『白日夢』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:弥生灯火                

     あらすじ・作品紹介
五分ほどで読み終わる作品になります。

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【白日夢】

 その女性は、あたり一面に広がる乳白色の中で、ひとり佇んでいました。 
 すらりと伸びた手足の先は霞んで見えません。シルエットは半ば景色に溶け込んでいます。
 身体に力は入っておらず、ゆらゆらとうごめく陽炎のように、たゆたっている女性……
 
 “ここは、どこだろう”
 彼女は自分が何処にいるのか分かりません。それだけではなく、何故いるのかも知りえないでいます。それでも立っているという感覚だけは伝わってきていました。不思議なことに足裏からではなく、茫漠ただよう脳神経へと、じかに。
 
 “あなたは、だれ?”
 彼女は視界の正面に人影を捉えました。次第に鮮明さを増していく中で気づきます、背は高くありません。百七十センチに届かないあたりでしょうか。肉付きは薄く、成長過程であることがうかがえる、華奢な体つきをした男子でした。
 懐かしさを喚起させる紺色のブレザー。ネクタイは取り除き、シャツのボタンも幾つか外して、ひじの手前まで袖をまくっています。彼女からすれば瀟洒(しょうしゃ)に見えた姿。その男子は、彼女が初めて恋愛感情を覚えた学生時代の同級生でした。
 “どうして……”
 彼女は視線を落としました。表情をくもらせ、いたたまれなくなったように顔そのものまで男子からそらしてしまいます。男子はあどけなさを残した唇で、彼女に薄い笑みを投げてきました。顔をそむけたにも関わらず、彼女は閉ざしたまぶたの裏で鮮やかに甦らせてしまいます。
『勝手に好きになんなよ』
 それは過ぎた年、桜の木の下に響いた無情の言葉。拒絶のつぶて。彼女の精神を揺さぶったのは、勇気を振り絞って伝えた告白に対する彼の冷たい返答でした。
 "う、うう……"
 思い出したくなどない、遠く過ぎ去ったはずの情景。どうしてまた見えるのか。どうしてまた苦しめるのか。瞬く間に胸を侵食してきた翳(かげ)り。彼女の心に根づいた傷、ひとつ。
 忘れかけていた破恋を前にして、涙腺がにわかに訴えを起こします。
 “違う、いまは違う。あれから私は変わったわ。こんな私を受け入れてくれた人だって――”
 自身を鼓舞するようにまぶたを開き、瞳に膜張る雫を払って視界に光を取り戻す彼女。目の前には新たな人物が現れていました。
 目深にかぶった黒のニット帽。ゆるやかに両手を広げ、優しそうに彼女を見つめる青年。その青年は清潔に整えられたあご先のひげを揺らしました。
『そりゃ色んな男はいるさ。つまんねえ男もな。けど俺は違うぜ。一回つきあってみろって』
 彼女は思い出します。就職後に催された歓迎会。学生時代から引きずっていた異性に対する不信感を、隣に座っていたこの青年につい漏らしてしまった時のことを。
 彼女は青年を信じました。いいえ、信じたかったのです。
 青年は足音を鳴らすことなく、彼女にぴたりと添って強く抱きしめてきました。彼女の目に青年がつけているシルバーのネックレスがきらめきます。
 高鳴る鼓動。自らを捧げた夜の火照りが時を越えて彼女に降りかかってきました。頬に、首に、ささやくように浸透してくる柔らかな熱と息遣い……
 “……そうだ。この胸板、ずいぶん厚かったっけ”
 青年は彼女のえり足に顔を埋めるように、ふうっと吐息をかけます。彼女は震えました。身をゆだねたことへの甘美な褒美に思考を鈍らせます。
 “ああ、何度こうやって抱かれただろう”
『一度抱いちまえば、な、言ったとおりだろ』
 “そうだ、この男はそう言った”
『まあこんなもんさ。これで三人目。賭けは俺の勝ちだな。はははは――』
 耳に残る嘲笑。彼女に相対した時とは明らかに違う青年の口調。
 “――離してっ!”
 彼女は霞む指先で男を強くはじき飛ばしました。そして逃げるように距離をとり、ひざから崩れ落ちていきます。
 また、甦らせてしまったのです。青年がゲーム感覚で自分を陥れたことを。同じベッドでまぶたを閉じたまま安らいでいた朝、隣で携帯電話に向けていた青年の声を。
 “もういい! もう信じない! もう誰も相手になんかしないっ――!!”
 虚空に向けた魂の叫び。自らの両肩を抱きかかえ彼女は訴えます。何度も何度も、しつように。
 彼女の視界一杯に広がる幽白な世界。意識だけが存在するような孤独な世界は、しかし何も答えてくれません。彼女に巣食っている傷口は大きくひび割れ、すき間から嘆きの唄がにじみ漏れていました。

 “一人よがり 一人きり 変わらないまま
 変わらないのは わたしの わがまま?”

 どんなに辛くても、どんなに苦しくても、人はひとりでは生きていけません。まして彼女は束の間でも優しさを味わい、寂しさを埋める法を知ってしまったのです。たとえまた裏切られる日を迎えたとしても、人恋しい気持ちからは逃げられない。いえ、今度は自分からは逃げるようなことはすまい。まずは自分を変えることから。そう彼女は胸に刻み込んだはず、でした。

 ぽんっ、唐突に肩を叩かれて彼女は視線をあげました。少しくたびれた背広を着る、心配そうな顔をした壮年の男性が目に止まります。
「大丈夫、君は一人じゃない。僕はここにいる。さあ、それを離そうか」
 男性は彼女を立たせ、そのぼんやりとした手に太めの指を伸ばしました。その薬指には鈍く光る平凡な指輪がはめられています。
 “――あああっ!”
 それは急激でした。モノクロがかる蜃気楼のような世界だった彼女の視界に、彩りが戻り始めたのです。
 中古で購入した持ち家。小さな庭が見渡せるリビング。二人で選んだ寝室のカーテン。世界は色で溢れかえります。
 なかなか子宝には恵まれないけれど、それでも幸せだった愛の巣である家。彼女は、彼女は夫の帰りを待つ妻だったのです。
 信じていた、否、信じきれなかった夫を、彼女はためつすがめつ眺めました。
 とりたてて見映えのする夫ではありません。四十に近づき髪は細くなり、下腹部も出張ってきました。でも、それでも良かったのです。夫が自分を愛してくれるなら。自分だけを見ていてくれたなら。それなのに夕食の買い出し帰り、ある噂を耳に拾ってしまったことから、彼女は自身の決意を、そして自分自身までをも見失ってしまいました。
 
 彼女が現実と異なる世界に、"何故さまよった"のか。現実で、"一体何をした"のか。
 
 彼女の手に持つ包丁の刃先から、赤い液体がこぼれ落ちます。次いで刃そのものも、床の血だまりへと落下しました。
「ああ、あああ、あああぁ……」
 新しい涙を浮かべた彼女が夫を見上げます。自らが刺してしまった夫を。
 夫は薄い前髪を額に張りつかせながら、それでもにっこりと妻に微笑んで見せました。おそらく近所の主婦連中に、自分が浮気しているとでも吹聴されて信じてしまったのだろう、と。夫は分かっていたのです。
「ああ、あなた、わ、私、私は」
「言わんでいい。最近忙しくて構ってやれんかったからな。僕が悪かったんだ」
「でも、でも、血が……」
「平気だ。浮気も出来んような下っ腹だが、そのおかげで傷は浅いさ」
 そう言って夫は妻の肩を抱き寄せました。無骨な手のひらから伝わる確かな実体。彼女は力なく身をあずけました。焦がれた愛ある生活が壊れていないことを実感できたのです。
 それだけで、帰ってきた彼女にはその手のひらの温もりだけで、もう充分でした。

2015/10/29(Thu)22:09:53 公開 / 弥生灯火
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■作者からのメッセージ
白日夢、又は白昼夢ともいいますね。
そんな雰囲気を出すために、ですます調を試みた作品です。
読んで下さった方、ありがとうございました。

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