『秘密の金魚』 ... ジャンル:ファンタジー リアル・現代
作者:水                

     あらすじ・作品紹介
耕哉、柳、猿投の三人は仲の良い中学生。主人公の耕哉は、三人で出かけた夏祭りで美しい金魚を捕まえるが、数日の間に家に忍び込んだ泥棒に金魚を盗まれてしまう。泥棒はなぜ金品を狙わず金魚だけを盗んだのか。その目的は何なのか。美しい金魚が周囲の人たちを狂わせていくお話です。

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1. 金魚すくい
 ひと目見て、欲しいと思った。
 水分を多く含んだ夏の風が吹き付けて、どこかの屋台につるされた風鈴が澄んだ音を立てた。夏の空気の湿り気も、夜を照らす白熱灯の温かみも、屋台の並ぶ通りを埋め尽くす人々の喧噪も、少女たちの着ている、色とりどりの浴衣の鮮やかさも、まるでどこか遠くのものに感じられていた。耕哉の視線はただ、水槽の中の一点に引き寄せられていた。
 屋台テントの四分の一ほどの面積を占める水槽の中では、たくさんの金魚が泳ぎ回っていた。その中で、体がほかの金魚たちより一回り大きくて、色合いも鮮やかな一匹に耕哉は引き付けつけられた。その金魚は、ほかの金魚たちにまるで遠慮することなく、ここには自分一匹しかいないとでも言っているかのようにゆったりと泳いでいる。
その美しい金魚に向かって、耕哉の傍らからポイが伸びてきた。そいつを捕えようとしているらしい。ポイは、金魚をうまく中央にとらえた。しかし金魚は胴を激しく動かして抵抗し、水にふやけた紙を破って再び水に潜った。ポイの主は、何度か捕獲を試みたが、やがてあきらめたのか狙いを小ぶりな金魚に変え、数匹を捕獲すると別の屋台へ移ってしまった。
ポイの主が暖簾をくぐるのを確認してから、耕哉は自分の財布の中の小銭入れを探した。いろいろ見たり、買ったりしたいものはほかにもあったが、一度くらいは挑戦してみる余裕はありそうだ。退屈そうに店番をしていた店主が、興味を持ったらしい耕哉に気づいて、声をかけてきた。
「一回、三百円ね」
 耕哉は三枚の百円硬貨を手渡して、それと引き換えにポイを受け取った。先ほど金魚を捕まえようとしたものと同じ、紙製のものだ。
「金魚すくいなんて、子どもみたい」
 傍らで、柳がバカにしたような表情を浮かべて耕哉を見ていた。柳は、今年初めて買ってもらった浴衣を汚したくないからか、去年と違って、屋台での買い物や遊びにあまり積極的ではない。昔は、お祭りといえば自分のほしいもの、楽しませてくれるものをすべて手に入れる場であったはずなのに。今年の柳は、着こなしの難しい(らしいと本人のいう)紫の浴衣の評判を気にしてばかりいる。
「どうせガキだよ俺は」
 耕哉はポイを水面に近づけた。
 金魚すくいにはコツがある。まず、獲物の動きを追いながら、金魚が水面すれすれまで上がってくるのを待つのだ。そして、水面まで浮上してきたところで、ポイを水に入れる。入れる角度は四十五度。水の抵抗で紙が破れてしまわないようにするためだ。それと、紙の上に金魚を乗せてはいけない。できるだけ、手元に近いところで金魚をすくうのだ。
獲物が水面すれすれまで上がってくるタイミングを見計らい、耕哉は金魚の腹の下にポイを滑りこませた。抵抗するかと思ったが、金魚はまるで眠っているようにおとなしかった。何度も狙われて、疲れていたのかもしれない。そんな思考が頭の中で言葉になるよりも早く、耕哉は片方の手に持ったお椀に金魚を放り込んだ。しかし金魚は体が大きく、重い。だから放り込んだときの勢いで、水でふやけた紙に穴が開いてしまった。まだ、小さい金魚ならあと数匹は捕えられそうだったが、もうポイの様子は気にならなかった。
使い終わったポイと金魚の入ったお椀を店主に渡す。
「こいつは、この水槽の主だよ。みんな苦戦してたんだ。よく捕ったな」
 店主は透明のビニール袋に金魚を移し替え、耕哉に手渡した。それと一緒に、どこかで仕入れてきた駄菓子を二つ差し出してきた。
「そっちの嬢ちゃんにもあげるよ」
 耕哉と柳は、各々ひとつずつ駄菓子を受け取って屋台を離れた。

 しばらく歩き回った後だったから、近くで休憩することにした。屋台の列から少し離れた場所に、木製のベンチが設置されている。幼いころから何度も参加しているお祭りだから、どこになにがあるかはよく把握しているのだ。提灯と屋台から漏れてくるあかりがその場所だけを丸く照らし出していた。幸いまだ先客はいなかったから、耕哉と柳は並んで腰を下ろした。
 あかりの下で、捕まえた金魚をもう一度眺めた。透明なビニール袋の表面を水滴が伝って地面に落ちる。金魚は袋の中でくるくると小さく円を描いていた。
「きれい」
 気づくと、柳の顔がすぐ近くにあった。暑さのためか、目の前の金魚の美しさのためか、頬が少し紅潮していた。陶酔に溶けてしまいそうな瞳は、袋の中の金魚に向けられている。もし柳の首の角度が、もう十度ほど耕哉のほうに向けられていたら、たぶん耕哉は恋愛か、それに準ずる感情に引きずり込まれていただろう。
「耕哉、と柳」
 耕哉と柳は二人そろって声のほうを向いた。友人の猿投だった。
「ここにいたか。もうすぐ、花火が始まるぞ」
 耕哉はすぐ行く、と応じて立ち上がった。
「悪いなあ、邪魔しちまって」
 猿投の見当違いな謝罪を聞き流しながら、耕哉はベンチから立ち上がった。
「なんだお前ら、金魚すくいなんてやってたのか」
 猿投は耕哉が手に持ったビニール袋を見て、ふふんと笑った。
「意外とガキだなあ」
 耕哉の隣では、柳が不服そうに猿投をにらみつけていた。

 広場にはすでに人が集まっていた。一歩踏み出せば誰かの頭とぶつかるような混雑具合だ。人込みをかき分けながら進む三人の頭上に、色取り時の炎が瞬いては消えていく。毎年、見入っていた光景なのに、今年はどうしてかあまり楽しめていない気がした。小学校を卒業してしまったからか、それとも片手から下げた金魚があまりにも美しいからか、そのどちらかだろうと耕哉は考えていた。

 花火は一時間ほどで終わった。花火を見終わって、お祭りのイベントはすべて終了した。耕哉、猿投、柳の三人は、連れ立って帰りの道を歩いていた。お祭りの喧噪とあかりがだんだん遠ざかっていく。捨てるタイミングを逃した焼き鳥の串が、間が抜けているけれどなんだが切ない。
と、耕哉の頬に一点、冷たい雨が打ち付けた。片手で頬を伝う水滴をぬぐった。あっと思った時にはすでに、勢いを増した雨が、容赦なく三人に襲い掛かってきていた。
「わっ、降ってきた」
 ここからだと、耕哉の家が一番近い。しばらく雨宿りしてもいいし、傘を貸してもいい。
「とりあえず、俺の家まで行こう」
 
 住宅街の中にある一軒家が耕哉の自宅だ。郵便受けの中に隠してあったカギを取り出す。家の中は誰もいないから、まっくらだ。防犯を考えて、あかりくらいはつけておくべきだったか。
「親はいないのか」
「うん、二人とも、今週はずっと出張だから」
 耕哉の両親は二人とも忙しい。頼りになるが、家族が一緒に過ごせる時間は少ない。
「そっか」
 柳は大変だねというような顔を向けてきたが、耕哉はそれに答えず玄関の扉を開けた。
「まあ入れよ。親がいない方が、好き勝手できていいだろう」

 タオルを一枚ずつもって、居間のテーブルで三人向かい合う。耕哉は台所からガラスのコップ三つと麦茶のボトルをもってきて、テーブルの上に置いた。
「ごめん、お手洗い借りても良いかな」
「部屋を出て、右な。一番手前のところ」
 柳が部屋を出て、リビングのドアが閉まったところで、耕哉は自分のコップに麦茶を注いだ。猿投はすでに自分のコップにお茶を注いでおり、ごくりと一口で飲み干した。のどが渇いていたらしい。
「柳は変わったな」
 猿投は廊下の向こうでドアが開閉する音を確認してから、そう言った。
「そうか?」
 猿投はコップに麦茶を注ぎ足し、二敗目の麦茶も一口で飲み干した、
「小学校のときは、めちゃくちゃおとなしくて、ほかのやつにからかわれたりしてだろ」
 小学生のころから、猿投は柳のことを心配しているのだ。
「確かに、小学校のときはおとなしかったけど、昔より、今はよく話をしてる。こんどクラスメートを家に誘う、みたいなことも言ってた」
「ま、もう心配しなくてよさそうだな」
 耕哉達三人は家が近く、幼いころからよく一緒にいる間柄だ。だから、互いの性格はなんとなく理解している。柳は、嫌なことを嫌だと、欲しいものを欲しいと言えない性格で、よく人にからかわれる。だから、猿投は柳のことを心配していたのだ。
「たぶんね」
 廊下の向こうで、もう一度ドアが開閉する音。廊下をゆっくりと遠慮がちに進んでくる足音が数歩聞こえたところで、リビングの扉が開いた。柳が戻ってきたのだ。耕哉は思わず、猿投のほうに身を乗り出す姿勢を改めて背筋をぴんと伸ばした。柳は、あからさまに不審な表情を浮かべている。
「なんの話してたの、私の悪口?」
 耕哉は一瞬言葉に詰まるが、猿投は面白そうに、
「お前が成長したなあ、って話をしてたんだよ、柳」
「どういうことよ」
「俺はうれしいぞ、あんなにちんちくりんだった柳が……」
 柳は右手を勢いよく前に突き出した。その拳は猿投の腹部にめり込み、猿投は飲みかけていた麦茶を口からこぼしそうになっていた。
 他愛のない話が始まったので、耕哉は、自身がよていしていた作業を進めることにした。リビングの脇に置かれた、空っぽの水槽を確認する。そこに、持ち帰った金魚を放り込んだ。アクアカタリストとしての知識はほとんどないが、とりあえず空気をぶくぶくさせるボタンを押しておけば大丈夫だろう、くらいの気持ちで、水槽の傍らにある機械の電源をコンセントにつなぎ、スイッチをオンにした。
「あ、晴れてきたんじゃない」
 下腹部を抑えてうつむく猿投をよそに、柳は窓の外に目をやった。雲の間からは月の光が漏れ始め、地上を覆っていた暗闇が薄らいでいく。
「傘はいらないな」
「そうだね、じゃあ、もう帰ろうかな。ほら、猿投くんも」
 猿投はよろよろと立ち上がる。
「ありがとう、耕哉くん」
「じゃーな耕哉」
 耕哉は玄関まで二人を見送った。外はすっかり雨が止んで、空の頂上には黄色い三日月が見えた。空中の水分がその光を反射しているのか、三日月の放つ淡い輝きが、黄色い絵の具を薄く、めいっぱいに引き伸ばしたように天上を覆っていた。

 二人を見送った後、リビングに戻って水槽の中の金魚を眺めた。ゆったりとひれを揺らしながら泳ぐ姿はほかの種とは別格だと思った。色合いが違うのか、たたずまいが違うというのか、迫力がある、とでもいうのか。なぜ自分が、こうも強くこの金魚にひかれるのか、耕哉にはまったく理由がわからなかった。
それと柳のことで、ひとつだけ気になっていることがある。猿投はともなく柳は、家にいる間中、水槽のほうに片時も視線をやらなかった。あんなに、この金魚のことを気に入っているようだったのに。まるで、意識して見まいとしているように思えた。それとも、単にもう興味を失ってしまっただけかもしれない。深く考えようとも思ったが、思考の鎖は数秒もたたずにあっさりと絶たれた。
それは、目の前の金魚の美しさが、耕哉の中に生じた違和感を跡形もなく流し去ってしまったからだ。

2. 泥棒
「ごめん、今日はちょっと用事があって。明日なら、大丈夫なんだけど」
「わかった、明日ね。初めてだなー、やなちゃんの家行くの」
 柳は、小学校のときと比べるとずいぶんよく話をするようになった。それも、柳と親しくしている安野という女子生徒のおかげだろう。安野は人の上に立つことが好きな性格で、学級委員だとかの委員を進んで引き受けるような人間だ。少しきつい印象を与える顔だちで、細いフレームの眼鏡がやたら似合う。その割に柳のことを、「やな」ちゃん、と呼び始めたのは彼女が最初だったと耕哉は記憶している。まじめが過ぎて他人を圧迫することもない。ともかく安野のおかげで、柳はクラスメートからも一人のキャラクターとして認知されることになったのだ。
「耕哉、安野さんがそんなに気になるのか」
 クラスメートのひとりが机のそばに立っていた。耕哉からすると、安野はどちらかというと苦手なタイプである。
「今日宿題出してなかったからさ、何か言われるんじゃないかと警戒してる」
 クラスメートは面白そうに笑った。
「何か言われる前に、今日はさっさと帰ろうぜ、それとな」
 クラスメートは拳を握りしめた。
「今日こそは負けないぞ、耕哉」
「いいだろう、返り討ちにしてやるよ」
「場所はどうする?」
「商店街のGAME TIGERでどうだ」
「いいだろう、放課後、そこに集合な」
 実を言うと、柳も結構格ゲーがうまいのだ。ついでに誘っていこうと思ったが、今日は用事があるからと話をしていたことを思い出して、やめた。


 ゲームセンターは学校から家に帰る途中の商店街の中にある。距離的に訪れるのが難しい場所ではない。けれども。遊ぶことのできる時間は、下校後のほんの数時間に限られる。
「中学生はもう帰る時間だ。早く出てけ」
 GAME TIGERの店員は、耕哉とクラスメートをゲームセンターからたたき出した。クラスメートがぼやく。
「六時以降は立ち入り禁止。未成年のつらいところだな」
 暮れかけた空はまだまだ明るい。遊ぶ時間は十分あるのに。
「全く。せっかく親がいないのに」

 クラスメートと別れて帰途についた。しばらく一人で歩いて、自宅にたどり着く。自宅のドアノブに手をかけたところで、ふっと思い出した。両親は出張しているのだった。そのことを忘れて、鍵を開けないままノブをひねってしまった。
 しかし、ノブは抵抗を示すことなく回り、力を加えるとドアはいつも通りに開いた。両親が帰ってきているのかと思ったが、玄関の靴を見て違うとわかった。今朝出かけるときと比べて、靴の数も、その種類も、何も変わっていないからだ。
 鍵をかけ忘れたのかと思った。靴を脱いで減にあがった。知らないうちに、首筋から汗が流れ出しているのに気づいた。流れ出した汗は、たぶん暑さのせいだけではない。嫌な感覚が胸の奥の方からじわりじわりと広がって、全身が少しずつ硬直していくのを耕哉は感じていた。
 ゆっくりとドアを開け、リビングに入る。一見。特に荒らされた様子はなかった。引き出しやタンスを開けて、通帳やハンコ、貴重品の類がなくなっていないかを確認する。幸い、何も盗まれてはいないようだ。自分の財布も、普段から持ち歩いているから問題ない。どうやら、本当に鍵をかけ忘れただけだったようだ。
 ほっと一息ついたところで、壁際に設置した水槽に目をやった。夏祭りで捕まえた、美しい金魚がいるはずの水槽だ。
 しかし、耕哉の予想に反して、水槽の中では水草が揺れているばかりだ。耕哉の捕まえた金魚は、その中からいなくなっていた。

 水槽の中には、十分な水と、底に敷き詰めた砂と石、それと水草の類しか入っていない。金魚が隠れるようなスペースがどこかにあるだろうか。水槽から飛び出して、床に落ちたのかもしれないとも思ったが、床は濡れていないから、その可能性もないだろう。
誰かが、この家に入って、金魚を持ち去って出て行ったのかもしれない。
 耕哉は自宅の電話を手に取った。父親の番号をダイヤルする。呼び出し音が鳴る、けれど父はなかなか電話に出ない。焦る一方、冷静に考えると、この状況をうまく説明できるか自信がなくなっていた。
 もし誰かが家に入ったことが本当だとしても、自分が昨日屋台で取ってきた金魚が盗まれたことを、どう説明したらいいだろうか。父は、そもそも耕哉が金魚を取ってきたことも知らないのに。
『留守番電話に接続します』
 父の携帯にはつながらなかった。むしろ耕哉はほっとしていた。
 きっと、あの小さな岩の裏側に、水草の隙間に、器用に隠れていて見えないだけだろう。耕哉は、まったく自分でも納得していない理由を無理やり作り上げて、考えることをやめた。水槽を覗き込んで中を詳細に調べることはしなかった。
 泥棒が、金品目当てで家に入り、金魚の美しさにひかれて金目のものを忘れて出て行ってしまった、などという推測を、誰かが信用してくれるとは思わなかった。
 胸の奥から湧き上がってくる不安を押し殺しながら、耕哉は玄関から出て、郵便受けの鍵を回収した。そして、外が暗くなると家中の明かりをすべて店頭した。眠るときには、金属バットを枕元に置いた。両親が帰ってきたら、何と説明しようか本当に困りそうだと思った。

 水槽から金魚がいなくなった日、耕哉はよく眠れなかった、だから、次の日は体調がすぐれなかった。朝、ベッドから起きて身支度を整えるのがとてもつらかった。登校中も、ふらふら歩いているところを後ろから自転車に激突されそうになった。さらに、赤で横断歩道を渡ろうとしてしまい、鼻先をトラックのホロがかすめていった。
重い体を引きずりながら教室に入ったところで、後ろから思い切り肩を叩かれた。猿投だった。そのまま歩き去ろうとしたら、今度は肩をつかまれた。
「なんか言えよ」
「眠い」
 耕哉はそのまま自分の席に着席した。

「やなちゃーん、今日の夕方は家に行ってもいいよね」
「良いよーいつでも」
 安野と柳は、いつもよりも元気そうだ。放課後、二人は仲良くそろって教室から出て行った。何人かのクラスメートも一緒だ。猿投のしていたような心配は、もう必要ないことがはっきりとわかった。

「今日もぼやっとしてやがるなあ」
「うるせえ」
 次の日も、相変わらず体調がすぐれなかった。教室の前まで来たところで、猿投が入口をふさいでいて、ますます疲労がたまっていく。
「どいてくれ」
「いいだろう、俺を倒すことができればな」
 いつもなら相手をしているところだが、今日ばかりはいら立ちが募るばかりだ。後ろの扉から教室に入ろうと踵を返しかけた耕哉の後ろから、細い腕が伸びてきて、猿投のみぞおちを鋭く捉えた。
「倒した。行きましょう」
 柳は猿投の傍らを颯爽と通り過ぎる。その背に向けて手を伸ばす猿投のしぐさが、妙に芝居がかっていて面白い。
柳はそのまま自分の席まで歩いていく。途中、安野とすれ違った。そこで何かを声をかける。昨日のことで、何か話をしようとしているのだろうか。
 しかし声をかけた柳に対して、安野は返事を返さずにそっぽを向いた。柳は、一瞬ぎこちない笑みを浮かべて安野が席に着くのを見送ってから、自分も席に戻った。明らかに元気がない様子で、顔がうつむいている。安野のほうをできるだけ見ないようにしているようにも思えた。
 その様子を見て、耕哉は違和感を覚えたが、他人のことに気を配っている余裕はなかった。とにかく眠いのだ。絡みついてくる猿投を振り払って、耕哉も着席した。
 その日も全く授業に集中できなかった。目をつむっては開けての繰り返しで、瞼を開けたままにしておくためにすべての労力を割かなければならなかった。

3. 異変
「耕哉」
「なんだよ」
「クマ」
 猿投は、自分の眼の下を人差し指で示した。
「熊?」
 耕哉は指を鋭い爪に見立てて、両手を顔の前にあげた。
「寝ぼけてんのか」
 猿投はくすりとも笑わなかった。
盗難事件の日から一週間が過ぎた。しかし耕哉はまだよく眠れていなかった。金魚がいなくなったことを除いては、特別なことは何も起きていない。けれども夜、一人で家の中にいると不安な感情が胸の底から湧き出してくるのだ。今朝起きた時も、悪い夢を見た後の感覚が頭の中に残っていた。
「耕哉、お前もか。なんかあの祭りの日以来、何か変だな」
「お前も?」
「柳のことだ。やっぱり、お前ちょっと変だな」
 猿投はやれやれといった様子だ。猿投にそんな態度を取られるとは、耕哉はよっぽど調子が悪いのかもしれない。猿投は、少し声を潜めて、
「柳と安野、全然話をしなくなったと思わないか」
 気のせいだろう、と言おうと思ったが、今の状況では何を言ったところで信用してはもらえないだろう。
 しかし実際のところ、少し注意を払えばその変化にはすぐ気が付いた。安野は教室の中央で何人かの女子生徒と混じって話をしているが、柳はその輪からぽつんと離れたところで本を読んでいた。昼休みも、お弁当をさっさと食べ終えてすぐにどこかに行ってしまう。そんなことは全く気にかけない様子で、安野たちはひとしきり騒いだ後、お弁当のにおいのこもった教室から逃げるようにでていった。
 結局、授業がすべて終わった後も、安野はいちども柳に話しかけなかった。柳は、クラスメートとの間を安野に取り持ってもらっている部分があった。だから今の柳はまるで、ロープが切れてしまった小舟のようにぽつんと孤立していた。

 昇降口から夕陽が差し込んで、廊下全体を赤く染め上げている。ちょうど、柳が校舎から出ていこうとするところだった。耕哉は手早く上履きから靴に履き替え、柳の後を追った。
「柳!」
 目の前の華奢な体が、ばね仕掛けの人形みたいに軽く飛び上がる。小走りに隣に並ぶと、柳は一瞬目を合わせてすぐに視線をそらした。耕哉は、柳の姿を目の前にして言葉を失った。
「どうしたんだ、その恰好」
 柳は、頭から水をかぶったみたいにずぶぬれだった。髪の先から滴が落ち、制服はぺったりと体に張り付いていた。
「大丈夫だから」
 柳は歩くスピードを速めた。柳は早く話を終わらせたがっているようだ。
「柳、もしかして安野たちに何かされたのか」
「なんでもないよ」
 柳は歩くスピードを緩めない。耕哉は、思わず柳の肩に手を伸ばした。
その手が触れた瞬間、柳は肩を大きく振って、乱暴に耕哉を振り払った。立ち止まる。柳は耕哉の目をまっすぐ見つめていた。耕哉は自分の背を、何か冷たいものが駆け上がるのを感じた。
「耕哉くんには関係ない」
 柳の瞳は、色彩を失って灰色に濁っていた。まぶたはきちんと開いているのにうつろで、耕哉の姿を全くとらえていない。今日、猿投と話したときのことを思い出した。自分も、同じ目の色をして柳を見つめているのだろうか。
 と、灰色の瞳が、白い紙に落とした墨汁みたいににじみ、柳は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
「これは代償だから」
 そのまま踵を返して、耕哉から逃げるように走りだした。追いかける気力は起きなかった。

 次の日から、柳は学校に来なくなった。体調不良だと担任は説明した。耕哉は自分の席から、ちらりと安野の様子をうかがったが、安野は近くの席の友人と何か話をしていて、担任の話なんて聞いてもいないようだった。

「柳、本当に体調不良だと思うか?」
 購買に押し寄せる生徒の列を眺めながら、猿投が聞いてくる。昼休み、猿投はわざわざ耕哉を、普段は利用しない購買に誘った。誘われた時点で、何の話かは察しがついていたが、果たしてその通りだった。耕哉は少し声のトーンを落とした。
「昨日の帰り、柳に会ったんだけど」
 ずぶぬれのまま帰ろうとしていて、話しかけても全く耳を貸してくれなかったこと、泣きながら「代償だから」と走り去ってしまっていったこと。簡単に説明したが、柳の肩に手をかけようとして拒絶されたことだけは、話をする気になれなかった。
 猿投は思案するように眉間にしわを寄せる。視線の先は購買のパンが並ぶケースに向けられているから、隣で見ていると買うべきパンを過度に真剣に選んでいるように見える。耕哉は思わず笑ってしまった。
「なんだよ、笑いごとじゃないだろう」
「ごめん、ホントごめん」
 適当に買い物を済ませた後、渡り廊下から外に出て、部室棟のそばの段差に腰かけた。昼休みは、運動部の部室に人が出入りするから、この辺りは屋外で一番騒がしい。耕哉は今さっき購入した、カレーパンにかぶりついた。
「柳の言う『代償』っていうのはいったい何なんだ」
 それは耕哉も気になっていた。日常会話の中で使うにはあまりにも大げさな言葉だ。
「安野の気に入らないことを、何かしたのかも」
 それこそ、本人に聞いてみないことにはわからないが。二人で話していても、何もことが進展する気がしなかった。
 昼休み終了の予鈴がなった。ごみを適当に丸めながら、猿投は慌てて立ち上がった。

4. 犯人
 柳が来なくなったまま一週間が過ぎた。ホームルームを終えた金曜日の夕方、弛緩した空気の中で、耕哉はひとりだけ落ち着かない気分でいた。
柳の席は、相変わらず空っぽのままだ。
 ずぶぬれになった柳が、泣きながら走っていった時のことを思い出す。そのことを放っておいたまま、土日を休んでいられる気がしなかった。
 担任は挨拶を終えるとさっさと職員室に戻ってしまった。柳については、病欠だと説明したまま詳しい話はされていない。
 耕哉はカバンを持って立ち上がり、柳の机のそばに寄った、机の中から、一週間分たまっていたプリントや返却されたノートを取り出してファイルにまとめた。
今、耕哉が家を訪れたところで柳は嫌がるだけだろうか。
しかし、もし柳が誰にも会いたくないと思っていたとしても、渡すものだけ渡して返ってしまえばいい。耕哉は柳の持ち物も一緒にカバンにしまって、教室を後にした。

 柳とは小学校の時からの中だから、互いの家の場所はわかっている。耕哉の自宅から、徒歩で十分も離れていない場所だ。
 インターホンを押すと母親が出てきた。耕哉の訪問に驚いたようだったが、すぐに理由を理解した様子だった。耕哉はカバンからノートとプリントを取り出した。そのまま渡して帰ってしまおうと思ったが、
「ありがとう、耕哉くん。もし、迷惑でないなら、あの子と少し、話をしていってくれないかしら」
少し迷ったが、耕哉はうなずいて家に上がった。柳は自分の部屋にいるという。階段を上がって左手、二番目の部屋だ。母親から説明を受けた通り階段を上がる。目的の部屋のドアには鍵がついていなかった。そのまま開けて押し入るのも気が引けたので、二度、軽くノックする。はい、と中から返事が聞こえてくる。いつも以上に、頼りなげな声色だ。まだ状況はあまりよくなっていないのだろう。耕哉はゆっくりとドアを開けた。
 部屋の中央には足の短いテーブルがあった。その上には、両手で持ちあげられそうな小ぶりな水槽だが置かれていた。
その中では、夏祭りの屋台で耕哉を魅了し、その後自宅の水槽から突然消え去った、あの美しい金魚がゆったりと泳いでいた。

 柳は傍らに座り、あきらめたような表情をして耕哉のほうを見ていた。
「わかってるかもしれないけど、これ、耕哉くんの捕まえたやつだよ」
 柳の目の前に座って、その顔を正面から見つめた。柳の目は相変わらず、奇妙な色に濁っているように、耕哉の目には見えた。
「やっぱりいつまでも隠しておくのは無理だね。勝手に家に入って、不安にさせてごめん。捕まる覚悟はしてるよ?」
 柳は水槽の中の金魚を名残惜しそうに眺めている。
 一週間前、耕哉の家に入り、金魚を持ち去ったのは柳だった。
「いや、警察にも親にも言わないよ。金魚なら別にあげたっていい」
 柳は目を丸くした。柳を責める気はなかった。金魚の、この美しさを目にしたら、自分のものにしてしまいたくなってしまう気持ちはよくわかる。柳は、欲しいものが欲しいといえない性格をしている。だから、目の前の金魚の美しさとに惑わされて、耕哉の家に忍び込んでしまったのだと思う。
「いらないの? この子」
「いいよ、僕はもう。それより、話せるならいろいろ話してくれよ。安野のこととかもさ」
 柳は水槽の中の金魚を眺めながら、簡単にいきさつを話してくれた。
「夏祭りの後、耕哉くんの家で雨宿りしたでしょう。あの時、郵便受けにカギを隠してるのを見たときから、ずっと盗み出して自分の部屋に飾ることしか考えられなくなったんだ。バレるのは時間の問題だと思ったけど、せめてそれまでは」
 金魚がその口の先で水槽の端をなんどかつついた。なんだか慰めているようにも見える光景だ。
「自分のものにしてたいなあと思って」
 柳は放課後、耕哉が帰宅するよりも先に自宅に行き、郵便受けからカギを取り出して、金魚だけを盗み出したのだ。
「この金魚は、魔性ってやつだね。安野さんもそうだったし」
 柳が、金魚を移し替えた水槽を自分の部屋に置いた後、安野たちクラスメートが部屋を訪れた。水槽の中の金魚を一目見た安野はそれを欲しがった。安野は、柳に金魚を差し出すように要求した。柳はどこかに隠しておかなかったことを後悔したという。つい、友達だから見せたくなったのだとか。
「いつもならあっさり押しに負けちゃうんだけど、この時だけは『嫌だ』って言えたんだ。安野さんは気分が良くなかったみたいだけど」
 安野が柳に対して友好的な態度をやめてしまったのはこの時のやりとりがきっかけだった。安野と、その取り巻きの嫌がらせは少しずつ過熱していき、最終的、昇降口でずぶぬれになった柳と、耕哉が顔を合わせることになったのだ。
「もうだいぶ落ち着いたよ、私も。それに、自業自得だしね」
 柳は水槽の端を指でつついた。金魚がその指に食らいつこうと何度もガラスの表面に頭を打ち付けてくる。
「その金魚は、どうする。柳が飼ってもいいし。僕はたまに見に来るだけで十分だ」
「すごいね、耕哉くん。この子に、くらくらにならないのは」
 柳は名残惜しそうな目で金魚を眺めている。耕哉は返事をしなかった。
「そんな耕哉くんにお願いがあるんだけど」
「なに」
 柳は耕哉の目を見つめた後、もう一度水槽の中の金魚に視線を落とした。名残惜しそうな表情を浮かべた後、強く目をつむって、水槽を耕哉のほうに押し出した」
「この子、どこかに捨てて来てくれないかな」
「いいのか」
 柳は返事をするのにも、一瞬ためらっていた。
「うん、それにたぶん、この金魚をいらないって言えるのは耕哉くんだけだと思うんだ。どうして、耕哉君は大丈夫なのかな」
 柳はずっと目をつぶったままでいた。
「俺だって惜しいさ。だけど、やっぱり回りにいる人のほうが大事だと思うから」
「強いね」
「買いかぶりだと思うけどね」
 耕哉は、水槽を持って柳の家を後にした。柳は玄関まで見送りに来てくれた。柳に背を向けて歩き出したところで、服の裾を後ろから軽くつかまれた。柳は、うつむいて地面を見ている。前髪が目の上にかかって、表情は見えない。けれども、耳と頬が紅潮し、小刻みに震えているのがすぐにわかった。
「ごめん、本当にごめん。私は、本当にどうかしてるみたい」
「気にしてないから、今回ばっかりは、本当にしかたがないんだ。この金魚だけは、本当に特別なんだ」
 柳はうつむいたままだ。
「そうだろう」
 柳は首を振る。縦に振っているのか横に振っているのかよくわからないのだが。それと、決して前を向こうとしないのは、金魚を目にしたら心が揺らいでしまうとわかっているからだろう。
「こいつは、確かに捨ててくるよ、それで、万事解決だ。もう心配ないよ」
 今度は、柳は小さくうなずいた。耕哉は今度こそ、柳に背を向けてもと来た道を歩き出した。

5. 魔性
 夏祭りのあった神社のそばには、小さな池がある。人はあまり寄り付かず、周囲を木に囲まれていて誰かに見つけられる心配もない。金魚を放すには一番良い場所だと思った。金魚が池の中で生きていける生命力を持っているのかは疑問だが、持っていないほうが耕哉としては都合がいい。
 人が踏みならした道を外れて、林の中に入っていく。少し進むと森が開けてきて、目の前に池が現れた。池の表面に移った夕日がゆらゆら揺れている。
耕哉は池のそばに、だれかが立っているのに気づいた。その人物は始め池のほうを向いていたが、森の中から現れた耕哉に気づいて振り返った。耕哉の顔に目をやった後、手元の水槽に視線を落とす。それから、もう一度顔をあげて耕哉を見た。
「君は、あの時の」
 数秒の間を置いて耕哉は思い出した。金魚すくいの屋台の店主のおじさんだった。

「その金魚は、気に入ったかい」
 おじさんはお祭りのときとはうってかわって穏やかな表情を浮かべている。耕哉は答えた。
「ええ、怖いくらいに気に入りました。僕も、僕の友人も」
 おじさんはやっぱりそうか、と言った風にうなずく。普通に話をしているだけなのに、なぜか落ち着かない気分になっていた。
「でも、こいつは放そうと思ってます」
 おじさんは驚いたように目を丸めた。
「どうしてだい」
「こいつのせいで、困ったことがあったんです。事情が複雑で、詳しくは説明できないんですけど」
 少し考えた風に首をひねる。こうしてみると、ただの愛嬌のあるおじさんにしか見えないのに、全く信用できる気がしないのだ。
「放すつもりなんだね」
「はい」
 耕哉は、念を押して訪ねてくるおじさんに、言いようのない恐怖を感じていた。
「じゃあその金魚を、私に預けてくれないか」
 耕哉はおじさんを顔をまっすぐに見た。柳がそうなっていたのとは違って、異質な所作や特徴は見受けられない。金魚に魅入られてしまったわけではないのだ。それなのに、なぜこんなに不安な気分になるのだろう。
「どうしてですか」
 おじさんは駄々をこねる子どもを前にしたみたいにやれやれとかぶりを振った。
「池に放されると、捕まえるのに手間がかかるからね」
 一歩、前に進んでくる。耕哉は思わず後退した。おじさんはおかしそうに笑った。
「それじゃあ説明にならないか。そいつは、私の商売道具なんだよ」
 さも面倒くさいといった口調だ。
「そいつをプールに放しておくと、客入りが良くなるんだ。しがない商売だが、そいつのおかげで少しは実入りが良くなる。だから、もし放すつもりなら返してくれないか」
 耕哉は泣きながら走っていった柳のことを思い出していた。この金魚は、かかわる人を不幸にするのだ。そして、この大人はその元凶なのだということがわかった。
「君の周りでも、誰かが不幸になったんだろう。それで、その金魚がなにか悪さをしていると考えた。それで、池に捨てようとしている。そうだろう」
 耕哉は返事をしなかった。
「なんで逃がそうなんて思ったんだい」
「それは、僕の手元に置いておきたくなかったから」
「質問を変えようか、なんで殺さないんだい。また、そいつのせいで誰かが不幸になるとわかっているのに。君は私のことを悪者だと思ってるみたいだけど、君だってそうじゃないか」
 おじさんは水槽の中の金魚に目をやる。
「君も私と変わらんよ。周りで誰かが不幸になっても、傷ついても、その金魚を殺すことはできないだろう」
 金魚は、自分には関係ないとでもいうように、明後日のほうを向いて水中を漂っていた。
「私も、そいつが人を不幸にしていくさまを見ていくのが本当に楽しいんだ。君も、すぐにわかるよ」
 誰もこの金魚を殺すことができないのを、おじさんは確信していた。そうなのだ、柳の家から出たところで水槽を地面にたたきつけ、金魚を殺してしまえばすべて終わったのだ。その通りだった。耕哉は金魚を殺すことを躊躇していた。
 耕哉は水槽の中をじっと見つめた。ガラスの表面に、光がほんの僅かだけ反射して、妙な形にゆがんだ耕哉の顔が映っている。
「さ、逃がしたところで私が捕まえるだけだ。ちょっと良心の呵責は感じるかもしれないが、大したことじゃない。はやく、渡してくれないかい」
 おじさんは一歩ずつ近づいてくる。耕哉はその場に立ち尽くしたままだった。金魚は突然、狂ったように水槽の中をぐるぐる回り始めた。
 二本の手が水槽に向かって伸びてくる。耕哉は水槽を手前に引いて、おじさんの手をかわした。水槽の中の水がはねて頬にかかる。おじさんはちっと舌打ちした。
 耕哉はそのまま水槽を振り上げた。そしてガラス製の水槽を、地面に向けて思い切り叩きつけた。
 ガラスの破片と水しぶきが四散した。たたきつけられた勢いで、金魚は遠くのほうへ飛んでいった。おじさんは慌てて身をかがめ、金魚を手に取ろうした。
 しかし、手を伸ばしかけたところで動きが止まった。金魚の体には、体の半分くらいの大きさのガラス片が突き刺さっていた。痙攣したようにひれと口を動かしているが、もう生きられないのは明らかだった。
 おじさんは眉を八の字にして、一瞬だけ泣き出しそうな表情をした。そのあと、何かを吹っ切ったように笑い出した。耕哉は後ずさりし、逃げ出そうと踵を返した。
「君が初めてかもしれないな、こいつの誘惑に打ち勝ったのは」
 おじさんは金魚を拾いあげると、広場の隅に穴を掘り始めた。耕哉はその様子を黙って見ていた。
「君は惜しくなかったのかい」
 おじさんは作業を続けながら聞いてくる。
「惜しくないわけないでしょう」
 正直な気持ちだった。
「ただ、それよりも大事なものがあったっていうだけです」
 おじさんはそうか、と聞いているのかいないのかもわからないような返事をして、自分の作業に戻ってしまった。耕哉は今度こそ、踵を返してその場を後にした。

6. 秘密の金魚
 週が明けた月曜日から、柳は学校に戻ってきた。安野との仲がもとに戻ったのかはよくわからない。
「おはよう、安野さん」
 教室に戻ってきた柳は、以前よりも明るい表情をしていた。周囲のクラスメートが、驚いたような様子で柳のほうを見ている。柳は彼らの視線など意に介さない様子で、自分の席にさっと座った。その顔はもううつむいていなくて、まっすぐ前を向いている。
 金魚の呪縛から解き放たれるのと同時に、柳は自分を縛っていた何かから自由になれたのかもしれなかった。
 柳が、安野と今後どういう関係を築いていくのかはわからない。けれども、それはたぶん以前とはかなり違ったものに、それも、きっと良いものになるだろうと耕哉は思った。
「結局、柳と安野の間に何があったんだろうな」
 猿投はその話題になるたびに首をひねる。金魚を盗んで、勇気をもって手放したんだ、と言おうと思ったが、説明したところでわかってくれるとは思えない。 
 あの金魚は、特別だ。どこから来て、なぜ人を魅了するのか。それは誰にもわからないことなのだ。
耕哉は、さあとあいまいに答えを濁して、詳細を話すことはしなかった。

 その日、学校から家に戻ると、また玄関の扉が開いていた。初めは警戒したが、確かに今朝は、間違いなく、鍵をかけたのだ。あの事件以来、施錠については気を使いすぎて体力を消耗するほど気を使っているのだ。不安はなかった。
 ドアを開けると家の中から、
「誰だ、耕哉か?」
 リビングのほうから誰かが顔を出す。久しぶりに休みが取れたのか、父が帰ってきていた。耕哉は慌てて、リビングに駆け込んだ。
 机の上に鞄を置く。父は食事用のテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「耕哉、水槽のエアレーションがつけっぱなしだぞ」
 エアレーションは、あの空気をぶくぶくやる機械のことだ。あれから勉強したから、耕哉にもわかる。
「いいんだよ、これで」
 耕哉は空っぽの水槽の中に目をやった。もう金魚はいなくなった。けれど、何もなくなったわけではない。
「父さん、この水槽、僕の部屋にもっていっていいかな」
 父は気軽に答える。
「いいぞ、何か、飼うつもりなのか」
「うん、でも何を飼うかは今考えてる途中」
「そうか。組み合わせには気をつけろよ、中には一緒の水槽にいるやつを食べるのもいるからな」
 父の許諾を得て、水槽を二階の自室まで持って上がった。部屋の片隅に用意したテーブルの上に、水槽を置いてコンセントを入れる。エアレーションは重要なのだ。切ってしまっては、うまく育たない可能性がある。
 耕哉は、水槽の中に浮かべた水草の中に目を凝らす。水草の間には、小さな無数の粒々があって、その中では新しい生命がすぐにでも生まれ出ようとしていた。
 あの金魚は、水槽の中に卵を残していったのだ。
 
 金魚を殺すことはためらった。けれど、柳やほかの人に知られたままにしておくのは良くない。友人が大切なのは、本当だった。けれど、耕哉は柳がそうだと評したほど強い人間ではないのだ。こうして保険がかかっていなければ、耕哉もどういう行動に出ていたかわからない。
 柳と一緒に、金魚すくいをしたことが間違いだった。初めから一人で、誰にも知らせず、こっそりと飼うべきだったのだ。その教訓を、次からは生かそうと思う。
 友人にも、金魚屋の主人にも、父にも、母にも、当然、柳と猿投にも絶対に教えない。この金魚は、今度こそ、自分だけの秘密なのだ。これから生まれ出る子どもたちが、耕哉の殺した金魚より、ずっとずっとう美しく育ってくれればいい。そのための努力を、耕哉は惜しまないつもりでいる。三百円やそこらの出費では、全然足りないだろう。
 そう誓って、耕哉はひとりほくそ笑んだ。水草に産み落とされた無数の卵の中から、一対の黒目が耕哉のほうを覗いていた。

2015/12/31(Thu)01:32:40 公開 /
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■作者からのメッセージ
「ライ麦畑で捕まえて」で主人公の兄が書いた小説「秘密の金魚」を勝手に想像して、かついろいろ自分の趣味でいろいろな設定を付け加えていった作品です。エンタメ的な面白さが感じられるか、客観的な評価をいただきたく投稿しました。一読いただけると嬉しいです。

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