『木石の夢』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:なまくら太郎                

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 蛍光灯の明かりもどこか暗く感じる築六十年、年老いた木造の教室。窓から見える空には、重い雲が落ちてくるんじゃないかというほどの寂しい暗さをもって校庭に大粒の雨を降らせている。時折聞こえる遠雷の響きが、私の枯れた心をさわさわとなでる。
「ああ……、この感覚、この感覚が心地いい」
 生徒が必死に板書を書き写すペンを走らせる音、てんで勉強には興味がなく、友人との雑談に花を咲かせる声。まるで空が溶け出したような雨音の中では、それらもどこか遠くの出来事のように思えて、郷愁にも似た思いが頭を埋める……。

 ――と、詩的な表現でごまかしてはいるが、とどのつまり私は生徒の動向にさして興味がないのだ。それよりも、何気ない自然の出来事のほうがまだ私の心を動かしてくれる。六年間働いていた民間企業を辞め、中学校の教職に就き八年。昭和生まれの私の「教職」に対する幻想は、平成生まれの波にいともたやすくへし折られ、令和に入るとすでに一種の悟りの境地に達した。熱心な先人たちは「行き過ぎた指導」や「言葉による体罰」とやらで次々に戦場に倒れ、かつては援護射撃であった保護者の視線は、いまや教師の脳天にピンポイントで打ち込まれる精密狙撃となって突き刺さる。
 今ではありふれた景色であるが、現代ではいわゆる「不良」と呼ばれる生徒の保護者ですらそうなのである。少なくとも私が中学生や高校生だった時代は、不良の親の肝っ玉もある意味据わっていた。「成績が悪くたって喧嘩が強けりゃいいんだ、わっはっは」と豪快さがあった。だが、今は服装や生活態度などは目をつぶるように訴え、そのくせ内申点が低いとクレームをつける、およそ違う文化圏にきてしまったのではないかと己の目と耳を疑う。深夜家出したから探してくれ、万引きしたから謝りに行ってくれ、携帯電話で生徒同士のトラブルが起こったので先生、解決してください。そもそも学校は携帯電話の所持は許可していない。仕事量はどんどん増える一方、教員の残業代は固定で月一万二千円程度、残業時間は月百時間前後だったらかなりましな方。新年度の始まる一学期、学年の最後の三学期は軽く月百七十時間を軽く超える。ブラックと言われている企業もぜひこの残業代使い放題定額制を導入すべきである。サービス残業は違法であるが、定額制にすれば公務員と同じクリーンな給与体系なのである。
 それでも聖職という言葉と使命感に後押しされて踏みとどまった。しかし、それも数年前ある新任の若者が退職をした時に、その最後の砦も音を立てて崩れ落ちた。その教師は学生時代から陸上をやってきた体格のいいさわやかな性格の青年であった。しかし、生徒の行動を注意した際、その生徒が逆上し暴力をふるったのである。もちろん、体格差もあり、取り押さえようと思えば取り押さえられたかもかもしれないが、その青年の優しい性格と、近年の教職に対する視線の厳しさが災いし、青年は手を挙げることも力づくで取り押さえることもなく、その生徒が落ち着き、ほかの生徒や周囲に危害が及ばないように、応援の教員が来るまで数十分間甘んじてその暴力を受け止めた。その後、その若者の殴られ続けた胸を見ると紫色に腫れあがり、肋骨にひびが入っていた。中学生とはいえ力の加減なく同じ個所を幾度となく殴られれば当然のことだろう。だが、問題はこの後である。青年に投げかけられた管理職からの言葉は「指導力や方法」「訴えても良いが、生徒の将来のことをまず考えてからどうするかよく考えてほしい」この話をその青年から聞いたとき、私は「無」になることを心に固く誓った。

 退屈で乾燥した授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。昔も今もこの音色のもたらす(――終わりに限ってではあるが)安堵感だけは変わらない。チャイムのリズムに生徒の開放感あふれる吐息が重なる。心の中で私も生徒よりも大きな吐息を出しているが、それはそれ。終礼を待っていても誰もかけないことは百も承知なので、率先して私が終礼をかける。
「はいこれで五時間目の社会を終わります。はい姿勢、礼」
 そう早口で言い終えるとそそくさと荷物をまとめて教室を出る準備を始める。すでに終礼が完全に終わる前に数名の生徒が廊下に飛び出して騒いでいるが、あえて気にしない。気にしたら負け……いや、面倒なのである。手についたチョークの粉の固い薄力粉のようなさわさわと気持ちが悪い、早く職員室に行って手を洗わなければ――。
「……せ、先生……」
 蚊の鳴くような声だったが、私はその声にドキリとして、危うくしまいかけたチョークを落としてしまいそうになった。急に声をかけられて驚いたからではない。「また何かもめ事を持ってきやがったのか? 」という面倒くささから走った緊張のためである。そちらのほうに視線だけ送ると一人の男子生徒がおどおどとした様子でこちらを窺っていた。
 ――名前は何と言ったか……正直三百人近い生徒を相手にしているのだ。自慢ではないがよほど優秀な生徒か問題児以外は自信をもって名前を呼べる生徒の数は少ない。特にこんな小柄で目にかかるまで髪を伸ばしていること以外、特に特徴のない生徒の名前を憶えていれば、それこそ奇跡である。私は一瞬胸元の刺繍に目を走らせ、さも以前から知っていたかのように声をかける。
「おー、田中。どうした? 」
 正直、どの田中かはわからない。ただ、田中の刺繍があるのできっとこいつは田中だ。田中は、何かを言い淀んだ様子でまごまごしている。この姿に短い空き時間を潰されることも相まって軽いいら立ちを覚えたが、そこは教師という鎧をまとっている。早く職員室に戻りたいという気持ちは一切顔に出さず、笑顔で田中を見つめる。すると暫くして田中が再び口を開いた。
「……先生、タイムスリップってどうやったらできるんですか? 」
「は? 」
 思わず真顔で返してしまった。
「タイムスリップ……どうやったらできるんですか? 」
 周囲の喧騒をよそに、私の耳にはやけに遠雷と外のたたきつけるような雨音が大きく聞こえた。

2020/07/28(Tue)01:26:41 公開 / なまくら太郎
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