『郭公の巣の中で彼女が埋めた卵は孵る 完結』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:水芭蕉猫                

     あらすじ・作品紹介
 久しぶりに田舎に帰ってきた青年(ホモ)を、ちょっと執着心の強い女の子が頑張って想像妊娠させようとする話です。 電波。 R15。 倒錯。人を選びますので、無理だと思ったらブラウザをバックしてください。

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 プロローグ  紅を差す


 低いテーブルの上にはファンデーションとピンクのアイシャドウ、そのほかにもビューラーやマスカラ、コンシーラー、何本もの口紅などの化粧道具が所せましと散りばめられている。
 明乃は無造作に広げられた化粧品のうち、真っ赤な口紅を選んでテーブルの上から拾い上げた。
「ほら、塗ってあげるからこっちを向いて」
 畳の上に尻もちをついたように座る青年の頬に手を添えて、膝立ちになった明乃は彼の顔を上げさせる。と、無粋な髭の生えぬよう脱毛を施された彼の頬はひたりと明乃の手に吸い付いた。
 怯えた子犬のように目を泳がせる彼に喉の奥で低く笑った明乃は慣れたように紅筆を使って男の唇に朱を入れ始めた。一つ間違えれば下品な色にもなってしまいそうな血のように真っ赤な口紅は、不思議とその生白い青年の端正な顔に似合っていた。
「すごく綺麗だよ。お兄さん……」
 化粧を施された、女性には寸分たりとも見えない男。しかし、紫色の浴衣に包まれた肉のない肢体と困惑するような潤った瞳、そして唇に施された血のような紅のせいか、その青年からは女では到底醸し出せない不可思議な色気が放たれていた。
「ね、もう、嫌だよ」
 濃いめにアイシャドウを塗られた瞼が伏せられ、成熟した体格に見合わない舌足らずな言葉と共に青年はむずがるように明乃から顔をそむけようとする。が、それは許されることではない。
「ダメ。ちゃんとこっちを見て」
 テーブルに紅筆を置いた明乃の両手が青年の頬を包み込み、優しく、しかし有無を言わせない迫力を持って視線を合わせる。半ば無理矢理顔を突き合わされると、青年はそれ以上抵抗する事はなく、明乃の黒い瞳をじっと見つめ返した。
 明乃は痛いことや傷をつけるようなことはしない。直接的な暴力で誰かを従わせるような下品な真似は絶対しない。だから、本当に嫌ならば青年が逃げ出す事は容易い事なのだ。しかし、彼は無理をしてまでその場所から逃れようとはしなかった。魔法にでもかけられたように、青年はぼんやりと明乃を見ている。
「可愛いよお兄さん。本当にすごく可愛い……」
 明乃は自らが化粧を施した青年の頬を愛おしげに撫で、そして先ほど着つけてやった女物の浴衣の帯を解いた。はらりと紫色の浴衣の裾がはだけて青年の胸元が開くや、明乃は紅の差された薄い唇に深く噛み付くように口づけた。
「ん、むぅ……んぐっ」
 くちくちと唇に舌を差し込んで唾液を貪る音が静まり返った部屋の中に響き渡る。それはとても長い口づけだった。やがて口内中を貪られ、酸欠に陥った青年は尚も纏わりつこうとする明乃の体を強く押す。ようやく唇が離れると、青年はふぅふぅと息をついて酸素を取り込みながら、首を振った。
「ダメだよ。あけのちゃ……もう……」
「何がダメなのかな? ほら、こっちを向いて、私を見て、目を合わせて、キチンと教えて」
 うっとりと、熱っぽく囁くように明乃が問いただすと、青年は瞳の奥を潤ませて、少し逡巡してから口を開いた。
「だって……これ以上明乃ちゃんに取られたら、居なくなっちゃうから……」
「何が?」
「卵が……木佐さんの、なのに……卵、最近はずっと明乃ちゃんに取られてばっかりだから、あんまりするともう無くなっちゃうか、ら……」
 眼球だけを忙しく右往左往させ、ぽつぽつと漏らすように言う青年に、明乃はにっこりと笑んでゆっくり二度、三度頷いた。
「いいのですよ。あの人の卵は全部私が引き受けますから。安心してください」
 そして男物のダークスーツを着た明乃は青年の頭を胸に抱いて、子守唄を歌うように囁いた。
「貴方は私の子を孕んでください。あんな男のことは忘れて、私の子だけを孕んでください。そして私の愛情だけを食べて、私の子を産んでください。貴方が孕んだと認識するまで何度だって愛してあげますからね。私だけを見て、私だけを受け入れて、私だけを愛して下さい」
 愛しています。愛しています。愛しています。と呪文のように、熱にうなされるように唱えて青年の額に口づけをした男装の娘は、手ずから女装させた青年の体を畳の上にそっと押し倒したのだった。


 ★   ★   ★



 卵を埋める


 田舎町というのは、噂が流れるスピードがやたらと早い。
 三年前に結婚した二丁目の肉屋の娘が離婚して出戻ってきた、なんて話は当人が玄関の敷居を跨いで三時間も経過する前には近所の奥様方の口に上っているなんてことはザラである。
 そんな田舎町なものだから、昨晩布団屋の浅井さん家の頭の緩いバカ息子が都会から帰ってきた話は、明乃が学校から帰ってきた頃には既にご町内中に知れ渡る所となっていた。
「ちょっとねぇ聞いてよ、浅井さん所の息子さん、お父さん押し倒したんだって」
 玄関前で母と立ち話をする三人の奥様方の会話の内容が偶然耳に入り、学校から帰ってきたばかりの明乃は道の真ん中で固まった。
「怖いわねぇ。お父さんびっくりしすぎて救急車で運ばれたって言うじゃない?」
 やだわぁ、怖いわねぇと玄関前で囀る母と奥様方の脇を通り抜けることもできず、明乃がもだもだしていると、不意に母親がこちらに気が付いた。
「明乃、おかえりなさい」
「ただいま」
「あらぁ明乃ちゃん、おかえりなさいねぇ。それじゃあそろそろ私達も行きましょうか」
「そうですわね。それじゃあまた今度お食事でも行きましょうね」
 おほほおほほと笑いながら奥様会が散っていくと、ようやく玄関先が静かになった。
「ねぇお母さん、今の話本当なの?」
「何が?」
「だから、浅井のお兄ちゃんが帰ってきた話……」
 制服からジーンズにTシャツへ着替えた明乃が冷蔵庫から牛乳を取り出しながら聞くと、夕飯の支度をし始めた母は少し言いにくそうに「ああ……」とため息交じりに声を漏らした。
「そうみたいね」
「なんで帰ってきたのかな? 勘当されてたんでしょ?」
 なんでもない風を装って、棚から出したコップに牛乳を注ぎながら明乃が聞くと、やはり母はあからさまに嫌そうな顔をする。
「さぁ。でも帰ってきたってことは相手の彼氏と失敗したんじゃないの? ってかアンタ、まさか会いに行く気じゃないでしょうね?」
 ぎろりと包丁をもった母親に睨まれて、明乃は慌てて首を振った。
「なんでさ! ちょっと聞いただけじゃん」
「なら良いけど!! アンタまで変な噂に巻き込まれたらたまったもんじゃないよ」
 はぁっと大きなため息をついた母親を尻目に牛乳を一気に飲み干した明乃は玄関へ向かうと、おおよそ現役女子高生の着る物ではないダークグリーンでフード付きの地味なジャンパーを羽織った。
「どこ行くの!?」
「ちょっとノートとシャー芯が無くなったから買ってくる」
「もうすぐご飯よ」
「すぐ帰るから大丈夫!!」
 そして慌てて床をつま先で鳴らしながら玄関を飛び出していったのだった。


 ★   ★   ★


 布団屋の浅井さん家のお兄ちゃんこと浅井秋一は頭が少しばかり『緩い』ことで昔から有名だった。
 曰く、中学にも殆ど行かず、毎日どこかでふらふらと遊び歩いている不良。喧嘩早くて、しょっちゅう殴り合いをしては警察の御厄介になっている。理由を聞けば『あいつらが俺の悪口を言ったから殴った』とのたまうが、殴られた側に聞いても『誰もそんなことは言ってない』と言う。しかし、殴られる相手も浅井と同じ昼間からふらふらしている不良が多く、直接的に悪口を言わないまでも何か気の障るようなことはあったのかもしれないという事になっていた。
 友達もおらず、一山いくらの不良のように徒党は組まず、盗み、万引きはしないが時折妙な事を口走っては道行く人に口論を吹っかけてボコボコにぶちのめすという浅井は、まるでいつ爆発するかわからない時限爆弾のような存在になっていた。
 ご両親はとうの昔に矯正は諦めていて、彼は親でも手の付けられないとんでもない馬鹿息子として、この界隈で不動の地位を築き上げていたのだった。
 その悪名高い浅井秋一が町を出て行ったのは、明乃が小学六年生で、浅井が十八歳のこと。高校には行かず、便宜上は布団屋の手伝いをしていたらしいのだが、ある日突然ふらりと都会へ出かけて、そしてこの町には帰ってこなかった。
 奥様方の噂によると、浅井は都会で知り合った男の家に転がり込んで猫になったらしい。
 猫になった、の意味が明乃にはよく解らなかったが、何かホモのヒモ的な存在だというのは彼の噂話をする人々が発する言葉の端々からにじみ出るニュアンスで感じ取っていた。
 顔を見られないようにフードを被った明乃がまず最初にしたことは、布団屋の手前で前後左右を確認する事だった。
 道路に人影は無し。
 路上駐車の車は数台あるが、中に人は居ない。
 その場でぐるりと上空を確認する。近所の窓からこちらを伺っているオバちゃんの類は居なさそうだ。
 今の時間帯なら、たぶん晩御飯の準備で忙しいだろう。先ほどの噂話によると、布団屋のおばさんはおじさんに付き添って病院に行ってるはずだから、居るのは浅井秋一ただ一人……のはずだ。
 今なら大丈夫。
 はやる気持ちを抑えて深呼吸をした明乃は、薄汚れたいかにも下町の布団屋然とした建物の裏、二階の屋根から伸びるステンレス製の雨樋を二度、平手で殴った。ゴォンゴォンと鈍い鉄の音が響く。
「浅井お兄ちゃーん。遊びに来たよ」
 二階の窓へ向かって小声で呼びかけながら、もう二回、ゴォンゴォンと叩くと、少しのブランクを置いてガタガタと窓を開ける音がした。
「だれ?」
 二階の窓から寝起きと思わしき舌足らずな言葉と共に、虎猫みたいに染ムラだらけの頭をした青年が怪訝そうな顔を覗かせた。
「私!! わたしだよ!! あーけーのー!! そっち行くから裏口開けて!」
 大声にならないように声を上げ、目深に被っていた緑色のフードを取り去ると、青年はぽかんと口を開けて「あっ」と声を出した気がした。そして一端家の中に引っ込むと、二階の窓から銀色に光る物を明乃に向かって放り投げる。
 チャリ、と音を立てて明乃の足元に落ちたのは、布団屋の裏玄関の鍵だった。


 ★   ★   ★


「久しぶりだね。何もないけど、お茶くらいなら出せるよ。飲む?」
「ううん。いい。いらない。今日はちょっと挨拶に来ただけだし」
 埃っぽい畳の四畳半の部屋は、小学生のころに来た時よりも少し狭く感じたが、それよりも懐かしさのほうが上回る。補修の為にパッチワークされた薄汚れた襖や、カビだらけの古い窓枠。部屋の片隅に乱雑に積み上げられた布団も、壁に積み上げられたマンガ本も、なにもかもあの頃のままのような気がした。
「まー、立ち話もなんだしね。その辺座って」
 のすん、と窓際の畳に胡坐をかく青年の向かいに明乃もおずおずと座る。流石に胡坐は格好悪いので、一応正座を崩した横座りにしてみた。ちらり、と青年を見ると、不良少年と呼ばれていたあの頃に比べて柔和になった表情で笑みを浮かべていた。古いキャラクターがプリントされた黒いシャツと、よれ始めたジーンズのくたびれた感じが何故か肉の無い薄っぺらな体によく似合っている気がした。
「お兄ちゃんって今何歳になったんだっけ?」
「二十三歳じゃなかったかな? 数えてないけど。……明乃ちゃんは、なんかお姉さんになったね」
「そ、そりゃそうよ! もう五年もたってりゃ誰だって少しは変わるもん! 昔とは違うのよ! 昔とは!!」
 おっぱいも少しはおっきくなったしっ! と頭の中で喚いてみたが、目の前の青年は解ってるのか解ってないのか懐かしそうに目を細めるだけだった。
「というか、戻ってきてるなら戻ってきてるって言ってくれれば良かったのに! 勝手にふらっと消えて、私も一応心配したんだよ? なんで出てっちゃったの?」
 今日、ここに来た本題をようやく切り出せた明乃が浅井に詰め寄ると、目の前の青年は特に何も考えてないようで「ああ」と呆けたような声を出す。
「うん。それはまぁ、好きな人が出来たら傍に居たいでしょ?」
「男の人?」
「うん。木佐さんって言ってね、凄く良い人」
 マタタビを嗅いだ猫みたいにふやふやとした青年の言葉に明乃はガクリと肩を落とした。
 浅井秋一はホモ。やはり、あの噂は間違いではなかったのだ。
「じゃあ、なんで帰ってきたのさ。やっぱり別れちゃったから?」
 言ってから、流石に少し突っ込みすぎだったかと思ったが、浅井はさして気にもしないようにうーん。と困ったように首をかしげた。
「別れた……というよりね、まおんな……がね……」
「まおんな?」
 聞きなれない単語を口の中でもう一度発すると、青年も「まおんな」と繰り返す。
「間男とか言うでしょ。女だから、たぶん間女であってると思うんだけど」
「うん」
「間女に寝取られた。けど、俺は多分、木佐さんは騙されてるだけだと思うんだ。だから、俺が間女の手から木佐さんを助けてあげなきゃならないと思う。でも、都会で木佐さんを探すには電波も強いし、手がかりが無いから、一端こっちに戻ってきて、卵を使って探そうとも思ってる。こっちは電波も少ないと思うから、たぶん子供たちの通信でも間に合うかと思って」
 至極真面目そうな顔で説明する浅井。だんだんと雲行きの怪しくなってきた説明に、明乃は「待って待って」と浅井の言葉を遮った。今の説明で聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず。
「卵って何? 通信って携帯か何か? ケータイあるなら電話番号とメルアドの交換ならすぐ出来るよ」
 明乃がポケットからスマーホフォンを取り出そうとすると、
「や、やめろ!! それをこっちに向けるな!! こっち来んじゃねぇ!!」
 スマートフォンの存在を認識した浅井は逃げるように体を逸らすと、突然形相を変えて明乃を怒鳴りつけた。びくりと肩をすくめた明乃が怯えたような表情で固まると、浅井ははっとしてふるふると首を振った。
「違う、それは違うくて。ごめんよ。本当に。怒鳴ってごめん。だけど、携帯はダメなんだよ。電波はダメなんだ。電子レンジと一緒で全部焼けちゃうから……卵は、木佐さんから貰ったんだけど、俺一人じゃきっと探せないと思う。だから、明乃ちゃんも木佐さん探すの、手伝ってもらえる?」
 必死で謝りながら半分くらい泣きそうな声で頼まれると、怒鳴られた衝撃から回復できなかった明乃は、すぐに嫌だとは言えなかった。言葉を探そうと迷っている間も、浅井はじっと見つめている。嫌とは言わないよね? 見捨てないよね? 助けてくれるよね? そんな縋るような目で見つめられると、今度は嫌だと言う事も出来なくなってきた。
「……あ、と……特徴、教えてもらえたら……まぁそれくらいは……」
 しぶしぶ答えると、浅井はぱぁっと飼い主に撫でられた子犬のような明るい表情になって明乃の手を握って嬉しそうに振る。
「ありがとう!! 明乃ちゃん、本当にありがとう!! それじゃあ早速……」
「待って待って待って!! なんでいきなりズボン脱ぐの!?」
「え?」
 いそいそと立ち上がり、ベルトを外してジーパンとパンツをいっしょくたに脱ごうとする青年を阻止すると、浅井はあっ、と思い出したような顔をした。
「そうだよね。明乃ちゃんは女の子だったんだ。こっちは流石にダメだよね。痛くない方も、出来ないよね。ごめんごめん」
 妙なニュアンスで喋りながら、照れたように頭を掻いてもう一度ズボンを穿きなおした青年。
 明乃がほっとしたのも束の間、今日の噂話で聞いた『お父さんを押し倒した』の全容を身を以て知ることとなる。
 突然、浅井秋一の唇が明乃の唇を塞いだ。
「んぅっ!」
 唇の裏の粘膜を、ざらついた舌で舐められる。
 あっという間の出来事だった。
「なっなっなっあっ!!」
 突然の口づけに本気で目を白黒させていると、浅井は悪びれもせず悪戯好きな猫みたいに目を細めてぺろりと自分の唇を舐めていた。唾液で光る舌先が、妙に艶めかしい。
「これで木佐さんが傍に来たらすぐ解るよ。俺に言わなくても、ちゃんと俺にも知らせてくれるから。電波ですぐ解るんだ。ほんとはもっと沢山渡したほうが間違いないけど、粘膜、じゃないとダメだから。これ以上は女の子には申し訳ないからさ……ちょっとだけ、ね」
「今、何をしたの?」
 一応明乃に気を使っているらしい浅井の言動だが、キスをされた以上のことは何も解らない。
 しかし、浅井は目を瞬かせて、さも何でもないように穏やかに笑う。
「卵、埋めただけだから。大丈夫。日常生活には何の問題もないよ」
「何、それ」
 何をされたのか解らず戸惑っていると、浅井は無視するようにふと窓の外を指差した。
「もう、遅いから帰った方がいい。また今度おいで」


 ★   ★   ★


 外に出ると、太陽はすでに沈んでいた。
 まるで、宇宙人にでも浚われて戻ってきたような、変な気分だった。
 今から帰ったら、きっと怒られるだろうなぁと思いながら暗い道路に佇んだ明乃は一人、人差し指でそっと唇をなぞってみて、ふと思い出した。
「これ、ファーストキスじゃん……」


 ★   ★   ★


 昔を思う



 浅井秋一と知り合ったのは、明乃が小学二年生の頃だ。
 今でこそ明乃はパッと見は普通の女の子と言えるのだが、幼い頃の彼女は勝ち気で負けず嫌いで乱暴者で、そしてどうしようもない激情家であった。特に何かを強制されるのが大嫌いで、上から押さえつけられようものなら相手が教師だろうと両親だろうと高学年の男子だろうと全力で抗うような、そんな起伏の激しい少女だった。
『女の子らしくしなさい』なんて一言でも言われようものなら烈火の如く怒り散らし鋏で自分の髪の毛を短く切り刻んでしまう。ひとたび喧嘩となれば落ちてる石だろうが椅子だろうが机だろうが躊躇なく振り上げて武器にする。一人称は『オレ』と呼び、常に何かに抗っていないと気が済まない。ただ、年下には優しかったし取扱いさえ間違わなければ癇癪を起すことも少なかったのだが、その気性の荒さと面倒臭さのせいで周囲から一線引かれてしまうのは、まぁ仕方のない事だった。
 その日、明乃は人のあまり通らない河川敷で、一人ベソをかいていた。
 夕方で、紅茶に溶けた角砂糖みたいなオレンジ色の太陽が、しゃがんだ明乃の影を長く伸ばしていたのを覚えている。
 自分でジャキジャキに切ってしまった長い髪は男の子みたいな短髪に切りそろえられ、少年のような服装ばかりを好んだ明乃はとても女の子には見えなかった。
 泣いていた理由は忘れてしまったが、確かとんでもなく下らない事だったと思う。クラスの男子が髪の短い明乃を指して『男女』とからかったとか、女の子らしくないということを教師か両親に咎められたとか、そんな小さな事だ。
 そんな事はしょっちゅうだったのに、いつも大して気にも留めない事だったのに、何故かその日だけはは無性に悔しかったのだけは覚えている。
 何がそんなに悔しいのかは解らないが、とにかく悔しくて悔しくて仕方がなくて、誰もいない場所を選んで一人で泣いていたそんな日だ。
「おい、ンな所で縮こまってると邪魔くさいぞ。あと泣くなら煩いから家帰って泣けや」
 ぬるり、と背後から影が現れた。
 声変わりしたての、少しアルトがかった低い声。
 明乃が涙濡れの目で睨みつけると、そこに立っていたのは全世界の退屈を詰め込まれたような顔をした男だった。その人こそ、既に町内で有名になっていた不良少年の浅井秋一だ。
「泣いてねーよ」
 涙声で、明乃は悪態をついた。
「嘘つけ。鼻水出てるぞ。きったねー顔晒してる暇あったらとっとと帰れやクソガキ」
「ガキじゃねぇ!! 通るなら後ろ通れば良いだろ!! 邪魔してねぇし目ぇ腐ってんじゃねぇのか!!」
 浅井が怖いお兄さんだというのは親の話す噂話で知ってはいたが、その時の明乃にはそんなことはどうでも良かった。小学生でも容赦なく殴られるかもしれないなんて微塵も頭に浮かんでいなかった。後先も考えず、怖いもの知らずの小動物が威嚇するように喉を鳴らして啖呵を切ると、退屈そうな少年はさも詰まらなさそうにため息をついただけだった。
 その大人ぶった態度にも苛立った明乃がさらに続ける。
「大体な、学校にも行かないでブラブラしてるような不良と喋るとこっちまでアホになるって母さんが言ってたぞ。お前みたいな不良と喋る事なんかなんもねぇ! あっち行けやボケ!!」
 そこまで言ったところで、癇癪玉みたいな少女の視界は天と地がくるりと反転した。襟首を掴まれて川とは反対方向の芝生に投げ飛ばされたと分かった時には、浅井はのったりした動きで明乃を見下ろしていた。安い染料のせいで染ムラだらけの虎猫みたいな髪の毛の、色が薄い所が太陽に反射してきらきら光っていた。
「いてぇ!!」
「痛くねぇよ。芝生は柔らかい」
 浅井が、心底明乃を馬鹿にするみたいに口の端っこで笑っている。
 ますます腹が立った。
 大きな相手にはまず武器だ。草の中に落ちていた石ころをぶつけてやろうと、拳くらいの石を手探りで掴もうとした。が、指先の触れる直前で、浅井が石を蹴り飛ばした。
「石を投げるなら今度はお前、本気で蹴るからね」
 投げかけられた熱の無い言葉は、嘘ではないような気がした。黒くてゴッツイその靴で蹴られるのはとんでもなく痛そうなので、ギリリと歯噛みした明乃は仕方なく、わぁーー!! だか、ぎゃーー!! だか大声で叫びながら自分の身長の二倍はありそうな浅井の、その足に向かって拳を振り上げて殴りかかっていた。
 もう一度ブン投げられた。
 二回目は、殴りかかるついでにジーンズの上から思いっきり脛に噛み付いてやったが、浅井は痛みを感じないように片腕で明乃の首根っこを掴んで無理矢理引きはがすとまたブン投げた。
 普段から喧嘩ばっかりしている年上の中学生に、小学生の女の子が敵うはずはないのだが、それでも立ち向かわずにはいられない。
 明乃はとにかく相手を「参った」と言わせたかった。相手が中学生だろうが隣のクラスのガキ大将だろうが、とにかくゴネて暴れて何が何でも「参った」を言わせたらこちらの勝ちなのだ。
 四度目か五度目に襟首を掴まれたとき、手の甲を思いっきり引っ掻いてやった。六度目には飛び掛かって目潰しを試みた。八度目くらいで金的を食らわせようとして失敗し、十度目くらいに芝生の上で思いっきり首根っこを押さえつけられた。手負いの獣みたいに自分を掴む手首を引っ掻いて、大暴れしながら浅井を睨む明乃を、彼は冷めた目で黙って見下ろしていた。
 どれほどそうしていただろう。少年の手の中で思いつくさま暴れたと思う。
 そのうち暴れ疲れた明乃が諦めて、ぜぇぜぇ息をつきながら体の力を抜くと、色の無い目をした年上の少年は明乃を傷だらけの片腕で抑え込んだままぽつりと漏らした。
「たまに、電線とかから透明なヒモが降ってくるだろう?」
 なんだそりゃ。と明乃は思った。
 しかし、浅井は明乃から何か反応を待つでもなく無感情な言葉を続けた。
「避けりゃ良いんだ。けど、何千本も降ってきたりするとそうもいかないよな。沢山降ってきて、うっかり触ったりすると頭の中にわーーーーーーってな、分裂したそれが皮膚から潜り込んでくるだろう。そうすると、周りが一斉に俺を非難しはじめるんだ」
 そこでようやっと浅井は明乃を抑え込んでいた手を放し、引っ掻かれ過ぎて血の滲む腕を組んでその場に座りこむ。語る言葉に興奮は無く、ただ眉根を寄せて、ちょっとした悩みを語る時のような口調であった。
「馬鹿とかアホとか。それくらいはまだ我慢が出来るんだが永遠に幸せになれないとか、生まれて来たのは間違いだったと言われるとちょっと辛い。……お前も今、俺のそういう時に似てるんじゃないかと思うんだが、やっぱりあのヒモが原因なのか?」
「なんじゃそら!? お前頭おかしいのか!?」
 もそもそ芝生から上体を起こした明乃が、涙と鼻水と擦り傷だらけの頬を土で汚れた袖で擦りながら吠える。と、浅井は少し寂しそうな、難しい事を考えるような、複雑な顔をして後ろ頭をガシガシと掻いた。
「見えないのか?」
「んなもんあるわけねぇだろ!?」
「……それならまぁ、良いんだ」
 その時の浅井は、いろんな気持ちがないまぜになった、繊細な表情をしていた。例えば、クラスに一人は居る病弱だけど誰よりも物知りな子みたいな。明乃には何だか噂に聞いたような親でも手に負えない不良少年とはちょっと違う気がして、そこで初めてイライラとした気持ちよりも何か言いようのないもやもやした変な気持ちが頭をもたげた。
 この人は、噂話で聞くようなただの不良では無いのではないか?
「まぁとにかくさ……もう遅いから、帰ったほうがいいぞ」
 まじまじと浅井を見ていて気付かなかった。
 浅井に言われて気が付けば、最初は沈みかけだった夕日はとうに空の彼方へ沈んでおり、太陽の反対側は濃い藍色に変っていた。雲の無い半分の夜空には、一番星が控えめに輝きはじめている。
「帰りたくない……」
「帰れ」
 俯いて、ふてくされたように言う明乃に浅井は切って捨てるように言い放つ。
「やだ。帰らない」
 それでも座り込んだまま駄々をこねるように首を振ると、浅井は大きな溜息をついて小学二年生の明乃の小さな手を掴んだ。そのまま、浅井が立ち上がると同時に引っ張られた明乃も立たされる。
「じゃあ、俺が一緒に行ってやるから帰れ」
 自分よりも大きな、引っ掻き傷だらけの骨ばった手の甲に滲む血が何だかとても痛そうで、暴れている最中は無我夢中だったとは言え明乃は少しだけ悪い事したなと思った。それから、傷だらけの手を両手で掴んでぎゅうっと握り返した。
 暗い河川敷を帰る途中、浅井は始終無言だったが、玄関に入る寸前に一度だけ明乃の男の子みたいな頭をぐりぐりと乱暴に撫でた。
 あの時浅井が何が言いたかったのかは解らないが、励まされた事だけは解った気がした。


 ★   ★   ★


 自分が女の子扱いを強要されても必要以上に怒らなくなったのは何時の頃だろうか?
 畳の上で眠ってしまった浅井に毛布をかけてやりながら、明乃はぼんやりと考えた。
 この布団屋に来るのはご近所周辺に気取られないよういろいろと気を使わなければならないけれど、今日も明乃は来てしまった。
 布団屋のおじさんは息子に襲われた時に腰を打ってしまったとかで入院してしまい、おばさんは貸布団の配送に行っている。親から仕事はするな、とにかく家から出るなと言われたらしい浅井は、女に寝取られた彼氏が謎の卵の電波で捕まるのを一人で待っているそうな。
「木佐さんは、すごく優しい人なんだ。ご飯とか、俺は作れないけど作ってくれたりしたんだよ。あと俺が悲しいとき傍に居てくれたし。青いミミズが天井から喋っても馬鹿にしなかったし、俺を気味悪そうにもしなかった。木佐さんは凄い人なんだ」
 起きていればいつまでもそうやって木佐なる人物を楽しそうに、時に意味不明に誉めそやしている浅井は、何というか……雌だと思う。見た目は男なのだが、どう頑張っても滲み出てくる夢見る乙女のような独特の雌臭さは、あの時、小さかった明乃を芝生に投げ飛ばしまくった人物と同じ人間だとは思えなかった。
「なーんでこうなっちゃったかなー」
 昔はもう少し格好良かったはずのになー……とがっくりと肩を落としながら、明乃は胎児にように丸まって眠る浅井の染ムラだらけの虎猫頭を撫でてやる。くすぐったかったのか、妙に整った生白い顔と、長い睫、あと薄い唇が、呼吸に合わせて一瞬ふるふると僅かに震えた。その様子が少しだけ可愛いと思う。
 夜に木佐さんがくるかもしれないから待ってなきゃ。という本人の証言を信用するならば、きっと深夜まで起きているのだろう。夜もよく眠らず、一途にコイビトを待ち続ける姿というのは例えホモでも健気なモノなんじゃなかろうか。
 髪を撫でたついでにように、明乃は浅井の袖を捲って腕の静脈と鼻の粘膜をこっそりと確認した。鼻の孔は暗くてよく見えなかったが肉の無い腕には、青い静脈がすーっと流れるように通っていて、特におかしい所は何も無かった。
 昔から言動はちょっと変な所はあったのだが、もしも噂と違い、浅井秋一が都会で何か良からぬ薬でもやっていて恋人も何もかも全部幻覚だったらどうしようと思っていたのだ。しかし、今のところ鼻をずびずびさせるとか、注射器を持っているとか、そういう悪い物をやっている気配は多分無い。まぁ、このご近所の目が厳しい界隈で警戒もせずに今より更に妙な動きをしようものならすぐに広まってしまうのだが。
 そろそろ帰ろうかな、と思ったとき、毛布の中から「むぅ」と不機嫌そうな声が聞こえた。
「あ、ごめん。俺寝てた?」
 ごしごしと目を擦りながら浅井が体を起こした。
「良いよー。私もう帰るし、寝てていいよ」
「木佐さん、来た?」
「来てないよー」
 明乃が立ち上がろうとすると浅井がちょいちょいと手招きする。何だろうと思って手招きされるままに近づくと、またキスされた。
「卵の追加補充」
 固まる明乃に、眠そうな目でへにょと笑う浅井はどう頑張ってもあの全世界の退屈を詰め込まれたような少年とは似ても似つかなかった。が、なまじ綺麗系の顔のせいか、緩く弧を描く薄い唇から見え隠れする舌に、何故かドキドキしてしまう。
 自分が可愛いのを知っている女の子は、ここぞと言うとき一番可愛く見える仕草をするらしい。
 それと同じように、果たして浅井はこれをワザとやっているのだろうか?
「……ずっと疑問に思ってたけど、卵って何なのさ」
 未だに早鐘を打つ心臓。
 頬が熱い。妙な気分を追い払うように未だ眠たげな浅井に聞けば、彼は思ったよりもはっきりとした口調で「木佐さんに貰った」と答えた。
「卵、あるだろ。鳥のとは違う魚か虫のみたいに小さい奴。産み付けられたんだ。俺はこれを出来る限り孵してやりたいと思っているんだけど、一人じゃ孵らないらしい。木佐さんが居ればこれらも孵ると思ってるんだけどな。あ、木佐さんが帰ってきたら明乃ちゃんの卵もちゃんと返してもらうから大丈夫だよ」
「あ、うん……」
 何が大丈夫なのかよく解らないが、浅井の中ではそういう事になっているらしい。
「何が生まれるんだかは俺も解らないけど、電波に弱いんだよな。携帯とか持つと一日くらいで焼け死ぬんだ。でも親が来ると解るんだろうな。木佐さんが近いと電波で教えてくれるんだよ。やっぱり親子だからなのかな。俺が孵してやったら、一応俺も親ってことになるのかな。卵を孵すだけだけど、親って言うのかな。明乃ちゃんはどう思う?」
 自分で話を振っておいて身勝手なものだけれど、嬉しそうに木佐の事を語る浅井を見ているうちに、頬の熱さも胸の高鳴りも消えて他人の惚気話を聞かされているような、もやもやとイライラがない交ぜになった気持ちになってきた。
「さぁ、でも私は携帯を使うから、貰った分の卵はきっと死なせてるかもしれないね」
 なので半分八つ当たり、半分悔し紛れにわざと意地悪な答えを返しても、浅井は嬉しそうな顔を崩さなかった。
「大丈夫。卵はまだ沢山あるから。木佐さんを見つけてくれれば生まれるんだと思う。そしたらきっと死んだ子も浮かばれると思うんだ」
 幸せそうに自分を捨てた人間の話をして笑う青年を、明乃は不思議と見ていられなくなった。
 浅井がおかしいのは知っている。だから仕方がないのもまぁ解る。しかし何故だかは解らないけど、非常に悔しい上に腹立たしい。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 それ以上もやもやするのが嫌で明乃は立ち上がる。そそくさと帰ろうとすると「待って」と呼び止められた。
「明乃ちゃん、明日も来る?」
 熱っぽく、潤んだ目で見られているような気がした。
 それは、他人に向けられた情熱だったのかもしれない。実際は熱っぽくもなければ目も潤んでもいないのかもしれない。が、どこか色っぽく、懇願するような切なげな表情を見てしまった明乃は何故か「うん」と頷く以外に選択肢が見つからなかった。


 ★   ★   ★


「俺は女じゃなくて男に生まれるべきだったと思うんだよな」
 浅井の部屋。四畳半の畳の上で寝転んで格闘系の少年漫画を読んでいた小学二年生の明乃が文句を言うように口をとがらせると、横で同じシリーズの漫画を胡坐をかいて読んでいた浅井は顔を上げる。
 河川敷で会って以来、明乃は度々こうして浅井の部屋に遊びに来ていた。浅井は時たま変な言動をするけれど、それさえ慣れてしまえばそこらの大人よりも話の通じる少年だったと思う。特に、何かをしろとかあれをやるなこれをやれと強要しないのがとても良い。
「そうか?」
「そうだよ!! そしたら俺もこういう主人公になれたかもしれないだろ? もっと修行して強くなって、最強の男の中の男になれるかもしんねーだろ!?」
 しゅっしゅっと空中にパンチを繰り出す明乃の髪の毛は、河川敷で泣いていた頃より少し伸びてきているところだった。
「女の中の女じゃダメなのか?」
「ダメだろ。あんな口ばっかで弱すぎる生き物」
 吐き捨てるように言った明乃は、既に漫画の世界に戻っていた浅井の膝の上にどしんと頭から飛び乗った。それから浅井の持っている漫画を取り上げて畳に放り投げると、薄く筋肉のついた腹に顔を押し当ててぎゅうぎゅう腰にしがみついた。浅井は勝手に漫画を読んでも怒らないし、抱きついても飛びついても嫌がらないのを知っている。
「何をする」
「俺は兄ちゃんみたいに強くてカッコよくなりてぇ。弟子にしてくれよ」
 浅井がここらでは負け知らずなのは知っている。
 明乃が笑いながら言うと、浅井は呆れて「アホか」と苦笑する。噂では、浅井は爆弾みたいな人間らしい。爆弾ならば誰よりも強いのは当たり前のことだと思う。
「男なんざやってても良い事なんかねぇよ。せっかく女に生まれたんだからそれを楽しんだ方が人生は得するぞ?」
 明乃が女の子だと解っても態度をまるで変えなかった浅井が、割と真剣な顔でそんなことをを言うとは思わなかった。軽い調子で「良いぞ」と言うか、アホたれ呼ばわりされるのが関の山だと思っていた。
「えー、ヤだよ。女の良い所って何だよ。毎日メシ作って掃除して洗濯して親父のいう事ばっかり聞いてんだよ。かーちゃんに楽しい事ないのか聞いてもよくわかんねーし、親父の方が外でゴルフしたりメシ食ったりして楽しそうだ」
 口をへの字にしてぶーたれる明乃。まだまだ女の子にしては毛の短いその頭を、口の端っこで笑った浅井は手のひらでぐりぐりと撫でまわす。乱暴だが、決して痛くはない撫で方が明乃はちょっとだけ好きだった。
「でも、女は男と結婚できるだろう」
「は? それを言うなら男だって女と結婚出来るだろ?」
「うん、まぁ、そうなんだけどな……色々と難しいんだよ。俺が言いたいのは」
 言いにくそうに少し寂しそうにも見える苦笑いをした浅井の顔を見上げ、撫でる手の体温を感じながら、明乃は(まぁ、兄ちゃんが相手ならオレがちゃんとした女の子になって結婚してやっても良いかな)と思ったのだった。



 ★   ★   ★



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 浅井に会えば、彼は必ずキスをする。
 深く、舌で粘膜を互いに擦り合わせて唾液を混ぜるディープキス。
 しかしそれは恋人同士の甘い口づけ等ではなく『卵を埋めて電波を受信してもらう』という浅井なりの元彼探しの一環であるのだが、何故だかキスをすること自体は明乃はそんなに嫌ではなかった。
 場合によっては、初日に再開したときのようにキスなんかよりももっと凄いことをされそうになったとしても、多分拒絶出来ないだろうなと明乃は思う。
 浅井が町に帰ってきて一か月弱。最初はいちいち驚いていた口づけも、最近ではこちらから積極的に舌を絡ませて濃厚な接触を楽しんでいた。
 例え、卵というなんだかよく解らない物を埋められる作業なのだとしても、ねっとりとした深い口づけを交わす度に胸が熱くなって仕方がない。まぁ、木佐の話をされるのは腹立たしいがそれは諦めるしか無いのだろう。だって浅井は今、本当に木佐の事しか考えていないのだから。それが堪らなく悔しくて悲しくて辛い事であっても、明乃は黙って聞くしかない。
 果たして、この気持ちは何なのか。
 恋なのか。
 何で今更とも思う。
 確かに昔は好きだった。そりゃもう、男に生まれたかった自分が女の子として振る舞っても良いかと思えるくらいには好きだった。多分、女の子らしくするのも悪くないんじゃないかと思い始めてスカートに抵抗が無くなったのもあの頃だったはずだ。
 では、今の自分は浅井秋一が好きなのか。浅井自身は木佐の方に気持ちが向いていると言うのに、それでも自分は浅井の事が好きなのか。浅井が女の子を好きになれないホモ野郎だと解っていても、それでも自分は浅井の事を好きと言えるのか。さよならも言わずに町を出て行った男なのに、頭もちょっとおかしいのに、それでも好きなのか。それとも、単に昔の友人を取った木佐に対する嫉妬なのか。
 浅井の眼中に、自分なんかいないのは知っている。
 それなら、浅井とのキスが楽しいのは彼氏のいない自分の寂しさがまぎれるから……?
 もう少し突っ込んで考えてみよう。
 例えば今は何だかよく解らない胸の高鳴りやらについて。この気持ちが好きの気持ちだと仮定しよう。
 では、自分は浅井のどの辺りが、何故好きなのか。
 まず顔は良い。少女漫画に出てきそうな整った顔立ち。これは合格。しかし昔の、格好いいと言うべき男らしさは消えていた。高校も行ってないので特筆すべき学歴は無し。昔は多少あった気がした筋肉も今はほとんど無いに等しい。比例して今は何か弱そう。自活力は多分無し。いつまでも自分を振った恋人にこだわる女々しい性格。それに加わる著しい電波――。
 本気で顔以外はあまりにも良い所が無さすぎるとげんなりする一方で、もう一人の自分がだけど、と反論する。
 彼は優しい。頭はおかしいけれど一途で、人に対する気遣いも多少は出来る。眠たげな目と滲み出る変な色気。一目見たら目を放すことの出来ない、薄い唇から除く艶めかしい唇といちいち雌臭い仕草。筋肉と引き換えに得たような、思わず噛み付きたくなる程白い肌。キスした後に自分の唇を舐める癖があって、唾液に光る舌が頭に思い浮かんだ瞬間『明乃ちゃん』と湿った口調で呼ばれた気がして心臓がびっくりするくらい飛び跳ねた。
 成熟した美しい女性と対面した時の少年の気持ちとは、もしかしたらこういう物なのかもしれない。
 ――なら、自分は浅井の中に感じる女性に恋をしているのか……?
 自分でもどういう事かよく解らないが、そんな気がする。
「私、もしかしたレズかもしれない……」
 高校の中庭にて。弁当を食べている最中に明乃がぽつりと呟いた言葉に、隣で食事をしていた便宜上友人が牛乳を吹いた。
「なに? なんで!? どうしたの急に!?」
 目を白黒させる便宜上友人。明乃は淡々と白米を口に詰め込みながら必死に今しがた浮かんだ自分の煩悩と動揺を押し隠していた。
「んにゃ、ちょっと自分でも解らないんだけどね。もしかしたらそうなのかなーと思っただけ」
「え、でもそう思うような事態になってるってことでしょ? 私誰にも言わないし、そういうの偏見無いから相談くらいのるよー」
 笑いながらじゅーーーーっとストローでパック牛乳を飲む便宜上友人だが、明乃は彼女の事を信用はしていても信頼はしていなかった。誰にも言わないなどと都合の良いことを言うこの小鳥によく似たショートヘアの彼女は、根は良い人間なのだがどうにもお喋りなのだ。偏見が無いというものの、それだって深層心理は解らない。もしほんの少しでもどこかで失敗すれば、自分と浅井の関係がたちまちにご近所中に知れ渡ることは間違いない。そうなってしまってはおしまいだ。
 しかし、浮かんだ奇妙な疑念を胸の内に秘めっぱなしに出来るほどの余裕も、残念ながら今の明乃には無かった。
「うーん。何か最近男の人のちょっと女の子っぽい仕草にドキっとしちゃってさ」
「だれだれ? 誰のどんな仕草?」
 そんなにわくわくされた目で見られても困る。ので、頬にかかる細い髪の毛を耳にかけながら明乃はさらりとごまかした。
「ドラマよドラマ!! 食事シーンで唇を舐めてるのとか、目を擦りながら起きてくるとか、顔が綺麗な人のシーンだとカッコいいよりも可愛いなーって思うことが多くてさ」
「えーでもそれって普通じゃないの?」
 菓子パンをもぐもぐする便宜上友人だが、普通じゃないから困っているのだ。
「や、なんて言うか、男として見ているというより、女の人を見るように見ている気がして……」
「でも男なんでしょ? 女の人にはそういう事は無いんでしょ?」
「まぁ。そうだけど……」
「じゃあ全然大丈夫だよ! だって女性的つったって別に男が化粧したり口紅塗ってるワケじゃ無し! ならそれも男の色気の一つじゃん!」
 大げさに手を広げて「大丈夫だって!! ノーマルノーマル!」と言う便宜上友人。本当にそうだろうか? と明乃は思いながらも、これ以上話をするとどこかでボロが出てしまいそうで「そっかー。じゃあ私の勘違いなのかもしれないわね。何か安心した」と語調を合わせて少し大げさ気味に笑い、これ以上の話はしないことにしたのだった。


 ★   ★   ★


 口紅を塗ってみた。
 少し下品に見えるくらい真っ赤な口紅を、他人に見られぬように、浅井に会う直前の布団屋の二階に上がる階段で濃いめに塗ってみた。
 浅井の持っていた玄関ドアの鍵は初日以来、外にある鉢植えの下が定位置にされており、不用心だと思いつつ何時でも布団屋の裏から入ることができるのは大変ありがたい。
 急な来客があっても良いように、玄関で脱いだ靴をビニール袋に入れて鞄にしまう。そして、古く変色しかけた階段をギィギィ軋ませて上がっていく。明乃が二階の四畳半に入ればいつものように浅井がそこに居て、窓から外を見下ろしているのだった。
「いらっしゃい明乃ちゃん。あれ、口紅つけたんだ?」
 これだけ目立つ紅ならばどんなに鈍くても気付くのだろう。明乃を見た眠そうな浅井の唇が緩く弧を描いて笑みを作る。
「似合う?」
 四畳半の畳の上に歩を進めながら明乃もはにかんだような笑顔を向けると、浅井はこっくりとうなずいた。
「似合うよ。口紅なんて、明乃ちゃんも女の子らしいものをつけるようになったんだね。昔は男になりたかったってずっと騒いでいたのに」
「昔の話はしないでよ。もうそんな下らない駄々をこねるような歳じゃないんだから」
 お兄ちゃんは逆に女っぽくなったよね。とは、あえて言わなかった。
 明乃はそろそろと浅井の傍に座ると、学校帰りのコンビニで買ったシュークリームを袋から取り出した。プライベートブランドの少し高くておいしい奴だ。すると、目の前の青年の表情がぱっと明るくなる。
「おみやげ。甘いの嫌いじゃなかったでしょ?」
「うん。ありがとう。最近はずっと赤いゼラチンに見られているから、うまく食べる事も出来やしなかったんだ」
「また悪口でも言われるの?」
「いや、黙って見られているだけなんだけど、気持ちが悪くて。あそこにもここにも見えるだろ」
 ガサガサとシュークリームの個包装を取り外しながら、何もない場所に視線を向け、ありもしないことを話す浅井。普通の人が聞けば気味悪がる所だが、こういうことは昔からよくあることで、明乃は既に慣れっこになっていた。
 こんな時は下手に話を合わせようとすると浅井の変なスイッチが入ってしまい会話どころでは無くなってしまうので、明乃は「これすごく美味しいね。さすがプレミアム」とシュークリームを食べながら話題を逸らす。と、浅井もそれ以上奇妙な事を話さずに「どれどれ」と明乃にならって甘い菓子に口をつけたのだった。
 自分もシュークリームを食べながら、明乃は浅井がそれを食べる姿を盗み見る。
 薄い唇が開いて、柔らかいシュー皮に吸い込まれていく。はぐ、と歯が建てられれば反対側から中のクリームが出てきてしまう。筋張った細い指にクリームがつくのも構わず一口、二口とシュークリームを食べる浅井。メインのシュー皮が無くなると唇についたクリームを指先で拭い取り、最後になってようやく親指と人差し指についた薄黄色いカスタードクリームを舐めとった。自分の二本の指を浅井はぺろぺろと何度も舐める。
 いつの間にか、明乃は食い入るようにじっと見ていた。
 浅井はそれを、菓子に夢中で気付かない。
 これ幸いと、明乃はこのシーンをいつでもどんな時でも思い出せるよう、脳裏に焼き付けるように、それはもう、穴の開きそうなほどじっと見つめた。
 浅井はまるで猫みたいに目を細めて。うっとりと。艶めかしく。赤い舌で。扇情的に。官能的に舐めている。指からクリームが消える代わりに、透明な唾液が纏わりついて、てらと光る。
 最後にもう一度、ぺろりと舌先で自分の唇を舐めとって――
「おいし」
 目を細め、うっそりと呟いた声に、びりりと明乃の腰から頭のてっぺんまで何かよく解らない熱い電流が這い上り、とうとう我慢が出来なくなった。
「お兄ちゃん」
「うん?」
 振り向いた浅井に、思わず這い寄った明乃の方からキスしてしまった。
「んん……んぐ、ン……んう゛ぅ……」
 浅井の唇に僅かに残っていたカスタードの甘い味がした。明乃はそのまま浅井の肩に手をついて重心を移動させ、古い畳の上に押し倒す。右手の親指を使って唇をこじ開けると、そのまま舌を差し込んで自分の唾液に蕩けかけたカスタードを舌先で無理矢理中へ押し込んだ。
 相手の顔が横へ逃れられないよう虎猫頭に左手を回して髪を根元からがっしり掴んで固定して、印鑑でも押すかのように唇をぐいぐいと押し付けて自分の口に入っていたクリームを全部残らず相手の中に流し込む。
 浅井の口の中で行き場を失った柔らかなカスタードクリームがごくんと飲み下されるのを確認し、ようやく明乃が口を放す。と、浅井の唇には玄関先で塗った口紅が赤く色移っていた。長く激しい口づけに、二人そろってはぁはぁと息をついていると、先に声を出したのは未だ畳の上に組み敷かれたままの浅井の方だった。
「どうしたの? 急に」
 口を捕らえられ押し倒された時こそ目を白黒させていた浅井だが、今はさして気にもしないように、べたべたになった口の周りをぺろりと舌で拭いつつ緩く首を傾げるだけだった。
 問われても、明乃にも明確な答えは無い。
 指を舐める仕草を見ているうちに抗いがたい衝動がこみ上げてきて自然と押し倒してしまったワケだが、そんな事を言葉にしている暇はない。恍惚としながら無言で目の前にある口紅が赤く色移りした浅井の唇を親指でなぞる。と、奇妙な満足感と飢餓感が同時に背筋をぬるぬると這い登ってくるのを感じた。
 もともとこの色移りを見るために、軽い気持ちで口紅を塗って来たのだ。まさかここでこんな風に無理矢理押し倒すつもりは断じて無かったし、シュークリームの口移しなんて言語道断だ。しかし、今はもうそれどころではない。
 便宜上友人の言うとおり、口紅のついた男なんて見たらきっと醒めるだろうと思っていたのだが、結果的にはまったく真逆の効果だったらしい。
 赤く口紅のついた浅井の姿を見て、明乃は今、確実に暴走していた。
「お兄ちゃん……」
 浅井の頭から頬にかけてを上から下へそろりと撫で、凄く綺麗だと明乃は思う。凄く美人だ。可愛い。美しい。抱きしめたい。支配したい。犯したい。噛み付きたい。笑わせたい。端整なこの顔を歪めてみたい。一生残る程の傷をつけたい。そうして傷口からあふれ出る血を思うさま啜ってみたい。恍惚として目の前の青年の端正な顔を己が印した紅と共に眺めていると、そんな矛盾した感情が次々と湧き上がってくる。このまま身ぐるみを剥いでこちらから抱いてしまったら、この人はどんな顔をするんだろう。
 女の子みたいに泣くのかな。それとも男らしく怒るのかな。嫌がって暴れるのかな。殴られるのはちょっと怖いけど、どうなるにしてもきっと自分は可愛いと思うのだろう。
 熱暴走を起こした頭のままでよれよれの黒いTシャツの裾に手をかけた。シャツの中では、古い猫のキャラクターが笑っている。力任せに脱がせてやろうと画策したが、しかし臍のあたりまで捲り上げた時、浅井はそんな明乃の沸騰した頭に氷水をぶっかけてくれた。
「そっか。卵、だよね。足りなくなった? 木佐さん、中々帰ってこないからね」
 木佐、という名前が浅井の口から出た瞬間に、熱く恍惚とした気持ちが風に吹かれた煙のようにするりと消え去った。
 いつもそうだ。
 いつもこの人は木佐、木佐、木佐、と。挨拶も無しに置いて行かれた私がどんな気持ちだったかなんて気付きもしないで、自分を振った恋人が迎えに来ると夢を見て妄言ばかりを吐いている。
 そう思うと、今度は煮えたぎるような怒りが胸の奥をふつふつと焼いていくのを感じた。ぎゅっと爪が肉に食い込むほど手を握り締め、衝動的に怒鳴りつけながら首を絞めたくなるのを必死に抑える。
「お兄ちゃん、まだ恋人が迎えに来てくれると思ってるの? とっくに他所の女に寝取られてるのに? もうねお兄ちゃんなんてとっくの昔に捨てられてるんだよ? それなのにまだ待つの?」
 自分の下に横たわる青年の、その青白い頬を殴る代わりに、自分でもぞっとするほど冷たい声で意地悪な質問が口をついて出てきた。
 取り乱すか、怒られるか、いずれにしろ感情を表すだろうと思っていた明乃だが、聞かれた浅井は一瞬きょとんとした顔をして、そしてゆっくりと溶けるように信頼しきった笑みを浮かべた。
「当たり前じゃないか。木佐さんは必ず来るよ。今は騙されているだけだから」
 明乃が入り込む余地すらない圧倒的な信頼。それを見た明乃は悔しさにギリと音が鳴る程に歯を食いしばって立ち上がる。そして浅井が呼び止める間も無く四畳半を足早に出て行った。


 ★   ★   ★


 明乃は泣かなかった。
 泣かない代わりに、憎しみとも怒りとも悲しみともつかない溶岩のような感情だけが胸の内でドロドロと燃え滾っているのを感じていた。
 誰にも見られぬように足早に布団屋を後にすると、道中で立ち止まって額を手のひらでぐっと抑える。冷や汗で湿った手のひらが火照った頭に気持ちいい。
「ダメだ……」
 まずは、頭を冷やさなくてはならない。
 やはり浅井に再会してからというもの、自分は少しおかしくなったような気がする。
 恥ずかしいとかふしだらだとかは思わないが、普通は女の方から男を押し倒したりしないだろう。
 浅井はホモで、女に興味が無くて、頭がおかしくて、女々しくて、学歴も無くておまけに金も無い。なのに、冷静に考えれば何のメリットも無いと言うのに、どうしてあの女の腐ったようなダメ人間をこんなにも欲しいと思ってしまっているのか。
 顔が良いから? 顔なんぞホモで頭がおかしいことと比べれば全くプラスになっていない。
 それよりなにより、そもそもの問題として浅井は自分を全く恋愛の対象として見ていないではないか。こっちの方から押し倒しても全く意に介さなかったのがその証拠だ。
 しかし、その事実が無性に悲しくて悔しい。
 解っている。
 ああ、解っているとも。
 これはきっと執着だ。
 もう手に入らない玩具をいつまでも忘れられない、駄々をこねる子供みたいな幼稚な執着。
 このどうしようもない執着を、恋という甘い言葉で包んでみよう。
 明乃は浅井に恋をしている。
 しかし、恋をしているからどうすれば良いと言うのだろう。例え明乃が浅井を好きでも、それはほぼ確実に実らない。
 浅井はどこの誰とも知らない木佐とやらを向いていて、明乃が思いを伝えてもきっと困るだけだろう。例えば明乃が少年であったなら少しは勝ち目もあったのかもしれないが、残念ながら戸籍も中身も立派な女だ。加えるように、今は扶養されてる学生の身分。無理に浅井を連れて駆け落ちしたところで行き倒れるのは目に見えていた。
 今なら何でこんな奴好きになっちゃったんだろうという少女漫画のセリフがよく解る。
 親にも友達にも紹介できないダメ男。何故なら紹介したが最後、誰も彼もが十中八九『やめておけ』と口にするのは目に見える。しかも明乃の一方通行。本人以外の誰もが全く望んでいない、寂しい悲しい恋心。
 ふいに激情に任せて暴れまわっていた小学二年生の自分が恋しくなった。あのころの自分なら、他人にどう思われようとも欲しい物は欲しいとはっきりと言えていた気がするからだ。ダメと言われようと、会いに行くのは止せと言われても、浅井が困ることさえ恐れずに、それら全てを突っぱねて、反抗して、好きなものは好きだとはっきり言えていたのだろう。
 しかし、少しだけ大人になった明乃にそんな事はもうできない。
 もし間違って告白なんかしたりして、浅井に拒まれたりしようものなら明乃はきっと生きていけない。
「ほんっと……どうすれば良いのかなぁ」
 手を瞼に押し当てひんやりとした感触を楽しみながら、自嘲するように明乃はぼやくしかできなかった。


 ★  ★  ★


 椀を反す


 人を好きになる気持ちはどこから来るのだろうか?
 最近の明乃の頭の中は、その疑問で埋め尽くされていた。というのも、その感情の出所さえハッキリすれば打ち消すことも可能だと思ったからだ。
 同性愛モノの小説を数冊通販で買って読んでみても、家にある少女漫画を細部まで読み返してみても、その気持ちがどこから来るのかは解らなかった。
 人間と人間が出会って、笑ったり衝突したり怒ったり泣いたり紆余曲折を繰り返しているうちに一緒に居たくなる。あるいは、共に人生を歩む決意をする。ドキドキしたりわくわくしたり、胸がキュンとするのが恋らしい。
 そういうのは何となく解るのだ。解るのだが、何故そうなるのか? どうすればこのどうしようもない恋心を打ち消せるのか? について書かれている書物は残念ながら一つも無かった。
 納得いく話があるとしたら、インターネット検索で見つけた『脳内ホルモンの悪戯』なる言葉だろうか。フェニルエチルアミンというホルモンが脳内に分泌されることにより起こりうる現象。
 薬か何かでこいつをどうにかすれば、このどこにもやり場のない苛立ちと焦燥感から抜けられるのだろうかと思った。が、一瞬にして噂の広がるこの田舎町で心の病院に行くという事にどうしても踏ん切りがつかず、明乃は一人で悶々としていた。
 本来なら、精神病院に行かなければならないのは浅井の方なのだが、余程の問題を起こさない限り浅井の両親は彼を病院へは連れてい行かないだろうと思う。それくらい、この小さな町では偏見の目が厳しいのだ。
「ん〜〜〜〜〜……解らん……」
 自室にて数冊目の少女漫画をベッドの上に放り投げると、転がったままの明乃は伸びをして大きな溜息をついた。
 どうやら自力で恋心を打ち消すことは難しいらしい。それはそれで仕方がないとして、明乃の頭には他にもう一つの大きな悩みがあった。それは、浅井のある種の女性っぽさに惹かれている自分である。
 とりたてて女装少年やシーメール、ドラッグクイーン等の異性装姿の男性が好きという訳ではないはずなのだが、浅井に限りは女装させたら絶対可愛いと思うだろうなぁという妙な確信を持っていた。機会があったら見てみたい。というか見たい。似合う服も似合わない服も余すところ無く着せてみたい。
 ゴスロリやバニー、猫耳メイドにウェディングドレスにチャイナドレス等の衣装を脳内の浅井に着せてみて、恥ずかしがるその様を思い描いているうちに、知らず知らず明乃の口はにんまりとだらしない笑みを浮かべていた。
「おっと、いかん」
 思わず垂れていた涎を慌てて拭い、ありえない妄想を振り払う。
 もしかして、男性が意中の女性を思う時というのは、こんな感じなのだろうか。
 なんだか、自分が男として浅井の女性性を見ているような気がして、つい自分の女としてのセクシャリティを疑ってしまう。仮に自分が男としてのセクシャリティを持っていて浅井を女性として見ている場合、これは果たしてノーマルなのか否か。しかし自分の女性性に違和感は無いのだから、浅井の女性性に惹かれている場合はレズビアンの一種なのだろうか? それとも、普通に自分は女で浅井は男なのだから単なるノーマル……?
(まぁ、どっちにしろ叶うはずはないんだけどね……)
 考えるうちにだんだん頭の中がこんがらがってきたのだが、最終的にはそんな寂しい結論に思い至り考えるのをやめた。
 どのみち、浅井は見ず知らずの『木佐』という人物しか見てはいないのだ。
 実際この目で見ていない以上、木佐という人物が本当に存在しているかどうかは解らない。しかし、あれ程まで一途に思い続けている浅井の姿を思い出すと、胸の内側がつきんと痛んだ。けれど、それはどうしようもない事だと溜息と共に諦めるしか無いのもまた事実。
 ふと、浅井も同じような気持ちに苦しんだ事もあったのだろうか? と思った。
 浅井は、自分の体内に『卵』を貰ったのだと思い込んでいる。浅井にしか見えないその卵と言うものは、もしかしたら浅井が木佐から感じていた愛情や思い出の具現化なのかもしれないと思った。
 木佐なる人物はもしかしたら浅井の妄想の産物なのかもしれないが、もう二度と手に入らない『卵』という名の思い出の欠片で、自分を捨てた元恋人を探そうとしているのかもしれない思うと、明乃は少しだけ切ない気持ちになった。
 近いうちにまた浅井の家に行こうと思う。
 例え叶わぬ恋だとしても、誰からも喜ばれない、望まれない恋だとしても、ただ傍に居るくらいは誰にも文句を言わせたくない。
 明乃は、そう強く思っていた。


 ★   ★   ★


 黙って帰ってしまったお詫びには、浅井の好物だったはずのコーヒーゼリーを用意した。
 小学生の頃、遊びに行った浅井の家では時々食べさせてもらったオヤツの一つだ。
 本当は自分の手作りで持って行ってあげたかったのだが、親にバレるとやっかいなので、学校帰りにわざわざスーパーまで行って学校で食べる用のキャンディと一緒に購入した。制服姿の入店なので周到とは言えないカモフラージュだが、親の耳に入った場合を考えて、しないよりはする方がマシだろう。
 いつものように浅井布団店の店先におばさんもおじさんも居ないことを確認し、周囲で喋っているおば様方が居ないかどうかもとりあえず辺りを一周して確認する。そして植木鉢から鍵を取って空き巣か野良猫のようにするりと中に入るのだ。
 我ながら慣れた手つきだとほくそ笑みつつ、浅井家の古びた木の階段を二階の四畳半目指して上がって行った。
 二階に上がって、一番最初にある襖が浅井の部屋になっている。そこを開けると、いつものように浅井が窓際にのっそりと座って待っているはずなのだ。
 誰を待っているのかというとそれは言わずもがな『木佐』なのだが、例え来たのが明乃だとしても、彼は透き通った湖のように静かに、しかし美しく笑って「いらっしゃい」と答えてくれる。
 もうすぐ、浅井に会える。
 先日、あんなにも腹立たしかったのが嘘のようにうきうきと襖の引き手に手をかけた所で、鼻にかかった猫のような鳴き声と、浅井じゃない誰かの声が聞こえた。
「……さん、もっ……ダメ……から……っ」
「うん……じゃない……だろ? ほら、……よなっ?」
 わざとバンッと音がするほど勢いよく襖を開いた。
 四畳半の一番奥で、スーツを着た見知らぬ男が仰向けに寝転がった浅井にべったりと密着して覆いかぶさっていた。
 音に驚いたのか、はっと顔を上げた見知らぬ男の眼鏡越しに目が合った。
 バンッ!!
 襖を閉じた。
 突然の光景に明乃の頭の中はパニックに陥っていたが、妙に冷静な自分の一部がこの家の構造を分析して台所のありかを物凄いスピードで模索し始めていた。
 包丁だ。包丁を持ってこないといけない。
「……包丁、持ってこなくちゃ」
 体を動かせないまま、ぽつっと思ったことが口から出た瞬間、バンッと今度は内側から襖が開かれた。
 立っていたのは、黒髪で黒縁の眼鏡をかけた、やたらと神経質そうなスーツ姿の男だった。


 ★   ★   ★


 神経質そうな黒縁眼鏡の男は爪の先で神経質そうにシュガースティックの口を開くと神経質そうに叩いてコーヒーに落とし、そして神経質そうな細い指先で神経質なまでに執拗にティースプーンでかき混ぜた。
 短い黒髪は神経質に一本の乱れも無く整髪料で撫でつけられ、その黒い眼は神経質そうに忙しなく周囲を見回している。神経質なまでに黒で統一されたスーツは神経質そうな彼の性格を反映するかのように皺の一つもなくピンと張っている。形状記憶スーツだろうか。
 そんな神経質がゲシュタルト崩壊しそうな男の前で、制服姿の明乃は居心地悪そうに体を縮こまらせて座っていた。明乃の目の前のテーブルには、男と同じアメリカンコーヒーが緩く煙を立ち上らせている。
 地元高校の制服を着た女子高生と見知らぬスーツ姿の三十代手前くらいの男というカップルを、喫茶店の先客たちは奇異の視線で見つめていた。
 おそらく明日くらいにはもう噂になってるんだろうなぁ。うまくしらばっくれる事ができるかなぁ。一応適当に言い訳でも考えておくかなぁ。と明乃が思っていると、目の前の細身の男が指先でコーヒーカップのハンドルを摘まんで薄い唇へ上品に黒い液体を流し込むのが見えた。
 向かい合わせに座ったままどちらも喋らず、重苦しい雰囲気だけがその場を支配しているこの状況。
「……本当に居るとは思いませんでした」
 沈黙に耐えかねた明乃がぽつんと口を開くと、カップをソーサーに戻した男が怪訝そうな視線を向けてくる。
「あの、私てっきり木佐さんっていう人はお兄……浅井さんの妄想か何かなのかもしれないと思ってたんです。だから、本当に居てちょっとびっくりしたと言いますか……」
「アレは昔から言う事が滅裂な時があるからね。まぁそう思われても仕方がないだろう」
 特徴的なバリトンボイス。顔は整っているのに明乃に対しにこりとも笑わない、冷たい印象を与えるこの男は自分の事を『木佐』と名乗り、明乃を布団屋の近所にあるこの喫茶店へと連れ出した。
 明乃からしてみれば喫茶店なんて目立つ場所へ行くのはとんでもない事だったのだが、あの場に居て、浅井が同席するとやたらと木佐に纏わりついたり二人の間に割って入って滅裂な事ばかり言って全く話が進まないどころか、余計にややこしくなりそうなのでしぶしぶ男の言に従った。その時、浅井は一人にされるのを酷く嫌がっていたが、木佐が二言三言囁くと、突然よく躾けられた犬のようにおとなしく待つのを了承した。
 しかし、今から思えば失敗だったのかもしれないと明乃は思う。
 どう体を丸めようと周囲から明らかに目立つ上、この沈黙っぷりである。実存さえ危ぶまれた浅井の元彼を突然目の前にして、明乃は何を聞いていいのかさっぱり見当もつかなかった。
(聞きたいことは沢山あったはずなんだけどなぁ……)
 周囲を気にしてまんじりともせずスプーンでくるくるコーヒーをかき混ぜていると、目の前の神経質そうな男が明乃を見ながらくいと人差し指で眼鏡を持ち上げる。値踏みされているような、嫌な目だなと明乃は思った。
「君は、アレとはどういう関係なんだい?」
 唐突な質問に、明乃はしばし言葉を詰まらせてから浅井との関係を問われているのだと気が付いた。
「あっ、と……ただの友人です」
「友人? アレに? まさか。冗談だろ?」
 この時、初めて木佐の口元に笑みが生まれた。それはもちろん親愛ではなく嘲笑で、心底浅井を馬鹿にしきった様子の元彼に明乃は妙な違和感を感じた。浅井が言うには元とはいえ良い恋人だったらしいのだが……。何かあったのだろうか?
「あのー……浅井さんから聞いたのですが、確か木佐さんと浅井さんは昔、恋人同士だったんですよね?」
「一応、形式上はそうなるね」
 おずおずと尋ねた明乃に対し、木佐はなんの感慨も無い様子で言い切った。その言い方があまりにも冷たくて、いよいよ明乃は心の中で首を傾げる。
 おかしい。どう考えても、おかしい。明乃には目の前の木佐が浅井の言うような優しい人にも凄い人にも全く見えなかった。
「あの、私は浅井さんから貴方に新しい恋人が出来たから振られてしまったと聞いたんですけど、何だか言い方が不明瞭なんですよね。結局の所、お二人はどうして別れてしまったんですか?」
 ほんの興味本位の事だったが、木佐は不愉快そうに眉根を寄せた。
「そんな事を何で他人である君に言う必要があるのかい?」
 冷たく言い放たれて明乃は少し怯む、が、ここで負けてはいけない気がした。女の勘とも言うべき何かがしきりに『引き下がるな』と訴えている。ここで引き下がったら、きっと何か大切な物を奪われてしまうような、そんな気がした。
「済みません……では、どうして今更別れたはずの浅井さんの所へいらっしゃったのですか? 浅井さんの言葉を信用するなら、貴方は今、ここに居るべきではないと思うのですが……? それとも、浅井さんとヨリを戻しに?」
 舐められないよう精いっぱい虚勢を張って、このつっけんどんな男の底を見透かすような冷たい視線に怖気づいているのを悟られないように明乃は背筋を正してはっきりと問い尋ねた。
 しばしの間、お互いに威嚇しあうような沈黙が続く。
 喫茶店の中、周囲からの視線が痛い程自分たちに向けられているのが感覚で解る。少し耳を澄ませば奥様方の噂話も聞こえてしまうだろう。ついつい目立つのが恐ろしくなり、明乃はまた背を丸めそうになるが、目の前の男との睨みあいに屈するわけにはいかない。すると、鉛のように重苦しい沈黙の末、目の前の男は突然何かを考えるように一瞬目を伏せると、ふぅーっと細い溜息をついてもう一口コーヒーを舐めるように飲んだ。
「そうだな……これは、アレに構ってくれる親や友達なんぞ誰も居ないと高を括っていた私の落ち度なのかもしれん。いいだろう。だが、その前に聞かせてほしい。この町で、君以外にアレと親しくしている友人は居るのか?」
 爬虫類のように熱の無い目で問われ、明乃は静かに首を振る。
「いいえ。友達は私以外には居ないと思います。あと彼の場合、親御さんとの仲は悪くは無いと思うんですけど少々諦められているだけと言いますか……」
「ああ、それは良いよ。アレの両親はとっくの昔にアレを真人間に戻すのは諦めているみたいだからね。むしろアレが居ない方が騒ぎが無くて落ち着いているんじゃないのか? 今現在だって一応息子だから家に上げてもらってるだけで、どうせ大してアレと接触しようとしてはいないんだろう?」
 知ったような木佐の口ぶりに、ぐっと明乃は言葉を詰まらせた。
 確かに、明乃が浅井の両親について知っていることはほとんど無い。小さい頃、浅井の家に出入りしていた時は挨拶くらいは交わしたけれど、その時は浅井と遊ぶのがメインだったし、その後もせいぜいが浅井が昔勘当されていた事や、帰宅早々お父さんを押し倒したという噂話。それと浅井に対しては『決して外に出るな』と念を押したらしい事以外には何も知らなかった。
 今の浅井との会話の端々から解る事も、食事は台所の作り置きを食べ、あとは延々部屋で別れた恋人を一人で待ち続けるのがここ最近のライフスタイルらしく、親の話は全くと言って良いほど出ていない。
 明乃が何も言えないでいると、再びコーヒーを手にした木佐は冷たい笑い声を静かに漏らした。
「そりゃ、そうだろうな。あんな気の触れかけたような人間、生きているだけで迷惑以外の何物でもないからな。アレのご両親も、この町の人間も現在過去未来でアレに関わった人間全てに私は同情しているよ」
「それは……どういう意味ですか?」
 まるで最初から浅井を見下していたかのような木佐の言葉に、明乃の眉が跳ね上がる。曲がりなりにも恋人だったろうに、何故そんな酷いことを言えるのだろうか。
 木佐は冷静に、人間らしい感情を感じさせない言葉を明乃に投げつける。
「そのままの意味だよ。友人だと言う君には悪いけど、アレは人としては下の下だ。私は学歴で人を差別しない主義だが、そんな私でも高校さえ出なかったアレを真っ当な一人の人間と見なすことは出来ないと思っている。というかね、あんな気狂いと同じヒト科だと定義されることすら腹立たしいと思うね。せいぜいが人の皮を被った犬か猿か、そんなもんだろう」
「でも、貴方は都会ではお兄ちゃんの恋人だったんでしょう!?」
 思わず語気が強くなる明乃だが、木佐は心外だと言わんばかりに肩を竦めた。
「まさか。アレはそう思っていたかもしれないけど、私は一度だってそう思ったことはない。君は若いから、肉体関係さえあればその二人は恋人同士になると思っているのかもしれないが、それは大きな間違いさ」
 乾ききった木佐の話に、明乃はもう顔を赤くして良いのか青くして良いのか解らなかった。浅井から聞いた優しい恋人というのは、一体誰の事だったのだろうか? 浅井の見ていたものは幻だったのだろうか? 考えるだけで、ぐらぐらと眩暈がする気がした。
「だって……じゃあ、なんでまたお兄ちゃんに会いに来たの……?」
 肺腑から絞り出すようにもう一度訪ねると、木佐はここで初めて穏やかに笑った。そして明乃だけに聞こえるように口元に手をかざし、低く、おぞましい悪魔のように囁いた。
「いいかい? いくらアレの頭が悪かろうが狂ってようが人としての知能指数に達してなかろうが、物は使いようだ。たとえそこらに落ちている路傍の小石だろうと、やり方によってはいくらでも利用価値があるんだよ」
 そして得意げに腕を組むと、ビジネスの話をするかのように木佐は語る。
「君は何故彼と別れたのかと聞いたね。簡単な話さ。私は仕事上で知り合ったとある女性とお付き合いする事になったんだ。だから申し訳ないとは思いながらも彼とは一度別れてもらったのさ。しかしその彼女はどうにも浪費癖が抜けないようでね。まぁ顔も家柄も申し分無く良い部類なのだけれど、我儘なのが玉に瑕だというよくある話だよ。私ももちろん努力はしたが、そろそろ金銭的に厳しいんだ。そこで、私は元恋人というよしみで浅井君に協力を求めに来たわけさ。まぁ、多少は申し訳なくは思っているが、彼はいつでも私の頼みを快く聞いてくれるからね。恥ずかしながらつい頼りに来てしまったという訳さ」
 そうして木佐は人好きのする笑みを作って見せる。最初に明乃にあった時とはまるで違う。何も知らない娘や近所の奥様方なら、一目でコロリと逝ってしまいそうな爽やかで優しい笑みだった。
「でも、今の彼にはそんな金は無いだろう? だから、仕事を紹介するからもう一度こちらに来ないか? と聞きに来たんだよ。私は。もちろん一緒に暮らすのは無理だが、月に数度なら会いに行ってやるよ、とね」
「……お兄ちゃんに何をさせるつもりなんですか?」
 黒縁眼鏡の奥の奥、怜悧な瞳の裏に潜む悪魔の笑みにうすら寒い物を感じた明乃は、吐き気を抑えながらかろうじて問うと、悪魔は一層笑みを深くする。一体、浅井を含めた何人の人間がこの悪魔に騙されたのだろうか。
「何、簡単な肉体労働さ。もちろん彼にだって自分の取り分くらいはある。ただ、受け取るかどうかは彼次第だけどね」
 肉体労働が何を意味するかは明乃にはなんとなくしか解らない。けれどこの悪魔の口ぶりからしてまっとうな事ではないのは確かだろう。そして協力したが最後、木佐を盲信する馬鹿な浅井が全力で目の前の悪魔に尽くす事は目に見えていた。
「まぁ、凄い計画ですね。そんなこと、どうして私に教えてくれるの?」
 最低なネタばらしをくれた相手に怯まぬように精いっぱいに目で威嚇しながら口元に笑みを浮かべる明乃。対して悪魔は小路に鼠を追い詰めた猫のようににやにや笑いを続けていた。
「私はね、彼の顔だけは気に入ってるんだ。世の中は本当によく出来ているな。あんな人として最低の狂人のクズだって一つくらい良い物を持っている。もし今後の話が拗れたとき、私に協力してほしいんだよ。友達面している君だってどうせ彼を見下しているんだろう? だからさっきからしきりに周囲を気にしていたんだろう? 解るよ。彼と友人、もしくは知り合いなのを周りに知られたくないんだろう? もし上手く言いくるめるのを手伝ってくれる約束をしてくれたら彼の収入の五パーセントをお小遣いとして送ってあげても構わないよ。君くらいの年なら欲しい物も沢山あるだろう? どうだい? どうせこのまま生かしておいてもアレは真人間にはなれない。無益で役立たずな廃人まっしぐらだ。せいぜい動けるうちに利用してやった方が世のためであり『彼』のためだとは思わないか?」
 自分のセリフに酔っているのか、得意げに語る木佐がわざとらしく浅井の事を『彼』と言った瞬間、明乃の中にわだかまっていた吐き気や寒気がフッと消えた。
 既に怒りは通り過ぎたのか、それとも煮詰まり過ぎた怒りが全て気化したのか、恐ろしいほど頭の中身がクリアに冴えわたる。
 精いっぱいの虚勢を張るのも木佐と居て目立つんじゃないかと体を縮めるのも、この話を聞かれやしないかと周囲を気にするのも唐突にバカバカしくなった。
 強がりの笑みを顔に張り付けるのを止めた明乃は能面のような無表情となり、そして、気付いた時には半分ほど中身の残ったコーヒーカップを木佐の頭の上でひっくり返していた。
 神経質に整えられた髪や黒縁の眼鏡から、ぽたぽたと滴るこげ茶色の液体は残念ながら既に冷め切っていた。もう一杯アツアツの入れたてを頼むのも悪くないと思ったが、それでは時間と金がもったいない。
 表情を消したままの明乃は傍らに置いていた学生かばんを開くと、青い布の財布から一人分のコーヒー代金を机に置いて無言で立ち上がる。
「お、お前おおおお、お前!!?」
 頭からコーヒーをぶちまけられ一息遅れに慌て始めた木佐に背を向けると、明乃は優雅に制服のスカートを靡かせてざわつく喫茶店を後にした。


 ★   ★   ★


 涙で縋る


 この田舎町は、本当に噂話が流れるのが早い。
 ネットもゲームもあるご時世に、それしか娯楽がないのかと疑いたくなるほどだ。
 明乃が布団屋のホモの痴情のもつれに巻き込まれたらしい事は、喫茶店にて木佐にコーヒーをぶちまけたその翌日。明乃が学校から帰る頃にはご近所中に知れ渡ることとなっていた。
「あんた!! あれ程秋一君に関わるなって口を酸っぱくして言ったのに、何でもう……この馬鹿!! 大馬鹿!!」
「だから、悪かったって言ってるでしょ。……心配しなくったってそんな変な事にはならないわよ。大体、浅井お兄ちゃんは女の子に全く興味無いし……」
「そういう問題じゃない!!」
 部屋中がビリビリと響くような怒鳴り声を浴びせられ、思わず明乃は目を瞑る。
「大体あんたって子は昔から人がダメだって言ったことばっかりやって……。そんな事ばっかりしてほんっとにほんっっっとに大事になった時どうするの!? ただでさえ秋一君は頭おかしくて昔から問題行動ばっかりなのに、アンタまで変なことに巻き込まれておかしくなったらと思うと母さんはもう心配で心配で!!」
 居間の床に座らされ、母親から説教される明乃は内心げんなりしながらも真面目に聞いているフリをした。そして浴びせかけられる数々の叱責を聞き流しながら、そういえば小学生の頃も浅井と懇意にしているのを知られた時に滅茶苦茶に怒られたなぁとぼんやり考える。
 そうだ。思い出した。
 昔も、浅井と遊ぶたびにこうやって両親から物凄く怒られていた。
 それでもめげずに浅井の家に通い詰めていたらいつの間にかこういう風に近所で噂になっていて、浅井の方から『お前、もう家には来るな。迷惑だから』と言われたのだった。今思えば、もしかしたら浅井秋一が幼女を家に連れ込んでいるという噂を気にした布団屋のおじさんとおばさんから明乃を家に居れないように言われたのかもしれない。が、当時の明乃はまさか浅井から拒否されるとは思っていなくて酷くショックを受けたのだった。
 そのうちに中学を卒業した浅井は布団屋を手伝い始め、忙しそうに働く浅井に対し、明乃は中々声をかけられなくなってしまったのだ。
 しかし、たくさんの布団を軽々と抱えて車に積み込む手伝いをする浅井を、明乃はいつもこっそりと見つめていた。
 何度、浅井の家の前を往復しただろう。何度、声をかけようと思っただろう。
 しかし、浅井の迷惑になってしまうかもしれないと思うと、どうしても出来なかった。それまで自分のやりたいことは誰から何と言われようと全部やっていたというのに、だ。
 もしかしたら、あれが明乃にとっての理性の目覚めという奴だったのかもしれない。
 暇さえあれば物陰からこっそりと浅井の姿を見に行った明乃は、声をかけようとしては止め、手を振ろうとしては止めという事を繰り返していた。本当はもう一度喋りたかったし、抱きついて撫でてもらいたかった。けれど再び『迷惑だ』と言われたらと思うと、明乃はどうしても話しかけることが出来なかったのだ。そうして月日が流れるうちに、明乃が浅井を眺める時間は減っていった。浅井を追いかければ追いかけるほど、どんどん辛くなる自分に耐えられなくなったから。
 そして、気が付いた時にはもう浅井はさよならも告げずにこの田舎町を出て行った後だった。
 小学六年生になっていた明乃は既に悲しいとは思わなかったが、胸の奥の大事な場所にぽっかりと穴が開いたような、何とも言えない寂しさはしばらく消えてはくれなかった。
 幼い頃の苦くて酸っぱい思い出についしかめっ面をすると「聞いてるの!?」と怒鳴られた。
「聞いてます!! 聞いてますから耳元で怒鳴らないでって!!」
 まったくもう、と母親はため息をついて腕を組む。
「アンタがコーヒーかけたっていう木佐さんだっけ? まぁ、良い人だったから良かったものの……秋一君みたいに変な人だったらどうなってたことか……」
 心ここに非ずの状態だった明乃は、しかし唐突に母親の口から出た木佐、という名前を聞いて驚いた。
「木佐!? お母さんなんで木佐を知ってるの!?」
「え? そりゃアンタ、秋一君の元彼でしょ? 喧嘩して、お互い少し離れて頭が冷えたから迎えに来たって噂で聞いたわよ? で、アンタが痴話喧嘩の間にしゃしゃり出てコーヒーかけたって話を聞いて、母さんすぐ浅井さんの所に謝りに行ったわよ!! 丁度布団屋さんの前で鉢合わせしてね。都会の人って物腰ですぐ解るのね。ウチのバカ娘が済みませんって謝ったら『私がつい口を滑らせて浅井君の悪口を言ってしまったから悪いんです』って逆に謝られちゃったわよ。クリーニング代もいらないって凄く丁寧に言われたわ。秋一君、頭はアレなのに男を見る目だけはあったのね」
 あんないい男がホモなんて世の中間違ってるわ。等と年甲斐もなく木佐を思い出してぽっと頬を染めた母を見て、明乃は愕然とした。
 あの悪魔を良い人呼ばわりした母もそうだが、木佐がまだ浅井の傍に居たことも驚いた。しかし、そりゃそうだと思い直す。明乃がコーヒーの一つや二つ頭からかけた所で、木佐が町から消えるはずはない。奴の目的はあくまで浅井をこの町から連れ出して、自分の都合の良いように働かせることにあるのだから。
 しかし、それを正直に言ったところでこの町の住人同様に浅井を蔑み、木佐の上品な上っ面に騙されている母が信用してくれるとは思わなかった。よしんば明乃が訴えて信用したとしても、母が町の厄介者である浅井の為に行動を起こしてくれるとはどうしても思えない。せいぜい『関わるな』と言われるのが関の山だろう。
「……ねぇお母さん。木佐……さんと他に何か喋った?」
 本当は、あの悪魔にさん付けをするのも嫌だったが、仕方がない。早鐘のように鳴る心臓を宥めるようにゆっくりと尋ねる。
「そうね特には……そう言えば、日曜には秋一君と都会に戻るって言ってたかしら? まぁ、結局なんだかんだで元の鞘に戻ったって事かしらね」
 やれやれ、とため息をつく母親の言葉に息を飲む。
 慌てて壁にかかったカレンダーを盗み見ると、日曜日と言えばもう今日を入れても三日しか無いではないか。
「アンタ、顔色が悪いわよ? 大丈夫?」
 急激にに顔から血の気を失った娘を見て、怪訝そうな顔をする母はもう一度ため息をつくと「まぁ、木佐さんに免じてこの事は許してやるわ。今日はもう良いからご飯が出来るまで部屋で寝てなさい」と明乃を自室へ追いやった。
 ふらふらとした足取りでベッドの上に倒れこんだ明乃は、叫びたい気持ちで一杯になっていた。
 どうしようどうしようどうしようどうしよう。このままじゃ、このままじゃ浅井お兄ちゃんが悪魔に連れて行かれてしまう!!
 誰かに助けを求めるか? 否、この町の住人は皆浅井を避けている。明乃が訴えたとして、誰が彼の為に動くだろう。警察に言うとしても、当事者でもない自分が何と言って届け出れば良いのだろうか。
 浅井はきっと馬鹿だから、騙されている事にも気づかずに利用されて、最後にはゴミのように捨てられてしまうに決まっている。そして捨てられてからもきっと木佐を信じて、信じ続けて、自分を迎えに来てくれるのを待ち続けるのだ。
 きっと死ぬまで――。
 そう思ったとたん、後頭部を角材で殴られるような衝撃と胸の痛みが明乃を襲った。
 浅井は頭がおかしくて、友達も居なくて、明乃以外の誰からも……親からも見放されている。だから、浅井を、浅井の心から救ってくれる人間はどこにも居ない。木佐という悪魔に人生を弄ばれて、裏切られ続けて、でも気付けなくて、だから本人は自分が辛い事さえ気づかなくて誰かに助けてと言う事すら思いつけないのだ。
 そんな浅井を思うと、あまりにも苦しかった。ズキズキと痛みの走る頭と掻きむしりたい程に苦しい胸を抑えて過呼吸を起こしたようにはぁはぁと喘ぐ。しかし、それでも抑えきれない涙が無意識のうちにぼろぼろと流れ落ちた。
 それは絶対に嫌だった。
 それだけは絶対に嫌だった。
 そんなのだけは絶対に嫌だった。
 今日の学校帰り、浅井に会いに行けば良かった。どうしても周囲に人が居て入れなかった。でも、そんなのもう気にする必要無かったんだ。噂はもう走り出していたんだから。
 私はもう、巻き込まれているんだから……。
 ――浅井お兄ちゃんに会いたい。
 黒く沈みかけた意識に射した一筋の光のような気持ちに、バチバチと雷に打たれたような閃きが脳内に弾ける。体中に電流が駆け巡り、考えるより先に体が暴走していた。
 あの小学二年生の頃と同じように、ベッドからバネのように飛び起きた明乃は流れる涙も拭かずに激情に身を任せて走り出していた。
 母親の静止も聞かず、バッグも持たず、上着も着ずに、外靴だけを足につっかけて、気付けば明乃は家を飛び出していたのだった。


 ★   ★   ★


 バタン、と勢いよく襖を開けると、目を丸くした浅井が大きな鞄を前にして畳の上に座っていた。
「明乃ちゃん? どうしたの?」
 昨日会ったばかりだと言うのに、その染ムラだらけの虎猫頭が懐かしくて仕方がない。
「お、お兄ちゃぁん!!」
 ガバリと抱きついた明乃は、うろたえている浅井のよれよれのシャツに頭を埋めてグズグズと泣いていた。良かった。まだ居てくれて、本当に良かった。
「ど、どうしたの? 何で泣いてるの?」
「お、お兄ちゃん、行かないで、どこにも行かないで!! あの人について行かないで!! ここから出て行かないで!!」
 顔を埋めたまま、しゃくりあげながら悲鳴みたいな感情を吐き出すと、一拍遅れで明乃の震える体を抱きしめる感触がした。それから、手のひらで優しく頭を撫でられている感触。小学生の時みたいな乱暴な撫で方ではなくて、本当に小さい子を慰めるみたいに優しい触れ方。
 おずおずとシャツから顔を上げると、少し困ったような笑み浮かべた浅井がそこに居た。
「何で笑ってるの!?」
 ふつふつと湧き上がる照れのような気持ちが制御出来なくて浅井にしがみついたまま明乃は怒鳴る。すると、今度は浅井は年上のお姉さんみたいに両腕で明乃を抱いて、背中を優しく撫でてくれる。
「うん? 明乃ちゃんは可愛いなぁって思った」
「なっ!? 何で今そんな事言うの!?」
「だって今思ったから」
 まさか、ここでその言葉は反則だろう。突然顔が熱くなるが、この居心地の良い抱擁から脱出するには至らない。その代り引っ切り無しに流れていた涙が引っ込んだ。そのまましばらく無言で撫で続ける手の感触と、とくとくと規則正しく刻む心音を聴いているうちに、明乃は少しだけ落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
「……うん」
「どうして泣いてたのか言える?」
「うん……」
 頷いて、浅井の体から離れた明乃は涙の塩気にひりつく目を擦る。
 箱ごと手渡されたティッシュで鼻をかみながら部屋を見ると、どうやら浅井は荷造りをしている最中のようだった。狭い四畳半に置かれた大きなボストンバッグには、いくつかの私物が既に詰め込まれている。また何も言わずに出て行ってしまうつもりだったのだろうかと思うと、胸の奥がつきりと痛んだが、今はそれどころではない。姿勢を正した明乃は浅井を真っ直ぐに見据えた。
「お兄ちゃん、木佐さんについて行かないで。お兄ちゃんは、騙されてるの」
 一語一語、はっきりと言う。母親から浅井が町を出ると聞いたこと。それから喫茶店で木佐の言っていた話を、浅井にも解りやすいようゆっくり、そしてちょっと誇張した表現を交えつつも、明乃は浅井が騙されている。あの人は女と別れていない。お金だけが目的で、ついて行ったら都合よく使われて捨てられるだけだ。裏切られ続けるだけだと説明した。
 浅井の骨ばった手をぎゅっと両手で握りしめ、だから、浅井が傷つくから行ってほしくない。だから、浅井が心配だから行ってほしくない。浅井を不幸にしたくないと何度も繰り返し訴え続ける。
 喋っている最中、浅井の事だからもしかしたら短気を起こして途中で聞いてくれなくなるかもしれないと思っていたのだが、意外なことに浅井は黙って聞いていた。そして、明乃が話し終えた後、浅井は一つ頷いた。
「うん。明乃ちゃんが俺を凄く心配してくれてるのはよく解ったよ。ありがとう。こんなに心配してくれるのは明乃ちゃんだけだもんね」
 その言葉と笑顔に明乃は報われた気持ちになった。しかし、それも一瞬の事。
「でも、俺は木佐さんと一緒に行かなくちゃならないんだ」
 急に、目の前が真っ暗になった気がした。
「なんで……? お兄ちゃん騙されてるんだよ!? 馬鹿にされてるんだよ!? 完全に遊ばれてるんだよ!? それなのに、何でそんな人と居ようとするの!? 馬鹿なの!? 阿呆なの!?」
 掴みかからん勢いで迫り捲し立てても、浅井は少し困ったように眉を八の字に寄せただけだ。
「えーと……上手く言えないけどさ。俺って、明乃ちゃんや皆が言うように凄く馬鹿だろ? 金も全然持ってないし、本もあんまり読まないから、少し難しい話されたら全然解らない。俺が高校も出てないのは皆知ってるよね?」
 明乃は頷きはしなかった。
 自分でも言ったクセに、自嘲する浅井に向かって「自分で自分を馬鹿って言うな」と怒鳴りつけたい衝動に駆られるが、明乃は何も言わず、ただ怒ったような顔で浅井を睨みつけていた。
 浅井は年齢と体格に似合わない、眠たげで舌足らずな音を紡ぎ続ける。
「でもさ、俺は明乃ちゃんが言うみたいに馬鹿だから騙されてたのかもしれないけど、今まで生きてきた中では木佐さんだけなんだよね」
「何が?」
 そこで、浅井は少し恥ずかしげに目を伏せる。
「……心の底から『愛してる』って思ったのが」
 ふやふやと夢を見る乙女みたいな甘ったるい言葉に、明乃の心臓が見えない鎖でギリと締め付けられる音が聞こえた。
「だから、やっぱり俺は木佐さんについていくよ。そのうち、木佐さんも間女に騙されてるって気付くかもしれないし、卵も育てなくちゃいけないし……それに、あの人に必要とされてるなら、やっぱり嬉しいんだ」
 聖母のような慈しみさえ感じる笑みを前に、明乃は自分でも気付かないうちに関節が真っ白になるほど両手を握りしめていた。
「愛してるなら、何をされても構わないの……?」
 血を吐くような質問に、浅井は躊躇いもなく頷いた。
「うん。俺には、他に何もないからね」
 途端、明乃の両目から音も無く、大粒の涙がぼたぼたと零れ落ちてきた。
 明乃の内側に溢れていた先ほどの焦燥とは全然違う。悲しいのか苦しいのか辛いのか訳が解らない感情が満ちてきて、涙がそれらに押し出されるように後から後から流れてくる。
 胸の奥が締め付けられて、軋むような痛みで頭がどうにかなりそうだった。それと同時に、この感情がきっと愛だと思った。
 こんなに好きで、離れたくなくて、絶対に不幸にはさせたくないのに止められない。幸せにしてあげたいのに、自分にはどうすることもできず、そのやり方さえも解らない。それが歯痒くて堪らない。明乃は、浅井から好かれなくても良かった。でも、ここで木佐の元へ行かせてしまったらきっと浅井は幸せにはなれないだろう。例え浅井が自分の不幸に気付かなくても、浅井自身が望んでやることだとしても、明乃はそれを思うだけで頭がおかしくなりそうだった。
 ここで引き留めなければならない。
 けれど、浅井はもう決めていた。
 でも、それを許したくはない。
 ここで諦めてしまったら、絶対に後悔するのは解りきった事だった。
 行かせたくない。けれど、浅井を思いとどまらせる方法が明乃には解らない。
 だからもう、明乃は浅井に縋りつくしか無かった。
「お兄ちゃん、私ね……私も、お兄ちゃんを愛してるよ。愛してるの。愛してるから。愛してる。お兄ちゃんが木佐さんを愛してるのよりずーっと、百倍も千倍も何万倍も愛してるの!! 小学生の時からずっと、ずーっと愛してる。愛してるの、愛してる!! だから行かないで。愛してるから、行かないで!! お願いだから行かないで!!」
 浅井の腕に縋りついて涙を流し、壊れた人形のように「愛している」「行かないで」と繰り返す明乃の頭を浅井はそっと抱きしめた。
「ごめんね」
 どんなに頼まれても、縋られても、それでも行く。そんなはっきりとした優しい拒絶に、ひゅっ、と明乃の息が詰まった。そして浅井に縋りついたまま、ずるずると力の抜ける体を青年は両腕でしっかり支えた。
「日曜日の朝には出て行かなきゃいけない。だからもしも、まだ明乃ちゃんに卵が残っていたら返してほしいんだ」
「卵……」
 涙濡れの呆けた頭で、そういえば再会したその日から何度もよく解らない卵を埋められたのを思い出す。粘膜接触で移すことの出来る卵は、浅井が木佐に産み付けられた卵らしい。電波で親を探して、携帯電話の電波で焼け死ぬという変な卵。浅井が後生大事に抱えて育てようとしている目に見えない謎の卵。
 もしも自分も浅井に卵を植えつける事が出来たら、浅井は木佐と自分のどちらを選ぶんだろう。
 泣き疲れ、茫洋とした思考の中で明乃で浅井の顔を見上げた。少し困ったような、申し訳なさそうな表情。けれど、整った顔つき。日向の猫のような眠たげな目と薄い唇。抱きしめる体の体温と、規則的に刻む心音。
 この人を、誰にも渡したくない。
 強く思った瞬間、明乃の心に大きなヒビが入る音がした。割れた心の、その表面から真っ黒な血液がじわりと滲み出す。
 黒い血は透明な心の表面を覆うように零れ落ち、流した涙の分だけ明乃の心がゆっくりと冷えて行く。それなのに、芯の部分だけはジクジクと膿んだように熱いのだ。
 渡さない。渡さない。渡したくない。例え誰かを不幸にしても、この人を自分以外が不幸にするのを許さない。許せない。絶対に許したくない。
 明乃は目の前の白い首に手をかける代わりに、もう一度抱きなおした。そして儀式のような口づけを交わす代わりにそっと浅井の耳に囁いた。
「残ってる、けど……明日まで一緒に居てあげたいの。卵……この子達とはずっと一緒だったから。明日の朝が来たら返すから、朝の七時くらいに玄関で待っていて。今度は、きちんとさよならの挨拶がしたいから……」
 言いながら、自分も悪魔と大して変わらないんだなと、どこか他人事のように考えた。


 ★   ★   ★


 玄関を出ると、偶然木佐と鉢合わせしてしまった。
「何しに来たのよ」
「それはこちらのセリフだが?」
 目に見えない火花が二人の間に散っている。浅井が見たら、おろおろと狼狽してしまいそうな一触即発の空気だが、神経質そうに中指で眼鏡を指で持ち上げた木佐はすぐに意地の悪い笑みを浮かべた。
「何、アレの気が変わらぬよう、親睦を深めに来ただけだ」
 その『親睦』という言葉の中に下品なニュアンスを感じ取った明乃はフンッと鼻で笑ってやった。
「お兄ちゃんの気が変わるのが怖いから繋ぎ止めに来ただけでしょ?」
「何だ。そのバカにした態度は。お前だってどうせ行かないでくれと無様に乞いに来たんだろう? どうだった? お前が泣きついて、奴の気は変わったか?」
 明乃は未だ涙に濡れて腫れた目を隠そうとはしなかった。そして浅井に行かないでくれと泣いて懇願し、縋りついた事もあえては否定しなかった。
「いいえ。健気にアンタについて行くって」
「だろうね」
 勝ち誇ったように脇を通り抜ける木佐だが、すれ違いざま明乃は笑った。そして悪魔も裸足で逃げ出したくなるほどぞっとするような声音で、楽しげに木佐に投げかける。
「お兄ちゃんは誰にも渡さないから」
 その言葉が何を意味しているのか解らなかったが、どうせ負け犬の遠吠えだと思った木佐は明乃を蔑むように笑うと堂々と玄関をくぐって行った。


 ★   ★   ★


 卵を貰う


 浅井が木佐と出会ったのは、都会のとあるゴミ捨て場だ。
 饐えた臭いのする都市指定のビニール袋の山の上で仰向けにぐったりと倒れていた。そんな浅井を街路灯が寂しく照らし出している星も見えない晩の事。
 随分長い事殴られ続けていた気がする。
 有り金は残らず巻き上げられていたし、切れた口の中は血の味しかしなかった。首から下も随分と痛めつけられ、そのせいかどうかは知らないが指先一つ動かすのも億劫だった。
 都会に来て、まだ間もない頃だった。
 都会ならどこでも良かった。ただ、都会に来れば何かが変わるかもしれないと思っていた。
 テレビで見かけたきらきら光るネオンの町は、きっと意味も無く自分の悪口を言う人間は居ないだろうと思っていた。一つ目の天使や天井裏の赤い目玉が見える奴もいるかもしれない。そして、自分のように女を愛せない男だって探せばきっと出会えるはずだ。そんな気持ちで家で働いて得た給料と、それまで貯めていたありったけの小遣いを握りしめて田舎町を飛び出すようにやってきた。しかし、都会という場所はそう甘い場所では無かったらしい。
 都会に来てみて得た印象は、空がやたらと狭い事。それくらいな物だった。
 同性愛者が多いというその夜の町を、浅井は連日のようにふらふらと徘徊していた。
 夜で暗いはずなのに、店や看板の装飾がやたらと眩しい。
 耳元ではいつものように目に見えない誰かが引っ切り無しに浅井の悪口を言い続けているし、視界の端々には犬とも猫ともつかない奇妙な生き物が息を潜めてこちらを狙っている。そしてすれ違う人は皆、浅井をチラチラと横目で見ては悪口を言っている。
 実際は誰も浅井の事など見てはいないのだが、何故か浅井の頭の中には人々の語る様々な罵詈雑言がまるで脳に直接響くように聞こえてくるのである。例えそれが浅井の妄想だとしても、ずっと昔からその状態で生きてきた浅井にとってはその妄想こそが現実だ。
 顔だけは良い浅井に声をかけてくる連中も居るにはいるが、どいつもこいつも人を馬鹿にした口調でヘラヘラと話す。話しかけられるのは構わないが、向こうが酔っているのか幻聴が重なっているのか、浅井にはその内容が半分ぐらいしか解らない。
 他人との接触を望んでいたはずなのに、誰かに話しかけられるのがあまりにも苦痛で、浅井は誰かに声をかけられる度に逃げ出した。
 あの田舎町と全く同じ。あの狭苦しい雰囲気が嫌で飛び出してきたと言うのに、これではまるで変わらないではないか。
「うるせぇな。どいつもこいつも……」
 失望と共にその日も夜道を歩いていると、すれ違った数人の男が浅井を見て笑う。こんな所まで来てお前は何をやっているんだ。お前を好いてくれる人間なんてどこにも居ないんだよ。
「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ」
 お前は、生まれない方が幸せだったよな。馬鹿な田舎者だ。死ねっ死ねっ、死んじまえよ。殺してやろうか? そしてゲラゲラゲラと野太い笑い声がして、浅井はとうとうキレてしまった。
「うるせぇ!! 黙れつってんだろ!? ぶっ殺すぞボケェ!!」
 もちろんそれは幻聴だったのだが、気付いた時にはそう怒鳴っていた。ところが、怒鳴った相手が悪かった。浅井が怒鳴ったその相手は幻覚でも何でもない実在している人間であり、さらに不運な事に、青筋を立てて睨みつける数人のうちの一人は浅井よりも何倍もガタイの良いボクサー崩れの大男であったことか。
 気が付いた時、すぐに浅井が謝っていたならば、もしかしたらそいつらだって許してくれたのかもしれない。あるいは多少の手心は加えてくれたのかもしれない。
 しかし、浅井から見れば喧嘩を吹っかけてきたのは相手の方であって自分は全然悪くないという意識があった。
 それにしたって多勢に無勢。おまけに見た目からして強いであろう熊みたいな大男に真っ向から挑みかかるのは馬鹿の所業に違いない。だが、幻聴のせいで頭に血が上り過ぎていた浅井はその時、正に馬鹿だった。
 数発の応酬も無く一瞬のうちに浅井は負けた。
 井の中の蛙、大海を知らず。
 相手の人数が多かったというのももちろんあるが、田舎では負け知らずの浅井だったはボクサー崩れの男とその仲間たちにはボコボコにされて負けた。けれど、有り金を取られただけで強姦も輪姦もされなかったのは幸いだった。しかも、適当にタコ殴りにされた後はお優しい事にゴミ捨て場へ放り投げてくれたのだ。
 捨てられたのがどこかの山やら海ではなくて、ゴミ捨て場だったことに浅井はちょっぴり安堵する。
 こんなにボロボロにされたのは初めてで、有り金も持っている分は全部巻き上げられてしまったが、寝床にしているビジネスホテルに戻れば田舎に帰る分はある。
 俺はきっと、都会に来るのはまだ早かったんだな……。
 殴られたおかげかいつの間にか酷い幻聴は落ち着いていて、冷静な思考がようやく帰ってきていた。浅井は、体が動くようになったら田舎に帰ろうと星の無い空を見上げてぼんやりと考えた。
 もちろん涙を流したりはしない。
 ただ、都会へ出ても田舎に居たときと全く変わらなかったことがほんの少しだけ寂しかった。もちろん、そうなってしまったのは殆ど浅井のせいだけど、浅井には何が悪かったのか自分では全く解らなかった。
「ぐぅっ……痛ぇ……」
 あまりの体の痛みに呻き、少しでも早く落ち着くように静かに目を瞑っていると、目の前に人が立つ気配がした。
「どうしたんだい? 君、こんなところで」
 聞きなれない、特徴的なバリトンボイスにのろのろと目を開いて見上げると、カッチリという表現がよく似合うスーツ姿の眼鏡をかけた男が浅井を見下ろしていた。
「うるせぇ」
 手負いの獣みたいに浅井が二十代後半と思しきその男を睨みつけても、そいつは少しも怯んだりはしなかった。
「怪我をしているのかい?」
「見りゃ解んだろ」
 吐き捨てるように言っても、スーツの男は口の端に不思議な笑みを湛えて浅井の前にしゃがみこんだだけだった。こちらの顔を覗き込む、眼鏡の奥に光る目が何故だか少し楽しげだった。
「救急車でも呼ぶかい?」
「……金がねぇ。保険証も」
 見つめるスーツ姿の男の目に、何だか心の奥を見透かされている気がして浅井はふいに目を逸らす。
「そうか……なら、うちに来ると良い。手当くらいは出来るだろう」
 何故だ?
 思いもよらず目の前へ差し出されたその手に浅井が視線で尋ねると、男は細かく肩を揺らして笑った。
「君、顔が私の好みなんだよ。この時間にこの町に居るって事は君もソッチの人なんだろう? 困った時はお互い様だ。何。こう見えて私は紳士だからね。今すぐ君をどうこうしようなんて思ってないよ」
 ソッチというのは、ホモという意味だろうか。
 考えながら、ざっと全身を見た感じだと確かに目の前に居る細身のスーツの男は強そうには見えなかった。
 まぁ何かされそうになったら、暴れて逃げりゃいいか。
 そう決断した浅井は、痛む腕を無理矢理持ち上げるとその男の手を取った。
 おいおい、大丈夫なのか? それとも優しくされたら誰でも良いのか? 尻の軽い奴だな。お前は。
 幻の声が頭の中で響いたが、浅井はその声をあえて無視した。


 ★   ★   ★


 幸せな思い出はいつ誰に取られるか解らない。
 だから浅井は誰かに取られないように、時々きちんと口に出すように心がけていた。明乃が居る時は明乃に聞かせたりもするのだが、一人の時でもそうやって口に出してみて、頭の中から無くなっていないかどうか確かめているのだ。
「そうして、俺を拾ってくれた木佐さんは俺を家に連れて帰ってくれたんだ。それから傷の手当てをしてくれたし、ご飯もくれたし、お風呂にもいれてくれたんだよ」
 へぇ。そいつは良かったな。
 箪笥の引き出しが相槌を打った。
「うん。そんでね、布団で寝る時に撫でてくれたんだ。『痛かったね、もう大丈夫だよ』って。それが凄く優しくて気持ち良かったから、出て行こうと思っていた次の日も出て行かなかったんだけど、木佐さんは出て行けって言わなかったんだよ」
 おう、それは幸せな事だな。それで? 他には何があったんだい?
 カーテンの隙間から誰かが聞いた。
「うん。あとはね、俺が携帯は電波が怖いから嫌だって言ったらね、家では普通の回線電話を使うようにしてくれたよ。それまで電話なんて全部携帯とか、スマホで済ませてた人だったのにね」
 うんうん。それは凄く気を使ってもらったんだね!!
 天井の木目が楽しそうに言っていた。
「そうなんだ。だから、木佐さんは凄く良い人なんだよ」
 よかったなぁ。もうすぐそこへ帰れるんだなぁ。
 嬉しそうに浅井が頷いた相手は、荷物を飲み込んで膨れ上がったボストンバッグだ。
 木佐がいろいろ手続きの関係があるからとホテルに戻ってしまった後から、浅井は部屋の中にある無機物や時折視界の隅を走る得体の知れない何かに延々と語って見せていた。
 無機物相手にさも楽しそうに語る浅井。もしも第三者がこの光景を見たならば、きっと腰を抜かしてしまうほど異様な光景なのだが、残念ながらそれをおかしく思う人間は今はここに居なかった。
 くぱくぱと一つ一つの目が開いたり閉じたりする畳に向かって浅井は声を上げて笑う。
「その頃は俺ももうちょっとまともだったから、いろいろ出来たはずなんだけど、でも失敗してばっかりだったんだよね。それでも、木佐さんは俺を許してくれたんだよ。これって凄い事だよね。お皿いっぱい割っちゃっても怒らなかったんだよ」
 ふぅん。その頃はまともだったんだ? 今はまともじゃないのかい?
 ボストンバッグとカーテンが同時に疑問を口にすると、そこで初めて浅井は少し寂しそうな顔をして頷いた。
「……うん。昔は、もう少しまともだったんだ……」
 今はまともじゃないのかい? なんで?
 天井が赤黒い涙を流しながら同じことを尋ねると、一瞬押し黙った浅井は突然憤怒の形相になって畳に拳を叩きつけた。びちゃ、と悲鳴を上げた畳が血を流しながら苦しがるが、浅井は気にせず怒鳴りつける。
「それもこれも、全部ナメクジのせいだ!! あのナメクジが来なければ俺はまともだったんだ!! あのナメクジどもが、恋矢で刺すから、俺はこんなに、どんどんおかしくなっちまったんだよ!! あいつらさえ来なけりゃ、俺は幸せだったんだ!! 俺は幸せになれたんだ!!」
 ナメクジさえ来なければ、ナメクジさえいなければ、俺はこんなに馬鹿にならずに済んだ。木佐さんは女なんかに走らなかった。ずっと幸せなままでいられたはずなんだ。
 あまりの悔しさに歯を食いしばって畳を殴り続ける泣きそうな浅井を、押し入れの隙間からいつも覗き込んでいる赤い魔物が指を指して大笑いするのが見えた。柱の木目が一つ一つ涎を垂らし、畳の目は血を吹き出しながら悲鳴を上げてカーテンには瞬きをする大きな目玉がはりついている。それらすべてが頭が割れそうなほど大きな声で大合唱して浅井の事を罵っていた。捨てられてやんのばーかばーかおまえなんてだれもあいてにしねぇんだよ。すてられたのだってぜんぶおまえがわるいにきまってんだろなにせおまえはばかなんだからないいかおまえはしあわせになんてなれないんだよだってうまれたことじたいがぜんぶまちがいだったんだからなけけけけけ。
「だまれ!!」
 脳に直接響いてくる罵詈雑言に頭を掻きむしりながら怒鳴りつけると、それら全ての音が一瞬ぴたりと収まった。
 一瞬無音になった室内だが、瞬間、浅井の全身から脂汗が吹き出し過呼吸に陥ったように呼吸が徐々に早くなる。
 部屋の向こうから、ずずずっ、ずずずっ、と等身大のナメクジの這いずる音がしたからだ。こんなところにナメクジは来ない。それは幻聴だというのが解っているはずのに、心臓が早鐘を打つように鳴っていた。
「木佐さん。木佐さん。たすけて。たすけて……」
 部屋の隅まで逃げた浅井は体を丸めて膝を抱えて、ここには居ない木佐に助けを求める。が、あらゆることから浅井を守ってくれていたはずの木佐は何故かナメクジからは助けてくれない事も知っている。ナメクジは、木佐の大事なお客さんだからだ。お客さんは殴ってはいけない。逃げてもいけない。怒鳴ってもいけない。
『お客様を殴ってはいけないよ。怒ったり怒鳴ったりしてもいけない。そんなことをしたら私は浅井を嫌いになってしまうよ』
 優しく頭を撫でられる幻触と耳元でねっとりと囁かれる幻聴に、浅井は手近にあったボストンバッグを引き寄せると思い切り抱きしめて、こくこくと何度も頷いた。
 お客さんに愛想よくしていれば、木佐は浅井にとても優しかったから。そして、優しい木佐に浅井は絶対嫌われたくなかったのだ。
「うん。がんばる。おれがんばるから……そばにいてください。俺をきらいにならないで。お願いだから、きらいにならないで……」


 ★   ★   ★


 浅井は、木佐と過ごした五年間のうち、記憶が抜け落ちている部分が多数ある。
 それはもともと浅井自身が覚えていたくない事だから後から意図的に忘れたのかもしれない。あるいは極端なストレスからの本能的な自衛行為だったのかもしれない。もしくは記憶を司る電波の回路が高電圧に耐えきれず、少々途切れてしまったせいなのかもしれない。
 浅井が木佐のマンションに転がり込んで半年ほども過ぎた後、木佐は時折『大事なお客様』というのを連れてきた。ところが、それはどう頑張って目を凝らして見てみても人間と同じ大きさの、巨大なナメクジにしか見えなかったのだ。
 もしかしたら初めの頃はナメクジでは無かったのかもしれないが、しかし、後になってから浅井の頭の中で回想される『お客様』はどれもこれもが等身大のナメクジになっていた。
 浅井は最初、玄関先でナメクジと話す木佐を見ても(木佐さんはナメクジ語も解るのか。凄いなぁ)くらいにしか思わなかった。
 木佐からは事前に「大事なお客様が来るのだから、何をされても絶対に怒ったり殴ったりしないように」と念を押されていたし、浅井自身も木佐さんの大事なお客さんなら例えナメクジだとしても行儀良くしなければと、平素ならば絶対しない愛想笑いも頑張った。
 ところがだ。
 ナメクジは浅井が怒らない事をいいことに、ねとねとの粘液を滴らせながらぶじゅうぶじゅうとワケの解らない言語を操って圧し掛かってこようとするのだ。
「あの、済みません。重たいので少し離れてもらえますか?」
 生臭い体臭と、ねばつく体液に辟易した浅井はなるべく言葉を選んでナメクジを窘めつつ押し戻す。と、ナメクジは後ろの椅子に座って見ていた木佐さんに角を向けてナメクジ語で何事かを言っていた。
 助けて欲しい。と浅井も目で訴えるが、ナメクジ語に二、三頷いた木佐は「お好きにして構いませんよ」と笑っただけだ。そして浅井にも優しげな目を向けて一言。
「秋一。抵抗すると私は君を嫌いになるよ」
 優しい声音。だが、絶対に抵抗は許さないという圧力がある。
「あ……」
 浅井には、もう何も言えなかった。
 ナメクジが皮膚に吸い付く感触と、温かいのか冷たいのかよく解らない温度。それから薄気味の悪い呼吸音がじりじりと近づいてくる。助けてくれる人は誰もいない。助けてくれると思っていた人は動かない。助けを求める気持ちと、かつて自分を助けてくれた人の為に頑張らないとと思っている気持ちの双方に引っ張られて知らぬ内に心がゆっくりと裂けて行く。
 そんな時でさえ涙が出なかった浅井には、自分の心が泣いている事に気が付かない。
 ドロドロでぐちゃぐちゃで、粘着質で痛くも苦しくも無い奇妙な暴力。感覚が麻痺して現実感が乏しくなり、自分が居なくなってしまったかのような不思議な感覚がして、気が付いたら数時間が経っていた。
 既にナメクジはその場におらず、後に残ったのはやたらと優しい木佐とやけに重たい体だけ。
 ちょっと動くといろんな部分が痛むのは、きっと恋矢を射されたからだと咄嗟に思う。
 恋矢はカタツムリやナメクジの持っている槍で、それを使われたのだろう。覚えてないのに、そんな気持ちだけが残っている。
 何で恋矢で刺されてしまったのかは解らなかったが、低能なナメクジの考える事なんて、人間の浅井には解るはずがない。
 しかし、その日からだ。浅井の記憶の断絶が始まったのは。
 時折、木佐はナメクジをつれてきて、浅井がそいつの酌をする。しばらくしてから記憶が飛んで、戻ってきた頃にはもうナメクジは居なくなっている。
 ナメクジが居なくなったその後の木佐は妙に優しい。風呂場で丁寧に体を流してくれたり、美味しい物を食べさせてくれたり、優しく抱いてくれたりと色々尽くしてくれるのだ。
「何か、良い事があったんですか?」
 猫のように撫でられながら浅井が聞いても、木佐は「ああ。秋一のおかげだよ」と言うだけで浅井が何をしたのか、その内容は決して教えてはくれなかった。
 それで不信感の一つも湧けば上等なのだが、浅井はそこまで気にしない。
 そこに木佐という存在があるだけで嬉しかったから。記憶がところどころで飛んだとしても、それは決して楽しい思い出ではないだろうから、解らないなら解らないで構わない。別にどうでも良いと思っていたのだ。
 木佐さえ居れば、他には何もいらない。
 木佐さえいれば、それで良い。
 ところがだ。
 記憶が断絶するようになってしばらくしてから、浅井は自分がどうにもおかしくなっている事に気が付いた。幻聴と幻覚は昔からの事なのだが、木佐がナメクジのお客様を連れてくるようになってからはその頻度が余りにも多くなっている。
 酷い時には床が海のように波打っているように見えて、立って歩く事さえもままならない。
 家じゅうに監視カメラが設置されていて、常に何かに見られている気配がする。蛇口から慕ったり落ちる水滴が、何か陰謀を企てている気がする。
 最初は無自覚だったしあえて知らないフリをしていたが、日常生活にまで支障をきたせば嫌でも自覚してしまう。
 それどころか、注意深く聞いているにも関わらず木佐が何を言っているのか解らない事も多々あるのだ。音は聞こえるのだが「シュウイチオマエイツマデネテルンダ」という具合で、どこで音節を区切って良いのか、この音をどう言葉として解釈すればいいのかが解らない。
 これは大変だ。
 ほかの雑音が解らなくなるのはどうでも良いが、木佐の言葉が解らないのは凄く困る。
 言葉が解る時にどうにか思考を保とうと思うのだが、それもナメクジがやってくると僅かに残っている正気ごと意識を削り取って飛んでしまう。
 仕舞には何かを答える時に、自分が何と言葉を発していいのかさえも解らなくなってきてしまった。
 言葉が解らず、それでも木佐と話がしたくて何事かを紡ごうとして、それでも出来ない浅井は徐々に、しかし確実に狂ってきていた。
「木佐さん、おれぇ、なんかおかしいのがぁ……。なめくじが、ヤ、だぁから……。なめぇ、せいだぁから」
 浅井はどうにかナメクジが来るたびに頭がおかしくなる。このままでは頭が壊れてしまうと訴えようとした。しかし、調子の良い時でさえ言葉がこんがらがり始めている浅井の言葉は木佐には解ってもらえないようだった。
 そういう時、木佐は優しく浅井の頭を撫でながら、その雑音まみれの耳に囁きかける。
「秋一。君、だんだん可愛くなってきているね。本当に雌みたいな顔をしているよ。お客受けもとても良い。君のおかげで私も懐の方がとても温かいよ」
「木佐さ、ユー……うりぃ……しゃあー、あ、あ……」
 その言葉はとても早口で、浅井にはどうしても聞き取れなかった。もっとゆっくり喋ってほしい。けれど、その訴え方も忘れたように口から出るのは舌ったらずな雑音ばかり。だから、浅井はぽかんと口を開けたまま押し黙るしかなかった。
 ナメクジが帰った後の部屋。
 床の上に座り込んだまま、話したくても話せず、けれども何かを紡ごうと口の中であぐ、あぐと舌をもがかせる浅井のその唇に、木佐はそっと口づけた。
「君は物凄く馬鹿だけど本当に可愛いね」
 全体が蠢いて見える部屋の中。そうして優しく抱きしめられて、慈しむように微笑まれたらもうダメだ。
 きっとこの人に嫌われたら、生きていけないのだろうと浅井は思ってしまうから。

 ★   ★   ★

 もう良いや。
 木佐さんに嫌われないなら、頭が壊れてももう良いや。
 どうせ俺は馬鹿だから、これ以上馬鹿になっても大丈夫。
 木佐さんさえ居ればあとはどうでも良い。
 毎日のようにナメクジはやってくる。相も変わらず浅井の記憶の断絶は繰り返し、それに伴って頭はどんどん馬鹿になる。木佐の言葉もさることながら、好戦的な方だと自負していた元の自分の人格がどこへいってしまったのかも解らない。
 痛いような苦しいような、怒りたいような泣きたいような、でもそのどれでもないような。
 日常の全てが夢の中のようにふわふわと浮いていた。
 食事一つとってもどれも何故だか味が鈍い。
 大好きな木佐からの抱擁も、慰めも、口付けも、どれもこれもが夢で起きている事のように現実感が乏しかった。
 毎日飽きもせずに床も天井も衣装ケースもカーテンも、無機物が楽しそうに合唱したり談笑したりを繰り返す。テレビはいつでも血の涙を流しているし、壁の中の黒い目玉はいつまでも浅井を見つめている。昔はもう少しぐらい小さかったはずの脳の雑音は、もうどこが木佐の声なのか無機物の声なのか、はたまた自分の声なのかもよく解らないほど大きくなっていた。
 浅井の中の現実は滅茶苦茶だった。
 もう何が何だかわからない。
 全てが赤色と灰色がぐちゃぐちゃに混ざり合った世界に押しつぶされて、ナメクジが来たんだか、来ていないんだか。自分の記憶があるのだか無いのだか。木佐さんに抱かれているのか、ナメクジに抱かれているのか。自分は一体誰なのか。今横になって居るのは天井なのか、床なのか。宙に浮いているのかどこかに接地しているのか。
 言い知れない焦燥感にパニックに陥って暴れて、誰かに殴られても痛みも全く感じない。
 現実と夢が解らない。どこに意識の境目があるのか解らない。
 だからきっと、そういう事も幸いしたのだと思う。
 浅井の正気を代償に続けられた木佐との同棲生活は、ある日突然終止符が打たれた。
「秋一。悪いけど今度、とある女性と結婚を前提にお付き合いする事になったんだ。済まないけれど君とは別れなくてはいけない」
 夢と現実の境があいまいな意識の中では、木佐が何を言っているのか、浅井は全く解らなかった。
「取引先のお偉いさんの娘でね。良い縁談だと思ったんだよ。家柄も悪くない。私の幸せを願ってくれるなら、君も解ってくれるだろう?」
 浅井にも解るように言っているのか、ゆっくり話す木佐の言葉。よく考えれば解るような気もするが、脳の方が受け付けない。だから言葉の意味が解らない。
「いつまでも男同士なんて、不毛すぎるじゃないか」
 どういう意味ですか? と聞こうとしたら、お尻の下の絨毯が「大馬鹿野郎のお前なんかよりも、女の方が良いんだってさ」と教えてくれた。
 いやです。と言おうとしたが、舌がもつれて喋れない。
 捨てないでくださいと言おうとして、舌をもがかせているそのうちに、木佐はまた両腕で浅井を抱きしめる。
「今までありがとう秋一。愛していたよ」
 部屋は一週間後に引き払う。
 私は明日から新たな引っ越し先で準備をしなければならない。
 田舎へ帰るお金は用意してあげるから、引っ越し業者が来るまでに準備をしておきなさい。
 他にもいろいろ言われた気がするが、半分以上どこかに溶けてしまったような浅井の頭では、その言葉の意味を理解することが殆ど出来なくなっていた。
 だから、次の日から木佐が家に帰ってこなくても、どうして帰ってこないのか、浅井にはよく解らない。
 木佐の手配した引っ越し業者がやってくるその日まで、浅井は家の中でじっと考えた。喉が乾いたら水道をひねるぐらいのことは出来たから、水だけを飲みながら考えた。ぐちゃぐちゃになったまま思考の纏まらない頭の中は、一つ考えるだけでも随分時間がかかるのだ。
 木佐さんが家に帰ってこないのは何でだろう。俺、何か悪い事したかなぁ。どうして木佐さんは帰ってこないんだろう。俺が馬鹿になったからかなぁ。
 そうして同じ事ばかり三日も寝ないで考えて続けて居ると、馬鹿を憐れんだらしい家中の無機物が、浅井にも解るようにゆっくり教えてくれた。
『それはお前が女じゃないからじゃないのか?』
『そうよそうよ。馬鹿でグズでのろまで間抜けな男なんだから、間女に寝取られちゃって当然よ!!』
 ずっと考え事ばかりしていたおかげか、何かの声がキチンと解るのは久しぶりの事だった。浅井はその時、初めてナメクジが来ていた時よりも頭の中の雑音がマシになっているのに気が付いた。
 天井とタンスに言われて、絨毯の上で仰向けに倒れている浅井はぼんやりと呟いた。
「でも、木佐さんは最後まで愛してるって言ってたよ」
 声に出してみてまた驚いた。ナメクジが来なくなったせいなのか、珍しい事にすんなりと口から言葉が出てきたことにちょっとだけ感動する。しかし、木佐が居なくなってから言葉が解ったり出たりするようになっても意味がない。
『そんなの、社交辞令に決まってるじゃない!!』
 タンスに冷たく言い放たれて、浅井は急に泣きたいような気分になった。
「俺、木佐さんにあいたい……」
 しかし、行き先が解らない。呟いた言葉は誰にも拾われず、静かに闇に溶けていく。木佐の行先のヒントを求めてふらふらと立ち上がり、箪笥を今更ながらに漁ってみると、木佐がいつも着ていた服は無くなっていた。会社に着ていくスーツも、私服も。私物の類もどこにも見つからない。時計も眼鏡の予備も全部が全部だ。
 木佐の物が無くなっていることにようやく気付き、一人ぼっちで置き去りにされてしまった子供のように洗面所の床に座り込んだ浅井は呆然としてしまう。
「木佐さんは、もう一度くらい帰ってくるよね?」
 縋るように尋ねてみると、洗濯機が声を出す。
『無理だね。間女に取られてしまったから』
『せめてお前が子供を産めたなら……』
 地獄の底から響くようなクッションフロアの声が、浅井の体を震わせる。
 ずっと昔から恐れていた事だった。
 ずっと昔から解り切った事だった。
 どんなに頑張ったって、逆立ちしたって、本当の女の人には敵わないんだと言う事だ。
 どうして自分は女の子に生まれなかったんだろう。自分が女性なら、女性だったなら、もう少しだけ木佐と一緒に居られたのかもしれない。大事な人を知らない人に取られたりしなかったのかもしれないと思うと、悲しくなった。けれど、慰めてくれる人はここに居ない。無機物は話を聞いてくれるけど、優しく慰めてくれたりはしなかった。
 膝を抱えて静かにしていると、ふと昔「男になりたかった」と言っていた女の子の事を思い出す。
 髪の短い、乱暴な女の子。
 もう顔もあんまり思い出すことは出来ないけれど、浅井は女の子というただそれだけで、その子の事が羨ましかったのだ。男になりたがるその少女と、この体を交換する事が出来たなら、それはどんなに素晴らしい事か。
 きっと彼女は成長したら、素敵な男の人と結婚して素晴らしい家庭を築くのだろう。男を好きになったって、誰もおかしく思いはしない。浅井がどんなに頑張ったって出来ない事を「男になりたい」と言った少女は簡単に実現させてしまうのだろう。
 自分よりずっと小さな少女に会う度に、いつもいつも言いようの無い嫉妬を覚えていた。
 そんな昔を思い出して、悔しくて悲しくて惨めで情けなくて、けれど涙は出なかった。
 ただ洗面所の床の上で寝そべって、一人はこんなに寂しかったんだったなぁと他人事のように考えた。今この瞬間になるまで、ずっと頭の中が煩くて、変な焦りがあって捨てられてしまうのが怖くて凄く忙しかった。
 木佐さんに会いたいなぁと思いながらも、このまま何も考えないで眠ってしまいたい。そうしてゆっくり目を瞑り、闇の中に意識を埋没させようとした時だ。体の内側がざわざわとざわめく気配がした。
「なに、なに、なに」
 風邪を引いた時に感じる悪寒のような、怖気のようなざわめきにじっとしていられずに立ち上がる。背筋を這い登るぞわぞわした寒気と腹の底から湧き上がる奇妙な吐き気を感じて洗面台に唾を吐く。泡の混じった、普通の唾だ。
 しかし、陶製の洗面台を伝うなんの変哲もないその唾液の中に、浅井は不思議な卵を見つけた。透明な泡に交じって、確かにそれが動いているように見えたのだ。
「たまご……」
 浅井がぽつりと呟くと、まだ体の中で何かがざわざわと蠢いている気配がする。
『おめでとう。良かったじゃないか』
 浅井と同じ顔をした洗面台の鏡がそう言った時、天から理解が降り注ぐ音がした。
 コップが言った。洗濯機が言った。歯ブラシが言った。
『おめでとう君。おめでとう。願いが叶ったじゃないか』
『おや、おめでとう。可愛らしい子供じゃないか』
 おめでとう。おめでとうと拍手でも聞こえてきそうな無機物達の祝福の中で、鏡の中の浅井は引き攣ったような笑みを浮かべて喜びに胸を躍らせていた。
 ナメクジではないだろう。あのデロデロとした生き物が、こんなに透明で美しい卵を産みつけられるわけがない。
 だから、その卵は誰がくれた卵かは考えるまでもない。
「木佐さんがくれたんだ」

 ★   ★   ★


 恋を燃す


 明乃という人間は激情家である。
 幼い頃はあたり構わず好き放題に癇癪を発現させていたその悪い性質は、大人になるにつれて徐々に収まり、今ではほとんどと言って良いほどその片鱗を表す事はなくなっていた。
 聞き分けは割と良い方で、勉強もそれなりに出来て、年長者に対して下らない反論もしない。
 教師からの評判もそこそこには良い方だ。
 髪は染めず、制服の着崩しもあまりしない。普段はやや無口なところはあるが、話しかけられれば答えるし、友達も少ないが全く居ないわけではない。暇があれば本を読み、休日に繁華街へ出て不良のように遊ぶようなことも無い。
 少し地味目の、どこにでも居るような普通の女の子。それがご近所や学校での明乃の評判。
 しかし、それは違う。それは明乃という人間を評価するにあたり大いに間違っている。
 今は単にその溶岩のような性質が、理性という名の氷の膜に覆われてわかりにくくなっているに過ぎないのだ。
 もう一度繰り返そう。
 明乃という人間は、根っからの激情家である。


 溶岩のように煮えたぎる液状化した巨大な炎は、一度溢れたら最後。全てを焼き尽くすまで収まらない。

 ★   ★   ★

 あまりにも強い感情は、行き過ぎればかえって冷静になるものらしい。
 すっぽりと布団を被ったのは良いものの、頭の中身はいつに無いほどスッキリと冴えわたり、今夜は眠れそうも無かった。が、明日の事を考えると本当は早く眠った方が良いだろう。
 浅井家から帰った後のアホみたいに続けられた親の説教も、もう休日は外出させない宣言も、学校帰りの寄り道禁止令も、半年間の小遣い無しも全てがもうどうでもいい。明日で全てが決まるのだから。
 そう思うと、明乃の口元から引き攣れたような笑いが零れ落ちた。
 浅井の腕の中で思いついた瞬間、自分もまた木佐と同じ悪魔であったことを明乃は知った。
 あまりにも酷過ぎるその考えに、もしかしたら家に帰って考えたらあともう少しくらいは冷静になれて、何かが変わるかもしれないと僅かな希望も込めていたがそんなことは全く無かった。
 それどころか、今現在浅井と木佐があの部屋で何をしているのかと考えただけで、部屋中の物……机も時計も本もぬいぐるみも目につくもの全てを叩き壊したくなるほどの嫉妬と衝動が胸の中に激しく渦巻いた。
 これ以上自分以外の誰にも浅井に触らせたくなかったし、自分以外の誰かに心を許している浅井を想像するのも頭がおかしくなりそうなくらい嫌だった。そして何よりも、浅井を振り向かせる力も木佐から強引に奪い取る力も何も無い、無力な女子高生たる自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
 このまま何もしないでいれば、浅井は手の届かない程どこか遠くへ行ってしまうだろう。
 木佐に連れて行かれてそのまま帰ってこないだろう。
 それを少し考えるだけで胸の内側に燻る焦燥感は秒刻みで強くなり、今も絶えずぐるぐる廻り続ける明乃の思想は再び行き着くべきところにたどり着いてしまった。
 あの悪魔にほんの少しでも浅井を渡すくらいなら、自分で何もかも壊してしまえばいい。
 木佐だってあの喫茶店で言ったじゃないか。
 浅井は放っておいても廃人になってしまう。だからそれを自分が有効的に使ってやるのだと。
 そうだ。
 どうせ廃人になってしまうなら、自分が浅井を滅茶苦茶に壊したって良いじゃないか。
 あの悪魔に渡すくらいなら、そっちの方がずっといい。木佐の手であの人が壊されてしまうのは絶対に嫌だけれど、自分自身の手で潰してしまうならばそれはもう仕方がない。だってそうする以外に浅井を手に入れる方法が無いのだから。
 それに伴ってきっと周囲も大変なことになるだろうが、そんな事ももうどうでも良い。
 例えそのせいで、浅井に嫌われたって構わない。とにかく木佐を排除し、そうして浅井の中に『明乃』という人間をこれでもかというくらい刻み付けることが出来たのなら、それはそれで上出来だ。
 自分でもおかしいのは知っているが、悪魔的で倒錯的で壊滅的で、そして禁断の果実を食んでいるかのような甘美な思考に笑いが止まらない。
 声が出ないように枕に顔を押し付けながら体を震わせて低く笑っていると、喉の奥でぐるりと何かが蠢いた。
 特に考えるでもなく自然と、あぁ、浅井に貰った木佐の卵だろうと反射的に思った。
 目に見えない卵でも、親の危機が解るのだろうか?
 電波で完全に焼き殺すために枕元にあったスマートフォンを喉元にくっつけながら、今度は自分も浅井に卵を産み付けてやらなければならないと明乃は真剣に考えた。


 ★   ★   ★


 朝が来た。
 もそもそとベッドから這い出した明乃は机の上にある化粧ポーチの中から手鏡を取り出して覗き込んだ。
 寝不足のせいで酷い顔になっている。一秒でも親にバレるのを遅らせるため、顔を洗う代わりにウェットティッシュで顔を拭う。それから時間をかけて念入りに化粧をした。目の下に出来上がったクマがすっかり居なくなるほど色を刷り込む。口紅とアイシャドウはキツくならない程度に控えめに。頬紅を叩いてやつれた頬に血色を持たせ、顔全体をそれなりに見られるところへ持っていく。
 顔を作り上げた後、クローゼットを開いてしばし悩む。
 普段の明乃の性格上、あまり可愛い服を持っている方ではないが、それでもどうにか可愛いめに見える白いワンピースを見繕う。いつ買ったのかも定かではないが、毛玉も出来ていないしシミも無い。だからたぶん大丈夫。
 まだ冬にはなっていないけれど、朝は少し肌寒いので黒のカーディガンを上から羽織る事にした。そうすれば少しはマシになるだろう。靴下は学校指定の紺のハイソックス。下着の方も一応新しいのに履き替える。
 姿見が無いのでちゃんとした着合わせは確認できないが、多分そんなに変な方では無いだろう。
 とびきり可愛いわけではないが、まずまずな方なんじゃないかと考える。
 浅井は明乃の着ているものを気にするような人間では無いから、別に気合を入れてめかしこむ必要性は全くないのだが、これもまた布石の一つだ。
 手鏡に向かってにっこりと笑ってみると、以外にも普通の女の子が目の前に居るのに少しだけ驚いた。
 もっと邪悪な笑みになるのかと思っていたから。
 一晩中ぐるぐると続いていた思考。
 朝になったらもしかして気が変わるかも知れないと思ったが、凶暴で凶悪な悪魔的思考は結局朝になっても全く変わらず、それどころか睡眠不足のせいかより一層深く残酷な楽しみに胸を躍らせるようになっていた。
 この手で滅茶苦茶に壊してやった浅井がどんな顔をするのかと思うと、今からにやにや笑いが止まらない。
 我ながら狂っているとは思うのだが、善性と理性が二つ同時に死んでしまったかのようにもう自分自身でも手が付けられない状態になっている。どう頑張っても暴走が止められない。まるで小学二年生のあの頃に戻ったようだった。
 自分の好きな事だけを、好き勝手にやっていたあの頃に――。
 いや、あの頃よりももっと酷い。あの頃はすべてが衝動だったが、今はこうして用意周到に好いた人を傷つけようとして、尚且つ邪悪な蛇のように楽しんでさえいるのだから。
 星型に細工を施された丸いプレートの銀のネックレスを首にかけ、最後に口臭予防の清涼スプレーを口の中に吹きつける。
 時刻は六時五十五分。今日は土曜日。一家全員休日だ。
 明乃はドアにそっと耳をあて、まだ両親が眠っているのを確認してからいそいそと家から抜け出した。
 何分、田舎町なものだから、近所の年寄りは外に出て庭仕事でもしているだろうかと思ったが、意外と外には誰も居ない。薄く霧のかかった朝の道を、明乃は布団屋に向かって早足に歩いて行く。
 七時に外で会う約束をしていたが、浅井は果たしてちゃんと玄関前に出ているだろうか。
 室内に居たのならそれはそれで構わないのだが、外に居てくれた方が効果は大きい。あとは木佐が傍に居ないかどうかだが、それは運に任せるしかないだろう。もしも今日がダメなら深夜か、また明日の早朝に勝負をかけよう。
 歩いて五分の短い距離だ。
 歩きながら、頭の中だけは精密な機械のように動かして何度もシュミレーションを重ねている。何度も何度も、何百回も、壊れたオルゴールののように何度も。けれども歩くだけの時間もとうとう尽きて、そして布団屋にたどり着いてしまう。
 果たして、浅井はそこに居た。
 染ムラだらけの虎猫頭。よれよれの黒いキャラクターTシャツとジーンズに、何も考えていなさそうな眠たげにゆるみきったふにゃっとした表情。傍に近づくごとにその体から妙に甘酸っぱい果実のような雌臭さを感じてしまうのは流石に考え過ぎだと思いたい。
「明乃ちゃん、おはよー。なんかいつもと違うね」
 たったその一言だけで、明乃は舞い上がりそうなほど嬉しくなる。何かに気付く事なんて最初から期待していなかった分なおさらだ。だから、とびっきりの笑顔を浅井に向けた。
「おはようお兄ちゃん。木佐さんは居ないの?」
「木佐さん……は、手続きとか朝からやることがあるからって昨日のうちにホテルに帰ったよ」
 悪魔の名前を呼ぶときにだけ何かを思い出したのか恥ずかしげな表情をした浅井に、今度は嬉しさとは真逆の殺意が湧いてくる。
 やめろ。その顔をして良いのは私の前だけだ。
 悔しさに唇を噛みしめたいのを必死に抑え、悪魔的な思考をこの哀れな羊に気取られぬよう笑顔を作った明乃は早足に歩み寄り、そっと浅井の体にしなだれかかる。
「そっか。よかった。最後だから、どうしても二人きりが良かったの……お兄ちゃんから貸してもらった卵、返してあげる」
「今までありがとう……木佐さん、探すの手伝ってくれて。明乃ちゃんのおかげだよ」
 何も気づかぬように、へろ、と表情を緩める浅井。
 それを見て、私が必ず何とかするからね、とだけ明乃は思う。
 そっと寄せた唇に、浅井が当たり前のように重ねてきた瞬間、明乃は浅井の右手首を掴み思いっきり背中から地べたへ転げた。
 コンクリートに強か背中を打った痛みと同時に、わっ、と声を上げる間も無く腕を引かれた浅井の肉の無い体が上から覆いかぶさるように転がった。
 まるで浅井に押し倒されたような姿勢を取りながら、明乃はもう一方の手で己の付けているネックレスの鎖を力任せに引きちぎり、あらんかぎりの声を絞って近所中に響き渡るような痛烈な悲鳴を上げた。


 静かな朝の田舎町である。
 悲鳴を聞きつけた奥様方が窓から見た光景は、近所に住む少女に頭のおかしい青年が乱暴を働いている姿に他ならなかった。


 ★   ★   ★



 巣を造る


 娯楽の少ない田舎町で起こった強姦未遂事件はセンセーショナルな話題として当日の内にはご近所中に知れ渡った。
 明乃が起こしたこの事件のおかげで浅井家も明乃の家も巻き込んでそれはもう大変なことになったのだが、明乃本人は全く後悔をしていなかった。もちろん警察に引き立てられた浅井は必死に否定していたのだが、実父を押し倒した前科のある狂人と今までそこそこに品行方正だった少女の証言を天秤にかければどちらが信用されるかは一目瞭然だ。
 おかげさまで浅井はとうとう地元の精神病院に入ることになり、事態を察して面倒事に巻き込まれるのを嫌った木佐は警察から簡単な事情聴取を受けた後、浅井を捨ててすぐに都会へと逃げ帰った。
 怒り狂った明乃の両親は浅井を訴えると言っていたが、浅井の両親が示談を提示したので明乃はそれを受け入れた。提示された金額は未遂ということで少な目だったが、そんなはした金の事などは明乃にとってはどうでも良い。
 浅井を当面の間どこかへ隔離し、木佐を寄せ付けないという当初の目的さえ完遂させることが出来るなら、その為に浅井に前科が付こうが付くまいが、浅井布団店の評判が最低になろうがなるまいがそんな事は関係ない。
 例え未遂とはいえ不用意に変な男に近づいて強姦されかけたふしだらな娘という印象を自分が持たれたとしても。
 街の中でも学校でも、絶えず下らない噂話の声が聞こえようが明乃にはどうでも良い事だった。
 どこまでも冷徹に、しかし煮えるように燃え続ける心は起こり続ける全ての事象に捕らわれず、外から何を言われようと、どう思われようと仕出かした事の大きさに後悔する事は全く無かった。自分自身でも驚くほど心の内は凪いだままだ。
 全てはなるべくしてなったことだから。
 そんな些細な出来事よりも、明乃はただ純粋に力が欲しかった。
 どんな問題でもどんな障害でも指先一つで簡単に捻じ伏せることが出来る、圧倒的で強大な力が。
 外敵を退け、大切な物を一つ残らずこの手で拾い上げられるような、絶対的な力が。
 だから、事件を起こしたことを後悔している暇なんて燃え盛り続ける明乃の心には微塵も無いのだ。
 しかし、残念なことに両親の方は違ったようだった。
 平然と生活し続ける明乃とは裏腹に、囁かれ続ける心の無い噂話には当事者よりもむしろ両親の方が参っていた。
 母親がノイローゼ気味になったのと同時に持ち上がった引っ越しの話は、一応予想の範囲内であった。あわよくば明乃はこの田舎町に残り続けるつもりだったのだが、こうなった場合は仕方がない。明乃は大人しく両親に従う事に決めた。もちろん、浅井の入院期間は弁護士を通して下調べ済みだ。そして退院後も親元で最低五年以上は保護観察をさせる事を示談の際に了承させているので向こう五年は大丈夫であろう。
 あの狭苦しい田舎町から少し遠くの町へ引っ越した明乃は、改めて違う高校へ通い始めたのであった。
 既にこれからやるべきことは決まっていた。
 決まっているなら、後は行動するだけだ。
 幸い、行動力だけなら昔から飛び抜けてあるから大丈夫。
 そして高校卒業後、明乃は大学へは行かずに都会の方へ飛び出した。
 期限は残り二年と少しになっている。
 久しぶりに田舎町に居る便宜上友人――こいつが当時一番噂を撒いた――へ連絡を取ってみた所、浅井は一応まだあの町に居るようだった。精神科への入退院を繰り返していて、たまに家に居る時はほとんど幽閉に近い形らしい事を聞いて明乃は安堵した。
 精神科で薬漬けにされているかもしれないが、木佐とさえ接触していなければ問題は無い。そして木佐が浅井に接触していれば、あの狭い田舎町の事。すぐに噂が広がるだろう。
 明乃はゆっくりと、しかし着実に行動を始めていた。
 違う学校へ引っ越した直後から、バイト等で得た金は少しずつ金融商品へ変えている。浅井の家から奪った示談金は親が高校の学費にしてしまっていたので運用は出来なかったが、まぁその辺は仕方がない。
 株式を買うのと同時に明乃はある種の資産運用とビジネスの勉強も学校の勉強と同時に行っていた。友人も居るにはいたが遊ぶのは必要最低限だ。
 金とは力。だから、金は無いよりもあればあるほど良い物だ。
 しかし溺れてはいけない。有り余る財を手にしたとしても散財すれば、力はすぐに逃げて行く。
 けれど、あまりにもケチをし過ぎてもいけない。財布の口を締めすぎれば制御の仕方を忘れるし、何より人との付き合いをおろそかにすれば周囲から疎まれる。
 幸い明乃にはそういった事柄の才能があったのか、高校を卒業するころには通帳の中の資金は高校生とは思えない程の額となっていたのだが、この程度ではまだ足りない。
 まともにやっていては目的を完遂できないと考えた明乃は高校を卒業すると同時に親元を離れた。そしてあの日の浅井と同じように都会へ出向き、水商売の道へと進んだ。
 親には大手飲食チェーンの事務方と偽っていたが、その店の実態はほとんど違法スレスレな風俗紛いの店である。もちろん明乃はそれを知っていた。そして、その店に出入りする人間がどんな人間なのかも――。
 夜の店というのは、闇というより混沌に近いと思った。
 あらゆる色を混ぜすぎて一見黒に見えるのに、時折不思議な明るさを見せる奇妙な場所だと明乃は思う。
 もちろん『色』というのは人間の事だ。
 堅気にやくざにその間を行き来する仲介者。金のある者と無い物。裏の人間、表の人間。すぐに死にそうな人間、何をしても死ななさそうな人間。失敗しそうな人間、成功しそうな人間。成功を夢見る者、ハナから諦めている者。
 店で働く者も様々で、高給につられて自発的に来た者から親やら彼氏の借金のカタにされたものまで様々だ。が、その中でも最も異彩を放つ者こそが明乃本人であったのは皮肉な話なのかもしれない。
 明乃を指して、まるで生きる底無し沼のようだと誰かが言った。
 金に困っているわけではない。親の借金があるわけでもない。それなりの学歴もあれば搾取されるような酷い過去があるわけでもない。カタギに戻ろうと思えばいつだって戻れるはずだ。
 それなのに、金と権力に対する執着だけは人一倍にある。
 浪費癖も無いようなのに、一体、何をそんなに追い求めているのか。
 誰かが面白半分にそう問いかけたが、明乃は薄く笑って答えを濁すだけだった。それもそのはず。今でもその胸の内にあるのは流れ続ける真っ黒な血と煮え滾り続ける炎の心。それだけだ。
「お嬢さんはまるで獣のようだのぅ」
 笑いながらそう言ったのは間も無く九十歳に届くかという老富豪の客人であった。
 変人と名高く、いくつもの企業を経営し、そして政財界とも裏の社会とも深い関わりを持つこの老富豪に明乃はたった一目で見初められ、そして一か月もたたぬうちに結婚する事となる。
 老人から求婚された明乃は、嫌な顔一つしなかった。むしろ嬉しそうでさえあった。
 だって周囲もご存じのとおり、その金と権力だけが目当てなのだから――。

 ★   ★   ★

 結婚後、二年も立たぬうちに老富豪はこの世を去った。
 朝起きると、布団の中で亡くなっていたそうな。
 周囲は明乃が殺したのではないかと疑ったが、その九十という年齢を考えれば寿命と言えなくもないだろう。
 その莫大な遺産は遺言通りに分けられて、かくして明乃の手元には一生遊んで暮らしてもなお使い切れない程の財が手元に転がり込んだのであった。

 その時、明乃があの田舎町を出てから既に八年もの歳月が経過していた。

 ★   ★   ★

 本当は、王子様になりたかった。
 悪い悪魔に捕まったお姫様を颯爽と助ける、格好良い王子様。
 白馬に跨り、剣を携えて、大切なお姫様を守り通せる王子様。
 いつかそんな王子様になろうと思っていた。
 そんな王子様になれるはずだった。
 そんな王子様になって彼を迎えに行くはずだった。
 それなのに、どこをどうして間違えたのだろう。
 気が付けば王子様はどこにも居らず、そこには一匹の猛獣が居た。

 ★   ★   ★

 男装は老富豪が死んだ後からすぐに始めた。
 浅井は男が好きだから、それなら自分は女であることを止めなければならないと思った。
 完全に男に変わることは出来ないが、真似事くらいは出来るだろう。
 けれど明乃は同性愛者では無いのだから、彼には女装をしてもらおう。
 綺麗に化粧を施せば、きっと彼も男であることを止めることが出来るはず。
 男装の女と女装の男。逆転しているかもしれないが、それが最も正しい形に違いない。
 そうだ。
 浅井を迎えるその前に、浅井を壊した連中を全員粛清してやらなければいけない。
 浅井を壊した奴が木佐だけで無いのは、興信所からの報告で調べがついている。
 だから、草の根を分けてでも探し出して、全員まっとうには生きてはいけないようにしてやろう。
 大丈夫。
 世の中には、金さえ払えばどんなことでもするような奴は沢山いるから。
 幸い、そういう力だけは手に入れている。
 家も建てた。
 大事な二人の家だから。
 一流の建築家に、あの布団屋の一室を再現させたら上手い具合に似せてくれた。
 勝手に誰かが入ったり、勝手に彼が逃げたりしないよう、屋内と玄関のセキュリティも確保した。
 浅井を迎える手はずはもう整っている。
 あの小さな田舎街の布団屋は、あの日の少女が起こした事件のせいで殆ど破産状態だ。
 借金元は既に把握している。
 あとは使者を送って一つ二つ甘言を囁けば、息子を快く思っていないあの夫婦はすぐにでも差し出すだろう。大丈夫。あの夫婦の事は嫌いだが、浅井を産んでくれた事だけは感謝している。だから、悪いようにはしないと心に決めた。
 あとは、ゆっくりとこの手の中に迎えるだけだ。
 そう。
 傷つけないように、精巧なガラス細工に触れるように優しく、逃げるのも忘れるくらいにゆっくりとこの巣の中に招き入れなければならない。
 浅井秋一。
 八年間、毎日思い続けた懐かしいその名前。
 浅井秋一。
 浅井お兄ちゃん。
 心の中で、明乃は何度も名前を呼び続ける。
 文字の一文字一文字を舐めるように、流れる線を指先で弄ぶように、舌の上でその音の味を楽しむように。そうすると痛いような、慈しみたいような、抱きしめたいような、あるいは喉元を食いちぎって殺してやりたいような不思議な気持ちになる。
 早く会いたい。
 写真で見た浅井の様子だと、多少やつれてはいるものの、見た目は八年前とさほど変わってはいなかった。
 買収した医者の話によると精神状態はあまり良くないらしいけど、それは時間をかけて治していくしか無いだろう。そしてじっくりと時間をかけて、今度は明乃が浅井の中に卵を産みつけなければならないのだ。
 大丈夫。
 既に八年も待ったのだ。
 この日の為に、八年もかけて堅牢な砦にも似た巣を造ったのだ。
 浅井がこの手に入るなら、その後にどれだけ時間がかかったって明乃は全く構わなかった。

 ★   ★   ★

 肉の無い細い体は白くすべらかで、その薄い唇は赤い紅で彩られている。
 髪は虎猫のようなまだら模様だが、昔のような単なる染ムラというわけでなく、薬品を使ってあえてそのような色合いにしていた。おかげで痛んだ様子はあまり無い。
 病院から今も出ている大量の内服薬のせいか、昔よりもいっそう眠たげなその瞳はぼんやりしていて何を映しているのかも定かじゃない。が、施した化粧のおかげもあって、人形にも似た不思議な美しさが見て取れた。
 とても、三十代の男とは思えなかった。
 西日の差す狭い畳の部屋の中。
 あの日、明乃が通っていた場所によく似せた作り物の部屋の中。
 あらかじめ女物の浴衣を着せられて横座りをしている女装の浅井は、その白い首に手をかけて縊り殺してしまいたい程に美しい。
 あまりにも性別を超越した妖麗さに、明乃は思わず息を飲んだ。
「……お兄さん」
 かつて自らどん底にまで突き落としたその青年に一歩、また一歩と近づきながら、男装の娘は呼びかける。
 すると声に反応したのか、のろのろと浅井の視線が持ち上がり、かつての少女の顔を捕らえた。
「だれ……?」
 年齢と見合わない、子供のように舌足らずな口調。
 明乃は獲物を捕らえた肉食獣のような笑みを浮かべると、その体を両腕で優しく抱きしめた。
 
 
 ★   ★   ★



 家に帰る



 実の所、どうして警察に連れていかれたり父親に殴られたり、病院に入れられたりしたのかを浅井はまるで理解していなかった。
 木佐さんの卵を返してもらおうとしたあの日、明乃ちゃんが転んだのを受け止めきれなくて一緒に倒れてしまった。そしたら明乃ちゃんがびっくりして悲鳴を上げた。それを見ていた人が勘違いして警察を呼んだ。
 浅井の中ではそんな風になっている。
 そもそも、今の浅井は精神的な負荷を真正面から受け入れる事が殆ど出来ない。なので、この辺の記憶周りは一日経った後には木佐との同棲生活と同様にすっかり断片化していて、浅井本人にとってはさしたる問題ではなくなっていた。
 だから浅井は明乃を嫌いにならなかったし、ましてや憎しみの感情などは微塵も湧いてはいなかった。確かに前はあれだけ頻繁に遊びに来ていた明乃がいつの間にか来なくなったのは寂しいが、それよりも浅井のなかで一番の問題であるのは、木佐が中々迎えに来ない事だった。
 精神病院の中にある閉鎖病棟の小さな個室。
 窓枠と出入り口に鉄格子がはめ込まれた部屋の中で、布団の上に横たわった浅井はパネル状になった灰色の天井をぼんやりと眺めながら木佐が来るのを待っていた。
 無理矢理飲まされた薬のせいか頭の芯がぼんやりとしているが、考える事は変わらない。
(木佐さん、いつ来るのかなぁ?)
『もう来ないかもしれないよ?』
 耳元で枕から呟くような声で言われた。
「来るよ」
 天井を見据えたままの浅井はすぐに反論するが、枕はそれきりもう喋らなかった。

 ★   ★   ★

 突然家に帰ることになった。
 本当はもっと前から言われていたのかもしれないが、薬のせいか巷に飛び交っている電波のせいか、いつ家に帰る事が決まっていたのかも浅井にはよく解らなかった。
 元々、医師や看護師の言葉は早口過ぎて聞き取りにくいのだから、そのせいもあるのかもしれない。
 相変わらず頭の中はドロリと重たくて体の中の卵の所在がどこにあるのかも解らない日々が続いていた。
 迎えに来た母親の車に乗って、浅井は再びあの自室へと戻っていた。
 絶対に家から出るな、といつものように両親からは念を押されたが、もとより家から出るつもりはまったく無い。
(家から出たら、木佐さんが来ても解らないからね)
 畳の敷かれた小さな古い部屋。眠い目を擦り、いつものように人通りの少ない窓の外。巻き上げられる枯葉の渦を眺めながら、浅井は木佐を待っていた。

 ★   ★   ★

 木佐は中々来なかった。
 凍えるような雪の降る日も、浅井はじっと窓から外を見て木佐が迎えに来るのを待っていた。
 頭の中は、相変わらず鉛を流されたかのようにずっしりと重たくて、それもこれも薬のせいだと浅井は思う。
 薬を飲むと確かにいつか医者が言っていた通り、無機物達は大人しくなり、頭の中の酷いざわめきも時折視界の隅にちらつく不気味な生き物たちも解らなくなる。が、同時に卵がまだ体の中にあるのかどうかも解らなくなるし、おまけに頭の回転の方はナメクジが家に出入りしていた頃と同じくらい鈍くなってしまっている。
 何度も言われないと相手の言う事が解らない。自分の考えが纏まらない。言葉が上手く浮かんでこない。
 パニックを起こすほど思考がバラバラになるまでは行かないが、それでもこの状態は結構しんどい。
(俺、また馬鹿になっちゃうのかな)
 そう思うと段々不安になっていく。馬鹿になるのは構わないが、そのせいで木佐さんが来たのも解らなくなったらどうしよう、と思ったのだ。
 それは困る。
 昔、木佐さんの言葉も解らなくなったことがあったが、あんなことは二度とごめんだ。
(木佐さんが来たらすぐ解るようにしなくちゃ)
 ぼやけた思考の欠片を拾い集め、どうにか形になるまで組み立てる。
 そして、浅井は薬を止めた。
 食事と一緒に部屋の前に置かれる薬は、盆の上にそのまま戻すと両親から早口で捲し立てられるように叱られるので、中身は全て窓から捨てるかトイレの水に流してしまう。
 すると、少しずつまた浅井の目に、耳に、あの不思議なざわめきが戻り始めてきた。
 ある日、上を向いたら久しぶりに天井と目があった。ぱっちりと赤い目を開く天井の染みが黒くて油っぽい涙を畳へ流したのは、多分こっちの世界に戻ってこれた嬉し涙なのだろう。
「久しぶりだね。木佐さんは、まだこないよ」
 布団に、窓に、天井に、押し入れに、天井からぶら下がる電灯に、浅井の声が染み込むと、部屋が揺れるようにざわりと騒ぎ出す。
 アンタまだこんな場所にいたの?
 木佐さんは迎えに来ないのかい?
 今までどこにいってたの。
 会えなくて寂しかったよ。
 口々に話しかけてくる無機物の声に浅井は引き攣った笑みを浮かべて頷く。ようやく戻った。そして同時に浅井の体内に、何かが蠢く気配が起こる。
「たまご」
 それは紛れもない卵の気配で、それが余りにも嬉しくて、浅井は布団の上に丸まると自分の体を抱きしめた。
「木佐さんのたまご」

 ★   ★   ★

 卵の気配が解るなら、後はもう大丈夫だ。
 あとはゆっくりと木佐さんを待てばいい。しかし、待てども暮らせども木佐さんが迎えに来る様子は一向に無かった。
 窓の外の景色は前よりも一層真っ白になっていた。深く積もった雪の道に、タイヤの跡が二本だけどこまでも続いているのがよく見える。
 白一色の外の世界に対し、部屋の中はいつの間にかどこかで見たような赤と灰色の世界で塗りつぶされていた。天井から目玉の流す粘液やぺちゃぺちゃと喋る畳の目の唾液でしっとりと濡れていて、まるで誰かの体内に入っているようだ。
 しかし、それなのにやたらと寒いのは何故なのか。
 ここが誰かの体内なら、もう少し体温で温まっても良さそうなものなのに。
 布団を肩から被って窓の外を見ていると、不意に布団に話しかけられた。
 このまま、ここで待っていても良いのかな?
「どういうこと?」
 木佐さんには迎えに来ると言われている。それなのに、待つ以外に何をすればいいのだろう。
 もそもそと喋る布団に耳を当ててよく話を聞いてみると、布団はくぐもった声でぼそぼそとぼやくように言う。
『本当に会いたいなら、自分から探しに行かなくては』
『黙っていては、何も解決しないだろう』
「そうは言っても、」
 どこに探しに行けば良いのか解らないじゃないか。と浅井が反論しようと顔を上げた時、窓の外にそびえる電柱の陰から手が伸びていて、こちらに向かって手招きしているのに気が付いた。
 誰も隠れられそうにない細い電柱だ。
 そこから、子供のような小さな手だけがありえない角度から生えるように伸びていて、浅井に向かっておいでおいでと大きく振れている。
 浅井はその手に見覚えがあった。
 それは木佐に置いて行かれた都会から、この田舎に帰る時にも導いてくれたもの。
 この田舎町で誰よりも、両親よりも浅井を気にしてくれた大事な友達。
 絶対に誰も隠れられない程に細い電柱から、ちらりと髪の短い少女が顔を覗かせる。
「明乃ちゃんだ」 
 ここに居るはずの無い小学二年生の明乃が、電柱から浅井を呼んでいた。
 浅井は慌てて立ち上がると、上着も羽織らず靴下も履かないまま雪の積もった外へ、誘われるようにふらふらと出て行った。

 ★   ★   ★

 まだ明るく雪も降っていないとはいえ、真冬の最中だ。
 雪は浅井の脛まで積もっていて、一歩歩くごとに裸足につっかけただけのスニーカーには雪が入り込む。
 常人ならば肌に噛み付く冷気にやられ、そう長くは薄着で居られない。が、目の前に次々と現れる手を追いかけるのに夢中の浅井はまるで寒さを感じないようにふらふらと歩んでいく。
 小さな頃の明乃の手は、電柱の陰や曲がり角。郵便ポストの裏などに次々と現れては消えて、消えては現れ浅井の進む道を教えてくれている。
「明乃ちゃん、待ってよ」
 昔ならばいざ知らず、長い事まともに歩いていない浅井は数メートルも進まぬうちにすぐに息が上がってしまうが、それでも立ち止まることはしなかった。
 途中途中ですれ違う人が変な目で薄着の浅井を見ていたが、気にしてはいけない。とにかく、まずはあの手を見失わないようにしなければいけなかった。
 花屋の前と肉屋の前を通り過ぎ、市民会館の脇道に入って木々の間を潜り抜け、広い道路を横断する。幸い車に轢かれる事は無かったが、雪に足を取られたり、浅井自身がふらついていたりでたどり着くのに随分時間がかかった。
 そこは家からそう遠くは無い場所だった。
 それどころか、頭が更におかしくなる前ならば五分もかからず来れた場所だ。
 人通りの少ない河川敷。
 小さな明乃と初めて会った場所。
 雪が積もっていて、今はあの頃とはまるで違う風景になっているけれど、確かにそこは小さな明乃が一人で泣いていたあの河川敷だった。
 そこに辿りついた時、浅井を導く手は消えた。
「木佐さん……?」
 誰もいない河川敷。
 川に沿うように伸びた道路。鉄さびだらけの手すりと雪の中に真っ直ぐ伸びる細い一本道。氷と氷の合間を通り抜ける川の水音だけが全ての世界。
 てっきり、木佐さんのいるところに連れて行ってくれるのかと思っていた浅井は、きょろきょろと左右を見回しながら一本道へ歩を進めた。
 ぎし、ぎし、と潰れた雪のが更に圧縮されて軋む音。
 枯れた草の茎が降り積もった雪の間からまばらに伸びていた。
 水の音だけが耳に届いてくる。
 はぁ、と息をつくと、冷え過ぎた体が痛くて熱いのに気が付いた。
 ゆっくりと辺りを見回して、木佐さん、ともう一度呼ぼうとして、出来なかった。
 誰もいない。
 浅井はこの感覚を知っている。
『誰もお前を迎えに来ないよ』
 後ろから女の子の声が聞こえて、慌てて振り返った。
 誰もいない。
 小さい頃の明乃かと思ったが、違う気がする。
『お前なんか迎えに来ないよ』
 また声が聞こえて振り返る。
 誰もいない。
 来ないよ。
 お前なんか。
 迎えに来ない。
 待ってても無駄。
 それからくすくすと笑う声に変わった。凄く近くに聞こえるはずなのに、辺りを見回してみても誰もいない。無機物では無い。どこかで見ているはずなのに、木の裏に川の中にも空の上にも草の影にも誰もいない。
 明乃の声に似ているが、やっぱり明乃ではない。知らない人だ。唐突に怖くなった浅井は誰もいない場所に向かって大声で反論した。
「そんなことは無い!! 木佐さんは来るんだ!! 約束したんだ!! 絶対来るに決まってる」
 言葉は無い。でもこちらを見ているのは解る。こちらを見ていて、声を出さずに笑っている。馬鹿にしている。浅井には解る。寒いはずなのに、全身からドッと汗が噴き出してきた。
 怖い。
 何が怖いのか解らないけど、何かが怖い。
「何なんだよお前!! 何も知らないくせに何が面白いんだよ!! 出てこいよ!! さっきから影でコソコソ笑って、気持ち悪ぃんだよ!!」
 叫ぶように空に向かって怒鳴りつけるも、返ってくるのは沈黙だけだ。
 久しぶりに上げた大声にすぐに肺が疲れる。肩で息をしていると今度はすぐ耳元で小さな少女の笑い声が鼓膜に響いた。
「じゃあ、どうして誰も来てくれないの?」
 やたらとリアルなその声を振り払うように腕を振り上げる。しかし、肉の無い腕は空を切っただけだった。
 誰もいない。
 誰もいない。
 誰もいない。
 誰も迎えに来ない。
 気が付けば声が、四方八方から無機物の声が浅井に向かって降り注いで来る。浅井を見て笑っている。来もしない人を待ち続ける愚かな人間を馬鹿にして笑っている。
 げげぎゃげげぎゃぎゃははははぐははぐははくすすくすすぐわはははぐわはは。
 あいつは馬鹿だな。
 まだ待っているつもりでいるよ。
 もう誰も来ないのに。
 馬鹿だなあいつは。
 あいつは馬鹿だ。
「黙れ!!」
 自らの手で頭を押さえて掻きむしり、声の限り無機物達に怒鳴りつけるが浴びせられる罵声は収まらない。
 一層浅井を馬鹿にするように四方八方から囲んで罵詈雑言を浴びせかける。声はどんどん膨らんで、もう何を言っているのかも定かではないが、あまりの煩さに内側から頭が破裂しそうなほどズキズキと痛みだした。
 額を鈍器で割られて直接脳を引っ掻き回されるような苦痛に、浅井は立っている事も出来なくなってとうとう雪の上にへたり込む。そこが冷たいのかはもう解らなかった。
 自分がここに居る事さえ解らなくなる程の声の塊に押しつぶされそうで、頭を抱えたままの浅井は大声で叫んだ。
 力の限り大きな声で。とにかく罵詈雑言の塊に自分が押しつぶされないようにしなければいけなかった。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 木佐さんは迎えに来ない。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 誰も迎えに来たりしない。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 お前はずーっと一人きり。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 大声で叫んでいるうちに、雪の上にぽろぽろと透明な水が零れ落ちるのに気が付いた。
 それは、久しく流していない涙だった。
 雪の上に蹲った浅井は、大声で叫びながら泣いていた。
 木佐さんは迎えに来ると思っていた。
 迎えに来ると思いたかった。
 自分は愛されていると思っていた。
 愛されていると思いたかった。
 ねっとりと笑う優しい声。
 体内の卵を感じようとする。
 愛されていた。
 そうでなかったとは考えない。考えたくない。ナメクジが這い寄る気配がする。嫌だ嫌だこれ以上は思い出したくない。違うんだ。違うんだ。アレはただのナメクジだった。俺は何も覚えていない。覚えていない。やめろ思い出すな。馬鹿にならなくちゃ。今すぐに馬鹿にならなくちゃ。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、自分がここに何をしに来て今現在何をしているのか解らなくなった。ただ凄く怖かった。逃げ出さなくちゃと思った。罵詈雑言を聞きたくなくて、耳を塞いで雪の上を走り出した。早く逃げなくてはいけない。雪に足を取られて靴が脱げる。靴下は履いていない。裸足のまま大声で叫びながら雪の上を逃げる、逃げる、逃げる。
 突然、視界が反転した。
 途中で転んだのは、きっと雪の中から生えた半透明の手が足首を掴んだせいだ。
 起き上がろうと体を雪から持ち上げた時、うっかり空を見上げた浅井は目を見開いて短い悲鳴を上げた。
 ぽっかりと赤い空に浮いたまつ毛の長い巨大な一つ目が、じっと浅井を見つめていた。

 ★   ★   ★

 気が付いたら浅井はまた病院に居た。
 河川敷の細道で、奇声を上げて一人で暴れていたのを見た人が警察を呼んだらしかったのだが、浅井はそのことを全く覚えていなかった。
 堅い台の上に乗せられているらしい。すぐ隣には透明な液体が入った点滴が優しく佇んでいて、そこから伸びるチューブはどうやら腕の方につながっているようだった。変な声も目玉ももう無かったが、天井がぐるぐるとまわっている。ふと体を動かそうとすると、まったく動けない事に気が付いた。
 体がベルトで固定されているのだ。
 何かを考えようとしたが、頭の中がどよんと淀んで考える事が出来なかった。
 遠くか近くか解らない所で声がしたが、それが今誰かが喋っているの声なのかかつて誰かが喋っていた記憶の声なのかは解らない。
 あの子はもうダメかもしれない。
 生きてても死んでても同じですから。
 ずっとここに置いてやってください。
 障害年金が出るそうです。
 もう家では面倒見きれません。
 家に借金があるんです。
 果たして、これらは誰の声なのか、どんよりと目の前が曇ったようになっている浅井にはまるで見当もつかなかった。

 ★   ★   ★
 
 夢か幻覚かは解らない。
 確か、体を固定していたベルトは既に外してもらっていた気がする。
 薄暗い、鉄格子のついた部屋の中で布団に潜って寝ていると、小さな女の子の声が聞こえたのだ。
「ねぇ、まだ木佐なんて待ってるの?」
 ちょっと生意気そうなその声は、今度こそ小さい頃の明乃の声に聞こえた。
 うん、と浅井が頷くと、小さい明乃は「馬鹿だなぁ兄ちゃんは」と笑った。
「しょうがないから、一緒に居てやるよ」
 ありがとう、と言って声の方に目をやると、そこには誰も居なかった。
 ぼんやりと、明乃ちゃんは元気かなぁと浅井は思った。

 ★   ★   ★

 誰も来ない。
 誰も迎えに来ない。
 ずっと誰も迎えに来ない。
 まるで死んでしまったようだ。
 いつから死んでいたのだろうか。
 多分、結構前から死んでいたのだ。
 いや、もしかしたらまだ生きている?
 ああ、もうどうでも良い。なんでも良い。
 木佐さんはいつ迎えに来るのか、解らなかった。

 ★   ★   ★

 もうどれくらいの時間が経ったのかもよく解らなかった。
 何度か入退院を繰り返したような気がするが、覚えているとも覚えていないともつかない随分とぼんやりした記憶しか浅井には無い。
 ただ、随分と長い事あちらへ行ったりこちらへ行ったりしていたような気がする。ちょっとした身繕いをするのにも随分と時間がかかるので、最近は常に誰かが傍に居るような気がするが、それが誰なのかは解る時と解らない時がある。知らない人という訳では無く、のっぺらぼうなのだ。なので、それらが人間かどうかも定かではない。
 ある日、誰かが浅井を迎えに来た。
 確かその時は病院に居たはずだ。
 浅井を迎えに来たと言うその人は、木佐ではなかった。誰が迎えに来たのかも解らなかったが、とにかく家とは違う場所に行かなくてはならないようだった。
 両親は来ていなかったような気がする。
 やたらと大きな車の後部座席に乗せられて運ばれる。まるで売られていく牛のようだと浅井は思った。
 運転手のような何かの塊と二言三言何かを喋ったかもしれないが、何を喋ったのかもよく思い出せなかった。
 久しぶりに見る気がする外の世界は鮮やかなはずなのに、赤と灰色に濁っている気がした。
 何も出来ない浅井を他所に車は走る。

 ★   ★   ★

 知らないうちに自室に帰ってきていた。
 いや、これは自室なのだろうか?
 けれど、この部屋はどう見ても自室にしか見えなかった。
 シミのある天井も、窓枠の古いアルミサッシも、黄ばみがかった襖も、全部が全部自室のようだった。
 ここに来る前に、髪を引っ張られたり服を着替えさせられたり、もみくちゃにされたのは何だったのだろう。
 詳細な事はあまりの速さに覚えていられなかったが、今は無理矢理着せられた着物の帯が鳩尾に食い込んで痛い。
 ただ一つ解ったのは、ここに座って居なさいと言う言葉だけだったので浅井はぼんやりと座って待っていた。
 引き戸が開いた。
 誰かいる。
 お兄さん。
 知っているような声にのろのろと頭を上げると、スーツを着た見知らぬ男が立っていた。
 多分、男だと思う。
 少年と青年の中間くらいの年齢で、少し意地悪そうな目をしていた。丁度木佐を若くしたような感じの子だと思う。何より周囲はぼんやりしているのに、その青年だけが空間から浮き出たようにハッキリ見えているのが不思議だった。
 男が、静かに近づいてくる。
「だれ……?」
 知っているかもしれない。
 知らないかもしれない。
 一瞬、泣きそうな顔をした男だが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべると目の前に跪き、両腕で優しく浅井を抱きしめた。
「お帰りなさい。お兄ちゃん」



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 エピローグ 愛を囁く
 

 愛しています。
 青年の姿をした少女は囁く。
 愛しています。
 柔らかな布団に身を横たえた女装の男の耳に、何度でも。
 愛しています。愛しています。愛しています。
 甘く蕩かすような、けれど泣きそうな声で懇願するように。
 愛しています。愛しています。だから、どうか孕んで下さい。
 毎夜の如く抱かれ、抱きしめられ、拒む事さえ出来ない程に頭の中に浸透する愛の囁き。回転の鈍い頭でも、その声だけはくっきりと言葉が縁どられたかのようにストンと胸の内に入ってくる。
 愛しています。だから、私の卵を孕んで下さい。
 それは出来ない。浅井は木佐を待ち続けていたから。待っているはずだったから。目の前の青年にも言っている。それなのに。
 愛しています。あんな男なんて忘れて、私だけを見ていてください。
 青年へと成長したかつての少女に化粧を施され、女性のように扱われ、抱きしめられ、愛していると囁かれる。
 愛しています。愛しています。愛しています。
 遠い昔、こんな風に愛を告げられた事があった気がする。けれど、あの頃とはまるで違う。
 その愛は昔のような縋るような愛ではなく、言葉の一つ一つが見えない鎖になって首に、足に、心に絡みついてくるようだった。
 愛の囁きに縛られる。
 そうして全身を雁字搦めにされて、濃い蜜のような甘くて重たい水の中にゆっくりと沈められていく。
 逃げなければならないと思うのに、どこへ逃げて良いのか解らない。そもそも、逃げられるのかも解らない。拒まなければならないのに、拒む事が許されない。
 お兄さん。
 設えられた巣の中で、麻酔にかけられた肉片を獣に食われていくような錯覚を覚える。食われた体は確かに欠けるのに、麻酔にかかっているせいで痛いのか気持ち良いのかも解らない。
「秋一」
 体を食われている最中、不意にそう呼ばれて体が跳ね上がる程驚いた。
「何を考えているんですか? ぼんやりして」
 忙しく目を見開いて声の方を向くと、先ほどまで美味そうに浅井の首筋に噛み付いていた明乃が顔を上げて、じっと見つめていた。
 ふるふる、と浅井が細かく首を振って「何も」と否定すると、明乃はふと目を細める。
「うそつき」
 短く言って、口元に浮かんだ意地の悪そうな笑みに浅井はひゃ、と息を飲む。明乃が怖かったからではない。
 浅井の中で一瞬、記憶の木佐の顔と明乃の顔が重なって見えたのだ。
「どうせまたあの男の事を考えていたんでしょう?」
 優しく髪を撫でられて、明乃は笑う。
「大丈夫。もうすぐ忘れさせてあげますからね」
 また木佐と明乃の顔が重なった。
「嫌だよ。あけのちゃ……もう、嫌だからっ」
「何が嫌なんですか? 大丈夫。怖がらないで……」
 木佐と明乃が重なってはズレる。どちらがどちらだか解らなくなる。それが怖くて、慌てて尻でずり下がろうとするする浅井を、明乃は許さない。逃げる肩を両手で捕まえると薄い唇に噛み付いた。
 情欲に塗れた目を間近にして、それがますます木佐の顔に近づいてくると、浅井はもうどうして良いか解らない。
「愛しています」
 木佐の顔でそう囁かれると、力が抜けた。
 体を触られて、頬を撫でられて、肩を噛まれると、何故か木佐に抱かれている気がした。
 でも目の前に居るのは明乃であるのも解っていた。
 明乃が、次第に木佐に置き換わる。
 逃げなきゃ、と思っても、この目に見据えられると、どうしても出来ない。
 無論それは明乃に対する背徳であり、木佐に対する冒涜であり、己に対する裏切りであり、絶対にやってはいけないはずなのにも関わらず。
 助けを求めて眼球だけを忙しなく動かして辺りをも回していると、久しく見て居なかったはずの天井に浮かんだシミがニタリと笑って『受け入れちまえよ』と言った。
 受け入れた。
 瞬きをすると、偽物の木佐が自分を抱いていた。
「秋一。愛しているよ。だから、私の卵を産んでくれるね?」
 声も顔も木佐に似ているが、それが偽物なのは解っていた。
 解っているからそれが怖くて辛くて苦しくて悲しくて、でも嬉しくて、浅井は目の前の人間を両腕で抱きしめると、泣きながら何度も頷いた。
 



 完


2016/05/08(Sun)23:04:18 公開 / 水芭蕉猫
■この作品の著作権は水芭蕉猫さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 お久しぶりです。初めましての方は初めまして。水芭蕉猫ですにゃあ。
 本当にもう、あとがきに何と書いていいのやら。ここ数年不動産やら(二次元の)殿方に浮気してみたり二次創作に行ってみたりあっちこっちでいろいろやってました。昨今、ふと思い立ってもう一度オリジナルを書いてみた次第です。何かもう、いつも通りの電波です。あとそれに付随する倒錯。
 愛が欲しい愛が欲しいと呻きながら書いてたので、何かねとっとしているかもしれません。


 十二月十六日 昔を思う追加
 次の話が短いので、二話同時UPの予定がいろいろ微修正しているうちにのびのびになりそう。
 とりあえずこっちをUPして次が二話になるかなぁ。しかし、修正してもしてもおっつかないとか……。

 十二月二十一日 印を記す 追加

 二話同時UPと言ったが嘘になった。修正しているうちに長くなってしまったので、単独UP。
 野獣系女子開眼。女の子だって男の子と考えてることは大して変わらんのですよ。クリスマスと同時に……とか思ったけど、こんな生々しくて寂しいクリスマスは嫌だと思ったのでその前に……。

 十二月二十三日 タイトル修正

 一月一日
 あけましておめでとうございます!!
 第四話更新しました。色々修正を弄繰り回した上に、これ以上一人じゃ弄れないやと悩みながら投稿。

 一月二十七日

 色々試行錯誤して、どうにか形になりました。いわゆる、愛憎反転です。

 三月二日

 お久しぶりです。かなり時間がかかりましたorz
 浅井視点。思い切り電波です。卵を貰います。浅井君は女の子になろうと思わない女の子。

 三月二十一日
 今回短いです。凄く悩んだのですが、やっぱりこの回は単品で上げないと何かリズムとしておかしいなと思いまして……。そして次回は最終回となる予定です。段々、明乃ちゃんが作者から見ても怖い子になってきてしまいましたが、でもやっぱりその心は恋する乙女なのです。

 五月八日
 巣を造る〜愛を囁くまで追加。
 やっと、やっっっと完結いたしました!! えぇと、酷い話でした。書き始めたころは愛が欲しい愛が欲しい言いながら、今もやっぱり愛が欲しい愛が欲しいと言っております。えぇ。酷い。これは愛なの? と疑問に思ったりしながら書いてましたが、やっぱり愛なんですよ。愛と独占欲と執着心。それを溶岩で煮詰めて煮詰めて飴のようになると、多分怖い物になるんだろうなぁと思います。
 救われてなくても救われていても、燃料がある限り暴走機関車のように走り続ける愛。
 骨まで愛で貪りつくされるのは、痛いけれど気持ち良いと思うのです。
 というか、この話を全年齢でやろうとした辺りが既に間違いだったのでは? とラスト辺り書いてて思いました。でも完結出来て良かったです。

 ここまでお読みいただき、そしてこんなお話に付き合って頂き、本当にありがとうございました。

 ちなみに木佐さんの行方ですが、ここでは書けない状態だと思います。容赦なく色々されてますが、死んではいませんとだけ……。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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