『異世界転生記 2-1』 ... ジャンル:異世界 ファンタジー
作者:レインボー忍者                

     あらすじ・作品紹介
☆バックナンバーは小説投稿掲示板の『レインボー忍者』横のアスタリスクをクリックしてください☆火の車になったモーリス家の家計を救うため、僕は石鹸作りをすることになった。技術内政チート編その一。現在は本筋進行中。

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異世界転生記2



プロローグ



 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが言うには、石鹸はメソポタミアで使われ、レバント地方のフェニキア人が利用し、スキタイ人が洗髪に使用したらしい。
 一方メソポタミアと同じ紀元前三千年頃、古代ローマ人がサポーという神殿の前で肉をあぶるとき、獣脂と灰が混ざり合って石鹸ができることを発見していたという――こっちの方は少し石鹸について詳しい人ならば知っているかもしれない。
 あるいはシュメール人。
 彼らは羊毛を洗浄するのに液状石鹸を使ったという。楔形文字の刻まれた石板には、油の量とアルカリの量の比率がだいたい百対五十五の状態で混ぜ合わせれば鹸化がうまくいくという指示まである。
「おぉ、浮いてきた」
 僕は大釜をかき混ぜる手を止めて湯気と煙でいっぱいの中身を覗き込んだ。ぼこぼこと泡立つお湯には、水とは明らかに違う透明な液体が浮いている。広場の周囲を囲う森の緑の色を反射して、それは深い色の宝石のように綺麗な艶を放っていた。
 開拓場跡には僕の他に誰もいない。森の広場には僕と大釜だけ。もう六月も半ばだというのに、小鳥のさえずる声も聞こえない。きっと鍋の放つ強烈な臭気に驚いてどこかへ行ってしまったのだ。
 広場は物凄い悪臭に包まれていた。
 僕の後ろには不定形と化したドサ袋。口の部分からは血の付いた白い固形物が覗いている。
 別に猟奇殺人の現場とかではなくて、石鹸作りのための油を集めている作業の場である。
 我がモーリス家のお膝元の村――丘の下の村の居住区で、骨折して使い物にならなくなり屠殺された牛の肉が交換されているのを今朝見かけたのだ。そこで「よし、石鹸を作ろう」と唐突に思いついた僕ことアルフォンス・モーリス(四歳・転生前も合わせたらそろそろ三十歳)は、牛の脂肪――ヘットを農家のおっさんから分けてもらったのである。
 肉は乾燥させて塩漬けにすれば保存は効くけど、脂肪部分は処理の工程で要らないものとして削り取られる。向こうも処分に困っていたらしく、全部タダで譲ってくれた。
 全部で三十キロくらい。重すぎだ。
 牛の脂肪はすさまじい血臭と牛独特の藁の腐ったような臭気を帯びていた。簡単に言うと鉄臭い牛小屋の臭い。現代日本にはもう個人の牛小屋なんてほとんど見かけないのだろうけど、丘の下の村ではそんな事はなく、普通にたくさんの家畜が小屋に入れられて飼われている。
 さすがは似非中世の異世界。
「さて……、臭いはどんなもんだろ」
 沸騰させることで油と脂肪に付いていた不純物とをあらかた分離したハズ。うまいこと油だけになっていたら、そこまでは臭わない。
 僕は大きな木製のお玉を手に取ると、水面に光る油を丁寧にすくい取った。
 ……………………。
 ………………。
 …………。

「〜〜〜〜〜くっさぁぁぁぁ!」

 絶叫。息を吸いこんで更に吐き気が!
 なんだ、この濃厚な刺激臭!
 そろそろ獣臭にも慣れてきたはずの僕の鼻でも全然耐えきれない!
 こんなの体に塗りつけられるわけがない!
 おそらく分離が上手くいっていないんだ。余分な成分が油にたくさんついていて、それが酷い臭いの元になっている。元が家畜の脂肪だから全く臭いが無くなるということは無いだろうが、目標にはほど遠い。
 僕の脳裏に『ファイト・クラブ』という映画の事が思い浮かんだ。
 あの映画では、脂肪吸引によって取り除かれた人間の脂肪から石鹸を作っていた。人間の脂肪なら少なくとも酷い獣臭はしないんじゃないか――って、なんて恐ろしい事を考えているんだ、僕は! 本当に猟奇殺人の現場になってしまう。
 動物の油から始めるのは失敗だったか。
 それよりも植物油の方面から攻めていくべきだった。
 でも食用油って、この異世界では結構貴重品なんだよな……。
 燭台の灯を維持するのにも植物油が使われているけど、あっちもかなりの高級品。火の車であるモーリス家の家計にはきつかろう。
 とは言え、駄目元で聞いてみるべきか。
 物は試し、全ては話をしてみてからってことで。
 そう決めるや否や、僕は鍋に蓋をして、ドサ袋に重しを置き、いそいそと森の開拓場跡をあとにしたのだった。



第一章  石鹸作り、始めました!



 もともと貧乏だったモーリス家が更に貧乏になってしまったのは、つい四ヵ月くらい前の事である。
 村に巨大な魔獣が出現したのだ。
 当時、僕のこっちの世界での父親であるアドリアン・モーリス辺境伯が農地を求めて森を開拓していたのだけど、その途中で魔獣の縄張りを侵犯してしまい、奥からそいつが出てきてしまったのである。
 なんとか魔獣を退治することができたものの、村に残った爪痕はとても深いものだった。冬麦の畑は踏み荒らされ、村の外れの糞尿処理場は派手に崩壊。復興援助のための資金を商工会にお願いしたら、代わりにモーリス家の様々な利権と本拠地である大きな館を取られた。
 三月末に体が回復した僕は、アドリアンを始め、モーリス家に残った面々とともに現在も復興作業に従事している。三ヵ月間の作業の成果もあって、村は死んでしまった人たち以外はだいたい元通りになっていた。怪我人もまた鍬を振れるようになった。だけど、モーリス家は貧乏なままだ。
 僕は森から出ると、広い東の平原を歩いていく。北にはかつてモーリス家の本拠地だった本館。その手前には、魔獣の暴れた跡など無かったかのように、青い麦の穂が揺れていた。あと一ヵ月ちょっとすれば、あれらは一面の黄金色に染まるだろう。
 ザア、と僕の腰くらいまでの牧草が揺れる。
 着ている茶色いローブが熱い風にはためいた。草いきれが僕の耳の横をすり抜けて青い空へと攫われていく。
「――――――――――」
 あの魔獣についても明らかになった。
 魔獣は、アドリアン・モーリスの妻、マーガレット・モーリスが生んだ異形の子どものなれの果てだった。ただの人間であるマーガレットさんの腹の中から、どういうメカニズムであんなグロテスクなものが生まれてきたのかは定かではない。だけど、マーガレットさんを妊娠させた下手人が、どうやらまだ村のどこかにいるらしいということは分かっていた。
 ガランティウス商工会の頭取、ガランティウス老人。
 エルフの代表のグラヴァルウィ。
 肥満体質の名主のダイモン。
 この中の誰かが犯人である可能性が高い。
 とは言え、力を失ったアドリアンがこれら村の有力者の身辺の調査ができるわけもなく。
 もちろん、誰がやったか名乗り出なさいと小学生の学級会のようなことはできるはずもなく。
 結果、この四か月はマーガレットさんに再び犯人の魔の手が伸びないよう警備を固めることくらいしかできていなかった。
 次にマーガレットさんが狙われる可能性が高いのは来月七月半ばに行われる村の有力者会議だが――、運よくそこで犯人を捕まえることができなかったら、その次は来年の三月まで機会がありそうにない。
 僕はため息を吐くと、本館横の二回り小さな洋館――モーリス家の別館の敷地に入った。現在、僕たちはこちらで生活をしているのだ。
 庭ではすっかり白髪になってしまったメイド長、チーノが洗濯物を干しているところだった。洗浄に使った植物灰がまだシーツに付いていたらしく、顔を近づけ手でパンパンと叩いている。
「チーノさん」
 僕がそう呼びかけると、彼女は少し曲がった腰を伸ばしてこちらを見た。
「アルフォンス様……! お帰りなさいませ。申し訳ありません、きちんと水洗いできておらず――」
「えっ? いや、別に責めるつもりで声をかけたんじゃないですよ。手は止めなくて結構ですので、いくつか僕の質問に答えていただけませんか?」
「私に答えられることでしたら、何なりと」
 彼女は生真面目にそう言うと、シーツから離れて僕の前までやって来た。「どのような質問でしょうか?」
 手は休めなくていいって言ったのだけど……、彼女からしたらそれはあり得ないことらしい。
 僕は何だか申し訳ない気持ちになりながら尋ねた。
「屋敷に油はどれくらいありますか?」
「は……? 油、ですか」
「体を洗うための石鹸を作ろうと思うんです」
「石鹸!? そのような高価な物を作れるのでございますか!?」
「高価……?」
 ああ、そう言えばこの世界の人たちは体を洗うにしても灰や砂利なんかを使っていたな。僕も最初川で沐浴する村人を見て度肝を抜いたものだ。砂利はともかく、アルカリの強い木の灰なんかを直接髪や肌にこすりつけるのだ。だから沐浴の習慣のある奇特な人は(この世界の人には基本的に沐浴の習慣がない)、若い人でも肌が荒れて髪が縮れている。
 ちなみにアドリアンや僕の実の母であるグレイスは、お湯につけた布で体を拭いて綺麗にしている。お湯を作って自室に運び、裸になって全身を拭くのだ。まあ、面倒くさいよな。でも彼らの場合はきちんとした身なりをしておかないといけないので割と小まめにやっている気がする。当然、アドリアンは臭いを誤魔化すために香水も使っている。
 チーノは僕をまじまじと見つめた。
「石鹸一つで、モーリス家の一ヵ月分のパン代に相当します」
「そんな高いんですか!? どうりで村の商工会の区域でも取引されていないわけだ」
「医療用の石鹸であれば教会に行けば購入できると思います。ですが……、こちらも相当な代価を要求されるかと。少なくとも麦一束と交換というわけにはいかないでしょう。在庫がなければ断られます」
「えっと、医療用の石鹸ってことは、匂いも何もついていない奴ですよね?」
「匂いつきの物などこの辺りではまず取引されていません。王都にでもいかねばとても手に入るものでは」
「王都では手に入るんですね」
「ええ、南からの海上交易で市場に並ぶのです。フラン金貨――この辺りではあまり見ませんが、王都近辺で使用されている貨幣です――二枚で一つ購入できた記憶があります。なにぶん四十年以上も昔の話なので曖昧ですが」
「他国からの輸入品なんですか……」
「はい、製造法も材料の配分も全て固く秘匿されています。――それを、アルフォンス様は作れると?」
 チーノは懐疑的な目で僕を覗き込んだ。
「ええ、要するに油脂と苛性ソーダあるいは苛性カリを混ぜて鹸化させればいいので」
「カセイ、ソーダ? カセイ、カリ……?」
「あっ、えっと……。洗濯のときに使っている灰の汁などですね。こいつと油を一定の割合で混ぜ合わせれば石鹸のもとができます。もっとも、これから色々試すので、もしかしたらできないかもしれないんですけど」
 僕が慌てて補足すると、チーノはいまいちよく分かっていない顔で「はあ」と言った。
 話がだいぶん逸れちゃったな。
「そういうわけで、油が欲しいのですが、余っていませんか?」
「油はあるにはあるのですが、余っているかと言われますと……」
「あー……。そうですか」
「お力になれず、申し訳ありません」
「いえいえ、お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした。それじゃ僕は村の商業区をあたってきます」
「今から村に行かれるのですか!?」
 チーノは慌てたようにそう言った。
「え? はい、そのつもりですけど、何か問題が?」
「問題と言いますか……、その、臭いが」
 彼女は歯に物が挟まったような調子で言う。
 臭い……?
 あっ、もしかして、今の僕ってすごく臭い!?
「森の工房で獣の油を炊いていたんです。……どれくらい臭いですか?」
 僕がそう尋ねるとチーノは申し訳なさそうに答えた。
「鼻が曲がりそうです」

  ×               ×                ×

 公害レベルの臭いを市井にまき散らすわけにもいかない。
 そういうわけで僕は、今日のところは商業区には行かず、川原でアブラナ科の植物を採取して終わることにした。モーリス辺境伯領を南北に縦断する大きめの川のほとりにはたくさんの黄色い花が咲いているのだ。グレイスやチーノに聞いても「あれは花だ」としか答えてくれなかったから、僕は勝手にアブラナと呼んでいる。
 そのアブラナの種を絞ってそこから油を得ようと思ったのだ。
 しかし、採取してみて分かったが、種が小さい。
 これをたくさん集めて絞るわけだけど、それで労力に見合うだけの油が得られるのか疑問だった。
 ドングリやシイ、クヌギの木の実も同じ。
 椿の花は――それに類似する植物はこの辺りには見られない。当然、オリーブオイルやココナッツオイルなんてものもない。
 これはやっぱり原点回帰するしかない――川での採取を終えて森に戻りながら僕はそう結論付けた。動物の脂肪ならタダ同然で、しかも大量に手に入る。
 問題はあの酷い臭いなんだよな。
 魚から取ってないだけまだマシなのだけど、それでも酷い。香りの強いハーブ辺りで誤魔化そうにも厳しいものがある。
 もっと臭いが無くなるまで延々と煮立て続けるしかあるまい。しかし、これではかなりの重労働だ。
 いっそのこと魔術で石鹸を錬成してしまうという手もあるが――この場合、仮に成功したとしても量産化は無理だ。と言うのも、分子配列を組み替える魔術にはたくさんの魔力を使うからだ。地面から適当に石の武器をつくり出すのとはわけが違う。とても細かい調整が必要になる。
 それに――できれば、僕としては石鹸を売るより、石鹸の製造法を売りたい。
 石鹸を作って独占販売するというのは確かに多大な利益が出ると思うが、他国にいる石鹸業者の耳に入った場合、予期せぬ出来事が起きるかもしれない。
 業者が貿易相手の国で類似品が出回っていることを聞きつけたなら徹底的に調べ上げるだろう。他国と言っても、国内で彼らの商品を流通させている商会も存在するはずで、まずはそいつらが石鹸の販売元を突きとめる。そうしたら、そいつらはパイプのある上級貴族たちに報告するに違いない。
 もともと弱小だったモーリス家は、今や何の力も持たない名ばかりの貴族。降りかかる火の粉は払えず、きっと炎上してしまう。
 だから、争いの元になる石鹸の製造法はとっとと売ってしまう。売りつける相手も決まっている。商工会のガランティウスだ。彼に本館といくつかのモーリス家の利権を返してもらう代わりに製造法を教えるのだ。ついでに商工会との間に強固なコネも作っておく。
 その後失った力を取り戻す。衛兵やメイドたちも呼び戻し、最低限この国の領主と言えるだけの体裁を整える。コネと金を大きくしていくのはその後の話である。
 後の話――それは炭酸ナトリウムの製造と売買だ。
 今回、石鹸の製造に当たって使うアルカリは、植物の根の灰――水酸化カリウムである。これでできる石鹸はいわゆる液状石鹸――脂肪酸カリウムだ。
 現代日本で慣れ親しまれている固形石鹸は脂肪酸ナトリウム――水酸化ナトリウムを使った石鹸であり、これとは少し異なっている(石鹸水が液状石鹸だという主張は間違いである)。
 その水酸化ナトリウムをつくり出すのに使うのが、炭酸ナトリウム。こいつと消石灰液とを混ぜ合わせ加熱することで水酸化ナトリウムができる。
 水酸化ナトリウムは石鹸のみならず、色々な工業製品に使われる強塩基。これを工業的に生産することが可能になれば様々な事ができるようになる。
 その材料になる炭酸ナトリウムを生み出す方法を、ソルベー法という。高校の化学で習う知識の一つである。こいつを使って儲ける。実際にエルネスト・ソルベーはこれで国際的なシンジケートを築き上げ、巨万の富を得た。ソルベーほどは行かなくても、細々とやっていたらモーリス家はそれなりに裕福になろう。
 副産物の塩化アンモニウムは農業革命のための肥料に、塩化カルシウムは除湿・乾燥剤に。主産物の炭酸ナトリウムでガラスの生成も可能となる。
 ……ま、全部とらぬ狸の皮算用なのだけど。
 というか、計画の途上で僕はこの辺境伯領を去ることになるかもしれないけど。
 でも、モーリス家の人たちがそれなりにお金持ちになって、僕の支度金が増えるのならそれも良かろう。何より貴重な経験ができるのだから全くの無駄と言うことはないはずだ。
 経験に勝る報酬はないってね。
「一年前の僕が聞いたら呆れるだろうな」
 森の小道を歩きながら呟く。何故か楽しそうな声が出てしまった。
 少なくともチーノが老後を豊かに暮らせるならそれでいいと思える。彼女にはたくさんのものを貰ったから、その分たくさん恩返ししたい。グレイスには、ここを出ていったあとも長い間一緒に居ると思うから、その時にでも返していこう。――こうして考えていると、愛とは与えることを言うのかもしれない。なんてね。
 森の小道を抜け、慣れ親しんだ建物が見えてくる。
 森の開拓地跡を管理する僕の本拠地――工房である。
 全体的に白っぽい岩の壁。茶色い鋭角な屋根。向かって右側に煙突。大きさは日本の平均的な一戸建て住宅くらいだ。中には暖炉やベッド、簡易な炊事場など一通りの設備は整っている。
 僕はどうやら『マインクラフト』系統の物作りゲームが大好きだったらしい。始めは簡単な小屋を作る程度にとどめておこうと考えていただけど、いつの間にか凝り性を発揮してしまっていた。インフラが整い過ぎて、最近はここで寝泊まりすることが多くなっている。
 いや、館に帰らないといけないとは思っているのだ。しかしこの工房でやることが多くて帰る前にベッドで寝てしまうことが多いのである。
 今日も工房の裏にはその『やること』が文字通り山積みにしてあった。
「またか……」
 僕は建物の影に隠れるようにして置かれた、籠に入ったガラクタたちをうんざりとした目で見つめる。

 壊れた農具、壊れた食器、壊れた小物類、その他色々。

 そんな有象無象が混沌としてそこに放置されていた。まるでゴミ捨て場だ。
 こうなったのは僕が村の復興支援を手伝い始めてからの事だ。
 魔獣の襲来によってたくさんの道具が壊れ、消耗したため、村の小さな鍛冶屋がパンク状態になってしまった。そこで僕が火を使わずに熱魔術や分子配列の組み換えで道具を修復する、魔術錬成の手段でサポートすることになった。
 最初は本当に鍛冶屋の補助のような立ち位置だったのだが、奉仕する精神から道具を綺麗に直し過ぎたのが良くなかった。五月を過ぎたあたりから、鍛冶屋を通さず、僕の工房に直接壊れた器具を置きに来る人が急増したのである。しかも大した破損じゃなくても持ってくる。壊れていなくても、魔法錬成で質の良いものにするためにわざと壊して持ってくる人もいる。酷いときは鍛冶屋で買ったばかりの新品をここに置き去りにする。僕にどうさせたいというのだろう?
 鍛冶屋の親方に抗議したら、「こっちはきちんと金を受け取っている。連中に文句は言えない」と突っぱねられた。そりゃ仕事せずに僕から上前をはねる方が楽だもん、そう言うわな。もう少し自分の仕事にプライドを持ってほしいと思うのだけど――先日匿名希望で鉄を打つための鎚が五本置いてあった。僕はそれを見て全てを諦めた。
 苦肉の策で器具を持ってくる時間を制限することにしたのだが――それもあまり効果がなかったようだ。
「どうしよう……。どんどん増えてるぞ、これ」
 僕は欠けた包丁を摘み上げながらため息を吐いた。
 今日、寝られるのか? 昨日は三時までかかったよな? 
 そうか、三時間しか寝てなかったせいで石鹸を作ろうなんてよく分からない衝動に駆られたんだ。間違いない。まあ、以前から沐浴の度に石鹸作りたいと思っていたのは否定できないけどさ。
 僕が呆然としていると、森の小道の向こうから誰かが上がってくる気配を感じた。
 地面の木の葉を蹴散らす音や、乱暴な息遣い――。
 誰だろう? こんな音は聞いたことがない。
 僕は土魔術を起動して仮面をつくり出すと顔につけた。フードも目深にかぶる。ちょっと暑いけど我慢である。
 僕が客を出迎えるために表に回ると、小道から太った中年男性が汗だくになって上がってくるのが見えた。
 上質なシャツに丈夫そうなズボン。顔にはいくつも傷が走っており、とても荒々しい印象を受ける。僕は彼の名前を知っていた。
 彼はダイモン。ここら一帯に大きな支配力を持つ名主の一人である。確か隣の戦争地域からモーリス辺境伯領にやって来た元傭兵で、森の魔獣の撃退戦で僕の前衛として戦ってくれた人だ。
 僕はこの工房ではアドリアンの知り合いの魔術師『アール』と名乗っているけど――彼と『アール』とは一応初対面ということになる。そこを念頭において対応するべきか。
 ダイモンが息を切らしながら僕の目の前にまでやって来た。修理の必要な道具は持っていない。というか手ぶらだ。
 彼は両手に腰を当てて僕を見下ろして言った。
「よお、久しぶりだな、魔獣と戦った夜以来か?」
「えっ?」
 僕が思わず訊き返すと、ダイモンは突き出たお腹をぷるぷると揺らしながらにやにやと笑った。
「ほら、やっぱりその声だ! 腕の良い魔術師が開拓地跡に工房建てて道具の修理をしてるって聞いて来たんだが、やっぱりお前さんだったか! なあ、おい、あれからどうしてたんだよ。元気してたか?」
「えっと、……まあ、はい」
 思わず頷いてしまった……。とぼけるべきだったか。でもすぐにばれそうな嘘は吐くもんじゃないよな。
「俺の事はもちろん覚えているよな?」
 ダイモンはすごく嬉しそうだ。彼の妙なテンションに若干引きながら僕は頷く。
「覚えていますよ、ダイモンさん。お元気そうで何よりです……」
「お前の名前を教えてほしい! 小作農は魔術師の名前は知らなかった」
 あの人たちは基本的に僕を便利な道具としてしか見てないからな。もしくはアドリアンゆかりの者として憎悪を向けてくるくらい。
 僕は右手を胸に当てて貴族風の挨拶をした。
「『アール』です」
「そうか、よろしく、アール!」
 ダイモンはそう言って相好を崩すと汗ばんだ手で無理やり僕と握手した。仮面を取らないのは失礼に当たるな……。しかしダイモンに素性がばれるのはまずい。
 言われたら取ろうか。そのあと何とか説得する方向で。
 僕は事務的にダイモンに尋ねた。
「それで、名主様がこのようなむさ苦しい工房に何の御用でいらっしゃったのでしょうか?」
 ダイモンは即答した。
「お前をウチで雇いたい! 専属だ。五年契約。仕事は主に農耕関連。隊商が来る時期には街道の警邏にも同行してもらいたい。給料は冒険者ギルドの相場の二倍を予定している。もちろん応相談だ。保障もできうる限りする。どうだ?」
「申し訳ありませんが、僕はアドリアン・モーリスの魔術師です。貴方の元で働くとなると彼を裏切ることになりますので――」
「おいおい! そりゃないだろう!」
 ダイモンが僕の言葉を遮る。「辺境伯の魔術師だと? まともに給料もらってないだろうが。そんなところで畜生みたいに働くことはねえ。俺のところに来いよ」
「あ、今あまり近寄らない方が良いです。朝から作業をしていて獣臭いので」
「臭いなんてどうでもいい。それより契約だ。お前さん、辺境伯とはどんな契約結んでるんだよ? 一ヵ月麦三十束くらいか?」
 やたら押しが強いな。
 僕の力を必要としてくれるのは嬉しいけれど、僕には他にやることがあるからな……。
 丁重に断るしかあるまい。
「申し訳ありません、ダイモンさん。僕は本来誰にも仕える気はなく、静かに暮らしていたいと考える人間でして、今回アドリアンに力を貸したのも、ひとえに昔彼にかけてもらった恩義に応えるためなのです。非才なるこの身を欲してくださるのは感無量ですが、申し出はお断りさせていただきます。どうかご容赦くださいますよう、お願い申し上げます」
 僕がそう言うと、ダイモンは露骨に眉と肩を落とした。
「そうか……。残念だが、あんたがその気なら仕方ねえ」
「工房で道具を修理することくらいはできます。もし、ご入り用でしたら、村の鍛冶屋を通して依頼をお願いします。もっとも、僕が修理を担当するとは限りませんが」
 するとダイモンは眉根を寄せた。
「村の鍛冶屋? あんたは個人で修理屋をやっているんじゃないのか?」
 その質問には否応なくため息が出るな。
 僕は首を振った。
「いいえ、鍛冶屋の補助という形でやっているだけです。魔獣の襲来や復興作業の際に壊れる道具が多く、鍛冶屋だけでは追いつかないので。基本的に向こうの仕事が溢れたらこちらへ仕事が回ってくるという感じになっています」
「小作農の話じゃあ、あんたが勝手にやっているという風だったが?」
「違います」
「鍛冶屋は火こそ起こしているが、暇そうにやっているぞ。親方は連日娼館や賭博場に通っていると有名だし」
「それは――、え?」
 マジ? 鍛冶屋何してんの?
「お前の仕事場は? 依頼の品はどこに置いてある?」
 ダイモンが憮然としてそう尋ねてくる。
「工房の裏手に」
「ちょっと見せてもらうぞ」
 言うや否や、彼は僕の脇をすり抜けていく。ダイモンは建物の陰に山積みにされたガラクタを見て不快げな声を上げた。
「おい、なんだ、こりゃ。ゴミ捨て場じゃねえんだぞ! まさか、あんたこれを全部一人で直しているのか?」
「ええ、まあ……」
「これで謎が一つ解けた。あんたが知っているか知らんが、最近やけに性能の高い道具が周辺の村に出回っているんだ。高い代価を要求されるが、それだけ性能が良くて壊れにくいから皆取引して使ってる。周辺の村の鍛冶屋からは商売にならねえから止めろと苦情が来てるんだよ」
「え……、それは、どういう……?」
「個人の小遣い稼ぎに利用されているんだよ、あんたの道具が。ガラクタ同然の物を買い取って、あんたに修理させ、それをさも自分が作ったかのように誰かに見せて高い代価と交換する。ぼろい商売だな。商工会の交換規則にも引っかからん」
「――――――――」
 うわあ。
 ボランティアで始めたことだから諦めはつくが、それでもだいぶん精神的に来るものがある……。僕のここ最近の努力はなんだったんだ。この一週間は月明かりを頼りにしてまで道具の修理をしてきたんだぞ。
 ダイモンは籠の半数を手早く森側に引き出していく。
「この分はあとで人をやって鍛冶屋に持っていかせるから、あんたは直さなくていい。こんな馬鹿な話あってたまるか。鍛冶屋の奴らには仕事をさせにゃならん。あと村の連中にも一言言っておいてやらにゃあならん」
「ダイモンさん……。ありがとうございます!」
 僕が感激してそう言うと、ダイモンは鼻を鳴らした。
「命の恩もあるし、あんたみたいな優秀な魔術師が農民どもに良いように使われんのは腹立たしいからな。――――それより、虫の良い話かもしれんが、どうか呆れてここを出ていくなんてせんでくれ。こんな辺境の地では人材こそが宝なんだ」
「出ていくなんてとんでもない。あと十年はここにいますよ」
「おお、それを聞いて安心したぜ」
 ダイモンはそう言うとにっと笑った。
 やだ……、この人すごくいい人……!
 でも、マーガレットさんに手を出した容疑者候補に入っているんだよな。
 あんまり疑いたくないけど、潔白かどうかを知ることは大切なことだ。
 良い機会だし、ちょっと探りを入れてみるか。
「ダイモンさんは村の有力者会議に出られているんですよね?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「会議のあった夜、二階奥の部屋の方から妙な物音がしていたとモーリス家の者から聞かされまして。森の魔獣のこともあり、彼らは非常に怯えているのです。何か心当たりはありませんか?」
 僕が非常に曖昧な質問を投げかけると、ダイモンは首を捻って眉根を寄せた。
「さあ、俺は会議に熱中していたから知らんな。別館の二階奥の部屋だろ? 住人が立ててた物音じゃないのか?」
「どうもそうではないらしいのです。――ここだけの話、モーリス家の誰かが夢魔の類にでも狙われているのではないかと僕は考えていまして。ああ、個人的にそう思っているだけなのですが」
「ほう? ――とすると、狙われてんのはマーガレット嬢か?」
「本当に狙われているなら、ですが。やはり眉唾物ですよね」
 僕が苦笑してみせると、ダイモンはむっつりと考え込んだあとに首を振った。
「いいや。このご時世だ。疑わしきは罰した方がいい。もしインキュバスだとしたら大変だぞ。あんたのボスは冬の終わりの騒動のせいで虫の息だ。ここでまた何か不祥事を起こしたら、さすがに国王も黙っていまい」
 そうなの? そこまで大事になるのか。僕は内心首を傾げながらも相槌を打った。
「やはり、大事になりますよね」
「そりゃそうだろ。インキュバスのみならず、夢魔の類すべてに言えることだが、あいつらは何も無条件で相手に手を出せるわけじゃない。相手の了承を得てベッドに潜り込むんだ」
 インキュバスってそんな枷を持っていたのか。てっきり『見つめるだけで恋に落ちる魔術』とかを使っているのだと思っていたけど――、よく考えてみれば、確かにそんな便利な魔術は存在しない。人より美しい容姿をしているとか、媚薬の類を使うとか、それがこの世界で言う魅了の魔術なのである。
 しかし――、そうなると、マーガレットさんはいよいよ不倫紛いのことをしたということになってきそうだ……。
 ダイモンは続けた。
「あんた、インキュバスの娘には会ったことがあるか?」
「え? はい、ありますよ。一人だけですが」
「あいつらめちゃくちゃ器用だろ?」
 言いながらダイモンはズボンのポケットから銀の小さな塊を取り出す。僕の目の前で軽く左右に振ってからくるりと手の平を返し――、もう一度こちらに見せた時には、銀の塊は三つに増えていた。
 わお、すごい。
「素晴らしいマジックですね」
 僕が拍手すると、ダイモンは肩をすくめた。
「魔術(ルビ:マジック)じゃねえ。昔戦場でインキュバスの娘と一緒になってな。その時に教えてもらった技術さ。ちゃんと種も仕掛けもある。――あいつらは珍妙な技術を使う。あいつらの親父のインキュバスも。奴らが女を騙すときは、こういうおかしな術を使って相手を無意識の状態にする」
 ははあ。すると、インキュバスと言うのは催眠術師みたいなものなのか。
 催眠術を使うには、聞いた話によると、相手との信頼関係が必要になってくるらしい。「騙されてもいい」って術をかけられる対象が思わないと駄目なのだ。この時点で相手に突っぱねられると、催眠術もクソもなくなるという。
 マーガレットさんを孕ませた相手が、インキュバスと同じような手法を使うのだとしたら――、マーガレットさんは、事前に相手と何回か会うなりしてそいつと信頼関係を結んでいたはずだ。
 そしてそれは――客観的に見れば、浮気にでもなりそうなぎりぎりのラインの逢瀬である可能性が高い。ゆえに、発覚すれば不祥事となるのである。
「しかし、マーガレット奥様は館から外には出られません。そのような『仕込み』をする暇はない気がします」
「本当に館に引き籠っていたのかどうかなんて分かるもんじゃねえだろ」
「それはそうですね……」
 窓をまたげばすぐ外だしな。素性も変装すればばれることは無いだろうし。
 僕はダイモンを見上げた。
「ダイモンさん、色々とありがとうございました。助かりました」
「おう、このくらいはいいってことよ。――俺もあんたみたいな魔術師がここに居座ってくれて嬉しいぜ。何かあったときは遠慮なく頼らせてもらうからな!」
「僕にできること事なら何なりと。――っと、そうだ」
 僕は土魔術を起動し、地面からゴブレットをつくり出した。そこに水魔術と熱魔術でシャーベットをこんもりと盛り付ける。
「暑さに気を付けてくださいね」
「おお! こりゃ重畳!」
 ダイモンは嬉しそうにそう言うと僕からゴブレットを受け取った。
 彼は気の良い笑顔を浮かべて、こちらに何度も手を振りながら森の小道を下りていく。
 ダイモンは、見た目は怖いけどとても良い人だなあ。
 犯人ではないと信じたい。
 僕は彼を見送りながら、しみじみとそう思うのだった。

  ×                ×                ×

 ダイモンが鍛冶屋や村人に言ってくれたおかげか、翌日から僕の工房に置き去りにされる道具が激減した。具体的には以前の三分の一くらいに減った。僕の魔術がどれだけ村人の小遣いの素になっていたか、これだけでよく分かる話だな。
 魔術錬成の仕事が減ったおかげで、僕は空いた時間を石鹸作りにつぎ込むことができるようになった。
 まず油を炊き出すところから。
 服に獣臭がつくと後が酷いので、魔術を使って釜をかき混ぜることにした。五個の釜を沸騰させながら、土魔術でつくり出した土の腕を使い、木のヘラでかき混ぜる。僕は工房の屋根に陣取り、上からその様子を眺める。
 相変わらず服は替えないと駄目だが、作業が終わったあとに水浴びするだけで臭いは取れた。
 だけど、相変わらずできた油は酷い臭い。
 とてもじゃないけど、まだまだ使い物にはならない。
 油は研究を重ねていくとして、アルカリの方の準備も始めることにする。午後になると、僕は油作りを中断して、森の中で植物の根を採取した。
 タンポポに似た野草がたくさん群生しているのを見つけたので、根を傷つけないように掘り返していく。植物の根にはカリウムがたくさん含まれている。だから灰にしてアルカリを作るならこういう奴らの根からだろうと思ったのだ。
 植物の根の採取が終わったら、灰をろ過するための装置を作る。
 こっちはモーリス家にあった底の抜けた桶を使用することにした。
 受け皿となる土器を一番下にして、その上に平べったい大きな石、底の抜けた桶の順番で置いていく。桶には砂利と藁とを詰める。これだけ。簡単なろ過器の完成である。桶の上に植物の灰を混ぜた液をぶっかけてろ過する。これで下の受け皿にしみ出したアルカリ――水酸化カリウムが溜まるというわけだ。
 僕は水酸化カリウム水溶液を手早く作っていく。やがて小さな水瓶三つほどが溜まったところで、一度ストップ。失敗作の獣油でお試し石鹸を作ることにした。
 自前の天秤を使って重さを量っていく。
 最初はシュメール人の記録通り、油が百に対して苛性カリ五十五。
 茶色をした灰の汁を濁った油に注ぎ加熱していく。温度計が欲しいな……。どこかで水銀が手に入ればいいのだけど、この辺じゃどこにも売ってない。
 今日のところは感覚でやっていくしかないだろう。入れ物を触ったら指が熱くて離してしまう程度――理想は五十度ジャストだ。
 温めながら木ベラでかき混ぜる。まだらのように成分が混ざり、油の色がわずかに白く濁る。でも全然泡立っていない。
「配分が良くないのかな」
 僕は首を傾げながら中の液体に人差し指を突っ込んだ。
 ……すごくネチョネチョしていた。
 ジェル状ってわけじゃない。完全に液体なのに粘ついているのだ。
 これ全然石鹸になってない。ただの油だ。
 苛性カリが足りないのかもしれない。
 僕は灰の汁を釜に注いでいく。でも相変わらず泡立たない。諦めずにかき混ぜていたら、なんか水っぽくなってしまった。これじゃ石鹸ができても水が多すぎて駄目だ。
「駄目だな。全然石鹸にならない。とりあえずもうちょい加熱して水を飛ばすか」
 成分がまだらにならないよう木ベラを動かしながらさらに加熱。水面にぼこぼこと気泡が出来始める。ちょっと熱し過ぎたらしい。
 あ、でも獣の臭いは少なくなっている。水に浮いている油も、心なしか今朝のものより済んでいるように思えた。
「そうか、灰を加えると不純物と油が分離しやすいのか……!」
 こりゃいいことに気が付いた。
 転んでもただでは起きない男、アルフォンス・モーリス。なんちゃって。
 今度から油の分離には灰を加えよう。
 僕は鍋の上に浮かんだ綺麗な油を掬い取っていく。
 油は良いものが取れたけど、肝心の石鹸は全くできていないな。いったん中断して、鍋を洗おう。
 油を別の瓶に移し終えると、僕は水魔術を使って釜を丸洗いした。手がとてもぬるぬるした。本当に油だわ、これ。
 多分、アルカリの力が全然足りていないんだ。苛性カリ(笑)の状態。
 そこで僕はタンポポの根っこを灰にするのではなくて、木の灰を使うことにした。
 森から出て、桃トレントの迷宮のギルド野営地へ行き、トレントの根っこの部分を貰って帰る。それを工房で燃やして灰を作った。
 その日はそれで終了。魔術錬成の仕事をして、日が暮れると同時に就寝。一週間ぶりにぐっすり眠れた。
 翌朝、僕は再びトレントの根っこを燃やして灰にしたあと、灰の汁を作った。同時進行で牛脂も煮ていく。途中で灰をまぶしたら、いつもよりもかなり臭いの少ない油が出来た。劇的な違いである。確かに鼻を近づければ臭うことは臭うのだけど、そこまで不快ってわけじゃない。不純物が綺麗に分離されているのだ。これはまぶす灰の量によってはもっと臭いの少ない油が取れそうだ。こいつも研究していこう。
 僕は自前の百科事典の『石鹸』の項目に気付いたことを書き足していく。研究ノートは小まめに取っておかないとね。
 この日も同じ配分で混ぜ合わせる。だけどやっぱり石鹸らしきものはできなかった。さすがにこれ以上強いアルカリは作れない。いや、作れるけど、時間がかかる。灰から作るとしたら今のものが限界だ。
「配分が間違っているのか……?」
 シュメール人の記録とは少し違うことになるが、彼らの使った材料と僕の使っている材料が必ずしも同じ条件であるとは言えない。今のところ油っぽい感じでぬめぬめしているから、苛性カリの配分がおかしいのは確かだ。
 しかし水溶液を加え過ぎるとまたべちゃべちゃのよく分からない汁になるし……。
 温度も曖昧だしな。
「うーん、悩んでいても仕方ない。ここは思い切って配分を変えよう」
 僕はぶつぶつと呟く。最近独り言が多くなってきたな……。
 丸洗いの終わった釜を再び火にかける。
 今度は百対六十の割合で油と苛性カリを混合する。結果、やっぱり駄目だった。変わらず油でねとねとする。こうなったら同じ割合でアルカリを加えてやろうと思って灰の汁を付け足したら、べちゃべちゃのよく分からない液体になった。そりゃそうなるわな。
 しかしきちんと配分できれば石鹸は出来るのだ。
 確かなゴールがすぐそこにあるのに簡単に諦めるわけにもいかない。
 僕は六月いっぱい試行錯誤を繰り返した。
 その甲斐あってか、七月に入った頃に、ついに溶液を泡立たせることに成功した。
 油百に対して灰の汁六十七。天秤で量ったから間違いないと思う。
 死んだ魚のような目で毎日釜をかき混ぜていた僕だが、液状石鹸の元が出来た瞬間は思わずパンツ(暑かったのでパンツしか身につけていなかった)を脱いで小躍りしてしまった。
 油特有の不快なぬめぬめも感じず、アルカリが多くて肌がひりつくということも、取りあえずはない。
 一応完成……!
 僕は達成感を噛みしめながら、出来上がったリキッドソープに食塩――塩化ナトリウムをまぶしていく。すると液状石鹸が徐々に固まり、やがて固形の石鹸になった。
 これでよし。
 苛性ソーダから作った石鹸は作成後一ヵ月以上乾燥させる時間が必要だが、今回僕が作ったタイプは数時間の保温のあとすぐにでも使える。
 僕はわずかに茶色に濁った石鹸を土器に流し込んでいく。
 そこでふと鼻を近づけた。
 不快――と言うほどではないが、独特の臭いがする。
 石鹸なんだし、やっぱり良い匂いがしないと嘘だろう。ちょっと考えたのちに、森から降りて桃トレントの迷宮のギルドの拠点へ行き、そこで桃トレントの実を大量に引き取ってくることにした。
 桃トレントの実は、香りこそ甘いものの、味が全然なくて種も大きい。しかし放置していたら腐って魔獣が寄ってくるから全て焼却処分される。僕はこの甘い香りを石鹸に使用することにした。実は腐らないように全て凍らせ、地面に埋めた壺の中に貯蔵。必要な分だけ取り出すようにすれば魔獣も寄ってくることは無い。
 気を取り直して、石鹸に桃トレントの実をナイフで削ったものを混ぜ合わせていく。ぐちゅぐちゅと何やらいやらしい音がすると思った僕は相当溜まっているらしい。数分して桃の甘い香りのする石鹸が出来上がった。アルカリと反応して、匂いも強くもなく弱くもなくいい感じに仕上がっている。
 僕は完成した石鹸を前に、変な笑いが漏れるのを抑えきれなかった。
 いや、ね。
 もう、ね。
 ここまで来たら使ってみるしかないでしょう。
 ここまで来たら浸かってみるしかないでしょう。

 日本人の心――FUROに!


  ×               ×                ×

 ということで露天風呂を作ることにした。
 手作り露天風呂と言えば簡単なものでも半年はかかりそうなものだけど、僕には土魔術があるのですごく簡単にでき上がる。
 森の工房の敷地はだいたい直径五十メートルの円形。入り口に工房があって、それ以外は薪を置いておく小屋くらいしかない。
 スペースはたくさんあるが――仮にも裸になるところだし、工房の後ろに設置することにした。
 本当は檜を使いたかったのだけど、そんなものないし、そもそも木を伐ったらエルフから苦情が来てしまう(故に薪は基本的にトレント――木の魔獣を倒して手に入れる)。だから使えるのは岩と土だけだ。できれば漆喰も使いたいのだけど、お金がかかるので却下だ。森の中だし、多少の水漏れは構わないだろう。
 まず、風呂の周りを囲う。
 だいたい三メートルほどの岩の壁を二十メートル×二十メートルの広さを目安に作っていく。岩の壁はわざと左右の縦の長さを別にして、丁度風呂の入り口部分が手前の横壁で隠れて見えないように設計。岩の強度を確かめつつ、囲いの中へ入る。
 内部の手前半分は体を洗うスペースだ。床は岩で舗装。なるべく表面が滑らかになるように気をつける。これに関してはこの四ヵ月、魔術でひたすら道具の修理をしていたのでお手の物である。
 次にお待ちかねの浴槽。
 体を洗うところより地面を高めにする。風呂の土台を地面から盛り上げる。浴槽の広さは十メートル×二十メートル。小学校のプールより一回り小さいくらいである。深さは成人男性の膝下辺りでいいだろう。どうせしゃがむんだし。だいたい五十センチくらいで。排水溝をつけて完成。
 屋根は、木の葉っぱが入ってこないように、森側から広場に向かって斜め上に伸ばす。風呂に浸かったとき、森の広場の開けた空から月が見えるように。
 で、最後に――問題の水だが、これに関しては近くの川から引いてくる。さすがにこの量の水を用意するのはしんどい。僕は森の中を流れる小川から、岩でできた水道を露天風呂まで直通させた。川側の水道の先には土魔術で栓をしたり蓋をしたりする。どうせ僕しか使わないから構やしないだろう。
 水道を通すと浴槽にドボドボと水が溜まっていく。僕はそれに熱魔術を通す。森の湧き水からできた小さな川だから、きちんと熱を通しておかないと蛭なんかがいたら嫌だからな。
 細かい部分の調整をしつつ待つこと数十分、水が溜まったので栓をして止める。溜まった水に熱魔術を使って沸騰させた。
 もわりと湯気が立ち上る。僕はそれだけで叫び出したいほどの気持ちになった。
「沸騰させたのはまずかったな。水を足そう」
 再び水道に触れて栓を開ける。水が流れ込んでくる。落ち葉が多いのでついでに水道にろ過器も作っておく。岩を噛み合わせて作った簡易なものだけど、これで葉っぱが流れ込んでくるのを止められる。詰まったらその都度処置していく。
 丁度良い温度になった時、僕はついに奇声を上げた!
「ヒャッハァー!!! 温泉だぁぁぁぁぁ!!! うわああああ!! ほおおおおおおお!!! はははははははははははは!!!!!!」
 叫びながら身につけていたものを取り払う。
 浴槽に浸かる前に体を洗う? そんなものは無粋だ! 男ならまず湯船にダイブ!
「ヒャッハァー!!!」
 ドボンと水しぶき。
 そして全身に感じる温かいお湯の感触。
 風呂だ!
 風呂だ!
 風呂だぁ!!!
 やばい。あったかい。
 何年ぶりの風呂だろう。
 よくよく考えてみたら、体を綺麗にするのに沐浴とか布で体を拭くだけとか正気じゃないよな。お湯に浸からないとか絶対にあり得ない!
 僕はその後、心行くまで露天風呂を楽しんだ。外の風景なんてガン無視。広い浴槽を平泳ぎしたりクロールしたり、子どものように泳ぎまくった。体は子どもなんだけどね!
 泳ぎ疲れて十分くらいぼんやりとお湯に浮かんでいると、ようやく石鹸のことを思い出した。浴槽から立ち上がる。ザバアと派手な音を立てて水しぶきが飛び散った。風呂でこれしたら自分が巨人になったみたいに錯覚するよな。
 風呂を作るのにだいぶん時間を食ったせいか、石鹸を作った頃はまだ朝だったのに、気付けば日が暮れ始めている。保温処理は十分だろう。僕は石鹸の入れ物をひっくり返し、中から綺麗な桃色に染まった固形物を取り出した。
「おぉー、ぬるぬるしている」
 石鹸なんだから当然だろうという突っ込みは禁止の方向で。
 擦りつける布は――工房の中だな。取りに行くのは面倒だし、先ほどまで着ていた作業着を使おう。
 僕は脱ぎ捨ててある服を取り上げてお湯で濡らし、石鹸でごしごしと洗う。少しざらざらするけど、ちゃんと泡立つ。桃の良い香りが風呂場に漂う。
 作業着を自分の肌に擦りつける。
 おお、これだよ。この感触。
 ちょい、泡立ちが弱いか? まあ、日本の石鹸レベルのものを求めてはいけない。こっちは素人が手で作っているんだからな。
 肩、胸、腰、足、股間、けつの穴。
 一回流して、もう一度石鹸を泡立てて背中を洗う。
 くぅ〜、気持ちいい!
 そのあとは頭だ。
 あ、リンスを作るのを忘れていたな。あとでレモン汁か何かで作ろう。
 髪をがしがしと洗う。やっぱりざらついているが仕方あるまい。多少の石鹸カスには目をつぶる。水に含まれるミネラルの量的にココナッツ油辺りが良かったのだけど、無い物ねだりになっちゃうよね。
 髪をお湯ですすいで、最後に顔と耳の後ろ。
 今日も暑かったからな。きっちり汗を落としておこう。
 体を洗い終わったあと、僕はもう一度湯船に浸かった。日が暮れるまで浸かっていた。さすがに日が暮れてしまっては足場が覚束なくなるので湯から上がった。
 こうして僕の処女風呂体験は幕を閉じたのだった。
 はぁ〜、気持ちよかった。

  ×                ×                ×

 その後、新しい服に着替えたのち、僕はポーチに石鹸の瓶五つと、麦の収穫に向けての千歯こきと唐箕の設計図を入れて森の工房を出た。
 アドリアンに石鹸の完成を報告しなければならないからな。ついでに鍛冶屋からの報酬の振り込みがきちんと入っているかの確認もする。
 それと――そろそろ問題の有力者会議もあるから、マーガレットさんの身辺警護の段取りをしなければ。
 モーリス家の戦力を鑑みるに、衛兵二人が抜けた今、彼女を護衛できるのは僕一人だけだ。僕はなんだかんだ言って素人だし、マーガレットさんとの仲が依然険悪なのも問題だ。事前によく打ち合わせをしておかなければならない。マーガレットさんは僕が半径十メートル以内に入るととても気分が悪くなるらしいけど――、さすがに会議が行われている間くらいは我慢してもらうほかない。それでも拒絶されたら――――まあ、そのための打ち合わせだ。
 あと、できれば家族で一緒に食事を取りたい。この一ヵ月、石鹸作りと鍛冶にかかりきりで、全然館に帰って飯を食べていないから。あの味気ないスープが少し恋しくなってきている。
 僕は工房の扉に土魔術で封をすると、森の小道を下っていく。
 夏の夕闇が迫る中、僕は東の草原を歩いていく。風呂上がりの火照った体を涼しい風が冷やしてくれる。
 北の本館を見ると、相変わらず正面玄関の辺りだけ明かりがついていた。商工会のガランティウスは本館を手に入れたものの、あくまで補助的な拠点として使うにとどめているようだ。なんだかんだ言ってあの本館は住みにくいのだ。無駄に広いだけで、夏は空気がこもって暑く、冬は石の壁のせいでとても寒い。立地的にも商工会の運営にはあまり向いていない。
 それでも、あの広い食堂は魅力的なのだろうな。たくさんの人を収容できるし、会議にぴったりな大きな黒板もあるし。
 すれ違う人に挨拶をしながら丘を上る。
 小作農の場合は返事が返ってこず、商工会の偉い人の場合は慇懃な礼が返ってくる。僕はアドリアンの妾の子、アルフォンス・モーリスでなく、魔術師『アール』として認識されているからだ。もっとも、小作農の場合はどちらにせよ、冷たい無視が返って来そうだけど。
 別館の前にはチーノが一人で立っていた。
 今日久々に帰ると言っておいたので待っていてくれたのだろう。
 彼女、最近腰が随分曲がってきているのだ。あまり無理はしないでほしい。
 僕が近寄っていくと、チーノは深々と礼をした。
「お帰りなさいませ、アルフォンス様」
「ただいま、チーノさん」
 僕は彼女に微笑みかける。「お父様とお母様は?」
「アドリアン様は食堂に。グレイス奥様は裁判資料の最終チェックをなさっています。そろそろ終わる頃かと」
「そうですか。マーガレット奥様とジェームズお兄様はどうです?」
「お二人とも食堂に」
 それを聞いて僕は目を丸くした。
「僕が帰ってくることは伝わっていないのですか?」
 チーノは首を振った。
「いえ、きちんと伝わっております。ただ、アドリアン様が食堂に待機しているようにと厳命されたので」
「ああ、なるほど」
 そうじゃないと飯食ったあと、とっとと自室に引っ込むわな。
 チーノはしわしわの顔を更にしわくちゃにして言う。
「アルフォンス様がお元気そうで何よりです。最近は暑いですし、お体を崩されていないか心配しておりました」
「あー、すみません。もう少し小まめに帰ってきて、顔を見せた方が良かったですかね。――でも、この一ヵ月工房に引き籠っていたことで、大きな成果が得られましたよ」
 僕はポーチを開けると、中から茶色い小瓶を取り出した。手に持つだけで桃の良い香りが漂ってくる。瓶の蓋は綺麗なピンク色の紐で括っておいた。瓶だけじゃ味気ないから。
 チーノは僕から小瓶を受け取ると目を細めた。
「これは……」
「石鹸です」
「せ――、石鹸!?」
「ええ、作れると言っていたでしょう? 開けてみてください」
 僕に促されてチーノは震える手で瓶を開ける。
 そして中身を見て、指で触れて、匂いを嗅いで、十数秒呆然としてからぽつりと呟いた。
「……本当に、石鹸です」
 僕はにっこりと笑みを浮かべる。
「チーノさんへのプレゼントです。また持ってきますので遠慮なく使ってください」
 するとチーノは石鹸の入った瓶を胸元に抱きしめ――感極まったようにぽろぽろと涙を零し始めた。
「――私のような、老骨には、勿体無い……。ありがとうございます。大切に保管させていただきます」
「いや、使ってください」
 そう突っ込みを入れたけど、チーノは聞いていないようだった。
 瓶を抱きしめたままいつまでもいつまでも泣き続けている。
 どうしようか迷ったけど、ずっと立ち往生しているわけにも行かない。僕はチーノの手を取って別館の中へと入った。
 小さな食堂に入ると、そこには疲れた顔のアドリアンとグレイス、不機嫌そうな顔のマーガレットさん、それと数ヵ月ぶりに顔を見るジェームズが席に着いていた。
 僕がチーノを伴って食堂に入ると、アドリアンとグレイスが立ち上がって笑みを浮かべた。
 最近は二人とも午前中に農作業をしているので色がだいぶん黒くなっている。アドリアンは目の下の隈が隠れて心なしか健康になったように見える。
「アル、久しぶりだな」
「お帰りなさい、アルフォンス。元気そうで良かった」
「ただいまです、お父様、グレイスお母様。――マーガレット奥様とジェームズお兄様もお久しぶりです」
 僕の笑顔に、マーガレットさんとジェームズは沈黙で答える。マーガレットさんに舌打ちをされないのはちょっとした進歩だろうか。
「さ、座りなさい。腹が減っただろう。夕食にしよう」
「その前に、皆にプレゼントがあります」
 僕はポーチから小瓶を取り出し、配っていく。マーガレットさんは受け取ってくれなかったのでテーブルの上に置くことにした。ジェームズは、最初はマーガレットさんの顔を伺っていたが、好奇心には勝てなかったらしく、僕から引っ手繰るようにして瓶を奪い取った。それから鼻を近づけて匂いを嗅ぎ――目を丸くする。
「なんだ、これ。良い匂いがする……」
「石鹸ですよ、お兄様」
 僕がそう答えると、同じように匂いを嗅いでいたアドリアンが驚愕したように叫んだ。
「せ、石鹸だと!?」
 グレイスが早速紐をほどいて中を検める。彼女は魂を抜かれたように呟いた。
「これが……石鹸……。初めて見たわ……」
 アドリアンが僕を見る。
「アル、こんな高価なものをどこで?」
「工房で製作しました。まだたくさんありますので、遠慮せず使ってください。シラミやノミに悩むことは無くなりますし、皮膚病の予防にもなりますので」
「お、おぉ……、おぉ……」
 アドリアンは目を白黒させて声にならない声を漏らしている。グレイスは僕の額にキスをした。
「ありがとう、アルフォンス。大切に使わせてもらうわね」
「グレイスお母様に喜んでもらえて何よりです。――あと、お父様、これが前に言っていた千歯こきと唐箕の設計図です。これを辺境伯命令でアールブの木工職人に作らせてください。何か不明な点があれば、僕の方まで問い合わせるようにとも言っておいてください」
「何から何まですまぬ」
 アドリアンは僕から設計図を受け取りながら眉を下げる。僕は首を振った。
「モーリス家の危機は皆で力を合わせて乗り越えねばなりません。どうかお気になさらず」
 それから僕たちは席に着き、夕食を食べた。
 給仕はチーノだ。
 相変わらず固いパンに薄塩味の野菜スープというメニューだったけど、文句はない。久々に皆の顔を見られたのだから。
 僕が無言でスープを啜っていると、アドリアンがおずおずと切り出した。
「アル、少しいいか?」
「はい。なんでしょうか?」
 さっきから僕の方をちらちら見ていたけど、何か言いにくいことなのかな?
 アドリアンはスープをすくう手を止めてぽつぽつと言葉を紡いだ。
「その、七月に入って麦が色づき始めた。あと二週間もすれば収穫が始まり、豊穣祭が行われる。村の有力者会議も、いつも通りある。そこで、お前に言っておきたいことがあって……」
 僕もスプーンを置く。
「はい。心得ております。僕もそのお話をお父様から聞くためにここへ来ましたので。護衛ならば喜んでさせていただきますよ」
「はっ、お前などがお母様の護衛をできるわけがないだろう!」
 ジェームズが僕に甲高い声を向ける。
 僕じゃ役者不足なのは重々承知しているけど、他に人がいないんじゃ仕方がないと思う。
「私もそう思う」
 アドリアンが暗い調子でそう言った。僕は息を吐く。
「しかし、お父様、それでは誰がマーガレット奥様を守るのですか?」
「護衛は既に雇った。実は、冒険者ギルドに募集を出していたのだ。お前には、報告が遅くなったが」
 僕は目を丸くした。
「そうだったんですか」
「すまぬ。もっと早めに言っておくべきだった」
「いえ、護衛がいるならそれでいいんです。僕よりもきちんと訓練を積んだ人の方が絶対に安心できますから。――あの、それより、お金は大丈夫でしたか?」
 僕が恐る恐る尋ねると、アドリアンは頷いた。
「お前が道具修理で儲けた金を使わせてもらった。マーガレットの安全のためとは言え、勝手に使ってすまぬ」
 ああ、それで足りたのか。
 なら良かった。この期に及んで別館を担保にガランティウスから借りたとか言われたらどうしようかと思っていたのだ。
 僕は首を振る。
「いえ、そのお金はお父様の物です。ご自由に使われていいのですよ。――その護衛の方は今どこに?」
「明日丘の下の村に到着する。私とグレイスで彼をお迎えするが、できればお前も魔術師『アール』として歓迎の列に加わってほしい」
「そのくらいはお安いご用です。が、丘の下の村までお父様が直々に出向かれるのですか?」
 スカアハのときはもっとおざなりだったよな。
 まあ、あれは彼女がいきなり押しかけてきたというのもあるけど。
 アドリアンは頷いた。

「ああ、今回護衛の任務を受けてくれたのは――あの高名な『茨の騎士』だ」

「『茨の騎士』?」
 初めて聞く名前だな。有名な人なのだろうか。
 首を傾げる僕に説明してくれたのはグレイスだった。
「彼は伝説的な武芸者よ。数年前、お隣の神聖ルール帝国で『傭兵王』と一騎打ちして引き分け、その後、南でアールブの戦士二百人と戦って皆殺しにしたって言う」
 『傭兵王』はすごく強いって有名な人だな。いくらか調べて知っているのだけど、どうやら彼は魔族で、数百年を戦場で生きる最強の傭兵なのだとか。彼が開祖となった『傭兵王』の剣術は、世界三大剣術に数えられる。
 そいつと引き分け――、エルフの戦士二百人と戦って皆殺しか。
 化け物だな。
 そんな奴が味方ならマーガレットさんも安全だ。
 僕が修理で稼いだお金では、その『茨の騎士』とやらを雇うには本来全然足りなかったんだろう。なるほど、そりゃ確かに村の入り口まで歓迎しに行かないといけない。
 色々納得はした。
 だけど――。
 僕は眉根を寄せてアドリアンを見た。
「お父様、そのような血生臭い男を引き入れて大丈夫ですか? 特にアールブの戦士を二百人殺したというのはまずいです。仮に本人が温和な人物だったとしても、風評を知っているアールブは絶対に良い顔はしないでしょう」
「そうかもしれんが、彼と言うカードは破格だ。こんな辺境の地では二度とは手に入らない。マーガレットの安全を考えると――多少の犠牲は払わねばならぬ」
「しかし、アールブとの諍いが起きる可能性は高いですよ。どう対処されるおつもりですか?」
 アドリアンは考えていなかったのか難しい顔で考え込んだ。僕はため息を吐いた。
「お父様、その『茨の騎士』を解雇して、新しい護衛を雇う気はないのですね?」
「すまない……。やはり確実に守るなら、彼の力は欲しい」
「そこまでおっしゃるなら僕からは何も言えません」
「すまぬ……。私の方でも気を付けておくが、アル、お前の方でも『茨の騎士』を見てくれていると助かる」
 もはや誰の警護か分からないじゃないか……。
「そう言われましても、僕も修理などの仕事がありますのでずっと見張っているのは不可能です」
「そこを何とかしてくれ」
「何とかしてくれって……」
 どないせい言うねん。
 アドリアンは申し訳なさそうにさらに続けた。
「加えて、先ほど彼が寝泊まりする部屋がない事に気が付いた。まさか物置や炊事場で寝かせるわけもいかない。アル、お前さえよければ、お前の部屋を使わせてもらえないだろうか?」
「それに関しては何も構うことはないです。僕は工房の方に寝泊まりすればいいですから」
 僕がそう答えると、アドリアンは机に深々と突っ伏した。
「本当にすまない」
「お父様、顔を上げてください。そんなに謝ると謝罪の価値が下がります」
「う、うむ……。すまない」
「それで、『茨の騎士』は明日の何時ごろ到着するのでしょう?」
 僕が尋ねると、グレイスが答えた。
「だいたい正午くらいかしら。私たちはその一時間ほど前から待機しているつもりよ」
「明日十二時ですね。分かりました。ではそれに合わせて僕も森を出ます」
 グレイスは眉を下げた。
「ごめんね。起きられなかったら、来なくてもいいから」
「お母様、さすがに十二時まで寝坊するのはありえません……」
 かくして僕たちは、家をあげて『茨の騎士』を歓迎することになったのだった。



第二章  無法者



 翌日、道具の修理を手早く終わらせた僕は、一番高級なローブに身を包んで森を出た。今日、僕が演じるのは、アドリアン・モーリスの魔術師『アール』だ。相変わらず顔を隠すために仮面はつけておかなければならないが、それ以外はおかしなところがあってはならない。移動中も身なりは何度も確認しておいた。
 そうして丘の下の村の南の入り口に到着したのは午前十一時前のこと。
 待ち合わせ場所には、既にアドリアンとグレイスの姿があった。――周りをぐるりと囲む、多数のエルフたちの姿も。

「アドリアン殿、正気ですか!?」

 エルフたちの中心で顔を真っ赤にしているのは、エルフ代表の男――グラヴァルウィだ。彼はアドリアンに喰らいつかんばかりに詰め寄っていた。
「『茨の騎士』を護衛に雇うなど、私たちアールブがどうなっても良いとお考えか!?」
 アドリアンはグラヴァルウィの勢いに押されながらも何とか応対している。
「グラヴァルウィ殿、落ち着いて下さい。何も『茨の騎士』はアールブを見たら全員殺すわけではありますまい。彼はいなくなった衛兵の穴を埋めるだけなのだ。貴方の考えるような物騒なことにはなりません」
「そうは申されましても、納得できません! 彼の逸話を知らぬわけではないでしょう? アールブの同朋が二百人も殺されているのですよ? それだけ強いのなら生かすことも出来たはずなのに、一人の例外もなく虐殺しているのです。これはアールブの血に酔っているとしか考えられません」
 グラヴァルウィは当然の反応を示している。対してアドリアンは、
「二百人でしょう? 別に血に酔っているとまでは言えないと思いますが」
 考えうる限り最悪の受け答えをした。
 案の定、エルフの連中は蜂の巣を突っついたように騒ぎ出した。一人の屈強なエルフの青年がアドリアンに掴みかかる。アドリアンは真っ青になって腕で顔を庇った。
 ……仕方がないので土魔術を使って青年の前に壁をつくり出す。青年は驚いて後ろに飛びのいた。僕はエルフの群集を押しのけて、尻餅をついたアドリアンと彼を庇うグレイスの前に体を広げる。
 エルフには同情するが、ここでアドリアンが殴り殺されるのを見ているわけにもいかない。
 僕は口を開いた。
「……そこまでにしていただきたい。辺境伯に対するこれ以上の暴力は僕が許しません」
「アル!」
「アルフォンス!」
 アドリアンとグレイスは半泣きになりながら僕を見つめていた。その名前は出しちゃいかんでしょうが。

「え……、アール君……?」

 エルフたちの合間から可憐な声があがる。
 声のした方を見ると、そこには蜂蜜色の髪のエルフの女の子――シルウィが目を見開いて僕を見つめ返していた。
 シルウィ……。
 僕は懐かしい気持ちでいっぱいになる。
 良かった。魔獣にやられて以降顔を見ていなかったけれど、元気そうだ。
 今すぐにでも駆け寄って話をしたいが――今はそんな場合ではない。僕は土魔術を起動させてエルフたちの足元をぐらつかせる。すると彼らは悲鳴を上げて後ろに下がった。
「モーリス家の魔術師『アール』ですか」
 グラヴァルウィは敵意に満ちた視線を僕に向ける。
 僕も負けずに彼に視線を返した。
「いかにも。そう言う貴方はアールブの代表のグラヴァルウィさんですね。お初にお目にかかります」
 慇懃に貴族風の礼をする。グラヴァルウィは固い口調で言葉を発した。
「丁寧な挨拶痛み入ります。が、これはアールブとアドリアン殿との間の話だ。関係のない部外者は下がっていてほしい」
「関係ない? はっ、笑わせないでください」
 僕は背後から殴りかかろうとしていたアールブの青年の前に土の槍を出現させる。青年は突如盛り上がった地面に度肝を抜かし尻餅をついた。
 僕は続けて空気結晶盾をアドリアンとグレイスの前に展開し、鋭く射られた矢を弾き返した。
「貴方がたは僕の主を殺す気でしょう? 護衛である僕には関係のあり過ぎる話です。僕を追い払いたいなら、まずもってそこらの武器を構えた乱暴者たちを退避させたらどうなのですか? それとも、グラヴァルウィさん、貴方はアールブ代表なのに、そんなことも出来ないんですか?」
「アール君!」
 シルウィが怒ったような声を上げる。
 いや……、顔を見るに本当に怒っているんだろうな。自分の父親を馬鹿にされたら彼女だって怒る。
 僕が申し訳ない気分になっていると、グラヴァルウィは静かに周囲のエルフたちに呼びかけた。
「皆、武器を納めなさい。私たちは誇り高きアールブです。野蛮な手段に出るものではありません」
「しかし……」
「グラヴァルウィさん、『茨の騎士』なんかこの村に入れたら俺たち全員殺されちまうぜ!?」
「魔獣の件と言い、この辺境伯はもう駄目だ。ここで粛清した方がいい!」
 僕は声を上げたエルフの足元に先んじて空気結晶の槍を射出する。エルフたちの間に次々と悲鳴が上がる。
 僕は体の周囲に紫電を散らしながら群衆を睨みつけた。

「騒ぐな! ――――武器を構えている者に言います。次はありません。死にたくなければ退いて下さい」

 最前列のエルフたちが怯えたように後ずさる。
 グラヴァルウィは声を張り上げた。
「武器を仕舞いなさい! それから皆持ち場に戻ること! 辺境伯に矢を向けた者は後で厳罰に処します!」
 それでエルフたちは舌打ちしながらも方々に散っていった。
「アール君……」
 シルウィが悲しそうな目を僕に送ってくる。視線にはありありと軽蔑の色が混ざっていた。目の端に涙も浮かんでいる。
 うわあ、物凄い罪悪感。
 しかし――、この場で弱みを見せるわけにはいかない。
「シルウィ、貴方も家に帰りなさい」
「で、でも……」
 シルウィは、周囲を威圧するように魔力を振りまいている僕に警戒の表情を浮かべている。
「いいから戻りなさい!」
「っ……。アール君、お父さんに手を出したら、私、すごく怒るから」
「――――――――」
 僕が無言でいると、シルウィは頬に涙を伝わせた。くしゃりと顔を歪める。
「アール君がそんな子だとは思ってなかった……っ!」
 僕の肩にぶつかるように駆け出し――やがて、彼女の華奢な後ろ姿は建物の向こうに消えていく。
 ああ、こりゃ完全に嫌われてしまったな……。
 今からでも弁明しに行きたいけど……、僕にその資格はあるのだろうか?
 僕は以前、彼女のことを物のように扱っていた。シルウィはそんな僕に本物の笑顔を向けてくれていたというのに。たくさんの温かさをくれていたのに。
 彼女と一緒にいる資格がない――それは三月からずっと僕が思っていたことだ。
 実際その資格はないだろう。
 僕は、『獣』なのだから。外道なのだから。
 今更、友達面をして、「さっきはごめん」なんて、とても白々しくて言えない。いや、言えるのかもしれないけど、そんなうわべだけの言葉なんて、絶対にかけたくない。――少なくとも僕はそう思う。
 一方――、グラヴァルウィは、先ほどの剣幕はどこへ行ったのやら、エルフの連中が見えなくなった途端弾かれたようにアドリアンを助け起こした。
 彼は顔中に汗を浮かべている。
「すみません、アドリアン殿、お怪我はありませんでしたか?」
「え? あ、ああ……」
 アドリアンは目を白黒させている。彼は分かっていないようだけど、グラヴァルウィはさっきまで怒っていた振りをしていたのだろうな。
 案の定グラヴァルウィは次に僕に向かって深々と頭を下げた。
「アール殿。申し訳ありません。今朝ついに血の気の多い者が飛び出してしまい……。あの場では皆の怒りを引き受けるという形でアドリアン殿への敵意を緩和するほか、私には方法が思いつかず……。本当に申し訳ない」
 僕は首を振った。
「いえ、それよりあの場で連中を最大限挑発する台詞を言ったアドリアン様に一番の責任があります」
「そんな! うまく会話を誘導できなかった私の責任です。――ああ、あの矢が当たっていたらどうなっていたことか……! 本当に申し訳ない! 矢を射た者はあとで石打ちの刑に処します。それでどうかご容赦を」
「……よく分からんが、グラヴァルウィ殿は怒っていないのだな」
 アドリアンがピントのずれた台詞を口にしている。グラヴァルウィは一転、青筋を浮かべた。
「怒っているに決まっているでしょう! 『茨の騎士』などを迎え入れれば我々の反感を買うとは考えなかったのですか!? 貴方の護衛の魔術師が優秀だったから良かったものの、そこらのCランク魔術師なら今頃確実に死んでいましたよ!?」
「いや、しかし、妻の安全を最優先に考えるなら、『茨の騎士』は必要――」
「貴方にはそこのアールがいるでしょうに! 先ほどの正確な魔術といい。彼ほどの魔術師はここらにはまずいませんよ!? 彼のどこに不満があるのですか!?」
「そんなにすごい魔術師だったのか……?」
 アドリアンが僕の方をまじまじと見つめる。グラヴァルウィは両手で顔を覆うと天を仰いだ。
「もういいです。雇ってしまったものは仕方がありません。お好きされたらよろしい」
「ぐ、グラヴァルウィ殿」
「すみません、少し頭を冷やしてきます。――失礼します」
 それだけ言うとグラヴァルウィも道の向こうに消えていってしまった。
 残されたアドリアンは捨てられた子犬のような目になっていた。
「グラヴァルウィ殿を、怒らせてしまった……」
「アドリアン様……」
 グレイスがアドリアンを慰めるように寄り添う。
「――お母様も怪我はありませんでしたか?」
 僕が尋ねると、グレイスは涙を拭いながら頷いた。よっぽど怖かったらしい。まあ、そりゃそうか。
「アル、すまない。お前のおかげで助かった」
「子が父を守るのは当たり前です。それより――本当に大丈夫ですか?」
「ああ、体ならどこも怪我はない」
「いや、そうではなくて、あれだけアールブに反対されているのです。キャンセルして別の者を呼ぶなら今の内だと思いますが」
「し、しかし、遠路はるばる来てくれた大英雄に対し、そのような失礼なことはできまい」
「新しく来る者のために先住の者たちをないがしろにする方が問題だと思いますが……」
「わ、私は、また間違ったのだろうか……?」
「それはまだ分かりません。『茨の騎士』が高潔な人物ならば、ここで味方に引き入れることが出来たのは間違いなくプラスですから――――あ、噂をすれば」
 僕は麦畑の向こうを蛇行する街道を指さした。
 小さな隊商がこっちへやってくるのが見える。
 時間的に、あれに『茨の騎士』は同行しているのだろう。
「アドリアン様、お洋服が汚れています」
「おお、さっき尻餅を着いたからだ」
 グレイスがアドリアンの周りをまわってパンパンと服を叩く。僕も今一度着ているローブを整えた。
 隊商の馬車はどんどん大きくなっていく。
 『茨の騎士』が、到着する。

  ×               ×               ×

 件の騎士は、全身トゲトゲの鎧に身を包んでいた。
 キャラバンの馬車からふわりと飛び降りた彼は、暗緑色に塗られた奇妙なその鎧をガショガショと言わせながら、僕たち三人の前まで歩いてくる。
 商業区の中から物珍しげに商工会の連中が顔を突き出している。
 やがて、トゲトゲの騎士は、僕の三歩前くらいで立ち止まった。背は二メートル弱――かなり大きい。鎧を着ているから体格ははっきりとは分からないが、首の辺りを見るとそれなりにがっちりしているのではないかと思う。
 彼は毬栗のような兜を乱暴に取り払った。下からは若い男の顔が出てくる。髪はとび色。目はライトブルーで右の眉毛の横辺りからこめかみまで剣で切られた傷跡が走っている。鼻は鉤鼻で、唇は皮肉屋っぽく歪んでいる。
「おめえがアドリアン・モーリスか?」
 『茨の騎士』は開口一番アドリアンに向かってぞんざいにそう訊く。アドリアンは男の威容に圧倒されながら頷いた。
「あ、ああ、私がそうだ。そう言う貴方は『茨の騎士』とお見受けするが」
「そうだ! この茨の鎧を見りゃ分かるだろう? 俺が『茨の騎士』ソーン様だ!」
 ソーンと名乗った彼は、自身の着ている暗緑色の鎧を自慢げに撫でる。
 今気づいたけど、腰に差しているのはショーテルか? S字型に湾曲した短剣で、相手の盾の横から体を狙うものだ。彼のものは湾曲が大きすぎて鞘に収まり切らないらしく、抜身のままになっている。
「そ、そうか。お噂はかねがね。――この度はこのような辺境の地へ来てくださり、感謝の極みだ。ええっと……、紹介しよう。こっちが私の妻のグレイス。そしてこっちが、魔術師『アール』だ」
 ソーンは紹介を聞いて口の端をつり上げた。じろじろと僕に無遠慮な目を向けてくる。
「へぇ、おめえが『アール』か。聞いてるぜ。辺境伯のところに凄腕の魔術師がいるってなぁ。はっ、小人族だったのかよ」
「……ご紹介に預かりました『アール』です。普段は東の森にある工房で道具の修理をしています。ご入り用の際には、何なりとお申し付けください」
 男の乱暴な態度は気に食わないが、礼は尽くさねばならない。僕は丁寧に頭を下げた。ソーンは低く笑った。
「何なりと? 頼めば何でもやってくれるのかよ?」
「僕にできることでしたら」
「んじゃ、おめえと戦いたいって言えば、戦ってくれるのか?」
「は?」
 思わず顔を上げてソーンを見つめる。彼は口の端をつり上げた。
「だーかーらー、おめえをここでぶち殺したいって言えば、ぶち殺させてくれるかって、俺は聞いてるんだよ」
 ソーンは腰のショーテルに手を伸ばす。
 アドリアンは慌てて声を出した。
「そ、ソーン殿!?」
「どういうことですか?」
 僕はぴりぴりした殺気を受けて魔術の起動に入る。
「おめえの話を聞いてから、ぶっ殺してやりてえと思ってたんだよ。おめえを殺せば俺の名が上がる!」
「僕なんかを殺さなくても、『茨の騎士』は十分有名でしょう!」
 問答無用――。
 そう言わんばかりに、ソーンがショーテルを振りかぶって僕に飛びかかってくる。
 僕は咄嗟に跳び退りながら土魔術と水魔術を起動させた。狙うはソーンの足場だ。
 土が一瞬にしてぬかるみに変わる。重い甲冑をつけているソーンはずぶりと足を沈み込ませ、体勢を崩した。彼は怒声を上げる。しかし、それでも諦めずに、ショーテルを僕の胸に向かって投擲してきた。それを咄嗟に土の壁で弾き、予備のショーテルを腰から抜こうとしていたソーンに向かって土の槍を生成する。
 槍の鋭い穂先がソーンの頬を浅く裂いて虚空へ伸びる。
 彼はそれを目線で確認した後――両手をゆっくりと挙げた。
 軽薄な笑みを浮かべて喋り出す。
「おいおい、マジになるなよ……。冗談に決まってるだろうが」
「冗談ですって?」
 僕は眉根を寄せながら彼を睨みつけた。さすがにそれで警戒を解くほどお人好しではないので、土魔術の起動プロセスは展開したままだ。
「ああ、俺流の挨拶さ」
「これが挨拶? 一つ間違えれば僕は死んでいましたが」
 心臓がドクドク言っているのが聞こえる。
 あの赤子の魔獣と戦って以来の、死を賭けた戦いだったと僕の全身が叫んでいる。
「はっはっ! そんなわけねえよ。なぁ、辺境伯様よぉ、おめえも見てただろう? 俺は本気じゃなかった。本気だったら小人族の貧弱な魔術師なんぞ、一瞬だ。そうだろ?」
「ん、あ、おぉ、あ……」
 アドリアンはいまだに事態が飲み込めていないのか意味不明な音の羅列しか口に出せないでいる。
 ソーンは両手を広げた。
「ほら! 辺境伯様もそう言ってるじゃねえか」
「――――――――」
 僕は構えを解かずに彼を注視する。
 この男の殺意は依然消えてはいない。今も隙を見つければ僕を殺す気だ。
「なあ、同僚になるんだ。宜しく頼むぜぇ。呼び名はどうすりゃいい? アール、って呼んでいいか。アール、そんな怖い目をするなよ。おめえだってへんてこな仮面被ってこっちを威圧してきてたんだ、お互い様だろう? 仲良くしようぜ? な? いがみあいは良くない。皆笑顔、皆ハッピーだ。さっきのも、ちょっとおめえを笑わせてやろうって悪戯にすぎねえ。なぁ、そうだろ? 怒るなよ。なぁ。……へへっ。――――それはそうと、おめえの足元に転がってる俺のショーテル、返してくんねえか? 弾き飛ばしたのはおめえだろ?」
 投げてきたのはお前だろ、と返せばまた殺し合いに発展してしまうかもしれない。
 僕は彼に注意を向けたまま、ショーテルを摘み上げると足元に放って寄越した。
 ソーンは呆れたような声を出した。
「おい! 修理屋が道具を粗末に扱うなよ! 拾って、俺に手渡してくれよぉ!」
「自分で拾えばいいでしょう。その鈍重な鎧を着ていても、しゃがむことくらいはできるのでは?」
 僕が冷たくそう返すと、ソーンは白けたように殺気を霧散させた。彼は土の槍を避けて屈みこみ、ショーテルを拾い上げる。
「ちっ、ムカつく野郎だぜ。――おい辺境伯様、とっとと屋敷に案内してくれよ。それとも、遠路はるばる来た俺を追い返すつもりか?」
 威圧的な物言いに、アドリアンは体を縮こまらせる。
「い、いや……、に、任務を果たしてくれるなら、歓迎する……」
「んじゃ、契約成立だな、早く行こうぜ」
 ソーンはアドリアンの脇をすり抜けて商業区の街路を北に向かって歩いていく。左右の奇異の視線に対して「おら、見てんじゃねえ!」と声を荒げている。アドリアンとグレイスはそのあとに慌てて従った。
 なんかすごいDQNなんだけど、大丈夫なのか、これ――僕は三人のあとを無言で着いていきながらそう思う。
 いきなり斬りかかってきて冗談で済ませるなんて……。
 おかしいだろう。
 しかしアドリアンは本当に冗談だと受け取っているようだ。まだ若干怯えはあるが、一応歓迎モードで応対している。
 僕は左右から痛いほど視線を感じていた。
 僕たち四人は商業区で異様に目立っていた。
 珍妙な鎧を着たソーン。それに媚びへつらうように追随するアドリアンとグレイス。そして見た目は小人族の魔術師である僕が続く、と。
 ソーンは大きな声で自分の武勇伝をアドリアンに語り聞かせている。アドリアンとグレイスはそれに「はあ」とか「それはすごい」とか相槌を打ちながらご機嫌を取っている。
 思ったんだけど、こいつを雇った金で衛兵二人を呼び戻した方が良かったんじゃなかろうか……。言うて、まだ時間はあるし、少なくとも人間性の面を鑑みるならそっちの方が安定だったような気がする。
 僕の前ではアドリアンがおずおずとソーンに話しかけている。
「ソーン殿。分かっているとは思うが、今月の中旬にある有力者会議の時、マーガレットに不埒者の手が伸びぬようくれぐれも厳重な警護をお願いしますぞ」
「ああ、分かってる、分かってる。テキトーに見張ってりゃいいんだろ。俺に任せとけって」
「は、はあ……」
 アドリアンの声が不安に翳る。どうやら彼も人選ミスだったのではないかと後悔し始めているようだ。
 この分じゃ、ソーンは会議が終わると同時に解雇だな。
 三月までに衛兵二人が帰ってこられるよう、金を稼いでおくか。
 石鹸の製造法を売れば本館くらいは取り戻せるだろうから、住むところは問題になるまい。
「ところで酒はあるのか?」
 ソーンがアドリアンに尋ねる。アドリアンは頷いた。
「ビールならあるが」
「蒸留酒でないと俺は飲まねえぞ!」
「そのようなものはない」
 アドリアンが眉を下げる。極貧のモーリス家には、酒精の強い良質な酒を買う余裕がないのだ。
「ああ? 村の酒場にはあるだろうがよ。それくらい振る舞えよ! 俺は『茨の騎士』だぞ!?」
 アドリアンはグレイスを見た。
「何とか手に入れてきてくれぬか?」
 グレイスが慌てる。
「え、でも、交換できるものがありません」
「ツケということで、主人に頼み込んでくれ」
「でも……」
「頼む」
「は、はい……。分かりました」
 グレイスは仕方なく頷くと僕の横をすり抜けて商業区の酒場の方へ戻っていく。僕は大声で話すソーンとアドリアンをちらりと見やると、グレイスに追いすがった。
「お母様」
 僕が声をかけると、グレイスは途方に暮れた顔で振り返る。「お母様、お酒は僕が何とかします。お母様はお父様の元にお戻りください」
「ほ、本当? で、でも、アルフォンスが頭を下げることはないわ。私が任されたのだから、私が……」
「度数の低い安酒ならともかく、蒸留酒をツケで恵んでもらえるわけないでしょう。路銀なら僕が多少持っています。あの男が飲む分くらいは出せます」
 僕はそう言ってローブの下から銀の入った袋を取り出して見せる。グレイスは驚いたように目を見開いたあと、眉を下げた。
「でも、それは貴方のお金でしょう。お母さんのためじゃなくて、自分のために使ってちょうだい」
「ええ、だから自分の母に孝行したいから使うんです。――いいからお戻りください」
 グレイスはほろりと泣き顔になった。
「ありがとう、アルフォンス」
 足早にアドリアンを追いかける彼女を見送り、僕はため息を漏らす。
 先行き不安だ……。
 あんなのとあと二週間以上も関わり合いにならないといけないのか。
 酒をねだるくらいならまだいいが、あの血の気の多さはやはり問題だ。今のところ殺意を向けているのは僕に対してだけだけど……、それがモーリス家の人たちに向けばどうなるか分からない。アドリアンはそこら辺をきちんと理解しているのだろうか。
 さっきの斬りかかってきた行為は冗談と言っていたが――彼の逸話と僕の実力を鑑みるに本気でなかったのは本当なのだろうけど――冗談でやって良いラインと悪いラインがある。僕は実際に剣を受けたから分かるけど、あれは明らかにNGラインだ。
 僕は元来た道を一人で引き返すと、商業区で一番大きい酒屋に入った。
 中に入ると同時にむっとする酒精が僕に押し寄せる。それと、賭博で遊ぶ男たちの下品な笑い声も。
 僕は、収穫を前にして上機嫌の男どもの合間をすり抜けてカウンターに歩み寄った。カウンターには酒場の主人と――太った荒々しい名主のダイモンの姿があった。
 ダイモンは近寄ってくる僕に気付くと気の良い笑みを浮かべた。
「おう、アールじゃねえか! ずっと森に引き籠っていると思ってたが、珍しいな」
「ダイモンさん、ご無沙汰しています。その節はお世話になりました」
 僕が丁寧に頭を下げると、彼は豪快に笑った。
「魔法鍛冶を悪用する連中を取り締まっただけだ。俺の管轄でもあったからな。当然だ」
 そういう『当然のこと』をきちんとこなせるってとても大切な事だと思う。
「いえ、おかげで工房の裏がゴミ置き場にならずに済んでいます。このお礼はいずれ」
「おっと。こりゃあ、何が貰えるか楽しみだなァ! はっはっはっ!」
 僕は笑みを返すと、酒場の主人に向き直った。
「親父さん、これで、一番度数の高い蒸留酒を三瓶下さい」
 言って懐から銀の詰まった袋を取り出しカウンターにでんと置く。主人は袋の中身を検めたのち、「かしこまりました」と一礼すると奥の貯蔵庫に引っ込んでいった。
 ダイモンが赤い顔をにやにやさせる。
「なんだぁ? 随分羽振りがいいみたいじゃねえか。それとも何かの祝い事かよ? 宅飲みするなら俺の家に来いよ!」
 前にも増して上機嫌だな。
 そうか、そう言えば春に植えた麦が今年は大豊作だって話だった。刈入れが終わるまで油断はできないが、ダイモンは既に戦勝気分なのだろう。
 僕は肩をすくめた。
「どちらかと言うと祝い事ですかね……。モーリス家に新たな用心棒が来たんです」
「あぁー……。そういやそうらしいな。ギルド経由で情報が入ってた。今日だったか」
 ダイモンはこくこくと頷いて酒杯を煽る。
「ええ、つい先ほど到着されました」
「あの有名な『茨の騎士』だろ? アールブ連中が騒いでいたな。グラヴァルウィは最近心労でゲッソリだ」
 僕は息を吐いた。
「先ほどそのアールブたちが暴動を起こしかけていました」
「おいおいマジかよ。大丈夫だったのか?」
 ダイモンがゴブレットを置いて真面目な目で僕を見る。何かあったのなら、すぐにでも動こうという気構えだ。昼間から酔っているけど、ちゃんと理性は働いているらしい。
「グラヴァルウィさんが場を治めてくれたので、何とか事なきを得ました。でも――一歩間違えれば大事でした。アドリアン様が暴徒に弓で狙われまして。ぎりぎり盾が間に合ったので良かったですが」
「はっ、馬鹿な事をしたもんだ。そいつは石打ちだな」
「らしいですね。――でも挑発的な言葉を言ったのはアドリアン様なんです。アールブだから長い寿命があるだろうに、かわいそうなことになってしまいました。――って、せっかく楽しくお酒を飲んでいらっしゃるのに、つまらない話をしてしまいましたね」
「いんや、俺は構わねえよ」
 奥の貯蔵庫から酒場の主人が出てくる。彼の手には三つのお洒落な酒瓶が握られていた。
「単式蒸留器のもので、モルトウィスキーになります。モーリス辺境伯領でとれた大麦を使用しております」
「おぉー、一瓶で酔える奴じゃねえか!」
 ダイモンが目を輝かせる。主人が礼儀正しく僕を見つめる。
「これでよろしかったでしょうか?」
「十分です。ありがとうございます」
 僕はそう言うと酒瓶を受け取った。結構重いな……。鍛えているので別に苦痛ではないけれども。
 ダイモンに向き直る。
「急ぎモーリス邸へ戻りますので、僕はこれで」
「おう! 収穫祭の時にでも一緒に飲もうぜ!」
「はは、酒には弱いんですけどね。では」
 ていうか、僕四歳なんですけどね……。でもこの世界じゃ、疫病対策もあって、子供でもビールやエールを飲むことがある。僕が飲んでも法律に抵触するということはないだろう。
 酒場をあとにして、急いで別館へ。
 チーノが火を起こし始めた時間からして、そろそろ料理が出来上がる頃だ。それに間に合うようにしなければ。

  ×                ×                 ×

 歓迎会の始めに、ソーンはマーガレットさんに紹介されたが、マーガレットさんはソーンの見た目に良い印象を抱かなかったらしく、貴族らしいつんとすました態度を取っていた。彼はそれが気に入らないらしく、何度か大きな舌打ちをしていた。
 いつソーンがマーガレットさんに殴り掛かるか冷や冷やしていたが、さすがに辺境伯の正妻を殴ってはいけないという認識はあるらしい。彼はこめかみをぴくぴくさせながらも耐えていた。
 最後の方はソーンもマーガレットさんも無視のし合い。アドリアンが何とか二人の仲を取り持とうと四苦八苦していたが、すべて失敗に終わっていた。宴が終わった時の雰囲気は間違いなく最低最悪だった。
 アドリアンはソーンにジェームズの剣術の家庭教師もして欲しいと頼んでいたが、彼はやる気が無いらしくそれを断った。「金が貰えるならやってやる」とは彼の言葉だが、アドリアンの財布は既にすっからかんである。追加で料金を支払えるはずもない。
 宴の後、ソーンは昔の僕の部屋を与えられ、そこへ住み着いた。
 次の日から僕はアドリアンに頼まれた通り、頻繁に館に戻ってきては彼の監視を行った。
 彼は、昼間は村の酒場で賭博に興じ、夜は日が暮れる前に眠ってしまうというぐうたらな一日を過ごしていた。
 それでも目立った問題は起こしていないようだったから、僕は一週間ほどで彼に対する監視の目を緩めた。道具修理の仕事があるし、石鹸製作の方法を詰めていかなければならない。いつまでも彼に構っているわけにはいかないのである。
 だが――それが良くなかったらしい。
 七月中旬、村の有力者会議が間近に迫ったある日、ついに問題が起きた。
 その日、僕は石鹸の匂い付けのためにカモミールやらジャスミンやらのハーブを手に入れるために商業区に出向いていた。
 その時、前にウィスキーを購入した酒場にたくさんの人だかりができているのを見つけたのである。
 何事かと思って見に行ってみると、酒場の中から最近よく聞く怒声――ソーンの声が聞こえてきた。
 僕が血相を変えて店に飛び込むと、中は机がひっくり返され、ぐしゃぐしゃになっていた。
 中央にはショーテルから血を滴らせ、粗暴な表情を浮かべているソーンの姿が。その向かいには二人の男が倒れていた。一人は右肘から無く、もう一人は左の太腿を派手に斬られていた。
 酒場の主人が必死の形相で血止めを行っている。
「邪魔すんな、クソ親父!」
 ソーンは叫んで酒場の主人の背中にショーテルを振り上げる。周囲から悲鳴が上がった。
「止めろ!」
 僕は叫んで風魔術でソーンの体に空気砲を放つ。彼は自慢の鎧を着ているので数歩後ろによろめく程度だ。でもそれで十分。僕は主人とソーンの間に割り込んだ。
「早く二人を外に連れ出して。処置の続きをお願いします」
「は、はい」
 僕の言葉に主人が頷き、近くにいたエルフの男とともに怪我人二人を外に引っ張っていく。
 ソーンは、ぎらついた視線を僕に寄越した。
「アール! おめえ、どういうつもりだ!?」
「それはこちらの台詞です! 酒場で抜刀して、二人も斬りつけて。あまつさえ助けに入ろうとした主人の背中に武器を振り上げて。気でも狂いましたか!?」
「あいつらが悪いんだ!」
 ソーンは顔を真っ赤にして叫んだ。「あいつらがイカサマしやがったから!」
「仮にそうだったとしても、これは傷害罪です!」
「そんなおかしな話はあるか! あいつらは俺の銀を盗った! カードで全然勝てねえのは奴らがイカサマをしたからだ! イカサマをした奴は全員殺す! 俺を馬鹿にしやがった奴は全員ぶっ殺す!」
「ソーンさん、落ち着いて下さい」
 僕はできるだけ冷静に言葉を紡ぐ。「落ち着いて、剣を納めてください」
「うるせえ!」
 ソーンが僕に飛びかかってくる。再び周囲から悲鳴。中には喧嘩に喜ぶ野次馬の声も混ざっている。僕は空気砲でもう一度ソーンを後ろによろめかせた。
 すると彼は荒い息を繰り返しながら、口の端をつり上げる。
「そういや、まだおめえにお礼をしてなかったなあ」
「お礼?」
「とぼけんな! 最初に会った日、俺を泥沼にはめただろうが!」
「あれは本気の喧嘩ではなかったのでしょう?」
 僕は言いながら、頬に冷や汗が伝うのを感じた。
 この目の前の男は『傭兵王』と引き分け、エルフの戦士二百人を皆殺しにしたと言う化け物だ。まともにぶつかり合ったら勝ち目はない。何とか矛を納めてもらう方向に誘導しないとまずい。
 ソーンは息を落ち着かせながら低く笑った。
「そうだ。本気じゃなかった。本気でやればつええのは俺の方だからな。だが、おめえは俺に恥をかかせた! ぶっ殺してやる……!」
「待ってください! それなら負けを認めます! 謝ります! ですからどうかこの場は抑えてください!」
「はっ、必死だな! そうだろうよ、この木の床じゃ土魔術は使えねえし、俺様は鎧を着ているから風魔術も通用しない! おめえは、何もできずに俺に殺される! それをよく分かってんだろう!? だが、勝負は勝負だ。――おら、おめえら、今からこの『茨の騎士』ソーン様が、A級魔術師を狩り殺す! よく見とけ!」
 そう言うと、彼は奇声を上げて僕に突進してきた。
 駄目だ、やるしかない。
 そう覚悟した僕は熱魔術を起動させる。
 周囲の空気が急激に低温化し、空気結晶の巨大な盾がソーンの眼前に出現する。
「どわっ!?」
 氷の盾は分厚い。ソーンは盾に跳ね返され、よろめいた。
「――――っ。――――っ」
 大気の分子に呼びかける。
 僕はスカアハの足運びを真似た不規則なステップでソーンの後ろに回り込む。彼が再び僕の姿を捉える前に、酒場の天井に空気結晶の槍を二十三本展開。
 森の魔獣との死闘を経て、僕の魔力総量はあの時の数倍にまで膨れ上がっている。この程度は何度でも展開できる。
 空の星のように煌めく無数の空気結晶に、群衆の間から感嘆のため息が漏れた。
 ソーンが僕の方を振り返る。それから空中で狙いをつけ終わっている槍を仰ぎ見て、驚愕の表情を浮かべた。
「待て! なんだ、それはッ!? 卑怯だぞ!!」
 これは僕の魔術であって、卑怯ではない!
 槍を射出。
 うなりを上げて青い槍がソーンの頭上に降り注ぐ。
「チィッ!」
 ソーンはショーテルを振るって槍を叩き落としていく。しかし槍には際限がない。僕は射出しながらも次々に槍を生成していく。それをソーンの背中から、足元から、正面から、時間差でぶつけていく。
 彼はそれなりにこなれた動きで槍を叩き落としていくけど、スカアハほどのスピードもなければ、技もない。衛兵ほどのパワーもない。
 鎧の関節部を狙った僕の槍をいなしきれず、どんどん血まみれになっていく。
 四十三本弾いたところで、彼は斜め上から降ってきた空気結晶の塊に弾き飛ばされ、背後の壁に激突した。すぐに受け身をとるけど、もう遅い。僕は止めの槍を更に三十展開し終わっていた。
 ソーンはそれを見た瞬間、自分からショーテルを投げ打った。
 両手を上に挙げてそろそろと立ち上がる。
「それは降参という意味ですか?」
 僕が冷ややかに尋ねると、彼はお得意の軽薄な笑みを浮かべた。
「そんな卑怯な魔術を使われたら、誰だって勝てねえ。なあ、そうだろ? 二十も三十も槍が降ってくるんだ。俺は一生懸命それを撃ち落とし、おめえは作業するみてえに槍を撃ち出すだけ。おかしいだろうがよぉ。なあ、男だったら剣で勝負しろよ」
「僕は魔術師。魔術が僕の剣であり、武器です」
「それが卑怯だって言ってんだろうが!」
 ソーンは口角泡を飛ばした。「正々堂々と戦え!」
 僕は目を細める。
「戦いは終わりました。この件はアドリアン様に報告します。貴方の処分については追って沙汰があります。鎧と武器を置いてこの酒場から出ていきなさい!」
「誰が従うか! 鎧脱いだら一斉に槍を撃ち出すつもりだろ!」
「そんな卑怯な真似はしません」
「どうだか! 俺に鎧を脱いでほしかったら、その槍を今すぐ消せ!」
「消したら脱いでくれるのですね?」
「ああ、脱いでやらあ!」
「分かりました」
 僕は頷いて空気結晶の槍を霧散させる。
 途端、ソーンは残忍な笑みを浮かべた。
「馬鹿め! 騙されたな!」
 予備のショーテルを抜きながら僕に突進してくる。僕はため息を吐きながら右手を前にかざした。

「うわっちっ! あつっ! 熱い!? ぎゃ、ぎゃあああ!!! あつ、あつい、あづいいいいい!!!!!!」

 突進の途中でソーンがよろめき床に転がる。そしてジュウジュウと彼の肌を焼く棘の鎧を無我夢中で脱ぎ捨てた。
 熱魔術による、熱の転嫁。
 冷却時に大気から奪った熱を彼の鎧に移したのだ。
 さっき熱魔術を展開していて分かったのだけど、ソーンは魔術をレジストする力がとても弱い。ほとんど一般人と変わらない程度だ。加えて、『そこそこ速い』程度のスピードしかない。
 要するに魔術の格好の的。
 彼自身の強さに関係なく、熱魔術を操る僕との相性は最悪である。
「くそっ、くそっ……! ちくしょうっ……!」
 彼は半ベソをかきながら下着姿になる。僕は容赦なく彼の眼前に空気結晶の槍を突きたてた。
「出ていきなさい」
「――――――――いつか、おめえを殺してやる」
 ソーンはぞっとする声でそう呟くと野次馬たちに体当たりするように酒場から出ていく。群衆は縦に割れ、荒々しく出ていくソーンを見送る。やがて喧騒が収まり、替わって盛大な拍手が鳴り響き始めた。
 僕はほっと息を吐いた。
 勝てた。
 いや、どうにかなった。
 相性の問題もあって何とか退けることができた……。
 彼がもう少し速ければどうなっていたか分からない。近接での殴り合いでは、子供の僕では絶対に勝てないから。
 よかった……。
 って、安心している場合じゃない!
「すみません! 通してください!」
 僕は慌てて野次馬の中に飛び込むと、人をかき分けて外へと這い出る。
 店の外には先ほど転がっていた二人が応急処置を施されていた。とりあえず血止めは終わったらしい。回復薬――どろりとした黄色い液体を、二人とも傷口に塗られていた。腕を切られていた方は強力な薬を使われたのか、既に肉が盛り上がり始めている。
 僕は二人の前に飛び出すと頭を下げた。
「ウチの者が大変なことをしました! 本当に申し訳ありません! あの、お二人の容態は!?」
 すると処置をしていた酒場の主人が答える。
「二人とも大事ないです。中級回復薬も使いましたので部位欠損も治りますよ」
「良かった……」
 僕が今度こそ安堵のため息を吐いた時、奥の群集が割れた。
 向こうから肩を怒らせたダイモンが大股で現れる。
 彼は大声で叫んだ。
「斬り合いの喧嘩が起きたって聞いてやって来た! 今どうなってる!?」
「ダイモンさん!」
「アールか」
 ダイモンは僕を見たあと、石畳に転がっている二人の男に歩み寄った。
「おう、お前らか。ひでえ怪我じゃねえか。誰にやられた?」
「モーリス辺境伯の、『茨の騎士』です……」
 太腿を斬られた方が痛みと屈辱に耐えながらそう呻く。ダイモンは厳しい表情で僕を見た。
「アール。どういうことか説明しろ」
 彼の剣幕に、僕は内心絶望のため息を吐いた。
 斬られた二人は――ダイモンの部下だったのだ。

  ×              ×                ×

 状況を説明し終わっても、ダイモンは依然として難しい顔を崩さなかった。
 僕はまず酒場の主人に向き直る。
「あの……被害額はどのくらいでしょうか?」
「テーブル三つに皿六枚。他のお客様に酷い迷惑をお掛けした――くらいでしょうか」
「皿はあとで直します。テーブルと迷惑料は――、これで足りませんか?」
 僕はポケットから布袋を取り出すと、そこにポーチの中から取り出した小瓶を十個入れて店主に突き出す。主人は袋を受け取ると、中身を検めた。
「これは……、何やら良い香りがしますな」
「石鹸です」
 僕が答えると、酒場の主人は目を剥いた。
「せ――石鹸!?」
「石鹸だと?」
 ダイモンも眉根を寄せて袋を覗き込んだ。主人がまごつく手で瓶を取り出し、蓋を取って中身を触る。数秒してから、彼は呆けたように呟いた。
「……石鹸だ。しかも匂いつきの」
 僕は恐る恐る尋ねる。
「それで何とか補填できますかね?」
「え、ええ。十分に足ります。ありがとうございます」
「良かった。銀ではとても払いきれませんから。――あの、ダイモンさん、貴方の方も、石鹸での補填という形にしていただけないでしょうか? 工房に石鹸の瓶が五十瓶ほどありますので、それを全てお譲りします。もし駄目なら、一週間ほどお時間頂戴して何とか銀に替えてきます」
 ダイモンは険しい顔のまま目を閉じ――やがてゆっくりと首を横に振った。
「いや、それだけじゃ駄目だ」
「た、足りませんか? やっぱり」
「いや、回復薬の金なら十分足りるさ。だが、補填してもらわにゃならんのはそれだけじゃない」
「と、言いますと?」
 僕が恐る恐る尋ねると、ダイモンは神妙な顔で僕を見てきた。
「あいつらは俺が雇った専属冒険者だ。いずれもC級上位の、な」
「C級上位……」
 冒険者のクラスは六つある。
 一番下がE級。
 一番上がS級。
 B級あれば一流。普通の人は一生かかってD級上位止まり。C級上位と言うことは、なかなかの手練れということになる。
 特にこの辺の冒険者はE級やD級ばかりで、C級レベルとなると村の外れの桃トレントの迷宮を攻略しにぽつぽつ現れる程度。まず専属契約なんて結べない。
 ダイモンはきっと高い金を積んで二人をこの土地に縛り付けていたのだろう。
 それが、一時的とは言え、二人とも仕事ができなくなってしまった。
「今は隊商が来る時期だろ? この時期になると盗賊が出るんだよ。しかも最近は強力な盗賊団『犬の足』が街道に出没していてな。隊商はこっちへ来たがらねえ。しかし、キャラバンが来なければ困ることが続出する。そこで商工会連合と有力な名主で、主要な隊商を護衛しようという話になったんだ」
 僕は青い顔になった。
「まさか――その隊商の護衛に、怪我をされたお二人が?」
 ダイモンは頷く。
「ああ。俺の担当は、この村から川の横の村経由に隣の地域――ブライト辺境伯領の入り口までの護衛だ。ちなみに四日後に出発だ。腕が無い者と足を満足に動かせない者に務まる仕事じゃねえ。しかし、俺の手持ちでこいつらの代わりになる奴がいねえ。まさかいい加減に選んで護衛させるわけにもいくまい」
「す、すみません。そんな重要なお仕事の前に」
「あんたに謝られたってしょうがない。――悪いが、きっちり落とし前はつけさせてもらう。アール、あんたのボスのところに案内しろ」
「ボス――アドリアン様ですか!?」
「それ以外に誰がいるって言うんだ。ほら、行くぞ」
 ダイモンは言うが速いが歩き出した。再び群衆が縦に割れる。僕は慌てて彼に追いすがった。
「こ、困ります。直談判なんて!」
「隊商の護衛ができなくて困るようになっちまったのはどこのもんのせいだ?」
「それは――――」
 僕は口ごもった。ダイモンは淡々と追い打ちをかけてくる。
「銀で補填されるだけじゃ取り返しのつかないことがある。俺が恥をかくだけならいいが、これで下手な護衛をつけて隊商が全滅してみろ。来年からこの辺境伯領はルートから外されちまうぞ。そうなったら香辛料も、果物も、いくつかの布製品や鉄製品も皆手に入らなくなっちまう」
「し、しかし、それをアドリアン様に言ったところでどうするのですか?」
「辺境伯命令で代わりの人員を無理やり補填してもらう。桃トレントの迷宮を攻略しに来たやつらを強引に導入するなり、やりようはある」
 それってどれだけ金がかかるんだよ……。
 とぼやいても、ダイモンからしたら「知ったことではない」の一言なのだろうな。
 ソーンが狼藉を働いた時点でアドリアンに逃げ場はないのである。
 僕のせいだ……。
 ちゃんとソーンを監視していなかったから。
 しかし悔やんだところで後の祭り。
 僕はダイモンの後ろに無言で従うほかなかった。
 村を抜け、丘を上がり、本館への小道から外れて別館へ。
 庭で洗濯物を干していたチーノが僕を見つけて歩み寄ってきたが――直後、ダイモンに気が付いて体を硬直させた。
「チーノさん、すぐにお茶の用意を。食堂を片付けてください」
「いや、いらん。執務室に案内しろ」
「だ、ダイモン様――。お、お待ちください!」
 チーノが慌ててダイモンの前に回り込む。「アドリアン様は現在お仕事中で――」
「すまんが、それは聞けない。こっちは大切な専属冒険者が二人やられているんだ。あんたらの雇った『茨の騎士』にな」
「えっ――――」
 チーノが血相を変える。僕は眉を下げた。
「詳細はあとで話します。――ダイモンさん、執務室に案内します。こちらへ」
 僕は別館の扉を開けてダイモンを誘導する。ダイモンは大股でエントランスを抜けると、そのまま奥の執務室の扉を勢いよく開けた。
「おう、辺境伯様!」
「だ――、ダイモン!?」
 机に向かって書き物をしていたアドリアンが驚いて立ち上がる。グレイスは手に持っていた古い裁判資料をドサドサと派手に取り落した。
「おい、辺境伯様よぉ! どうしてくれるんだ!? うちの若いもんが使い物にならなくなっちまったぞ!」
「えっ……? は……? ど、どういうことだ、アル?」
 アドリアンが僕を見る。僕はため息を吐いた。
「ソーンさんが暴力事件を起こしました。ダイモンさんの部下二人が重傷です」
「なっ……!? す、すぐにソーン殿を呼んで事実関係を――」
「お役所仕事は止めろ!」
 ダイモンは青筋を立てた。「どうしてくれるんだ! 商工会連中と取り決めた隊商の護衛任務が間近に迫ってるんだぞ! 責任取ってくれよ!」
「せ、責任!? しかし、責任と言われても、どうすれば良いか――」
 アドリアンが青い顔になる。ダイモンは口調を少し落ち着けて続ける。
「何も無茶な事は言わねえ。オーダーで桃の迷宮に来ているC級冒険者を強制招集しろ!」
「十分無茶だ!」
 アドリアンは絶望に満ちた声を出した。グレイスを見る。「予算はあるか?」
 グレイスは眉根を寄せた。
「分かりません。だけど、頑張ってお願いすれば、いけるかも――」
「いけるわけがないでしょう」
 僕はグレイスの言葉を遮る。「彼らは迷宮攻略の準備をしてこの辺境の地へ来ているのです。それをキャンセルさせるのですから、それ相応の金を払わねばいけません。そうしないと、冒険者ギルドから凄まじい額の違約金を請求されますよ」
 アドリアンは僕を見た。
「では――、どうするのだ?」
 僕は少し指を顎に当てたあと、顔を上げた。
「衛兵二人を急ぎ呼び戻しましょう。――ダイモンさん、あの二人なら役者不足ということはありませんよね」
 ダイモンは一瞬黙った後、無表情で一つ頷いた。
「まあ、確かにあいつらなら十分だろうな」
 僕はアドリアンに向き直る。
「アドリアン様、すぐに書状をしたためてください。早馬の手配は僕がします」
「いや、ちょっと待った! 待ってくれ!」
 ダイモンが大きな声を出した。「出発まで四日だぞ! 間に合わねえだろうがよ!」
「それは――、そうかもしれません。でも危険なのは川の横の村周辺の区域を抜けた先でしょう? それまでは普通に人が往来する街道。盗賊も出ません。急げば安全地帯のうちに合流できるかと。護衛に必要な質を考えますに、こちらが用意できるカードはあの二人くらいしかなく――」
 ダイモンは鼻を鳴らした。
「冗談言うなよ。――あんたがいるだろ、アール」
 僕は目を見開いた。
「――――――――は?」
「いや、だから、あんたが代わりに護衛してくれたらいいと言っているんだ」
 ダイモンは場違いにも嬉しそうににやにやと笑っている。今度はアドリアンが声を張り上げる番だった。
「ちょ――、ちょっと待ってくれ! アールは私の専属魔術師だ! いくらなんでも貴方にやるわけにはいかない! ――C級冒険者だろう? もしかしたら、旅行か何かでここへ来ている者がいるかもしれない! 今からギルドを当たってみるから、それで勘弁してくれ!」
「旅行気分で来ている奴を護衛に雇えるか!」
「で、では、D級でも腕が良くて暇な者を探そう。隊商の護衛が務まれば良いのだろう?」
 ダイモンはため息を吐いた。
「なぁ、辺境伯様よぉ……。さっきまでの話を聞いていたか? 護衛の質が問題なんだよ。安易に解決できないからこうして俺が出張っているんだ」
「む……。う……」
 アドリアンが言葉に詰まる。僕はダイモンに語りかけた。
「あの――、僕は実戦経験が乏しく、護衛任務もしたこともありません。皆の足を引っ張ることになるかと」
「あんたの腕でそれはねえよ。それにきちんと周りに合わせられる協調性も持っている。そんじょそこらの奴らに任せるより遥かにいい」
「そ、そうだ! ソーン殿はどうだ!? 彼が怪我をさせたのだから、彼に責任を取ってもらうべきだろう!」
 アドリアンが必死の形相でそう言う。
 良い案かもしれないけど、それじゃマーガレットさんの護衛任務はどうなるのだろうか? 高い金を払ってソーンを呼んだのは、隊商の護衛をさせるためじゃないのだ。
 ダイモンは首を振った。
「いくら腕が立っても、ウチのもんに手を出すような奴に任務は任せられねえ。――もう簡潔に言っちまうぜ? お前のところのアールを寄越しな」
「そ、それだけは勘弁してくれ!」
 アドリアンは半ベソをかいた。
「何も専属契約を切れと言っているわけじゃねえ。貸してくれと言っているんだ。あとで絶対に返すから」
 ダイモンがそう言うと、アドリアンは机に手をついたまま項垂れた。
 重苦しい沈黙が執務室に流れ、アドリアンが葛藤する荒い息の音だけが響く。
 やがて彼は顔を上げて、すがるような目つきでダイモンを見た。
「貸すだけだぞ。必ずあとで返してくれ。アールは私の大切な人間なのだ……」
「ああ、分かってる」
 ダイモンは、一転、嬉しそうな顔になる。
 僕は目の前で起こった出来事が信じられず、唖然としていた。
 なんか僕、物みたいに簡単にやり取りされちゃったんですけど……。
 マジかよ。
 本当に護衛するの?
 どうしてこうなった。
「ちょっと待ってください。僕の修理屋の仕事はどうなるのでしょう?」
「んなもん、帰ってくるまで休業しちまえばいい。偶には鍛冶屋をパンクさせてやれ」
 ダイモンがさらりと言う。
「アル、すまない……」
 アドリアンが暗い顔で唇を噛みしめた。
 そんな顔をされたら、魔術師『アール』としては何も言えない。僕は観念して項垂れた。
「分かりました。――ダイモンさん、微力ながら、隊商の護衛任務に当たらせていただきます。宜しくお願いいたします」
 ダイモンがにっと口の端を広げた。そして叫ぶ。
「おっしゃあ! やった! やったぜ! ようやく手に入った! 前からお前を使ってみたいと思ってたんだよ! こんな辺境の地じゃ魔術師なんてまず手に入らねえからな!」
「ダイモン! 私は貸すだけだと言ったはずだ」
 アドリアンが固い声ででそう言う。ダイモンは鷹揚に頷いた。
「ああ、分かってるって! 辺境伯様、ありがとよ! ――アール、いくつか話しておきたいことがあるから、村まで一緒に帰るぞ」
「あ、アルフォンス……」
 グレイスが真っ青な顔で僕を見る。だからその名前を人の前で使っちゃ駄目だって。
 僕は落ち着かせるように彼女を見つめ返した。
「グレイス奥様、こうなっては仕方がありません。有力者会議の折、僕は館の警護に参加できなくなりましたが――、ソーンさんとよく打ち合わせをしてマーガレット奥様をお守りしてください。宜しくお願いいたします」
 ソーンは強い。逸話通りの強さかは分からないが、それでも氷の槍を次々に叩き落としていた。あれは常人にできる動きではない。
 少々短慮なところはあるが、戦闘に関しては用心深く狡猾に立ち回る。きちんと護衛をさせさえすれば、素人の僕なんかよりは役に立つだろう。
 僕はダイモンに連れられてモーリス邸をあとにした。
 彼は丘を下るときも終始上機嫌だった。そんなに魔術師が欲しかったのだろうか。僕としては光栄な話だけど、ちょっと喜び過ぎじゃないか。
「ダイモンさん、水を差すようで悪いですが、お話って何ですか?」
「ん? ああ」
 ダイモンは僕の声に真面目な顔を作った。「ごほん。まず――、あー、試験をする」
 直接指名した相手に試験するの!? 僕の腕前を実は信用していなかったのか!?
「は、はあ……。どのような?」
「俺のところにいくつか崩れた畦道があるんだが、それの修補と、武具他金属器の修理でお前の魔術の腕を見せてほしい」
 なんだ。その程度で良いのか。少し身構えちゃったけど、それなら大丈夫そうだ。
 僕は一つ頷いた。
「分かりました。課題をクリアできるよう、全力を尽くします」
「よしっ……、よしっ……!」
「え?」
「な、何でもない! 行くぞ!」
「は、はあ……」
 ということで、ダイモンによって彼の土地に連れてこられた僕は、早速いくつかの畦道の修復を行った。淡々と無言詠唱で直していく。ダイモンは後ろで腕を組んで厳しい顔を作っていた。で、通りかかる小作農が目を丸くする度に、
「俺の魔術師だ!」
 と大声でのたまっていた。
 その言い方は大いに語弊があると思う。
 ぎりぎり嘘ではないので突っ込みは入れないけど。
 畦道の修補を二十か所ほど済ませた僕は、静かにダイモンに尋ねた。
「これでよろしいでしょうか?」
「ま……、まあまあだな! 悪くねえ! うん、悪くねえが、お前の力はまだ測れてねえ! もう少し見せてもらわねえと、こっちとしても判断できねえ!」
「はあ……」
「次は武器の修理を頼む!」
「分かりました」
 ダイモンに案内されて、村にある彼の自宅へ行く。
 彼の自宅は田舎の豪農って感じの家だった。とても敷地が広く、家の囲いの中にたくさんの家畜を飼っている。何人かの召使いも慌ただしく行き来していた。
 ダイモンはまだ結婚していないらしく、奥さんも子どももいない。だけど、人がたくさんいて寂しい感じが全然しなかった。召使いたちも忙しそうに行き来しているが、アドリアンのところにいたメイドのように鬱屈とした顔はしていない。皆どこか表情が明るい。この世界では珍しいことだった。他の名主の小作はだいたい死人みたいに暗い顔だから。それだけダイモンは良い名主ということなのだろう。
 僕は蔵の方へ通され、そこに置いてあった武具と金属器の修理を行った。これもかつてこなしていた量からすれば大した量ではない。瞬く間に全ての修繕が終了する。
「終わりました。審査をお願いします」
「おお!」
 ダイモンは感極まったように魔術錬成が終わった道具を手に取って眺める。それからはっと我に返って僕を見た。
「ま、まあまあだ……」
「えっと、試験は合格なのでしょうか?」
「合格だ。――アール、これはお前への報酬だ」
 ダイモンはそう言うと、先ほど僕が修理した古いナイフを掴んで僕に押し付ける。綺麗な緑色の柄に、簡素な茶色の鞘。これは直した中で一番の品だったはずだ。
「良いのですか?」
 僕が躊躇していると、ダイモンはにっと笑った。
「お前はそれだけの働きをした。堂々と受け取れ!」
「あ、ありがとう、ございます」
 僕はナイフを胸に抱きしめた。
 目上の人から何かを貰うというのは初めての経験だ。物は、自分で作るか、代価を支払って市場で手に入れるものだったから。
 僕は不思議な達成感に体を包まれた。
「本当はアールブ連中のところに行ってお前を自慢したいが――」
「それは止めていただけると助かります」
 エルフの人たちにはこの前嫌われたばかりだからな。
 ダイモンは頷いた。
「分かっている。――しかし、圧巻だった。まあまあと言ったが、実はあれは嘘だ。内心クソが漏れそうなほど興奮していた。これはマジで魔術師が欲しくなる。つーか、あんたさえよければ、ウチにずっといてほしい。畑を耕すほか細々とした雑務に手を貸してほしい。そんでゆくゆくは、あんたを使って召使いに魔術を覚えさせ、魔術集団を作りてえ」
「光栄な話ですが、僕はアドリアン様の魔術師ですので」
「だよなあ。くそ、今度王都に行く機会があったら魔術師漁りでもしてくるかぁ。あんたほどじゃなくても、B級かそこらの奴を手に入れたら随分楽になる」
「この辺には魔術師はほとんどいませんものね……」
「そうなんだよなぁ。まあ、辺境だし仕方ねえっちゃ仕方ねえ。――さて」
 ダイモンは蔵の床に胡坐をかいて座った。「お前も座れ」
「はい」
 僕も腰を下ろすと、ダイモンが膝を進めた。
「前置きが長くなったが、隊商の護衛の話だ」
 来たか。僕は表情を硬くした。
 ダイモンは続ける。
「契約通り、あんたには護衛の任務についてもらう。詳細は他の護衛のメンバーと詰めてほしい。ここでは基本的な情報を渡しておく。まず、メンバーは、C級二人の代わりのあんた、冒険者ギルドからの派遣が二人、商工会のガランティウスから三名の計六名だ。お前がチェンジで入ることは今日中に情報を回しておく。ガランティウスのくそジジイは、今回何やら護衛の腕に自信満々のようだが、油断はするな。下手したら全滅もありうると俺は見ている」
 全滅か……。
 僕は眉根を寄せた。
「『犬の足』という盗賊団ですか?」
 ダイモンは頷いた。
「ちょっと前までは大した規模の盗賊団じゃなかったんだが、どういうわけかここ最近急激に力を増してきていてな。周辺の盗賊団を吸収しながら、各地で悪さを続けている。――この前は、討伐作戦を断行した冒険者ギルドのD級上位二十名が返り討ちにあい、惨殺された」
 物凄く血の気の多い連中なのだな……。すごく怖いんですけど……。
 僕はおずおずと口を挟んだ。
「あの……、それ、護衛をしたくらいでどうにかなるとはとても思えないんですけど」
「どうにかするんだよ」
 ダイモンはすました顔で答える。「どうにかできなくても、しなくちゃならねえ」
「そんな……」
「現在、近隣の商工会連中と俺らで金を出し合い、C級以上の冒険者を集めて討伐隊を再度編成しているところだ。だが、こんな辺境だ。なかなか人は集まらねえ。討伐隊ができて『犬の足』が討伐されるまで、隊商は俺らの私兵で対処せにゃならん。本来なら、これもあんたのボスの仕事なんだぜ」
「ですよねー」
 衛兵解雇している場合じゃなかったよねー。
「この前、俺らの忠告を無視した隊商が、護衛もろとも消滅した。こいつを見てくれ……」
 ダイモンは懐から地図を取り出すと地べたに広げた。
 ここら一帯の野山と街道の様子が詳細に記されている。ダイモンは丘の下の村と書かれたところを指さす。
「隊商は、行き止まりであるこの村から南に下り、川の横の村まで引き返す。そこから本来のルートに戻って、東へ出立する。隣のブライト辺境伯領を目指してな。――その途中、『ワールウィンド峡谷』っていう細い谷があるんだが、この前はそこで襲われた可能性が高い。最後のフクロウ手紙には、『峡谷の左右から野犬の吠え声がする』と書いてあった。ブライト辺境伯側からの斥候の話によれば、峡谷を抜けた先の『死霊の森』の西の出口に、隊商の荷物の残骸が捨てられていたそうだ」
「『死霊の森』というところに盗賊団のアジトがあるのですか?」
「分からねえ。前までは襲われることなどなかった。最近になって新設された支部かもしれん」
「なるほど……」
 これはいよいよ危ない話になってきたぞ。受けてしまった以上はやるしかないんですけどね……。
 僕が暗い顔をしていると、ダイモンは安心させるように笑顔を浮かべた。
「『犬の足』の仕業じゃないかもしれねえし、通るたびに襲われるとも限らねえ。やられた奴は護衛の糧食代をケチった挙句、道案内もなしに強行軍した馬鹿野郎だ。あんたが護衛することになる隊商はそんなことはねえ。全滅するかもと言ったが、まあ、普通にしてりゃ大丈夫だ。俺としても、借りものであるあんたを死なせるわけにはいかないからな。仕事は選んでいるつもりだ」
「お話は分かりました。詳しい護衛方法については、出立前に他のメンバーと相談ということですね」
「ああ、そういうことだ。――時間取らせて悪かったな」
 ダイモンが地図を仕舞い、軽快に立ち上がる。僕も尻に付いた土を払って立ち上がった。
 それから僕は、ダイモンの家で遅い昼食をごちそうになり、帰路についた。
 護衛任務か……。
 いずれグレイスを連れて街道を旅することになるだろうから、今のうちに色々と慣れておいた方がいい。そう考えると、今回のことは良い機会なのかもしれない。
 でも、危険なのは変わらない。
 ダイモンは普通にしていれば大丈夫と言っているが、道中がどうなるかなんて分かったものではないのだ。
 気を引き締めてかからないと、代償は命で支払わなければならなくなるだろう。
 僕は翌日村の市場で丈夫な獣の革の服を買い集めた。
 上はキラー・ベアの毛皮の服、下はキラー・ラビットのズボン。
 当日はこの上からローブを羽織る。
 市場には子供用の物が少なく集めるのに苦労したが、それなりの装備にはなったはずだ。
 森で調味料代わりの木の実を採取し、ポーチに入れて準備完了。身軽なものである。

 四日はあっという間に過ぎていった。



第三章  出立



 隊商の護衛任務の初日。
 出立は昼だという話だが、僕は隊商の長と他の護衛のメンバーとのブリーフィングのため、朝早くに森の工房を出た。
 村の南の入り口に着くと、既に僕以外のメンバーが揃っていた。
 僕は、手前の、つば広帽子をかぶりカラフルな貴族服を着た壮年の男性に近寄っていく。彼が隊商の長だろう。
「おはようございます。遅くなって申し訳ありません。ダイモン・ダグラスから護衛の任を仰せつかりました、魔術師のアールです」
 僕が仮面を取ってお辞儀をすると、カラフルな服の男性は気前よく笑った。
「おお、歓迎するよ、アール。いやいや、時間にはまだ早いくらいだ。もっとルーズな人が多いと思っていたのにね。――ささ、ブリーフィングを始めるので、こっちに来てくれたまえ」
 僕は頷いて輪に入る。右隣がカラフルな男だ。
 この場には僕を含めて全部で七人。
 僕の向かいには冒険者ギルドの腕章をつけた屈強な男二人。二人ともいかつい顔に黒い髪をしている。腕がむき出しの軽装だが、背負っている剣は滅茶苦茶でかい。身の丈二メートルはある。ジョブはどこからどう見ても剣士。
 その右には商工会の腕章をつけた男が二人。こっちは冒険者ギルドの連中と違ってなんかひょろひょろしている。二人ともやはり軽装で、腰には何本もの短剣を差している。ジョブはおそらくシーフだ。斥候が二人いても意味ないと思うが――、まあ、二人いて困るということはあるまい。
 最後に、僕の左隣には、これまた商工会の腕章をつけた女性が立っていた。他のメンバーとやや立っている位置が離れている。彼女は上から下まで純白のローブに身を包み、フードで頭の上から鼻の辺りまで隠していた。白のローブに対してインナーは黒い。両手首には金の腕輪が見え隠れしている。肌は白く、露出している唇は綺麗な赤だ。
 背の低い僕からは、彼女のフードの隙間から尖った長い耳と銀色のしなやかな髪が見えた。この女性はエルフ族のようだ。
 ジョブは――分からない。武器が見えないから僕と同じ魔術師だろうか。
「さて、改めて自己紹介と行こうか。私の名前はトゥグビル。隊商『トゥグビル』の長だ。このとおり変わった格好のおっさんだが、どうか仲良くしてやってくれ。よろしくっ! それで――、諸君には、私の大事な、大事な積み荷を守ってもらう。あちらに見えるのがそれだ」
 トゥグビルと名乗ったカラフルな男は広場の方を指さす。そこには大きな積み荷を乗せた馬車が五台止まっている。下人と思しき簡素な格好の男たちが、積み荷の紐や馬車の車輪の具合などのチェックをしているのが見えた。
「ルートに関しては、川の横の村まで戻って、そこから左に曲がって東に進む。『ワールウィンド峡谷』を越えて、『死霊の森』を抜け、モーリス辺境伯領の東の端の小さな村まで。だいたい七日の旅だ。任務が終わればその場で諸君に報酬を支払おう。その後は自由解散だ。食料は、簡単なものなら私の方で用意する。足りないような各自何とかしてくれ。なにぶん根っからの商人なので、隊列等に詳細な指示は出来ない。そこは熟練者である君たちにお任せしたい。いやー、役に立たない長で申し訳ない! ははは! 私からは以上だ」
 トゥグビル商人が後ろに下がる。
 見事な投げっぱなしに場の空気に戸惑いの色が混ざるが、すぐに冒険者ギルドから来たムキムキのお兄さんの一人が前に出る。歯磨き粉のCMに出てきそうなくらい歯が白い。彼はむさ苦しい筋肉とは正反対に爽やかな笑みを浮かべた。
「俺の名前はジュード! 冒険者ギルドのCランクの冒険者だ! パーティでの職は剣士。こっちは俺の相棒のトロンだ」
 爽やかな筋肉、ジュードがもう一人の冒険者ギルドの男を指す。
「うす。トロン、す」
 トロンという男は短くそう言った。仕草が緩慢でどこかぼんやりしている印象を受ける。だけど、ジュードと同じくらい筋骨隆々で強そうだ。
 ていうか、そろそろ名前覚えられないんだけど。
 まあ、別に全部覚えなくていいだろう。必要になったらその都度思い出していく方向で。
 自己紹介は聞くけど全部流していくというスタイルが脳には優しそう。メモ帳も持ってきていないし。
 ジュードという爽やかな筋肉が、ぼんやりした男トロンの肩を叩く。
「トロンもCランクなんだよな! だけど、上位だ。昇級試験を受けてすぐにBランクに上がる」
「うす」
 トロンが頷く。
 と、その右隣りのシーフの男がギリリと歯軋りをした。
 どうしたんだろう?
 僕が内心首を傾げていると、歯軋りした男を飛ばして、もう一人のシーフが名乗りを上げた。
「オレはアルセーヌ。見ての通りシーフです。現在はガランティウス翁と専属契約を結んでいますが、かつてはランクCの冒険者でした。宜しくお願いします。――ほら、お前の番だぞ」
 アルセーヌと名乗ったシーフが歯軋りの男を小突く。するとそいつは弾かれたように喋り出した。
「じ、自分は、ランクDの冒険者でしたっ。でも、ランクDでも結構上の方でしたし、パーティにいると役に立つってよく言われていましたっ! しょ、昇級試験は、何度か受けたけど、ちょっと体調が悪くて、あんまできなくて。で、でもっ、ランクが全てじゃないと思うんです! 自分は役に立ちますっ!」
 男はそれだけ一気に喋ってハアハアと荒い息を吐いた。
 冒険者ギルドの筋肉二人の顔に当惑の色が浮かぶ。トゥグビル商人も少し驚いたように彼を見ていた。
 もう一人の商工会のシーフ、アルセーヌが呆れたように息を吐いた。
「そうじゃないだろう。自己紹介なんだから、せめて名乗れよ」
「あ……」
 歯軋りの男は顔を真っ赤にした。「しょ、商工会から来ました。ルニです。すみません……」
 ルニの自己紹介の後、場の雰囲気は微妙なものになった。
 どうすんだよ、これ。
 次僕なんですけど……。
 でもいつまでも黙っているわけにはいかないんだよな。
 えっと、どう切り出すか……。まあ、波風立てないよう穏便に行こう。
「魔術師のアールです。今年の冬からアドリアン・モーリス辺境伯の元で働いていましたが、先日ダイモンさんの要請を受けて、怪我をした二人の冒険者に代わり、任務に就くことになりました。精いっぱい頑張りますので、宜しくお願いします」
 ぺこりと一礼。
 これでいいでしょ。
 僕が下がると、残る銀髪エルフの女が前に出た。
「オイフェと言う。ガランティウス翁の依頼で任務に就くことになった。よろしく」
 聞き心地の良い綺麗なソプラノだ。艶っぽい感じはなく、凛としていてかっこいい。
 ジュードが爽やかな笑みをオイフェに向ける。
「オイフェは武器を持っていないが、魔術師なのか?」
「魔術師が足りないようなら魔術師を。戦士が足らぬなら戦士になる。好きなように役割を振ってもらって構わない」
 オイフェの答えに、ジュードは胸の分厚い筋肉を揺らして苦笑した。
「おいおい、そんな曖昧なものじゃ困るぜ! 道中は隊列組むんだからさ!」
 オイフェは一瞬黙ったあと、
「では、魔術師でいこう」
 とだけ言った。
「オーケイ! 自己紹介も終わったし、具体的にどう護衛するか決めていこうか!」
 ジュードが引き続き爽やかな笑みを振りまく。この場を仕切るということは、護衛隊のリーダーを自身が務めるという意思表示なのだろう。それに対して文句が出ないから、皆も暗黙のうちに了承しているようだ。もちろん僕にも異論はない。
「それじゃ、まず隊列について――」
 ジュードがてきぱきと進めていく。
 その後、僕たちは護衛の旅の詳細を詰めていった。

  ×               ×                 ×

 正午になり、いよいよ隊商『トゥグビル』は丘の下の村を出立することになった。
 隊列は、斥候として最前列にアルセーヌとルニ。
 隊商の五台の馬車を左右に挟むようにジュードとトロン。
 そして魔術師ゆえ、最後尾から僕とオイフェが追随する形になった。
 僕は、何かあったときに、後方から戦士二人をサポートする役だな。
 戦闘さえなければ割と暇なポジションである。
 村を出る時、ダイモンが見送りに来てくれた。彼は僕に干し肉の入った袋を渡すと「がんばってくれよ」と笑顔で背中を叩いた。忙しいのに律儀な人である。
「貴公はあの名主から好かれているのだな」
 僕が村の入り口に立つダイモンに手を振っていると、同じ最後尾組の白装束のエルフ女――オイフェが静かにそう言った。
 無口なタイプかと思ったけど、ちゃんとコミュニケーションを図る気はあるらしい。
「好かれているかどうかは分かりませんが……、普段からそれなりに付き合いがあるのは確かですね。彼の好意は隣人を愛すようなものだと思います。ありがたいことです」
 僕がそう答えると、オイフェはフードの下の銀髪をさらりと揺らした。
「隣人愛だけではないだろう。ともに戦ったことがあるのではないか? 彼の目には戦士として貴公を信頼する色があった」
 戦士として信頼?
 僕は手を振るのを止めて前を向いた。
 一度しか一緒に戦っていないのに、信頼なんて芽生えるものなのだろうか。
 僕は、ダイモンのことを信頼しているが、ダイモンもそうだとは分からない。
 もっとも、敢えて否定する気もないが。
「――ええ、冬に一度彼とは共闘しました。彼は前衛でハルバードを振って戦ってくれました。相手は、森の奥から出てきた大きな魔獣でした」
「ふむ……」
「あー……、信じられませんか? まあ、見た目は少しぽっちゃりされていますよね」
 すると彼女は首を振った。
「やや体重が増えているが、昔はよく鍛えていた。二十年ほど傭兵をやっていて、右足に怪我をしてこの地に流れてきた。他者との連携に優れ、自身も巧みな槍の使い手だ。――魔獣程度、あの男の敵ではあるまい」
 僕は驚いてエルフの女を見上げた。オイフェは口元に何の感情も浮かべていない。目深にかぶるフードが風に揺れて下から美しいグレーの瞳がちらりと覗いた。
 うわ。
 深窓の令嬢って感じの顔の作り。
 この人めちゃめちゃ美人だ。
 どこか冷たい感じがあるけど、そこがまた彼女の美しさに拍車をかけている。
「……貴女は、ダイモンさんのことをご存じだったのですか?」
 僕がそう尋ねると彼女はまた首を振った。
「別に。ただ、彼の動きを見てそうではないかと思っただけだ。当たっていたかな?」
「どこに怪我をしていたかは知りませんでした。だけど、長い間傭兵をしていたってことと、怪我をして引退したってことは聞いていました」
「そうか。――傭兵とは過酷な仕事だ。冒険者もそうだが、命の危険と隣り合わせだ。足一本で済んだあの男は僥倖だろう」
 僕はオイフェを見上げた。
「貴女も戦場に?」
「オイフェだ。――ずっと昔にたくさん経験した。今は気ままな武芸者として世界を見て回っている」
「では、僕のこともアールと呼んでください、オイフェさん。へえ、気ままな一人旅ですか、いいですね。でもこんな辺境の地に何故いらしたのです? だだっ広い牧草地があるだけで他に何もないところですよ」
「手持ちが少なくなってきてな。路銀を集めに立ち寄ったのと――」
 オイフェは言いながら懐に手を入れる。取り出したのは、二つに折れた金細工のペンダントだった。薔薇の花の模様が金の線で表現されている。この世界にしては非常に精巧な作りだ。
 彼女は続ける。
「こいつを修理できる者を探すためだ。近くの村を通った時に気付いたのだが、村人は皆見事な意匠の鉄の農具や武器、日用雑貨を持っていた。聞けば丘の下の村で取引したという。さぞ腕の良い鍛冶がいるのだろうと思った。しかし村の鍛冶屋に該当する者は見当たらなかった。貴公、その匠について何か心当たりはあるか?」
 性能の良い鉄の道具?
 それってもしかして……。
「僕の事かも」
 そう呟くと、オイフェは訝しげな視線を寄越した。
「貴公が……?」
「ああ、いえ、もしかしたらそうなんじゃないかなーって思うだけで、僕の勝手な思い込みかもしれないんですけど。――ちょっと待ってくださいね」
 僕は土魔術を起動して地面からゴブレットをつくり出す。そこに水魔術と熱魔術でシャーベットを盛りつけた。ついでにスプーンもつくり出す。
 オイフェは目を見開いた。
「これは……っ」
「どうぞ。暑さが少し和らぎますよ」
 彼女は僕からゴブレットを受け取ると、細い指でぺたぺたと感触を確かめる。
「泥ではない……。焼いたあとの土器のように滑らかで、耐久性にも優れている。スプーンの出来も、そこらに売っているものより格段に良い……。これは単なる土魔術の範疇にはおさまらぬ」
「成分を選んでいますからね」
 分子操作の魔術になるのかな。僕の土魔術は全部こういう系統の魔術になっている。そうじゃないと、土を固めて槍を作ったところで、相手に大したダメージを与えられないからな。
 一般的に魔術師が剣士のサポートだと言われているのは、攻撃力が全然ないからだ。泥をぶつけても嫌がらせ程度にしかならないし、風をぶつけても鎧を着ている相手にはほとんど効果がないから。
 でもサポートじゃ、自分の身は守れないよね……。
 オイフェは唇を噛みしめた。
「くっ、魔術師を名乗ったのは失敗であった。貴公がこれほどの使い手であるなら、私など馬の糞のような扱いだ……っ」
「馬の糞って」
「しかも呪文を詠唱していなかったように思えたが? 何か自動詠唱の類の魔道具を使っているのか?」
 彼女は覗き込むように僕を見つめてくる。こんな美人さんに見つめられると、耐性の無い僕は照れてしまう。グレイスのおっぱいを舐めていたのが随分昔に思えてくるぜ。
「いえ、無言です。僕に呪文は必要ありません。一応オーソドックスな呪文くらいは暗記していますが――、ここ数カ月は全く使っていませんね」
「やはり無言詠唱か。これはいよいよ剣士を名乗るべきだったと後悔の念に駆られるな」
 オイフェはしゃくしゃくと氷を咀嚼しながら悔しそうに言う。
 僕は苦笑した。
「そんなすごいものでもありません。自分のためにやっていたら、いつの間にかできるようになっていただけで。――あ、食べ終わったらゴブレットとスプーンを土に還しますので僕に寄越してください」
「ああ、すまぬ。――――しかし、これほどの腕ならば、このペンダントも直せよう。いや、是非とも貴公に直してもらいたい。お願いする」
 オイフェは割れたペンダントを僕に突き出す。
「いいんですか? 僕は修理屋であって、金細工の職人ではないのですが」
「貴公で無理なら、誰にも無理だ。それに既にこんな酷いことになっているのだ。今更形がおかしくなろうと、大した違いはない」
「そうですか。――では、やってみますね」
 自信はある。
 いくら金細工と言っても、やることはいつもの工程と変わらない。四ヵ月繰り返しに繰り返した行為は、もう目を瞑っていてもできるレベルになっている。
 無論、目はしっかり開けておくけど。
 僕は土魔術を再度起動し、丁寧に割れたペンダントをくっつけていく。小さいものだから、すぐに修復は完了した。僕は修理の終わった薔薇のペンダントをオイフェに差し出した。
「これでよろしいでしょうか?」
「十分だ。礼を言う。これはずいぶん前にある戦友から友情の証に送られたものでな。とても大切なものだったのだ。先日野人の類と戦闘になった際に折られてしまって、どうしたものかと途方に暮れ――――あ」
 彼女が上品な口元をぽかんと開ける。
 僕はその反応に冷や汗をかいた。
「どうしました? もしかして、何かおかしな風に接合してしまっていますか?」
「いや、そうではない……」
 彼女は申し訳なさそうにそう言うと、白いフードを取った。
 うわ。
 やっぱりすごい美人さん。
 銀色の長い髪、綺麗に整った眉、グレーの透き通るような瞳。鼻梁も高い。
 オイフェは僕に頭を下げた。
「路銀が足らぬことを今思い出した。……修理代が払えぬ」
「ああ、そんなことですか。仕事としてやったわけではありませんので、修理費は結構ですよ」
「いや、しかし、これほど綺麗に接合するのは並の職人ではできぬこと。何の対価も払わぬというのは、さすがに気が退ける」
 しゃべり方からお堅い武士っぽい感じだったけど、やっぱりとても生真面目な人のようだった。チーノタイプだな。このタイプの捌き方は分かっている。
 僕は仮面を取ると彼女に笑顔を向けた。
「では、こうしましょう。実は僕、護衛をするのも、旅をするのも初めてなんです。オイフェさんはこういう事に経験豊富っぽいですし、修理の対価に色々必要な知識を教えてください」
 オイフェは綺麗な眉をひそめた。
「対価として、少なすぎるように思えるが」
 そりゃ彼女からしたらそうかもしれない。だけど、僕としては別段凄いことをしたつもりがないのでこれでいい。
「じゃあ、旅が終わった後に足りないと感じられたら、その時に返してください」
 僕がそう返すと、彼女は一つ頷いた。
「ふむ。護衛任務の報酬も入るし、それならしわいことをせずに済みそうだ。――ケチくさいのは良くない。守銭奴な性格が災いして宮刑に処された哀れな男を私は知っている。奴は睾丸を潰される時、痛みのあまり涎をまき散らしながらショック死した」
「失敗例がすごく残酷ですね! 男にそういうこと話すのは止めてくださいよ!」
 おち○ちんが縮んじゃったよ!
「おーい!」
 僕とオイフェがそんな話をしていると、前を歩いていたリーダー、爽やかな筋肉ことジュードが足早にやってくる。
 僕は彼の方に顔を向けた。
「どうしたんですか、ジュードさん」
 ジュードは白い歯を見せながら言う。
「いや、何も無いって言う伝言さ。アルセーヌの話じゃ、川の横の村まで障害が見えないそうだ。桃の迷宮から大型の魔獣が出てきていないか心配だったのだが、そんな事もないようだ。今日中に『ワールウィンド峡谷』の入り口まで行きたいから、少しペースを上げるかもしれない」
「ということは、今日中に安全地帯を抜けてしまうという事ですか? ずいぶん急ぎ足ですね」
 僕がそう言うと、彼は眉根を寄せた。
「ああ、風を読むに、明後日くらいに雨が降りそうなんだ。雨の峡谷を抜けるのは非常に危険だ。落石や土砂崩れの恐れがあるからな。だから天候が変化しないうちに峡谷だけでも抜けてしまおうって算段だ」
「トゥグビル商人もそれに同意されているのですか?」
「全てこちらに任せると。川の横の村での営業も控えてもらうことにした」
「強行軍したあと、峡谷の前で雨が降ってしまった場合はどうするつもりだ?」
 オイフェが淡々とそう尋ねる。ジュードは答える。
「その場合は峡谷を迂回するルートになるな。随分遠回りになってしまうが仕方がない」
「そうか。谷の前で立ち往生しないのなら、私からは何も文句はない」
「あ、えっと、僕も特にありません」
 ジュードが僕を見たので頷いておく。
「よし、では引き続き警戒を頼むぞ」
 彼はそう言い残すと前に戻っていく。
 僕はオイフェを見た。
「峡谷から迂回するルートってそんなに遠いんですか?」
 彼女は頷いた。
「うむ、七日の旅程が十日に増えるだろう。しかも危険が多い。盗賊の襲撃はもちろんのことながら、魔獣がよく出る湿地帯を通過しなければならなくなる」
「だからと言って、峡谷の前で立ち往生していると、噂の盗賊団『犬の足』に襲われる可能性が極めて高い、と」
「そうだ。一番安全なのは、峡谷が乾くまで川の横の村で待機するというものだろうが、その場合旅程が大幅に狂う。峡谷の前から村まで引き返した場合は、積み荷の中の商品で腐るものが出てくるだろう」
「あー……それは大損害ですね」
 僕が凍らせても良いのだけど、馬車五台分の積み荷となると旅程の最後まで魔力がもつか分からない。多分もたないんじゃないかと思う。定期的に熱魔術をかけるためにまともに眠れないだろうし――。
 提案をしておいて、「やっぱりできませんでした」で済ませられることではないので、止めておいた方がいい。
「積み荷との戦いは行商人の性だ。あのトゥグビルという商人も、今年の夏の暑さに内心相当焦っていることだろう。今朝は私が村の入り口に一番に着いたのだが、その時彼ははっきりと苛立っていたよ。私の姿を見るなりすぐに笑顔を取り繕ったが」
「そうなんですか。とても大らかな人だと思っていました」
 オイフェは首を振った。
「本来の気性は関係ない。彼は良き人間である前に、自身の所有する商品と戦う、戦士なのだ。いよいよ追い詰められたら、彼は商品以外の事は眼中に無くなるだろう」
「――――――――」
 僕は前を向いた。
 馬車の中ほどには、この暑い中で自ら馬に乗って荷物に寄り添い、下人に指示を飛ばすトゥグビル商人の姿がある。確かに彼は、ブリーフィングの時に見せていた和やかな雰囲気を霧散させていた。今も、生ものの馬車に入れる氷の配分を間違えた下人を、大声で叱りつけている。
 彼の目は冷たく、厳しい。
 あれが大陸を旅して金を稼ぐ行商人の真の姿なのだ。
 僕は彼のそんな姿を見て身が引き締まる思いだった。
「貴公は変わっているな」
 唐突にオイフェがそんなことを言い出した。
 変わっている?
 僕が?
 ああ、でも、確かにアドリアンには頻繁に「アル、お前はおかしい」と言われるな。
 僕は苦笑した。
「そうかもしれません」
 オイフェは首を振った。
「違う。トゥグビルという男を見て共感していただろう? 普通は彼のことを迷惑な奴だと思うはずだ。彼が無茶をすれば、割を食うのは護衛である私たちだから」
「ああ、それはそうでしょうね。でも、それも含めて護衛の任務でしょう? 文句を言うのは道理が通りません。それよりトゥグビル商人の思いの強さに感動しますよ」
「フッ……」
 彼女は口元を歪めて笑った。どういう感情が込められていたのか分からないが、彼女の纏っていた冷たい空気が少し和らいだような気がした。
「あ、ダイモンさんから貰った干し肉食べます? 量を減らしておかないと重くて」
「いただこう。スズーロの芽があれば一緒に食べたいものだが」
「ありますよ。年がら年中道端に生えているから便利ですよね」
 その後、僕たちは他愛もない話をしながら五台の馬車の後ろを歩いた。
 桃の迷宮を越えて、その先の川の横の村へ。
 迷宮を越えた先は、僕にとって未踏の地だ。僕は若干挙動不審になりながら周囲を観察した。
 川の横の村は、本当に「村」って感じの村だった。アドリアン・モーリスのお膝元である丘の下の村は、村とは言いながら小さな街のような大きさがあった。だけど、川の横の村はそれに比べてずいぶん小さい。
 集落も三十かそこらで、人の数もあまりいない。教会の屋根と、新設された冒険者ギルドの桃の迷宮対策本部のテントが異様に目立っていた。
 隊商『トゥグビル』はそんな村の中央広場まで来て、東に向きを変えた。その後は村の東の出口から街道に出て、延々と続く一本道を行く。道は当然舗装されていなく、大きな車輪を備えた馬車も相当派出に揺れていた。トゥグビル商人は、中の商品が破損しないよう下人に細心の注意を呼び掛けていた。
 僕たちは安全地帯を予定の二倍のスピードで抜け、空が暗くなるまで進み続けた。だいたい九時ごろになって、足元がおぼつかなくなったところで今日の旅は終了。
 ワールウィンド峡谷と思しき岩肌は、遠くに小さく見える程度にまで迫っていた。

  ×               ×                ×

 ――――野犬の吠え声がうるさい。
 ワールウィンド峡谷の入り口でキャンプした僕たちは、夕食を終えたあと、車座になっていた。見張り役の指示と今後の予定を話し合っておくためである。
 メンバーは以下の七人である。
 トゥグビル商人。
 リーダーの爽やか筋肉ジュード。
 寡黙な筋肉トロン。
 シーフその一のアルセーヌと。
 シーフその二で、Dランクであることをコンプレックスに思っているルニ。
 僕。
 銀髪のエルフ、オイフェ。
 要するに隊商の長+護衛全員だな。
 会議は、まずトゥグビル商人の悲痛な声から始まった。予想以上の暑さで、氷の消費も激しいらしい。これに対しては、僕があとで氷を作って足すことを提案した。
「アールは氷魔術が使えるのか!?」
 トゥグビル商人が驚いた顔で僕を見る。僕は頷いた。
「ええ、使えます」
 正しくは分子運動制御による熱魔術だけど。
トゥグビル商人は懐から銀の詰まった袋を差し出した。
「これだけ払う。直ちに氷を作ってくれたまえ。明日、明後日はともかく、三日後からの分がない。今日だけで信じられないくらい消費してしまったのだ」
 すると、リーダーのジュードが困った顔を作る。
「トゥグビル氏、お気持ちは分かりますが、魔術師を消費するのは良くない。いくらサポート役といえども、戦闘時いるのといないのとでは、大きな差があります」
「そこを何とかならんかね。高い金を商工会連合に払っているのは命よりも大事な積み荷を守るためなのだよ。商品が駄目になっては元も子もない」
「ですが――、俺は魔術には詳しくないが、氷魔術と言うのは確か大魔術に部類されるものなんじゃあないか? 下手をしたら、峡谷を超える前にアールが使い物にならなくなってしまう」
 ジュードが心配げな視線を僕に送る。僕は淡く微笑んだ。
「氷を作るくらいなら問題ありません。大丈夫です。常時馬車の中身を保冷していろと言われたら厳しいものがありますが」
「そんなことができるのかね!?」
 トゥグビル商人は目を剥いて僕を見た。
「保冷ですか? 半日やそこらなら可能ですけど、それ以上となると怪しいです」
 商人は少し考えたあと、大声で下人を呼んだ。彼は僕に再び向き直る。
「フラン金貨で支払おう。馬車五台を保冷してくれたまえ。頼む」
 カラフルな服をひらひらさせてトゥグビルが礼をする。
 これにはさすがに他の護衛のメンバーも慌てた。ジュードがはっきりと非難の色の混ざった声を上げる。
「トゥグビル氏、それでは本当にアールを使い潰してしまいます! 我々の任務はあくまで護衛であって商品の保冷ではない」
 僕もジュードに続いて口を出す。
「トゥグビルさん、僕も人間ですから、睡眠が必要です。できる自信がありません」
「そこを何とかならんかね。――ほら、これで」
 トゥグビル商人は下人から三号ソフトボールくらいの大きさの革袋を受け取ると僕に突き出した。袋の口からは金貨が覗いている。
 シーフ二人の喉がごくりと動いた。
 僕は丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません。ここで『できる』というのは簡単ですが、途中で気を失いでもしたら、僕には責任が取れません。冷凍したり解凍したりを繰り返せば商品の質も下がるでしょうし、逆効果になってしまうかも――」
「それでも構わない! この際護衛はどうでもいい。道の先に盗賊や魔獣の類は見当たらないのだろう?」
 トゥグビル商人はシーフの二人を見る。
 アルセーヌとルニは顔を見合わせた。
 アルセーヌが代表して口を開く。
「ええ、今のところは見えませんね」
 トゥグビルは僕たちの顔を順々に見回して声を張り上げた。
「ほら! 出るかどうかも分からない危険より、現状起きている問題への対処だ!」

「盗賊なら既に出ている」

 思わぬところからの反論があった。
 それまで身じろぎ一つせずに会話を聞いていたオイフェだ。
 会議の場がしんとなる。
 数秒して、ジュードがオイフェに疑惑の眼差しを向けた。
「オイフェ、どこに盗賊が出たんだ?」
 彼女は言われてフードの下の目をすっと閉じる。それからおもむろに喋り出した。
「野犬の遠吠えが聞こえている」
「ん? ――ああ、そうだな。それが?」

「これは野犬の遠吠えではない。――人が真似て声を出しているだけだ」

 ――――――――は?
 その場のオイフェ以外の全員がそんな間の抜けた声を出した。
 確かに野犬の声がさっきからしているが――これはどこからどう聞いても野犬の遠吠えだ。にわかには信じられない。というか、そんなことをいきなり言われても判断がつかない。
 シーフのアルセーヌが、同じくシーフでコンプレックス持ちのルニに厳しい声をかける。
「おい、ルニ。お前ちゃんと調べたって言ったよな。峡谷周辺には人影が見えず、誰かが潜んでいる風でもないって。まさかとは思うが、いい加減な仕事をしやがったのか!?」
 ルニは青い顔になった。
「わ、私はちゃんと調べましたっ! ちゃんと調べて、何も見えなかったら、そう報告しただけでっ! ほ、本当ですっ! 信じてくださいよ、アルセーヌの旦那ぁっ!」
 ジュードがルニを見る。
「ルニ、峡谷の上は見たか? 谷間の道を偵察するのは当然の事だが、岩の上もきちんと見ておかないと十分とは言えないぞ」
「あっ…………」
 ルニは唇を震わせた。全員の視線が集中する中、彼は目を逸らした。それから必死の声音で叫ぶ。
「みっ……。見ましたっ! ちゃんと見ましたっ! わ、私は見落としなどしていませんっ!」
「本当だろうな……」
 アルセーヌが舌打ち交じりにそう言う。ジュードが皆を見回した。
「オイフェの言う通り、この遠吠えが人のものであるなら、仲間同士でやりあう秘密の合図に違いない。噂の盗賊、『犬の足』が吠え声を真似て連絡を取り合っているのかもしれない。――これ以上進むのは、危険だ」
 トゥグビルが渋い顔になった。
「では――湿地帯の方へ回るのかね?」
 ジュードが頷く。
「そうした方が安全でしょう。多少魔獣は出ますが、俺とトロンならまとめて殺(ルビ:や)れます」
 C級冒険者だけあって自信はあるようだ。
 僕も魔獣相手ならそれなりに戦えると思う。管理を任された森の魔獣程度なら、何十匹やってきても僕の敵じゃない。
 トゥグビルはシーフの二人を見た。
「事実確認を頼めるかね? これがただの野犬の声だったら、私は無駄に大損害をくらうことになる。判断は慎重にしたい」
 アルセーヌは眉根を寄せた。
「構いませんが、こう暗くてはまともに偵察ができません。誤った判断を下すことになるかもしれませんよ」
 トゥグビルは長く息を吐いた。
「どの道朝になってから、ということか。できれば勘違いであってほしいところだ。――見張りには下人もつけよう。くれぐれも、商品を奪われないよう頼むよ」
 彼はそれだけ言うと立ち上がってテントに戻っていく。
 カラフルな商人の後ろ背がテントに消えたところで、シーフのアルセーヌが呆れたような声を出した。
「ちっ、自分の命と商品のどっちが大切なんだか。死んだら元も子もないだろうに」
 ジュードはアルセーヌを睨んだ。
「依頼主に対して失礼なことを言うなよ。――それより、オイフェ、この遠吠えが人の声だっていうのは本当なのか?」
 オイフェは頷いた。
「間違いない」
「根拠は?」
「ない。耳で聞いて、人の声だと思っただけだ」
「でっ、出鱈目じゃあないですか!」
 ルニがオイフェを指さして叫んだ。「こんなのどこからどう聞いても犬の鳴き声だ! 勝手なこと言わないでくださいよぉっ!」
「信じるか信じないかは貴公らの自由だ。私はどちらでも構わない」
「あ、あんたのせいで私が疑われることになっているんだっ! 言うだけ言って、その態度はないんじゃないですかねぇっ!?」
「――――――――」
 ルニの半泣きの台詞に、オイフェは沈黙で答える。
 ジュードはため息を吐いた。
「この場でこれ以上言い合っても仕方がないさ。とりあえず、これから不寝番の割り振りをしよう。下人たちと合わせてローテーションするぞ。メンバーは――」
 その後、ジュードの元でてきぱきと見張りの時間が決められる。僕は午前三時から午前五時までの二時間をオイフェとすることになった。
 夜は更けていく。
 僕の見張りの時間帯では特に何も起こらなかった。犬の吠え声も止んでいたし、周囲に魔獣の影もない。僕とオイフェは干し肉をかじりながら二時間を過ごした。
 翌朝七時。
 朝飯を平らげた僕たちは、斥候から帰ってきたアルセーヌとルニの報告を聞いた。
 ルニは誰もいなかったと頑として言い張り。
 アルセーヌは、岩肌に不自然に小石が転がるところがあったと報告した。
 しかしアルセーヌも人の影は見ていない。代わりに崖から落ちたらしい野犬の死骸を二つ見つけたという。アルセーヌの淡々とした事実報告を聞いた後、トゥグビルは膝を叩いた。
 隊商は、予定通り『ワールウィンド峡谷』を通過することになった。

  ×               ×                ×

 僕たちは峡谷を速やかに、しかし静かに進んでいく。
 ワールウィンド峡谷は、黒っぽい岩石が露出した寂しいところだった。遥か頭上には切り立った崖、岩肌の所々に草の緑が見えるが、だいたいは砂利っぽく、時折風に煽られた小石が上から転がり落ちてくる。空気は夏だというのにひんやりと冷たい。峡谷を抜けた先が森だということもあってわずかに湿気も含んでいる。雰囲気さえよければ、あるいは避暑地として使えたかもしれない。
 頭上から岩が落ちてきた時、すぐに対応できるように崖の上を見つつ移動する。崖の間からは青い空が見えた。天気が崩れる予兆なのか、分厚い雲も浮かんでいる。鳥の影は一切見えない。
 僕たちの歩く谷の道は、意外と広い。幅はだいたい二十メートルくらい。馬車も余裕で二台横に並べる広さだ。足に伝わる地面の感触は、まさに山の道といったところか。日本の山だと富士山のそれに似ている。硬くて、強く踏みしめると細かい砂利のせいでかなり滑る。足場が命である剣士にとってはかなり嫌な場所と言うべきだ。……ところで、僕は前世で富士山の登山をしたことがあるらしい。そろそろ忘れかけている転生設定だけど、こういう何気ないところで不意打ち気味に顔を出してくる。
 しばらく進んでいると、道の端に野犬の骨が放置されていた。所々に焼き焦げた肉や毛がくっついている。これが、今朝アルセーヌが報告した死骸なのだろう。放置していたらアンデッド化する可能性があるから焼却したようだ。やや獣の臭いが残るが、石鹸作りの時に味わったあの臭気ほどではない。僕は土の棒をつくり出すと、転がしてある犬の骨を検めた。いずれも首の骨が折れて、頭がい骨にも穴が空いていた。不運にも崖の上から足を滑らせたのだろう。骨の砕け具合から見てほぼ即死。苦しむ間もなかったのは犬たちにとって幸いだったか。
 昨日の夜の遠吠えはこいつらのものだったのか――。状況的に見てそう判断するのが普通かもしれないが、オイフェの発言も気になる。この短い間彼女と付き合っていて分かったのだけど、彼女はとんでもなく五感が鋭い。エルフは皆感覚が鋭く、特にその大きな耳故、音に関しては右に出る種族がいないほどだ。彼女もご多分に漏れずその血を受け継いでいる。軽んじて良いはずがない。
 とは思うものの、こうして峡谷の後半に入っても、特に襲撃があるわけでもなく、斥候として先を行っているアルセーヌとルニから目立った報告があるわけでもない。
 彼女の勘違いだったのか――?
 あるいは、遠吠えは本当に人の声で、盗賊団は近くにいるが、僕たちに手を出す気が無いのか。
 盗賊たちにしても、全部の隊商を手あたり次第襲っているわけではあるまい。リスクとリターンを考えて、「行ける」と感じれば襲撃に踏み切るのだ。例えば国王に保護されている商人の隊商などは、おそらく彼らも手を出せない。護衛は物凄い手練れだろうし、仮に襲撃に成功しても、そのあと待っているのは、王都からの討伐隊による殲滅作戦だけだ。良い事なんて一つもない。一時、財が増える程度である。
 オイフェの勘違いにせよ、盗賊が『善意』で通してくれるにせよ、何事もないのが一番良い――僕は引き続き頭上の警戒に戻りながら、思考をそう締めくくるのだった。
「盗賊に出くわしても金を払えばどうにかなる場合もある」
 隣で歩いているオイフェがそう言う。僕はなるほどと頷いた。
「彼らだって生活がありますものね。むやみやたらと相手を殺すのでは禍根が残りますから、そういう『平和的』な手段を使ってくる輩も少ないということですか」
「そうだ。彼らとて、戦えば自身に犠牲が出ることは分かっている。それを顧みない輩は、損得計算ができない愚か者か、あるいは相当腕に自信がある者かのどちらかだ」
「それ、後者だったらやばいのでは……」
「そうかもしれぬ。――――ところで、貴公も食べるか?」
 オイフェはさっきから口に運んでいた茶色いグミのようなものを僕に差し出してきた。
「いいんですか?」
「ああ、干し肉の礼だ。美味くはないが、口寂しさは紛れる」
「ではいただきます」
 なんか幼稚園の遠足で友達とお菓子交換するみたいだな。
 あの頃のわくわく再び。自分が持っていない友達のお菓子ってすごく輝いて見えるのである。前世の記憶がないから友達いたかどうかは分からないんだけどね。僕の性格を鑑みるに一人もいなかったんじゃないかと思われるが、そう考えると悲しくなってきたので僕は考えるのを止めた。
 オイフェから茶色の固形物を受け取る。
 鼻を近づけてみると、何やら酸っぱい香りがする。
「んむ……。甘い……? ちょっと癖になりそうな味です」
「アールブに伝わる非常食だ。果物を蜂蜜につけて、乾燥させて作る」
 オイフェは革袋から乾燥果物を取り出しては口に運んでいる。「この袋一つで一月はもつ」
「たくさん食べたら太りそうですね」
「……貴公のせいで食べる気が無くなったではないか」
「あ、すみません」
 彼女はため息を吐くと袋をローブの中に仕舞った。
「まあ、私としても最近気になっていたことだ。太りはしないが、栄養が偏ると――」
「腹が膨れたら何でも良いと思いますが」
 オイフェは僕をじっとりとした目で見た。
「貴公は神経質なのか大雑把なのか分からんな。食い物を軽んじるのは感心せぬ。任務のあと時間が許せば飯を奢ってやろう。アールブの秘技をその身をもって味わうといい」
「へえ、郷土料理ですか。楽しみですねー」
「ではない。戦場で殺した奴の懐から見つけたレシピだ。多分美味いんじゃないかと思う」
「一気に血生臭くなりましたね! そして適当だ!」
 ていうか同族殺しかよ。オイフェは戦場で傭兵をしていたというから珍しい事ではないのだろうけど、ちょっと引いちゃうよ! ――そういう僕ら人間族が一番同族殺しをしているんですけどね!
「これだ」
 言ってぼろぼろの布を懐から取り出すオイフェ。
 あの……、なんか、布の裏側に赤黒い染みが付いているんですけど、それ何なんですかね?
 僕が恐る恐る布を覗き込もうとした時、不意にオイフェが「む……」と顔をしかめた。
「どうしたんですか?」
 彼女は尖った耳をぴくぴくとうごめかせたあと前方を見据える。
 そして言った。
「敵襲だ」
 僕は目を剥いた。
「敵襲!? 盗賊ですか!?」
「いや……、これは犬だな」
「野犬ですか!」
 言っているそばから前方を歩いていた二人の筋肉剣士が駆け出す。すれ違うようにアルセーヌがこちらに走ってくる。
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!」
「私はここで背後を警戒していよう。貴公は剣士のサポートに」
「分かりました!」
 言って駆け出す。風魔術と土魔術でサポート。やってきたアルセーヌと一緒に前に向かって走り出す。
「魔獣の大きさはどのくらいですか?」
 僕が尋ねると、アルセーヌは答えた。
「そんなに大きくはない! 黒い犬の形をしている!」
 瞬く間に最前列に辿りつく。
 そこには剣士二人が手に持つ大剣から血を滴らせながら佇んでいた。トゥグビル商人も鞭を構えている。
「ジュードさん!」
 僕が剣士の一人に呼びかけると、彼は大きな剣を血振りしながら振り向いた。僕は砂利をまき散らしながら停止する。「状況はどうですか!?」
「終わったよ。俺たちにかかれば一瞬だった」
 彼は肩をすくめて前を指さす。
 そこには黒色の体毛に赤い眼を持つ大きな犬が二頭、胴体を袈裟に斬られて仰向けに死んでいた。
 トゥグビル商人は渋い顔をしている。
「服に返り血がついてしまった。着替えないと商品に触れない。面倒なことだ」
 ジュードの横に立つもう一人の剣士――トロンも息を乱した様子もなく淡々と大剣に付いた血を拭っている。
 アルセーヌが僕の方を見て話す。
「『死霊の森』の方からやって来たんだ。多分、野犬たちのボスだ。先行していたはずのルニからは異常なしと伝えられたんだが、この通りだ。あいつはまたいい加減な仕事をしやがったらしい」
 僕は面々を見回した。
「そのルニさんの姿が見えませんが……」
 アルセーヌが答える。
「先に『死霊の森』に行って、今晩のキャンプ地の偵察をしている」
 トゥグビル商人がアルセーヌを見た。
「君も偵察に行ってくれ。これは駄目だ。ルニには申し訳ないが、彼の腕は信じられない」
「はい、分かりました」
 アルセーヌがそう言って頷く。
 ジュードが隣でのっそりと納刀しているトロンを見る。
「トロン、お前もアルセーヌと一緒に行ってくれないか。まだ魔獣の生き残りが近くに潜んでいるかもしれない。シーフ二人では戦闘になったら面倒だろう」
「うす。分かった」
 トロンが短く答える。
 その後、アルセーヌはトロンを伴って峡谷の先へ抜けていった。
 ジュードは二人を見送ったあと、僕の顔を見た。
「アール、オイフェはどうしたんだ?」
「彼女は最後尾で背後の警戒をしてくれています」
「賢明な判断だな。このタイプの魔獣は挟撃して獲物を追い詰めるだけの知能を持っているから」
 ジュードがそう言う。
 替わってトゥグビル商人が、下人から受け取った派手な赤い服に着替えながらもごもごと話し始めた。
「魔獣が出たときは馬一頭持って行かれることを覚悟したが、護衛であるジュードとトロンが優秀で良かったよ。あとで報酬を多めに払おう。――しかし、これではっきりした。昨日の夜の遠吠えは、犬のものだったのだ」
 彼のその発言に、ジュードが黙り込む。
 僕は前方を見た。谷の寂しい風景が終わり、地面に茶色い土と緑が見え始めている。峡谷が終わりに近づいているのだ。
 峡谷で盗賊の襲撃はなかった。
 どう考えても、隊商を襲うなら最適解であるはずの峡谷で。
 素直に考えるなら、盗賊はそもそもいなかったということになる。
 ジュードは難しい顔でトゥグビル商人を見た。
「前にこの峡谷で隊商が全滅しています。盗賊はいない、危険は去ったと判断するのはまだ早いです」
「しかし峡谷はこの通り抜けた」
 トゥグビル商人は下人に合図を送り、馬車を発車させながらさらりとそう言う。「無論、警戒を緩める気はないがね」
「警戒さえ続けていただけるなら、俺からは何も言う事はありません」
 ジュードが礼儀正しくそう言う。
 僕は眉根を寄せた。
「前に全滅した隊商は、そこの魔獣にやられたのでしょうか?」
 トゥグビル商人とジュードが顔を見合わせる。トゥグビル商人が口を開いた。
「状況を見るに、そうなのではないかね? 最後のフクロウ手紙には『峡谷の左右から野犬の吠え声がする』とあったそうじゃないか。――道中の糧食をケチって、護衛に連れていたのはC級の魔術師一人だけだったと聞く。まともに対処できなかっただろう」
「それで、荷物ごと消えたのですか?」
「ふむ……」
 トゥグビル商人は顎を撫でた。
 ジュードが首を振る。
「どの道、ここまで来たらあとは頑張って森を抜けるしかない。今夜は警戒を厳にするべきだろう。アール、持ち場に戻ってくれ。トゥグビル氏、俺は馬車の先頭を歩きます」
「ああ、分かった。引き続きしっかり護衛してくれたまえよ」
「では僕も最後尾に戻ります」
 言って、僕はトゥグビル商人と二人で後ろに引き返す。
 商人は僕と並んで歩きながらぽつりと呟いた。
「私は――焦っているのかもしれない」
「えっ?」
「ああ――いや」
 彼はすぐに相好を崩し、首を振る。「こっちの話だ。気にしないでくれたまえ」
「そこで止められるとすごく気になりますが……」
「はは、たいした話ではないよ。――ただ、長年の夢が叶うという、それだけなんだ」
 トゥグビル商人は峡谷を吹きすさぶ強い風に、着ている赤い服をぎゅっと押さえる。「ずっと昔からの夢だったんだ。自分の店を持つという、ね」
 僕は淡い笑みを浮かべる壮年の男を見上げる。
 奇抜なファッションの彼は、強い風の中、崖の合間から見える青い空を仰いでいた。
 僕は言った。
「素敵な夢ですね」
 トゥグビルは定位置に付いた。馬には乗らず、下人に手綱を預けたままだ。僕は彼に並行して歩いた。
 彼は続ける。
「ありがとう。でも、最近はとても疲れているのだよ、夢を追うことに。……私は貧しい生まれでね。王都近辺のごみ溜めのような場所で育った。密集して建てられた石の建物、その窓と窓を繋ぐように張り巡らされた洗濯用の紐。朝には黄ばんだシーツがたくさん干されていた。その頃は、近所の仲間と迷路のような市街を駆け回りながら、野望を熱く語り合っていた。私の夢はその頃から大金持ちになることだった。汚れたシーツの向こう、天高くにそびえる富裕層の住居群を眩しげに見つめては、自分もいつかあそこの一員になってやるのだという思いを抱いていた。――そして、行商を始め、気が付けばもうこんな歳だ。そろそろ終わりにしたい。だけど、辿りつく場所はもう目の前にあるというのに、あと少しがとても辛いのだ」
「――――――――」
「今回、ブライト辺境伯領での稼ぎに成功すれば、店を持つだけの資金が溜まる。しかしここで損害を出せば、また二年夢は遠ざかる。――二年は、この身にはあまりにも長い時間なのだよ」
「少なくとも、貴方の命は、僕が全力でお守りします」
 僕は静かにそう言った。「氷も作れます。――商品を保冷するだけの力も、あれば良かったのですが」
「ありがとう」
 彼は真面目な顔で頷いた。「護衛に君という魔術師が来てくれたのは、神の慈悲だったのかもしれない。君がいなければ、氷が足りず、道中で商品を腐らせることになっていただろうから。私は無神論者だが、今くらいはフランチェスカ教の神に祈ってやってもいいと思っているよ」
 僕は苦笑した。
「その台詞は無事に目的地に辿りつけたら言ってください。――僕のような矮小な人間でも、こうやってお役に立つことできて嬉しいです。また氷が足りなくなったら言ってください」
「ああ、遠慮なく頼らせてもらうよ」
 僕は彼に一礼して背を向けた。
 それから彼に言い忘れたことが合って振り返る。
「トゥグビルさん!」
 顔をこちらに向ける彼に僕は続けて言葉を投げかける。
「夢、叶うと良いですね!」
「ああ――、ありがとう」
 彼はそう言って笑った。
 ほうれい線の深くなったその顔は、しかしとても若々しく見えた。
 今この瞬間分かった。
 僕は彼の夢がとても羨ましいのだ。
 そして羨ましいからこそ、彼の夢が無事に叶ってほしいと思っている。
 不思議な思いだ……。
 どこからわき起こってきたのかも定かではない。
 気付けば、そこにあった思いとでも言うべきか。
 トゥグビル商人は僕から目を離し、また空を見上げる。僕は、そんな彼の姿を、目を細めて見つめた。
 ――――ふと。
 彼の姿が霞んで、スーツを着た日本人男性の姿がちらついた。
「えっ……?」
 僕はローブの裾で目をごしごしと拭う。
 しかし、もう一度見たそこには間違いなくトゥグビル商人が立っている。
 幻影……?
 暑さにやられたのか? いや、峡谷は十分に涼しい。僕の思考も正常なはずだ。
 では、さっきの幻覚は一体何だったんだ……?
「大事なかったか?」
「えっ?」
 唐突に頭上に響いた声に振り返ると、オイフェが立ち止まっていた。
 どうやらぼんやりしている間に馬車の方が動いて、いつの間にか僕の位置が最後尾になっていたようだ。
「……黒い犬の魔獣が二頭出ました。サポートに入る前にジュードさんたちが仕留めました」
「そうか」
 オイフェは淡白にそう言うとすたすたと歩き出す。少し歩いて彼女は僕を振り返った。
「どうした? 置いていかれるぞ」
「あ……、すみません!」
 僕は慌ててオイフェに追いつく。彼女は僕の顔をちらりと見やった。
「何かあったのか?」
「いえ……」
 僕は首を振る。それから、ふと顔を上げて彼女を見た。「オイフェさんは、夢ってありますか?」
 僕の唐突な問いに、彼女は一瞬言葉に迷うような仕草を見せたあと、口を開いた。
「夢か……。夢と言えるかは分からぬが、生きる目的のようなものはあるな。とある戦士を殺したい――そういう物騒なものだが」
 本当に物騒だな。
 でも、ちゃんとあるんだ。生きる指標が。
「僕には無いんです。生まれて、これまで普通に生活してきて、将来これをしたいと決めたことがないんです。しいて言えば平和に生きたいというくらいで。でもそれってすごく弱いですよね。平和に生きるなんて、そこらの野生動物だってやっていることです。物を考える人間ならではの、強い――生きる執念のようなものが欠けていると思うのです。――それを、漠然と不安に感じました」
「普通の人間は皆そうではないのか? 長大な寿命を持つアールブなどもっと意識が低いぞ。炭鉱族しかり、小人族しかり。その日を楽しく過ごすことしか考えておらぬ」
「僕もそれで良いと思っていたのですが、トゥグビル商人を見て、こうして考え出すと負の思考の連鎖が止まらなくて……。オイフェさんは、その戦士を倒したあとはどうするのですか?」
「ふむ」
 オイフェは指を唇に当てた。硝子のようなグレーの目が彼女の逡巡を表すように揺らいでいた。やがて彼女は目を閉じ、首を振った。
「分からぬ。これまでそのようなことは考えたこともなかった。漫然と旅を続け、奴に出会えば次こそは仕留めると必殺を誓うだけ。このままでは、事が済んだ暁には、私は生きる目的を失うのだろうな。――だが、それでもやはり生き続けるのだと思う。生きることとは分厚い一冊の本を読むということだと私の師は言っていた。愚か者はそれをぺらぺらとめくり、賢者は念入りに読み込むとも。私は――、目的や意味よりも、念入りに自分の生と向き合うことをしたいと思う。濃密に生きれば、生きる理由などあとからいくらでもついてくるだろうから」
「なんか深いですね」
「そうか? 私は今日の昼飯のことを考えながら喋っていたのだが」
 僕はずっこけた。
「台無しですね! 感動を返してくださいよ!」
 オイフェはふっと口元を綻ばせた。
 まるで、密やかに薔薇が花を広げたようだった。

「――貴公、人の生とは結局『そのような』ものだよ」

「――――――――」
 僕は思わず口を噤んだ。
 一瞬、彼女が言っていることの意味が分からなかった。
 少し考えてもやっぱり分からなかった。
 だけど――。
 漠然と、そうなのかもしれないと思った。
 オイフェは答えをくれない。
 僕も、別段彼女に答えを求めたわけではない。
 何故なら、答えを出さなければいけないのは僕自身だから。
「――――――――」
 僕は無言で延々と続く轍のあとを目で辿った。

 道は、どこまでも続いているように感じた。



第四章  月下の茨T



 犬型の魔獣を倒したあと、峡谷を無事抜けた僕たちは昼食を取り、その後息を整えつつ『死霊の森』へと進んだ。森はおどろおどろしい名前をしているが、実際は至って普通の森林だ。時折木の陰にトレントや野ウサギが行き来しているのが見える。
 どうして『死霊の森』なんて名前がついているのか――それは、夏の夜になると、森一帯に蛍が出るからだそうだ。昔ここを通った人たちは、蛍の灯りの美しさに感嘆しつつ、それが死んだ人の霊のように思えたものだから『死霊の森』と言い始めたらしい。長いことそのように言われ続けて、いつしかその呼称が地図に正式採用されてしまった――ただそれだけの話で、別にアンデッド系の魔獣がうじゃうじゃいるというわけではない。
 森に入ってからしばらくして雨が降り始めたので、隊商は少しスピードを落とした。結局、目的の野営地に辿りついたのは、午後三時ごろのことだった。
 昨日は走りづめだったこともあり、今日はこれでおしまい。
 馬車は森の開けた広場に止まり、僕とオイフェは馬車たちの前へと移動する。
 既に皆は集まっていた。
 が、シーフのルニの姿がない。
 先行していた同じくシーフのアルセーヌと剣士のトロンは困惑した顔で立っている。
「ルニの野郎がどこにもいない」
 僕とオイフェが輪に入るや否や、アルセーヌが固い口調でそう言った。
 トゥグビル商人が綺麗に剃られた顎を撫でる。
「ふむ? 周辺の警戒をしてくれているのではないのかね?」
 アルセーヌが眉根を寄せた。
「いいえ。先行していてもこの広場で待機し、合流する手筈でした。哨戒をするにしても、まずここに顔を出すというのが事前の取り決めです」
 そうだよな。
 昨日出発前にちゃんと話し合ったもん。
 シーフじゃない僕でも覚えているほど再三アルセーヌがルニに言っていたことだ。ルニは煩わしそうに「分かってますって、旦那ぁ!」と抗議していた。
 ジュードが目を細めた。
「何か彼に異変が怒ったのかもしれないな。トゥグビル氏、捜索の許可をいただけますか?」
「構わんが、商品は誰が護衛してくれるのかね?」
 トゥグビル商人の至って当然の返答に、アルセーヌは重い息を吐いた。
「ウチの役立たずにそこまでしてもらうわけにはいきません。皆さんが野営の準備をしている間に、オレが探してきます」
 僕は手を挙げた。
「待ってください。もしかしたらルニさんは魔獣に襲われたのかもしれません。その場合、アルセーヌさんが単独行動するのは危険ではありませんか?」
 ジュードが頷く。
「そうだな。魔獣は既にこちらの動きを把握している可能性がある。戦闘もできるメンバーの方がいい。――よし! 俺が行くよ。トロン、あとは頼めるか?」
「うす」
「あの馬鹿のために……、本当に申し訳ない」
 アルセーヌが肩を落とす。ジュードは快活な笑みを浮かべてアルセーヌの肩を叩く。
「気にするな。それより魔獣に襲われているなら大変だ。早く助けに行かないと」
 トゥグビル商人がジュードを見る。
「夕食までには戻ってきてくれたまえ。彼が見つからなくても、だ」
「それはもちろんです」
 ジュードが頷き、彼はアルセーヌとともに森の中へと入っていく。
 トゥグビル商人は下人に野営の指示を出し始めた。
 僕たちもテントを建てたり、トレントを適当に狩って薪を集めたりして手伝う。
 そうしているうちに日が落ちていく。
 夕食の鍋が煮え始めるころになって、ルニを探しに行ったジュードとアルセーヌが帰ってきた。彼らはルニを伴っておらず、暗い表情だった。捜索に失敗したのは、彼らの話を聞くまでもなく明らかだった。
 とりあえず晩飯にしようと皆で鍋の具をよそっていると、なんと、問題になっている当人――ルニがあっさり戻ってきた。森の木の陰からひょっこり出てきたのだ。
 彼の姿を最初に見つけたアルセーヌが「ルニ!」と大きな声で呼びかけながら駆け寄っていく。
 ルニは青い顔をしていた。
「す、すみませんっ! ちょっと道に迷っていましてっ!」
 僕たちも皿を置いて彼の周りに集まっていく。ジュードが怪訝な声を出す。
「道に迷った? ルートから外れて森の中へ入ったのか?」
「は、はい。ちゃんと斥候しなきゃって思って」
 ジュードはため息を吐く。
「それで迷ったら世話ないぞ」
「このっ、馬鹿野郎っ!」
 アルセーヌがルニの頬をひっぱたく。ルニはもんどりうって倒れた。
「痛い! アルセーヌの旦那っ、何するんですか!?」
「お前こそ何をしているんだ! 護衛任務の途中で道に迷ったりなんかして! 皆さんにどれだけ迷惑をかけたと思ってるんだ!」
「だからって殴ることないでしょう!? わ、私は一生懸命斥候をやっていたんですっ! 不可抗力ですっ!」
「お前! いいからもう一度ちゃんと謝れ!」
 唇を震わせるアルセーヌに、ルニは大きな舌打ちをした。
「チィッ! 私は旦那のサンドバッグじゃないんですよ? なんですか、偉そうにいつも、いつも」
「なんだと!?」
「なんですかぁ!?」
「もういいから、止めたまえ!」
 トゥグビル商人が呆れた声で二人の間に入る。
 シーフの二人は歯を剥き出しにしてにらみ合っている。
 ジュードが肩をすくめた。さすがの彼もこれには爽やかな笑みを浮かべられないらしい。
 トゥグビル商人はオイフェを振り返った。
「商工会のシーフはどうなっているのだね?」
 オイフェは肩をすくめた。
「さあ? 私は新参だ。今回だけ特別にガランティウス翁に雇われたにすぎぬ。商工会の専属冒険者の事情など知らぬ」
 トゥグビル商人はため息を吐いた。
「ガランティウス翁には後日手紙を送ることにしよう。――さあ、にらみ合うのはもう止めたまえ! 飯にしよう。飯にするんだ! 誰か二人を引き離してくれ!」
 ジュードとトロンがそれぞれシーフを後ろから押さえつける。
 オイフェはそれを見るとさっさと鍋の前に戻っていく。トゥグビル商人も眉間を揉みながらその後に続いた。
 それから皆で夕食を食べた。
 雰囲気は、ソーンの歓迎会と同じくらい悪かった。僕の横にはルニが座っていたのだけど、彼は引っ切り無しにアルセーヌの方に殺意のこもった眼差しを送っていた。それどころか、パンを歯で噛み千切りながら「殺してやる」と何度も呟いていた。
 ガランティウスはどうしてこんな人を寄越したのだろう? どう考えても人選ミスとしか思えない。コンプレックスを持っていることや能力が多少足りていないことは仕方がないことだとしても、皆に迷惑をかけるのはNGだろう。これならそこらのD級シーフを雇った方が百倍良かったのではなかろうか――僕はそう思いながらスープを啜っていた。
 夕食の後は、今夜の不寝番を決めることになった。本来ならば昨夜と同じで良かったのだろうが、ルニを不寝番に立てるのは問題があるとジュードは判断したらしい。昨夜はアルセーヌとルニが午前一時から三時までを担当していたのだが、ルニの枠にジュードが入ることになった。ジュードが担当していた枠は、下人で手の空いている者が入ることになった。
 ルニは酷く傷ついた顔をしていたが、誰も彼を擁護する者はいなかった。
 その後、続けて簡単なミーティングを行った。当然、ここでもルニは配置換えをされた。彼は僕と共に最後尾に。オイフェがジュードの横で、トロンが最前列。斥候はアルセーヌが一人で行うことになった。ルニは顔を赤くしてぷるぷると震えていた。屈辱感から出た怒りがまたもやアルセーヌに向いたらしく、彼は爪をかじりながら「殺してやる」連呼。
 このような精神状態ではまともに護衛なんてできないだろう。今晩ぐっすり寝て、どうにか気持ちを抑えてほしいところだ。
 ミーティングの後、昨晩と同じように僕は氷を作って床に就いた。

  ×                ×                ×

 ――その夜。
「ん……」
 ふと僕は目を覚ました。
 何か違和感を覚えて体が勝手に起きたのである。僕はこれでも辺境伯の森を管理する身だ。魔獣が出る森の中の工房に寝泊まりしているわけで、この四ヵ月で随分感覚が鋭くなってきている。
 僕は闇の中周りを見回す。
 ここはテントの中で、周りには下人や護衛のメンバーが数人寝ている。僕は半身を起こすと隣の布団に目をやった。そこにはルニが寝ているはずなのだけど、彼の姿がない。昨夜ならともかく、不寝番から外されている彼がいないのは不自然だ。
 トイレかとも思ったが、彼の布団に触れてみて違うと分かった。布団がとても冷たかったのだ。どうやらかなり前にテントを出て、戻ってきていないらしい。
「――――――――」
 森の中に小便をしに行って、帰りみちが分からなくなったとかじゃないだろうな。
 でももしそうなら大変だ。夜の森で遭難とか洒落にならない。
 少し迷ったが、テントを出て彼を探してみることにした。皆を起こさないようにそっと布団を抜け出す。
 テントから這い出すと、丁度隣のテントからもオイフェが出てくるところだった。
 僕は首を傾げた。
「オイフェさん、どうしたんですか?」
 そう尋ねつつ、空の月に目を走らせて時間を確認する。だいたい零時を回ったころのようだ。三時間程度しか寝ていないな。見張りの時間まではまだまだである。
「シッ」
 オイフェは唇に指を当てる。僕は口を噤んだ。
 立ち上がった僕に、彼女は素早く近寄ってくる。
「先ほど何かが倒れる音が聞こえた。――それでこうして外へ出てみたが、不寝番の姿が見えぬ」
 言われて素早く周りを見回す。
 確かに、テントと馬車の周囲に立っている人影が見えない。
 僕は声をひそめた。
「この時間はトロンさんと下人の人が担当の時間ですよね?」
 オイフェは頷いてそっと駆け出した。僕も彼女の後に続く。馬車の裏手に回ったところで、大きな何かが寝転がっているのを見つけた。
 僕は目を見開いた。
「これは……」
 そこに倒れていたのはトロンだった。
 右目に大きな矢が深々と突き刺さっている。矢の具合からして脳に達しているのは火を見るより明らかだった。オイフェは彼に近寄って首筋に手を当てる。数秒して彼女は僕を振り返り、首を横に振った。
 僕は唇を噛みしめた。
 冬に人が死んでいるのはたくさん見た。
 その後、マリエットとリリエットを殺し、管理している森でたくさんの魔獣を狩った。だけど、やっぱり人の死は慣れない。
「誰がこんな酷い事を……」
「分からぬ。それより皆を起こすぞ」
「はい」
 僕たちはテントに戻ると順番に皆を起こしていく。報告を受けて皆は速やかに起床した。すぐに外に集合。明かりは念のために点けない。
 ジュードはトロンの死体を確認して酷く動揺していた。彼は無言で両手を顔に当て、天を仰いだ。僕たちも何と声をかければ良いか分からなかった。
 一人てきぱきと指示を出していたトゥグビル商人が、下人からの報告を受けて僕たちに顔を向ける。
「もう一人の見張り役の死体も確認した。同じように矢で目を射ぬかれて死んでいたそうだ。死体が温かいから、ついさっき殺されたと思われる」
 僕は手を挙げた。
「あの、実はルニさんの姿が見えないのですが」
 アルセーヌが目を剥いた。
「まさか、あいつがやったのか!?」
「それは分かりません。ただ、随分前から寝床を離れているようです」
 僕の言葉に重苦しい沈黙が流れる。
 誰もが無言で面々の顔を見回す。
 二人の人間を殺した殺人犯が、もしかするとこの中にいるかもしれない――それは十分考えられる話で、意識せざるを得ないことだった。
 だけど、それを口にしたら輪を乱すことになる。この場にいないルニを安易に犯人にすることもやはり混乱を招くことになろう。
 矢を使っている以上、魔獣の仕業ということはないが――、盗賊団の仕業と考えることも当然できる。その場合、現在進行形で自分たちは罠に嵌められているのかもしれなかった。
 内と外両方の不安が存在し、満足に動けない状況だ。
 加えて、リーダーのジュードは完全に頭に血が上っているようだった。爽やかな笑みはどこへ行ったのか、全身から殺気を漂わせている。相棒を殺されたのだから仕方がないが、今の状況で指示を出す者が冷静さを欠くのはいけない。
 まずい状態だな――と僕は思う。
 闇の中森を移動するわけにもいかないだろうし、ここに棒立ちしていても犯人が盗賊団だった場合は囲まれて終わる。
 僕は皆を見回しながら、ゆっくりと、はっきりした声で提案した。
「僕が今から砦を作ります。それで一晩耐えましょう。明るくなったらすぐに出立。多少無理をしてでも森を抜ける。どうでしょう?」
 アルセーヌは頷いた。
「オレはアールに賛成だ」
「本当に砦を造れるのかね?」
 トゥグビル商人が僕に尋ねる。僕は頷いた。
「少なくとも泥の城ということはありません。十メートル級の魔獣の攻撃くらいなら数発は耐えられる程度の堅さはあります。ですが――音を聞きつけた有象無象の魔獣が寄ってくるかもしれません」
「固いものが造れるのなら、この場では是非もないだろう。――おい、馬車を寄せろ。中央に集めるのだ」
 トゥグビル商人が下人に指示を出す。
「待て」
 不意にオイフェの鋭い声が響いた。
 皆の視線が彼女に集中する。
 トゥグビル商人が皆を代表して怪訝な顔を作った。
「どうしたというのだね?」
 オイフェは一瞬無言になって、尖った耳をぴくぴくさせたあと――、淡々と僕たちにこう言った。

「囲まれている」

 その一言に。
 まだ敵の姿を確認していないというのに、誰もが体に緊張を走らせた。
 何のことはない――ただ、皆が感じたというだけだ。
 オイフェに言われるまでは気づかなかった、闇の向こうの大勢の気配を。
 トゥグビル商人は素早く足のホルダーから鞭を取り出し。
 ジュードは背中の大剣を無言で正眼に構える。
 アルセーヌは腰から大振りのダガーを引き抜いた。
 僕も即座に反応していた。
「――っ。――っ。――っ」
 素早く馬車を囲うように岩の壁を展開。
 剣を抜く下人の前には堀と土の盛り上がりを作る。これで簡易な陣地の出来上がりだ。
「何者だね!?」
 トゥグビル商人が大声で誰何する。「我ら隊商『トゥグビル』を襲えば、近隣の冒険者ギルドから強力な討伐隊が出されるぞ!」
 答えは返ってこない。
 だが、やはり――、木々の向こうには間違いなく何かの気配がある。それも十や二十ではきかない数だ。
 ジュードがギチリと腕の筋肉を軋ませる。
「トロンの仇だ。俺がタンクとアタッカーを兼任する。アール、オイフェ、魔法で援護だ。アルセーヌは遊撃。事前に話し合ったフォーメーションの応用だ」
「分かった」
「分かりました」
「承知した」
 僕たちは三者三様に頷き、鏃のような形になるよう互いから距離を取る。先端部分はジュード。後ろ二人が僕とオイフェ。アルセーヌは魔術師の僕たちを守るように中央やや後ろに陣取る。
 それを確認したトゥグビル商人が、もう一度闇に向かって呼びかけを行った。

「出てきたまえ! 我々は君たちの存在に気が付いている! 隠れるのは無駄だ! それとも、このまま朝まで我慢比べでもするかね!?」

 トゥグビル商人の良く通る声に、森の静寂が一瞬乱れた。
 そして。
 僕の真正面、奥の木陰から、見慣れたシーフの姿がぬっと浮かび上がった。

「ふふふ! あははは! 引っかかりましたね!? あんたたちはもう終わりですよ!」

 ひょろひょろとした卑屈な男――コンプレックス持ちのルニだ。
 彼は奇妙に歪んだ笑みを浮かべながら、僕たちの方を見ていた。
 トゥグビル商人がルニに言葉を投げかける。
「ルニ! そんなところで何をしているんだね!?」
「何をしている? はっ、まだ状況が分かっていないんですかぁ? あんたたちは包囲されているんですよ! この気配! 何も感じませんか!?」
 彼の背後の闇がうぞうぞと蠢く。
 間違いなく、ルニは闇に潜む無数の存在と結託していた。
 彼は裏切ったのだ――僕はそう確信した。
 トゥグビル商人以下、僕たちは彼に厳しい目を送る。
 アルセーヌはまだ状況を飲み込めていないのか青筋を立てている。
「ルニ、これは何の悪ふざけだ!? その――後ろで動いている奴らは何なんだ!?」
 ルニは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「見りゃ分かるでしょうが、アルセーヌの旦那ぁ! あんたは本当に馬鹿ですねぇ!」
「なんだと!?」
「さあ、皆さん、お願いしますよぉっ! あの馬鹿どもを全部やっちゃってくださぁい!」
 ルニの言葉に応じるように闇の中から染み出る影が三つあった。

 黒いローブを着た三人の人影。

 彼らは幽鬼のように虚ろに佇み、フードの奥の暗闇から僕たちを見つめていた。
 一人は長身痩躯のロングソード持ち。
 一人は大柄なファルシオン持ち。
 最後の一人は子どもほどの背丈しかない弩持ちだった。
 見張りに立っていたトロンと下人を殺したのはあの小人で間違いないだろう。小人の持つ弩には太い矢がセットされていた。
 しかし――、何だ、こいつら。
 もしかして、こいつらが盗賊団『犬の足』か? ――僕は眉をひそめた。
 だが、それにしては盗賊らしく、欲望にぎらついた雰囲気をしていない。
 生きるために必死だという空気も纏っていない。
 それどころか、あの三人からは敵意も感じられなかった。
 ただ何の感情もなく、そこに立っているだけのように見える。
 まるで害の無い人形だ。
 一方で彼らの持つ武器は、月光を跳ね返し剣呑な光をこちらに放っている。『敵意を感じられないから』という理由で、こちらが気を抜けばどうなるかは明白だった。
 僕たちが息を呑んで状況を見守る中、三人の黒いローブが無造作に揺れた。
 彼らは次の瞬間、高く遠い犬の吠え声のような音を響かせる。
 呼応するように森がざわめいた。
 下人たちが息を呑む。
 木の陰、草の陰、あるいは岩の陰から、赤い光が次々に出現したのだ。
 あれは目の光だ――僕は直感的にそう理解した。
 獲物を誘う獣の光だ。
 広場に獣臭が満ちる。
 犬の唸り声が周囲三百六十度から断続的に聞こえ始める。
 僕は内心冷や汗を流した。
 まずい――ちょっと数が多いか?
 トゥグビル商人は叫んだ。
「待ってくれ、ルニ! 金が欲しいなら幾ばくかくれてやる! だが商品には手を出さないでくれたまえ! 頼む!」
 ルニはケタケタと笑った。
「はぁ? この期に及んで商品の心配ですか? 聞くわけがないでしょう。あんたらを殺したあと総取りですよぉっ!」
「ルニ、そいつらは『犬の足』なのか!?」
 アルセーヌが尋ねる。ルニは笑っただけで答えない。続けてアルセーヌは捻り出すように声を張り上げる。
「お前、裏切ったのか!? ガランティウス翁の大恩を忘れたのか!?」
「はっ、大恩? 旦那はやっぱり馬鹿ですね! 賢い私が金持ちになるところを草葉の陰で指をくわえて見とけばいいです!」
「どういう意味だ!?」
「答える義務はありません。さあ、やっちゃってください! さあ、さあ!」
 ルニが厭らしい表情を浮かべて、ローブの三人衆に近寄る。
 彼が馴れ馴れしくロングソード持ちのローブの肩に手を置く。

 瞬間、銀閃が走った。

「はぁ?」
 白痴のように情けない声を出したのは――、ルニだった。
 彼は今しがた斬られた自分の右手を呆けたように見つめる。
「あ、あら? 手? 手ぇ? 手が無いですよぉ!? え? え? 手が無――わぎょ!?」
 右手を失ったことでバランスを崩し、地面に倒れたルニの頭を、大柄なフードの男がその強靭な足で踏みつける。
 それだけでルニの頭は果実のように弾け飛んだ。ルニの首からは鮮血がほとばしり、ビチャビチャとローブたちの足元にあだ花のごとく赤を散らせた。
「ルニ!」
 アルセーヌが悲痛な声を出す。
「来るぞ!」
 ジュードがそう叫ぶ。
 トゥグビル商人は鞭で威嚇するように地面を叩き、オイフェは土魔法の詠唱を開始する。
 下人たちが覚悟を決めたように剣を構える。
 刹那、木々の向こうから黒い影がいくつも飛び出した。
 犬だ!
 一体一体が昼間遭遇した黒い犬の魔獣並に大きい。
「――っ」
 僕は逸れた注意を強引に前に戻す。今はジュードをサポートしなければ。
 同時にローブの三人衆が動く。
 まず長身痩躯のロングソードが、ウサギが跳ねるようにトットットッと不規則なテンポのステップで間合いを詰めてくる。ジュードはそれに合わせて重い剣を振り下ろす。だが、長身痩躯の男は器用に体を捻って剣を躱し、ジュードの胴を抜こうとロングソードを横から振るった。
「――っ」
 僕はそれを窒素の盾を展開して阻止。
 オイフェの詠唱が遅れて完成し、長身痩躯の男の足元をぬかるみに変える。
「でやっ!」
 ジュードが振り下ろした剣を切り上げる。が、それも易々と躱されてしまった。
「危ないっ!」
 僕は、ロングソードの後ろからジュードを叩き潰そうとファルシオンを振り上げる大柄なフードの男に向けて土の槍を生成する。ジュードの頭蓋を砕かんとする一撃と僕の生み出す土の槍が相克し、闇の中に火花を散らす。
 僕は左手を上げて鋭く射られた矢を空気結晶の盾で叩き落とす。
 くそ、盾役のジュードは無視か!?
 こいつら、最初から後衛を狙ってきている!
 いや、後衛を狙うのは基本だが、それを前衛は阻止しなければならない。
 前衛のジュードは優れた戦士だ。鍛え上げられた筋肉と確かな判断力がそれを物語っている。
 しかし――、所詮は優れた戦士程度の評価にとどまってしまう。
 剣術は、おそらく教会流剣術の基礎をかじり、あとは我流で練り上げたもの。特性上速さが全く足りておらず、自慢のパワーも衛兵には遠く及ばない。おそらくソーンよりも非力だろう。
 本来三人のフードのターゲットを取らなければならないはずが、脅威度が低いとローブたちに判断され、相手にされていないのだ。
「くそっ!」
 ジュードが横をすり抜けようとする長身痩躯の男に剣を振る。しかしそれも当然のように躱された。
 アルセーヌが「シッ」と鋭く息を吐き、ダガーを振り上げる。僕は慌ててアルセーヌを土の腕で弾き飛ばした。直後、彼が立っていた場所に鋭いロングソードの袈裟斬りが掠める。僕は再度土魔術と風魔術を展開し、馬車側とは反対側に大きく飛ぶ。
 フォーメーションが役に立たない以上、僕が無理やり場を制圧して潰し切るしかない。
 息を詰める。
 原子よ!
 分子よ!
 僕の命令に従え!
「――――――っ。――っ。――ッ!」
 僕の両腕に紫電が走る。
 外界と自分とを切り離す工程。
 大魔術を起動。僕の指先の濃密な『黒』がヘドロのように胎動を始める。
「なぁっ!?」
 ジュードが驚いたように僕を見て声を上げる。
 僕は広場全域を槍衾にする勢いで、空中に七十の空気結晶の槍を展開させた。急激な低温化に森の広場が冬に戻ったように凍り付いていく。無事なのは隊商のメンバーがいる場所だけだ。
 フードの三人が弾かれたように突進の方向を変化させる。
 前衛のジュードも、中衛のアルセーヌも、後衛のオイフェも、その後ろのトゥグビル商人と下人たちもすべて無視。僕の方へ白刃を翻して近接してくる。

 どういうことだ……!? まるで最初から僕を狙っていたみたいな動きだぞ!?

 見れば僕たちの背後から襲い掛かってきていた黒い犬型の魔獣も、下人たちを素通りして一目散に僕に向かって突進して来ている。
「くそっ」
 訳も分からず、しかし、止まることも出来ずに僕は森へと後退する。空気結晶の槍を向かってくる無数の黒い影に叩きつける。しかし魔獣は右へ左へ素早い動きで槍を躱していく。結局僕の槍が当たったのは十匹かそこらだった。
「――っ。――っ」
 熱魔術を起動。
 先陣を切って飛び込んでくる長身痩躯のローブに指を向ける。
 生み出した空気結晶の剣五つが複雑な軌跡を描きながら彼の動きを追尾する。長身痩躯の男は地面を這うようにぐっと下に屈みこんだ。彼の持つロングソードが剣呑な光を帯びる。
 僕は風魔術で剣を操り、剣先で彼の胸を狙い――それでは命を奪ってしまうと考え、咄嗟に照準を足元に下げた。
 甘い事をしている――。
 そう後悔する間もなく、長身痩躯のローブがふわりと宙に浮かび上がった。僕の生み出した淡青色の剣が、男のすぐ下の地面に斜めに突き刺さり、ビイィンと震える。
 男は空中で身を捻り、地面に突き立った空気結晶の剣の上に着地した。そして踊るように剣の上で華麗なステップを踏みながら、なおも僕に肉薄してくる。ヒュン、ヒュンと楕円を描きながら僕の首を刎ねようと迫るロングソードを、バックステップで躱していく。
 僕は足元の地面をカタパルトのように盛り上げ、自身を宙へと弾き出す。僕の体は虚空を舞う。うまく足を上げて、背の高い木の枝に着地。
 僕がこの広場にいては駄目だ――瞬時にそう判断する。
 僕は隊商の面々に向かって叫んだ。
「逃げてください! こいつらは僕が引きつけます!」
 呼び掛けギリギリの範囲の、馬車を覆う砦を崩壊させる。「馬車を出して! 早く! 僕に構わないで!」
 言いながらも、僕の心は恐怖に支配されていく。
 一人でこいつらを全部相手にしなくてはならないのだ。
 無事でいられるはずがない。
 だったら、誰かに助けてもらって――。
 駄目だ!
 そんなことをしたら、そいつまで死ぬことになってしまう!
 逡巡を断ち切るように、唐突に、足場の木が揺れる。
 見ればファルシオンを持った巨漢のローブが太い木の幹を一撃で中ほどまで破壊していた。傾く幹の上を、軽業師のように長身痩躯の男が駆け上がってくる。彼のロングソードが月光に煌めく。
 まずい。
 間合いを詰められたら終わる。
「くっ!」
 執拗に闇の向こうから射られてくる矢を弾き返しながら、僕は再度大きく跳ぶ。
 いや、飛ぶ。
 上昇気流を操り、木の上へ。遥か天空へ。
 それを見た長身痩躯の男は、体をバネのように縮ませ、直後、僕の遥か下を『敢えて』狙った矢に向かって大きく跳躍した。
「なっ――!?」
 彼が空を飛ぶ矢を踏みつける。体をくるりと捻り、ベクトルを強引に変化させながら、僕と同じ高さにまで舞い上がる。男は僕に半分背を向けている。彼が左手に持つロングソードは、暗剣がごとく僕には刀身の大部分が隠され、男のはためくローブの右端からわずかに白銀の剣先が露出しているのみ。
 刹那、異様な鋭さで、男の腕がしなる。
 ロングソードがローブの向こうから、僕の首を狙って真横に振り抜かれる。
 盾は間に合わない。
 それでも熱魔術を起動。
 紫電がローブの男の至近距離で閃く。
 蟲が鳴くような奇妙な声が上がり、ロングソードが減速する。盾が間に合う。空気結晶の盾がロングソードの刀身と激突する。
 ギャリギャリと激しい音を立てて空気結晶盾を削りながら、男の手首が横の振り抜きから縦の斬り下ろしに変化する。更に右手も柄にそえられ、急激に力が増す。僕は耐えきれず盾ごと眼下に叩き落とされた。
 減速。
 落下速度を制御しなければ死ぬ!
 風魔術を起動。
 僕の体は再度上昇気流にさらわれる。矢が苦し紛れに飛んでくるが、それを盾で弾く。長身痩躯の男は追尾を諦めて、猫のように体を丸め、下へと落ちていく。
 僕は何とか勢いを殺しながら、さっきとは別の、森の開けた原っぱに不時着した。
 くそ……、できれば木の生い茂ったところに落ちたかったのだけど……。
 そうか、男が瞬時に手首の角度を変えたのは、僕を落下死させる目的だけでなく、この遮蔽物の無い原っぱに落として位置調整する意図もあったのだ。
 よく考えている。
 すると峡谷で襲撃しなかったのも計算づくってことか。
 遠距離で僕を狙ったり、狭い場所で僕と戦ったりするのは、近距離攻撃が主である身軽な剣士がアタッカーのパーティにとってはあまりうまくない。
 隊商を襲うための最適解は峡谷での襲撃だったけど――。
 僕を殺すためには、この開けた原っぱがある『死霊の森』で戦うのが一番賢い。
 魔術を使えると言っても、肉薄してからの白兵戦なら、僕を簡単に始末することが出来るから。
 確信した。

 あいつらは、間違いなく、僕を殺す目的でここにいる!

 轟音とともに地面が脈動する。
 僕の前方から巨漢のローブが大木をなぎ倒しながら飛び出してくる。後ろから長身痩躯のローブがまたもや不規則なステップを踏みながら、僕の方へ曲がった鉄砲玉のように飛び込んでくる。
 水魔術と熱魔術を起動。
 僕の『黒』が世界を侵す。
 水素原子と酸素原子が無理やり化合され、加えて周囲の草木や地面から水分を巻き上げ、僕の右手に水の塊が出来上がる。それを凝結させ、凝結に使った熱を内部に封じ込める。
 七つの熱を内包した氷が、長身痩躯の男を囲うように飛来する。
「砕けろ」
 氷が弾ける。
 閉じ込められた内部の熱が暴れる。
 金属と金属をかち合わせたような高い音が響き、七つの氷塊が水蒸気爆発を起こす。飛び出した長身痩躯の男は爆風に向かって突っ込んでいく。減速しようと身を捻っているがもう遅い。
 まず、一人。
 加減はできていない。直撃すれば肉は弾け飛ぶだろう。
 できれば死なないでほしい――。
「え――?」
 僕は目を見開く。
 爆風が痩せたローブの男を巻き込む前に、割り込むように巨漢の男が前に出たのだ。
 巨漢は爆風をうまくファルシオンで殺しながらその体で受けていく。
 巨漢の体が後ろにザリザリと交代する。長身痩躯の男は転がるように後退し、反動をつけて起き上がった。怪我をしているように見えない。
 巨漢の方はローブをボロボロにさせて、更に露出した赤黒い肌からどす黒い血を滴らせている。しかし彼は、隆起する分厚い筋肉が盾になったのか、内臓には全くダメージを受けていない様子だ。
 遅れて森から飛び出した小人のローブが二人の後ろに着く。
 小人は胸元から大きな回復薬の瓶を取り出すと、ヒュッと風音をさせて巨漢の背中に投げた。巨漢は後ろを振り返ることもなく、肩の上に挙げた右手でそれを受け取る。親指で瓶の口を割って無造作に傷ついた筋肉にぶっかける。
 傷は見ている間にどんどんふさがっていく。
 いくら回復薬と使ったからと言って、治りが早すぎる。
 この回復力は、もしや……。
 僕は目に力を込める。
 すると世界に『色』が見える。
 僕の周りにはヘドロのように粘着質な『黒』。
 そして――、案の定、相対する三人のローブは『赤』のエーテルを纏っていた。
 どういうわけかよく分からないが、何となく理解した。あいつらは、マリエットとリリエットと同じモノだ。
 あの驚天動地の身体能力もおそらく同じ仕組みで得ているのだ。
「はぁ――。はあ……。はあ、はっ――」
 僕は荒い息を整える。
 広場の周囲に無数の獣の気配が満ちていくのを感じる。
 さっきの黒い犬たちに囲まれた。
 僕が三人に背を向けて逃げれば、犬が追いすがる。僕が足止めされた瞬間に、長身痩躯の男が肉薄、背中からバッサリ――という未来が見える。
 カタパルトで上空に逃げたら次こそ首を刎ねられるだろう。放電の光にまた怯んでくれるとは到底思えない。
 つまり、生きるためには、目の前の三人を倒すしかないわけだ。
 僕は額の汗を拭いながら三人の戦力を分析する。
 巨漢がタンク――盾役で、僕の攻撃を受ける仕事。
 長身痩躯がDPS――攻撃役で、僕に主にダメージを与える仕事。
 小人がサポート――支援役で、二人に道具の支給をしたり、弩による遠距離攻撃で僕を牽制したり、二人の動きを補助したりする役。
 何という殺意の高いパーティ編成だ。
 僕を殺すために最適の構成員で最高の連携を仕掛けてくる。
「はあっ、はっ……。くそっ……」
 こっちはまだ息が整っていないというのに、向こうはもう準備完了らしい。
 巨漢がそびえる壁のように最前列へ出た。
 その横で長身痩躯の男がロングソードを構え――、小人が淡々と弩に矢をつがえる。
 僕は声を張り上げた。
「待ってください! いきなり襲って来たと思ったら、問答無用で殺しにかかるんですか!? せめて名前くらい名乗ったらどうなんですか!?」
 猶予を稼ぐための会話だ。
 向こうが必殺の陣容で来ているなら、こっちは勝つよりまずどうやって生き残るかを模索しなければならない。
 口八丁でも何でもいい。
 まず彼らを油断させるなり何なりしないと、一方的になぶられて殺されるだけだ。
「名前が無理なら、殺す理由くらい教えてください!」
 胸の中に広がる恐怖を押さえつける。
 こっちが怯んでいると悟らせてはいけない。あくまで表面上は余裕の表情を浮かべておかないと、一気に攻められて死ぬ。
「訳も分からず殺されたんでは、僕もアンデッドになって化けて出るしかありません。どんな下らない言い訳でもいいですから、僕を半分くらいは納得させてくださいよ!」
 言いながら、こっそり熱魔術を起動。
 一番『赤』が薄い小人に炎熱の魔術をかける。
 だが――。
 ソーンには効いた熱魔術は、小人の纏う濃密な『赤』によって塗りつぶされ、あえなくレジストされてしまった。
 ははあ、なるほどね。
 魔術での直接攻撃も無理と言うことか。
 本当に正面突破しかないわけね。
 小人の腕がぶれる。
 僕は咄嗟に勘だけで盾を展開していた。
 未完成な空気結晶の壁に、太い矢が削岩機のような音を立てて四本突き刺さる。
 太腿の動脈。
 心臓。
 喉元。
 眉間。
 盾がなければ全て必殺の急所を狙ってきている。威嚇射撃とかそんな生易しいものではない。
 僕は内心嘆息した。
 駄目か。
 全然話が通じない……。
 それでも、会話を続けなければ――。
 そう思って口を開こうとした瞬間、またもや長身痩躯の男の体がふわりと浮きあがる。
「速っ……!!」
 僕は目を見開いて盾を展開。だけどそれはもう遅い。
 今までジグザグに迫っていた奴が直線で突っ込んでくるとこんなにも速いものなのか!?
 僕は咄嗟に右手を前に出した。
 腕を犠牲にする。
 そのカウンターでアタッカーをまず潰す。
 あとのことは――考えていない。
 僕の差し出した腕に男のロングソードが吸いこまれていく。
 僕は直後に来るだろう激痛に備えて、歯を食いしばった。

 だが――、衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。

 僕は目の前の出来事が信じられず、口をぽかりと開けた。
 突っ込んできていた長身痩躯の男が頭上を仰ぎ、突進と同じくらいのスピードで背後に跳んだのである。それに一瞬遅れる形で太い木の枝が夜空から飛来し、深々と地面に突き立った。
 ふわりと白が舞う。
 僕の斜め前には、道中よく一緒にいたエルフの麗人の姿が現れていた。
 白いローブの下から、奇妙なギチギチという音が聞こえてくる。
 現れた彼女――オイフェは、相対する三人に向かって声高に叫んだ。
「三対一とは卑怯であろう? 武の心得のある者なら恥を知るがいい!」
「オイフェさん……! 貴女、どうして……?」
「すまぬ。犬に邪魔されて少々遅くなった。ここから先は私も共に戦う。私が前衛、貴公が後衛だ。臨機応変に行くぞ」
「え……、え……?」
 僕が困惑している間に、再び体勢を立て直した長身痩躯の男が突っ込んでくる。今度は後ろから巨漢のファルシオン使いも一緒だ。二人は――僕ではなく、オイフェを狙って剣を振り上げる。
「――っ!」
 僕は咄嗟にオイフェの前に盾を展開する。するとオイフェは盾の上部をローブ越しに掴んで、袈裟に振るわれるロングソードを弾き返した。盾は傷一つついていない。返す左手の掌の一撃が長身痩躯の男の胸元にめり込む。
 ミシリと嫌な音が響いたかと思うと、男は後方に背中から吹き飛ばされた。受け身も何も無い。彼は背中から地面に激突する。
 巨漢が獣のような雄叫びを上げた。オイフェに追撃させまいとファルシオンで正確かつ力強い振り下ろしを行う。
 オイフェの姿が一瞬ぶれた。
 僕は偶然目にしていたのだが、彼女は足で複雑なステップを瞬時に刻んでいた。巨大なファルシオンを盾で受け、一瞬手前に巻き込んだかと思うと、巨漢までも後方に投げ飛ばした。遅れて窒素の盾が砕け散る。
 オイフェは「冷た」と言って結晶に触れていた指を舌でぺろりと舐めた。
「すごい……!」
「アール、援護を頼む」
 彼女は淡々とそう要求する。ローブの下のギチギチという音が大きくなる。最初は風の音に紛れる程度だったのに、今や異音ははっきりと聞こえていた。
 僕は頭を振って気持ちを入れ替える。
「はい!」
「手加減はするなよ」
「えっ……?」
 唐突に挟まれたオイフェの言葉に僕は詰まる。彼女は静かに続けた。
「奴らは強い。――殺さねば、貴公が殺されるぞ」
「――――はい」
 僕は唇を噛みしめた。
 やらなければやられる。
 そんなのは分かっていることだ。
 でも、人型の敵に対しては、どうしても日本にいた頃の禁忌の意識が働いてしまう。
 そんな僕の甘い心を見透かしたようにオイフェは言葉を紡ぐ。
「貴公の剣が迷えば私も死ぬことになる」
 それは決定的な一言だった。
 僕は反射的に言葉を紡いでいた。
「――分かりました。覚悟を決めます」
 長く息を吐くと、眼前の三人の敵を見据える。
 僕のわがままで、彼女まで殺すわけにはいかない。
 思い切りが必要。
 ここは戦場なのだから。
 僕の殺気に、オイフェはふっと笑った。
「よし」
 彼女のローブが膨れ上がる。
 ギチギチという音が広場に大きく響き渡る。彼女は左の袖からびっしりと棘のついたワイヤーを引き抜いていた。棘は月光を浴びて美しい銀の光を放っている。
 彼女の髪と同じ色――一見見分けがつかない棘は、右手に持つ金の柄に騒音を立てながら収束していく。
 数瞬もしないうちに、オイフェの右手には棘が無数に突き出た、見るも痛々しい剣が出来上がっていた。
 彼女はそれを地面に打ち付ける。
 剣先が地面に埋もれ、内部のギミックが、加えられた力によって高く澄んだ金属音を響かせる。刀身の棘は魔法のように引っ込んだ。
 異形の剣はその本性を隠すように流麗な一本の直剣に変化していた。
 僕たちに敵対する三人は、再三の立て直しを終えて、再び殺意の無い殺意を向けてくる。
 僕たちは構えを取る。
 僕は小人族の構えを応用した我流の構え。
 オイフェはスカアハのものに似た構え。
 応じるように巨漢が前に出て教会流剣術の構えを取った。
 長身痩躯も曲芸師のような構えを取る。
 小人も――ここで初めて構えを取った。僕が冒険者ギルドで見た小人族の構えと同じだが――こっちは信じられないくらいに隙が無い。
 僕たちはにらみ合い、相手を威嚇し、牽制し合う。
 無言の膠着状態。
 長身の男のロングソードが、時折ヒョウ、ヒョウと虚空に振られ、こちらのタイミングを音でずらそうとしてくる。
 だけどオイフェは全く動じない。
 彼女の体には、目の覚めるような原色の『青』が充溢していた。
 交錯するのは、ただ、ただ、沈黙のみだった。
「――――」
「…………」
「――――――――」
「……………………」
「―――――――――――――っ!」
「…………………………………っ」
 雲が月を覆い隠した瞬間、長身痩躯の男とオイフェの姿が同時にかき消える。
 僕もオイフェの動きに追随するように駆け出す。指を上げて巨漢の前方に土の槍を生成し、氷の槍で後方の小人を狙い撃つ。

 月下――、僕を含め五つの獣の影が、疾走を開始した。


  ×                ×                  ×

 白い月の光の下、僕たちの影が絡み合う。
 オイフェはすさまじい剣速で敵の前衛二人を釘づけにしていた。
 巨漢では彼女の剣を止め切れない。単なる力比べならまた変わってくるかもしれないが、オイフェはめちゃくちゃ巧い。巨漢のファルシオンは一撃必殺にはならず、まるで木の棒か何かのように簡単に弾き返される。
 一度弾き返されれば十の斬撃が飛ぶ。
 太腿、股間、肝臓、心臓、喉笛、これを全て二回ずつ。オイフェの直剣の軌跡は、もはや僕では視認不可能な領域に踏み込んでいた。
 巨漢のとりこぼした斬撃を、長身痩躯のロングソード持ちがどうにかこうにか拾っていく。長身痩躯は、剣の技巧こそオイフェに迫るが、速さが足りず、何より膂力が全然足りていなかった。奴は曲芸師のように身軽に立ち回るが、その一撃は僕の空気結晶の盾を破壊できないくらいひ弱なのである。……分厚い結晶を一撃でぶち抜けないことが非力かどうかは置いておくとして、だ。
 唯一手の空いているはずの小人のローブは、僕の繰り出す空気結晶の槍を躱すので精いっぱいだ。僕の槍を九十三避けたところで、こっそり混ぜておいた氷の剣を避けきれず、彼はついに右手に深い傷を負った。
 業を煮やしたのか、懐から短剣を取り出すと、僕に突風のように肉薄してくる。
 だが、それも突如として僕の眼前に割り込んだオイフェによって防がれる。
 短剣が宙を舞い、小人が後ろに跳ぶ。だけど、空気結晶の槍は既に小人の背後に展開済みだった。
 ……小人の肩の肉が弾け飛ぶ。
 長身痩躯がオイフェの前に割り込むが、彼女はそれを袈裟に斬り捨てた。
 巨漢が吠える。
 オイフェの剣と巨漢のファルシオンが真正面からぶつかり合う。
 その隙に大怪我を負った二人が血をまき散らしながら後ろに下がる。
 そして――、彼らは唐突に体をくの字に曲げ、ゴホゴホと激しく咳き込み始めた。
「む――――」
 オイフェが後ろに跳ぶ。
 なんと巨漢も激しく咳き込み始めたのだ。
 僕の目には原色の『赤』が血の霧のように漂うのが見えた。
 彼らは頭を押さえ――。
 直後、体の内に眠る何かを抑えきれないとでも言うように、犬に似た咆哮を上げた。
 彼らの体から血が噴き出す。
 どす黒い血が夜空に舞い散る。
 血は、べったりと地面の草を濡らし――、触れた草は急激に萎れ、枯れていく。
 オイフェは厳しい目でベキベキと骨格を変化させていく三人を見つめている。
 やがて血の噴出が収まる。
 果たしてそこに現れたのは、フードから何本もの触手をうねらせる怪人三人の姿だった。赤黒い触手の一つ一つには虫のような顔が付いている。それぞれが赤い粘液を滴らせながらキィキィと煩く鳴いていた。
「これは……っ」
 僕は目の前の光景に目を見開く。
 オイフェは再び剣を正眼に構える。
「面妖なものだ」
 彼らは四肢から狼の毛のようなものを生やしていた。巨漢の胸元などは、まさに獣のそれだ。ごわごわとした体毛に覆われている。
 僕は目に力を込める。彼らの『赤』は頭の触手部分から溢れ出していた。
「本体は頭の蟲です」
 オイフェが頷く。
「承知した」
 三匹の怪人が吠える。
 犬のものとも蟲のものともとれる奇妙な遠吠えだった。
 瞬間、彼らの足元の地面が大きくえぐれる。三人の姿がかき消える。同時にオイフェも上に跳んでいた。わずかに遅れて金属がかち合う高い音。僕が頭上を見上げると、怪人三人の白刃をオイフェが直剣の刀身で全て受け止めていた。
「――っ。――っ!」
 僕は呼び掛ける。
 空中で動きの止まった三人に追尾するように三本の空気結晶の剣を生み出す。三人がオイフェによって地面に叩きつけられる。そこに僕の生み出した淡青色の剣が喰らいつく。
 彼らが獣のような素早さで後退した。
 着地したオイフェが大きく腕をしならせる。
 何かの金具が外れるような重い音。
 刹那、彼女の手の直剣の刀身がほどけた。
 ワイヤーが伸びる。月光に閃くのは、それにびっしりと付いている銀の棘だ。
 改めて本性を現した茨のような剣が、うねるように複雑な曲線を描いて三人の背後へ回る。
 前からは淡青色の剣。
 後ろからは棘の鞭。
 三人は前方の淡青色の剣に向かって一か八か飛び込み――。
 当然のように、僕の操る剣によって体を貫かれた。遅れて棘の付いたワイヤーが彼らに絡みつく。
「シッ!」
 オイフェは鋭く息を吐き、剣の柄を素早く手前に引いた。
 ……血が飛び散る。
 体をバラバラにされて、三人分の肉片が草の上に転がった。
「アール!」
「はい!」
 僕は氷塊を三つ作り出すと、三個の触手の頭の上に落下させる。
 頭は悪血を振りまきながら爆散した。
 蟲の断末魔が広場に響く。
 再度、大量の血が肉片から飛び散り――、まるで気化するように赤い粒子となって空へと舞い上がっていく。
 僕とオイフェが三人の肉片があった場所に駆け寄るころには、そこにはボロボロになったローブが転がっているだけで、三人の遺骸は幻のように消えてしまっていた。

  ×               ×                ×

 三人の刺客が幻影のように消え、後には僕とオイフェだけが残された。
 オイフェは棘の剣を地面に打ち付けて直剣に戻しながら淡々と言葉を発する。
「やはり魔術師との連携は良いものだ。久々に楽しかった」
 僕は彼女の精神の図太さに呆れながらも打ち捨てられたローブを注意深く観察する。三人の姿は既にない。マリエットとリリエットのように再生をすることもない。
 戦いは終わったのだ。
 僕はオイフェに向き直ると丁寧に頭を下げた。
「助かりました、オイフェさん。貴女は命の恩人です」
「なに、修理の礼金分働いただけだ」
 彼女は事も無げにそう言うと、周囲を見回す。「犬どもの気配も消えたな」
 言われて僕も周りの木々の間を見やる。オイフェの言う通り、犬の魔獣たちはいずこかへと消えてしまっていた。木々の間の闇は蠢くこともなく、自然な静寂を保っていた。
 広場に蛍の光が溢れ始める。
 彼らも激闘の終わりを認識して、ようやく安心して求愛行動を始めたらしい。
 僕は倒した三人のローブを靴で踏んで感触を確かめていく。剣の鞘や回復薬などの物品は消えずに残っているようだ。
「ふむ……」
 オイフェも屈みこんで巨漢と長身痩躯のローブの中をまさぐりはじめた。「身分証の類は持っておらぬか。貴公、この狼藉者どもに心当たりは?」
「いいえ、ありません」
「しかし、こやつらは優先的に貴公を狙っていたように見えたが?」
「それは――」
 僕は口ごもった。
 少し逡巡したあと、彼女には本当のことを話すことに決めた。
「三人のことは知りませんが、命を狙われる理由には心当たりがあります。――オイフェさん、実は、僕は小人族の魔術師『アール』ではないのです」
「うむ、知っているぞ」
「驚かれるのは無理ないと思いますが……って、え? 知っている……?」
 オイフェは頷いた。
「うむ。出会った時から五歳前後の人間族の子どもだと分かっていた。最初はどうして子どもが紛れ込んでいるのか不思議で仕方がなかったが、貴公の魔術の腕や判断力を目の当たりにしてそんな疑問も霧散した。適切な人員配置であったと思う」
「そ、そうですか……。それは、何と言うか、黙っていて下さってありがとうございます」
「別に。貴公には貴公の理由があったのだろう?」
「ええ、まあ。話せば長くなるのですが――、簡単に言いますと自己保身とその場の成り行きで行きつくところまで行きついてしまったということになると思います。――えっと、改めて名乗りますね。僕はアドリアン・モーリス辺境伯の次男、アルフォンス・モーリスです。今まで騙していてすみませんでした。隊商の皆さんには黙っておいていただけると嬉しいです」
 オイフェは少し目を見開いたあと、得心したように一つ頷いた。
「なるほど。色々としがらみのある身分なのだな。本当の事を知れば良からぬモノが寄って来よう。この三人の刺客がまさにそれということか」
「――――」
 僕は彼女の言葉に暗い気持ちになった。地面に張り付いている三つのローブを見下ろす。

 誰なんだ、こんな刺客を送ってきた奴は。

 まさか三人が独断で僕を殺しに来たわけではあるまい。
 一番怪しいのは、依頼してきたダイモンだけど……、犯人はダイモン以外である可能性もまだ大いにある。
 特定しにかかるにはちょっと早い。
「…………」
 だが――、一方で、このタイミングで襲われたということで、犯人はマーガレットさんを孕ませた下手人と同一人物であるということは高い蓋然性をもって言える。
 任務に参加したことを偶然知られて刺客を送られたと考えることも出来るが、そもそもこの依頼自体が罠だった可能性が高い。
 理由は送られてきた刺客の質だ。
 偶然知ってから用意したにしては、パーティの編成や戦術が僕の戦術に対してメタを張ることができ過ぎていた。僕の扱う魔術に対して、「こうしてきたら、こうする」と予め模範解答を出してきたみたいだった。即席で用意されたメンバーでは断じてないだろう。
 僕をこの場へ誘導することについては、僕の周囲の人間関係を知る者なら簡単にできるから問題にならない。予め適当な隊商をこの場で殲滅し、その後ソーンがダイモンの部下を傷つけるところさえコントロールできれば、ダイモンの性格とアドリアン側の手持ちのカードから計算して、ほぼ確実に僕が差し向けられると分かるはず。

 暗殺者の養成が終わり、機が熟したから罠の依頼で僕を釣った――そう考えるのが賢いのではないだろうか?

 そしてこの罠は、僕を殺すことはできずとも、ソーンがダイモンの部下を傷つけた時点で問答無用で僕をこの場へ送ることができるという点に最大の利点がある。
 マーガレットさんを守る駒の一つである僕を遠ざけることで一番得をするのは――、今頃行われている有力者会議の裏で、マーガレットさんを襲おうとしている犯人だ。
 だから、刺客を送ってきた者=マーガレットさんを孕ませようとする不埒者の可能性が高い。
 すなわち――。
 商工会のガランティウス。
 エルフのグラヴァルウィ。
 名主のダイモン。
 このうちの誰か。
「……っ」
 僕は思わず臍を噛んだ。
 こうなると、村の方が急に心配になって来るな。
 もう今から引き返したのでは絶対に間に合わないし、そもそも護衛任務を自分から放り出すわけにはいかない。僕としては恙なく会議が終わることを祈るしかない。
『茨の騎士』ソーンがいるから、相手もまず手出しはできないはずだけど――。
 あれ?
 今思ったんだけどソーンって本当に強いのか?
 長身痩躯の男の剣を華麗に捌き切る彼の姿が想像できないんだけど……。
 というか、オイフェが相手だったら何もできずに瞬殺だよね……?
「アルフォンス」
 僕の思考を遮って凛とした声が頭上から降ってくる。
 一瞬誰が言ったのか分からなかったが、すぐにこの場には僕とオイフェしかいないことに思い至る。
「あ……、はい、何でしょう」
 彼女はロングソードやらファルシオンやらを腕に抱えたまま顎で馬車道の方角を指す。
「馬車を追うぞ。我々は護衛任務の途中なのだ」
「そうですね」
 僕は頷くと、オイフェと並んで広場をあとにした。

  ×                ×                ×

 僕とオイフェが隊商『トゥグビル』に追いついたのはそれから一時間後の事だ。
 どうやら馬車の馬が泡を吹いて倒れたらしく、下人たちが急いで水を与えているところだった。
 周囲には臨戦態勢のトゥグビル商人、ジュード、アルセーヌの姿が見える。
 僕たちが手を振りながら近づいていくと、アルセーヌが気付いて周りに知らせた。トゥグビル商人以下、倒れた馬の世話をしている下人以外の全員が僕の方へと集まってくる。
「アール! 大丈夫だったかね? 奴らは倒したのかね!?」
 トゥグビル商人が矢継ぎ早にそう尋ねてくる。
「ええ、オイフェさんが助けてくださったおかげで倒せました。犬も方々に散っていった様子です」
 僕がそう答えると、商人はほっとしたようにため息を吐いた。代わってジュードが口を開く。
「あいつら何だったんだ? 盗賊というふうではなかっただろう?」
「分かりません。……はっきりしているのは、彼らの狙いが僕の命だったということだけです」
「そうなのか?」
 ジュードが訝しげに首を傾げる。
「ええ、僕が森に飛び込んだ時、あいつらは皆さんを無視して僕の方へ殺到していったでしょう?」
 トゥグビル商人が首を傾げる。
「あれは君が魔術で引きつけてくれたのではないのかね?」
「違います」
 僕がきっぱりと否定すると、その場には重苦しい沈黙が流れた。
 当然だろう。僕の発言は、「僕のせいで隊商が襲われました」とカミングアウトしたも同然なのだから。ここで仕事を下ろされても仕方のないことだった。
 僕は続けた。
「この先、僕が原因で襲われることがあるかもしれません。とばっちりで皆さんは命を落としてしまうかもしれません。――僕としては、トゥグビル商人のどのような判断にも従うつもりです」
「それはつまり、私に君を解雇しろと言っているのかね?」
「――――――――」
 僕は無言で頷いた。
 トゥグビル商人はしばらく考えたあと――、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「今回襲われたのは、君の言うことが正しければ、君がいたからなのかもしれない。しかし、君がいなければ、私たちは本当に襲われていなかったのだろうか? 私たちも――、君がいなくても同じように襲われていた可能性は十分にあったのではないかね?」
「それは――」
「私はむしろこう考えるよ。君が囮になってくれたから、私の荷物は無事だったと。これから先襲われることもあるかもしれないが、その時は今回のように君が敵を追い払ってくれたらいい。敵の出ない行商などありはしないのだ。私はこの程度の事で優秀な護衛の魔術師を解雇するような愚か者ではない。――アール、引き続き護衛を頼む。それと逃げる時に氷を捨てて行ってしまったから、日が昇るまでに作り直してくれたまえ。反論は許さない。いいね?」
 トゥグビル商人はそう言って僕に人差し指を突きつけると、下人たちを促して馬車の方へ戻っていく。
 僕は呆気にとられた。
 絶対に解雇されると思ったのに……、いや、解雇してもらわないトゥグビル商人たちが危ないのに、契約を続行された。しかも反論は許さないとまで来ている。
 トゥグビル商人は何を考えているんだ?
 普通は解雇して然るべきだろう。
 少なくともアドリアンなら即解雇していたぞ。
 僕が目を白黒させていると、アルセーヌがぽんと肩を叩いてきた。
「アール、さっき土魔術でオレを突き飛ばしてくれたのはあんただろう? あんたのおかげでオレは助かった。ありがとよ」
「い、いえ……」
 アルセーヌは暗い顔で続ける。
「それと、今回のことはなんて詫びを言えばいいか分からない。俺が部下の手綱をちゃんと握れていなかったせいでこんな事態を招いちまった。ガランティウス翁にはオレが責任を持って報告をする。後日、正式に今回のことを補填させてもらう。――護衛任務の後半戦もどうか宜しく頼む」
 彼はそれだけ言うと、トゥグビル商人のところへ歩いていく。
 僕は最後に残ったジュードに向き直った。彼も僕を見ていた。
「ジュードさん、トロンさんのことは――」
「あいつは覚悟していた」
 僕の言葉を遮って、ジュードがきっぱりとそう言う。「冒険者なんて、こんなものだ。死は突然に訪れる」
「でも、僕がいなければ、彼は死ななかったかもしれません」
「でも死んでいたかもしれない。トゥグビル氏がさっき言っていたことを聞いていなかったのか? おそらく、アール無しで戦っていたら今頃俺も死んでいた。どう考えても、俺は力不足だった。――俺は、弱い自分が許せない。俺がもっと賢く、もっと強ければ今回の事態は起こらなかった。トロンだってそうだ。あいつが賢く強ければ、あのようにあからさまに怪しい暗がりに誘われて殺されるなんてことなかっただろう」
 ジュードは自嘲するような笑みを浮かべると続けた。
「俺は、少し天狗になっていたんだ。異例のスピードでC級に上がり、B級も目前。間違いなく俺たちには才能があると思っていた。――そして、自惚れが積み重なった結果がこれだ」
「――――――――」
「俺はトロンの分まで強くなる! こんなところで満足せず、いつか大陸中に名前をとどろかせる凄腕の冒険者になってやる! ――そうすることで、死んでしまったあいつへの手向けとしたい」
 ジュードは厳かにそう言うと踵を返した。そして下人と一緒になって馬の状態を確かめ始める。
「――――――――」
 僕は言葉もなく立ちすくんでいた。
 誰も僕のことを責めなかった……。
 それどころか、誰もが既にてきぱきと仕事を始めている。
 トゥグビル商人やジュードなんかは、大声で僕を罵っても良いはずなのに。
 彼らが僕を気遣ってくれているのだろうか? ――いや、それは皆の顔を見れば違うと分かることだった。
「氷を作るのではないのか?」
 オイフェが淡々とそう訊く。僕は思いを断ち切るように頷いた。
「……そうですね。契約を続行されたからには、僕がいて良かったと思ってもらえるよう、全力を尽くします」
「意気込むのは良いが、馬車五台を保冷するなど馬鹿なことはするなよ」
 彼女の言葉に僕は苦笑する。
「自分の力の無さは弁えているつもりですよ」
「さてどうだろうか。貴公なら脳の半分と内臓の三つも犠牲にすれば可能な気がするが。――私も手伝おう。氷を砕いたり、入れた箱を移動させたりする者がいた方がよい」
「お願いします」
 それから僕たちは早急に氷を作り――、氷箱をいっぱいにするころになってトゥグビル商人の出発の号令がかかった。別の敵の襲撃の可能性もあるのだから森はできるだけ早く抜けた方が良いのだ。
 隊商『トゥグビル』は、馬を使い潰す勢いで森の道を進んだ。夜が明け、朝も昼も走り続け、また暗くなるまで足を止めなかった。
 予定では二日以上かけて抜けるはずだった『死霊の森』を、僕たちは睡眠時間を犠牲にして一日で抜けた。
 結局、新たな敵の襲撃は無かった。
 僕たちは零時を回るころには安全地帯である街道にまで辿りついていた。
 街道に着いたところで、先に出していたフクロウ手紙が戻ってきた。
 手紙にはアドリアンの字でこう書かれていた。

『下手人の魔物はソーン殿が倒した! 会議は問題なく終わり、マーガレットも無事。もう完全に安全だ! 私は今、勝利の余韻に浸っているところだ。そちらも無事帰ってきてくれ。――――――――アドリアン・モーリス』




――――更新履歴―――――
5月8日 プロローグと第一章投稿。
5月9日 第二章投稿。
5月10日 第三章投稿。
5月11日 修正。
5月16日 第四章投稿。
次→不定期更新。

2015/05/16(Sat)01:37:01 公開 / レインボー忍者
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