『猫も興奮』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:中村ケイタロウ                

     あらすじ・作品紹介
短編恋愛小説です。完結しております。

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 人文科学的研究は社会にとって有用かとか、人文科学的教養は人生において意義があるかとか、そんな観念的な議論は脇においておくとして、僕の人生にとって人文科学の価値はどうなのかと問われれば、これはもうためらいなく「猫よりも遥かに役立たず」と答えるしかない。だって、三十を前にした健康な男が、いまだに定職にもつけず、彼女もできず、24区内とは思えない程どの駅からも遠い昭和感漂うアパートで一匹の黒猫だけをパートナーに貧窮生活を送っているのは、他でもない、この人文科学という壮大な徒労に10年近い歳月を投資してしまったせいなのだから。
 郷里ではそこそこ名の通った公立大学の文学部を出て、都会の中堅私大の大学院に入り、修士を取り、博士も取り(子供の頃にアニメで見た「博士」たちとの、何たる違い!)、気がついてみれば、このご時世に専任の仕事なんてやすやすと見つかるわけもなく、大学での仕事は週に一度の講義、しかも専門違いの「日本文学論」を三流大学で教えるだけ。あとは学習塾で中学生のガキどもの相手。「非常勤講師」なんて字面はもっともらしいけど、要するに体のいいフリーターなのだ。
 大学の講義では、学生のほぼ全員が熟睡するか携帯電話をいじっているのだけど、何もしないわけにも行かず、九十分しゃべり続ける。何をしゃべっても、でたらめを話しても、誰も聞いてないから問題はない。だから楽かというと、そうではない。純粋に無駄な行為というのは魂のレベルで人を疲労させるものなのだ。
 大学の講義は午前中だから、明るいうちに部屋に帰って呆然と畳に寝転がる。といっても、六畳間の容積の大半は本の山によって占められているから、手足を広げるようなことは無理だ。
 横になって「うがー」などと人生の不毛をなげいていると、書物の堆積の上から黒い影がすとんと飛び降りてきて、僕の肘に頭をこすりつけた。
「うがー」
「うにゃー」
「うがー」
「うにゃー」
 そんなやり取りを何度か続けるのが、僕と黒猫ベンヤミンの日課だった。ディスカウントストアで買ったキャットフードを出してやると、こりこりと音を立てて食べ、やがて僕の傍らで丸くなる。僕はおもむろに、ギアーツの『二つのイスラーム社会――モロッコとインドネシア』を寝転がったままで山の上から取り、ベージを開く。僕の目下の興味は日本文学には無いのだ。今の僕にとっての関心事は、アニミズム的風土における普遍主義の変容と、しずか先生だけだ。


   2


 しずか先生というのは、僕のバイト先の小さな学習塾に3か月前から新しく入ってきたアルバイト講師なんだけど、数少ない国語担当教師で、同じ曜日にシフトに入っていることから、自然と僕が教育係のようになっていた。
 名前は田中しずかというのだけど、田中という講師が他にいたので、「しずか先生」と呼ばれていた。先生と言っても私立大学の一年生で、まだ19歳だということだった。
 若いのは確かだけど、僕と変わらないくらい身長があって、スーツに包んだ身体は細くてもかっちりしていたから、齢の割には子供っぽく見えなかったけど、僕が何か教えてあげたときに「そうなんですか!」とか「分かりました!」とか言って見せる素朴で明るい表情は、いつも気だるそうな生徒たち以上に幼く見える瞬間もあった。
 授業が終わると、事務室でしずか先生はよく僕の隣の席に座り、採点なんかの雑務をしながら話をした。単に人見知りで他の講師と話しにくいだけなのかもしれないけど、先生先生と言って僕にばかり話しかけ、生徒指導のことや、漢字や文法のことや、読むべき本のことなど、いろいろ相談してくる。しかも話しながら僕の目をのぞき込むみたいにじっと顔を見る癖があり、普通の女性と比べて妙に距離が近い。何か身につけているのか、シャンプーやボディーソープの匂いなのか、あるいは彼女のもともとの体臭なのか分からないけど、ちょっとトロピカルフルーツに似た、ほとんど脊髄反射で手を伸ばしたくなるような香りがした。もちろんそんなことはおくびにも出さず、僕が優しい先輩としての役割を懸命に果たすと、彼女はこくこくと強くうなずいて、「ありがとうございます、先生!」とか「すごい。先生って何でもご存じなんですね!」と、尊敬のまなざしで言うのだ。
 とにかく僕は彼女が来てから、以前は面倒なだけだったこの職場に週2回行くのが楽しみでしかたがなくなっていた。他のバイト講師のみんなからも生徒たちからも、「しずか先生は可愛い」といった声は特に聞こえなかったし、正直最初は僕もそう思わなかったのだけど、日が経つにつれて、一重の小さな目で顎の小さい彼女の顔がどんどん可愛く見えてきて、これはいかん、スタンダールの言う「ザルツブルグの小枝」というやつだ、俺は急速に客観性を失いつつあるぞ、と思ってもどうしようもなく、夜中の部屋でぼんやりして、お腹に乗った黒猫ベンヤミンを撫でながら「しずか先生……」とつぶやいている自分に気づくに至って、これはもう本格的だと認めざるを得なかった。


   3


「先生、わたしちょっと、先生に相談したいことがあって」
 隣に座ったしずか先生が、上半身をこちらにぐっと傾けて、アルトの声をひそめてそう言ったのは、授業が終わって生徒たちの作文の添削をしているときだった。
「相談? うん。なに?」
「今ここではちょっと……」
 たったこれだけのやりとりで「うれしい」を通り越して「しあわせ」を感じてしまうのだから我ながら情けないけど、僕はもう有頂天になりかけていた。しずか先生が僕のことを好きなのかもしれないなどとは決して思わなかった。いやちょっと思った。でもまさかそんなわけがないとも思った。あり得ないと言い切るのは非論理的だとも思った。どちらにしても、人並み外れて自信の無い僕にとっては、自分が彼女に嫌われていないという兆候だけで幸せだった。
 しずか先生はそのあと別のバイトがあるとかで、来週の同じ曜日にどこかで話す約束をして早めに帰った。
 アパートに帰ると本の谷間に仰向けに身を埋めて僕は「うひょー」と叫んだ。本当にこの仮名表記の通り、「うひょー」と叫んだのだ。黒猫ベンヤミンが下りてきて僕の胸に乗った。
「うひょー」
「うにゃー」
「うひょー」
「うにゅ…」
 手足をばたばたさせると黒猫ベンヤミンは辞書の山の上に跳び上がり、名前の通りウォルター・ベンヤミンによく似た顔をして、グリーンの瞳で怪訝そうに僕を見下ろした。
 そんな名前だけど、黒猫ベンヤミンはオスではなかった。
 まだ修士課程の頃に、側溝に落ちてみゃーみゃー鳴いていたところを助け出したのが縁で、契約違反と知ってはいたけど、僕はこの猫をそのまま部屋に住まわせつづけていた。最初はオスかメスかわからずに名前をつけたのだけど、獣医に連れて行ったときに「女の子ですよ」と言われた。栄養不足の子猫はたちまち成長し、猫としてはそろそろ初老の域に差し掛かっていたけれど、その間僕はずっと一人で、親しい女友達さえおらず、僕が触れたり撫でたり抱いたりした「女性」はこの猫だけだった。
 狭い部屋で始終一緒だから、互いの気持ちはある程度理解できるようになっていた。いや、それはもちろんウィトゲンシュタイン言うところの「語り得ないこと」であり、猫に人間と同じような意味での「気持ち」が存在するかどうか分かるはずもないのだけれど、実感としてそういう風に感じていたのだから僕にとっては同じことだったし、黒猫ベンヤミンの方もそう考えているに違いなかった。
「うがー」
「うにゃー」
「しずか先生……」
「はい、先生! なんですか?」
 というしずか先生の元気な声が今ここで聞こえるはずもなく、黒猫ベンヤミンは長いしっぽだけを見せてどこか奥の方へ消えて行った。
 我ながら気持ち悪いなあ、と我に返って身体を起こした時、メールの着信音が鳴った。瞬速で携帯を掴み取って画面を開き、僕は燦然と輝く文字列を目にした。何かが通じ合ったのだとしか思えなかった。

 [田中静香 Shizkatan96@royalmail.com sub:今バイト終わりました!]

 本文は、今日は突然すみませんでした、先生以外に相手が思いつかないので迷惑でなければ相談に乗っていただけませんか、来週の帰りに喫茶店かどこかでお話しさせてください、お礼にケーキでもごちそうします、といった内容で、それにケーキやコーヒーやパフェの絵文字が山ほどくっついていた。
「ヤバい、ヤバいよこれ。うがー」
 高等教育を受けたとも思えない言語で僕がわめくと、どこか見えないところで黒猫ベンヤミンが「うにゃー」と答えた。


    4


 それから一週間、僕は数えきれないほどの失敗をした。大学の教室でプロジェクターをぶっ壊したし、キャットフードに牛乳をかけて三口食べるまで気づかなかったし、駅の女子トイレに入ろうとして女子高生にじゃがりこを投げつけられたし、しずか先生のメールのエクリチュールの無意識の含意をポスト構造主義的手法であれこれ分析しながら、気づくと地下鉄を三往復していた。
 そして約束の日が来た。
 授業と採点が終わったのは夜八時ごろだったけど、とりあえず喫茶店に行こうということになり、僕は勝手にその後の夕食のことなんかを考えつつ、話しやすい店があるからと言って、駅とは反対方向の全国チェーンのコーヒーショップにしずか先生を連れて行った。
 考えてみれば、並んで外を歩くのは初めてで、ともすれば上がり過ぎになるテンションを慎重に押さえながらしゃべっていたのだけれど、途中で通りかかったペットショップの店先で耳折れ猫を見つけてぱっと無邪気な表情を見せ、「あっ、かわいい!」と言ったしずか先生に、僕は極力何気なさを装って「しずか先生、猫は好き?」と尋ねた。
「はい。子供の頃から大好きなんです」
「そうなんだ。僕も猫飼ってるけど。黒猫」
「わー、そうなんですか。いいなあー。黒猫ちゃんって可愛いですよね!」
 ここに至って僕はいったん口を閉じ、しばらくただにこにこしていることにした。しゃべりつづけていると異常なハイテンションになってしまいそうだった。
 しずか先生の相談というのは、大学院進学のことだった。彼女は古文が好きで、国文学の研究をしたがっていた。ただ、話を聞いているとまだまだ専門性といえるほどのものは無く、「伊勢物語」や「更級日記」や「とりかえばや」といったテクストを、情緒的に、(言葉の通俗的な意味において)ロマンチックに好んでいるだけで、そんなところもたまらなく可愛いと僕は思ったけど、そういう考え方はまあジェンダー論的にいささかアレだからそれはともかく、大学二、三年でもう少し専門性を身に着けてみなければ何とも言えないというのが僕の印象だった。
「それに、文学の研究は、文学への愛情とはまた違うところにあるものだし。分析するということは、客観的にバラバラにするっていうことでしょ。解剖に似たところがあるんだ」
「はい、先生、それは分かってます。もっと知りたい、っていう気持ちがあるんです」
「でもさ、しずか先生まだ学部一年だよね。あと一年くらい、ゆっくり考えたら?」
「そうですね……。一年くらいかけて考えてみます。その間に、またときどき相談に乗っていただけますか?」
「もちろん」
 彼女に必要なのは客観的な方法論の基礎なのだろうと思い、僕は言語学関連の何冊かの本の名前を教えてあげた。ソシュールとか、チョムスキーとか、レヴィ・ストロースとかウィトゲンシュタインとかの入門書で、文庫版や新書版で手に入りやすいものを選んだ。しずか先生は食べかけのパフェを傍らに置いて、小さな字で手帳に一生懸命メモしていた。少し背中を丸めてうつむいていたので、スーツの襟とブラウスの間が浮いて、白いブラウスの下の、平らな胸に着けている何かの形がうっすらと見えた。
 僕は軽く眼を閉じ、深呼吸して言った。
「ほとんどはうちにある本だから、貸してあげてもいいんだけど」
「ほんとですか?」 
「部屋はすぐ近くなんだけど」
 顔を上げたしずか先生の瞳がきらきら輝き、薄い唇はどうみても、こみ上げてくる笑みを抑えている表情に見えた。もう僕の主観なんだか客観なんだか分からない。でも言わずにはいられなかった。
「よかったら、寄っていく?」
「黒猫ちゃんに会えますか?」


   5


 パンプスを脱ぐしずか先生の背中の後ろでスチールのドアがバターンと閉まり、ちょっとびっくりした彼女は照れ臭そうに首をすくめた。部屋はいつもどおりひどく散らかっていたけど、ドアの外で待ってもらうのも気の毒だから仕方が無かった。
「すごーい。本ばっかり」
「本屋の倉庫みたいでしょ。ちょっと待ってて。いま本さがすから」
「はーい、先生」
 とはいえ座る場所なんかろくになく、しずか先生は鞄を抱いて、靴脱ぎから上がったところに立ち、首を伸ばして部屋の奥をのぞき込むように何かを探していた。
「うにゃーあ?」
 いつもと違う鳴き声で、黒猫ベンヤミンが本の陰から現れてしずか先生を迎えた。
「黒猫ちゃーん!」
「うにゅおあぁお」
 黒猫ベンヤミンはしずか先生に駆け寄り、足元をぐるぐる回って、ストッキングのふくらはぎに頬と横腹をこすりつけた。
「現金なやつだな。いつもと全然違う態度だよ」
「そうなんですか?」
「大歓迎してるよ。女の子がこんなに好きだなんて知らなかった」
 黒猫ベンヤミンがしっぽを立て「うにゅおおあ」とか「ぬぃやああおうん」とか鳴きながらしずか先生にまとわりつくので、なんだか気になってなかなか本が見つからなかった。やがて本の山に上がった黒猫ベンヤミンは、「ういゃぬゃああご」と言ってジャンプし、しずか先生の肩に跳び乗り、彼女の頬や顔に身体をこすり付けた。
「うわー。やめてーくすぐったーい」としずか先生は嬉しそうに言いながら黒猫ベンヤミンの背中やしっぽを撫でた。猫はさらに調子づいて、しずか先生の頬を舐め、髪のにおいをくんくんと嗅ぎ、耳まで舐めはじめた。
「きゃあー」
 しずか先生は笑っていたけど、ピアスを噛んだら危ないし、いい加減にやめさせなければと思い、僕は本探しを中断して黒猫の胴に手を伸ばした。
「やめろよ黒猫ベンヤミン。しずか先生嫌がってるだろ」
 でも僕の手は左後ろ脚の猫キックで足蹴にされた。黒猫ベンヤミンはしずか先生のスーツの襟から鼻先を突っ込み、前足を出して、胸元にもぐりこもうと試み始めた。
「バカ。よせって」
 僕は黒猫ベンヤミンの両脇の下に手を入れて、胴を捕まえた。と思ったその時、しずか先生のスーツの襟に後ろ足の爪を引っ掛けた猫が身をくねらせて暴れ、僕の手の甲は、彼女のブラウスの胸にぐいっと強く押し付けられた。
「あっ、ごめん」
 僕が反射的に手を引くと、猫は床に飛び降りた。
 ほとんどぺったんこに近いしずか先生の胸の、それでも何か柔らかいものの感触が、僕の頭を生暖かい血のようなもので満たした。しずか先生は上着の胸元をなおしながら、上目でちらっと僕の顔を見た。泣きそうな目で、顔中が真っ赤に染まっていた。もう何でもいい。見る前に跳べだ。Motion Creates Emotionだ。どうにでもなれ。僕はしずか先生の両肩を掴み、引き寄せた。ほとんど力を籠めなくても、しずか先生は僕の方に倒れてきた。黒猫ベンヤミンはまだ彼女のストッキングにすりすりを続けていた。トロピカルフルーツの香りに、僕も猫も興奮していたけれど、僕も彼女ももう猫を見てはいなかった。ほとんど背丈が同じだから、彼女の顔は、僕の胸ではなく肩にあった。頬と頬が軽く触れ、彼女の頬が濡れているのに気付いた。
 僕の耳のすぐそばで、「先生?」と、ほとんど聞こえないような声で彼女は言った。
「ごめん、しずか先生、僕は……」
「先生、ごめんなさい、こんなことして」
「君は何もしてないよ」
「わたし、先生が好きです」
 ああ、これが「人生」なんだ、と僕は思った。これが「世界」なんだ。これが「意味」なんだ。これが「語り得ないもの」なんだ。すべての書物は、このことについて書かれていたんだ。そうなんだ。うがー。
「うにゃー」と黒猫ベンヤミンが鳴いた。
「先生、でもわたし、普通の女の子じゃないんです」
「普通? 普通とか普通じゃないとか、そんなこと」
 しずか先生の唇をふさいで黙らせようとして、本当にいいのかと僕がためらった一瞬の間に、彼女は言った。はっきりと、叫ぶような、悲痛な声で。
「先生だめ。わたし、男の子なんです。ごめんなさい。男だったんです、去年まで」


   6


 それ自体は珍しい話でもなんでもない。思春期を迎えるころから自分の性別に違和感を覚えて云々という、現代では当たり前になりつつあるライフヒストリーだ。中学、高校までは男の子の制服を着て歯を食いしばっていたけれど、遠くの大学に入ったのを機に女性の服を着て、女性として生きるようになったという物語。しかしそれがこんな形で僕の前で起こるなんて、今まで考えたことも無かった。
 畳にぺたんと座り込んでしくしくと泣き続ける彼女に、僕は紅茶を入れてやった。言われてみればそうなのかもしれないけど、彼女はやはり女の子にしか見えなかったし、僕から見て可愛いことに変わりは無かったし、泣いている姿には胸を掻き立てられるものがあった。黒猫ベンヤミンは彼女の膝に上り込んで、ごろごろと喉を鳴らしていた。思えば黒猫ベンヤミンも「女性」だった。
「今までも男の人を好きになったことはありました」と、猫を撫でながら彼女は話してくれた。男の子のかっこうをしている限り、彼女の思いが届くことはなかったし、男の子としての彼女を愛そうとした男性もいたらしいけど、それは彼女の望むことではなかった。
「今度こそ、って思ったんです。先生、なんでも知ってて、優しくて……」
 もちろん僕はそんな人間ではないから、彼女は彼女で初めての恋がうまく行きそうだという感情の波に呑まれて幻想を見ていたのだろう。それはそれで嬉しい。恋とは常にそういうものだ(そういうものなのだろうと思う。実はよく知らないけど)
「でも、こういうことになったら、つまり、そういうことになっちゃったら、本当のことが分かっちゃうと思って。それで先生を裏切っちゃうことになって、最後の最後に拒絶されるよりは、と思って、わたし……ごめんなさい」
 しずか先生の話を理解することはできたし、彼女を傷つけるつもりもなかったし、裏切られたという気持ちもなかった。ただただ事態が僕のキャパをオーバーしていた。かろうじて働いていたのは、とにかく彼女に優しくしなければという気持ちだけだった。僕は彼女の背中をぽんぽんと叩き、タオルで涙をふいてあげた。「うにゃーおうぃぃ」と黒猫ベンヤミンが鳴いた。僕だって泣きたかったけどそれだけはいけないと思った。
「しずか先生」
「はい……」
 何か言うべきだと思ったのだけど、こんな時にどう言えばいいのか僕には分からず、僕自身が何度も言われてきた言葉がこぼれ出てしまった。
「しずか先生、ずっと友達でいてくれる?」


   7


 お話はそれで終わりだ。本は二、三冊だけ見つかったので、しずか先生に渡した。「先生ありがとうございます」と、深々と頭を下げた彼女は、まだ赤い目をしていた。
「あとの本はまた探しとくよ。返すのはいつでもいいから」
「ごめんなさい。ありがとうございます。ほんとに」
 ドアの前で、もう靴を履き、鞄を手にしていたのだけれど、しずか先生はじっと僕の顔を見つめたまま、なかなか立ち去ろうとしなかった。気まずさはあったけど、ただどうすればいいか分からないだけで、早く帰ってほしいなんて全然思っていなかったから、精一杯温かい微笑みを作って僕も彼女を見つめた。黒猫ベンヤミンも彼女と離れたくはないようで、足元をぐるぐる回りながら「うにゃーご」「んにゃご」などとつぶやいていた。
 やがて、意を決したようにしずか先生は言った。
「先生、ひとつだけお願いです」
「何?」
「一度だけ、ハグしてください」
 彼女が「ハグ」という洋語を使ったのは、照れだったのか、僕に嫌悪感を持たせたくないと思ったのか、僕の嫌悪感によって傷つきたくないと思ったのか、おそらくその全部なのだろうけど、僕にとってそれは彼女の僕への気遣いだと思えた。僕はなるべく何気なく、明るく「いいよ」と答えて彼女に歩み寄り、両腕でしっかりと抱きしめた。
 僕の耳元で彼女が息をのむのが聞こえた。しばらくの間、じっと唇を噛んで何かに耐えているようだったけど、やがて彼女も僕の背中に腕を回してぎゅっとしめつけた。下腹部の違和感(あけすけな言いかたはしたくないけれど、硬いものと硬いものが当たっていた)はともかく、嫌悪感も失望感も無く、トロピカルフルーツに似た良い香りは胸に心地よかった。
「しずか先生って、香水か何かつけてるの?」
「……なにもつけてません」
「でもいい匂いがするよ」
 男とは思えない、と言いそうになったけどもちろん言わなかった。でも彼女にはそれが分かったみたいだった。


   8


 僕を振った女の子たちと違って、僕はうそつきではない。
 二人とも塾でのバイトは続いているし、僕としずか先生は友達として、もう2年以上付き合い続けている。仕事や研究計画のためのアドバイスだけでなく、一緒に買い物や映画に行ったりもするようになった。異性の友達としての距離をとっているので、泊まりの旅行なんかには行かない。最近、何をどうしたのか、急に胸が大きくなったので、僕は「しずか先生らしくないよ」と言っているのだけど、彼女は「わたしのこと好きになってもいいんですよ」とか「もうほとんど違和感ないと思うんだけどな」などと、胸の痛む冗談を言う。そんな時には僕は彼女を大切にしようと思う。僕の目には彼女は今でも可愛い。
 黒猫ベンヤミンは歳を取ってきたけれど、今も元気だ。
「うがー」
「うにゃー」
「うがー」
「うにゃー」
 の日課も続いている。しずか先生はあれから部屋に来たことが無いので、あの時みたいに興奮しているところはあれ以来見たことが無い。いつかまた、こだわりもわだかまりも胸の痛みも無く、しずか先生を部屋に招くことができればと思う。その時には、黒猫ベンヤミンも、彼女に思う存分遊んでもらえばいい。



(了)

2016/05/14(Sat)14:50:56 公開 / 中村ケイタロウ
■この作品の著作権は中村ケイタロウさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
・「猫も興奮」! なんて素敵なタイトルだろう! ということで、真似っこさせていただきました。スピードが命! ということで、昨日の晩に書き始めて、今(お昼過ぎ)完成という、僕にしては超速度で書きました。ほぼゼロ推敲ですので、文章の粗さはご勘弁ください。(5/14)

・脱字があった…。脱字はさすがにまずいのでこっそり修正(5/14)

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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