『秋刀魚の味』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:チャキリス                

     あらすじ・作品紹介
人生の黄昏を迎えた男性に訪れる最後の救い。

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 死のうと思ったことが三度ある。一度目は大学受験に失敗した時。二度目は会社が倒産した時。そして、三度目は、今までの人生に誇りを持てなくなり、これからの人生に希望を見出せなくなった時。つまり、今だ。今、私は50余年にも及ぶ腐った人生に終止符を打とうとしている。舞台は築35年の寂れたアパートの一室。男やもめが密かに一生を終えるにはお誂え向きの環境と言えるが、画竜点睛に欠けるのは雪が降っていることだ。雪は、私の中の希死念慮を、僅かではあるが、和らげてしまう。

 死を決意した夜、窓を開けると、ぱらぱらと粉雪が舞っていた。夜を徹して降り続けた雪は翌日の朝には街の風景と完全に一体化していた。一面の雪景色は私の中に穏やかな日の記憶を呼び起こした。娘のあどけない笑顔が脳裏に甦った。

 あの日も雪が降っていた。私は自室で一本の映画を観ていた。小津安二郎の「秋刀魚の味 」という作品で、若い頃から何度となく観てきた作品だった。私が好きだったのは、岩下志麻扮する路子が父親に礼を述べるシーンで、花嫁衣装に身を包んだ路子に自分の娘を重ねて、いつも泣いていたのだった。問題のシーンを見て例の如くに泣いていると、幼い娘がどこからともなくやってきて、「何でお父さん泣いているの?」と無遠慮に聞いた。私が答えないでいると、娘は私の隣にちょこんと座り、画面に映り込んだ花嫁を見て、「お嫁さん、綺麗だねえ」と呟いた。そして、私の方に向き直り、「私ね、大きくなったら、お父さんと結婚するんだ」と満面の笑みで言った。

 雪は私にそうした日々の記憶を想起させる。あの頃は幸せだった。裕福な暮らしとは決して言えなかったが、温かい家庭があった。優しい妻がいた。可愛い娘がいた。しかし、今は何もない。そんな絵に描いたような幸せとは対極の位置に今の私がある。

 20年前まで私は千葉で小さな部品工場を営んでいた。妻の父親から譲り受けた会社だったが、どうも私には経営の才覚がなかったようだ。最初の5年ほどは自転車操業で何とか経営を維持することができたものの、バブルが崩壊したあたりから、受注が大幅に減り、資金繰りも苦しくなって、平成2年の冬には工場を閉鎖せざるを得なくなった。抵当に入っていた家も、土地も、すべて人の手に渡り、後に残ったのは多額の負債だった。義理の父親の会社を潰すだけにとどまらず借金まで拵えた私を、妻の兄は許さなかった。私たち夫婦は、半ば、引き裂かれるようにして別れさせられ、翌年の平成3年には離婚が正式に成立し、妻は幼い娘を連れて私の元から去っていった。それから10数年あまり、借金を返済するために東奔西走し、また生活のために様々な職を転々としたが、借金は完済できずに自己破産の形を取り、仕事においては予期せぬ事故に遭って働けない身体になってしまった。現在は生活保護を受けながら露命を繋ぐ身である。

 そんな体たらくになってから、世間の私に対する視線は冷ややかなものになった。隣近所の人々は私を“ちんばを引いた陰気なオヤジ”と陰で罵っているようで、アパートの大家からはハッキリと「あんたみたいな人にいられると迷惑だ」と言われたし、血を分けた親兄弟や親せき縁者さえも、こちらに連絡一つ寄越さなくなった。別れた妻からの連絡も、もちろんない。借金を返すために奔走していた頃は協力してくれた時期もあったが、今は完全に過去の人であり、他人だ。つまり、この世には私を人間扱いしてくれる者など皆無に等しい。一つだけ救いがあるとすれば、娘との接点が辛うじて残っていることだろう。妻と別れてから娘と会うことは叶わなかったが、暑中見舞いと年賀状だけは必ず届くようになり、それが今に至るまで途切れたことはない。私は娘からの手紙を大事に取ってある。娘との面会を禁じられた私にとって、それらは娘の成長を知る唯一の記録であり、娘の私への愛情を確認する唯一の手掛かりでもあった。娘は、手紙の中であるが確実に成長していて、私への愛情も、あの雪の日以来、変わってはいなかった。今年の年初に来た年賀状には、「私は今でもお父さんが好きだけど、結婚はできそうにない」などと書かれていた。私は笑いながらそれを読んだが、その実、複雑な想いであった。唯一の救いである娘が、どこか遠くに行ってしまうような感じがして、寂寥を感じずにはいられなかった。死を決意したのは、その年賀状が届いてから一週間後だ。娘からの手紙を読み返していて、ふと思った。もう自分のことを気にかけてくれるような人間はこの世にいない。自分のような人間が一人いなくなったところで困る人間はいないのではないだろうか。孤独が死への片道切符だとするならば、今の私はまさにそれを手にしている。私は娘からの手紙を机の引き出しにしまって、カーテンをさっと開いた。粉雪がはらはらと舞う、幻想的な夜だった。

 見飽きた街並みが白い化粧の中に埋もれている。だが、そこにはいつもと変わらない日常がある。トレーニングウェアを着た初老の男性が白い息を吐きながら走っていて、その横を郵便配達のカブが追い越していく。郵便配達の職員は、カブを低速で走らせながら、家々のポストに手紙を入れていく。私はその光景が好きだ。だが、もう二度と見ることは無いだろう。私は今日、この部屋で死ぬのだから。
 部屋のカーテンを閉め、足をひきずりながら台所まで進んだ。ガスのコンロをひねり、戸棚からヒモを取り出して、その足で洗面所まで向かった。ヒモを首に巻きつけて輪を作り、その結び目をトイレのドアノブにしっかりと結わえつけた。腰を下ろすと、丸くて太い首はヒモでぐいぐいと締めつけられていった。思ったより苦しくない。部屋中に蔓延したガスが感覚を奪っていたからだろう、息苦しいということは全くなく、体中の血が下にサアっと下りていくようだった。もう思い残すことはない。これで心おきなく死ねる。そう思った瞬間、身体の重みでヒモがちぎれて、ドアノブで頭を強打した。頭をおさえながら起き上ろうとした時、部屋のチャイムが鳴った。ドアの向こうから、「宅配便です」という若い男の声がした。ガスを切ってから玄関まで向かい、ドアを開けると、緑色の制服に身を包んだ二十歳前後の青年が現れた。青年は大きなダンボールを軽々と抱えている。

「……さんのお宅ですよね? 荷物をお持ちしました。サインお願いできますか?」


 サインをしてやると、男は深々と頭を下げてトラックまで足早に向かった。ダンボールを抱え、よろけながら部屋まで戻った。自分なんかにこんなものを送ってくれる者は誰だろうと思いながら、伝票に目をやった。送り主は娘だった。ダンボールを開けてみると、タッパーに入った食べ物や手編みのセーターなどが出てきた。その中に、これみよがしという感じで一枚のDVDが添えられていた。ケースに貼られたラベルには「お父さんへ」という文字が油性のマジックで走り書きされている。すぐにケースからDVDを取り出して、デッキに挿入し、再生ボタンを押した。暗い画が数秒続いた後で、画面が次第に色彩を帯びていき、クリーム色の綺麗な壁紙をバックにして一人の若い女性が映り込んだ。肩まで伸びた髪にパーマをかけた麗しい女性で、若い頃の妻によく似ていた。マンションの一室か何処かで撮影しているのだろう、女性は、側にいるかと思われる誰かに「これでいいんだよね?」と確認してから、前方のカメラに向かって喋り始めた。

「ええっと、お父さん。久しぶり。誰だか分かる? 分かんないよね。だって、20年も会ってないんだもの。正解は私だよ、私。あなたの一人娘の路子。あんな子供が20年も経ったら、こんな感じになっちゃいました。どう? 美人でしょ? うん、よく言われる。私、勉強とかからっきしダメだけど、こういう才能だけはお母さんからしっかり引きついじゃったみたいでさ、モテてモテて困るわけよ。もう今までの恋愛なんてハンパなくて……ってそんな話どうでもいいか。これを見ているってことは、荷物がちゃんと届いたってことだよね? だとしたら、安心。今までは手紙だけのやりとりだったからさ、それだけじゃ素っ気ないと思って送っちゃった。元気してる? そっちは寒いでしょ? 私、お父さんがこの寒さで死んじゃってないかって思ってさ……あ、ああゴメン、今のは冗談で。ずっと一人で暮らしてるって聞いてたから、私、心配でさ、何か少しでも助けになればいいなと思ってさ。荷物見てくれた? 色々入っててビックリしたでしょ? 中に入っている物、一応説明しとくね」

 娘は自分の周りに色々な物を並べて説明を始めた。

「これは、セーターとマフラー。もちろん、この私が編みましたよ、愛情かけて。寒いから、これ着てしっかり防寒してよね。それから、これは煮物と私が漬けた漬物。お母さんの味を再現してみせたつもりだけどさ、美味しかったらご愛嬌ってことで。これ食べてしっかり栄養つけて。カップラーメンとかばっかり食べてちゃダメだよ。それから……」

 娘は一本のビデオテープを取り出し、ラベル面をこちらに示して胸の前で掲げた。ラベルには「秋刀魚の味」と縦書きで書かれてある。その昔買った映画のビデオだった。

「じゃーん、これ何だか分かる? 私、馬鹿だから、何て読むのか分かんないけど、お父さん、昔、これよく観てたよね? お母さんの部屋を掃除している時にさ、出てきたんだ。お父さん、お母さんと別れる時にこれ忘れていったんじゃない? お父さん、この映画、すごい好きだったからさ、喜んでくれるんじゃないかと思って、ついでに荷物の中に入れといた。ね、私って気が利く娘でしょ? 」

 立て板に水を打ったように喋る娘を、側にいる誰かがたしなめた。お前は喋りすぎだということを言ったのだろう、娘は膨れた面になって、「分かってますよーだ」と子供みたいに呟いた。そして、カメラの方に視線を戻して、今度は神妙な顔になった。

「……最後にさ、お父さんに紹介したい人がいるんだ」

そう言うと、娘はフレームの外にいる誰かを手招きした。画像が一瞬だけブレたかと思うと、画面の左側から男が姿を現した。年の頃は娘と同じくらいの、ハンサムな男だった。男は頭に手をやってはにかみながら、こちらに会釈した。

「私の彼氏。どう? 超カッコイイでしょ? 私ね、彼とこの春に結婚することにしたんだ。こんな形で報告することになっちゃってゴメン。でも、近いうちにお父さんには直接、挨拶に行くつもり。お父さんにも、結婚式に出てもらいたいからさ。だから、待っててよ?  こいつ連れて、絶対そっちに行くからね」

「誰がこいつだよ」と彼氏が言い返して微笑ましいやりとりが続いた後で、娘は「じゃあね、お父さん」と言ってカメラのスイッチを切った。私は涙を拭いながら、ダンボールの底に手を突っ込み、一本のビデオテープを取り出した。昔、擦り切れるほどに観たビデオをデッキの中に差し込むと、荒々しい画像と共に映画が始まった。それから二時間あまり、私はテレビ画面の前に釘付けになった。岩下志麻扮する路子が父親に礼を述べるシーンになると、また昔のように泣いてしまった。

 死のうと思ったことが三度ある。一度目は大学受験に失敗した時。二度目は会社が倒産した時。そして、三度目は、今までの人生に誇りを持てなくなり、これからの人生に希望を見出せなくなった時。つまり、今だ。だが、今の私には死のうという気持ちはない。美しく成長した娘を見て、もう少しだけ生きてみようと思った。 完

2015/12/04(Fri)03:43:29 公開 / チャキリス
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