『スローララバイ(完結)』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:浅田明守                

     あらすじ・作品紹介
もう二度と会うはずがなかった。もう二度と会えないはずだった。永久の別れの先にあった奇跡の時間。優しく残酷な、スローララバイ

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
   プロローグ
 辺りを見て、これが夢だということはすぐにわかった。辺りの風景も、僕自身の身体も、僕が知っている『今』より随分前のものだったし、それに何より、もう会えないはずの彼女が目の前に立っている。
「ねぇ、千鳥……死んだんじゃなかったっけ?」
 僕がそう尋ねると、千鳥は困ったようなあきれたような顔で「本当に君はバカだなぁ」と言って前髪を掻き揚げながら笑う。それは間違いなく僕が知っている彼女の口癖で、僕が見たくてたまらなかった彼女のしぐさだった。
「そんなどうでもいいことよりも、今は愛しの彼女に会えたことを喜ぶべきじゃないのかい?」
「そうだね。千鳥の言うとおりだ」
 そう言って、彼女を抱きしめる。
「まったく……本当に君はどうしようもないな」
 僕の行動に一先ずは満足したのか、むふぅと満足そうに鼻を鳴らして身体を預けてくれる。そんな彼女を愛おしく思いながら、彼女にばれないように、もう二度と嗅ぐことはないだろうと思っていた甘く優しい匂いを、胸いっぱいに吸い込む。
 南條千鳥。僕よりずっと賢くて、皮肉屋で、男勝りで、変なところで素直じゃなくて、誰よりも愛おしい、つい先日永久の別れを済ませたばかりの僕の恋人。
 これはきっと夢なんだろう。いつかは覚める、泡沫の夢。でもその時までは、再び彼女に会えたことを素直に喜ぼう。

   回想1 
「ところで、この格好はあれだよね?」
 彼女の匂いを嗅いでいたことがバレてしこたま殴られたあと、改めて僕らが着ている服を見る。詰襟の学ランに、紺の地味なセーラー服。ダサいダサいと散々言われ続けた愛すべき母校の制服だ。
「懐かしいだろ? 当時はダサいダサいと言っていたが、今こうして見るとなかなか古き良き時代を思わせるデザインじゃないか」
「千鳥、言うことがオバサン臭いよ」
 というと無言で殴られた。どうやらオバサンは禁句のようだ。本人も否定できない事実なのに、それを口にすると怒り出す女の不思議。そんなことを思っていると顔に出ていたのかさらにもう一発殴られる。
「んで、これを着ているってことは学校に行くのが自然な流れかな?」
「ふむ……時刻的には学校からの帰り道と言ったほうがしっくりくるがね。まあ忘れ物を取りに戻っていると思えば自然か」
 確かに、言われてみれば空は夕焼け色に染まっていた。こんな時間に学校へ行くというのも少しおかしい。
 と、そこまで考えて、
「ん……? 確か前に一度」
「君も思い出したかい? 懐かしいだろ」
「そうだね。懐かしいね……あの頃はほんと、なんも考えてなかったなぁ。考えてたことといえばいかに先生にばれずに居眠りをするかと、どうすれば千鳥にキスができるかくらいだったからなぁ」
「君はよくもまぁ……そんな小っ恥ずかしいことを真顔で言えるね」
 少し顔を赤らめながら呆れた声で千鳥が言う。
 でも事実なのだから仕方がない。千鳥は男勝りな癖に変なところで純情だから手を繋いだり抱きついたりはさせてくれるけどそこから先はなかなかやらせてくれなかったのだから。
 駅前を通り、商店街を抜け、母校へと続く緩やかな坂道を登る。その間、僕らの間に会話はなかった。でもそれは気まずい沈黙ではなく、ただひたすらに懐かしい景色を二人で共有するための心地のよい沈黙だった。
 やがて母校の校門前に到着する。
「忘れ物は課題ノートだっけ?」
 学校を見上げながら彼女が言う。
「うん、そうだね。確か次の日に提出の宿題があって、僕は明日の朝やればいいって言ったのに千鳥が取りに戻れってしつこく言ったんだっけ」
 皮肉屋の癖に学校では優等生で通っている彼女的にはデートよりも宿題が優先らしい。曰く、「君がちゃんと勉強してくれないと私と同じ大学にいけないじゃないか。まあちゃんと勉強しても君の頭じゃ怪しいものだけどね」らしい。
 当時のことを思い出して顔をニヤケさせたり、それに気が付いた千鳥に頬を抓られたりしながら校門をくぐる。
「で、確かここに千鳥を待たせて一人で教室に行ったんだよね」
 あの日は確か荷物が多くてやたらめったら鞄が重たかったものだから、千鳥に荷物を任せて教室へ行ったんだっけ。
「そうそう。君ときたら可愛い彼女を待たせた挙句、見知らぬ上級生の女子といちゃつきながら戻って来たんだよね。まったく、本当に君って人間は……」
「いやいや、あの時も言ったけどあれは本当に足首をひねった先輩を保健室に連れて行こうとしただけだって」
 確かノートを回収して千鳥のところへ戻ろうとしたときだ。どてん、と誰かが派手に転ぶ音を聞いて見に行ってみれば階段で足を滑らして転び落ちてしまった先輩がいた。大きな怪我はなかったけど、どうも足を捻ったらしく、酷く危なげな足取りで階段を下りようとしていたもんだから見てられなくて肩を貸したんだっけ。で、その姿を千鳥に見られて……
「思いっきり引っ叩かれたっけ……」
「当然の報いだろう? 鞄で殴られなかっただけありがたいと思いたまえ」
 ちょうど階段を下りきった時だった。鬼のような顔をした千鳥が靴も履き替えずにずんずんと近づいてきて、そのままの勢いで僕にビンタをした。いやはや、体重の乗ったいいビンタだったな。目から日が出てお星様が飛ぶビンタとはまさにあれのことだ。ちなみに先輩はそんな千鳥の様子に恐れを抱いて、捻った足のことなど忘れてすたこらさっさと逃げていった。
「いやはや、あの時は本当に殺されるかと思ったよ」
「自分の男を取られた女の反応としてはまだ優しい方だと思うけどね」
「いやいや、取られたって……怪我人を運んでただけなんだけどな。大体、あの時もしも先輩を助けてなかったらそれはそれで千鳥は怒っただろ?」
「あぁ、君がそんな非常な人間だったら鞄の角で殴っていたね」
 どないせいっちゅうねん。
 後で聞いた話、先輩が派手に転んだ音は千鳥にも聞こえていたらしい。だから僕らを見たときもなんとなく事情は察していたとのことだ。察した上で全力ビンタとは、まさに理不尽極まりない。本人曰く、「それはそれ、これはこれ」らしい。まったく、理不尽極まりない。
 当時のことを思い出して、無意識のうちに引っ叩かれた頬を撫でる。
「まったく、君も大概根に持つタイプだね」
「いや、僕じゃなくても普通に恨むレベルだと思うけどな……」
「だからあの時も、後できちんとご褒美をあげたじゃないか」
 先輩が逃げた後、未だ鬼のような形相で肩(先輩に貸していた方)を掴む彼女に対して、僕は痛みで半泣きになりながらも必死に弁明をしていた。今にして思えばそのときすでに事情を察していた彼女に対して改めて事情を説明するなど、まさしく火に油を注ぐ行為だったわけだが、当時の僕がそんなことを知る由も無く、結果的に必死に弁明すればするほど彼女の機嫌は悪くなっていった。
 どうにもならずにほとほと困り果てたころ、彼女はようやく不機嫌な表情を崩していつもの口調で「まったく君は本当にバカだなぁ」と言いながら廊下でへたり込んでいる僕の顔を両手で包み込み、そっと、唇と唇が触れるだけのキスをした。
「『自分が誰のものなのか、君はもう少し考えるべきだ』だっけ?」
「あまりにも君が無自覚だったからね。知っているかい? 当時の君はそこそこ女子の間でモテてたんだよ」
「おっと、それは初耳だ。何せ当時の僕の目には千鳥しか映っていなかったからね」
「よく言うよ。ことあるごとに他の女、主に胸元を見て鼻の下を伸ばしていたくせに」
「それはまぁ、男の性ってことで」
 実際のところ、千鳥は当時の女性平均から見てもかなり控えめ、よく言えばスレンダーな身体つきで、別にそのことに対してなんら不満があった訳ではないが男としては豊かでたゆんたゆんと揺れるものがあればそれを見てしまうのは性というもの。その度にキツイ視線で(時には物理的に)窘められたものだ。いやはやなんとも嫉妬深いことで。
「我ながら、よくもまあ嫉妬深い彼女様についてきたものだ」
 小声でぼそりと呟くと耳ざとくそれを聞きつけた千鳥は悪びれる様子も無く、
「本当に君はバカだなぁ」
 前髪を掻き揚げながら笑うとあの時と同じようにゆっくりと両手で僕の顔を包み込み、あの時よりも少しだけ強くて長いキスをした。
「多少嫉妬深い方が可愛いだろう?」
 そう言って悪戯っぽく笑う彼女の頬は少し赤らんでいて、それを指摘すると無言でしこたま殴られた。


   回想2
 不意に場面が変わる。僕らの服装も学校の制服から私服に変わる。まあ夢の世界ではよくあることだ。僕らもそれを当然のように受け入れる。
 ここは……千鳥の部屋かな? 机を挟んだ向こう側にはちょうど一年分だけ年を得た千鳥の姿。
「千鳥の家で受験勉強をしてたときの記憶かな?」
「私が君の専属家庭教師をやってたときだね。君は覚えが悪いから本当に苦労させられたよ」
 高校三年生の夏。僕は千鳥と同じ学校に入るために必死に勉強していた。というか千鳥に勉強させられていた。
 はっきり言って、進学に関しては僕より千鳥の方がやる気満々だった。二人でどうにかして同じ大学へ行くんだと毎日のように言っていた。
 一方僕はといえば、一緒の学校に行ければそれに越したことはないけれど、まあ無理だろうなと半ば以上諦めていた。もとより僕と千鳥のお頭の出来は天と地ほどの差があったし、何かとプライドの高い千鳥が僕に合わせてレベルの低い大学を受験するなんて考えられない。まあ大学が違っても別に会えなくなる訳でもなし、多少寂しくはあるがしょうがないというのがぶっちゃけた本心だった。
「大学が違ってもあえなくなるわけじゃないから別にいいや……なんて思っていたんだろうね、あの頃の君は」
「おっと、千鳥はエスパーか何かかな?」
「君がわかりやすいだけだよ。ここで勉強してる時も、いつだって君は教科書よりも……い、愛しい彼女の顔を見ることに一生懸命だったからね」
「照れるくらいなら言わなきゃいいのに……って、ちょっ!? 流石にそれは危ないから!」
 顔を真っ赤にしながら英和辞典を振り上げる千鳥を必死になだめる。
「大丈夫さ。これは夢なんだろう? 辞典の角で頭をかち割ったくらいじゃ死なないさ」
「いや、辞典で殴られるのはもうこりごりだよ」
 額に脂汗を滲ませながら思い出す。あの日もエアコンががんがんに効いているのに汗が止まらなかったっけ。
「……なにか、いやらしい事を思い出している顔だね」
「いや、愛しい彼女のことを思い出している顔だよ。確か千鳥はちょうどそこに座っていて、僕はその向かいでぐったりと机に突っ伏していて……」
 ちょうどおばさんが休憩にとお菓子とジュースを持ってきてくれたんだっけ。勉強で疲れた僕はだらだらとスナック菓子をつまみながら文句を言ってたな……
 当時を再現するように千鳥の向かいに座って、だらしなく机にもたれかかる。千鳥も僕の意図に気が付いたようで、呆れたようにため息をつきながらも僕に付き合って当時の位置に座り、
「文句を言うなら今まで勉強をサボってきた自分に言うんだね」
 ニヤニヤと、当時の彼女そのままの表情で、そのままの台詞を口にする。
 いつの間にか机の上にはジュースとスナック菓子、それに参考書や雑な字で埋め尽くされているノートが載っている。
「仕方がないだろう? 僕の頭の八割は千鳥のことで埋まっているんだから」
「それならなおさら、頑張って勉強して同じ大学へいかないとね」
 少し頬を赤らめながら、悪戯っぽく笑って千鳥が僕の鼻を押す。その指でスナックをつまみ、口へ運ぶ。指に付いた塩気を舌が嘗め取る。艶かしい一連の動きに目を奪われ、無意識のうちに身体が前へと乗り出す。そして、
 カツン、とグラスの倒れる音がした。
『あっ……』
 僕らの声が重なる。慌てて伸ばした手が重なる。驚いた二人の視線が重なる。
 倒れたコップから流れ出たジュースが机から零れ落ち、床に広がるのも気にせず視線を熱く絡ませる。重なった手はいつしか絡み合い、互いをしかと結び付けていた。
 どれほどの時間が経っただろうか。カランとコップの中に残った氷が解けて動く音でようやく僕らははっとして動き始める。僕は倒れたコップを起こすために、彼女は床に広がったジュースを拭くために。
「結局、この後も勉強にならなかったんだよね。誰かさんのせいで」
 ふと現実に戻る。いやまあ、夢の中だから現実に戻るというのも何か変な話なんだが。
 いつの間にかテーブルの上にあった参考書やらお菓子やらこぼれたジュースやらは消えていて、床にごろんとだらしなく寝そべっている千鳥と中腰のまま固まっている僕だけがそこに在った。
「まさか突然発情して襲い掛かってくるとは思いもしなかったよ」
 若干歪められた事実に僕としては苦笑いするしかない。襲い掛かったのではなく押し倒した……じゃなくて足がもつれて転んでしまっただけだ。
「いや……自身の名誉のために言っておくけど、あれは事故だよ。足が痺れてもつれて転んだ結果だ。断じて故意じゃない」
「足を痺れさせて転ぶようなお間抜けに名誉もなにもないと思うんだけどねぇ」
 からかうように、挑発するように、彼女の口元が意地悪げにつりあがる。事故には違いないが、こちらが悪い分どうにも弱い。なにせ……転んで彼女を押し倒した挙句、どこぞのラッキースケベが日常な少年漫画の主人公よろしく彼女の(慎ましやかな)胸を鷲掴みしていたのは紛れもない事実なのだから。まぁ、その代償として顔を真っ赤にした千鳥に分厚い英和辞典で散々殴打された上にしばらく口も聞いてもらえなかったわけだが。
「そういう自分は少し泣いてたくせに……」
 ぼそりと小声で呟いたつもりだったが、彼女はどうにも地獄耳らしく、その辺に転がっていた参考書を投げつけられた。
 ただ……顔を真っ赤にして目じりに涙をためながらフーフー言っている千鳥は、敵を一生懸命威嚇している猫みたいでどこか可愛らしかったのも本当のことだ。もっとも、口が裂けてもそんなこと本人には言えないが。というか言ったら物理的に口が裂けそうだ。


   回想3
 再び場面が変わる。再び学校の校門前。例のダサいことこの上ない制服に、胸元には小さなバラのコサージュ。隣には僕と同じく制服にバラのコサージュをつけた――ついでにほんのりと化粧もした千鳥の姿。
「卒業式の日……かな?」
「そうね……誰かさんが愛しの彼女を置いて一人で暴走した日の記憶ね」
 口を少し尖らせてわかりやすく千鳥がいじけている。一見して冗談のようだが、実際これは彼女が本気で怒っているときの仕草でもあったりする。物凄く可愛いので個人的には小一時間ほど眺めていたい気分ではあるが、この状態の彼女を放っておくとろくなことにならないのは過去に経験済みだ。
「千鳥、まだあの時のこと怒ってる?」
「……べつに」
 不機嫌な様子を隠そうともせずにそっぽを向く。
「いや、ほら。だから最初は行く気がなかったんだよ? でも行けって言ったのは千鳥じゃないか。僕は千鳥しか見えていないっていうのに」
 わざとらしく囁きながら千鳥を抱きしめようとすると、酷く鬱陶しそうに手で払われてしまう。
 うん、やっぱり根に持っているみたいだ。
 ゆっくりと校門をくぐって裏庭にある桜の木のところへと向かう。僕から少し距離を置いて、口を尖らせ不機嫌オーラ全開な千鳥も付いてくる。
 それを見て、ばれないように小さくため息を吐く。
 あぁ、これは早めに何とかしないと面倒なやつだ、と。
 あの日はどうしたんだっけか。卒業式のあの日は……
 あの日、僕は見知らぬ後輩に手紙で呼び出されていた。つまり、所謂ラブレターというやつだ。
 最初は行く気はさらさらなかった。相手がどんな美少女であっても申し出を受けるつもりは一切なかったし、行けばそれだけ無駄な期待を持たせるだけだからと。
 そんな訳で、手紙を出した見知らぬ後輩ちゃんに悪いとは思いつつも、待ち合わせ場所に指定された桜の木の下には近寄らないようにしてさっさと帰ろうとした矢先のことだ。
「行ってあげなさいな。可哀想に」
 麻薬犬並みの鋭さでラブレターを見つけ出した愛しの彼女からの一言で恋人の監視下の元ラブレター返事をしに行くという非常に気まずいミッションが始まった。
 少し昔を思い出しながら歩いていると、件の桜の木にたどり着く。
 ここに来ると、未だにあの時の彼女の悲痛な叫びが聞こえてくるような気がする。

   ―――なんで私じゃダメなんですか!

 瞳に涙をためて、必死に、縋りつくように叫ぶ彼女の声を思い出す度に、自分はきっと地獄に落ちるんだろうな、なんて考えてしまう。
「先輩のことがずっと好きでした」
 瞳を潤ませながらそう告げる彼女を僕は完膚なきまでにふった。今にして思えばあそこまで言い切ることもなかっただろうに、当時の僕はあの状況下で人の心を気遣えるだけの余裕がなかった。
 可能な限り紳士的な態度で、彼女に希望の欠片もないことを伝える。
 半分は、彼女のことを思ってのことだった。
 僕が千鳥以外の女性を恋人にすることは絶対にありえないし、告白してきた後輩ちゃんは実際結構な美少女だった。僕なんかよりも、きっといい人が必ず見つかるはずだ。
 でも残りの半分は、自分のことだった。
 怖かったんだ。少しでも千鳥の機嫌を損ねて、彼女と一緒にいられる時間が短くなってしまうことが、どうしようもなく怖かった。
 僕は知っていたから。だから千鳥と一緒にいられる時間を邪魔する要因はすべて潰しておかなければ気が済まなかった。
 だから、僕は必要以上に告白してきた少女の好意を否定し、拒絶し、叩き潰した。
 その結果、
「君……少し、頭冷やしな」
 鋭い痛みと熱さを頬に感じて、僕は我に返った。
 目の前には大粒の涙を流し、地面に崩れ落ちている少女。そしてその少女を慰めながら嫌悪と怒り、そしてわずかな困惑の混じった表情で僕を睨み付けている千鳥の姿。
「あっ……ちが、これは……」
 言葉が出ない僕を置いて、千鳥は涙を流し続ける少女を連れて、そのまま何も言わずにどこかへと行ってしまった。
「あれからしばらく、千鳥は口を利いてくれなかったよね……あれは堪えたなぁ」
「君が悪いんだろう? 反省するんだね」
 未だ不機嫌な顔のまま、千鳥が僕の頬をぐにぐにと抓む。それを言われると何も言い返せない僕としては、黙って彼女にされるがままでいるしか方法がなく、
 ぐにぐにぐにぐにぐに……
 しばらくの間、無言で頬をぐにぐにされる。地味に痛いのでやめて欲しい。いや、僕が悪いんだけどさ。
「今にして思えば……」
 不意に千鳥が呟く。
「君はあの時にはもう、知っていたんだね」
 その問いに、僕は何も答えることができなかった。言い訳や誤魔化しの一つも出なかった。
「本当に、君はバカだなぁ」
 いつの間にか、僕の頬を抓んでいた指は離れ、僕より少し小さくて、少し温かな手が僕の頬を包んでいる。
「相談してくれればよかったのに……本当に、君はバカだなぁ」
 千鳥の顔が近づく。
「相談して、どうにかなる話でもなかったしね。心配もかけたくなかったし」
 お互いの額を触れさせる。唇は触れ合わない。ただ、お互いの存在を確かめ合うように、強く優しく額を押し付けあう。
「私は、心配させて欲しかったよ。それに、一緒に悩むことはできた……」
 お互いの顔が離れ、千鳥の不安に揺れる瞳が僕の目に映る。
「ごめん……」
 彼女にそんな瞳をさせてしまったことに居た堪れなくなって、思わず目を逸らす。
「いいよ、謝らなくたって。まったく、本当に君はバカだなぁ」
 だから、そう言った彼女がどんな表情をしていたのか、僕にはわからなかった。


   回想4
 再び場面が変わる。
 小さなワンルームのアパート。傷だらけのフローリングの中央には小さな机と部屋の大きさに見合わない立派な本棚。押入れには布団が二組。洗面所には一つのコップに二つの歯ブラシ。懐かしの、僕らの家だった。
「今見ると……いつ見ても、ほんと小さな部屋ね」
「主に千鳥の本棚のせいだと思うんだけどねー」
 千鳥は本棚をゆっくりとさすり、僕の方を見なかった。それはきっと仕方のないことだろう。そのくらい、この部屋は彼女にとって特別な場所だったのだから。
 もちろん、僕にとってもここは大切な場所だ。たとえここにいられたのがほんの僅かな時間だったとしても、ここは紛れもなく僕と彼女の、幸せだった思い出の詰まった家だった。
 高校卒業後すぐに、僕たちは大学の近くにアパートを借りて、二人で暮らし始めた。名目は大学通学のため。本音は……まあ言わずもがな、だ。両親には強く反対されたが、最終的には自分のわがままを通させてもらった形だ。
 この家から二人で大学へ通った。千鳥は存外朝に強くて、僕はいつも彼女に叩き起こされていた。文字通りの意味で。
 大学からの帰り道、スーパーに寄って買い物もした。二人して不器用で、今までろくに料理なんてしたことはなかったから夕飯は大概酷いあり様だった。それでも千鳥と食べた夕飯は、なによりもおいしかった。
 アパートにはお風呂が付いていなかったので二人で近くの銭湯にも通った。千鳥曰く、僕は男のくせに長風呂が過ぎるらしく―――もっとも、僕としては千鳥が烏の行水過ぎるだけだと思うのだけど、よく待ちくたびれて湯冷めしそうだと理不尽に怒られた。
 夜寝るときも当然二人で、それこそ最初のうちはどぎまぎして寝付けなかった。もっともそれは彼女も同じだったらしく、初日はお互い目の下にクマができていた。
 本当に、短い時間しかいられなかったけど、とても、とても楽しかった。
「ねぇ、千鳥。僕は本当に楽しかったんだ。君についてそれまで知らなかったことが知れた。千鳥が毎日5時半には起きるなんて知らなかった。実は不器用で料理下手だってことも知らなかった。本が好きだってことは知ってたけど、まさかこんな小さなアパートにあんな本棚を持ってくるほどとは思ってもみなかった。だから、ここでの暮らしは無駄なんかじゃなかったんだよ」
 決してこちらを見ようとしない千鳥の背中に一人語り続ける。
 彼女の肩は、よく見れば小さく震えていた。何かに耐えるように、震えていた。
 彼女がどんな表情をしているのかは、僕の位置からは見ることができない。見ることはできないが、容易に想像できる。そしてそれは、僕が望むものではなかった。
「僕はこの家が大好きなんだ。だから、千鳥にこの家を、僕らの家を嫌いになって―――」
「朝、目覚めたときに君はいなかった」
 僕の言葉を遮るように紡がれた千鳥の声は、やけに冷たく響いた。
「大学へも一人で行った。ご飯も、一人で食べることの方が多くなった。銭湯で湯冷めするまで待つこともなくなった。夜寝る時は、やけに部屋が広く感じられた」
 それは千鳥の心の叫びだった。
「その度に、君がいないことを思い知らされた。それでも、いつか君が戻ってくると信じて待ち続けた。なのに!」
 助けを求める、千鳥の慟哭だった。
「君は、戻ってきてくれなかった」
 僕は何も言えなかった。言えるはずがなかった。僕は……もう、いない人間なのだから。
 
 自分の身体の違和感に気が付いたのは、高校三年の夏のことだった。
 別に何をしているわけでもないのに、体重が減った。二年生の時と比べて急速に体力が落ちた気がした。慣れない受験勉強と夏の暑さでばてている。そう、考えていた。
 本格的におかしいと思い始めたのは夏休みが終わり、学校が始まってからのことだ。
 夏からの体重減少が止まらなかった。すぐに息が上がるようになった。急に背中に激しい痛みを感じるようになった。病院に行った結果、膵臓癌だと言われた。もう体のあちらこちらに転移していて、手の施しようがない。今すぐに入院して治療にあたっても、半年もてば上々。長くても来年はない。そう、宣告された。
 理解できなかった。理解したくなかった。理解できるはずがなかった。頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。なんで自分が、どうして、なぜ。負の感情がグルグルと頭の中を巡って気が狂いそうだった。
 そんな中、ふと頭をよぎったのは千鳥のことだった。
 もし、このことを彼女が知ったら。千鳥のことだ、きっと僕より悲しむだろう。自分自身のことのように悩んでしまうだろう。そして不器用な彼女のことだ。誰にも頼れなくて、一人でその悩みを抱え込んでしまうだろう。
「……どうにか、通いながら治療する方法はありませんか? できるだけ、周りに気付かれないように」
 気が付けばそう言っていた。
 こうして、僕の秘密の闘病生活が始まった。
 残った時間を最大限有効活用できるように、自分のための時間はすべて削った。千鳥と一緒にいる時間以外はすべて癌と戦う時間に充てた。
 どうにか両親を説得して、合格したところで通えるかどうかもわからない大学を受験させてもらった。
 家を出たいと言ったときはひどく反対されたが、最終的にはわがままを通させてもらった。
 すべては、自分に残された時間のすべてを千鳥のために使うため。彼女を悲しませないため。
 まぁ、結局そんな生活は長く続かず、最後には彼女を泣かせてしまったわけなんだけど……


   回想5
 そこは、見飽きた部屋だった。
 白い壁。白いカーテン。白いベッド。
 僕が、最後に見た景色だ。
 ここに来たのは、彼女との生活が始まって2か月が過ぎようとした日のことだ。
 発作のように、前触れもなく始まる痛み。いつもならじっと目をつむって耐えきれる痛みだ。しかし、この日はタイミングが悪かった。
 ちょうど夕食を終えて、食器を片付けようと立ち上がろうとした瞬間だ。
 痛みには堪え切れた。ただ、その拍子にバランスを崩し、前のめりに倒れこんだ。
 それだけで、僕の身体はもういうことを利かなくなってしまった。
 気が付けばこの白い部屋の中で、目の前には泣きじゃくる千鳥の姿があった。
 まずい。そう、思った。
 彼女の涙を拭い、ちょっと疲れていただけだと言い訳をしようとした。
 でも、できなかった。
 指の一本すら、まともに動かせなかった。舌が回らず、口からは意味不明なうめき声を漏らすのが精一杯だった。
 僕の身体は、もう死んでいた。
「それでも千鳥は、毎日のように僕に会いに来てくれたんだよね」
 千鳥が泣いたのは最初の一度きりだった。
 あの日以降、千鳥は一度も泣くことなく、意思疎通すらできない僕のところに毎日やってきては甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
 窓を開け、花を取り換え、汗を拭き―――その日あった何でもないことを話しながら、必死に涙をこらえて、会いに来てくれた。
 そんな千鳥を見るのは、何よりも辛いことだった。
 彼女に声をかけられないことが辛かった。彼女を抱きしめられないことが辛かった。何よりも、自分が彼女に辛い思いをさせている事実が辛かった。
 彼女を苦しませるくらいなら、死んだ方がましだ。何度そう考えて、実行しようとしたことか。
 舌を噛もうとした。でもダメだった。自分の舌を噛み切るだけの力が僕には残されていなかった。
 生命維持の機械を外そうともした。でもダメだった。そもそも指の一本すら動かない。
 死ぬまで息を止めようともしてみた。ああ、これは惜しかったな。でもあと少しのところで気絶して、やっぱり駄目だった。
 結局僕は、痛みの波に逆らうことなく病が僕を殺してくれるのを待つしかなかった。
 最後は酷く呆気なかった。
 それは白い部屋に入ってから2週間後、鮮やかな夕焼けの赤が窓から差し込む日のことだった。
 いつものように千鳥が来て、僕の身体を拭きながらその日大学であったことを話してくれていた。そんな時、大きな痛みの波がやってきた。波が襲い掛かってきた瞬間に、僕は理解できた。

   ―――あぁ、これでようやく死ねる。

 気が付けば僕は微笑んでいた。
 痛みの感覚はマヒしていた。ただ、自身の身体が冷たくなっていくのを感じる。どっぷりと闇の中に沈んでいくように、体の輪郭が薄れていく。その事実にただ安堵した。
 千鳥が僕を見て、少しだけ嬉しそうに微笑む。クスクスといたずらっ子のように笑いながら、大学での話を面白おかしく話しながら花瓶の花の世話をする。僕は霞む視界の中必死に千鳥の後を追って、温かな気持ちのまま死んだ。
 心残りがあるとしたら、千鳥に「ありがとう」と言えなかったこと。「ごめんなさい」と言えなかったこと。
 ただ、それだけだった。
 でも、その心残りも何の幸運だか果たせそうだ。
「千鳥……辛い思いをさせてごめん。そして、ありがとう」
 ありがとう……これで思い残すことはもう、何もない。


   エピローグ
 そこには何もなかった。懐かしい街も、学校も、二人で暮らした部屋も、最後を過ごした白い部屋もなにもない。上下の区別すらない、真っ暗闇だけの世界。そこに僕と千鳥ただ二人がいる。
「残念……もうちょっと話していたかったけど、もう終わりみたいだね」
 真っ暗な世界の中心で、千鳥は蹲っていた。耳を塞いで、目を瞑って、何もかもを拒絶しながら震えていた。
 そんな彼女を抱きしめる。生前できなかった分も込めて、優しく、力いっぱいに抱きしめる。
「夢から覚めれば、千鳥はすべて忘れる。僕も過去の人間になる。それでいいんだ。千鳥はもう、苦しまなくていいんだ」
「……いや。聞こえないよ。そんな自分勝手は聞こえない。私を置いて消えてしまうなんて身勝手は許さないよ」
 蚊の鳴くような弱々しい声……ではなく、思ったよりもしっかりとした、というか結構な怒りのこもった返事が返ってくる。
 ゆらりと立ち上がった彼女の瞳は、涙ではなく怒りに満ち溢れていた。
 あまりの剣幕に、思わず数歩後ずさりをしてしまう。
「えーっと、千鳥さん? もしかして……怒ってらっしゃる?」
「当り前じゃないか。それとも何か? 君は私が、あんな身勝手をされても笑って許すような、そんな都合のいい女だと思っていたのかい?」
 ……ここは普通、忘れたくない! とか、このまま目覚めなければいいのに! とか言うシーンじゃないんですか? いや、らしいといえばらしいんだけどさ。
 しかし、困った。こうなるとうちのお姫様はそうとう厄介だ。
「えーっと……うん、ごめんなさい。僕が全面的に悪いです。許してください」
「断る」
 即答ですか。そうですか、はい。
「だいたい、君は私が何に対して怒っているのか本当に理解しているのかい?」
「えっと……僕の病気のせいで君に辛い思いを―――」
「やっぱりわかっていないじゃないか」
 辛い思いをさせたから。そう答えようとして、食い気味に否定される。
「癌なんてどうしようもないじゃないか。誰が悪いわけじゃない。君は私がそんな理不尽な人間だと、本気でそう思っていたのかい?」
「いや、割と理不尽だったような……イエナンデモナイデス」
 キツく睨まれて思わず口を閉ざす。
 いやまて、何かがおかしいぞ。なぜこうなった。涙の別れかと思いきやお説教タイムとか、本格的に意味が分からないぞ。
「なんで……相談してくれなかった。なんで一人で抱え込もうとした」
「それは……」
「一緒に考えればよかった。言ったところでどうしようもなかったかもしれないけど、少なくとも後悔だけはせずに済んだ」
 千鳥に辛い思いをさせたくなかった? 彼女の辛そうな顔を見たくなかった?
 違う。僕は……事実を認めたくなかっただけだ。
「……ごめん」
 あぁ、確かに彼女が怒るのも無理はない。自分の病気を認めたくなくて、彼女に言わなかったなんて、確かに身勝手もいいところだ。
「まったく、失敗を隠す子供じゃあるまいし……本当に君はバカだなぁ」
 盛大に千鳥がため息を吐いて、呆れ果てたというように肩の力を抜く。そして、
「んっ!」
 酷く不機嫌な顔のまま両手を僕の方に突き出した。いや、えっと……これはいったいどういう状況なんだろうか?
 理解できずに途方に暮れている僕に対して千鳥はもう一度ため息を吐いて、少し恥ずかしそうに言う。
「抱きしめたまえ。病院に搬送された後にできなかった分、そしてこれから先するはずだった分を全部込めて。それで許してやる」
 千鳥は何かを堪えるかのように、僕を睨み付けていた。だから僕も、彼女の目の端にたまった涙も見なかったことにして、何も言わずに彼女を精一杯抱きしめる。
「ごめん……」
「いやだね」
「ごめん……」
「許さない」
 彼女の声は震えていた。
「ごめん……」
「ダメだね」
「ごめん……」
「絶対に、ゆる、さない」
 顔は見えないが、きっとそれは泣いているからではなく、怒りで震えているのだろう。
「絶対に、許さない、から……ね、寝て、起きたら、君のことなん、か……わ、わすれ、てやる」
 背中が濡れるのも、きっと僕の冷や汗が原因に違いない。千鳥は、泣いてない。
「少し、怒りつかれた……。私は、寝るよ。寝て、起きて、全部、忘れてやる。き、君の分まで、幸せになってやる。だ、だから……私が目を覚ますまでは、ずっと……」
「うん、わかったよ千鳥。おやすみ……」
 それ以降、僕らは一言も話さなかった。だって、千鳥は『寝る』と言ったんだから。
 何もない真っ暗な世界で、ただお互いの体温と、心臓の鼓動を子守歌に、僕らはゆっくりと『眠り』についた。
 やがて闇が薄れていく。同時に僕らの身体も薄れていく。それでも、最後まで千鳥の身体は離さないでいた。
 だって、それが彼女との最後の約束だから。
 誰が用意したのかわからない、奇跡の一時を、最後まで鼓動の子守歌を聴きながら……

   ―――さようなら、千鳥。本当にありがとう……

2016/06/11(Sat)18:39:58 公開 / 浅田明守
■この作品の著作権は浅田明守さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 最後の一文を書き上げ、浅田は大きく息を吐いた。そして、呟く。
「……どうしてこうなった?」
 という訳でどうも皆さま初めましてかこんにちは。BadEnd量産機こと浅田です。
 えー……ご、ごめんなさい?
 書いた張本人が一番わかっていないんですが、ほんとどうしてこうなったのだろうか? いや、死んだのは千鳥ではなく僕だった、という流れは書き始めから予定していたことなんですが、別れのシーンがなぜああなったし。プロローグだけ完全にキャラが物語から外れて勝手に動いていました。当初の予定では千鳥がわんわん泣きまくる予定だったのに……千鳥さんや、そんなに泣き顔を見られるのが嫌だったかね?
 ところで、一つご報告が。(こんなところで宣伝するなと怒られそうではありますが)今年(2016年)の夏コミ、当選しました! ここで出している小説とはちょっと毛並みの違う、クトゥルフ神話をモチーフとしたオリジナル小説を出品する予定です。みんな、夏のビックサイトで浅田と握手!
 最後になりましたが、多くのアドバイスや応援、称賛のコメントをくださった方々、そしてここまで読んでくださったすべての方々に感謝を。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。