイ画面に、起動キーワードらしい文字列が並ぶ。
[READY / FELIZ NAVIDAD]
 CRキーを叩く「カタン」という音が響くと同時に、三枚のディスプレイ上を、さまざまな色をした無数の帯文字《リボン》たちが、すさまじい速度で流れ始めた。ウルビット・コンソールの全力動作音らしい、獣のうなり声にも似た低い音が部屋を満たす。「解読者」たちが固唾を飲んでその画面を見つめる様子を、私と老人、それにアスカは黙って見守った。
 しばらくすると、帯文字が画面上を流れる勢いが、段々弱まり始めた。その数も十本、五本と段々減少していき、ついにはたった一本の、濃い紫色《ディープ・パープル》をした帯文字が画面上に残された。
「解読、完了しました」
 局長の隣に座ったまま、女性オペレータが、静かに宣言した。
「やったぞ」
「ついに、成功したんだ!」
 オペレータたちが口々に叫びながら立ち上がり、スバルも含めたみんなで互いに握手を交わす様子を、局長は黙って見ていた。
「何だか良く分からないが、歴史的瞬間って奴に立ち会ったってことなのかね、これは」
 私はアスカに言った。
「そういうことになるんだろうな。正直、これで本当に『ディープ・パープル』が解読されたのか、俺にも……」
 とそこまで言って、アスカは「あっ」と声を上げた。
「そうだ、せっかくだし試させてもらおう、解読が本当なのかどうか」
「どうやってだよ」
「スバル、ちょっといいかな」
 アスカは、頬を上気させて仲間と話し込んでいるスバルを呼んだ。
「あ、ごめんなさい。すっかり忘れてたわね。皆さんを、地上へとお送りしないと」
「いや、その前に、実は頼みがあるんだ」
 アスカはにやりと笑った。
「解読の事実を知った口止め料、だと思ってくれてもいい」
 
 ウルビット・コンソール『プレアデス』の操作盤に向かって座ったアスカは、女性オペレータの説明を聞きながら、コマンドラインに次々と単語を打ち込んで行った。アスカは明らかにはしゃいでいて、「夢のコンソール」であるらしい、この『プレアデス』を操作できるのが余程嬉しいのだろう。
 やがて、ディスプレイ画面に、見覚えのあるシンボルマークが表示された。「SYOYO」の文字の上にシイの葉をあしらったそのマークは、照葉交易総本社の社章に間違いなかった。
「アスカ、これはもしかして」
「そうだ。社内コンソール・キューブだ。もし本当に『ディープ・パープル』が解読できたのなら、この入り口に掛けられた保護暗号鍵《キーリボン》を破って、内部に侵入することができるはずなんだ。そうだよね、スバル」
「そうなるわね」
 私の横に立った、スバルがうなずく。
「民間レベルの、スクランブル回転率が低い暗号鍵だから、さっきよりも簡単に解けると思うわ」
 全員が興味深げに見守る中、アスカは解読プログラムを走らせた。再びうなり声を上げ始めた『プレアデス』だったが、今度はすぐに静かになり、ディスプレイ画面には金額らしい数字がずらりと並んだ。
「やったぞ」
 アスカが叫んだ。
「電子金庫への侵入に成功した。馬鹿社長ども、油断したな。まだここに金を置いたままにしてやがる。見てろ」
 CRキーを叩く音が、高らかに響き渡る。
「おい、何をしたんだ?」
 と私は訊いた。
「給与支払サブシステムを、作動させた。たった今、社員全員に残りの給料と規定の退職金が振り込まれた」
「本当か!」
 私は思わず、傍らのスバルを抱きしめていた。

          *           *          *

 私と老人、それにアスカは、スバルの先導で再び地下鉄の線路跡を歩いていた。千鳥ヶ淵駅から先のトンネル内はもはや暗闇ではなく、弱々しい光ながらもラドン燈管による照明が設置されていた。私の頬はまだひりひりしていて、スバルがいかに渾身の力で私を引っ叩いたかが良く分かった。
「それにしても、だな」
 と老人が言った。
「どうしてまた、我々をあの場に立ち合わせたのだね。我々を避難させるだけなら、どこかで待たせておけば良かったと思うが」
「真性乱数保護暗号が解読されたという事実は、いずれは知られて行くことだとしても、しばらくは伏せておく必要があるわ。この偉業を成し遂げたということを、誰にも知ってもらうことはできない。暗号解読者の宿命ね。だからせめてその瞬間だけでも、誰か立ち会ってくれる人がいて欲しかったの。それがたまたま、あなた方だったということね」
「もし、我々が誰かにしゃべったりしたら?」
 私は訊いた。
「大丈夫、そんなことはできないの。ちゃんと口止め料もあげたはずだしね」
 スバルは微笑んだ。

 スバルが教えてくれた、地下鉄跡からの最後の出口はなかなかの難所だった。点検用として使われていたらしい煙突のような縦穴を、ひたすら鉄梯子をよじ登って、地上へとたどり着かなければならなかったのだ。
 薄暗いの中、錆だらけでギシギシ言う梯子を上るのは大変だったが、もっと困ったのは私の真上を登っているのがスバルだったということで、短いスカートの中が丸見えだったのだ。じろじろ見るのもはばかられるので、俯いたり視線をそらしたりしながら登ることになり、余分な負担がかかることになった。
 そうやって上を見ないようにしていたせいもあって、私はそのアクシデントを避けそこなうことになった。足を滑らせて梯子を踏み外したスバルの靴底に、額をもろに直撃されてしまったのである。危うく私は、鉄梯子から転落するところだった。彼女の一撃を受けたその瞬間、私の全身を電流のようなものが走り、全身の力が抜けそうになったのだ。スカートの中、彼女の白い下着のその彼方に、私は銀河を見たのだった。
 ようやく登り切った我々がたどり着いたのは、何やら古びた機械類がぎっしりと詰まった小屋の中だった。出口の扉をそっと開いて周囲を確認してから「大丈夫」と合図してくれたスバルに続いて、私は外へと出た。
 驚いたことに、そこは市《シティ》都心繁華街のど真ん中、大通りが交差する十字路の一角だった。振り返ると、市当局の名前が記された小さな石造りの小屋が歩道の上に立っていて、まさかこんなところに地下遺跡への入り口があるとは、誰も思わないだろう。
 交差点の四つの角には、見上げるばかりの巨大な高層ビルがそびえ立っていて、それぞれが壁面に飾られたイルミネーションを競い合っていた。もう夜明けも近づいているはずだったが、まだ日が昇ってくる気配はなく、星やツリー、それに聖ニコラウスの肖像が夜空に浮かび上がって輝いているのだった。
 この巨大な町の足元で、と私は思った。全てを覆す地殻変動が、今まさに起きようとしているのだ。そう、あれがああなって……。
 おや、何だっただろう。何か、とてつもないことが始まろうとしているはずなのだったが。まあ、いい。それは私にとって、決して悪いことではなかったはずなのだから。
「それじゃ、みなさん」とスバルは言った。「私は仲間のところへ戻ります。ここで、お別れね。またいつか、どこかでお会いしましょう」
「ああ、それじゃな」
「元気でな、スバル」
「楽しかったよ。また会おう!」
 私と老人、それにアスカが、口々に彼女への別れの言葉を告げた。
「じゃあね。良いナビダードを!」
 スバルはそう言って我々に投げキッスをして見せると、短いスカートを翻してくるりと振り返り、小屋に向かって歩き始めた。その後ろ姿に向かって、我々も叫ぶ。聖なる夜の、祝いの言葉を。
「フェリース・ナビダード!」

(了)

2021/12/18(Sat)11:05:47 公開 / 天野橋立
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■作者からのメッセージ
今や某所で大シリーズに発展した「市《シティ》」を舞台としたお話の第一作、2013年に投稿しましたが、その後ネット上からは消していたので、久々に復活させてみました。自作としては、最も高次の選考まで進んだ作品となりました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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