『プラティズレコード プロローグ〜セレン〜&第一章〜ルーチェ〜』 ... ジャンル:ファンタジー 異世界
作者:荒屋敷ハコ                

     あらすじ・作品紹介
 9人の神々と、9つの国。 この世界は10の国に分かれ、1つの国に対して1人の神がいた。 人々は自分の国の神を信仰し、その神が支配する魔法を使うことができた。 しかし、プラティ族と呼ばれる一族は信仰すべき神も、住むべき土地もなかった。彼らは世界中を旅してまわり、楽器の演奏や、踊り、占いなどで日々の生活費を稼いでいた。そして『夏至祭』と呼ばれる祭りのために、年に1回集まるのだ。 これは、そんなプラティ族の物語である。

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プロローグ〜セレン〜

 誰かとすれ違えばたいてい
「あら、族長さん。お久しぶりですね」
 とか、
「一年ぶりですね、元気でしたか?」
 と呼び止められるので、ファウダはその度に立ち止まり、
「いやぁ、相変わらずですよ。そちらも無事で何よりですね」
 とあいさつしていたので、時間ばかりが無駄に過ぎていった。
 今も、あいさつから立ち話に突入するパターンに入ってしまったので、セレンは壁のように立ちはだかる父の背中をじっとりと眺めながら、ため息をついた。
 今日、何度目のため息だろう。
 ため息をつくたびに重くなっていく気持ちを振り払おうと、セレンは首を振った。
 夏に近い日差しが容赦なく、セレンに降り注いできた。ただ立っているだけでもじんわりと汗が吹き出てくるが、風が吹いたら吹いたで細かい砂が舞い上がり、辺りを白く染めた。おかげで昨日今日建てられたテントも、その小麦粉みたいな砂にまみれ年季が入ったようになっていた。
 こんな所にいたら、砂のかたまりになってしまうわと、セレンは
「ねえ、まだなの!」
 と父の背中をつついた。
 父は一瞬だけ振り返った。その顔にはうるさいなとかいてある。
「待ちきれないよ、帰っちゃうよ」
 セレンは再び父の背中をつつく。
「……じゃあ、これからちょっと用事がありますんで」
 父が愛想笑いを顔に貼り付けつつ、言った。
「そうですか、残念ですね。また近くに来たら寄ってくださいよ」
「はい、そうしますよ。ではまた」
 父はそう言いながら片手を上げた。
 相手はペコペコとお辞儀しながら、人の流れの中に消えていった。
「もう、遅すぎ」
 セレンは父に怒りをぶつけた。
「まあ、そうかっかするなよ。族長というのはそれなりに面倒くさいものなんだ」
 セレンの父、ファウダのなだめには、少しばかりの愚痴が含まれていた。
「面倒臭かったら、相手にしなきゃいいじゃん」
「そうもいかないだろう、この一年無事に旅ができたんだ。みんな俺と話したがってるし、誰が無事かを確認するのも、俺の役目だ」
「族長やめちゃうとか」
「まぁ、な。この一ヶ月くらいしか役に立たない族長だけどよ、はい、やめますっていかないだろ?」
 一ヶ月しか役に立たない族長。
 プラティ族は年に一度、夏至の日を中心とした約一ヶ月の間、この地にとどまる。それ以外はずっと旅をして回るのだ。
「確か、この辺だったんだよな……。お、あれだ、あれだ」
 ファウダはセレンの手を放し、歩くスピードを上げた。
「ちょっと待ってよ、父ちゃん!!」
 セレンは慌てて、父の後を追う。
 足の長さが違うから、小走りにならないと追いつけない。ここで迷ったら、迷子確定だ。
「おんぶしてやろうか?」
 父はにやにや笑いながら、セレンを見た。
「嫌よ。小さい子どもじゃあるまいし」
 もうそんな歳は過ぎてしまったのよと、断った。
「俺から見れば、まだまだ小さい子どもだがな」
 全く誰に似たんだろうね。
 ファウダはぼやくと、セレンの手を引いて歩き始めた。
「ここだ、ここだ」
 ファウダはとあるテントの前で立ち止まると、無造作に入り口の布を払った。
「ミロンド、いるかあ?」
 彼の呼びかけに応えるものは、誰もいなかった。
「なんだ、留守か。なら、こっちだ」
 ファウダはすぐ隣りのテントの入り口を開けた。
 セレンはそんな父の様子を黙ってみていた。
「よう、ファウダじゃねえか。誰かと思ったぜ」
 ファウダよりも背は低いが、年齢は同じくらいの男が出迎えてくれた。
 胴回りが太く、樽のような体格。剃ることもせず伸ばし放題にした口ひげ。まるで山賊ねと、セレンは思った。顔が赤いところを見ると、お酒でも飲んでいたのだろう。
「サイラス、おめーまだ死んでいなかったんだ」
「あったりめぇよ。そう簡単に死んでたまるかってぇの」
 サイラスと呼ばれた男は豪快に笑った。
 ひとしきり笑い終えると、
「丁度良かった。ミロンド達もいるんだ、入れよ」
 親指で中を指した。
「隣りのテントに誰もいなかったから、そうかと思ったんだ」
「まぁ、そういうこった。ミロンドが剣術大会で優勝したから、祝杯をあげてたんだ。お、可愛い子を連れてきたんだな。リラか?セレンか?」
 ファウダの後ろに隠れていたセレンに気づいて、サイラスが声をかけた。
「セレンよ」
 セレンはサイラスを見返した。
「あははは、少々手強そうだな。ま、遊び相手ならいるぜ。男ばっかりだけどな」
 サイラスはテントの奥の方を顎で示した。
 明るい日差しのもとにずっといたため、テントの中はとても薄暗く感じたが、小さな人影が何人かいることをセレンは確認した。
サイラスに促されるままに、ファウダは敷物の上に腰掛け、セレンもその隣にちょこんと座った。
「遊んでこなくていいのか?」
「いい」
 父親の問いかけに、セレンは短く答えた。
 どうしてここに来ちゃったのだろう?
 セレンは後悔していた。何も考えずに父の誘いに行くと答えた自分が悪いのだが。いざ来てみれば、知らない人が、知らない話をしていて、まるで自分が空気になったみたいだった。ここで何も喋らずにずっと座っているのが苦痛だ。かと言って男の子と一緒に遊ぶのも気が引ける。
「あら、可愛い子が来たのね。これ、食べる?」
 セレンの隣に座っていた女の人が、小さなおまんじゅうを差し出した。
 セレンは驚いて、その女の人を見た。
 驚くほどに細くて白い手。黒絹のような美しくて長い髪。柔らかい春の日だまりのような微笑み。
「どうしたの?おまんじゅうは嫌い?」
 彼女は小首を傾げた。
「い、いえ。ありがとうございます」
 セレンは慌てておまんじゅうを受け取った。
「ファウダさんの娘さんね。どう?おいしいかしら?」
 おまんじゅうを口いっぱい頬張ってたので、うまく喋ることもできず、セレンはうなずいた。
 おまんじゅうはとてもおいしかったし、何よりも居心地の悪さもなくなっていた。
「久しぶりだな、族長さん」
 おまんじゅうをくれた女の人の隣に座っている男がファウダに声をかけてきた。
「族長って言うなよ、ミロンド。名ばかりだよ。あんたに言われると皮肉にしか聞こえん」
 ファウダはため息を付いた。
 セレンはミロンドを見た。
 父親と歳はあまり変わらないと思うが、ミロンドのほうが落ち着きがあるように見える。まっすぐにものを見る瞳、大きな体の割にはどことなく緻密な雰囲気があって、それが顔の良さと相まって人を引き付ける魅力になっていた。
「オレか?オレは喋らなさすぎる。だからみんなが勘違いしているだけだ」
 ミロンドはそう言うと軽く笑い、酒を一口飲んだ。
「ところでまた剣術大会で優勝したんだよな、おめでとう」
「またでもないよ。去年はタイランに負けたからな」
「タイランはしょうがないよ。あいつは、化け物だ。そういうお前だってそうだな」
 ファウダは豪快に笑い飛ばした。
「何話してるの?お二人さん、無事に帰ってこれたから積もる話でも?」
 二人の話に割り込んできたのは、とてもスタイルのいい女の人だった。
 出るところは出すぎるくらいに出ていて、締まるところは無駄なくきゅっと締まってる、そんなスタイルの良さ。おまけに目鼻立ちがはっきりとした美人。
「久しぶりだな、サーシャ。こっちのパーティにいたのか」
 あーあ、声が上ずっちゃってるよ、父ちゃん……。
 セレンは小さくため息をついた。たしかにあんなナイスバディを見せつけられたら、男の人なんてイチコロよね。
「だって、楽しいもん」
「でもよ、たまには帰ってやったほうがいいぜ。ニーナちゃんも寂しがっているだろうし」
「もーおー。分かってるって、族長さんっ」
 サーシャはそう言いながらファウダのコップにお酒をドボドボと注いだ。
「分かってねぇよな」
 サーシャが去ったあと、ファウダがぽつりといった。
「オトナのジジョーってやつ?」
 頭を抱える父に、セレンはこっそり話しかけた。
「まあ、な。そう言うもんだ」
「族長って色々大変なんだね」
「ああ、って、ませたこと言うなよ」
 ファウダは顔を上げた。
「なによー、心配してやってんじゃないのよ」
「おまえは自分のことだけ考えてろ。大人の事情に首を突っ込むな」
 冷たく言われて、セレンが反論しようと口を開けた時、
「仲の良い親子だね」
 ミロンドが感心したように笑った。
「こいつがマセガキなだけだよ」
 ファウダはセレンの頭の上に手を乗せた。
 すかさず、やめてとセレンは払いのける。
「そうかな、素直な感想だったんだがな」
 ミロンドは首を傾げた。
「何が素直な感想だ」
 ファウダはそう言うと、サーシャによって注がれたお酒をがぶがぶと飲んだ。
「アイリー、何か一曲弾いてくれないか?」
「ええ、そうね。何か楽しくなれそうな曲、弾こうかしらね」
 セレンの隣にいた女の人はそう言って穏やかに笑った。
 そして懐から両手で抱えるとちょうど良くはまるくらいの弦楽器を取り出した。
「えっ?アイリーちゃん弾いてくれるの?」
 サーシャが手を叩いた。
「おっ、待ってました!」
 サイラスが叫んだ。
「母さん、アーディン弾くの?」
 子どもたちの輪の中から、一人の男の子がぱっと飛び出してきた。
 セレンがその少年に興味を持って見た瞬間、向こうも同じ思いだったのか、
「あ!」
 目があってしまった。
 男の子と言うよりは、その華奢さといいい、柔らかい雰囲気といい、女の子と言われても納得してしまうものがあった。
「ルーチェ」
 ミロンドに呼ばれ、彼は視線を外した。
「なぁに?父さん」
「ここに座ってなさい」
 ミロンドの言葉にルーチェはうなずくと、父親の膝の上にちょこんと座った。
「恥ずかしいけれど、一曲弾きます」
 アイリーはぺこりとお辞儀すると、楽器を構えた。
 最初の一音が弾かれたのを合図に、アイリーの細く白い手は流れるように音を紡いでいった。
「!!」
 その手の素早さにセレンは心を奪われた。
 流れる水、風の音、広がる大地、草原の海。それはセレンのよく知っている曲に間違いはない。だが、アイリーが弾きだす音楽は奥行きがあって、深みがあって、壮大だった。
 結局、アイリーが手を止めるまで、セレンはかのじょの創り出す音の洪水の中にどっぷりとはまり込んでしまった。それは、周りで聴いていた誰もがそうなのだろう。
 アイリーが演奏を終えた瞬間、テント内は静寂に包まれた。
「やっぱ、アイリーちゃんすごいよ。ゾクゾクしちゃったわよ」
 サーシャの言葉によって金縛りが解けたかのように、拍手と賞賛の嵐がテント内に巻き起こった。
 セレンはふとルーチェを見た。彼は自分がほめられたかのように、満足そうな顔をしていた。
「アイリーさんて、すごいんですね」
 隣で頬を赤らめながらアーディンを大事そうに抱えているアイリーに、セレンは声をかけた。
「ありがとう。私は、ただ、アーディンしかなかったから……」
 アイリーは遠慮がちに笑った。
「母さん、やっぱり母さんの演奏がすごかったよ」
 ルーチェが後ろからアイリーに抱きついてきた。
「ありがとう、ルーチェ」
 アイリーはルーチェの方に顔を向けた。
「僕も、もっともっとたくさん練習すれば、母さんのように弾けるかな?」
「うん、大丈夫よ。ルーチェはアーディンのことが好きなんでしょう?」
「好きだよ。でもね、母さんのことがもっと好き」
 ルーチェはニコっと笑うと、アイリーの顔に頬をすり寄せた。
「よぅ、おまえが夏至の日に生まれたボウズか。大きくなったな。いくつになったんだ?」
 ファウダがルーチェの方を向いた。
 ルーチェは突然のことで驚いたのか、母親の背後に身を潜めた。
「……9歳」
 ルーチェは今にも消えそうな声で答えた。
「別にとって食おうとしているわけじゃねえんだ。おいで」
 ファウダはルーチェに笑いかけながら手招きをした。
「ルーチェ、大丈夫よ。行っておいで」
 アイリーも必死になってルーチェをなだめているが、動きそうにもない。
「……父ちゃん、あの子怖がっているよ」
 セレンが父の脇腹をつついた。
「知ってんだったら、何とかしてくれよ」
 ファウダが小声で頼み込んだ。
 やれやれ。
 セレンは小さくため息をつくとルーチェの方を向いた。
「ねぇ、あんたルーチェって名前なんでしょ。何の遊びをしていたの?」
「……かるたとか、あやとりとか」
 あんた誰?というような顔でルーチェはセレンを見た。
「あたしもまざっていい?」
 セレンの申し出に、ルーチェはこっくりとうなずいた。
「あたし、セレンっていうの。さっきのはあたしの父ちゃん。見た目はクマみたいで、口は悪いけど、性格は悪くないわ。面倒くさいって言うのが口癖だけど、本当はよく気がついてね、まぁ行き過ぎて心配症っていうのね。いきなり殴ったりはしないわ」
「セレンちゃん、よく見ているなぁ」
 ミロンドが笑いをこらえながら言った。
「うちの父ちゃんがどんななのか知ってるの?」
「昔、一緒のパーティーだったからね。オレと、ファウダとサイラスと」
「ふうん、若いころの父ちゃんってどんな感じだったの?」
「今と変わらないよ」
 ミロンドはちらりとファウダを見た。
「ミロンド、セレンに余計なことを言うなよ」
 それに気づいたミロンドが釘を差した。
「分かっていますよ」
 ミロンドはふふんと笑った。
「父ちゃんてさぁ、なんか変りようがないって気がするのよね。後でまたいろいろ聞きたいな。父ちゃんがいないところでさ」
「お安いご用で」
 ミロンドは肩を震わせて笑っていた。
「ということで、大丈夫。安心して」
 セレンはルーチェに笑いかけた。
「う、うん。分かった……」
 ルーチェは渋々返事すると、ゆっくりと立ち上がりファウダの方へと歩み寄った。
「やっと来たか」
 ファウダはルーチェを笑顔で迎えた。
 ルーチェは小さくうなずくと、ファウダとセレンの間に座った。
「やっぱ男の子のほうが可愛いよな。素直で可愛いところがさ」
 ルーチェを前にして、ファウダがぼやいた。
「なによぉ、せっかく連れてきたのに」
 セレンが抗議の声を上げた。
「そういう一言がうるさいの」
 ファウダはセレンをちらりと見ると、言葉を続けた。
「にしても、大きくなったよな。アイリーの産後の肥立ちが悪くなってな。お乳が出ないからって、ミロンドとルネが走り回っていたのがつい最近だと思ってたのにな。もう9年か。どうりで年取るわけだ」
「その話は父さんと母さんから聞いてます。僕が夏至の日に生まれなかったらば、死んでいたって言ってました」
 ルーチェは静かに言った。
「そうだよな。冬なんかに産まれてたら、あの状態じゃもう駄目だったろうな。プラティ族の言い伝えには、夏至生まれの人は、何か特別な星の下にうまれたとされるんだ。ましてやルーチェは夏至以外だったら、育たなかっただろうと。強運だか何だか知らねぇけど、自信持って生きろよ」
「はい」
 ファウダの言葉に、ルーチェは真っ直ぐな眼差しで答えた。
「ルーチェは9歳か。ところでセレンはいくつだい?」
 ファウダはセレンを見た。
「おなじ9歳よ。余計なことは考えない」
 セレンが釘を差した。
「さて、ルーチェ行くわよ。あたしもカルタ取りやりたくなっちゃったから」
 ファウダが口を開けるよりも早く、ルーチェを引き連れてセレンが逃げた。
「いいの?」
「いいわよ。構わないわ。どうせすぐ忘れるんだし」
 酔っ払ってルーチェと話した記憶すらなくなっちゃうんじゃないの、とセレンは思った。
「ルーチェ、どこ行ってたの?」
 ルーチェに声をかけてきた少年を見て、セレンは驚いた。
 年の頃はセレンとだいたい同じくらい。少し大きめなローブを着て、癖のない真っ直ぐな黒髪を肩につく辺りで切りそろえてあった。ここまでなら、占い手希望の少年によくある格好だった。
 その少年の顔が、セレンが今まで見てきたどの少年よりも美しかった。テルバ族の焼く白い磁器のような肌、切れ長の瞳と吸い込まれてしまうほどの青い目。全体的に神秘的なオーラの漂う少年だった。
「母さんのところへ行ってた」
「ルーチェは甘えん坊だからね」
「悪かったね」
 少年の言葉に、ルーチェは口を尖らせた。
「ところで、その娘はなんて名前なの?」
 少年が、セレンを見た。
「セレンって言うんだ」
 ルーチェの紹介を受けて、セレンはペコリと頭を下げた。
「ぼくはフェルセ。あそこに座っているのが、僕の兄さんのオーレン」
 フェルセは、少し離れたところに座っている少年を指した。
「あら、ファウダさんのところの娘ね。おやつ持ってきたから、食べてね」
 女の人がふかし芋をお盆に乗せてやって来た。
「ぼくのお母さんだよ」
 フェルセが教えてくれた。
「よろしくね」
 フェルセの母は、セレンにふかし芋を渡した。
「ありがとうございます」
 セレンは笑顔で受け取った。
 本当はさっきもらったおまんじゅうでお腹いっぱいになってたけど、残しては悪いと思い、無理矢理全部食べた。
「帰るぞ」
 セレンがふかし芋をを全部食べ終えた頃、父が迎えに来てくれた。
「え?もう帰るの?」
 まだ一緒に遊んでないのに。
「まだ寄るとこあるし、あんまり遅くなっちゃうと、母ちゃんに心配かけちゃうだろ」
「……だってさ。ということで帰るね」
 セレンはルーチェを見た。
「また、あえるかな?」
 ルーチェの目は少し寂しそうだった。
「たぶんね。来年とか?」
 セレンはそう言って笑いながら、立ち上がった。
 じゃあね、ばいばい。
 みんなに別れを告げて、セレンとファウダはテントを出た。
 テントの外は相変わらず砂で煙っていた。
「ねぇ、父ちゃん肩車して」
 セレンは父の袖を引っ張った。
「あれ、もうそんな歳じゃないって言ってたのは、どこのどいつだ?」
 ファウダはにやにや笑っていた。
「ちょっと、疲れちゃったのよ」
 甘えるのも、悪くない。
 ルーチェを見ていたら、ちょっとだけ羨ましくなった。それになんだかんだ言って父ちゃんだって嬉しそうじゃないの。
 セレンは父の肩に乗って、自分のテントへと帰った。




第1章 ルーチェ


                               1

 暑くねっとりしたラーデン特有の空気が、船を降りたばかりの ルーチェの体にまとわりついてきた。陽は傾き始めているというのに、その熱気は収まる気配を見せなかった。
 ルーチェはじんわりにじみ出してきた額の汗を、腕でぬぐった。
「とんでもない暑さね。もっと過ごしやすいところに行きたい」
 サーシャはシャツの胸元をつかんで、バタバタと服の中へと風を送った。
「リーベは寒いからラーデンへ行こうと言い出したのは、だれだよ」
 サイラスが横目でサーシャをにらみながら、ぶつくさ言った。
「こんなに暑いとは思ってなかったのよ」
 サーシャも負けじと言い返す。
「ラーデンはいつも暑いんだ。そのくらい知ってんだろ」
 サイラスがため息とともに吐き出した。 
「けんかしないで、行くぞ」
 一番最後に大きな荷物を背負ったミロンドが、二人を見ることなく言った。
「そうよ、さっさと荷物を置いて食事にしましょう。仕事は明日からにして」
 ルネが付け加えた。
「ルーチェ、重くない?」
 アイリーがルーチェにそっと訊いてきた。
「大丈夫だよ。このくらいは持てないとね」
 ルーチェは母親に笑顔で答えた。
 ルーチェも大きな荷物を背負っていた。中身は着替えとか日用品とか、細々としたものが入っている。
「馬車が港でないと預けてもられないらしいんだ。宿まで頑張れな」
 すぐ後ろで、ミロンドの声がした。
「うん、頑張るよ。父さん」
 ルーチェはちらりと振り返った。
 それからルーチェは黙って歩いた。喋ると体力がどんどん奪われていってしまうような気分になったからだ。
 ラーデンの首都、マーロは南国なのに木造よりも石造りの頑丈な建物が多い。それは確かフエリオと呼ばれる嵐が年に何回かやってくるためだと、父さんが言ってたなとルーチェはぼんやり考えながら歩いていた。
「暑いのかい?」
 声をかけられふと横を見ると、フェルセがいた。
「うん、すごくね」
 ルーチェはそう言うと、小さく笑った。
 フェルセはいつもと変わらない少し大きめのローブを着ていたが、涼しげな顔をしていた。
「暑くないの?」
 ラーデンに着いてまもなく上着を1枚脱いだルーチェにとっては、ソルシェの衣装は見ているだけでも嫌になった。
「そりゃ暑いよ。宿についてからはもう少し薄手のに着替えようと思っている」
「ソルシェってあまり表情変えないから、すごいよね」
「暑いって思っているから、暑いんだ。大丈夫、そのうち慣れてくるよ」
 フェルセはまぶしそうに空を見上げた。
 西の空は赤く染まりかけていた。大きな壺を頭に乗せて家路を急ぐ女性の上にも、道端で遊ぶ幼い子どもの上にもオレンジ色の光は舞い降りてきていた。
「さて、着いたぞ」
 サイラスはそう言うと、年季が入ってボロボロになった木の扉を開いて中に入った。
 ルーチェも母親の後に続いて中に入った。
 建物の中は薄暗く、入ってすぐのところにカウンターがあった。
陰気な顔つきの痩せた男が何も言わずに、ルーチェたちが通りすぎるのをじっと眺めていた。カウンター脇にある急な階段を昇った先に廊下があって、その奥にルーチェ達が滞在する部屋があった。
 部屋自体も壁に大きな染みが付いていたり、床の木がささくれだったりしていて、お世辞にもきれいと言えなかった。ただ無造作にベッドが4つ置いてあり、窓が1つついているだけで他はなにもない、狭い部屋だった。それでも、テント生活を続けるルーチェたちプラティ族にとっては、ちゃんとした建物で寝ることができるのはとてもありがたかった。
 ルーチェは荷物を降ろすと、窓を開けた。部屋にこもっていた埃を帯びたもやもやとした熱気が、風とともに外へ出て行くのが感じられた。
 太陽は水平線を目指して下へ下へと傾いていった。人々はそんな太陽を惜しむかのように動き回っていた。
「ルーチェ」
 アイリーが声をかけた。
「食べに行くの?」
 ルーチェは振り返った。
「そうだ。行くぞ」
 父と母が戸口のところに立っていた。
 ルーチェは窓を閉めると、両親の元へと駆け寄った。
 
                                2

 肉が焼ける匂い、魚をあげる匂い、香辛料の匂い、それらの匂いが一体となってルーチェの胃袋を刺激した。
 広場の周りにはありとあらゆる屋台が所狭しと並んでいた。屋台はみな、木と布で簡単に組み立てられるようなものばかりだ。屋台売りの人たちは夕暮れ時になると屋台を組み立て、料理を作り客を待った。
 広場の何ヶ所かで、先に来ていたプラティ族の人々が演奏したり、踊っていた。人気の演奏家や踊り手の周りには、人の輪が何重にもできていた。
「明日からやるからな。今日はたくさん食べて準備しておこうぜ」
 サイラスがあちこちの屋台をキョロキョロしながら言った。
「ルーチェ、人が増えてきて危ないから肩車するよ」
 ルーチェはうなずくと、父の肩に乗った。
「よく見える。提灯が近いよ」
 ルーチェの足元で川の流れのように人が歩いていた。
 木の枝と枝の間にロープを渡して吊り下げた提灯にも手が届きそうだ。
「提灯には触るなよ」
「うん、分かってるって」
 ミロンドの注意にルーチェは答えた。
 炒め麺、串焼き肉、揚げ魚、貝焼きなど、買えるだけ買って広場中央にある休憩所の椅子に座った頃には、すでに辺りは夜の闇に包まれていた。提灯の柔らかい光が照らしてくれたおかげで夜でも外で食べることができた。
「いただきます」
 早速ルーチェは鳥の串焼きを頬張った。
 肉は柔らかいけれどもぷりぷりとした弾力があった。噛むと表面にふった塩が肉のうま味を引き出してくれてとてもおいしかった。
「ルーチェが食べている肉、おいしそうだな」
 貝焼きを食べていたミロンドが羨ましそうに見ていた。
「うん、すごくおいしいよ」
 ルーチェは笑顔で答えた。
「あとで買ってくればいいのよ」
 炒め麺を食べていたアイリーが笑って言った。
「そうだな。これ食べたら買ってくるか」
 そう言ってミロンドは貝焼きを食べた。
「お、お前ら来てたのか」
 見上げるとファウダがいた。
「ファウダ、また会っちまったのか」
 エールを飲みながら、サイラスが言った。
「またとは何だよ。今回は初めてじゃないか」
「夏至祭であった時の印象が強くてな。またって感じなんだよ」
 サイラスがアハハと笑った。
「最近の様子はどうだい?もらえてるか?」
 ミロンドが訊いた。
「まぁ、相変わらずだな。ぼちぼちってとこ」
 ファウダはテーブルに寄りかかった。
「ぼちぼちかぁ。ラーデンはそんなにお得じゃないんだよね」
 サーシャは腕を組んだ。
「それはそうと。最近ガラの悪いハサナン人がいるみてぇだからな。気をつけろよ」
「ハサナン人か。絡まれたら終わりだな。タチ悪いよな」
 ミロンドがため息を付いた。
「遭わねぇことを祈るだけしかないけどね。一応注意ってことで」
 ファウダは目の前にあった小魚の唐揚げをばりばりと食べた。
「わざわざありがとうよ。族長さん」
 ミロンドがニヤリと笑った。
「あー、だからおめーに言われると皮肉にしか聞こえないの。わざと言いやがって」
 ファウダがブツブツ言う。
「んで?ファウダはこれからどうするの?まだラーデンにいるの?」
「明日からミンサルに出発する」
「ミンサルか。危険だな……」
 ミロンドが顔を上げてファウダを見た。
 ミンサル人とハサナン人はプラティ族が嫌いだということをルーチェは知っていた。
「チュニ族の族長が病気でやばいんだとよ。ルンカ族から薬をもらってきたから、渡しに行かねぇとな」
「……気をつけろよ」
「おう、ありがとうよ」
 ファウダは立ち上がった。
「ファウダおじさん」
 ルーチェが顔を上げた。
「んん?なんだい?」
 ファウダが振り返ってルーチェを見た。
「……セレンは、元気?」
「ああ、毎日うるさいくらいだよ。何か?」
「元気かなぁと、思って」
「あいつは殺しても死なねぇよ」
 ファウダがふふんと笑った。
「そうだね。ありがとう」
 ルーチェはペコリとお辞儀した。
「じゃあ、またな」
 ファウダは手を振ると、人混みの中へと消えていった。
「ハサナン人か。なんか嫌よね」
 エビのスープをかき混ぜながら、ルネがぽつりと言った。
「何も抵抗しちゃ駄目なんでしょ」
 サーシャが顔を上げる。
「ああ。何をされても、な」
 ミロンドがそれに答えた。
 ハサナン人の一言だけで、場の雰囲気がとても重いとルーチェは感じた。
「もうやめようぜ、こういう話。抵抗しちゃ駄目だっていうのは理不尽だけどよ。会ってもないのに考えて暗くなるのは良くないよ」
 サイラスが軽くテーブルを叩いた。
「それもそうね。せっかくのご飯がまずくなるわね」
 ルネがうなずいた。

                             3

 宿に戻りシャワーを浴びると、もう後は眠るしかなくなった。
 相変わらず窓の外では提灯が煌々と輝き、人の波は耐えることなく流れていった。
「そろそろ寝なさい」
「うん、もうちょっと」
 アイリーが声をかけても、ルーチェは窓から離れることはなかった。
 何か物を一生懸命売っている女の人、酔って人に絡んでいる老人……。ずっと眺めていても飽きが来ない。
「ルーチェ!」
 しびれを切らしたアイリーが、ルーチェのそばに歩み寄った。
「ねぇ、今日母さんと寝ていい?」
 母の口が開く前に、ルーチェはアイリーに抱きついた。
「ルーチェ、あなたもう9歳でしょ」
 アイリーは呆れたように言った。
「だって、母さんっと寝るのが良いんだもん」
「ルーチェは寝相悪いから。いつも蹴られるのよ」
 ぶつぶつとつぶやく母の表情は、ほんの少しだけ嬉しそうだ。
「やった。決まり!!」
 ルーチェはそう言うと、寝る準備をするために立ち上がった。
『コンコン』
 ドアをノックする音が聞こえた。
「誰だろう?」
 ルーチェはドアの方を見て、首を傾げた。
 武器の手入れをしていたミロンドが立ち上がり、ドアを開けた。
「ミロンドおじさん」
 フェルセだった。
 フェルセは寝間着姿で立っていた。足には何も履いていない。
「どうした?」
「今日、こっちで寝ていい?」
 フェルセの声は震えていた。
「ルネか?」
 ミロンドの問いかけに、フェルセは小さくうなずいた。
「良いよ。入っておいで」
 ミロンドはフェルセを招き入れると、ドアを閉めた。
 ありがとうとフェルセは消え入りそうな声で礼を言うと、部屋の中に入った。
「フェルセ、大丈夫?」
 ルーチェは駆け寄った。
「ありがとう。いつものことだから」
 細く、切れ長な瞳は涙で潤んでいた。
「まったく、困っちゃうわね。ルネには。もう、大丈夫よ」
 アイリーはフェルセを優しく抱きしめた。
 フェルセはアイリーに顔をうずめた。母親を独り占めにしたかったルーチェはほんの少し妬いたが、友人のことを考えると仕方がないと諦めた。
「フェルセ、今日はルーチェと寝なさいな」
 フェルセが落ち着きを取り戻した頃、アイリーが言った。
「ありがとう」
 フェルセは礼を言った。
「ということで、フェルセ。今日はフェルセと寝るのよ」
 アイリーは顔を上げてルーチェに告げた。
「分かった」
 母親と一緒に寝られないのは寂しいけど、フェルセとならばいい。
「フェルセ、寝ようか」
 ルーチェは自分のベッドへフェルセを誘った。
「うん」
 フェルセは小さく返事すると、ルーチェと同じベッドに入った。
「母さんは、ぼくを畏れているんだ」
 ベッドに入って一息ついた後、フェルセが言った。
「それはやっぱり、君がサピドゥル様の子だから?」
「そう」
 フェルセは短く答えた。
 フェルセの母、ルネはオーレンを産んでしばらくたった頃、サピドゥル様と結ばれた。
 サピドゥル様とは、この世界にいる9人の『神』と呼ばれる者達の一人だった。火・風・水・地の一般魔法を管理していて、知恵の象徴とされている。
『昼寝をしていたらサピドゥル様が現れて、宮殿へ行ってきた』
 当時、ルネの言葉を信じる人は誰もいなかった。夢を見ていたんじゃないかと、皆が笑って言った。
 しかし、ルネの妊娠が分かり生まれてきた子を見て、誰もがルネの話を信じるようになった。子どもの顔はプラティ族よりもサピドゥル人に似ていたし、何よりもその魔法の力はとてつもなく強かったからだ。
「母さんは兄さんのような普通の子どもは好きだけど、僕のような少し変わった子どもは嫌いなんだ」
 フェルセの声は寂しそうだ。
「僕はフェルセが大好きだよ。いろんなことを知っているし、僕が慌てても、フェルセはちゃんと見ていてくれて、話してくれるんだもん。すごく頼りになるよ」
「そうかな。ぼくはとても普通なことをしていると思うんだ。でも、ありがとう、ルーチェ。ぼくにとって大切な友だちだよ」
 フェルセの表情は暗くて良く分からなかったけど、その口調はとても嬉しそうだった。
「10歳になったら、修行へ行くの?」
 ルーチェが訊いた。
『子どもが10歳になったら、こっちによこしてくれ』
 サピドゥル様は、ルネにそう告げたという。
「行くよ。ちょっと楽しみなんだ。もっと強い魔法を使いたいし。それに、サピドゥル様ってどんなお方なのか、どんな宮殿に住んでいるか、この目で確かめたいもの」
 サピドゥル様が描かれている絵は、裁判所や図書館、大学などに飾られている。
 絵で描かれるサピドゥル様は老爺だが、ルネが見たサピドゥル様は若い男の姿だったという。
『あの絵を若返らせた感じ。格好良かったわ』
 サピドゥル様の絵を見て、ルネが言っていた。
 しかし、ルーチェにはどうしても想像がつかなかった。
「いいなぁ、僕も見てみたいよ。それに、フェルセがいない間はすっごく寂しくなるよ」
「18歳になったら、帰ってくるよ。また一緒に旅をすればいいじゃないか」
 ふてくされる友人を、フェルセがなだめた。
「18歳か……。それまでにもっともっと、アーディンが上手に弾けるよう、練習しておくよ」
 修行から戻ってきたフェルセに笑われないよう、頑張らなければ。
「きっと大丈夫だよ。ルーチェは良い弾き手になるよ」
 お互い頑張ろう。
 そう言い合うと、なんだか本当にできる気がしてきた。

                             4

 次の日の朝、ルーチェは達は昨日屋台が立ち並んでいた広場にいた。ルーチェの隣には、アーディンを抱えたアイリーがいたし、サーシャは露出度の高い踊り子の衣装を身にまとっていた。
 広場は昨日のような人出はなかったが、親子連れの観光客や体操をしている老人の集団などがいて、なかなかの賑わいを見せていた。
「ラーデンの人たちは、昼間暑すぎて家の中にいるからな。狙い目は朝か夕方だ」
 おひねりの器を置いたり、ゴミを取り除いたりして会場作りをしながら、サイラスが言った。
「ひと踊りしてから、シャワーを浴びて昼寝したいわ」
 サーシャは準備体操をしていた。
「ルーチェ、大丈夫?準備できた?」
 音色の最終確認をしながら、アイリーは心配そうにルーチェを見た。
「大丈夫だよ、ばっちり」
 ルーチェは笑顔で答えた。
「いくわよ」
 アイリーはサーシャを見た。
 サーシャは大きくうなずいた。
 アイリーはひとつ深呼吸をすると、最初の1音を弾いた。
 それを合図に、サーシャは身体をくねらせた。時に激しく、時に優しくゆるやかに。音楽のまま、感情のままに手足をくねらせる。
 ルーチェも負けじと、アイリーについていく。
 まだまだ母のつむぎ出す音に付いて行くだけで精一杯だった。それでも、この時は楽しく、この時は静かにゆったりとだとか、少しくらいは感情を込めることができた。
 サーシャの情熱的なダンスが終わると、今度はサイラスが舞台に立った。
 サイラスの合図で、アイリーとルーチェは大きな流れのような曲を奏ではじめた。それをサイラスは朗々と唄い上げた。
 1曲終わるごとに、見物客の輪は幾重にも重なっていった。今回予定していた曲を全て弾き終える頃には、人混みに囲まれて周りが見えなくなっていた。
「本日は我々の演奏や踊りを観に来ていただき、ありがとうございました」
 サイラスは礼を言うと、周りから拍手がわき起こった。
 ミロンドやオーレン達は、袋をもって歩き回っていた。あれにおひねりを入れるのだ。ルーチェは知っている。たくさんもらえれば、それだけ自分たちの旅は楽になる。たくさんもらうためには、人に立ち止まって聴いてもらえるような演奏をしなくてはいけない。このことはアイリーからいつも強く言われていた。
「今回は結構いい額になっているかもね」
 後片付けをしながら、サーシャがほくそ笑んだ。
「意外にも人が集まっていたわね」
 アイリーも嬉しそうだ。
「今日はこれで、パァーッと飲みに行こうぜ」
「あなた!!」
 サイラスがはしゃぐと、ルネがたしなめた。
「ねぇ、あのさぁ、俺達ハサナンから来たんだけど、そこで楽器弾いてたおねえさん、気に入っちゃったんだよね」
 いきなり、男が3人、輪の中に入り込んできた。
 ハサナンと言う言葉を聞いた瞬間、周りに緊張の糸が走った。
「何のようですか」
 ミロンドがアイリーをかばうようにして立った。
「分からない?これだからなぁ、ノマドの連中は。そこの楽器弾いてたおねえちゃんと楽しいこと、したいの」
 ミロンドとそう変わらない身長の男が、ニヤニヤとしたバカにしたような笑いを向けた。
 指名されたアイリーは、血の気の引いた顔でがたがたと震えていた。そんなアイリーを2人の男が取り囲む。
 ただならぬ雰囲気に、ルーチェは立ち尽くすことしかできなかった。
「ねえ、旅行者さんたち。お楽しみなら私としない?」
 サーシャが猫なで声で誘った。
「おねえさんもセクシーだけど、俺達このおねえさんとやるって決めたから、悪いね」
 男たちは見向きもしなかった。
 サーシャはそんな男たちの後ろ姿をキッと睨みつける。
「さっ、行こうぜ」
 アイリーは2人の男に両脇をはさまれ、奥の防風林へと歩き出した。
「いいねぇ、その青い顔」
 リーダーらしき男がアイリーの顎を指でつまんで、舌なめずりをする。
 思わずアイリーが顔を背けようと抵抗すると、男はアイリーの顔を平手打ちにした。
「母さんに、何をするんだよ!」
 たまらず、ルーチェは駆け出し、男に飛びついた。
 と思った瞬間、激痛が稲妻のように走り、世界が回った。
「ノマドのガキが」
 ルーチェは前髪をつかまれ、首から上だけ起こされた。 
 男は舌打ちすると、ルーチェの顔につばを飛ばした。
「どう?このガキに母親がイイコトされているところを見せてやろうか?」
 アイリーの脇を持っていた男が言った。
 リーダーの男は一瞬目を輝かせたが、ミロンドやサイラスが剣の柄を握り締めているのをちらりと見ると、
「さっさと行けや、クソガキが!!」
 男は吐き捨てるように言うと、ルーチェを投げ飛ばした。
「ルーチェ!」
 みんなが口々にルーチェの名を呼びながら駆け寄ってきた。
 ルーチェは全身に痛みを感じていた。
 だが、それ以上に大切なものが音を立てて崩れ去っていくような心の痛みのほうが強かった。ここは南国ラーデンで、もうすぐ正午だ。とても暑い時間帯なはずなのに、体の内側から湧き上がってくるような寒気が止まらなかった。
 男たちがアイリーを連れ去った後、誰も何も言わなかった。ルネとサーシャが無言で傷の手当をしてくれた。幸い骨は折れていなさそうだが、今はそんなことなど関係がなかった。
 あの3人組、アーディンを弾くルーチェの視線の片隅にいた。音楽を聴くわけでもなく、踊りを見るわけでもなく、自分たちの事を指さしながら笑っていた。ちょっと嫌な感じがしたのを覚えている。
「ごめんなさい、ミロンドさん。私がラーデンに行きたいって、言わなければ……!」
 ルーチェの傷を手当をしている途中で、サーシャは両手で顔をおおった。
 肩が震えている。泣いているのだろうか。ルーチェはそんなサーシャをじっと見ていた。
「そんなこと、関係ないよ。もし、リーベに居続けたとしても、吹雪で遭難したというのもあるだろ。その時はラーデンに行けば良かったと後悔するよ。いくら後悔しても、いくら責めても、起きてしまったことは元に戻せないんだ」
 ミロンドはアイリーが消えていった防風林のほうを見つめていた。

                               5

「おかげでたくさん楽しめたよ。ありがとうな」
 しばらくして3人の男は、ニヤニヤ笑いを浮かべながら立ち去っていった。
 それを合図として、口々にアイリーの名を呼びながらみんなが一斉にかけ出した。
 アイリーは大きな木の根本に座り込み、裸のまま自分の服を掻き抱きながら泣いていた。
「だめ、みんな来ないで。誰も来ちゃだめ」
 仲間の姿を見るなり、アイリーは長い髪を振り乱しながら泣き叫んだ。
「母さん……」
 いつもと違う母の様子に、ルーチェはその場で立ち尽くすほかなかった。
「来ないで。誰も見ないで。いや!!」
 手がつけられない程に泣きじゃくるアイリーを、ルネとサーシャがなだめていた。
「ルンカの病院が近くにあったはずだ。そこまで運ぶんだ」
 サイラスが指示を出す。
 ルーチェの頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
 こんな狂ったような母の姿を見るのは、初めてだった。ルーチェの知っている母親は、いつも穏やかで、静かで、優しかった。たまには叱られる時があるけど、こんなではない。あの3人組は、母に何をしたというのだろう。

「いやよ、来ないで。触らないで」
 暴れるアイリーをミロンドがなだめながら抱きかかえ、去っていった。ルーチェはそれを、まるで他人事のように眺めていた。
「フェルセ、ルーチェ、部屋に戻ろう」
 オーレンが声をかけてきた。
 ルーチェはそれをぼんやりと聞いていた。
「ルーチェ」
 フェルセがルーチェの手を握ってきた。
 ルーチェはフェルセの手を握り返した。

                                6

 サイラス達と一緒にルーチェは自分の部屋へと戻った。
「ルーチェ、1人じゃ寂しいだろ。こっちにいるかい?」
 サイラスの申し出に、ルーチェは首を横に振った。
「……1人でも、平気だよ」
 笑顔が、作れなかった。
「そうか。寂しかったらいつでも来ていいからな」
 サイラスの言葉にありがとうと礼を言うと、ルーチェは自分の部屋に入りドアを閉めた。
 それからそのまま、ベッドに突っ伏した。
 心にぽっかりと、穴が開いた気分になった。何もする気力もわかない。泣くことさえもできない。いっそのこと、大声で泣きわめくことができたなら、すっきりするかもしれない。
 心臓の鼓動に合わせて、傷がじんじんと痛んだ。いつもなら少し転んだだけで、大げさに泣いて甘えたが、今は傷なんてどうでもいいことだった。
 昨日のこと、今朝のことすら、遠い遠い出来事のように思えた。夜の提灯、人の流れ、ハサナン人の男のニヤニヤ笑い、寒気、母の声。そんなものが渾然一体となって、ルーチェの頭の中をかき回し続けた。

                                 7

 いつの間にか眠ってしまったのだろうか?
 父の帰る物音で目覚めると、辺りは真っ暗だった。夢の内容は良くは覚えていなかったけれど、とても嫌な夢だった。
「ルーチェ、いるのか」
 父親の声は、不安げだった。
「父さん、ここにいるよ」
 ルーチェは起き上がり、、ベッドの端に座った。
「そこにいたのか」
 ミロンドはランプに明かりを灯した。
「うん、寝てた」
「そうか。遅くなったな。食事買ってきたから、一緒に食べよう」
「ねぇ、父さん。母さんは大丈夫?」
 ルーチェは父の顔を見た。
 ミロンドは少し困ったような顔をしていたが、ルーチェに向かい合うようにしてしゃがみこむと、
「今は落ち着いて寝ているよ」
 ルーチェの顔を見て言った。
「母さん、元気に、なるかな……?」
 父親の顔を見た瞬間、今まで抑えてきたものがこみ上げてきた。
 途中から、言葉にならなかった。
 ミロンドはルーチェを抱きしめた。
 ルーチェは父の腕の中で思い切り泣いた。今まで泣き虫だったけど、これ以上に泣いたことがないくらいに、泣いた。
 自分の涙で、あの嫌な出来事を全て洗い流したかった。狂ったように泣き叫ぶ母の姿など、見たくなかった。昨日からの続きの、元気な母の笑顔が見たかった。
「きっと大丈夫だよ。元気になるさ」
 ルーチェがひとしきり泣いて落ち着いた頃、ミロンドが言った。
「だから、たくさん食べて元気をつけておきなさい。いつまでも落ち込んでいたら、母さんだってきっと悲しむからね」
 父の言葉に、ルーチェは泣いて腫れぼったくなったまぶたをこすりながらうなずいた。

                             8

 それから数日の間、ルーチェはほとんど1人で過ごした。
 ミロンドは朝早く出かけて、夜になると帰ってきた。ミロンドが買ってきた夕食を2人で食べてから、ルーチェは寝るという生活が続いた。
 昼間の間、ルーチェは窓から人の流れを見たり、アーディンをかき鳴らして過ごした。
 時々、フェルセが遊びに来てくれた。
 フェルセは黙って占いのカードを眺めていたこともあったし、ルーチェと一緒に話すこともあった。また、2人でマーロの街を散歩することもあった。
 そんなある日、サーシャがやってきた。
「ルーチェ、お母さんのところにいく?」
 サーシャの言葉に、ルーチェはびっくりした。
「会いに、行っても、いいの?」
 ルーチェは小声で訊いた。
「少しだけならね。だいぶ落ち着いてきたし、いいんじゃないかなと思って」
 サーシャはルーチェを安心させようと、微笑んだ。
 母に会いたい。
 それはルーチェがずっと願っていたことだった。けれども、どこか不安はあった。自分の知らない間に母が変わっていたらどうしよう。ルーチェはしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げると
「行く」
 と、答えた。
 今日も朝からよく晴れていた。
 ラーデン特有の強い日差しを浴びて、2人は歩いた。少し歩いただけで、ルーチェの額に汗がにじんだ。
「ねぇ、サーシャさん」
「なあに?」
「父さんはいつも、母さんのところにいるの?」
「ううん、いないよ。どこに行ってるのか、分からないね」
「そう、なんだ」
 父さんはいつも母さんのところにいる。
 ルーチェはずっとそう思っていた。思い返せば、父さんは昼間どこで何をしているか一言も教えてくれなかった。
「あの部屋にいないの?ルーチェ、1人?」
「うん、夜になるまでずっと1人だよ」
「ええ〜!寂しくなかったの?」
「ううん、フェルセも来てくれたし、大丈夫だったよ」
 それでも1人じゃかわいそうよね。
 サーシャはぶつぶつ文句を言った。

                              9

 病院は意外にも宿から近いところにあった。
 サーシャの後に続いて、ルーチェはその静かな白い建物の中へと入っていった。
 廊下においてある椅子には、まるで骸骨のように痩せた老人が腰掛けていた。老人の近くにある窓からは太陽の光が入り込み、白い床をまぶしく照らし出していた。
 建物自体はきちんと掃除してあり、とても清潔だった。しかし、年月には勝てないのだろう。あちこち板が貼られたり、塗料を塗りなおした跡が目立っていた。
 乗るたびにミシミシうるさい階段をあがり、廊下の突き当りにアイリーがいる部屋があった。
 サーシャがノックすると、すぐにルネが顔を出した。
「ルネさん」
 ほんの数日間見なかっただけなのに、ルネの顔が懐かしく思えた。
「ルーチェ、来たのね」
 ルネはにっこりと笑った。
「うん」
 ルーチェは小さく答えた。
「母さん」
 母親に会うだけなのに何故か怖くなって、ルーチェはその場で立ち止まったまま恐る恐る声をかけた。
「ルーチェ、よく来てくれたのね。おいで」
 奥のベッドの上で、母が手招きをしていた。
「母さん!!」
 母の声を聞いた瞬間、たまらなくなってルーチェは思わずかけ出した。
 そのままベッドに座っていた母親に飛びついた。
 泣かないと決めていたはずだった。
 なのに、ルーチェの目からは勝手に涙があふれ出してきて、どうしても止めることができなかった。
「ルーチェ、心配かけたね。ごめんね」
 母親はルーチェの頭を何度も何度も優しくなでてくれた。
 その指は前よりも細くなったと、ルーチェはその感触で分かった。
 もともと華奢な体つきなのに。まるで火のついたろうそくがやがて小さくなってしまうように、そのうち消えてなくなってしまうのではと、ルーチェは心配した。
「母さん、いつ帰ってくるの?」
 ルーチェは顔を上げて母を見た。
「分からない」
 アイリーは困った顔をした。
「でも、ルーチェを1人にさせておくのは心配だから、なるべく早く帰ってくるね」
「早めに帰ってきてね。約束だよ」
 再びルーチェは母親に抱きついた。
「分かったわ」
 アイリーはそれだけ言うと、ルーチェの背中をなで続けていた。
『トントン』
 ドアをノックする音が聞こえた。
 ルネが立つまでもなく、ミロンドが入ってきた。
「ミロンド」
「父さん」
 口々にミロンドの名が呼ばれる中、ミロンドは懐から小さな布の袋を取り出すと、アイリーに渡した。
「……俺に出来るのは、これが限界だ。ごめん」
 ミロンドはアイリーに向かって頭を下げた。
 アイリーは何も言わずに袋の中身を見た。やがて無言でその袋をベッドの端に置くと、手で顔を覆って静かに泣いた。
 ミロンドはベッド脇に腰を掛けると、アイリーが顔を上げるまで静かに見守っていた。
「……ありがとう、ミロンド」
 やがて涙を拭うと、ミロンドをまっすぐに見て礼を言った。
 それからアイリーはミロンドにうなだれかかった。ミロンドはそれを受け止めた。
 ルーチェは袋の中身が知りたくてたまらなかった。
 一体父さんは何をしてきたのだろうか?母さんは袋の中に入っているものを見て、何を知ったのだろうか?
 ルーチェは恐る恐る、袋を手にとった。
「見るのかルーチェ」
 ルーチェの行動を見ていたミロンドが言った。
 ルーチェはこっくりとうなずいた。
「何が入っていても、驚いたり、泣いたりするなよ」
 父の顔は、いつになく真剣だった。
「分かった。何も言わないよ」
 ルーチェはそう約束すると、袋の中をのぞいた。
 袋の中には、黒や茶色の糸の束が3束、小枝が3本入っていた。何か呪術の道具かなと思ってルーチェはよく見てみた。よく見ると、枝には節が2つと丸いつるつるしたものが付いていた。間違いない、人間の小指だ。となると、糸の束は髪の毛なのだろう。
 約束通り、ルーチェは何も言わずに袋を元の場所に戻した。
 心の片隅でほっとしている自分を、ルーチェは感じていた。強く願っていたことを、父親が何らかの方法でしてくれた。
 それによって、あの時間を巻き戻すことはできない。現実は現実として受け止め、時間という薬でもって癒さなくてはいけない。それでも、心に垂れ込めた黒い霧をちょっとだけ晴らすことに役立った。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
 外の空気が吸いたくて、ルーチェは立った。
「一緒に行く?大丈夫?」
 サーシャが心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ。1人でいけるから」
 ルーチェは断ると、部屋を出た。

 廊下に1人の男が佇んでいた。
 見逃してしまうくらいに、男は空気に溶け込んでいた。
「君、だれ?」
 男が自分のことをじっと見つめていたので、ルーチェは思わず声をかけてしまった。
「君はそこの部屋に入院している女の、子どもだろ?」
 男は顎で部屋を指し示した。
 白いシャツに黒いズボンといった、どこでもありそうな服装をしていた。大人っぽく見えるが、意外にも若いのかもしれない。それでも、ものすごく落ち着いて見えた。
「名前は?」
「ルーチェ」
 男に訊かれて疑いながらも、ルーチェは素直に答えた。
「光(ルーチェ)か。俺には関係のない言葉だな」
 男は苦笑した。
「君は?」
「ミロンドが、まさか依頼してくるとはね。よっぽどのことがあったと思ったよ。まぁ、ミロンドには借りがたくさんあるから、安価で引き受けたがね」
 男はそう言うと、ネックレスをルーチェに見せた。
 鎖は金で出来ていた。ペンダントトップには貝で作った花びらの中には真珠が一粒付いていた。
 こんなものを父が持っていたとは。ルーチェでさえ、知らなかった。
「ミロンドの婆さんの形見だってさ」
 男は言うと、ポケットの中にしまった。
「で、僕に何か用なの?」
 こちらの質問に、何一つ答えてくれない男の態度に、ルーチェはむっとしていた。
「用事?別に何もないけどな。ミロンドの子どもというのが、気になったわけ」
 男は鼻で笑った。
「それだけ?」
「一応、チュニ族とプラティ族は友好的な繋がりがあるからさ、あいさつしたわけ」
 ルーチェをなだめるように、男は言った。
「ふうん」
「オレはシムド。また何かあったら、会えるかもな」
 シムドはそう言うと、微妙な笑顔を作った。
 それから窓を開け、枠に飛び乗るとそのまま外へ飛んだ。
「!!」
 ルーチェはびっくりして外を見たが、シムドらしき人はいなかった。
 少なくても、人が落ちて怪我している状況は、見当たらなかった。

                             10

 雲ひとつない青空の中、ルーチェはアーディンを弾いていた。
 アーディンに合わせて踊っているのは、サーシャだ。この間のような人だかりは出来ていなかったが、客の入りはまずまずだった。
 色っぽい大人の女性、サーシャと、まだまだ子どものルーチェ。そのデコボココンビが珍しいのだろう?不思議そうな目で見ている客が多かった。
「ねぇ、ルーチェ。私と一緒に一緒に稼ごうよ。そんで、そのあとこっちに来ればいいでしょ?」
 サーシャがそう言い出したのは昨日のことだった。
 サーシャの意見に、誰もが集中した。
「これ以上ルーチェちゃんを1人にさせておくのはかわいそうよ。かといって、ずっとここにいても飽きちゃうでしょ。だったら、私の踊りに付き合ってくれたほうが、楽しいんじゃないのかなってさ」
 サーシャが首を曲げて、みんなを見回した。
「サーシャ、襲うなよ……」
 ミロンドがポツリといった。
「ひっどーい、ミロンド。いくら私が飢えてるからって、ルーチェちゃんまで手を出したりしないわよ」
 サーシャが頬をふくらませた。
 ベッドの上で、アイリーがくすくす笑った。
「本当は気にかかる存在じゃないの?でも、ミロンドが怖くて実行できないとか?」
「言うよね、ルネちゃんも。そんなことないから大丈夫よ、ルーチェちゃん」
 サーシャがルーチェの顔をのぞき込んだ。
「う、うん……」
 ルーチェは小さくうなずいた。
「もしかして、私を疑ってる?」
「……そうじゃなくてさ。僕、上手に弾けるかな?間違ったりしいて、サーシャさんに迷惑かけたりしないかな?」
 まだ、一人前ではない。
 それ、今までずっと母の後を追いかけてきただけだから、1人でできるか心配でたまらなかった。
「大丈夫よ、ルーチェ」
 アイリーはルーチェをまっすぐ見て言った。
「本当に?」
 ルーチェは母を見返した。
「自信持って。ルーチェは上手に弾けているじゃない。1人でも、大丈夫よ」
 アイリーはそう言って、やわらかな笑顔を見せた。
「それにさ、ルーチェちゃんが間違っても、私がフォローするから大丈夫よ」
 サーシャは自分の胸を叩いた。
「うん、やってみるよ。やってみなきゃ、分からないよね。サーシャさん、明日からよろしくお願いします」
 ルーチェはそう言うと、サーシャに向かってペコリとお辞儀した。
「もぉぉぉぉぉ。ルーチェったら、可愛いんだから。明日から、よろしくねぇぇぇ!」
 サーシャはそう言うと、ルーチェをぎゅっと抱きしめた。

 結局、ほとんどミスをすることなく、ルーチェは弾き終えた。
「すごいよ、ルーチェちゃん、完璧よ。ずっと練習してたんだね」
 サーシャはびっくりして言った。
「ちょっと緊張しちゃった」
 ルーチェは安心した笑みを浮かばせながら、手のひらの汗を服でぬぐい、自分の手を見た。
 指には弦の跡がまだくっきりと残っていた。
「また母さんと演奏できるかな?」
 ルーチェは独り言のように言った。
「ルーチェ」
 サーシャは思わずルーチェを抱きしめた。
「きっとアイリーだって、ルーチェと弾きたがっているよ。大丈夫よ。さて、今日はどのくらい稼げたかな?」
 サーシャはルーチェの頭をポンポンとたたくと、おひねりを回収した。
 ルーチェはそんなサーシャの様子を見ていたが、自分を見つめる視線に気づいた。
 視線の方を向くと、ルーチェと同じくらいの歳の子が数人、こちらを見つめていた。ルーチェが首を傾げると、みんなはひそひそと話したり、笑い合ったりしていた。
「どうしたの?ルーチェちゃん?」
 サーシャが訊いてきたので目線で指し示した。
「どうするの?行ってくる?」
「いいの?」
 ルーチェは顔を上げた。
「もちろん。病院までの道は分かるね?」
「知ってるよ」
 この辺りはフェルセとも散歩で来たことがあったので、よく分かっていた。
「じゃあ、先に病院へ行ってるから、後から来てね」
「分かった。待っててね」
 ルーチェが答えると、サーシャはニコッと笑って、行ってしまった。
 サーシャの姿が見えなくなると、ルーチェが足を運ぶこともなく、みんながやって来た。
「ねぇ、その楽器弾きながら、旅してるんだろ?」
 一番体の大きな、リーダー格の少年が口を開いた。
「うん」
 ルーチェはうなずいた。
「今まで、どこに行ったの?」
「サピドゥルとか、ウティとか、リーベとか」
「すごいね」
「リーベって寒いんだろ?雪ってどんなの?」
「白くて、とても冷たくて、空から降ってくるんだ」
 周りを囲まれてしまった。
「甘いの?」
「甘くないよ。味なんかないよ。氷みたいなもんだよ」
「ねぇ、その楽器弾いてみていい?」
 1人の女の子がアーディンを指さした。
「少しだけなら」
 ルーチェはアーディンをベルトから外すと、その子に渡した。
「意外に軽いんだね」
 少女はアーディンの弦を弾いた。
「へぇぇ〜」
「ねぇ、ちょっと貸してよ」
 隣の子が奪う。
「あ、僕にもさわらせろよ!」
 またたく間に、アーディンの取り合いとなった。
「あ、そんなに引っ張ると、壊れちゃうよ」
 ルーチェが取り戻そうとしたが、無理そうだった。
「おい、おまえらそんなに乱暴に扱ったら、壊れちゃうだろ。壊れたらべんしょーだ」
 リーダー格の少年が叫んだ。
 それを合図に、みんなの動きがピタリと止まる。
「ごめんなさい」
 アーディンを持っていた少年が、ルーチェに返した。
「ありがとう」
 ルーチェは受け取ると、ベルトに取り付けた。
「なんか聞かせてよ」
 気の強そうな女の子が、ルーチェを見て言った。
「聞きたい?」
 念のためルーチェが訊いてみると、みんながそれぞれにうなずいていた。
 ちょっと緊張するんだよね。ルーチェは苦笑すると、思い切り明るそうな曲を弾いた。
 曲が終わると、みんなは口々に、すごいねと褒めてくれたから、ルーチェは少し照れた。
「これから、秘密基地に行くんだけど、行く?」
 リーダーの少年が誘ってくれた。
 秘密基地に行ってみたい。ルーチェはすごく興味があったけど、病院で待っている母のことが気になって仕方がなかった。それに、サーシャとも約束してしまった。
「行きたいんだけど、待っている人がいるから」
 後ろ髪を引かれながら、ルーチェは断った。
「そうか、残念だな。また今度行こうぜ」
 少年はにっこりと笑ってくれた。
「ありがとう」
 そう言ってルーチェはみんなと別れると、母の待つ病院へと向かった。

                           11

 次の日、ルーチェの演奏をみんなが聴きに来てくれていた。
「今日はたくさん時間あるから、秘密基地に行きたいよ」
 演奏が終わると、ルーチェは声をかけた。
 昨日、病院に行って友だちができたことを話すと、母親は喜んでいた。友達と遊んできてもいいと、母は言ってくれたのだ。
 だが、遠巻きにこちらを見るだけで、誰も返事する人がいなかった。
「どうしたの?」
 ルーチェが訊くと、
「あのな、父ちゃんと母ちゃんに話したら、遊ぶなって言われたんだ」
 リーダーの少年が、言いづらそうに口を開いた。
 ルーチェは体の中を冷たいものが、すっと通り抜けていくのを感じた。
「そう、なんだ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
「ねぇ、『ノマド』って、なぁに?」
 一番小さな男の子が、訊いてきた。
「駄目よ、言っちゃ」
 その子の姉が怒ったように言った。
「俺もさ、一緒に遊びたかったんだけどさ。内緒にしてても見られちゃったら、怒られるからさ。ごめんね」
 リーダーの少年は寂しそうに言った。
「分かったよ、ありがとう」
 ルーチェも寂しかったけど、笑顔を見せた。
「じゃあね。みんな、行くぜ」
 少年はそう言うと、駆け出した。
「待ってよ」
 他の子達も口々に言いながら、少年を追いかけて行ってしまった。
 ルーチェはそれをずっと見送っていた。
「ふん、親が怖くて遊べねぇなんてな」
 すぐ後ろでそんな声が聞こえてきたので、ルーチェははっとして振り返った。
 見ると、やせた少年が1人、立っていた。
「君はみんなと一緒に行かないの?」
 ルーチェが訊くと、
「別に。興味ねえし」
 少年は腕で鼻の汗をぬぐった。
「じゃあ、僕と遊んでくれるの?」
「暇だから、別にいいよ」
「ねぇ、名前なんていうの?僕はルーチェっていうんだ」
 ちょっと変わっている子だけど、友だちになってくれるのはとても嬉しかった。
「オレ?オレはリーオ」
 リーオはポケットに手を突っ込んだ。
「何して遊ぼうか?」
「知らねえな……魚でも、釣るか。つったことあるか?」
 リーオの問いかけに、ルーチェは首を振った。
「そうか。まぁ、簡単だからな。来て」
 リーオはそう言うと、歩き出した。
 ルーチェもリーオの後についた。
 2人はマーロの街中を歩き、丘を越えて、やがて小さな入江にたどり着いた。
「ちょっと待ってな」
 リーオはそう言うと、辺りを警戒しながら1軒の小さな家の中へと入っていった。
 なんだろう、と疑問に思いながらルーチェは辺りを見回した。
 そこはとても静かな入江だった。青緑色の小さな波が、黒い岩をチャプチャプと洗い、ヤシの木などの南国の植物たちが海風に揺れていた。日差しは相変わらず差しこむように強かったが、ルーチェはあまり気にならなかった。
「はい、これ」
 リーオはそう言うと、釣竿とすくいあみを渡してくれた。
「これで、釣るの?」
「まず、その前に餌を取るんだ」
 リーオは器用に岩場を越えて、大きな潮だまりの所まで歩いて行った。
「待って」
 慌てて、ルーチェはリーオの後を追った。
 ルーチェがようやくたどり着いた時、リーオはすくいあみを潮だまりの中に入れて、何かを採っていた。リーオがすくい上げたあみの中には、小指の先ほどの大きさのエビや、魚が何匹か入っていた。
「これを魚の餌にするの?」
「そうだよ。岩の影とかにたくさんいるんだ」
 あみの中の魚を缶の中に入れながら、リーオは答えた。
 ルーチェは見よう見まねで、すくいあみで岩陰にいる小魚をすくってみた。
 最初の頃こそは、あみを岩場に引っ掛けたり、うまく採れなかったが、やがて面白いように入ってくるようになった。
「そろそろ、餌もたまってきたから、釣り始めるよ」
 リーオが言った。
 それから2人は大きな岩の陰まで歩くと、釣りの準備を始めた。
 釣り針に採ってきたばかりの餌を付けて、釣り糸を遠くへなげる。リーオがやっていることを真似して、ルーチェもやってみた。餌はなかなか釣り針に引っ掛けられなかったし、リーオのように遠くへは投げられなかった。それでもなんとかやり終えると、ルーチェは岩の上に座った。
「なぁ、プラティ族はいつもどんなところへ行ってるのか?」
 リーオが尋ねた。
「いろんなところだよ。サピドゥルだったり、ウティだったり。たまにだけど、バーゼとか、へチールなんかにも行くよ」
「へぇ。そういうところから比べたら、ここってどうなんだ?」
「暑いところだね。他はもっと寒いよ。リーベなんか冬は寒すぎて動物の毛皮なんか着るんだ」
「想像するだけで、暑そうなんだけどな」
 リーオはそう言うと、腕で鼻の汗をぬぐった。
「毛皮を着ないと、寒くて死んじゃうんだ」
「……しんじられないな」
 リーオは苦笑した。
 その瞬間、ルーチェの釣竿に引っ張られるような重さを感じた。
「何か、食いついたよ」
 ルーチェは負けじと引っ張りかえす。
「ただ引っ張るだけじゃ、糸が切れちゃうよ」
 リーオは自分の釣竿を置くと、ルーチェの手伝いに回った。
 引いたり、引かせたりして、魚の体力を消耗させながらだんだんこっちへ引き寄せていく。
「引き上げて、いいよ」
 リーオの言葉を合図に、ルーチェは魚を引き上げた。
 すかさずリーオが魚をあみで受け取る。
「釣れた」
 ルーチェの顔に自然と笑いがこみ上げてきた。
 それは、ルーチェの手のひら2つ分ほどの大きさの、青い魚だった。
「これは、焼くとおいしいんだ」
 リーオは言いながら魚から針を抜くと、缶の中へ入れた。
「釣りって、楽しいんだね」
「まあな」
 リーオは釣り針に小魚をつけてくれた。
 その日は結局、ルーチェが2匹、リーオが3匹の魚を釣ることができた。
「持ち帰るか?」
 リーオは訊いた。
「ううん、持ち帰っても調理できないし」
 本当は持ち帰って自慢したいけど、焼く場所とかなかったので断った。
「また明日も、やりたいな」
 ルーチェが言うと、
「またここに来るといいよ。待ってるよ」
 リーオはそう言ってにっこり笑った。

                               12

 次の日、演奏が終わるとルーチェは走るようにして入江にやってきた。入り江の近くにある小さな家、それがリーオの家だ。ざっと見たところ、岩場にはリーオの姿が見当たらないから、きっと家の中にいるかもしれない。ルーチェはリーオの家に向かった。
「昼間っからぶらぶらしやがって!何しているんだ!」
 家の中から怒鳴り声が聞こえてきたかと思うと、リーオが家の外へと蹴りだされた。
 家の周りには竹で編んだざるが大量に散乱していた。
 よほど痛かったらしく、リーオはその場でうずくまったまま動くことさえ出来なかった。
「ほら、何しているんだよ。さっさと働けや!」
 リーオの父親らしい男が家の中から出てきて、更にリーオを殴ったり蹴ったりしていた。
 リーオは何もできず、ただうずくまるしかできないでいた。
「何をするんです。この子は関係ないでしょう!」
 リーオの母親が止めに入ったが、
「お前はどいてろ!!」
 男は一喝すると、女を突き飛ばした。
 このままでは、リーオは死んでしまうかもしれない。
 ルーチェは焦ったが、助けを呼べるような人物は周りにいなかった。かといって、助けを呼びに行っても手遅れになるかもしれない。ルーチェが出てきても、意味は無いだろう。
 ルーチェは肩から下げているアーディンを見つめた。
 人の心を鎮める曲があったはずだ。ルーチェは親子の近くに座り込むと、深呼吸をした。緊張して、少しだけ手が震えた。焦る気持ちを抑え、心を落ち着かせるために、目を閉じた。それから、最初の一音を奏でる。その勢いで記憶のとおりに音をつむぎ出す。あの男の人が落ち着いて欲しいと願って。
 男はリーオを2、3発殴ったが、やがてルーチェの思いが通じたのか攻撃の手を止め、
「ノマドのガキが」
 と、ルーチェをひと睨みすると、家の中へ入っていった。
 曲が終わるまで、ルーチェは手を止めなかった。
「どうもありがとうございます」
 曲が終わるとリーオの母親はルーチェにペコペコとお辞儀すると、散らばっていたざるを手早く片付けた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
 リーオの母親は、手早くざるを背負籠に入れた。
「リーオ、大丈夫?」
「大丈夫だよ。このくらい」
 母親に心配されると、リーオはむっくりと起き上がった。
 リーオの顔は腫れ上がっていて、額から血が出ていた。蹴られたところもアザになっていた。
「こんなに腫れちゃって。どうしましょう」
「おふくろもざるを売りに行かないとだろ。オレは大丈夫だよ」
 リーオは母の手を振り払った。
「そう、そうね。なら、行ってくるわね」 
 リーオの母親はそう言い残すと、どこかへ行ってしまった。
「リーオ、本当に大丈夫なの?」
 ルーチェが声をかけると、
「いつものことだよ。大丈夫」
 リーオは笑って言った。
「駄目だよ。僕の友達が薬草持ってるから。一緒に行こう」
「いいよ。ちょっと待ってたら、血も止まるしさ」
 リーオは鼻で笑ったが、
「駄目だよ。骨折れてたりするかもしれないだろ?」
 真剣な目をしたルーチェをみて、渋々うなずいた。
 途中、小川が流れている所でリーオは額の血を洗った。
「いつも、あんなに殴られてるの?」
 ルーチェが訊くと、
「親父は酒ばっか飲んでるんだ。酒が切れるとああやって殴られる。おふくろはざるを作って、売って親父の酒代稼いでるよ」
 リーオはぼそぼそと答えた。
 やがて、ルーチェは宿まで来るとドアを開けた。
「入って」
 ルーチェの言葉にリーオは一瞬ためらったが、入ってきた。
 崩れそうで急な階段を昇り、暗い廊下を歩いて、ルーチェはドアの前まで来るとノックした。
「ルーチェ、今日は早いんだね」
 フェルセが出てきた。
「フェルセ、薬草分けてよ」
「どうしたの?」
 フェルセが首を傾げた。
「友達が怪我して」
 ルーチェはフェルセにリーオを見せた。
「ああ、これはひどいね。丁度薬草の整理をしていたところだから。入って」
 フェルセは部屋の中へと招いた。
 ルーチェの後に続き、リーオも中に入った。
「こんな怪我、どうしたの?」
「ぶつけたんだ」
 ルーチェが口を開く前に、リーオが言った。
「……そう、なんだ」
 フェルセはリーオの傷の様子を見ながら、薬草を細かくしたものや、薬草を煎じた液を塗りつけていった。
「僕はリーベ人でもルンカ族でもないから治癒系の魔法を使えないけどね。薬草はこれで大丈夫だと思うよ」
 治療の後始末をしながら、フェルセは言った。
「ありがとう。ちょっとしみたけど、効いてると思う」
 リーオは礼を言った。
「それは良かった」
 ルーチェが安心して笑った。
「じゃあ、オレ帰るよ」
 リーオが言うと、
「送ってくよ」
 ルーチェが立ち上がった。
 部屋を出ると、廊下にミロンドとアイリーがいた。
「父さん、それに母さんも」
 退院してきたんだ。
 ルーチェは今すぐにでも母親に飛びつきたいという衝動に駆られたが、友達の前ではさすがに恥ずかしかった。
「ルーチェ、明日ここを出るから」
 ミロンドが言った。
「……分かった。もう、夏至だもんね」
 せっかく友達ができたのに。
 ルーチェはリーオを見た。
「あ、あの、オレも一緒に連れて行ってください!」
 リーオがミロンドの前でいきなり土下座して頼み込んだ。
「君は?」
 ミロンドが不思議そうな顔でそれを見る。
「リーオっていうんだ。友だちになったんだよ」
 ルーチェは説明した。
「リーオ君、顔を上げてほしい」
 ミロンドはその場に腰を下ろした。
 リーオはミロンドに言われたとおり、顔を上げ、座り直した。
 ミロンドは少しだけ考えていたが、やがて口を開くと
「リーオ君はラーデン人だ。ラーデン人にはプラティ族と違って守ってくれる神様がいる。そのことに感謝してほしい。そして、ラーデン人であることに対して、誇りを持ってほしい」
 ミロンドはリーオをまっすぐ見て言った。
「オレはもうこの生活が嫌なんだ。親父は酒浸りで、おふくろは酒代のために稼いでいる。見てて嫌になるよ。こんな生活続けるのなら、逃げたほうがましだよ」
 リーオは叫んだ。
「今はそうかもしれない。けれども、母親を助けて働いてほしい。今を変えるのは、リーオくん、君しかいないんだ。変わることは大変だけど、変えていくほかないんだ」
「どうやって変えていくのさ」
「それは君が考えるほかないんだよ。 リーオくんがどんな生活を望んでいるのか、俺には分からない。君にしか分からないことだろ?」
「そうだけど、でも、分からないよ……」
 リーオはがっくりとうなだれた。
「ねぇ、リーオ。僕はリーオのことが羨ましいよ」
 ルーチェが言った。
「どうしてだよ」
「だって、自分の家がちゃんとあるんじゃないか。帰れる場所があるのはうらやましい」
 ルーチェは答えた。
 リーオは何も言わなかった。

「ごめんな、ルーチェ」
 ルーチェがリーオを送り届ける道すがら、リーオが謝った。
「何が?」
 ルーチェが首を傾げた。
「オレ、プラティ族になりたくてルーチェを利用したんだ」
「そうだったの?」
 そう言われても、ルーチェはいまいちピンとくるものがなかった。
「ああ。親父もおふくろも嫌いで、今日ルーチェが来る頃を見計らって親父の酒瓶を隠しておいたんだ」
 リーオはヘヘッと笑った。
「だからあんなに怒ってたんだ」
「ああ、まぁ、親父がキレるのはいつものことだけどな」
「僕は、利用されたからって怒ってないよ。友達ができたから、嬉しかった」
 ルーチェはにっこりと笑った。
「でも、明日出発しちゃうんだろ?」
 リーオはすねたように言った。
「残念だけど。また会えるかな?」
「どうだろうね。そうだ、これやるよ」
 リーオはポケットの中からキラキラと光る石を出した。
「すっごく、きれい」
 あまりの美しさにルーチェはため息を付いた。
「お金の原料になる石だよ。近くに採石場があるんだ。あの入り江からも、たまにみつかるよ」
「へぇ。そうなんだ。お金にならなかった石なんだ。本当にもらっちゃっていいの?」
 ルーチェは顔を上げてリーオを見た。
「あと2、3こ持ってるから」
 リーオはポケットに手を突っ込みながら言った。
「僕はなにもあげられるものはないよ」
 ルーチェは申し訳なさそうに言った。
「そんなの、別にいいって。傷の手当もしてもらったし、オレも友達が欲しかったから。また会おうな」
「またラーデンに来たら、入り江に寄るよ」
 入り江方面への分かれ道で、ルーチェとリーオは約束した。

                             13

 夏至祭へ向かう旅の途中、ルーチェはアイリーにベッタリとつきまとった。アイリーもまた、ルーチェの存在を嫌がりもしなかった。
「ルーチェは、相変わらずだな」
 そんなルーチェを見て、ソルシェはあきれて笑った。
「フェルセだって、僕の母さんがいなくて寂しいって言ってたじゃないか」
 ルーチェは口をとがらせて反論した。 
「そうだけどさ、いい加減くっつき過ぎじゃないか?」
 馬車に乗っている今でも、ルーチェはアイリーの隣から離れようともしなかった。
「だって、ずっと離れていたんだもん。いいじゃないか」
 そのうち独り立ちしたら、母と別れて旅をしなくてはいけない。
 大人になったら、こんなに甘えられないことをルーチェは知っている。だから、甘えられる今を大切にしたいと思うのだが。同じ年のフェルセに指摘されると、まるで自分がソルシェよりも幼い子どもみたいで、少しだけ恥ずかしかった。
「フェルセもおいでよ。またルネに冷たく言われたんでしょ?」
 アイリーはフェルセの耳元でそっとささやいた。
 ソルシェは無言でうなずくと、そっとアイリーに近づいた。
「ねぇ、母さん、アーディン弾いてよ」
 ルーチェがリクエストした。
 しかし、母親は哀しそうに首を振ると、
「ごめんね、ルーチェ。今はそんな気分じゃないのよ」
「どうして?」
「どうして、だろうねぇ。分からないわ」
 今にも泣き出しそうな母の顔を見て、ルーチェは後悔した。
 そういえば母は退院してきてから今まで、一度もアーディンに触れていない。
「それじゃあ、ねぇ、僕が代わりに弾くよ。もしかしたら、母さんも弾きたくなるかもしれないでしょ」
 母は少しだけ首をたてにふった。
 それを合図に、ルーチェはアーディンをかき鳴らした。母に笑ってもらえるよう、なるべく明るい曲を選んだ。少しの不安をかき消すように、無理矢理笑顔を作った。
 けれども、弾けば弾くほど強い虚無感に襲われていった。自分が弾きたいものは、こんなんじゃない。母さんが笑顔になれるような曲が弾きたい。けれども、強く願えば願うほど、遠ざかっていった。
 自分と母との間に、とても厚い見えない壁のようなものを感じて、ルーチェは弾くのをやめた。
「どうしたの?とても上手に弾けていたわよ?」
 アイリーは不思議そうにルーチェの顔を見た。
 ルーチェはアーディンを置くと、母の胸に飛び込んだ。
「……母さん、どこにも行かないでね」
 そのまま、ルーチェは母を離さなかった。
 アイリーは何も言わず、ルーチェの背中をなで続けていた。

                             14

「ルーチェ、散歩に行こうよ」
 夏至祭会場に着いた日の午後、アイリーはルーチェを誘った。
「散歩?行く行く」
 ルーチェはテントの中でゴロゴロしていたが、母の誘いに飛び起きた。
「アイリー、大丈夫か?」
 それを聞いていたミロンドが、心配そうに訊いた。
「大丈夫よ。今日は調子が良いから。それに、まだ人が少ない時のほうが楽だわ」
 アイリーはミロンドに向かって笑いかけた。
「あまり、無理、するなよ」
 ミロンドはアイリーを軽く抱きしめた。
 ミロンドにもたれかかって、アイリーはこっくりとうなずいた。それから2人は軽くキスをしあった。
 ルーチェはそれを遠目でぼんやりと見ていた。
「じゃあ、行ってくるわね。そんなに遅くならないから」
 アイリーはにっこり笑うと、ルーチェの方へ向いた。
「さて、行きましょうか」
 ルーチェはうなずいた。
 テント会場に立ち並ぶテントは数が多くなく、空き地ばかりが目立っていた。あと、何日もしないうちにこの空き地も、テントに埋め尽くされていくのだろう。
 ルーチェとアイリーはそんなテント会場を抜け、小道に沿いつつ雑木林を過ぎた。その先はちょっとした空地になっていた。空き地のヘリは崖で、その下は海があった。
「今日は、誰もいないね」
 夏至祭の時に来ると、かなりの数の人がいて思い思いの格好で休日を過ごしていた。
 だが、今日はルーチェとアイリーの2人だけだった。波の音と風の音だけが響いていた。
「ここから落ちたら、死ぬよね」
 崖の縁に立って、ルーチェが言った。
 ラーデンで見慣れた、緑がかった色ではない。ここのは青が深い海の色だった。
「あまり近寄ると、危ないよ」
 母が心配そうに言った。
「ねぇ、これからどこへ行くの?」
「母さんはここに来たかっただけなの」
 ルーチェの疑問にアイリーは短く答えると、ちょうど良さそうな岩の上に腰掛けた。
 それから風に吹かれてばらばらになっていた髪を、1つにまとめた。
「どうして?ここがすきなの?」
 ルーチェは訊いてみたが、母は何も答えずに懐からアーディンを取り出すと、じっと見つめていた。
 ルーチェはそれ以上何も言わなかった。今、何か話しかけたら母親の想いを壊してしまうことに気付いた。だから、ルーチェはそんな母の様子をじっと見つめていた。
 やがて、アイリーは何かを決めたようにうなずくと、アーディンの弦をはじき始めた。
 それは、静かな曲だった。音を立てずに流れていく、深く大きな大河のようだった。ゆっくりと流れながらも、畑を潤し人の生活を育む大きな河の様子を母は見事に表現していた。
 風のざわめきも、海鳴りも、なかった。そこにはただ、母の表現する音だけが存在していた。
 アイリーの演奏が終わっても、ルーチェは何も言わなかった。口を開けたら、母親のかけた魔法が解けてしまう。そんな気がしたからだ。海からの風と、太陽の光が心地よかった。
「ルーチェ」
「すごいよ、母さん、今の演奏。すっごい、引きこまれたもん。僕もそんな風に弾けるといいな」
 すごい、すごい、と連発するルーチェを、アイリーは黙って見ていた。
「ルーチェ」
「なあに」
 とても楽しい夢を見た朝のような爽快な気持ちで、ルーチェは母を見た。
「あのね、母さんのアーディンをルーチェにあげるわ」
 アイリーはそう言うと、アーディンのひもを首から外した。
「どうして?母さんはまだアーディンを弾くでしょ?僕だって母さんの演奏、たくさん聴きたいよ」
 いつかは、母のアーディンを自分が継承する日が来るだろうと、ルーチェはなんとなく思っていた。
 しかし、ルーチェはまだ独り立ちすらしていない。ラーデンでは上手に弾けたつもりだけど、まだまだたくさん練習して、もっともっと上手になってから独り立ちするつもりでいた。母からアーディンを受け継ぐのはそれよりも更に先のことだと、ルーチェは考えていた。
「そうね……じゃあ、ルーチェのアーディンと交換しましょうか」
「……いいの?」
 ルーチェの問いに、母はうなずいた。
「いいわよ。ルーチェがとても頑張っているからね」
 アイリーは笑っていった。
「ありがとう、母さん。僕、絶対に大切に使うよ」
 母からアーディンを受け取ると、ルーチェは誓った。
「母さんも、ルーチェのアーディンを大切に使うからね。ところで、ルーチェ」
 アイリーはアーディンとひもをつなぎ終えると、ルーチェの方へ向き直った。
「なあに?母さん」
 何かの予感を感じて、ルーチェは母を見た。
「ただ指の練習だけしているだけでは、アーディンは上手にならないわ」
「どうして?」
 ルーチェは母の言っている意味がよく分からなかった。
 指が忘れないために毎日練習すること。それは母の口癖だったはず。
「指の練習をするのは、基本よ。それ以上に上手くなりたかったら、いっぱい経験を積むことよ。嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、楽しいこと。たくさんの感情を味わうの。いろんな人と会って、遊んだり、喧嘩したり、恋したり、落ち込んだり、笑ったりするの。ルーチェが感じた想いをアーディンに託すのよ。そしたら、表現の枠が大きくなるから。あなたの表現した感情が聴いてる誰かに伝わって、その人の埋もれていた感情が呼び起こされて、共感を呼ぶわ。たくさん共感を得る人が名演奏家となるわけね」
「よくは、分からないけど、僕にもできるかな?」
「ルーチェにはちょっと難しかったかな?でも、大丈夫よ。そのうち分かるようになるし、出来るようになるわ。だって母さんだってできたことだから。母さんはね、父さんと会って、ルーチェと会って、みんなと会って、表現の幅が増えたの。ありがとう。感謝しているわ」
 アイリーはルーチェと交換したアーディンをなでながら言った。
「音楽は人の心に染みこんでいくものだわ。素敵な曲や演奏ほど、人の心を揺さぶるものなの。大丈夫よ。ルーチェならできる。そう信じているわ」
 母の顔はルーチェの方を向いていた。
 しかし、母の目はどこか遠くを見ていた。海の先よりも遥か遠く、今ではない、どこか。そんな景色を母は見ているのだろう。母の見ているものを考えると、ルーチェはどこかそわそわとした気分になった。ルーチェは自分のことよりもその視線の先が気になって、母から目をそらさずにいた。

                                15

 それから3日後、プラティ族の集会があった。
 年に1回開かれる、夏至祭の初日だ。プラティ族の族長、ファウダの挨拶があったり、アーディンの演奏や踊りなどのパフォーマンスがあったりと、集会は着々と執り行われていった。
「ここで、旅をするにあたり相応しくないと思われる人を発表する」
 『監視員』と呼ばれる、黒いローブを着た男が壇に上がった。
 男は一礼すると、淡々と名前を読み上げていった。名前が読み上げられる度に、悲鳴や泣き声があちこちから湧き上がっていった。
「アイリー」
 その名前を呼ばれた瞬間、ルーチェは全身から血の気が引いていくような感覚に襲われた。
 隣にいる母は、ただ黙って静かに立っていた。
「ねぇ、嘘でしょ?別の、アイリーさんだよね」
 ルーチェは小声で母親に訊いた。
 母は何も答えず、唇をかみしめていた。父はうつむいたままだった。
「ねえ、違う人だよね」
 聞こえなかったんだと思い、ルーチェは声を大きくした。
 だが、誰も何も言わなかった。
「父さん、そんなの嘘だよね。母さんはずっと一緒に旅ができるんだよね。ねぇ、そうだよね」
 嘘だって言ってほしかった。
 悪い夢だったら覚めてほしかった。
「ごめんね、ルーチェ。本当なのよ」
 崩れるようにしてしゃがみ込んで、ルーチェを強く抱きしめながらアイリーは答えた。
「そんなの、嫌だよ」
 ルーチェの唇が震えた。
 旅に出るのに相応しくない者。そういった人達の先にあるものは、死しかない。
「嫌だよ!絶対そんなの嫌だよ!だって僕は母さんとずっと旅がしたいもん。ね、母さん行っちゃだめだよ」
 ルーチェは泣き叫んだ。
「……以上のものは、前に出るように」
 『監視員』が告げた。
「ルーチェ、ありがとう」
 母は笑っていた。
 それはとても悲しい笑顔だった。
「私は、ミロンド、ルーチェ、それに、みんなに会えてとても幸せでした。本当に今までありがとうございました」
 アイリーはその場ですっと立つと、深くお辞儀をした。
 それからそのまま前へと歩いて行った。
「やめて。母さん、行かないで!」
 母を追おうとしてルーチェが前へ行きかけた瞬間、
「!!」
 右肩に激痛が走った。
 ルーチェはたまらず地面に転がった。
 プラティ族に付けられた、呪いの印だ。この印がある限り、誰も『監視員』に抵抗できない。
「ルーチェ」
 ミロンドが駆け寄った。
「……母さん、行かないで……」
 激痛に耐えながら、それでもルーチェは前進を試みた。
 しかし、砂をつかむばかりで一向に前には進めなかった。
「父さん、母さんが、連れて行かれちゃうよ……」
 目に涙をためながら、ルーチェは父を見た。
「もういいよ、ルーチェ。……もう、いいんだ。ごめんな」
 父はそのままルーチェを抱き上げた。
 父の腕の中で、ルーチェは涙を流し続けていた。

                               16

 それから数日間、ルーチェは何をするまでもなくただぼんやりと過ごした。何かをしたいという気力が湧くことも、誰かと話したいという気持ちもなかった。
 母が病院に運ばれた時も辛かったが、今はその数倍、辛かった。どこを探しても母の姿を見つけることができない。もう、あの陽だまりのようなやわらかい笑顔も、優しくなでてくれる細い腕も、大河のようなアーディンの演奏も、もうないのだ。そう考えるたびに涙が出た。
 ソルシェも、セレンも、遊びに来てくれた。けれども、どうしても笑うことができなかった。
「本当に、今までありがとうございました。ミロンドさんに会えて、あの子もいきいきと輝いてたから、それだけで良かったんだなと思いましたよ」
「いや、本当に最後まで守りきれず、すみませんでした」 
 テントの入口で父は誰かと話していた。
 ルーチェはテントの隅でぼんやりと話し声を聞いていた。
「そんなことは、もういいんです。ハサナン人には抵抗できないですよ。事故だったんです、あれは。『監視員』に怯えながらこっそりと終わる悲しい人生だと考えると、ミロンドさん、本当に感謝しているのですよ。まさかあの子が子どもを産むなんて思ってもなかったでしたから」
 話の内容からすると、母親の両親に違いない。
 祖父母には何回か会ったことがある。とても優しくて、ルーチェをかわいがってくれた覚えがある。今、顔を出せばきっと喜んでくれるだろう。
 けれども、ルーチェは祖父母の前で笑っていられる自信はなかった。母と祖母はとても良く似ていた。もし、祖父母の前で涙を流したら、きっと心配されてしまうだろう。
 興味はあったがあきらめて、テントの中を見渡した。母にまつわるいろいろな品々が静かに置いてあった。ふと、数日前に母と交換したアーディンが目に止まった。
『嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、楽しいこと。たくさんの感情をアーディンに託すのよ』
 母の言葉を思い出した。
 このつらく悲しい感情も、アーディンに託すことが出来るのだろうか。ルーチェが感情を込めたところで、誰の心に染みこんでその音を響かせることが出来るのだろうか?
 ルーチェはアーディンを手にとった。
 つるりと磨き上げられた木製の胴体に、ぴんと張られた6本の弦、抱きかかえるとちょうど収まりがつく大きさ。
 母は『監視員』に殺されてしまうことを知っていた。だから、自分の信念とともに大切なアーディンをルーチェに託したのではないだろうか。自分はここにいなくても、この音を引き継いでもらおうと思っていたのではないのだろうか。
 母はもうここにはいない。
 しかし、ルーチェがアーディンを弾くことで母の想いと繋がれるのではないだろうか。
 知らないうちに、ルーチェはアーディンを弾いていた。自分の想いをアーディンに託して。母の想いに心を添わせて。
 白く細い手でアーディンから音をつむぎ出していた母。普段は物静かで遠慮がちな母だが、アーディンを通して多くのことを語り、他人と通じ合っていたのだろう。
「ルーチェ」
 フェルセがやってきた。
「どうしたの?」
 慌てたように入ってきた友人に、ルーチェは驚いた。
「アーディンの音色がしたから、元気になったのかなと思ってさ」
「うん、いつまでも泣いていたってしょうがないしね」
「嫌だよ、これでルーチェまでもが殺されてしまったら!」
 ルーチェが立ち直りつつあることに喜んでいるのだろうか。
 フェルセはいつもより言葉が多かった。
「大丈夫だよ。まだかかるかもしれないけど、元気になるよ」
 ルーチェは笑顔を作ってみせた。
 まだぎこちない笑顔だった。
「今日、夏至祭のたき火をやる日なんだ。って、君の誕生日だね、おめでとう」
「そうか、僕もすっかり忘れていたよ。10歳になったんだ。ありがとう」
 辛いことがあったから、誕生日なんて頭になかった。
「だから今日は一緒にたき火を見に行こうよ。夕方になったらまた来るよ」
「分かった。それまでにもうちょっとだけ、元気になっておくよ」
 2人は約束した。
 フェルセが帰ってからも、ルーチェはアーディンを弾き続けた。アーディンの音色の中に母を探すために、ずっと弾き続けていた。

                             17

 夕方、ルーチェはフェルセと2人で祭りの会場へと向かった。
 会場ではちょうど表彰式が行われていて、剣術大会で優勝したミロンドが表彰されていた。
「父さん、出ていたんだ……」
 ルーチェはつぶやいた。
「見に行ったけど、ミロンドおじさんすごかったよ。圧倒的だった。これで2年連続だから、来年も優勝すれば殿堂入りだよね。ミロンドおじさんがいるから優勝できないって、父さん嘆いてたよ」
 2年連続。
 友人の言葉を聞きながら、ルーチェは去年のことを思い出していた。去年はアイリーが演奏部門で最優秀賞をもらっていた。ミロンドも剣術大会で優勝していた。ルーチェも表彰台にのぼり、父に肩車をしてもらった。その隣で母が照れたように笑っていた。それから3人でたき火を見た。
 あれはとても良い思い出だった。去年のことなのに、遠い遠い昔のように感じられた。
「ルーチェ、大丈夫?」
 フェルセがルーチェのことを心配そうに見ていた。
「うん、大丈夫だよ。でも、人がいないところに行きたいな」
「そうだね、ここだとゆっくりしてられないね。そうだ、この間母さんと薬草採りに行っていいところを見つけたんだよ。行ってみようよ」
 フェルセの話に、ルーチェは大きくうなずいた。
 この潰されてしまうような人混みから一刻もはやく抜け出たかった。
 2人は手をつなぎ、人混みを抜けて、薄暗い森の小道を歩いて行った。
「足元気をつけてね。木とかいろいろ倒れているから」
 薬草採りで慣れているのだろうか、フェルセはぐんぐんと先に行ってしまった。
「フェルセ、待ってよ。暗くてよく分からないんだ」
 焦る気持ちはあるが、枝や倒木に引っかかってなかなか前に進まない。
 フェルセは立ち止まると、何やら呪文を唱え始めた。
「ライト」
 彼の手の平から卵くらいの大きさの光が生まれると、頭の上までふんわりと浮き上がった。
「これでいいかな?行くよ」
「すごいね、魔法使えるようになったんだ」
 ルーチェは頭の上に浮かぶ光の玉を見て言った。
「母さんが教えてくれたんだ。少しくらいは覚えておかないと恥ずかしいからって」
 フェルセは振り向かずに言うと、再び歩き出した。
「ねえ、フェルセ。剣も魔法も使えないのかな?」
 ルーチェは前を歩くフェルセにようやく追いつくと、尋ねた。
「何が?」
「だって父さんはあんなに剣術が上手なのに、母さんを死なせてしまったんだよ。そんなのおかしくない?なんで剣術の修行なんかするの?道に潜むモンスターを倒すためだけなの?」
「そうだね。それはおかしいことだと僕は思うよ」
 ルーチェの言葉にフェルセも同意した。
「相手がハサナン人や『監視員』だったから?プラティ族には神様がいないから?」
「うん、プラティ族の神様は芸術や娯楽を司る神様だった。そんな神様がいたら怠けてしまう人間が出てくるからといって、ハサナンやへチールの神様によってこの世界から追放されてしまった。それによってプラティ人の住む大陸は失われ、『監視員』と呼ばれる人々に監視されながら旅をしなくてはいけなくなったんだ」
「それは知っているよ。この右肩にある印があるかぎり、僕達は何もできないじゃないか」
 数日前に受けた痛みを、ルーチェは一生忘れない。
「この印は邪魔だよね。ウティの人にこの印の呪いを無くしてもらうような道具を作ってもらうしかないんだよね」
 ウティ人は道具に魔法の力を込めることが出来る人達だということを、ルーチェは知っている。
「……そんなこともできるの?」
「なくはないさ。ただ、これだけ強力な呪いなんだ。それ相応の力を持った人じゃないとできないよ。もしできたとしても、使える条件が厳しければ使えないのと同じ事だと父さんが言ってた」
 フェルセの言葉に、ルーチェは考えた。
 条件が厳しくても、軽減できる可能性があればそこに望みを託すしかないのではないか。
「ルーチェ、着いたよ。夏至祭の炎が見える」
 前を歩くフェルセが声をかけてきた。
 森を抜けると高台になっていて、祭りの会場がよく見えた。会場の真ん中に、あかあかと燃える夏至祭のたき火が見えた。1年で一番長く空にとどまっていた太陽もようやく沈み、暗くなり始めた周囲を再び照らし出そうかという勢いの炎を、2人はじっと眺めていた。
「ルーチェ」
 最初に口を開いたのは、フェルセだった。
「なあに?」
 ルーチェは隣にいるソルシェの顔を見た。
「前にも言ったけど、そろそろ修行に出るよ」
 たき火から視線を離さず、フェルセが言った。
「うん。寂しいけれど、フェルセがもっと魔法を上手に使えるようになるためには、行くしかないんだよね。きっとフェルセは、サピドゥル様がプラティ族を何とかしなくてはいけないと思って生まれてきた子だから、これからも、もっと、もっと、活躍していくんだろうね」
 ルーチェは夏至祭の炎を見た。
 足元では夏至祭に浮かれた人々が笑ったり、踊ったりしている。風にのってアーディンの音色が聞こえてきた。
「違うよ、ルーチェ。ルーチェもだよ。一緒に何とかしなきゃいけないんだ」
「僕も?僕に何が出来るの?」
「フェルセ、君が初代の王となるんだ。プラティ族じゃない。プラティ人として」
 フェルセはルーチェをまっすぐ見て言った。
 一方、ルーチェは友人の言葉の意味がわからなかった。
「初代の王?この僕が?僕はアーディンしか弾けないよ」
「でも、ルーチェは気付いたんだ。プラティ族のこの状態はおかしいって。なんとかなる方法を、さっきルーチェはさがしていたよね」
「探していたけど、それがなにか関係あるの?」
「関係あるさ。当たり前と受け止めずに疑問を持つことは大切なんだ」
 口に出さなくても、みんなが疑問を抱いていることなんじゃないかなとルーチェは思った。
「それにさ」
 フェルセはにやにやと笑った。
「それに?」
「君は、夏至生まれだ」
「そんなの、迷信だよ。プラティ人の王はフェルセのほうが合ってるよ」
「ぼくはサピドゥルの血が混じっている。ぼくが王になったら、サピドゥルがプラティ族を支配することになるから、だめなんだ。それに、迷信なんかじゃないよ」
 フェルセの目は真剣だった。
「甘えん坊でも?」
 ルーチェは自嘲した。
「甘えん坊でもさ。これはぼくにとって一番最初の予言だよ。ぼくは占いを覚えてから今までずっとプラティ族の未来を占ってきた。何度やっても同じ答えになる。だからこれは間違いないよ」
 そう言われても、やっぱりルーチェには今ひとつピンとくるものはなかった。
 それでも心の中で、何かが一歩だけ、前に進んだような気持ちになった。
「プラティ王になるなんて思ったこともないし、今もまだ考えられないよ。でもね、母さんのような人はもう出したくないんだ。あんな悲しい思いはもう誰にも味わってほしくない」
「だから、ぼくはサピドゥル様のところに修行に出かけるよ。だから、ルーチェも僕がいなくても頑張って欲しいんだ」
「そうだね。フェルセが戻ってきて、僕が全然成長していなかったら、笑われちゃうな」
「大丈夫だよ。きっとルーチェのことだから、ぼくの想像以上に成長しているよ」
 フェルセはそう言って笑った。
「8年後、またここで会おうよ。一緒にたき火を見たいんだ」
 ルーチェは言った。
「分かった。待ってるよ」
 フェルセはそう言うと、ルーチェと指切りした。

                               18

 ルーチェがテントに戻った時にはすでにミロンドが帰っていて、1人酒を飲んでいた。
「父さん、ただいま」
「ルーチェか」
 ミロンドはルーチェをちらりと見ただけで、またすぐに何かを考えこむようにたき火を眺めていた。
「フェルセと夏至祭を見てきたんだよ。父さん、すごいね。今年も剣術大会で優勝したんだね」
 ルーチェは父の背後から抱きついた。
「ありがとう。でもな、いくら剣の腕があっても父さんは母さんを守りきれなかったよ。すまんな」
 ミロンドの声は、いつになく弱々しかった。
 もしかしたら父は泣いていたのかもしれないと、ルーチェは思った。
「……仕方なかったんだよ。もう、どうしようもなかったんだよ」
 そんな言い訳しか、出て来なかった。
 ルーチェは父親の隣りに座った。
 父は何も言わなかった。しばらく2人でたき火にくべた赤々と燃える炭をじっと見つめた。
「父さんは、母さんの両親と約束したんだ。母さんを自分の命にかえてでも守るから、一緒になりたいとね」
 しばらく経った頃、父は口を開いた。
「母さんは昔から体が弱かったから、独り立ちさせることをあきらめていたらしいんだ。『監視員』の目をごまかしながら、手元においておこうと決めていた」
 ミロンドはコップに酒をつぎ足した。
 それからたき火の上にかけておいたやかんを取ると、コップに湯を入れた。
「だがな、父さんは母さんに会ってしまった。母さんを見た時から、この人のことを守っていきたい、自分のできることならなんでもしたいと思ったよ」
 ミロンドはそこで言葉を区切り、酒を飲むと、一息ついた。
 ルーチェは何も言わず、父の言葉を待った。
「母さんも……アイリーも同じ気持だったんだろうな。俺と一緒になって、このパーティで旅をするようになってから、表情が豊かになって、笑うことが増えたよ。口数は多い方ではなかったけど、アーディンは上手になった。時々高熱を出してはルネを驚かせていたな。その度に、ルンカの病院を探しまわったよ。目に涙を浮かべてさ、ごめんなさいって言ってたけど、ちっとも苦ではなかった。むしろ俺は楽しんでたくらいさ。ルーチェが産まれてからも、産後の肥立ちが悪かったり、2人で風邪だとか、なんだかんだで倒れたりしてたな。そんなに永くは生きられないだろうと思っていたが、あっという間だったな」
 ルーチェは何も言わず、黙って父を見ていた。
 湿気を含んでいた炭が、パチンとはぜた。
「ラーデンの病院でな、母さんは言ってたんだ。アーディンが弾けなくなった、だから自分はもう駄目なんだと。アーディンが弾けなくなったと分かった時、母さんは自殺を考えていたらしい」
「母さんが、そんなことを……」
 ルーチェは父の言葉が信じられなかった。
 でも、よくよく考えてみると、馬車の中で母はアーディンを弾いてくれなかった。アーディンを弾いてくれとねだったルーチェに、哀しい顔で弾けないと答えた母。
「ああ。もしかしたらな、もっと時間をかければそのうち弾けるようになったかもしれない。だがね、夏至祭で帰れば、必ず『監視員』に殺されるだろ。夏至祭に出なかったら、『監視員』は追いかけてくるんだ。右肩の印がある限り、奴らはしつこいさ。どちらにしても殺されてしまうのなら、その時まで俺と、ルーチェと笑って過ごしたいて、母さんはそう言ってたさ」
 父はそう言うと、酒を一口飲んだ。
「……ここに着いた日、母さんはアーディンを弾いてくれたんだ」
 自分の心を無理やりねじ伏せてまでも、母は自分のためにアーディンを弾いてくれた。
 母にとって、あの演奏はとても辛かったに違いない。そこまでしても、ルーチェに伝えたかったのだろう。あの圧倒されるような表現力は、一生忘れられない。
「そうか、それがアイリーにとって最後の演奏だったんだな……」
 ミロンドはつぶやいた。
「母さんは父さんに会えて感謝してるって言ってた。母さんは今でも僕の心の中で生きているんだよ。アーディンを弾く度に、母さんと話しているんだ」
 ルーチェは昼間考えていたことを思い出した。
 あの時はできた。今でもできる自信がある。
「ルーチェ、いつの間に強くなったんだな」
 父が驚いたように、ルーチェを見ていた。
「だって、今日は僕の誕生日だよ。ひとつ大人になったんだ。いつまでも泣き虫じゃないよ」
 ルーチェはちょっと照れくさくなって、ふふふと笑った。
「もう10歳か。早いもんだな……」
 ミロンドは苦笑した。
「あとね、父さん。お願いがあるんだけど」
 ルーチェはきちんと座り直すと、父の顔をまっすぐに見た。
「何だい?」
「僕に、剣術を教えて下さい」
 ルーチェはそう言うと、深々と頭を下げた。
「どうしたんだ?いきなり」
 思いもよらない依頼に、ミロンドはあっけにとられた。
「僕だって、守られるだけじゃ嫌なんだ。誰かを守りたいんだ。それに、母さんのような悲しい犠牲者を出したくないから」
「……父さんは、母さんのことを守れなかったよ?」
「でも、それでも僕は……、僕はプラティ族を変えていきたいんだ。どうすればいいか、まだ分からないけど。でも、絶対に剣術は必要だと思うから。その時に、ないと困るから。だから、お願いします」
 ルーチェは再び頭を下げた。
 父は何も言わず、赤々と燃えていた炭がやがて燃え尽きて白くなっていくのを眺めていた。
「プラティ族を変えたい、そう言ってた奴は何人か知ってるさ。結局な、みんな何らかの形で殺されているんだ。ルーチェもそうなってほしくないって父さんは思うがね。プラティ族を変えられるのなら、変えて欲しいって願っているし、そのためなら何でもするよ。フェルセも生まれてきたし、もしかしたら、何か変わっていくのかもしれないな。父さんがどのくらい教えられるか、分からないけど教えてやるよ。何てたって、ルーチェは俺の子だからな。すぐに上手くなるよ」
 ミロンドはそう言って笑った。
「本当?ありがとう、父さん」
 ルーチェの顔が、ぱっと明るくなった。
「にしても、ついこの間まで母さんにべたべただった奴と、同じなんて思えないな」
「それはもう言わないでよ」
 ルーチェは父に抱きついた。
「そこまで成長したってことか。剣の修行は明日からだ。今日はもう遅いからもう寝るんだよ」
 そう言うとミロンドはルーチェの頭をがしがしとなでた。
「はい、分かりました。父さん、おやすみなさい」
 ルーチェは飛び起きると、ペコリと頭を下げた。


2016/04/24(Sun)23:59:06 公開 / 荒屋敷ハコ
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■作者からのメッセージ
プラティ族と一緒に世界中を旅をしたいあなた、笑い、涙、ホラー、恋愛を求める欲張りなあなた、音楽好きなあなたに、おススメです!
かなり長い小説になると思いますが、頑張って書きますのでよろしくお願いします。

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